新刊紹介

2023年4月13日

『ドキュメンタリーの現在 九州で足もとを掘る』共著出版のRKB毎日放送、神戸金史さんが「ドキュメンタリー制作の原点は『記者の目』」と

◆系列違いの放送局員で共著を出版

 『ドキュメンタリーの現在 九州で足もとを掘る』(石風社、税別2000円)という本を出版しました。筆者は3人、NHK福岡放送局の吉崎健ディレクター/九州朝日放送(KBC)の臼井賢一郎プロデューサー/RKB毎日放送記者の私。全員、50代後半の制作者です。

 系列が違う放送局員の共著はかなり珍しいと思います。優れたドキュメンタリーを系列に関係なく視聴し議論し合う「福岡メディア批評フォーラム」という活動を、私たちは17年前から続けてきました。ドキュメンタリーの制作現場はいよいよ厳しさを増していますが、私たちは「ローカルだからこそできることがある」と考えています。

◆尊敬すべき制作者仲間の2人は「本道」「直球」

 NHK吉崎さんの初任地は熊本。水俣病患者との出会いが人生を変えました。時に抗って、東京への異動を断り九州の現場を諦めませんでした。水俣関連の番組やリポートは約30本。原田正純医師(2010)や、作家の石牟礼道子さん(2012)、思想史家の渡辺京二さん(2022)といった巨人と真正面から向き合う全国放送を制作しています。諫早湾干拓に翻弄された人々の人生も息長く追いかけています。

 KBC臼井さんは、サツ回りで福岡県警「白紙調書」問題をスクープ、全国放送で連日展開し、名物署長の自殺という衝撃的な結末を迎えた過程を番組化しています(1995)。若い日に中村哲医師を生き方に圧倒され、日本メディアとして初めて現地取材した番組(1992)や、突然の死に直面し制作したドキュメンタリー(2020)についても語っています。

 本書のプロローグは私が書きました。そこでは、吉崎さんの制作姿勢を「本道」、臼井さんを「直球」と表現しています。

◆「変化球」セルフドキュメンタリーを作ってきた

 一方、私自身は「変化球」としました。私が制作した番組には、放送の世界では珍しい1人称で語るセルフドキュメンタリーが多いのです。

 長男(24歳)は先天性の障害・自閉症を持って生まれました。RKB東京報道部時代に発生した「やまゆり園障害者殺傷事件」では、犯人の植松聖に「家族である私に対して、『なぜ事件を起こしたか』を自分の口から説明してみたい、とは思いませんか」と手紙を書いて対話を始め、ラジオ(2017、2019)とテレビ(2020)でドキュメンタリー化しました。

 また、ヨルダン国際空港爆発事件で毎日新聞を解雇された同期入社のカメラマンを取材した番組(2013)にも触れました。

 これらの番組では、制作者の私が「父親」「友人」という立場を明らかにして登場します。

◆島原市民として暮らした3年間

 こうした番組の舞台裏を3人がそれぞれ書いた章「ドキュメンタリーの現場から」/番組を入社2~4年目の若手に見てもらい、率直に意見交換した座談会の章/その若手と同世代だったころに私たちが体験したことを記した章「それぞれの原点」。本書はこんな構成です。

 私の原点は、1991年の毎日新聞入社直後に遭遇した長崎県雲仙普賢岳災害でしょう。先輩3人も犠牲となりました。たまたまその日にあの場所にいなかった、というだけの理由で、私は助かりました。災害は長期化し、翌年から私は現地で災害報道に専従しました。

 入社後すぐに「最初に出会った大きな出来事が、君のその後の記者生活を決めるよ」と言われたことを覚えています。間違いなく雲仙だと思いました。

 そんな新米記者が大災害に直面して右往左往し、終息まで一市民として暮らした4年間の手記が、初めての書籍『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(1995、ジャストシステム刊)です。

 〔現在はネット上で全文を公開しています。note『雲仙記者青春記』〕

◆「記者の目」筆者を頼った中学生

 ところで、私が毎日新聞の記者と初めて話をしたのは1979年、中学1年生の夏休みでした。課題図書『太陽の絵筆 熱情の画家ゴッホ』を読み、「当時の1フランは今の日本円だといくらくらいなのか」を知りたくて、コラム「記者の目」で名前と顔を知った経済部の記者さんにお電話したのです。何人かの方が、時間をかけて調べてくれました。うれしくて、東京本社の代表番号はその後もずっと諳んじていました。

 ですから、入社した時「記者の目を早く書きたい」と抱負を言いました。幸い、最初の島原時代に4回書くことができました。

◆私のドキュメンタリーは「記者の目」だった

 東京社会部時代に書いたのは1回だけでしたが、長男の持つ障害・自閉症について「引っ込み思案や引きこもりとは違う」と父親の立場で知らせたいと願う内容で、大きな反響が寄せられ、社会面での5回連載『うちの子 自閉症児とその家族』(2004)につながりました。

 この後、ひょんな弾みで私はRKB毎日放送に転職し福岡に戻ってしまうのですが、最初に手がけた番組は、一連の記事を映像化したセルフドキュメンタリー『うちの子 自閉症という障害を持って』(2005)でした。

 「記者生活を決める、最初の大きな出来事」――。

 実は、「28歳で自分の体験を書籍にしたこと」だったのではないかと近年思うようになりました。セルフドキュメンタリーも、同じ1人称表現です。今回の執筆中に「実はずっと、ドキュメンタリーという『記者の目』を僕は書いてきたのではないだろうか」と思い至り、少しうれしくなりました。

 神戸金史(かんべ・かねぶみ)さんは1967年群馬県生まれ。1991年毎日新聞入社。長崎、島原、福岡、RKB毎日放送(記者交換制度で2年間出向)、東京社会部で勤務。2005年にRKBに転職。ニュース編集長、報道部長、テレビ制作部長、東京報道部長などを経て、報道局担当局長(気象・デジタル)兼ドキュメンタリーエグゼクティブプロデューサー。

2023年4月10日

東京学芸部、栗原俊雄さんが『硫黄島に眠る戦没者 見捨てられた兵士たちの戦後史』を上梓

 先輩諸氏は、「8月ジャーナリズム」という言葉をご存じでしょう。

 毎年夏になると、大日本帝国の戦争にまつわる記事がたくさん載り、テレビの報道も多くなります。

 ところが、夏を過ぎると潮が引くようになくなっていく。だから「8月ジャーナリズム」。私はその「季節物」のような戦争報道を一年中、20年近く続けてきました。戦争体験者や遺族の証言を集め、史料を読み、掘り起こし、報道してきました。同僚から「常夏記者」とのあだ名をもらいました。彼はからかうつもりだったのでしょうが、私は気に入っています。

 私が行っている戦争報道が、他の記者たちのそれと違う点は二つあります。

 一つは上記のように一年中行っていること。もう一つは、戦争を過去の出来事としてではなく、現在進行形のものであるという問題意識で取材し、報道していること。

 戦闘は78年前の1945年夏に終わった。しかし、戦争被害は今も続いている。広義の戦争は未完である、と考えています。

 その、「未完の戦争」の象徴が戦没者遺骨。天皇を国家元首とする大日本帝国の無謀な戦争で、およそ310万人もの国民が死にました。敗戦から78年が過ぎた今も、100万体以上の遺体・遺骨が行方不明です。

 離島とは言え首都東京の一部であり、自衛隊が常駐している硫黄島(小笠原村)でさえ、1万体以上が行方不明。さして広くない島なのに。そもそも政府はこの硫黄島でさえ、遺骨収容をすべて行う意思は最初からありませんでした。

 この島はまさに、「未完の戦争」の象徴中の象徴であり、日本国政府と私たちの社会が、戦後補償をいかに軽視してきたかを伝える地でもあります。

 いいかげんな戦後補償の実態を知られたくないからか、政府は硫黄島への立ち入りを厳しく制限しています。元島民や戦没者の遺族の墓参さえ自由にはできません。メディアの取材はなおさら。

 その硫黄島に、私は4度、渡りました。本書はその取材の成果によるものです。硫黄島に限らず、戦没者の遺骨収容を進めたい。集めるだけでなくてDNA鑑定で遺骨の身元を特定し、待っている人に帰ってほしい。そういう思いから書きました。

 硫黄島の遺骨収容とDNA鑑定を巡っては、「硬軟展開」、すなわち新聞の一面と社会面に書き分ける「特ダネ」がありました。ただ、私はそこをゴールにしませんでした。取材の端緒から「記事で政府を動かしてみせる」という目標を立てていました。

 その目標が達成できたのかどうか。達成すべく、官僚や政治家とどう対峙してきたのか。そんな舞台裏も今回は書きました。10年以上黙っていた、「最初の渡島に至る顛末」も。

 「栗原さん、あなたのやっていることはもう報道じゃない。運動だよ」と知人は言う。「報道であり運動なんだ。社会正義を実現するための」と私は言い返しています。

 学芸部に異動してから21年。60歳の定年退職が近付いてきました(あと4年)。入社前から希望し、入社後も希望していた政治部には行けませんでしたが、戦後補償を進めるための報道=運動を続けていきたいと思っています。

(栗原 俊雄)

『硫黄島に眠る戦没者: 見捨てられた兵士たちの戦後史』は岩波書店。2420円(税込み)。ISBN 978-4000615877

 栗原俊雄(くりはら・としお)さんは1967年生まれ、東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。同大学院政治学研究科修士課程修了(日本政治史)1996年毎日新聞入社。横浜支局などを経て2003年から東京学芸部。現在は専門記者(日本近現代史、戦後補償史)。著書に『戦艦大和 生還者たちの証言から』『シベリア抑留 未完の悲劇』『勲章 知られざる素顔』『遺骨 戦没者三一〇万人の戦後史』『東京大空襲の戦後史』(以上岩波新書)、『「昭和天皇実録」と戦争』(山川出版社)『特攻 戦争と日本人』(中公新書)『シベリア抑留 最後の帰還者』(角川新書)『戦後補償裁判 民間人たちの終わらない「戦争」』(NHK出版新書)『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)など。

2023年3月28日

『ゆうLUCKペン』第45集が完成、@1千円でお分けします

 毎日新聞OB連が「懐かしくも」ペンを走らせて「記事・原稿」を書きまくっている文集『ゆうLUCKペン』45集が刊行された。

 有楽町編輯局時代に「あの編輯局に居た」経験のある人はほとんど存在しないが『ゆうLUCKペン』という誌名で判るように、この文集は竹橋移転直後「有楽ペン供養」という誌名で刊行されて以来続刊して45集を数えた。

 何をやっても・何を書いても・どんな紙面を作ろうとも、何だコレはっ、違うだろっ……などと言われたことがない自由な有楽町編輯局だった。政治部も社会部も経済部も外信部も学芸部も運動部も地方部も整理部も……思いっきり紙面を作って「面白がっていた」のである。

 そういうペンを供養しなければならないような時代になってしまった。竹橋へ来て当時の記者は予感したのかも知れない。

 昨今の世情はオ・カ・シ・イ。霞が関官僚に過度な忖度が目立ち、堂々と国民に背を向ける「決めごと」が先走りし、軍備はどかんどかん増強し、仲の良い人々のみ大事にする……国の本質・長期政権のおごり。

 あーあ、やんなっちゃうのだ。

 メディア・新聞は「批判疲れか?」……政権の悪事に反対しても仕方なしの気分。国民側もあきらめムード、どうでもいいわ! 批判の声ナシ。国民に「私」という主体性が見えない。

 「嫌なことは嫌だ」と発言し通した有楽町時代に戻ったかのようにOB記者連が何の束縛もなく自由に書きまくる「ゆうLUCKペン」こそ毎日新聞らしい「私」の文集のような気がしてくる。

 ゆうLUCKペン45集のテーマが「人間の死を考える」。

 嫌なテーマであろうか。反応如何にと興味津々だったが「待ってました」の声多し。さまざまな考えが寄せられて編集幹事団もびっくりである。

 それというのも……加齢とともに自分もその世界観が押し寄せてきそうだからかも知れない。毎友会HP訃報欄を見ても、ずいぶんと仲間だったヤツが消えていく。ありゃアイツもかぁ、いやぁアレホド酒飲んで騒いだのになぁ、いい男だったなあぁの先輩……そんな具合のこんにちただいまである。年賀状にも「杖がないと歩けなくなりました」「新聞を読むのが少々面倒臭く感じるトシです」などなど。

 若い時分はそんなことは考えなかったが、今は違うんであるね。ちゃんと「そのときのことを」考える時期(年齢)を迎えたのである。読み応えたっぷりの原稿が削られる作業に遭うこともなく100%掲載されているのが「ゆうLUCKペン」である。原稿用紙にボールペンという人もまだいるが、文の勢いはみなさん存分充分忌憚なく……奔放たる達筆は当分衰えそうもない。特に今回のテーマは……。

(諸岡 達一)

「ゆうLUCKペン」第45集 目次

生きながら逝くための、「打ち切る」技術について 永杉 徹夫(83歳)
ホモサピエンスの命運/六歳から考えた「死」/明日にも凶暴な化け物になる… 今吉賢一郎(85歳)
死は後ろからやって来る 牧内 節男(97歳)
象の墓場に学ぶもの/自ら赴く孤高の覚悟 本田 克夫(96歳)
もう一回おふろに入って、おしまいにする―致命傍観の記― 大住 広人(85歳)
病が教えてくれた死への恐怖/ゴルフ場、路上、救急搬送/ICUで三途の川を彷徨う 加納 嘉昭(88歳)
死は一定/一切の延命医療を拒否します/“常楽我浄”を来世まで 神倉  力(86歳)
「今考える、人間の死愛犬の死に想う」 野島 孝一(81歳)
安楽死か、尊厳死か/自らの意思で死を望む時 福島 清彦(78歳)
「落ち椿」余録 漱石・寅彦……俳句と物理学の旅- 滑志田 隆(71歳)
「社会部」創設120年/豪壮絢爛……部長列傳/東日 57人、大毎 46人―女性部長も 堤   哲(81歳)
ロシア文学の優しい恩師“熱血”原卓也先生 74歳で死す…恩返し半ば 飯島 一孝(74歳)
◇黄泉がえり感の体験◇~麻酔から覚め、大腸がん・脳梗塞に感謝~ 斎藤 文男(81歳)
「東京タワー事件」のコトバ/沖縄人をヤミ打ちに食わせたかの久米島虐殺とは… 大島 幸夫(85歳)
訳詩とは作詩である/「丸太棒の一とたたき」「一杖一撃して打ち毀つ頃ぞ」 光田  烈(79歳)
「風の十字路」西蔵で凧揚げ/高地凧揚げの世界記録樹立/団体ビザをなくして大ピンチ 倉嶋  康(90歳)
甘納豆・栗羊羹・大福・最中/上等の歯が 26本も/良く眠る―ボケる暇ない 半田 一麿(87歳)
真面目人間になったからには! 岩崎 鴻一(86歳)
伴奏者を見るようになった 渡辺 直喜(75歳)
MVP投票、1ポイント差の怪/ディマジオとウィリアムズ、ジャッジと大谷翔平/神様からの返事は如何に 松﨑 仁紀(76歳)
「歴史総合」を 50年前に実践していた教師/「上忠」の薫陶を今にして思う 松上 文彦(77歳)
「来春も杖つき五歩行の身となりて」/中谷範行氏の死を悼む 横山 敏彦(90歳)
絶対負けないオレ主義/名文家豊田泰光の寂滅と空白/胸に消えない虚無感 諸岡 達一(86歳)

*是非!手に取って読んでください。1冊千円でお分けします。送料は会負担で無料です。
 申し込みは、事務局・堤 哲 、携帯080-3284-1568まで。
 現物は、パレスサイドビル2階㈱毎栄営業部(北村さん)にあります。

*次号には、オレにも書かせろという方の連絡も大歓迎!原稿〆切りは11月半ばです。
 ちなみに今回の執筆者の最高齢は97歳牧内節男さん。23人の平均年齢は83.3歳。

2023年2月24日

元ローマ特派員、藤原章生さんが新刊『酔いどれクライマー 永田東一郎物語~80年代ある東大生の輝き』

 皆様、ご無沙汰しております。1989年入社の藤原章生です。私は2021年4月末、コロナ感染で入院中に定年退職し、今は契約記者として夕刊特集ワイド面に折々記事を書いております。

 表題の本は定年後の21年秋から22年春にかけて連載した記事を原案に、昨秋からゼロから書きなおしたものです。新聞では「東一郎伝」としておりましたが、新聞記事の3倍の分量となり、「物語」にしました。

 2005年2月、46歳の若さで酒の飲みすぎがたたり、食道静脈瘤破裂で亡くなった永田氏は、上野高校山岳部の私の3年先輩に当たります。彼の死を知ったのは2017年秋で、13回忌の半年もあとでした。その直後、私はメモ帳に「永田東一郎物語」と書き、すでに執筆を決めており、今回、5年越しで実現しました。

 なぜ永田氏を? と思う方もおられましょうが、取材で世界各地の著名人、国内の有名人などに会い、中には親しくつき合った方もいますが、そんな数千人の中でも永田氏が際立って面白くかつ変な人だったからです。

 今回、本にするに当たり、苦心したのは、無名人の生涯をどう読んでもらうかでした。たとえば小説の場合、無名の主人公に読者が共感できるのは、その人物の中に自分を見いだし、その人の見ている世界が自分と重なるのが大きな要素だと私は思っています。

 そんな思いから、単に主人公の生い立ちを追うだけでなく、主人公とナレーター(筆者)との心の問答を意識しながら書き進めました。「できるだけ長い作品にしたい」という編集者、雑誌「山と溪谷」の元編集長、神長幹雄氏の助言もあり、70年代から80年代にかけての日暮里界隈、上野高校、東大スキー山岳部の情景や、主人公の心象を行間に匂わせるよう心がけました。

 何よりも、立ち読みした途端、あれよあれよという間に10ページも読んでしまうという吸引力も意識しました。

 果たして少しでも成功したかどうか。皆様から忌憚ないご意見をいただければと思っております。

(藤原 章生)

 『酔いどれクライマー 永田東一郎物語~80年代ある東大生の輝き』(山と溪谷社)は2月18日発売。384ページ、1980円(税込み)。

 藤原章生(ふじわら・あきお)さんは1961年、いわき市生まれ、東京育ち。北大工学部卒後、住友金属鉱山に入り、89年に毎日新聞に転職。長野支局、大町駐在を経てヨハネスブルク、メキシコ市、ローマ特派員。編集委員として郡山駐在後の2014年から現在まで夕刊特集ワイド面に執筆。「原子の森 深く」(後に別名で書籍化)、「ぶらっとヒマラヤ」(同名で書籍化)など連載多数。現在は「イマジン チリの息子と考えた」を同欄に連載中。
ホームページはhttps://infofujiwara61.wixsite.com/akiofujiwara

2023年2月13日

古森義久さんの「米中開戦前夜 習近平帝国への絶縁状」と重村智計さんの「半島動乱 北朝鮮が仕掛ける12の有事シナリオ」が日本記者クラブ会報2月号「マイBOOKマイPR」に(会報を転載)

「米中開戦前夜 習近平帝国への絶縁状」

古森 義久(産経新聞社ワシントン駐在客員特派員)
クライド・プレストウィッツ氏との共著

▼異端の新大国・中国にどう対処するか

 2023年の国際情勢の展望では、まず浮かぶ巨大な影は中国とアメリカの対立である。より正確には日本を含めての現在の国際秩序を軍事力を使ってでも瓦解させる姿勢をみせる中国という異端の新大国にアメリカを主体とする世界の多数派はどう対処すべきか、という懸念だといえよう。この現状の分析と解答の探索に努めたのが本書である。その探究はアメリカ側で著名な戦略エコノミストと日本側での長年の中国対外動向ウオッチャーとの共同討論という斬新な形をとっている。
ビジネス社 / 1760円 / ISBN 4828424741

「半島動乱 北朝鮮が仕掛ける12の有事シナリオ」

重村 智計(毎日新聞出身)

▼ウクライナ戦争と朝鮮半島問題

 韓国は基督教国である。キリストは、罪人を「7の70倍まで赦しなさい」と言う。韓国の基督教徒は聖書に従わないと書いた。神社参拝拒否で獄死した朱基徹牧師は、参拝強要の日本基督教団責任者に「あなたは聖書を読んでない」と言った。この言葉を借りた。ウクライナ戦争と朝鮮問題を書いた。尹錫悦氏は、初のソウル大正規卒業の大統領。民主主義の意義を十分に理解する秀でた政治家だ。
ビジネス社 / 1650円 / ISBN 4828424644

2023年1月23日

論説委員の永山悦子さんが『はやぶさと日本人 私たちが手にしたもの』を出版=大阪毎友会ホームページから

 私は2010年6月13日、日本中の注目が集まることになる探査機の取材をするため、 オーストラリアの砂漠にいました。それが、人類として初めて小惑星から砂を持ち帰ることに成功した「はやぶさ」でした。

 多くのトラブルに巻き込まれ、絶体絶命の事態に追い込まれながらながらも地球へ 帰ってきたというドラマチックな展開は、人々の心をとらえました。はやぶさが小惑星へ到着した05年から取材を続けてきた私も、プロジェクトチームの何があってもあきらめず、挑戦を忘れない姿勢から目を離せなくなりました。

 後継機「はやぶさ2」では、計画から小惑星への往復航海まで、担当を外れたり異動したりした後も「勝手に」取材を続けました。新聞への記事出稿だけでなく、ウェブサイトに「はやぶさ2応援サイト」(現在は「特集はやぶさ2」、 https://mainichi.jp/hayabusa2 )を開設してもらい、探査機とプロジェクトメンバーのあらゆる動きを紹介しました。

 イベントの前後には、関係するメンバーへの取材を重ねました。100人近くに話を聞きました。はやぶさを率いた川口淳一郎さん、はやぶさ2リーダーの津田雄一さんには、それぞれ数十時間のインタビューをしたことになります。取材をするうちに、私自身がはやぶさファンになっていました。

 それらの取材の「すべて」をまとめたのが、2022年3月に毎日新聞出版から出した 「はやぶさと日本人」です。  私は高校時代、理系科目にてこずり、文系の学部へ進学しました。1991年に毎日新聞社へ入社し、初任地は大阪本社第1整理部でした。3年間を過ごした和歌山支局では、教育問題や有田地方の行政などを担当しました。理系への苦手意識は続いていましたが、記者として自分の知らない世界に迫る面白さを学ぶことができました。

 ひょんなことから、02年に東京本社科学環境部へ異動になりました。専門家の話はちんぷんかんぷんで、中でも宇宙開発は専門用語が飛び交い、現場では戸惑うことばかりでした。しかし、はやぶさ、はやぶさ2の取材を通じて、どんな専門的な分野であっても、そこで奮闘しているのは他でもない「人」だということに気付いたのです。「人」の取材であれば、理系も文系も関係ありません。

 「はやぶさと日本人」では、関係者一人一人の思いを描こうと思いました。人類初に挑む動機や悩み、苦しさを聞き、壁を乗り越えて成果を手に入れるプロセスを「人」の側から描こうと考えました。

 それが成功したかどうか。多くの方に本書を手に取っていただき、評価していただければ望外の喜びです。

 はやぶさ2は、今も次の小惑星を目指して旅を続けています。チーム内では、世代 交代が進んでいます。私は探査機、そして新たなチームメンバーたちを今後も取材していきたいと考えています。

(論説委員・永山 悦子)

 『はやぶさと日本人 私たちが手にしたもの』は毎日新聞出版刊、1980円(税込み)

2022年12月15日

毎日新聞大阪本社編 橋爪紳也編著『写真図説 占領下の大阪・関西』
=大阪毎友会ホームページから

「占領下の大坂・関西」

 毎日新聞大阪本社情報調査部が保管している膨大な写真資料のうち、大阪大空襲を含む蔵出し写真400点を厳選した写真集である。2022年6月の刊行だが、最近になって目を通して大変印象深かったのと、3代にわたる情報調査部長と部員の努力に敬意を表して、遅まきながら紹介する次第。

 この本を企画した阿部浩之・元情報調査部長によれば、近年占領期の写真はかなり公開されるようになったが、米軍撮影による東京かいわいのものに偏り、占領下の大阪・関西を描いたビジュアル資料は、点数自体も公開の機会も極めて少なかったという。また、プレスコードという制約があるなかで「占領下の社会を捉えた日本側の視点を重視した」という。

 占領軍の売店(PX)となった大阪市のそごう心斎橋店など、関西の接収施設の写真をこれほどたくさん載せた書籍は本邦初のようだ。私個人的には、1947年関西を巡った昭和天皇が米軍人と気安く握手する様子(最高司令官マッカーサーとは横に並んで直立不動だった)、宮本輝さんの『泥の川』に登場する水上生活者への国勢調査の模様(1947年)が興味深かった。水上生活者はいつまで存在していたのだろうか。

 編著者の橋爪紳也・大阪公立大学特別教授は、「従来、大阪大空襲や占領下の大阪や関西を伝える写真として、これまでにさまざまな媒体で使用されている著名な写真のうち、毎日新聞が初出であるものが何点も確認できた」として、著作権の意識が厳密でないまま一般に流出した写真が多くあるようだと指摘している。

 創元社刊、2970円。こういう仕事も立派なジャーナリズム精神の発露だと思う。たくさん売れてほしい。毎日新聞出版でないので、あまり宣伝・広告が行き届いていないのが残念だ。

(元社会部・藤田 修二)

2022年12月6日

エルサレム特派員、三木幸治さんが新刊『迷える東欧 ウクライナの民が向かった国々」

 「東欧がこれだけ注目されたのは、1980年、89年以来だろう」。東京大の小森田秋夫名誉教授(ポーランド法)の言葉だ。

 今年2月下旬、ロシアがウクライナに侵攻すると、延べ500万人に達する避難民がポーランド、ハンガリー、ルーマニアを始めとする東欧諸国に押し寄せた。メディアでは各国政府、市民が献身的に避難民を支援する姿が報じられた。

 1980年は、社会主義下のポーランドで、電気技師のレフ・ワレサ氏(後に大統領)が、民主化運動の中心となる自主管理労組「連帯」を結成した年だ。89年はベルリンの壁が崩壊し、「東欧革命」が起きている。小森田氏は2022年を、約30年ぶりに東欧に関心が集まった年と位置づけた。だが、それだけ注目を集めながら、各国の現在の政治や社会、国ごとの違いを掘り下げた報道は少なかったように思う。

 私は16~20年、中・東欧を担当するウィーン特派員を務めた。率直に言って現在、東欧は日本メディアの「真空地帯」だと感じる。日本から遠い上、中東やアフリカのように深刻な人道危機も起きていない。日本企業の数もアジアと比べれば雲泥の差で、日本人の関心が集まりにくい。「ニュース」として報じるのが難しい地域だ。

 だが取材してみると、東欧はここ10年で大きく変化していた。2008年のリーマン・ショックを契機に民族主義が勃興し、今まで背中を追っていた「西欧」とは異なる国造りが始まっている。市民の間に貧富の差が広がり、特に欧州連合(EU)加盟の恩恵を受けられなかった貧困層で、独自のアイデンティティーを求める空気が広がる。政権は国民感情を察知し、さらには権力基盤を固めるため、西欧流の民主主義を否定し、ロシア、中国などの強権国家に近づき始めている。

 本書「迷える東欧」は、私がポーランド、ハンガリー、ルーマニア、そしてボスニア・ヘルツェゴビナの実情を自らの視点で取材し、まとめたものだ。私は日本に帰国後、1年間の外信部勤務を経て、21年4月から中東・エルサレムに派遣された。ロシア侵攻後のウクライナ、ポーランドを取材する機会にも恵まれ、東欧各国のウクライナ避難民への対応も本に書き加えることができた。

 ボスニアについての記述は、少し異質かもしれない。主に、ボスニア紛争(1992~95年)の性暴力被害者について、紛争から約25年後の現状を取材した。当時、戦争の「武器」として性暴力が使われ、被害を受けた人々は、今も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、社会からの差別に直面している。現在、ウクライナでもボスニアと同様のことが起きている、と言わざるを得ない。国際社会は「ボスニアの教訓」を生かす責任を負っている。

 89年以降の東欧各国の動きをたどると、民主主義を成熟させることはこんなにも難しいことなのか、と感じざるを得ない。今、ロシアに侵攻されているウクライナも、汚職や不十分な司法制度など、民主主義国家として大きな問題を抱えている。戦後77年が経過し、さまざまな問題が噴出し始めている日本も例外とは言えないだろう。

 この機会に、避難民が暮らす東欧諸国の現状に関心を持って頂き、本書を手に取って頂けるとありがたいと思う。

(三木 幸治)

 『迷える東欧 ウクライナの民が向かった国々』は毎日新聞出版刊。1760円(税込)

 三木幸治(みき・こうじ)さんは1979年、千葉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、2002年に毎日新聞社入社。水戸支局を経て、東京本社社会部で東京地検特捜部を担当。その後、中部報道センターなどに勤務し、2016~2020年にウィーン特派員。2021年4月からエルサレム特派員。

2022年12月5日

元学芸部美術担当記者、三田晴夫さんが、渾身の『同時代美術の見方 毎日新聞展評 1987-2016』刊行

 重さ2.1キログラム、厚さ5センチの分厚く持ち重りする本が広島市の藝華書院から宅配便で届いた。出版社の名前に心当たりはなく、恐る恐る開いてみたら、三田(さんだ)晴夫さんの貴重な著作が現れた。

 美術担当記者として、毎日新聞に執筆した展評(展覧会評)を中心に、1450項目が収録されている。882頁、人名やテーマ展、画廊・美術館などに分けた索引だけでも50ページに達する。

 序文によれば、美術担当記者としての出発は、毎日新聞入社8年後の1982年だった。西部本社、福岡総局で美術評論を担当していた田中幸人さんが東京・学芸部に異動になったため、後任に指名されたからだという。田中さんは、のちに私(高尾)が浦和支局長当時、埼玉県立近代美術館長としてお世話になった懐かしい名前だ。

 三田さんは、先輩の田中さんから「美術記者にとって、誰よりも多く作品発表の現場を踏むことが、(美術専門書の勉強より)もっと大切」と発破をかけられたことを大切にしてきた。もともと音楽や美術に素養があったわけではなく、社会部記者として出発した経歴から、終生、現場を大切にしたことの集大成、現場を歩き続けた軌跡がこの労作としてまとめられたといえる。

 「執筆したすべての美術展評をまとめて一冊の本に」という企画は、現役記者の定年退職間際に、月刊誌『美術手帖』元編集主幹、椎名節さんから声をかけられたことがきっかけだった。しかし2008年の退職後も、美術評論家として現場巡りを続け、10数年を経て74歳にして、ようやく念願が叶うことになった。

 三田さんとは現役記者当時、個人的には面識がなかった。昨年11月に、体調を崩していた本人に代わって、ご家族から毎友会あてに「展評」などをまとめて単行本化する場合の著作権料がどの程度になるのか、問い合わせがあった。知的財産ビジネス本部に話をつないで、その後の経過は聞いていなかったが、その縁で大著が「謹呈」された、と納得したことだった。

(毎友会 高尾 義彦)

『同時代美術の見方 毎日新聞展評 1987-2016』は、㈱藝華書院刊、8,000円+税。

㈱藝華書院は〒731-0231 広島市安佐北区亀山7-7-32 ☎082-847-2644 URL www.geika.co.jp

 三田晴夫(さんだ・はるお)さんは1948年福岡県戸畑市(現・北九州市戸畑区)生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。 1974年毎日新聞社に入社。社会部記者を経て、毎日新聞学芸部美術担当記者として勤務。2008年退職。毎日新聞退職後、美術ジャーナリストとして活動のかたわら、女子美術大学大学院、多摩美術大学、 早稲田大学で現代美術の非常勤講師を勤めた。美術評論家連盟会員。著書に、『教養としての近現代美術史』(2019年、自由国民社)。画集内評論に『中村宏画集 1953-1994タブロー機械』(1995年、美術出版社)等。展覧会図録評論に、『イヴ・ダナ彫刻作品展』(1991年、国際教育学院文化事業部)、『菊畑茂久馬-天へ、海へ』(1988年、徳島県立近代美術館)、『彫刻林間学校展』(2017年、東京芸大美術館/軽井沢メルシャン美術館)等。「美術手帖」「月刊ギャラリ-」等に展覧会月評を執筆。

2022年12月5日

「竹槍事件」の新名丈夫記者編『海軍戦争検討会議記録』復刊

 ——副題は「太平洋戦争開戦の経緯」。敗戦後間もない1945年12月から46年1月にかけて、海軍首脳ら29人が参加して計4回開かれた座談会の記録だ。首相や海軍大臣などを歴任した米内光政の指示により、非公開で行われたものだった。座談会の記録を託された毎日新聞記者、新名丈夫の編纂により76年に刊行され、今回新書化された。

 参加者は、永野修身(おさみ)に及川古志郎、井上成美(しげよし)に吉田善吾ら。軍令部総長に海軍大臣、軍務局長や連合艦隊司令長官などの要職を務めた面々が名を連ねる。対米戦となれば海軍の役割が非常に大きい。しかしアメリカを屈服させられないことは分かっていた。軍部をコントロールできる政治家はいなかった。新聞をはじめとする言論も機能していなかった。避戦のかぎは海軍が握っていたのだ。率直に「戦えない」と表明していれば、戦争はできなかった(陸軍の一部には、対米開戦を避けるために海軍にそう表明してほしかった者もいた)。

 ではなぜ開戦に同意してしまったのか。どうすれば避けられたのか。海軍の戦争責任を懸賞する上で、貴重な資料だ。

 12月3日付け毎日新聞読書面「今週の本棚」の紹介記事である。編者新名丈夫(1906~ 1981)が書いた記事が以下の紙面だ。

1944年2月23日付毎日新聞朝刊1面

 この紙面に、東条英機首相は激怒、陸軍省に乗り込み「今朝の毎日を見たか。見たならなぜ、処分せぬか!」「毎日を廃刊にしろ」と叫んだという。

 37歳の新名は、丸亀連隊に懲罰召集された。新名は海軍省記者クラブ「黒潮会」に属していた。海軍がこの召集に抗議すると、陸軍は、新名同様大正時代に徴兵検査を受けた者から250人を丸亀連隊に召集して辻褄を合わせた。

 新名は3か月後、召集解除されたが、巻き添え召集の250人は後に硫黄島に送られ玉砕した。

 新名は、その後、海軍報道班員となり、敗戦を迎えた。

(堤  哲)

2022年11月24日

元東京代表、秋山哲さんが米寿で小説第2作『南進の口碑』をオンデマンド出版

 小説の第2作目、『南進の口碑』を出版した。筆名は2年前の第1作『耳順居日記』と同じで、「檜節郎」である。ちょっと種明かしをしておくと、「秋」という字は分解すると「火ノ木」ということで使うことにしたペンネームである。

 前作と同様に、アマゾン方式のオンデマンド出版という方法で出版した。少々パソコンと苦闘する場面もあるが、表紙から本文、奥付まで、全部自力でデジタル化して送り込めば、発行にかかわる経費は原則ゼロ円である。アマゾンで堂々と販売、翌日配達してくれる。ついでに言っておくと、今回の小説の売価は1980円で、1冊売れるたびに300円台がわたくしの手元に入る。

 前置きが長くなったが、『南進の口碑』は、太平洋戦争前夜からの日本の「南進」を背景に、「南洋特別留学生」という日本の国策によって日本にやってきた南洋の青年たちの苦闘の物語である。

 恩人である日本人現地高官の銃殺、親友であったオマールとユスフの原爆被災死、インドネシア独立戦争の現場での日本人ゲリラ隊長との交流など、主人公アグスをめぐる悲劇をつづる。日本女性と結婚し、男の子を得るが、田中角栄のインドネシア訪問の機に起こった反日暴動の中で、最愛の息子を銃弾で失う。

 失意のアグスが日本を訪れてみるのは、原爆死した親友二人の立派な墓、スカルノ大統領が建てた日本人ゲリラ隊長の記念碑、彼らの広島での寮の跡地に立つ記念碑である。

 通底しているのは、個人の力ではどうすることもできない「不条理」である。それにも関わらず、人と人とのつながり、心のつながりというものが、国を超え、人種を超えて続く、ということである。

 「口碑」という言葉は使われなくなっているが、広辞苑によれば「碑に刻みつけるように口から口へ永く世に伝える」という意味である。「南進」の引きずる影を忘れてしまってはいけない、という思いが、ジャカルタ特派員であった男を突き動かしたのである。

 これを書いている2022年11月23日は、『南進の口碑』の発行日であり、わたくしの88歳の誕生日である。

(秋山 哲)

2022年11月11日

秋田支局の田村彦志さんが『街ダネ記者の半世紀 秋田県北・取材メモから』を上梓

 「まだまだ書き続けたい」

 そんな思いを胸に、秋田県北部を中心に取材記者として歩み、2023年4月にちょうど半世紀の50年を迎える。この年月をあまり振り返ることはなかったが、光を当ててくださったのが前秋田支局次長の工藤哲さんだった。21年4月、旧大館市役所記者室で県知事選の打ち合わせの後、「負担にならない程度に、取材の思い出を書いてみませんか」「まず、1、2本出せますか」と持ちかけられた。

 自分の思い出に読者が関心を示すとは思えなかったが、各地での取材の思い出を21年4月~翌22年3月の約1年間、計49回秋田県版で連載した。この間、読者や記者仲間から時々、「見てますよ」「いつまで続くのですか」といった反応があり、大きな力になった。

 私にとっての大きな転機は00年4月、地域紙の北羽新報(秋田県能代市)から毎日新聞に転籍できたことだ。元大館通信部記者で当時秋田支局次長だった高木諭さんと能代の居酒屋でお会いしたところ、「支局長の使いで来た。うちに来ないか」と突然持ち掛けられたのが、転籍の始まりだった。私にとって夢のようなことで、「これで書き続けられる」と思うと、毎日、心が躍った。

 原稿は遠い記憶をたどりながら書き進めた。記者になった動機をよく考えてみると、記憶は生い立ちにさかのぼる。連載中には、出稼ぎ先を転々とした父母と生活をともにしていた10歳下の弟から何度かメールが届いた。

 「兄貴の記事を読んでいると、体が固まって動けなくなる。涙が出てさぁ」。

 弟もまた、自分の半生を重ねていたようだ。

 連載はその後、県北部の状況や主な動きが分かるよう大幅に加筆することができた。

 秋田県北部は古くから木材業や鉱業に支えられ、地元産業の栄枯盛衰を実際に肌で感じて来た。日々の取材で、苦境を抱えながらもそれぞれの人生を切り開いく人たちには何度も励まされてきた。原稿に理解を示して下さった現代書館の編集者に支えられ、思いの詰まった一冊になった。

 新聞記者になって、私は一度も後悔したことがない。地方発のメディアについて考えるきっかけの一つになってくれれば、と思っている。

(田村 彦志)

 『街ダネ記者の半世紀 秋田県北・取材メモから』は現代書館、定価 2,200円+税
 ISBN 978-4-7684-5933-1

 田村彦志さんは1951年12月、秋田県旧二ツ井町(現能代市)生まれ。1973年4月に北羽新報社(能代市)に入社。大館支社報道部長、二ツ井支局長、整理部次長を経て2000年4月に毎日新聞社に転籍。能代通信部長を長年務め、2020年から秋田支局特約通信員。北羽新報時代には国有林を題材に執筆した「林野の叫び」(1989年、日本林業調査会)、揺れる鉱山地帯を取材した「よみがえれ北鹿」(1988年、大館新報社編)などを出版。

 2017年、主に地方で長く取材に励み、優れた地域報道に取り組んだ毎日新聞記者に贈られる「やまなみ賞」を受賞。

2022年11月4日

毎日新聞創刊150周年記念出版と銘打った 写真部史『目撃者たちの記憶 1964~2021』

 「写真部史刊行にあたって」と、序文を寄せているのは、丸山昌宏毎日新聞社会長である。

 150年に及ぶ毎日新聞社の歴史で、写真部長を務めた記者が社長になったのは初めて。

 《フィルムからデジタルに変わっても、真実を求め、その一瞬を逃すまいという写真記者の気迫はいつの時代の写真からもうかがえます》

 《90年にわたる毎日新聞写真部の伝統は、先輩写真記者から後輩に脈々と受け継がれ、大きな成果を残してきたのです》

 《新聞界のグランプリである日本新聞協会賞を毎日新聞社は報道で計34回と最多受賞していますが、そのうち10回が写真報道での受賞という事実がそれを示しています》

 ついで版元大空出版のHPから——

 毎日新聞創刊150周年記念出版
 常にスクープの最前線に立つ新聞社のカメラマンたち
 事件・事故の瞬間に何を考え撮影したのか
 「スクープの毎日」と呼ばれ毎日新聞社を支え続けた
 カメラマンたちの記憶と足跡を辿る報道写真史

 スクープ報道を見て、写真の迫力に驚くことはよくある。だが、報道する側は誰よりも先に情報を知っていなければ伝えることはできない。時に記者よりも早くカメラマンが現場に入り撮影しているケースは少なくない。つまりカメラマンはスクープの第一目撃者にもなり得るのだ。新聞報道という一つの時代を背負ってきたカメラマンたち。本書は過去60年間の事件・事故・災害などを中心に、スクープを撮り続けたカメラマンたちの記憶を辿る。ピュリッツァー賞をはじめ数々の新聞協会賞などを受賞した彼ら。その裏には、「スクープの毎日」と呼ばれた記者魂があった!

 毎日新聞写真部OB会 編
 発売日:2022年11月4日
 判型:B5判頁数:276ページ
 価格:2420円(税込み)
 ISBN:978-4-86748-005-2

[内容]特別寄稿 佐高信「時代を超えて残るもの」
 三億円事件現場の空撮/大久保清容疑者が乗る警察車両とカーチェイス/あさま山荘事件/三菱重工ビル爆破事件/ベトナム戦争終結 サイゴン脱出/田中角栄前首相を逮捕/敦賀原発放射能漏れ事故取材記/日航ジャンボ機墜落事故/「昭和」最後の日の思い出/ベルリンの壁崩壊取材記/金日成主席単独会見取材記/雲仙で大規模火砕流発生/カンボジアPKO取材記/阪神大震災で自宅が全壊、被災者が取材者になった/オウム真理教の麻原を撮った/西鉄バスジャック事件/阪神タイガース・星野監督胴上げを空撮する/JR福知山線脱線事故空撮取材/東日本大震災 大津波との遭遇/天皇陛下即位のパレードの取材記/九州豪雨で球磨川が氾濫、土砂崩れが多発/2021年 コロナ禍の東京五輪 など

(元東京本社写真部長・堤  哲)

2022年10月25日

元生活家庭部の松村由利子さんが『ジャーナリスト与謝野晶子』を上梓

 歌人・与謝野晶子は誰もが知る存在だが、彼女が労働や教育をテーマに多くの新聞や雑誌に寄稿したことは、ほとんど知られていない。三十代のころから晶子の評論を愛読してきた自分としては、何とも口惜しい。いかに彼女が素晴らしいジャーナリストであったか広く伝えたい、という思いが今回の著書となった。

 最初の章は、特に毎日新聞の先輩方や、かつての同僚、後輩たちに読んでもらえたら、と願いつつ書いた。というのも、東京日日が大阪毎日に吸収合併されたとき、つまり全国紙としての毎日新聞の出発点となった紙面に、晶子が関わったという面白い事実が出てくるからだ。

 両社の合併が相成った1911(明治44)年3月1日付の東京日日の1面には、「今日以後の東京日日新聞」という見出しのもと、大阪毎日社長の挨拶文が紙面の大部分を使って組まれた。その下方の隅に、与謝野晶子の歌が2首掲載されている。しかも、それは短歌史上初めて出産の苦しみを赤裸々に詠んだ作品として非常に有名な歌であり、その日だけの単発の掲載ではなく、1年以上続く長期連載の第1回だった。いったい、どんな記者が1面で短歌を連載するという企画を考案したのだろう。当時最も有名な人気歌人に依頼する際は、編集局長や社長も同席したのではないか……。

 毎日新聞に入社して支局でのサツ回りが始まったとき、最初にたたき込まれたのが「疑問を持て」ということだった。軽微な交通事故であっても、それがなぜ起こったのか、現場はどんな場所だったのか、自分で考えてみること。警察発表を疑ってみること――。今回の原稿を書いているとき、私の頭にはいつもこの教えがあった。できるだけ一次資料に当たり、晶子の文章や歌を時代背景と照らし合わせて考察するよう心がけた。歌集に収められた歌が、もともとはいつ、どんなふうに雑誌や新聞に掲載されたのか、「初出」に当たったのも、そのためだった。

 与謝野晶子が評論を書いたのは、活字メディアが今とは比べものにならないほど大きな影響力をもった時期である。それだけに政府はメディアを恐れて言論統制を強め、新聞や雑誌、書籍が発禁処分となることが珍しくなかった。そうした厳しい時代、彼女は臆することなく権力を批判し、自由と平等を実現する民主主義を希求し続けた。本書では、そんな硬派な晶子像を複数の角度から描こうと試みた。

 晶子は日常的に十紙前後の新聞に目を通し、新聞というメディア、そして記者たちに厚い信頼と期待を寄せていた。新聞を「闇夜の燈火」に喩えた彼女の言葉が、いま新聞社で働く人たち、これから記者職を目指す人たちに届けば嬉しい。

 在職中は抜かれっぱなしのダメ記者だった私が、こつこつと調べものを重ねて本書を書き上げられたのは、諸先輩のご指導によるものにほかならない。毎日新聞への感謝の念をこめて上梓した一冊(もちろん情報調査部へは献本済み)、お楽しみいただければ幸いである。

(松村 由利子)

 『ジャーナリスト 与謝野晶子』は短歌研究社刊。定価2,750円(本体2,500円) ISBN 978-4-86272-720-6

 松村由利子(まつむら・ゆりこ)さんは千葉支局、生活家庭部、学芸部、科学環境部に在籍、2006年フリーに。歌人として毎日新聞の連載などで活躍。1998年、第一歌集『薄荷色の朝に』を出版。2009年に出版した『31文字のなかの科学』が科学ジャーナリスト賞を受賞、『与謝野晶子』で第5回平塚らいてう賞。第五歌集『光のアラベスク』で第24回若山牧水賞。石垣島在住。

 2022年10月22日の毎日新聞書評欄で歌人小島ゆかりさんが取り上げて紹介。

2022年10月11日

元学芸部長、柳川時夫さんが「毎日新聞コラム『余録』選 2003~2022」

 今年は毎日新聞創刊150年ですが、1面コラム「余録」にはその前身から数えれば120年の歴史があります。

 新聞記事がまだ文語体で書かれていた明治の後期、大阪毎日新聞が創設した親しみやすい口語体のコラム「硯滴(けんてき)」が、その「前身」というわけです。後に東京日日新聞では大阪の「硯滴」と同じ内容のコラムを「余録」のタイトルで掲載するようになり、両紙の毎日新聞への統合を経て、戦後の1956年なって東西のコラム名が「余録」に統一されました。

 筆者は論説室で「余録」を2003年2月から今年3月まで19年間にわたって担当してきました。その間の執筆本数は4255本となりましたが、本書はそれから450本を選んでまとめたものです。

 19年間・4255本といっても「余録」の長い歴史を振り返れば、もっと長い期間にわたり執筆された先輩記者がいます。

 2002年まで担当されていた諏訪正人さんは1979年から23年間にわたって6300本以上を書かれました。

 さらにさかのぼれば、政治思想史家の丸山真男の父である丸山幹治という先輩記者は、実に25年間も筆を執り続けました。しかも驚くべきは、それが戦前・戦中・戦後をまたぐ激動の四半世紀だったことです。

 戦後になって毎日新聞も戦争をめぐる言論責任が厳しく問われることになりましたが、そんな時代の試練をものり超えることのできた丸山の「余録」だったのです。

 このような偉大な先輩たちに及びもつかない浅学非才の身で、伝統あるコラムを引き継いだのは身のほど知らずといわれても仕方ありません。ただゆき会った仕事に持てる力のすべてを注ぎ、日ごとに迫る締め切り時間に追われながらその時々の原稿を仕上げるうちに、気がつけば19年の歳月が過ぎていたというのが率直な感慨です。

 すでに古希を過ぎた身ですが、いざこの3月に「余録」執筆を退いてみれば、まるで玉手箱を開けた浦島太郎のようでした。身の回りを見渡せば人事異動の表にも知っている人の名は論説室関係以外にはほとんどなく、それどころか部署名すらカタカナ語だらけで何が何やら分からないありさまです。

 半ば呆然としながら自分の歩んできた道のりを振り返れば、今も鮮烈に思い起こされるのは、やはり11年前の東日本大震災、とりわけその直後の日々です。

 まさに未曾有の巨大津波による大惨禍と、原発事故による日本列島東半の壊滅の危機とが同時進行する修羅場でした。人命と社会の命運のかかった重大ニュースがあふれかえる中、それを報じるために少しでも紙面のほしい新聞の1面でした。

 そんななかで、あろうことか「余録(余分な記録)」――つまりはムダ話を名乗るコラムはいったい何を書けばいいのか? ほかの新聞の1面コラム記者もきっとそうだったに違いありませんが、まさにコラム書きには途方もない試練の日々でした。

 平均すると約10本のコラムから1本を選び出して編んだこの本ですが、2011年3月11日組の朝刊から続く7日間のものについては記事の出来不出来にかかわりなく掲載しています。それらは、コラム記者とは何なのかをいやおうなく自問し、自分なりの答えをその日ごとに胸に深く落とし込みながら書き上げてきた「余録」だったからです。

 もともとは見出しもなく、その日、その場限りで読み捨てられる新聞の匿名1面コラムです。しかし本書では掲載した1本1本に話題に即したタイトルと、取り上げたニュースなどを示す副題をつけて、読者の興味のおもむくままに拾い読みしてもらえるようにしました。

 ちなみに震災発生当初の7日間のタイトルと副題を掲げてみます。「鳥にあらざれば……/東北・関東に巨大地震」「キュクロペスの身じろぎ/福島第1原発の炉心溶融」「神はどこにいるのか/全容つかめぬ津波被害」「地震火事方角付け/震災とメデイアの試練」「アリアドネの糸/破れた『災厄封じ込め』」「上野山のハーモニカ/救援届かぬ被災地」「霧の中の危機/問われるリーダーの才」。もし本を手にされた方は続けて読んでいただければと思います。

 本書はまだ結末の分からない、しかも今後の世界のありようを左右するロシアのウクライナ侵攻をめぐるいくつかのコラムで最後を締めくくることになりました。これも新聞コラムをまとめた本にふさわしいオープンエンドといえましょう。

 同じ時代、同じ新聞作りに携わってきた方々が、この本を私たちがともに過ごしてきたかけがえのない日々を振り返るよすがにしていただければ、「余録」の担当記者としてこれに過ぎる喜びはありません。

(柳川 時夫)

 「毎日新聞コラム『余録』選 2003~2022」は毎日新聞出版刊 2400円(税別)

 柳川 時夫(やながわ・ときお)さんは1949年、神奈川県生まれ。73年、毎日新聞社に入社。論壇担当記者、書評欄や文化担当デスクなどを経て日曜版編集長、学芸部長、編集局次長。2003年から論説委員、論説室特別編集委員として1面コラム「余録」の担当記者となり、03年2月12日付から22年3月24日付まで、19年間にわたって同コラム4255本を執筆した。

2022年9月30日

「記者がひもとく『少年』事件史~少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」を夕刊編集部の川名壮志さんが刊行

 9月27日。安倍晋三氏の国葬が終わりました。賛成派と反対派の間で怒号が飛び交うほどに大変な議論を呼んだ国葬ですが、歴代最長の在任期間を誇る元宰相が、銃撃されて絶命するという出来事は、戦後の政治史の大きな節目だった思います。衝撃的な事件として、多くの人の記憶に刻まれるはずです。

 毎日新聞は、この事件で時代の「証拠」を残しました。安倍氏の銃撃事件の顛末を、レンズに捉えたからです。アスファルトの路上にあおむけで倒れ、目を開かない安倍氏。救命措置をするスタッフの緊迫した表情。その瞬間をとらえた写真が載った夕刊(7月8日付)は、他紙を寄せ付けない迫力がありました。新聞協会賞に値する写真だと思います。

 撮影したのは、奈良支局の久保聡記者(99年入社)。長崎支局時代の私の先輩でした。電話すると、「政治部も来てへんし、俺しか撮る奴、おらんかったからな」とサラリ。他紙は山上徹也容疑者を追ったり、倒れている安倍氏を遠巻きに見ていたりしたそうです。不測の事態にも動じないところが、いかにも毎日新聞の先輩らしいな、と思いました。

 衝撃的な写真ですが、さらに衝撃的だったのは、撮られた写真が、携帯(iPhone)によるものだったという事実。「今は、機能はデジカメと変わらんからな」。これまたサラリと言われ、驚きました。

 じつは、政治家の殺害事件と毎日新聞とは奇妙な縁があります。2007年に長崎市の伊藤一長市長が銃殺されたときも、写真を撮ったのは長崎支局の記者(01年入社)。私の同期でした(彼も新聞協会賞を受賞しました)。

 そして、なによりも世間に知られているのは、1960年の浅沼稲次郎・社会党党首の刺殺事件でしょう。毎日新聞写真部の長尾靖カメラマンがとらえた刺殺の瞬間の写真は、日本初のピュリッツァー賞を受賞したのですから。

 ただ、この浅沼刺殺の事件は、令和の時代に記者をしている私にとって、違和感を覚えるものでもあります。刺殺した17歳の少年、山口二矢の顔写真も実名も、大きく一面に掲載されているからです。毎日にかぎらず、各紙とも山口二矢の顔写真、そして実名を掲載しています。当時の紙面をめくってみても、少年を実名、顔写真付きで掲載したことについて、読者や識者からの批判は見当たりません。すでに少年法が施行されて長いのに、とても不思議に思います。

 遅ればせながらですが、私は「少年事件」に関心を持っています。

 少年事件の視点で、いま一度、この事件を考え直してみます。すると、当時の新聞が、山口二矢を17歳の「子供」ではなく、政治に憂えた早熟な「青年」として報道しているのも、きわめて印象的です。

 私が毎日新聞に入社したのは2001年。その前年には、17歳の少年による殺人事件が相次ぎ、「キレる17歳」という言葉が流行語になりました。政治的な思想も、厳しい受験戦争のプレッシャーもない少年の事件に、新聞が注目する時代に、私は入社したのです。

 なぜ、少年事件に新聞が注目するようになったのか。

 これは1997年の神戸連続児童殺傷事件の影響が大きいと思います。14歳の「少年A」が逮捕されたとき、朝日、読売、毎日の各紙の朝刊は、一面がこの事件一色に染まりました。以後、新聞は「少年事件」を「成人事件」より大きく扱う方向へと舵を切っています。

 じつは、少年事件の報道というのは、時代によって、その扱い方も、扱うネタも大きく違っています。それは、毎日新聞のOBの方々に話を聞いても、よく分かります。

 70年代に入社した先輩記者に話を聞くと「犯人が少年と分かったら、取材をやめちゃったよ。だってガン首が載せられないんだから」と言われました。殺人事件でも、「犯人」が少年なら大きく扱わない、というのが常識だったそうです。

 80年代に入社した先輩記者には「少年事件は、親子関係と教育だよ」と熱っぽく語られました。これが90年代入社になると「少年の人殺しなら、一面だよね」に変わります。

 戦後の少年事件の記事をめくってみると、その時代ごとに、取り上げられる事件が異なることが分かります。1960年代には、山口二矢のようにテロに走る政治的な少年。それが70年代の手前で、永山則夫のような資本主義の「落とし子」である少年の事件に注目が集まるようになっています。70年~80年代は、暴走族や家庭内暴力の「子供」の事件の記事が続出しています。それが90年代以後になると、神戸の連続児童殺傷事件のように「動機の分からない」事件への関心が高まっています。

 また少年事件を取り巻く環境(教育の問題、司法制度の不備)を大きく取り上げた時代もありました(先日、80年代からの少年事件に詳しい若穂井透弁護士と話をしていたら毎日OBの三木賢治記者と親しかったと聞きました)。

 そう考えてみると、新聞記者ひとりひとりでも、「少年事件」の捉え方が違うのではないでしょうか。

 つまるところ、少年事件は「時代の鏡」だということ、あるいは少年事件は「時代のカナリヤ」ということなのだと思います。ならば、きちんと記録として残さなければ、と思いました。

 そうして書き上げたのが「記者がひもとく少年事件史~少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」(岩波新書)です。これまで新聞報道で大きく扱われた少年事件と、その時代背景を描いています。

 過去の記事をたどりながら、「これは毎日新聞のアノ先輩が書いた記事だな」と思いながら本を執筆していました。記事に諸先輩方の署名を見つけるのも、執筆の楽しみの一つでした。

 諸先輩方にご一読いただければ嬉しいです。

(毎日新聞東京夕刊編集部 川名壮志)

 川名壮志さんは2001年、毎日新聞入社。佐世保支局を振り出しに、福岡総局、東京社会部などを経て2021年から夕刊編集部。著書に「謝るなら、いつでもおいで」、「僕とぼく」(いずれも新潮文庫)、「密着 最高裁の仕事」(岩波新書)など。

 「記者がひもとく『少年』事件史~少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」は岩波新書、定価946円(税込み)ISBN 9784004319412

2022年9月26日

大阪本社保存の写真『占領下の大阪・関西』を読売新聞が紹介

 毎日新聞大阪本社に保存されている占領下の写真を使った『写真図説 占領下の大坂・関西』(創元社刊)が、25日付け読売新聞で紹介された。《「蔵出し400点」とある通り貴重な写真が集められた》とある。

 同書からセンバツ関連を2枚。

 写真説明に「第19回選抜野球の決勝戦を観戦する進駐軍兵士」(1947年4月7日撮影)とある。

 センバツが6年ぶりに復活、優勝戦は徳島商が小倉中学を降した。写真上は「駐留軍専用席」で観戦するGIである。

 これは翌第20回大会。センバツ開幕の1948(昭和23)年4月1日は「6・3・3」制が始まり、新制高校が発足した、と大会史にある。しかし、学校名の呼称は「旧制中学」のままで通し「ファンを喜ばせた」ともある。

 写真下は「米軍ムリンズ少将からサインボールを贈られる選手」とあるが、胸のマークから大分中学の梅津昭投手か。同少将は、スタンドからボールを投げ入れるアメリカ式の始球式を行った。

(堤  哲)

