元気で〜す

2021年10月4日

元制作局、長友伸吾さんの「パキスタン共和国の思い出」

 毎日新聞社を退職後、JICA「海外青年協力隊」のボランティア活動に興味が湧き、受験して合格。国から決められた派遣国がパキスタン共和国でした。1995年7月10日、3年間の予定で、成田空港から出発しました。20年以上前の経験ですが、パキスタン理解の一助にと考え、報告します。

 『パキスタン』というと、2011年にはイスラム国のオサマ・ビンラディン氏が殺害された国として報道され、最近はアフガニスタン問題で再浮上してきたタリバンの関連で、テロリズムに関係する国と思われる方が多いのではないでしょうか。確かにその側面があることは事実です。でも多くの現地人は普通の国民であり、国旗に示されている緑色がイスラム教を象徴し、白色は他教の国民を表し、イスラム教徒だけではなく、他教も受け入れる共和国という意味があります。心優しく、誇り高く、外国人を家族と同じように受け入れてくれる寛大な包容力のある国民で成り立っている大陸に存在する国家です。忘れてはいけないのは、同じアジア人であり親日家であることです。

 パキスタンの首都郊外にあるイスラマバード空港に到着した日は、シャルワールカミーズ(現地の人の普段着で、オウム真理教徒が纏っていた衣装に類似している弥生時代の貫頭衣のような衣装)をまとった人々が空港に密集していて、真夏だったこともあり、現地の方々が男性ばかりで口髭・顎鬚を生やした彫りの深い顔をされていて、少し恐怖を感じました。

指導して制作した竹工芸作品の展示バザール

 赴任先は首都イスラマバードのF―6という地区にある国立障害者職業訓練センターでした。現地では、報酬のない準公務員という扱いです。言語は、地方の方言を除き、国語がウルドゥー語、公用語は、英国の植民地であったため英語でした。自分の言葉で伝え、信頼関係を築いていきたいと目標を持ってウルドゥー語の辞書・メモ帳をいつも身に着けて現地のスタッフと会話しました。

 私の職種は竹工芸でした。籠作りがメインでしたが、現地には籠作りに適した竹が生息しておらず、センターでは籐籠つくりをメインに、知的障がい者に教えていました。日本人でも竹工芸は、刃物を用い、細かな作業のため、知的障がい者に仕事を伝えていくためには興味をよほど持ち、発達障がい者のように一芸に秀でているような方でないと1年間でやっと健常者の1日で覚えられる許容量だと思いました。

 まずは生徒達の体力作りから始めました。昼食は生徒たちの弁当の他、私のボランティア活動の現地支給費で、肉のたくさん入ったナンやサモサ(日本の揚げ餃子のようなもの)などを買ってきて、一緒に食事を摂りました。時には自宅で日本食(豚肉・酒類はイスラム教で禁止されているので、それを避けたもの)を作って生徒や同僚などに振舞いました。しかし、基本的に自力で収入を得る力を身に着けさせることがボランティア活動の基本と学んでいたので、食事に重点を置きました。

 次に運動でした。日本のラジオ体操をウルドゥー語に訳してカセットテープに吹き込み、朝・昼休憩後にラジオ体操、そしてストレッチ運動(真向法)を日本人会の図書館で見付けて、それを取り入れました。

 生徒たちは衣食住が整った事、体力がついてきたことで、やる気が出てきました。ここまで1年近くかかりました。私もパキスタン人の同僚・友人などのお陰で現地語は新聞が読めるまでに上達しました。

 それから生徒達の能力に合わせて簡単な作業で編めるような機材を手作りし、同僚の自宅の空き畑に竹を植えさせていただいたりして材料費をセンター(国)に負担させないために自給自足的な活動も始めました。

ペシャワールで警官から機関銃を持たされて記念写真

 残念ながら籐はパキスタンの気候に合わないため、隣街のラワルピンディーに赴き、直接、業者から安く購入しました。パキスタンは日本の関西圏の文化に近く、言い値を負けてもらう交渉の文化が通常なので、2000ルピー(当時1ルピーが日本円で3円位の価値)が、200ルピーになったり、買い出しも楽しみの一つでした。

 また当時は日本人でボランティアをしているのが珍しい事、パキスタンにメヘマーン(お客様)へのおもてなしの文化があり、チャエーやナンなどをご馳走してくれることは日常茶飯事でした。ご馳走になるチャエーも通常のナンも一杯・一枚が1ルピーなので互いに気を遣わせない国民食でした。

 一年半が過ぎた頃、センターでチャリティーバザールをしようという事になり、それぞれのクラスでバザーへ出す作品作りをする事になりました。私の竹工芸クラスは、私と同僚が現地の節高の加工しにくい竹を使った籠、生徒たちが作った籐籠(瓶などに四ツ目編みから立ち上げゴザ網を瓶の周りに編み込んで仕上げた花瓶)をメインに製作しました。

 バザール当日、日本人会の方々・専門家・現地の人々が多く訪れて下さり大盛況でした。私のクラスは、籐が現地では高価だったので値段も現地の方の収入からは高い方になるのですが、完売しました。日本人の方々の協力もあったおかげもありますが、初めて開催した国立障害者職業訓練校センターのバザールで売り上げトップとなり、所長に売上金をお渡ししたのですが受け取らず、竹工芸クラスの生徒たちへの報酬に使ってほしいとのことで生徒達に均等に売上金を渡した所、生徒達は「偉大な神様、有難うございます。先生、有難うございます。やったぜ、みんな友達、最高に幸せだぜー」と自然と発声しました。

 周りの人達も生徒達に祝福の拍手を送ってくれていました。知的障がい者は家の厄介者と思っていた家族、思わされていた生徒達もみんなが心一つになり、誰でも努力をすれば可能性を持っていると思うことが出来た一日だったのでしょうか。生徒達の笑顔が今でも目に焼き付いています。私の厳しかった指導に耐えながら努力をしてきた生徒達が主人公、そこにはたくさんのスタッフや家族などの支えがあってからこその達成感と結果が残せたと思います。青春の良き思い出の一ページです。今も心の宝です。

(長友 伸吾)

パキスタンの友人が結成したサッカーチームが優勝(前列左から3人目が長友伸吾さん)
北部ギルギットの村で登山サポーターをしていた親友の家族たちと農作業後の記念写真

※長友伸吾さんは1986年に毎日新聞東京本社制作局に入社。パキスタンには1995年7月から98年10月まで滞在し活動しました。54歳、岡山市に住み、福島清さん達が発行する会報「KOMOK」に10月から当時の話を連載していますので、要約を転載しました。

2021年9月29日

元スポニチ社長、牧内節男さん、96歳にしてスマホと格闘す

 ブログに「スマホを手に入れる。使い方がまだ十分わからない。唯、わかったのは96歳の持つものではないということである。『今日の運勢』を見ようと操作したところ1930年生まれ以降しかわからないのだ。私のように1925年生まれはないのである。それでも面白そうである」と書いた(9月22日)。

 物好きがいると見て「原稿にしろ」という。

 スマホの良いところは表紙を開けると大きな時計版、日付と万歩計があることだ。もともと携帯は時計と電話代わりであった。それに時々、カメラを使用した。今回も使い方は携帯程度になるであろう。これは確かである。操作は指で上に撫でれば良い。後は表示される文字に従えば目的は達成される? ところがそういかないのである。私の指が悪いのか、機械が悪いのか・・・

 暗証番号「5」「9」を入れると、次の事項が表示される。「電話/電話機、メール、インターネット、1,2,3,4,5の数字、PLAYストア、GOOGLE、カメレ・ビデオ、Dメニュー/検索アルバム、声で調べる・操作する、ドコモサービス、乗換案内、さくらさくらコミュニティ、地図、LINE、スケジュール、目覚まし、ホームカスタマイズ、花ノート、Dショッピング、本体設定、自分の電話番号、らくらくホンセンター、使い方ガイド、ダウンロードしたアプリ、よく使うブックマーク、便利ツール。今度は絵付きで電卓など16個の機能の図、エンターテイメント、トラベル・ドコモ海外利用、あんしんツール。災害用キット、データーコピー、つながりほっとサポ・・・安心データー保存」

 よくできた機能がいっぱいある。

 インターネットを指で押えると「銀座一丁目新聞」が出てくる。外で誰かに説明するときには役に立つ。「この新聞を出すのが私の生きがいなのです。平成9年4月開設だから20年を超えています」と胸を張る。GOOGLEは検索を押すと文字が表示され、「あ」「か」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」が出てくる。「本日の天気」「台風の動き」と書き込めばその状況が表示される。「常に最悪の場合を考えよ」を教え込まれているので「災害用キット」は使えるようした。

 10月のスケジュールを入れようとしたが、文字と数字の変換がうまく行かず諦め、手帳に書き込んだ。スマホは若者にとってはなくてならない日常用品であろうが、私が使いこなせるようになるには後数年はかかる。英語「MACHINE」は女性名詞である。「男女7歳にして席を同じくせず」と教わった大正生まれは、ともかく女性は苦手なのである。連日涙ぐましい苦闘が続く・・・
「秋深しスマホ手にして吾惑う」悠々

(牧内 節男)

2021年9月27日

元科学環境部長、横山裕道さんが、久しぶりに長期連載に挑戦――「宇宙から見る気候危機」を「環境新聞」に

連載12回目(環境新聞2021年9月15日付)

 世界的に自然災害や異常気象が多発している。地球温暖化による気候危機が現実のものとなったのだ。このままでは過酷な未来が現在の子どもたちを待ち受ける。現役を離れても温暖化の問題を書き続けたいと思ってきた。だが正面から気候危機を取り上げてもあまり面白くない。何か新たな捕らえ方はないものか。

 こう考えて、たどり着いたのが「宇宙の視点から考えてみよう」ということだった。いま太陽系外での惑星発見ラッシュが続き、地球外知的生命探査(SETI)も根強い人気を集めている。「第2の地球」では知的生命が人類以上の文明を発展させ、既にエネルギー・環境問題を克服しているという考え方もある。もしそうなら、彼らと接触できれば気候危機を乗り切る重大なヒントを聞けるかも知れない。

 そもそも生命のもとは、宇宙からもたらされた可能性が強い。巨大隕石の地球への落下が人類誕生のきっかけになるなど、我々と宇宙の関係は極めて深い。地球の環境がこれ以上ひどくなれば、人類の宇宙進出も現実味を帯びてくる。「宇宙は人間出現を意図していた」とする人間原理の考え方もある。いま宇宙の視点から、地球上で偶然も重なって生命や人類が誕生し、化石燃料の大量使用から未曽有の事態に陥ったことを振り返ってみることは、地球温暖化・気候変動への理解を深め、解決策を見出すために有意義だろう。

 こんな考え方を旧知の環境新聞社編集部長に伝えたところ、2021年春から「環境新聞(週刊)」で月2回の連載を2年間やりましょう、というありがたい返事をいただいた。カラーページの最終面に3分の1の枠をもらい、「宇宙から見る気候危機」のタイトルで連載が始まった。1回目は<架空ドキュメント「地球外知的生命がいた」 電波検出で世界が興奮――2040年>という見出しが躍った。

 「まず2040年の世界にタイムスリップしよう」と書き、温暖化がどうなっているかにスポットを当てた。

2100年の天気予報。こんな予報が出るようでは大変なことになる(環境省提供)

 <世界的に夏の熱波の襲来は耐えられないものになった。40℃を超える日が頻発し、欧米や日本の大都市では日中は人がほとんど出歩かない。日本で最高気温が40℃以上の日は酷暑日と名付けられた。熱中症による死者の数はどの国でも急増し、動植物への影響も目立つ。アフリカやアジアでは干ばつが襲い、水と食糧不足に悩む地域が増えた。島国では海面水位の上昇が現実的な脅威となった。>

 こんな時に中国が「地球外知的生命からの電波を検出した」と発表する。「高度な文明がもう一つあった」という世紀の大ニュースに世界は興奮する。温暖化対策の専門家の間からは「我々の気候危機を知られたら恥ずかしいぞ」という率直な感想が漏れる――。

 この後も<「第2の地球」も異常事態体験か><熱心に続く地球外知的生命探査>などをテーマに書いている。「月2回なら十分余裕はある」と最初は考えたが、原稿執筆、ゲラの確認、参考文献やSFに目を通すなどやるべきことはいっぱいある。それでも楽しみながら執筆している。現役時代に一人での長期連載は週1回の科学面に「大地震 警報時代の幕開け」を1年以上続けたことがある程度。それ以来のことに老体を鞭打ちながらの挑戦となった。

 科学部長だった1996年に科学部の名称を科学環境部に変え、環境面を創設した。地球温暖化が必ず大きな問題になるから、それに備えようと考えたのだった。当時は気候危機の言葉はなく、やっと低炭素社会の言葉が使われ始めたころだ。それからちょうど4半世紀。温暖化は予想以上に高じ、現代文明が問われると同時に、国家の安全保障上の重大問題とまで認識されるようになった。

 終活に入る前に、ずっと追いかけてきたテーマでもある今回の連載だけはしっかり書き上げたい、と思っている。これまでの連載分は、過去に本を出版した紫峰出版のHPで読めるようになっている。 https://www.shiho-shuppan.com/

(横山 裕道)

※横山裕道(よこやま・ひろみち)さんは1969年入社。東京社会部、科学部などを経て科学環境部長、論説委員。2003年退社後に淑徳大学教授を務めた。

2021年9月24日

新聞、テレビを〝オワコン〟にしないために――RKB毎日放送に移って8年、元外信部長、飯田和郎さんの提言

 「新聞とテレビ。そんなに変わらないでしょ?」

 2013年春、毎日新聞社からRKB毎日放送へ移りました。それ以降、多くの方から同じことを聞かれました。

福岡市早良区のRKB放送会館ロビーで

 「いえいえ、違うところばかりで…」

 「どこが違うの?」

 そんなやりとりの後、私は何度かこう答えました。

 「新聞社にいた時は5分ぐらい電話取材して100行の原稿を書いていましたけど、テレビは2時間カメラを回して番組で使うのは数分ですからね」

 少々誇張をまじえて説明してきましたが、新聞以上に「画(映像)の強さ」が優先されるのがテレビです。放送記者の取材アプローチも、新聞記者のそれと大きく異なることがあります。

 RKBは今年、創立70周年を迎えました。全国で四番目、西日本では初めて開局した民放です。新聞に全国紙と地方紙があるように、放送局もキー局とローカル局に分けることができます。RKBはTBSをキー局とするJNN系列のローカル局。テレビは福岡県と佐賀県、ラジオは福岡県がそれぞれ主な視聴、聴取エリアです。

 私の新聞社在籍30年間のうち、最初の8年間を過ごした佐賀市、北九州市はいずれもRKBの電波が届く範囲でした。新聞からテレビへ。「全国」から「地方」へ。戸惑いもありましたが、かつて一緒に警察を回っていたRKBの同世代とも久々に再会できました。22年ぶりに九州へ戻ってきたのは縁だったのかもしれません。

 私が籍を置いた二つのメディア、新聞と放送はともに、「オワコン」(終わったコンテンツ)と呼ばれていると聞きます。確かにテレビの地上波放送を観る人は減少し、ラジオを聴く人も減っています。民放ですから、CM広告が大きな収入源です。スポンサーからすれば、購買意欲の高い若い世代をターゲットにしたいのですが、その若者はスマホには見入るものの、彼らのテレビ離れ、ラジオ離れが進んでいます。

 もちろんテレビから離れない人たちもいます。だけど新しいテレビ受像機はいろいろな機能を備え、YouTubeも、有料ネット番組も視聴が可能です。「テレビ(=テレビ受像機)は観るけど、テレビ(=地上波番組)は観ない」と言われるのは、こういうことです。CM収入の減少はコロナ禍だけではなく、難しい時代に入っていることを示しています。

 暗い話ばかりを並べてしまいました。還暦を過ぎたせいか、RKBにいる若者たち、この業界を志望する若者たちに、どんな組織を残せるかを考えることが多くなりました。

 記者出身だからでしょうか。やっぱり良質のニュースを送り出し、地域から信頼してもらうこと。それに尽きるのかな。地方にいると強くそう思います。

 もちろん、課題は少なくありません。例えば、前述の「強い画」を得るには時間も人手もお金もかかります。取材に大人数を充てることはできません。働き方改革に知らぬ顔できない時代です。予算も増やせません。最近ではデジタル媒体への対応も欠かせません。新聞社であれ、放送局であれ、悩みは同じでしょう。

 でもライバル社には負けたくないし、若い人たちにこの仕事のやりがいと面白さを知ってほしい――。こちらも、新聞であれ、放送であれ同じです。在籍したままなら多分気づかなかった、今だからこそ見えてくる毎日新聞のチカラを感じるようになりました。テレビにも新聞にはない長所があります。新聞社は放送局を時にずる賢く「利用」してほしいと願っています。

 一例として、こんな取り組みはどうでしょう。取材テーマによっては合同でチームを作り、それぞれが得た素材を共有し、タイミングを合わせてそれぞれの媒体で打つ……。オワコン同士(?)、新聞社と放送局共同の「実験」を始められないでしょうか。

 RKBと西部本社が合同で取り組んだ北九州市5市合併促進キャンペーンは高く評価され、1962年度の新聞協会賞(編集部門)を受賞しました。RKBにとって唯一の協会賞受賞です。

 半世紀以上前の両社の先人たちの方が、ずっとアイデアに優れていたのでしょう。

 最後に近況報告です。RKBで8年間務めた役員をこの夏、退きました。違う形でしばらく会社に残りますが、少し時間ができそうです。来春からは会社近くの私大の大学院で学びます。これなら会社に在籍しながら、通えます。専攻はやはり新聞社時代からのテーマだった中国に関係します。

 毎日新聞にいたころを振り返ると、難病で若くして他界した先輩、雲仙・普賢岳で火砕流にのみ込まれた同期、海外での業務中の事故で今も入院生活を送る後輩の顔、顔がなにより浮かびます。健康な日々を送れる自分は本当に幸せです。それだけに今できることを、の思いが募ります。

(飯田 和郎)

※飯田和郎(いいだ・かずお)さんは1960年、東京都生まれ。関西学院大経済学部卒。83年入社。佐賀支局、西部報道部を経て外信部。北京と台北で計3回特派員を務め、外信部長。2013年3月に退社

2021年9月24日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑯ ある新聞記者の歩み 15抜粋

若くしてひとり地方に降り立ち、もまれて育つキャリア官僚

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

全文はこちらで https://note.com/smenjo


 今回は、官僚の世界です。佐々木さんは政治部時代、自治省と外務省を担当され、今回は自治省、次回は外務省担当当時のことをお聞きします。

目次
◇大蔵省より人気だったエリート官庁
◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア
◇知事をめざす自治省エリート
◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問
◇記者会見今昔 昨今の会見を見て
◇ニュースがない自治省の最大のニュースは?
  ◇ニュースがない職場で読書と論文執筆

◇大蔵省より人気だったエリート官庁

Q.福田番を終えた後、1979(昭和54)年の春、中曽根派担当を兼ねながら、自治省の担当になっておられますね。

 自治省という役所を担当して初めてとは言い過ぎかもしれませんが、ぼくは明治以来の「日本国」の統治機能の形がハッキリとわかったような感じがしました(中略)。

◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア

 自治省を担当して日本の役所っていうのは、自治省と大蔵省とで持っているという感を強く持ちました。自治省の役人は、包丁一本さらしに巻いてじゃないけど、若い官僚が自治省に入って数年で各県の自治体の総務課長とか、企画課長、財政課長とか主要ポストに単身で天下りというか出向するわけですよ。最高ポストは副知事ですが、そうすると、当時の県庁、市役所、町村役場などの地方自治体の職員を組合員とする自治労(全日本自治団体職員労働組合)はまだ力があって「天下り反対!」なんて、赴任先の県庁所在地の駅に着いたときからプラカード立てて赴任させまいとするんです。そういう中で、霞が関から落下傘で一人で降りるわけです。でも最近では小さな村役場や、離島、豪雪地帯などにも派遣して日本国土の多様性を勉強させているようですね。地方の問題を中央の政策にフィードバックさせようというねらいもあると思います。そこでどうやってそこの自治体の部下となる人材を“手なづけて”、中央の方針をその地の政策に反映させるか。ということを学ぶわけです(中略)。こういう環境の中でもまれて役人生活を送ってきたわけですから、この人たちは懐が深く、付き合っておもしろい人が多かったな。

◇知事をめざす自治省エリート

 いまでも自治省出身の知事がずいぶんいますね。数えたら47都道府県のうち13人もいます。兵庫県のように現在まで4代59年にわたって自治省出身者というところもあります。現在は総務省ということで、戦前は逓信省だった旧郵政省と一緒になって変な役所になってるからわからないですが、当時の自治省の役人は自治省自体でエラくなりたくはない、最終的には知事になりたいということでした。いまでも覚えているけど、行政局長の土屋佳照さんの部屋に行くと、堂々と壁に鹿児島の桜島の大きな写真が飾ってあるんです。それは彼が鹿児島出身だからです。しかも知事になりたいという意思表示なんですね。その後、1989(平成元)年から2期知事になり、見事に実現させましたね。鹿児島県というのは、戦後65年間、ずっと内務省、自治省出身の知事でした。でも最近は鹿児島県もですが、経済産業省出身の知事も増えていますね。調べたら全国で6人でした。

Q.赴任先の現地では床の間背に坐る立場ですよね?

 当時の自治省というのはなかなかの官庁だったと思いますよ。人間的にもすぐれた役人が多かったと思いますね。中曽根内閣当時、官房長官を務めそのタカ派路線をいさめた後藤田正晴さんなんかもそうですし、自治省事務次官を務めた石原信雄さんも竹下内閣から8年間、7代の首相の官房副長官を務め、昭和から平成の改元時期を乗り切って、未だにその行政手腕、調整能力は評価されていますよね。やはり国の行政のツボを押さえている経験と、その練られた人間力が特徴ですよね。他にも政治家として日中国交回復に努力した自民党の厚相も経験した終戦時の内務次官・古井喜美、警視総監の町村金吾、自治相にもなったタカ派で有名だった奥野誠亮、東京都知事になって美濃部都政時代の赤字を一掃した鈴木俊一などを輩出していますね。やはり行政面ではやり手の印象が強いですね。

 でも終戦時、戦犯を出すことを恐れて全国の市町村に戦争体制遂行の公文書の焼却を命じたのは、奥野誠亮、のち読売新聞会長になった小林与三次、若手内務官僚だった原文兵衛らだったと伝えられているようで、後世の歴史に公文書を残すなんていう感覚は皆無だったことは確かですよね。戦前の“天皇の官僚”としての限界はあったかもしれませんね。

◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問

 自治省担当の時、第二次大平内閣の時で、後藤田さんが自治大臣だったですね。なんか“風圧”がありましたね。この人はすごい人だなあと思いましたよ。当時の自治省のドンのような感じだったな。自治省の官房長、税務局長、警察庁の警備局長、長官という経歴で、うかつなこと聞くと怒られそうで----。政治部の人っていうのは、公式の記者会見で質問というのはしない風潮があるんですね。サシ(一対一)で話すのが政治記者だ―みたいなところがあるんですね。ぼくは経済部出身だったから、夜回りなんかもするけど記者会見が真剣勝負、本命という意識があって、いろいろ聞くのが記者会見だと思っていたんです。内政クラブ(自治省の記者クラブ)の記者は、ほとんど質問しないんですよ。ぼくは後藤田さんにいろいろ質問したことを思い出します(中略)。

◇記者会見今昔 昨今の会見を見て

Q.昨今、首相などの記者会見で、突っ込みが足りないといった批判が。

 当時と違うのは、各新聞のスタンスが“リベラルと保守”という今みたいに明確ではなかったですよね。読売や産経がやや政権に好意的という“感じがありましたが、“安倍政権支持”というように明確ではなかったですね。それに“金権政治”ということで、政治スキャンダルは田中金脈事件、ロッキード事件、ハマコーさんのラスベガスの一晩で450万㌦、4億6千万円をすってしまうという事件など、有権者の生活感覚とかけ離れた、政治と金に絡む事件で各社とも足並みそろえて批判が出来ました。それと自民党の派閥抗争も“我田引水”の自派の勢力の拡大、自派の閣僚ポストの獲得-という分かりやすい権力闘争で、各社とも足並み揃えて批判しやすかったと思います(中略)。

 国のあり方を巡って新聞社間でスタンスが違うので、どうしても政権側は自分に有利な方のQ&Aでしのごうという気分が強いんじゃないでしょか。記者側も下手な質問をして官邸ににらまれたくない、ネット世界で炎上したくないというような忖度もあるんじゃないかな。当事者に食い込んでいる記者ほど、自分の持っているネタをもとに質問して他社に知られるようなことはしたくない、ということもある。政治記者のサガとして、どうしても政治家と一対一のサシで当事者本人と話をしたいという気分があると思います。

 それと記者側も反対論調側との記者同士の対立を避けたい、記者クラブの“調和の世界”を崩したくないという記者クラブ内の同調圧力という感じがあるのかもしれませんね。また我々の時と違うのは、外国人記者クラブ、社会部の記者、ネット関係の記者、フリーランスの記者の参加もあるようで、記者の数は増えているのに会見の質の向上と活性化が出来ていない感じがします。

 ただ記者側を責めるのは酷な面もあると思います。やはり会見の当事者側の腹がすわっていないかというか、語るべき自分の言葉を持って対応していないと思います。語るべき自分の世界観、国家像、政策の基本方針というものがカラッポという感じがしてしょうがないですね。特に安倍政権、コロナ禍の下の菅政権を見ているとその感を深くしますね。ですからなるべく早めに切り上げて、やめにしたいという感じが見え見えですね(中略)。

◇ニュースがない職場で読書と論文執筆

Q.物理的には、自治省のクラブにおられたのでしょうか?

 そうです。あのときは、はっきり言って、そうとうにヒマでしたね(笑)。(中略)でも遊んでいたばかりじゃありません。この時期(1979(昭和54)年)の専門誌「法学セミナー」の総合特集シリーズ増刊号10月号「日本の公務員」特集に「“天下り”公務員・その構造と実態」という論文を寄稿したりしています。原稿用紙で30枚程度ですが、その頃批判のやり玉に挙がっていた高級公務員の天下りについて分析したものです。西尾勝東大教授、松下圭一法政大教授といった当時売れっ子の学者の論文と並んで、自分の原稿が載るのもいい気分でしたネ(笑)。自分で言うのもなんですが、よくできた論文と思います(笑)。後年「エコノミスト」の編集長になる、当時編集部におられた駆け出し記者時代世話になった図師三郎記者がこの論文を読んで、「佐々木君もこういう原稿が書けるようになったんだ」とほめられ、うれしかったことを思い出します。(了)

2021年9月13日

白寿、米寿、喜寿……敬老の日(20日)を前に、皆さん元気に、

 「毎友会会長 石井國範様

 この度は白寿祝 誠にありがとうございました。お陰様で元気に暮らしております。貴会の益々の発展をお祈り申し上げます」

 白寿の石綿清一さんから、石井会長へお礼のメールが届きました。

 毎友会では、今年度から満年齢に合わせて、白寿(99歳)、米寿(88歳)、喜寿(77歳)のお祝いをお送りしています(昨年までは数え年)。

 「白寿」の方は、来年3月までの今年度分で、田中喜八郎さん、吉田 公一さん、阿久津 宏さん、石綿 清一さん、上野 信夫さんと5人を数えます。吉田さんは白寿を前に、残念ながら亡くなられましたが、毎友会も長寿社会を迎えているようです。

 お礼のメールをいただいた石綿さんは、浦和支局長、校閲部長などを歴任。1976年繰り上げ定年退職後も、地元・埼玉で社会福祉法人埼玉療育友の会理事長や埼玉会館の文化活動に尽力し、2013年には著書「文化を耕す 福祉の光芒は 卒寿を乗り越えて」も出版しました。

 今回のお祝いの対象ではありませんが、元スポニチ社長、牧内節男さんは、ネット上で主宰する「銀座一丁目新聞」9月1日号で「96歳になる(誕生日大正14年8月31日)。最近はめまいが酷いがなんとか生きている。大病はしたことがない。医者嫌いである。薬はほとんど飲まない。一応は100歳を目指す」と元気です。

 米寿の皆様のお名前を紹介して、ともに祝いたいと思います(来年3月までに米寿を迎える方も含む)。喜寿の方は49人ですが、お名前は割愛させていただきます。

《米寿の皆様=敬称略》川村 金久、石垣 文夫、松井 頴敏、麻生 正志、大崎 惠子、福田 研一、伊藤 正、岩間 清松、榊田 耕一、酒井 完一、浜田 千文、平山 義輝、水野 順右、大庭 啓男、本橋 玄夫、徳田 浩、早川 定夫、大山 正己、岩井 信秀、 高橋 照夫、塩崎 弘崇、妹尾 彰、築達 栄八、山本 富貴、小野寺 幸男、桜田 忠孝、稲葉 一郎、上野 謙一、星 奎斌、中村 剛、関 茂、牧野 賢治、根本 精一、秋山 寅雄、加納 嘉昭

 皆様のますますのご健勝をお祈りします。

(毎友会事務局)

2021年8月30日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑮ ある新聞記者の歩み 14抜粋

激動の日々の記憶に残る政治家群像

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんが政治部に配属となった年に、毎日新聞社は新旧分離という“離れ業”で、社の事業を継続。佐々木さんは、会社経営の大波をかぶることなく、政治部の現場で新聞記者としての仕事本位の日々を送ることができました。

目次
◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間
◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ
◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!
◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評
◇派閥懇親会で「ササキのこわいろ」が大ウケ
◇記憶に残る政治家群像
◇図抜けた迫力のハマコー

◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間

「第一福田内閣の防衛庁長官としての最後の閣議を終えて総理官邸を出る金丸防衛庁長官」写真・左端が佐々木宏人記者
(出所)「金丸信語録 行き過ぎれば差し違える」末木幸一郎編、1985年、ユニバース出版刊

Q.政治部時代は振り返ってみると、どういう時代と位置づけますか?

 政治部にいた4年半の時代(1977(昭和52)年1月~81(同56)年7月)、総理大臣が三人代わり(福田赳夫→大平正芳→鈴木善幸)、史上初の衆参ダブル選挙を含めた国政選挙が3回ありました。その後の、村山首相を生んだ1994年の自民党と社会党の事実上の連立政権、さらにそのあとの1999年の自民党・公明党の連立政権、2009年の民主党政権の成立などを生むきっかけともなった時代だったともいえるんではないかなあ。

 自民党中曽根派、自治省、外務省担当などを通じて、総理大臣のポストを巡る権力闘争、国政選挙結果の与える影響、日本の地方自治・中央と地方の関係、日米安保条約をめぐる問題、日本と韓国の問題などなど―未だに日本の政治テーマとして解決できていないというか、永遠のテーマを取材できたことは、新聞記者として本当に幸運だった。 経済的な面から見れば、1950年代初期から約20数年間続いた年率10%近い高度経済成長の時代が第一次石油ショックの到来を経て終わりをつげ、農業などの一次産業中心の国から、大都市集中のサラリーマンが国の中心となるように“国のかたち”が完全に変って、“一億総中流”の時代に入っていました。それだけに選挙民の要望も社会保障の充実や、高速道路、新幹線などの国土インフラの充実を求める時代に変ってきていました。

◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ

 自民党はどちらかといえば、農山村に軸足を置いた政策を看板に掲げていました。対する社会党も米ソ冷戦を背景としたイデオロギー的な労働組合をバックにした“平和憲法を守れ”-という運動中心でしたが、それだけでは“一億総中流時代”のサラリーマン組合員に対応しきれなくなってきていました。そういう両者の体制を支えていたのが、衆院の中選挙区制度だった言えます。しかし政治も時代の変化に対応せざるを得ない時期に入っていたんだと思いますね。

 政治部は経済部と違って、国政選挙の結果と、総理大臣の交替が究極的には取材の最終テーマですから、それに合わせて全部員の配置を考えていたと思います。例えば外務省(霞クラブ)、自治省(内政クラブ)などを担当させられていても、必ず担当派閥を兼務していて自民党の平河クラブに名前を登録しておくシステムになっていました。ですから他のクラブを担当しても、自分が割り振られている派閥の動向、その親分(派閥の領袖)の記者会見、オフレコ懇談会、盆暮れの懇親会などには必ず顔を出すのが当然でした。ぼくは官庁担当の時でも中曽根派担当でしたからそういう会合には必ず行きましたね。

 特に衆院総選挙は当時まだ中選挙区制で、一選挙区で4人も5人も当選するというシステムでした。小選挙区制が導入されるのは1994(平成6)年。それまでは各派閥が競って中選挙区に候補者を立候補させるわけです。そうなると選挙資金がかかりますね。派閥の親分の集金力が問われるので当選するには1億円、2億円もかかるといわれる金権派閥選挙になるわけです。政治部としては突然の解散がいつあってもいいように、各派閥からの選挙区ごとの候補者の把握、その選挙区の情勢分析などを頭に入れておかなくてはなりません。ですから派閥の事務所にはヒマがあると顔を出していました。

 派閥担当というのは、国会からすぐの自民党本部ビル内にある平河クラブに所属しています。国会開会中は平河クラブは国会内に移ります。ほとんどの新聞、放送、通信社、地方紙などが加入していたと思います。今はどうか知りませんが、基本的には常駐している新聞社がデカイ面(笑)していたと思いますね。

◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!

Q.40日抗争”の頃の平河クラブは大変だったのでしょうね。

 今でも思い出すのですが、79(昭和54)年10月の総選挙で自民党が過半数割れの事態となり、大平首相と福田前首相が敗北責任と後継首相を巡って対立します。大平派と田中派が組んで大平首相継続を打ち出し、一方「大平首相」の辞任を求める福田派、中曽根派、三木派の連合が自民党をまっ二つに割る、いわゆる“40日抗争”が起きます。当初はキャップやデスクに「こういう自民党の騒動は1週間で収まるよ、まあ夜討ち朝駆け頑張って!」なんて言われて・・・。

 中曽根さんの目白の家への朝駆け、ほとんど連日、朝日新聞政治部の中曾根派担当の山下靖典記者と一緒になりました。交互に中曽根さんの車に“箱乗り”して一問一答をするのですが、やはり主役の派閥にいるわけではないので情報は薄いんですね。中曽根派の事務所のある砂防会館まで30分程度同乗して、車を降りて、中曽根さんを見送り、その会館の一階で、中曽根さんとのやり取りを山下君にも披露して、キャップに上げるメモを作るんです。翌日は僕が砂防会館に待っていて、山下君の箱乗り情報を聞くんです。二人でよく「政権からは遠い“窓際派閥”の中曽根派情報はどうせ使われないよなあ」と愚痴をこぼしあったことを記憶しています。

 夜は渡辺美智雄、藤波孝生、宇野宗祐、原健三郎、武藤嘉文などの中曽根派幹部の家や、九段にある議員宿舎の夜回りをやるわけです。もちろん一人ではなく同じ中曽根派担当の中曽根派キャップの中田章記者(後地方部長)、入社年次では後輩の中曽根さんと同じ高崎出身の松田喬和記者(後編集委員)などと手分けしてやるんです。夜回りを終えて、本社に上がり、そのやり取りのメモをキャップに提出、それから平河のキャップや担当デスクなどと翌日の打ち合わせ。家に帰るのは1時、2時。帰ると朝6時半には朝駆けの迎えのハイヤーが来ているというわけです。

 でも1週間たっても2週間たっても抗争は終わらず、ますますヒートアップ。「話が違うじゃない」とブツブツいいながら、昼間は疲れて記者クラブのソファーを各社で奪い合い、仮眠です。ソファーが取れないときは休憩室にある麻雀卓を囲みます。それも疲れてやってられないとなると、給湯室のどんぶりを出してその中にサイコロを振って出た目で勝敗を決めるチンチロリンか、トランプや花札でオイチョカブ。まったくヤクザの賭場か、ダム工事の労務者の飯場のすさんだ感じ(笑)。本当にあの4週間疲れたな―、政治のこと以外他のことへの思考能力がなくなるんだなあ。平河クラブというとあの時のことを思い出します。政治家はタフと思いましたが、その半年後の総選挙の最中に主役だった大平首相は亡くなりました。その疲労があったと思いますよ。(中略)

◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評

Q.当時、政治の世界では中曽根さんの存在は、田中派、大平派、福田派などの存在に較べて素人目にも存在感は薄かったような記憶がありますが。

 三角大福中の中で中曽根が総理大臣になるなんて誰も思っておらず、政治の主流は田中角栄の田中派、大平正芳の大平派、福田赳夫の福田派が握っているわけです。この角大福派閥間で首相の座を回すというのが暗黙の了解で、政治部でもこの派閥を担当しているのが、政治部記者のエリートコースという感じだったと思いましたね。

 三木派担当というのは、自民党の良心という感じのリベラル派の三木武夫さん自身が、大所高所の正論を述べる人でした。ここを担当する記者は“足して二で割る”いわゆる自民党的ではなく、論理的な正論派が多く、将来の論説委員候補という感じでしたね。もちろん例外はいましたがねえ(笑)。後に毎日の社長(2004年)になる同期の北村正任君も三木派担当でした。温厚かつ落ち着いた切れ味鋭い原稿を書く記者でしたね。東大法学部卒、公務員試験で大蔵省にも受かり、それを振って毎日新聞に入ったという伝説を聞いたことがあります、父親は当時の青森県知事・北村正哉でした。「大蔵省に入っていたら後継知事になれたのに・・・。」と冷やしたことがありましたが、苦笑いしていましたね(笑)。

 その北村君が当時のキャップに40日抗争の終了後の総括の記事を書け―といわれて、「頭を冷やして、少し考えてきます」といって、クラブを出て黄色のイチョウの並木の国会周辺を散歩してきて、やおら原稿を書き始めたことを記憶しています。ぼくなんか書きながら考えるタイプの記者でしたから、こういう落ち着いた記者がいるのかとビックリした記憶があります。彼が社長になった時、真っ先にこのことを思い出しました。(以下略)

2021年8月23日

ナチュラリスト永瀬嘉平さん(80)のお酒と樹木とイラストと……

 毎日新聞社を定年の1年前に辞めてからすぐに、飛行機を使わない世界一周の旅に出ました。88日間。「都民カレッジ」をはじめ「毎日旅行」「多摩サンピア」「桜美林大学カルチャー」「府中市民教室」「毎日文化センター」などで講師を務め、「気になる木の話」「日本人と木」「お話玉手箱」「方丈記の世界」などがテーマでした。しかし、コロナ禍で中止しています。

 会社に勤務していた時に、他から本を6冊。毎月、3~4誌に連載したりしていました。目下は、「まなぶ」誌に、東京の名木や戦災木のイラストを連載しています。また西舘好子氏の「ららばい通信」に「男のひとり料理」を連載しています。毎日のように食べたものをイラストにしています。

市販のカレーのルー(辛口)と鶏のムネ肉、赤と黄色のパプリカ、ホウレンソウ、エノキダケを、くたくたになるまで煮込む。エノキダケなどはほとんど形を残さない
木綿豆腐の上に穴をあけてイクラを入れ、崩しながら食べる。ただそれだけ。酒は「雪小町」(郡山)の美酒、袋吊り

ジャイアント・セコイヤの前で、2017年

働くものの月刊学習誌「まなぶ」2021年8月号。「ナチュラリストが描いたスケッチ画で訪ねるこの樹」

 テレビもラジオも洗濯機もすべて捨ててしまうと、実にのんびりとした生活が送れます。朝(朝とは言わないでしょうが)は、たいてい、午前3時に起きます。あれば冷酒一に軽い食事。6時ごろに朝風呂。駅まで歩いて1時間。「スターバックス」でコーヒー、原稿書きなど。その後、散歩したりしています。1日15キロ~20キロは歩いています。バスは10キロ以内は使いません。月に平均500キロ(東京~大阪間)、歩いています。

 大学時代から食前酒を飲み続けているので、途中で必ず〝ガソリン〟を入れます。

 私が主宰し22年間170回続いている「ビャクシン会」では、7月31日、奥多摩へ行きました。「川合玉堂美術館」など巡りました。

 目下、「世の不思議を見ること やゝ度度(たびたび)なりぬ」(これは鴨長明の「方丈記」の一節)にあやかり、原稿を書いています。250枚ぐらい書きました。

 「母が遺影の中に出てきた」
 「風呂の蛇口をひねると、お経が聴こえる」
 「四脚のヘビを見た」
 「三億円」犯人と一杯
 「マフィアのボスとコニャックの一気飲み」
 「暴力団組長とあわや乱闘」
 「有珠山噴火」などなど
 肉眼で見えない小石に古代文字(表採)
 世にも不思議なことに出合いました。
 ざっとこんな日常です。

(永瀬 嘉平)

※永瀬嘉平さんは毎日グラフ、サンデー毎日在籍が長く、カメラ毎日編集次長、重要文化財事務局次長などを歴任。著書は『百木巡礼』(佼成出版会・序文は白洲正子さん)『日本の瀧』(毎日新聞社・串田孫一序文)『かくれ滝を旅する』など。「日本の滝100選」選定委員。

 ボールペン一本で描くスケッチ展「東京の名木・被災木」を昨年10月、毎日新聞社1階の「花」で開催。

《「タウンユース」相模原・東京多摩版 2017年9月21日号から転載》

10月から桜美林大学多摩アカデミーヒルズで生涯学習講座の講師を務める永瀬 嘉平さん

「自然の魅力」多くの人に

 ○…10月から桜美林大学多摩アカデミーヒルズで開講する秋期生涯学習講座。その中の特別短期講座のひとつ「60本の木」の講師を務める。日本の国土の約68%を占める森林面積。2千~3千本あるとされる木の種類の中から「これを知っていればどこに行っても困らない」という”60本の木”を写真や実物の葉っぱなどを使って紹介する予定だ。「今、改めて木と日本人のかかわり合いを見つめることができれば」と笑顔で話す。

 ○…東京は目黒の生まれ。幼い頃から人と同じことが嫌いで「人に連れられて歩いたことがない」という。大手新聞社で記者、編集次長を務め、日航ジャンボ機墜落事故や有珠山噴火、原発問題など数々の現場を追った。「自分の目で見たもの以外は信じない」。あらゆるものに興味を持つ好奇心旺盛な性格。その中のひとつが自然だった。退職後、日本、世界各地を歩き回った。学生時代から本を読むのが好きで、本で得た知識と実際に見た経験を活かし、数々の紀行集や写真集を手掛け、都市圏のカルチャースクールなどで講師を務めてきた。

 ○…”ナチュラリスト”、直訳すると自然愛好家。自身の肩書について「NHKでそう紹介されたから」と苦笑い。各地を見て回る中で”世界唯一の木の文明国”と日本を例えた建築評論家の川添登氏の言葉を実感した。古くからある木造建築の神社仏閣などがその一例。多摩でみても昔は竹林が多く、めかい篭などの独自の工芸品などが生まれている。「沢山の木があるけど詳しくは知られていない。今、多摩にある木も外来のものばかり。木を知ると文学なんかも深く知ることができますよ」と微笑む。

 ○…記者時代から文化人との交流が深く今も続く。その秘訣はお酒だとか。「上司でも飲まない人とは話さない」と、いたずらっぽく笑う姿は若々しい。その豪放な性格でこれからも各地を見て回り、自然の魅力を多くの人に伝えていく。

2021年8月2日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑭ ある新聞記者の歩み13抜粋

会社“倒産”!それでも新聞記者で生きる

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書きも13回目となり、前回から政治部の時代

に入りました。しかしこの時期、毎日新聞社は、大変な経営危機に見舞われ財界などの支援を受け、倒産を回避する「新旧分離」という荒治療によって危機を乗り越えます。

目次
◇激動の政治状況
◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・
◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け
◇暮れのボーナス、他社の7、8分の1
◇外に出て羽ばたいた人たち
◇一時期悩んだものの・・・
◇退社の遠因、派閥抗争?
◇“ハゲタカ”が毎日を狙い撃ち
◇新旧分離路線が生き残りを導いた。
◇働くみんな「毎日」が好き!

◇激動の政治状況

Q.佐々木さんの政治部時代は激動の感がありますが、会社も事実上の倒産という大変なことになったのですよね?

 まず、当時の政治状況を説明しておきましょう。ぼくは政治部に1977(昭和52)年1月から行ったのですが、その直前の前年12月下旬に福田赳夫首相の内閣が成立していました。前回(12回目)で話しましたが、福田首相の番記者をやっていたのですが、この時代は政界では、自民党の総裁候補を出す派閥として三木派、田中角栄派、大平派、福田派を称して、三角大福時代と言われました。時には最後に中(中曽根派)をつけて、三角大福中時代とも言われましたね。中曽根さんが総理大臣になるなんて誰も思わなかった時代です。

 手元にある年表(「昭和・平成史1926-2011」岩波書店刊)を見させてください。え~と、田中角栄が首相となったのが72(昭和47)年7月ですね。先ごろ亡くなった評論家の立花隆が“田中金脈問題”を月刊文藝春秋(74年11月号)で暴露、田中首相は辞任します。そのあと自民党リベラル派代表格の三木武夫首相となるんですね。三木内閣の時代、田中前首相がローキード事件で逮捕(76年7月)されます。三木が田中逮捕を許したというので、自民党は大騒ぎ、保守本流の福田首相になるわけです。まさか政治部に行くなんて思いもしなかったので、「ダイナミックに政治の世界は動いているな―」という対岸の火事を見ているような感じでしたね。

 この年の9月にバングラデシュの首都ダッカで赤軍派によるハイジャック事件が起きます。前年の8月に三木内閣当時、マレーシアのクアラルンプールのスエーデン大使館を占拠しました。そして、人質と交換に日本の刑務所にいる過激派の釈放を要求して成功します。次にダッカでハイジャック事件を起こしたわけです。そこで福田首相が刑務所にいた9人を人質の身代わりに釈放しました。「人命は地球よりも重い」という言葉を発したことを憶えています。そういう時代でした。クアラルンプール事件の時にも収監されていた5人の服役中の過激派が釈放されるのですが、この中に、僕が水戸支局時代のことを話したところにも出てきますが、茨城大学全共闘のメンバーで、取材を通して知っていた松田久(今も指名手配中)がいました。ベトナム戦争も米国の敗北で終わり、学生運動の季節も過激派の動きが目立つ程度の時代に入っていました。「ああ、あれから10年、あの松田が違う世界に行ってしまったんだ」という感じでしたね。

 ◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・

 そんな政治部に行くのですが、バーターで経済部に政治部から来たのが、鈴木恒夫さんでした。当時の経団連会長の土光敏夫さんに食い込み、政治部に戻ってから河野洋平に引っ張られて退社。新自由クラブ創立にかかわり、選挙にも出て当選。2008年福田内閣で文部大臣もやります。そんなことないだろうけど、もしぼくが政治部に行かなかったら、鈴木恒さんの人生も変わっていたかもしれないな(笑)。

 政治部に行って間もない昭和52(1977)年暮に、毎日新聞社は事実上の倒産となるわけです。新旧分離という手法で事業の継続をはかりました。その5年前の外務省機密漏洩事件、いわゆる西山事件などをきっかけに部数がどんどん落ち、最盛期600万部近くあったのが公称450万部といわれていて、「実際には300万部を切ってる」なんて、囁かれていました。さらに第一次石油危機(73年)後の経済危機の中で高度成長が止まり、74年には戦後初のマイナス成長という逆風を毎日新聞は受け止められなかったんでしょうね。

 注)新旧分離方式=債務と資産をすべて旧会社が負って、新たに設立した新会社が事業を継承してそれまで通り続ける方式。会社更生法などを適用する倒産に陥らず、この方式が取れたのは、事業継続最優先を期待する各方面(金融機関、財界、労働界、学界、読者など)の支持・応援があったからだと言えよう。

 借金が700億円近くふくらみ、実際は自転車操業状態で、74年以降41億円、75年56億円という巨額赤字決算を計上して経営危機が表面化する状態でした。広告収入は石油ショック前には月42億円あったのが10億円に落ち込んでいたんですね。誰の目にも倒産寸前と映っても仕方がない状況に追い込まれていたように思います。経済部の金融担当なんかは、メインバンクの三菱銀行、三和銀行などからは、「このままでは危ないよ!」というシグナルを送られていたようですが、社内的には共有化されていなかったと思います。ぼくも経済部の連中と会うと話は聞かされていましが、現実感がなかったなー。

Q.週刊誌が「毎日新聞倒産に瀕す!」などと書き立てたようですね。

 「毎日は経営状態がピンチ!」というのは、ここぞとばかりに「週刊新潮」を筆頭に、週刊誌などはセンセーショナルにしょっちゅう取り上げていました。すでに部数的には「朝毎読(朝日、毎日、読売をチョウ・マイ・ヨミと読む)」の時代は過ぎて、販売面では完全に「朝読毎」、あるいは「朝読」の時代に変りつつあったように思います。でも取材先のイメージとして毎日は、朝日の次の新聞という感じに変わりなかったような気がしますね。一線の記者のプライドにも変化はなかったように思います。「まあ、何とかなる。日本社会にとって必要な社会インフラとしての毎日新聞は生き残るよ!」なんて考えていたフシがあります。今考えれば、いい気なもんですね。債務返済は一切合切、旧社にまかせて、新生毎日新聞社を発足させて事業をそのまま継続できたわけですが、新社がもし赤字を出したら倒産まちがいなしだから経営的にはシビアでした。

 当時は福田内閣で、毎日政治部OBの安倍晋太郎(安倍晋三前首相の父)さんが官房長官、坊秀男さんが大蔵大臣だったということもあったでしょうから、政治部は安倍さん、坊さんを通じて財界、大蔵省などに「毎日を助けてほしい」と頼み込んでいたようです。

 ◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け

 後に経営企画室に行ったとき(1989年3月)、毎日新聞の題字変更などのCIプロジェクトに携わります。この時、パートナーとなったNTTドコモのロゴデザインなどを手掛けたPAOS(株式会社中西元男事務所)の人が、社内ヒアリングを行った際、ある海外支局の特派員が彼らのインタビューに「ぼくは会社の経営状況には一切関心がない。いい原稿を書くだけ」と断言したので、「あの時は本当にビックリした」と語っていました。恐らく一線記者のほとんどが、そんな感じじゃなかったのかな。その辺が営業感覚で社内が一貫している“普通の会社”と、“インテリが原稿を書いた新聞”を、泥臭い販売戦線でナベカマの景品付きで新聞を売っている新聞社は違いましたね。特に毎日新聞はその傾向が強かったと思いますね。

 でもこの頃、ジャーナリズムの世界では田中前首相の逮捕(76年7月)などが起きるロッキード事件をめぐる報道で、「毎日新聞の報道は一歩先を行っている」などと“ロッキードの毎日”という評価が高く、編集局の意気は高かったことを思い出します。

 このとき、ぼくも経済部でなく政治部にいて取材に追われていたので、経営状況にそう関心はなかったと思います。だって会社の外の取材が面白くてしかたがないんですから。政治家の家に夜討ち朝駆けの忙しい日々。朝6時にはぼくの住まいの杉並のマンションの前に朝駆け用のハイヤーが来ているんです。マンションの人からは「お宅のご主人はハイヤー通勤でスゴイですね。新聞社ってすごいんですね」なんて言われていました。それって皮肉ですよね。こちらにしてみれば夜中の1時、2時に夜討ちをして帰宅、5時過ぎに起きるんですから寝不足で勘弁してといいたいところなんですが----。

 でも政治家の家に行っていろいろと話を聞くのは面白かったな―。ですから朝起きて昨日の取材していた記事が「載った!」、他紙を見て「やられた、コンチキショウ、やり返すぞ!」という感じで、取材された側も「書きやがって!」と部数のことなんて気にしていなかったと思いますよ。

 そのせいか新旧分離の挫折感というのはほとんどなかったですね。ぼくも前は経済部だけど、倒産回避方式で「新旧分離」なんて方式があるなんて知りませんでした。取り合えず新聞は毎日出ているわけで、取材先の政治家も「毎日新聞は大丈夫か?」なんて、夜回りで遠慮がちに聞いてきますが、「給料もチャンと出てるし大丈夫ですよ。ところで先生、今度の組閣で入閣といわれていますが、どうですか?」なんて感じでしたね。(以下・中略)

◇働くみんな「毎日」が好き!

Q.でも毎日新聞はそういう新旧分離、その後の厳しい経営状況、失礼ですが他社よりも大幅に低い給料の中で「宗教を現代に問う」、「記者の目」とかで菊池寛賞を受賞したりします。「宗教を現代に問う」の連載はよく覚えています。本になってますが、数年前に、古本屋で見つけて思わず全5巻を買ってしまいました。「記者の目」は、40年以上毎日新聞の目玉になっていますね。

 そうですね。社史を見ていろいろ思い出しますが、それ以降、79年の「ワカタケル大王(雄略天皇)」の名前を刻んだ「埼玉(さきたま)古墳群」で発掘された「稲荷山鉄剣」の日本古代史を揺るがす大発見の特ダネ。早稲田大学商学部の入試問題漏洩事件(80年)、さらに日本に米軍が核兵器を積んだ空母などが日本に寄港していたという元駐日大使の「ライシャワー発言」(81年)など、三年連続で新聞協会賞受賞のスクープを放ちます。

 ぼくがいまでも毎日新聞らしいなと思っているのは、2000年に新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受けた「隼君事件」です。この事件は97年11月に東京世田谷で当時小学2年生の隼君が横断ほどで、ダンプカーに轢かれて死亡します。翌日、毎日新聞にはベタ記事で「ひき逃げ小二男児死亡、容疑者逮捕」がのります。実は犯人は不起訴となっていたのです。その両親からの手紙で警視庁担当の社会部記者が取材を始めます。十分な捜査をせずに東京地検は不起訴にするのですが、記者のねばり強い取材で、目撃者が分かり、再捜査となり犯人は逮捕、起訴、有罪となります。

 実はこの記事を手掛けた記者は江刺正嘉君といって、確か西部本社から経済部に来た記者でした。寡黙な男で、来た時から経済は合わない、社会部に行きたいといっていたように思います。念願の社会部に行ってこの記事を書き上げます。僕たちが記者になった時から、先輩記者に「ベタ記事をバカにするな」と何度も言われましたが、それを実現してくれたわけで本当に嬉しかったナ。その後も江刺記者はハンセン病患者のことなどを書いた記事を見かけますが、こういう記者がいることが毎日新聞の宝だと思いますよ(以下略)。

2021年7月26日

「かながわキャンパる」復活、「とちぎ」「しずおか」も展開

復活したかながわキャンパる。コロナ下の赤裸々の学生生活をつづる

  神奈川県版に7月13日、「かながわキャンパる」が掲載されました。ご存じのようにキャンパるは学生記者が書いた記事です。かながわキャンパるは、2017年3月に当時の澤圭一郎横浜支局長(現ビジネス開発本部長)がスタートさせましたが、18年から「休眠」、今回3年ぶりに「復活」しました。記事の見出しは「コロナ下のキャンパスライフ」。神奈川大学国際

 日本学部2年生の女子学生が1年3カ月のコロナ禍の学生生活を記しています。今後、「かながわキャンパる」のワッペンで、随時掲載していきます。

 私は、2020年度より、神奈川大学の授業を、網谷利一郎氏(元北京支局長)、弟の隆司郎氏(元アミューズ編集長)から引き継いで、かながわキャンパるの復活に、今年度から取り組みました。復活にあたっては、澤本部長の強力なサポートと、田中成之横浜支局長、伊澤拓也次長の全面協力を得ました。

 キャンパるは、1989(平成元)年2月、東京本社管内の夕刊で「創刊」されました。今年で創刊32年になります。私は2010年4月から担当しました。当初は『学生が書く記事なんて』と思っていましたが、原稿を見ているうちに、自分がこれまで役所や企業に頼っていた取材とは違い、学生自らが発信する情報の新鮮さ斬新さや、その肉声(コラム「すた・こら」)の面白さに、自分の考えが間違っていたことに気が付くまでにそう時間はかかりませんでした。

 次第に『東京夕刊だけではもったいない』と思うようになりました。たまたま、16年4月に宇都宮大学に地域デザイン科学部が新設されたのを機に、毎日新聞社がメディア授業を請け負うことになり、キャンパるをやっていた私が指名されました。そのタイミングで、当時の編集局長、地方部長、宇都宮支局長の全面協力を得て、「地域メディア演習」として栃木県版に「とちぎキャンパる」が月1回掲載でスタートすることになりました。

コロナ禍の1年生座談会。まとめも授業履修の1年生=とちぎキャンパるで

 さらに、18年4月、静岡支局長に赴任した渡辺暖氏(現新聞研究本部長)がとちぎキャンパるの実績を静岡大学長にアピールしました。学長が人文社会科学部長に紹介し同学部の科目「地域メディア論」として、「しずおかキャンパる」を作ることになりました。現在、竹之内満支局長と二人三脚で取り組んでいます。「開かれた新聞」を標榜する毎日新聞ならではの紙面だと思っています。しずおかキャンパるを採用した日詰一幸・人文社会科学部長は今年4月学長に就任。さっそく、しずおかキャンパるで新学長インタビューを申し込み、7月の紙面を飾ることができました。

 キャンパる記事の特徴は、大学でいろいろな活動に取り組んでいる学生を見いだし、取材をして学生視線で記事にすることもありますが、私が一番価値を見いだしたのは、「学生そのものがニュースだ」ということです。一般に新聞記事は取材対象があって成り立ちますが、キャンパるは学生そのものがニュースですから、学生たちの活動、考えがその時代を反映するニュースとなります。ですから、今回のかながわキャンパるの記事のように、学生が1年続いたオンライン授業で感じたコロナ禍の学生生活を赤裸々につづっています。

 とちぎキャンパるの20年度のテーマは「コロナと〇〇」。コロナとプロスポーツ、コロナと授業、コロナとサークル活動など学生記者の立場から、「コロナの今」を記録しています。普段の取材では出てこない学生ならではの「キーワード」も豊富で、毎日新聞のデータベースの充実に貢献していると密かに自負しています。

 学生の座談会も積極的に行っており、とちぎ、しずおかキャンパるをオンラインで結んだ座談会も紙面を飾りました。

 とうきょうの夕刊キャンパるは1年生から4年生までスキルが継続していきますが、大学の授業では前期・後期で授業が終わります。せっかく学んだスキルを途切らせるのはもったいないので、各大学で履修経験者を中心にサークル化しています。宇大は「とちぎキャンパる編集室」、静大が「しずおかキャンパる編集部」、神大は「みなとみらいマスコミ研究会」です。現役履修生とも連携し、紙面の充実に努めています。

 日詰静岡大学学長はインタビュー=写真=でしずおかキャンパるの活動について、「講義修了後も学生が主体的に行動しているのは理想的な形だと思う。継続していくことが大事」と高く評価しました。かながわキャンパるの記事も神奈川大学の国際日本学部長から「学生の側からのオンライン授業や今年度の目まぐるしい変化などを証言した、すばらしい記事のように思い、学部HPでも紹介したいと思います」との連絡をいただきました。

 最後に。夕刊キャンパるを担当していた時に実感したのは、同じ世代の大学生より、大学生を子供や孫にもつ親、祖父母世代によく読まれており熱心な愛読者が多いということです。親にキャンパるを紹介され大学生になって入部を希望する学生が結構います。これは読者対策として、毎日新聞が他社の追随を許さない強みではないでしょうか。現在、教育事業室で、毎日新聞デジタル内サイト「@大学倶楽部」で、約80会員大学のニュースリリースの編集・掲載を担当しています。会員大学の学生広報委員会の組織化も考えており、このネットワークと、「キャンパる」の有機的な交流を盛んにして、毎日新聞の紙面、デジタルのさらなる活性化に取り組んでいきたいと思います。

(内山 勢)

 内山勢(うちやま・つよし)さんは1959年、新潟県上越市生まれ。中央大経済学部卒。83年入社。山形支局を皮切りに、サンデー毎日編集部、大阪社会部、高松支局、経済部、日本BS放送(BS11)出向などを経て、2010年4月から20年3月までキャンパる編集長。2019年6月定年退職。同年7月からCS(キャリアスタッフ)として、ビジネス開発本部教育事業室で、毎日新聞デジタル内@大学倶楽部サイト運営の傍ら、宇都宮大学(とちぎキャンパる)、静岡大学(しずおかキャンパる)、神奈川大学(かながわキャンパる)の授業と紙面制作に携わっています。

2021年6月24日

僕はケンちゃんと危険な取材もした写真機、ニコンF

 僕は中島健一郎が1968年4月、毎日新聞社に入った時に写真部の斡旋でケンちゃん(中島の愛称)が買った写真機だ。ニコンFは名機と言われたカメラで、とても頑丈。ミノルタの方が安かったがケンちゃんは、ぶつけてもびくともしない僕を選んだ。それ以来、僕はケンちゃんが取材に行くときはいつも一緒だった。

 初任地の長野支局に信越線に乗って向かった。上野駅から列車がゴトゴトと動き出した。都会っ子のケンちゃんは都落ちみたいに感じてしんみりした。県知事公舎近くの支局は木造の古い建物。「まるで東京日々新聞時代のままのようだな」と、靴のまま上がろうとしたケンちゃんは「スリッパを履けよ」と早速、注意された。

 宿直室の二段ベッドの上の方に半月ほど寝泊りさせられた。松代群発地震の頃で、なぜか朝方に発生する地震で宿直記者が飛び起きると、ケンちゃんも枕元に置いた僕を掴んで梯子を降りる。昔は最低でも1カ月は宿直室泊まり。便所掃除が新人記者の務めというしきたりは、もうなくなっており、日曜日は棟続きの支局長住宅に奥さんが呼んでくれ美味しい朝食をご馳走になった。

 長野日赤病院の資格を取れたばかりの看護婦さんの戴帽式の記事と写真が小さく長野版に載った。ケンちゃんが僕で撮った写真で紙面化された最初の作品だ。支局ではフィルムは自前。その代り紙面に写真が掲載されると、確か顔写真が1つ150円、カット写真が300円もらえた。暗室で倹約のため撮影した分のフィルムを引き出して現像する。焼き付けも自分で行い、定着させて乾燥させたら電送機で送信する。ケンちゃんは僕で写真を撮るのが好きで1カ月に6千円も写真代を稼いだことがある。各社の中で一番良かった毎日新聞の初任給が2万8千円だったから僕は随分、ケンちゃんの懐に貢献したんだ。

 支局で2年先輩の長崎和夫さんは「1枚の写真は千行の記事に勝ることがある」が口癖で写真の大事さをケンちゃんに指導した。ところが松代群発地震の被害の取材に現地に行っている時に地震が発生、揺れ動いている地面を撮って来たのは良いが写っていたのはただの地面。「やあ、参ったよ」と、こんな笑えるエピソードを語る長崎さんは1967年8月1日に西穂高岳で下山中の松本深志高校生を落雷が襲った事件で写真を入手した記者だった。死者11人、重軽傷者13人がバタバタと倒れている凄惨な現場を撮ったフィルムを入手して山道を駆け下りた。一面に大きく載った写真はそれこそ千行の記事に勝った。ちなみに1面の大見出しは「水平雷撃」。落雷は上から落ちるものだが、高い山の尾根では水平に感じられたのを表現した名見出しだった。

 浅間山荘事件(1972年2月)でもケンちゃんは僕をいつも肩にぶら下げて取材していた。一瞬のシャッターチャンスを逃すわけにはいかないことを長崎記者らに叩き込まれていたからだ。連合赤軍と警察の攻防には写真部が山荘の周囲でカメラを構えた。土嚢の後ろに隠れる警官達。そこから20メートルほどの所に停めた毎日新聞の車両の中でケンちゃんと写真部員は見守っていた。突然、警視庁特科車両隊中隊長、高見繁光警部が立ちあがった。伏せている部下を見て指揮棒を振った時、銃声。高見警部の眉間から血が噴き出した。「中隊長!中隊長!」と叫びながら盾の上に高見警部を乗せて走る隊員達。ケンちゃんは車から飛び出した。みるみるうちに血が盾に溜まる。この時ばかりはケンちゃんは写真を撮れずにぼう然としていた。

 浅間山荘の正面の斜面には報道陣がカメラの砲列を敷いた。撃たれた場合を考え、どの社も防弾チョッキを配った。ケンちゃんの数メートル下の斜面には信越放送のカメラマンがしゃがんでテレビカメラを構えていた。そこに銃撃。そのカメラマンはつんのめるように倒れた。しゃがんだので防弾チョッキがずり上がり、彼の睾丸が吹き飛ばされたのだ。でもその後、結婚した彼に子どもが持てたのだから片方の睾丸が無事なら大丈夫だ。

 ケンちゃんは人質の泰子さんがどの部屋に監禁されているか推理するため近くの山荘の管理人に聞きまわった。訪問したことがある人は「一番立派な部屋はカエデの間かな。二段ベッドの部屋で柱にくくられている可能性が強いよ」などと語った。浅間山荘の内部を撮った写真は借りまくった。

 「泰子さんはどこに」と題した記事が、内部写真と共に長野版に大きく掲載された。毎日新聞社の前線本部に届いた新聞を見た名文家で知られる社会部記者が「なんでこの記事が全国版に載らないんだ」と叫んだ。外側で発生している事象は毎日、報道されているが、山荘の中の様子は分からない。だから読者はどうなっているか知りたいからこの記事がタイムリーだというのだ。翌日の毎日新聞の全国版にケンちゃんの記事は掲載された。勿論、長野県に配達される新聞だけは二重掲載を避ける措置が取られた。「全国版から地方版に記事が落ちてくるのは当たり前だが、格上げは珍しい」と言われた。ケンちゃんは写真の大事さを教えられていたので「自分で撮れないなら、内部の写真があるか近くの山荘の管理人を当たろう」と走り回った結果、全国版に格上げされた記事が書けたのだった。

 学芸部の映画担当が希望だったケンちゃんは、浅間山荘事件が契機となり社会部への異動になった。しかも1年はサツ回りをするのが当たり前なのに6方面担当のサツ回りを1ヵ月しただけで警視庁捜査1課担当になった。東京では大きな事件事故では写真部が出動するからケンちゃんが僕で写真を撮ることは減った。

 「入社以来の大事なニコンFを修理した」というケンちゃんのフェースブックの投稿を見て、「カメラの話を書いてくれませんか」とメールして来た高尾義彦さんについて触れたい。彼はロッキード事件の時に司法担当記者だった。田中角栄が検察庁に出頭して来た時に車から降りてきた姿を高尾記者は自分のカメラに収めた。高尾さんも写真の大切さを分かっていた。もし彼が写さなかったら紙面ではその朝、「検察、重大決意」と大見出しで報道した毎日新聞は写真では負けるところだった。「田中が。田中が検察庁舎に入りました」という高尾記者の電話を本社の宿直室で受けたのはケンちゃん。「写真は?」と問いに高尾記者は「僕が撮りました」と答えた。ケンちゃんはその返事にホッとしたのを覚えている。

 殺人事件の取材で怪しい人物にインタビューした時にケンちゃんは最後に「写真を撮らせて」と言う。無実を主張する人物が「なんで俺を撮るんだよ」と怒らない。僕、ニコンFのシャッター音は結構大きく「あんた、やったんだろう」と響く。やましいから写されるのを拒否できないと、ケンちゃんは確信する。

 野方の衛生検査技師行方不明事件では広島まで出張して男を追及した。1時間ほど質問した後、同じ問いを繰り返す。初めの答えと二回目の答えが微妙に食い違っていたらその矛盾を突く。男はうつむいたまま黙り込む。そしたら写真を撮るのだ。今から思うと事件記者ケンちゃんは相当、きつい取材をしたものだが、「警視庁刑事」(鍬本實敏著、1996年10月発行、講談社)にケンちゃんと鍬本刑事が協力して事件を解決したいきさつが載っている。

 その後、調査報道や脱税担当などをした後、ケンちゃんはレーガン政権発足後の1981年2月末、ワシントン特派員になった。写真部は駐在していないから僕の出番だ。軍のグレナダ侵攻の取材で、焼け落ちた首相官邸や弾痕が残る要塞の写真も。中米紛争でコントラ(ニカラグアのサンディニスタ政権と戦う右翼ゲリラ)の野戦病院では足や腕をなくしたゲリラ兵士を撮影した。倉庫の荷箱を写した時、ゲリラの指揮官が「そこは撮るな」とわめいた。米国はイランに武器を売り、その代金でコントラに物資を流していた。後に問題になるイランコントラゲートの証拠が木箱に刻印されたナンバーを追えば可能だから指揮官は怒ったのだろう。



北欧で写真取材中の中島健一郎さん

 帰国後、1985年6月の皇太子夫妻=写真=の北欧4か国訪問取材で僕は大活躍した。日本国内では皇室の写真取材は厳しく規制されるが、海外ではかなり自由だ。僕を構えているケンちゃんの写真は他社の記者が撮ってくれたものだ。ノルウェーのベルゲンで皇太子夫妻と、留学中の英国から合流した浩宮様の記者会見があった。ケンちゃんは「ノルウェーの女性記者を浩宮様は写真に撮られましたね」と質問した。美智子様が「あの赤いコートの方ね」と述べ、クスリと笑われた。浩宮様と美智子様の間で、この女性記者は話題になっていたのだ。鼻筋の通った美人記者だった。ケンちゃんは浩宮様が「鼻が高い人が好みだ」と思った。後に皇后となられた小和田雅子さんも鼻はしっかり大きい。

 その後、警視庁キャップ、社会部、外信部デスクをしたが、僕が活躍したのはソ連のトップインタビューの仕掛け時だ。ゴルバチョフソ連共産党書記長との会見を毎日新聞社長が行うための工作で、ソ連共産党中央員会イデオロギー部長の案内で真夜中、ヤコブレフ政治局員と会うためクレムリンに非常口から入った。森浩一編集局長、上西朗夫政治部長がヤコブレフに挨拶している写真を撮った。ポポフ・モスクワ市長からハズブラートフ第一副議長ら要人と軒並みインタビューを重ねたが、写真撮影はケンちゃんの担当だった。

 この事前工作が功を奏して社長のゴルバチョフ会見に持ち込めたのだが、味をしめた毎日新聞社はケンちゃんにブッシュ米大統領とのインタビューのセットを指示した。だがマスメディアが発達した米国で大統領への単独インタビューは難しかった。あらゆるツテを使ってホワイトハウスに要請したが、良い返事はない。ソ連崩壊を予想して身の振り方を考えていたイデオロギー部長が日本に期待していたのを利用出来たからソ連では仕掛けが出来た。しかし米国ではそうはいかない。くたくたに疲れてワシントンのホテルのベッドの上に横たわって天井を見つめた。やっと国務省の日本部長から「ダン・クエール副大統領が会う」との返事が来た。「副大統領じゃ嫌だ」と言うと「それでも大変なことだ。感謝しろ」と怒られた。工作を始めて約2週間後、編集局長と政治部長に飛んできてもらい、インタビューは実現し、ホワイトハウス専属カメラマンが記念写真を撮ってくれたが気持ちは晴れなかった。

 1991年に今度はワシントン支局長としてケンちゃんは僕を携えて赴任した。ブッシュ大統領とクリントンが戦った大統領選で、クリントン勝利を予想したケンちゃんとクリントンキャンペーンについて各州を回った。キャンペーン中は至近距離で取材しやすい。パチパチ写真が撮れる。

 黒人男性への警察官の暴力が無罪になったことから、50人以上が死亡する惨事となったロサンゼルス暴動(1992年)。白人警官4人が黒人のキングさんを50回以上も警棒で殴っている様子を撮影したビデオ映像がテレビ放映され、抗議活動が盛り上がったのに警官は罪を問われなかったのだ。映像の力は時としてすごい。

 ワシントン支局長から東京本社の社会部長になったケンちゃんは僕を片手に取材に出ることはあまりなかった。しかし阪神大震災(1995年1月17日発生)で神戸支局に差し入れを持っていった時のことだ。山口組がボランティア活動をしているというので本家を見に行った。大きな屋敷の玄関前にテントを張って援助物資が並べてある。組員にいろいろ質問していると「あんた、誰や」と聞かれた。毎日新聞の社会部長だと答えると、「もうすぐ広報担当が帰ってくる」という。間もなく帰って来た広報担当は面白い男だった。「5代目組長が全国の山口組の組長に役立つ物を持ってこい、と命令したんや。洋品店などに“神戸の人たちのため何か出さんかい”と言うと沢山の品が集まる。それをトラックに積んですっ飛ばす。お巡りに捕まったら“ウルセイ。被災地を助けに行くんだ”と怒鳴ればオーケー。渋滞したら裏街道を走る。お手の物や」。ヤクザにも広報担当がいるのに感心していると、屋敷の庭にはもっと多くのテントがあるという。300坪ほどの舗装された敷地に張られた4つのテントには毛布やコメ袋などが山積み。そこに1台のトラックが到着し、家から走り出て来た男達が荷降ろし。それを指揮する男がいた。「5代目組長だ」と広報担当が紹介してくれた。「わいらは神戸の皆さんにはお世話になっている。震災の時に恩返しするのは当然だ」という5代目と一緒の写真を撮った。

 首都の地下鉄にサリンが1995年3月20日に撒かれて、大騒ぎになったオウム真理教事件。山梨県の上九一色村にあったサティアン(オウム真理教の拠点)の張り番をしている記者の激励に5月2日に行ったケンちゃんは富士山の写真を撮った。この写真はなんと1面に掲載された。余録(1面のコラム)に経緯が紹介された。

 以下は余録のさわり。

 本紙に連載中の「1989年秋 そして今」(牧太郎編集委員)の第1回目に、山梨県上九一色村から見た富士山の幻想的な写真が載っていた▲深い淵のような藍色の空に、紅の瑞雲がたなびいている。山肌にも紅の筋が何条か浮かんでいる。撮ったのは中島健一郎・東京本社社会部長。上九一色村で「ほら、ご覧なさい」と地元の人に促され、シャッターを切ったという▲普段、濃い霧に閉ざされている富士山が全容を現した瞬間の光景だ。

 余録の後半は端折るが牧太郎さんはサンデー毎日編集長として6年前にオウム真理教と対峙したジャーナリスト。その狂信と闘ったペンの記録の連載のカット写真にケンちゃんの富士山の写真が「富士山の美しさは6年前も今も変わらない」として採用されたことを余録は取り上げたのだった。TBSラジオの森本毅郎スタンバイにコメンテーターとして出演した時、「今朝の毎日新聞の富士山の写真は中島さんが撮ったんですよね」と紹介された。写真の反響は大きい。

 その後、ケンちゃんは編集局次長、英文毎日局長、事業本部長と管理的な仕事に移り、僕は仕舞い込まれることが多くなった。2006年に毎日新聞社を退社してからケンちゃんは携帯やスマートホンで写真を撮るようになった。その僕を今年(2021年)に倉庫から取り出したケンちゃんはカビが生えているのにビックリした。同じタイミングで長女が「6月1日は写真の日だけど、ぶつけて角がへこんだお父さんの黒い写真機は今どこにあるの?」と聞いてきた。小学生だったのに写真機の傷まで覚えていたのだ。「ほったらかしにしてごめんね」と謝って、ケンちゃんは僕を分解掃除に出した。新品くらいに綺麗になった僕を見たケンちゃんは嬉しくなってフェースブックに投稿した。それで高尾さんが「中島さん、写真機の話を書いてくれませんか」と連絡して来たのだ。愛機ニコンFを撫で擦っていると、いろんな写真取材を思い出す。写真の持つ訴える力や記録性を改めて感じた。それでついついだらだらと書いてしまったが、きっかけをくれた高尾さんに感謝したい。

(中島 健一郎、77歳)

2021年6月22日

元編集委員、倉嶋康さんが「松川事件・諏訪メモ」スクープで55年ぶりの主筆感謝状を贈られた思い出をフェイスブックに

 戦後の大きな冤罪事件の一つ「松川事件」で、被告のアリバイを証明し無罪の判決を導いた「諏訪メモ」を発見し、スクープとして報道した倉嶋康さん(88)が、報道から55年ぶりに主筆感謝状を贈られた経緯を、ご自分のフェイスブックで報告しています。倉嶋さんは当時を検証する「記者クラブ」を連載、この表彰については「第1部(138)」で報告しています。倉嶋さんは、和凧を持って世界25か国を旅した体験などもフェイスブックに連載しています。

 2012年春、自宅に電話がかかってきました。女性の声で「もしもし、毎日新聞にいらした倉嶋さんですか。こちら東京本社の社長室です。丸山室長に代わります」。これには驚きました。定年退社してから干支で2回りもたっています。年1回の旧友会に時々顔を出すくらいの本社から電話。しかも社長室なんて現役時代からまったく縁がありませんでした。

 いまは社長になっている丸山昌宏室長の話を聞いてもっとびっくりしました。「倉嶋さんが55年前に書いた松川事件の諏訪メモの特ダネに対して主筆から感謝状をお贈りしたいのです」。なんですか今ごろと思いながら喜んでお引き受けし、指定された日に出掛けました。実は若い日に書いたあのスクープ記事について、普通は出してもらえる「特賞」を頂いていなかったのです。上の人たちはあれが新聞に載った時はそんな大特ダネとは気づかず、また最高裁で無罪が確定した時は記事から時間がたち過ぎていて、みんなが忘れていたのでしょう。私自身も父親の言いつけを守って社内で自慢も不平も言いませんでした。

 本社に顔を出した私を朝比奈豊社長と岸井成格主筆が迎えてくれました。いずれも顔なじみの後輩です。雑談していていきさつがわかりました。私が家で昔話になった時に「あれだけ苦労したのに、紙きれ1枚もくれないんだから」ともらしたのを心にとめていた息子が手紙で本社に訴えたのだそうです。担当が驚いて調べたらまさしくその通りとわかり、前例に無い表彰になったとか。それから間もなく他界した息子の最後の親孝行になりました。

 感謝状はOB社員が集まる毎友会の総会の席上で渡されました。なんとこの日は「諏訪メモ」が毎日新聞福島版に掲載された6月29日。気の利いた演出でした。大勢の仲間の拍手を浴びて口にしたビールは、ひとしおうまいものでした。

(倉嶋 康)

 倉嶋康さんのフェイスブックはhttps://www.facebook.com/naslgate

2021年6月18日

論説委員から筑波大学教授へ、鴨志田公男さんは「ゲノム編集トマト」の発信や筑波大学新聞編集で活躍

今年の卒業式後、巣立っていく4年生などと一緒に

 毎日新聞社を選択定年退職したのは、2年前の5月でした。翌月から縁あって故郷・茨城県の筑波大に移り、教員と科学コミュニケーター、筑波大学新聞編集代表の三役をこなす日々を送っています。

 現在、一番大きなウェイトを占めているのは科学コミュニケーターでしょうか。大学発の研究成果を社会に発信するとともに、研究者たちにその反応をフィードバックし、相互理解を深めるというのが、その役割です。

 最近で印象深いのは、ゲノム編集トマトです。ミニトマトより一回り大きな実を1粒食べるだけで、高血圧の改善効果が期待できるというもので、筑波大の江面浩教授が開発しました。大学発ベンチャーが昨年末に国に届け出をし、今年5月には苗の配布も始めました。ゲノム編集食品としては国内初の商品化です。この間、2度にわたって記者説明会を開き、当日の司会を務めました。

 安全性を疑問視する消費者団体もある中、説明会では正確で丁寧な情報提供に努めました。記者時代とは逆の立場になりましたが、受け手のことを考えながら情報を伝えるという点では、記者時代と変わりません。