2022年9月21日

元モスクワ特派員、石郷岡 建さんが新刊『杉原千畝とスターリン』

 「正直に言えば、杉原千畝の『命のビザ』については、あまり関心はなかった。何かユダヤ難民を救うために、日本政府の命令に背いた外交官がいたらしいという程度の理解しかなかった」。今回出来上がった本の冒頭に書いた「初めに」の文章である。

 1939年9月、独ソ両軍がポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の始まりで、大量の難民が発生した。隣国リトアニアの杉原千畝領事代理の所へも難民は押し寄せてきた。杉原はやってくる難民のほぼ全員にビザを発給した。おかげで、多数のユダヤ難民が絶滅収容所での死を免れた。その話を聞き、「ソ連政府は数千人の難民のシベリア横断を何も言わずに許したのか? そんなことはありえない。何か隠されている」と思った。その疑問が、この本を書くきっかけとなった。

 しかし、ソ連は2回の世界大戦で4000万人近くの死者を出したとされる。数千人のユダヤ難民の救出劇を上回る大きな悲劇やドラマがあちこちで起きていた。だから、『杉原ビザ』には、誰も関心がなく、知られていなかった。杉原ビザの研究をしている人はわずかで、文献もデータもなかった。何が起きたのか、誰も答えられない状況だった。

 2014年、ロシアの研究者が、「国家最高決定機関のソ連共産党政治局が討議し、ユダヤ難民にビザを発給する決定を行っていた。それは秘密とされ、公開はされなかった」と発表した。これまで語られていた『ユダヤ難民救出物語』とは全く違う驚くべき見解だった。ただ、日本も、世界も、あまり反応をしなかった。ロシア語という特殊言語の大きな壁があったのかもしれない。

 ということで、これはきちんと日本の社会に伝えるべきだと考えた。しかし、調べていくと、この問題は、ユダヤ難民にビザを与えたという官僚手続きにとどまらない、深い溝が開いていることに気付かされた。その溝を探っていくと、様々な事実が明らかになり、それがまた新しい謎を生み出した。杉原個人を超える大きな話に膨れ上がり、500ぺージを超える“大作”となってしまった。

 あちこちの出版社を訪ねたが、どこも、「今時、200ぺージ超える本は、よほどのことがない限り、誰も買いませんよ」と断られた。 

 それでも、手紙を次々に出版社に出した。すると、五月書房新社の杉原修編集長から返答が来た。実は、杉原千畝の家族との付き合いがあり、前からソ連関与の話を薄々聞いていた。いつか本にしたいと思っていたという。この偶然の出会いがなければ、この本は世に出なかったと思う。

 実は、この本は様々な疑問が残されており、未完でもある。本のタイトルは暗示的に「杉原とスターリン」とされているが、今後、どのような事実が出てくるのか不明で、タイトルも変わるかもしれない。

 杉原とソ連とユダヤ難民の三者の間に、何が語られ、何が起きていたのか、謎は始まったばかりで、まだ出発点に立っている形だ。

 第二次大戦は、不条理としか言えない殺戮が繰り返され、人々は何が正しく、何が悪いことなのか分からないまま、混乱と恐怖の中で、暗闇に落とされていった。

 その一方で、多くの人々が、絶望した人々に手を差し伸べ、必死に助けた事実もあった。日本人には馴染みがないユダヤ問題でもあるが、世界の歴史につながる暗黒と希望の話でもあり、人間とは何か、世界とは何かを問う話にもなっている。

 日本から遠く離れた地の人々の話で、カタカナの固有名詞がいっぱい出てくる。日本人には分かりにくいかもしれない。途中で投げ出す人もいるかもしれない。そこで、出てくる人々の写真や画像を懸命になって探し出し、本に掲載した。若い読者の皆さんのために、それなりに、頑張ったつもりである。世界では何が起きていたのか、今一つ考える材料にして欲しいと願っている。

(石郷岡 建)

 『杉原千畝とスターリン』。五月書房新社。 定価3500円+税 2022年9月20日発行。ISBN 978-4-909542-43-4。

 石郷岡 建(いしごおか けん)さんは1974年毎日新聞入社。横浜支局。東京社会部。外信部。カイロ、ハラレ、ウィーン、モスクワ各支局勤務。

2022年8月31日

小倉孝保論説委員が『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』を刊行

 金曜日朝刊2面の連載コラム「金言」(kin-gon)の筆者・小倉孝保論説委員の最新刊。

 日刊ゲンダイに連載した「伝説のストリッパー一条さゆりとその時代」が基だが、大阪社会部の街頭班(サツ回り)時代に、釜ヶ崎で生活保護を受けて1人暮らしをしていた晩年の一条さゆりを知って、インタビュー取材をしたのがそもそもだ。

 一条さゆりが1997年8月3日60歳で逝去、その訃報を社会面に載せ、全文1742字にのぼる評伝?も執筆した、と日刊ゲンダイの連載にあった。

 おもろいネタは、食い尽くす。大阪社会部「街頭班」精神の発露である。

 小倉さんは、88年入社。カイロ支局長→ニューヨーク支局長→欧州総局長→外信部長→編集編成局次長。

 外信部長の先輩・大森実さんを自宅でインタビューして『大森実伝—アメリカと闘った男』(毎日新聞社2011年刊)を出版したのをはじめ、著書多数。『がんになる前に乳房を切除する—遺伝性乳がん治療の最前線』(文藝春秋2017年刊)で日本人として初めて英外国特派員協会賞を受賞している。

(堤  哲)

『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』は講談社刊、9月1日発売。定価:2,200円(税込み)ISBN:978-4-06-529255-6

2022年8月23日

全身マヒと声を失った元西部学芸課長、矢部明洋さんが映画評『平成ロードショー』を出版

 西部本社の元学芸課長、矢部明洋さん(59)が、「平成ロードショー 全身マヒとなった記者の映画評1999~2014」(忘羊社)を出版した。現役時代に西部本社版に書いていた映画紹介コラムを厳選してまとめた。イラストは妻の「高倉美恵」さん。夫婦合作である。

 「矢部くんが倒れた」。2014年11月10日、報道部長だった私(松藤)に連絡が入った。脳梗塞を起こして入院したという。すぐに病院へ駆けつけた。高倉さんと子供2人は比較的落ち着いているように見えたが、病状は深刻だった――。

 同僚の矢部さんとは、年齢も近く、飲む機会も多かった。博覧強記の彼の話題の幅は広く、斜に構えた独特な見立てと関西弁に乗せた歯に衣着せぬ的確な指摘は、ユニークで憎めない。酒席では笑いが絶えない。こと映画評はたしかに群を抜いていて、私が見たこともない映画でも彼の言にかかると見てみたくなるような楽しみがあった。

 その1年前の13年11月、報道部長が聞き手として長く西部紙面で連載していた直木賞作家の故・佐木隆三さんのインタビュー企画「事件簿」が突然終了する事態に陥った。その時に助けてくれたのが矢部さんである。共通の知人でもある直木賞作家の葉室麟さんと歴史上の人物を語る案を出して、自ら対談相手を買って出た。「ニッポンの肖像」と題した月1回の対談は、黒田官兵衛に始まり、宮本武蔵、坂本龍馬、北条政子などと続いた。

 対談後、葉室さんを囲んでの酒席がなにより楽しかったこともあるだろう。時代作家の葉室さんと矢部さんは、作家論など文学のみならず、政治や国家論、メディアの在り方から、映画も含めた芸能娯楽、文学賞のウラ事情――と実に多彩で幅広い分野の話をした。まさに、矢部さんならではの仕事だった。

 そんな脂が乗り切った矢部さんを突然、病が襲った。それでも希望はあった。全身マヒに加えて声も出せなくなったが、数か月後には意識や記憶などには問題がなく、以前のままであることが分かったのだ。情報のインプットもアウトプットも、目で見て、耳で聞き、透明の文字盤を使ってできるという。退院した矢部さんを見舞うたびに、葉室さんと話したのは、なんとか矢部さん夫婦と進学を控えた子供2人を含めた家族の支援ができないかということだった。

矢部さん夫妻を見舞った葉室麟さん

 私は、矢部さんになにか書いてもらうことを提案したが、四肢は動かず声も出ない。一方で、元書店員の高倉さんは地方版にイラスト付きで「ちゃんとして母ちゃん!」というコラムを寄稿していた。そこで生まれたのが、現在も月2回のペースで続く「眼述記」である。文字盤を通じて闘病だけでなく、全身マヒの父親を抱えた家族のありのままの姿をつづっている。

 それは矢部さんの文章でありながら、眼と思いやりを通じた夫婦のコミュニケーションの実情であり、全身全霊で寄り添い続ける高倉さんの介護の記録である。この間、高倉さん自身、2度のがん宣告を受け、それを克服した。子供たちもそれぞれ大学、高校へと進み、自立へと動いた家族の物語でもある。

 葉室さんは対談の書籍化を提案してくれた。出版社の知己に連絡して「ニッポンの肖像」を「日本人の肖像」として再構成し、編集者に掛け合って著者名に「矢部明洋」のクレジットを併記してくれた。業界では異例のことだったと聞いた。

 葉室さんは、彼が地方紙記者時代に、駆け出しだった私を陰に陽に気にかけてくれた大先輩だった。この本の出版だけでなく、著者クレジットに矢部さんの名前を入れた葉室さんのご配慮は、私自身のことのように思えて、感謝しかない。

 葉室さんはこの本のまえがきの中で、こう書き記している。

 「この本の前半は、毎日新聞西部本社学芸課長でデスクの矢部明洋氏との対談の形で進められました。わたしの雑駁な話が矢部氏の力によって整合性のあるものにまとめられていったというのが実感です。わたしの意見というより、矢部氏の理解力、構成力をもとにした『対話』であるということに意味があるのではないかと思っています。矢部氏は平成二十六(二〇一四)年十一月に脳梗塞と脳出血の病に倒れました。病状の詳しい説明は避けますが、最も活動的で雄弁な新聞記者がその能力を発揮できず、闘病を続けています。矢部氏が病に伏した後、学者の方々との対談を重ねさせていただきましたが、『対話』をするという基本は矢部氏のときから引き継いだものです。闘病中の矢部氏と彼の家族は明るくたくましいことも付け加えておきます。そのことに、わたしは生きる意味を教えられました。」

 その葉室さんも2017年12月、帰らぬ人となった。享年66。いつもお見舞いにカステラを持参したとかで、子供たちは「カステラのおっちゃん」と呼んでいたという。

 19年4月、矢部さんは新聞社を退職した。コロナ禍は3年目に入り、お見舞いもままならず時が流れていく。高倉さんから「矢部が映画のことを書きたがっています」と聞いていながら私は何もできないまま退いた。それだけに、矢部さんのこだわりの一つであった映画評を、夫婦自らの力で書籍化されたことを心からうれしく思う。そして敬意を表したい。

 8月10日、北九州市小倉北区の旦過市場が今年2度目の大火に見舞われ、創業83年の老舗映画館「小倉昭和館」が焼け落ちた。3代目館主の樋口智巳さんは「ここに来れば、いつでもお会いできますよ、と自分で話していた場所がなくなった。これからどうすればいいのか」と肩を落としていた。かける言葉も見つからず、「平成ロードショー」を1冊渡した。「火事の前にいただいて持っていたけど、焼けちゃったの。うれしい。ありがとうございます」。樋口さんは笑顔で受け取った。

(元西部本社編集局長 松藤 幸之輔)

「見終わって涙がとまらない」映画への愛を綴った『平成ロードショー』

 「どんなものを食べているかを言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」。19世紀フランスの政治家、ブリア・サバランはこう語ったそうです。「どんなものを食べているか」は、「どんな映画を観ているか」に置き換えられる。本を読んで、そんな印象を持ちました。

 本書は、矢部さんが倒れるまで西部本社福岡総局の学芸課長として書き続けた映画評「週末シネマ」の署名記事を中心に、映画愛が伝わるコラムなども加えた約150本を再構成したものです。

 紹介される作品の多くは、いわゆる「メジャー路線」ではありません。巨額の予算を投じた話題作とか、SFX満載の血湧き肉躍る冒険映画とか、「全米が泣いた」系のヒューマンドラマは登場しません。その点においては「偏っている」とも言えましょう。

 それでもこの本をお薦めする理由は、ラインナップに矢部さんの揺るぎない選択眼を感じるからです。

 大作より小品、勧善懲悪の物語よりモヤモヤ路線、シネコンよりミニシアター、とでも言いましょうか。

 もちろん、メジャーな作品にも心を寄せています。ハリウッドで矢部さんが高く評価する監督は、「グラン・トリノ」(2008年)を撮ったクリント・イーストウッドです。そのわけを、本書でこう評しています。

 「米国社会が原罪のごとく抱え持つ人種対立や横行する暴力に対し目をそむけない。ヒーローを安易に美化したりもしない。娯楽映画の体裁をとりながらも、アメリカン・ドリームの空々しさを常に視野に入れている」

 矢部さんの思いを代弁するならこうです。映画は娯楽であると同時に、世相や社会を色濃く映します。いい映画は、観る者の心に余韻を残し、新たな視点を提供したり、感情を強く揺さぶったりします。

 スクリーンに展開されるのは、人間の弱さや残酷さ、馬鹿馬鹿しいほどひたむきな、時に愚かな行いかもしれません。それでも、根底に弱い人や寄る辺ない人々への共感のまなざしがある。彼らを踏みつける社会や権力への怒りがある。

 そういう佳作を、矢部さんは「便所泣き映画」と評しています。見終わった後、感情が高ぶって涙が止まらず、便所の個室にこもって気持ちを鎮めるほどの作品、という意味です。

 京都で生まれた矢部さんは高校時代、学校よりも一乗寺にある映画館「京一会館」にいる時間が長かったそうで、「ここでビスコンティも小津もロマンポルノもピンクも知った」と振り返っています。妻でライターの高倉美恵さんが紹介する、矢部さんの思い出話を引用します。

 「実家には『太秦ですが』と言って、古い家具がないかと訪ねてくる人たちがいて、それは東映京都撮影所のスタッフなのだが、映画に使える小道具を探していたのだとか。『太秦ですが』で通用するんだ、と妙なところに感心をするのは小倉生まれの私だ。夫は『地場産業やからな。千葉真一が近所で撮影していたときは、消防車がきて雨を降らしてたぞ』なんて言う」(2022年8月3日福岡版『眼述記 80』)

 矢部さんが自宅で就寝中に脳梗塞を起こしたのは、名優・高倉健が亡くなったのと同じ、2014年11月10日未明でした。7カ月の入院を経て自宅に戻ったものの、全身にまひが残りました。

 込み入った話は、透明な文字盤を目で追う様子を高倉さんが読み取ることで成立します。本書のあとがきも、こうして書かれました。

 ライフワークの映画鑑賞は続いています。車椅子に乗って夫婦2人、映画館に出かけることもあるそうです。

 映画をスマホで観たり、中には「ネタバレ」サイトを読んでから早送りで観たりする人も増えている昨今ですが、映画館やレンタルビデオ屋に足を運ばずとも、旧作をオンラインで比較的容易に鑑賞できるようになった時代を、前向きに受け止めたいと思います。

 この本で、未知の名作に出合う機会を得られたことは大きいです。「便所泣き」を含め、いつか観ようと思ったページに付箋を貼ったら、まるで全盛期のプレスリーの衣裳みたいになりました。

(論説副委員長 元村 有希子)

 「平成ロードショー 全身マヒになった記者の映画評1999~2014」は忘羊社刊。1800円(税別)。

2022年8月16日

元学芸部の池田知隆さんが新刊『謀略の影法師 日中国交回復の黒幕・小日向白朗の生涯』―大阪毎友会ホームページから転載

 2022年9月、日本と中国が国交正常化して50周年を迎えます。半世紀前、日本と米国は、国交のない中国と対峙していましたが、ベトナム戦争の終結に向けて米中が日本の頭越しに急接近していきます。そのとき、日本人の元馬賊王が、中華人民共和国の毛沢東と中華民国(台湾)の蒋介石との双方にルートをもち、日中国交正常化を急ぐように暗躍していたことを知り、その内幕を描きました。

 その馬賊王、小日向白朗(こひなた・はくろう)は戦前、中国大陸で馬賊王として、また特務機関員として謀略の限りを尽くしますが、南京軍事法廷で釈放されます。戦後、政治の裏舞台で暗躍し、時代の影を踏むように生きて、やがて日中国交正常化に向けて情熱を燃やします。米軍基地からパスポートなしで渡米して、米国の国家安全保障会議に対して中国との国交正常化、ベトナム和平への道筋を示す一方、日本、韓国、台湾をつなぐ反共ネットワークを乗り越え、中国との国交正常化を急ぐように田中角栄首相に後ろから強くバックアップしました。

 その何事にもぶれない骨太の精神、強靭な生命力。さらには自らの人生を振り返り、「猿飛佐助であり、宮本武蔵であった」と堂々と言ってのける自己肯定感。そんな白朗に〝明治〟の息吹を感じ、日本人としての〝夢見る力〟をあらためて教えらました。

 いま、東アジアの安全保障をめぐる環境は緊張の度を増しています。近現代史を振り返ると、日本は、明確な戦略に沿って動くというよりも、大きな衝撃を外部から受け、それに反応する形で進路を決めてきました。精緻な戦略をもたず、いつもあわてて走り出してきたかのようです。日本が第二次大戦の泥沼に引きずり込まれていったのは、対中・対米戦略の誤算だった、といえなくもありません。

 日本は、日米安保条約を基軸に安全保障を考える道を選んでいますが、中国とも友好的な関係を築くことは欠かせません。半世紀前のニクソン大統領による“対中接近”は、当時の佐藤栄作首相にとってまさに「青天の霹靂」で、日本の国際認識の甘さを露呈しました。1998(平成11)年には、クリントン大統領が日本を素通りして訪中し、米中連携をうたいあげて「ジャパン・パッシング」(日本素通り)と騒がれたこともありました。

 歴史は繰り返すといいますが、単純に同じような事態が再現されるとはいえません。しかし、国益となれば、米国はふたたび、そのような選択をしないとはいえないでしょう。これまで米中の動きに翻弄され、日本は常に辛酸をなめてきました。歴史を見れば、一時的な〝正しさ〟が必ずしもいい結果をもたらすとは限りませんし、私たちはより俯瞰的な視野で世界を見つめ、想像力や思考力を鍛え直なければならないと思います。

 「米国、中国の動向を侮らず、また侮られず、アジアにもっと目を開け」

 謀略の限りを尽くして生きた白朗は、熱く叫び続けました。国際政治の冷徹なリアリズムを踏まえながら、アジアと日本のこれからを考えるうえで、小日向白朗の生涯から汲み取るべきものは少なくありませんでした。

(元学芸部・池田 知隆)

 『謀略の影法師 日中国交回復の黒幕・小日向白朗の生涯』は宝島社刊、1800円+税。

2022年8月16日

戦争報道を続ける〝常夏記者″栗原俊雄さんが新刊『戦争の教訓』

 栗原俊雄さんの新刊を紹介する前に8月15日付け徳島新聞掲載のコラム「勁草を知る」を転載させていただく。徳島県出身ということで、4月から2カ月に1回のペースで回ってくるリレー形式のコラム執筆を依頼され、これが3回目。やはり徳島県出身で西部本社で編集委員を務め、「水俣」に関する著書や報道で知られる米本浩二さんも執筆者に名を連ねている。

八月ジャーナリズム
「常夏記者」の心を思う    高尾 義彦

 今日は「終戦記念日」。厳密に歴史を振り返れば「敗戦記念日」。今年も、6日の広島原爆忌、9日の長崎被爆を中心に、メディアは戦争をテーマにさまざまな報道を重ねてきた。

 やや揶揄的なニュアンスも込めて「八月ジャーナリズム」と呼ばれる。かつてその報道に携わった一人として、肯定的にとらえて継続を願うとともに、課題を考えたい。

 松井一実広島市長は、ウイーンで6月に開かれた核兵器禁止条約第1回締約国会議に長崎市長とともに出席した。日本記者クラブで開かれた記者会見で、会長を務める平和首長会議が1982年の第2回国連軍縮特別総会の機会に、当時の荒木武市長の呼びかけで誕生し、いまでは166か国・地域の8188都市に広がっていると報告した。

 40年前のその年に、筆者はニューヨークで国連本部前から出発した100万人デモなど反核運動の高まりを取材した。国内では市民団体を中心に反核3000万人署名を集め、国連に届けた。春先から、平和を求める市民の運動に後押しされる形で、反核の紙面を展開した。

 日本の原水爆禁止運動は、かつての共産党系と社会党系の対立など市民の力が結集できない時代を経験している。その意味で82年は市民の意識が政治的路線を超えて署名運動に集約された年だった、と振り返りたい。

 敗戦から77年となる今年、ロシアによるウクライナ侵攻やミャンマーの国軍クーデター、台湾をめぐる米中対立と、平和を脅かす動きはさらに深刻化している。核兵器保有国と非保有国の「橋渡し役」を自任し核禁条約にも参加しない日本政府に歯がゆい思いを禁じ得ないが、ジャーナリズムの役割が、これまで以上に問われていると実感する。

 「東京大空襲」(岩波新書)の著者、早乙女勝元さんが5月に90歳で亡くなった。1945年3月10日の米軍による空襲では、10万人が犠牲になった。無差別爆撃による悲惨な状況は、早乙女さんの聞き取りなどによる調査活動がなければ明らかにならなかった。

 早乙女さんの姿を追うように戦争報道を続けているのが、後輩の栗原俊雄記者(55)だ。彼は空襲被害者の国家賠償請求、シベリア抑留、沖縄の戦没者遺骨収集などの報道を、季節に関係なく1年中、継続してきた。

 「紙面が常夏です」と同僚から冷やかし気味に言われたことを前向きに受け止めて、「常夏記者」を自称し、ニュースサイトの連載も「常夏通信」と名づけた。「八月ジャーナリズム」を否定はしないが、悲惨な戦争の実態を伝え、「戦争だけはしてはいけない」と締めくくる「文法」では、戦争を過去のものにしてしまう危険性があると指摘する。

 徳島大空襲でも約1千人の命が奪われたが、戦争の被害者はいまも国家から見離され、立法、司法、行政の三権からたらい回しされている。そう認識する「常夏記者」は、戦争体験者が少なくなった現状に危機感を抱きつつ、取材・報道を続ける。

 以上がコラムの内容だが、今回の新刊も栗原さんが心血を注いできた戦争報道の一つとして位置づけられる。第2次世界大戦の死者は日本だけで310万人。それだけでなく、戦争の被害に苦しむ人は今もたくさんいる。「戦争は未完」「広義の戦争は未完なのだ」との視点が、栗原さんの基本姿勢であり、今春の『東京大空襲の戦後史』(岩波新書)に続く刊行となった。

 1939年の開戦に至る経過を検証した「第一章 為政者は間違える」では、第二次大戦だけでなく、ロシアのウクライナ侵攻、これを受けて安倍晋三元首相が主張した「核シェアリング」などを追及する。「第3章 必然の敗戦」、「第4章 聖断=英断?」で、戦争遂行の責任を追及されるべき政治家や軍人の思想・行動を分析し、戦争を知らない世代にも歴史を伝えてゆく。

 最後に改めて「為政者は間違える」の章を立て(第5章)、戦前と違っていまは、有権者として選挙などを通じて国民は自らの意思を表明し政治を動かす権利と責任を持っていると説く。そして、その判断の前提として「新聞の戦争責任」を取り上げ、一方で戦争被害者の取材・報道を続けてきた体験から、被害者が「受任論」などによって切り捨てられてきた歴史に、持続的に異議を唱える。

 著者は、事実から目を離さず、「戦争の教訓」を読み取ってほしい、と願っている。

(高尾 義彦)

 『戦争の教訓』は実業之日本社2022年8月1日発売 価格 1,760円(税込)
ISBN 978-4-408-65023-4

2022年8月16日

元大阪本社専門編集委員、斎藤清明さんが『今西錦司と自然』刊行

 著者の斎藤さんは京大山岳部OBで大阪毎友会会員。高名な生態学者、登山家、探検家の今西錦司さんを中核とする京大探検グループに憧れ、今西さんの出身学科の農学部農林生物学科に入学した。年齢が離れすぎているので、学生時代に今西さんとは直接の師弟関係はない。ただ仰ぎ見る存在だったという。

 京都支局勤務の頃、同じ学科、同じ山岳部出身というコネを使って、なんだかんだと取材にかこつけて押しかけ、「弟子入り」した。今西さんを深く畏敬し、これまでに今西さんに関する著作だけで編著・共著も含めるとなんと5冊に上る。

 今西さんの人生をこの本をもとに簡単におさらいすると、京都・西陣の織元の家に生まれて京都府立一中の頃から北山に登り始めた。この時の仲間に後の南極越冬隊長、西堀栄三郎さんらがいる。三高に進むと山岳部を作って本格的な登山活動にのめりこむ。

京都・北山にある今西さんのレリーフ横に立つ斎藤さん

 進学した京大でも、山岳部がなく「旅行部」しかなかったので「旅行部山岳班」というグループをつくって、黒部川源流域の雪中合宿、西堀さんらと北アルプス剣岳の最難関ルート経由での初登頂に成功、アルピニストとして知られるようになった。西堀さんが京大時代にアメリカ民謡に作詞した部歌が、やがて広く知られることになった「雪山讃歌」である。

 その後の登山、探検は書けばきりがないが、毎日新聞社との関係で言えば、日本山岳会のマナスル初登頂(1956年)は戦後日本を勇気づけた快事の一つとして記憶に残る。元々、京大グループで今西さんらが計画していたものだが、日本山岳会全体の行事となり、毎日新聞社は全力を挙げて後援した。今西さんは登山ルートを調べるための事前の踏査隊隊長として、50歳にして6200メートルの地点に立った。

 山や探検と研究と、どっちが本職かわからないくらいだが、今西さんと言えば若いときの「すみ分け理論」が有名だ。家の近くの鴨川で水生昆虫のカゲロウを調べていて、同じカゲロウの仲間でも種類ごとに別々に生息していることを見つけた。今や「すみわけ」は一般名詞としてあちこちで使われている。

 今西さんの関心はさらにウマ、ニホンザル、チンパンジー、ゴリラの社会に向かい、アフリカで人類社会の起源を探った。フィールドを飛び回っている間、身分は26年間講師のまま。教授になったのは57歳だった。

 愛知県犬山市のモンキーセンター、京大霊長類研究所の設立にも関わり、その近くの岐阜大学学長に迎えられたのが1967年、65歳になっていた。1979年文化勲章受章。

 また山の話に戻ると、今西さんは晩年になっても登り続けた。1985年、奈良県川上村の白髭岳に登頂、これで登った山は1500山。83歳だった。この時の新聞記事は私も記憶している。筆者は斎藤さんだった。その後も85歳まで登り続け、さらに50山を加えた。

 1992年死去、90歳。棺は若い人や親族に担がれ、北山を望む鴨川べりを歩いた。

 ところで今西さんはずっと毎日新聞を愛読していたという。古い京都人は結構こういう人が多い。私が懇意にしてもらっていた元同志社総長の故Mさんもその一人で、「大毎さん」と呼ぶ優しい響きに一種の敬意が込められていた。今西さんの孫の拓人さんは毎日新聞に入社、京都支局長を務めた。

 この本は玉川大学出版部の発行。「日本の伝説 知のパイオニア」全12巻のうちの一冊で2750円。子供向けに今西さんが自分の口で自分を語る仕掛けになっており、斎藤さんはかなり苦労したらしい。どうしても斎藤さんの今西さんへの敬慕の念がにじみ出るから、「はじめに」で「じまん話が多くなるかもしれません」と断っているのはほほえましい。

 斎藤さん自身のことで補足しておくと、ヒマラヤ、チベット、南極、北極などでも取材したフィールドワーカーで、毎日新聞を退職後は国立の大学共同利用機関、総合地球環境学研究所(国立、京都市)で教授・研究推進センター長として6年間勤務した。今西さんの山行きには計数十回は荷物担ぎ、酒担ぎとして同行したそうだ。今西さんの「(最後の)直弟子」を自負し、孫弟子を自認する山極寿一・前京大学長からもそう呼ばれているそうだ。

 斎藤さんの登山も続いている。喜寿の今夏も南アルプスの上河内岳(2803メートル)に単独で登頂した。

(大阪毎友会会員・藤田 修二)

 『今西錦司と自然』は玉川大学出版部発行、定価2,500円(税別)

2022年8月15日

元印刷部長・山野井孝有氏長男・山野井泰史さんの登攀史

「CHRONICLEクロニクル 山野井泰史 全記録」 山と渓谷社より発刊

 山と渓谷社から、元印刷部長・山野井孝有さんの長男で登山家・山野井泰史さんの登山記録をまとめた「CHRONICLEクロニクル 山野井泰史 全記録」が出版された。泰史さんは、登山界のアカデミー賞と呼ばれるピオレ・ドール賞の中でも最も栄誉ある生涯功労賞を、アジアのクライマーで初めて受賞したクライマー。10代の頃から常人を越える登山を続けてきて陰では「天国に一番近い男」と言われていたが、実は人一倍慎重なのもまた事実である。今年57歳、これだけ厳しい登山を続けていながら存命なクライマーは世界的にも数は少ない。

 小学生の時にヨーロッパ・アルプスの尖峰を登るクライマーの映画を見て山に魅せられ、それ以来クライミングにとり付かれる。20代半ばに初めてカラコルムの高峰(ブロードピーク:8047m)登山へ参加し登頂するが、自分は組織登山には向かないことを痛感、それ以降は一連のヒマラヤやカラコルムの山々へは個人的に向かう。余談ながら、この登山で現在の夫人である妙子さんと出会う。

 メジャーな峰やルートには人が集まるが、周囲の反応に惑わされることなく、これからも自分なりのペースで自分なりに登り続けるという泰史さんは、単なるピークハントや自分なりに価値を見出せないルートには食指が動かないという。巷では人気の8000メートル峰14座登頂などには興味も抱かない。だから、<山好き>を自称する人たちがこの書に記された山名を知らなくともそれは不思議でも何でもない。

 この記録集を見ながら、私個人としてはどうしてもご両親の日々の心境に思いを馳せる。平静を装いながら心の中ではいつも心配だらけだったろうが、それでも引き止めない……。そんなご両親の見えない協力があったからこそ成し遂げられた偉業だと思えてしまう。

 <この親にしてこの子あり>という言葉を思い出してしまう。

 登山に詳しくない読者でも数多いスナップ写真で登山の雰囲気が感じられ、厳しい登山記録なのに息苦しさを感じさせない一冊である。

 本書の内容は――

Ⅰ章  若き日の山/10代後半のアメリカ武者修行にはじまり、トール西壁ソロ、フィッツロイ冬季ソロの手記、それに当時のインタビューなどを収録

Ⅱ章  ヒマラヤの日々/1991年から2002年のギャチュンカンまでの約10年、20回にわたるヒマラヤ遠征の数々を臨場感あふれるスナップ写真で紹介

Ⅲ章  再起の山/凍傷で指を失いつつもクライマーとして復活を果たした現在までの主要な登攀記録や手記を掲載

Ⅳ章  対談・インタビュー/20代、30代と折々に行なわれたインタビューや対談を再収録

Ⅴ章  登攀年譜/45年にわたる山行記録の一覧

 著書に、「垂直の記憶」「アルピニズムと死」(ともに山と溪谷社刊)。評伝に、「ソロ」(丸山直樹著/山と溪谷社)、「凍」(沢木耕太郎著/新潮社)。他に山岳雑誌等に多々取り上げられている。

 また、ピオレ・ドール生涯功労賞の他に朝日スポーツ大賞や夫妻で受賞した植村直己冒険賞、ピオレ・ドール・アジア賞など、多くの賞を受賞してもいる。

【余談①】TBSドキュメンタリー映画祭作品として作られ、春に限定公開された「人生クライマー」の完全版が、2022年11月25日から全国公開されるという。
 http://jinsei-climber.jp/

【余談②】現在、小学館発行「ビックコミック」誌に、「アルパインクライマーー単独登山者・山野井泰史」(原作・よこみぞ邦彦、作画・山地たくろう)が連載中。8.25号で第14話まで。第1話~第6話は単行本1として発行されている。

 「CHRONICLEクロニクル山野井泰史 全記録」山野井泰史著は山と渓谷社から2022年8月1日発行 定価2200円(税込)
 https://www.yamakei.co.jp/products/2821340390.html

*本稿は、山野井泰史・妙子夫妻を支援している登山家で、友人の寺沢玲子さんに書いていただいた原稿に一部補足したものです。

(福島 清)

2022年8月9日

人間存在を問う闘い――米本浩二さんが新刊『水俣病闘争史』

毎日新聞西部本社版8月6日付け<土曜カルチャー>転載



米本浩二さん(野田武撮影)

 水俣病の歴史と患者らの闘いを概観する『水俣病闘争史』(河出書房新社)が8月中旬、刊行される。著者は『評伝 石牟礼道子 渚(なぎさ)に立つひと』、『魂の邂逅(かいこう) 石牟礼道子と渡辺京二』(いずれも新潮社)などの著作のある作家の米本浩二。本書を『評伝~』『魂の~』に続く「3部作」と言う米本に話を聞いた。

 いわゆる「水俣病闘争」は、1968年から73年まで繰り広げられた患者救済運動を指す(73年で水俣病が終わったわけではなく「闘争の本質が変わってしまった」と米本は指摘する)。本書は、前後の歴史にも触れつつ、この<前近代による近代への異議申し立て>(渡辺京二)である水俣病闘争の本質を未発表資料なども駆使し、描き出す。

 米本は61年、徳島県生まれ。87年から2020年まで毎日新聞社に勤務し、学芸記者として、晩年の石牟礼道子を取材。新聞連載に加筆修正した『評伝 石牟礼道子』で18年、読売文学賞受賞。その後も、石牟礼や、石牟礼の伴走者であった日本思想史家の渡辺京二らを取材し、『不知火(しらぬい)のほとりで―石牟礼道子終焉(しゅうえん)記』や『魂の邂逅』を出版。退社後は福岡市内で著述業を営む。現在は毎日新聞西部版文化面で、石牟礼の生涯を飼い猫クロの視点からつづる「みっちん大変 石牟礼道子物語」、「極私的 傑作文章列伝」を連載している。

 本書は6章構成。1章「寒村から」では、水俣に日本窒素肥料(後のチッソ)がやってくる1900年代初頭から書き起こし、2章「闘争前夜」では、56年に水俣病発生が公式に確認されて以降、68年に患者支援組織「水俣病対策市民会議」(後に水俣病市民会議)が発足し、国が公害病認定をするまでを記述する。この間、国もチッソも責任を認めず、患者とその家族は長らく<病苦と貧窮と社会的差別の三重苦>に置かれ続けていた。現代にも通じる「棄民」政策だ。第3章「闘争の季節(とき)がきた」、4章「困難、また困難」、5章「大詰めの攻防」で、患者らの闘争を活写する。6章「個々の闘い果てしなく」では、73年以降の闘いについて紹介している。一般の人が気軽に手に取れ、闘争を見渡せる簡便な一冊を、との思いが込められている。

 水俣病闘争は、地獄の底に放置された患者たちの人間奪還の闘いでもあった。

 そんな患者たちに寄り添い、「助太刀」したのが68年に発足した市民会議と、石牟礼の呼びかけに渡辺が呼応して69年に誕生した「水俣病を告発する会」(告発する会)だ。告発する会は、患者の意思を最優先事項とし、旧厚生省占拠やチッソ株主総会乗り込み、チッソ本社前での座り込み、社長らとの直接交渉など、患者たちと行動を共にし、支えた。

 また、機関誌『告発』を発行し、患者らの声を広く全国の支援者に届けた。有名な「怨」を染め抜いたのぼりや「死民」のゼッケンなどは石牟礼のアイデアだ。運動に石牟礼と渡辺の存在は欠かせなかったが、裏方として支え続けた渡辺の存在は、現在では研究者の間でも忘れられつつあるという。米本は「渡辺さんが闘争の中で果たした役割をきちんと記録しておきたい思いもあった」と明かす。

 本書は、事実を追った記録である一方、関係者の内面に迫り、小説を読むような面白さがある。

 「水俣病を描くとき、人間ドラマ(文学的)と社会科学的なアプローチがあるが、二つの手法を融合したのが本書」と米本。その強力な武器の一つは、渡辺から託されていた未発表の石牟礼及び渡辺の日記と手紙だ。闘争の渦中にあった2人のやりとりや記録を基に、闘いの日々と運動を支えた根幹の思想を描き出すことに成功した。石牟礼の『苦海浄土』創作についても新たな発見があったと言う。米本が本書を「3部作」と呼ぶゆえんだ。

 米本は、この数年、東京工業大や津田塾大で非常勤講師として、石牟礼と渡辺の視点から水俣病闘争を講義してきた。水俣病の苦難の歴史を語る時、<どんなに冷めた学生でも食いついてくるのだ。過去の出来事を吸収するというより、自身が難問に直面しているかのような熱心さである>と言う。これは一体なぜなのか。米本は「(学生たちは)人間存在の在り方とでも言うべき問題に関心を寄せていた」と語る。

 渡辺は闘争を振り返り、<政治的な課題では決してなかった。言うならば、人間の一番基本的な「どう生きていくか」というね、(中略)そういう気持ちの問題>と述懐している。米本はこれらを踏まえ「水俣病闘争は本質的には平和運動だ」と言う。単なる公害裁判闘争にとどまらず、人間存在を問う闘いだった。そこには、私たちが生きる上での根源的な問いと、それに正面から向き合った人々の軌跡がある。それは、困難な時代を生き抜く道しるべにもなるはずだ。

【上村 里花】

 『水俣病闘争史』は2022年8月12日刊行予定。ISBN:978-4-309-22862-4
予価2,750円(本体2,500円)

2022年7月29日

在日米軍特権を洗い出したキャンペーン報道が新刊『特権を問う ドキュメント・日米地位協定』に

 「日米地位協定」の問題を取り上げた毎日新聞のキャンペーン報道「特権を問う」が一冊の本にまとめられ、7月23日に出版されました。

 地位協定は、日本の法律の適用除外など在日米軍にさまざまな特権を認めるもので、低空飛行や環境汚染など米軍が繰り返し起こす問題の元凶と言われながら、一度も改定されていません。キャンペーンは協定締結60年の節目の2020年にスタートし、20人を超える記者が徹底した現場取材で問題を一つ一つ洗い出していきました。

 米兵に最愛の人を殺害された男性がぶつかった米軍特権の壁、在日米軍基地で働く日本人が受けた理不尽な取り扱い、沖縄の米軍基地周辺で広がるコロナ感染の実態――。その中でわたしが担当したのが、米軍ヘリが都心で日本のヘリならば違法となる低空飛行を繰り返している問題です。

 米軍ヘリは、日本の法定高度(300メートル以上)を下回る200メートル前後で山手線内を飛び回ったり、新宿や浜松町のビル群をすり抜けたりします。東京スカイツリーを2機編隊で何度も周回したこともあります。その様子を半年間かけて撮影して報じました。動画コンテンツの再生回数は100万回を超え、国会審議や日米の閣僚協議でも取り上げられました。

 よく聞かれるのは、どうやって撮影したのかということです。正直言って楽ではありませんでした。

 米軍ヘリは東京郊外の「横田基地」や神奈川の「キャンプ座間」などから都心に飛来します。六本木に米軍のヘリポートがあるためです。やってくるのは、米陸軍の「ブラックホーク」、米海軍の「シーホーク」、米空軍の「UH―1」。これらを撮影するのですが、いつ来るか分からず、ヘリポートに立ち寄らないことも多い。見逃さないためには、都心の高層ビルのフロアから空を凝視していなくてはなりません。軍用ヘリは黒やグレーで目立たないこともあり、気を抜けないのです。

 その見張りがわたしの役目でした。そして、この取材を一緒に始めた映像グループの加藤隆寛記者が獲物を仕留めるハンターの役でした。ヘリのルート下にある別のビルや地上で待ちかまえ、わたしの連絡を参考にしつつ、至近距離から狙うのです。ヘリの動きは変則的で予測しづらい。スピードもあるため、近くに来ても一瞬で通りすぎる。まさに一発勝負でした。

 低空であることを証明するには、ヘリの機体が高層ビルと重なるシーンを押さえねばなりません。しかも、証拠映像が1本や2本程度では、米軍が低空飛行を認めないのは過去の対応からも明らかでした。ウェブ時代の今、中途半端な証拠で報道すると、あげ足をとられかねません。誰もが納得できる報道にするには、証拠動画を何本も撮りためることが必須でした。

 撮影は失敗の連続。空振りの日も多い。当然ながら時間がかかる。一方で社内ではどの部署も人繰りが厳しい。取材を後押ししてきた木戸哲社会部長(当時)も渋い表情を浮かべるようになります。空を一日中眺めても成果があがらず時間だけが過ぎていくと、胃が痛くなりました。それでも、わたしたちは20回以上の低空飛行の証拠を押さえるまで撮影を続けました。それができたのは、二つの確信があったからです。

 地位協定といえば、米軍基地が集中する沖縄の問題と思われがちです。日本の首都を蹂躙するかのような異常な飛行を報じることができれば、日本全体の問題と認識してもらえるはずだ。一向に進まない協定改定の議論に一石を投じられるかもしれない。少なくとも、中国の台頭で真価が問われている日米同盟のあり方を考える材料は提供できるだろうと思ったのです。これが一つ目の確信です。

 もう一つは、新聞社にとって新しいスタイルの調査報道になるという確信です。ウェブ上に無料のニュース記事があふれる今、これまでと同じ発想で記事を書いても新しい読者は獲得できません。ウェブユーザーが好んで視聴するのは動画です。撮りためた米軍ヘリの低空飛行の証拠は「特ダネ映像」でもあり、インパクトがある。これを新聞記事とうまく組み合わせて報道できれば、活字メディアの枠を越えた新機軸を打ち出せる。そう踏んだのです。

 取材終盤には、毎日新聞の取材ヘリを飛ばして、上空から米軍ヘリの低空飛行をカメラで狙う大がかりな試みもしました。勝負どころでは、取材班の記者だけでなく、社会部の銭場裕司デスク(当時)や映像グループの佐藤賢二郎デスク(同)らも撮影に駆けつけました。木戸部長もヘリを見かけると、慌ててスマホを取り出して機影を追うようになっていました。気がつけば、総力戦になっていたのです。

 取材班はこのほかにも、日本国内で罪を犯した米兵の拘束に絡む日米の「密約」や、羽田新ルートと米軍の横田空域を巡る日米交渉の内実をスクープしました。出版された本は全編書き下ろしで、担当記者が取材の内幕をできるだけ明らかにしています。その手法はオーソドックスなものから新機軸を狙ったものまで様々ですが、記者たちの悪戦苦闘ぶりからは、ウェブ時代の荒波の中でもがく活字メディアの今も見えるかもしれません。

(社会部 大場 弘行)

 『特権を問う ドキュメント・日米地位協定』(毎日新聞取材班)は毎日新聞出版刊行。
定価:1870円(税込)
https://mainichibooks.com/books/social/post-575.html

 大場弘行さんは東京社会部記者。2001年入社。社会部で東京地検特捜部担当として小沢一郎氏の秘書が逮捕された陸山会事件を取材。その後、サンデー毎日編集部で東日本大震災と原発問題の取材に奔走し、横浜支局では川崎市の中学1年の男子生徒が多摩川河川敷で殺害された事件を追いかけた。東京社会部と特別報道部で手がけた「公文書クライシス」では取材班代表として早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した。
https://mainichi.jp/ch210273167i/%E5%A4%A7%E5%A0%B4%E5%BC%98%E8%A1%8C
https://www.mainichi.co.jp/saiyou/staff/Oba.html

2022年7月26日

元外信部編集委員、永井浩さんが『ミャンマー「春の革命」:問われる[平和国家]日本』刊行

 ミャンマー(ビルマ)には、厳密にいうと日本のような四季はなく、春と呼べる季節はないそうだ。しかし京都大学で客員研究員として過ごした経験があるアウンサンスーチーさんは、植物が芽生え萌え出る季節のイメージは日本と同じだという。2021年2月に国軍によるクーデターが起き、民主主義の回復を求めて抗議の行動に立ち上がった人々は、非暴力による不服従運動を「春の革命」と表現し、革命を目指す闘いはいまも続く。

 永井浩さんは毎日新聞にスーチーさんの『ビルマからの手紙』を連載した1996年以来、スーチーさんの活動を取材してきた。新聞記者としての現役を退いた後も、インターネット上のニュースサイト「日刊べリタ」を立ち上げ、日本の新聞やテレビでは目にすることの出来ない情報を発信している。

 この著書でまず取り上げられているのは、国軍のクーデターに対する日本の対応への異議申し立てである。日本は最大のODA(政府開発援助)をミャンマーに投じてきたが、クーデター後も新規のODAは見送ったものの、既存分はそのままの状態が続く。日本政府は国軍とスーチーさんの双方に「独自パイプ」があるといい、このルートを通じて対応すると表明してきたが、その裏に見えてくるのは国軍に肩入れする日本の姿だった。

 国軍が昨年末までに1300人もの市民を虐殺してきた経過の中で明らかになってきた「独自のパイプ」の一つは「日本ミャンマー協会」(会長・渡邉秀央元郵政相)の存在である。協会は日本企業のミャンマー進出の窓口となり、主に国軍系企業との関係を密接に維持してきた。渡邉会長はクーデターの首謀者であるミンアウンフライ国軍総司令官と親しく、クーデター以前の2014年から日本財団(笹川陽平会長)とも協力して自衛隊と国軍将官級交流プログラムなどを進めてきた。

 こうした関係から、日本政府が強調する「独自パイプ」は、不服従運動に立ち上がった市民より、国軍寄りの動きが際立つことになった、と指摘されている。ミャンマー進出の日本企業約400社の経済的利益を優先し、米国ですら国軍政府に制裁措置をとっている中で、日本政府は動こうとはしていない。

 「日本は、国軍による国家テロへの加担者」「私たちの平和と経済繁栄の一部に、ミャンマーの人々が流した血の匂いが潜んでいる」と永井さんは書いている。在日のミャンマー人たちが「日本のおカネで人殺しをさせないで!」と抗議の声を上げている現実。ロシアに侵攻されたウクライナだけでなく、もっとミャンマーに目を向けるべきだ、と思わざるを得ない。平和と民主主義の闘いへの支援を求めるさまざまなメッセージを発信している隣人の声にどう向き合ったらいいか、と永井さんは問いかける。

 自宅軟禁から刑務所内の施設に移され、自由を奪われているというスーチーさん。通算15年の自宅軟禁の時期も含め、一貫して民主化運動の先頭に立ってきた彼女を支える思想は何なのか。ここでは「エンゲージ・ブッディズム(社会参画する仏教)」という言葉で、行動する彼女の思想、価値観が説き明かされている。仏教の「慈悲と誠実」。外交官だった母親とともにインドで暮らした体験から学んだガンディーの「非暴力不服従」の思想をはじめ、さまざまな仏教の実践者や研究者の事績も紹介されている。

 スーチーさんは1945年6月19日生まれの喜寿。誕生日が同じである縁もあって、彼女の動静をいつも気にしてきた。彼女たちの闘いが勝利の日を迎える日を願ってやまない。

(高尾 義彦)

 『ミャンマー「春の革命」: 問われる[平和国家]日本』は、社会評論社から2022年7月29日刊。1,800円+税。

 「日刊ベリタ」のURLは http://nikkanberita.com/

2022年7月19日

元論説委員長、倉重篤郎さんが『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』を上梓

 このほど、『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』(光文社)を上梓しました。

 この国の財政規律というものの異様な劣化に、深い危機感を抱いたためです。国家予算は、60兆円の歳入(税収)しかないのに、100兆円を超える歳出を許し、残り40兆円を借金(国債発行)に頼るような予算を毎年平然と組んでいる。政府の財政赤字は、積もり積もってGDP比2・3倍と、欧米各国の中でも異様に突出しているのに、おかしい、という人が年々少なくなっています。MMT(現代貨幣理論)などとという、自国通貨である限りいくらでも借金はできる、という夢のまた夢のような議論まではびこっています。

 そんな時代のアンチテーゼとして、齋藤次郎という元大蔵(現財務)官僚の生き様をクローズアップさせてみたいと思いました。財政再建、財政健全化の鬼のような存在だったからです。消費増税に二度挑戦しています。一度は1994年の細川護熙政権で、小沢一郎と手を組み、国民福祉税を導入しようとし、失敗しています。

 二度目は、大蔵省退官後、福田康夫政権の時でした。これまた小沢一郎(当時は民主党代表)との連携で、自公与党政権と野党第一党の民主党政権が一緒になるという大連立構想を進めます。齋藤の狙いは、2005年に大連立を組んだドイツ・メルケル政権が、付加価値税引き上げ(日本で言えば消費増税)に成功したことにありました。日本でも安定政権が誕生すれば、国民の嫌がる増税も政治的に成し遂げることが可能と読んだのです。ところが、この二度目も失敗に終わりました。自民党側はその気になったのですが、足元の民主党側の了解が得られなかったためです。

 それにしても、齋藤はなぜかくまでして増税による財政規律の強化を求めたのか。そこには、齋藤の生まれ育った時代背景があるように思えました。

 齋藤は旧満州(中国・東北地区)で生まれ、敗戦と共に訪れた国家破綻の悲劇を外地で身をもって経験しています。普段はおくびにも出しませんが、敗戦後留め置かれた大陸ではソ連軍の暴虐に怯え、12歳で初めて祖国・日本の地を踏んだ後もひもじい日々を送り、中学校時代は「チャイナ」の仇名でいじめられた経験を持ちます。

 齋藤にとって、戦争とその結果としての国家破綻は、財政のあり方と深く結びついているようでした。1つは、軍部の強圧に財政当局が抗し切れず、青天井の軍事国債発行を許し、それが身の丈を超えて戦線を拡大、国家破綻一歩手前の状況にまで行ってしまったことです。もう1つは、軍事国債乱発の後始末としての、財産税の特別課税、預金封鎖・新円切り換え、という戦後の民衆を苦しめた混乱です。

 国家財政のガバナンスの失敗が戦争を暴走させ、そのツケをまた財政的措置で国民に転嫁する。財政の健全性を維持すること、つまり、財政民主主義による規律を徹底させることが、戦争抑止のためにも資源適正配分のためにも重要だという思想の持ち主なのです。こういった人の生き様を描くことは、今の世にもそれなりの意味があると思いました。

 齋藤とは、私が政治部から経済部に2年間移籍した際、財研クラブで、官房長だった齋藤の担当を命じられ、政治部方式で朝回りするうちに少しずつ親しくなった仲です。齋藤には、毎日新聞経済部にも私以外に親しい記者が何人かいました。その一人がロンドン特派員も務めた先輩の村田昭夫記者でした。いずれ、二人で齋藤の伝記を書こうと話していたのですが、彼は2013年食道がんで亡くなってしまいました。その後何とか齋藤から取材許可を得て、今回の出版になりました。この著を村田先輩にささげたいと思います。

(倉重 篤郎)

『秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史』は光文社刊、 1500円+税

※倉重 篤郎さんは1953年、東京都生まれ。78年東京大教育学部卒、毎日新聞入社、水戸、青森支局、整理、政治、経済部を経て、2004年政治部長、11年論説委員長、13年専門編集委員。

2022年7月13日

統合デジタル取材センターの國枝すみれさんが新刊「アメリカ 分断の淵をゆく 悩める大国、めげないアメリカ人」

 1989年から2020年まで、ロサンゼルスとニューヨークでの特派員生活と2度の留学の間に、アメリカ50州を訪れました。その中で会った忘れられないアメリカ人の物語を10項目、選んで書きました。

 温暖化で沈む島に住む先住民の老夫婦、尊厳死する決意をした元記者、会ってみると憎めないところもあるKKKやネオナチのメンバー、プロパガンダと闘う記者と飲まれた記者、核開発の裏で犠牲となった軍人、精神病院に閉じ込められた小児性愛者……。

 登場するアメリカ人の多くは、スラムや国境、最果ての島など「辺境」に住んでいます。金と権力に縁がなく、悲しみや苦しみが凝縮している場所―。取材をしながら、こんなアメリカがあるのか、そんなアメリカ人もいるのか、と驚きました。固定観念がばらばらと崩れていきました。そして、私にとっては、困難の中でもがき、不条理や恐怖と闘っているアメリカ人が、ハリウッド俳優よりも輝いて見えたのです。

 アメリカ人は私と似ています。無知で無防備で好奇心だけはあり、親や先生の注意をろくに聞かず、転んで痛い思いをして学ぶタイプ。だから、アメリカ人の言葉はすとんと腹に落ちました。この本はアメリカ人から学んだ自分の成長記録でもあります。

 新聞社に入る前から社会問題の解決に興味がありました。アメリカで起きたことは数年後に日本でも起きる。実験国家アメリカには成功例と失敗例がたくさんあり、先行事例を取材しているという充実感がありました。

 そのうち、何を取材していても必ず突き当たる固い地層のようなものがあると気づきました。それは、人種差別であったり、武器や力への信奉であったりする。アメリカは寛容な顔がある反面、ひどく冷酷で凶暴な顔も持っています。両方の顔にできるだけ迫ったつもりです。

 この本で取り上げた問題のほとんどは解決するどころか悪化しています。アメリカ人は多文化主義を推進しようとするリベラル派と、キリスト教に基づく伝統的な社会を維持しようとする保守派に分かれ、憎しみあっています。今年は妊娠中絶する権利をめぐり、血が流れるかもしれません。アメリカはこれからどうなるのか? 日本がアメリカから学ぶことができる教訓は何なのか? そう思ったら、この本を手にとってください。

 最後に、告白するまでもなく、私は不良特派員でした。記事になるかを素早く判断して、1時間でも早く出稿しなければならないのに、好奇心に身を委ね、記事にならないと分かっていて取材を続行しました。ニュースより人間、心を揺らす物語を追いかけるのが面白かったからです。

 当時のデスクや北米総局長は、歩留まりを考えろ、とか、危険だから行ってはいけないとか、一度も言わなかった。野放しでした。それがいかに幸運なことだったか、いましみじみと感じています。

(國枝すみれ)

「アメリカ 分断の淵をゆく 悩める大国、めげないアメリカ人」(毎日新聞出版)は
7月23日発売。1800円+税
國枝すみれさんは1991年入社。毎日デイリーニューズ編集部、西部本社福岡総局で警察担当記者、ロサンゼルス支局、メキシコ支局、ニューヨーク特派員を経て、2019年10月から統合デジタル取材センター。05年、長崎への原爆投下後に現地入りした米国人記者が書いたルポを60年ぶりに発見して報道し、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。

2022年6月30日

元情報調査部副部長、前坂俊之さんが『人生、晩節に輝く(長寿逆転突破力)』を刊行

 日本の全人口の平均年齢は約50歳、「世界一の長寿高齢者社会」です。

 今、人生九十、百年時代を目前にして、日本人の過半数を占める五十歳以上の人たちの最大の課題といえば、人生折り返し地点からの後半生のライフスタイルをどうするか、

 つまり、定年退職後の六十、七十、八十歳のライフステージや生活設計、自らの生き方、死に方の描き方ではないでしょうか。

 七十八歳となり果てた私も、八十歳からの生き方に大いに悩んでいる。

 凛々しく、清々しく、世のため、人のために尽くし、年齢を重ねるごとに、輝きを増すような生き方とは一体どのようなものかと思い、「晩年の達人」たちの足跡をたどる旅を長年、続けてきた。そこで出会った、晩節を全うした人たちの奇跡の逆転物語を紹介したいと思います。

 定年なし、年齢差別なしの米国では、日本の高齢者の定義である、六十五~七十四歳をベビー・オールド(赤ちゃん老人)、七十五~八十四歳までをリトル・オールド(小さい老人)、八十四~九十四歳をヤング・オールド(若い年寄り)、九十五歳以上をリアル・オールド(真の高齢者)と呼んでいる。

 思い立ったら百年目-50、60、70、80歳、何歳になっても出発はできる。マインドセットして、老害ではなく「老益シニア」として、後半生の長距離マラソンレースに参加してみませんか!