 教員としては、ジャーナリズム論の演習授業を担当し、マスコミ希望者向けに作文の書き方指導などを行うゼミも開いています。この2年間で15人ほどの学生が、毎日新聞を含む大手紙や通信社、NHK、出版社などに進むことになりました。ゆとり世代ですが、国内外でボランティアを経験するなど、社会に貢献したいという気持ちを持っている学生が多いです。この後触れる大学新聞の編集部員もいますが、新聞より放送・出版業界の希望者の方が多いのが、ちょっと残念です。

 筑波大学新聞はタブロイド判12㌻で年7回発行。部数は約2万部で、入学式や秋の学園祭の時期に発行される号はさらに部数が増えます。大学の広報紙という位置付けですが、1年生から3年生まで約25人の部員が話し合って内容を決め、取材、執筆、編集作業までをこなします。つくば市の駅前再開発など地域の話題も積極的に取り上げます(紙面は大学のウェブページでご覧いただけます)。
https://www.tsukuba.ac.jp/about/public-newspaper/pdf/363.pdf

 編集代表の私はいわばデスク役で、企画の立て方や取材の仕方を指導し、原稿の修正など編集作業全般をチェックしています。

 昨年4月以降、紙面の中心は新型コロナを巡る問題になりました。特に昨年の春学期(4~9月)は授業が全てオンライン化され、キャンパスへの出入りも厳しく制限されました。大学新聞では、オンライン授業のメリット・デメリット、新人勧誘ができず存続の危機に陥った課外活動団体、売り上げ大幅減で廃業に踏み切った学内食堂など、さまざまな話題を取り上げてきました。

 先程、部員は約25人と言いましたが、1、2年生だけで20人を超えます。コロナ禍で学生生活にも影響が出ている今だからこそ人とつながりたい、情報を伝えたいという思いを持っているからに違いありません。10年後、20年後に大学新聞を読み返してみると、きっと貴重な歴史の記録になっているはずです。

 今年5月で還暦を迎えました。肩や腰の痛みに悩まされるなど、体の方は年相応にボロが出始めました。でも、若者たちから元気をもらいつつ、もうしばらくは、つくばの地で現役生活を送りたいと考えています。

(鴨志田 公男)

※鴨志田公男(かもした・きみお)さんは1961年水戸市生まれ。京都大理学部卒。86年入社。初任地は奈良支局。福井、京都、大阪科学部を経て東京科学環境部。前橋支局長、北海道報道部長を経て論説委員。2019年5月に退社。

2021年6月15日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑬ ある新聞記者の歩み12
政治部に移って、人間くさい政治家とのつきあいを楽しむ日々 抜粋

(インタビューは校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、“本拠地”経済部を離れて政治部に移ります。1977(昭和52)年、35歳の頃でした。政治の現場で政治家という人間に当たるのはむしろおもしろいと感じ、自分に合っていたと言います。昨今、記者と政治家の距離の取り方が問題視されたりしていますが、マスメディア、なかでも新聞の権威が輝いていた時代に、取材の現場はどんなだったのか、それをビビッドに率直に伝える証言は貴重です。

目次
◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”
◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍
◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」
◇35歳 最年長“番記者”になる
◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく
◇番記者は鵜飼の鵜
◇聞き終わったら「合わせ、合わせ」で各社共有
◇首相の追っかけ係は通信社
◇まんじゅう的魅力かドーナツ的人気か 深くつきあわないとわからない
◇ナベツネさんはすごい

◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”

Q.いよいよ政治部ですね。

 1977(昭和52)年の1月に政治部に配属になりました。大手町の経団連会館3階の重工クラブから永田町への“転勤”でした。前年末に“保守傍流リベラル派”といわれた三木内閣が総辞職して、“保守本流”の福田赳夫内閣が成立(1976年12月24日)した直後です。個人的なことで言えばその前年の10月に結婚したばかり。女房はカトリック系の私立の中高一貫校で英語の先生をやっていて、真面目一本ヤリ、昼夜逆転生活のブンヤと結婚してビックリしたようです(笑)。マーそれでも経済部は政治部に較べて、そんなに忙しくはなかったですが、政治部は本当に“夜討ち・朝駆け”の生活でしたから、そのペースに合わせるのが大変だったようです。

 なぜ政治部に行ったかということですが、当時、毎日新聞編集局には政経交流という方針がありました。「経済部は大所高所の高みの見物で、とってつけたような経済理論でバンバン書いてるけど、最終的な結論を出す政治の現場って理論で決まるような世界じゃない。政治家一人一人選挙区の事情、その集団の自民党内の派閥の力学、野党との関係、中央と地方の関係など生臭い現場の力学の中で政策が決定されている。これを知らなきゃいけないぞ」というのがひとつです。

 もうひとつは、いろんなテーマで社内的な紙面調整が大切になってくるんですね。社会保障政策だとか、農業政策、特に減反政策、地方への交付税予算だとか、代議士の当落にかなり関係するわけで、結果として政府の政策が「政高官低」、つまり政治が強くなりつつある時代でした。だからどうしても政治部からの情報だとか、パイプ役というのが必要だということになってきたと思います。政治部と経済部の記者を交流させ、パイプの流れを良くしようという事だったのではないですかね。

 今でも思い出すのは、政治部から帰ってきて大蔵省担当当時、いまの「マイナンバーカード」を先取りした「グリーンカード」案が大蔵省から提案され、富裕層の株式所得などを税制面で課税・総合的に捕捉しようとしたんです。法案提出寸前のいいところまで行ったんですが自民党につぶされます。当時の海軍主計学校出身、レイテ海戦生き残りのF主税局長が「本当に政治家ってしょうがないねー、将来の国のことを考えているんかなー」と唇をかんで、天を仰いでいたことを思い出します。

 この辺のところを先取りしていたのは読売新聞で、経済部記者は例えば石油危機の際の電力料金の値上げの時など、自民党の政調会幹部のところに夜回りをして数字を探っていたようですね。毎日の経済部にはそういう意識はなかったな―。

◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍

 ちょうどその頃、相前後して与野党逆転だとかロッキード事件だとかいろんな問題が起きて、政治が経済に介入する場面というのが多くなっていたということがあるんだと思います。また経済界も政治力を必要としていた、グローバル化する経済の中で発展途上国への経済援助など、経済界が請け負うわけですから、いわば“政官財複合体”というものが出来ていたんだと思います。

Q.政治部に行かれたのは、特に希望してではなく、指名されたということですか?

 ぼく自身は政治部でやってみたいと思ってましたよ。ぼくで2代目だったか3代目だったか・・・。ぼくの前は一年先輩の小邦宏治さんという記者が行ってたんですよ。経済部から行くのはだいたい2年契約なんです。契約と言ってますが正確には慣習ですが。ぼくの場合は4年いました。その後ないんじゃないかなー。これはかなり異例なことなんですね。ぼくわりと調子がいいから、政治家とつき合うのはきらいじゃなかったんです。一橋とか東大出た経済部の真面目な記者は、官僚と一緒になって、政治家なんか政策を曲げてけしからんとか言ってバカにしてるわけです。こっちはそんなこと気にしないから、おもしろがってつき合うという気持ちがありました。でも逆に考えてみれば経済部では、あまり必要とされていなかったのかも(笑)

◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」

 最後の四年目の頃は、「おまえ政治部に残るのか、経済部にもどるのか、どうするんだ?」と当時の経済部長から呼び出されたことがありました。ぼくは残ってもいいかなあ―と一瞬思ってました。ところが、政治部は僕と同期の40年入社(昭和40年、1965年)の人が6,7人いました。のちに政治部長から社長になった、横綱審議会の会長にもなった北村正任君、RKB毎日放送の社長になった石上大和君とか、間違いなく政治部長になれる人が3人くらいいたんです。だから、ぼくが残ったとしてもとてもじゃないけど政治部長なんかなれないなと思いました。

 当時、(経済部の時の上司の)歌川令三さんに相談したことがありました。そうしたら「帰ってこい、政治部にいても(部長になれる)目は無いぞ」と言われました。不思議なことに経済部は昭和40年入社(1965年)がぼく以外誰もいなかったのです。入社試験の時は東京オリンピックの時で、百人近く採用したんですね。支局から本社に上がる際、優秀なやつはみんな政治部、社会部などに取られちゃったんですね。それはやっぱり、経済部と政治部の社内的な政治力の違いなんだな。人材については水面下の争奪戦ですから。経済部はあまり社内政治力が無いですからねえ。

 その時、歌川さんが言ったのは「40年組はオマエひとりなんだから、黙って坐ってれば部長になるぞ」って(笑)まあ、そのとおりになりましたが(笑)・・・。めぐりあわせです。でもこんな事、話すと出世主義者のガリガリと思われていやだな―(笑)

Q.では、政治部に配属された頃まで時間を巻き戻して、政治部でのお仕事を具体的に伺います。

◇35歳 最年長“番記者”になる

 政治部の時代というのはすごくおもしろかったです。とにかく、政治部っていうのは一種の徒弟制度のようなところです。スタートは番記者です。支局から上がってきた各社の政治部の若い記者が、だれでも最初に通るポジションです。少なくとも日本の政治、経済、外交あらゆる問題が、最終的には総理官邸に集中するわけで、本当に勉強になります。そこで1年程度やって各クラブに行くわけです。政治記者の登竜門といってもよかったですね。

 ぼくは当時35歳位でしたから、各社の中で最年長でした。特に、日経は、以前“少年探偵団”と呼ばれていたなんて話をしたように、支局まわりがなくて入社後、直接政治部に配属になるので、いちばん若かったですね。安全保障担当していた伊奈さんなんて、大学を出たばかりで一回り違いました。

Q.伊奈さんというのは伊奈久喜さんのことですね?2016年に胃がんのためなんと62歳で亡くなったのですね。何か印象に残っていますか?

 背の低い、小太りで色の白い、でも福田赳夫首相に臆せず質問をしていましたね。ぼくが経済部から頼まれて、税制の問題かなんかで総理に質問すると「佐々木さん、今の総理の発言、解説してよ、経済問題は佐々木さん専門でしょ」なんて調子のいいこと言いながら、メモ帳を出していたことを思い出します。後年、安全保障問題について署名入りで格調高い記事を書いているのを見て、いい記者になったな、あの伊奈ちゃんが―、と思いました。残念だな―。

 それと今テレビで売れっ子のコメンテーター田崎史郎さんも時事通信で、一時期、福田番をしていたと思いますよ。ウイキペディアで見ると大平番となっているけど、一緒にいたように思うな。彼は学生時代、成田空港建設反対闘争、いわゆる三里塚闘争で逮捕され13日間も拘留されていたんですよね、そういう人が権力のトップの間近かにいたんだから----。公安も困っただろうな―。でもその彼が今や政権寄りのコメンテーターとして有名で、安倍政権時代は首相と一緒に寿司会食をしたというんで“スシロー”なんてネットで冷やかされていたんだから面白いよねー(笑)。

 そうか思い出しました。当時番記者仲間だった共同通信の福山正喜さんはその後、社長(2013~18年)になりましたね。産経は後に社長(2011~17年)になる熊坂隆光記者がいましたね。その後、中曽根派担当で一緒で仲良くしました。

 政治部の記者はその後、社内でトップに上り詰める人が多いですね、各社とも。やはり菅総理ではないですが「総合的・俯瞰的」にモノを見る目が自然と養われ、社内の派閥抗争も自民党のそれに比べれば赤子の手をひねるようなもんだったかもしれません(笑)。

◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく

 ぼくといっしょに番記者をしていた毎日の記者は、支局から上がってきた若いⅠ記者と、後にセブン&アイ・ホールディングスの常務になる稲岡稔さんの3人だったように思います。3人でローテーション組んでいたように思います。

 昔の官邸の入口のすぐ脇に、通称番小屋というのがありました。10畳もないくらいの広さの部屋でソファーが2つくらい置いてありました。そこに各社のみんなが詰めているわけです。担当ではないときには、番記者が持つことになっている内閣府、官房副長官などのところに行くわけです。時間があれば首相官邸前にある「国会記者会館」の毎日新聞の部屋に行って先輩記者の話を聞いたりしていました。思い出しましたがその一階に喫茶店があって、そこに当時はやりのコンピューター・ゲームの走りの“インベーダーゲーム”機があってよく遊びましたね(笑)。

 番記者は官邸記者クラブに属しているわけですが、このクラブには官邸キャップの下に名簿上は数十人いたと思います。総理会見には経済、社会部などからも出ることがありますから、そのくらいの数になりますね。常駐記者は10人くらいはいたんではないでしょうか。官邸内にチョットした学校の体育館並のデカいスペースの「官邸記者クラブ」の看板を掲げた部屋がありました。

 このほかに自民党担当の「平河クラブ」、野党担当の「野党クラブ」があって、これに外務省担当の「霞クラブ」というのが、さしずめ四大クラブという感じでした。他には厚生省、労働省、自治省などのクラブが政治部の担当でした。ただ政治部の主流はこの四大クラブで、ここのキャップを幾つかやっていなくては部長にはなれない、という暗黙の了解があったように思います。「平河クラブ」には、党内の各派閥、当時は福田派、大平派、田中派、中曽根派、三木派などの各派閥担当がいました。いわゆる派閥記者ですね。やはり福田、大平、田中派担当が幅をきかせていましたね。

 番記者を上がると、こういったクラブに所属するわけです。

 番記者というのは番小屋に詰めてて、黒板にその日の総理の概略の日程が張り出されのを見て、朝8時頃に総理が車から降りて官邸入りすれば、二階の執務室の前まで付いて行くわけです。テレビ各社も入れて十数人で取り囲んで、組閣の時、新内閣の閣僚がひな壇のように並んで写真を撮る、議員あこがれの階段を上がるわけです。なにせ数分、二三分位だったでしょうから、質問内容を事前に各社で打ち合わせていたと思いますが、「今日のご日程に〇〇さんに会われるというのが入っていますが何のお話するのですか?」とかいうように質問したりします。あるいは他社の特ダネ「今朝の〇〇新聞の記事はどうなんですか?」なんて聞くわけです。(以下略)

2021年6月1日

フクロウの森から <前略。このほど、毎日新聞社を退社しました>と 萩尾信也さんの挨拶状

昨年の春にかの地に先立たれたCWニコル大兄が眠る信州信濃町のアファンの森で、1週間ほど前から山小屋に泊まりながら山仕事の手伝いをしています。氏と四万十川や北極圏を旅し、グラスを手に語り明かした日々は至福の時間でした。写真は、この春に森で生まれたフクロウです。樹幹の間に見つけ、シャッターを押しました

 <最後まで記者を続けることが出来たのは、おおらかな社風と個性豊かな先輩と、多彩な同僚諸氏、取材を通して知己を得た方々のおかげです。この場を借りて、御礼申し上げます。

 思い起こせば、入社試験の面接で「取り組みたいテーマはありますか?」と問われ、臆面もなく「人という存在と、心という迷宮を探検したい」と答えました。

 42年間の記者生活を経て、いまだ迷路にはまり込んだままです。探求の旅は、いのちの際まで続けたいと思います。

 やりたい事、行きたい所、会いたい人は、数え切れません。身の丈に合わせて、ぼちぼち歩いて行くつもりです。どこかで姿を見かけたら、声を掛けてください>

 退職の挨拶状を方々にお送りしたら、社会部の先輩から「毎友会のホームページに載せてもいいかな。加筆してくれる?」と電話がありました。

 この期に及んで、私事をさらすことに躊躇しましたが、お世話になった方々の顔を浮かべながら、パソコンに向かいました。御笑読いただければ、幸いです。

*     *     *

 入社したのは、高度経済成長とバブル期の谷間にある1980年の春でした。同期は40人ほどいたでしょうか。

 経済白書が「戦後の終焉」を告げた時代に生まれ、空き地でチャンバラや三角ベースボールに興じ、テレビが我が家に来た日のことを、子ども心に記憶する「三丁目の夕日」の世代です。

 記者になった年の夏には、ソ連のアフガン侵攻に抗議して日米を含む67カ国がモスクワ五輪をボイコットし、年の瀬にはジョン・レノンが凶弾に倒れました。

その3年前には、経営が破綻した毎日新聞は、「新旧分離」で存続を図っています。記者の募集要項から「大卒以上」の条件を外し、「学歴不問」としたのも、再建への様々な試みのひとつでした。

 結果、同期には高卒や大学中退者が並び、「学力不問の80組」と呼ばれました。大学在籍中に計2年に渡って南米やアフリカを放浪していた私も、紛れ込むことが出来ました。

 当時の早稲田は、代返やレポートで単位をもらえる寛容な空気に満ちていました。その恩恵で、私は世界に飛び出し、多様な文化や価値観に接することが出来ました。

 履歴書の書き方も知らず、特技には「逃げ足が速い」、得意語学は「言葉の通じない民族との会話の仕方」と記入しました。役員面接では、ライオンやクマに遭遇した時の処し方、砂漠で暮らす裸族の娘に求愛したい一心で未知の言語に挑んだ体験を話しました。

 アポなしで早稲田の総長室を訪ねたのは、一次試験(学科と作文)パスの連絡があった翌日です。当時の新聞社の入社試験は、11月でした。

 「せっかくのチャンスを、ものにしたい」。思案の末に、「総長の推薦状をもらおう」と思い立ち、ダメ元でドアをノックしました。

 「推薦状を書いていただけないでしょうか」「‥‥‥」「室長、前例はありますか?」「聞いたこともありません」「前例を作っていただけないでしょうか」

 清水司総長や総長室長とこんなやり取りがあり、1時間後に総長直筆の推薦状を手に、竹橋の本社の人事部を訪ねました。

 そして、さらに1時間後。私は、推薦状を持ったまま、総長室で頭を下げていました。「申し訳ありません。社長の名前を間違えてしまいました」

 毎日は、平岡敏男社長でした。「としおのとしは、どっちかな」「俊敏の俊です」。総長の質問に、答えたのは私です。

 「君、記者に向いていませんね。でも、このままにしておくのは、平岡さんに失礼だしな‥‥」。総長は頭を振って、もう一度筆を手にし、私は書き直して頂いた推薦状を持って、いま一度、人事部を訪ねました。

 余談ですが、社会部の先輩の佐藤健さんの「生きる者の記録」が、2003年の早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した際に、私は故人の名代で授賞式に臨みました。

 授賞式の後に、肩をたたかれて振り向くと総長室長の顔があり、こんな言葉が続きました。「字は間違えたけど、毎日が採用したのは間違ってなかったようだね」

 初任地は、群馬県の前橋支局でした。大学の後輩が調達してきた軽トラの荷台に布団袋と着替えや洗面道具を詰め込んだリュックを積み、支局の3階にある支局長宅の空き部屋に荷を解きました。

 「親と上司は選べない」。支局の先輩に教わった教訓です。当時の湯沢支局長と寺田デスクは、今でも同人に語り継がれる名コンビで、支局は活気に満ちていました。

 支局長の手料理に、バス・トイレ付。快適さにそのまま居ついてしまい、先輩たちに「アパートを探せ」とせかされるまで、2カ月近くお世話になりました。

 支局には、通信部やパンチャーさんや運転手さんを加えて、20人近くが在籍していました。新旧分離に伴う人事の滞留で7年生もおり、地元紙とも渡りあえる顔ぶれでした。

 通信部は、土地に根付いたベテラン揃いで、事あるたびに通信部に泊まり込んで、取材のいろはを教わりました。奥さんの手料理は、遠慮なくおかわりしました。

 沼田通信部の佐藤和昭さんは顔が広く、尾瀬や谷川岳の連載記事では、山の人脈をつないで頂きました。山岳遭難が発生すると、東京本社の屋上にあった鳩小屋から、「鳩係」が伝書鳩を運んできた時代の証人でもありました。

 捜索隊に同行して現場に向かい、小さな字で原稿をつづった紙片を鳩の脚管に入れて、放ったそうです。「東京の本社の屋上に鳩小屋があってね。うちの鳩は、他社の鳩を引き連れて帰ってくるのさ。だから、一報は毎日の圧勝だ。降版した後に、『おたくの鳩が来ていますよ』って電話したよ」

 佐藤さんは2年前に亡くなり、沼田の家に焼香にうかがいました。

 5年間の支局暮らしを経て、東京社会部に異動になりました。サツ回りで下町を担当し、月に3度は泊まりで社に上がりました。

 最終版が降版すると、テーブルを囲んで深夜の酒盛の開宴です。そのうち、政治部や外信部や運動部の猛者が顔を出し、口角泡を飛ばして論争が始まりました。

 記事の扱いから世界情勢や社会風俗に至るまで話題は尽きず、明け方まで続くこともありました。個性的なメンツがそろい、風通しのよい社風を肌で感じました。

 日航ジャンボ機墜落事故が起きたのは、その夏です。リュックに登山道具を入れて社に上がり、遊軍長に「上野村は、私のショバです」と現場取材を志願しました。ホバリングするヘリから現場の尾根に飛び降り、野宿をしながら取材を続けました。

 乗客のご家族たちとは、今でもお付き合いを頂いており、多くの学びや気づきを得ました。日航機事故に限らず、取材先で出会った方々に結んでいただいた縁は、記者人生の最大の財産となりました。

 バンコク支局で過ごした3年と、甲府のデスクを務めた1年半、サンデー毎日で副編集長を務めた1年半を除き、東京本社の社会部で記者を続けました。「本籍は」と問われれば、迷うことなく「東京社会部」と答えます。

 先輩諸氏から授かった「記者の流儀」も数え切れません。

 「群れるな。君は、かもめのジョナサンになれ」。入社に際して、社会部OBの山崎宗次さんから頂いた言葉です。

 群れを離れて、飛ぶことを探求した孤高のカモメの寓話でした。山崎さんには、入社試験の前に2カ月ほど作文の指導を受けました。

 「警視庁をやってみるかい」。サツ回りの終盤に、山本祐司部長から打診を受けました。

 「クエスチョンマーク付きですか」「そうだね」「ノーで、お願いできますか」。この顛末が部内に伝わり、顰蹙を買いましたが、部長は遊軍の一員に加えてくれました。

 「まずは1年、やってみることだ。チャンスを生かすも殺すも、自分次第だよ。自由にさせてもらうというのは、そういう事だよ」。牛のようなその風貌とともに、忘れがたい言葉です。

 「記者の醍醐味は、異なる文化や物差しに遭遇することかな。自分の価値観が崩れるのはショックだけど、新しい風景が見えてくるこがある。その感受性を失ったら、脳みそが固くなった時だよ。潔く一線から退いて、後進を育てた方がいい」

 バンコク支局とプノンペン支局でお世話になった草野靖夫支局長からは、こんな薫陶を受けました。インドシナ紛争の残り火がくすぶる時代に、御一緒した3年間は、熱く、刺激的な毎日でした。

 「クサノさ~ん」。蒸したての中華饅頭のような顔を見つけると、屋台のおばさんやゴーゴーバーのお姉さんから、政財界の顔役や東南アジア各国のジャーナリストに至るまで、親しげに声を掛けてきました。退社後、インドネシアで邦字紙の編集長を務められ、その門下生が毎日を含む多くの新聞社で活躍しています。

 「一緒に三途の川を渡ろう」「いいえ、途中までは同行しますが、僕は途中で帰ります」。遊軍記者の大先輩である佐藤健さんとは、「生きる者の記録」の連載を始める前に、こんな会話がありました。

 「人間ってやつは実におもしろい。人の数だけ生老病死の物語がある」。自らの死出の軌跡もルポする「生涯一記者」の先達でした。

 「最期まで、目をそらすなよ」「望むところです」。意識を失われた後、聴診器で心音を聞き、瞳孔を見続けました。気が付けば、とうに健さんの享年を超えてしまいました。

 「お前は、会社に足を向けて寝られないな」。同期入社の仲間に繰り返し言われた言葉です。自由に飛び回ることが出来たのは、社の経営や後進の育成に携わって頂いた先輩や同僚諸氏のおかげです。

 最後の取材現場は、東日本大震災から10年を迎えた東北の沿岸部となりました。

 震災の年に、1年間に渡って被災地から記事を送り続けた私は、再訪の地で、地元の方々に固有名詞で記憶されている毎日の記者がたくさんいることを知り、誇らしく思いました。

 記者と取材対象という関係を超えて、家に泊まり込み、胸襟を開いて、絆を育み続ける後輩たちです。その数は、朝日やNHKや共同を凌駕していました。

 そんな現役諸氏のさらなる健闘を祈念しつつ、老兵は去り時を自覚しました。

 寂しさとは無縁の、清々しい思いです。社を去っても、「記者」という生き方は骨の髄まで染みついています。

 お世話になりました。今後も、末永いお付き合いを頂ければ、幸いです。

 <略歴>1980年春、毎日新聞入社。前橋支局、東京社会部、バンコク支局兼プノンペン支局。外信部副部長、サンデー毎日副編集長、東京社会部編集委員などを経て、2015年6月~21年3月末まで東京社会部専門編集委員。現・毎日新聞客員編集委員。

【退任挨拶状には、次のくだりも】これから夏場は、少年時代を過ごした岩手県釜石市で、友人が経営するシーカヤックの店「MESA」のツアーを手伝いながら、イワナ釣りや山登りを満喫するつもりです。地元の仲間たちと、忘れ去られつつある三陸の人々の営みや文化風俗の掘り起こしもしたいと思います。MESAは、海辺にあるこじゃれた店です。震災で流され、昨春、再建されました。2段ベッドに宿泊も出来ます。遊びに来てください。

2021年5月31日

元「サン写真新聞」中森康友さんからの便り

 元スポニチ編集委員のジャーナリスト・中森康友さん(ことし86歳)から、スポニチ紙面添付のメールが届いた。

 中森さんは、1946年に創刊した「サン写真新聞」に入社、その後スポニチに移り、ボウリング担当を長く続けた。

 《変種株コロナ禍のさなか、お元気でお過ごしですか。ワクチン接種に望みをかけて一日も早い収束を願う日々です。ご自愛ください。

 女子ボウリング界の隆盛に活躍されたプロボウラーの女王、須田開代子さんが逝かれて今年で26年になります。

 今朝のスポニチ紙面に連載企画“ヒーロー巡礼「ありがとう」を伝えに…“で須田開代子さんが取り上げられました。

 かつてのボウリング担当記者として改めて故人のご冥福をお祈りし掲載記事をお届けします。一人息子さんの近況にも触れられています》

(堤  哲)

2021年5月19日

奈良本英佑さんがFacebookに写真を何枚も添え、投稿しています

 5月14日の追加情報です。

 イスラエル大使館へ、デモ隊の行く手を遮ったのは警察官だった。

 奈良本さんは、こう書いています。

 「麴町警察署の警官は、イスラエル大使館のお雇い警備員でしょうか。数年前は、こんなことはなかった。2014年5月にイスラエルのネタニヤフ首相が来日、両国間の「軍事協力協定」ともいうべきものが成立して後だと記憶しています。こんな役割をさせられる警官も気の毒です」

(堤  哲)

2021年5月18日

大阪社会部旧友、奈良本英佑さん(79歳)がガザ支援のデモに

集会で挨拶する奈良本さん(右端)

 イスラエルによるガザ地区への空爆が続いているが、それに抗議するデモ隊に大阪社会部旧友・奈良本英佑さん(79歳)の姿があった。

 5月14日(土)午後3時半過ぎ、東京メトロ有楽町線麴町駅近くの旧日本テレビ本社ビル跡前の交差点。デモ隊は、近くの在日イスラエル大使館を目指したが、警備の警察官に阻まれ、集会になったとみられる。

 「ガザへの攻撃をやめろ」「殺すな」
 「Stop War」「Stop Killing」
 「SAVE GAZA」「Free Palestine」

 手に手にプラカードを持ったデモ隊は50人ほどだ。

 奈良本さんは、法政大学名誉教授。中東問題の専門家で、『14歳からのパレスチナ問題—これだけは知っておきたいパレスチナ・イスラエルの120年』(合同出版2017年刊)の著書がある。

 同書の著者プロフィールによると、1965年から80年まで毎日新聞記者。退職後、プリンストン大学で中東史を専攻、1984年修士課程修了。独協大学非常勤講師などを経て、1991年から2012年まで法政大学教員。主な著書に『パレスチナの歴史』(明石書店2005年刊)、翻訳書は、G.H.ジャンセン『シオニズム—イスラエルとアジア・ナショナリズム』(第三書館)、Y.ハルカビ『イスラエル・運命の刻』(第三書館)など。

 奈良本さんは、大阪社会部の吹田通信部員だったことがある。通信部は、北千里の毎日新聞独身寮の1階にあって、私は大阪社会部に転勤になって、この独身寮に住んでいた。通信部からよくピアノの音が流れた。ピアノは独身寮の備品とは思われないので、奈良本さん自身が持ち込んだものと思う。休みに通信部を訪ねると、美味しい紅茶を入れてくれた。京都生まれの穏やかな趣味人という感じだった。お父さんは歴史学者の奈良本辰也さんである。

 大阪社会部の同期は、北村正任、田中良太、鳥越俊太郎、藤田修二、亘英太郎、高山義憲、葛西進司、高橋裕夫、山崎貞一らである。

 連帯の挨拶に立った奈良本さんは、パレスチナの歴史を述べたあと、「イスラエルはガザ地区への攻撃をやめるよう」強く訴えた。

 現地時間で翌15日は、イスラエルの建国でパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大破局)の日」にあたり、世界各地で抗議行動が行われる、と司会者が紹介した。

(堤  哲)

2021年5月9日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑫ ある新聞記者の歩み ⑪トマトから鉄鋼まで 自由な社風のもとでのびのび取材 抜粋

(インタビューは校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、入社後約5年間水戸支局に勤め、そのあと28歳で経済部に配属となりました。政治部に移るのが35歳のときですが、その間8ヶ月ほど語学留学で英国に行ったので、経済部生活は実質6年強ということになります。佐々木さんの新聞記者としての骨格がこの6年間でできた印象を持ちます。後年また経済部に戻ってきますが、今回は第1次経済部時代のしめくくりです。

目次

経済部時代(7)

◆「冬のトマトは石油のかたまり」
◆部会では自由に発言 時には激論 
◆社説は特に意識になし
◆「重工記者クラブ」配属 春闘取材の相手から飲まされて
◆「鉄は国家なり」鉄がいちばんエライ時代
◆経営者の運と不運をまのあたりに

経済部時代(7)

◆「冬のトマトは石油のかたまり」

Q.ところで、『当世物価百態』(毎日新聞経済部編、1976年1月20日発行)という本が、佐々木さんが英国留学に行く同じ頃に出ていますね。佐々木さんが書かれたと以前伺ったトマトの話がトップに載っていて、たいへんおもしろかったです。「冬のトマトは石油のかたまり」なんてのは、いい表現ですよね。70の品目ごとに書かれているんですね。

 トマトって調べてみたらおもしろかったんですよ。ほかにもいくつか書いていると思うんだけど、どれだったかなあ・・・。これは当時の経済部長の西和夫さんが、ゴーサインを出した企画だったと思います。東大経済学部出身のシャープなセンスを持った人で、後に編集局長になります。第一次石油ショックがもたらした“狂乱物価”が落ち着いて、ようやく世界経済が景気回復への軌道に乗った時期、物価を鳥の目ではなく、虫の目でみてみようという発想でスタートしたと思います。 今この本を見ると「生鮮食品」にトマト、サンマ。「加工食品」にたくあん、インスタントラーメン。背広などの「衣料品」、ラジオ、大工の手間賃などの「家具、住居関係」など本当に雑多な商品が扱われていて驚きます。今の各社の経済面を見ても、こういうセンスの企画はないように思いますね。今は生活家庭部の守備範囲になるんですかね。でも今読んでも面白い企画ですね。

Q.いまだったら書いた人の署名が入るからわかるんですけど、個人名は入ってないですね。

 当時は記者名を入れていませんでしたね。だから記者個人がキチンとスクラップしなくてはいけないんでしょうが‐‐‐、ズボラだからやってないんだよね(笑)。この「トマト」の記事には思い出があって、フジテレビのアナウンサーで有名だった田丸美寿々さんと結婚した、商社問題に強かったフリー・ジャーナリストの美里泰伸さんが丸紅の広報室に行ったとき出会って、「佐々木さんが書いたトマトの原稿面白かった」とほめてくれたことを思い出します。

Q.経済部長の西和夫さんのお名前だけは代表として入っていますね。

 西さんは最近亡くなりました。90歳くらいだったと思いますが、最期までしっかりなさってました。横浜にお住まいで、時々、東京に出て来られてはご一緒に飲みました。でも彼は「佐々木君は会社を辞めてから活躍している。原稿も上手くなった」と、当方が2018年出版したノンフィクション「封印された殉教」(上下巻、フリープレス刊)などをほめてくれました。嬉しかったナ。出来たら現役の頃、ほめてもらえればよかったんですが(笑)

この『当世物価百態』の各項目の最後に「格言」が出てるでしょ?

Q.出てますね。トマトのところは「どんな虫けらだって、踏みつけられりゃ、何を!というかっこうをするものだ セルバンテス」とあります。

 こういうのを入れようっていうのは、ぼくが考えたんだと思うんだけど・・・。「馬鹿野郎、違うぞ」って言われるかもしれないけど、当時、なんかこういう格言使うのが好きだったんですよ。わざわざ「世界の名文句引用事典」(自由国民社刊)なんて本を買い込んで読んだりしてましたから。

 ぼくは原稿あんまりうまくなかったんですが、認められたっていうのは、石油ショックのとき・・・いや、終わってからかなあ、あの前後に石油危機の検証みたいな原稿を書いたんですよ。4回か上中下だったか・・・。その原稿はすごく手法が新しかったのです。「情報」、「証言」、「検証」という項目を使って、こういう情報があります、たとえば「アラブの石油埋蔵量は40年と言われています」が、その「証言」はこうです。それを「検証」するとこうですという手法です。一回の連載に5本くらい「情報」、「証言」、「検証」を入れたかな。高度な分析原稿が下手だから苦し紛れに編み出した手法なんです。

 担当デスクなんかに、「新しい手法だ。すごくおもしろい」って、ほめられた覚えがあります。それを読んだ週刊東洋経済に原稿書いてくれって言われたので、同じパターンではよくないと思って、普通の原稿で書いたら、その後、注文が来なくなっちゃいました(笑)。

◆部会では自由に発言 時には激論 

 毎日の経済部は自由に書かせるというか、新しい角度で書かせることについては臆病ではなかったですね。おもしろいからやろうかって。

Q.『当世物価百態』の前書きには1975年7月から毎週4回、約4ヶ月連載されたとあるので、貿易記者クラブの頃ですか?

 そうそう、商社担当の頃ですね。当時、経済面に加えて新経面(新経済面)というのができて間がない頃でした。他社に先がけて実体経済っていうのは民間にありというので作られました。日経産業新聞なんかもそういう流れの中で登場したということだと思います。

Q.年表を見ると日経産業新聞、1973年創刊ですね。

なるほど、少し早いですね。新経面は、ぼくが経済部に来る前の年にできたと思います。

Q.経済部は部会なんかはどんな風にやっていたのですか。

 経済部は官庁担当と民間経済担当が別々に部会をやってました。民間部会は、10時からだったかな。大手町ビルの自動車工業会の会議室を借りてやりました。そこでこの週のできごとだとか、企画記事などを出し合ってました。でも途中から工業会の会議室が使えなくなり、本社の会議室になった記憶があります。

Q.パレスサイドビルの本社でやるっていう発想はないんですか?

 やっぱり取材現場に近いからですね。経団連会館とか歩いて5分もかからないでしょ。

Q.パレスサイトビルには、経済部在籍中はあまり縁がなかったということですか?

 いやそうではなく、原稿は所属のクラブから本社に送るわけで、その掲載の確認のためにほとんど毎日、本社に上がって、刷り上がりを点検します。普通のサラリーマンと違って、朝は担当の記者クラブ、霞が関(官庁)、大手町界隈(民間)に“出勤”、夜遅く会社に上がるというパターンですね。

 ただ月に1回の経済部の全体部会はありましたね。夜8時位からの開催ではなかったかな。パレスサイドビル4階の編集局の会議室でした。そのときに民間担当と官庁担当キャップが、来月はこうなりそうだとか話をして、部長が編集局の方針など、いろんなことを話したりしました。海外取材帰りの人からの土産の酒も入りますから、そこで大議論をしたりして、忖度なし、言いたいことは言いましたね。転勤などがある際は本人の挨拶と、出席者全員からのはなむけの言葉が述べられたりして、結構、時間がかかって、終わるとビルの裏口に出ている屋台のラーメン屋で良く飲みました。

Q.部会で意見が分かれるようなテーマって、たとえばどんなことですか?

 ぼくの時代は国債発行の限度額が確か30%を超えるか超えないかの議論があって、いかに政治からの圧力に歯止めをかけるかについて、大蔵省は財政健全化一本ヤリ、国債増発絶対反対。だからそういうことについての議論がありました。また当時の内閣は自民党リベラル派の三木内閣、東京には革新の美濃部知事、大阪は共産党推薦の黒田知事など革新自治体が続出する時代。談論風発、若い記者の意見を聞こうという感じが強かった気がします。

 それから石油ショックのときも、部会にはキャップが上がって現状説明をして、こういう方向に行くというような話をしたはずです。それでぼくの「情報」と「証言」、「検証」みたいな、今までにない企画をやらせよう、という話になったんではないかと思いますよ。こういう議論を受けて経済部長は、編集局長が開く局長会で局次長以下の編集幹部に説明、了解を受けていたと思います。

 (以下略)

2021年4月19日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑪ ある新聞記者の歩み ⑩抜粋

(インタビューは校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 現在は、ネットの発達とスマホの普及のもと、新聞というメディアの退潮が目立ちます。しかし、石油危機当時は、新聞がマスメディアの王者としてニュースの供給を圧倒的に担っていました。テレビも映像の力を発揮して成長しつつありましたが、信頼度という点では新聞が常にまさっていて、ジャーナリズムの中心的担い手でした。新聞記者の“酒とバラの日々”とでもいうのでしょうか。

目次

経済部時代(6)
◆現役記者との会話から
◆隔世の感!日経の「就職企業人気ランキング」の特集記事
◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・
◆砂漠の国と新緑の日本
◆中東のオアシス レバノン
◆中曽根さんの政治家としてのカン
◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も
◆得がたい記者仲間たち
◆記者にとって麻雀とは

Q.毎日新聞社という企業体は(新旧分離という)苦難にぶつかったわけですが、メディアとしての新聞は全盛期だったわけで、その時代を経験された記者のオーラルヒストリーを記録しておくのは、時代の証言としておおいに価値があると思います。そこで少々趣向を変えて、取材にまつわるこぼれ話などいかがでしょうか?

◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・

 1974年1月7日に当時の中曽根康弘通産相がイラン、イラク、アブダビ(現アラブ首長国連邦)を訪問します。その時、同行取材をした話はすでに第6回で話しましたよね。その前年の73年10月6日に第四次中東戦争を契機として、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が消費国に供給制限をかけ、反イスラエル・パレスチナ支持を条件に、石油供給の段階的制限を打ち出します。

 石油危機の勃発です。日本経済はパニックに状態となり、“アブラ乞い外交”と揶揄されながら、12月に三木前首相がサウジアラビアなどを訪問、中曽根通産相も、1月早々に旅立つわけです。日本国内では原油を燃やす火力発電が主流だった電力供給体制でしたから、大変です。電力供給制限が発令されるなどの緊迫した状況下、三ヶ国を訪問して、日本政府がパレスチナへの理解を示していることを表明、18日に帰国しました。

 私は帰らずにテヘランからレバノンのベイルートに移り、「無資源国日本の危機」をテーマとする1面連載企画の取材のため、サウジアラビア、クエート、アブダビの現地取材に出かけました。ベイルートに拠点を置いて風呂敷一つに取材用具を入れて飛び回った記憶があります。そのときに第1回目か2回目の記事を書きました。1面の左上で連載したかなり大きい企画でした。とにかく“産業のコメ”といわれた石油が来なくなるというので、狂乱物価といわれ、物価がほぼ3倍になって日本経済を揺さぶっていました。

出所)『証言第一次石油危機』(社)日本電気協会新聞、1991年

 でもサウジアラビアなどの産油国に行くと、国中のんびりした様子。石油危機とは程遠い状況。産油国と消費国というポジションを考えれば当たり前なんですが、そのギャップに驚きました。

 思い出すエピソードがあります。首都リアドで東京で紹介状をもらっていた、三菱商事、伊藤忠、丸紅などの現地駐在員に会うと、「市内でタクシーに乗る時はよく気をつけろ」と言われましたよ。運転手が、日本人男性を見ると助手席に座れと言うんだそうです。

 サウジでは結婚の際、男性が女性の家に大金を払うんだそうです。お金がないと女性と結婚することができないんです。タクシー運転手はそういう経済的余裕がないので、同性愛が多いんだというんですね。それで助手席に座るとさわられると言われました(笑)。

 「佐々木さんは色白だから気をつけた方がいいよ!」(笑)

 そんなおかしな話が交わされるほどのどかでした。被害には会いませんでしたが(笑)。

◆砂漠の国と新緑の日本

 当時、三菱商事がリアド郊外で石油化学工場の建築工事をやっていたので訪ねました。とにかく日本人男性だけで20人はいたでしょうか。酒は飲めず、女性の事務員がいるわけでもない索漠とした、周りは緑のない全くの“砂漠の飯場”だったことを憶えています。とてもここには長期滞在はできないなと思い、商社マンってえらいな!と思いましたね。

 日本に帰ってからその話を確か第5回に書いた、右翼の資源派フィクサーといわれた田中清玄さんにしたことがあります。そうしたら、田中さんが以前サウジの王族を5月の新緑の時期に、箱根に招待したことがあるんだそうです。その時、その王族がホテルの部屋から見える新緑に見惚れて立ち尽くしていたとか。「砂漠の国からきて新緑の美しさに感動していたんだね。その心中を考えると声をかけられなかった」という話を聞いたことがあります。本当に日本は四季に恵まれた“美しい国”だと思いますね。

◆中東のオアシス レバノン

 この当時、レバノン・ベイルートは中東のオアシスでした。旧フランス植民地でイスラム教のスンニ派、シーア派が共存し、キリスト教もカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教などが共存してモザイク国家といわれていました。バランスよく政治的にも安定したいたようです。町並みはヨーロッパ風、アラブ風の衣装を着ている人も少なく、切れ長の目をした先端のパリモードを着こなした美人が多く、“中東のパリ”また“中東のオアシス”とも言われていました。地中海に面して気候も良く、食い物もおいしくて、私は海外で「また行きたいところはどこか?」と」言われれば、間違いなく「あの当時のベイルート」といいますね。

 しかし訪れた翌年の1975年には、この政治的バランスが崩れます。石油危機をきっかけとした中東紛争に巻き込まれ、内戦が始まり、見る影もなく市内は破壊されたようです。ようやく落ち着いてきたと思ったら昨年、ベイルート港で大爆発が起きて混乱が収まらないようです。日産のレバノン出身のゴーン元社長がここに逃げましたが、彼はここの生まれですから昔の思い出があるんでしょうかね。

 当時、サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦とか、厳しいイスラム教の戒律の国の金持ちは、休暇のときはレバノンに来て羽を伸ばして遊んでいたといわれていました。日本料理店も2軒くらいありました。地中海の海岸沿いのPigeon Cliff(鳩のがけ)といったかな、そこに日本料理屋と地中海料理屋があって通いました。

◆中曽根さんの政治家としてのカン

Q.中曽根さんは石油危機の前の年に中東を訪問しているのですね。

 石油危機の半年前の1973(昭和48)年5月の連休中に、イラン、イラク、サウジアラビア、アブダビ、クウエートに行ってます。全部国王などの元首に会っているんです。そのルートが、翌年行く時に生きるのです。当時、ぼくの通産省時代のキャップだった山田尚宏記者(後・経済部長)が同行したのですが、イランのパーレビ―国王に単独会見したことを覚えています。

Q.そのとき中曽根さんは“石油ショック”の到来を、察知していなかったわけですよね?

 そうです。だけど、彼の勘というのは、政治家としてやっぱりすごいですね。当時日本のエネルギーの80%は中東からの石油輸入に依存していたんです。イランからは37.3%、サウジアラビアは16.7%という具合でした。「民族の興亡は石油外交の成否に」と帰国後の「エコノミスト」誌(毎日新聞社発行)の73年6月19日号で語っています。 中曽根さんは、戦争中、海軍主計学校卒業後、海軍中尉としてインドネシアなんかに行ってるから、石油がなくて日本がたいへんだったということは身に染みて知ってるわけです。“無資源国・日本”という安全保障上の基本ポジションを押さえていたと言えます。

 わたしはその4年後の1977年に政治部に異動になり中曽根派担当になるんです。ある時、二人だけの時、中曽根さんに「あのとき中曽根さんはアラブによく行かれましたね?アメリカのキッシンジャー大統領補佐官などから日米同盟の枠の中で動けと言われていたのに、独自の対アラブ寄り外交を展開できたのですね。外務省の抵抗もすごかったと聞いています」という質問をしたことがあるんです。

 中曽根さんは「1970年代は戦後の第一ラウンドが終わって第二ラウンドが始まったところ。経済大国となった日本は、アメリカ中心という外交第一ラウンドから次の30年間を持ちこたえなくてはならない。そのため無資源国・日本が生きていく上にアラブ産油国の重要性を考えなくてはいけない。日本がこれから30年間持ちこたえるだけの外交姿勢に修正していかなくては―そう考えて取り組んだんだ」と語っていました。日本の安全保障の基点に“無資源国”というのがあるんだというわけです。その石油の替わりが原子力発電だったわけです。イヤー中々すごいなーと思いました。でもそれも限界に来ていますね。

◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も

Q.当時の取材競争の中で、他社というのはどれだけ意識していたのでしょうか?

 日経はなんとなく違う感じでしたね。通産省の記者クラブにも、5人か6人くらい配属されていたんじゃないかなあ。だいたいほかの社は2~3人なんですが。日経は「日経少年探偵団」なんて言われていました。我々は入社後、4,5年地方支局に行って本社に上がってきているんです。日経の場合、そもそも支局は一人支局で、新人の支局勤務がないんです。入社直後の学生気分が抜けていない、われわれの立場からいえば、彼らにとって通産省が記者として最初の“サツ回り”の感じではなかったかなー。我々の仲間よりも5歳から10歳の下の記者が多かった。

 だから彼らを率いるキャップも、新人教育が大変で他社の記者と付き合う暇がない様な感じでしたね。日経は若い記者が通産省の中の各局を分担していたんじゃないかな―。記者クラブでは、キャップの指揮下になんとなく固まって動いていたのに対して、我々はいい大人の気分で、一人一人それぞれという感じが強かったと思います。

 ただ当時の日経のキャップは後に経済部長、編集局長、副社長になる新井淳一さん。僕と同年代ですが、後年、財界人との勉強会などで一緒になり親しくさせていただきました。でも通産省記者クラブでは、こちらはヒラで新井さんはキャップ。もっぱら当社のキャップの山田さんが「新井ちゃん」という感じで、親しくしていたと思います。ちょう・まい・よみ(朝日、毎日、読売)と産経、共同、時事の記者は、年齢的に近いということもあって、割と仲がよかったです。とはいえ、競争は競争として当然ありました。

◆得がたい記者仲間たち

 他社の記者で思い出すのは、やっぱり今や評論家としても著名な朝日の船橋洋一さん(後同社主筆、現アジアパシフィック・イニシアティブ理事長)、読売の中村仁さん(後・経済部長、読売新聞大阪本社社長)、産経新聞の美濃武正さん、共同通信の米倉久邦さん(後・経済部長、論説委員長)、NHKの中村侃さん(後・報道局総務部長、アナウンス室長)だとかについては、何を取材してるのかなとか意識していたですね。このメンバーとは通産省クラブを出てからも、定期的に当時の通産省幹部と“割り勘”での定期会合をやってました。幹部の方が亡くなって自然消滅しましたけど懐かしいですね。

 記者仲間では、特に朝日の船橋君は、かれはそう思っていなかったかもしれませんが当方は一番のライバルと思っていました。本当にコマ鼠のようによく省内を回って特ダネを書いていました。石油危機の時も「後楽園(現東京ドーム)のナイターの火が消える」とか、「自衛隊の空の演習中止」など一面ものの特ダネをよく抜かれました。彼は、熊本支局で、毎日の政治部出身で後年、TBSのニュースキャスターとして有名になる故・岸井成格君と一緒でした。そこでアメリカ人の奥さんをもらうのです。

 おかしいのは朝日のクラブのデスクは毎日と隣り合わせなんです。他社の電話には出ないのがマナーなんですが、ある時、あんまりうるさいんで出たら英語なまりの日本語で「ヨウイチはヨマワリですか?」「そうです」と答えてガチャンと切ったことありました(笑)。 でも彼は仁義に厚い男で、後年サントリー学芸賞を受賞した「内部」、吉野作造賞の「通貨烈烈」などの本を出すたびに自宅に送ってくれました。ぼくが、終戦3日後に射殺死体で見つかったカトリック神父・戸田帯刀師のことを書いたノンフィクション『封印された殉教』を出した時、「英語に訳してバチカンに送れ」という手紙をくれました。嬉しかったですね。

 共同通信の米倉久邦さんは、一橋大学名誉教授の米倉誠一郎さんとは親族。数年前、日大のアメフットボールの不祥事で記者会見の司会を日大広報部長としてやり、詰めかけた報道陣とケンカになり袋叩きになりました。記者時代と同じ態度でおかしかった。でも彼はナチュラリストで、自然を愛して森のこと、山のこと、本を何冊も出しています。素敵なロマンティストなんですよ。

 読売の中村仁さんは僕の高校の後輩なんですが、思い切りのいい、スパっとして切れのいい原稿を書いていましたね。今でもニュース解説的なブログをずっと書いているんです。先日「格安スマホ加入でドコモに怒り」というNTTドコモの格安スマホ「アハモ」の加入についての体験記を書いたところ、「年寄りがシステムを知らずに書くな」と大炎上。ネットで話題になりました。でも全然へこたれないで書き続けています。偉いと思います。 みんな年とっても頑張っています。

 産経の美濃さんはこういう仲間と、通産省の幹部との会合のセット役をやってくれていて本当に有難かったですね。確か東北の石巻の出身で3.11の時にお兄さんが亡くなられたという事で、当時の仲間に呼びかけて見舞金を送ったこともあります。ここ2,3年、携帯での連絡がつかなくなったんですね。どうされているか。

2021年3月18日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑩ ある新聞記者の歩み9

イギリス短期留学で人生のふくらみが増した

(インタビューは校條 諭さん)

全文はこちらで

短期留学の巻

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんからZoomでお話を聞くシリーズの第9回です。30代半ばにさしかかった佐々木さん、短期の語学留学を希望します。その頃は、毎日新聞の経営が厳しくなりつつある時期でしたが、会社はイギリスへの短期留学を認めてくれました。

◇結婚前に行っておこう

 ロッキード事件が1976年火を噴く以前の一時期、ぼくは外信部記者になりたいと思っていたことがあります。新聞記者になった以上、海外特派員ってあこがれじゃないですか。入社当時、大森実外信部長が「泥と炎のインドシナ」というベトナム戦争の現地ルポを連載して、外信記者も事件記者―というイメージが出てきました。一時は“外信記事は毎日”という時代もありました。でもぼくは英語は学生時代から得意なわけではないし、「オレは、ヘレンケラーだ(字も読めない、耳も聞こえない、しゃべれない―三重苦)」と威張っていました。でも本音は行きたかった。特派員の取材は現地で英字紙とラジオのBBC放送が頼りと聞いていました。当時、毎日新聞経済部はロンドン、ワシントン、ジャカルタなどに特派員を送っていました。ワシントン特派員から帰国間もないデスクだった歌川令三さん(後編集局長、取締役)のところに、「ニューズウイーク」や「タイム」のエネルギーや、中東問題の記事を自分なりに翻訳して読んでもらったこともあります。

 だから「Mainichi Daily News」(当時日刊の英文毎日新聞)を自宅で購読したりしましたが、ほとんど読んでいなかったですね(笑)。それを見て、独身で杉並の実家に住んでいましたから母から「もったいない」といわれました。自腹で払っているんですから文句をいわれる筋合いはないんですけど‐--(笑)当時、すでに34,5歳、独身で親からは「早く身を固めろ」と、やいのやいよいわれて何回も見合いもさせられました。ようやく話が決まり、婚約しました。75年の秋ですかね。一年後に結婚式ということになったんです。「英語を習得して特派員になれなかったら、海外生活を送るチャンスはい」と思い込んだんでしょうね。「今しかない‐‐‐」。思い返すと無茶苦茶ですね。(笑)

 Q.どんな学校なんですか?

◇リゾート地のボーンマスに

 ロンドンから汽車で南に下った、イギリス海峡に面した英国有数のリゾート地として知られるボーンマス(Bournemouth)というところがありました。日露戦争の講和条約“ポーツマス条約”の結ばれた日本でもなじみのあるポーツマスの上の方の港町です。そこに、世界各国からの留学生を受け入れる「ユーロセンター」というのがありました。毎日新聞社の子会社、毎日旅行社がそこに短期英語留学者を送り出すことをやってました。

 やはりイギリスは世界に強大な植民地を持っていたわけで、英語は「キングス・イングリッシュが正統派」というプライドがありますから、こういう語学学校が各地にあるようです。ヨーロッパ各地と南米、中東から英語圏の観光客を相手に商売をしようという若い人が多かったですね。大学卒はいなくて高卒の人が多かった感じでしたね。

 

 前から、英会話くらいできないとまずいぞという気持ちがあったわけで、それに毎日新聞が経営危機などという話も週刊誌にはしょっちゅう出ていて、いずれ大変な時期になるから、ある程度能力高めておかないとまずいということもあったのでしょう。確か1クール3ヶ月だったと思います。最初、ボーンマスで、そのあとロンドンに行って3ヶ月くらい通い授業を受けました。イギリスで過ごしたのは7,8ヶ月の短い間だったけど、この経験というのは、今から思うとすごく役立っています。ただ英語は全然ものにならなかったけど(笑)。

 Q.位置づけは、仕事ではなく、短期留学のようなものですか?

 そうです。給料の基本給部分は出ました。ありがたかったですね。商社担当の時、丸紅の専務だった伊藤宏という人のところにあいさつに行って、「毎日新聞、経営が大変だけど、社員をちゃんと育てるんだね」と言われました。まあ、自分が行きたいと言って行かしてもらっているだけなんだけど・・・。そういう見方があるんだと思いました。

 今読売新聞の科学部などの記者と付き合いがあるのですが、ほとんど在勤中、米国の大学などに、留学を経験していますね。その意味でスゴイですね。国際感覚を持つというのは、このグローバリズムの時代本当に大切と思います。今はコロナの時代で大変ですが---。

 注)伊藤宏 丸紅元専務。2001年死去。ロッキード事件で贈賄罪などに問われ、有罪が確定した。桧山広元丸紅会長(2000年死去、懲役2年6月)らと共謀して田中角栄元首相へ5億円のわいろを贈ったなどとして贈賄のほか外為法違反、議院証言法違反の罪に問われた。

◇大ニュースを背に“逃亡”

 Q.渡航費とか現地での宿泊費などは自前ですか?

 もちろん、そうです。毎日新聞に信用組合というのがあって、そこからお金を借りました。退職金に見合う額までは貸してくれる仕組みだったと思います。そこで目一杯借り込みました。ただラッキーだったのは、その頃の英国は経済的には“大英帝国の落日”といわれて、ポンド安・円高の時代でした。それまでは日本でのイメージとしては「一ポンド、千円」という感じでした。僕のいる間にそれが「1ポンド800円、700円」位まで円高になって、円の使い出が日増しに変わりましたね。お陰で英国名物のフィッシュ&チップスを普段は、一袋なのが、二袋買っても大丈夫、という感じで為替相場がこんなに実生活に影響があるんだと感じましたね。

 Q.でも事実上の倒産といわれた新旧分離が2年後ですね。それでも出してくれたんですね。いい会社でしたね(笑)

 そりゃあ、いい会社でしたよ。感謝してます。いまでも足向けて寝られませんね(笑)

 Q.短期留学は勤続年数には影響しないのですか?

 そのはずです。短期留学休職という名前だったかなあ・・・。ほかの人もそういうケースがあったように思います。特に外信部は中国特派員が香港の大学に行くとか・・・。いまでも思い出すけど、ロッキード事件のコーチャン(ロッキード社副会長)証言が2月にアメリカの上院の委員会で、日本の政界にロッキード社の飛行機を売るために巨額な賄賂をまいたと証言して大騒ぎになるでしょ。それを羽田で聞いて飛行機の中で新聞を読んだ覚えがあるんです。いわば敵前逃亡みたいなものでした。

 注)ロッキード事件 米国航空機メーカーのロッキード社が、エアバスを外国に売り込むために巨額のわいろを使ったとされた事件。日本では30億円以上が児玉誉士夫など右翼大物や商社、政府高官に流れたと言われる。経営が深刻化しつつあった毎日新聞だが、社会部を中心に特別取材班を組み紙面は活況を呈し、「ロッキードの毎日」と言われるほどの評価を得た。

 Q.大ニュースに背を向けて、英語の勉強に行っちゃうという・・・在勤中。

 そうそう(笑)。ホントなら羽田から引き返さなくては‐‐‐。見送りには経済部のデスクや今の女房も来てましたから、帰るに帰れない(笑)飛行機の中で村上武雄さんという東京ガスの社長に手紙を書きました。10月に結婚するので、仲人を引き受けてほしいと依頼したんですから、まあ図々しいですね。

◇角栄逮捕の記事をロンドンの公園で

 ロッキード事件で言えば、東京にいたら商社担当として夜討ち朝駆けをさせられた大変だった思います。経済部も大変だったわけで、本当に敵前逃亡だったと思います。今考えれば大分、恨まれたと思います。ぼくは、事件で逮捕される丸紅の桧山廣社長さんとか、専務の伊藤宏さんとかとはわりと仲良かったんですよ。同じく逮捕される専務の大久保利春さんという人は知らなかったですが。明治維新の立役者・大久保利通の孫で、ものすごく真面目な人だったという話です。伊藤さんというのは、人当たりのいい、面白い人でした。人なつこくキューピーさんのような感じで、好きな経営者の一人でしたね。事件前は、次の社長と言われていました。丸紅のビルは毎日新聞の入っているパレスサイドビルと通りを挟んで隣でしたから、時々パレスサイドビルの9階にある皇居を見晴らすアラスカで食事なんかしました。確か最後に1月中旬と思いますが、送別のご馳走だといって二人で食事をしました。そのときに、伊藤さんが、「ここで一番うまいのは何か知ってるか」と言いまして、「牛骨の髄のスープがうまい」と言うんですよ。ぼくは知らなかったなあ。向こうのおごりだったから、いくらくらいしたのかわからなかったですが、うまかったなー。でもロッキードのことはまったく出ませんでしたね。事件記者失格ですねー(笑)。

 ロッキード事件については、ボーンマスやロンドンで英字紙を逐一見てました。

 そのころは英語漬けでしたから割とすんなり英字紙が読めました。田中角栄逮捕のニュースは、学校近くのロンドンの小さな公園で、「The Times」の囲み解説記事で読んだ覚えがあります。

◇日本人の習性

 英国で面白かったのは、世界には人間がたくさんいるんだなということと、日本人はこうなんだというのがわかったことです。それはユーロセンターというところに行ったときのことで、最初の日に新入生のクラス分けの1時間の英語の能力をチェックする試験がありました。そうすると日本人は、試験となると必死になって向き合うじゃないですか。書いてて40分くらいたって教室を見回したら、各国からの40人位のうち残っているのは日本人だけだったんですよ。日本人は女7人、男3人の10人くらいだったような・・・。全員残ってました。要するにみんな必死になってたんです。少しでも上のクラスに行こうという思いなんでしょうね。でも英語を学びに来たんだから、少しでも下のほうがいいと思うんだけど、“受験、受験”の習性から抜けられないんですね(笑)。

◇「学校」の経験がないサウジ人

 たとえば、サウジアラビアから来た20前後の男性、アブドラといったかなー、学校に通った習慣がないようでした。家庭教師についてでも学んでいたんですかね。「学校」というシステム自体が、良くわかってないようでした。いいことだと思うんだけど、授業中に先生が説明している間に突然手を上げたりとか。全然授業に来なかったり、早引けして、他のサウジの連中とロンドンに遊びに行っちゃうとか。日本人の学校の感覚からするとハチャメチャでした。だけど、先生に指されるといっぱいしゃべるんです。ところが日本人は指されたら必死になって中学、高校で教わった英文法を間違わないように頭で考えて、「Because‐‐なんとか・・」とか言って(笑)。サウジの人は、文法お構いなし単語を並べ、10分も15分もしゃべるわけです。するとイギリス人の教師は「Yor are rubbish・・」「ゴミみたなこと言ってんじゃないの」っていうわけなんだけど、おかまいなしなんですよ。他人の迷惑なんて考えない、あの度胸はすごいですね。日本人はまねできない。不毛の砂漠で生き抜いてきた知恵なんでしょうかね。

◇ラテン語圏の人にはかなわない

 でもヨーロッパ圏の人には、英語の学習の習得のスピードはかなわないと、つくづく感じましたね。彼らは基本的に同じ民族から派生していると感じました。ドイツ人、フランス人とかスペイン人とかは、3ヶ月であっという間にうまくなる。我々新入生がロンドンからボーンマス駅に着いたときに、学校のバスが迎えに来ているんです。入学当時、駅に集合だったのですね。学校まで行くんだけど、フランスからきたものすごくかわいい女の子と隣り合わせて、僕はその気になって自己紹介をしたんですが、ところが、彼女一切英語わからないんです。それがなんとひと月かふた月たつだけで、もう我々なんかよりペラペラになってしまうんですよ。あれには驚いたな。

 ドイツ人も来てるんだけど、先生が英単語でいちばん長い名前は?というクイズで、20字か30字くらいの長い単語を黒板に書くんです。こちらはチンプンカンなわけです。ところがドイツ人の女の子なんか、この前半はラテン語でこうだから、ドイツ語でこうだから医学用語の多分これのことじゃないかとか言って、語学的な類推ができるわけです。ところが、我々日本人はまったくそういうのできないですよね。これはかなわんなと思いました。まあ、向こうはラテン語が元だからしかたないんですが。

 もうひとつびっくりしたのは、スイスの山小屋をやっている家の息子がいたのですが、彼は山小屋の案内人なので英語を学ばなくてはいけない。ところが風呂に入ったことがないっていうんですよ。シャワーは浴びているんでしょうが、風呂に入る習慣がないという人種がいるっていうことに驚きました。山小屋は水が貴重品なんでしょうが‐‐‐。年齢的には僕より7,8歳若かったですね。 日本人の女性が南米の男に“ひっかかったり”、スイスの人と結婚したりとかありました。いまどうしてるかなあ。

◇スペインの同級生宅に泊まり込んでお祭りを

 ボーンマスを出てからロンドンにいた時、同級生だったスペイン人の家を訪問したことがあります。ポルトガルの近くのベナベンテという田舎町に、汽車でロンドン、パリ、マドリッドを経てたどり着きました。日本人なんか行ったこともないようなところでした。大歓迎してくれました。確か彼の家に2,3泊しました。5月だったか、マリアの祝日のときでお祭りがありました。黒いマリアでした。それをかついで町中練り歩くんです。それを見た記憶があります。彼は英語はあまりうまくなく、ぼくと同程度の感じでしたが物静かな男で、クルマの運転をしてくれて、田舎のバルを何軒も案内してくれました。あいつそういえば飲んでたんだろうなあ、運転してたけど(笑)。ディスコに行って最後の音楽がビゼーの「闘牛士の歌」なんですよ。「なるほどここはスペインなんだ」と納得しましたね。日本に帰ってからだいぶたってから、スイス人の同級生が訪ねてきてくれたことがありました。政治部のときだったか、夜回り用のハイヤーであちこち都内見学させたこともありました。彼は感激してましたね。でも当時新婚間もなくて地下鉄丸の内線の中野新橋駅近くの2LDKの狭いマンションに住んでいたんですが、なんか黒塗りのハイヤーを乗り回すぼくとのギャップが理解できないようでした。

◇人種差別を実感

 僕にとって、あの8ヶ月ほどは、国際感覚なんて言うと大げさですが、グローバルというか、そういう感覚が身についたというか、井の中の蛙でなくなったということがありましたね。当時のコマーシャルに競艇の元締めの日本船舶振興会の笹川良一会長が叫ぶ「地球は一つ 人類みな兄弟」という感じが少しわかったような気がしましたね。イギリスに行く前は「なんか変なことを言うオヤジだな」と」冷ややかに見ていましたけどー。

 その裏返しなんですが、人種差別ってやっぱりあるんですよね。こんどのコロナ禍のフランスやアメリカなどの街頭で、「中国人のコロナ野郎」と日本人が言われたとかいうニュースが出てたけど、やっぱりそういう感じってあるんですね。当時、イギリスは移民に寛大な感じではなかったし、ボーンマスなんて、いまは黒人がすごく増えたらしいけど、黒人なんて見たことなかったですね。古き良きイギリスを残そうという感じが町全体にありましたね。

 ボーンマスだったと思うけど、夜、中心街のパブに寄っていい気持ちになって海岸近くの高級ホテルに立ち寄ったんです。たまたまパーティー会場の裏からカーテンをめくってそっとのぞいたんです。地元のハイソサエティの人たちがパーティーをやってました。たまたまカーテンをあけたら僕と目が合ったのですが、蝶ネクタイをしたジェントルマン(紳士)が何かきたないものを見るような目つきで睨まれました。あわててカーテンを閉めて逃げ出しました。その冷たい目つきは、今でも思い出します。いつもにこやかに対応する英国紳士とは明らかに違っていましたね。

 Q.すると、夏目漱石がイギリス滞在中に感じたようなことが残っていたということですか?

 そうでしょうね。しかも、いまだにあると思いますね。だからそれをちゃんと踏まえておかないとまずいなと思います。今でも人種差別ということ自体は、ヨーロッパ人もそうだけど、われわれ日本の中にも被差別部落の問題とか、在日朝鮮人、韓国人の問題とか、あるわけで、ぼく自身そういう差別は絶対許せないですね。イギリスでの体験が根っこにあって、差別を受ける痛みは比較にはなりませんが、ネットで見聞きする、平気でヘイトスピーチをする人たちの“コトバ”を許せない気持ちはあります。

 特にヨーロッパ人と我々とでは顔つきが違うのですぐにわかりますし、パブなんかで知り合って話していると、酔った勢いで彼らが言うのは、東洋人は目尻が上がってるって。「おまえらこれだからさあ」と両手で目尻をあげる動作をしたり・・・。なんとも白人優位で、アジア人を馬鹿にするというか、イギリスの漫画とか風刺画を見ると、中国人や日本人は必ず目尻があがってます。

◇オペラやミュージカルを気軽に楽しめるイギリス

 ロンドンがよかったと思うのは、ボーンマスもそうだったけど、音楽、演劇、バレー、オペラがとてつもなく安いので、すごく身近なんですね。それでよく行きました。ロンドンでは「ジーザス・クライスト・スーパースター」とか、アガサクリスティ原作の、ロンドンの劇場街ウエストエンドで世界最長の70年間公演を続けているという「マウストラップ」(いまはコロナ渦で中断中)という劇があります。ミュージカルの「ロッキーホラーショー」も見ました。5,6年やってるんじゃなかったかなあ。ちょっとヌードもあるエロチックなやつでしたが。バレーも オペラも安かったなあ、貧乏学生の持ってるお金で週1回くらいは行けたんだから。そんないい席で見られたわけではなかったが、堪能しました。

 オペラでは「魔笛」だとか「ドンジョバンニ」だとか「セビリアの理髪師」だとかにも行きました。新聞の公演情報が楽しみでしたね。日本に帰ってきて、魔笛のイタリアからのオペラを国立劇場に女房と見に行きましたが、1回行ったら終わりでした(笑)。チケット高くて、二人で数万円、そうそういけないですよね。

 本当に文化と日常生活が結びついているというヨーロッパの奥深さを感じさせられました。文化の深さがすごくある。安いし、ロングランが可能だから収益が成立する。日本の場合はせいぜい10日とか1ヶ月ですよね。

◇ロンドン支局の先輩のベビーシッターも

 ロンドンでは毎日新聞の支局によく行きました。明治時代の有名な日本のジャーナリズムの草分けの黒岩涙香が祖父の、特派員の黒岩徹さんの家に何度か泊まりました。彼のロンドンの住まいはテニスの全英大会で有名なウインブルドンにありました。庭付の広い家で黒岩さん夫妻が音楽会とかバレーなんかに行くときに、僕はベビーシッターやってました(笑)。

 Q.岩波新書から出た『イギリス式人生』を昔読みました。黒岩さんはイギリス生活を相当楽しんでたみたいですね。

 そうそう。彼は英語がうまかったし、腰が軽くてひょいひょい行く人だったから・・・。とても東大法学部卒には見えなかったな―。彼がロンドン行の準備のために東京の通産省の関係者に会いに来て、クラブに来たことがありました。僕が担当者で案内したと思うんです。クラブに待ってるはずなのに、「いないなあー」と思ったら戻って来て、「通産省の連中が昼休みでピンポン(卓球)やってたから、オレもやってきた」なんて。そういう気軽さがある人です。サッチャーの記者会見では、臆せず質問して最後には「トオル!」と指名を受けたという伝説を聞いたことがあります。さもありなんと思いましたあ。

◇婚約者がはるばるイギリスまで

 Q.最高の短期留学でしたねえ。

 そうそう(笑)。いろんな意味で一皮むけたところがあったと思います。これはあまり言ったことがないんですが、婚約していた女房、彼女、中高一貫のカトリック系の女子高の英語の教師だったんです。はるばる訪ねてきてくれました。二人でウエールズまで行ったことを思い出します。丁度、ラクビ―五か国対抗戦、といってもイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ、フランスの闘いなんですね。見物しようと思ったら満員で入れず、試合の終わった後のパブでの乱痴気騒ぎに巻き込まれ愉快でした。ただボーンマスの僕が下宿していた家のブランドさんというマダムが、「彼女の英語は本当にキングスイングリッシュで“ヒロトは彼女に教えてもらえ”」といわれたのには、参りましたね。

◇ワシントンで破天荒な先輩に会う

 留学を終えた帰りにワシントン、ニューヨークに寄りました。ワシントンは寺村荘治さんという経済部から行ってた人が特派員の一人でした。これがまた破天荒な記者で、戦前のベルリン特派員の、寺村荘一って言ったかなあ、そのせがれなんですよ。とにかく豪放磊落というか、背の高い細身の人で、そうは見えないんですが、全然ものごとに動じない人なんです。日本に戻って来て、ぼくは彼が大蔵省の財研(財政研究会=大蔵省の記者クラブ)のときに財研に行くんですが、寺村さんは途中でやめて、博報堂にスカウトされて移るんです。博報堂の会長の近藤道生という、大蔵省から国税庁長官をやった人に見込まれたのですね。ワシントン事務所を拠点にして日本とアメリカの関係の情報を上げていたようです。日本に帰ってきて、言ってみればアメリカ人脈を生かして、博報堂の情報収集のアンテナみたいな役割をしてました。ところが、熱海に大別荘を作ったまではいいんですが、披露パーティーまでやって半年も経たないうちに死んじゃった。生きてりゃおもしろかったんですが。肝硬変を持ってて、結局動脈瘤破裂でした。別荘から見ると、伊豆大島と富士山が見えてすごいところでした。

 ワシントンの自宅というのもすごかったですね。郊外の家の前が湖でボート遊びができるんです。「これくらいじゃないと、ワシントンじゃお客なんか接待できないぞ」なんて言ってました。家も広いし、「使うとき使わないとしょうがないからなあ。借金なんかするときしないとしょうがないんだよ」と。巨額の借金に平然としているんですからスゴイ。とても僕はあんな度胸はないですね。でも本当に面白い人で好きでした。彼も僕のことをすごく買つてくれて、「佐々木は小さくまとまるな、ケチな記者になるな」とハッパをかけてくれましたね。亡くなった時は本当に残念でしたね。

◇ニューヨークで会った通産省四人組事件の当事者

 アメリカにいた時の思い出はニューヨークで、通産省から派遣されたJETRO事務所長の内藤正久さんがいたので会いました。子どものいない彼の家のアパートに一週間位居候しましたね。豪放磊落な人で、笑い声が大きくて、包容力のある人でした。通産省担当時代に知り合った官僚で、本当に心を割って話のできる人でしたね。次官就任は確実といわれていました。のちの話ですが、次官の芽が摘まれる、四人組事件という有名な事件の当事者の一人となります。いまでも日本エネルギー経済研所の理事長を引退されたあと、顧問で活躍されていてお会いすることあります。

 注)通産省四人組事件とは、1993年に起きた通産省の人事をめぐる抗争。通産省内部の派閥抗争にとどまらず、自由民主党と新生党の代理戦争の性格もあったとされる(一六戦争)高杉良『烈風 小説通産省』(講談社、1995年/文春文庫、2011年)などの小説のモデルにもなった。

 内藤さんは通産省の産業政策局長から、普通なら次官になるところ、時の大臣--いま調べると元通産官僚出身の熊谷弘さんでした--が次官にさせなかったんです。ニューヨークの内藤家に泊まった際には、あとで衆議院議員になる松田岩夫さん(小泉内閣で科学政策担当大臣)とか何人かが集まって酒を飲んだことを覚えています。

◇ベタ記事でも書きようでトップ記事になる

 寺村さんの話に戻りますが、亡くなったのは、後年の、ぼくが広告局長のとき1996年でした。そのときに僕が述べた弔辞で寺村さんからしばしばいわれていた言葉を引用しました。「原稿というのは、バットを長く持って長打をねらえ。ゴロとかヒットでなく」と。寺村さんは、ベタ記事でも書きようによってはトップになるということを言いたかったのです。彼は、ぼくがワシントンに訪ねたときに、日本から来た新聞の外電を指しながら、「これベタ記事になっているけど、書きようによってはトップになるんだ」と言ってました。こういう教えというのはありがたいことでした。

◇スランプの時ほど原稿を書け

 ここで思い出すのは、ぼくが新聞記者になったときに親父(元毎日新聞記者)が言った言葉で、「新聞記者はスランプがある。スランプになったときに原稿を書かないのは負けだ。スランプのときほど原稿を書け」と。確かにそうだと思います。どうしたってスランプになるときがあります。そのときに原稿を書かないとずっと書けなくなってしまいます。

 「スランプになったら原稿を書け」、「バットは長く持て」というのもそうだと心に刻みました。その意味でいい先輩、取材先に恵まれたと思います。

 Q.いま自分はスランプだなあと自覚したことはあるのですか?