・御木本幸吉(96)―エジソンも絶賛した日本の元祖ベンチャー起業家
・渋沢栄一(91)―社会事業を無上の楽しみにした「日本資本主義の父」
・出光佐三(95)―順境で悲観し、逆境で楽観した石油王
・鈴木貫太郎(78)―「玄黙戦略」で昭和天皇の「聖断」を演出した
・山本玄峰(95)―終戦を陰で実現させた昭和の傑僧
・吉田茂(89)―「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」とマッカーサーと渡り合った
・憲政の神様・尾崎行雄(96)―マイナスをプラスにする発想転換法で逆転人生
・岩谷産業創業者・岩谷直治(102)―ヒトマネせず、マネされる仕事をした「プロパンの父」
・葛飾北斎(88)―創造の神を目指し森羅万象を描き出す
・南光坊天海(107)―謎に包まれた徳川三代の守護神
・鈴木大拙(95)―「ZEN」の普及で東西文明の懸け橋となった仙人
・松永安左工門(96)―七十五歳で復活、経済大国の礎を築いた電力の鬼
・「家電王」・松下幸之助(94)―病気と仲よくつき合い、感謝と努力で経営の神様に
・日清食品創業者・安藤百福(96)―人類を飢餓から救ったミスター・ヌードル
・カゴメ創業者・蟹江一太郎(96)―八十代でも陣頭指揮をとった「トマトの父」
・彫刻家・平櫛田中(107)―六十、七十歳、洟垂れ小僧、人間盛りは百から、百からー」

 以上の16人です。

 人生100年時代を元気に生きぬく「長寿逆転突破力」のサプリメントの1冊となれば望外の喜びです。

(前坂 俊之)

 前坂俊之著『人生、晩節に輝く(長寿逆転突破力)』 日経新聞社出版 2022年6月刊 1700円+税

 前坂 俊之(まえさか・としゆき)さんは1969年、毎日新聞入社、阪神支局、京都支局、東京情報調査部副部長を経て、静岡県立大学国際関係学部教授、同名誉教授。フリージャーナリスト、Youtuberとして活動中。

2022年6月17日

カイロ特派員(元モスクワ特派員)、真野森作さんの『ポスト・プーチン論序説 「チェチェン化」するロシア』

 ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。世界は衝撃を受けているが、プーチン政権はそもそも22年前に戦争の中から誕生した。ほぼ無名だったプーチン氏はエリツィン大統領の下で首相として第2次チェチェン紛争を始め、これを「テロとの戦い」と位置づけた。国民の支持を盛り上げ、2000年の大統領初当選につなげたのである。

 プーチン氏は、モスクワなどでの共同住宅連続爆破テロをチェチェンのイスラム原理主義勢力の犯行と断定し、開戦の口実とした。だが、一連のテロはロシアの諜報・治安機関「連邦保安庁」(FSB)による偽装工作との疑いもある。いわゆる「偽旗作戦」との見方だ。FSBは、プーチン氏がかつて所属したソ連の「国家保安委員会」(KGB)の後継組織である。

 チェチェンはロシアからの独立を求め、2度の紛争を経験した。第2次紛争での無差別攻撃を経て、プーチン氏は子飼いというべき地元の親露派指導者カディロフ親子をチェチェンのトップに相次いで据えた(父アフマト氏は04年に爆弾テロで死亡。息子ラムザン氏は07年からトップの首長の地位にある)。プーチン氏が支えるカディロフ親子によって、チェチェンは親ロシア、親プーチンの強権独裁的な地域に作りかえられた。独立を希求した人々は欧州諸国へ逃れ、今も故郷へは戻れないままだ。

 力によるチェチェン改造はいま、ロシア軍が占領したウクライナ東部や南部で再現されている。武力を背景として現地を親露派地域に作りかえる動きだ。過去にチェチェンやウクライナ南部クリミア半島(14年にロシアが占領)で起きたことが繰り返されている。ウクライナ人の多くがロシアへの徹底抗戦を支持する背景には、ロシアに国と社会を破壊されることへの強い危機感がある。

 筆者はモスクワ特派員だった15年夏にチェチェンを現地取材した。本書では、親露派地域となったチェチェンのゆがんだ現状や、それがロシア全体に与える影響を描いた。さらに長期化したプーチン政権の今後にも考察を進めた。本書は、今回のロシア・ウクライナ戦争勃発の約半年前に出版されたものだが、ロシアの行動パターンやウクライナで起きている事態を深く理解する一助になると自負している。

 なお、今回の戦争の伏線となった14年以降のウクライナ危機については、拙著『ルポ プーチンの戦争――「皇帝」はなぜウクライナを狙ったのか』(筑摩選書、18年刊)も参照頂ければ幸いだ。

(真野 森作)

 『ポスト・プーチン論序説 「チェチェン化」するロシア』は東洋書店新社、2021年9月刊)ISBN978-4-7734-2043-2 定価2,300円+税

 真野森作(まの・しんさく)さんは2001年、毎日新聞入社。北海道支社報道部、東京社会部、外信部、ロシア留学を経て、13年秋~17年春にモスクワ特派員。大阪経済部、外信部を経て、20年春からカイロ特派員。ロシアの侵攻前後、ウクライナからの生々しい報道にも携わっている。

2022年5月31日

69年入社、元サンデー毎日編集長、近藤勝重さんの新刊『聞き出す力』

 毎日新聞のHPをググっていたら、元大阪社会部・サンデー毎日編集長の近藤勝重さんの新著『聞き出す力』(幻冬舎刊、1386円)は、大阪本社発行の夕刊(4月9日付)で紹介された。東京本社版には転載されたか、分からない。

 再録したい。《新聞記者、雑誌編集者として鳴らしてきた近藤勝重さんの『聞き出す力』(幻冬舎)が出版された。ハウツー本ではなく、著者の半世紀以上にわたる取材経験やインタビュー時のエピソードがちりばめられている。世代を超え、会話の接ぎ穂になるかもしれない。

 目次の「寡黙な健さんを饒舌(じょうぜつ)にさせた日」。著者は2012年7月に俳優、高倉健さんへのインタビューを試みた。型通りのあいさつ、ぎくしゃくとした雰囲気。それを破ったのが著者の乾坤一擲(けんこんいってき)ともいえる健さんの「物まね」だった。主演映画のタイトル、殺し文句の数々を著者が口にするうち打ち解けた雰囲気に。体当たりで聞き出せたのも長年の健さんファンだったことが伝わったからだ。

 純文学、エンターテインメントを問わず作家名が頻出する。小林秀雄、古井由吉、桜木紫乃さん、高村薫さん。そんな中で、井上靖、司馬遼太郎、吉村昭らの作品や対談を引き、事実の積み重ねによって真実に向かう道のりを見つけようともがいた先人に敬意を表しながら、そのために「聞き出す力」は大切だと導く。

 著者は、1969年に毎日新聞入社。京都支局を皮切りに大阪本社社会部遊軍記者や「サンデー毎日」編集長などを歴任。現在は洒脱(しゃだつ)なコラムの書き手で本紙「近藤流健康川柳」選者でもある。

 本書には映画以外の芸能界も多数出てくる。歌の世界でライバル視された作詞家、阿久悠となかにし礼の「言葉遣いの違い」、2人と美空ひばりの微妙な「三角関係」への言及。吉本興業の盛衰史やストリップ小屋の舞台裏を掲載したときの裏話も。

 「三菱銀行事件」「グリコ・森永事件」など特筆される事件を取材した際の「聞き出す力」にも触れられている。【有本忠浩】》

2022年5月23日

元社会部、「サンデー毎日」編集部の山本茂さんが歌集『郷愁Die Nostalgie』

 1964年入社山本茂さん(85歳)が俳句集に続いて短歌集『郷愁Die Nostalgie』を出版した。これまでに発行した2つの歌集に新作を加え改訂した。

 まず「雨煙別川」(うえんべつがわ)。1997(平成9)年12月に出した。郷里の北海道夕張郡栗山町(旧角田村)に流れる。少年期の追想である。

  明治半ば/入植したる越中衆/凍土を掘れば/古き手拭
  夕張郡栗山町の裏長屋/薄き蒲団にすきま風吹く
  班長の「歩調トレ、右向ケ右、敬礼!」/國民學校一年生
  国敗れ/青い山脈/トニー谷/ララ物資ミルク/苦い馬鈴薯
  〇頁〇行〇字を墨で消せ/命ずる教師の表情見えず

 高校進学が許されず、働きながら夜学に通う。

  下校する昼間生と出会ふとき/頬伏せる癖/我つみびとか
  心ひるむ何事あらむ/胸を張れ/おもてを上げよ/山本茂!

 もうひとつ「花の宴」は北大に入学して恵迪寮に入り、60年安保闘争、演劇活動まで。

  玄関の名札裏返り/赤きまま/唐牛健太郎/永久不在
  たそがれて角帽と血を売りに行く/獣の飢えを/飢えたるMay day
  ラヂオから女子大生死亡のニュース/六〇年六月十五日の夕

 令和4(2022)年5月初版。楡影舎(☏049・298・7513)発行。頒価1200円(税込み)

 著者略歴。昭和12年、北海道夕張郡角田村に出生。北大(農)卒、新聞記者、ノンフィクション作家、雑誌編集長、九州女子大教授(国文学科)。

 主著『物語の女』(講談社)、『神童』(文藝春秋)、『歴史毒本』(光文社)、『カーン博士の肖像』『アンラッキー・ブルース』(ベースボール・マガジン社)、『遥かなる村上藩』(恒文社)、『日本を生きる』(現代思想社)など。

 1990年『衝撃—東独スポーツ王国の秘密』(テレビ朝日出版部)で第1回ミズノ・スポーツライター賞受賞。他に戯曲、翻訳、小説、歌集、句集など多数。埼玉県所沢市に在住。

(堤  哲)

2022年5月13日

辻一郎さんの新刊『放送人 高橋信三とその時代』を、元大阪本社代表室藤田修二さんが読み解く

 高橋信三さん(1901-1980)は28年に大阪毎日新聞に入社、経済部長から編集総務(編集局長の次のポスト)時代に放送局の設立を命じられ、50年に日本初の民間放送局「新日本放送」(毎日放送=MBSの前身)を発足させ、61年毎日放送社長、77年に会長。会長のまま80年に死去したメディアの大先輩である。新日本放送設立当初からは名目上の社長は財界人が座っていたが、実質上の中心人物だった。のみならず長年にわたる活動で、日本の放送界全般に強い発言力を持っていた実力者である。

 著者の辻一郎さんは同社の元取締役報道局長。55年に新日本放送に入社し、主に報道畑を歩み、直、高橋さんの薫陶も受けた。父君は辻平一さん。在任中にサンデー毎日の部数を30万部から80万部に爆発的に伸ばした編集長として知られる。

 という次第でモチーフも著者も毎日新聞に直接・間接に深いゆかりがある人たちなのでこのコーナーに投稿する次第。

 私は高橋さんに直接お目にかかったことはない。それどころか書かれたものを読んだこともない。しかし、辻さんの以前の著書『私だけの放送史』(2008年、清流出版)で晩年の高橋さんが新年祝賀会で年末年始の番組の感想をこう述べたと紹介していて、関心を抱いていた。曰く「われわれが目指してきた放送とは、こんな程度のものだったのか。視聴率をとりたい一心で、愚劣な番組をならべるのはやめてほしい」。視聴率とは民放業界のいわば通貨であり、民放はそれに血眼になっているのだが、こういう経営者もいたのかと。

 戦前の新聞、日本放送協会のありようを身にしみて知る高橋さんは、民主主義の大切さ、そのための多様な情報をメディアが提供することの大切さを折に触れて訴えた。そのことを通じて新しい日本を建設していこうとした。その意気込みは「新日本放送」という社名に如実に表れている。

 以下この本による高橋語録のいくつかを紹介したい。

 「NHKは戦争中“大本営発表”という形で大ウソをついた過去がある。これに対し、われわれの放送は、表現の自由を活発に発揮するものであり、官営に対して民間で行う放送である。その意味で(NHKが使う商業放送ではなく)民間放送という呼称を使っている」(1967年、民放連放送研究所設立5周年のシンポジウムで)。

 「テレビが茶の間の娯楽機関という時代はいまやすぎ、報道機関であり、教養機関であるという時代に入りつつあります」(同年、入社式)

 「われわれは株式会社毎日放送の経営にあたっていますが、目的は利益をあげることではありません。目的は毎日放送という放送を通じて、社会に貢献することです。…そのことをもう一度、肝に銘じていただきたいと思います」(1971年叙勲を受けた後、社員が集まって開いた会合で)

 「ジャーナリズムは、常に大衆とともにあり、政府に対しては野党的でなければなりません。それは即ち大衆の利益、“最大多数の最大幸福”を探し求めることがジャーナリズムの使命だからです」(1972年年賀式)

 「わが国の民放における報道番組の比重は現在まことに小さい。報道番組が、営業的にスポンサーがつきにくいとか、娯楽番組に比べて視聴率が低いというような議論は、…外部の社会には通用しない」(月刊民放1972年4月号)

 山崎豊子さんの『華麗なる一族』は執筆当時から財界からクレームがついた作品だったが、それを毎日放送がドラマ化した時に高橋さんが山崎さんに言った言葉が印象深いと山崎さんが書いている。「『何も難しいことはない。自分たちが“放送人”であるという意識さえ持てば、…自ずから簡単明瞭にわかる。極端にいえば、アチャラカ番組で稼いだ金をため込まんと、出血覚悟でええ番組を作る、それぐらいの番組制作の情熱がなかったら、放送会社やない、広告会社や』と至極当然のようにおっしゃった」と(1980年追想高橋信三)。

 この本の末尾に毎日新聞から毎日放送に移った北野栄三・元毎日放送常務(毎日新聞終身名誉職員、毎友会会員)も一文を寄せている。「会社の入社式で『憲法を読め』と言ったのには驚いた」と書き、「日本の放送人に望みたいのは、『もう高橋の時代ではない』と言う前に、高橋のいた時代を歴史として、放送のこれからのために学んでほしいことである」と呼びかけている。

 高橋さんは大阪の天王寺中学のころ、ズボと言うあだ名が付けられたという。何となくズボラなところがあったのか。中学同級生の上田常隆さん(後の毎日新聞社長)が毎日入社後もそのあだ名を広めたそうだ。ヌーボーとした様子の中にも経営者として厳しい側面も持ち合わせていたのだろうが、メディアの経営者として上記のような理念を絶えず掲げる姿勢には敬意を抱かざるを得ない。

 ところが現在の放送界は高橋さんが掲げた理念とずれてきているようだ。辻さんがこの本を書いた理由もそこにある。

 高橋さんの提言で毎日放送が76年に始めた夕方のワイドなローカルニュース番組は、その後、NHKを含めて各局が追随した。それが近年では吉本芸人らが目立つ娯楽色が濃い内容になってきている。

 そして今年の元日のバラエティー番組で、毎日放送は日本維新の会の松井一郎代表(大阪市長)、吉村洋文副代表(大阪府知事)、創設者の橋下徹氏をそろって出演させ、維新色の濃い話題で雑談させた。視聴者や番組審議会から「政治的公平の見地から問題がある」との指摘を受け、同社の調査委員会は「放送基準上の認識が甘かった」と結論付けた。私は、個々の番組で政治的公平性を担保する必要はなく、局全体の番組でバランスをとればいいという立場(政府の統一見解もそうなっている)だが、いかんせんこの番組は視聴率狙いで仲間内3人をそろえてあれこれしゃべらせたことに問題がある。「報道番組」がバラエティー化しているのと同じことだ。高橋さんが存命ならどうしただろう。

 以下高橋さんと毎日新聞について一部を抜粋する。

【京都支局時代】

 振り出しは伝説の大物支局長、岩井武俊さんの時代だ。社史には全く記述がないので興味深く読んだ。

 井上靖さんによる岩井評を紹介している。それによれば「私は新聞社にいる間、氏に頭が上がらなかった。宗教や美術は勿論のこと、広く一般の文化問題にふかい造詣と独自な見識を持っており、大学出の青二才が立ち対える相手ではなかった。…私は新聞記者で氏の如くひろい教養を持ち、権力に屈せず、己を曲げない人物を知らない」と(サンデー毎日1961年4月2日号)。

 岩井さんは一流の学者、文人、芸術家と深く交わり、陶芸の河井寛次郎ら当時の気鋭の人たちを育てるのに心を尽くした。そういう場に加藤三之雄、森正蔵、城戸又一、小瀧顕忠、辻平一、高橋ら支局員をよく同席させた。まだ大正デモクラシーの残り香も少しは漂っていたころ、支局員たちは上質の文化に包まれて成長したのではないか。高橋さんが放送の質にこだわったのは京都支局時代が原点としてあったように思われる。

 高橋さん自身「当時の京都支局は、まことに新聞記者修行のための恰好の場所であったと思う。十何人かの支局員だけで、京都大学の各学部をはじめとして各宗各派の総本山クラスの寺院や一流の美術工芸家たちから取材するためには、聞き手として恥ずかしくないだけの見識を持たなければならないと勉強させられた」と述懐している(毎日放送社報1977年5月1日号)

 もっとも岩井さんが大物でありえたのは、人格識見だけでなくお金の裏打ちがあったからこそで、辻さんは余談として書いているが、1934年岩井さんは勤続20年賞与として4300円をもらっている。「今の金だったら5000万円以上になるかもしれない。当時の新聞社の威勢の良さがうかがえる」とそれなりの高給取りだったと思われる辻さんが驚いている。これは岩井個人に支給されたもので、そのほか支局経費が毎月どれほどあったことか、私、貧乏支局長経験者としては想像するだにやるせない。

【毎日新聞社の新旧分離の時】

 1977年の毎日新聞社の実質上の倒産、会社を新旧2つに分けて再建するに際し、平岡敏男・毎日新聞社長から支援を求められた高橋さんの態度はまことに厳しかった。「平岡さんの再建策には次々とクレームをつけ、簡単に認めようとはしなかった。この背景には平岡の案を『甘い』と考え、『この程度の手術で、毎日新聞の生き残りが、本当にはかれのるのか』と懸念を抱いていたこともあったろう。だがそれだけでなく『毎日新聞という泥船と一緒に沈んでは大変だ。毎日放送はここは慎重に、毎日新聞と距離をおこう』と計算したところもあったのではないかと考えられる」と辻さんは記している。

 新会社への出資金は1億円。新会社の発起人には名を連ねた。ちなみにTBSの出資金は5000万円、発起人にはならなかった。RKB毎日の出資金は3500万円だった。

 辻さんによると、平岡さんから新会社の会長に就いてくれないかと打診を受けたとき、「もう10歳若かったら、毎日新聞に戻って、立て直しに協力するのだが…」と実に残念がったと言われる。「高橋の毎日新聞への愛情はそれほど深いものがあった。これは『自分を育ててくれたのは毎日新聞』という思いから生まれていた」という。

 私は当時、毎日新聞労働組合本部執行委員会の一員ではあったが、この辺りのいきさつはほとんど知らないので、辻さんの記述をそのまま紹介した。

 本書は単に高橋さんの伝記ではなく、同時代の放送を中心としたメディア史、それに辻さんのちょっとした自分史でもある。A5判570頁。高橋さんの秘書だった庄司葉子(映画界に転じて司葉子)さんらにも丹念に話を聞き、膨大な資料を博捜した労作。

 全くの余談で、もちろんこの本には書いていないが、戦前、「大毎野鳥の会」というのがあった。1938年、大阪での探鳥会のあと発足して間もない会の創設者中西悟堂さんは大毎名古屋総局に立ち寄った。「名古屋総局長浦田氏がすこぶる野鳥運動にご熱心で、大毎総局楼上で一夜の会合を開いていただいた」と中西さんは記録に残している。出席者の中に経済課長高橋信三さんの名もある。

(元大阪代表室 藤田修二)

 『放送人 高橋信三とその時代』は大阪公立大学共同出版会刊。3500円+税。

2022年5月9日

論説副委員長の元村有希子さんが『科学のトリセツ』刊行

 「サンデー毎日」で2018年4月から続けているコラム「元村有希子の科学のトリセツ」が、書籍として刊行されました。

 連載は16字詰め50行。折々のニュースや世相を私(著者)なりの「科学の目」で切り取っています。この4月で200回を超えました。うち150本ほどを選んでまとめました。

 表紙で双眼鏡をのぞいて興味津々、のポーズを取っているのは私です。会ったことのないイラストレーターさんが、そっくりに描いてくれました。

 ……科学記者を名乗り『科学の○○』なんて本まで書いているが、大学入試直前に文転して敵前逃亡したクチである。新聞記者になって35歳で科学環境部配属になり、正直「ウソだろ~、なんで私が?」と泣きそうになった。(本文より)

 私はもともと生活家庭部に行きたくて、西部本社から東京へ異動して来ました。ところが物事はうまくいかないものです。毎年秋に書かされる異動希望調査の第3希望を空欄のまま提出するのは気が引けたので、ためしに「科学環境部」と書いてみたら、なぜか採用されました。2001年春のことです。

 理系、大学院卒の専門家集団に、知識の量や分析力でかなわないことは承知の上。背伸びせず、私なりに伝えたいことを書いていこうと、半ば居直って取材し続けてきました。

 20年を経て、今や科学や環境の話題を「難しいから」「分からないから」と敬遠していられない時代になりました。

 遺伝子、人工知能、ウイルス、PCR、気候変動、放射能、人新世、宇宙旅行、脱炭素。昨今、あちこちで物議をかもし、現代を生き抜く上でも知っておきたいキーワードです。

 とはいえ、理解するには、まあまあ難しい。勉強しようと腕まくりをしても、土台になっている知識が分からないとお手上げ、というものもあります。

 そうしたややこしい科学や環境の話題について「要するにこういうこと!」と分かった気になってもらうのが、本書の狙いです。だから「トリセツ(取扱説明書)」です。

 連載期間の半分以上は「コロナ時代」となりました。肉眼では全く見えないこの新型ウイルスは、またたく間に世界に広がり、世界経済を混乱させ、さまざまな格差を浮き彫りにし、人と人とを遠ざけました。

 日本でも、政治と科学の不協和音が表面化し、溝は埋まらないままです。

 とりわけ安倍・菅両政権の科学軽視、反知性の傾向は目を覆うばかりでした。その象徴が、東京五輪誘致での「福島原発はアンダー・コントロール」発言であり、コロナ流行さなかの「GoTo トラベル」始動であり、日本学術会議での会員候補6人の任命拒否でした。

 論説副委員長として社論を練り上げる会議を仕切りながら、現場で起きていることに分野の壁はないんだなあと痛感します。

 科学嫌いの政治家と、政治音痴の専門家が協力しないことには、「日本丸」は漂流を続けるでしょう。とりわけこの1年は、コロナ、五輪、衆院選にウクライナ侵攻と、「闘い」続きです。福島原発の廃炉作業、コロナ禍からの経済復興、焦眉の急のエネルギー改革や毎年のように起きる自然災害にも、気合いだけでは対処できません。

 専門家の知恵だけでなく、国民や政治家の理性も求められていると思います。答えのない問いを考え続ける忍耐力、これも大切でしょう。

 ……気難しそうな人でも、ちょっと付き合ってみると、意外に面白かったりするものだ。そんな気づきを、この本で経験してほしいと思う。……ややこしい科学との付き合い方を示してみたけれど、読めばたちどころにモヤモヤが晴れる、という代物でもない。(「はじめに」より)

 そういうわけで、読んで、笑って、考えて、また読んで、みなさんが科学との付き合い方を身に着けてくださることを願っています。

(元村 有希子)

 『科学のトリセツ』は毎日新聞出版刊、1,500円+税

 元村有希子(もとむら・ゆきこ)さんは 1966年北九州市生まれ。九大教育学部卒業。取得した教員免許は「国語」。89年入社。西部本社報道部、下関支局、福岡総局などを経て2001年科学環境部。同部デスク、部長、編集編成局編集委員などを経て19年から論説委員。著書に『理系思考』『気になる科学』『科学のミカタ』(いずれも毎日新聞出版)、『カガク力を強くする!』(岩波ジュニア新書)など。本紙にコラム「窓をあけて」(毎月第2土曜掲載)を連載中。

2022年4月27日

「NFLドラフト候補名鑑2022」を松崎仁紀さんが推薦

 アメリカのプロフットボール、ナショナル・フットボールリーグ(NFL)は年2回、お祭りを迎える。一つは言うまでもなく、王者を決めるスーパーボウルで、毎年2月に開催される。もう一つが大学選手を対象とした新人ドラフトで、4月下旬に開かれ、テレビ中継されるほどの関心と人気を集める。今年は4月28日(日本時間29日)から3日間、ネバダ州ラスベガスが会場。「NFLドラフト候補名鑑2022」は指名が予想される209人の選手をポジションごとに上位から紹介するとともに、32チーム別のドラフト予想、そしてドラフトの基礎知識を解説し、「NFLドラフトを120%楽しむためのガイドブック」になっている。

 NFLドラフトは前シーズンの成績・勝率の下位チームから優先的に指名するウェーバー方式。大学4年生と資格を得た3年生を対象に、32チームが1巡から7巡まで順番に行う。1位指名権を持つのは3勝14敗だったジャクソンビル・ジャガーズ、順にデトロイト・ライオンズ(3勝13敗1引き分け)、ヒューストン・テキサンズ(4勝13敗)と進み、最後はスーパーボウル優勝のロサンゼルス・ラムズになるはずだが、今年はライオンズが1巡2回目の指名権を持つ。というのは、ラムズは昨年、クォーターバックのマシュー・スタッフォードを獲得する見返りに、22年と23年の1巡指名権をライオンズに譲っているからだ。これがNFLドラフトのもう一つの特徴で、選手と同じようにドラフト権もトレードできるのだ。1巡ドラフト権を2年失っても、スーパーボウル優勝の悲願を達成したラムズにとって、賭けは大成功だった。

 チームの実力が接近しているNFLは、新人選手の力が成績に大きく影響する。どうしても獲得したい選手がいるが、指名順が下位のため、このままでは他チームに奪われるのが確実といった場合、そのライバルチームより上位のドラフト権を持つチームと指名権を交換することで、順位を繰り上げることが可能になる。1巡目、チームに与えられる制限時間は10分。この間にトレード交渉をしたり、指名選手の絞り込みを行ったりと、首脳陣が決定を下す〝ウォールーム〟と呼ばれる部屋は文字通り戦場だ。福引抽選会のような日本のプロ野球ドラフトとは違い、NFLドラフトはポーカーのように作戦と駆け引きの、もう一つのゲームなのだ。

 本書にはNFLを知るための素材が満載されている。

(松﨑 仁紀)

※「名鑑」は元写真部の小座野容斉さんが樋口幸也さんと共同編集。ベースボール・マガジン社刊、1450円

2022年4月25日

江成常夫さんが『花嫁のアメリカ[完全版]』出版

 四六判654㌻。厚さが3.8㌢もある。

 江成さんが毎日新聞の写真部を辞めてアメリカに渡り、最初に取り組んだ「戦争花嫁」の取材。『花嫁のアメリカ』はアサヒカメラ1980年4月号から連載を始め、1981年に講談社から出版された。さらに20年後に再び女性らを訪ねて『花嫁のアメリカ 歳月の風景 1978-1998』(集英社2000年刊)を出版した。

 『花嫁のアメリカ[完全版]』は、この2冊を合本したものだ。

 《私は新聞社を早く離れての半世紀近く、「アジア太平洋戦争」に仕事の文脈を決め、写真の道を歩いてきた。ここに収録した第一部の『花嫁のアメリカ』は、長年にわたる仕事のスタート台に当たる。それに重ね後編としての『花嫁のアメリカ―歳月の風景―』を、第二部として纏め復刻されたことをなによりの喜びとしている》

 江成さんは、あとがき「復刊に寄せて―「花嫁のアメリカ」二十年にまたがる対面」に、こう綴っている。

 江成さんは、木村伊兵衛賞と土門拳賞を獲得している。同書にある、著者略歴——。

 江成常夫(えなり・つねお)1936年神奈川県相模原市生まれ。写真家・九州産業大学名誉教授。1962年毎日新聞社入社。64年の東京オリンピック、71年の沖縄返還協定調印などの取材に携わる。74年に退職し、フリーに。同年渡米。ニューヨーク滞在中に、米将兵と結婚して海を渡った「戦争花嫁」と出会い、78年カリフォルニアに彼女たちをたずねて撮影取材。以後、アジア太平洋戦争のもとで翻弄され、声を持たない人たちの声を写真で代弁し、日本人の現代史認識を問い続ける。また、写真と文章を拮抗させた「フォトノンフィクション」を確立する。写真集に『百肖像』(毎日新聞社、1984年・土門拳賞)、『まぼろし国・満洲』(新潮社、1995年、毎日芸術賞)、『花嫁のアメリカ 歳月の風景』(集英社、2000年)、『ヒロシマ万象』(新潮社、2002年)、『鬼哭の島』(朝日新聞出版、2011年)、『被爆 ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』(小学館、2019年)など。著書に『花嫁のアメリカ』(講談社、1981年、木村伊兵衛賞)、『シャオハイの満洲』(集英社、1984年、土門拳賞)、『記憶の光景・十人のヒロシマ』(新潮社、1995年)、『レンズに映った昭和』(集英社新書、2005年)など。写真展に『昭和史の風景』(東京都写真美術館、2000年)、『昭和史のかたち』(同、2011年)、他にニコンサロン特別展など多数。

(堤  哲)

 『花嫁のアメリカ[完全版]』は論創社刊、定価 3,600円+税。ISBN:978-4-8460-2098-9

2022年4月20日

私もかつては「オッサン」だった――論説委員、佐藤千矢子さんが新刊「オッサンの壁」について語る=講談社のオンライン雑誌「現代ビジネス」から転載


 春は異動の季節だ。全国紙の政治記者をしている私の周辺でも、知り合いの女性たちから、異動にまつわるさまざまな反応が聞こえてくる。中には「やはり『ガラスの天井』はある。しかも一見、女性を登用するように見せて、重要な仕事は男性にさせるなど、やり方が巧妙だ」という声もある。男性社会の壁はなかなか手強い。上梓したばかりの新刊『オッサンの壁』でも語っているが、今なお厚い男性社会の壁について、私自身の経験談をお伝えしようと思う。

 オッサンの壁といえば、やはりハラスメント(嫌がらせ)だ。その中でも「セクシャル・ハラスメント(セクハラ)」の話を避けて通ることはできない。

 私は男女雇用機会均等法の第一世代として毎日新聞社に入社した。記者として主に政治畑を歩み、2017年から2年間、全国紙で女性として初めて政治部長に就き、今年4月からは論説委員をしている。

 実は私もかつては「オッサン」だった。だからあまり偉そうなことは言えない。もちろん私自身がハラスメントをしたということではない。男性社会にひたすら同調して必死に働いていた。若手の政治記者時代、忙しくて風呂にも入らずに働いていた時期がある。当時、毎日新聞の政治部デスクで、後にTBSテレビの報道番組『NEWS23』のキャスターなどを務めた岸井成格(しげただ)さんも若いころ風呂に入らなかったということで、私に「女岸井」というあだ名が付けられたこともあった。

 そんな約35年間の新聞記者生活で、まずは私が受けたセクハラの中から忘れがたい三つのケースを紹介したい

 仲居さんの着物に手を…

 最初のケースは、おっぱいを触るのが大好きな大物議員の話だ。すでに亡くなった人だが、その人は小料理屋に行くと、時々、仲居さんの着物に手をつっこんで触っていた。私も他の男性記者たちも、それをただ黙って見ていた。

 ある時、たまたま私が隣に座ると、ふざけて「佐藤さんのおっぱいも触っていいかな」と手が伸びてきた。私はここでひるめば、この先ずっとやられるかもしれないと、とっさに思い、「ちょっとでも触ったら書きますよ」と言った。すると、議員の手がビビビっと電気に打たれたように引っ込んだ。

 衆人監視のもとだったのが幸いだった。「ペンの力ってすごいな」「毅然とした態度を取ることが大事なんだ」とつくづく思った。ただ、後から振り返ってみれば、私は自分へのセクハラは撃退できたが、仲居さんへのセクハラには何もできなかった。

 これは比較的軽微なセクハラ(と言っても、相当にひどい)だが、次のケースはもう少し深刻だ。

 その議員が住んでいた東京都内の議員宿舎の部屋には、夜回りの記者数人が毎晩のように詰めかけ、懇談に応じていた。ある晩、たまたま他の記者が誰も夜回りにやって来ず、議員と私だけの1対1の懇談になった。いつものようにリビングのソファで話していたら、いきなりにじり寄ってきて、腕が肩に回り抱きつかれた。

 「やめてください」と何度か言ったが、やめようとせず、振りほどくようにして逃げ帰ってきた。その時、秘書が別室で慌てる様子もなく待機しているのが見えた。議員の行動はもちろんだが、秘書の行動もショックだった。秘書は明らかに議員によるセクハラという状況に慣れていた。「いったい何人の女性が私と同じような思いをしたのだろう」。想像せずにはいられなかった。

 私はその夜のうちに男性の先輩記者に報告し、対応を相談した。

 「そんな奴のところに、もう夜回りに行かなくていい。それで情報が取れなくなっても構わない」。先輩記者は言った。新聞社としてその議員の情報が欲しかったのはよくわかっていたので、私は先輩の反応がうれしかった。もしも「他の男性記者がいる時に行くようにして、気をつけて取材してはどうか」と言われたら、がっかりしただろう。「担当を外す」と言われたら、当座はほっとしたかもしれないが、責任を感じ、自分を責めて、後々まで思い悩んだかもしれない。

 「もう夜回りに行かなくていい」というのは、会社として情報を失う犠牲を払ってでも記者を守ろうとする姿勢がはっきりしている。しかし「気をつけて取材してはどうか」とか「担当を外す」というのは、記者に配慮しているようでいて、情報入手のほうを優先している。この差は大きい。

 私はその後、議員と1対1にならないように気をつけながら夜回りに行くことにし、何とか無事に仕事をこなすことができた。議員も秘書も何ごともなかったかのように振る舞っていた。いや、振る舞っていたというよりも、全く気にかけていなかったというほうが近い。罪悪感など微塵も感じていないようだった。

 これはセクハラ…なのか…?

 三つ目のケースは、かなり昔の話になる。政治部記者になって2年目の1991年、宮澤喜一氏、渡辺美智雄氏、三塚博氏の3人が争った自民党総裁選で、朝回り取材をしていた時のことだ。ある中堅議員の議員宿舎の部屋には総裁選の陣営情報を得ようと、毎朝、数人の記者が集まっていた。この議員は、記者たちの健康を気遣い、「朝は味噌汁ぐらい飲まないといけないぞ」と言って、カップ味噌汁を大量に買い込み、一人ずつお湯を注いでふるまってくれる優しい人だった。

 ある朝たまたま、他の記者が現れず、1対1の取材になった。いつものように台所で味噌汁を飲みながら話をしていると、「睡眠時間も足りていないんだろう。少し寝なさい」と言って、隣の和室に行って押し入れから布団を出し、畳の上に敷き始めた。私は遠慮して早々に帰ってきた。

 議員は高齢で優しい人だったのと、朝という時間帯もあって、これはセクハラなのかどうかと私は混乱した。先輩記者に相談すると「バカだなあ、疲れていてもそんなところで寝ちゃあダメだよ」と笑っていた。ほかにもセクハラかどうか判断がつきかね、対応に困るケースはけっこうあった。

 三つのケースを紹介してきたが、幸いだったのは、いずれも撃退できたり、先輩記者に相談でき、その対応が適切だったりしたことだ。しかし、もちろんそんなケースばかりではない。セクハラを撃退できなかったケースもあるし、その場合、残念ながら会社に報告をすること自体にも大きなハードルがあった。そしてそのハードルは、現在も相変わらず高いままだ。

 私自身、入社から間もない地方支局の勤務時代に受けたセクハラは、先輩にも上司にも一切、報告できなかった。地方勤務の新人記者が、入社早々トラブルを起こせば、「女はやっぱり面倒くさい」とか「なんでそんなトラブルも上手く処理できないのか」と思われ、人事異動にも影響しかねないと思ったからだ。

 2018年4月、当時の財務省の福田淳一事務次官がテレビ朝日の女性記者を飲食店に呼び出しセクハラ発言をしていた疑惑が報じられ、大きな問題になった時、自分の過去の経験に照らし合わせて考えざるを得なかった。

 自分がまだ若くセクハラに悩んでいた1990年代のころから改善されたようでいて、本質的にはあまり変わっていないのだと思う。

 「女性がお酌」問題の本質

 さて、ハラスメントにはセクハラの他にもさまざまな種類がある。

 私の場合、口に出して訴えることはほとんどなかったが、内心、ジェンダー・ハラスメント(ジェンハラ)のストレスも、けっこうつらかった。ジェンハラというのは、ジェンダー(社会的・文化的に作られる性別)にもとづく嫌がらせだ。「女らしさ」や「男らしさ」を押しつける言動と言ったほうがいいかもしれない。飲み会でのお酌を女性に強要するというのがわかりやすい例だ。

 飲み会で、取材相手や接待先の男性の隣に座席を指定され、座らされることも決して愉快なものではない。隣に座るということは、どうしてもお酌をすることとセットになる。「接待先の男性も女性が隣のほうが喜ぶでしょう」「どうせ女性の話など聞こうと思っていないのだから」「女性はお酌だけしてね」と言われている気持ちになる。

 さすがに女性でも管理職になると、そういう扱いを受けることは少なくなる。しかし、完全になくなることはない。

 ほんの数カ月前の話だが、ある学者を数人の新聞記者で囲む会に出席した時、男性記者から「さあ、佐藤さんは先生の隣に座って」と言われ、久しぶりにそうした扱いを受けて驚いた。

 ただ、昔とやや違って、皆が「そうだ、そうだ」と勧めることはなくなった。さすがに何人かは「ちょっと、このご時世まずいのではないのか」と察知したのだろう。微妙な空気が一瞬流れた。私が「いやいや、ジェンダー平等ですから」と言うと、かすかに笑いが起き、無事に男性記者が学者の隣席に座って会合は始まった。

 電話で「誰かに変わってくれる?」

 電話の応対でジェンハラを感じることも多い。取材先で女性記者であることを理由に応じてもらえなかったり、嫌な思いをしたりした記憶はほとんどないが、電話取材では特に若いころ、それが頻繁に起きた。

 支局勤務の時に「毎日新聞です」と電話に出ると、「誰かいないの?」「誰かに変わってくれる?」とよく言われた。支局長やデスクに変わってくれではなく「誰か」である。「誰かって誰?」といつも心の中でつぶやいていた。

 自分が一人前扱いされていないことを突きつけられるようで、とても不愉快なものだ。けれども、怒って電話を切るわけにもいかない。「私は記者ですが」と言うと、受話器の向こうで相手は戸惑い、しぶしぶ会話を始めるという感じだった。

 会社にかかってきた電話に出て「誰かいないの?」と言われた経験のある女性は、私たちの世代では、新聞記者に限らずけっこう多いのではないだろうか。片や男性はそんな経験はほとんどないだろう。一事が万事で、こういう経験を何十年も我慢して重ねてきた女性と、一切そういう苦労をしないですんだ男性の間には、その後の人生への自信の持ち方や、社会に対する認識に大きな違いが生まれるのではないかと思う。対面取材では女性差別をほとんど感じなかったのに、電話取材で頻繁に感じたのはなぜだろうか。対面取材では相手が性別に関係なく人物を見ているからであり、電話では性別への偏見から入るからではないだろうか。

『オッサンの壁』は講談社現代新書。定価990円(本体900円)、
ISBN978-4-06-527753-9

 佐藤千矢子さんは1965年生まれ、愛知県出身。名古屋大学文学部卒業。毎日新聞社に入社し、長野支局、政治部、大阪社会部、外信部を経て、2001年10月から3年半、ワシントン特派員。米国では、米同時多発テロ後のアフガニスタン紛争、イラク戦争、米大統領選を取材した。政治部副部長、編集委員を経て、2013年から論説委員として安全保障法制などを担当。2017年に全国紙で女性として初めて政治部長に就いた。その後、大阪本社編集局次長、論説副委員長、東京本社編集編成局総務を経て、現在、論説委員。

2022年4月18日

政治部、学芸部記者だった中澤雄大さんが10年以上の歳月をかけて「狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅」を刊行

「中澤雄大氏、渾身の一作」=YAHOO! JAPANニュースから転載

 夭折の作家・佐藤泰志の初の本格評伝「狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅」(中央公論新社刊)が、4月19日に発売される。「戦後生まれ初の芥川賞作家になる」と宣言し、狂おしいほど文学に情熱を傾けながらも力尽き、長く忘れ去られた作家がなぜ現代に蘇り、令和の時代になっても新たな読者を獲得するのか――。ノンフィクション作家の中澤雄大氏が10年以上も続けた調査、研究を通して、当時の文壇の状況や世相を踏まえながら佐藤の抱えた「無垢と修羅」に迫る、608ページに及ぶ渾身の一作だ。(取材・文/大塚史貴)

 芥川賞に5回、三島由紀夫賞と野間文芸新人賞に各1回ノミネートを果たしながら受賞を逃した佐藤が、失意のなか1990年10月に41歳で自死してから32度目の春、佐藤文学を研究し尽くした1冊が発売される。07年10月に発売された「佐藤泰志作品集」(クレイン刊)は“出版界の奇跡”と言われ、その後の復刊ブーム、「海炭市叙景」(熊切和嘉監督)を皮切りに「そこのみにて光輝く」(呉美保監督)、「オーバー・フェンス」(山下敦弘監督)、「きみの鳥はうたえる」(三宅唱監督)、「草の響き」(斎藤久志監督)という著作の映画化と、佐藤の名を広く世に知らしめたが、本書では全作品の背景分析をするため、一族の歴史をはじめ、佐藤が遺した函館西高校時代から晩年までの膨大な手紙類を読み解いている。

 中澤氏が書き下ろした1500枚には、文学賞選考の内実、「海炭市叙景」連載中断の背景、自殺の真相にも迫っている。そのため、親族だけでなく幼なじみ、大学の同期生、恩師、文学仲間、かつての恋人まで実に多くの関係者にインタビューすると同時に、膨大な資料を分析。佐藤の実像と言動を浮き彫りにするとともに、巷に流布する誤った情報を正すことにも注力したという。

 取材対象は多岐にわたり、佐藤に多大な影響を与えた大江健三郎をはじめ、函館西高校OBの辻仁成、元「文藝春秋」編集長の半藤一利ら芥川賞選考関係者、佐藤が思慕の念を抱いた直木賞作家ら多数の文人、評論家など。さらに当時の「新潮」「文藝」「文學界」「すばる」など、各誌編集長にも真相をただしている。

 また、佐藤は映画好きだったことにも触れられているそうで、当時の世相を伝えるためにも佐藤が感銘を受けた「裸の島」「夕陽の丘」「アルジェの戦い」「ミツバチのささやき」「赤線地帯」「飢餓海峡」「突然炎のごとく」「冒険者たち」「スケアクロウ」「ラスト・ショー」「三里塚の夏」といった作品や、映画館についても詳述している点も見逃せない。映画.comでは、本書を完成させたばかりの中澤氏に取材を敢行した。

 ――10年以上の歳月をかけて調査、研究を続けてこられたそうですが、そんなにも惹きつけ、突き動かした佐藤泰志という作家の最大の美点はどこにあると思いますか。

 中澤氏:私が佐藤泰志という未知の作家の作品と出会ったのは20歳の時(1987年)でして、大学入学を機に上京して1年半が過ぎた頃でした。たまたま新宿の紀伊國屋書店本店で手にした「文藝」に掲載されていた「大きなハードルと小さなハードル」を読んだのが最初です。アルコール中毒を己の力で治してみせると誓う夫と、別れて静岡の実家に帰ろうか逡巡する妻──離婚の危機にある夫婦が娘を連れて、近くの河原を訪れて交わす言葉の切実さに、世間を知らない私は、家族というありようがいかにもろいものなのか、現実生活の厳しさを初めて突きつけられました。

 ちょうどバブルの絶頂期にあり、地方出身の一学生にとって、当時の世相は違和感を覚えるものでした。書店では村上春樹の「ノルウェイの森」のクリスマスカラーが目立っていました。話題に乗り遅れないように読んでみましたが、現実離れしたスマートな社会風俗の描写などになじめませんでした。

 一方、泰志の小説は浮ついた世相に翻弄されることのない確かさを感じました。時代に取り残されながらも、あきらめずに愚直に生きようとする汗と息遣いを、その畳みかけてくるような筆致から実感できたわけです。都会の生活に足場のない私の不安をなだめてくれるような気もしました。それ以来、家族の再生や社会の底辺で生きる同時代の人々の哀歓を淡々と描いた作家の小説が載っていないか、文芸誌を書店で探し求めるようになりました。

 ちょうど新聞社に入った年に泰志が自死したことを記事で知り、言葉を失いました。その後出版された単行本「移動動物園」などを読み、その作品の魅力を周囲に分かってもらおうとしましたが、相手の反応は芳しくありませんでした。それだけマイナーな、知る人ぞ知る純文学作家だったわけです。  

 この世に未練を強く残したまま逝った作家の佳品を、もっと多くの人に知ってほしいという想いが、「出版界の奇跡」と呼ばれた「作品集」の刊行、「海炭市叙景」映画化の成功によって、再び火がつきました。突き動かされるように10年以上、取材・執筆を進めてきましたが、新聞記者の仕事との両立は困難で、この評伝を書き上げるために丸2年前に退路を断ち、執筆に本腰を入れました。

 ――きっと本書には様々な検証から今まで知る由もなかった佐藤の実像が見えて来るかと思います。取材中、執筆中に知った、気づいたことで驚きを禁じ得なかったことをひとつ挙げるとするならば、どんなことでしょうか?

 中澤氏:この30年余りを振り返ると、全てがこの評伝を仕上げるという一点につながっているように感じます。本書を手にとっていただけるとお分かりになるかと思いますが、偶然や奇遇、奇縁、巡り巡って……という普通ではあり得ない出来事、神の配剤に感謝する場面が相次ぎました。

 喜美子夫人から「『俺のことを、中澤さんに書いてもらえよ』ってウチの人が言っているようだねぇ」と言われたこともあります。冷静な読みが必要とされる担当編集者からも「内容が濃くて、削ってほしいとは頼めない」と言われ、600頁超という分厚さでの出版に至りました。

 その誕生から自殺に至るまで、驚きの連続、新事実のオンパレードとなった最大の要因は、多くの資料と格闘するとともに、あらゆる関係者に話を聞くことができたことに加えて、作家が遺していた膨大な手紙と手帳類とを突き合わせて再確認することができたためです。

 創作の背景にあるさまざまな要因がどのように交錯して、その筆に影響を与えていたか、如実に浮き彫りになりました。まさに見たもの、聞いたこと、全てを創作に生かす「私小説作家」でした。さらに執筆にこだわるがゆえに苦悩し、煩悶したリアルな“肉声”もふんだんに盛り込んだ結果、その実像が行間から動き出すようになりました。結果的に、巷間伝わる誤った情報を訂正することにもつながりました。有島青少年文芸賞、北方文藝賞、芥川賞、三島賞……選考の内実の一端も初めて明らかになります。

 ――「海炭市叙景」が映画化された後、まさか「移動動物園」など絶版になっていた小説群が復刊するとは思いもしませんでした。佐藤の著書の中で、最も中毒性を持って読み返してしまう作品を教えてください。

 中澤氏:やはり等身大の泰志と夫人の姿が描かれている「大きなハードルと小さなハードル」でしょうか。同じ理由で「水晶の腕」も好きです。また、人生という長いレールの意味を深く考えさせてくれる「海炭市叙景」の一篇「週末」も、こうあるべきだという、作家の本質の一端をよく表しているので読み返すことが多いです。

 佐藤泰志は、何事においても白黒つけようとする世の中の欺瞞を嫌っていました。家族を愛する一方で、昂る恋情や欲望を抑えることができない正直な人でもありました。「狂伝-無垢と修羅」というタイトルは、狂おしいほどに文学に情熱を傾けるという無垢な性向と、どこまでも自由でありたいと願い、修羅を抱えることも厭わなかった生き方から名付けました。各章を順に読んでいただけると、泰志の心の移ろいがよく理解していただけると思います。

 ――「海炭市叙景」に始まり、佐藤作品が5本も映画化されるとは10数年前は誰も想像できなかったと思います。佐藤の再評価という奇跡的な出来事に触れたとき、この映画化という動きはどのような役割を果たしたとお考えでしょうか?

 中澤氏:これまで一連の作品を企画・制作された「シネマアイリス」の功績は本当に大きいです。しかし、忘れ去られていた作家の再評価につながったのは、単に映画と小説というメディアミックス効果とSNSの拡散力だけでは説明できないと思います。シネマアイリスの菅原和博さんが「映画化したい」と願ったように、小説本来の力抜きではあり得なかったと考えます。作家が生きた時代よりもさらに格差が拡大し、生きづらいと感じる若年世代が少なくないと聞きます。生への渇望を強く持つ彼らに、佐藤泰志作品の存在を伝える映画がこれからも作り続けられることを願っています。菅原さんも次回作のプランを検討されているそうです。映画作品に合わせて、ぜひ「狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅」を手に取って、その作品世界をよく知っていただければ有り難いです。

≪中央公論新社の新刊紹介から≫

 『きみの鳥はうたえる』『海炭市叙景』『草の響き』……芥川賞に5回、三島由紀夫賞、野間文芸新人賞に各1回ノミネートされながらも受賞を果たせずに、1990(平成2)年10月、失意のうちに41歳で自死した佐藤泰志の初の本格評伝となります。

 「戦後生まれ初の芥川賞作家になる」と宣言し、狂おしいほどに文学に情熱を傾けながらも力尽き、長く忘れ去られた作家がなぜ現代に蘇り、「令和」の時代においても読み継がれて、新たな読者を獲得するのか──。当時の文壇状況のみならず、世相を踏まえながら、泰志の抱えた「無垢と修羅」に迫るため、10年以上の歳月を掛けて調査研究を続けました。

 全作品の背景分析をするため、一族の歴史をはじめ、作家が遺した函館西高時代から晩年までの膨大な手紙類を読み解き、胸の内が赤裸々に明かされます。その肉声から聞こえるのは、愛憎半ばする函館への想いであり、担ぎ屋として懸命に働いた両親との相剋であり、終生葛藤した自身の「血脈」でもあります。「高校生作家」として脚光を浴びて、「すぐに作家になれると思っていた」青年が中央文壇の厚い壁に阻まれて、精神的に苦しんでゆく……。

 幾つか内容を挙げれば、函館の街の成り立ちから戦前・戦後の活況、北海道文学の隆盛と『北方文芸』、海峡を渡る意味、『立待』など同人誌時代、政治の季節(ベトナム反戦、70年安保、三里塚闘争)、過ぎゆく青春の幻影、「三人傘」と恋模様、妹の死、憔悴する肉体と精神、文学賞選考の内実、「海炭市叙景」連載中断の背景、自殺の真相……。生きることの全てが小説に結びついていた私小説作家が「奇跡の復活」に至った事象に向き合い、渾身の力を込めて書き下ろした1500枚です。

 親族はもとより、小学校の幼なじみから大学同期生ら友人たち、恩師、文学仲間、かつての恋人まで、あらゆる関係者にインタビューすると同時に、多くの資料を分析。作家の実像と言動を浮き彫りにするとともに、巷に流布する誤った情報を正すことにも注力しました。

 泰志に多大な影響を与えた大江健三郎をはじめ、函館西高OBの辻仁成、元『文藝春秋』編集長・半藤一利ら芥川賞選考関係者、泰志が思慕の念を抱いた直木賞作家ら多数の文人、評論家に取材を重ねました。さらに当時の『新潮』『文藝』『文學界』『すばる』など各誌編集長らにも真相をただしました。

 作家のリアルな息遣いが聞こえる本作をぜひ手にしていただき、佐藤泰志作品が末永く読み継がれることを願っています。

 『狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅』は中央公論新社刊、608頁、3800円(税別)。19日発売。

 中澤雄大さんは 昭和42(1967)年、新潟県長岡市生まれ。ノンフィクション作家。毎日新聞記者として政治や外交・安保、歴史問題、論壇、書評、映画などを担当。現在、早稲田大学総合研究機構招聘研究員、大正大学非常勤講師。単著に「角栄のお庭番 朝賀昭」(講談社、加筆・別題名で講談社+α文庫)、編著に「回顧百年 相沢英之オーラルヒストリー」(かまくら春秋社)、共著・分担執筆に「佐藤泰志 生の輝きを求めつづけた作家」(河出書房新社)他多数。また、WOWOWとHBO Max制作のドラマ「TOKYO VICE」(主演アンセル・エルゴート、共演渡辺謙、菊地凛子、伊藤英明ほか)の監修を務める。

2022年4月14日

山本雪彦連句集『海峡』 元サンデー毎日の山本茂さん

 1964年入社山本茂(84歳)の俳句集である。奥付に令和4(2022)年1月20日初版、楡影舎(☏049・298・7513)発行。

 【著者略歴】本名・茂。昭和12年、北海道夕張郡角田村生まれ。北大(農)卒、新聞記者、ノンフィクション作家、雑誌編集長、女子大教授。俳誌『雨蛙』同人。

 表紙に刷り込んだ3句。

  白きもの辛夷と海峡の波がしら
  鴎外のシュプレー河や青き踏む
  月明に酌む百年の孤独かな

 まえがきに「ワンテーマ連作」への試みとあって、「一句がそれぞれ有季・定型を満たして自立しつつ、なお互いに補完し合い、それによって読み手の理解を深め、読み終えたときに一つの物語が浮かび上がる――そういう俳句形式である」と説明している。

 自分史にもなっている。

  曾祖父の開拓私史や指凍こご

 明治26年、富山県砺波郡から108戸の集団開拓団第1号として北海道空知郡清真布村(現岩見沢市)に入植した。山本茂のルーツである。

  夕しぐれ渡り大工の父帰る

 「田畑を捨て、雑貨店をひらいたが成功せず、私が生まれたときは俄か大工だった」

 飛んで毎日新聞社入社。「上京・一九六四年——春」から。東京五輪の年である。

  社屋仰ぎ胸にいっぱい春の風
  有楽町駅前喫茶風信子ヒヤシンス
  春塵や日劇ダンサーの長い脚
  街街に五輪音頭や四月尽

 「三月の末、友人や親族や許婚者などに見送られて残雪の札幌駅を発った。未来への不安など一片もなかった」

 「青函連絡船、東北本線を乗り継ぎ上野駅に着いた」

 「山手線路線図を頼りに有楽町駅に着いた。目の前に映画で見た百貨店がある。『有楽町で逢いましょう』で野添ひとみと川口浩がデートしたのは、このそごうデパート二階の喫茶店ではなかったか。私は野添の大ファンだった」

 この毎友会HP「元気で~す」で山本茂を取り上げている(4月5日)ので、そちらも読んでください。46歳で毎日新聞社を退職したことを今回初めて知った。ゴメン、同期入社でありながら。九州女子大では国文学を教えていた。

(堤  哲)

2022年4月14日

新刊「危機の新聞 瀬戸際の記者」の著者、坂夏樹さんって誰?

 新聞記者はデジタル化の波の前で、どうすれば本来の新聞記者としての役割を果たせるのか。そんな問題意識を突き付ける一冊。だが、本論に入る前に、ペンネームらしい「坂夏樹」さんが誰なのか、気になりながら読み進めた。

 略歴には、「全国紙の元記者。論説委員などを歴任したほか、大阪や京都を中心に警察、司法、行政などを主に担当した」「バブル経済期の闇社会の実態に迫る特命取材にたずさわったほか、平和問題や戦争体験、人権問題を取材テーマにした」と紹介されている。

 著書としては『千二百年の古都 闇の金脈人脈』『命の救援電車』『一九一五年夏 第一回全国高校野球大会』(以上、さくら舎)があげられている。

 読み始めると、「はじめに」に、「私は毎日新聞社で30年あまり、新聞記者として働いた」と記している。1961年うまれというから、60歳か61歳。2019年に毎日新聞社が200人の早期退職を募った際に退社した、と当時の社内の動きを振り返る。本文では、会社のこの決断が「記者から笑顔を奪い、将来も奪いはじめている」と痛みを感じつつ、批判している。

 人事記録によれば、「坂」という記者はいない。大阪本社勤務が長かったようなので、大阪の知り合いに尋ねてみたが、行き当たらない。在職中から「ある私立大学で約10年間にわたり、非常勤講師を務めた」という。自分が体験した取材についても報告されているが、具体的な事件名はあげていない。

 執筆の主眼は、デジタルファーストの時代が記者を育てられない環境を生み出していることへの批判が原点で、特ダネを追いかける、特ダネに執着することの重要性など耳を傾けるべき記述も多い。新聞社を批判するだけでなく、ネットの時代になっても、新聞記者は何を大事にすべきか、存在意義はあるはず、と警鐘を鳴らしている。

 「記事の中身よりもネット受けを求められる記者……。速報性と合理化の前に『原稿は足で書け』は死語となったのか」という指摘は、新聞の現場できちんと受け止められるべきだろう。筆者は「新聞の底力」を信じるメッセージを締めくくりとしていることを考えても、単なる新聞批判と受け流すべきではないだろう。

 さて、それにしても「坂夏樹さん」はどなたなのでしょう?

(高尾 義彦)

 「危機の新聞 瀬戸際の新聞記者」はさくら舎刊。定価1760円(税込み)。2022年4月7日発売。ISBN:978-4-86581-340-1 さくら舎は、千鳥ヶ淵の新しい出版社だという。

2022年4月11日

社会部宮内庁記者だった成城大学教授、森暢平さんが新刊『天皇家の恋愛』

 25歳で毎日新聞に入社した私は、入社5年目、30歳のとき、宮内庁担当に指名された。大学時代は日本史専攻。前年が戦後50年の1995年だったので、好んで戦争関係の記事を書いていた。「日本史専攻なら宮内庁がいいだろう」と白羽の矢が立った。長年、宮内庁詰めだった故畠山和久さんがちょうど定年を迎える年。その後釜として抜擢されたのだと思う。畠山さんと同じく、長期間、宮内庁担当が出来る記者を、というのが社会部の意向だった。

 しかし、私は海外特派員が夢だった。「なんで私が」という不本意な思いはずっと付きまとった。

 当時の宮内庁担当の課題は、雅子妃(現・皇后)の懐妊、紀宮内親王(現・黒田清子さん)の結婚、香淳皇后(当時は良子皇太后)の健康――の3点。抜かれれば大きい。しかし、日々原稿を書くわけでなく、潜航取材ばかりで気が滅入ることが多かった。地下鉄二重橋駅から坂下門に歩くのが、気が重い日々だった。

 多くの先輩記者からは「皇室なんて、滅多に見られる対象じゃないから、楽しんでやればいい」というアドバイスをもらった。しかし、本心はすぐに逃げ出したかった。本書のあとがきでも紹介したが、ある日、デスクから電話があり「雅子さまが妊娠したという情報がある。市場関係者の間で出回っている」と言ってきた。この手の話のほとんどはガセだが、念のため侍医に夜回りをかけた。

 侍医はいつも取材に応じてくれるが、肝心なことは教えてくれない。あまりにしつこく質問していると、「だから、もう月経が来てるんです。妊娠はありません」と否定してくれた。

 宮内庁担当の仕事のひとつに女性皇族の「周期」を知ることがある。宮中三殿での儀式の参加が「ご都合により、なし」になると、「それ」だと分かる。

 夜回りの帰路、考えた。若干30歳。海外特派員志望の私は、こんなところで、女性皇族の月経の取材をしている。一体何のために記者になったのか。

 そして、もうひとつの疑問も湧いた。出生、逝去、結婚……。そんな皇族のプライベートを警戒しなければならない皇室報道はどこから来たのだろうか――。

 その後、私は、宮内庁を外れたいと社会部長に訴えて、事件記者に代わった。そして、どうしてもすぐに国際関係学を沖縄の基地問題の文脈で学びたくなって、退社して修士課程に入った。大学院終了後、アトランタでCNN日本語サイトの編集者となり、ワシントンでの琉球新報駐在記者を経て、40歳で研究の道へ。

 そこで取り組んだのは、勉強してきた国際関係学ではなく、皇室とメディアの研究である。あれだけ嫌だった皇室という対象に再び向き合うことになった。そして、苦節ほぼ10年で博士論文を書き、それを『近代皇室の社会史』(吉川弘文館、2020年)として出版した。この前著を全面的に書き直し、一般向けの新書にしたのが『天皇家の恋愛』である。

 この本の問い、皇室と恋愛の関係は、メディアはなぜ皇室の結婚や妊娠を報じるのかという若き日の思いに遡る。それに取り組み、答えを出したのが、本書になる。

 詳しくは本書を読んでいただきたいが、日本の近代化と皇室の関係がカギとなったという見立てを示してある。それは、なぜ皇室は側室を止めたのか、美智子妃の結婚は恋愛だったのか、そもそも恋とは何かという別の問いとも繋がっている。

 本書は、皇室の150年の近代史を「恋愛」というこれまでにない視点で切り取った、自分で言うのもなんだが、画期的な本である。「事例が豊富」「知らないことが多く書かれている」との評価もいただいている。

 若き日から考え続けたことを57歳にしてようやく一般向けの形に出来た。手に取っていただけると幸いである。

(森 暢平)

 『天皇家の恋愛』は2022年3月刊、中央公論新書、定価990円(税込)
ISBNコードISBN978-4-12-102687-3

 森暢平さんは京都大学文学部史学科卒。1990年毎日新聞入社。98年に退職。2000年国際大学大学院国際関係学研究科修士課程修了。同年CNN 日本語サイト編集長。05年成城大学文芸学部専任講師、同准教授を経て17年より成城大学文芸学部教授博士(文学)。専攻は日本近現代史、歴史社会学、メディア史。著書『天皇家の財布』(新潮新書2003年)、『近代皇室の社会史――側室・育児・恋愛』(吉川弘文館2020年)、共著『戦後史のなかの象徴天皇制』(吉田書店2013年)、『「昭和天皇実録」講義』(吉川弘文館2015年)、『皇后四代の歴史――昭憲皇太后から美智子皇后まで』(吉川弘文館2018年)、『「地域」から見える天皇制』(吉田書店2019年)など。

2022年3月1日

早瀬圭一さんの『春木教授事件45年目の真実』が文庫本に

 早瀬圭一著『そして陰謀が教授を潰した~青山学院春木教授事件 四十五年目の真実~』が小学館から文庫本で発売された。『老いぼれ記者魂』(幻戯書房 2018年刊)を改題、むろん加筆している。定価858円(税込)ISBN:9784094071085

 小学館のHPにある紹介――。《本作は、1973年に青山学院で起きた「教授による女子学生強姦事件」の真相を、元新聞記者である著者が執念をもって追いかけた45年の集大成となるノンフィクション。

 青山学院法学部・春木猛教授(当時63歳)が、教え子の同大文学部4年生の女子学生へ、3度に亘る強制猥褻・強姦致傷の容疑で逮捕される。

 春木教授は懲役3年の実刑が確定し、一応の決着とされるが、教授自身は終生「冤罪」を訴え、無念のまま亡くなった――

 事件当時、新聞記者だった早瀬氏は、事件の裏にある、女子学生の不可解な言動や、学内派閥争い、バブル期の不動産をめぐる動きなど、きな臭いものを感じ、45年かけて地道に取材を続けます。

 有罪なのか、冤罪なのか、事件だったのか、罠だったのか……。

 本書は、その取材の記録と、早瀬氏なりの「事件の真相」に迫る作品》

 早瀬さん84歳、元気だ。1961年入社。中部本社報道部、大阪・東京各社会部を経て「サンデー毎日」編集部。同別冊編集長。編集局編集委員。1982年『長い命のために』で第13回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書多数。東洋英和女学院大学名誉教授。毎日新聞の客員編集委員でもある。

(堤  哲)

2022年2月28日

上海のデジタル進化や暮らしの今を、前特派員、工藤哲さんが新刊『上海』に

 2018年春から20年秋までの約2年半にわたり、上海に駐在した記録をまとめました。日中関係は今からちょうど10年前の2012年、日本政府による尖閣諸島国有化に反発した反日デモが中国各地で起き、関係は急速に冷え込みましたが、その後は徐々に改善に向かい、「正常軌道に戻った」とされた時期の18年からの赴任でした。

 その後は米中の深まる対立や香港でのデモなどが起き、20年初頭から中国で新型コロナウイルスの感染が拡大し、そのさなかでの帰任となりました。コロナ禍を機に世界や日本は大きく変わってしまいましたが、主に取り上げたのは「コロナ前」と「コロナ後」の上海です。

 多くの読者の方は、北京と比べて上海発のニュースはかなり少ない、と感じるのではないでしょうか。それは、北京が国の外交や政治を全般的にカバーしていたのに対し、上海は主に社会や地方の動きを追っていたからです。

 北京では「○○首脳会談」「○○国際会議」「中国外務省の○○報道局長は定例会見で○○と発言した」などがあればその都度記事を送りますが、上海にはこうした「日付モノ」は限られており、ある程度まとまった取材をし、なおかつ適切なタイミングに合わなければ大きな記事は載りにくい、という事情がありました。紙面のスペースが限られる中、かつて駐在した北京と比べ、上海の記事は載せるのが大変だった、というのが率直な印象です。

 そんな中でも、上海の街は確実に、かなり早いスピードで変化していて、街を歩くとさまざまな発見がありました。キャッシュレスの支払いはもちろん、食事の注文、タクシーの利用、レンタル自転車もすべてスマホの利用が前提でした。コンビニやスーパーの無人化も進み、この手のサービスは日進月歩で更新されていました。肌感覚で、上海のデジタルサービスのモデルは既に日本の3、4年先を進んでいた印象です。こうしたサービスからビジネスのヒントを得ようと、日本の企業関係者の視察が絶えませんでした。

 駐在中には、コロナ前には上海を拠点にさまざまな日中の往来がありました。中国人の訪日客は増加の一途で、クルーズ船での日本旅行も空前のブームでした。一方で日本の著名な漫画家や指揮者、トップアイドルの訪中が相次ぎ、中国側もこれを歓迎していました。

 こうした空気はコロナによって一変してしまいましたが、中国のマーケットが巨大化する中、かつてない規模の日中間の交流が広がりつつあったことも事実です。コロナによって往来は停滞し、日本の対中感情は再び悪化し、なかなか改善の兆しが見られないまま現在に至っています。

 日本国内での中国に対するイメージは決して良好とは言えない状況にあります。海洋での行動や軍事力の増強、国内の人権問題、度重なる日本政府への揺さぶりなど、さまざまな理由があり、これらに警戒し、動きを伝えていくことは極めて大事なことだと思います。一方で、その行動や体制の背景、国内の足元の事情はどうなっているのか。普通の人たちの思いや感情、暮らしぶりは一体どうなのか。その部分を手厚く伝えることも同様に重要だと思います。

 「断片ではなく、自分の周囲で起きていた全体像をどう書けば伝わるだろうか」。こう意識しながらまとめてみました。コロナ禍で日中の往来が難しい中、この間の空白をわずかでも補う参考にして頂けましたら幸いです。

(工藤 哲)

 『上海 特派員が見た「デジタル都市」の最前線』は平凡社新書、定価1,012円(本体920円+税) ISBN 9784582859980

 工藤哲(あきら)さんは1976年青森県生まれ。埼玉県出身。99年に毎日新聞社入社。盛岡支局、東京社会部、外信部、中国総局記者(北京、2011~16年)、特別報道グループ、上海支局長(18~20年)を経て秋田支局次長。著書に「中国人の本音 日本をこう見ている」など。共著『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』(明石書店)で07年疋田桂一郎賞受賞。

2022年2月17日

元モスクワ特派員、飯島一孝さん(73)が新刊『外交官になるには』

 ぺりかん社の「なるにはBOOKS」シリーズの1冊として『外交官になるには』が出版されました。このシリーズは4冊目ですが、これまでの司法関係とはガラッと変わり、外交官に焦点を当てたハウツー本です。

 私は外交官の仕事をしたことはありませんが、毎日新聞時代にモスクワ特派員を6年間やらせていただいたので、その体験が役立つのではと思い、チャレンジしました。

 現役の外交官として活躍されている方々8人を外務省に選んで頂き、オンライン方式でインタビューしたのが本の核になっています。8人の内訳は男女4人ずつで、大使から国連代表部員、さらには儀典外国訪問室員まで様々な職種の方と話ができ、有意義でした。インタビューでは、外交官になろうと思った動機、外国勤務の厳しさと楽しさ、外交官を目指す方へのアドバイスを中心に聞きました。

 一番感動したのは、女性職員が海外で元気一杯働いていることが実感出来たことです。海外で一番厳しいのは外国語を習得することですが、総合職や外務省専門職員はまず海外で2年間、あるいは3年間外国語を叩き込まれて任地へ出かけて行きます。私自身、外国語で苦労しただけに、それをマスターした努力にまず頭が下がります。中には、外国の研修先で同僚と結婚し、子育てしながら働いている女性もいます。

 最近の採用状況を聞くと、女性職員の数が年々増えていて、2021年4月に入省した女性は70人で、全体の48%を占めています。中でも総合職は18人で、男性より多い56%に上っています。他の省庁と比べても、外務省の女性採用比率は上位を占めています。

 入省8年目の女性職員に男女の仕事ぶりを聞いたところ、「仕事は分野や内容に区別なく、男女どちらも担当します。私自身、担う範囲が広がり、とてもやりがいがあります」と話していました。男女とも海外で仕事をしており、性別や学歴に関係なく、良い意味で個人主義的になってきているのだろうと思います。

 ちなみに、女性に人気の理由を外務省人事課の女性職員に聞くと「能力の高い女性が受験しているということでしょう」という答が返ってきました。

 もう少し探ってみると、外務省が学生向けに年2回程度開いているセミナー「学生と語る」が人気のようです。中堅職員が外交課題について講演した後、若手職員男女2人が自分の体験談を披露する形式です。この後、学生からの質問に答える時間を設けていて、学生たちの「ホンネを知りたい」という欲求に答えているからでしょう。

 世界は日々狭くなり、遠い国のクーデターや軍隊配備のニュースが我々の不安感を日々高めているのが実情です。こういう時代だからこそ、外国へ出かけて行き、実態を自分で確かめてみようという人が増えているのかもしれません。外交官は国を代表してそういう仕事ができる職場です。関心のある方は、ぜひこの本を手にとって読んでみてください。きっと役にたつと思います。

(飯島 一孝)

『外交官になるには』は、ぺりかん社刊。定価 本体1500円+税。
 ISBN:9784831516077

2022年2月14日

学芸部の栗原俊雄記者が『東京大空襲の戦後史』刊行~新聞ジャーナリズムの役割を果たすために

 拙著『東京大空襲の戦後史』が2月18日、岩波新書から刊行される。私(栗原)が、毎日新聞のウェブサイトで連載している(現在は休止中)「常夏通信」(https://mainichi.jp/articles/20211201/k00/00m/040/335000c )の一部に大幅に加筆し、再編集したものである。

 1945年3月10日、東京東部の下町に対する米軍の無差別爆撃で、およそ10万人が虐殺された。「東京大空襲」として、歴史の教科書に書かれている。毎年この日、新聞やテレビなどのメディアが77年前のそれを報じる。日本人だけでおよそ310万人が命を奪われた第二次世界大戦の中でも、比較的広く知られている事件であろう。

 ただ私が見る限り、東京大空襲の報道には現在に通じる視座がない。他の戦争被害に関する報道にも通じることだが、空襲体験者を探し出してコメントをもらい、被害の実態を伝え、「戦争だけはしてはいけない」などと締めるのが一つの文法だ。

 それを書く記者は「伝統」の書式に守られ、デスクも安心して読むことができる。読者も読み慣れているだろう。私は、そうした報道が必要だとは思うが、自分ではあまりしない。

 その文法は便利だが、それを使ってしまうと戦争があたかも昔話のように思われてしまうのではないか、という危惧がある。戦闘は77年前に終わった。しかし戦争は終わっていない。それが、私の認識である。

 空襲被害者たちにとって、戦争の終結は新しい苦しみのスタートでもあった。家財産を焼かれた者。保護者を殺された者。子どもを焼き殺された者。被害者は殺された10万人だけではない。その数倍、あるいは数十倍の被害者がいたのだ。私はこうした当事者に取材を重ねてきた。

 我らが日本国は、1952年に独立を回復するや、GHQが禁じていた元軍人・軍属や遺族への補償や援護を始めた。その総額は累計60兆円に及ぶ。ところが民間人には「国が雇用していなかった」という理屈で、びた一文出そうとしなかった。

 国に雇われていようがいまいが、国が始めた戦争で被害に遭った点では同じだ。民間人被害者が「差別だ」と憤るのは当然である。ところが行政は頑として応じない。被害者は司法に解決を求めるが、裁判官たちは「戦争被害受忍論」、つまり「戦争ではみんな何らかの被害があった。だからみんなで我慢しなければならない」という寝言のような「法理」で訴えを退け続けた。東京、大阪、名古屋大空襲の被害者が起こした裁判はすべて原告敗訴が最高裁で確定している。

 判決の中には、原告たちの被害を事実として認定し、立法による解決を促すものもあった。しかし政治家たちは動かない。被害者は政治が動かないからこそ、司法に訴えたのだ。我らが日本国の三権は、こと戦後補償に関する限り被害者を救うためではなく、たらい回しにするために機能してきたのだ。

 裁判闘争の中で多くの空襲被害者たちが倒れた。それでも、立法による解決を信じて国会議員たちに働きかけている者たちが今もいる。80歳を過ぎた被害者たちが、議員たちに陳情をしているのだ。また空襲の後遺症を心身に負ったまま今も苦しんでいる人がいる。広義の戦争は未完なのだ。

 かつて新聞は、政府の広報紙と化して戦争に協力した。であればこそ、新聞ジャーナリズムの最大の役割は、為政者たちに二度と戦争を起こさせないことだ。私は20年近く、この「未完の戦争」の実相を取材している。戦争は国策である。為政者たちの責任が決定的に重い。その為政者たちは、ほんの一部を除き戦地には行かない。行くのは庶民だ。そして国策ミスの勘定書きはその庶民に回されてきて、何十年たっても清算されない。そうした事実を具体的に伝えることが、新しい戦争への抑止力になると、私は信じている。本書がその一助になれば幸いである。

(栗原 俊雄)

 『東京大空襲の戦後史』は岩波新書刊、946円(税込み) ISBN-10 400431916

 栗原俊雄(くりはら・としお)さんは1967年生まれ、東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。1996年毎日新聞入社。横浜支局などを経て2003年から東京学芸部。現在は専門記者(日本近現代史、戦後補償史)

2022年2月7日

整理本部OBの松崎仁紀さん(75)がフットボールをテーマにした『ペーパー・ライオン』を翻訳出版

 今でこそ隆盛を誇るプロフットボールだが、本書が刊行された1960年代、アメリカの人気プロスポーツは大リーグ野球だった。フットボール選手は、柄がでかいばかりで教養とはかけ離れた〝荒くれ者〟というのが一般のイメージだった。ジョージ・プリンプトンは選手経験が全くないにもかかわらず、この世界に飛び込み、練習に汗を流し、寝食を共にすることで、彼らを理解しようとした。シーズン開幕前の数週間、彼はプロチームのトレーニングキャンプに参加し、体験をまとめた。

 舞台になったデトロイト・ライオンズはナショナル・フットボールリーグ(NFL)でも古参チームの一つ。ところが、当時から現在まで優勝した経験がない。言わば〝お荷物チーム〟だが、その大雑把さが魅力にもなっているおかしなチームだ。

 クォーターバックを志願したのに、プレーを始める時、センターの尻に手をあてがうやり方を知らなかったり、味方選手の速い動きに追いつけず突き飛ばされたりと、プリンプトンの失敗ぶりが笑いを誘う。例えば――

 ボールをまたいでじっと待っているセンターのボブ・ウィットローにおずおずと近づいて、出し抜けに口走った。「エー、そのー、コーチ、手をどこに置くのか分からないんです……どこに置けば……」

 コーチ全員が集まってきて一緒に教えてくれ、乳を搾られる牛のように不安そうに振り返るウィットローに取り組んだ。

 やって見せてくれたのは、右手を上にして、ボールの上にかがみ込んだセンターの尻――医学的に言うと、尾骨のすぐ下の会陰部と骨盤底――にあてがい、センターが正確に手の位置を知ることができるよう、ちょっと力を上に加える。するとセンターはそこを目がけて力一杯ボールを振り出す。クォーターバックの左手は付け根と親指を右手に合わせて蝶つがいの形にし、角度はボールがパシっと当たるように十分広げる。すると、ボールの縫い目は自動的に指の真下に来て、ボールを確保するために左手を添えると、すぐ投げられる態勢になる。……

 登場する選手たちも人間性豊かで個性的なところに親しみを覚える。『ペーパー・ライオン』という表題は、プリンプトンが述べているように、毛沢東の「張り子のトラ」からの連想だ。「素顔のライオンズ」と言った方が創作の意図に近いかもしれない。

 プリンプトンは〝ニュー・ジャーナリズム〟と呼ばれた文学と報道にまたがる文章手法の担い手の一人だった。『パリス・レビュー』という文芸誌の編集長を務め、スポーツ誌『スポーツ・イラストレーテッド』に寄稿した。『ティファニーで朝食を』『冷血』で知られるトルーマン・カポーティの伝記『トルーマン・カポーティ(上下)』(新潮文庫)のほか、『遠くからきた大リーガー』(文春文庫)などがある。『ペーパー・ライオン』は「小説家の目と手による報道」という〝体験的ジャーナリズム〟の手法によるノンフィクション。従って、ここに描かれているのはあくまでも「人間」であり、フットボールの技術とか戦術とかではない。

 訳者が本書に出会ったのは1975年ごろ。神田神保町の東京泰文社という古本屋で見つけたペーパーバックで、刊行から9年がたっていた。ベストセラーになり、映画化されたことを知った。「フットボールについて書かれた、これまでで最高の書」というキャッチフレーズにひかれ、通勤の車内で読み始めた。しかし、辞書を引くこともせず、意味の分かるところを拾っていくという、いいかげんな読み方だったので、本書の精髄をどこまで味わえたか心もとない。その後、リプリント版が出版されたことを知り、改めて読み直したくなった。どうせなら、と辞書を横に置き、日本語に置き換えてみた。プリンプトンの洒脱な文章に導かれて、プロフットボールの世界に触れた気になった。趣味から始まった作業が徐々に進むにつれ、何とか本にできないかという欲が頭をもたげてきた。

 プリンプトンはじめ選手やコーチたちの大半がすでにこの世を去った。ずっと年上だと思っていた彼らとあまり差がなかったことに驚かされる。しかし、本書が今なお色あせず、スポーツ文学の「古典」に挙げられる理由は、プリンプトンのユーモアある筆致と選手たちの人間らしさにあるのだろう。プロフットボール人気を高める一助になったという評価もうなずける。日本でも関心が高まってきたフットボールだが、技術書以外の読み物はあまり見かけない。フットボールの面白さを知っていただければ幸いだ。

(松﨑 仁紀)

 「ペーパー・ライオン」は同時代社刊、3,000円+税。ISBN 978-4-88683-916-9

 松﨑仁紀(まつざき・よしのり)さんは1946年生まれ。1969年毎日新聞社入社。水戸支局、東京本社整理本部、社会部などを経て福島支局長、東京本社編集総センター編集部長、紙面審査委員会副委員長。2003年選択定年。

2022年2月2日

元毎日新聞記者(現産経新聞)、古森義久さんが新刊『中国、13の嘘』

 石原慎太郎元東京都知事が亡くなった2月1日、古森義久さんから最新作が届いた。『中国、13の噓』。第1章が「北京冬季五輪の噓」。北京五輪開幕直前に刺激的な書下ろしだ。

 古森さんは社会部の先輩で、私(堤)がサツ回りの時、警視庁捜査二課を担当していた。産経新聞北京特派員(中国総局長)だった1998年8月、毎日新聞論説委員OBらの「北京・上海マスメディア調査団」(団長鳥井守幸さん、副団長天野勝文さん)の一員として北京でランチをご馳走になったことを憶えている。調査団の秘書長澁澤重和さん(当時昭和女子大教授)は古森さんと一緒に警視庁捜査二課を担当していた。

 本にある著者紹介――。

 産経新聞ワシントン駐在客員特派員。1963年慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日新聞社入社。72年から南ベトナムのサイゴン特派員。75年サイゴン支局長。76年ワシントン特派員。81年米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。83年毎日新聞東京本社政治部編集委員。87年毎日新聞を退社して産経新聞社に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長、ワシントン駐在編集特別委員・論説委員などを経て、2013年から現職。2010年より国際教養大学客員教授を兼務。2015年より麗澤大学特別教授を兼務。

 産経新聞に転社した時、パーティーでこう話した。

 「原稿を書く、マス目を埋める作業は、毎日新聞時代も、産経に移っても全く変わらない。新聞記者ほど移籍の自由な職種はないのではないか」

(堤  哲)

 飛鳥新社刊、定価1500円(税込)ISBN:9784864108645

2022年1月11日

元学芸部長、重里徹也さんが新刊『教養としての芥川賞』(共著)

 このほど、友人の助川幸逸郎さん(岐阜女子大教授)との共著『教養としての芥川賞』が青弓社から刊行されました。

 東京・学芸部で文芸記者をしていた頃、年に2回ある芥川賞・直木賞の発表は重要な取材対象の一つでした。毎回、全ての候補作を読み、事前に選考委員に取材をし、大手出版社の編集者たちと意見をたたかわせたり、社内で候補作品についての勉強会をしたりすることもありました。

 芥川賞・直木賞は1935年に創設されました。民間の主催する最も古い文学賞ですが、見方を変えれば、文芸春秋という一つの私企業が運営している賞に過ぎません。それがなぜ、こんなにも大きな存在になったのでしょうか。

 選考の公平性を大事にしていることをはじめ、ジャーナリズムや大衆意識を熟知した運営方法に大きな理由を求めることができるでしょう。また、担当した文芸春秋社員たちの努力も見逃せません。芥川賞・直木賞は成功したビジネス・モデルとしても、多くのことを示唆しているように思えます。

 この本では芥川賞に絞って、この新人認知システムを一望するとともに、歴代の受賞作品から23作品を選んで、助川さんと私がその読み方を語り合っています。

 第1回受賞作の石川達三『蒼茫(そうぼう)』、ベストセラーになった石原慎太郎『太陽の季節』や村上龍『限りなく透明に近いブルー』、綿矢りさ『蹴りたい背中』、最近の話題作の宇佐見りん『推し、燃ゆ』など、日本文学史を彩る作品群に新しい光をあてたつもりです。

 ちなみに、私の芥川賞受賞作ベスト・ファイブは
 ・井上靖『闘牛』
 ・吉行淳之介『驟雨(しゅうう)』
 ・開高健『裸の王様』
 ・古山高麗雄『プレオー8の夜明け』
 ・絲山秋子『沖で待つ』
 でしょうか。いずれの作品についても、この本で議論しています。

 毎友会の皆さんに手に取っていただければ、幸いです。

(重里 徹也)

 『教養としての芥川賞』(青弓社)は重里徹也、助川幸逸郎著。定価2000円+税。

 重里徹也(しげさと・てつや)さんは1957年生まれ。大阪外国語大学ロシア語学科卒。82年に毎日新聞社入社。下関支局、福岡総局、東京本社学芸部、同学芸部長、論説委員などを経て、2015年に退職し、聖徳(せいとく)大学(千葉県松戸市)の教授に。日本近現代文学を教えている。毎日新聞のサイト「経済プレミア」で毎月、新刊の書評を連載中。

《『毎日新聞』2022年1月8日付け「今週の本棚」から》

 『教養としての芥川賞』(青弓社・2200円)

 数多い文学賞のなかで、なぜ「芥川賞」は特別なのか。本書は全編を通してその問いに答えている。

 熟練した「小説の読み手」二人が、歴代の芥川賞受賞作から23作について、縦横無尽に語り尽くす。それぞれの文学観や歴史観、培ってきた知見、個人的な体験を総動員してぶつかり合う対話は非常にスリリングであり、「文芸批評」の本来あるべき方向性を示しているように思う。

 芥川賞は19日の選考で166回を数える。1935年から年2回、ほぼコンスタントに選考会を開き、受賞作を送り出してきた。対象が新人の短編であること、他の賞よりも選考委員が多く、みな実作者であることなどが特長に挙げられる。

 受賞作は、その時代の雰囲気、価値観を知る指標になる。さらに現代を映し出す鏡にもなり、社会を相対化し続けている。二人はそんな小説の味わい方を、全力で堪能しながら私たちに伝えてくれている。

 「村上龍はある意味梶井基次郎に似ている」「村上春樹と対をなす作家は龍ではなく宮本輝ではないか」など、随所で新鮮な言葉に出合った。小説の読み解き方は、どこまでも更新できる。(部)

2021年12月17日

『毎日グラフ』が電子版で復刻―元学芸部長、奥武則さんが解説

 《「新・ときたま日記》から転載》 http://toku1947.blog.fc2.com/blog-entry-569.html

 かつて『毎日グラフ』ありき――毎日新聞社が1948年に創刊したグラフ誌である。

 奇特な(?)出版社が電子書籍として復刻するという。

 上(写真・右)のパンフレットにあるように、なぜか「解説」を依頼された。グラフ誌について取り立てて詳しいわけでもないので躊躇したが、「新聞」と「写真」を「ジャーナリズム」という観点につなげて、いくぶん強引に書いたのが、以下の文章である。

 『毎日グラフ』が創刊されたのは、一九四八年(昭和二三)七月である。六月二一日の毎日新聞に創刊の社告が出ている。

 当時の毎日新聞は裏表二ページだけである。夕刊はまだ復活していない。社告は、戦時中に廃刊した二つの写真雑誌にふれた後、「この両誌の伝統を新しい時代感覚で生かしはつらつたる『毎日グラフ』を創刊することになりました。ご愛読を得たいと思います」とうたっている。

 写真雑誌は、いうまでもなくジャーナリズムの一分野である。ジャーナリズムの大きな役割は、世界と日本の現在をさまざまな角度から切り取り、人々に伝えることにある。そこで写真という媒体が果たす役割は大きい。

 新聞は長くジャーナリズムの王者だった。しかし、この「王者」には国策に迎合し、国民を戦争に駆り立てた負の歴史がある。『毎日グラフ』は、日本が民主国家として再生する道を歩み出したばかりの時期に創刊された。新聞の前にはジャーナリズムの王者としての道がふたたび開けたのである。

 新聞社にはジャーナリズムの役割を果たす組織とノウハウが健在だった。いまだ占領下だったとはいえ、ジャーナリズムの王者と写真という媒体の幸福な結びつきが花開く時代を迎えていた。創刊社告が「新しい時代感覚」を掲げた所以もそこにあっただろう。

 新聞、なかんずく毎日新聞のような全国紙がジャーナリズムの王者だった理由の一つは、その広範な取材網にあった。

 私は一九七〇年四月に毎日新聞社に入り、鹿児島支局に赴任した。当時、東京本社のほかに大阪(大阪市)、西部(北九州市)、中部(名古屋市)に発行本社があり、札幌市には別会社の北海道発行所があった。その他すべての府県庁所在地に支局があり、その下に通信部があった。鹿児島の場合、支局には支局長以下六人の記者、専用車とドライバーがいた。県内には離島の奄美、種子島をはじめ、駐在記者を含め十か所近くの通信部があった。

 むろん、東京には政治部、経済部、社会部をはじめ、生活家庭部、学芸部、運動部といった部門があり、多くの記者たちが日々取材活動をしていた。海外各地には多数の特派員もいた。国内通信社に加え、外国通信社とも特約契約があった。

 さらに、各本社編集局には写真部があり、かなりの写真記者がいた。先にふれた全国各地に所在する記者たちは常にカメラを持っていた。その意味で彼らは写真記者兼業ともいえた。

 写真記者を含めて、記者たちは日々発行される新聞のために取材活動をしていたのであり、一義的には『毎日グラフ』とのかかわりはなかった。だが、こうした手厚く配された耳と目を持つジャーナリズムが、写真雑誌としての『毎日グラフ』を支えていた。

 鹿児島支局にいたころ、一度だけ私が撮影した写真が『毎日グラフ』に載った。たまたまある出来事の起きた現場にいち早く駆け付けただけのことだが、それは私が新聞ジャーナリズムの末端にいたから可能だった。

 だれでもスマホを持ち、動画まで撮影できる現代、この手の「現場写真」はすでに新聞記者の専有物ではない。だが、そうした事態はたかだかここ十数年ほどのことである。ふつうの人々には遠い場と出来事に耳と目を働かせることがいまも記者たちの日常の職務なのである。

 電子書籍としてよみがえる『毎日グラフ』には、こうした新聞社だからこそ可能だった写真ジャーナリズムの実践の成果が盛り込まれている。むろん、それは事件や事故の現場という狭い対象だけではない。新聞社による写真ジャーナリズムの耳と目は、広範に開かれている。政治・経済の「硬派」から世相・風俗まで、さらに映画・演劇・音楽・スポーツなどエンターテインメントの世界まで、それは届いている。

 しかも、その耳と目の働きの結果は蓄積されて残る。毎日新聞社には幕末期からの膨大な写真が残されている。『毎日グラフ』にはときどきの「別冊」などにもこのアーカイブが活用された。

 今回、この一文を書くために、国立国会図書館(東京本館)で、『毎日グラフ』の初期バックナンバーを閲覧した。「別室閲覧 禁複写資料」だった。特製の帙に収まった創刊号を開く。紙が破れないようにていねいにゆっくりめくる。

 表紙は女優の高峰秀子。巻頭特集は「歸鄕」(常用漢字にすれば「帰郷」)。シベリアや樺太からの帰還者の姿や故郷に帰った際の様子を全四ページ十二枚の写真と短いキャプションで伝えている。

 最初の一ページ大の写真は、舞鶴港に着いた帰還船のデッキに立つ若者と老人のアップ。若者は顔を輝かせ、老人は嗚咽をこらえるような苦悶の表情を浮かべている。皺が深い。

 「さびしい田舎道を荷物の重みによろめきながら身寄りをたずねてゆく五人の母と子と…」というキャプションのついた写真もある。撮影地は秋田県である。

 シベリア開拓団をめぐる悲劇と苦難を記した書物は多い。樺太帰還者についても同様の記録を読むことができるだろう。だが、大判の写真を中心にした『毎日グラフ』創刊号の「歸鄕」特集は、活字の記録とは別のかたちで、ある時代に生きた人と歴史を雄弁に伝えている。

 以上は創刊号の、それも巻頭特集の一部を紹介したに過ぎない。電子書籍版『毎日グラフ』は閲覧すれば、私たちはすべての号で、こうした体験をすることになるだろう。

 インターネットが普及し、あらゆる分野でデジタル化が進み、だれもが情報を発信し、その受け手にもなりうる現代、新聞はとっくにジャーナリズムの王者ではなくなっているのかもしれない。一方、デジタル社会がもたらす影の面もさまざまに指摘されている。

 図書館でこわごわとページをめくることなく、電子書籍版『毎日グラフ』を自由に閲覧できることはまちがいなくデジタル社会の光である。

 近現代史の研究者をはじめ多様な関心を持つ著作者たち、さらには来し方を振り返り、行く末に思う多くの人々にとって、電子書籍としてよみがえった『毎日グラフ』はまさに宝庫となるに違いない。

 個人で入手するにはいささか高価だが(注:1アクセス99,000円)、大学図書館や道府県の代表的な公立図書館には備えてほしいと思う。

 ※復刻版は図書出版株式会社かなえが発刊。
 https://kanae-book.co.jp/academic.html

 同社の『毎日グラフ 復刻版』新刊情報によると新刊第二弾は、『毎日グラフ復刻版』です。戦後グラフ誌創刊ラッシュ時に中心的存在となった「毎日グラフ」。その1948年創刊号から別冊・増刊を含めて順次刊行。表紙を含めた全頁に本誌に無い月号表示とページ数を付し、電子書籍には便利なしおり機能も加え、『毎日グラフ』とは1948年7月に毎日新聞社より刊行された写真報道誌。判型や刊行頻度を変え、誌名も「アミューズ」と変えた後、2001年に休刊。政治・経済から芸能・音楽・スポーツなどの幅広いジャンルを紹介し、グラフ誌が競合しあった時代においても、その斬新なレイアウトとペーソス溢れる文章で注目を集め続けた。

【解説】
〈解説文のPDFはこちら〉
(敬称略)
 奥 武則 (法政大学名誉教授 毎日新聞客員編集委員)
 森 暢平 (成城大学文芸学部教授 元毎日新聞記者)
【推薦】
〈推薦文のPDFはこちら〉
(敬称略)
 江川紹子  神奈川大学国際日本学部特任教授 ジャーナリスト
 難波功士  関西学院大学社会学部教授
 石田あゆう  桃山学院大学社会学部教授
 Martyn David Smith  Lecturer in Japanese Studies, School of East Asian Studies, The University of Sheffield.

 森暢平さんの解説も、上記PDFを開けば、読めます。

2021年11月22日

京都版連載「カキナーレ」の筆者は富士山遭難で九死に一生


深谷純一さん(2014年撮影)

 「毎日新聞京都版の146回にわたる連載から、精選して再編集」と版元のコメントにあったことから、このHPで紹介してもよいのかなと思った。

 「2008年5月から月2回の掲載でスタートし、2014年7月(146回)で終了した」と筆者のあとがきにある。

 京都の私立「成安女子高校」(現在は京都産業大学付属中高校)の国語の先生をしていて、作文教育の一環で始めた「カキナーレ」ノート。その目的は「文章に書き慣れる」ためだったが、「書き慣れ」が、舌がもつれて「カキナーレ」になってしまったのだという。

 ペンネーム、ウソもOK。ノートに本音が溢れた。第1集は2001年発行、第2集は自費出版で2010年、そして今回第3集。生徒たちの作文に、筆者「カキナーレ庵主人」のコメントを初めてつけた。

 筆者深谷純一さんは、私(堤)と早大卒の同級生。在学中は一切面識がなかったが、卒業50年を記念して体育局(現競技スポーツセンター)運動部39部の同期会で「早龍会50年記念誌」を発行したとき、山岳部にいた深谷さんが貴重な体験を寄稿してくれた。

 本の筆者紹介にある「1960年11月の富士山合宿で雪崩に遭い、九死に一生を得たこと」である。

 新人部員対象の新雪期訓練の合宿で、参加者は深谷さんら1年生が11人、上級生12人の総勢23人。その2日目。9合目付近(3550m)で雪崩に巻き込まれ、5合目(2400m)まで一気に流された。高低差1千㍍余。死者4人、重軽傷者15人を出し、山岳部は活動停止に追い込まれた。

 「お母さんと叫んで、気を失った」という深谷さんだったが、雪の中から右手首が出ていたことが発見につながり、救出された。「生と死は偶然」という思いが、その後の人生観になったという。同期の新人は2人が死亡、9人も重軽傷を負った。

 深谷さんは現在、79歳。京都の自宅は「カキナーレ庵」の表札が出ている。社会福祉ボランティア団体「カキナーレ塾」を主宰し、「カキナーレ通信」の発行(年3回)や読書会・教育集会・朗読会等を実施している。

 東方出版刊、定価 1,800円+税
 ISBN:978-4-86249-420-7

(堤  哲)

2021年11月12日

岩波ブックレット『アウシュヴィッツ 生還者からあなたへ―14歳、私は生きる道を選んだ』――元大阪本社経済部長、中村秀明さんがイタリアで翻訳

 2018年10月に定年直前で退職し、イタリア北部の街ボローニャで大学生生活を送っている。日本を離れて4年目に入ったこの秋、岩波ブックレット「アウシュヴィッツ 生還者からあなたへー14歳、私は生きる道を選んだ」を出版した。

 イタリア人女性リリアナ・セグレさんについての本だ。少女時代にアウシュヴィッツへ送られ、死の収容所での日々を生きのびた数少ない生存者の一人である。長い沈黙の後、60歳ごろから若者らに向けて自らの経験を語り続け、昨年秋に90歳となった節目に証言活動を終えた。

 若者や当時のコンテ首相らを前にした、1時間あまりの「最後の証言」を日本語に翻訳し、インタビューなども盛り込んだ本だ。頼まれたわけではない。記者魂は貧弱なので、その成せる技でもない。新型コロナの感染拡大で旅どころか隣町にすら行けず、ただ時間を持て余して始めたというのが本当のところだ。

 しかし、やっているうちに彼女の強い思いが乗り移り、日本に届けたくなった。今年の初め、旧知の岩波書店編集者に粗読みしてもらうと、「日本の若者にも読んでもらいたいですね」と脈ありの返事。この編集者の尽力と当時のイタリア文化会館館長カルヴェッティさんの協力、同級生でもある妻の励ましなどで、なんとか刊行までこぎ着けた。

8月の昼下がり、ベネチアに着いた大学生の私。苦闘の日々の合間に、あちこちを旅するのが楽しみだ。それもコロナの感染状況次第だけど……

 セグレさんの証言には、ナチス・ドイツによる戦争犯罪、ヨーロッパで起きた昔の話というのではなく、現在、そして未来に通じる思いや願いが込められている。それは「無関心」こそが、偏見や差別、排除と迫害、そして社会の分断の始まりになるということだ。それは、生きのびて帰国した後も彼女を苦しめ続け、今またイタリアにとどまらず、世界中でじわじわと広がっていると彼女は危惧している。

 本は安価で100ページに満たず、高校生くらいを意識して読みやすいように書いたつもりだ。お手にとっていただき、身近な若い人たちに一読を薦めてほしい。

 近況も書くよう、との指示を受けた。しかし、60過ぎて哲学科で学ぶ日々は、頭脳劣化との勝ち目のない格闘であり、正直、往生している。卒業への道のりは想像以上に険しく長い……。

(中村 秀明)

 岩波ブックレット『アウシュヴィッツ生還者からあなたへー14歳、私は生きる道を選んだ』はリリアナ・セグレ著、中村秀明訳。定価520円+税。

 中村秀明さんは1958年生まれ。1981年に毎日新聞社入社。経済部、大阪本社経済部長、論説副委員長など歴任し、2018年秋に退職後、イタリアに渡りボローニャ大学で哲学を学んでいる。ブックレットには、アウシュヴィッツで撮影した写真も収録されている。

2021年11月8日

毎日新聞出身の石戸諭さんが『東京ルポルタージュ』『視えない線を歩く』刊行へ

◆『東京ルポルタージュ』の概要は以下の通りです。

 上京して「正義」の自粛警察活動に勤しんだ、ユーチューバーの知られざる過去――
 新型コロナの感染源と名指しされた「夜の街」、取り戻すために動き出した人々の想い――
 東京オリンピック、最前線で感染症対策にあたった専門家が考えたこと――
 薬物依存症患者が直面した危機、やがて彼は小説を書きはじめる――
 「鬼滅の刃」だけが救いになった女性が選んだ道――
 行政が機能不全に陥る中で、訪問診療で新型コロナ患者を救おうとした医師――
 休業を選んだバーが、それでも営業をあきらめない理由――
 デビュー40年目の佐野元春が日本武道館ライブで歌う、「今までの君はまちがいじゃない」――
 困難に直面しても、人は集い、そして歩き始める。

 第1回PEPジャーナリスト大賞受賞、気鋭のノンフィクションライターが街を歩き、耳を澄まし、描き出す。 2020年〜2021年、激動の東京。感染と祭典の都市に生まれた31の物語 聴け、東京の声を――

 「私は歌舞伎町が感染者を責めない街ならば、この社会はあらゆるものを責める社会ではないかと思った。 敵を見つけ、名指しし、排除も差別も肯定する社会を目指すのか。 専門知と現場で積み上がった知を組み合わせて、 共通の目標としてリスクの低減に向けて動き出すのか。 少なくとも、新宿・歌舞伎町という街を守るため、 新型コロナウイルス対策に邁進した行政、名指しされながらも 日々経営を続ける人々は後者を選び、歩き出している」 (本書収録「名指しされた人々」より)

◆「視えない線を歩く」の概要は以下の通りです。

 2011年3月11日。あの日から続く非常事態を人々はどう生きたか。何を考えたか。

 論争の中で塗りつぶされていく多様性、忘却されていく過去を、ていねいに見つめ直す。
 第1回PEPジャーナリズム大賞受賞のノンフィクションライターが綴る傑作。

 第1章 先取りされた「緊急事態」の記録
 第2章 人に会いに行く
 第3章 理解、その先へ
 第4章 トモヤの10年
 第5章 何も知らない
 終章 家族の時間

(石戸 諭)

 「視えない線を歩く」は講談社から11月12日発売。1,650円(税込み)「東京ルポルタージュ」は毎日新聞出版から11月27日発売。1,760円(税込み)。副題に「疫病とオリンピックの街で」

 ※石戸諭(いしど・さとる)さんは1984年生まれ。2006年毎日新聞入社、同年4月〜2011年3月まで岡山支局。2011年4月〜2014年3月まで大阪社会部。2014年4月〜2015年12月までデジタル報道センター。2018年4月に独立しフリーランスに。

2021年11月4日

『冤罪の構図 松川事件と「諏訪メモ」―倉嶋康・毎日新聞記者の回顧から』

 きっかけは、倉嶋康さんのフェイスブック連載「記者クラブ」で、2020年10月12日から2021年6月28日まで、計124回にわたった「松川事件」に引き付けられました。

 「私はこのシリーズ(記者クラブ)を書こうと思い立った時、松川事件の話は触れないつもりでした。(略)しかし、記者クラブの話を通して描きたいのが、行政も民間も巧みにメディアを利用するという内容なので、どうしても避けては通れないのがこの松川事件なのです。自慢話と思わないで下さい」

 敗戦後の1949年夏、下山事件、三鷹事件、松川事件と国鉄を現場とする事件が立て続けに起きました。いずれも表では共産党など反政府勢力による関与が喧伝され、裏ではアメリカ占領軍による謀略が噂されました。中で、松川事件は20人に及ぶ大量逮捕に発展、多くが共産党員でもあったことから、共産党による謀略の典型として世に浸透していくことになります。

 これを逆転させたのが「諏訪メモ」です。威力は絶大でした。松川裁判は治安権力による虚構だったのです。倉嶋さんは、捜査の核にいた刑事の一人から、それまで酒席を一緒にしたり仲良しだったのに、「お前はアカか」となじられました。そんな逸話をはじめ、当時の捜査環境や世情が克明に、時に熱く、時に淡々と、また軽妙な筆致も交え、読んでいて、飽くことありませんでした。

 倉嶋さんは「親父から自慢話はするなと言われていました」と言っています。それにも増して、「諏訪メモ」の重さが口を重くしていたのだと思われます。裁判をひっくり返しただけでなく、4人の無実が死の淵(死刑)から生還したのです。それも最高裁での有罪確定が必至とされた瀬戸際での新証拠でした。

 重しを解くには時間が必要です。今年(2021年)88歳となった倉嶋さんにそのときがきたのでしょう。あったことをあったままに世に伝え後世に遺す。これは大事なことです。この共感をさらに広く多くのひとに伝えたい。そう思わせてくれました。そして、その思いを伝え、快諾をいただいた次第です。

 同時に、「スパイ冤罪事件」(宮澤・レーン・スパイ冤罪事件)の真相を究明した視点から「裁判・松川事件」を検証しておきたいと思いたちました。共通項がいくつかあり、二度と国家権力による冤罪を起こさせない運動の一石になる、そう思えたからです。すると、同じ場面ながら違う視野も開けてきました。捏造の一翼をになった検察・司法にも、逆転を支える良心が厳としてあったことです。「諏訪メモ」がいわば触媒となって、重要な局面、局面で発揮されていました。その大本が新聞記者・倉嶋さんの働きですが、一つ欠けてもあわやの良心の連鎖と知れました。

 この一連を取りまとめたのが、「第二部・冤罪の構図」です。「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会」では宮澤・レーン事件で『引き裂かれた青春』(花伝社刊)及び『総資料総目録』を刊行、昨年(2020年)にはその延長で『検証 良心の自由 レッド・パージ70年』を刊行、そして今回と位置づけております。さまざまな場面でさまざまに活動する多くのみなさんとの連帯になればと、願ってやみません。

 最後に大事は、「実在・松川事件」は発生72年にして未解決なことです。「冤罪・松川事件」は裁判によって正道に戻り解決しましたが、事件の犠牲者の無念は晴らされておりません。いま、戦後76年にして風化の懸念が課題となっています。ここでは新聞のありようも問われています。

 飽くなき好奇心と良心を以て真実解明に日々を尽くした倉嶋さんの昔語りを糧に、その系譜が豊かに継承されることを願って本冊子の刊行となりました。倉嶋さんに感謝し、刊行に関わった本会事務局として、一端を紹介させていただきました。意を汲んでいただければ何よりです。

(本書「はじめに」から  福島 清)

 (注 本書は「真相を広める会」のホームページ http://miyazawa-lane.com/index.html で、全文が公開されています)

2021年10月20日

政治部記者だった尾中香尚里さんが初めての単著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」

 ごぶさたしております。1988年入社、2019年退社の尾中香尚里です。

 いきなりで恐縮ですが、先週の10月15日、集英社新書より初の単著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」を出版させていただきました。

 発売からまだ数日ですが、筆者も出版社も驚くほどの反響があり、昨日早々に増刷が決まりました。多くの方にお手にとっていただき、感激しています。

 この本のベースになったのは、毎日新聞政治部時代の取材経験です。

 10年前の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故当時、私は政治部のデスクとして、民主党の菅直人政権と対峙していました。

 政治部ではほぼ「野党担当専門」のように育てられ、結果としてこの時の政権幹部の大半が日常的な取材対象だった私にとって、震災発生から菅首相の退陣までは、ただひたすらに心身をすり減らす日々でした。ただその中で、私が見ていた菅政権の、特に原発事故対応に関する当時の世論の評価が、政権に対してやや不当に低いとも感じていました。

 当時の政権幹部は私にとって身近な存在であり、自分の見方にひいき目がある可能性は否定できない、と自戒していました。政治権力を相手にしている以上、取材先には厳しく対峙しなければいけないとも思っていました。

 しかし同時に、こちらがどんなに取材してさまざまな検証記事を紙面化しても、それを上回るかのように、事実が若干歪んだ形で伝えられた上での誹謗中傷とも言える声も少なからず耳にし、「本当にこのままでいいのか」と思い悩んだことも事実でした。

 民主党が政権を離れ、少し世論も落ち着いてきたあとで、一度冷静な形で当時の再検証のようなものを書いてみたい。毎日新聞在籍当時から、そんな思いを漠然と抱いていました。そして昨年夏、ご縁あって集英社新書から単著執筆のお声がかかりました。

 ところが、出版に向けて動き出したその直後、当時の安倍晋三首相が突然辞任しました。震災と原発事故に勝るとも劣らない「国難」といえた新型コロナウイルス感染症への対応に右往左往した安倍首相。彼こそが原発事故当時、原発の海水注入をめぐる誤った情報をもとに、当時の菅首相を、口を極めて罵っていた当事者でした。

 このことに編集者さんが気づき、本の内容は「原発事故対応の再検証」から「菅政権と安倍政権の危機対応比較」へと、大きく比重を移すことになりました。毎日新聞時代の取材記録や、退職後に共同通信47NEWSで執筆していたコラムの内容を大幅に加筆する形で、本格的な執筆が始まりました。

 1人で単行本を執筆するのは、これが初めて。一方で地元・神奈川県藤沢市でのタウン誌での記事執筆、東京都狛江市でのコミュニティFMでの番組出演などさまざまな仕事が重なり、執筆は全く進みませんでした。当初は今年3月の震災10年の節目での出版を目指していたのですが、出版どころか脱稿もできないという、惨憺たる状況でした。

 ようやく本文を書き終えたのは今年度に入ってからでしたが、その頃には後任の菅義偉政権のコロナ対応にも大きな注目が集まり、思い悩んだ挙げ句、あとがきで補足することに。当然ながら脱稿はさらに遅れました。

 何とか書き上げたのが7月下旬。あとがきの最後に「7月23日 東京五輪開幕の日に」と書き添えて、全ての原稿を手放しました。出版もこの時点で「10月15日」と決まっていました。

 すると9月3日、何と菅(すが)首相が月末の自民党総裁選への不出馬、すなわち退陣を表明したではありませんか。そして、編集者さんからの連絡が……

 「まだ校了していません!」

 かくして、最後の最後で「菅首相退陣」まで無理やり入れ込むはめになりました。

 新聞記者時代に何度となく遭遇した、締め切り間際の原稿大幅差し替え。まさか単行本にもそういう世界があるとは、全く思いませんでした。

 そして、この菅首相の退陣によって、ご承知のように総選挙の時期が後ろ倒しされ、10月14日衆院解散、19日公示、31日投開票という日程に。

 まさかの「発売日が解散の翌日」という事態になったのです。

 これを運と言って良いのかどうか、全く分かりません。しかし、結果としてあまりにもタイムリーな時期の出版となり、筆者も出版社も全く想定しなかったほど、多くの皆さんに手に取っていただいています。戸惑うばかりですが、とにかく、懸命に書いたものが多くの方に届いていることを、今はただ喜びたいと思っています。

 10月20日の毎日新聞朝刊に、本書の書籍広告が掲載されました。

 退職からちょうど2年。古巣の新聞にこうして自分の名前を刻むことができることに、深い感慨を抱いています。そして、ここまで私を育てていただいた多くの先輩、同僚、後輩たち、毎日新聞社という組織に、今はただ感謝の思いでいっぱいです。

 本当にありがとうございました。

 そしてここまで来たら、もう何としても来たる投開票日までの間に、1人でも多くの方に本書をお読みいただきたいと、切に願っています。

 大切な、大切な選挙です。どうかその総選挙のおともに、本書を使ってやってください。

 店頭に在庫が少なければ、電子書籍もございます。どうかよろしくお願い致します。

(尾中 香尚里)

 尾中香尚里(おなか・かおり)さんは福岡県出身。早稲田大学第一文学部卒業後、1988年入社。初任地は千葉支局。主に政治部で野党や国会を中心に取材。政治部・生活報道部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを務め、2019年に退社。
 新著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」(集英社新書) 定価1034円(税込み)

2021年10月13日

『村上春樹をめぐるメモらんだむ 2019-2021』を学芸部編集委員、大井浩一さんが刊行

 7月の『大岡信 架橋する詩人』(岩波新書)に続き、9月に『村上春樹をめぐるメモらんだむ 2019-2021』(毎日新聞出版)を刊行した。いずれも毎日新聞連載をまとめた本だ(後者は毎月第4日曜朝刊文化面に連載継続中)。

 来年2月の還暦を前にした記念出版……というようなつもりは全くなく、たまたま刊行時期が重なった。特に、『村上春樹をめぐるメモらんだむ 2019-2021』(以下は『村上メモ』)のほうは今春、『大岡信』の校正を一通り終えた後、毎日新聞出版に話を持って行ったところ、「9月に出せるなら出す」ということになり、大わらわで間に合わせた感じだった。

 『大岡信』は既に本欄で望外の紹介をしていただいたが、その後、いくつか書評が出た。中でも、毎日新聞10月9日朝刊「今週の本棚」で、社会学者の橋爪大三郎さんがコンパクトながら核心をついた評を書いてくださったのはありがたかった。

 サブタイトルの「架橋」は、大岡さんが現代詩のみならず、古今東西の文学から現代の美術、音楽、演劇など幅広い芸術を論じ、また多ジャンルの芸術家と共作を試みたことを指す。このことを橋爪さんは「輝く星々が夜空を横切るのを、じっと引力の場を張って支える銀河の中心」と絶妙の比喩を用いて表現された。本書には1960~70年代の「政治の季節」をはじめとする時代背景も多く書き込んだが、まさにその時代に青春期を過ごした橋爪さんの世代が、ごく自然に現代詩になじみ、深い理解を持ったことの証左とも感じる。

 一方、『村上メモ』は、何かの巡り合わせで学芸記者になって間もない97年から取材してきた村上春樹さんの最近の動静を、かなり個人的な体験や感想を交えながらつづっているコラム(ウェブ版)をまとめたものである。ルポともエッセーとも評論ともつかない文章を自由に書かせてくれる毎日新聞の度量の大きさには感謝している。

 コラムを思い立ったのは、かつてメディアの取材にほとんど応じなかった村上さんがここ数年、ラジオDJを始めるなど、公の場によく姿を現し、積極的に発言するようになったからだった。こういう方面の話題は、取材してもごく一部を記事にできるだけで、残りは自分の記憶にとどめるのみとなる。それではもったいないという気持ちだった。

 ところが、2019年の連載スタート(当初は月2回だった)から半年もたたないうちに、新型コロナウイルスの感染が拡大し、世の中の様相は一変した。日本と海外を頻繁に往復していた村上さんも国内に「足止め」状態となったわけだが、ラジオ番組などでは休業で苦境に陥った人々に寄り添うコメントとともに、「説明しない」政治への厳しい批判も口にした。思いがけずコロナ禍と、その中で旺盛な発信を続ける作家の動きと伴走する形となり、当初考えていた以上に貴重な記録になったかもしれない。

 幸い、20年7月の単独インタビューも、村上さんの了解を得て収録することができた。出版物としては、これが最大の読みどころといえるだろう。72歳の村上さんの活動は質量ともに年齢を感じさせない。こちらも年寄りぶってはいられない。裏話もいろいろあるが、まだ現役の記者という立場に免じて、この辺でご容赦いただきたい。

(大井 浩一)

『村上春樹をめぐるメモらんだむ 2019-2021』 毎日新聞出版1980円(税込み)
ISBN:978-4-620-32700-6
大井浩一(おおい こういち)さんは1962年、大阪市生まれ。1987年、毎日新聞社入社。社会部などを経て学芸部長、大東文化大学、法政大学講師を歴任。著書『批評の熱度──体験的吉本隆明論』(勁草書房)、「2100年へのパラダイム・シフト」(共編著、作品社)など。

2021年10月12日

元社会部司法記者、飯島一孝さんが新刊「弁護士になるには」――検察官、裁判官、弁護士の3部作完結

 「あなたにとって魅力的な職業とは?」「どうしたらその職業につけるのですか?」

 こうした問いに答えてくれるぺりかん社の「なるにはBOOKS」を手がけて3冊目の本「弁護士になるには」が、このほど出版されました。「検察官になるには」「裁判官になるには」に続く3冊目の司法関係の本で、法曹3部作が揃ったことになります。毎日新聞の司法記者時代に得た経験を踏まえてまとめたつもりですが、どこまで真相に迫れたかは、読者の判断に委ねたいと思います。

 私自身、学生時代には弁護士という職業に憧れた時期もあったので、前の2冊以上に気持ちを込めて書いたつもりです。実際に入学したのは外国語を教える大学で、私の憧れはそこで途絶えた形です。だが、学生の中には司法試験を目指して勉強していた人もいました。クラブの先輩はいったん就職した会社を辞めて司法試験に挑みましたが、合格まで10年近くかかりました。

 さて、前文が長すぎましたが、今回改めて、弁護士を開業している方たち約10人にインタビューしてみて、私が記者として関わった頃と比べて、様変わりしているなと感じました。

 その第一は、司法試験合格までの期間が間違いなく短縮され、合格しやすくなったことです。その最大の理由は試験制度改革で法科大学院(ロースクール)ができたことです。大学法学部を卒業してロースクールで所定の単位を取得・終了すれば、約3人に1人が司法試験に合格できるようになりました。あえて言えば、3年間試験を受け続ければ、ほぼ間違いなく合格できるということです。

 一方で、「誰でも取れる簡単な資格になってほしくない。私は2回不合格になったが、いい意味で挫折感を味わった貴重な経験だった」と語るベテラン弁護士もいました。

 第二は、試験制度改革で弁護士の数が増加し、2018年には4万人を超えています。今後も増え続き、20年後には6万人を超すと推測されています。訴訟社会と言われる欧米諸国に迫っていることは間違いありません。

 第三は、弁護士の職場が法廷から企業や中央官庁に急速に広がっていることです。特に目立つのは、企業に所属して職務を行う「企業内弁護士」で、この10年間で約6倍に増えています。外部から口を出す顧問弁護士と違って、企業の中から法律問題をチェックできるメリットがあるからです。

 その一方、弁護士が数百人所属する大規模法律事務所が増えていて、このうち上位5社は「5大ローファーム」と呼ばれています。こうした事務所では優秀な人材を集めていて、毎年採用される裁判官と検察官の総数とほぼ同数の優秀な人材を確保していると言われています。もちろん、採用された弁護士には高給が支払われていることは明らかです。

 こうした現実を目の当たりにして、日本の司法界も今後さらに変わっていくだろうと思います。ただ、高収入を稼ぐ勝者と、事務所経費に追われる敗者との格差がますます広がっていく気がします。カネや権力に動かされず、正義を貫く弁護士が増えることを心から願っています。

(飯島 一孝)

※「弁護士になるには」 ぺりかん社、定価 1500円+税

2021年10月11日

運動部・論説OB落合博さん著『新聞記者、本屋になる』


 落合博さんの著書『新聞記者、本屋になる』(光文社新書、1,034円税とも)が10日付読売新聞読書欄で紹介された。浅草田原町に2017年4月開店した「Readin' Writin' BOOKSTORE」。

 落合さんは読売新聞大阪本社に入社、7年間勤めて退社、トライアスロンの専門誌を経て、毎日新聞に。運動部から論説委員。58歳で退職。店舗は、元材木倉庫だから、天井が高いうえに、中2階もある。ユニークな本屋さんである。

ISBN 978-4-334-04561-6

(堤  哲)

2021年9月27日

毎日新聞出身の石戸諭さんが『ニュースの未来』刊行

 8月に『ニュースの未来』(光文社新書)という本を出版した。新聞社そしてインターネットメディア、独立した書き手として雑誌、テレビまでさまざまメディアを横断しながら働いている経験をベースに、未来へのヒントがどこにあるのかを探った一冊だ。とりわけメディア環境に左右されない「良いニュース」とは何かという問いを深めている。

 この手の本には「なぜ、あなたが書く必要があるのか」という疑問が必ず寄せられる。40歳でも小僧扱いされる業界のなかで、30代が書くというのもどうなのかという声も少なからずあるだろう。そこで、私はこう答えてきた。新聞社、インターネットメディアで社員記者を経験しながら、かつ独立した書き手であるというキャリアを歩んでいる人を私は自分以外知らない。取材して書くという仕事を続けることは想像している以上に難しいことなのだから、と。

 やや単純化して語れば、新聞記者は将来に対して悲観的な傾向が強い。マスゴミと揶揄され、会社が無くなってしまった時のビジョンが描けないからだ。逆にインターネットメディアにいる人々は過剰なほど自信を持っている。ページビューなどの数字を上げていけば、ビジネスが成立することを知っているから、それも当然といえば当然のことだが、実際に実力があるという人は少数である。メディア環境の追い風、もしくは向かい風と、実力を勘違いしてしまうことほど恐ろしいことはないだろう。

 拙著にもインターネット業界の全体の課題として人材育成機能を上げたが、新聞社やNHK、テレビ、週刊誌記者以外で基本的な取材力を鍛えられるメディアはない。インターネットでも一部は可能かもしれないが、毎年のように一定数を鍛えられる環境ではないのだ。