 そりゃあ、しょっちゅうありますよ。だって、抜かれたときだとか、相手が1面トップで行くじゃないですか。するとデスクが「何やってんだ!」って。会社行くのいやになるよね(笑)。朝、布団の中で、朝毎読(ちょうまいよみ)と日経の4紙見て、やられたと思えばね・・・あれだけこっちは苦労してるのに、このやろう書きやがってと・・・。記者クラブに抜かれ面で行きたくないですよね。

※ユーロセンター https://www.eurocentres.com/ja/discover-eurocentres

2021年3月11日

駆け出し記者の思い出を文芸誌に連載中の取違孝昭さん(75歳)



 社会部旧友・取違孝昭さん(70年入社)が「ヨコハマ文芸」第5号(2021年3月発行)に「駆け出し記者だったころ」第2回ハマのメリーさん列伝を発表している。第4号の第1回は「かまくら道」。1冊500円。横浜市内の書店にある。

 HPによると、「横浜文芸の会」(通称ハマブン)は横浜を拠点に活動する文芸団体で、2018年9月発足。代表世話人は芥川賞作家宮原昭夫氏で、作家やエッセイスト、詩人たち約40人が参加。取違さんも会員なのである。

 「エッ、事件記者の取違チャンが文芸誌に」と、ハテナマークの人もいるかも知れないが、HPの会員紹介に著書が紹介されている。

 『騙す人ダマされる人』(新潮社1995年刊)と『詐欺の心理学 : どうだます?なぜだまされる?』(講談社1996年刊)。

 『騙す人ダマされる人』は新潮文庫に入っているロングセラー本だ。

 警視庁捜査一課担当の事件記者が、詐欺=知能犯の捜査二課ものを2冊もモノにしているのである。

 前置きはこれまでにして、「ハマのメリーさん列伝」である。

 話は入社前年の1969年に起きた73歳の女性バー経営者「メリケンお浜」殺害事件から始まる。「メリケンお浜」は大正から昭和にかけてヨコハマの夜の世界で一世を風靡した。

 「ジャズのお勝」「ふうてんのお時」「カミソリンのお蘭」……。

 「ジャズのお勝」には、直接会って境遇を取材している。

 《敗戦で境遇はがらりと変わった。

 「街にアメチャンがあふれ、女たちがいっぱい流れて来た。あたしはね、米軍の下士官クラブを根城にして、彼女たちの取締りをやってたんだ。子分が5,60人もいたかな。堅気の娘や行く所のない女たちさ。みんな悲しい連中でね。タバコのラッキーストライク3箱で身を売っていた」》

 「ハマのメリーさん」は、ウィキペディアに載っている。

 メリーさん(本名不詳、1921年~2005年1月17日)。歌舞伎役者のように白粉を塗り、フリルのついた純白のドレスをまとっていた。

 取違さんたちサツ回り仲間は「皇后陛下」と呼んでいた。後年ドキュメント映画がヒットして「ハマのメリーさん」に定着する。

  あとは「ヨコハマ文芸」を手に取っていただくとして、びっくりするのは当時の毎日新聞横浜支局の取材体制である。

 《入社1年間は支局の“タコ部屋”に寝泊まりするのが毎日新聞横浜支局の決まりだった。定まった出社・退社時間などなく、あえていえば24時間勤務。…

 昭和初期に建てられ、戦後、進駐軍に接収されていたという建物で、タコ部屋はその4階にあった》

 《そこを拠点に各署を回っていたわけだが、部屋に帰っても仕方なく、深夜まで街を徘徊し、警察署を回っていた》

 多分県警キャップは、伝説の事件記者・越後喜一郎さん(2010年没72歳)だったと思う。鍛えられたんだろうな、取違チャンは。

(堤  哲)

 取違さんは、元毎日新聞常務。2007年~東日印刷社長・会長。2011年~毎日新聞グループホールディングス取締役。

2021年3月9日

本山彦一翁の書と地図 ― 元経営企画室委委員、吉原勇さんが保管

 私のマンションのリビングには力強い見事な筆跡で「奮闘不撓」と書かれた大きな額がかかっている。長さ1・8メートル、高さ45センチほどある。大きな文字の横には「為京都同人」「松蔭題」とやや小振りな字で書かれている。松蔭というのは、毎日新聞の中興の祖といわれる本山彦一翁の雅号であり、翁が京都支局同人のために揮毫したものなのである。

 私が毎日新聞社京都支局から中部本社報道部に転勤になった昭和40年8月、支局長だった橋本和蔵.さんが「支局にあるもので何か欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい。餞別としてあげるから」と言うので、私が希望したのがこの揮毫だった。支局長はわずか1年3か月で転勤を命じた私を憐れんでいたようだった。

 私がなぜこの揮毫を指定したかと言うと、この偉大な人物の書いたものが湿気の多い三条御幸町の京都支局地下室の床、それも多くの額の一番下に放置され、朽ち果てようとしていたからだった。

 なにしろ本山彦一翁は明治36年に大阪毎日新聞社長に就任してから昭和7年に退任するまで30年間も社長に在任、その間、部数を大幅に伸ばし、東京日日新聞を合併して今日の毎日新聞を作り上げた人である。その書は大事にしなくてはならない。

 支局長の承諾を得たので地下室に行き、カミソリで額から切り取った。一部ボロボロになって腐っていた。先輩記者の岡本健一さん(のちに稲荷山鉄剣のスクープで新聞協会賞受賞)が「父は表具師をしているから表装してあげる」と言って引き取り、一か月くらい経って名古屋のアパートに送ってきてくれた。その後、結婚した妻も本山彦一翁をよく知っており、巻物になっていたこの書を見つけて額装し、飾るようになったのである。

 我が家には本山社長時代に部数拡張のために付録として発行した新聞紙見開き大の大きさの都道府県分県地図が20数枚残っている。小さな字名まで記載されており今でも役に立つ。北海道や台湾、朝鮮などは道や省ではなく全体を2枚、ないし3枚に分割されて作られているから総数55、6枚になったと思われる。それを大正2年(1913)ごろから同7年にかけ、月1回付録として読者に配っていたのである。社史を見ると大正2年には47万部だった部数が同7年には80万部になっている。地図は部数拡張の原動力になっていたのである。全体を知りたいと経営企画室在勤のとき、どこかに保管されているかどうか調べてみたが、見つからなかった。幻の地図になっているようだ。

 私は今、終活を始めている。本山翁の書と地図をこの世に残すにはどうすればよいか悩んでいる。新聞博物館が引き取ってくれるかどうか、一度相談してみようか、と思うこのごろである。

(吉原 勇)

 吉原さんは、昭和39年(1964)入社。京都支局→中部本社報道部・経済部→東京本社経済部副部長→大阪本社経済部副部長→経営企画室委員→西部本社代表室長→編集委員→下野新聞社監査役・同取締役。作新学院講師など歴任。

2021年3月3日

北大山岳部と毎日新聞(その2)―山岳部OBだった浜名純さんと藤原章生さんのいま

 前回予告したように、北大山岳部の後輩の毎日新聞記者・藤原章生君と私で2月24日、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 絵はがきにされた少年』刊行記念オンライン対談」を行った。彼は2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞した。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行したのを機に、販売促進を兼ねて開催したのである。

 その宣伝の惹句がなかなかおどろおどろしい。

 「浜名さんは、藤原さんの山岳部時代の先輩で、書き上げたばかりの『絵はがきにされた少年』の価値を見出し、まる4年の歳月を経て、受賞にこぎつけた立役者です。

 著者の原稿のどこに魅力を感じたのか。出版社に持ち込み続けた4年間、どんな紆余曲折があったのか。名著を世に送り出す浜名さんの眼力、アフリカを通して描かれた人間哲学など、二人の対話をお楽しみください。二人が目指してきたヒマラヤなど山登りへと話が広がるはずです」
というものだ。なんともおもはゆい。というより、「名著を世に送り出す浜名さんの眼力」などと言われると、「何を言っているのだ。いかにも“目利き”のように言われているが、目利きなんて、どこかのテレビの○○鑑定団の安手のいい加減な鑑定士を想像してしまうじゃないか」と素直でない私は思ってしまう。

岩手県安比高原スキー場で今年2月。前列右端が藤原さん、その隣が浜名さん

 閑話休題。素晴らしい原稿だから、ぜひ世に出して皆さんに読んで欲しいと思ったのは、紛れもない事実である。そして、いくつもの出版社に売り込みに行き、大手出版社では上から目線の偉そうなことばかり言う編集者から拒否され続けたのも事実である。しかし、最後には「開高健ノンフィクション賞」を受賞し、日の目を見ることになったのだ。

 では、この本のどこに私は惚れたのだろうか。それは、一般的な特派員の原稿と一味違っていたからだ。きっと新聞社が海外の特派員に望むのは、その国の政治・経済・社会の動き、それも「今」を読者に伝えるということだろう。災害や事件もそうだ。

 しかし、彼の原稿は違った。その国の“今”を伝えるものではない。明日の朝刊に載せなくてはいけないものではないのだ。彼は市井に生きる一人の人間に焦点を当てる。その人は何故今この姿でここにいるのか、どのような人生を歩むことで、ここに辿り着いたのか。それにはアフリカの歴史が大きく関わっているのだろうか、と考え、取材を掘り進める。「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」というあまりに有名なゴーギャンの作品を思い出してしまう。

札幌市郊外の北大山岳部山小屋「ヘルべチア・ヒュッテ」で。秋のOB・現役のヘルべチア祭り

 その人の生きてきた人生に思いを馳せ、その生き様を深く省察することで、実は「アフリカの今」を浮かび上がらせている。「その国の“今”を伝えるものではない」と私は少し前に書いたが、ちょっと言葉足らずだった。事件・事故の第一報や続報とは異なった「本当のアフリカの今」である。よくある特派員の通り一遍の「その国の事情本」ではない。

 それは、我々が抱いていたアフリカやアフリカ人に対するステレオタイプの見方をも変えるものだった。「アフリカには少数の支配層と多数の搾取される層がいる。支配層は悪であり、搾取される層は善人である」といった漠然とした思いを正してくれる。金鉱山で働いていた老鉱夫は、アパルトヘイトの下で絞り取られたなどとは思っていない。金鉱山で働き本当に充実した素晴らしい日々を過ごしたと思っているのだ。

 そうだ、明日の朝刊に載せる必要がない、コロナ禍時代の今流に言えば「不要不急の原稿」が実はアフリカの抱える諸問題を雄弁に語っていたのだった。

 毎日新聞OBの布施広さんは、書評でこう書いている。本の帯にある『ジャーナリストの目と心が捉えた、豁然と生きるアフリカの人々』といううたい文句は、まさにこの本にぴったりだ。…中略…「悲惨な風景の中でさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある」と本書の一節が示すように、藤原君の筆はなにげない風景から人の生をあぶり出す。

 『絵はがきにされた少年』は2005年に集英社から出版され、昨年10月、「新版」が発売された。15年の歳月を経ての新版だが、決して新しさを失っていない。特に「差別」という視点で見た時、当時のアフリカの今は、2021年のアフリカの今でもある。いや、アフリカだけでなく、世界の今を考えさせてくれるだろう。

 トランプによるアメリカの分断、Black Lives Matter、人種差別や性的マイノリティの差別、宗教的差別や氏素性による差別、貧富に対する差別……。そして、コロナの蔓延は、社会に新たな差別を生み出している。社会が変遷する度に、社会が新しくなる度に、新しい差別が次々に生まれてくるのだ。そんなご時世だからこそ、皆さんに読んでいただきたいと思うのである。

 我々人間は 誰しも知らず知らずのうちに 心の奥深くに『差別』を内包しているのだろう。人は差別についての体験が多ければ多いほど、他人に優しくなれるのだろうか? 援助とは? 寄付行為とは? 援助する側と援助される側にも差別と被差別の問題が絡んでくるのではないだろうか。読んでいてそんな様々な思いが頭を巡る。

 少し藤原君のことを褒めすぎただろうか。同じ大学の山岳部の先輩後輩で身内意識から褒めたのだろうか。いやいや、そんなことは決してない。「藤原にゴマをすっても何のプラスにもならない」のだ。そう、いいものはいいのである。

 藤原君は、つい最近『ぶらっとヒマラヤ』(毎日新聞出版)を出版した。こちらもおもしろい。ぜひ一読を。

(浜名 純)

※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。

2021年3月2日

永井荷風の「断腸亭日乗」を読みながら ― 92歳の磯貝 喜兵衛さんが大川端を歩く

正月に、鐡砲洲稲荷神社で

 昨秋、横浜から東京・鉄砲洲に引っ越してから半年近く。コロナ禍を横目に、隅田川をマンションのベランダから眺め、日々を過ごしております。好天の日は大川端(遊歩道)を歩いて、深川や柳橋、両国、浅草などへ足を伸ばすと、思いがけない史跡や記念碑に出くわし、往時を偲んでいます。

 例えば寛永元年(1624年)、江戸歌舞伎の創始者、中村勘三郎が櫓(やぐら)をあげた「江戸歌舞伎発祥の地」(京橋)や、小山内薫らが大正3年に建てた「築地小劇場跡」(築地)など、芝居・演劇好きの私には印象深いスポットがいくつもありました。

 そう言えば私の好きな永井荷風は実によく歩いていますね。関東大震災前の東京市中はもちろん、名作「濹東綺譚」などを生むきっかけとなった墨田、江東・下町への散歩は、実に念の入ったものです。その詳細は、荷風の膨大な日記を集めた「断腸亭日乗」にも明らかです。引っ越しの際、大量の本や雑誌を売却・処分した中に、うっかり愛読書の「断腸亭日乗」(岩波書店)を入れてしまったらしく、丸善で岩波文庫(上下)を買い直し、今、読み返しているところです。

 日記は大正6(1917)年9月(39歳)から始まっていますが、荷風は翌7年12月に、わが家から近い築地本願寺わきに引っ越しています。

 ◇十二月二十二日 築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書篋を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に往き、家具を排置す。日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。この妓無毛無開、閨中欷歔(ききょ)すること頗(すこぶる)妙。(「四畳半襖の下張」的、エッチな表現ですが、ご容赦を)◇

 荷風は1年余りで、築地本願寺近くの築地の家から、麻布市兵衛町に引っ越すことになるのですが、その間の翌年五月二十五日の記述に、「新聞紙連日支那人排日運動のことを報ず。要するにわが政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害かへって国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくするに至らずむば幸いなり。」と書いているのは、その後の日本の歴史と考え合わせ、印象的です。

 荷風の反軍、反国家主義的思考は昭和に入ってさらに強くなっていくようで、昭和7(1932)年4月9日の日記には次の記述があります。

 ◇余つらつら往時を追憶するに、日清戦争以来大抵十年ごとに戦争あり。即明治三十三年の義和団事変、明治三十七、八年の征露戦争、大正九年の尼港事変の後はこの度の満 州、上海の戦争なり。

 しかしてこの度の戦争の人気を呼び集めたることは征露の役よりもかへって盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑わいに異ならず。今や日本全国挙って戦捷の光栄に酔へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は満州より進んで蒙古までをわが物となし露西亜を威圧する計略なりといふ。武力を張りてその極度に達したる暁独逸帝国の覆轍を践まざれば幸なるべし。百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。◇

 そして、この日記の1か月後に起きた5・15事件で犬養毅首相が射殺され、さらに4年後の昭和11(1936)年に2・26事件が勃発。今から85年前。その日の「断腸亭日乗は以下の通りです。

 ◇二月廿六日 朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来たり見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、軍人、警視庁を襲ひ同時に朝日新聞社、日日新聞社等を襲撃したり。各省大臣官房及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞こゆるのみ。市中騒擾の光景を見に行きたく思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田齋藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪止む。◇

 淡々たる記述ですが、荷風の思想からすれば、その衝撃の大きさは想像に難くありません。

 この時代の荷風は頻繁に銀座で飲食を繰り返していますが、戦後は浅草の踊り子たちとの交友を楽しみ、昭和34(1959)年4月30日、千葉県市川市の自宅で79歳の生涯を閉じることになります。

 日記の最後は死の前日。『四月廿九日。祭日。陰。』で終わっています。

(磯貝 喜兵衛)

※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB

2021年2月18日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑨ ある新聞記者の歩み 8

ライフワークのエネルギー問題でスクープをねらう

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください
https://note.com/smenjo/n/nc50d72424100?fbclid=IwAR0D-IdD_fRjYfRU7VkFTC9b-X6hBtBxGslFLZU9plcUFfPpnJhrRdyumTU

目次
経済部時代(5)

◇永田ラッパの最後―大映の倒産
◇社長会見で、空気を読まずに(?)質問
◇安宅産業破綻をスクープ
◇安宅社長宅へ夜回り 言質得てスクープ記事執筆
◇清張の小説やドキュメント本の題材に
◇論説記者でなく特ダネ記者としてエネルギー問題に取り組む
◇石油危機後の商社批判盛んな時期に貿易記者会に
◇三菱重工爆破事件に至近距離で遭遇
◇三菱商事、口銭稼ぎからの脱却をねらってエネルギー開発へ

経済部時代(5)

ミサイルからラーメンまで扱う総合商社という業態は世界でもめずらしいと言われます。

 元毎日新聞記者の佐々木宏人さんの経済部時代の話はまだ続きます。エネルギー問題をメインテーマにしてきた佐々木さんが、総合商社を取材対象にした話が今回の中心です。貿易立国ニッポンを支えてきた総合商社ですが、石油危機を経て曲がり角にさしかかっていたのでした。

◇永田ラッパの最後―大映の倒産

 商社の話に入る前に、映画会社の話を思いだしたと佐々木さん。いまや大映も永田ラッパも聞いたことがないという人の方が多いかもしれません。佐々木さんは経済部記者として大映の終幕に“立ち会った”のでした。

 ぼくが昭和45年(1970年)5月に経済部に移って、家電業界担当になったことはこの連載の2、3回で話しましたね。この頃の取材で印象に残っているのは、映画会社の「大映」の社長の永田雅一さんの会見に行ったことですね。

 大映は黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」などベネチア国際映画賞やアカデミー賞などを相次いで受賞した作品を制作した有力映画会社でした。

 しかしテレビが一家に一台時代となり、映画館がどんどん姿を消していきました。調べてみると1958(昭和33)年の映画観客数は11億人、それが73(昭和48)年には3億人まで減っているんですね。東宝のように直営館経営主義ではなかった大映が経営不振になるのは当たり前、時代の流れですね。調べてみると1971(昭和46)年の12月に倒産しています。多分、会見に行ったのは、その寸前の11月頃でしょうね。

 どうして家電担当記者が行ったかというと、映画産業担当は学芸部で主に作品制作情報、映画評の取材が中心でした。経営状況については把握しておらず、経済部の担当記者もいなかった。経済部は経済部で、偉そうに「映画なんて経済部の取材の対象ではない」という感じで、何でも屋の駆け出し記者の「佐々木行け」という事になったんだと思います。

 永田さんは“永田ラッパ”というあだ名が付くキャラクターで有名で、映画以外に岸信介首相など自民党首脳とも親しく、右翼の大物・児玉誉士夫らと並んで政界のフィクサーともいわれた経営者でした。

◇社長会見で、空気を読まずに(?)質問

 会見と言ったって、5,6人しかいないんです。他社は学芸部(文化部)の映画担当記者で経済部は僕一人だったような気がします。日本橋の本社で、今みたいな会見というイメージじゃなくて、長テーブルに坐って話を聞くという感じでした。

 まだ倒産とは言っていないのですが、経営的に生き詰まって大変だという話だったと思います。学芸部の記者は黙って聞いているんです。沈黙が続くんで、ぼくが「会社更生法の申請するんですか?」などと質問したら、会見後に学芸部の記者から「あんなこと君、言うもんじゃないよ」などと怒られちゃいました。でも経営的に切迫した状況は感じましたから、債権どうする、手形どうするとか、会社更生法どうするという話を聞けるのは、経済部の私一人でした。永田雅一さんは、本当に困った表情をしていました。それでも支援を仰いで、まあなんとかしのぐという反応でした。

 結局翌月の12月に破産宣告を受けて倒産してしまいました。“永田ラッパ”という愛称で威勢のいい経営者でしたから、その沈痛なメガネ姿は忘れられませんね。経済には時代の流れがあり、隆盛を誇っていた会社も消えていくんだ―という印象を本当に感じました。

 永田さんには、その時一度しかお目にかかっていませんが、「経済社会の原点」に触れたような思いがしています。

 水戸の支局では良く、勝新太郎、市川雷蔵、若尾文子、山本富士子などの出演する大映映画を上映する朝までやっている深夜映画館に行きました。それだけに永田ラッパの苦悩の表情が忘れられません。

 後年の話になりますが、大映映画の版権は紆余曲折あったのですが、旧角川映画と角川書店が一緒になった「KADOKAWA」の所有になっています。僕が2000年に毎日新聞中部代表から出向して、設立されたばかりの系列の「メガポート放送」(2005年、現日本BS放送「BSイレブン」に合併)の専務になった際、角川書店が主要株主の一社でした。勝新太郎の「座頭市物語」などを提供してもらい、昔の大映映画の放映を手がけました。“永田ラッパ”を思い出して、なにか因縁を感じましたね。

◇安宅産業破綻をスクープ

 駆け出し記者として思い出すのは、商社を担当する「貿易記者会」にいたころの1975年の12月の安宅産業の事実上の倒産―伊藤忠商事との合併事件です。ちょっとWikipediaで「安宅産業破綻」というのを見てみたら、毎日新聞が出てくるんです。12月7日にすっぱぬいて、それがきっかけでつぶれたということになっているんですね。その記事、ぼくが書いたのです。

 Wikipediaには「12月7日、『毎日新聞』朝刊は安宅のNRCへの融資焦げ付きをスクープ、経営危機が広く世間に知られることとなった」と載っています。これは三菱商事のブルネイだとかと同じ資源開発投資なんですが、三菱は英国石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル石油と組んで大成功、安宅は失敗―なんです。

 安宅産業は当時10大商社(三菱商事・三井物産・住友商事・伊藤忠商事・丸紅飯田・日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松江商・安宅産業)の一角にいた商社でした。当時、商社は売上高が業界のランク付けになっていたので、各社とも売上高至上主義でした。

 安宅産業は戦前から鉄鋼を扱う堅実な商社でした。それが売上高競争に巻き込まれます。アメリカの子会社が中東から購入する石油を、資金を貸し付けたカナダの石油精製会社(NRC)に回して利ザヤを取るプロジェクトに資金をつぎ込みます。しかしそれが1973年の石油ショックの直前で、石油価格の値上がりで回らなくなり、4千億円近い巨額の赤字を計上することになりました。石油ショックに出会ってしまって、結局つぶれて安宅産業はとんでもない債務を背負って、伊藤忠と1977年10月合併させられるわけです。

 どうしてこの記事が書けたかというと、大蔵省担当の先輩記者からの電話がありまして、「安宅産業が、えらいことになってるみたいで大蔵省も困っている」という連絡を聞いたのがきっかけです。大蔵省もメインバンクの住友銀行とか協和銀行(現りそな銀行)などと、鳩首協議をしているというのです。

◇安宅社長宅へ夜回り 言質得てスクープ記事執筆

 そこでぼくは当時の市川政夫という安宅産業の社長のところに夜回りをしました。自宅は大田区の洗足だった思います。向こうも、10大商社どん尻の商社トップのところを夜回りをする記者もいなかったからでしょうから、まあ、しょうがないということで応接間に上げてくれたようです。それで話を聞いたら、いろいろ銀行と話をしているということでした。

 でも図書館で縮刷版を見てみたら、銀行の情報が主で「安宅への救済措置で50億円の送金」が見出しになっています。

 石油取引の話は記事の最後の方で、市川社長の「本社への影響はない」という談話が掲載されていました。多分銀行担当の記者との共作ですね。

注:安宅産業事件

 安宅産業は、政商といわれたシャヒーンという米国人実業家が、カナダのニューファンドランド島に石油精製工場を建設して石油市場に参入するという情報を得て、それに乗ることにした。安宅産業の常務会が1973年6月に決定したのは、安宅アメリカがニューファンドランド・リファイニング・カンパニー(略称NRC)の総代理店になることを承認し、L/C(信用状)を開設して原油代金の面倒を見ることに加えて、NRCに対して6,000万ドル(当時の為替レート1ドル271円、約162億円)の与信限度を設けるということだった。ところが、契約がいいかげんで、甘い与信で抵当も無しという実態だった。

 そうこうするうちに、2年後に石油危機が起きて原油価格が急上昇、精製工場の資金回収がうまくいかなくなってしまった。与信枠を広げて傷がどんどん広がった。総額4000億円という巨額なものとなり、それで安宅は資金的に行き詰まってしまったのである。

 このへんの情報を他の商社の人に調べてもらい、市川社長にぶつけたわけです。夜回りで会った市川さんは、「そこまで知っているんならしょうがない」という感じで、それをほぼ認めました。そのあと帰ってきて記事を書いたのだと思います。そうして一面左に四段見出しがついたスクープ記事が新聞に出て大騒ぎになりました。

 たしか土曜日で紙面に出たのが日曜日で、今の女房と渋谷あたりをデートしていて途中、会社に電話したら「銀行トップや安宅の市川社長の緊急記者会見が開かれる予定だ、大騒ぎだぞ、対応しろ」といわれて会見に出席しました。デートは中止、顰蹙を買いましたね(笑)。

2021年2月18日

レッド・パージ70年を書いた大住広人さん(83歳)

 このHPの新刊紹介にある『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに―』は、大住広人さん(83歳)の労作である。

 1950(昭和25)年7月28日、新聞界でレッド・パージが行われた。「アカ」という理由で、毎日新聞では49人(東京31、大阪18)が退職を通告された。日本放送協会(NHK)119人、朝日新聞104人、読売新聞34人、日本経済新聞20人など49社701人にのぼる。

 「新聞界には国家権力の非を糺そうとする意欲さえもが見られないことに、半生を新聞界で過ごした者として忸怩をおぼえたことによる」と執筆の動機を述べている。

 毎日新聞では政治部の嶌信正(1912〜1998)がパージにあった。「何故だ」と根拠を尋ねたが、一切ノーコメントだった。元毎日新聞のジャーナリスト嶌信彦(78歳)の父親である。

 「解雇後の嶌信正」の117ページに、こんな文章がある。嶌は当時、安井謙参院副議長の秘書だった。

 《そんなある日、毎日新聞の若い社会部記者が訪ねてきた。当時、革新都政で名を全国に知られた都知事・美濃部亮吉の再選を翌年に控え、選挙情勢を教えてくれ、という。嶌が副議長の兄(注・安井誠一郎元東京都知事)の秘書もやっていて、かつ美濃部の奥の院として知る人ぞ知る小森武と昵懇であり、しかも、その奥にいる労農派の学者たちにも知己をもつ往年の労農記者と知っての「教えてください」だった。

 嶌は、気を許し、知ってることを何でも話した。楽しかった。記者が席を立ったとき、思わず一緒に立ち上り、ちょっとはにかみながら「息子がいま秋田にいる。いつ上がってこれるかわからんが、よろしく頼む」といった。若い記者は「えっ?」といい、年寄りのはにかみもいいもんだ、と思った。嶌の半生にとって、このころが一番、気持ちの上でも優雅だったのかもしれない》

 美濃部都知事再選の前年とあるから1970年である。この若い社会部記者は、都庁担当の大住さん、当時33歳。秋田支局の息子は、70年入社の嶌信彦である。

 あとはこの本を読んでいただくとして、次の写真を見て下さい。

 写真部時代の大住さんである。当時27歳。Yシャツにネクタイ姿は、珍しいのではないか。写真説明に《昭和40年4月3日の日韓条約仮調印に集まったカメラマン》とある。売新聞写真部OBの平井實著『スピグラと駆けた写真記者物語』(グリーンアロー出版社1997年刊)からである。

 大住さんはニコンF、後ろのカメラマンはスピグラを持っている。スピグラと35ミリカメラの端境期だった。

 大住さんは、この年の8月異動で社会部に配置替えとなる。

 送別部会でこういった、と本人が書いている。

 《「——無念です。求めて(写真部を)出るんじゃありません。求められて出るのでもありません。だから必ず堂々ときっと帰ってきます。そして写真部の部長をやります」》

 社内同人誌『ゆうLUCKペン』第36集(2014年2月発行)にある。毎日新聞入社の経緯も明かしている。

 《新聞カメラマンになれると、けっこう本気で思っていた。太鼓判を押してくれたのは、かの三原信一だ》

 大住さんは東京都立大学法経学部の4年生。サークルは写真部に入っていた。

 三原信一さん(1987年没、84歳)は毎日新聞元社会部長。元陸軍伍長。「ヒットラー、のらくろ、と並んで世界三大伍長のひとり」が自慢?だった。

 戦時中、広東から特ダネを連発したと都立大の特別講義で話したのだろう。大住さんはその講座を「広東特電」と書いている。

 《「就職はどこだ?」…「おれんとこに来い」と命じられた。おれんとこ、とは「毎日新聞」で、それもカメラマンに、だった》

 《写真だって実はいけていた。一九六〇年度の「全日本学生写真コンクール」の受賞者名鑑には、ちゃんと

 「入選 全学連 大住広人」

 と載っている。「全学連」というのは所属名ではなく作品名だ。ときに六〇安保、これまたちゃんと、時機にあった被写体をものにしていたのである》

 《わたしは引かれるままに毎日新聞を受けて、合格し、入社する》

 二次試験のあと、三原さんから電話があり「合格」を知らされた、とある。

 三原さんは、51歳で社会部長になって丸3年務め、55歳定年。東京本社編集局顧問だった。社内では、相当の実力者だったと思われる。

 大住さんの社会部、毎日労組などでのその後の活躍ぶりは説明するまでもないと思う。

 「写真部長」就任の話も実際にあったことで、あとは『ゆうLUCKペン』第36集を。情報調査部の書架にあります。検索でこんな写真が出てきたので、貼り付けます。

(堤  哲)

毎日新聞東京本社西口玄関前で開かれた新聞労連東京総行動であいさつする大住広人毎日新聞労組委員長=1977年11月

2021年2月5日

北大山岳部と毎日新聞 ― 山岳部OB記者だった浜名純さんの回顧といま(その1)

ネパールヒマラヤ・ダウラギリ1峰(8167メートル)

 1970年春。私は積丹半島にある積丹岳の稜線直下の雪穴の中でじっとしていた。有り体に言えば遭難したのである。メンバーは北大山岳部の4人。私がリーダーだった。明日は下山という夜に天候が急変した。天気が悪くなるのは分かっていたが、明日早朝一気に里に駆け下りれば大丈夫だという読みだった。甘かった。

 大型で強い低気圧はその夜、テントを直撃した。テントは破壊され、我々は真っ暗な雪稜を数時間さまよった。やっと一カ所雪庇(せっぴ)の下の急斜面に風の当たらない場所を見つけ、雪洞を掘って潜り込んだ。

 それが一週間前であった。食糧と燃料を節約して生き延びていた。携帯ラジオからは当初、「北大パーティー遭難」というニュースが流れていたが、それが「北大パーティー絶望か」というトーンに変わっていた。「バカヤロー、こんなに元気で雪洞の中で暮らしているぞ」と怒鳴っても、その声はどこにも届かない。携帯電話など皆無の時代である。今なら携帯で「雪洞を掘ってビバークしている。無事で元気だ。天候が回復したら下山する」と連絡できただろうが……。札幌でも4月としては何十年振りという大雪で、小学校が休校となった。東京の私立大学生だった妹は、ゼミの旅行中だったが、NHKのニュースを聴いて一人、家に戻ったと後から知った。

 やがて天気が回復した。一気に下った。とはいえ深い雪のラッセルの連続で里に近づく頃には陽もとっぷりくれていた。だいぶ下ってきた時、潮の香が風に乗って鼻をくすぐった。海が近い。助かった、と確信した。

 とぼとぼと海沿いの道を歩き、一軒の漁師の家に飛び込んだ。「電話を貸してください」。札幌の山岳部に下山の報告をした。「おい、今テレビで放送しているのがあんたらか」と漁師。「そうです」と答えると大喜びだ。「俺のうちに遭難した奴らが来ている」。知り合いに軒並み電話し、たっぷりと夕ご飯をご馳走してくれた。そのうち、最寄りの警察署に前戦基地を置いていた報道各社が駆けつけ、ごった返した。私たちが予想外に元気だったので、テレビ局の放送記者が「捜索隊の人の肩につかまって歩いてカメラに向かって歩いてください」と言った。拒否した。俗にいうやらせではないか。バカヤロー。

 場所を警察署に移して記者会見が開かれた。だんだん腹が立ってきた。山の知識がない新聞記者に登山の専門用語を解説しながら話さなくてはならないのだ。そのうち朝日新聞の記者がこう言った。「これだけ世間を騒がせ、迷惑をかけたことに対して一言お願いします」。私は怒った。「なぜ、あなたにそんなことを言われなくてはいけないのだ。捜索に当たってくれた山岳関係者、北海道警察のみなさん、捜索の後方支援をしてくれた人たち、心配しくれた方々には本当にお礼を言い、頭を下げます。でも、なんで世間に謝らなくてはいけないんだ。何で新聞記者に言われなきゃならないんだ。騒いでいるのはお前ら新聞記者だろう。遭難がなければ取材もしなくてよかったというなら、しなければいいだろう」と言ってやったのだ。バッキャロー。20歳をほんの少し越えただけの若造の私に怒鳴られ、朝日の記者は静かになった。

 今はテレビで定番になった企業の謝罪会見。社長以下役員が横並びになって一斉に深々と頭を下げる。その瞬間カメラの放列……。そんなふうに私も頭を下げればよかったのかもしれない。若気の至りだろうか。翌日の朝日新聞地方版には「またも人騒がせな北大山岳部」という大きな見出しが躍っていた。

 やがて卒業した私は、札幌の繁華街ススキノやもう一つの繁華街「狸小路」で、ギョウザの店を切り盛りするようになった。進学塾の先生やバーテンなどもやった。そして数年後、新聞記者をやってみるか、と思い立ち、札幌で毎日新聞の試験を受けた。面接官が並んだ最終面接。その中の一人が「君のことは知っているよ。あの遭難の時、私が総指揮を取っていたんだ」と言い、皆がどっと笑った。あっ、これは受かった、とその時思った。

ダウラギリ1峰ベースキャンプで(冬季8000メートル以上峰世界初登頂=1982年)。
浜名さんは、最前列で座っている隊員の後方に立っている。日焼けした顔。

 遭難現場で体験したような記者にはならないぞ、とうそぶきつつ、入社後はそれなりに記者生活を楽しんだ。10数年勤めた後に退社したが、その間、休職もさせてくれた。それも3回だ。2回は北大ネパール・ヒマラヤ遠征隊であり、1回は日本山岳会の中国登山隊である。普通の企業ならこうはいかないだろう。退職をしていくしかない。その点、毎日新聞は実にいい会社であった。条件は帰国したら連載を書けばいいという。写真部の先輩は、ごっそりとフィルムをくれた(もちろん当時はデジカメなどはない)。

 もっとも2回目に関してはさすがにすんなりとはいかなかった。何しろ、1年間休職して、帰国して1年ちょっと勤め、その後また1年間休職するというのである。しかし、日本山岳会の会長が毎日新聞社長に直接手紙を書いてくれたら一発でオーケーとなった。

 1985年夏、日航機の御巣鷹山墜落事故の時は、中国の青海省で山登りをしていた。「山の経験のある奴に現場に行かせろ。浜名はどうした」という話になったらしいが、長期休暇を取ったことがばれた。

 私が毎日新聞を辞めてしばらくして、フリーライターと編集者の仕事を始めた1989年、北大山岳部の後輩、藤原章生君が毎日新聞に入社した。言うまでもなく皆さんご存じの今が旬の花型記者である。2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行した(ぜひお読みください。まだの方はぜひ購入のほどお願いします。とても良い本です。*どういうわけか、ここだけはなぜか「ですます調」)。

 2月24日19時からは、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 ダウラギリ1峰ベースキャンプで(冬季8000メートル以上峰世界初登頂=1982年)。絵はがきにされた少年』」と題するオンライン対談が開かれる。対談者は藤原と私・浜名である。それらについては、次回(その2)で詳細を報告したいと思う。

(浜名 純)

※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。

2021年1月25日

北村正任元社長ら出品、「湖心社書展」を2月に銀座で開催

 湖心社代表の書家、友野浅峰さん=写真・毎日文化センターHPから=の指導の下、毎日新聞書道クラブで日々、修練を重ねている会員が参加する「第45回湖心社書展」が2月3日(水)から7日(日)まで、中央区銀座3-9-11の紙パルプ会館5階、セントラルミュージアム銀座で開催されます。昨年夏に開催予定でしたが、新型ウイルス感染拡大のため、延期されていました。ウイルスの脅威は、さらに強くなっていますが、今のところ開催の予定です。

 毎日新聞関係では、北村元社長のほか、寺田健一元毎日書道会専務理事、高尾義彦元監査役、元地方部の石崎瑠璃さんが「客員」として作品を展示します。客員以外は、ほとんどがプロの書道家の方々で、毎回、見応えのある作品が揃う書展です。

 書道クラブは月曜の夕方に毎月3回、開催されていますが、緊急事態宣言に伴い、1月はお休みで、恒例の新年会も実現しませんでした。

 湖心社書展は本来なら、会員の作品を見ていただき懇親の機会に、と楽しみにしたいところ。「密」を避けて作品が鑑賞できるように、と気配りしながらの開催となります。無理はされないで、会場に足を運んでいただければ、有難く。

(毎日新聞書道クラブ)

2021年1月20日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑧ある新聞記者の歩み 7

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」7回目です。

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください

ある新聞記者の歩み 7 伝書鳩からスマホまで 技術革新と共に歩んだ記者生活

前回まで、時間を追って佐々木宏人さんの記者としての歩みを聞いてきましたが、今回は1965年(昭和40年)に毎日新聞社に入って水戸支局に配属された頃に戻って、記者の仕事の中で出会った技術革新について伺います。

目次
◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・
◇原稿は電話で読み上げて伝える
◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・
◇キーパンチャーは花嫁候補?
◇合理化であぶれた人が支局で記者に
◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も
◇新聞のカラー化も画期的だった
◇支局では写真の現像も自分で
◇運転手がカメラマン兼任
◇新聞記者は無線技士

◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・

ぼくが入社したときに、毎日の有楽町の駅前のビルの屋上に鳩小屋があったという話をしましたよね。実際には通信のためには、その年以降もう使ってなかったんですね。
そうー。当時の支局の通信事情をお話しましょう。支局の電話は今では考えられませんが直通ではなく、水戸電報電話局の交換台への申し込み制だったのです。電話機はもちろん今のような携帯ではなく、昭和のテレビドラマに登場する指先でダイヤルを回す黒電話でした。支局の大きなテーブルの上に四台位ありましたかね。土浦、取手、下館とかの(毎日新聞の)通信部や警察にかけるときに現在の市外局番の029(土浦市)、0297(取手市)とか回すのではなくて、交換に土浦市の〇〇〇〇番とか伝えてつないでもらうわけです。事件など起きると警察署の回線が一杯になるのか、5分待ち、10分待ちというのはざらでした。
しょっちゅう申し込むのでウワサ話ですが、交換手とデートに成功してゴールインした記者がいたという話を聞いたことがあります(笑)。

だから県下の各通信部とは定時通話というのがありました。電話局と契約して毎日12時と5時だったかな。これは夕刊の締め切りと朝刊の早版の締め切りのタイミングです。そのときに定時通話を入れておくわけです。通信部との定時通話では、だいたい奥さんが出てきます。それで「主人、今○○町役場まで取材に行ってますが、何も無いって連絡してくれと言われました」と言うんです。「ウソつけっ」とこっちは内心思うんです。自分のことは棚に上げて「どうせクラブで麻雀やってるんだろう」って・・・(笑)。

◇原稿は電話で読み上げて伝える

 支局に着任した当時、原稿はデスクが本社との直通電話で吹き込んでいました。ダイヤルのない黒電話の受話器を取り上げて、「水戸から交換さん、交換さん」と呼んで、交換手が出てくると「速記さんお願いします」と言って、デスクが原稿を読み上げて送るわけです。たとえば、「〇月〇日、水戸市元吉田(みとしもとよしだ-元吉田は、もとは元旦のもと、吉田はきちでんよしだ)4丁目の信号機のない交差点で、佐々木宏人(ささきひろと-ささきは普通のささき、ひろとは、うかんむりに片仮名のナム、人間のひと)さんの乗用車と、東茨城郡茨城町内原鯉渕(うちはら-内外のウチ、原っぱのハラ、鯉渕はいけのコイ、サンズイのブチ)の内藤次郎(ないとう-内外のウチに、藤の花のフジ、じろうはツグロウ)さんの軽自動車が正面衝突、内藤さんは胸の骨を折って全治二か月のケガ。水戸署の調べによると佐々木さんの前方不注意。」というように読み上げて送ります。そうやってデスクは、毎日県版1ページ分の原稿を全部読み上げて送っていました。

Q.固有名詞がたいへんですね。

固有名詞はもちろん大変なんですが、もうひとつたいへんなのが方言です。茨城弁は「い」と「え」の区別がはっきりしないんです。たとえば、戸籍上は「すい」さんなんだけど、口頭では「すえ」になっていたりするわけです。こういうケースがけっこうありました。通信部の主任で地元出身の古手の先輩記者は、方言がきつく、原稿を電話で取る際「すえさんの『え』は『江戸の「え」』ですね」と確認すると、『うん井戸の「い」だ』」と答えるんですから参ります。地元の人にはその微妙なニュアンスが分かるんでしょうが‐‐‐。今から考えるとおかしい、漫才選手権の“M1グランプリの世界”ですね(笑)。
同じ茨城県でも福島に近い高萩市、北茨城市になるとほとんど福島弁に近くなり、朝そこの警察署に警戒電話を入れると古手の地元出身の宿直警官が出るのですが、何を言っているのかほとんど聞き取れず往生しました。青森、秋田、岩手など東北の支局に行った仲間は方言で苦労したようです。

◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・

それとは別に、県版には、短歌とか俳句とか、県庁や市町村の行事予定だとか、発表期日が指定されている県庁人事、教員異動情報、連載企画記事などは、原稿便というので本社に送ります。原稿便は駅に持って行って、電車に乗せて送ります。各社みんなそうやって送ってました。それを上野で取り分けて、各社に持って行くというわけです。
ときには、駅に届ける原稿が遅れて、電車が出発しようとしているところを、車掌に発車ベルを押させないようにして間に合わせた、なんてひどい話も聞いたことありますが本当かどうか(笑)。

そんな通信事情だったのですが、1年か2年たって市外局番ができて、県内各地どこにも直接自由にかけられるようになりました。これは画期的でした。これで県内の警察署--27署だったかなあ--の全部に、朝、支局から電話ができるようになりました。それまでは水戸警察署や、県警本部にある直通の“ケイデン”(警察電話)を使わせてもらっていたのです。

◇キーパンチャーは花嫁候補?