 新聞記者が思っている以上に、新聞業界はまだまだ恵まれている。それも昔以上に今のほうが恵まれている。字数あるいは本数で数えてみてほしい。仮にフリーランスになったとして、新聞と同じ仕事内容で稼げる額が給与を上回るという記者は超少数だろう。その月に記事を書いても書かなくても一定の給与が保障されている企業は業界の外に存在しない。取材源にアクセスできる力も圧倒的に新聞記者は優位に立っている。

 恵まれた環境というのは、拙著で定義した「良いニュース」を出せる環境ということでもある。私は「良いニュース」を「事実に基づき、社会的なイシュー(論点、争点)について、読んだ人に新しい気づきを与え、かつ読まれるものである。」と定義し、そこには五つの要素があると書いた。それが五大要素と名付けた謎、驚き、批評、個性、思考だ。社会の謎に迫り、驚きを与えるだけでなく、そこには批評が宿り、誰でもできない個性があり、さらに読んだ人にとって考える時間になること。これは、新聞だろうがインターネットだろうが、映像だろうが関係なくあらゆるメディアで通用する定義であり、必要不可欠な要素だ。

 その中には社会をあっと言わせるスクープ、伝統的な特ダネや調査報道、優れたルポルタージュ、単なる説教で終わらない滋味深いコラムもあるだろう。新聞記者が「良いニュース」をどれだけ積み上げていけば、この社会のメディア環境は確実に変わるし、ニュースの未来はより豊かなものになる。

 良いニュースを増やすこと、良いニュースの市場を開拓すること、良いニュースが届けられるメディアの仕組みを作ること、良いニュースの利益が上がるようなシステムを開発することは、それぞれにプロが必要とされている。書き手だけでなく、クオリティを高めるためにはデスクの力も不可欠だ。そして、誰かがサボってしまえば、今以上に状況は劣化する。新聞業界に吹く向かい風のなか、これは困難な道かと聞かれたら当然、イエスだ。

 だが、こう問い直してみよう。

 環境の変化に適応するために変化を選んできたのは、今だけの問題だろうか。実はそんなことはない。かつては記者が記名で持論を展開するのは不文律に反する禁じ手だった。毎日新聞の「記者の目」は常識を打ち破る挑戦だったのだ。それは、新しいメディアだったテレビが速報性、生放送のリアリティで勝負するという流れに対し、深く取材した記者が裏側を自分の言葉でオピニオンを書くという新しい方法で「良いニュース」を生み出す一手にもなっていた。常識にとらわれず、より良い方法を生み出すことが、新聞―とりわけ毎日新聞―の伝統だと私は考えている。

 今、そのような方法の追求はあるだろうか。私はやっていると自負しているが、私の仕事は、ある意味では言語化されていない伝統に連なっているに過ぎないとも言える。そんな話も『ニュースの未来』に記したので、ぜひ御一読いただきたい。

 さて、年内には群像、そしてサンデー毎日の連載をまとめた書籍がそれぞれ講談社、毎日新聞出版より出版されることになっている。ニュースの未来を切り開くための一冊になるために、多くの時間を費やしている。

(石戸 諭)

※石戸諭(いしど・さとる)さんは1984年生まれ。2006年毎日新聞入社、同年4月〜2011年3月まで岡山支局。2011年4月〜2014年3月まで大阪社会部。2014年4月〜2015年12月までデジタル報道センター。退職後、2016年1月、BuzzFeed Japanに転職。2018年4月に独立しフリーランスに。著書には、毎日新聞時代の師匠として岡山支局のデスクだった山根浩二さんが登場する。近著に『ルポ百田尚樹現象 愛国ポピュリズムの現在地』(小学館)など。

2021年9月21日

元外信部長、西川恵さんが『教養として学んでおきたい 日本の皇室』刊行

 最近、マイナビ出版「教養として学んでおきたい」シリーズで、『日本の皇室』を上梓しました。これまで皇室に関係するものでは『知られざる皇室外交』(角川新書)と『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)を出し、外交の脈絡に皇室を置いた時、どのような世界が見えるかを描きました。今回は皇室そのものを書いてほしいという編集者からの要望です。「皇室の専門家ではない」と断ったのですが、最後は編集者の熱意に根負けし、勉強の機会にするつもりで引き受けました。

 タイトルから分かる通り、皇室のイロハの解説ですが、単にこれまで書かれていることの上書きでは意味がありません。先行研究に学びつつ、私の国際政治記者としての経験を踏まえ、「伝統文化の継承と国際性」に21世紀の皇室の意義を見出したいと指摘しました。

 伝統文化の継承でいえば、天皇は縄文・弥生時代以来のアニミズム系文化を神話・祭祀・儀礼などの形で引き継いでいます。ほとんどの先進国ではアニミズムや神話に彩られた土着信仰は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教にとって代わられ、合理精神に基づく社会建設へと向かいました。これに対して民間信仰の神道にもみられるように、アニミズム系文化が社会に息づいている日本は先進国でもかなり特殊です。

 国際性でいえば、少し説明が長くなりますがお許しを。

 今上天皇は親王だった1980年代の半ば、2年4カ月を英オックスフォードで学ばれ、寮生活を送りました。毎朝、大学の食堂で朝食をすませると、購読している英ザ・タイムズ紙を郵便受けからとり、講義の前のひととき、自分で淹れたコーヒーを飲みながら英紙に目を通すのが日課でした。ここでじっくり世界のありようを自分の中に落とし込んだのではないでしょうか。

 私も欧州で特派員をしたから分かりますが、日本ではもっぱら東西の視点で国際政治を眺めますが、欧州にいると、東西と共に南北の視点、つまり地球を俯瞰する視点が育ちます。

 特に徳仁親王の英国滞在中の84年、サッチャー英首相はソ連指導部のナンバー2になったゴルバチョフ氏(当時、共産党第二書記)を英国に招き、チェッカーズ(英首相別荘)会談をもちます。会談は双方が満足する形で終わり、サッチャーは「一緒に仕事のできる男」という有名な言葉を吐きます。これを徳仁親王はお膝元で目撃したのです。ここから国際政治は一気に動き出し、「ベルリンの壁」の崩壊(89年)によって冷戦が終結しました。

 そして徳仁親王は皇太子となりますが、その30代と重なる90年代の世界は、協調と融和が時代の精神となります。NGOのネットワークが国境を越えて広がり、対人地雷廃絶の運動を推進したNGO連合体「地雷禁止国際キャンペーン」と国際人道援助NGO「国境なき医師団」が97年と99年にノーベル平和賞を受賞したのは象徴的です。国家や国連やNGOなど多様な主体が協働して地球規模の問題解決に取り組むグローバルガバナンスという概念が生まれたのも90年代です。

 21世紀になって米同時多発テロを契機にこの流れに逆流が生じますが、今上天皇が20代半ばから40歳はじめにかけて、胸一杯に融和と協調の空気を吸われたことは押さえておいてしかるべきと思います。地球を俯瞰する視座と、人々の善意と可能性と連帯への信頼という時代精神が今上天皇に刻印されていると感じるからです。

 話を元に戻せば、天皇が受け継いできたアニミズム系の超一級の有形・無形民俗文化遺産をグローバルな地球的視座の中に位置づけることで、日本の文化を相対化し、同時にその固有性と独自性を、偏狭なナショナリズムに堕することなく内外に発信していくことに皇室の意義があると考えています。アニミズム系文化は自然の生態系を大切にするエコロジー思想や多文化共生にも通じ、一神教の排他性とも無縁です。私たちは強固な文化基盤としてこのアニミズム系文化を保持しており、祭祀、儀礼、祈りなどを通してそれを体現してきた皇室はその象徴的存在です。

 ただ課題も多々あります。今日ほど皇室が国民に身近になったことはないでしょう。昭和天皇は君主としての意識が強くあり、戦後になっての振る舞いもそうでした。この君主としての意識は明仁天皇にもありました。小学校高学年まで大日本帝国憲法下で育ち、身近に昭和天皇の考えに触れていたことからすれば当然です。これが国民と皇室の間に(プラス、マイナスいずれにせよ)ある種の隔たりと距離感を生んでいました。

 しかし今上天皇には君主としての意識は乏しく、人々と対等にあるとの意識が多くを占めているように感じます。この「対等性」は今上天皇を人々により近い存在とし、権威よりも親しみを感じさせます。しかしこれはコインの表と裏で、一つ逸脱するとポピュリズムや俗世間的な批判の波に洗われ、皇室の威信と尊厳を傷つけるリスクをはらんでいます。

 現在の眞子さまの結婚問題がそれです。拙著が出た時点で結婚がどうなるか分かりませんでしたが、「私は二人(眞子さまと小室圭さん)を静かに見守り、金銭問題を解決して結婚されればいいと思っています」「(世論は)皇室に過度に潔癖さを求めるのでなく、もう少し寛容で柔軟であるべきではないでしょうか」と指摘しました。一部週刊誌の眞子さまと小室さんへの度重なるバッシングは、醜いとしかいいようがありませんでした。

 皇位継承問題もより大きな難題としてあります。今年4月に亡くなったエリザベス女王の夫君エジンバラ公フィリップ殿下がこういう言葉を残しています。「欧州の君主制の多くが、その最も中核に位置する、熱心な支持者たちによって滅ぼされたのである。彼らは最も反動的な人々であり、何の改革や変革もおこなわずに、ただ体制を維持しようとする連中だった」。こうならないように願うばかりです。

(西川 惠)

『教養として学んでおきたい 日本の皇室』は㈱マイナビ出版刊。税込み957円ISBN:978-4-8399-7574-6

2021年 9月17日

「男おひとりさま」の友情を綴った徳岡孝夫・土井荘平さん著『百歳以前』

  社会部旧友・徳岡孝夫さん(91)の新刊が読売新聞9月16日夕刊対社面で紹介された。定価:902円(税込)

2021年9月9日

“風評”を作り出すジャーナリズム――生活報道部元編集委員・小島正美さん編著「みんなで考えるトリチウム水問題 風評と誤解への解決策」

 東日本大震災での東京電力福島第一原子力発電所(F1)の事故により、その構内に増え続けている1千基を越える大型タンク(高さ12メートル、直径12メートル、建設費一基約1億円)。私も見学に行ったことがあるが、そのタンクは広大な敷地を今にも埋め尽くしそうだ。事実、来年にはタンクの増設の余地は無くなるといわれている。

 原子炉内でメルトダウン(溶融)した核燃料を冷やすため、事故直後から水が注入されてきた。その汚染水に周辺からの地下水が流れ込む。この水を放射線除去装置で、ストロンチウムなど高濃度放射線物質は除去する。しかし水と同化するトリチウムだけは除去できない。この処理水・汚染水をどうするか。取りあえずこれらのタンクにため込まれてきた。

 政府・東京電力は、廃炉作業を推進するためにも海洋放出をしたいのだが、この「汚染水」には、人体にはほとんど影響がないといわれる微量の放射性物質トリチウムが含まれている。政府は2021年4月、海洋放出の方針を決定した。しかし周辺の漁業者などは「せっかく事故後10年を越えて、福島県沖の魚が売れ始めたのに、また“放射能風評”で売れなくなる。海洋放出絶対反対!」という声が強い。タンクの水は貯まる一方だ。

 この本は、長く生活家庭部で食品の安全性の問題などに取り組んできた小島正美さんが、読売、朝日出身の現・元科学ジャーナリスト、児童や教師などに放射線について教えているリスクコミュニケーションの専門家、大学教授など8人に呼びかけて作り上げた。トリチウム水問題に「わたしはこう考える」という本音ベースの論評を書いてもらったという。

 私も経済部でエネルギー担当をしたことがあり、これまでの日本の原子力発電所、韓国、中国を含めた海外の原子力発電所の排水には、トリチウムが含まれていることは知っていた。今回のF1のトリチウム排水の放射能は、IAEA(国際原子力機構)の定めた国際排水基準を十分にクリアーして、さらに海外の原発の二分の一から、韓国の月城原発の七分の一程度のもので、漁業に影響があるとは考えにくい。

 小島さんは、日本のマスコミはこの辺の科学的事実を明確に伝えず、「危険性のある可能性を否定できない」というあいまいな表現で、むしろマスコミ自身が“風評”を作る役割を果たしているのではないかと指摘して、報道の在り方を問うている。

 確かに日本の原子力政策のツケの結果としてF1の事故は起きたのだが、その後処理を国際的な基準で進めて行かなくては、カーボンニュートラルなどの新しい政策に進んでいかないのではないだろうか。その意味でこの本はマスコミの在り方、日本のエネルギー政策の推進を考える上で勉強になる。

(佐々木 宏人)

「みんなで考えるトリチウム水問題 風評と誤解への解決策」は、2021年7月、㈱エネルギーフォーラム社刊、本体価格1200円+税。表紙の写真はルネ・マグリットの「大家族」〈小島正美(こじま・まさみ)さんのプロフィール=著書から〉食・健康ジャーナリスト。 1951年愛知県犬山市生まれ。愛知県立大学卒業後、毎日新聞社入社。松本支局などを経て、東京本社生活報道部。編集委員として食や健康・医療問題を担当。2018年に退社。2015年から「食生活ジャーナリストの会」代表。東京理科大学非常勤講師。主な著書は「新版・スズキメソード 世界に幼児革命を―鈴木鎮一の愛と教育―」(創風社)、「誤解だらけの遺伝子組み換え作物」(エネルギーフォーラム)「メディア・バイアスの正体を明かす」(エネルギーフォーラム)。

2021年8月8日

敗戦の8月15日に、後藤基治元MBS副社長の『開戦と新聞』発行

「東京日日新聞」1941年12月8日一面

 「本書は海軍の内幕を取材し、戦時報道に命をかけた記者による第一級のドキュメンタリーである」。元情報調査部副部長で静岡県立大学名誉教授の前坂俊之さん(77)が、序文の「本書に寄せて」に書いている。この本は2017年に出版された『海軍乙事件を追う』(毎日ワンズ)を再構成し、新原稿を増補した、と断り書きがあり、「付・提督座談会」の抜粋も収録されている。

 後藤さんは「大阪毎日」社会部育ちで、海軍省を担当していた昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃・日米開戦をスクープした記者として知られる。その内幕は、「銀座一丁目新聞」に牧内節男さん(95)が記した追悼録に詳しい(別掲)。前坂さんも後藤さんの『日米開戦をスクープした男』(新人物文庫、2009年)に解説を書いており、スクープ紙面は現時点で見ても、世紀の特ダネと呼ぶにふさわしい。

 後藤さんは戦後になっても、スクープのネタ元を明かさなかったが、1969(昭和44)年にフジテレビの「小川宏ショー」で28年ぶりに米内光政海軍大将の名前を明かした。「ニュースソースの秘匿、提供者の保護は新聞記者の第一の義務」と書いているが、開戦報道当時、新聞及び新聞記者は、新聞紙法、国家総動員法、軍機保護法などでがんじがらめに縛られ、軍事上の秘密漏洩には死刑も想定されていた。

 特ダネ報道の後、後藤さんはフィリッピン・マニラの陸軍報道部などで仕事をした。著書には、海軍と陸軍の不毛の対立が描かれ、参謀長が捕虜となり対米戦略の最高軍機書類が米軍に渡った「海軍乙事件」についても、多くの証言で真相に迫っている。

 敗戦の年に生まれ、現在76歳の筆者も、戦争の悲惨を肉声で語る著書を、重く受け止めることとなった。

(高尾 義彦)

 『開戦と新聞 付・提督座談会』は毎日ワンズ刊。本体1,100円+税。

《牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」2003年11月20日号「追悼録」から転載》

 手元に「戦時報道に生きて」と言う後藤基治さんが著した本がある。後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。この本にも書いてあるのだが、若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった。

 後藤さんといえば、昭和16年12月の開戦日の特種を取った事で有名である。同書によると、昭和16年11月12日午後2時ごろ、後藤記者は海軍大臣米内光政邸を訪問した(これが後藤記者の日課になっていた)。雑談しているうち米内さんがかたわらに置いた黒い鞄を取り上げ、何か書類を出しかけたが、ふとテーブルの上に置きざまに「ちょっと失敬する」と部屋から出て行った。その出しかけの書類を見た瞬間、後藤記者はそれが「読んでおけ」と言う意味だと理解できた。『米英、蘭印、泰』などの南方各地の国名とともに、武力発動は『12月初頭』というのが読めた。米内さんは戻ってくるなり、鞄を脇に押しやり『このなかには君たち記者が見たがっているものが入っているのだがそれを見せれば大将もコレだよ』と首をたたいてみせたという。だが新米の政治部記者のこの特種を、社の3人の有力幹部は『あーそうかね』で終わりであった。ことがことだけにニュースソースを教えるわけにはいかなかったそうだ。

 後藤記者に陸軍のマレー作戦は12月8日と教えてくれた軍人がいた。後藤記者が支那事変で従軍したときからの知り合いで、久徳通夫中佐という陸軍航空気象草分けのベテランであった。陸軍砲工学校に設置された航空気象の専科(のちに陸軍気象部に変る)を恩賜の銀時計で卒業した経歴を持ち、昭和16年2月から9月末までバンコックに私服で潜入、現地の気象資料を半年にわたり収集した。気象原簿までコピーしたという。マレー半島の気象状況の分析の結果、統計上12月8日が「上陸可」とでたというのである。陸軍は開戦日を12月8日と決めたわけである。

 さらに後藤記者は12月7日朝、海軍省の自動車部の運転手からこの朝、米内海軍大臣と永野修身軍令部総長が海軍と縁が深い明治神宮と東郷神社に参拝した事がわかった。『そうか、海軍もとうとうやるのだ』と後藤記者は思ったそうである。他の記者たちの情報とあわせた12月8日の朝刊は5段で『隠忍自重限界に達す、断乎駆逐あるのみ』と書きたて対米戦争開始をにおわせた。もちろんその前に開戦に供えて毎日の取材陣は香港10人、タイ15人、マレー半島10人、比島15人、蘭印25人、南支那26人。仏印25人とそれぞれ派遣された。

 後藤記者は社会部長のあと毎日放送に移り、副社長までなられた。昭和48年7月死去された。享年71歳であった。

(柳 路夫)

2021年7月28日

学芸部編集委員、大井浩一さんが新刊『大岡信 架橋する詩人』

 大井浩一著『大岡信 架橋する詩人』が岩波新書として刊行された。著者は毎日新聞に「大岡信と戦後日本」を、2018年4月から2021年2月まで33回にわたって連載し、今回の著書はその内容に大幅に加筆した。なぜ、この詩人を「戦後の詩壇における最大の功労者」と位置付けるのか、詩人の作品、言葉と、詩人を支えたかね子夫人をはじめとする多数の関係者のインタビューを再現して、分かりやすく解き明かしている。

 タイトルは、『詩への架橋』(1977年、大岡信著、岩波新書)に基づくが、詩人が目指したものが、孤立した文学活動ではなく、個と集団の関係性に着目して「架橋」に込めた意思を解読する試みになっている。

 この詩人の名前を聞いて、最初に思い浮かべるのは、朝日新聞に1979年から28年余にわたって連載された「折々のうた」だろう。著者は、連載が終った時点で、作家、丸谷才一が発表した書評で、詞華集および「歌学(詩の批評)の伝統」の流れの中に詩人の仕事を位置づけ、高く評価したことを重視している。

 丸谷才一は「古今和歌集」に始まる勅撰和歌集、松尾芭蕉一門の「芭蕉七部集」など「詞華集(アンソロジー)を目安にしての時代区分」を提案、日本の文学史に新しい視点を導入した。「丸谷が自然主義的、私小説的な傾向に対抗するものとして詞華集の伝統を称揚した」と著者は分析し、その「第5期」として、正岡子規に代表される現代につながる時代を見通す文学史観に立って、「折々のうた」を、現代文学の中で初めて成し遂げられた貴重なアンソロジーと位置づけた、と解説する。

 「みずみずしい感受性と柔らかさと深い知力」「顔の見える人間関係のつながりを大事にする」と詩人を表現する著者の言葉に、ほぼそのまま同感する。そしてそれ以上に、私(高尾)がこの詩人に親近感を抱く理由は、丸谷、大岡に加えて石川淳、安東次男らを連衆とする連句(歌仙)の世界を、自分たちのお手本としてきたことによる。

 個人的な体験で恐縮だが、作品の質では足元にも及ばないことは承知の上で、友人2人と10数年にわたって連句を楽しんでいる。歌仙(長短36句で1巻)はすでに198巻を数え、いまも続く。詩人は連句から連詩へと活動の分野を広げ、国際的な連詩の場も設けてきたが、この手法が、文学をどのようなものとして位置づけるか、という詩人の問題意識に深く関わっている、という著者の論考が興味深い。独りよがりではなく、他者との出会いによって、詩や小説などの文学が新しい展開を始める、とでも言えばいいだろうか。

 大岡らの連句は、連衆が一堂に会して、歌仙を巻く。宗匠が苦吟の末のそれぞれの作品を捌いて、一句ずつ繋げてゆく。酒食をともにしながらのやりとりは、詩人が「うたげ」と呼ぶ交流の場だが、我々3人の連句はメールを使ってやりとりするので、詩人が目指す「うたげ」にはならない。それでも楽しめるのが連句、と詩人とその仲間の『歌仙の愉しみ』などを参考にさせていただき、駄句を重ねている。

 この本を、門外漢が紹介するのはそんな理由からと、ご理解いただければ幸い。

(高尾 義彦)

 大井浩一(おおい こういち)さんは1962年、大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。1987年、毎日新聞社入社。社会部などを経て96年より学芸部で主に文芸、論壇を担当。学芸部長も務めた。この間、大東文化大学、法政大学講師を歴任。『批評の熱度──体験的吉本隆明論』(勁草書房)、「2100年へのパラダイム・シフト」(共編著、作品社)などの著書がある。

2021年7月27日

元外信部編集委員の永井浩さんが『アジアと共に「もうひとつの日本」へ』を刊行

 凄い本です。敗戦後、これほどアジア諸国との共生、連帯を呼びかけた本はなかったでしょう。アジアを身近に思いながら、台頭する中国と向き合う力をもらいました。

 先の見えないコロナ時代にあって、日本、日本人はどこへ行こうとしているのでしょうか。筆者は「平和国家」日本をどう捉えてきたか。明治七年の台湾出兵からアジア太平洋戦争の敗戦までアジア支配の七十年戦争、その敗戦から七六年の歴史的現在に立つ時、あてのない漂流を続けているといいます。

 ミャンマーのクーデター後の四月、外務省前の集会で目にしたプラカード。「日本のお金で人殺しをさせないで!」。日本の平和にひそむ血の匂いをかぎとったといいます。最大ODA供与国日本の資金が国軍に流れているのを承知で、事態打開へ動かぬ菅政権。敗戦の総括をせず経済発展へ突っ走った姿と重なり、日本の立ち位置が問われます。

 全編を通し強調されているのがアジア諸国への侵略戦争への内実を伴った反省と謝罪の歴史認識です。「村山談話」が反古にされたいま、時の政権まかせではなく、アジアの隣人たちの歴史認識を共有し、アジアの民衆と日本国民一人ひとりが相互信頼を深め共生、連帯することが「もうひとつの日本」を創ることだと知ります。それは米国一辺倒というより、隷従というべき日米関係の変化を意味します。このいびつな関係がどれほどアジア諸国との友好関係を損なってきたか。とりわけ中国、韓国と堅実な信頼関係をつくることができず、「靖国」や「慰安婦」「徴用工」などいまだに解決されていません。

 本書唯一の難であると思わせる長大なプロローグ。もうひとつの日本、平和国家日本を考察するにあたって、七章にわたる問題が連環していること、その巨きな視点、視角について。アジア諸国と共生、連帯するとはどういうことか。人間として連帯する意味について筆者の覚悟が述べられるなど、一語もゆるがせにしない長文になりました。

 七章にわたる重く、深い論考。

 侵略戦争、植民地支配という負の歴史と真正面から向き合ってこなかったことによる日韓関係の悪化。支配する側が内的に腐っていく(第1章)

 米軍のイラク侵攻への新たな加担。憲法上疑義ある「国際貢献」という自衛隊派遣。大本営発表復活を思わせる情報統制。戦闘、銃撃戦の文字あるイラク日報開示と人道復興支援の実態を報道しない共犯者のメディア(第2章)

 新たな空白を生んだ平成天皇の「平和の旅」。戦争への謝罪スピーチに隠された歴史の事実。韓国を訪問しなかった「なぜ」(第3章)

 自らの歴史に向き合うドイツと努力を怠った日本。同じ第二次大戦の敗戦国が荒れ野を脱する岐路はどこにあったか(第4章)

 孫文の中国革命を通し世界革命の理想に生きた宮崎滔天。国家を超えた朴烈との同志愛。命を賭し天皇制反対を主張した金子文子。日本とアジアとの支配、被支配の関係の歴史を克服、あらゆる民族との自主と平等に基づくアジア諸国の平和と発展に寄与した留学生の父・穂積五一。三人の先覚者に学び、「もうひとつの日本」をさぐる(第5章)

 平和国家再建へ日本国憲法の柱・九条は世界の共有財産となるか。経済協力とは貧しいアジアから収奪して日本が利益を得るためのもの。自衛隊と米軍の地球規模での軍事行動の一体化(第6章)

 「人間の目」で世界を見る。ベトナム戦争報道が最良のテキスト。その先駆性と現場重視の歴史認識の確かさ。メディアの再生は可能か。真の愛国者、アフガンの農業復興などに尽くした中村哲医師(第7章)

 「もうひとつの日本」の考察で見逃せないのが昭和天皇の戦争責任の免責とイラク戦争報道をめぐるメディアの役割についてです。

 GHQのマッカーサーは、天皇の権威を利用して占領政策を進めるために戦争責任を免責にしました。これがどれほど大きなことであったか。天皇が法的にも道義的にも追及されないことを受け、「これで責任は果たされた」との思いから日本の指導者、国民まで自らの責任、謝罪の気持ちが薄れました。これに輪をかけたのが平成天皇のアジアをはじめとする侵略戦争の謝罪表明の「平和の旅」だったと指摘します。正しい歴史認識に基づく国民同士の相互理解と和解を意味しなかった。天皇が述べた「戦争のない時代」が平成のキーワードになりましたが、平成の三十年間、国際貢献の名のもとに自衛隊の海外派兵が拡大されたことを忘れることはできません。

 イラク戦争報道はどうだったか。「泥と炎のインドシナ」に代表される日本メディアの報道は米国はじめ各国で評価され、べ平連など国内の反戦機運を盛り上げました。だが、イラク戦争報道はすべてにわたり正反対の体たらく、と手きびしい。なぜか。現場主義の軽視、米国視点への偏重、歴史認識の欠如、平和と人権メッセージの希薄による米日権力層の設定した戦争の枠組みを疑わない報道の展開、この戦争について国民一人ひとりがきちんとした判断を下すのに不可欠な多様で多元的な情報、言説の提供を怠ったといいます。

 メディアの再生は可能なのか。試金石は対テロ戦争の検証報道だといいます。ニューヨーク・タイムズとワシントンポストは大量破壊兵器がなかったことに謝罪し、検証記事を掲載しますが、日本のメディアはその外電を転載するだけで、自衛隊派兵は国際貢献との政権の言い分をそのまま報道したことの検証をすることはありませんでした。

 悪法極まる法案を次々に成立させ、憲法改悪をにらみ、戦時体制への流れを強めた小泉、安倍政権をまるごと継承したのが菅政権です。平和国家日本が変質しようとしているいまこそ、時の権力に対峙できるのはメディアしかなく、米国に偏向しないグローバルな世界認識と、アジアのみならず、世界と日本との関係への正しい歴史認識に立って報道することの重要性を強調します。それは「人間の目」をもち、複雑な国際関係を読み解く「鳥の目」と地を這い肌で感じとる「蟻の目」の複眼作業であり、「国家利益を超えたウルトラ・インターナショナルな、ヒューマニズムの立場」を貫く大森実の姿勢に通じるといいます。

 そして「日本人としての目をもって世界をどう見るか」という大切さは「過去の間違いを繰り返してはならないという戦後日本の平和と民主主義の精神が原動力になっている」と筆者の決意と覚悟が述べられます。

 本書は新聞人として苦労し戦後を生き抜いてきた人たちばかりではなく、ジャーナリストとなった若い記者たち、これから、日本の姿、形を学びメディアに生きたいと願う若者たちにぜひ読んでもらいたい優れた「メディア論」である。

 筆者は自ら主宰する「日刊ベリタ」に渾身の「ミャンマー民主化運動伴走記」を連載し共感を広げています。そこへ四百社を超す現地日本企業を代弁する「日本ミャンマー協会」から記事撤回と謝罪要求がされます。きっぱり反論しますが、なにより恐れるのは厳しい論考はもちろんですが、なにより恐れるのは、永井浩さんが民主化運動で亡くなった尊い命、魂を背負っているからでしょう。その死を悼むとともに、無念の遺志を生かそうとしているからです。それはアジア太平洋戦争で亡くなった三百万の日本人、数千万人のアジア人死者の思いともつながります。

(里見 和男)

 社会評論社 2200円+税

2021年7月27日

元サンデー毎日編集長近藤勝重さんが『まだまだ健康川柳 三途の川も遠ざかる』

 《作家の桜木紫乃さんがNHKの「あさイチ」でこれまでの「健康川柳」の本を紹介してくれたのがきっかけで、「3冊目も!」となった次第》と、著者の近藤勝重さん。

 毎日新聞の大阪本社発行版連載の「健康川柳」をまとめた。

 『一日一句医者いらず健康川柳』(2008年刊)
 『ますます健康川柳 210の教え』(2017年刊)
に続く第3弾である。

 《桜木さん、出版に際し自ら何句か寄せてくれ次の作品に僕の心は動きました。

  1日1回、人のふり見て我がふり笑え

 五・七・五の定型にすべく「日に一度」などがいいかな、と思ってはみたものの、そうするとパワーダウンは免れず、これは破調ならではの句、言ってみれば惹句(じゃっく)が持ち味と理解し、そのまま本の帯に掲載させていただきました。

 加えて同書には皆さんの200句近い佳句の他、桜木さんと、毎日新聞(大阪)の健康川柳を共催するMBSラジオ「しあわせの五・七・五」のパーソナリティー・水野晶子さん、それに僕による川柳談議なども収めています。何とぞご支援を。(選者・近藤勝重)》

 近藤さんは、現毎日新聞客員編集委員。早大政経卒、69年入社。論説委員、「サンデー毎日」編集長、専門編集委員などを歴任した。

 私は大阪社会部で一緒だった。ちょっと斜に構えた事件記者・遊軍記者だったか。

 実は、『サンデー毎日』連載の「ラブYOU川柳」を紹介しようと思っていた。

 先週号の大賞は

  不倫はダメ浮気は許すと妻は言い 東京都・心の叫び(69)

  近藤選者の評。《質問です。不倫と浮気はどう違うのですか? 某作家ならきっとこう書いたことでしょう。

 「ドラマが違うさ」

 不倫には波乱に富んだ物語がいろいろあるのに対して、浮気には気まぐれに関係を持ったという感じで、そこにドラマ性はないというか…。

 ただ、双方、浮気のつもりでも成り行き次第で劇的な不倫に発展することだってないとはいえないような気がしますが。どうなんでしょうか》

 「サンデー毎日」は大人の週刊誌。人気作家村山由佳さんの連載小説「Row&Row」も、村山ワールドに入ってきました。ご愛読を!

(堤  哲)

 『まだまだ健康川柳 三途の川も遠ざかる』は幻冬舎刊、定価1,100円(税込み)
 ISBN 13 : 9784344038189
 ISBN 10 : 4344038185

2021年7月26日

「関千枝子さん追悼集」発行 「ヒロシマ」被爆の残酷と核兵器廃絶を訴え続けたジャーナリスト

 今年2月21日、88歳で亡くなった関千枝子さんの追悼集が完成しました。「ヒロシマ通信」の竹内良男さんから「関さんの毎日新聞時代とその後についてまとめてほしい」と呼びかけられ、編集委員会に加わりました。安倍靖国参拝違憲訴訟、「ヒロシマ通信」などの関係者の追悼文で知った関さんの活動の質と量に圧倒されました。そして、巻末に掲載した関さんの長女・赤尾緑さんからの一文「百日法要を終えて」を読み、「ヒロシマ」被爆の残酷と核兵器廃絶を訴え続けたジャーナリストとして、そして人間として、初心を強烈に貫いた生き方だったと、強い感銘を受けました。

 関千枝子さんが毎日新聞に在籍したのは、1954年から67年までの13年間でした。早稲田大学文学部露文科卒業後、54年4月、毎日新聞東京本社へ入社。当時、「女にゃ無理だ」とされた支局勤務を強引に志願して千葉支局に赴き、56年4月社会部、59年5月学芸部、62年8月ラジオテレビ部と転々、男慣行に抗して鍛え抜き、折からのお后取材などで社史に残る実績を重ねました。

 この間、労働組合運動にも積極的に入り込み、61年には毎日新聞労働組合本部婦人部長として、男目線の鈍感さに一石も二石も投じています。

 最初の転機は67年、同じ毎日新聞の外信部記者だった夫・関元さんのワシントン総局転勤でした。別居を嫌って新聞記者を断念、アメリカ暮らしを選択しています。1年ほどでニューヨーク支局勤務に転じ、郊外の隣州ニュージャージー・グリニッジに住み着きましたが、ここでの関さんはPTA活動と、その延長の図書館活動に目を開かれ、入れ込んでいます。

 帰国も夫の転勤に伴う突然で、73年の夏には横浜にあった自宅に戻りました。既に中軸を担っていた図書館活動には、やりかけの企画もあって未練がいっぱいだったようですが是非もありません。これは持ち前の執念で横浜を舞台に仕切り直し、市民のための図書館運動として根づかせていますから、地域にとっては得難い実績となっています。

 次の転機は、いろいろあってのことでしょう、80年には離婚を選択しています。同時に喫緊は再就職。関さんは、迷わず、新聞記者復帰に絞っていました。右から左とはいきませんでしたが、同年中に「全国婦人新聞」への入社が決まり、再び新聞記者としての活躍の場を得ることになりました。一度、経営者との軋轢で退社しますが、期せずして編集同人一同による復帰要請が起り、経営側が容れて、編集長として復帰することになりました。関さんならではの異例といっていいでしょう。

 以来、64歳で編集長を降り、再び一記者に戻って同紙の休刊(廃刊)までの通算26年間を勤め上げています。『毎日新聞』時代に倍する記者活動の拠点でした。この間95年6月には題号を『女性ニューズ』と一新、女性解放と発展の発信源として尽力努めましたが、もう一つの時流、新聞離れには社として克服しきれず廃刊のやむなきに直面しました。

 もとより、これでやむ関さんではありません。併行して取り組んだ『広島第二県女二年西組』の取材活動は新聞記者の活動そのものであり、その延長での平和活動、そして図書館運動を軸とした地域活動は、関さんの緩むことない生涯活動であり、本追悼集刊行の主柱となっています。

 さらに特筆は、活動を共にした同人たちへの篤き思いです。毎日新聞労働組合のOBたちが始めた交流組織「無名会」(旅と呑み会)には全20回のうち欠席は2回だけでした。毎日新聞と毎日新聞労組のさまざまな集会にも、声がかかると積極的に応じておりました。

 また、全国婦人新聞の関係では、先任編集長で毎日新聞時代の先輩でもある平野正夫さんの在職死亡を悔やみ、通夜・法事等に率先して参集、振り返れば事実上のOB会の主役格になっていて、これにも27回忌まで無欠席だったと聞きます。半面、晩年になるにつれ積極的な独り住まいを実践、世情の孤独死悲惨論に強く反発したのも関さんらしい生き方でした。

 毎日新聞関係では、野村勝美、牧内節男、大住広人、大島幸夫、宮田貞夫、明珍美紀、福島清が書いています。追悼集は400部制作しました。残部少しあります。ご希望の方は福島まで。送料込み1000円です。(メール:misuzuya@jcom.zaq.ne.jp

(福島 清)

2021年7月8日

元ソウル特派員、大貫智子さんが『愛を描いたひと イ・ジュンソプと山本方子の百年』刊行

 韓国に赴任して4年目を迎えた2016年6月のことだった。それより半年前に日韓両政府は慰安婦問題で電撃的な合意を果たしたものの、韓国国内では合意への批判が高まっていた。両国関係の取材に疲れを感じていたところ、ある雑誌の記事が目に入った。

 「李仲燮は歴史となって久しいが、夫人は現在を生きていた」

 韓国大手紙・朝鮮日報系の「週刊朝鮮」に掲載された日本人女性のインタビューだった。夫は韓国の国民的画家といわれる李仲燮(イ・ジュンソプ)で、半世紀以上前の1956年、39歳で夭折した。妻の山本方子さんは当時95歳とある。この年6月に朝鮮日報などが主催して開かれた李仲燮生誕100周年記念の展覧会を前にした特集だった。

 東京の自宅のダイニングで語る写真や、B5サイズで6ページに及ぶ記事の内容から、長時間の取材に応じたようだった。この女性に会ってみたい。そんな思いに突き動かされた。展覧会場はソウル支局から徒歩5分の国立現代美術館だった。早速、支局のスタッフとともに美術館へ足を運んだ。

 美術は子供の頃から最も苦手な科目で、美術館などほとんど行ったこともなかった。二重、三重の人だかりができる油絵の価値は正直なところ、よく分からなかった。

 夫婦の世界に引き込まれたのは、李仲燮が方子さんにあてた日本語の手紙を読んだ時だった。平仮名とカタカナ、漢字で書かれた数々の便りは、日本統治時代に日本語教育を受けたことを十分うかがわせた。ただ、どこかつたなさが残っていた。韓国語で微妙な感情表現をすることの難しさを日々感じていた私は、2人がどんな時を刻んだのか、もっと取材を深めたいと強く感じた。

 2人が出会ったのは日中戦争開戦から2年後の1939年、日本統治時代の東京だった。一流の芸術学校だった文化学院で愛を育み、日本の敗戦直前の1945年春、方子さんは単身

 玄界灘を渡って元山の李仲燮のもとへ嫁ぐ。5年後に朝鮮戦争が勃発すると、戦火を逃れて韓国へ避難するものの、極度の栄養失調に襲われた。方子さんは幼い2人の息子を連れて、一時東京へ帰郷する。

 一家の再会を阻んだのは、日韓の断絶だった。家族4人でまた暮らすという望みを絶たれた李仲燮は絶望し、長年のアルコールによるものか、肝臓をやられて一人、静かに息を引き取る。

 こうした悲劇的な物語が映し出されている数々の作品が、韓国では絶大な人気を誇っている。ところが日本ではほとんど知られていない。そこで毎日新聞本紙の長文ルポ「ストーリー」で掲載することにした。掲載直前に朴槿恵大統領(当時)の弾劾を求めるうねりが激しくなり、掲載日の1面トップは弾劾もの、その下にストーリーの記事が掲載されるというタイミングに恵まれた。

 その記事を見て、出版社から打診があったのは1カ月後のことだった。面識のなかった編集者からのメールは、大変光栄だった。特派員として数年にわたって駐在するのだから、本の一冊くらい出さなきゃだめだ。そう先輩記者から送り出されていたこともあり、そろそろ何かテーマを決めなければならないとちょうど考えていた時期だった。

 弾劾や大統領選、新政権発足など日々の業務に追われ、すぐには着手できないことを伝えると、編集者は私のペースで進めてくれればよいと理解を示してくれた。この日から、「ついに本を書けるのだ」というわくわくした気持ちとプレッシャーが入り混じった生活が始まった。

 いざ取りかかってみると、さまざまな壁にぶつかった。当時を知る関係者はほとんど鬼籍に入っている。李仲燮の友人たちが残した1960年代以降の回想録などを片っ端から入手したものの、北朝鮮から韓国へ逃げてきた人々の証言は反共的な部分が誇張されがちだ。それをどこまで差し引いて読めばいいのか判断が難しかった。

 方子さんへの取材は3度にわたって実現した。ただ、1度目の2016年は2時間余りに及んだが、3回目の2019年は45分ほどで切り上げざるを得なかった。記憶の薄れや体力の低下は明らかだった。

 ノンフィクションと新聞記事の書き方の違いにも苦労した。恐る恐る初稿を編集者に送ると、「一度新聞記事の書き方は忘れて下さい」と真っ赤に添削されたファイルが返送されてきた。指摘されてみると、紙面の都合でやむを得ないとはいえ、新聞記事がいかに体言止めを多用しているか、気がつかされた。日本語の勉強も一からやり直しとなり、多忙を理由に筆が止まってしまう日々が続いた。気がつけば、初めて美術館に足を運んでから5年の歳月が過ぎていた。

 何度も挫折しそうになりながら、何とか仕上げることができたのは、2人の物語を日本でも伝えたいという信念のようなものがあったからだ。「子育てをしながら単著を出せたというモデルケースにしましょう」と、自身も子育てに追われる編集者が辛抱強く待ってくれたことも大きかった。

 難しい日韓関係を支えているのは、政治家や外交官だけではない。人と人の心が通じ合っていれば、民族や国家といった難しい問題を乗り越えることができる。夫婦への取材を通じて、私はそう教えられた。コロナ禍で家族ですら自由に会えなくなってしまった今、拙著を通じて心の触れ合いの大切さを改めて感じてもらえれば幸いである。

※大貫智子さんは1975年、神奈川県生まれ。早稲田大政治経済学部卒。2000年毎日新聞社入社。13~18年ソウル特派員。12年と16年に訪朝し、元山や咸興、清津など地方も取材した。論説委員、外信部副部長を経て21年4月から政治部で主に日本外交を担当している。

この作品で第27回小学館ノンフィクション大賞受賞。

《小学館のプレスリリース(抜粋)》

【推薦コメント】

この作品を通じて彼という画家の存在を多くの人たちに知ってほしいと純粋に願う――辻村深月(作家)

太く短く生きた情熱的な画家と、日々を懸命に生きた寡黙な妻。その非対称性が胸に迫り、日韓の微妙な関係 性まで映し出しているように思えた――星野博美(ノンフィクション作家)

朝鮮戦争時に、家族に怒濤の勢いで押し寄せてくる歴史の荒波が、あたかもそこにいるかのような臨場感で迫 ってくる――白石和彌(映画監督)

【内容についてのお問合せ】
小学館 出版局文芸編集室 柏原航輔
電話 03(3230)5959 kashiwa@mai.shogakukan.co.jp

2021 年6月25日発売 定価:1800 円+税  四六判384ページ

※著書に関する韓国大使館のユーチューブ
https://www.youtube.com/watch?v=-5MNhNBs-8g 

2021年7月6日

小倉孝保著『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』

 KADOKAWAのHPにある、この本の紹介——。

 「病気の子も、好きなことをしたい気持ちを持っています」

 作曲家・池辺晋一郎から才能を賞賛された少年は、幼少時から500曲を作るも、脳腫瘍で世を去った――

 栄光学園同級生に影響を与え、病に向き合う人々を勇気づけた〈永遠の十六年〉をたどる感動のノンフィクション!

 「模倣がなく、すべてがオリジナルだ」

 「目の前の風景を描くように音を紡いでいる」

 幼少期から類いまれな作曲の才能に恵まれた加藤旭は、音楽家から「モーツァルト以上の才能」と評され、将来を嘱望される存在だった。しかし、栄光学園(神奈川県)進学後、脳腫瘍を発症し、全身にがんが転移する悲劇に見舞われる。

 宮沢賢治の童話に影響を受けた旭は、失明しながらもオリジナルCDを世に残そうと、周囲の支えの中で一度遠ざかった音楽に再び向き合う――。

 定価: 2,420円(本体2,200円+税)

 ISBN-10 ‏ : ‎ 4041112206  ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041112205

 筆者・小倉孝保さんは、1964年滋賀県生まれ。88年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長、編集編成局次長を経て論説委員。

 2014年、日本人として初めて英国外国特派員協会賞受賞。

 『柔の恩人 「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館)で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。

 著書に『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)『100年かけてやる仕事』(プレジデント社)など多数。

 日刊ゲンダイの連載「一条さゆりとその時代」は7月5日付第66回が最終回だった。取材のきっかけは「一条さゆりが西成に住んでいる」と知ったこと。大阪社会部の鑑である。

(堤  哲)

2021年6月23日

関千枝子さんの追悼集が出版される-牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」転載

 柳 路夫

写真は3月掲載の追悼録から

 今年2月に亡くなった関千枝子さんの遺稿集『「ヒロシマ」を原点に生き抜いた人生』が8月6日に出版される(2月21日死去・享年88歳)。彼女が毎日新聞にいた期間は昭和29年4月から昭和42年退職するまでの僅か13年。千葉支局、社会部、学芸部、ラジオ・テレビ部に在籍する。この間、組合の婦人部長を務める。遺稿集には毎日新聞関係者が7人追悼文を書いている。目次を見ると『安倍靖国参拝違憲と即位・大嘗祭違憲訴訟』で活躍した人々が14人、「ヒロシマ」「ヒロシマフィールドワーク」で絆を深めた方々28人がそれぞれ追悼文を寄せている。それに彼女が書いた「中国の『反日デモ』報道に1930年代を思う」など7篇の遺稿も収められている。おそらく大書になるであろう。

 なんといっても原点は彼女が出版した「広島第二県女西組―原爆で死んだ級友たち」(筑摩書房)である。この本がもとで志を同じくする人々が、更に刺激を受けた若い人々が、それぞれ集り、彼女と社会・地域のつながりがさらに広がった。この本は『ノーモアー・ヒロシマ』を後世に伝える一書ともなるであろう。その意味では画期的な遺稿集である。

 関さんとの思い出を少し付け加える。何事にも積極的な彼女だが、千葉支局時代、酔虎伝の微笑ましい話もある。当時、酒飲みは好意的に見られるよき時代であった。コーヒー党の私はいつも隅で小さくなっていた。スポニチの社長時代、娘さんが民放の試験を受けるので民放の社長に「一言声をかけてくれませんか」と頼まれた。一応電話しておいたが『入社』はだめであった。後で本人を連れてその社長のところへ挨拶に行けばよかったと後悔した。頼りがいのない先輩であった。

 何事につけ人の面倒を見る福島清さんがこの本の編集委員会の一人であるのは毎日新聞の先輩として嬉しい。福島さんは、関さんが『安倍靖国参拝訴訟』の原告団団長であったことを書いている。2014年4月、宗教者・平和遺族会274人の代表として当時安倍首相が靖国神社に参拝したことを憲法違反として、今後の参拝差し止めを求めたのである。ときに82歳。司法記者クラブでの記者会見までやっている。その徹底ぶりは見事と言う他ない。振り返ってみれば関さんを大きく成長させたのは夫と離別後3人の子供を抱え再就職した全国婦人新聞時代かもしれない。大きく社会を見る目ができたとも言える。「戦後民主主義の原点に立ち返り、みんなが安心して平和に暮らせる社会をつくる」という言葉は我々に重くのしがかってくる。

※牧内節男さんが主宰する「銀座一丁目新聞」は
http://ginnews.whoselab.com/

2021年6月21日

元社会部環境記者の滑志田隆さんが小説『道祖神の口笛』を発刊

 ——前作『埋もれた波濤』で人気を博した元新聞記者の著者による、綿密な取材の上で紡ぎ出される「虚構」の糸が、4つの短編として編み出される。

 著者・滑志田隆は、社会部旧友。1951年神奈川県藤沢市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1978~2008年毎日新聞記者。2008~10年統計数理研究所客員研究員。2010~15年森林総合研究所監事。2015~内閣府・農林水産省・国土緑化推進機構各委員。

 日本山岳会、日本野鳥の会、山形文学会、日本記者クラブに所属。俳誌『杉』『西北の森』同人などと履歴にある。

 あとがきでいう。《サラリーマンを引退した後、60の手習いでいくつかの雑誌に小説まがいの作品を書いている。その中から4作品を選んで2冊目の小説集を編むことにした。

 前作『埋もれた波濤』(論創社)が売れ残っているのに、愚挙を繰り返すつもりかと言われそうだが、気持ちに区切りがつかず、前に進めなくなった。できるだけ多くの人から批判を受け、老残の文芸に磨きをかけたい一心である》

 内容は——。「ミャンマーの放生」=民主化運動が広がる社会主義国ミャンマーを舞台に、観光客と現地人通訳が生の意味を問う物語。臨死、病気や事故の経験から、自分の生を見つめ直すことはできるのか。老・病・死の重力を緩和する“旅"という人間行為の魅力。マンダレー中央乾燥地での植林作業の模様も記述。

 「漂流船」=次々に北朝鮮から漂着する木造船の見物行と、20年前の山形県知事“笹かまぼこ疑惑"の真相が並行して語られる。黒いカネが行政を歪めることを未然に防いだ知事であったが、それが原因で世間から疑惑の目を向けられる。漂流ともいえる事態に陥った事件の真相とは。

 「ボートは沈みぬ」=有名な歌曲“真白き富士の嶺"をめぐり、その裏で展開した人間関係を再検証する。運命に弄ばれる個性の連環と生の不条理、不公平を描こうとする探索もの。

 「道祖神の口笛」=戦時下の仙台市を舞台に、大学生の焦燥の日々を通して、虚構の設定が無ければ前にすすむことのできない知性の哀しさを描く青春小説。太宰治らしき謎の人物との邂逅——という設定が、読み手の想像をかきたてる。

(堤 哲)

論創社2021年6月30日刊行。定価:1,980円
ISBN-10:4846020584、ISBN-13:978-4846020583
「お買い求めの場合は、新宿紀伊国屋・文芸書コーナー電話注文専用(☎03・3354・5702)への予約が便利」と滑志田さん。

2021年6月18日

伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』

 ——2012年、私は、東京・竹橋の毎日新聞東京本社で色あせた一枚の写真に出会った。若いころの父や、かすかな記憶に残る親戚たちに似た顔立ちに、懐かしささえ感じた。それが、私の曽祖父の弟、伊藤清六(1907~1945)だった。

 ——清六の存在を初めて知ったのは、私の毎日新聞入社が決まった2004年のことだ。父が「昔、毎日新聞にいて、フィリピンで戦死した親戚がいる」と教えてくれた。

 ——2011年、私は東京本社の資料を管理する情報調査部に配属された。写真は情報調査部の、社員の顔写真を収めたキャビネットにあった。「本社員 伊藤清六」。70年近くも前に亡くなった親戚の写真が、こんなにも身近に眠っていたことが不思議に思えた。

 ——ある日、ジャーナリズム関係の本が並んだ書棚に、ぼろぼろになった本を見つけた。それは、1952年に毎日新聞社が出版した物故社員の追悼冊子だった。ページをめくると、「伊藤清六」の名前があった。私は、その人生に一気に引き込まれた。

 ——清六は戦前に農政記者として働いていたが、戦争末期の1944年、毎日新聞社がフィリピンで経営していた「マニラ新聞」に取材部長として出向し、戦局が悪化するとルソン島の山中で日本兵のために陣中新聞を作っていた。最期は、多くの仲間とともに山中をさまよい、餓死するという悲惨な結末だった。戦時中にフィリピンで死亡した毎日新聞の関係者は56人。死亡時の詳細が不明な人も多いという。

 2020年7月~8月に毎日新聞に掲載され、第26回平和・協同ジャーナリスト基金賞・奨励賞と第15回疋田桂一郎賞を受賞している。

 著者・伊藤絵理子さんは1979年生まれ。2005年入社。仙台支局、経済部、情報調査部、「開かれた新聞委員会」事務局兼社会部、阪神支局を経て、現在東京本社コンテンツ編成センター勤務。

毎日新聞出版社、定価:1650円。
ISBN-10:4620326860 ISBN-13:978-4620326863

(堤  哲)

2021年6月7日

元台北支局長、近藤伸二さんが、台湾の民主化に尽くした人物の評伝『彭明敏』を出版

 =大阪毎友会ホームページから

 台湾の民主化に尽くした元台湾大学教授の評伝『彭明敏 蔣介石と闘った台湾人』(白水社・2750円)を、5月末に出版しました。台湾の民主化といえば、日本では李登輝元総統の偉業がよく知られていますが、台湾では、彭氏は李氏と並んで民主化実現に大きな功績のあった巨頭と位置付けられています。そうした実情を、1人でも多くの日本人に伝えたいとの思いで書き上げました。

彭明敏氏(中央)には毎年、自宅でインタビューしました(2019年8月撮影、向かって前列右側が筆者)

 彭氏は李氏と同じ1923年、日本統治時代の台湾で生まれ、日本に渡って京都・三高を卒業し、東京帝大法学部に入学しました。戦局の悪化で生活が困難になり、診療所を任されていた兄を頼って長崎入りしたところ、乗っていた船が米軍の機銃掃射を受け、かろうじて一命は取り留めたものの、左腕を失います。長崎郊外の兄宅で療養中、原爆投下にも遭遇しました。

 終戦で台湾に帰った彭氏は46年、旧台北帝大を引き継いだ台湾大学法学部に編入し、京都帝大で学び台湾大学農学部に編入した李氏と知り合います。2人の交友は、李氏が亡くなった2020年7月まで70年以上にわたって続くことになります。

 卒業後、彭氏は台湾大学法学部助教となり、国際航空法の分野で次々と研究成果を上げます。カナダとフランスにも留学し、若くして法学者として国際的な名声を得て、台湾大学史上最年少の34歳で教授に就任しました。

 蔣介石総統が率いる国民党政権はそんな彭氏に目を付け、国連代表団の顧問に任命して米ニューヨークで開かれた国連総会に派遣しました。蔣介石が個別に面会するなど破格の厚遇ぶりで、彭氏は将来を約束されたも同然でした。権力に逆らわなければ、恐らく、李氏より先に総統になっていたでしょう。

 当時の国民党政権は一党独裁体制で、「中華民国(台湾)は大陸も含む全中国を代表する唯一の合法政府」との看板を下ろさず、共産党が支配する大陸を武力で奪還する「大陸反攻」の目標を掲げていました。現実離れした主張でしたが、それを批判する者は「共産党のスパイ」だとして、逮捕されたり、処刑されたりしていました。

 そんな国民党政権から重用される彭氏は良心の呵責にさいなまれ、教え子2人とともに蔣介石の虚構を暴く「台湾人民自救運動宣言」を作成して印刷し、各界の指導層に配布して社会的な議論を巻き起こそうと計画しました。そして、64年9月、下町の印刷所で1万部を印刷したところを、密告により逮捕されました。懲役8年の判決を受け、総統の特赦で釈放されましたが、自宅は24時間厳重に監視され、外出時は尾行される実質的な軟禁状態に置かれました。

 70年1月、彭氏は変装し、自分の写真に貼り換えた日本人のパスポートを使って、亡命を受け入れたスウェーデンに脱出します。世界をあっと言わせたこの脱出劇には、台湾独立運動を支援する日本人や在日台湾人が深く関わっていました。米国に移った彭氏は、米議員らに働き掛けるなどして台湾民主化の外堀を埋める役割を果たし、独立運動の「精神的指導者」としてカリスマ的な存在になりました。

 台湾の民主化進展に伴って、彭氏は92年、22年ぶりに台湾に戻りました。4年後、台湾初の総統直接選挙で野党・民進党の公認候補となり、国民党の現職である李氏と対決します。李氏に大敗を喫しはしましたが、かつての「国家反逆者」が最高指導者のポストを争ったのです。彭氏の人生は台湾の民主化の歴史を体現しています。 00年の初の政権交代で発足した民進党の陳水扁政権で、彭氏は総統府資政(上級顧問)に就任しました。97歳の現在も新聞に寄稿するなど評論活動を続けています。李氏の死去に際しては、新聞に「李登輝と私」と題した長い追悼文を寄せ、李氏の告別式の葬儀委員も務めました。

 私は17年から19年まで毎年台湾を訪問し、彭氏に長時間のインタビューを行ってきました。彭氏は高齢ながら、補聴器を付ければ聞き取りは問題なく、驚くべき記憶力で歴史の真相を証言してくれました。

 インタビューには、ネイティブ並みの日本語で応じてくれました。発言を資料と付き合わせると、いつも正確で、記憶が曖昧なところは「はっきりしません」と、研究者らしく、確認された事実と未確認情報を明確に区別して答えてくれました。

 日本でも、私は東京や横浜、山形などを訪れ、彭氏の海外脱出に協力した人たちから話を聞いて回りました。この脱出劇はあまりにもセンシティブな事件だっただけに、関係者は長らく口を閉ざしてきましたが、いずれも80代になった支援者たちは、私のインタビューで詳細を語ってくれました。彼らは、資料を準備し、懸命に記憶を手繰り寄せ、「ぜひ記録として残してほしい」と私の背中を押してくれたのです。

 事件に関係する台湾の現場も歩きました。彭氏らが特務機関の取り調べを受けた施設や、海外脱出のため日本人の協力者からパスポートを受け取った場所などを探して出して訪ねました。公文書を公開している政府機関にも行き、膨大な関連文書を閲覧しました。

 こうした調査・研究、取材の結果、4年がかりで刊行にこぎつけたのが本書です。彭氏は拡大鏡を使って徹夜で読んでくれ、「台湾の近代史を勉強する人にとっては不可欠で必読の古典的な存在となる」と過分な評価をしてくれました。

 ありがたいことに、大阪日日新聞が5月26日付で大きく紹介してくれたほか、毎日新聞も6月5日付朝刊に書評を掲載してくれるなど、メディアも相次いで取り上げてくれています。国際問題の評論家も自身のメールマガジンで推奨してくれました。毎友会の皆様にも、ぜひご一読いただければ幸いです。

(元論説室、近藤 伸二)

※近藤伸二さんは外信部、香港、台北支局長、大阪経済部長、論説副委員長など歴任。現在、追手門学院大学教授。

2021年5月17日

環境ジャーナリスト、川名英之さん(85)が、36冊目の著書『社会問題に挑んだ人々』

 この新著を紹介するのに、最も適切な文章が、本人執筆の「あとがき」冒頭にある。

 ――これまで37年間、世界や日本の政治・社会との絡みで環境問題や核兵器など様々な社会問題の歩みを35冊の本に書いてきた。代表的なものが、『ドキュメント日本の公害』(全13巻)、『世界の環境問題』(全11巻)、『核の時代70年』の三つ。これらの本を書くための調査と取材の過程で、その生き方に感銘を受けた、社会問題に挑んだ人びとが少なからずいた。この人たちの中から何人かを選んで評伝を書いてみたいという思いが、人生の終盤になってやっと実現した。これこそ、私のライフワークである――

 川名さんは、毎日新聞入社後、1963~1964年、ウイーン大学へ文部省交換留学。社会部に所属し、環境庁(現在は環境省)を7年余、担当、7代の環境庁長官の仕事ぶりを報道してきた。この期間を含め一貫して環境問題に取り組み、1985年に編集委員、90年に定年退職した。これまで35冊の著作は、40年間の積み重ねであり、永年、志を維持し執筆を継続してきた先輩記者から「新刊紹介」を要請されたことは、光栄なことと受け止めている。

 私が知っている川名さんは、東京都江東区にあった日本化学工業による「六価クロム公害」を徹底的に取材する姿だった。浅草にあった東支局に所属していた頃、市民運動団体の告発で、宅地造成などに提供された六価クロム鉱滓が土壌汚染を引き起こしていることを知り、継続して取材、報道を重ねていた。土壌汚染の問題だけでなく、従業員にがんなどの職業病が発生していることが明らかになり、職業病裁判に発展し、労働者側の勝訴判決となった。川名さんは「私は1975年の夏中、クロム鉱滓投棄の実態を丹念に報道し続けました」と振り返り、私も汚染現場を取材する記者としての活動を記憶している。従業員の一部は、鼻の隔壁に穴が開く(鼻中隔穿孔)という悲惨な健康被害も受けていた。

 当時、美濃部都政だった東京都では、公害局の田尻宗昭規制部長が指揮してこの問題に取り組んだ。田尻さんは伊勢湾・四日市沿岸海域の公害取り締まりに当たる「海のGメン」としての実績を買われて、海上保安庁から東京都にスカウトされた。新聞社にとって公害は大きな取材テーマだったが、六価クロムにこれだけこだわった記者は、川名さん以外に思い浮かばない。その成果は著書『ドキュメント クロム公害事件』(1983年、緑風出版)にまとめられている。

 今回の新著は、「あとがき」で川名さんが触れているように、高い志をもって、その困難な道を切り拓き、その「声」が人々の心に響き、現実を動かした18人の軌跡を辿る。「感染症・医療」「地球温暖化・植樹運動」「環境汚染・公害」「核兵器」「難民・人種差別・分断」の5章に分けて、評伝が綴られている。

 最初に登場するのは、新型コロナウイルスの発生をめぐって、早期に告発の声を上げながら弾圧された武漢の李文亮医師。ペストの猛威と闘った北里柴三郎、医療看護を改革したナイチンゲールが登場する。

 「地球温暖化」などのテーマでは、砂漠に水を引き、飢餓を防いだ中村哲医師、グリーンベルト運動に尽力したワーガリ・マータイ、十六歳少女グレタの類い稀な温暖化防止キャンペーンを取り上げている。以下名前だけをあげると、レイチェル・カーソン、アル・ゴア、水俣病を追求した石牟礼道子と細川一医師、放射線医師永井隆、湯川秀樹、杉原千畝、緒方貞子、キング牧師、フューラー牧師。ベートーヴェン不朽の名作「第九・合唱」の誕生も取り上げられている。

 「より住みよい社会を創るために」と題した終章では、賀川豊彦、宮沢賢治に言及している。全編を通じて「より住みよい地球社会の建設を目指そう」という川名さんの願いが込められている。

(高尾 義彦)

『社会問題に挑んだ人々』 花伝社、定価2,200円(税込)
ISBN978-4-7634-0961-4  2021年4月5日発行

2021年4月20日

『はじめてのニュース・リテラシー』-元ワシントン特派員、白戸圭一さんが出版



 立命館大学国際関係学部教授、白戸圭一さんが19年間の毎日新聞記者としての体験などを基に、ニュース、情報とどのように付き合うべきか、学生や若い社会人を主な対象に、具体的事例を盛り込んで、丁寧に解き明かしている。

 活版印刷の普及が進んだ17世紀初頭に「ジャーナリズム」が誕生した経緯など歴史を踏まえて、「情報」をめぐる現代社会の問題点を指摘し、読者としての学生を意識しつつ、新聞記者経験者が読んでも、考えさせられる分析に富む内容になっている。

 新聞とテレビが、ほぼ情報発信のすべてを支配していた時代から、いまはSNSなどの進化によって、誰でもニュースや意見を発信できる時代になった。

 ある意味では民主主義にとって良き時代の到来なのかもしれないが、トランプ米大統領の誕生に伴って、「フェイク」と名づけて気に入らない情報を排除する風潮が拡散したことや、ネット社会に真偽不明の情報が飛び交い、それらの情報を事実と信じる、あるいは信じたい人たちによって、誹謗中傷や責任を取らない匿名発言が氾濫し、不幸な時代に直面している。

 こうした時代に必要とされる「ニュース・リテラシー」とは何か、白戸さんがこの著書で伝えたい主眼はそこにある。読者は「正確な事実をつかむための作法」をこの著書から学んでほしい。

 白戸さんの批判の目は、事実、情報を伝える新聞社などメディアにも向けられている。本来の調査報道ではなく捜査情報の先行報道に大きな力を込めている取材現場や、ニュース価値の判断の仕方、記者の育て方に関する疑問にも言及している。

 白戸さんは立命館大学大学院国際関係研究科修士課程を修了し1995年に毎日新聞に入社。鹿児島支局、西部本社報道部、東京本社外信部兼政治部、ヨハネスブルク、ワシントン特派員などを歴任。2014年に毎日新聞を退社し三井物産戦略研究所に移り、欧露中東アフリカ室長などを経て、2018年から母校の教授を務めている。京都大学アフリカ地域研究資料センター特任教授も兼任、一貫してアフリカにこだわっている。『ルポ 資源大陸アフリカ』(東洋経済新報社、朝日文庫、日本ジャーナリスト会議賞受賞)、『アフリカを見る アフリカから見る』(ちくま新書)などアフリカに関する多数の著書がある。

(高尾 義彦)

 「はじめてのニュース・リテラシー」白戸圭一著 ちくまプリマー新書 924円(税込)ISBN:978-4-480-68398-4

2021年4月12日

関千枝子さんの絶筆『続ヒロシマ対話随想』発売

 関千枝子さん(1954年入社。2021年2月21日逝去、88歳)の毎友会HP追悼録に、社会部旧友・野村勝美さん(91歳)が《「関千枝子さんが亡くなった」と電話をくれたのは、私と早大露文科で同級だった作家の中山士朗君だった。中山君は、「知の木々舎」なるブログに、関さんとの『ヒロシマ往復書簡』を発表し、それらを2012年から4巻、西田書店から刊行している》と記していたが、その完結となる第5巻(「往復書簡」3巻と「対話随想」2巻)が、西田書店から発刊された。

 《広島に原爆が落ちた時、中山君は県立広島一中の3年生で15歳、関さんは広島第二県女の2年生で13歳だった。中山君は勤労動員で建物疎開の作業中に被爆、関さんはその日動員に欠席して死を免れた》のである。

 毎日新聞は4月10日付社会面で竹内麻子記者が「原爆の記憶込めて/2月死去関千枝子さんの絶筆/『続ヒロシマ対話随想』発売」と報じた。

 その記事によると、《関さんが中山さんを誘い、2012年からウェブマガジン「知の木々舎」でエッセーを連載。多感な時期に原爆に遭った2人は互いの言葉に刺激を受けて記憶をたぐり寄せながら、200回にわたって世の中に対して思うことを率直につづった。このエッセーをもとに「ヒロシマ往復書簡」第1~3巻と「ヒロシマ対話随想」(いずれも西田書店)を出版し、今回が集大成の5冊目となった》。

 西田書店のHPには、《 二人の被爆者が遺す日本人が忘れてはならない記録と記憶の継承は私たちに委ねられた》とある。

 ISBN-978-4-88866-658-9 定価(本体1600円+税)。

(堤  哲)

2021年4月8日

好評発売中!『2021NFLドラフト候補名鑑』を制作した小座野容斉さん

 アメリカンフットボール・マガジン別冊「NFLドラフト候補名鑑2021」というMOOKを4月7日にベースボールマガジン社から刊行しました。定価 1,100円(税込)。編集者兼ライター兼フォトグラファーとして、携わりました。

 内容紹介にこうあります。《全米プロフットボールリーグNFLのスーパーボウルに次ぐビッグイベントと言われるドラフトの情報を網羅した一冊。候補選手123人の名鑑を中心に、上位指名が確実視されているクォーターバックの評価、世界最高のスポーツリーグの基盤となっているドラフトの仕組み、チーム別の展望などを掲載》

 NFLの本はこれまでにも何冊も出ていますが、ドラフト会議に特化した書籍はこれが初めてです。ありがたいことにAmazonでは売り切れになるほど、ファンの反応も良く、初めての試みとしては成功ということになりそうです。

https://www.amazon.co.jp/dp/458362669X

 この本を出版した経緯をお話しします。

 12月のある夜、布団の中で夜寝る前に「ドラフトの本を出せないか」と思いつきました。1月になって、普段からお世話になっているベースボールマガジン社の樋口幸也さん(元陸上競技マガジン、ランニングマガジン「クリール」各編集長、現執行役員営業局次長)に提案しました。最初は「?」という感じでしたが、社内を説得してくださって話が固まりました。

 今回、本を出す中で考えたのは、選手を人間として見る視点です。

 NFLやバスケのNBAでは、高い順位でドラフト指名されながら、プロで全く活躍できなかった選手を意味する「バスト(BUST)」という有名な俗語があります。元は「破裂」という意味ですが、「大失敗」という語感です。その選手を罵るときに使う言葉です。

 バストという言い方はしたくない。そう考えました。

 余談ですが、我が家の息子も今春大学を卒業し就職しました。高校ではアメフトの選手でした。

 NFLのドラフト候補選手は、195センチ115キロで100メートルなら10秒台半ばで走るような超人たちです。彼らも一皮むけば、息子と変わらない、どこにでもいる青年です。親が、家族が、地域が、形の違いはあれ、大切に育ててきた人間です。

 選手としての実績だけで、その人を評価する。プロの実力の世界である以上、ある程度は仕方のないことですが、そこに少しずつ違う視点を入れました。

 名鑑の部分をすべて担当したのですが、全米の大学から選んだトップ選手123人の選手評を書くときに、なるべく競技以外の人となりを示すエピソードを盛り込みました。

 その中で、特に気になった選手がいました。西アフリカ・リベリアの内戦のため隣国ギニアの難民キャンプで生まれ、母と兄と3人で米に移住、今ドラフトで、有力候補となったミシガン大のクウィティー・ペイ選手の話です。

 ペイ選手が生まれた1998年は、毎日新聞が「難民救済キャンペーン」で、ちょうどリベリアを取り上げた年であり、後輩カメラマンの米田堅持さん(現東京本社編集編成局)が現地に取材に行っていた時期とも重なりました。米田さんにも参考として話を伺い、いろいろとストーリーが膨らんだ中でできた記事です。

 中身については本を読んでいただきたいのですが、そうやって一人一人、本当にさまざまなバックボーンを持つ選手たちが活躍しているのがアメリカのプロスポーツの魅力だと思います。私自身も、25年前、アフリカではない他地域ですが、難民取材に行きました。あの時に出会い、写真を撮った子供たちは、どんな大人になったのか、今何をしているのか、ふと思うことがあります。

 そういう毎日時代の貴重な経験が今回の雑誌の中でも生かすことができたのかなと思います。

 このペイ選手の記事の他、以下を執筆しました。

 ・Quarterback Shuffle 2021—司令塔たち、激動の春
 ・Thank you Drew, Goodbye Philip—引退する偉大なQBの足跡
 ・If もしも、あの時...「たられば」で振り返るNFLドラフト指名
 ・QBとして林は高田鉄男に匹敵した—橋詰監督が語った日大フェニックスの2年半
 ・オービックシーガルズ 7年ぶりの王座奪還—その瞬間、男たちは涙を流した

 今年の第86回NFLドラフトはオハイオ州クリーブランドで4月29日から3日間(日本時間4月30日~5月2日)にわたって開催されます。AFC (American Football Conference)とNFC(National Football Conference)各16チーム、計32チームが参加。シーズンわずか1勝で地区最下位、リーグ全体でも最低の成績だったAFC南地区ジャクソンビル・ジャガーズが1番に指名、32番目はスーパーボウル優勝のNFC南地区タンパベイ・バッカニアーズだ。

 日本では日本テレビ系列の有料チャンネル「ジータス」が、初日の1巡指名(32選手)を完全中継します。

NFLドラフトとは

 米プロフットボールNFLは、俗にいう米4大スポーツ(野球のMLB、バスケットのNBA、アイスホッケーのNHL)の中でもNo.1の人気を誇ります。

 そのNFLの中で、ファンやメディアの最大の注目を集めるイベントが4月末にあるドラフトです。

 これは意外と知られていないことですが、MLBのドラフトは1965年スタートで、日本でドラフト会議が始まった年と同じです。日本のプロ野球(NPB)ドラフトが手本にしたのは、NFLのドラフトでした。

 NFLドラフトは1936年に始まりました。一部の声の大きなチームの圧力でいびつに歪められたNPBドラフトとは違い、前年成績最下位チームからの完全ウェーバーです。指名順位が切り替わるときに折り返したりもしません。

 なぜなら、「弱いチーム、人気のないチームでも、浮上できるリーグ全体の戦力均衡こそが繁栄の基礎」という思想が完全に行き渡っているからです。

 もちろん指名権を巡る抽選などもありません。

 では、かつての「江川事件」のように、選手が行きたくない球団に指名されたらどうなるのか。

 指名権がトレードできます。指名権対指名権のトレードができますし、指名権対現役選手のトレードもごく一般的です。それだけでなく、交渉権も交換できます。

 さらに

 ・FAで戦力ダウンしたチームには補償指名権付与
 ・ヘッドコーチかGMがマイノリティの場合にも指名権付与
 ・公式戦などで重大な規則違反を犯したチームへの罰則としてドラフト指名権はく奪

 などがあります。ドラフトを基盤にしてNFLは運営されていると言っても過言ではありません。

 リーグや球団だけではありません。ファンにとっても重要です。よく、「スーパーボウルがNFLで最高のイベント」と言われますが、ある意味で正確ではありません。

 競技として本当に楽しめるのは出場2チームのファンだけです。それに対してドラフトは、32チームすべてのファンが楽しめます。

 スーパーボウルは出場チームが決まって2週間でお祭り騒ぎは終わりますが、ドラフトは、2月上旬のシーズン終了後2カ月半にわたって、盛り上がりが長く広く続きます。

 ドラフトのエンタメ性に気が付いたNFLは、3日間に分けて、公開イベントとして行うようになりました。昨年はCOVID-19 の影響で、ネット上のリモート開催でしたが、今年はリアルなイベントとして開催することが決まりました。

(小座野容斉)

*小座野さんは89年入社。写真部→デジタルメディア局→知財ビジネス室などを経て2020年退職。アメフトファン歴は小学校以来47年。ドラフト候補123選手の名鑑作成は、スタッツを扱う専門サイト、全米各大学チームのHP、地元新聞などの情報によったそうです。

2021年4月7日

「世界を敵に回しても、命のために闘う ダイヤモンド・プリンセス号の真実」

 昨年秋に新聞紙上で連載した企画が、このほど大幅加筆して毎日新聞出版から本になりましたので、この場をお借りして紹介させていただきます。

 タイトルは「世界を敵に回しても、命のために闘う ダイヤモンド・プリンセス号の真実」です。副題にもありますが、昨年2月に横浜港に停泊した大型クルーズ船で起きた集団感染事故についての本です。当時、国内外から注目された事案で、船内の感染対策は厳しく批判されました。しかし、検疫・患者搬送に尽力した人たちの話を直接聞くと、まったく違う印象を受けました。いえ、それどころか、活動を仕切ったリーダーたちは、官邸・厚労省の命令・指示に反しても、「いのちを守る」ことに全力を尽くしていたことがわかったのです。それじゃあ、書かずにはいられません、ライターのサガであります。

 私は社会部の専門編集委員ですが、いつもはコラム「掃苔記」を連載し、たまに、毎日jpの政治プレミアで自衛隊のことについて書いています。新型コロナ感染症については、一般読者と同程度の関心、知識しかありませんでした。

 ところが、事件が収束してしばらく経った昨年夏、神奈川県の感染症対策を仕切っている人物として、藤沢市民病院の阿南英明・副院長がNHKテレビに出ておりました。実は彼には7年ほど前に、毎日新聞の名物企画「ストーリー」の取材で密着したことがあり、「いまならオモシロイ話が聞けるかも」という軽い気持ちでメールしたのが取材のきっかけであります。返事はすぐ届きました。

 「タキノさん、長い話になりますよ」

 その通り、長い取材になりました。

 彼は1995年の阪神大震災のとき、「救える命が救えなかった」という反省から厚生労働省に創設された災害派遣医療チーム(DMAT)の創設メンバーで、ダイプリ号事件でも、ほかに危機対応オペレーションをやれる組織が見当たらないということで、DMATが活動の中心となりました。阿南医師が県庁にいて患者搬送を指揮し、あとは船内活動のリーダー、厚労省の若手幹部、そして事件後、「神奈川モデル」という医療体制を立案していく若い県顧問の計4人が主な登場人物です。私はこの4人を「DP4」と呼んでいます。

 ここでは活動の内容にはあまり踏み込みませんが、とにかく、発熱患者はどんどん出続ける。日々数十人、多い日では100人近く出ます。一方、感染症指定の病床は県内に74床しかない。昨年2月といえば、国内全体で判明感染者が20人程度の時期です。新型コロナ感染症患者をどこに運べばいいのか。東京など隣県に受け入れを要請しても、断られる。さて、どうするか――。しかも、官邸は「早く検疫して、隔離しろ」と矢継ぎ早の指示をしてきます。「あのまま官邸の指示に従っていたら、船内で死者が確実に出ていました」。そう言います。つまり、面従腹背して対応に当たったのでした。

 しかも、活動開始から2週間ほどして、唐突に、世界の感染症の現場を歩いてきた神戸大学の教授が数時間だけ船に乗り込み、「対策がまったくなっていない」「恐怖を感じた」という感想をネットに動画で流します。現場はさらに混乱し、批判も強まっていきました。

 実は、その数日前、感染症の専門家チームが派遣され、「対策指導」をしていたのでした。ただ、チームは3日で撤退していた。なぜなんだ! 専門家に対する不満が現場に充満していたときに、神戸大学の先生がやってきたのでした。

 さて、1カ月にわたるダイプリ号船内の活動が第一幕とすれば、この事件には第二幕があります。危機の中から、彼らは教訓を引き出し、「神奈川モデル」という国内のコロナ対策の下敷きになる医療体制モデルを作り上げていくのです。しかも、ここで中心となったのは、神奈川には何のゆかりもない若手研究者です。県顧問の肩書は持っていますが、それは別の医療保険手続きに関する県とのコラボ事業のために便宜的にもらった肩書にすぎません。なぜ、彼は、「他人ごと」である県の医療モデルづくりに粉骨砕身するのか。それは、彼の父親である元金融庁長官との…………と、ここまでにしておきます(笑)。

 執筆しながら、「反・役人気質」という言葉が勝手に浮かんできました。「役人」とは「前例踏襲に執心する人」、あるいは「ものごとを変えない理由ばかりを考え続ける人」といっていいのかもしれません。いまの日本には、まだまだこんな役人気質の人が幅を利かせている気がします。そういう人を駆逐しないと、日本に未来はないと思います。

 DP4は、永田町や霞が関にはびこっている「忖度」とは無縁です。ただ「いのちを守る」というシンプルな原則にのみのっとって行動していきます。その清々しさを、伝えたかった。それが、本を書いたいちばんの動機であります。もっといえば、こんな人たちが出てこないと、日本はますます衰退していくと思うのであります。

 タイトルは大仰ですが、以上のような経緯からできた本で読みやすくなっています。あ、もっとも私には、高尚な文章は書けませんけれど(笑)。手に取っていただければ、あるいは図書館にリクエストしていただければ、幸甚であります。値段も手ごろです!

(東京社会部専門編集委員、滝野隆浩)

 「世界を敵に回しても、命のために闘う ダイヤモンド・プリンセス号の真実」(毎日新聞出版、税込み1,210円)

2021年3月10日

『ゆうLUCKペン』第43集 ここに刊行しました!

 執筆者は、掲載順に神倉力(84歳)▽大住広人(83歳)▽永杉徹夫(81歳)▽今吉賢一郎(83歳)▽渡辺直喜(73歳)▽倉嶋康(88歳)▽渡部節郎(74歳)▽飯島一孝(72歳)▽松上文彦(75歳)▽野島孝一(79歳)▽松崎仁紀(74歳)▽堀込藤一(92歳)▽半田一麿(85歳)▽大島幸夫(83歳)▽本田克夫(94歳)▽山埜井乙彦(96歳)▽堤哲(79歳)▽斎藤文男(79歳)▽岩崎鴻一(84歳)▽福島清彦(76歳)▽藤川敏久(79歳)▽舟橋渡一(94歳)▽中谷範行(80歳)▽諸岡達一(84歳)の24人。

 平均82.1歳。最長老は大正13年生まれの山埜井乙彦さんの96歳。大正生まれはもうひとり舟橋渡一さん、94歳。本田克夫さんは昭和2年生まれだが、1月5日に誕生日を迎え94歳だ。

 なんだかんだ世間様の風吹く中、ゆうLUCKペン43集をここに刊行しました。

 『私の世相診断。なんじゃっこの世はっ』……あっちでこっちで右往左往だらけの地球世界をジャーナリストが書かない 書けない 書いてもマスゴミ扱い。

 しっかし……ゆうLUCKペン同人会員は43集に「書いてきました」ねえ、思いっきり。愉快な視点から独特の批判精神旺盛なるみなさまの心が嬉しいよ、まったく。じっくり楽しんでお読みください。

 43集刊行パーティーはありません。ずっと会場にしていた9階「アラスカ」が消えたからではなく、マスクマスクのソーシャルディスタンスだのオーバーシュートだのクラスターだの「間違い英語」を多量にばら撒いた罪は負いたくないからである。

 コロナウイルスは大歓迎です。戦争好き人間を大々的にやっつけてくれよな。何を言ってるのか判らないのが「ゆうLUCKペン幹事団」の特異なところで、わけもなく、ともかく、馬鹿三蜜OBだ、と現役記者連に言われないよう、一応、止めました。ま、つまるところ面倒くさいのである。同じ理由から「東京オリムピック・パラ……」も中止しなさいよ。

 なお、なんと言われようとへっちゃらな大多数のメンバーが、頃合いを見て「刊行をきっかけにして飲み喋る飛沫パーティー」を竹橋パレスサイドビル 1F「花」で開くようです。問い合わせは堤哲さん(tsukiisland@gmail.com:080-3284-1568)へ「俺は行くぞ」と声を掛けてください。では・では。

2021.2.26 諸岡達一

 ぜひ!是非!ぜひ! 手に取って読んでください。

 1冊千円でお分けします。申し込みは事務局長中谷範行スマホ 080-1027-9340まで。送料は会負担で無料です。

2021年3月4日

中澤昭著『行くな、行けば死ぬぞ!-福島原発と消防隊の死闘-』



中澤昭さん

 東日本大震災から10年——。消防作家・中澤昭さん(83歳)から新刊『行くな、行けば死ぬぞ!』(近代消防社2021年3月刊、本体1,600円+税)が届いた。福島第一原発事故で原子炉を冷却するために放水を行う東京消防庁の苦闘を描いたドキュメントである。

 中澤さんは、東京消防庁の元広報係長。その後、消防署長を5つも務めた。金町、石神井、荒川、杉並、志村各署長である。私はサツ回りの時、知り合い、以来半世紀以上の付き合いだが、社会部旧友のかなりが火事や救急の現場でお世話になったハズである。

 消防記者といえば警視庁キャップも務めた開真(2008年没82歳)オープンさん。東京消防庁の広報体制をつくった鎌田伖喜さん(2016年没90歳)=中澤さんが『激動の昭和を突っ走った消防広報の鬼』で取り上げた。よく一緒にイッパイやった。

 毎日新聞シンパということで、このHPに紹介したい。

 「セミの小便みたい」。ヘリから原子炉に冷却水を投下したとき、東電の関係者が漏らした。震災から7日目の3月17日だった。

 東京消防庁に「注水」出動要請があったのは、18日午前0時50分。「注水は消防の仕事」と現場の出動部隊は、準備をしていた。

 午前3時45分、32隊139人が消防総監と1人ずつ握手をして出発した。決死の覚悟である。

 福島第一原発の正面に到着したのは、18日午後11時20分。シーンと静まり返った、真っ暗闇の構内を、ヘッドライトの明かりで構内図を見ながら進む。

 海の水を毎分8,000リットル吸い上げて、ホースをつなげて800メートル先の放水車で3号機原子炉に注水する。

 放水車(屈折放水塔車)は、3号機の壁から2メートルのところに止めた。建屋の高さは45メートル。放水車のアームは最大に伸ばして22メートルだ。

 遠距離大量送水システム(スーパーポンパー)は、ホース延長車と送水車がセットだ。送水車を海岸べりに止め、ホース延長車でホースを自動的に伸ばすが、450メートルが限度。それ以上は手作業だ。20キロもある鉛入りの防護服をまとった消防隊員が1本100キロもあるホースを7本もつなぎ合わせる難作業である。「ピーピーピー」。線量計が警告音を発する。

 ホースが結合されたのが、19日午前0時15分。

 「送水開始!」。平べったいホースが丸く膨らんで、生き物のように跳ねて先に向かう。

 被曝を避けるために脱出用のマイクロバスで待機していた隊員が暗闇の中、放水車の操作台に乗る。ホースの先から勢いよく吹き出している水を制御する。

 「もっと右」「もっと上」。隊長からだ。

 このとき、3号機の建屋上空に水蒸気が舞い上がった。

 「いい水が出ているぞ!」

 中澤さんは書いている。《「ホースを延ばす」「ホースをつなぐ」「梯子を延ばす」「水を出す」。消防なら目をつぶっても出来る事が、こんなにも難しい事であったか》と。

 19日以降も第2次派遣隊8隊が出動し、放水車の放水角度を固定して無人放水を続けた。放水は3月23日まで続いた。

 東電の事故調査委員会の報告書には、「燃料プールへの対応に失敗すれば破局的な影響が懸念されたが、冷却の回復に成功した。災害のさらなる拡大を防止した点で極めて重要な分岐点だった」とある。

 中澤さんの著書は以下の通り。

『生きててくれ! : 119番ヒューマンドキュメント : 命を大切にし、命を守る。そのために我々はがんばっている』(NTTメディアスコープ1998年刊)
『救急現場の光と陰 : 119番ヒューマンドキュメント』(近代消防社99年刊)
『東京が戦場になった日 : なぜ、多くの犠牲者をだしたのか!若き消防戦士と空襲火災記録』(近代消防社2001年刊)
『9・11、Japan : ニューヨーク・グラウンド・ゼロに駆けつけた日本消防士11人』(近代消防社02年刊)
『なぜ、人のために命を賭けるのか : 消防士の決断』(近代消防社04年刊)
『暗くなった朝 : 3・20地下鉄サリン事件』(近代消防社05年刊) 『激動の昭和を突っ走った消防広報の鬼 : おふくろさんから学んだ広報の心』(近代消防社15年刊)
『皇居炎上 : なぜ、多くの殉職者をだしたのか』(近代消防社16年刊)

(堤  哲)

2021年3月2日

新刊「ぶらっとヒマラヤ」が生まれるまで

 毎日新聞の夕刊特集ワイド面に書いております記者の藤原章生です。2月末に拙著「ぶらっとヒマラヤ」を上梓しましたので、そのきっかけとなった同僚や先輩、編集者の方々を紹介したいと思います。

 私は今から9年前の2012年春、ローマ駐在を終えて帰国し、在京時には所属している古巣、夕刊編集部(現夕刊報道グループ)に戻りました。ところが翌13年、福島県の郡山通信部への転勤を命じられ「もう異動?」と驚いたのですが、何だかいいことがありそうな気がして、「いいですよ」と素直に応じました。結果的にたった一年の郡山滞在でしたが、ジャックポットと言うのか、これが私に実に大きな幸運をもたらすことになったのです。

 赴任して1カ月あまりの5月初め、52歳になったばかりの私は、初の単身赴任をいいことに、本格的に山登りを再開しようと思い立ちました。ネットで調べた郡山勤労者山岳会に入ると、すぐに沢登りを始めました。そんな折、年も経験、体力もほぼ同じ齋藤明さんから「藤原さん、8000m、行きませんか」と声がかかったのです。「行きましょう」と安易に応じましたが、そうそう実現はしないだろうと半信半疑でした。するとその6年後の2019年正月、ネパールの登山エージェントから連絡があり、ダウラギリへという話になりました。日本から行くのは明さんと私の二人。隊は現地で雇った登山ガイドら総勢6人です。

 運良く、その年は入社30年の4週間休暇があり、それに有給休暇を加えて丸二カ月休みをとって19年秋、ダウラギリに挑みました。

 記事を書くつもりなど全くありませんでした。そんなことを考えたら、8167mのピークに達する幸運を逃しそうな気がしたからです。原稿など俗なことは一切考えず、ひたすら高みを目指しました。

 帰国してすぐワイド面執筆の仕事に戻ると、編集長だった同期の大槻英二君から「せっかく行ったんだから、何か一本書いたら」と言われ、「ヒマラヤは人生観を変えるか」という見出しの記事をワイド面に書きました。その翌週、私が学生時代に属していた北大山岳部の忘年会が東京であり、顔を出すと、たまたま記事を読んだ先輩の石本恵生さんから「あれ、面白かったよ。ヒマラヤは山屋(登山家)が書くより、物書きが書いた方が断然面白いね。もっと書いてよ」と言われたのです。

 うーん。その時から私の頭の中のペンが勝手に動きだしました。年明けに、連載をしたいと言ってみると、じゃあ、デジタルでという話になり、医療プレミアの編集長、佐藤岳幸さんが担当してくれることになりました。

 毎週月曜日締め切りで土曜日掲載と話が進み、ちょうど1年前、2020年2月1日に1回に原稿用紙で10枚から20枚ほどの連載を始めました。特にコンテも決めず、せいぜい7、8回と思っていたら、佐藤さんから「面白いし、読者の反応もいいので、できるだけ長く」と言われ、結局7月まで計24回書きました。

 その途上、懇意にしていた新潮社の編集者から「山の本よりも、生き方本ふうに書き換えて、本にしたい」との誘いがあり、連載終了後に少しずついじっていたら、昨年11月になって毎日新聞出版の久保田章子さんから「ぜひ、うちから出したい」と提案をいただきました。久保田さんは出版社から毎日新聞出版に転職し数々の話題作を出してきた人。その彼女に「『ぶらっとヒマラヤ』はずっと年下の、山に行かない女性の私でもぐっと引き込まれる。生き方本は腐るほどありますから、できるだけこのまま出したい」と力説され、文句なしに彼女に乗りました。

 本は著者と編集者の二人でつくる物。私は彼女の感性に従い元の原稿を直し、特に「はじめに」では、エンジニアだった27歳の私がなぜ新聞記者になったのかをジェットコースターに乗ったようなテンポで紹介するという久保田さんの案に従い、28歳から一気に58歳に飛ぶ、という展開にしました。

 目を引く装丁の本に仕上がったのも、毎日新聞の書評欄を担当する著名な装丁家、寄藤文平さんに頼んだ久保田さんのお陰です。

 校了間近の1月、渋谷の喫茶店で打ち合わせをしていたとき、「今はどんな新聞記事を?」と聞かれ、「塩野七生さんのインタビューです」と応じたら、久保田さんはすかさず「じゃあ、塩野さんに帯文、お願いしてもらえないですか?」と持ちかけてきました。塩野さんとのつき合いは、ローマに着任早々の2008年春以来ですが、きちんとインタビューしたのは今回が初めて。2時間ほど国際電話で話した末、「頼みにくいんですけど、今度、ヒマラヤの旅の本を出すんで、さらっと読んで、帯文を書いてもらえたらいいんですが」と頼むと、「えっ、あたしが書いたって売れないわよ」と応じたのですが、一瞬後には「でも、いいわ、あたし、やる」と言ってくれました。これも久保田さんに言われなければ実現しなかったことです。

 本のゲラをすぐにローマに送ると、塩野さんは一晩で読み、粋な手書きの文を送ってくれました。「私の友人の中でも最高にオカシナ男が書いた、フフッとは笑えても実生活にはまったく役に立たない一冊です。それでもよいと思われたら、手に取ってみてください」

 去年の今頃は本になるとは微塵も思っていなかった原稿が、かわいらしい一冊になったのも、久保田さんや塩野さん、寄藤さんをはじめ多くの方々のお陰だと、深く感謝しています。

 重さ、サイズ、触感もとてもいい感じの本です。皆さん、どこかで手にしてみてください。

 〈本の特設ページです〉 https://peraichi.com/landing_pages/view/bhimalaya/

(夕刊報道グループ 藤原章生)

「ぶらっとヒマラヤ」(毎日新聞出版、税別1300円)

2021年2月1日

『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに―』

 寿限無寿限無のような表題の冊子を刊行しました。熊五郎と一緒で、あれもこれも大事と取り込んだ次第、降版間際、絞らなボツと言われりゃ「良心の自由」でしょうか。冊子といいながらB5判で300ページに達しましたが、その中で「良心の自由」と柱を立てた論考もありません。しかし振り返れば、常に「良心の自由」を念頭に、あるいは胸奥に秘めて取材し整理し執筆していたように思います。

 世情は2極分化といい、格差が際限なく広がり、他を完膚なきまでに排除する風潮が蔓延しています。輪をかけての悪は、これをつまみ食いして胡坐かき、寄らしむべし知らせるべからずを政治と心得る政権が居座っていることでせう。根っこにあるのは得体のしれない不安、不安定感かもしれません。そこから逃れるには絶対差別の対象をつくり、おれたちゃ奴らと違うんだと思い込むことで安全地帯を築き上げる。そんな誘惑にかられたことがないと言い切れるでしょうか。忸怩たるところです。

 われらの世代、「レッド・パージ」という言葉、常に内なる辞書の中にあったように思います。だが殊更にひもとく気は起こさなかった。あたしとは関係ない、そんな強迫観念をかこっていたのやもしれません。ここを一丁、何が出て来るか、徹底掘り返してみようやとなったのが今回冊子です。言い出しっぺは、かの新旧分離の難時に組織のかなめ書記長を担った福島清さん。その両脇を盟友、根岸正和、水久保文明が固め、さらには大勢のみなさんから、ああでもない、こうでもない、あなたそれじゃ駄目よ、本気で掘り直しなさいと叱られ励まされ、いくつもの新事実や見識を引き出し、広がり深まりました。

 良心の自由は権利であり義務です。暮らしに取り入れ、時に権力による侵害には死に物狂いとならなければ唯の憲法の条文として棚上鎮座となります。レッド・パージは、それを雄弁に立証しています。本件解雇被害者の一人・小林登美枝さんは戦後獲得の女性の権利にからめ、「物質的に豊かになったけれど、本当に人々は幸せになったのか。獲得した権利を使わない人がいる一方、間違った使い方をしている」と懸念、絶筆の一部としています。学び生かさなければならない言葉と肝に銘じおります。

 何が、どう書かれているかは、どうぞお手にとってお確かめください。印刷は懐相談で500部に限りましたが、若干の在庫がございます。版元も「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会」といって、これも寿限無ですが、千代田区労協事務局に間借してますので、同連絡先(03・3264・2905)へ。特別頒価・送料込み2000円です。「真相を広める会」ホームページに全文を公開しています。http://miyazawa-lane.com/ 南無

おおすみひろんど(東京社会部OB)

2021年1月19日

「ムラ社会」レポート 秋山信一記者が『菅義偉とメディア』出版

 永田町や霞ケ関の「ムラ社会」には旧態依然とした慣習が多く残っている。2017年にムラに足を踏み入れてみると、住民たちの生態が面白く、おかしく、バカバカしく映った。同業だったムラの記者たちも興味深かった。すごくムラのことには詳しいのに、外には少ししか伝えないのが不思議だった。

 ムラ生活の最後には、全体への目配せを欠かさない助役の近くで、新たな角度からムラを眺めることができた。助役は新参者の記者にも丁寧に接し、義理堅く、人間味のある人物で、見方を変えれば記者を手なずけるのが上手だった。目立ちたがり屋の村長を縁の下で支えて、役場の人たちからは畏怖されていた。

 でも、村長が病気になった時、まさか助役が名乗りを上げるとは思わなかった。近くで見ていても、助役には助役がぴったりなのであって、「村長」というタイプではなかった。口下手だし、秘密主義だし、堂々と表舞台で引っ張っていく力に欠ける。周りから推されても固持すると思っていた。

 新村長は外の世界でも当初は歓迎されたが、リーダーとしての資質や人柄がよく理解されているとは思えなかった。だから、間近で見聞した助役時代の姿や言葉、ムラの記者たちとの関わりなどをまとめた見聞録を記すことにした。

 前村長の時代から流行病が広がって、ムラは混乱が続いている。新村長は言葉足らずな面が露呈して、「指導力不足」と批判されている。助役時代に近くにいた記者として、そうした実像をほとんど伝えてこなかったことには責任を感じる。

 見聞録にはムラの記者たちへの批判も記した。ムラの記者たちを「村の御用聞き」「広報紙」なんて揶揄する人たちもいるけれど、個々の記者を見てみれば「権力の監視」という意識を持っている記者が大半だ。相手の懐に潜り込んで情報をとってくることに長けた記者も多い。問題はそれをどう外に伝えるのかということだと思う。ムラを離れた自分ができなかったことを求めるのはおこがましいが、記者魂をどんどん発揮してほしいと思う。

(秋山 信一)

 「菅義偉とメディア」 定価:1320円(税込) 毎日新聞出版

 【秋山信一記者プロフィール】
 1980年、京都市生まれ。2004年、毎日新聞社入社。岐阜支局、中部本社(愛知県)、外信部、カイロ支局長を経て、2017年に政治部へ。外務省、防衛省を計2年半担当した後、2019年10月から約1年間、菅義偉内閣官房長官の番記者を務めた。2020年10月に外信部に配属。

2021年1月14日

あれから45年、作家、真山仁さんがノンフィクション大著『ロッキード』刊行

 590ページにのぼる大著『ロッキード』が文藝春秋社から1月10日、出版された。週刊文春に「なぜ角栄は葬られたのか?」のサブタイトルで2018年5月から2019年11月まで連載された作品に大幅加筆修正した、との触れ込み。毎日新聞関係者も随所に登場、毎日同人の出版物が引用されて、改めて、いまなぜロッキードか、と考えさせられる。

 著者は1976年2月5日に、米上院外交委員会多国籍企業小委員会でロッキード社が航空機売込みのため巨額の工作資金を日本などの政治家や秘密代理人に贈っていたとの元社長の証言が明らかにされ、日本を直撃した瞬間から、今も残る謎や疑問を追いかけて大作を仕上げている。著者の視点は、21億円が支払われた秘密代理人、児玉誉士夫が暗躍したといわれるP3Cなど軍用機売込みの謎が捜査の対象とならず、全日空のトライスター導入に事件が矮小化されたのは何故か、田中角栄元首相を有罪とした司法の判断・手続きは適正だったか、といった問題意識を基に、考えられる限り元裁判官や弁護士、元特捜検事や政治家ら関係者に取材して、証言や記録を精力的に綴っている。捜査の主任検事だった吉永祐介さん(後に検事総長)の個性が、ありありと浮かぶ。

 こうした取材の過程で、社会部の『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社)、『児玉番日記』(毎日新聞社)、『構造汚職 ロッキード疑獄の人間模様』(国際商業出版)や政治部の『日本を震撼させた200日』(毎日新聞社)、『政変』(角川書店)、『黒幕 児玉誉士夫』(エール出版)、『角栄のお庭番 朝賀昭』(中澤雄大著、講談社)、『田中角栄と中曾根康弘 戦後保守が裁く安倍政治』(早野透、松田喬和著、毎日新聞出版)などが引用され、参考文献として記載されている。山本祐司元社会部長の『特捜検察』(角川書店)、西山太吉著『記者と国家 西山太吉の遺言』も引用文献にあげられた。拙著『陽気なピエロたち―田中角栄幻想の現場検証』(社会思想社)も取り上げられている。毎日新聞の取材協力者として、西山さんのほか松田喬和さん、板垣雅夫さんの名前もある。

 昨年出版された「ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス」(春名幹男、株式会社KADOKAWA)が米国の公文書館などに残された記録を主な材料に事件の「謎」に迫ったのに対し、このノンフィクションは人間の取材に力点を置いた成果だ。その推論や論法に全面的に同意するものではないが、ロッキード事件が現役の新聞記者も詳しくは知らない事件となった現在、改めて焦点を当ててくれたことには感謝したい。

 私が真山さんの取材を受けたのは、2017年10月と本文に記されている。事件発覚当日の2月5日の状況などが再現され、当時「30歳」と表現されているのだが、75歳のいまも昨日のことのように記憶が蘇る。

(高尾 義彦)

2021年1月6日

復刊!江成常夫著『シャオハイの満洲』

 シャオハイは中国語で子どもを意味する。

 旧満州(中国東北部)では、敗戦で多くの日本人の子どもたちが取り残された。中国人の養父母に育てられたが、敗戦のとき何歳だったのか、日本の父母の名前、自分の日本名もわからない。残留孤児である。

 写真家・江成常夫さんは、5年にわたって現地で撮影取材、その人たちの写真とプロフィールを紹介した。

 単行本は集英社から1984年10月に発行され、1985年第4回土門拳賞に輝いた。

 その後、1988年7月に新潮文庫で再刊された。

 今回、論創社から復刊されたのである。

四六判356ページ。定価:2400円+税。
ISBN: 978-4-8460-1988-4

 江成さんは1962年毎日新聞社入社。64年の東京オリンピック、71年の沖縄返還協定調印などの取材に携わる。74年に退職し、フリーに。戦後、駐留していた米兵と結婚し渡米した「戦争花嫁」を撮影取材。以後一貫して「戦争の昭和」に翻弄された人たちの声を写真で代弁し、日本人の歴史認識を問い続ける。

 『花嫁のアメリカ』(講談社)は木村伊兵衛写真賞を受賞した。

 写真集に『花嫁のアメリカ 歳月の風景』(集英社)、『生と死の時』(平凡社)、『鬼哭の島』(朝日新聞出版)、『被爆 ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』(小学館)など多数。

 1936年神奈川県相模原市生まれ。九州産業大学名誉教授。

(堤  哲)

2020年12月24日

越川健一郎元社長が綴る『わたしのナゴヤキャッスル物語』

 名古屋市の出版社「風媒社」から『わたしのナゴヤキャッスル物語』という本を令和2(2020)年12月末、出しました。

 34年間勤務した毎日新聞社から子会社の一つで、ホテルを運営する株式会社「ナゴヤキャッスル」に転身したのが平成24(2012)年春。代表取締役社長として6年、代表取締役相談役と非常勤相談役をそれぞれ1年。この8年間に、名古屋城を借景に見立てたホテルナゴヤキャッスル(前ウエスティンナゴヤキャッスル)を拠点に繰り広げられた人間模様を元ブンヤの眼で描いたノンフィクションです。

 異次元のホテル経営者の人事案を当時の朝比奈豊・毎日新聞社代表取締役社長より示された時、精神的な肉離れ、腸ねん転を起こし、甲府支局長時代以来2回目の帯状疱疹を発症。極楽とんぼの私でも相当なストレスを感じて別天地に飛び込んだのです。

 しかし、いざ働き始めてみると「伝える」「記録する」ことを使命とする新聞記者とは違う「おもてなし」の現場に身を置く「謙虚さを持った誇り高き集団」の仲間入りをしたことに非常な喜びを感じることになります。

 赴任直後、ホテルの1階ロビーに設えられていた七夕飾りに「亭主が早く死にますように!」と赤字で書かれた短冊が見つかりました。そして同じような「けしからん内容の短冊」が再び見つからないかどうか、客がいなくなった夜間、脚立に乗りながら点検するスタッフの姿に目がしらが熱くなったものです。

 「歴史を最初にデッサンする」新聞記者で言えば、世間を震撼させる事件・事故で大スクープをものにした時、取材源の秘匿を守るのは最低限の作法です。「ネタ元のことは墓場まで持っていく」なんて言い方をしますよね。

 実はホテルでもスタッフと顧客との関係は似たようなところがあって、秘密は共有して他言しないからこそ信頼関係が生まれ、リピーターになってくれるのです。日本を代表するビッグビジネスの大きなパーティーをナゴヤドームで行い、億単位の利益を上げる舞台裏は「書かないでくださいね」と言われました。在職中、宴会途中に爆弾を仕掛けるという予告があり、愛知県警へ警備要請をしたことも幾度となくあります。

 ホテルナゴヤキャッスルは令和2(2020)年9月末で閉館。現在の親会社である興和株式会社の主導で解体、建て替えが進められ、4年後にグランドリニューアルオープンする予定です。また、名古屋駅前にあるキャッスルプラザも明治安田生命との定期賃貸借契約が令和3(2021)年初めに満了となり、閉館します。

 そのような時期に合わせ、ナゴヤキャッスルを愛し、育ててくれた地元名古屋の方々に表玄関からは決してうかがい知ることのできないホテルの「舞台裏」のエピソードを伝えたい。正社員やAS(アシストスタッフ)が、それぞれ新たな職場、道を求めていくことを考えた時、先輩から引き継いだキャッスル・スピリット、遺伝子を心に刻み込んで強く生きていってもらいたい、と思って筆をとりました。

 興味のある方はネットからも予約できますので、ご一読願えれば幸いです。

 「毎友会」のHPに拙著の紹介の場を提供してくれた敬愛する高尾義彦先輩にも感謝の言葉を差し上げたいと存じます。

(追伸)

 本書12ページにある「ラインホルド・ニーバー」は「英国の詩人」ではなく「米国の神学者」の誤りです。勉強不足、点検不足のなせる業です。お詫びして訂正します。

(元株式会社ナゴヤキャッスル代表取締役社長、越川健一郎)

風媒社 http://www.fubaisha.com/

『わたしのナゴヤキャッスル物語』 1,600円+税

2020年12月18日

『我慢できない 許せない』 元印刷部長‣山野井孝有さんが自費出版

 元東京本社印刷部長・山野井孝有さん(88歳)が『我慢できない 許せない』と題した意見集を自費出版した。“老いてますます”の気概が溢れている。

 毎日新聞労組で、ガンガン闘っていた時、山野井さんは口角泡を飛ばして喋り捲ると同時に、ニュース原稿などもよく書いていた。自他ともに認める記憶力の良さと速記を習った経験と、社会部出身の毎日新聞労組委員長の増田滋さんから「山野井君は話がうまいから、話した通りに書けば読みやすい文章になる」と激励されたこともあって、書くのは結構早かった。ただ江戸っ子なので、話すと「ひ」と「し」が区別できない。山野井さんは「そんなこと書くなよ」と言うかもしれないが、人間は誰しも自分の弱点は隠したいもの。しかし山野井さんは弱点を理由に怖じけるのではなく、伝えたい思いを徹底して優先して貫いている。議事規則改正問題で大騒動になった志道執行部時代、書記長の山野井さんと一緒に組織部長をしていた大住広人さんは、「山おやじ」と言いながらも今なお山野井さんの生き方を評価している。

 山野井さんのこれまでの人生の軌跡は、1932年の誕生から1952年の青年期までが20年。1953年から1987年の毎日新聞時代が34年。そして1987年から現在までの33年と、大きく分けて3つになる。第1期は、誕生から12歳でゼロ戦部品製造に動員され、東京大空襲の残酷に出会って「この敵必ず討つ」とグライダー特攻に志願。戦後は14歳で労働組合結成に参加した時期。第2期は、「労働組合活動はしない」と言って入社した毎日新聞ではユニオンショップで組合員になるやいなや、すぐに活動を開始し、労働組合運動の延長線上で印刷部長となって定年退職した期間。そして第3期は、定年退職後から現在まで。本書は、その第3期に書いたものをまとめたものだ。人間、「終わり良ければすべて良し」「棺を蓋いて事定まる」と言う。これは、晩年の生き方が大切だということを意味している。青年時代の行動や考えを「若気の至り」とか言ってごまかし、現在の立場を正当化する人もいるが、山野井さんの人生には、それは微塵もない。正直一直線だ。

 山野井さんは5年前の2015年11月、83歳の時に最愛の孝子さんに先立たれた。そして5年が経った。「一人で生活するということは本当に大変だよ」の愚痴を電話やメールで何度も聞く。今年になると「88歳だよ。あと一年はもたないかもしれないなあ……」と口にするようになった。

 しかし、その一方、社会の不義不正、戦争の道へと暴走する政治に対する怒りは、身体の衰えと反比例するように燃え盛るばかりだ。山野井さんの人生からは、サムエル・ウルマンの詩「年を重ねただけで 人は老いない 理想を失うとき はじめて老いる」と、渥美清・風天の名句「お遍路が一列に行く虹の中」が浮かんでくる。

 「働く者が主人公の社会を!」との理想の虹に向かって一直線に歩いてゆく山野井さんの後ろ姿が見えるようだ。山野井さんの闘い続けた人生に〝乾杯!

(福島 清)

2020年12月4日

『競輪という世界』 (共著) 堤哲さんが意外な(?!)新刊

 競輪、ケイリン、KEIRIN。それぞれに意味が異なる世界が、歴史や人間物語を含めて、この1冊ですっきりと頭に入る。ちなみに競輪は、日本各地で展開される公営ギャンブルとしての意味、ケイリンは東京五輪にも種目登録されているスポーツで、海外ではKEIRINとして通用する、日本語由来の国際的なスポーツ用語だ。

 新聞記者初任地の静岡で、競輪好きの先輩に連れられて競輪場を初めて体験し、金網越しに疾走する選手たちを見た。その後は、先輩ほど競輪の世界に引きこまれることはなく、今回、堤哲さんからこの新刊書をいただかなければ、無縁のままで通り過ぎた世界かもしれない。

 世界選手権10連勝の偉業を刻んだ競輪界のレジェンド、中野浩一選手をはじめ歴代のスター選手たちのインタビューや育成過程のレポート、いま脚光を浴びているガールズケイリンのヒロインたち、美濃部都知事時代にピリオドを打った後楽園競輪など各地の競輪場の栄枯盛衰……。競輪の世界に大きく裾野を広げてくれる読み物になっている。

 東京五輪では、日本人のメダル獲得が十分期待できるという。新型ウイルス感染拡大で、今年は各地の競輪で開催中止が相次いだが、その後、インターネットで車券が買えるようになって人気が回復している現象は、競馬界にも共通する新たな時代を象徴する。

 堤さんがなぜ専門外と思われる分野の新書執筆に関わったか、「終わりに」で、その〝秘密〟が明かされる。公益財団法人JKAの前身である日本自転車振興会の会長に元NHKアナウンサー、下重暁子さんが就任した際、広報誌『ぺだる』が創刊され、堤さんが「競輪事始」の連載を担当したのが縁、という。同期でJKA2代会長石黒克己さんも登場し、補助事業による公益増進、社会貢献の意義を強調している。

 堤さん以外の著者は、朝日新聞の名物記者だった轡田隆史さん、元朝日新聞記者の藤原勇彦さん、それにノンフィクション・ライター、小堀隆司さん。轡田さんが担当した「競輪文学散歩」で、かの夏目漱石が英国留学中にノイローゼになって、その治療のため自転車に乗って身体を動かした、というエピソードが紹介されていた。我が身を振り返って、競輪のようなスピードは出さないが、佃の自宅から銀座や皇居周辺など自転車で駆け回っている体験から、自転車に対する関心を高めてくれるこの新書に感謝したい。

(高尾 義彦)

 『競輪という世界』文春新書 本体900円+税

2020年12月3日

元司法記者、飯島一孝さんが新刊 『裁判官になるには』

 人気の職業への道を紹介するぺりかん社の「なるにはBOOKS」シリーズから『裁判官になるには』が出版されました。中高生向けの入門書ですが、現役の裁判官や書記官のナマの声が数多く掲載されていて、現代のリアルな裁判所を浮き彫りに出来たと自負しています。

 筆者は1990年代に東京社会部の司法記者クラブ員としてロッキード事件の裁判などを担当しましたが、当時と比べ裁判所の雰囲気がガラッと変わっていて驚きました。

 最大の変化は、この本のカバーに女性裁判官が描かれているように、女性の進出です。数字で表すと、2005年には女性裁判官の割合は全体の16・5%だったのですが、2019年には26・7%に増えています。大雑把にいうと、女性の割合がおよそ15年間に6人に1人から4人に1人に増えているのです。

 裁判官になるには、文系で最難関と言われる司法試験に合格しなければなりませんが、その試験も相次ぐ改革で門戸が広がり、合格率がグンとアップしています。以前のように、何年も浪人を続ける人は大幅に減っています。

 また、裁判所といえば役所の中でも最も堅いと言われていましたが、著者が担当していた頃に比べてソフトになったなと感じました。裁判所の取材は主に最高裁事務総局広報課の現役裁判官が対応してくれましたが、とてもオープンで、本の文章表現についても、それほど細かくチェックされませんでした。

 以上のような雰囲気を出来るだけ本の中身に反映させようと努めたので、中高生にとどまらず、一般の方にも興味深く読んでいただけると思います。

 「なるにはBOOKS」のシリーズでは、すでに『検察官になるには』が今年5月に出版され、好評発売中です。2冊合わせて読んでいただければ、現在の司法の状況が理解していただけると思います。書店などで本を見かけましたら、手にとって読んでいただければ幸いです。

(ぺりかん社、1500円+税)

(飯島一孝=元東京本社社会部員、元モスクワ支局長)

2020年11月18日

『安倍・菅政権vs.検察庁 暗闘のクロニクル』  毎日・朝日で検察記者一筋の村山治さんが新著

 社会部・司法記者クラブで一緒に仕事をした後輩の村山治さんが、その記者人生を注ぎこんだタイムリーな一冊を上梓した。毎日新聞から朝日新聞に移ったことは残念だったが、検察記者一筋の生き方には敬意を表したい。

 安倍内閣が今年1月末に、黒川弘務東京高検検事長の定年(勤務期間)を違法に延長し、検察庁法改正を目指した問題が、有権者や元特捜検事らの激しい反発を受けた。この〝事件〟の真相と、安倍・菅コンビの意図は何だったのか。著書は、取材メモをもとに、内閣官僚と検察官僚の熾烈な暗闘を綿密に検証し、政府と検察のあるべき姿を考える材料を提供してくれている。

 すでに触れられていることだが、今回の検察の危機は2016年の検察首脳人事が大きな分岐点になったことが、元検察首脳らの肉声で語られる。法務事務次官だった稲田伸夫が、次の次の検事総長に就任することを前提に、検察首脳人事案を練り上げた際、法務・検察の意向は、林真琴刑事局長を検事総長へのルートに乗せるため次官への昇格を優先、同期だが政界寄りと見られていた官房長の黒川は地方の高検検事長に転出させる、というものだった。ところが菅義偉官房長官サイドにこの人事案を拒否され、黒川を法務次官にせざるを得なかった。この時の法務・検察と官邸の確執が4年後に、より露骨な形であからさまになる。

 著書は検察の歴史にも遡り、造船疑獄当時の指揮権発動や思想検察と経済検察の争いなども含めて、法務・検察の世界に詳しくない読者にも理解できるように、丁寧に説明している。今回の騒動が、第一義的には、安倍・菅政権が長期政権のおごりから、法律解釈まで勝手に捻じ曲げて民主主義、三権分立を踏みにじろうとしたことに起因すると批判していることは当然だが、一方であるべき検察首脳人事を組み立てるべき法務・検察サイドに、政治の介入を許す隙があったのではないかと指摘しているところに、興味を覚えた。

 私自身が検察の現場を取材した当時は、ロッキード事件で田中角栄元首相を逮捕した1976年を頂点に、検察が国民の信頼と期待に支えられていた。しかしその後の検察は証拠捏造などの不祥事が相次ぎ、国民の信頼が揺らぐとともに、政界の腐敗に切り込む検察の迫力も衰えを見せた時代を経験している。

 著者は永年の取材の積み重ねと豊富な人脈を大事にして、国民の目には見えにくい世界を解きほぐしてゆく。現役の記者にとっても、大切な取材姿勢を感じさせる。

 ロッキード事件当時の記者として、最近、出版された「ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス」(春名幹男、株式会社KADOKAWA)にも触れておきたい。元共同通信記者が書いたこの本では、山本祐司・元社会部長の著書『毎日新聞社会部』などの引用も見られるが、米国の公文書館で公開されている文書を丹念に渉猟し、なぜ、巨悪が逃れたのか、というテーマを追求している。

 日本の捜査機関に田中元首相の名前が入った秘密資料が提供された裏には、「角栄嫌い」のキッシンジャー元国務長官の意向が働いたと著者は示唆する。ところが、ロッキード社秘密代理人、児玉誉士夫に連なる軍用機売込みの闇は、戦後一貫して巨額の黒い資金が流れたにもかかわらず、巧みに隠されてきた。情報公開先進国の米国も、この領域では巧妙に秘密指定を解除せず、米国の国益や米国にとって好ましい日本の政権を温存してきた、と読み取れる内容になっていて、興味深い。

 定価1,760円(本体1,600円) 文藝春秋刊

【著者プロフィール=同書から】

 村山治(むらやま おさむ) 1950年徳島県生まれ。73年に早稲田大学卒業後、毎日新聞を経て、91年に朝日新聞入社。東京佐川急便事件(92年)、金丸脱税事件(93年)、大蔵省接待汚職事件(98年)、KSD事件(2000、01年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(04年)など大型経済事件の報道にかかわる。17年11月、フリーランスに。著書に『市場検察』(文藝春秋)、『小沢一郎vs.特捜検察 20年戦争』(朝日新聞出版)、共著に『田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と 特捜検察「栄光」の裏側』(朝日新聞出版)など。

(高尾 義彦)

 『安倍・菅政権VS検察庁 暗闘のクロニクル』が2020年12月5日の毎日新聞「今週の本棚」に取り上げられ、中島岳志・東京工業大学教授(政治学)が書評を書いています。

2020年11月12日

元西部本社学芸部記者、米本浩二さんの新刊 『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』

 この本では、「石牟礼道子」と「邂逅」について考察しました。辞書によると「邂逅」とは「思いがけなく会うこと。めぐりあい」という意味です。

 石牟礼道子は何と邂逅してきたか。熊本県の天草に生まれ、慈愛にみちたやさしい両親と邂逅しています。それなのに道子はこの世がいやでいやでたまりません。思春期の道子は呪詛のような文句をノートに書き散らします。文字との邂逅です。次に短歌との邂逅がありました。代用教員をしながら短歌に生の希望を見出します。

 以後の主な邂逅を列挙してみましょう。

 熊本の短歌会での志賀狂太との邂逅。
 異性として意識したひとつ下の弟一の死。
 サークル村での森崎和江、上野英信との邂逅。聞き書きに目覚める。
 女性史研究の高群逸枝、その夫、橋本憲三との邂逅。女性の苦難の歴史に思いをはせる。
 渡辺京二との邂逅。ともに水俣病闘争に参加。文学・思想的同志となる。

 その後、渡辺は道子と半世紀以上、行動を共にし、道子作品の成就に全身全霊で尽くします。道子の生涯で一番大きな出来事は渡辺京二との出会いです。渡辺にとっても道子との出会いは生涯を左右する出来事でした。ふたりはどうやって魂の邂逅を果たしたのか。本書では1969年春をクローズアップし、ふたりの交わした言葉をたどっています。

(新潮社、税込み1,980円)

(米本浩二=元毎日新聞学芸部記者)

※米本浩二さんは1961年、徳島県生まれ。毎日新聞学芸部記者を経て著述業。石牟礼道子資料保存会研究員。著書に『みぞれふる空――脊髄小脳変性症と家族の2000日』(文藝春秋)、『評伝 石牟礼道子――渚に立つひと』(新潮社、第69回読売文学賞評論・伝記賞)、『不知火のほとりで――石牟礼道子終焉記』(毎日新聞出版)。今回の出版は、文芸誌「新潮」に「石牟礼道子と渡辺京二 不器用な魂の邂逅」として連載された。福岡市在住。

2020年11月12日

毎日新聞が開発した「記者トレ」が本になった!