その次に漢テレというのが支局に入ってきます。漢字テレタイプっていうやつで、デカいんですよ。新聞を見開きにして、もうひとまわり大きくしたくらい。『毎日の3世紀』という上下と別巻3 冊からなる社史(2002年発行)を見ると、ぼくが入社した1965年(昭和40年)に全支局に導入されたとのことです。
NHKの番組の「日本人のお名前」ではないですが、難しい名前がたくさんありますが、それも全部漢和辞典のように感じのキーが並んでいて、打ち込めるわけです。茨城では「圷(あくつ)」さん、「塙(はなわ)」さん、「永作(ながさく)」さん、「深作(ふかさく)」さんなんて言う東京では聞いたことのない名前が多かったですね。「生田目(なまため)」さんなんて言うのもありました。東京に来てタクシーに乗って運転手さんの名札を見て、こういう名前があると「茨城出身?」というと間違いなかったですね(笑)。
漢テレ作業のために女性を雇いました。パンチャーとしてです。東京の新聞社のパンチャーということで、あこがれの対象だったようです。水戸の優秀な高校を出た品行方正な女性が入ってきました。ですから、当時、ぼくの同期入社を見るとパンチャーと結婚した人も多いですネ。

◇合理化であぶれた人が支局で記者に

パンチャーさんが原稿を打ち込むと、さん孔紙と呼ぶ紙テープに穴があきます。それを送信機にかけて、本社にさん孔紙の穴開き情報を送ります。それを本社の機械にかけると、さん孔テープから鉛活字を自動鋳造するシステム活字になるわけです。
ところが困るのは、それによってこれまで支局からの電話原稿を書きとっていた、本社の速記さんや漢テレの導入で活字を拾う人たちの仕事がなくなってしまったことです。その速記さんが新聞記者として各支局に出されました。しかし、速記さんは新聞記者の訓練を受けたわけではありませんから、記者会見に出ても全部速記してしまう。するととにかく長い原稿になってしまうわけです。記事でなくて速記録。でもどんどん成長してできる記者になった人も多いですよ。パンチャーさんはずっといました。1985年(昭和60年)にぼくが甲府支局長に出たときもまだいましたね。
この技術革新のために、鉛活字を拾う活版関係の人もどんどん地方支局や広告・販売・総務などのセクションに送り出されていきました。 こうした大合理化が進行していたのですが、各社とも組合が強いということもあって人員整理をするわけにもいかず、合理化の対象になった職種の人をみんな抱え込んでいました。 そういう合理化の波は日本全国の新聞社にあったわけですが、日本企業の終身雇用体質に加えて、新聞自体も広告収入がどんどん伸びていた時期だったので、抱え込むのにそんなに苦労はなかったと思います。

◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も

それから間もなくワープロが導入されて、甲府支局長の時代(1985~89年)の末期には、「東芝のルポ」をぼくも使うようになりました。

その当時は、編集局内でも「オレはエンピツ1本で勝負してきたんだ。ワープロなんかで書けるか!」なんて大見えを切る人がたくさんいました。僕もお世話になった政治部の名物記者・岩見隆夫さんなんてそうでしたよ。最後まで鉛筆でした。さすがにもう今はいないでしょうね。ん

Q.「近聞遠見」という、政治家も必ず読むというコラムを長らく連載していた人ですね。

そうです。それはともかく、ワープロの時代があって、あっという間にパソコンの時代になっちゃいましたね。思えば、技術革新というのがすごい時代だったですね。入社したときは伝書鳩がまだいたわけで、30年くらいで明治100年分くらいの技術革新を体験したのではないでしょうか。その渦中にいるなんて思いもしなかったですね。

◇新聞のカラー化も画期的だった

『毎日の3世紀』を見ると、「1968年のメキシコ五輪でカラー電送で受信しカラー化」とあります。水戸支局にいた時代ですがあまり印象に残っていませんね。雑誌なんかはとうの昔にカラー紙面が主流でしたから、なって当然という感じだったんではないでしょうか。日々短時間での大量印刷の新聞の、カラー化の特殊性、現場の苦労などになんかに想いは至らなかったんでしょうね。
むしろ日常必携の電話機の変化の方が気になっていましたね。電話が固定電話から携帯になって、スマホになるという変化の時代でした。ポケベルも一時盛んに使われましたね。入社してから甲府支局長になるまで20年、スマホはまだ登場していませんでしたが、“伝書鳩からスマホ”までのすさまじい技術革新の時代に新聞記者をやっていたことになるんですね。今考えると英国に始まる18世紀から19世紀半ばの近代史の産業革命で、織物の手工業から蒸気機関の動力源としての発達による、機械工業の大変化をとげるような時代を体験していたんですね。
振り返ってみると、そんな技術革新のことなんてあまり考えたことはなかったですね。新聞を産業としてとらえず、正義感にあふれた取材一筋というといえばカッコイイですが走り回っていただけで、新聞を支えてきたバックヤードとしての技術の力をあらためて感じますね。さらに販売・広告のこともほとんど考えず過ごせたんですから、いい気なもんですね。

以下はこちらをクリック

2020年12月25日

コロナの今年も、元写真部、山田茂雄さんがプライベートカレンダー31作目

2021年のカレンダー1-2月(ビルバオのホテルの窓に反射する風景)

 カレンダー いつもの写真 届かずに

 河彦の名前で日々、つぶやいているツィッター俳句にこの一句をオンした12月23日、元写真部の山田茂雄さん(73)から、恒例の2021年プライベートカレンダーが届いた。毎年、海外で撮影した写真をあしらっているので、今年は海外旅行が出来なかったと推測、断念したかと早とちりしたが、これで31回目という永年の積み重ねに、感動した。

最初に作ったカレンダー。ネパールの生活を伝える。

 山田さんのカレンダー作りは、東京ヘレンケラー協会の調査で1987年にネパールに同行取材、翌年にはあき子夫人がやはりネパールを訪れたことをきっかけに、「日本とは別の時間が流れているネパールの人々の生活を1年間、楽しんでもらおう」と発想、その後、1996年を除き、毎年、作品を作ってきた。当初はポストカードにプリントしていたが、少部数でプライベートカレンダーを印刷出来る印刷所を見つけ、卓上カレンダーとして年賀状替わりに400部ほどを友人、知人に送っているという。

 これまで訪問した国を挙げてもらうと、36カ国・地域にのぼる(カッコ内は回数)。アジアでは、韓国(2)、中国(広州1)、香港(4)、マカオ(2)、タイ(3)、マレイシア(2)、シンガポール(3)、ネパール(1)、インドネシア(1)、台湾(4)。オセアニアでは、オーストラリア(1)。アフリカ・中東では、マダガスカル(1)、ケニア(3)、エジプト(1)、ヨルダン(1)、トルコ(2)。ヨーロッパは、イタリア(6)、サンマリーノ(1)、オランダ(5)、ベルギー(4)、フランス(2)、スイス(1)、ドイツ(1)、英国(3)、スペイン(2)、ポルトガル(1)、マルタ(1)、ノルウエー(1)、スエーデン(1)、デンマーク(2)、オーストリア(1)、ハンガリー(1)、ロシア(1)、ギリシャ(1)。南北アメリカは、米国(8)、チリ(1)、アルゼンチン(1)となっている。

 ちなみに21年版カレンダーは、1-2月=スペイン・ビルバオ(2016年撮影)、3-4月=トルコ・イスタンブール(2009年撮影)、5-6月=オランダ・アムステルダム(2011年)、7-8月=スペイン・サン・セバスティアン(2016年撮影)、9-10月=トルコ・イスタンブール(2009年撮影)、11-12月=台湾・台北(2009年撮影)。美術館のそばや避暑地のホテル、自転車のサイクルツアーグループ、ボスポラス海峡を行く乗合船などが目を楽しませてくれる。

オランダの冬

 1971年入社の山田さんは、大阪・東京両本社の写真部に在籍。1995年に退社した後も、フリーのカメラマンとして仕事を続け、毎日新聞主催のイベントなども手掛けてきた。夫人とともに、仕事以外でも海外への旅を楽しむ機会が多く、その成果が毎年のカレンダーに反映された。

 最も興味を引かれたのは、オランダで、人口約1700万人(東京は約1400万人)、九州とほぼ同じ面積で国家が成り立っていて、山田さんは「人口減少が続く中、日本も大国主義を捨て、中規模の国になるためにはオランダには何かヒントがあるのでは」と語る。

 実は、山田さんとはニューヨークの国連本部で1982年に開かれた第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)の際、反核市民運動などを現地で10日間ほど一緒に取材した。海外での取材の縁で、海外の景色をテーマにしたカレンダーをいただくことになり、来年はもっといい年に、と願うばかりだ。

(高尾 義彦)

2020年12月17日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑦ ある新聞記者の歩み 6

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」6回目です。

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください

ある新聞記者の歩み6 降ってきた石油危機 しんどいながら記者として得た幸運

 「新聞記者にとって事件に恵まれるほど幸運なことはない」と毎日新聞の元記者佐々木宏人さんは『証言・第一次石油危機』(1991年、電気新聞刊)に寄せた一文の冒頭に書いています。

 佐々木さんにとって石油危機に出会うのは、入社して8年、32歳という油に乗った時期のことです。佐々木さんは経済部で仕事をするようになって3年経っていました。そこで出会った大きなできごとは石油危機(オイルショック)でした。昭和48年(1973年)の10月に第4次中東戦争が起き、それがもとで原油の価格が4倍にはねあがりました。それに伴い日本国内の石油価格が暴騰し、物価が急上昇して狂乱物価と言われるようになりました。物資不足への不安から消費者は買いだめに走り、トイレットペーパーや洗剤、砂糖などがたちまち店頭から消えました。

目次
◆寝耳に水の石油危機
◆通産省を震撼 石油危機直前の汚職事件
◆書くか、書くまいか 通産次官の爆弾発言
◆押し入れいっぱいのトイレットペーパー
◆書けば何でも1面トップ 寝過ごして特落ちも
◆朝日の原稿が毎日に!?
◆初の海外同行取材でフセインに会う
◆法案を“創作”

◆寝耳に水の石油危機

 「昭和48年(1973年)10月6日第四次中東戦争が起き、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が、米国を筆頭とするイスラエルを支持する西側諸国への米国を筆頭とする西側諸国への原油供給禁止措置を発表、第1次石油危機が勃発しました。電力からトイレットペーパーの生産まで“油漬け”の日本経済でしたから、日本はパニック状態になりました。

 そのわずか2ヶ月前に、僕は通産省(現経済産業省)記者クラブに配属になりました。通称「虎クラ」、虎ノ門クラブといいました。家電業界担当、電力記者会(現エネルギー記者クラブ)担当を経て、はじめての官庁詰めでした。毎日は各社とほぼ同じ3人体制でした。」

 「このとき、経済記者としてのキャリアを積むには欠かせない官庁取材の試金石ともなる経済官庁へ移ったわけです。経済記者のキャリアパスには、大蔵省(現財務省)、通産省担当は経験しなくてはいけないポストだったように思います。その内の一つである通産省配属になったのですから、今にして思えば意気揚々と乗り込んでいきました。というのも、水戸支局から経済部に移って約3年、東京での取材にも慣れて、特に電力記者会当時は、エネルギー問題に興味を持って、シベリア、インドネシア、アブダビなどの石油資源開発問題取材に首をつっこんでいました。前回お話したように、資源派財界人の安西浩、今里広記、中山素平、右翼の巨頭・田中清玄といった方々のところに通っては、1面トップを飾るような特ダネを幾つかものにもしていました。その年の7月に通産省に資源エネルギー庁も発足したばかり、記者としての実力を買われたような気分でしたネ。」

 「ところが、石油危機という“事件”に出会ったこの時期は、長い記者生活のなかでも、最大級にしんどい経験となりました。しかし、その後なんとか新聞記者として勤め上げることができたのも、「あの時の取材に比べれば」という、この経験があったからだという気がします。今では、この“事件”に出会ったことは幸運だったと感謝しています。」

 「とにかく、石油危機などという事態と、それが戦後経済史の中で最大の影響を生み出すきっかけになると予想した人は、通産省に詰めていた記者の中にひとりとしていなかったと思いますし、通産省の幹部にもいなかったと思います。いわゆる中東問題というのは政治、外交のテーマとしては意識されていたけど、経済問題、特に石油との関連でこれを考えることはまったくといってありませんでした。経済界全体が「水と油は蛇口をひねれば出てくる」という意識ではなかったでしょうか。時あたかも田中角栄首相の「日本列島改造論」で土地高騰が起きる高度成長の時代、エクソン、モービル、シェルなどのアラブの石油を押さえている国際石油資本(メジャー)に頼めばなんとかなる、日本にとっては金さえ払えば石油はどうにでもなるという感じではなかったでしょうか。私もその一人ですが、経済問題、特に石油との関連でこれを考える思考はまったく定着してなかったといっても過言ではありません。」

 「今でも覚えていますが、電力記者会当時の話です。経済部では毎週月曜日朝10時から、民間経済担当記者がその週の取材予定、記事出稿予定、情報交換を行う民間部会をやっていました。その時、私から国際石油資本と関係の深い東亜燃料㈱の、高校の先輩でもある中原伸之社長から「佐々木君、英国のアラブ情報誌に『金本位制、ドル本位制を揺さぶる“石油本位制”の時代が来る』という記事が掲載されている。読んでみろよ」といわれ記事を渡されました。その話を民間部会で披露すると司会役の一橋大出身で後に大学教授に転身する民間担当デスクに「そんなバカなことあるわけないだろう」と一笑に付されたことを良く覚えています。石油ショック到来の半年間位前の時だったと思います。僕も「そうだよな―」と引き下がりましたけど、そんな時代でした。」

 「山形(栄治・初代資源エネルギー庁長官)さんが、大分たってから当時を回顧してこう言っていたことを記憶しています。「(石油ショックには)ぼう然自失だった。予測もしなかった」と。「メジャーにさえ頼んでおけば、石油なんてジャブジャブ入ってくるんだと、こう思っていた」と。」

 「エネルギー獲得のためには、メジャーの他にやはり自主開発原油も必要ということで、資源エネルギー庁ができたと思います。当時「和製メジャー」なんて言葉がエネルギー業界に飛び交っていました。」

以下はこちらをクリック

2020年12月16日

演劇記者の思い出 ― いまも演劇の現場に、と水落 潔さん

 私は1961年の入社です。演劇記者になりたくて受験したのです。面接の時、「何を勉強したのかね」と聞かれ「上方和事の研究です」と答えたところ、「新聞社に入って役に立つと思うかね」。 「役に立たないと思います」と言ったことを覚えています。とても無理だと諦めていたところ、思いがけず採用の報せを貰いました。生涯で一番嬉しかったことでした。後に、この年は変な奴を取ろうという方針だったと聞きました。

 前橋支局で二年勤務した後、学芸部に配属されましたが、当初は家庭欄、二年後に音楽担当になりました。当時、歌謡曲界が一挙に若返って橋幸夫、舟木一夫、都はるみら十代歌手が人気を集め始めたので、担当者も若い者が良いだろうというのが理由でした。これも二年、最後はビートルズの来日でした。小生意気な四人組でした。この後、毎日グラフに移りました。風俗、事件、人物など時の話題を写真と文で紹介する写真週刊誌で、三島由紀夫、小松左京、浅利慶太、桂米朝、永六輔、中村歌右衛門ら様々なジャンルの「時の人」を取材しました。三島さんの取材は死の前年でしたが「歳を取るというのは真っ逆さまの転落だね」と言っていたのと「三島は好きなことばかやっていると思うだろうが、そうでないことは僕が死ねば分かるよ」との言葉が印象に残っています。グラフの最後の仕事は、大阪万博の別冊特集号で、会場案内を含むカタログ雑誌にしたので飛ぶように売れました。

 再び学芸部勤務となりテレビと演劇を兼務しました。昼間NHKの放送記者クラブに詰め、夜は舞台を見るという生活です。入社して十年目にやっと志望の仕事に辿りついたわけです。演劇担当は二人で、先輩が新劇を持ち、私は古典演劇と演芸、商業演劇は二人で分担することになりました。新劇は老舗の劇団に陰りが出て、アングラと呼ばれた小劇場が台頭した時代でした。蜷川幸雄、井上ひさしなど平成の演劇界を代表する人材が出てきました。アングラ演劇は安保闘争の挫折から生まれたもので、既成価値を一切認めないという新左翼の政治運動の側面を持っていました。商業演劇は映画スターが主演する女優劇が全盛で、家電メーカーをはじめとする企業や商店街が招待する中高年の女性が客席を占めていました。歌舞伎は戦後歌舞伎を支えてきた名優が円熟期を迎えていましたが、興行的には苦しい時代でした。歌舞伎座を例にとっても三波春夫、大川橋蔵、中村錦之助らの公演が人気を集めていたのです。藤山寛美の松竹新喜劇の人気が沸騰していました。

 私自身のことで言うと、歌舞伎俳優に名前を覚えて貰うのが一苦労でした。子供のころから歌舞伎や文楽は見てきましたが、仕事となると別です。あらゆる俳優と適当な距離を取ることと、下調べを充分にしたうえで取材をする。それが一番大切だと教わりました。学芸部員は交代で連載小説を担当する仕事があります。私は源氏鶏太さんと瀬戸内寂聴さんの小説を担当し、デスク時代には白木東洋部長と共に藤沢周平さんに小説の依頼をしました。池波正太郎さんからも「次は毎日に」と約束を貰っていたのですが、亡くなられて果たせなかったのが残念です。瀬戸内さんは当時から売れっ子で、原稿がまま遅れがちになります。当時(昭和五十三年)はファクスという便利な器械が無かったので、夜遅く芝居を観終わった後に電話で原稿を受けるのです。これも修業の一つでした。源氏さんからは、「世の中に大人物がいると思ってはいけませんよ」と言われました。今も肝に銘じています。

 色々なことがありましたが、経済が右肩上がりの時代でしたから、楽しいことの方が多かったです。演劇記者でもう一つ大切なことは訃報です。素早くキャッチすることも大切ですが、その人の業績をしっかりと伝える記事が故人への何よりの追悼になるのです。不謹慎な話ですが、予定稿が不可欠です。

 昭和末から平成にかけて演劇界は大きく変貌しました。ミュージカルが大劇場演劇の柱になり、歌舞伎界では次世代の俳優が主流になりました。その先鞭をつけたのは劇団四季の「キャッツ」と三代目市川猿之助の「猿之助歌舞伎」、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」でした。それらの舞台を見た若者が演劇ファンになったのです。ミュージカルでは次々に人気作品が上演され、歌舞伎では猿之助に続いて十八代目中村勘三郎が出てきました。歌舞伎座は平成二年から年間すべてが歌舞伎公演になりました。私は平成八(1996)年に退社したのですが、二十五年間に亘って好きな演劇の仕事を続けられたことを感謝しています。お陰で今もってささやかながら演劇の仕事をしています。毎日新聞のお陰です。ある先輩から「お前は毎日の看板を利用して自分の商売をしてきただろう」と言われました。まさにその通りの人生でした。

(水落 潔)

水落 潔(みずおち・きよし)さんは1936年、大阪出身。早稲田大学文学部演劇科卒。1970年より学芸部で演劇を担当。編集委員、特別委員を経て96年退社。幼時から歌舞伎、文楽に親しみ、主として古典演劇、商業演劇を中心に評論活動。主な著書は芸術選奨新人賞受賞(91年)の『上方歌舞伎』をはじめ、『歌舞伎鑑賞辞典』『平成歌舞伎俳優論』『幸四郎の見果てぬ夢』『文楽』『演劇散歩』。日本演劇協会理事。2000年、桜美林大学文学部教授に就任、名誉教授。

2020年12月14日

一人オペラ・奈良ゆみさんを追いかけて ― 元写真部の橋口さん、リタイア後は音楽の世界に

キャプション

 パリでは10月30日から2度目のコンフィヌモン(自己隔離・外出規制)対策を施行しているにもかかわらず、コロナ禍は拡がるばかり。沈静化の気配がうかがえない。

 3月の退職後、カヌーでの大隅海峡漕破を目指すプロジェクトへの参加や、さまざまなイベントやコンサートの関係者からの依頼もあり、昔取った杵柄の写真撮影で、多少なりと禄を食もうと考えていたが、ご多聞に漏れず、すべてがパーに。

 夏には、予定されていたオファーを全てクリアして、まず、パリへ行こうと思っていたが、それもかなわぬことに。なぜパリなのか。それは、日欧で活発な公演活動を続けるソプラノ歌手、奈良ゆみさんと、パリで逢うことにしていたから。

 11月6日に、奈良ゆみさんの会報「ラ・プレイヤード」の世話人、海老坂武さんから寄稿の依頼があった。そこに、なぜパリに行きたいのかという経緯を含め書いた拙文を寄せた。

 〈奈良さんの『一人オペラ』との出会い―—〉

 「まだ新型コロナ騒ぎが発生する前の今年1月11日、東京・港区の山王オーディアムで、奈良ゆみさんの『葵の上~業のゆくえ』を、音楽好きの友人ら3人と一緒に聴いた。

 住宅街に築かれた100人収容ほどの小さなホール。演出の笈田ヨシさんは、中央部分を舞台に仕立て、三方を客席で囲んだ。このため約80人分の席しか設けられず、昼夜2回の公演とも満席となった。聴いたのは昼の公演だったが、立錐の余地もなく、コロナ禍の現状では考えられないほど濃密な空間は、冬の最中にもかかわらず、開演前から熱気に包まれていた。

 演奏されたのは作曲家の松平頼則さん(1907~2001年)が書いたモノオペラ『源氏物語』から『六条御息所』の部分を再構成したもの。松平さんの絶筆となった『鳥(迦陵頻)の急』をフィナーレに加えて一層深化させ、『愛の瞑想と魂の浄化が描く美しい世界』が展開する。

 奈良さんの澄んだ張りのある歌声が、愛と情念の歌絵巻を劇的に描く。揺るぎない圧倒的な歌唱が、息遣いが聴こえるほどの密接な距離感の中で、深く大きく、時に激しく心を揺さぶる。またヴァイオリンとヴィオラで卓越した技量を示した亀井庸州さんが吹く尺八にも魅了された。二人の呼吸に乱れはなく、加えて物語を進める山村雅治さんの穏やかな口調が、葵の上の悶え苦しむような〝業〟を、より鮮やかに際立たせていた。

 私が奈良さんの『一人オペラ』と出会ったのは2004年、千葉県習志野市の習志野文化ホールでの『ソロ・ヴォイス』の公演だった。このコンサートでも『源氏物語』からアリアがメインに据えられた。また公演ではステージ上に観客を乗せて鑑賞させるというユニークなスタイルをとっていたこともあり、毎日新聞の記事として取材、掲載した。

 以降、奈良さんとはメールの遣り取りを続け、国内の公演に足を運んだり、また誕生日にささやかなプレゼントを贈ったりも。頂いた礼状には、ぜひパリに遊びに来てくださいと書かれていた。40年務めた新聞記者業をこの3月に終えた以降、パリに奈良さんを訪ねようと思っていたが、予期せぬコロナ蔓延により叶わぬことに。

 半ば諦め感が漂う中、奈良さんのフェイスブックを見ると『来年1月23日には大阪でやる予定です。舞台は生きています。私達も!』と嬉しい書き込み。これから、どうなるか一寸先は闇状態だが、ぜひ実現させて欲しい。そのためにも猖獗を極める新型コロナ流行に、一刻も早く終止符が打たれることを祈るばかりだ」

 寄稿した文面通り04年に出会った後、12年にフェイスブックで再会。翌年の東京でのリサイタルに招待を受けた。リサイタルを聴き終え、地下鉄銀座駅で撮影した写真と一緒にフェイスブックに投稿した。(「銀座でのリサイタル」=写真・右)

 13年6月7日

 「久しぶりに夜の銀座でフリーに。『あれ、久しぶり』という声も聞きたかったが、真っ直ぐ『家路』に…。いやー良かった。本当に酔いしれてしまった。一滴も呑んでいないのに…。奈良ゆみさんの『詩人の魂』というプログラム。人を愛することへの『てらい』が吹き飛ぶような感じが漲って…。ちょっと危険なので、直帰しました!」

 その後、メッセンジャーでのやり取りを続ける中、たまたま奈良さんの17年の誕生日に投稿されたファンからの「賛歌」に曲を付けるという暴挙を。(「西瓜の姫賛歌」=写真・上)

 「怒られるかもしれない…。きっと…。

 奈良ゆみさんの投稿にあった『西瓜の姫賛歌』…。ちゃんとした作品が、きっとあるだろうに…勝手に作曲してはいけませんねぇ~。

 でも物憂げな雰囲気が良かったので、ついつい…。

 投げやりな雰囲気をいっぱい醸し出させられるよう、右では4拍子で左は6拍子…。

 オスティナート的な伴奏が気に入って、譜面にしてしまいました。

 奈良さん、お許しください…」(フェイスブック17年7月11日投稿)

 これに対し、すぐ奈良さんからメッセンジャーで返信があった。

 「何と嬉しい予期せぬ贈り物!ありがとうございます!!!ああ、幸せ…明後日ピアニストのところに行きますので、持って行って早速歌ってみます」

 この返信に気を良くしたからではありませんが、さらに次の年にも誕生祝いの詩に作曲することに。(写真=西瓜の姫の誕生日))

 「あれやこれやと忙しくやった割に、成果の方は…。多忙な時こそ集中して…と、西瓜の姫への贈り物を、一気呵成に仕上げました…。

 誕生日ですから、明るくしっかりニ長調…。入りのホンキーなピアノだけが、ちょっとそれっぽいですが、後は、全くのポピュラー仕立て…。

 ロックにサンバのリズムを加え、所々、複雑にしていますが、終始、能天気な雰囲気を維持しました…。メロディーは繰り返しなのでリピート処理したかったのですが、細かな変化があるので、繰り返し記号なく77小節…ラッキーな数字にピタリと…。昔の手書きだと大変ですが、今は、コピペで一気に…。良い時代に生まれたものだ!」(同18年7月7日投稿)

 奈良さんからは、前回同様感謝の言葉が。そして、パリの自宅を訪ねてほしいとも。

 現状では当分、出入国が難しい状況が続くだろう。しかし、何とか叶えたい。

 奈良さんは今月4日、フェイスブックに「来年1月23日に大阪のザ・フェニックスホールで『葵の上』の公演をいたします。秋になる頃にはすこし考えたのですがあまり迷うこともなくやることに決断しました」と投稿している。だがその4日以降も、大阪そして全国でのコロナの感染拡大は拡がるばかり。

 無事公演ができればと、これまで不謹慎にも神仏に願うことなどあまりなかったが、毎朝の散歩の折に、自宅近くの茂呂神社(船橋市東船橋)で、パリでの再会の期待も含め「コロナ退散」を祈っている。

(橋口 正)

橋口正さん略歴:1954年寝屋川市生まれ。府立高卒業後、アジアアフリカ欧州を2年近く放浪。81年、毎日新聞入社、東京写真部。三越岡田社長事件、日航機墜落の御巣鷹山、伊豆大島噴火取材では搭乗ヘリに火山弾などを経験。阪神大震災発生直後、大阪湾上のヘリから、燃える神戸の街を撮影。写真部編集委員、船橋支局長、東京本社事業部、茨城県土浦通信部を経て、10年にわたる千葉県松戸通信部を最後に2020年3月退社。夏は軽井沢、冬は船橋の二重生活。約2万枚のCD管理もままならず、一日2時間のピアノ練習と、レスキューした愛犬「ソラ」と「ミク」の散歩が日課。

2020年11月30日

宇宙・地球・人力発電―新しい時代の創造者を目指して 元社会部、茂木和行さんの新世界

シルク・ドゥ・ソレイユ公演「O(オー)」を観劇したホテル「ベラージオ」の劇場の前で(ラスベガス)

 「人力」を究極の自然エネルギーと位置付け、人力発電とアートを結び付ける「発電アート」を展開することによって、持続可能で循環型社会の実現を目指すNPO法人人力エネルギー研究所を設立して3年目になる。毎日新聞の企業理念として「生命をはぐくむ地球を大切にし」「生き生きとした活動を通じて時代の創造に貢献する」ことがあげられている。社会部の警視庁担当記者として、地球環境問題よりも、特ダネ取りに熱中し、ロッキード事件などの現場を渡り歩いていた私が、いまになって毎日の理念に重なる活動をしていることに、不思議な因縁を感じている。

ドン・ジョヴァンニの開演を告げる私
足踏み発電で地獄門の電飾が輝くドン・ジョヴァンニの一風景
富士河口湖町役場前で開催した 人力発電遊園地 で走るSL「まてき号」

 足踏みで発電する「発電床©」を使ったコンサート・オペラ「ドン・ジョヴァンニ」(河口湖円形ホール)、富士河口湖役場前で行った足こぎ発電でSL「まてき号」を走らせた人力発電遊園地、と、次第に規模を大きくし、この4月12日には「発電アート」の集大成であるサステナブル・オペラ「魔笛@人力発電遊園地」を河口湖ステラシアターで上演することになっていた。

 ご多聞に漏れず、新型コロナウイルスの感染拡大のために舞台稽古を1回しただけで公演は中止。来年4月25日に三鷹市公会堂光のホールでの再チャレンジが決定したものの、中止にともなう経済的損失がかなりな額に上り、東京公演では河口湖公演で予定していたSLレールの設置や富士山を模した電飾は断念し、足こぎ発電エアロバイク1台を設置する次のようなストーリーに転換することにしている。

 昼の王国ザラストロは、太陽光、風力、水力で電力を賄うスマート・シティ。夜の女王は、魔法の足こぎ発電エアロバイクで電気を賄っている夜の国の支配者。愛と友情を信じる者が魔笛を吹きエアロバイクと 呼応すると、世界を明るく照らす「光の輪」が起動する。

 夜の女王の国は、かつてこの「光の輪」によって明るく輝く世界だったが、女王の夫が亡くなった時に、親友のザラストロに「光の輪」を預けたことから、女王の国は鳥刺しパパゲーノがこぐ足こぎ発電エアロバイクだけで電気を賄う夜の世界になってしまった。「光の輪」を持ちながら魔笛を欠いているザラストロの王国も、陽がささず、風もなく、水が凍ってしまう冬の季節には、エネルギーの枯渇に悩んでいる。

 夜の国に迷い込んだ王子タミーノは、ザラストロの王国に幽閉されている夜の女王の娘パミーナを救って欲しいと女王に頼まれ、魔笛を預けられる。女王の真の狙いは、「光の輪」を取り戻し、夜の国を再びエネルギーに満ちた明るい世界に戻すことだった。タミーノは、愛するパミーナとともに魔笛を吹き、足こぎバイクをこぐパパゲーノの友情の力を借りて、見事「光の輪」を復活させることに成功、パミーナとめでたく結ばれることになる。

 魔法の鈴の力で娘に戻ったパパゲーナとパパゲーノも結ばれ、大団円に。「宇宙の神よ、愛と友情の力が世界に光を取り戻させたのだ。愛と友情、そして平和への祈りをあなたに捧げる」と、夜の女王も再登場して、全員の合唱でフィナーレとなる。

魔笛衣装によるファッションショー風景

 11月に入って、思いもかけず文化庁の「文化芸術活動の継続支援事業」交付金を頂戴することになり、11月27日に木場のスタジオで、魔笛公演用の衣装を使って、ファッションショーを行い、魔笛公演用のPR動画作成にあたった。辣腕演出家で知られる岸聖展氏にお願いしたこのファッションショーは、添付写真でご覧いただけるように、出演陣全員が黒マスク姿でコロナ・ウイルスを威嚇する、なかなかのシュールに仕上がっている(写真:嶋谷真理)。

 魔笛に登場予定の宇宙人アオヒト=国際的なアーティスト・パフォーマーの関根かんじさん=も先行出演し、足こぎ発電エアロバイクをこいでくれている。

 世界はいまや宇宙への進出競争の時代に入っている。その背景に、地球という惑星がエネルギー資源においても、居住空間としても、増殖する人類をもはや支えきれないとの危機感があることは言うまでもない。だが、宇宙進出によって食料や水、エネルギーを獲得する道が開けたとしても、加速する人類の進出はいつか宇宙のエネルギーそのものを食い荒らし、地球環境問題は宇宙環境問題へと拡大していくのではないだろうか。

 そんな想いから、時空を超えて高天原に降り立った宇宙人が、人力発電の力で地球だけでなく宇宙全体の環境危機を救う未来劇「アマテラスと魔法の足こぎ発電エアロバイク」を、魔笛外伝として制作する準備も進めている。

 はるか昔、銀河系内の地球から移住した人間種族のために、光を失い、枯死寸前に追い込まれている「あおいろ星」人は、地球人の秘密を探るために、一人の若者アオヒトを地球に送り込む。高天原の天岩戸にタイムスリップしたアオヒトは、使われないままに放置されていた「足こぎ発電エアロバイク」に出会う。それは、宇宙の気を集め、ごみをクリーンなエネルギーに変える力を持つ魔法のマシンだった。

 アメノウズメとともにこの魔法のマシンによって天岩戸をクリーンな青い光で満たし、アマテラスを天岩戸から連れ出すことに成功したアオヒトは、アマテラスを連れて宇宙へと旅立ち、地球人に汚された宇宙を元のきれいな宇宙へと戻してゆく。

 宇宙的視野で「古事記」の世界をも見せる私どもの未来劇は、日本文化の深淵を垣間見せることによって、新しいジャポニズムのうねりを世界へと発信すると信じている。

 折も折り、新型コロナ・ウイルス感染拡大の「巣ごもり」日常で、行動範囲が自宅周辺への散歩、ランニング、自転車によるツーリング、に変わった結果、身の回りに実に多くの神社、鷺宮八幡神社、阿佐ヶ谷神明宮、本天沼稲荷神社、猿田彦神社…が存在することを知った。

 JR荻窪駅近くの「天沼八幡神社」(杉並区天沼=写真左)に置かれていた「天沼八幡神社報」の中面3頁に、「日本書記1300年」の文字を見つけ、2020年が、『日本書記』誕生(養老4年=720年)1300年の記念すべき年であることに恥ずかしながら気づいた。その8年前の712年(和銅5年)には『古事記』が誕生している。

 「戦後75年間、日本は二千年以上続く皇統と伝統文化を持つ地球上でも稀有な国であることを学校で教わらなくなりました」と、天沼八幡神社報は嘆き、平成十年(1998年)IBBY(国際児童図書評議会)ニューデリー大会で行った上皇后陛下の基調講演でのお言葉を紹介している。

 「一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴しています。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や死生観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます」

 記紀神話に無知・無関心だけでなく、この「お言葉」に返す言葉がない我が身がなんとも情けない。日本書記誕生1300年にあたるこの機に、日本人の精神構造に深く根を下ろしているアマテラスの存在を世に問うことは、コロナ・自然災害など人類存亡の危機が露呈するこの時代に、明るい希望の光を取り戻すことにつながる、のではないか、の思いを強くしている。

 機を同じくして、未来劇「アマテラスと魔法の足こぎ発電エアロバイク」の演出もお願いする予定の岸氏から「日本全国のアマテラス神社を結ぶ道(トレイル)を構築し、太古の英知によって高密度社会がもたらしたコロナ禍の時代を乗り切る処方箋を提示するGo toトラベル・キャンペーン:アマテラス・トレイルを企画して、毎日新聞社に旗振り役をお願いしたらどうか」との提案が出されたのは心強い。岸氏は「日本人は古代から人の力の源である大地と語り合ってきた。アマテラス・トレイルとして再発見される大地の結びつきは、点と点を繋ぐ聖座(星座)を形作り、コロナ禍で消沈した社会に再び明るい未来を取り戻す力となるのではないか」と尻を押してくれている。

 毎日新聞の長期連載企画「宗教を現代に問う」が、1976年の新聞協会賞を受賞したことは記憶に新しい。そのパート2として、「神道を現代に問う」といった形で、アマテラスに始まる天皇の歴史を含めた「神道と日本人」の連載を始めてみてはどうだろうか、と思い始めている。日本人の心の原点を探り、私たち日本人の文化の深層を明らかにしていくことは、「時代の創造者」である毎日新聞にふさわしい企画になる気がする。

 アマテラスの道を、フランス南部からスペイン国境までの1500kmを結ぶ「サンティアゴ巡礼」や「歩く瞑想」として知られる「ラビリンス・ウオーク」などとつないでゆけば、「祈り」の輪によって世界が一つになってゆく、素晴らしい試みになるのではないだろうか。

 昔取った杵柄で、アマテラス・トレイルの同行取材などやってみたいと、「面白がり屋」の記者魂が復活するのを感じ、ワクワク感が否めない。流行語になった「お・も・て・な・し」に変わって「ア・マ・テ・ラ・ス」が、時代の先頭に立つようなことができれば、記者生活最後の残照を「時代の創造者」の一人として終えることが出来るかもしれない。そうなれば、何という幸せだろうか。

 ちなみに、東京都の芸術活動助成金プロジェクト「アートにエールを!」に、魔笛公演を題材とした以下の映像作品2点も採用され、ユーチューブ上で公開されている。

〇サステナブル・オペラ「魔笛@人力発電遊園地」
https://www.youtube.com/watch?v=ydrPDLMAfMA&t=270s

〇パパゲーノの冒険「持続可能な愛と平和を求めて」
https://www.youtube.com/watch?v=IIZkH4P4krY

ご覧いただければ幸いである。

※茂木和行さんは1970年、東大理学部天文学科卒、毎日新聞社入社。水戸支局を皮切りに社会部記者、サンデー毎日記者。1986年 退社。ニューズウイーク日本版副編集長、フィガロ・ジャポン編集長、生命誌研究館サイエンス・キュレーター、聖徳大学教授を経て 現在 NPO法人人力エネルギー研究所理事長。

2020年11月27日

タウン誌、地域FM、「47NEWS」の「三つのわらじ」── 新しいメディアで歩む元政治部副部長、尾中香尚里さん

 昨年9月に早期退職し、毎友会に加えていただきました。どうぞよろしくお願いします。

 昨年春に夫の仕事の都合で神奈川県藤沢市に転居し、遠距離通勤となったことなどを機に、次の人生を考え始めました。地域面の仕事の経験から、毎日新聞を含む新聞各社が(経営戦略上仕方ないとはいえ)地域報道を縮小していくのを寂しく思っていたので、卒業後は地域のタウン誌かコミュニティーFMで、地域情報の発信にかかわりたいと思っていました。

 「新たな地元」となった藤沢市のタウン誌「ふじさわびと」の門を叩きました。地元の駅や行政機関などに置かれているフリーペーパーですが、デザインも編集も無料とは思えない質の高さに感動しました。調べると日本タウン誌・フリーペーパー大賞(現日本地域情報コンテンツ大賞)を受賞した経歴もあるとのこと。地元タウン誌で長く編集長を務め、定年後に起業し1人でタウン誌を立ち上げたパワフルな女性編集長の生き方にも、強くひかれるものがありました。

 編集スタッフとしての参加が決まり、退職を決断。それをSNSで公表したところ、その日のうちに高校時代の友人から電話がかかってきました。歌手をしているその友人は、間もなく東京都狛江市に開局するコミュニティーFM「コマラジ」(85.7MHz)で、週1回お昼の情報番組のパーソナリティーを務めることになっており、その番組の制作にかかわってほしいというのです。

 あれよあれよという間に、私はこの友人とともに、毎週月曜正午から2時間の生番組に出演することになってしまいました。番組名は「アフタヌーンナビ Good Day Monday」。狛江市以外でもスマホアプリ「リスラジ」を使えばインターネット経由で聞くことができるので、よろしかったら聞いてみてください。

 番組では「最近の気になるニュースについて友人とおしゃべりする」というコーナーのほか、多くのゲストさんをお招きしています。ゲストさんはミュージシャンの方が多く、在職中にはお会いできなかったようなジャンルの方々と話すことができ、非常に刺激を受けています。また、放送でかける曲の一部を、自分で選曲できるのも魅力です。音楽でキャリアを積んだわけではないのにこんな仕事を任せていただき、本当に感謝の一言です。

 これで卒業後の新しい活動が固まったと思いきや、退職直後にさらなる仕事が降ってきました。共同通信社のウェブサイト「47NEWS」で、ネット向けの政治記事を書いてみないか、と誘われました。

 実は政治報道にかかわることは、退職後の仕事としてはさほど考えていませんでした。現役時代にどっぷりと仕事したので、退職後は少し局面を変えたかった。でも一方で、長く取材を続けてきた野党陣営の行方をもう少し見届けたい思いもあり、迷いましたがお引き受けしました。その途端に発覚したのが、ご存じ「桜を見る会」問題、そして新型コロナウイルスの感染拡大でした。

 気楽に野党関係の記事を書くつもりが、気がつけばこの間の安倍政権、続く現在の菅義偉政権のコロナ対応について、立て続けに論評記事を出すようになっていました。

 私は2011年、菅(かん)直人政権時の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の際に政治部デスクを務めていました。取材先の多くが閣内にいたこともあり、一記者としてあの「国難」に対峙した政権の苦闘を間近に見てきました。当時の政権もひどく批判されましたが、コロナ禍という新たな「国難」に対峙する政権の無責任さを見過ごせなかったのです。

 いざ書いてみると、予想外に多くの方に読んでいただけているようで、正直戸惑いました。現役時代に新聞記事を読んでくださっていた層とは、明らかに異なるようでした。国民の政治不信が広がるなか、こうした記事にはほとんど需要がないと思っていただけに、これは驚きでした。そして反応のなかに、毎回いくつも同じような言葉があるのに気づきました。

 「今まで自分の中でもやもやしていたことを言葉にしてくれた」「もやもやが可視化された」

 なるほど、と思いました。

 会社を離れた(そしてほかの仕事もある)今、日常的に永田町を歩いて生の取材をしているわけではありません。書くのは国会審議など表に出ている事象の解説が主体。記者時代を振り返れば「こんなことでいいのか」と思うこともあります。

 でも、いいかどうかは別として、読者の皆さんは今、一次情報や調査報道によるスクープだけでなく、複雑な社会のなかで感じている「もやもや」を整理し、言語化してもらいたいのではないか。そういう方向で、私の仕事にも少しは意味があるかもしれない。そう感じたのです。

 そんなわけで今日も「三つのわらじ」で、地元・藤沢から狛江、国会まで出没しています。コロナ禍で行動は思うに任せませんが、「自分の足で歩いている」実感があります。さらなる精進を続けつつ、さまざまなトラブルも楽しみながら、新たな人生を歩んでいきたいと思います。

※尾中香尚里(おなか・かおり)さんは福岡県出身。早稲田大学第一文学部卒業後、1988年入社。初任地は千葉支局。主に政治部で野党や国会を中心に取材。政治部・生活報道部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを務め、2019年に退社。共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。

2020年11月27日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑥ ある新聞記者の歩み 5

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」5回目です。

 経済部時代(3) エネルギー問題が大きな柱に

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記URをクリックしてお読みください。
 https://note.com/smenjo/n/n29ad13427a32

(インタビューは校條 諭さん)

 目次
 ◆三島事件の現場の近くにいながら  松下二重価格問題余話
 ◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!
 ◆エネルギー問題にどっぷりの始まり
 ◆電力会社などの広報担当と銀座を飲み歩く
 ◆ガレージの門に松葉をはさんでおくと
 ◆右翼の巨頭・田中清玄にかわいがられる
 ◆フィクサー児玉誉士夫の影
 ◆ブルネイへの視察旅行-初のLNG輸入
 ◆シンガポールで石油公団総裁から特ダネ

◆三島事件の現場の近くにいながら  松下二重価格問題余話

Q.前回、松下電器の二重価格問題で大スクープを放ったというお話をお聞きしたのですが、そのテーマの取材が続く中で、印象深く残っているできごとがあるそうですね。

 「松下と地婦連の対決が続いている時期、確か当時の家電商品安売りで名をはせていた城南電気に取材に行って、その帰りに取材用のハイヤーの中で、カーラジオで三島由紀夫の自決事件が起きたことを聞いたんです。昭和45(1975)年の11月25日ですね。あれから50年たつんですね。ビックリです。三島は昭和元年生まれですから当時45才。」

 「ぼくは高校生、大学生の頃、三島はかなりたくさん読んでいてわりと好きでした。初版本も結構集めていました。10年位前かな、阿佐ヶ谷の自宅を整理した時、段ボールに入った当時の本が出てきて、文学書の初版本などを扱っている荻窪の古本屋に持ってい行ったら、5万円くらいで売れて驚きました。

 高校時代から三島の作品を読んでいました。麻布高校時代、数人しかいない「文芸部」に所属していた“文弱の徒”でしたから。三島の作品では『鏡子の家』(昭和34年刊)という、評論家からは失敗作というのが定評の長編作品が好きでした。その都会的ロマンチシズムにあこがれていました。

 ただ終戦時の天皇の人間宣言を呪詛する『英霊の聲』(昭和41年刊)くらいからは熱心に読まなくなっていましたけどね。とてもその天皇への憧憬にはついていけなくなりました。でも新刊が出れば大体目を通していましたよ。最後の事件直前に完結した『豊穣の海』四部作は現実感が乏しくついていけなかったなー。その最終巻発刊直後の事件だっただけに驚きました。」

 「いまだに後悔しているんですが、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の現場に寄ればよかったなと。野次馬だけど、現代史の現場ですし、社旗を立てたハイヤーで回っているわけだから、ある程度近くまで行けたと思うんですよ。 もちろん社会部とか学芸部の記者が行っているはずだし、記事も彼らが書くわけで、経済部のぼくが行ったからといって記事を書くわけではありません。今でもそうだけど、とにかく現場に行きたかったということでしょう。そういう意味では社会部の方が向いていたかも(笑)・・・。でも下手に現場に行って「経済部が何しに来た!」と言われて編集局で問題になったかもしれないですね(笑い)。」

 「考えてみると水戸支局を経て新聞記者になって5年目、三島のロマンチシズムとは距離感が出てきたんでしょうね。物見遊山で現場に行くものではないという、職業意識が確立してきていたのかもしれませんね。そういうわけで、自分の中ではカラーテレビの二重価格問題と三島事件とはオーバーラップしていますね。両者は直接関係ないんですが、カラーテレビの普及というのは、三島が危惧していた「空虚で空っぽな」大衆消費社会への入口でもあって、つながっている面もあったかなという気がしています。」

◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!