 毎日新聞社が開発した教育プログラム「記者トレ―伝える力育てます―」を分かりやすく解説した『新聞記者に学ぶ 観る力、聴く力、伝える力—記者トレ』が出版された。

 相手と目線を合わせる▽取材相手の発言を本人に要約して返す▽具体的に書く▽一文を短くする――など、記者のスキルを45の「必勝パターン」に分解して解説。その実践編として、実際に記事を書いたり、見出しつけたりする。プロが実践している「伝える」ための技法を、誰もが活用できる形でまとめたのが特徴だ。

 監修にあたった東京理科大の井藤元・准教授は「この本には上手な文章を書くためのノウハウが記されているのではなく、必要な情報を取捨選択しつつ、現実を捉える力を育むためのヒントが描き出されている。予測不能な現代社会を生きる全ての人に手にとっていただきたい」と話している。

 日本能率協会マネジメントセンター刊、1650円(税込)

2020年11月10日

元学芸部長、奥武則さんが新刊 『感染症と民衆』

 ご本人のブログ「新・ときたま日記」(11月7日)から転載

 『感染症と民衆――明治日本のコレラ体験』(平凡社新書)の見本が届いた。発売は今月16日らしい。

 奧付までいれて200ページ。かなり薄手の新書になった。著者本人としては、それなりに書きたいこと、書くべきことは書ききったつもりである。もっとも加齢に伴う持続力の低下を感じないわけではなかったが……。

 「あとがき」に、こんなことを書いた。

 新型インフルエンザ等対策特別措置改正法による新型コロナウイルス感染症に対する「緊急事態宣言」が発令されたのは、二〇二〇年四月七日だった。列島にコロナ禍というべき状況が広がった。

 「外出自粛」で盛り場から人が消え、さまざまなイベントが中止に追い込まれた。正直、私の楽観的な予想をはるかに超える展開だった。そんななかで本書の構想が生まれた。ずいぶん前に書いた「近代日本における疫病と民衆」という短い論文を思い出したのである。この小論は、当時特別研究員として籍を置いていた早稲田大学社会科学研究所の紀要『社会科学討究』に掲載してもらった。他のいくつかの小論と合わせて、『文明開化と民衆――近代日本精神史断章』と題した小著として刊行した。

 以上は、本書の「はじめに」にも記したことだが、この小著は、私にとって日本近代史にかかわる最初の著書だった。論文執筆が一九九一年、著書刊行が一九九三年だから、すでに三十年近い月日が過ぎている。むろん、論文のことも著書のことも忘れたわけではなかったが、コロナ禍に直面するまで、明治期のコレラのことを本書のようなかたちで刊行することなどまったく考えていなかった。

 以下、私的な「昔話」をお許しいただく。私は大学卒業後、新聞社に入り、三十三年間在籍して、大学教師に転じた。新聞社では、ほぼ「記者」として過ごした。最後は、一面コラム「余録」を執筆するという僥倖にも恵まれた。新聞記者はむろん、自分で選択した職業であり、基本的には充実した記者生活を全うできたことに満足している。

 だが、子どものころから「研究者」への漠然とした憧れもあった。高校生のころには、「歴史学者」になりたいと思うようになった。大学に進み、藤原保信先生のもとで政治思想史を学んだ。研究者へ進む道もあったのだが、結局、私はそれを捨てて、新聞社を選んだ。

 ジョン・ロックやトーマス・ホッブズといった西洋の政治思想以上に、当時の私が大きなインパクトを受けたのは、色川大吉氏の民衆史・民衆思想史研究だった。大学のたぶん三年生のときだったと思う、大学で色川氏の講演会があった。色川氏の研究チームが「五日市憲法」の名で知られることになる憲法草案を、東京・五日市の深沢家の朽ちかけた蔵から発見して間もない時期だった。「五日市憲法」の画期的な内容と、それを生み出した学習組織の模様を語る若々しい色川氏の熱弁は、新しい歴史研究の領域として近代日本の民衆史・民衆思想史が持つ魅力を私の頭に刻み込んだ。

 色川氏の黄河書房版の『明治精神史』を買ったのは、いまはなき文献堂という古書店だった。やがて、この本をはじめとした色川氏の著作、そして後には、安丸良夫氏の『日本の近代化と民衆思想』などの著作、鹿野政直氏の『資本主義形成期の秩序意識』などの著作が私の書棚に並んだ(新聞記者として日々を送りながら、いつかはこうした分野の著作をものしたいと思っていたような気もする)。

 新聞社を早期退職して大学教師に転じるきっかけは、「ジャーナリズムの歴史と思想」という授業を主担当とする教員の公募だった。「ジャーナリズム」はともかく、「歴史と思想」の部分に引かれて、応募したところ、幸い採用された。私の新聞記者としての履歴も考慮されたのだろう。先に記した「日本近代史処女作」の後、いくつか著作を刊行できたのだが、この担当授業の関係もあって、この「処女作」の後は、「ジャーナリズム」にかかわるものが多くなった。

 こうした私の「研究歴」(こんな大げさな言葉を使うのはいささか恥ずかしいが)に即してみると、本書は私にとって、数十年ぶりに出発点に立ち戻った思いがする。

 むろん、この間、多くの民衆史・民衆思想史分野の仕事に接して来た。以前に書いた論文の問題意識そのままに本書を書いたわけでもない。この間、困民党研究会、それに続く近代民衆史研究会での稲田雅洋氏をはじめとする方々との交流は、私の問題意識を常に鍛えてくれた。とりわけ、コレラ騒動については、困民党研究会以来の長い友人である杉山弘氏に感謝しなければならない。本文で何度も参照した杉山弘氏の先駆的業績がなければ、本書はこうしたかたちで書けなかっただろう。

 コロナ禍はいうまでもなく世界的な災厄だが、本書の執筆に当たって直面した私的コロナ禍にはいささか苦労した(私は幸い、いまのところ、ウイルスに感染してはいないようだから、とうてい「文句」は言えないのだが)。

 大学を退職する際、かなりの量の本を整理した。研究室にあった本と自宅にあった本を十分に吟味する余裕もないままに処理したせいか、残しておいたと思う本がなかったり、どこに置いたか分からないままの本があったりした。図書館が頼りとなる。当然、新聞資料や関連論文の収集にも図書館は不可欠である。ところが、国立国会図書館は閉鎖され、開館された後も事前申し込みによる抽選で当選しないと入館できなかった。法政大学図書館は比較的早く利用できるようになったのだが、けっこう頼りにしてきた早稲田大学図書館は私のような一介の卒業生には利用できなかった。コロナ禍のなか、大学も通常のかたちの授業ができないままのようだが、各種の研究会などもオンラインで行っている。オンラインは便利な面もあるが、研究会後の懇親会は開けない。こうした場での交流が楽しみな私のような人間には、オンライン研究会はまことに味気ない。

 さて、この手のことはいつも最後になってしまうのだが、本書の刊行に際して直接お世話になった平凡社の金澤智之氏に感謝したい。本書の執筆を思い立ち、金澤氏に企画書(めいたもの)をメールで送ったのは、六月末だった。企画の採否を待ちつつ、七月から執筆を始めた。前述のような私的コロナ禍を別にすれば、比較的順調に書き進めることができた。金澤氏には、進行に合わせて適切な対応をしていただいた。思えば、氏に平凡社新書を出していただくのは、本書で三冊目である。ありがたいことだ。

 「こんな時代もあったね」と話せる日がいつか来ると思いたい。その日が来たとき、コロナ禍の時代に書いた本書が私にとって、懐かしい思い出になることを願いつつ。

【ブログ掲載のプロフィール】
ジャーナリズム史研究者。新聞社に33年。2003年4月―2017年3月、法政大学社会学部・大学院社会学研究科教授。「ジャーナリズムの歴史と思想」などを担当。法政大学名誉教授。毎日新聞客員編集委員。

2020年10月29日

藤原章生記者の 『新版 絵はがきにされた少年』

 2005年に第3回開高健ノンフィクション賞を受賞した作品の新版。

 出版社のHPによると、内戦中のスーダンで撮影した「ハゲワシと少女」でピュリッツァー賞を受賞、その直後に自殺したカメラマン。

 ルワンダ大虐殺を生き延びた老人の孤独。アパルトヘイトの終わりを告げる暴動。紛争の資金源となるダイヤモンド取引の闇商人……。

 新聞社の特派員として取材を続ける中で、著者は先入観を崩され、アフリカに生きる人々、賢者たちに魅せられていく。

 アフリカ―遠い地平の人々が語る11の物語。

 悲惨さの脇に普通の人々の日常がある。

 悲惨な風景の中でさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある。―本文より

 2020年10月28日発売! 柏艪舎刊、定価:1870円(税込み)
 ISBN:978-4-434-28068-9 C0095

【柏艪舎からの案内】
https://tinyurl.com/y2d9rdfp ← Ctrlキーを押してクリックすれば、書籍案内、著者略歴などのほか、You Tubeで本人が新版出版について語る肉声が聞ける画面になります。
本書特設ページで試し読みもできます。
著者コメント動画やコラム、写真もお楽しみいただけます。
イベント情報も掲載しておりますので、ぜひご覧ください。

【トークイベント申込受付中】
毎日メディアカフェで藤原章生さんが登壇!
11/13(金)18時半 毎日新聞東京本社1階  定員25名
詳細・お申込みは https://tinyurl.com/y3mkk5jf

2020年10月14日

『盗まれたエジプト文明 ナイル5000年の墓泥棒』 ― 外信部・篠田航一さんの新刊が日本記者クラブ会報「マイブック」などに

《話題の新刊 (週刊朝日)》
『盗まれたエジプト文明 ナイル5000年の墓泥棒』 篠田航一著

 毎日新聞の特派員としてカイロに滞在した経験から、一歴史ファンの目でエジプト史を概観しようとして、行き着いたテーマが「盗掘」だったという著者。「エジプト史は盗掘の歴史でもある」というその弁に違わず、紀元前の時代からこの地は、ありとあらゆる略奪にさらされてきた。

 ピラミッドがあれば、「ここに財宝がある」と宣伝しているようなものだし、目立たないところに移しても、王家の墓は必ず暴かれてしまう。ナポレオンのように、国家的事業として大規模な略奪を行った人物もいる。ただ、相次ぐ盗掘こそが、埋もれていた古代文明の粋に光を当てたという一面もある。

 IS等のテロ組織が古代遺跡からの盗掘品を資金源にしているなど、盗掘は現在進行形のできごとでもある。かくまで長きにわたって盗まれつづけるエジプト文明への敬意を禁じ得ない。(平山瑞穂)

 「週刊朝日」2020年10月16日号

 【篠田航一さん】1973年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。97年毎日新聞社入社。甲府支局、武蔵野支局を経て東京本社社会部で東京地検特捜部などを担当。ドイツ留学後、2011年から4年間、ベルリン特派員としてドイツの政治・社会情勢を取材。青森支局次長を経て17年からカイロ特派員。著書に『ナチスの財宝』(講談社現代新書)、共著に『独仏「原発」二つの選択』(筑摩選書)がある。

2020年9月7日

小倉孝保著『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』

 映画「アラビアのロレンス」に憧れ1970年、シリアに向かった岡本秀樹。空手の稽古を通じて、アラブ民族に自立への誇りと現地の活気をもたらしていく。稽古を通じ築いた政官中枢との人脈を生かしエジプト、イラクでビジネスに挑むが、国際情勢に翻弄され計画は暗礁に乗り上げる。すべてを失った男が、たどり着いた場所とは——。

 これは出版社のHPにある紹介だが、9月6日付産経新聞に作家の黒木亮氏が書評を書いている。

 《本書は、アラブ現代史でもある。ぞくりとさせられるのは、岡本がベイルートの道場で、パレスチナの秘密武装組織「ブラック・セプテンバー」の最高幹部、アリ・ハッサン・サラメに稽古をつける場面だ。道場に入る前は必ず部下たちが検分し、サラメや一緒に指導を受ける若者たちが周囲に置くタオルを、ある時めくると、拳銃が現れる。72年の初夏、サラメは「しばらく稽古を休む。元気でいてください」と告げ、間もなく彼らはミュンヘン五輪の選手村でイスラエル人選手ら11人を殺害。7年後、サラメはイスラエルの対外特務機関「モサド」の報復で爆殺された》

《本書は、女癖の悪さや悲喜こもごもの愛憎劇など、岡本の裏の部分も容赦なく描く。しかし、そうした記述によって、読者はアラブ世界の現実を肌で思い知らされるのである》

 《痛快で、強烈で、哀愁漂う一冊だ。読者は、岡本秀樹の人間像に驚きあきれながらも共感を覚え、一度会ってみたかったと思うのではないだろうか》

 小倉氏は1988年入社。カイロ・ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長、編集編成局次長を経て論説委員。2014年、日本人として初めて英国外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人 「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館)で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。著書に『空から降ってきた男 アフリカ「奴隷社会」の悲劇』(新潮社)、『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社)などがある。

 角川書店刊、定価:2,200円+税。 ISBN:9784041091609

2020年8月17日

『特攻と日本軍兵士 大学生から「特殊兵器」搭乗員になった兄弟の証言と伝言』

 毎日新聞客員編集委員広岩近広さんの近著。8月15日付毎日新聞「今週の本棚」で紹介された。

 ——本紙朝刊(大阪本社発行)2018年11月から今年3月まで連載された「昭和の戦争を語る」を大幅に改稿したものである。ともに特攻から生還した兄弟、岩井忠正氏と忠熊氏と、ジャーナリストの広岩近広氏との出会いが、本書に結びついた。

 忠正氏は慶応大から、忠熊氏は京都大から徴集された。人間魚雷「回天」や特攻ボート「震洋」といった「必死の特殊兵器」による非道な訓練を強いられた。聞き役である広岩氏は繰り返し問う。なぜ最高の教育を受けながら「十死零生」の特攻要員となることを受け入れたのか、と。

 長い問答を通して明かされる、拒絶できぬ時代の「空気」。だが、それは一方的に押しつけられたものではない。国民の側にも受け入れる素地があったことが率直に語られる。「備えあれば憂いあり」。忠熊氏の言葉が印象的だ。強大な軍事力という「備え」が、破滅的な戦争という「憂い」をつくりだしたのだ、と。

 集団的自衛権の次は、敵基地攻撃能力が論じられるご時世である。75年前の悲劇から何を学んだのか。改めてその問いが胸を突く。(彦)

 連載は62回に及んだ。広岩さんは1975年入社。大阪社会部やサンデー毎日で主に事件と調査報道に携わり、2005年大阪本社編集局次長として戦後60年企画の原爆報道を担当。その後平和担当の専門編集委員。現在、客員編集委員。

 毎日新聞出版刊、定価:2,000円+税。ISBN:978-4-620-32642-9

2020年8月11日

被爆者の瞳に宿る記憶 長崎原爆テーマの写真集3作目、福岡市の松村さんが出版 にじみ出る悲しみや苦しみ感じて /福岡

長崎原爆をテーマにした3作目の写真集を手にする写真家の松村さん

 毎日新聞2020年8月10日 地方版

 福岡市の写真塾「フォトマッサージ」主宰で、写真家の松村明さん(73)=東区=が長崎原爆をテーマにした写真集「閃光(せんこう)の記憶―被爆75年」(長崎文献社)を出版した。被爆者の瞳に宿る被爆の記憶の表現に挑んだ。

【下原知広】

詳しくは下記URLで
https://mainichi.jp/articles/20200810/ddl/k40/040/256000c

2020年8月6日

『緊急解説!2020年上半期 ニュース丸わかり80 新型コロナで変わる日本』(毎日新聞社)

 ちょっと題名が長いが、2020年上半期に起きた出来事をコンパクトに紹介した新書判の本。毎日新聞に好評連載中の「質問なるほドリ」から80本を選んだ。

 まず新型コロナウイルス問題。武漢ってどんな街?/新型コロナ薬すぐに使える?/お酒、消毒に使える?/なぜ異業種がマスク生産?/コロナで話題の「エクモ」って?/非接触型体温計の仕組みは?/米疾病対策センターって?/ジョンズ・ホプキンズ大って?などなど。

 「東京オリンピック延期問題」、「政治・経済」検察庁法改正案って?/「ムーンショット」どんな研究?など、「社会」延期された「立皇嗣の礼」とは?/国外逃亡の犯罪者、どうなる?/将棋のプロ棋士になるには?など。

 本文192ページ、定価:1,000円(税別)、毎日新聞出版 ISBN:978-4-620-32639-9

2020年7月23日

大治朋子さんが『歪んだ正義』出版

 【大治朋子さんのフェイスブックから】新著「歪んだ正義『普通の人』がなぜ過激化するのか」(毎日新聞出版)を上梓いたします。都内7月30日(木)、全国8月3日(月)発売。私たちの中に潜む攻撃性。「自分は絶対に正しい」と思い込む時、人間の凶暴性が牙をむく。「普通の人」が過激化する過程にはどのようなメカニズムがあるのか。そんな疑問を追いかけた調査報道です。4年余りにおよぶエルサレム特派員生活と2年余りの現地大学院・シンクタンクでの研究生活の集大成としてまとめました。可能な限り論文や書籍を参考文献として具体的に引用し、同じような疑問を抱いた人がこれを土台にさらに調査・研究できるようにと思って取り組みました。これは長年私が個人的に目指してきた「アカデミ・ジャーナリズム」(私の造語です)の実践です。書籍の写真は高橋勝視さん(元出版写真部)撮影。

 http://mainichibooks.com/books/social/post-730.html

2020年7月20日

「閃光の記憶-被爆75年-」写真集出版とクラウドファンディング


 「閃光の記憶-被爆75年- 」松村明写真集(長崎文献社)として7月10日に出版しました。

 妻が被爆2世ということもあり、長崎原爆に関心があり、これまでに「ありふれた長崎」(窓社)、「Evidence NAGSAKI-爆心1Km(冬青社)と原爆にまつわる写真集を出し、これが締め括りの3冊目です。

 10年前出版の「ありふれた長崎」を撮影の折り、被爆者のお顔にはただならぬ苦労が見えてきました。そのことが気掛かりで3冊目の撮影に駆り立てられた。撮影にあたり、爆心より5キロ以内、その瞬間を体験された方に限らせていただいた。

 被爆の方々は閃光、熱線、爆音、爆風そして放射能という誰も体験のない超常状況下に置かれた。

 爆心より2、3キロの路上で閃光を受けた山田一美さん。ほんの数メートル先にいた人は衣服が燃えたまま走り去った。もちろんこの付近で屋外被爆した人はほぼ亡くなっていった。ところが山田さんは、小山の陰に居たことで一命をとりとめることができた。

 53名のまさに奇跡の人たち。この特異な体験をされた方々のお顔、目から何が見えてくるかを写しとめたいと思った。

 READYFORというクラウドファンディングに、ものは試しとチャレンジしてみました。設定寄付に達成すれば出版費用の補填となりますが、さて、どうなりますか。

https://readyfor.jp/projects/39500

(元カメラ毎日編集部、松村 明=福岡在住)

 長崎文献社のホームページによると、顔写真53人を掲載、生年と被爆当時の年齢、被爆地、爆心地からの距離、被爆の瞬間、その後の記憶、伝えたいメッセージを記録(日英対訳掲載)。 3,630円 (税込)

 目次によると、巻頭序文は高橋眞司さん(哲学者)。

 登場者(掲載順、敬称略)は

・羽田麗子・小峰秀幸・山田一美・清水則雄・山川富佐子
・高谷英二・山口美代子・上田亨・西山進・松本恵美子
・森田博満・木口久・池田松義・築城昭平・草合護・川村幸子
・中島正徳・山川剛・内田伯・峰徹・磯田玲子・深堀譲治・市丸彪
・山脇佳朗・松尾幸子・谷口稜嘩・伊藤芳美・永野悦子・早崎猪之助
・森悦子・下平作江・吉岡泰志・宮川雅一・大倉峰代・山田拓民
・川野浩一・深堀好敏・吉崎幸恵・舛本佳子・大田スズ子・門 隆
・池田道明・桑崎英子・小西勝・城臺美彌子・鈴木一郎・小崎登明
・深堀リン・西村勇夫・中村一俊・田中熙巳・田川博康・深堀繁美

2020年7月7日

出版しました~「朝鮮戦争と『戦後史の穴』」をテーマに

 大阪大学出身の私は、毎日新聞の第一次面接試験を大阪本社で受けた。

 「ほお、阪大ですか。吹田事件を僕は取材しましたよ」。そう言った老練な面接委員の言葉を、奇妙によく覚えている。

 吹田事件とは朝鮮戦争2周年前夜の1952年6月24日、大阪大学待兼山キャンパスに結集したデモ隊が、阪急電車を「人民電車」に仕立てて国鉄吹田操車場に侵入し、米軍物資の朝鮮輸送を阻止しようとした「戦後の三大騒擾事件」の一つである。日本共産党と在日朝鮮人団体による暴力闘争路線そのものだが、「忘却された事件」といってよいだろう。

 私は4月末、『占領と引揚げの肖像 BEPPU1945―1946』を出版した。
版元は西部本社報道部長だった三原浩良氏(故人)が退社後に創設した「弦書房」(福岡市)である。国際温泉都市・別府は戦後の10年間は「被占領都市」であり、引揚者3万人以上が殺到した「引揚者都市」だったという趣旨の本だ。不思議なことに、こういった観点で書かれた別府戦後史は一冊もなかった。

 「朝鮮戦争と別府」について、章を立てて詳述した。

 ソウル特派員を経験した私は、朝鮮戦争が自由主義陣営と共産主義陣営の熾烈な戦争であったことを知っている。別府周辺でも朝鮮戦争当時、民団系と民戦系(北朝鮮系)の激しい闘争があった。拙著では、朝鮮半島に動員されて「戦死」した別府の日本人労働者のことを詳述した。その際、全国的な事件として「吹田事件」に言及し、札幌の白鳥警部射殺事件(共産党員によるテロ)も調べて、記述した。

 さらに地元紙の大分合同新聞を調べて、驚いた。朝鮮戦争当時、大分県内にも数多くの北朝鮮スパイが潜入し、摘発された事件があったのだ。極めつけは耶馬渓で知られる下毛郡下郷村(現在の中津市)元役場書記が、4人の密航者に偽の外国人登録証を発行していた事件だ(1951年3月25日付け記事)。韓国慶尚北道慶州地区の労働委員長だった男が密航スパイ事件の主犯である。

 私は1973年に毎日新聞に入社した。

 山口支局―佐世保支局―西部本社報道部(小倉)を経て、1986年に東京本社外信部に転勤した。九州・山口の事情には詳しいつもりだったが、朝鮮戦争当時の九州には無知であることを思い知らされたのである。

 しかし、毎日新聞の先輩たちは素晴らしい仕事を残していた。

 西部本社の各県版で連載された『激動二十年』(1965)である。大分版には戦後の同県内で起きた朝鮮民族間抗争に関する詳しい記事があり、福岡版には小倉の米兵死体処理場の記事や、日本人「参戦者」へのインタビュー記事も載っていた。1950年10月12日付けの毎日新聞(全国版)は、「韓国義勇軍/悲願の猛訓練/“北鮮軍撃滅”に燃ゆ」との見出しで、大分県日出生台演習場でのルポ記事を掲載していた。これらも併せて拙著では引用し、紹介した。

 朝鮮戦争は古くて新しいテーマである。

 北朝鮮や在日朝鮮人学校では、史実とは真逆の「北侵説」を教えている。韓国では、いつ朝鮮戦争が始まったかも知らない世代が増えた。対北融和政策の背景にある。最近の朝日新聞には、相変わらず「朝鮮戦争の勃発」という曖昧表現が登場した。NHK報道のように「北朝鮮の南侵によって始まった朝鮮戦争」と表記するのが的確である。毎日新聞も日本人参戦の事実を報じたが、昨年夏のNHKドキュメンタリーの域を出ない後追い報道だった。
一連の朝鮮戦争70周年報道には、北朝鮮スパイの浸透が当時の暴力闘争の背景にあり、その後の在日朝鮮人帰還(北送)運動のテコであり、日本人拉致の固定装置(土台)であったとの観点は見られない。歴史の総合的検証としてはまことに不十分である。

 なぜ、地域の戦後史が重要なのか。

 外交史、政治経済史に偏重した東京中心の戦後史では、「個々の住民が体験した戦後」が見えないからだ。その一方、行政史中心の地域戦後史では、「大日本帝国」時代とその後の東アジア規模での人間の大移動が見えない。

 朝鮮戦争は「戦後史の穴」であり、現在に続く「戦後のトリック」を生み出した。

 (鹿児島生まれ―大阪大学)―山口支局―佐世保支局―小倉報道部―ソウル支局―東京本社(―ソウル―大分―東京在住)。そういう私の軌跡は「朝鮮戦争と日本」を描くのにふさわしいと自認しても良いだろう。「吹田事件」も新たな観点から書き直すことになるかもしれない。

(元ソウル支局長・論説委員 下川正晴)

【近著】『忘却の引揚史―泉靖一と二日市保養所』(弦書房、2017)、『日本統治下の朝鮮シネマ群像~戦争と近代の同時代史』(弦書房、2019)、『占領と引揚の肖像BEPPU1945-1956』(弦書房、2020)、『ポン・ジュノ 韓国映画の怪物』(毎日新聞出版、2020年6月)、『私のコリア報道』(Kindle版)

2020年7月6日

藤原健著『終わりなき<いくさ> 沖縄戦を心に刻む』

 7月4日付毎日新聞朝刊「今週の本欄」で紹介された。

 筆者は、1950年岡山県生まれ。74年毎日新聞入社。大阪本社社会部長→同本社編集局長→スポニチ常務→2016年妻の古里沖縄に移住。沖縄大学大学院入学(現代沖縄研究科沖縄・東アジア地域専攻)。琉球新報客員編集委員。

 2018年12月に琉球新報社から『マブイの新聞―「沖縄戦新聞」沖縄戦の記憶と継承ジャーナリズム』を発刊している。

 75回目の沖縄慰霊の日。女子高校生は「平和の詩」の中で、凄惨(せいさん)な地上戦を奇跡的に生き延びて命をつないでくれた「あの時」の「あなた」に感謝し、平和の尊さを訴えた。一方、ある教員団体の調査では「沖縄戦を語る家族や親族がいない」と回答した高校生が今年半数を超えた。継承の重みは年々増している。

 琉球新報客員編集委員を務める著者が連載コラムを軸にし、沖縄戦をどう心に刻み、いかに語り継ぐかを徹底して考え抜く。ゆがんだ歴史修正主義の陰がちらつく中で、苦い過去から得た「民衆知」にこそ真実があるとし、体験者の声に耳を傾け、戦跡を訪ね、記憶を継承する若い記者や教員、子どもたちに希望を託す。

 著者は本土の新聞社を退職後、66歳で沖縄に移住。大学院で学び、沖縄の歴史と現実に自分ごととして関わり直したという。住民の意思を無視し、「国の都合と論理」で米軍基地の移設工事が続く現状に「終わりなき<いくさ>の影が沖縄から消えることはない」と指摘。「気の毒だが、仕方ない」と基地負担を容認する国民の思考放棄の責任にも触れる。沖縄が抱え続ける痛みとどう向き合うのか。誰もが自問させられる。

 (琉球新報社・2200円)

(鵜)

2020年6月19日

75歳の記念に、俳句とコラム『無償の愛をつぶやく Ⅲ』




 私の誕生日は1945年6月19日で、この本のコラムでも触れていますが、アウンサンスーチーさんと同じ日です。日本新聞インキをリタイアした3年前に『無償の愛 Ⅱ』を、そのまた3年前、まだ毎日新聞監査役だった2014年に『無償の愛 Ⅰ』を自費出版し、これが3冊目です。

 いずれも俳句とコラムを合体させたもので、今回は2018年元日から河彦名のツィッターで毎日1句、WEBに掲載してきたものを中心に、1106句を収容しています。ツィッターは140字の制限があり、この範囲内で、俳句の説明というか、日記のような記録を付け加えています。

 コラムは合計30本で、ハワイ・ホノルルで発行されている日本語新聞「日刊サン」に掲載されたものが22本です。1回2,000字以内、昨年6月から月2回、寄稿していましたが、現在は月1回になっています。それというのも、ハワイもコロナ禍に直撃され、一時は日本からの観光客がゼロになるなど非常事態となって、新聞広告のクライアントも激減、4月から週に2回の発行となったためです。

 コラムはほかに、木戸湊・元主筆が発案して6年前から発行している季刊同人誌『人生八聲』に寄稿したものや、日本記者クラブ会報に掲載してもらった「書いた話 書かなかった話」なども収録しました。新聞記者リタイア後も、書くことにこだわり、楽しませてもらっている日常の報告です。

 無償の愛と ビールの泡に つぶやいて

 元スポニチ社長(元社会部長)、牧内節男さんがWEB上で展開している「銀座一丁目新聞」の銀座俳句道場で褒めていただいた拙句をタイトルに使っています。俳句の出来は、自慢できるレベルではありませんが、俳句を意識することで、人間の心の機微や自然の移り変わりに敏感になったと実感しています。題字は書道クラブの一員としてはお恥ずかしいのですが、自分の筆によるものです。

 後期高齢者の仲間入りをした後も、気分は若くしなやかに、と心がけています。興味がありましたら、この本を手に取っていただき、今後ともお付き合いを、とお願いする次第です。

 ご希望の方には、残部の範囲内で、1部1,000円(送料込み)でお送りします。

  までご連絡ください。

(高尾 義彦)

2020年6月16日

『汚れた桜—「桜を見る会」疑惑に迫った49日』遅まきながら新刊紹介

 毎日新聞出版のHPの惹句にこうある。

 明細書のない前夜祭、黒い友達関係、消された招待者名簿...... 一連の「桜を見る会」疑惑を追った記者たちの記録。

 著者は、毎日新聞「桜を見る会」取材班。政治部、社会部の混成チームかと思ったら、全然違った。

 東京本社編集編成局(かつての編集局)統合デジタル取材センター(2017年4月新設)の江畑佳明、大場伸也、吉井理記の3記者によって2019 年11 月11 日に発足したチームとある。その3日前、11 月8日の参院予算委員会で田村智子議員(共産)がこの問題を初めて取り上げ、「SNS で大きな反響を呼んだことがきっかけだった」と取材チーム発足の経緯を説明している。

 記事の掲載は、毎日新聞本紙ではなく、毎日新聞ニュースサイトである。本紙の紙面では記事のスペースが限定されるが、こちらは国会審議の詳細や、安倍首相の記者会見の模様も裏話を含めて記事のボリュームに制限がない。安倍晋三事務所が出した『桜を見る会』の案内、参加申し込み書、前夜祭・桜を見る会の当日の日程の入ったツアー案などなど、データがそのままアップされる。むろん写真もである。

 「はじめに」にこうある。

 ――本書は世の中を揺るがしたスクープの回顧録ではない。生々しい政界の裏話でもない。ただ、SNSを通じて届く人々の声を背に、桜を見る会で何が起きたのか、そもそも何が問題なのかを、問題が発覚してから2019年最後の野党による政府(注:内閣府)ヒアリング(12月26日)までの49日間、できるだけ分かりやすく伝えようとしてきた記者たちの記録である。

 そして、記者の動きを追っていただくことで、日々SNSに流れてくる断片的なニュースにどういう意味があるのか、理解を深めていただくための書である。2月1日に初版、桜の咲くころには、あっという間に4刷りを記録した。

 執筆者の履歴が載っている。

 江畑佳明。75年寝屋川市生まれ。同志社大大学院修了後、99年入社。山形・千葉支局→大阪社会部→東京社会部→夕刊編集部→秋田支局次長→2018年現職。

 大場伸也。73年横浜市生まれ。早稲田大学大学院修了後、2000年入社。船橋・千葉支局→政治部→東京経済部→長崎支局→西部本社小倉報道部→現職。

 吉井理記。75年東京生まれ。法政大学卒、99年西日本新聞→2004年入社。宇都宮支局→東京社会部→北海道報道部→夕刊編集部→19年現職。

 デスクの日下部聡。筑波大学卒、1993年入社。浦和(現さいたま)支局→サンデー毎日編集部→東京社会部→2018年統合デジタル取材センター副部長。16~17ロイタージャーナリズム研究所客員研究員。著書に『武器としての情報公開』(ちくま新書)。

 中年記者たちの躍動ぶりを味読してください。
 定価:1,200円+税、毎日新聞出版
 ISBN:978-4-620-32619-1

(堤  哲)

2020年6月5日

毎日新聞取材班著『公文書危機 闇に葬られた記録』

 HPによる内容紹介——。

 国がどのように物ごとを決めたのか、政府の政策決定の過程がまったく検証できなくなっている。「森友・加計学園」「桜を見る会」、そして検察庁法改正案……これらに共通して見られるのは、政権による公文書の軽視だ。

 省庁は、表に出せない公文書を請求されると、「私的な文書」にすり替え、捨ててしまう。あるいは捨てたことにする。重要なやりとりをメールで行い、「メールは電話で話すのと同じ」と言って公文書にしない。公開対象の公文書ファイルのタイトルをわざとぼかし、その中身を知られないようにもしていた。

 きわめつきは、官僚にメモすら取らせない、首相や大臣の徹底的な情報統制だ。証拠を隠し、捨てるどころか、そもそも記録を残さないようにしていた。情報開示請求を重ね、官僚が重い口を開く。一歩ずつ真実に近づいてゆく、取材班の記録。

 取材班の代表者は、大場弘行記者。1975年生まれ。 2001年毎日新聞社入社。 阪神支局(兵庫県尼崎市)を振り出しに、 大阪社会部府警担当、 東京社会部検察庁担当、 週刊誌「サンデー毎日」編集部、 特別報道部などを経て、 現在東京社会部記者。 2017年に「公文書クライシス」取材班を発足、 中心的な役割を果たす。

 本書の元となった連載「公文書クライシス」は2019年、 優れたジャーナリズム活動に贈られる第19回「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」(公共奉仕部門)大賞受賞。

 2020年6月 2日発売
 ISBN:978-4-620-32632-0
 1,500円+税、毎日新聞出版社

2020年5月26日

「夢に住む人 認知症夫婦のふたりごと」(木部克彦著)



 奈良支局や大阪本社整理部に在籍したことのある作家、木部克彦さんが新しい本「夢に住む人 認知症夫婦のふたりごと」を出版しました。2020年5月23日の毎日新聞の書評欄で紹介されました。認知症の両親と自分とのかかわりを書いています。そのことを木部さんが、フェイスブックに投稿しました。木部さんが毎日新聞を退社したのは、28年前だそうです。以下は、フェイスブックの要約です。

(文責・梶川 伸)

◇   ◇

 今日(2020年5月23日)の毎日新聞書評欄に、新刊本「夢に住む人 認知症夫婦のふたりごと」(言視舎)の書評が載りました。版元が毎日の東京本社に送ってくれたのでしょう。

 むろん、誰が書いてくれたのか知るよしもなし。ただ、本をきちんと読んでくれた事がよく分かる的確な書評でした。書いてくれた記者さん、心からお礼を言います。ありがとうございました。

 「縮刷版」という永久保存資料に今さら自分の名前が残るというのも、なんとなく複雑な気分ですなあ。そうそう、新聞の縮刷版って、まだ存在しているんだったっけか。

(=以上、大阪毎友会のHPから)

 木部さんは、1958年群馬県生まれ、1980~92年毎日新聞記者。出版社「あさを社」編集主幹、明和学園短大(前橋市)客員教授、群馬県文化審議会委員。食・料理・地域活性化論・社会福祉論・葬儀論等で取材・執筆。各地のお寺の精進料理研究を続け、「食による健康づくり」を実践。明和学園短大で人間学、地域文化論、食文化史を講義。

 単行本の企画から、自分史・回想録・エッセイ集・句集・歌集・写真集などの個人出版まで幅広く展開。企業オーナー・政治家をはじめ、多くの人たちの「聞き書き」による自分史・回想録を数多く手がけ、「自分史の達人」と評される。

2020年5月24日

瀬川至朗編著『ニュースは「真実」なのか』

 2019年春学期に開講した「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」記念講座の講義録である。「本書では、ジャーナリストの方々が多面的かつ徹底した調査・取材で得たファクト群について、それらにどのようにたどり着いたか、生々しい経験や手法が語られる」と、瀬川至朗早大政治経済学術院教授(元毎日新聞記者)が「はじめに」に書いている。

 トップバッターが、毎日新聞・遠藤大志記者(1985年生まれ)。2018年度の新聞協会賞を受賞した「旧優生保護法を問う」。仙台支局時代に「旧法の違憲性をめぐり宮城県の被害女性が史上初の国家賠償を起こす方針であることをスクープして以降、法律の問題点を世に問うキャンペーン報道を展開」した。

 他に「#Me Tooとジャーナリズム」(伊藤詩織)、「日産のカルロス・ゴーン転落劇の取材」(ハンス・グライメル)など。

 あとがきで瀬川さんは書いている。

 選考委員の吉岡忍さん(作家、日本ペンクラブ会長)は、贈呈式の講評において以下のように指摘している。

 いったいジャーナリズムにおける力作とは何でしょうか。

 今回の大賞、奨励賞の作品に共通していることは、記者や制作者自身が「知りたい」「理解したい」「わかりたい」と切実に思ったことをテーマにしている、ということです。そのテーマをしっかり保持しながら取材し、考え、また調べて、作品にしています。(中略)あくまで自分の関心に忠実に、脇目も振らず、まっすぐにテーマに突き進んでいく。これが力作を生む最初の条件です。

 もうひとつ、ジャーナリズムではしばしば「公正・公平・中立」が大事だ、と言われますが、少し乱暴な言い方をすれば、そんなことを言っているうちは取材や思考が足りない、ということです。記者や制作者がほんとうに知りたいと思ったことを取材し、調べ、そこで手にした事実に基づいて考えに考えていけば、だんだんにわかってくるのは究極の事実、これしかないという真実です。そこまでたどり着いたとき、力作が生まれる。

 優れたジャーナリズム作品の特質が、吉岡さんの言葉で端的に語られている。

 早稲田大学出版部、2019年12月刊、1,800円+税

(堤  哲)

2020年5月9日

古森義久著 『新型コロナウイルスが世界を滅ぼす』

 毎日新聞の先輩で産経新聞ワシントン駐在客員特派員・古森義久さん(79歳)から新著が届いた。

 テーマは新型コロナウイルス。相変わらず手が早い。

 書き出しは、《すべては武漢で始まった》。

 集団感染のプロセスを《まず東京で目撃、体験し、その後、まだ感染の圏外だったアメリカの首都ワシントンに移動した。すると、まもなくウイルスは超大国で燎原の火のように広がった》《アメリカで最初の感染者は、1月21日に西海岸のワシントン州で確認された30代のアメリカ人男性だった。仕事で武漢に滞在して、アメリカに戻ったところ、ウイルス感染が判明した》

 一方で中国は、《米軍が武漢にコロナウイルスを持ち込んだ》との情報を流す。2019年10月、武漢で行われた「世界軍人陸上競技大会」にアメリカの軍人170人が参加したからだ。

 感染源をめぐる米中戦争である。

 2020年5月ビジネス社刊、1,400円+税

(堤  哲)

2020年5月8日

原剛著『日本の「原風景」を読む――危機の時代に』

 早稲田環境塾(2008年発足)塾長の原剛さん(82歳、早稲田大学名誉教授、毎日新聞客員編集委員)が『日本の「原風景」を読む――危機の時代に』を出版した。

 海、山、川、野鳥、里山……日本各地の「原風景」を訪ね、価値観の根源を問い直す!

 原さん自らの本の紹介――《「原風景」とは人が挫折した時、そこへ戻って反撃し、立ち直っていく精神的な空間を意味します。

 本書の帯に記された「第4の風景論」とは志賀重昂『日本風景論』、小島鳥水『日本山水論』、上原敬二『日本風景論』を意識したものです。

 それぞれ日清、日露、太平洋戦争時に出版されて国家意識を高め、ベストセラーになりました。これらの風景はいわば戦争文学でした。第4の風景論は早稲田環境塾が指向する自然、人間、文化からなる環境三要素を統合、文化としての「環境日本学」の実体を現場から模索する試みです。この場合、「文化」とは内発的な共感を意味します。

 本書は、私が毎日新聞朝刊に10年間にわたり連載した「新 日本の風景」を「原風景」に焦点を絞り込んで書き改めたものです。ご一読いただけましたら幸いです》

 四六並製 328ページ・カラー口絵8ページ(写真は写真家・佐藤充男氏)
 藤原書店2020年4月刊
 定価 2,700円+税=2,970円

 原さんに申し込むと、著者割引きで購入できる。

 送料とも1冊2,556円、2冊5,122円。

 注文は直接原さんへ(メールアドレス:

 併せて同じ藤原書店発刊の早稲田環境塾(原剛塾長)編
 『高畠学』=2011年5月刊、2,750円(税込)、
 『京都環境学[宗教性とエコロジー]』=2013年3月刊、2,200円(税込)

 の購入も呼びかけている。

(堤  哲)

2020年5月2日

僚友・佐藤哲朗が渾身の一冊を刊行した

 渾身の一冊は『スパイ 関三次郎事件 戦後最北端謀略戦』(河出書房新社、2,500円+税)。帯に「戦後混乱期の宗谷海峡。ソ連の密入国工作員として裁かれた関三次郎は、実はアメリカのCICのスパイであった。死の直前の関が、身を捨てて真相を告発。日米謀略の深層、そして樺太と北海道をつらぬく巨大な闇がここに暴露される」とあり、いささか誇大ながら、一言で紹介すれば、こうなる。読んで損のない面白い本であること間違いない。

 佐藤哲朗は旧・樺太で生まれ、旭川(北海道)で育った。中学校の社会見学で旭川地裁に行き、関三次郎の公判に出くわした。オジロワシのような目が少年の目に焼き付いた。長じて毎日新聞に入り、司法を担当。飛躍を期した1972年の正月早々、関三次郎を有罪に追い込んだ検事と公開の宴で盃を交した。

 検事は検事正になっていて、往年を振り返る。「この事件(関三次郎の事件)には証拠というものが何一つなかった。頼りは本人の供述だけ」と漏らす。これを聞き漏らすわけがない。検事の裏は弁護士で、と、探しあてた。その一人は老弁護士となっていたが、よくぞ来たとばかりに迎えられ、出端で意気投合した。帰り際には「あんた、やるなら持っていけ」と大ダンボールいっぱいの資料を託された。

 中は、ぎゆう詰め。裁判記録をはじめ、ほぼ全ての調書(写し)、当事者、関係者の「証言」がひしめいていた。即むさぼり読んだ、と言えば恰好つくが、そうもいかない。その頃は夕刊、朝刊に追いまくられ、その合間をどう割くか。それに、お宝の壺だとわかっていても、世にいう、釣り上げた魚で締切もない。

 だが、読み進むにつれ、身震いがくる。裁判はどうしようもない生煮えだ。裁判官はお国の検察の意を受けたのだろう、有罪ありきの結審(判決)だけを急ぎ、関三次郎の弁護士は事実関係を棚上げして情状論のみに終始、共犯とされるソ連人被告は起訴状を全面否認したものの、有罪(執行猶予)には服した。ソ連当局が身柄の本国送還を優先したためで、闇から出た事件は、そのまま闇へと戻された。

 ダンボール弁護士は、このソ連人被告担当で、生煮え症候群による消化不良を起こしたのだろう。真実究明の弁護士本能が、一件資料を捨てるに捨てられず、ダンボールを残し続けてきたに違いない。ま、中だるみの話は割愛しておこう。ダンボールの存在は、それ自体が結果としていい自己圧力になった。

 初動後の弛みは、足で超えた。ダンボールによって、事件の全体像が見え、闇に踏み込む切り口も見えている。だが、検事述解のように、物的証拠は全くない。「証言」も裏付けとなると霧中に入る。ならば愚直に踏み込むよりない。佐藤哲朗は、そう覚悟した。

 ダンボールに眠る関係者の全員を起こし、直接会って話を聞く。愚直にできるのは、これだ。「はしがき」で、「取材した関係者は数百人を超え、走行距離は延べ四万キロに及ぶ」と書いているが、これ、それほど誇張はない。本著冒頭3ページにわたって「主な登場人物」80人余を実名で挙げているのが、その証だ。

 実名というのが、凄い。既に死亡していたひとや国外に出て消息のとれなかったひとを除き、少しでも影あれば探し出し、足を運んでいる。当の関三次郎には都合6度会った。中には「本当のことを言うが、生きてる間はばらさんでくれ」というひとも、1人、2人ではなかった。着手から刊行まで48年を要した一半の理由は、ここにもある。

 書きに入ったのは、後期高齢、75を過ぎてから。事実を究め、集めるのも大変だが、書き上げも大変だ。若きのように、馬力で書けとは参らない。歳の功が読み手にわかるように書け、といっている。取材不足も次々痛感、さりとて故人から再度聞けるわけもない。不足は他人の成果から補えと、読んだ本は記憶にあるだけで66冊に及んだ。

 前後して、肺を切り、心臓に管を足し、前立腺を取った。医者の不養生の類で、ずいぶんとひとの命の手助けをしてきた佐藤哲朗だが、己の手当に抜かりがあった。折からあべ一強は一強を重ねている。負けて堪るか。書き上げなければ、48年が無と同じになる、なによりダンボールに申し訳がたたない。愚直にかえって加速へ踏み込んだ。

 書き上げて、買い手がつくまでの1年有半もしんどかった。だが、48年、振り返りみれば、愚直には必ず助っ人がつくもんだ。「あとがき」末尾で吐露の感謝に誇張はない。

 あとは、――直接、本書にあたっていただきたい。直接、本屋に足を運び、手に取っていただき、はたして「帯」のとおりか否か、確認願えれば、著者、望外となる。

(おおすみひろんど)

2020年4月29日

続『プリンストン大学で文学/政治を語る バルガス=リョサ特別講義』

 同志社大学グローバル地域学部准教授・立林良一さんが翻訳した『プリンストン大学で文学/政治を語る バルガス=リョサ特別講義』を新刊紹介(2020年2月9日)で掲載した。

 立林さんからお礼の手紙が届いた。朝日新聞に掲載された作家いとうせいこう氏の書評と、「折々のことば」にバルガス=リョサの言葉が紹介されたとコピーが同封してあった。

 いとうせいこう氏は《「民主主義は不完全な仕組みですが(略)最も人間的なもの」「社会が権力の濫用に対して持つ唯一の防御手段は表現の自由です」といった言葉が実に重い》と書いている(2020年1月18日付)。

 毎日新聞の現役でもOBでもない立林さんの訳本を紹介したのは、立林さんが元くり読(Teen's Spaceをう たった週刊紙「くりくり」の読者)だったからだ(詳細は2月9日欄)。

 手紙にこうあった。《大学(東京外語大学スペイン語科)で岩波文庫の『ドン・キホーテ』の翻訳を手掛けられた牛島信明先生という方に出会ったことでスペイン語圏(特にラテンアメリカ)の文学に興味を持ち、大学院に進学してスペイン語教師を目指すことになりました。最初の6年間を福岡大学で過した後、同志社に転任してまる28年になります》

 《7年前にグローバル地域文化学部が設立され、そこに移籍して今は学部生向けのラテンアメリカの文化や社会についての講義や新入生ゼミも担当しております》

 そして最後に《同志社でも今学期は教室での授業を一切行わないことになったため、今はゴールデンウィーク明けに本格的に始まるオンライン授業の準備に追われています。この年齢になって(注・1959年生まれだから、ことし61歳)今風なハイテク対応を迫られることになろうとは、まったく想定外でした》。

 マリオ・バルガス=リョサ氏は、2010年のノーベル文学賞受賞者。ペルー生まれの83歳。フジモリ大統領が当選した大統領選に出馬して敗れている。

 定価3,300円(税込み)河出書房新社刊

(堤  哲)

2020年4月23日

『検察官になるには』――元司法記者、飯島一孝さんが出版

 息子さんや娘さん、あるいはお孫さんにお勧めしたい一冊が、出版された。

 現役の検事たちのインタビューを導入部に、最高検察庁から高検、地検、そして区検察庁まで、検察官や検察事務官がどんな仕事をしているか、分かりやすく解説し、いかついイメージの世界への入門編となっている。「司法」に興味を持っている人や、進路に迷っている若者にとって、一読する価値がある。ぺりかん社の「なるにはBooks」シリーズとして出版された(本体1,500円+税)。

 

 「正義の心で捜査する!」「検察官の世界」などの章に分かれ、検察の歴史をはじめ、最近ではデジタル技術を駆使した捜査が重要になっていることや、裁判員裁判が10年前に導入されて、捜査手法や公判での立証方法に変化が生じていることなど、「進化する検察」の素顔も、現場の生の声で報告されている。昔に比べて女性の進出も目立ち、検察官の総数に占める割合は2018年3月末で24.6%、482人になり、地検検事正50人のうち女性は6人を数える(2018年9月)。

 飯島さんと言えば、モスクワ特派員としての仕事が印象に残り、退社後もその分野を専門として大学に籍を置いてきたが、それ以前に、社会部司法記者クラブに所属していた時代がある。「1年以上かかって取材、執筆しました。司法記者の経験が役にたったようです」と振り返る。

 政治の世界では、東京高検検事長の定年延長など安倍政権の恣意的な法律解釈で、検察の中立性に疑問が投げかけられている。飯島さんの著書に登場する検事たちは社会正義の実現を目指し、独立して真実解明に全力をあげる心意気にあふれる。健全な検察を取り戻すためにも、編集に最高検察庁も協力しているこの一冊を役立ててほしい。

(高尾 義彦)

2020年4月10日

『ハルビン学院の人びとー百年目の回顧』飯島一孝さんが群像社から出版!

――飯島一孝ブログ「ゆうらしあ!」から転載

 日露戦争後、旧満州のハルビンに設立されたロシア専門家養成の学校「ハルビン学院」は今年、創立百年を迎えます。ロシアとの共存の道を探ろうと設立した満鉄初代総裁、後藤新平の願いとは裏腹に、日中戦争、第二次大戦に巻き込まれ、終戦と同時にわずか25年で閉校となりました。そんな激動のただ中で、卒業生1,514人はいかに学び、戦後の混乱期を生き延びたのか。その軌跡をわずかな生存者を探してインタビューしてまとめたのがこの本です。

 私は1991年のソ連崩壊前後に、モスクワで毎日新聞特派員として6年間駐在し、社会主義の盟主が倒れるのを目撃しました。日々の取材に追われる中、旧ソ連で活躍したハルビン学院卒の先輩たちの話を聞く度に、彼らの活躍の原動力は何だろうかと気になっていました。モスクワ駐在を終えて帰国後、ハルビン学院24期の麻田平蔵さんを取材した縁で、毎年4月に東京・八王子の高尾霊園で行われているハルビン学院記念碑祭に出席するようになりました。そこで知り合った学院同窓生たちの話は、波乱万丈で興味を引くことばかりでした。いつかこうした話をまとめられないだろうかと考えていました。

 そんな時、ユーラシア文庫を出版している「ユーラシア研究所ユーラシア文庫編集委員会」の方に後押しされ、本格的に取材を始めました。ただ、卒業生で生存している人は全体の5%ほどで、しかも取材に応じていただけそうな元気な方は10人前後という状況でした。それでも、同窓会の事務などを担当されているハルビン学院連絡所の方々から連絡先を伺い、取材をお願いする手紙を出して返事を待ちました。そしてようやく数人の方にお会いして話を聞くことができました。なぜもっと早く取材をしなかったのか、と何度悔やんだかしれませんでした。

 取材を通じて、終戦直後の国民の反ソ感情と、GHQの有形無形の圧力を跳ね返し生き抜いてきた知恵と勇気に感服しました。こうした先輩たちのおかげで、われわれロシア研究者のはしくれも何とかやってこれたのではないかと感謝したい気持ちでいっぱいです。こんなご時世ですから、じっくり読書とはいかないかもしれませんが、逆にこういう時だからこそ、先人の生きてきた道をたどり、今後の生き方の参考になればありがたい限りです。

 なお、この本は900円(税別)で書店で販売中です。入手しにくい場合は群像社ホームページ(http://gunzosha.com)から購入できます。

自己紹介
毎日新聞社でモスクワ特派員、外信部編集委員を経て08年秋、定年退職。その後、東京外国語大学、上智大学などで講師を務めた。著書に「新生ロシアの素顔」「ロシアのマスメディアと権力」「六本木の赤ひげ」など。

2020年3月30日

元気な全共闘世代! 毎日新聞OBは?

 700ページを超える『続・全共闘白書』(情況出版、3500円+税)を編集した元東大全共闘の前田和男さん(72歳)が3月19日付毎日新聞「ひと」欄で紹介された。

 1994年の『全共闘白書』(新潮社)の続編。あれから半世紀、かつての活動家にアンケート調査した結果をまとめたものだ。回答者は全国120超の大学・高校での学園闘争体験者計467人。匿名でも掲載不許可を除く451通が掲載された。

 獄中から重信房子、和光晴生が応じている。

①運動には「活動家として参加」②参加理由「自らの信念で」③参加したことを「誇りに思っている」④あの時代に戻れたらまた参加するか「する」⑤革命を「信じていた」……質問は75項目にわたる。この回答は前田さんのを引用した。

 前田さんは編集プロダクションを経営し、私もいくつかの企画で一緒に仕事をしてもらったことがある。路上観察学会の事務局をつとめ、著作には資生堂『MG5物語』、アシックスのペダーラを追った『足元の革命』、『男はなぜ化粧をしたがるのか』や、『選挙参謀 三ヵ月で代議士になれる!』『民主党政権への伏流』など。翻訳本もいくつも出している。

 それはさておき当然、毎日新聞記者OBもいるはずと思って、探してみた。

 匿名で元新聞記者がいた。定期購読紙誌に「毎日新聞」とあったので、多分……。

 その回答。1948年生まれ、68年早大入学。無職(元新聞記者)

⑤革命を「信じていなかった」⑥社会主義の有効性「失った」⑦運動は人生を「変えなかった」⑧思い出に残る闘争「学園闘争(早稲田大学)」⑨運動から離れたのは「内ゲバ(党派闘争)、暴力闘争辞退⑩運動は人生に「役立っている(生涯を通しての友人・先輩ができた)……(75)最後にこれだけは言いたい「東大・安田講堂で機動隊導入の前夜、日和ったトラウマを、早大闘争で革マル突入(実際にはなかったが)前夜、校舎内で耐えたことで克服した。以来、人生ってリターンマッチがあることを学んだ。挫折の後には、また夜明けがあることを若い人に知ってほしい」

 アンケート結果。③参加したことをどう思うか「誇りに思っている」310名(69.5%)。25年前の296名(56.3%)より増えている。
④あの時代に戻れたらまた参加するか「参加する」299名(67.0%)。これも25年前の291名(55.3%)を上回っている。

 元気な全共闘世代である。《「連帯を求めて孤立を恐れず」という全共闘の名文句は、今も生きているのです》と前田さんはいっている。

(堤  哲)

2020年3月14日

元毎日新聞、現産経新聞ワシントン客員駐在員古森義久氏の新刊

 毎日新聞63年入社、1年先輩の古森義久さんから『米中激突と日本の針路』が送られて来た。

 本文の最初に、古森さんは1998年から2000年まで産経新聞の初代中国総局長として北京に駐在したと書いているが、1998年8月、毎日新聞論説委員OBらの「北京・上海マスメディア調査団」(団長鳥井守幸、副団長天野勝文、秘書長澁澤重和)は北京で古森さんと旧交を温めた。私も調査団に加えてもらい、北京では「人民日報」や「北京青年報」の編集局長らにインタビューした。

 古森さんは静岡支局振り出しで、社会部では警視庁も担当。その後外信部でサイゴン・ワシントン特派員を務めた。産経新聞に移って、励ます会でこう話したことを覚えている。

 「原稿を書く、マス目を埋める作業は、毎日新聞時代も、産経に移っても全く変わらない。新聞記者ほど移籍の自由な職種はないのではないか」

 共著者の矢板明夫氏は、中国生まれで中国育ち。松下政経塾出身で、古森さんが中国総局長のとき、中国語のできない古森さんを助けた。その後、産経新聞に入社、2007年から10年間北京特派員を務め、現外信部デスク。

 第1章は「新型コロナウイルスの恐怖」。武漢で最初の感染症者が確認されたのが2019年12月8日。それがどうして世界中に蔓延してしまったのか。40ページにわたって、そのドキュメントを綴っている。

 海竜社2020年3月刊、1600円+税

(堤  哲)

2020年2月24日

元社会部宮内庁担当、森暢平成城大教授の『近代皇室の社会史』

 著者の森教授は、1964(昭和39)年埼玉県生まれ。京都大学文学部を卒業して1990年毎日新聞社に入社、社会部で宮内庁、警視庁を担当。98年退社して国際大学大学院。修了後に渡米し、CNN日本語サイト編集長、琉球新報ワシントン駐在記者。2005年、40歳で成城大学へ。文芸学部マス・コミュニケーション学科担当だ。

 皇室ものでは、『天皇家の財布』(新潮新書)を刊行しているが、吉川弘文館HPにある内容紹介は――。 側室制や乳人制度など伝統的な婚姻・子育ての形を色濃く残していた皇室が、なぜ「近代家族」化の道を辿ることになったのか。一夫一婦制への転換、「御手許」養育の変遷、恋愛結婚の実態など、明治中期から戦後を対象とし、皇室内部の史料と新聞雑誌メディアをもとに検討。大衆化する社会情勢と連関させて考察し、時代に順応していく皇室の姿に迫る。

 2020年1月31日刊、A5判 390ページ 、定価 9,000円+税

(堤  哲)

2020年2月9日

元くり読・立林良一訳『プリンストン大学で文学/政治を語る バルガス=リョサ特別講義』

 終活で資料を整理していたら、「くりくり」時代の読者からの手紙が出てきた。創刊2年目の夏休みにアメリカ西海岸へ1週間ほどのホームステイを中3から大学1年までの20人ほどの読者とともに体験した。

 その同行記を「くりくり」に掲載したら、「私もWatsonvilleに留学していました」という手紙が届いたのだ。

 差出人を検索すると、ノーベル文学賞を受賞したマリオ・バルガス=リョサ氏の翻訳本を昨年11月に出版していた。

 立林良一さん。訳者の紹介に、1959年生まれ。同志社大学准教授。ラテンアメリカ文学・文化研究。共著に『ヨーロッパ・アメリカ文学案内』など、とある。

 くり読(Teen's Spaceをうたった週刊紙「くりくり」の読者)も還暦を迎えていた。

 ワトソンビルは、米サンフランシスコの南100キロほど、西海岸沿いの田舎町である。

 立林さんは、同志社大学グローバル地域文化学部のHPに《今からかれこれ35年ほど昔、高校生のときに交換留学生として1年を過ごした米国、カリフォルニア州の小さな町は、人口の半分がメキシコ系で、通った学校では英語以上にスペイン語が飛び交っていました。自分が漠然と抱いていたアメリカという国のイメージとは全然違う雰囲気に最初は戸惑いもありましたし、ラテン系の人たちのメンタリティにもなかなか馴染めませんでしたが、そうした違和感の正体を見極めたいという思いから、大学ではスペイン語を専攻することに決めました。いずれスペイン語を武器に、海外で活躍できるような仕事に就きたいと考えていました》と書き込んでいる。

 さて、肝心の本の内容――。

 河出書房新社のHPには、《キューバ革命、ペルー大統領選、ドミニカの独裁政治、シャルリ・エブドのテロなど、ノーベル賞作家が自らの足跡も交えて政治・暴力と文学の密接な関係を語り尽くす、刺激に満ちた講義録》とある。

 マリオ・バルガス=リョサ氏は、2010年のノーベル文学賞受賞者。ペルー生まれの83歳。フジモリ大統領が当選した大統領選に出馬して敗れている。

 定価3,300円(税込み)河出書房新社刊

(堤  哲)

2020年2月3日

青野由利著『ゲノム編集の光と闇』

 元TBS記者で、ソ連の宇宙ステーションから実況中継をした秋山豊寛さん(77歳)が、月刊紙「健康と良い友だち」2月号のコラム「終活の合間の読書」で紹介していた。

 《ここ数年のニュースの中で私の想像力を最も刺激したのは、人類の遺伝子の中には古代型人類と呼ばれているネアンデルタール人の遺伝子も入っており、日本人も例外でないという話です》

 《現代の遺伝子分析技術は、そこまで進んでいるのかと、生命科学分野での技術展開の速さに驚くと同時に不安も強くなりました》

 《そこで本屋さんで関係する本を同時に何冊か買い込んで、この暮れと新年を楽しんだ次第。その数冊の中で一番バランスが取れていると思われる一冊が今回取り上げた本》というのだ。

 青野由利さんは、毎日新聞朝刊2面で毎週土曜日コラム「土記」の筆者。

 ちくま書房のHPでは、こう紹介している。

 科学ジャーナリスト、毎日新聞社論説室専門編集委員。東京生まれ。東京大学薬学部卒業後、毎日新聞社に入社。医学、生命科学、天文学、宇宙開発、火山などの科学分野を担当。1988−89年フルブライト客員研究員(マサチューセッツ工科大学・ナイト・サイエンス・ジャーナリズム・フェロー)、97年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(広域科学専攻)、99−2000年ロイター・フェロー(オックスフォード大学グリーンカレッジ)。

 著書に『宇宙はこう考えられている』『ニュートリノって何?』『生命科学の冒険』(ちくまプリマー新書)、2010年科学ジャーナリスト賞を受賞した『インフルエンザは征圧できるのか』(新潮社)、『ノーベル賞科学者のアタマの中──物質・生命・意識研究まで』(築地書館)、『遺伝子問題とはなにか──ヒトゲノム計画から人間を問い直す』(新曜社)等。

 ちくま新書 880円+税

(堤  哲)

2020年1月17日

社会部OB・滑志田隆著『埋もれた波濤』

 1983(昭和58)年9月1日、旧ソ連領空で起きた大韓航空機撃墜事件。社会部1年生の筆者が取材で得た事実をもとに書き上げた。

 その日のデスク番だった先輩記者、原剛早大名誉教授は「これは文学作品ではあるが現代ジャーナリズムの位置に関する真実の記録でもある」という。

 出版社のHPにある内容紹介——。1983年、北方の海上に消息を絶った大韓航空機。数多の無辜の命を奪ったのは、ソ連戦闘機が放ったミサイルだった。報道の最前線で国際政治の思惑と入り乱れる情報に翻弄される記者たちの奮闘と葛藤を描く表題作をはじめ、元新聞記者が体験した激動の昭和をリアルに紡ぐ4篇の小説集。

 滑志田氏は、1978(昭和59)年入社。2008年に退職したあと、統計数理研究所客員研究員、森林総合研究所監事。2015〜18年、内閣府・農林水産省・国土緑化推進機構各委員をつとめた。現在は、森林総研フェロー。日本山岳会、日本野鳥の会、山形文学会、日本記者クラブに所属。俳誌『杉』『西北の森』同人。

(論創社刊、2,000円+税)

(堤 哲)

2020年1月3日

野宮珠里著
『新芸とその時代—昭和のクラシックシーンはいかにして生まれたか』

 ——「新芸術家協会」という名前を記憶しているクラシックファンは今、どのくらいいるだろうか。通称「新芸」は、昭和のクラシック業界で一時期頂点に君臨していた音楽事務所である。1955(昭和30)年に西岡芳和が創設、60年代にかけて急成長し、70年代には他の音楽事務所より「頭一つ」抜きんでた存在として、国内外の一流アーティストの招へい、マネジメントを手がけていた。

 これは2016年10月に毎日新聞WEB版「クラシックナビ」で始まった連載《「新芸」とその時代》の書き出しである。以来2週に1回掲載で、丸3年分に加筆して出版された。

 筆者野宮珠里さんは、異色の学芸部記者だ。国立音大声楽科卒。教員、画廊勤務などを経て1990年入社。事業本部で日本音楽コンクールなどを担当、自ら企画・プロデュースした奈良・薬師寺の仏教儀礼「最勝会」の舞台上演は2003年度文化庁芸術祭賞大賞(音楽部門)を受賞している。その後記者として青森支局、京都支局を経て学芸記者となった。

 「新芸」創設者の西岡芳和(1922~2013年)に生前何回か会っていて、その時の取材メモから関係者を尋ね、「新芸」の活動の軌跡とクラシックが「熱かった」時代を振り返る。

(人文書院刊、定価3,300円(税込))

(堤 哲)

2019年11月27日

毎日新聞科学環境部取材班
『誰が科学を殺すのか―科学技術立国「崩壊」の衝撃』

 11月24日付毎日新聞「今週の本棚」で紹介された。

 ——「平成・失われた30年」をもたらした「科学研究力の失墜」はなぜ起こったのか?「選択と集中」という名の「新自由主義的政策」および「政治による介入」の真実、および疲弊した研究現場の実態、毎日新聞科学環境部が渾身のスクープ!

 本の帯に山極寿一・京都大学長が「日本の学術に輝きを取り戻す必読の書」とのメッセージを寄せている。

 これは毎日新聞出版社のHPにある惹句だが、以下は内容紹介である。

 ——かつて日本は「ものづくり」で高度経済成長を成し遂げ、米国に次ぐ世界第二の経済大国になった。しかし「ライジング・サン」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われたころの輝きはもはやない。日本メーカーが力を失い、経済が傾くのと並行して、大学などの研究も衰退している。政府による近年のさまざまな「改革」の結果、研究現場は疲弊し、大学間の格差も広がった。どうしてこんなことになってしまったのか。それなのになぜ政府はまずます研究現場への締め付けを強めようとしているのか。そうした問題意識から、われわれの取材は始まった。(本文より)

 連載「幻の科学技術立国」は、2018年4月から19年5月にかけて4部構成で掲載された。取材班のメンバーは、西川拓(デスク)、須田桃子(キャップ)、阿部周一、酒造唯、伊藤奈々恵、斎藤有香、荒木涼子。

(人文書院刊、定価3,300円(税込))

(堤 哲)

2019年11月20日

奥武則著『黒岩涙香』(ミネルヴァ日本評伝選)

 副題は「断じて利の為には非ざるなり」。

 本の紹介にこうある。

 ——黒岩涙香(1962~1920)新聞記者、小説家。

 明治時代、大衆新聞『萬朝報』を創刊しスキャンダリズムや社会悪の糾弾で部数を伸ばした涙香は、「探偵小説の元祖」としても知られ、『巌窟王』『噫無情』などで人気を博した。権力におもねらず、いち早く「大衆」を見据えた「まむしの周六」の全体像を描き出す。

 毎日新聞1964年入社黒岩徹(79歳)の祖父。黒ちゃんは、ロンドン特派員が長く、サッチャー首相から記者会見で「とおる」と名指しされるほどで、2001年英国王より大英名誉勲章OBEを授与された。日本記者クラブ賞も受賞、現東洋英和女学院大名誉教授。

 私は、元読売新聞記者の作家三好徹『まむしの周六 万朝報物語』(黒岩涙香伝、中央公論社、1977年刊。のち文庫化)を読んだが、同期入社で駆出しの長野支局で一緒だった黒ちゃんの面白がりのセンスと反骨精神は、涙香から受け継いだと思っている。

 余談ながら第1回早慶戦(1903年)時の早大野球部のマネジャー弓館小鰐(芳夫)は卒業と同時に「萬朝報」の記者となり、その後「東京日日新聞」へ。キャプテンの橋戸頑鉄(信)も第1回早大アメリカ遠征後、再渡米したが夢破れて帰国、「萬朝報」の記者となっている。頑鉄は「東京日日新聞」の記者として、都市対抗野球大会を創設したことで知られる。

 涙香と、早大野球部の生みの親・安部磯雄は親しい関係にあった。第1回早慶戦を報じたのは「萬朝報」と、福沢諭吉が創刊した「時事新報」だけだった。

 著者奥武則氏(72歳)は、毎日新聞客員編集委員。前法政大学社会学部教授。都立新宿高→早大政経学部政治学科→1970年毎日新聞社入社。学芸部長→1面の「余録」筆者。

 著書に『論壇の戦後史 1945-1970』(平凡社新書、2007年刊)、『幕末明治新聞ことはじめ―ジャーナリズムをつくった人びと』(朝日新聞出版・朝日選書、2016年刊)『ジョン・レディ・ブラック――近代日本ジャーナリズムの先駆者』(岩波書店、2014年刊)などジャーナリズム史関係の著作多数。

(ミネルヴァ書房、税込4,180円)

(堤  哲)

2019年11月11日

堤哲編著『早慶戦全記録』が面白い、と銀座一丁目新聞

 94歳牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」11月10日号、安全地帯は《『早慶戦全記録』―伝統2大学の熱すぎる戦いー出版される》。信濃太郎のペンネームで次のように紹介している。http://ginnews.whoselab.com/191110/safe.htm

 ―—今年の秋の6大学野球大会・早慶戦は慶応が連勝すれば10戦全勝で昭和3年の秋以来91年ぶりの快挙という記録が期待されていた。ところが弱いチームが勝つというジンクス通リ早稲田が2勝1敗で勝ち、慶応は優勝したものの全勝優勝の夢が潰えた(慶応7-1早稲田、慶応4-6早稲田、慶応3-4早稲田)この結果、早稲田の242勝、慶応197勝、12引き分けの成績となった。堤哲編著『早慶戦全記録』(啓文社書房・令和元年11月30日初版発行)を見ると、昭和3年秋のリーグ戦で慶応が早稲田に2-0,4-0で連勝。10戦10勝の偉業を立てた。慶応は記念にブルー・レッド&ブルーのストッキングに白線を入れた。一方、早稲田は『若き血』に対抗できる歌を全校から募集、高等師範部3年住治男の『紺碧の空』が選ばれ21歳の古関裕而が作曲した。

 表紙の宣伝文句は記す。「早慶戦は国民的スポーツだーフレンドリー・ライバルは、野球部に限らず誰もが早慶戦にこだわりを持っていた。早慶両校の現役運動部学生・OB・関係者協力の下、戦災や諸事情で散逸した記録を収集。野球を始めとした40種目全ての早慶戦勝敗データを収録した画期的な一冊」という。

 「全種目の早慶戦の記録」がいいところだ。ちなみに早慶戦が6大学リーグ戦の最後に試合をするようになったのは橋戸頑鉄(野球部第2代キャプテン・都市対抗野球生みの親)の提案により昭和7年秋から実施され、一時中断があって昭和10年秋から固定した。

 安部磯雄(1865年-1942年・同志社大学卒)といえば社会主義者だが学生野球の父と言われる。早稲田大学野球の創設者で初代部長を務める(明治34年)。昭和34年他の8人とともに野球殿堂入りした安倍は『スポーツマンシップはフェアプレーの精神にある』と説いてやまなかった。今年100歳を迎えた早稲田OB大道信敏(旧姓中島)の健康法は毎朝富士に向かって「日本棒球の父安倍磯雄を称ふ」という漢詩を吟じることだという。

 大東亜戦争のさなか、学徒出陣壮行の早慶戦が行われてことを書かねばなるまい。昭和18年10月16日戸塚球場である。小泉信三塾長の発意で飛田穂州を介して早稲田野球部に申し込まれた。はじめ早稲田側は軍部、文部省に気兼ねして及び腰であった。試合は早稲田大学側の許可が降りぬまま実施された。小泉塾長は特別席への案内を断って学生と一緒に応援した。試合は早稲田の勝に終わったが慶応の学生たちは観客席の新聞紙を全部かごに収め始末した。当時出場した選手から早稲田川から近藤清、吉江一行、水谷利幸が戦死している。早稲田・慶応の野球選手の戦死者は早稲田34人、慶応20人に及ぶ。剣道の早慶戦は大正14年に始まる。戦後は占領軍の剣道禁止で復活したのは昭和30年である。戦前の最後の早慶戦は昭和18年6月1日、慶応の綱町道場で行われた。慶応が11-9で早稲田を破った。この時、10番目に出場した慶応の坂本充選手は海軍予備学生13期生として出征、昭和20年4月6日、神風特攻隊第一草薙隊(指揮官・高橋義郎中尉・海兵72期)の沖縄特攻に99式艦爆49機とともに参加、米軍の輸送船団に突入戦死した。社会党の浅沼稲次郎委員長(1960年10月12日日比谷公会堂で演説中に右翼の少年に刺殺される)が早稲田の相撲部員であったとは初めて知る。勝ち負けの記録も貴重だが各部のエピソードが面白い。吉永小百合が早稲田のラグビーファン。毎年「牛1頭」をラグビー部へ寄付している。吉永さん(昭和40年第二文学部西洋史学専修に入学)は毎年夏、広島の原爆の朗読会を開いているのに敬服する。

 早稲田のラグビー部の監督清宮克幸の話も興味深い。伝統を大切にしながら自分の思想を落とし込んいく「本我一体」の戦略・戦術を遂行して確実の結果を残した。何処へ行っても通用する人物だ。はしなくも大隈重信の言葉を思い出す。「人の元気を持続する方法は種々あるけれども身体の強壮を図るのが第一である」「まず体育を根本として人の人たる形体を完全にし,而して後道徳訓ふべく、知識導くべきのみ」

 その大隈は日本で最初に始球式を行った名誉を保持する。明治41年11月22日早大戸塚球場で行われた早大対米リーグ選抜「リーチ・オール・アメリカン」戦。球はあらぬ方向に転がったが打席の早稲田の一番バッター山脇正治はとっさに空振りをした。それ以来、始球式で打者が空振りをするのが礼儀となった。日本のスポーツは礼に始まり礼に終わるのである。良い本を読ませていただいてありがとう。

(本体1800円+税、啓文社書房刊)

(高尾 義彦)

2019年10月18日

岸俊光編集委員が内調もの2連発

 『核武装と知識人 内閣調査室でつくられた非核政策』(勁草書房)

 本の紹介には、日本の核政策はどのように作られたのか? その陰には内閣調査室の知られざる活動と、それに協力した知識人たちの苦悩があった、とある。 日本の核政策の背景にある内閣調査室の活動と、若泉敬、永井陽之助、高坂正堯らの協力の姿を内調元幹部の証言やジャーナリストの秘密資料を駆使して光を当てた。 岸論説委員はこの本で、早稲田大学の博士号を取得した。

 本体3,600円+税

 もう1点。志垣民郎著『内閣調査室秘録 戦後思想を動かした男』(文春新書)の編者。長年、内調に勤めた志垣民郎の詳細な記録と手記をまとめた。

 文春のHP——内調は本当に謀略機関だったのか!? 内調は戦後日本を親米反共国家にするための謀略機関だった――今も残る謎のヴェールをはがす、創設メンバーによる第一級の歴史史料!

 本体1,200円+税

 岸編集委員は、1961年愛媛県生まれ。早稲田大法学部卒。85年入社。中部本社などを経て東京学芸部で論壇記者。2009~10年米国ジョンズ・ホプキンス大学に客員研究員として所属し、日米「密約」問題を調査。学芸部長、論説委員などの後、編集委員。

(堤 哲)

2019年10月10日

出版しました
『生類憐みの令』の真実(仁科邦男著、草思社)

 著者の仁科邦男さんは、社会部記者から出版局長、毎日映画社社長などを歴任したが、こうした経歴よりも、いまや「犬」研究の第一人者として知られている。

 関係の著書は「犬の伊勢参り」(平凡社新書)、「犬たちの明治維新 ポチの誕生」(草思社)、「犬たちの江戸時代」(同)、「西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか」(同)がすでに出版されており、NHKの番組「日本人のおなまえっ!」にも出演したことがある。「名もない犬たちが日本人の生活とどのように関わってきたか」。これが、仁科さんのライフワークのテーマとなっている。

 今回、新たに上梓した著書について、仁科さんは「生類憐みの令のことを調べようと思ったのは、大学の受験勉強中でした。その後、毎日新聞に入ってからも、気になって時折、調べていたのですが、結局、既存の歴史学者の研究に納得がいかず、自分で一から史料調べを始めました。30年くらい経てば、今の誤謬に満ちた教科書、辞書、辞典類の記述も少しは変るかな、と思ってこの本を書きました」とコメントしている。

 その調査ぶりは、巻末4ページにわたって、小さな活字で列挙されている参考図書、引用図書・雑誌一覧を見れば、よく分かる。国立国会図書館は言うに及ばず、「折りたく柴の記」(新井白石)など著名な文献だけでなく、「盛岡藩雑書」「南紀徳川史」など日本全国にちらばる史料を探し求め、こまめに検証してきた成果が、この本に込められている。

 戌年生まれの徳川第五代将軍綱吉が発布した「生類憐みの令」。その評価は、「悪法中の悪法」といわれた時代から、最近は見直しの動きが顕著になっているという。大まかに言えば、綱吉の治世が、動物愛護の精神に支えられ、人間を含め命の大切さを再認識させた、とする見方が、最近の再評価のポイントだ。しかし、著書はこの見解を「私の見解とは相いれない」とばっさりと切る。

 その論証のために、渉猟した史料をひとつ一つ引用して論証する。膨大な参考文献の中から、たった一行を見つけ出し、記録する。読者は、気の遠くなる作業に付き合わなければ、この一冊を読み通すことは出来ない。

 この労作は、丸善の歴史関係のコーナーなどに平積みされて、読者を待っている。仁科さんを知っている人も知らない人も、ぜひ手に取ってほしいと願っている。

(高尾義彦)

2019年10月7日

「ストライキ消滅―――『スト権奪還スト』とは何だったのか」(大橋弘、風媒社)

 今という時代を考える時に、振り返らずにはいられない出来事がこの半世紀の間でもいくつかある。半世紀近く前の1975年11月、日本ほぼ全域で、国鉄といわれたJR全線が、ストライキ権の確立を要求して国労などの労働組合のストライキによって8日間もストップする事態を引き起こした「スト権奪還スト」も、当時を経験した人々にとっても、その一つではないだろうか。当時、毎日新聞労働担当記者だった大橋弘先輩が、その歴史的意味を振り返ろうとしたのが本書である。

 リーダーだった富塚三夫(当時国労書記長)、富塚の後継者だった武藤久・元国労委員長の二人のインタビューを中心にしつつ、動労や総評の労働界、政界、国鉄当局の動きも要領よくまとめられ、当時の全体の構図、動きがよくわかる。

 大橋先輩よりはるか遅れて労働担当記者となった私にとっても、直接知る人々も多く登場してくる。何より懐かしい。そういうことだったのか、と思い知らされる事実もいくつかあった。

 スト権ストについては様々な動き、思惑が交錯した。自民党の中でも、公共企業体労働者へのスト権付与やむなしという立場の議員もいた中で、総評の中核である公労協は一枚岩ではなかった。総評解体の後、連合の初代会長となった山岸章(当時は全電通書記長で、国鉄や電電公社、郵便など公共企業体の労働組合で組織する公労協の代表幹事)が、ストライキを中止しようという動きが強まる中で、「今さらもたないと泣き言をいったところで知ったことではない」とスト中止に反対した、という。来るべき民営化の波を見越して、国労主導のストライキには、表向き賛同しながら、労組内でもそれぞれの企業体、労組の生き残りをかけた冷ややかな動き、見方があったことを同書は教えてくれる。

 スト権ストは、スト権奪還という目的は達せられないままに終わった。それだけではない。その後の中曽根康弘による行革臨調路線が進められる中で、国鉄をはじめとした公共企業体も民営化、総評の中核となった国労や全逓、全電通などの公労協、総評も解体され、労働運動の統一という名の下で、連合が1989年結成され、戦後の55年体制の一翼である社会党を支えた総評が解体されたことで、55年体制も崩れ、政界再編も進んだ。

 その結果、何をもたらしたのか。連合は労働者代表として、政府の審議会に参画するようにはなったが、派遣労働、非正規労働の広がりに歯止めをかけられず、実質賃金もなかなか引き上げられない。労働組合の存在感は薄れ、日本社会の格差は広がるばかりである。それは連合のせいだけではもとよりないが、拮抗力としての労働組合の役割は今こそ必要ではないか。

 スト権ストを打ち抜いた国労に戦略や展望はなかったかもしれないが、社会を巻き込んで異議を申し立てようとした労働組合があった歴史的事実は時折思い出されてもいい。それを大橋先輩は教えてくれた。

山路 憲夫(白梅学園大学小平学・まちづくり研究所長、元社会部、論説委員)

2019年8月9日

横山裕道著『さまよえる地震予知— 追い続けた記者の証言』

 科学記者・横山裕道氏(74歳)からのメールをコピペします。

 日本では東海地震の予知を目指して法律までできましたが、その後、専門家によって「地震予知は困難」という報告書がまとまりました。ところが、政府は東海地震を含む南海トラフ地震に関して「地震発生の可能性の高まり」程度のことは言えると考え、気象庁がいざという時に南海トラフ臨時情報を出すことになりました。予知ではないけれど、臨時情報なら可能というのです。

 残念ながら地震予知が混迷を深めているようです。それにスポットを当てたのが本書です。私自身、「東海地震の予知は有望」とずっと思い続けて取材に当たってきたことへの反省も込めています。民間研究者が地震の予知・予測は可能だと称し、それを民放や週刊誌が無批判に取り上げるという嘆かわしい実態にも迫っています。

 POD(プリント・オン・デマンド)という方式のため、一般の書店には並ばず、基本的にアマゾンを通じての印刷・配本だけです。地震や地震予知に関心がありましたら、アマゾンの次のサイトをご覧になってください。

https://www.amazon.co.jp/dp/4907625472

(紫峰出版、1,944円)

(堤  哲)

2019年8月8日

青田孝著『鉄道を支える匠の技 訪ね歩いた、ものづくりの現場』

 2019年8月3日付日本経済新聞に続き、7日付東京本社朝刊「ブックウオッチング」欄で紹介された。

 ——鉄道を支える企業20社の技術に肉薄した。気づくのは、取り上げた企業のほとんどが中小、なかには社員8人という会社さえあることだ。日本の鉄路が、こうした人たちの汗で磨かれてきたことが手に取るように分かる。南満州鉄道(満鉄)出身者が創立した企業が登場するなど、日本の鉄道技術者の系譜がかいま見え、ぞくりとさせられる。鉄道はどんな角度からでも楽しめる、くめどもつきぬ愉楽の泉だ。

 青田さんは、1947(昭和22)東京生まれ。日大生産工学部機械工学科で鉄道車両工学を学び、卒業研究として国鉄鉄道技術研究所で1年間研修をしたという鉄道技術マニア。卒業後、毎日新聞社に入社。技術職から編集職場に移り、編集委員などをつとめた。

(交通新聞社・864円)

(堤  哲)

2019年8月4日

江成常夫著『被爆 ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』

 元毎日新聞写真部員の写真家江成常夫さん(82歳)の写真集が、朝日新聞の8月3日付「読書」欄で紹介された。

 ——著者は長年ヒロシマ・ナガサキの被爆、戦地であった南太平洋の島々の撮影を通して、「日本人と戦争の関わり」を考えてきた。

 今回は大判の写真集であり、被爆した建造物や物体を主に接近したカメラでとらえて、もちろん無言で私たちへと示している。

 精細な写真は二次元でありながら、いやだからこそ今なお朽ち続ける「一瞬」を伝える。それは遺品のちぎれた日の丸、もはや顔がわからなかったという17歳の女子挺身(ていしん)隊員の衣服、火ぶくれの出た瓦、被爆校舎の内部などであり、私たちはそのひとつひとつの物体の前で長い時を過ごすだろうし、そうすべきだ。

 中には被爆死した米兵や、中国人の遺品もあって、原爆投下が国際的な暴力であったことを明らかにするし、すべての被写体の背後にある経緯は著者の調べによって巻末に記され、それぞれの生が一度に等しく抹消されたことへの驚きと怒りと悔恨、核兵器廃絶への思いをかきたてる。

 評者は、作家のいとうせいこう氏。
 小学館刊、消費税込み4968円。

(堤  哲)

2019年7月28日

元村有希子著『カガク力を強くする!』

 テレビでお馴染みの論説委員元村有希子さんが、岩波ジュニア新書『カガク力を強くする!』を出版した。

 HPの内容紹介にこうある。

 ——科学・技術の進歩が暮らしの隅々にまで入り込み、その恩恵を当然のこととして享受する私達。しかし一方で、原発やゲノム編集など危うさもクローズアップされている今、科学記者とし活躍する著者は、「カガク力」=「疑い、調べ、考え、判断する力」を身に付けること。それが賢く生きる術となり、よりよい未来をつくる土台になっていくと説く。

 毎日新聞朝刊に、隔週土曜日「窓をあけて」を連載中。

 前科学環境部長。「理系白書」の報道などで2006年第1回科学ジャーナリスト大賞を受賞。毎日新聞出版から刊行した『科学のミカタ』(2018年刊)も好評だ。

(本体860円+税、岩波書店刊)

(堤  哲)

2019年7月9日

米本浩二著『不知火のほとりで 石牟礼道子終焉記』

 7月7日付毎日新聞「今週の本棚」で紹介された。

 米本浩二さんは、毎日新聞西部本社学芸グループの記者で、昨年『評伝 石牟礼(いしむれ)道子 渚(なぎさ)に立つひと』(新潮社)で第69回読売文学賞の評論・伝記賞を受賞した。

 その書評――。

 作家・石牟礼道子の逝去に立ち会った三十五日間の日記と、ここ数年、新聞記者として彼女に「密着取材」をする一方で、常に身近にいて「渾身(こんしん)介護」をした著者によるエッセー集。

 著者はこれの前に『評伝 石牟礼道子--渚に立つひと』という名著を書いている。そちらが本人からの聞き書きとリサーチによる伝記だったのに対して、今回の本は作家の人となりを伝えるエピソードの他に訪れた人々のことも加えて、大きな図柄の中にこの人を置いている。

 やはり家族の話がいい。死期が迫った父・亀太郎に焼酎を控えるように言うと父は怒って、「一生、ろくなことがなかったのに、『こういう世の中に生きとらにゃならんのは、さぞきつかろう。せめて焼酎なりと飲み申せ』となして言わんか」と返したという。酒飲みの勝手な理屈がおかしくてほほえましいが、しかしこの父は「母ハルノと同様、前近代の民、いわば精霊の眷属(けんぞく)であ」り、それが彼女の文業の基礎だった。

 石牟礼道子は「手伝い」よりも「加勢」という言葉を好んだ。人生の基本の姿勢は闘うことだった。それならば「加勢」がふさわしい。(狄)

(毎日新聞出版・1944円)

(堤  哲)

2019年6月24日

改めて紹介、佐々木宏人著『封印された殉教』上下巻

講演する佐々木宏人さん(22日付毎日新聞東京版)

 6月22日付東京版に、元経済部記者佐々木宏人さん(78歳)が毎日メディアカフェで講演した記事が掲載されていた。

 佐々木さんは終戦3日後に起きたカトリック神父射殺事件を追っているのだ。

 このHPですでに紹介したが、その取材から『封印された殉教』(上下巻、フリープレス、定価各2,000円+税)を出版している。

 事件は、1945(昭和20)年8月18日に横浜市の教会で戸田帯刀(たてわき)カトリック横浜教区長(当時47歳)が拳銃で射殺された。事件は未解決のままだ。

 佐々木さんは、戸田神父の出身地・山梨県の毎日新聞甲府支局長時代に事件を知った。退職後の2010年から8年をかけて取材、2018年に出版に漕ぎつけた。

 記事の最後にこうあった。《佐々木さんは、取材のきっかけの一つとして、06年に徐々に手足の末端に障害が出る難病「遠位型(えんいがた)ミオパチー」と診断されたことを挙げ…「車椅子生活になる前に真実を知りたいと考えた」と明かした》

(堤  哲)

2019年6月15日

改めて紹介!小倉孝保著『100年かけてやる仕事』

 朝日新聞の6月15日付読書欄で紹介された。
立命館アジア太平洋大学学長・出口治明氏の書評全文――。

 ■ルーツを読み解く、土台の言葉

 2013年、連合王国(英国)で100年の年月をかけて『中世ラテン語辞書』が完成した。当時、ロンドンに駐在していた著者は「時を超える」働き方に興味を持つ。自分たちの生きている時代に完成しそうもない、自分たちが使うあてもない辞書をつくることになぜそれほど精力を傾けたのか。こうして取材が始まった。それが本書である。

 マグナ・カルタもニュートンの論文も中世ラテン語で書かれている。第一、中世ラテン語は現在のヨーロッパ諸国のアイデンティティーのルーツを読み解く鍵なのだ。辞書編集はハチが花の上を飛ぶのに似ている。図書館が森、書棚が樹木、文献が花、編集者はハチ。西欧とそれ以外の世界を分ける基準がラテン語。連合王国の歴史は中世ラテン語によって記録されてきたので、この辞書の完成は、自分たちの歴史を理解する道具を手に入れたことになる。つまり必要だったから、多くの人が自分の時間の何分の1かを後世のために使ってきた。それは「青銅よりも永遠なる記念碑」なのだ。

 翻って日本はどうか。日本の辞書は中国語を説明する形式から9世紀にスタートした。公(英国学士院)が関与した中世ラテン語辞書とは異なり、日本の辞書づくりは私(民間)の仕事であって、国が作った辞書は一冊もない。『言海』しかり、『大漢和辞典』しかり、『広辞苑』しかりなのだ。日本の言葉に対する危機感の薄さに、ある識者は警告を発する。「土台の言語を失った言語は脆弱(ぜいじゃく)になる」「アイヌ語を守らなくてはいけない。アイヌ語の絶滅は将来、日本語の存続を脅かすことを知るべきだ」と。中世ラテン語は土台の言葉なのだ。

 現代の日本は、市場原理主義、スピード重視で何よりも効率を最優先する社会だ。しかし、市場経済では計れない価値が芸術や文化の世界には厳存している。働くことの意味を考えさせてくれる一冊だ。

 (プレジデント社、1,944円)

 * 

 おぐら・たかやす 1964生まれ。毎日新聞編集編成局次長。『柔の恩人』で小学館ノンフィクション大賞など。

(堤  哲)

2019年5月31日

『消えた球団 毎日オリオンズ』(新書)発刊

 1950(昭和25)年、プロ野球セ・パ2リーグに分裂して生まれた「毎日オリオンズ」。本田親男社長時代で、初年度はパ・リーグで優勝、セ・リーグの覇者松竹ロビンスを破って、最初の日本一になったことは、ご承知の通りだ。

 『野球雲Vol.7 戦後の流星 毎日オリオンズ』(啓文社書房2016年9月発刊)に加筆して新書スタイルで再刊行されたもので、毎日新聞OBでは諸岡達一、堤哲が執筆者に加わっている。

 諸岡は、毎日オリオンズのOB会に出席していて、オリオンズのすべてを知っている貴重な生き証人である。この本では、慶応義塾大学名誉教授の池井優氏らと鼎談をして、蘊蓄を傾けている。

 堤は、「野球ともに歩んだ毎日新聞」として、野球の普及に毎日新聞がどれだけ貢献したか、大正年間の「大毎野球団」、2007年に創設した社内組織「野球委員会」などについて詳述している。

 6月3日ビジネス社から発売される。@1,000円+税。

(堤  哲)

2019年5月24日

小倉孝保著『100年かけてやる仕事 ― 中世ラテン語の辞書を編む』

 1冊の辞書を完成させるのに100年という歳月をかけた人々がいる。『英国古文献における中世ラテン語辞書』の作成プロジェクトは、1913年にスタートし、2度の大戦を経て2013年に辞書が完成した。スペインのバルセロナに建設中のサグラダ・ファミリア大聖堂は、1882年に着工され、完成予定は2026年。この大聖堂ほど有名ではないが、イギリスの中世ラテン語辞書は、それに匹敵する大文化プロジェクトだった。

 僕(小倉孝保東京本社編集局次長)はロンドン駐在時にこの辞書の完成を知った。「中世ラテン語辞書プロジェクト、100年かけてついに完了」と新聞各紙、BBCなどがこぞって報じた。大ニュースというわけではなかったが、この見出しを目にしたときの衝撃は大きかった。おおげさでなくドキンとしたといってもいい。100年もかけて辞書をつくり上げた人たちはいったいどんな人たちだったのか。そもそも、なぜ現代のイギリス人に新しいラテン語の辞書が必要なのか。

 ――以上は、小倉編集局次長の紹介文である。

 小倉記者は、1964年滋賀県長浜市生まれ。88年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。

 プレジデント社 1,800円+税

(堤  哲)

2019年4月16日

藤原健著『マブイの新聞―「沖縄戦新聞」沖縄戦の記憶と継承ジャーナリズム』

 本書は、その「沖縄戦新聞」の「意味と意義」を柱に据えて、「琉球新報」「沖縄タイムス」に掲載された沖縄戦関連記事をすべて精査し、戦後沖縄の新聞ジャーナリズムと沖縄戦報道を丹念に分析することによって、記者たちの沖縄戦継承の足跡を立体的に詳記した渾身(こんしん)の一冊である。

 毎日新聞大阪本社の編集局長を務めた著者は、定年後、居を沖縄に移し県内の大学院で本書の基になる論文を書き上げた。同じジャーナリストとして、実直なまでに沖縄の記者たちに学ぼうとする著者の心象は行間に深く刻まれ、さらに「継承の『かたち』」と題して記述された、ひめゆり平和祈念資料館の若い説明員たちへのインタビューを通して、沖縄戦継承の展望へとつなげている。

 ――以上は、「琉球新聞」に掲載された沖縄女性史家の宮城晴美さんの書評の一部である。

 「沖縄戦新聞」は、琉球新報が戦後60年企画で、2004年7月から05年9月まで別刷りとして14回発行した。

 筆者は、1950年岡山県生まれ。74年毎日新聞入社。大阪本社社会部長、同本社編集局長、スポーツニッポン常務取締役などを経て2016年、妻の古里沖縄に移住、沖縄大学大学院入学(現代沖縄研究科沖縄・東アジア地域専攻)。琉球新報客員編集委員。

 琉球新報社・2500円(税込み)

(堤  哲)

2019年4月11日

伊藤智永 著『「平成の天皇」論』

 ――天皇像は変わらないものを守るためにこそ、時代に応じて変化しなくてはならない。

 約200年ぶりの譲位実現に道をひらいた天皇の「おことば」は、単なる高齢化に伴う公務負担軽減の問題でも、ましてや一部保守派が言うような「弱音」や「わがまま」でもなく、女系・女性天皇容認や女性宮家創設も含めたこれからの象徴天皇制のあり方をめぐる国民への問いかけだった。

 戦没者慰霊や被災地慰問の旅を平成の象徴のスタイルとして生み出した天皇が、退位表明に込めたメッセージとは何か?

 天皇像は変わらないものを守るためにこそ、時代に応じて変化しなくてはならない。

 講談社現代新書から4月17日発売予定。840円+税。

 筆者の伊藤智永記者は、毎月第1土曜日掲載コラム「時の在りか」の筆者。1986年入社。政治部、経済部、ジュネーブ特派員、現在編集委員兼論説委員。

(堤  哲)

2019年4月2日

広島カープの初代監督石本秀一(野球殿堂入り)は毎日新聞OB

 ――これは以前この欄に書いた記事の見出しだが、西本恵著『日本野球をつくった男――石本秀一出伝』(講談社2018年11月刊)を書店で見つけた。

 本文578ページ。厚さが4cm近くもある分厚い本だ。タテ18.6cm×ヨコ13cm。B6判をひと回り大きくしたサイズ。定価2300円。

 石本秀一(1897~1982)は、広島商業の投手として、現在の夏の甲子園大会の第2回、第3回に連続出場した。1916、17(大正5~6)年である。

 慶大を受験。その先が不明で、関学大を1年で中退し満州に渡る。三井物産に勤務し、満州の早慶戦・大連実業対満鉄戦(実満戦)で活躍。地元大連商のコーチをして、夏の全国大会に2回出場させている。1921(大正10)年は初出場でベスト4に食い込だ。

 1923(大正12)年9月、故郷に帰って、毎日新聞広島支局員となる。25歳だった、とこの本にある。

 ――毎日新聞広島支局は、広島市の中心街である紙屋町の交差点の角にあった。支局員は5人程度。石本は税務署や商工会議所、師団司令部などを担当した。

 野球やサッカーをはじめ、柔道や剣道などの試合も取材した。石本は「2人前ほど働いたような気がします」と語っている。

 「みるみるうちに敏腕記者として成長していった」と書かれている。

 石本本人は「広島で起こった贈収賄事件のてがかりをつかんだのが大手柄だった」と語っているとし、著者は「時代を見抜く、するどい眼力をもつようになった」と記している。

 記者をしながら広島商野球部のコーチ・監督をして、1929、30(昭和4~5)年に夏の甲子園大会2連覇。さらに31(昭和6)年春のセンバツで優勝、そのご褒美で鶴岡(旧姓・山本)一人選手(野球殿堂入り)らのメンバーでアメリカ遠征をした。

 石本は、アメリカ報告を毎日新聞広島版に連載、それを元に『広商黄金時代』(1931(昭和6)年大毎広島支局刊)を出版している。

 伝説の「真剣刃渡り」は、その際の選手の精神統一法で取り入れたのだ。

 ――石本はオートバイを買って仕事と野球の両立をはかった。取材をして原稿を書いて、練習時間の午後3時ごろになれば、広島商業のグラウンドにかけつけた。

 ――広商の対外試合が終わると、指揮をとっていた石本は、事務室にやってきて支局に電話。原稿は下書きもなく、いきなり試合の記事をペラペラと送り、それが実に名文だったそうだ。

 勧進帳で原稿を送っていた。

 石本は、1936(昭和11)年、プロ野球大阪タイガース(現阪神)の監督に招かれ、毎日新聞記者を退職する。

 打倒巨人! 翌37(昭和12)年秋のシーズンと、翌38(昭和13)年春に連続優勝した。

 その後、名古屋金鯱軍2年―大洋―西鉄。戦後、結城―金星2軍―大陽ロビンスと、監督を転々とした。

 そしてセ・パ2リーグとなった1950(昭和25)年、創設された市民球団広島カープの初代監督に就任する。
41勝 96敗 1分、勝率.299
カープは、セ・リーグ8チームの最下位に終わった。優勝した松竹ロビンスとは、59ゲームも差がついた。

 シーズン途中で選手の給料が払えない事態に陥った。伝説の「樽募金」が始まった。こんな新聞記事が残っている。

  身売りか解散か
   カープに危機

 《カープ全選手の給料支払いがすでに20日も遅配となり、そのため選手の留守家族から連日矢の催促が遠征先に舞い込み、ために選手の士気もとみに低下の一途をたどっている》=「日刊スポーツ」同年11月18日付。

 「カープ女子」に、石本の苦労が分かってもらえるだろうか。

(堤  哲)

2019年2月24日

瀬川至朗編著『ジャーナリズムは歴史の第一稿である。』

 石橋湛山記念「早稲田ジャーナリズム大賞」記念講座2018の出版。

 内容紹介に「政府が記録を隠蔽し、改竄し、そして抹消する。ネット上では真偽不明の情報が次々と拡散される。民主主義が根底から揺さぶられる中、ジャーナリズムが果たすべき役割とは何か。 日報隠蔽、沖縄問題、外国人労働者、そしてフェイクニュース……。それぞれの「第一稿」から現代日本の課題を鮮やかに照射する」とある。

 早稲田ジャーナリズム大賞選考委員の早稲田大学政治経済学術院の瀬川至朗教授が、序章に「歴史の第一稿」が問いかけること、終章に、いま求められる「検証のジャーナリズム」を記している。

 瀬川教授は、毎日新聞科学環境部長、編集局次長などを務めた。

(2018年12月成文堂刊、1,800円+税)

(堤  哲)

2018年12月11日

元印刷部長・山野井孝有さんが自費出版
「戦争はいけません―元従軍看護婦戸田ノブ99歳の思い」

 元印刷部長・山野井孝有さんが南足柄市に住む看護師・助産師の後藤眞理子さんと共著で12月10日、自費出版した。46年前、南足柄市母子健康センターで一緒に働いたことがある後藤さんは、老人福祉施設に入所している戸田ノブさんが、元従軍看護婦として日中戦争に派遣された経験を語るのを聞いて、山野井さんに相談。山野井さんは、戦争体験が風化している中でこの体験を記録として残すべきだと直感。2015年から3年かけてまとめたもの。

 戸田さんは、1919年福島生。日赤看護婦に憧れたが学歴などでかなわず、陸軍従軍看護婦試験に合格した。1941年4月から43年10月まで山西省太原陸軍病院に。44年2月再召集されて今度は、山東省兗州陸軍病院へ。翌年敗戦となって、46年博多に帰国した。この二度にわたる中国での体験をしっかり記憶していた。

 この聞き書きを続けた山野井さんは、その体験だけでなく従軍看護婦制度の発足から、日赤従軍看護婦と陸軍従軍看護婦との違い、さらには従軍看護婦に対する戦後補償などを調査して、証言と資料を追加してまとめたもの。

 限定300部、ご希望の方は山野井さんまで。TEL/FAX:043-231-6110

 メールアドレスは、

(福島 清)

2018年11月26日

『新聞記者 山本祐司』(水書坊刊、税込3、500円)の刊行

 2017年7月22日に亡くなった元・社会部長(東京)山本祐司さん(享年81)の遺稿集が2018年11月20日に刊行された。幼くして文才発揮となった早稲田中学時代の作文から、早大童話会での創作ノート、そしてロッキード事件で頂点を極める司法記者としての記事・論考の数々、さらには脳出血で半身不随となりながら驚異の復活でものにした左手書きの著作、次いで晩節全うし手塩にかけたルパン文芸での作品群など、加えて、幼き日のやんちゃから司法記者の取材現場を生々しく写し取った日記、および通史、著作全目録、217人からの追悼一言集も収め、566ページの大部となった。「人間万歳」「巨悪を眠らすな」「居眠狂四郎」等々の自他称形容句そのままの半生を彩る人間記録ともなっている。

 編纂・刊行にあたったのは、故人と入社同期(1961年)、並びに司法記者クラブで同席した仲間たちの有志。はじめ「山本祐司遺稿集期成協力会」の名で広く呼びかけ、最終的には「新聞記者 山本祐司」編纂・刊行の会、と名乗った。会としては、出入り自由で、出来る奴が出来ることをする緩い組織だったが、結果として、天野勝文、今吉賢一郎、大住広人、今江惇、藤元節、勝又啓二郎、野村修右、高尾義彦が常連として携わり、事実上の編集委員会を形成している。

 さらに、立上げにあたって基金協力を呼びかけたところ、毎日新聞内外の119人から、ほぼ本体製作費に見合う額が寄せられた。故・山本祐司の徳とするところであると同時に、この席をかり、刊行の会として、改めて御礼申し上げる。ありがとうございました。

 発行元は、人間形成ものに理解深い「水書坊」に依頼したが、実質上は、製作共々毎日新聞グループ「毎栄」(社長・小泉敬太)に引き受けて頂いた。箱入り装幀の400部。別刷8ページの写真グラフも添えている。原価計算から定価3,500円(税込み)としたが、市販はしない。購読注文歓迎で、問合せ共 (大住) (高尾)090-1500-8740(高尾)へ。

(記・大住広人)

2018年11月10日

釈徹宗、細川貂々、毎日新聞「異教の隣人」取材班著『異教の隣人』

釈徹宗、細川貂々、毎日新聞「異教の隣人」取材班著『異教の隣人』

 毎日新聞11月11日付「今週の本棚」で紹介された。

 記事は、大阪本社朝刊「めっちゃ関西」に昨年3月まで連載された。

 取り上げたテーマは――。イスラム教モスク、ジャイナ教寺院、台湾仏教寺院、ユダヤ教シナゴーグ、神戸市立外国人墓地、キリスト教(カトリック)修道院、シク教寺院、キ リスト教(カトリック)ペルーの祭り、ベトナム仏教寺院、ヒンズー教大阪アーユルヴェーダ研究所、韓国・キリスト教(プロテスタント)の教会、日本人女性イスラム教徒、ブ ラジル・キリスト教(プロテスタント)の教会、神戸の華僑、女性イスラム教徒のファッション、イスラム教ラマダン明け、東方正教会の聖堂、タイ仏教の「みとりの場」コプト 正教会の聖堂、イラン人イスラム教徒、朝鮮半島の民俗信仰、在日クルド人のコミュニティー、台湾・春節祭。

 発行元晶文社のHPの紹介――。異国にルーツを持つ人たちは、どんな神様を信じて、どんな生活習慣で、どんなお祈りをしているのか? イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教 からコプト正教まで、気鋭の宗教学者と取材班がさまざまな信仰の現場を訪ね歩いて考えたルポ。

 釈徹宗氏は、浄土真宗本願寺派如来寺住職。相愛大教授(宗教思想)。細川貂々氏は、漫画家・イラストレーター。

 毎日新聞「異教の隣人」取材班は中本泰代(97年入社、現北陸総局次長)▽棚部秀行(98年入社、現東京本社学芸部副部長)▽花澤茂人(2005年入社、大阪本社学芸部)▽清水有香 (2006年入社、大阪本社学芸部)の4人。

(晶文社・1782円)

(堤   哲)

2018年10月24日

横山裕道著『原発と地球温暖化: 「原子力は不可欠」の幻想』

 元科学環境部長、論説委員の横山裕道さん(74歳)の新著。淑徳大学をことし3月に退職した後、執筆作業に当たった。

 横山さんのメール――。POD(プリント・オン・デマンド)という方式で、取次店を通さないため書店に並ぶことはありません。値段も少々高い(¥ 2,376)ですが、カラー版であるほか、第1章に、地球温暖化が高じる中で中国で原発過酷事故が発生するという架空ドキュメント「運命の2030年」を置くなど工夫しています。

 もしテーマに関心がありましたら、次のサイトをのぞいて見てください。

アマゾン(印刷版)のサイトは
https://www.amazon.co.jp/dp/4907625448/
グーグル(ダウンロード版=電子書籍)は
https://books.google.co.jp/books?id=q1hyDwAAQBAJ&pg
です。

 内容紹介にこうある。

 ――我々が石油や石炭、天然ガスを使用することによって起こる地球温暖化がはっきりと姿を現し始めたようだ。2018年夏は北極圏を含め世界を激しい熱波が襲った。日本では豪雨、猛暑、度重なる台風の襲来と異常ずくめの夏で、気象庁は「異常気象の連鎖だ」と認めたほどだった。世界が協力して温暖化を防止しようとパリ協定ができ、いまや温室効果ガスの排出削減を効果的に進めることは国際的に最重要課題となっている。

 そこで問題になるのが原子力だ。発電時に二酸化炭素(CO₂)を発生しない原発は「温暖化対策の切り札」と宣伝されてきたが、チェルノブイリ原発事故に続いて東京電力福島第一原発事故が起きたように原発は安全性の問題が大きな弱点になっている。「温暖化防止は原子力ではなく太陽光や風力発電などの再生可能エネルギーで」という声が日増しに高まり、実際に再エネは急速に普及している。本書ではこうした問題を幅広く取り上げた。

 第1章に架空ドキュメント「運命の2030年」を置いた。温暖化が高じ、超大型台風が首都圏やニューヨークを襲う。世界で洪水や干ばつが頻発する中で、中国で原発過酷事故が発生する。原発は停止に追い込まれ、代わって石炭火力へのシフトが進み、CO₂濃度は急速に高まり始める。さあ、地球の運命は?という近未来のあり得る内容だ。避難を強いられた原発事故の被災者とこれからどっと出てくる気候難民を重ね合わせ、原発も「気候の暴走」もない未来をつくるにはどうしたらいいかという考察も行った。

 本書では原子力を厳しい目で見ている。一方で電力需要の増加への対応と温暖化対策を両立させようと原発に頼る中国やインドと、原発事故への反省もないまま再稼働に走る地震国日本の置かれた事情は異なることを十分意識した。強固な「原子力ムラ」が存在する日本を含め世界の脱原発がそう簡単には進まないことにも言及した内容になっている。

(堤  哲)

2018年9月15日

岩尾光代著『姫君たちの明治維新』(文春新書)

 元毎日新聞の大姉御の力作である。

――明治150年に贈る、幕末維新をきっかけに思いもしなかった苦労に見舞われた大名・皇族の姫君たちの物語。

 「サンデー毎日」に連載したものを加筆した。

 文春新書の内容紹介はこうある。

 深窓の令嬢どころか、堅固なお城の大奥で育った、正真正銘のお姫様たちも、維新の大波には翻弄されます。しかし、決してそれにめげることなく、それぞれの運命を逞しく生き抜いてもいきました。

 徳川家では、最後の将軍、慶喜の義理の祖母でありながら、淡い恋心を交わした一橋直子、また、そのとばっちりを受けた形の、正妻の徳川美賀。

 加賀百万石の前田家では、東大の赤門を作るきっかけとなった、将軍家から嫁入りした溶姫のさみしい晩年。

 九州の大藩、鍋島家では、新政府の外交官になった夫とともに、ヨーロッパに赴き、鹿鳴館の華とうたわれた鍋島栄子。

 篤姫や和宮など、メジャーどころはもちろん、歴史教科書には出てこない、お姫様たちの生涯は興味津々。

 とくに落城の憂き目にあった姫君たちの運命には、思わず涙します。

 なかでも、もっとも数奇な運命をたどったのが、四賢侯の一人、松平春嶽と侍女の子である池田絲。維新後の混乱で彼女は松平家の庇護を受けられず、なんと芸者に。そこで、お雇い外国人であった仏系アメリカ軍人と結婚。二人の間に出来た子が、明治の歌舞伎界の大スターである十五世市村羽左衛門! まるで小説のような物語がそこにあります。

 20人を超える姫君たちの物語にご期待ください。
       (本体980円+税、文芸春秋社)

(堤  哲)

2018年8月26日

佐々木宏人著『封印された殉教』上

 敗戦3日後の1945年8月18日夕、横浜市保土ケ谷区の保土ケ谷教会内でカトリック横浜教区長だった戸田帯刀(たてわき)神父が頭部を撃たれて死亡した。

 この事件を追った毎日新聞OB記者佐々木宏人さん(77歳)のノンフィクション。

 筆者の言葉にこうある。

 一人のカトリック・ジャーナリストとして「戸田帯刀神父射殺事件」を追いかけた。なんとか犯人を割り出し、その背景に迫りたいとの一念だった。多くの取材協力者の助けにより、事件の背後のうごめきが仄かに見えてきた。高まる軍靴の響きをものともせず、普遍の価値の下に「平和であれ」と説き、実践した一人の司祭と、それをとがめて銃弾を放った犯人…戸田師の遺志は、それを覆い隠そうとした勢力の意図にもかかわらず、営々として語り継がれ、生かされていたことが判った。取材者としてそのことが本当にうれしかった。独り勢い込んで重ねた取材・執筆にもそれなりの意味があったのではないかと、ペンを措いた今、実感している。

 

 サーさんとは、水戸支局で一緒だったが、カトリックの信者だったとは、知らなかった。
そのサーさんからの報告――。

新宿「紀伊国屋書店」に行ったら「H10」の「神学」コーナーに平積みされていました
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毎日新聞19日の読書欄に広告も掲載されました

 「下巻」は9月中旬に発行予定です。よろしく。

(フリープレス刊、2000円+税)

(堤  哲)

2018年8月13日

篠田航一著『ヒトラーとUFO-ドイツの謎と都市伝説を追う

  ドイツには都市伝説が今もあふれ返る。ヒトラー、UFO、フリーメーソン、ハーメルンの笛吹き男……。ドイツの怪しげな話を追う。  平凡新書の案内である。

 8月12日付毎日新聞「今週の本棚」では――。

 好奇心旺盛で、子供の頃から伝説好きだったという、ある意味「変わり種」の著者が特派員としてドイツに派遣され、意外にも「一皮むけば実に噂(うわさ)好き」なドイツ人たちと出会い、独特の感性で社会を観察して行く。多くの要素が重なり、初めて生まれた希有(けう)な本だ。

 筆者は、現在毎日新聞カイロ特派員。早大政経卒、1997年入社。私が退職した年である。社会部で東京地検特捜部などを担当。ドイツ留学後、2011年から4年間ベルリン特派員だった、と略歴にあった。

(平凡社刊、760円+税)

(堤  哲)

2018年6月16日

大久保貞義著『自ら宿命を変える―続《人生の恩返し》』

 毎日新聞OBで獨協大学名誉教授の大久保貞義さん(83歳)が『自ら宿命を変える―続《人生の恩返し》』を出版した。

 その序――。《若い頃にアメリカからもらった〝返済不要の奨学金〟のおかげで、私は豊かな人生を送ることができました。その感謝の思いから、経営の第一線から退いた今、「ロイヤル福祉助成法人」を設立して若者と高齢者に恩返しする活動をしています》

 続く「はじめに」に、「なぜ若者に奨学金を贈るのか」。

 返さないでよい奨学金は、すでに12人に計1500万円が渡っている。

 大久保さんは、東大を卒業して1959(昭和34)年に毎日新聞に入社、政治部記者となった。在社中に米スタンフォード、プリンストン両大学の大学院に留学、67(昭和42)年、30歳で退社して、米議会の奨学生として議員の政策担当秘書を経験した。

 帰国して東海大学広報科助教授から獨協大学教授。在職中に介護付有料老人ホーム「ロイヤルハウス石岡」(茨城県石岡市)と「ロイヤル川口」(埼玉県川口市)を経営していた。

 一般社団法人「ロイヤル福祉助成法人」は、老人ホームを経営していたときの報酬を貯めて原資にしたもので「何億といった規模ではないんですよ。ささやかなお返しです」と大久保さんはいう。

(シニアタイムス刊、1,000円+税)

(堤  哲)

2018年6月11日

石寒太著『金子兜太のことば』

 金子兜太さんは、戦後俳壇のトップランナーとして70年間活動を続け、生涯現役のまま、2018年2月20日に98歳で逝去した。

 著者の石寒太さん(本名・石倉昌治)は、毎日新聞OBで、元「俳句αあるふぁ」編集長。兜太と同じ加藤楸邨を師に持つ俳人。兜太との長年の交流の中で胸に刻まれた言葉と俳句を選んで、解説している。

 内容紹介に以下の言葉があった。
 〝俳句があるかぎり、日本語は健在なり〟
 〝物事を成就させるのは、「運・鈍・根」ですね〟
 〝死ぬのが怖くないか? と問われたら、「死ぬ気がしなかった」と答えます〟

(毎日新聞出版社刊、1,500円+税)

(堤  哲)

2018年6月6日

『ベースボーロジー』第12巻

 野球文化學會論叢『ベースボーロジー』第12巻が発刊された。

 特集は、野球と音楽─応援歌の果たす役割─。慶應義塾大学名誉教授池井優さんが昨年12月9日、法政大学キャンパスで開いた野球文化學會第1回研究大会で基調講演したものだ。

 副題は「古関裕而と応援歌」。「紺碧の空」、「六甲おろし」、「栄冠は君に輝く」を中心に、とあるが、慶應の応援歌「若き血」の生まれた背景が詳しい。打倒ワセダ、「都の西北」を凌ぐ、元気の出る応援歌を! で、堀内敬三が作曲し、当時普通部3年の藤山愛一郎が歌唱指導をした。そして昭和2年秋の早慶戦で早大に連勝した。

 毎日新聞OBでは、松崎仁紀さんが「野球の起源」をめぐって―日米の研究成果を検証する▽アメリカ文学にみる野球の文化社会学的考察―『ベースボール傑作選』を読む④の2編。小生(堤哲)が「野球を育てた」記者たちの物語―毎日新聞人の野球殿堂入り列伝を発表している。

(啓文社書房刊、1,850円+税)

(堤  哲)