Q.経済部の方から聞いたのですが「佐々木さんといえば“ソニー”と、“リコー”問題だよ」と聞いたんですが、どういう事ですが?家電担当の頃のことでしょう?

 「まいったな。そんなことまで知っているの?今だに当時の仲間と飲んだりすると冷やかされる“わが記者人生最大?の失敗”です。

 当時、各企業が出す新製品のプリント二、三枚、写真付きのニュースリリースが経団連記者クラブの各社ボックスに投げ込まれていました。その中で面白そうな新商品をピックアップして、活字も小ぶりで10行位の原稿にする「ビジネス情報」というコーナーがありました。一日10本程度は載せていたでしょうか。各社の広報にしてみれば、正式な記事として経済面に無料で掲載されるんですから「『ビジ情』でいいから載せてください」と頼まれたもんです。」

 「ある時、ソニーが確かトリニトロンテレビの16インチテレビの新製品のニュースリーリスを持て来たんです。それまでにも何回か型の違う製品の発表があったので、「これはビジネス情報でいいですね」とキャップの図師さんに伝えて10行位のビジ情にまとめました。「ソニーは新しい高精細のトリニトロンテレビの16インチの新製品を出した」という感じですね。

 ところが降版が過ぎて、もう訂正の効かない夜中の12時過ぎに赤い顔をして編集局に上がって紙面を見るとなんと!「ソニー」が事務機メーカーの「リコー」になっているではありませんか。ビックリ仰天!担当の当番デスクのYさんに「これ違いますよ!ソニーですよ!」。「もう輪転機回っているよ」

 デスクの手元に残された原稿を見ると「ソニー」と書いたところが、「リコー」と赤ペンで補正されているではありませんか。デスク「君がそう書いたんだよ」。下手な字で書きなぐった当方の原稿は、確かに見方によっては「リコー」と読めないことはない。当時から「経済部三悪筆?」と言われ、原稿を読んで写植する活版部には「佐々木の原稿が来ると、原稿が読める担当者が打つことになっている」というウワサが出るほどでした。」

 「当時、三島と並ぶ花形作家の石原慎太郎も悪筆で有名で、その原稿を読める専門家が新潮社や文藝春秋社などにはいるという話を聞いて、「おれも慎太郎並なみだ!」とえばっていたんですからどうしようもないですね(笑)」

 「でもおかしいのは翌日、紙面化された記事を見て「ソニー」、からも「リコー」からもクレームはなし。そのためか訂正記事もなし。今から考えれば信じられませんね。今だったら炎上騒ぎでしょうね。残ったのは「リコーにテレビを出させたササキ」という伝説、いや実話。」

 「「リコーがテレビなんて出すはずないじゃないの」という批判があるかと思います。担当デスクだったYさんのために弁明しておくと、Yさんは当時、経済企画庁担当の長老記者だったと思います。正式な役職上のデスク(副部長職)ではなく、キャリアの長い記者が経験を買われて臨時に民間経済面のデスクに入っていました。アップツーデートな民間経済情報には疎かったと思います。

 Yさんは某製紙会社の社長の御曹司で慶大卒。戦時中、海軍の短現(短期現役主計士官)に行かれてすぐ終戦になり、実戦経験はゼロ。それだけに海軍への思い入れは強く、酔うと必ず〽さらばラバウル、また来る日まで―という「ラバウル小唄」を腕を振りまして、歌われました。我々もそれに合わせて大声で歌ったものです。本当に憎めない面白い人でした。

 でも同じ職場の身近に戦争帰りの人がいたんです。そういう時代だったんです。」

以下はこちらをクリック

2020年11月26日

司会と編集長 海外日系人協会を手伝ってます ―― 元外信部長、中井良則さん

 「司会」といえばいいものを「モデレーター」なんてカタカナで呼ぶようになったのは、いつからでしょう。聞きなれないカタカナ語にすれば、何やら高級そうに錯覚するからか。そんなことを気にしながらも「モデレーター」を務める羽目になりました。

◆海外日系人大会中止でオンライン会議◆

 毎年、世界各国から日系人の代表が200人前後東京に集まります。新聞もテレビもあまり記事にしませんが、自分の出自をジャパニーズと認識している人々にとっては、結構、大きな国際会議です。日系人人口はブラジルで190万人、米国で150万人を数え、世界では390万人といわれます。この「海外日系人大会」を主催する海外日系人協会という公益財団法人があり、この数年、常務理事としてボランティアで手伝っております。記者時代、中南米や米国で日系人に会い、記事も書きました。

 2020年は新型コロナウイルスで外国のお客さんは呼べません。国際会議は軒並み中止でした。61回目となるはずだった海外日系人大会も見送りとなったのはやむをえません。

 「でも、対面の会議に代わるなにかをやらないと」「なにか、ってなんだ」「だから、なにだよ、なんだろね」なんてやりとりはなかったけれど、オンライン・フォーラムなるものを開こうという話になりました。またカタカナ語です。要は、「日系人のメッセージや会議をビデオ録画し、YouTubeで公開しよう。世界どこでも、いつでも見てもらえるし」というわけです。

 10月31日にYouTubeにアップしました。お時間があれば、海外日系人協会のホームページから、簡単にアクセスできるので、ご覧ください。
http://www.jadesas.or.jp/

◆日系人の記憶が危機を乗り切る支えに◆

 15か国の日系社会の代表17人からビデオメッセージが送られてきました。これもまた日本ではあまり報道されないけれど、コロナ・パンデミックで、どこの日系人団体も施設閉鎖や活動中止に追い込まれました。収入激減で、かつてない危機にあります。そんな窮状と、それでも立ち上がって踏ん張っている現状をみなさん報告してくれました。

 追いつめられると人間、自分は何者かと問い直すのですね。

 「第2次大戦の日系アメリカ人二世部隊の勇気を思い出します」「この地に渡ってきた父祖が示した忍耐力に励まされています」「ガンバレ・スピリットです」

 日系人としてのアイデンティティや歴史の記憶が受け継がれ、コロナの時代を乗り越える支えになっているようです。

◆貸しスタジオ見つけてビデオ収録◆

 で、ようやく書き出しに戻って、モデレーターの話です。このオンライン・フォーラムの中で、ミニ会議というかパネルディスカッション(またカタカナだ)をやり、その司会役が回ってきたという次第です。

 これまでも日系人大会で何回か司会を務めたことがあります。今回は参加者3人ずつの討論会を二つ続けて担当するわけです。この質問をこちらの人に振り、このテーマはあちらに聞いて、とコンテを準備しました。

パネルディスカッションの司会を務める筆者(左)。アクリル板で新型コロナウイルス対策も

 打ち合わせはZoomで済まし、さて本番はどこでやろうか。

 海外日系人協会の会議室ならおカネはかからないけれど、ビデオの撮影や録音がうまくいくか、ちょっと心配でした。素人がカメラやマイクを使うと、画像が揺れたり声が聞き取れなくて大失敗、という惨事はよくあります。事務局の人が、川崎駅前の貸しスタジオを見つけてくれました。カメラ3台が自動で切り替わり、マイクもプロ仕様で音質の保証つき。こういう場所貸しビジネスがあるとは知りませんでした。

 収録で気をつけたのは時間管理。オンラインで人の話を延々と聞くのは疲れるものです。40分以内でセッションを終わらせるようにしました。

◆コロナ対策、機械翻訳じゃわからない◆

 モデレーター、いや議論の出来栄えはYouTubeをのぞいてもらうとして、とりあげたテーマの一つが日本で働き、生活する日系人コミュニティです。日本には30万人を超える日系人がいて、これは日系人人口としてブラジル、米国に次ぐ世界第3位です。あまり知られていません。何度もいうけど、新聞も書いてない。

 コロナになって雇い止めやしわ寄せが各地の日系人を苦しめています。困るのは役所のコロナ対策のお知らせがポルトガル語やスペイン語、英語にはなっているけれど、意味不明なこと。グーグルなどの機械翻訳に任せ、ネイティブがチェックしないまま公開するので、わけがわからないんだそうです。そんな驚くべき現状が次から次へ出てきた議論でした。またもいうけど、後輩の記者諸君、取材して書いてよ。

◆「海外日系人大会60回の歩み」も出版◆

「海外日系人大会60回の歩み」

 海外日系人協会の仕事は、毎日新聞の大先輩、新実慎八さんからいわれて、やっています。この1年ほどは「海外日系人大会60回の歩み」という日系人の歴史をまとめた本の編集長を仰せつかり、かなり真面目に取り組みました。A4版391ページ、重量1,051グラム。11月1日に発行できました。半分以上のページは資料編に充て、60回におよぶ大会の宣言など文書の全文を掲載しました。次の世代に引き継ぐ記録は、原文のままでないと役に立ちません。この本もPDF版を海外日系人協会のホームページで無料公開しています。

※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職。

2020年11月18日

介護の職場が第二の人生 ― 元大阪本社運動部長、北村弘一さん

昨年秋、丹沢塔の岳で

 2年半前の2018年3月に、大阪本社編集局編集委員を最後に毎日新聞社を選択定年で退職し、1年5カ月前から介護大手が運営する東京多摩地区の有料老人ホームで介護職員として働いています。この11月に介護職員の現場リーダーとしての資格である実務者研修を修了し、当面は現場での実務経験が3年必要な国家資格である介護福祉士の取得を目指しています。

 まずは初任地の八王子支局で支局長だった高尾義彦さんの勧めでこの欄に寄稿させていただくことに、感謝いたしております。

 40歳の頃始めたランニングが縁で、毎日を辞めて最初に転職したのはランニング大会の運営や雑誌を発行するイベント会社でした。しかし、当初約束された編集職のポジションに就くことはなく、広告営業や大会運営など想定していなかった業務を担うことになりました。経営陣に対する不信もあり1年2ヶ月で退職し、いちから仕事を探すことになりました。

 知人を頼り新聞記者として勤務した大阪や札幌への移住も検討しましたが、世田谷区の自宅近くで既に保育士として働いていた妻に、にべもなく却下され、都内での就職に方針転換して複数の就職サイトに登録して情報収集しました。当初はライターの仕事も探しましたが、50代半ばを過ぎ、資格も持たない身には、さしたる誘いもありません。「キャリアを生かせないばかりか、社会の何の役にも立たないのか」と悲観し始めた頃、たまたまインターネットで見た「介護職員初任者研修を無料で受講 さらに就職先を斡旋」との広告が目に止まりました。初任者研修とは介護職員の入口にあたる未経験者向けの15日間のスクーリングで、介護全般の座学と実務の基礎を学びます。

 自宅近くで働けるから通勤のストレスから解放される、健康維持のため身体を動かして働ける、この歳からでもキャリアアップが目指せる、ことが決断の後押しになりました。後期高齢者が急増し、介護職員が38万人不足すると言われる2025年問題も頭の片隅にありました。幸いまだ身体が動かせるうちの仕事としては相応しい業界のようにも感じました。

 ただし現場はそう甘くはありません。言うまでもなく、「きつい」「汚い」「危険」の3K職場の典型です。例えば介護の具体的な手順は個々の利用者向けに共有されてはいますが、せっかく手順を覚えても、スタッフ個々の考え方はさまざまで、ベテランのおばちゃんパートにダメ出しを食らうこともしばしばでした。

 加えて現在務める事業所は平均の要介護度が3の半ばで高く、ほとんどの方が程度の違いはあれ認知症を患っています。認知症の方々の生活にこれほど濃密に接するなど、これまで考えてもみなかったことでした。

 なまの人間相手の仕事であるがゆえ、決められた時間通りに仕事が進まないことは日常茶飯事で、理想の介護を胸に留めつつも、新聞記者時代とは比べようもないほどのアンガー・マネジメントと日々向かい合っています。「自分がこの職に向いているのか」「この先10年間働ける環境としてふさわしいのか」などと思い悩む日々です。

 先頃修了した実務者研修でも、20~30歳代の若い受講者のなかで人一倍手順が拙い私に厳しく接してくる看護師上がりの女性講師との闘いの連続でした。ハートの持ちようが試されている、と日々感じます。

 今後は現場での実務経験3年の条件をパスすれば、受験資格が得られる介護福祉士の資格取得が当面の目標となります。さらに、そこで5年の経験を積めば、介護保険利用者のケアプランを策定するケアマネージャーの受験資格を得ることができます。

 現在56歳の私がそこまで到達できるとすれば63歳。ただ私を採用してくれた事業所の女性上司は「ケアマネは70歳過ぎても働ける」などと励ましてくれます。現在、小学校4年の長男が大学まで進めば、卒業するのは私が68歳のとき。腰痛のリスクや体力の衰えと向き合いながら、そこまではあらゆる可能性を視野にキャリアアップを目指すことになりそうです。

 ※北村弘一さんは1964年滋賀県生まれ。関西大社会学部卒業後、生命保険会社などを経て1988年毎日新聞社入社。社会部八王子支局、浦和支局、編集総センターを経て東京運動部。2002年サッカーワールドカップ現場キャップ。その後、秋田支局次長、北海道報道部副部長、大阪運動部副部長、学研宇治支局長、鳥取支局長、大阪運動部長を務め、2018年に大阪編集局編集委員を最後に退職。趣味はマラソン、登山。

2020年11月4日

91歳の引っ越し ー ハマから江戸へ 電動自転車で元気な磯貝喜兵衛さんの近況です

 横浜南部の洋光台に住んで40年余り。4年前に妻に先立たれてからは、一人暮らしを続けて来ました。今年1月に91歳を迎え、去年のイタリア旅行に次いで、今年も春に合唱仲間の一人とニューヨークへオペラを見に行く予定だったのですが、コロナ騒ぎで流れてしまい、逼塞しているところへ、東京の鉄砲洲に住む長男から「隣りに新しくマンションが建つので、来ないか?」との誘い。<老いては子に従え>という諺もあり、『スープの冷めぬ距離』に住むことに決断をした次第です。

 毎日新聞では、初任地の徳島支局を皮切りに、大阪、東京、京都など12回の転勤をしましたが、これまでは家財道具一切と一緒に引っ越しを繰り返していたのが、今度だけは5LDKの一戸建てから、1DKの小マンションに移るので、家財道具の大処分が必要です。

 先ず取り掛かったのが、家内が残していった膨大な資料です。と申しますのは、長女が昔通った東京女子大付属幼稚園の母親たち七人と、日本、イギリス、ドイツ三国が第二次大戦中行った学童疎開を比較、研究し、30年近く前「切り取られた時」(京都・阿吽社刊)という本にしたのですが、その膨大な資料・写真を残していたのです。

 その次に、家内の亡父(経済学者)が残していった著作(イングランド銀行史)の、これも大量の原稿の山などとの格闘です。我々夫婦の本や雑誌は2軒の古書店とBook off に引き取ってもらい、最後に残った家財、衣類の山は大部分を破棄しました。

歌川広重が描く江戸百景の「湊神社」
隅田川をへだてた佃島(自宅ベランダから)

 私の荷物は中型トラック1台で済みましたが、残りの家財は中型トラック3台が処分場に運ぶのに3往復。朝の9時から、夜の7時過ぎまでみっちり掛かってやっと、という始末でした。

 「これも一種の ”終活”」と割り切って、何とか切り抜けましたが、これまで経験したことのない難事業でした。とりわけ苦労したのが、写真・アルバム類の整理です。驚いたのは新聞社時代の写真の中で、飲み屋やパーティーの写真がどれだけ多かったか!!改めて脱帽(?)した次第です。

 引っ越し先の東京都中央区湊1丁目は、地下鉄日比谷線八丁堀駅から、歩いて10分ほど。銀座一帯までの広い地域に氏子を持つ鉄砲洲稲荷神社(昔の湊神社)のすぐそば。小さなマンション4階のベランダからは、隅田川が目の下に。対岸の佃島の高層マンション群が川越しに眺められます。(歌川広重が描く江戸百景の「湊神社」と、わが家のベランダから「隅田川をへだてた佃島」の写真を添付します。)

 佃島には高尾義彦さん、さらに向こうの月島には堤哲さんという社会部OBが住まれ、今は亡き岩崎繁夫さんも対岸の月島に住んでおられたことなども思い返し、懐旧の念を新たにしているところです。

 昨年末、車の運転をやめてから、電動補助機付きの自転車を愛用していますが、都内を自転車で走るのは、思いのほかに便利で楽。「転んだらお終い」と自分に言い聞かせて、近隣を走っています。

 時々、検診を受けている聖路加国際病院や福澤諭吉が幕末に開いた慶應義塾発祥の地、赤穂四十七士ゆかりの播州浅野藩屋敷跡などもすぐ近くにあり、暇に任せて探訪をし始めたところです。

 先日、日本記者クラブで高尾さんにお会いした時、佃島から日比谷まで自転車で来られていると聞き、私もそのうち・・・などと考えているところです。

(磯貝 喜兵衛)

 ※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB

2020年11月1日

「世界一貧しい大統領」が政界引退 ―― 江成康明さん「エナジー通信」から

 長野県白馬村でペンション〈憩いの宿「夢見る森」〉を経営する江成康明さん(元運動部・スポーツ事業部長)から、定期便「若者のためのエナジー通信」第45号(2020年11月1日)が届いた。紹介したい。

♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~
若者のための       エナジー通信
by Yasuaki Enari   Vol.45  (2020.11.1)
♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~

写真は江成さんのフェイスブックから

 米国大統領選をめぐって、トランプ、バイデン両氏の毒舌合戦が続いている。相手を卑下するだけのウソも混じった汚い言葉のオンパレードに辟易する。日本では学術会議の任命問題で、菅首相が拒否した理由説明もせずに時間だけが流れていく。所信表明でも「日本をどうしたいのか」が見えなかった。見慣れた光景とはいえ、国のリーダーはこんなにも落ちてしまったのか、と残念な気持ちになる。新聞を広げながら、見出しだけ見て毎日同じような内容の記事を素通りしてしまう自分に気づく。

 それでもページをめくっていく。習慣がそうさせる。小さな記事に目が止まった。<「世界一貧しい大統領」が政界引退>。見出しが端的に事実を伝えている。ここ数年の世界の政治情報の中で、私が最も尊敬していた政治家のことだと分かる。ショックを抱えたまま、気に記事を読む。85歳という高齢と、対話するためにどこへでも足を運んでいた楽しみがコロナ禍によってできなくなったことが引退の理由だそうだ。まだまだ全世界の人々に心ある言葉を伝え続けてほしいとの願いは届かなかった。

 ホセ・ムヒカ氏。名前を初めて聞いたのは6年ほど前のことだった。それ以前の2012年6月、国連の「持続可能な開発会議」でウルグアイ大統領としてスピーチした発言は、今の時代に生きる「人間」と「政治家」に足りないものをわかりやすく問いかけた。ほかの政治家にない理路整然とした演説と、国民のための政治家として実践してきたウソ偽りのない生きざまが次第にメディアにも注目され、数々の本も出版された。こんな政治家がいるんだ、と知り、以来大ファンになった。何よりも、ぜいたくな社会になり、経済中心に回っている世界に対して、「本当の豊かさ」「人生の大切さ」を説く言葉の重さに引き付けられた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 初来日したムヒカ氏のインタビュー番組がテレビで放映された日のことを忘れられない。それまで活字でしか知らなかったムヒカ氏の映像を見られることに興奮していた。ごく自然にノートを用意し、発言をメモすることにした。それは、忘れかけていた記者時代の緊張感に似ていた。一言も漏らすまいと走り書きし、時おり彼の表情を見つめた。その言葉が本心であるかどうかは、ちょっとした目の動きや動作が見極めの分かれ目になる。取材記者の原点である、と若いころ教わった。よどみも戸惑いもなく、彼は穏やかにインタビューに答えていた。メモしながら、背筋がゾクゾクっとした。2016年3月8日のことだった。

 メモを読み返すと、人を愛し、より高い政治理念を掲げていたすごさが改めて分かる。

 「何のために自分の時間を使うか、が大事。家族や子供、友人や自分のために使うのならいいが、もっとお金が欲しいと思うなら消費社会に支配されている。モノを買うのはお金ではなく、お金を得るために働いたあなたの時間なのだ。人生の時間というのは、ゼンマイが切れるように必ず終わる。モノは最小限あればいい。決められたあなたの時間を、モノを買うためにではなくもっとすてきなことに使ってほしい」

 「幸せとは希望があること。情熱を傾けられる何かを見つけることが必要であり、それは欲望ではなく、愛を育むこと、人間関係を築くこと、子どもを育てることなど身近にたくさんある。幸せこそが私たちに最も大切なことであり、発展が幸せを阻害してはいけない」

 一人ひとりにできる「時間」と「幸せ」の考え方を述べているが、そこから発展してムヒカ氏の話は政治に及ぶ。

 高価な商品を欲しがり、ぜいたくな消費社会を作ってしまったのは政治の責任だと。若者に希望の光を示すこともなく、世界中に貧困家庭が増えている現状。「我々の前に立ちはだかる巨大な危機は、環境問題ではなく政治的な危機なのだ」と強調した。そして最後に、「人の幸せは政治が作るもの」と言い切った。

 ムヒカ氏自身は、大統領を辞めたときにフォルクスワーゲンの中古車一台しか財産がなかったそうだ。議員や大統領としての報酬は、貧困者のための住宅や教育施設の建設費に当てたらしい。「世界一貧しい大統領」と言われるゆえんでもある。国民の生活を肌で感じ、自ら清貧な人生を送っていたムヒカ氏は多くのモノを求めずに「共助、公助」に徹し続け、静かに政界を去った。

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

 今、改めてムヒカ氏の言葉を振り返ると、ただの理想論ではなかったことがよく分かる。新型コロナ禍が実証して見せた。世界中のほとんどが自粛規制に追い込まれ、自宅で過ごすことが当たり前になった。もちろん出勤や登校ができない状態になり、誰もが消費社会から遠ざかった。ぜいたくをすることもなく、非日常という日常に頭を切り替えた。

 それまで無意識だった「時間」をいかにうまく使うか、をみんな考えて実践した。本を読んだり、趣味の幅を広げたり…自分を高めるために時間を有効に使った。収入がなくなることに不安があっても、誰にでも均等に与えられている「時間」の大切さを知った。周りに流されていた自分に気づき、考えることも多くなった。

 「幸せ」についても家族で会話を楽しみ、それまではあまり話す時間もなかった父親や母親とじっくり語り合った。友達に手紙を書くことも多くなったという学生もいた。ネット社会では味わったことのない「人のありがたさ」に幸せを感じる時間が持てた。そして何よりも、仲間と会えない寂しさを実感し、会話できないもどかしさが誰の心にも生まれた。YouTubeを使ってダンスや歌がリレー方式でつながれたのも、みんなで幸せをつかみ取ろう、という思いが大きかったのではないだろうか。モノが欲しいというより、「人恋しさ」に戻ったのは、決して無駄な時間ではなかった、と思う。コロナ禍がなければ、ムヒカ氏の言葉は実際の生活の中で感じ得なかったかもしれない。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

 なのに、ムヒカ氏の言うもう一つの願いは何もかなえられていない。政治家は相変わらず消費社会の中で欲望に満ち続けている。世界中が危機感を抱いている地球温暖化対策のパリ協定から離脱し、新型コロナの陽性診断を受けてもすぐに退院してマスクもしないトランプ氏は相変わらずだ。「自助」を前面に打ち出す菅総理の方針も、ムヒカ氏の実行してきた国民への「共助、公助」には程遠い。コロナ禍で経済的にも精神的にも苦しんでいる国民に「まずは自分の力で」というのは筋違いだろう。

 河合克行夫妻の選挙違反事件や杉田水脈議員の「女はウソをつく」発言についても説明すらない。安倍政権時代から続いている「説明責任を果たさなくても、時間が経てばみんな忘れる」ということが定着してしまった。それを許していた国民が、コロナ自粛の期間中に「政治に関心を持つようになった」という。だったら、コロナ禍は転換期にもなりうる。幸せは政治が作るもの、と意識して政治を見つめる若者が増え、声を上げればきっと何かが変わるはず。ムヒカ氏が言い続けた「政治的危機」が水面下ではなく、表面化している怖さに今こそ気づかなければいけないと思う。

 「人類が今の悲劇的現状から何かを学び取ることができると考えている。それが実現すればコロナ禍は人類にとって大きな糧になるだろう。人類は過去の世界的危機のたびに新しいものを生み出したのだから」

 コロナ騒動真っ盛りの6月にこう発言したムヒカ氏。現役時代には実現しなかった夢が、コロナ後には叶うかもしれない。政界から身を引いても世界を憂え続けるであろうムヒカ氏にその日を届けたい。そんな気がした。

 くれぐれも、新型コロナウイルス感染には気を付けて下さい。

 ご意見、ご感想をお待ちしています。

松本大学非常勤講師 江成 康明

2020年10月29日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑤ ある新聞記者の歩み 4

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」4回目です。
 https://note.com/smenjo/n/n6f00229e2566

(インタビューは校條 諭さん)

経済部時代(2) 1面トップを飾るスクープに

 ◆興奮しながら記事執筆 地婦連事務局長は不買運動宣言

 Q.すぐに記事を書かれたのですか?

 「これはもう一面トップいただきだ!と、はやる気持ちで夕方会社に帰り、編集局入り口の経済部別室に籠りキャップの図師さんと興奮しながら一面の本記は図師さん、僕が経済面の2面で会議の様子を書き分けました。

 それが「松下、消費者運動に反撃」というような大見出しで1面トップと経済面の大記事になりました。確か早版からではなく、特ダネなので13版から掲載されたように思います。ただし、今見ると、販売店主を装って潜入したので、写真がありません。今ならスマホで撮ることもできるでしょうから、時代を感じさせます。」

 「原稿を書き上げてデスクに出稿、図師さんが「とりあえずいいよ、適当なところで電話してくれ」という事で、当時付き合っていた大学のサークル仲間と約束していた映画を見に新宿の「アートシアター」に行きました。切りのいいところで経済部に映画館の中の公衆電話、通称赤電話に十円玉を入れながら連絡したら、「1面トップだからたいへんなことになっている、地婦連事務局長の田中里子の談話を取れ」と言われました。田中さんとは二重価格問題で何回か電話で話したことがあるので、連絡を取り浦和での松下の大会の話をしました。田中さんは藤尾専務の発言、特に「消費者運動には負けない」という発言に怒り心頭で「消費者運動をバカにしている。年末に向けて、松下製品不買運動を展開する」と松下を批判しました。」

◆のちに出た“松下本”にいきさつが

 「これらのいきさつについては、ノンフィクション作家の立石泰則さんが『復習する神話 松下幸之助の昭和史』(1988年、文藝春秋刊、1992年、文春文庫)という本にも詳しく書いています。」

 不運なことには、この会場には新聞記者が二名取材のために潜入していたのだ。もちろん、そのことを松下側は知るよしもなかった。

 翌十月十五日の朝刊で、毎日新聞は一面トップに「カラーテレビ 松下、強気な販売作戦 値段引下げ応じぬ」という大見出しで藤尾発言をすっぱぬいたのである。この藤尾発言は、当然のごとく消費者団体を刺激し、その態度を硬化させた。消費者運動のイニシアティブをとっていた地婦連では、ただちに事務局長の田中里子がコメントを発表した。

 「まったく消費者をバカにした話だ。松下がこのような態度を打ち出したのは、私たちの消費者運動に対する挑戦だと思う。・・・私どもは松下の系列店を狙い撃ちにボイコットするなど、強力な対抗策を全国六百万の会員に訴えていくつもりだ」

◆松下、とうとう白旗 新聞の役割を実感

 「そういうボイコット運動のきっかけを作ったのが、このスクープ記事だったということです。ほかの松下のことを取り上げた本にも、毎日新聞とは必ずしも書いてないですが、新聞記者が潜入して記事を書いたというのが載っています。

 それに加えて米国への輸出価格が日本の販売価格の半額だという事も伝わり、年末のボーナス商戦に向けてボイコット運動が続くわけです。毎日新聞のすっぱ抜きの記事は、その流れの火に油を注いだものだったと思います。マスコミはみんな消費者運動側の味方でした。」

 「年末だったか年初だったかに松下と地婦連の公開討論があって、松下側は白旗をあげるんです。それによって二重価格というのは解消して、販売店の自由価格という形に落ち着きました。その背景には、正価販売をするメーカーのチェーン店、その一方安売りをするダイエーなど大手ス-パーと量販店が出てきたということがあって、消費者の不満が高まったということがあります。家電製品のマーケットでの価格決定権を握る松下の覇権に対する不満が高まり、消費者運動が燎原の火のごとく広まって、最終的に松下が白旗を掲げたという顛末です。今もメーカーは商品に値段をつけてないですね。「希望小売価格」という遠慮がちな価格を出してはいることはあります。そのそもそものきっかけはあのときの不買運動だったということになります。記事は日本の消費者運動に役立ったということになるような気がします。」

 「あのとき思ったのは、新聞というのはすごい役割を果たすのだなということです。当時としては消費者は、メーカーにタテ突くには新聞への投書くらいしかなかったわけです。おしゃもじデモというようなことはありましたが、それも新聞が報じなければ知られないのですから。」

◆松下が広告をストップ

 「松下電器は、当然、毎日新聞に恨み骨髄です。広告局を通じて圧力をかけてきたようです。結局、松下はかなりの期間、毎日への広告出稿をストップしたようです。社内で広告局から編集局に苦情が来たと思います。それを受けた経済部のデスクは、我々に一切伝えませんでした。当時のデスクはエライと思いました。絶対に出先の取材記者を萎縮させてはいけないという思いがあったんではないでしょうか。後年、広告局に行って商業新聞として、いかに松下の広告の存在が収入源として大きかったことを知り、当時の経済部の幹部は前線の記者を守ってくれたんだと、本当に毎日新聞記者でよかったと、しみじみ思いました。」

 「でも当時、こちらはそんなこと知らないで「特ダネ記者の佐々木だ!」みたいなデカイ顔しては浜松町の松下東京支社広報室に通っていたからいい気なもんだと思います。相手もさるもので、本当はハラワタが煮えくり返る思いをしていたと思います。でも広告をストップしたなんて一言も言いませんでした。ただ東京広報部長のSさんが「あの大会の情報を流したのは埼玉の○○さんですね」とこちらは知っているぞ、とチラリと漏らしたことはありました。」

◆20年後に、当時の松下社長と対面

 「それが翌年3月位に収まります。松下が二重価格解消宣言を出したのです。消費者運動が勝利した記念碑的出来事だったと思います。それによって、毎日への広告出稿の停止も解かれて、ある日突然、3月頃だったと思いますが、創業者松下幸之助と毎日新聞大阪本社の経済部長との対談が1ページの紙面を取って掲載されました。紙面を見てビックリしました。恐らく手打ちだったと思います。対談記事を見て、なるほどそういうことだったのか、とわかりました。」

 「1992年ころ事件から約20数年後、広告局にいた際、東京のホテルで開かれたパナソニックの正月パーティーだったか、90才前後の杖を突き、ソファーに腰をおろした松下正治名誉会長にお目にかかったことがあります。その時、名誉会長に挨拶をして「埼玉・浦和のナショナル店会総会に潜入して一面トップの記事を書いた毎日新聞の佐々木です。今は広告局にいてお世話になっております」と自己紹介しました。「君かあの時の記者は。あの時は本当に大変だった。そうか君だったのか」と元伯爵家出身で、創業者松下幸之助の娘婿の赤ら顔の松下名誉会長と握手を交わしました。

 しかしやがて3C(カー、クーラー、カラーテレビ)マーケットは飽和状態になり、東芝、日立、シャープ、三菱電機、三洋電機など他の家電メーカーがやせ細っていきました。松下電器はあの時の教訓をもとに消費者向けの姿勢をとるようになり、2008年パナソニックに名称変更し、日本のマーケットで絶対的なポジションをキープして、世界の「パナソニック」となりました。松下にとって、消費者運動に対処した体験は、今日の「パナソニック」隆盛の根幹になっているのではないかと思います。」

◆ニクソンショックで固定相場制終焉

 「その当時の経済情勢を考えると、僕が経済部に上がったのは昭和45年(1970年)5月、翌年の1971年8月15日に、ニクソンのドルと金との交換停止が発表がありました。いわゆるドル・ショックです。第二次ニクソンショックとも言います。第一次は同年7月15日にニクソン大統領の訪中発表です。

 その時、お盆休みの真っ最中でしたが経済部員全員に非常招集がかかりました。僕はたぶん、長野県大町市の山間にある山荘(これは僕のオヤジが持っていたです)に行っていたと思うんですが、そこから東京までかけつけました。だけど、経済部の連中にとっては、このニクソンショックがどういう意味なのかほとんどわからなかったんじゃないかな。少なくとも水戸支局から上がりたての僕にはその意味がピンときませんでした。そもそも1ドル=360円、その米ドルは米国の金保有に担保されているんだ、という固定相場制のもとに日本経済は戦後が成立していたんですから。戦後26年間その体制が続いていた。外国為替相場なんていうのは経済記者の頭になかったように思います。いまから考えるとウソみたいなですが、そんなこと考える必要がなかった。」

 「日本経済が成長軌道に乗り、家電製品を中心とした日本製品が米国や世界を席巻し始めて、日本の為替相場の不公平さを指弾するようになって来たんですね。ボクシングでいえばフライ級のつもりが、いつの間にかヘビー級になっていたようなものです。なにしろ1962年、当時の池田首相が訪仏した時、誇り高きフランスのド・ゴール大統領に手土産にトランジスタ・ラジオをプレゼントした際、同大統領から“トランジスタのセールスマン”と揶揄された、と伝えられました。文化より、経済優先で官民挙げて日本電化製品を売らざるを得ない状況でした。今でもその屈辱感を記憶しています。」

 「71年12月のスミソニアン合意で、1ドルが従来の360円から308円になりました。財研(大蔵省記者クラブ)や日銀記者クラブ(日本銀行担当)なんか、新しい相場がいくらになるかって大騒ぎして、夜討ち・朝駆けの特ダネ合戦で大変だったと思います。こっちはまあ為替がドル300円、200円になると輸出はどうなるかという反響を取ったり、工場の海外進出を考えなくてはという反響原稿を書く程度で、いわば蚊帳の外でした。そうして73年2月に変動相場制に移行しました。でも“円高不況論”というのがあって、経済界からは、中小企業を中心に「明日にもつぶれる」という声が強かったですね。しかし結果として、日本経済はグローバル化の荒波にさらされることになったわけです。」

◆グローバル化と消費社会到来の潮流のただ中に

 「その前に資本の自由化がありました。昭和42年(1967年)だったかな。日本も海外に出て行くのは自由だし、海外から日本に来るのも自由になりました。これはグローバル経済の発端だったと言えます。だから、そういうバックグラウンドがあってのできごとだったわけです。当時のデスクの中尾光昭さん(退職後、名古屋商科大学教授)がエール出版というところから『円切り上げ待望論-インフレを防ぐキメ手はこれだ』(1970年刊)というのを出してベストセラーになったのですが、その頃は、円高っていう言葉がピンと来なくて、1ドル360円が370円になるのが円高なんじゃないかとつい思ってしまうくらいに、みんなが知らなかったという実態だったと思います。一般向けにやさしく書いてあるんですが、一生懸命読んで勉強しました。だけど何しろ「円高」と「円安」の「高」と「安」がそれまでの常識と逆転しているわけで、なかなか当方の“灰色の脳細胞”にはスンナリ入らなかったことを憶えています。そんな時に経済記者をやっていたというのは、今考えれば、国際的な波に洗われはじめた瞬間にめぐりあっていたということになりそうです。」

 「こういう時期に僕は、松下電器を筆頭とする家電の二重価格問題なんていう国内の問題に当たっていたわけです。当時ベストセラーになった東大教授の林周二さんの『流通革命―製品・経路および消費者』(1962年刊)という中公新書の本があります。この本は、大型量販店が進出してきて、直売というのが増えてきて、日本の消費の体制ないしマーケットが変わるということを初めて分析した本だったように思います。本が出たのはだいぶ前ですが、メーカーの販売部門、流通業界などではバイブルのように読まれていました。そういう中で二重価格問題というのが起きてきたわけですが、まさにこの本が予言した通りの状況になってきたんですね。

 僕なんか大所高所からの論はあまり得意でなく頭に入らず、目の前の問題を追ってかけずりまわっていました。あとから考えると、家電メーカーは国内でのもうけを、為替のメリットを生かしながら外国でのシェアを取るために使うため必死だったと思います。そういう時代の潮流の中に真っただ中にいたと言えます。」

(続く)

2020年10月19日

元中部本社代表・佐々木宏人さん④ ある新聞記者の歩み 3

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」3回目です。

 https://note.com/smenjo/n/n75377ecae1ec?fbclid=IwAR0Fx3kwBHFmfM3YMA1aHREmBCLef7OHHNLI-P4mFAEe9pl7-i45UIXVh28

スーパー・量販店の成長前夜、記者人生一の大特ダネ(前編)

(インタビューは、校條 諭さん)

 2.経済部時代(1)家電販売店主会に潜入してエイエイオー!

 佐々木さんは、水戸支局に5年いて、1970年(昭和45年)5月に経済部に移りました。27歳のときでした。

 Q.そのときはご結婚されていたのでしょうか?

 「いえいえ、ぼくは結婚が遅くて、35歳のときでしたから。」

 Q.では、あとでそのいきさつを詳しくお聞きしたいです。

 「あはは(笑い)、本当はノーコメントといきたいなあ。いずれゆっくり。話しましょう。ビックリしたのは、あなた(インタビュアー・校條諭さん)と女房の妹と高校のときの同級生だったという関係があることが分かったんで逃れませんね。」

◆5年ぶりの東京 意気上がる経済部に配属

 「東京に5年ぶりに戻ってきて、会社のある竹橋の周りを歩いた時、お堀端の柳の木が目に鮮やかな新芽を吹いていたのを見て、「ああ東京に戻って来たんだなー」と感慨があったことを記憶しています。

 東京という日本経済の中心地で“経済”を取材するんだ―という武者震いというと大げさですが、緊張感があったことは確かですね。

 竹橋の本社ビル4階の編集局にある経済部に配属になりました。でもビルのフロア全体が編集局で、支局の何十倍もある広さに“本社”を実感しましたね。

 そのころ毎日新聞の経済部は、2年前に「八幡製鉄 富士製鉄合併」という“世紀の合併”をスクープして一面トップに掲載、それが新聞協会賞を受賞するなどしていたので意気軒高、外からの評価は高かったと思います。「俺もやるぞ!」という気持ちがあったと思いますよ。

 最初の1、2週間は経済部のデスクに座り、「今度水戸支局から来ました佐々木です。よろしくお願いします」とあいさつをしながら、出先記者からの電話による原稿取りをしました。新米の「経済部記者・佐々木宏人」のオリエンテーションという感じでしたね。

 原稿取りというのは、官庁などの記者クラブに貼りついている先輩記者が、電話で簡単な記事を送稿してくるのを、ザラ紙の原稿用紙に一枚2行(当時の紙面の記事は一行15字)書いていくのです。今はパソコン送稿なんでしょうが、どうしてるんでしょうね。」

◆経団連記者クラブの“新人養成所”機械クラブで電機担当に

 「そのあと、配属先が決まりました。僕は大手町の経団連ビルにある「経団連記者クラブ」の配属になり、家電・機械担当で図師三郎さんというキャップの下につきました。

 図師さんは原稿の上手い人でした。時事通信から移ってきた人で、ほかにも東京新聞からの人など2、3人、他社から来た人がいました。というのも、当時、他社に先がけて経済面を2ページに拡大して、新経面(新経済面)というのを新設して、民間企業の動向を主に扱うというので人材をスカウトしたわけです。当時、毎日新聞にはそれだけジャーナリズム業界からの誘因力があって、ブランドイメージが高かったんでしょうね。

 図師さんはのちに毎日新聞が出している「エコノミスト」誌の編集長になりました。ほかにも、後に経済部長になる東京新聞から移籍した山田尚宏さん、日刊工業新聞からの小島徹さんなどもおられます。他社の人から、毎日新聞は偉いね、スカウトした人材をチャント使っている―といわれたこともあります。その意味で風通しの良い自由な気風がありましたね。」

 「経団連記者クラブに配属ということになって、その中の「機械クラブ」というところに身を置くことになりました。東京駅から歩いて10分程度の大手町の経団連会館の1階でした。私は当時、地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅近くに住んでいましたから、同会館目の前の大手町駅下車で片道45分程度の通勤でした。担当業種は電機、自動車、財界という3つの担当にわかれていて、私は電機担当でした。会館の3階には、化学、鉄、繊維業界を担当する重工業クラブ、5階には電力業界、石油会社などのエネルギー産業を担当する電力記者会(現エネルギー記者クラブ)クラブがありました。自動車担当、機械担当にはキャップが各1人いて、それぞれ新人を1人か2人預かっていました。」

 「経団連1階の機械クラブは、あがってきた新人を養成するクラブでした。財界担当の記者が“校長先生”で、民間担当キャップといって経団連会館にある記者クラブ全体に目を光らせていました。私の時は佐治俊彦さんでした。佐治さんは、その後毎日新聞が倒産の危機の際、活躍されて新旧分離という荒業で危機を乗り越えた立役者の一人で、専務にもなりました。ワシントン特派員帰りで永野重雄、中山素平などの財界人に食い込み、文章も上手く、あこがれの存在でしたね。」

◆先輩や他社の記者と屋台で交流

 「壁に向かって長細い経団連記者クラブの机で原稿を本社に送ったあと、夜の9時頃、夜回りもないときは、経団連会館の隣にある日本経済新聞社の前のビルの谷間に出る、バンタイプの自動車の屋台に立ち寄り、各階にいる先輩記者たちとよく飲み議論したものです。各社の担当者や日経の記者とも、ビールケースの箱に座り席を同じにしたこともしょっちゅうでした。またクラブの休憩室にはマージャン卓があり、キャップクラスが良く卓を囲んでいました。取材のコツがわかり始めたころ、気が付くと私も参加していました。

 また丸の内ホテルが近くにあり、そこがシンガポール航空の定宿になっていました。乗務員がよく顔を出していました。きれいなスチュワーデスとは片言の英語で話して楽しかった思い出もあります。」

◆カラーテレビの販売競争にあけくれる家電メーカーを取材

 「私が電機担当当時は3種の神器(カー、クーラー、カラーテレビ)という言葉がありました。1970年は大阪万博が開催されており、高度成長の消費ブームに沸き立っていたころですね。特にカラーテレビは一家に一台の時代に入りつつありましたから、販売競争は激しいものがありましたね。」

 「この取材はすごくおもしろかったですね。当時は、東京オリンピックのあとで、ちょうど70年くらいが白黒テレビからカラーテレビに主役が移った頃でした。それで、浜松町にあった松下の東京支社とか、東京駅から有楽町駅に沿った形の“三菱中通り”を中心とするビル街周辺に電気メーカーが軒並み並んでいたんですよ。丸ビル内にあった日立製作所、三菱仲通りの三菱電機、三菱重工業、富士電機、そのころ黎明期にあったコンピューターメーカーの富士通など順繰りに取材に行ける位置にありました。松下電器(現パナソニック)東京支社は浜松町、NECは田町、ソニーは品川で少し離れていました。」

◆スーパーの台頭で起こった二重価格問題

 「そのころカラーテレビが毎年百万台近くも出て、家電メーカーの大きな収益源になっていました。それで二重価格問題というのが起きたのです。松下がいちばんシェアが大きくて、価格のリーダーシップを持っていました。16インチくらいのカラーテレビの正価が10万円くらいでしたかね。松下はそれを絶対くずさなかった。ところがその時期台頭してきたのが価格破壊と言われたスーパー「ダイエー」でした。城南電気もありました。それらが8万円とか7万円、5万円というような値段で売るようになりました。どうも松下などの販売店がウラでスーパーに回しているといううわさでした。それに対抗して松下を筆頭に、メーカーは製品に秘密の番号を付けるなどして、ダイエーなど量販店に横流しするのを防止ししてつぶそうとしていました。なんとかメーカーは正価を守ろうと必死でした。」

 「それに対してダイエーの中内さんなどは反発していたんだけど、当時は中内さんもまだそんなに力がなくて往生していた。そこで、怒ったのが、当時勃興しつつあった数百万のメンバーを有する消費者運動でした。その先頭に立っていたのが地婦連(全国地域婦人団体連合会)でした。理事長は山高しげりさん。しかし、松下は「消費者運動何するものぞ」という態度で、断固として正価販売を死守しようと必死でした。」

◆家電販売店主が毎日新聞に駆け込んで窮状訴え

 「その渦中、十月の初めだったでしょうか、埼玉の家電販売店の店主が毎日新聞に電話をかけてきて、経済部のデスクに小売店の窮状を訴えたのです。デスクから我々のところに至急連絡を取るよう言ってきました。確かキャップの図師さんが電話をしたのですが、その店主が竹橋の本社まで来てくれました。編集局入り口の小部屋で図師さんと二人で話を聞きました。純朴でとつとつと厳しい情勢を話してくれました。

 その話を聞くと、販売店としては困ってしまっているというのです。周辺に安売り店ができて、7万円とか5万円で売っているんだけど、松下からは10万円で売れといって、ギューギューしめつけられている。でも売れないんだというわけです。店主が言うには、10月14日に埼玉県浦和市(現さいたま市)の県民会館で、埼玉県のナショナル販売店会の総会があって、そこに本社の社長以下おえらいさんが来て激励する会があります。実情を見てくださいということでした。」

◆松下電気の販売店主会に潜入取材

 「そういう情報をもらって、ぼくはキャップの図師さんと一緒に県民会館に行きました。会場にどうやって入ったのかなあ・・・とにかく、販売店のナントカですとか言ったと思います。受付で式次第やハチマキ、饅頭かなんか入っていたと思いますが紙袋をもらい中に入りました。会場では2階のいちばん前にすわりました。そこで周囲にバレない様にひやひやしながらテープをまわして、その様子を記録しました。あとで松下側から原稿で抗議を受けた時の用心のためでした。そのテープは今も手元にあります。

 会場正面には「躍進」と大きく書かれたスローガンなどがあり、その前に松下正治社長以下同社幹部がずらりと並んでいました。

 松下正治社長は「消費者運動はまことに困った風潮だ。いずれ理解されると思う。」と語り、創業者の秘蔵っ子といわれた販売担当の藤尾津与志専務が「消費者運動なんかに負けないで、松下としては定価販売を断固として守る」という発言をしたのです。そして、最後にみんなでエイエイオーとやるのですが、我々も、確か鉢巻きも巻いていたと思うけど、エイエイオーとやりました。」(後編に続く)

2020年10月1日

新婚旅行の写真もアップしています — クラさんのFaceBook

 社会部旧友倉嶋康さん(87歳)、クラさんが元気だ。FaceBookに連日記事を書き続けている。「飛天隊」という凧揚げグループの隊長としてゴビ砂漠や標高5千メートルを超すチベット、さらには北朝鮮にまで行って、空中高く凧を揚げ、国際親善に励んでいる。これまでに30回、25ヵ国へ遠征した。

 同時に1955(昭和30)年12月に福島支局で新聞記者生活をスタートさせたときの話を連載している。

 クラさんといえば松川事件「諏訪メモ」のスクープで知られる。死刑4人を含む17人全員が無罪となったのである。死刑判決を受けていた佐藤一さん(2009年没、87歳)は、元社会部長山本祐司さんの出版記念パーティーに出席して、「命の恩人」倉嶋さんと固い握手を交わした。

 さて、駆け出し時代のクラさんの写真に、社会部旧友堀井淳夫さん(2017年没、90歳)が写っている。

 前列右端。左に茂泉繁、倉嶋康、朝井貞一郎。昭和30年代初めの福島支局メンバーだ。

 

 《FBの連日連載はボケ防止のため昨年始めました。…堀井さんとは福島時代からの仲良しで、相手を「貴殿」と呼んで印象付ける努力をしていたのでクラブでは「キデン」があだ名でした。体格に似合わず気の弱い優しい性格でした。福島のあと地方部取材課や内信部、社会部でも一緒になり、縁の深い方でした》

 キデン堀井さんは、慶應義塾陸上競技部でハイジャンプの選手だった。いい体格をしている。

 クラさんは鳥打帽とシャレているが、FBにはこんな写真も載っていた。

 当時流行のミルキーハットをかぶっている。

 《福島に来た時に支局次長から「とにかくなんでもいいから取材先に社名と自分の名前を憶えてもらえ」と厳命されました。初対面の警察官や検事に名刺を渡しただけではなかなか憶えてくれません。意地の悪い捜査課長などは10回近くも会っているのに「わが(お前は)スンブンキジャ(新聞記者)か」と福島弁で素っとぼけます。

 一計を案じて当時はやっていたミルキーハットと呼ばれた帽子を常にかぶりました。先輩記者は「チンピラみたいだ」と言いましたが、取材先を訪れる時はもちろん脱いで近くのイスに置きます。「なんがあったっだがい(なにか事件か事故がありましたか)」と福島弁も慣れてきて、何も無いと言われて部屋を出る時にわざと帽子を忘れるのです。しばらくしてとりに戻って、皆に笑われながらかぶって出ます。これを2、3回繰り返して印象を深めました》

 サツ回りで最初に本紙へ特ダネを送ったときのことを詳報している。その間の事情はFBを読んでもらうことにして、《特ダネを書いた翌朝の社会部記者クラブは居心地の悪いものでした。入ると共用のテーブルに毎日新聞の私が書いた記事が拡げられている。「深夜の血清輸送 官民協力が命を救う」の見出しが目立ちます。あちこちで自社の支局からの電話に受け答えする記者、キャップに怒鳴られているサツ回り。私を見ても見ぬふりです。中には当時のラジオドラマで子供たちの人気を集めた「赤胴鈴之助」の主題歌をもじって「ペンを取ったら日本一の、バカどうスズノスケ」とあてこすりを小声で歌っているヤツもいました。

 私は《特ダネとは気持ちがいいものだな》と心の底から思い、この時から『マル特病』にかかってしまいました。目立った特ダネを毎月本社で審査した上で、書いた記者に部長賞、局長賞などを金一封とともに授与しています。やはり「他紙には載らなかった」ということは宣伝材料となり発行部数を増やすのに大きく役立ったからでしょう》

 「マル特病」が諏訪メモ発見につながるのだが、元朝日新聞記者上原光晴著『現代史の目撃者』(光人社NF文庫)にこう紹介されている。

 《福島地検は信夫山のふもと、坂道にあり、県警記者室から3キロほども離れていた。他社の記者が毎日1回ですませるところを、倉嶋は事件の発生を警戒しながら2回、足を運んだ。検事の知的レベルの高いのが気に入り、小ダネもよく書いて、検事や記者仲間から「倉嶋検事」と呼ばれた》

 地道な努力が実ったのである。

 FBにこんな写真もアップされている。

 

 《【新婚旅行はつましく志賀高原へ】60年前にこんなことがあったなんて、オレにはまったく信じられない。女房はもっとだろう》 

                            

(堤  哲)

2020年9月30日

上州暮らし50年 ― 83歳いまも現役

 滝野隆浩専門編集委員の「掃苔記」(8月30日付け)に「寺じまい」が報告された元前橋支局長、曽我祥雄さん(83)から近況が寄せられた。「掃苔記」と合わせて、お読みください。

◇      ◇      ◇

 群馬県に住み始めてから48年、いまやすっかり上州人になった。

 生まれ育ちは静岡県で、1972年、30歳過ぎに転勤で初めて名古屋から群馬に来るまでは、それこそ縁もゆかりも無い土地だった。上越線新前橋駅前に下り立った時は「野に新しき停車場は建てられたり/便所の扉風にふかれ/……いづこに氷を喰まむとして賣る店を見ず/ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり」と、まさに私の群馬についての唯一の知識である萩原朔太郎の詩「新前橋驛」を思い起こさせるものだった。ただ、私はもともと田舎町出身、むしろ安どする気持ちがあった。

 会社の転勤で来ただけの私が上州に居ついてしまった理由はいくつか挙げられる。カラッとした気候風土や開放的な人柄、東京への手ごろな距離感などは、誰もが指摘するこの地の住み心地の良さだ。こんなにも長くなったのには、もっと身近な生活上の現実的ないくつかの理由があった。一つは家であり、一つは仕事、さらにもう一つは人との出会いである。

 家、つまりマイホーム。1973年ごろ、県が高崎市の郊外に大きな住宅団地の建設計画を立てた。列島改造論で東京―新潟間に関越高速道路、上越新幹線の建設が進んでいたころである。県庁の記者クラブで広報を見た先輩から「高崎は便利になるし、応募してみようよ」と誘われた。当然、借家暮らしでマイホームのあてなどない。どうせ当たりはしないと思って、土地付き建売分譲の最もよさそうな区画を選んで応募した。ところがそれが当たったのである。33倍の競争率だったそうだ。

 冷やかし半分の応募だったし、購入資金など持ち合わせていない。自宅に帰ってその日の「珍しい出来事」を妻に報告すると、応募したこと自体知らなかった妻は、即座に「絶対、買おう」と真顔になった。それから、四方八方、頭を下げて資金を借り集め、75年、高崎にマイホームを持つことになった。まだ30代の記者がいつまでも同じところに住めるわけでもない。現に、その後、東京、川崎、長野などと転勤を繰り返したが、いつも単身赴任。妻は当然のように高崎の家に残った。妻にも縁のない土地ではあったが、もともと貧乏育ちで思わぬ幸運を一時でも手放したくない様子だった。

 単身で前橋を離れた後も、再び転勤時期が来ると私は「できれば群馬」を希望した。そして、その通りに支局次長として戻り、最後は支局長として前橋に赴任することになった。全国紙の記者が郷里でもない同じ地に支局員、次長、支局長と、三度も赴任するような例は稀有ではなかろうか。もちろん、私の個人的事情を察し、わがままを許してくれた毎日新聞ならではの配慮だと思っている。同時に、私自身も学生時代の経験とか自身の能力に対する自覚、人生観みたいなものがあって、東京本社へ「上がりたい」などという希望など全く持っていなかった。大都市より地方の方がいいとずっと思っていた。

 上州暮らしを支えたのは、当然のことながら、そこでの働き場が得られたことにもよる。満54歳で選択定年退職すると、一日休んだだけで、翌日から「ぐんま経済新聞」という地元の新聞社で働き始めた。新聞社と言っても、記者は5、6人、週刊の発行部数が数千部というまさにミニコミ紙だ。それでも、何とか生活できる賃金は保証されたし、いつ天井が落ちて来るかもしれない経営不安の小企業で、地元の若い人たちと地域のために働くことにためらいはなかった。

 小寺弘之氏という人物との出会いも大きかった。自治省(現総務省)出身の官僚で、私が群馬に来る数年前に、やはり名古屋(愛知県庁)から県医務課長に転任してきた。当時28歳、まさに「天下り」人事だが、群馬が気に入って自ら自治省人事を離れ、県職員として数々の職場を上りつめ1991年に知事の座に就いた。

 前橋支局では私は県政を6年間担当、次長、支局長として戻ってきたときも、県庁や県議会には出入りしていた。小寺氏とは年齢も近く、名古屋から来て住みついたという経緯も同じ。親しみやすさと同時に思慮深い人柄に魅かれた。初任地の愛知県庁では武村正義氏(滋賀県知事から国政に進出、新党さきがけ代表や細川内閣の官房長官を務めた)と机を並べ、この先輩を生涯の師としていた。そんな「思想傾向」もあり、4人の総理を生んだ自民党王国の政治風土の重苦しさを語り合うことも多い間柄だった。

 知事としての小寺氏は、独自のセンスで特に文化・教育に力を入れ、数々の施策は県内外から注目された。県人口200万記念事業として小栗康平監督の映画「眠る男」を県費で製作したのは代表例だ。「次代を担う子供たちのために」と、県立の昆虫の森や天文台を新設、矢島稔(元多摩動物園長)古在吉秀(元国立天文台初代台長)といった専門家を招いて内容・質の面でも一流を目指した。

 私も、再就職した「ぐんま経済新聞」は企業情報専門紙だったのにもかかわらず、知事の言動、県政施策を積極的に紙面に取り上げ応援した。個人的にも地方労働委員会や審議会など、様々な形で県行政に参加する機会を得た。交流は2007年、小寺氏が5期目を目指した知事選で、当時は真っ向から対立していた自民党の公認候補に敗れて落選するまで35年に及んだ。県政トップと1県民という一線は常にあったが、小寺氏との交流は私にとって、上州暮らしを支える大きな柱であった。

 残念ながら小寺氏は、再起をかけた参院選に民主党から出馬して落選、2010年、失意のうちに亡くなった。私は小寺氏の知事落選と同時にミニコミ紙を引退した。しかし83歳になった今も、前橋にある地方公務員志望の学生を集めた専門学校の非常勤講師として働き、「時事問題」を解説、上州で生きる若者たちの発奮を促している。

 毎日新聞を退職してから28年、すでに在職期間とほぼ同じ年数が過ぎた。この間「元毎日」を自ら名乗ることはほとんどなかったが、その経歴や肩書が背中の方で力になってくれたのは確かだと思っている。

(元前橋支局長、曽我祥雄)

「掃苔記(そうたいき)」8月30日付

 「実家の寺を解散しました」。群馬県高崎市に住む曽我祥雄さん(83)から、少々長めの寒中見舞いが届いたのは昨年2月のこと。静岡県掛川市にあった実家の了源寺を2018年12月8日に解散し、最後の法要と「お別れの会」を開いたという。

 曽我さんは会社の先輩。後輩記者の気安さから思い立って話を聞いた。「寺じまい」する気持ちを聞ける機会はあまりない。400年という歴史を閉じるとは、いったいどういう心持ちなのか。

 解散にあたり、曽我さんは寺の歴史を「想い出の了源寺 掛川」という冊子にまとめた。掛川藩の「掛川誌稿」などの資料を調べ、歴代住職の名前を載せた。教育者であった13代の祐章が曽我さんの実父。1964年の没後、寺は「無住」となり、区画整理に伴う移設もあった。その後は檀家(だんか)の手で維持されてきたが、高齢化で「力尽きる形」になり同じ宗派の寺が吸収合併。127区画の檀家の墓は、移設したまま市営霊園に残ることが決まった。

 男ばかり5人兄弟の三男。兄たちに寺を継ぐ意思はなく、曽我さんも高校卒業後、地元に戻らなかった。後輩の気軽さで、聞きにくいことを聞いてしまう。ご自身は継ぐ気持ちはなかったのですか? 「何度も考えました」。先輩は思いを巡らす。高校時代の同級生が妻を亡くしたあと僧籍を取得した話など、ぽつりぽつりと。「妻は『あなたがやればいい』と言ってくれたんだけどね……」

 寺の子に生まれた親しい坊さんに聞くと、みんな一度は悩み、でも最後は「運命」を受け入れる。だけどこれからは僧侶という職業に魅力がなければ、後継は途絶え寺は姿を消していく。

 一昨年の「お別れの会」のあと、曽我さんは実家の寺のあった場所を久しぶりに訪ねた。きれいな児童公園になっていた。大きなマツの木、墓地や山門の近くで遊びまわった日々を思い出す。朝鮮半島出身の子や障害を持った子もいた。年齢もバラバラで、いまなら言えない差別用語も口にしたけど、翌日はまた、くったくなく笑い合った。寺という空間の持つ、自由で、多様で、濃密な雰囲気が、いとおしい。自分はもう、菩提(ぼだい)寺は持たないという。(専門編集委員)

2020年9月28日

スケッチはお預け、ジャズ三昧の日々 ― 元運動部長、渡部節郎さんの近況報告

軽井沢で、中西師匠から特訓をうける筆者

 9月も残すところわずかとなった日々、来月上旬に開催するジャズリサイタルに備えて歌のおさらいに追われています。

 昨年秋、銀座6丁目のジャズバーで開いたのに続き、2回目となるリサイタル。

 今回は10月9日、港区赤坂のライブハウス「STAGEー1」で開きます。ジャズスタンダードナンバーを中心にして、映画音楽、ラテンダンスミュージックなど好きな楽曲ばかり15曲ほどを一人で歌う予定です。(毎友会の)古い音楽ファンなら懐かしいかと思うので、曲目を羅列してみます。

①Volare
②You‘ll never find another love like mine(別れたくないのに)
③Time after Time
④I‘ve got a crush on you(君に首ったけ)
⑤Amapola
⑥Sway
⑦Love is a many splendored thing(映画「慕情」のテーマ)
⑧Summertime in Venice(映画「旅情」のテーマ)
⑨Love letters
⑩ Quand Quand Quand
⑪On a slow boat to China
⑫Dream
⑬Star Dust
⑭Again

 どうですか? 懐かしい曲ばかりでしょう。

 歌うのは楽しいものの、高齢者にとって一番の苦労は何と言っても歌詞を覚えることに尽きます。英語、スペイン語、イタリア語の混じった長い歌を、虎の巻の歌詞カードに頼らずに人前で歌うのは、高齢者がナビなしのクルマでドライブするようなもの。今回はなるべくナビなしで挑戦しますが、無謀運転に近いです。②③は新曲だし、僕が出すことのできる高音域ギリギリの音があったりして、歌の品質保証ができるかどうか、ああ、不安が募ります。しかし、聴いてくれるのは僕の長年のファンばかり。その点はありがたい。

 それは10年前にビル解体で無くなった銀座7丁目のピアノバーの仲間たちが中心で、職業も弁護士、IT、企画会社員など様々。その中に篤志家の女性がおられまして、ご主人の遺産を我々、ジャズ好きの仲間がいつでも集えるようにと、軽井沢に大きな別荘を建ててくれたのが7年前のこと。おかげで、ジャズとお酒と雑談の楽しく親密な時間を続けていられるというものです。 今月もボーカルの師匠たちと同行してここでライブ用のおさらい特訓を受けてきました。

 ジャズとの出会いは早稲田に入学したころですが、ジャズボーカルは仙台支局長だった50歳の手習いで。それまで無趣味だったので、仙台赴任に当たって、詩吟か何か一つ身につけようと考えていました。仙台はストリートジャズの街。知り合いの稲門会メンバーが定禅寺通でサキソフォンを吹いているのに出会ったのがきっかけでした。

 「詩吟よりジャズだ」。譜面が読めないのに?「歌なら何とかなるだろう」。

 持ち前の無鉄砲で、面識も紹介もなく、仙台市の繁華街、一番丁のジャズバーに飛び込んで教授を受けることになったのです。それから四半世紀。50曲ほど持ち歌ができました。

 ジャズの楽しいところは酒あり、ダンスあり。歌う方も聴く方も一つになって楽しめるところかな。名刺も肩書きもなく、楽器一つ(ボーカルは身体が楽器です)を持ち寄って遊ぶ。これぞ、高齢者の遊びじゃありませんか。朝は定期的通院、夜はジャズで痛飲、一人の日はもう一つの趣味であるスケッチブック片手にふらり散歩。こんな生活が続いたら、とりあえず幸せかな、というところです。

ジャズ仲間の演奏をバックに練習中の筆者。軽井沢で

 コロナがライブハウスでクラスターを起こしたことで、日本中のライブハウスとミュージシャンが大きな痛手を受けました。ライブハウスも様々で、若い男女が密集して絶叫、飛び跳ねるものばかりじゃないのに、十把一絡げで槍玉に挙げられたものだから、あの宇崎竜童・阿木燿子さん夫妻がオーナーだった赤坂のレストランライブハウスも春に店を閉めました。当初は僕もそこを予約しておいしい料理をお客さんに食べてもらうのを楽しみにしていたのでしたが。残念です。

 STAGE-1は40年以上になる赤坂の老舗で、今回はコロナ対策での換気環境を整えました。定員70人のところを、今回は20人前後に抑えて3蜜を避けます。

 メンバーに告知したライブ案内を、ご参考までに、以下添付します。

 音楽好きの皆様 その後、いかがお過ごしでしょうか?

 長い自粛生活の中、季節はいつの間にか秋です。

 以前ご案内しました私のジャズライブ、一度はコロナで断念も考えましたが、周りから背中を押されて、決行することにしました。

 コロナで休廃業するライブハウスが多い中、会場のStageー1さんはエアコン増設やフロアにダクトで外気を送るなどのコロナ対策をして、やる気満々でした。密集回避のために、定員70人のところ、客数20人前後に抑えて開催します。

 飲んで食べて、おしゃべりを楽しんで、自粛生活で縮こまった羽根を伸ばしにおいで下さいますよう。再会を楽しみにお待ちしています。

【ご案内】

日時 10月9日(金)開場午後5時
開演午後6時、午後9時前に終了予定
ライブハウス STAGE−1(ステージ ワン)
港区赤坂3丁目11−19 UFビル4階 
電話3585ー1827
地下鉄赤坂見附駅から徒歩3分。みすじ通り沿い、角のビルです。
お店へのアクセス 必要な方には写真、地図などご案内します。ご連絡下さい。
入場料 5000円。
ドリンク何でもフリー(ワインは好みがあるので、持ち込み自由)軽食付きです。
出演 Vo渡部節郎 Pf中西雅世 B磯部英貴 D大井川俊英

◆今回は予約をいただきませんが、事務処理上、参加希望の連絡を下されば幸いです。
 メールでも、電話でも。  080ー3095ー6982 渡部節郎

2020年9月24日

第二の人生 思いがけずボランティアに (その2)

(元販売企画本部) 成田 紀子

 前回、最後のところで、保育園の新しい園舎を確保し、経営が好転したと書いたが、NPO法人の規定に、当時は園舎のオーナーは経営に参加してはいけないという規約があったため、私は平成21年5月、新園舎オープンの時点で、理事長を退任していた。それから4年ほど後、NPOの規約が変わったので、もう一度理事に復帰してほしいと言われ、ヒラの理事ならということで、

また保育園の経営に参加した。

認可園と小規模事業保育園の2園を開園決意

 その頃、全国的に待機児童が問題になり始め、横浜市の林市長は「横浜には待機児童はいない」と豪語していたが、人数の算出方法がいい加減だったようで、算入されなかった待機児童がたくさんいることがわかり、平成25年ごろから横浜市として保育園を開設する際には、その費用の4分の3を市から補助するので、27年から29年までに、保育園を開園してほしいということが、市の待機児童が多い地域を重点地区として、法人に呼びかけられた。私どもの保育園は、その要請に応えるべきかどうか討議したが、いつまでも無認可で園の経営を続けることは、子どもたちのためと保育士をはじめとした従業員の待遇のためにも良くないということ、さらに手厚い助成があるうちに対応したほうがよいということで、認可園開設に応募することを決めた。

 そして多方面に協力を呼び掛けて保育園を建設するための土地探しを行ったところ、現在の園から10分余り、京急線井土ヶ谷駅から7分ほどのところに土地を持っていた大地主の方から、保育園なら園舎を建てて貸してもよいという申し出があった。そこは、60人か70人定員くらいの中規模園ならOK という広さの静かな住宅地で、すぐ前に子どもたちが遊ぶにちょうどよくて、運動会ができる程度の公園もあった。そこで直ちに認可園の申請書類を提出したところ、27年1月に許可され、4月から園舎の建築に着手した。一方これまでの無認可園は0歳から2歳の子どもたちが対象の園舎であり、人数も30人以上は無理な広さであるため、このまま経営を続けるか、廃園とするかを理事会で討議した。

 するとちょうどそのころ、国から小規模保育事業として、小さな保育園を認可するので、開園してほしいという呼びかけがあった。小規模保育事業の保育園というのは、定員が最大19人で、0歳から2歳までの子どもたちが対象である。認可保育園の場合、設置を義務づけられている多目的トイレなどは必要ないので、現在の園舎を増改築はせずともそのまま使える。したがって園舎はOK、しかもこれまで働いていた無資格の保育士も助成金は少なくなるが、継続雇用してかまわないとのことだったので、ここで小規模事業の認可を受けたほうが経営は安定すると判断し、開園の申請をすることにした。これは簡単に認められ、認可園(以下「永田園」と記述する)の開園と同時(平成28年4月)に小規模事業保育園(以下「共同園」と記述する)も開園の運びとなった。

新しい2園を開園へ

 NPO法人は永田園が平成27年1月に、共同園は同年2月に認可の申請を許可されたため、両園とも翌年4月の開園に向けて動き出した。同時に2園を開園するのは初めての経験であり、保育対象の子どもたちの定員も永田園66名、共同園18名で、合わせるとこれまでの3倍近い。保育士をはじめとした職員の数も3倍必要となった。しかし予想していたことではあるが、募集をかけても集まらず、苦労した。折しも保育士不足はピークに達していた。

 一方、永田園の園舎の建築が7月ごろから開始された。建物の建屋の部分は地主であるオーナーが受け持つことになっていたが、内装は保育園側であった。

 また建物を建築開始する前に、近隣の住民の方たちに保育園設立の趣旨を理解してもらうための会合を3回開催した。さらに建築工事を開始する直前には、10数軒のお宅を一軒一軒あいさつして回った。若干の苦情はあったが、最終的には納得してくれてほっとした。高齢のお年寄り世帯が多かったので、「子どもたちの元気な声を聞けるのは、ありがたい」というような声は数人から聞かれた。

再び理事長に就任

 その年の9月6日、当時の加藤理事長が突然スキルス性の胃がんで入院してしまった。病状はステージ4だった。新しい保育園の設立業務はドンドン進んでいたので、NPO法人は園長とともに休みなく活動していた。そのため空席となった理事長を立てなければならなかった。誰にするかということになったが、当時仕事を持っていなかったのは、私だけだったので、致し方なく私が理事長を代行することになった。

 それから翌年4月の開園まで、人・物・金 に関し、いろいろな作業があった。特に2園同時に開園というのは、初めての経験で、いろいろ難しいことがあった。最も大変だったのは、職員の配置で、これまで1園にいた職員を2園に分ける際に、園内の人間関係での問題が一気に噴き出し、収めるのに苦労した。その上不足している要員補充でツテを頼ったり、ハローワークや人材派遣を通じて集めたが、OKの返事をもらっていたのに、翌日には反故にされたりして、いやな思いをさせられた。

 しかしなんとか平成28年4月には、規定の保育士をはじめとして他の職員も何とかそろい、無事開園することができた。そしてその年の6月のNPO法人の総会で、私は正式に理事長に就任した。前理事長の闘病生活は、その後1年続き、翌年5月に他界された。

開園一年目の苦闘

 これまで先に認可を受けて開園している先輩保育園の経営者などから、「開園して1、2年は、大変苦しい思いをする」と聞かされていた。私は経済的に厳しいことになるのかと、バクゼンと思っていたが、私どもの園の場合、そうではなかった。実際、経済的には、認可園となり、無認可時代と比べて大幅に保育助成金が増えたため、以前ほど厳しい経営をしないで済んだ。大変だったのは職員の人間関係である。何しろあちらこちらから集まってきた保育士が予行練習なしにグループで初めて会う子どもたちを保育したのである。保育士は学んだ学校、その後働いてきた保育園でそれぞれの保育をしていたわけであるから、保育理論が異なり、統一するのがむずかしかった。それに人間の好き嫌いも加わるのであるから、大変だったわけ。保育室だけでなく、調理室でも栄養士と調理師のバトルがあったりして、1年目は落ち着いた運営ができなかった。これは両園の園長が保育士やその他の職員を上手に指導しながら、強い信頼関係を築くに至らなかったことによると思う。

 永田園の園長は、独善的に采配を振るったため、1年目の秋には、「来年の3月には、辞めます」という保育士が数人、私のところに訴えてくる状況になってしまった。これでは組織がもたないと、私は園長と話し合いを進めたが、精神的に彼女は参ってしまい、11月末には辞表を出してきた。あまりに職員の信頼を失ってしまった状況だったので、理事会も即了解して、次年度から主任保育士を園長に昇格させ、一段落した。しかしこの園長の交代に関しては、横浜市に「3年間は園長を交代させない」ことを約束させられていたので、私は横浜市から厳しく注意され、詳しい報告書を提出させられた。

 次に大変だったのは、新しい組織を動かしていくための規約の作成だった。無認可園の場合は、横浜市の助成金が多くなかったので、市の監査はそれほど厳しくなかったが、認可園となってからは、助成金が多いだけにいろいろな面で監査は厳しくなった。就業規則とか賃金規程程度の規約集だけではすまず、経理規程や物品管理規定などその他諸々の規程集を要求され、また必要であることも納得させられた。しかし新しい組織には当然あるべきものが備わっておらず、一つ一つ作成していかなければならない。実際ボランティアで成り立っている法人としては、これ等の規程類の作成にあたる要員確保が困難で、大体そのようなものを作成した経験のある人がいない有様だった。

 NPO法人の保育園運営は、儲ける必要はなく、利益はもっぱら子どもたちの保育と従業員の処遇改善のために使っていき、お金をため込んではいけないことになっている。NPO法人の役員は全員ボランティアで、理事長,副理事長には、自分の時間を使うので、通信費・交通費程度の若干の手当てが出るだけである。

 開園から2年3年は大した問題はなく推移した。しかし2園を運営していることの難しさは痛感させられた。両園とも待遇は全く同じにして、スムーズに人事異動や人のやりくりを容易にできるようにしたつもりであったが、2園が全く同一の園ではないので、比較をして不満が出やすく、職員の組み合わせでは、人間関係が難しかった。その上保育士不足は恒常的に続いており、待遇は勤続7年以上になると、プラス4万円アップする制度が横浜市として実施されたが、それでも世間の給与水準に比べると低いため、保育士は高姿勢で少し不満があると退職をチラつかせる始末だった。

横領事件発生

 開園4年目を迎えた6月の初めに一つの事件が発覚した。税理士の報告によると、永田園の預金から3百万円が百万円ずつ3回に分けて勝手に引き出されていたというのだ。会計担当者に聞くと、理事長から給与の支払いが足りなくなるといけないので、引き出すように言われたという。しかしそんなことを私は言わないし、これまでそんな指示を出したこともない。すると2日ほどしてその金は預金口座に振り込まれていることが分かった。これはおかしいということで、横浜市の監査課に連絡したところ、そういえばこれまで監査の際に、領収書などに不審な点が若干見受けられたということで、私ども法人の役員は、市の監査課とは別に徹底的な調査を開始した。すると次々とおかしな処理が見つかってきたため、6月7月と2か月間、休み返上で調べ続けた。その結果、犯人は永田園の会計担当者であることが明確になった。その段階で彼を呼び出し、聞き出したところ、素直に犯行を認めた。しかし当初、どの程度の被害額かわからなかったが、調べを続けるうちに、彼が開園と同時に採用されてから、数か月後には早くもごまかし、着服を行っていることが分かった。以後3年間、税理士に内容チェックを任せ、私ども役員が経費の処理を見なかったことで、起きてしまった犯罪だった。各種の伝票、領収書、元帳などあらゆる帳票類を調査して横領額がまとまると、会計担当者を何度も呼び出して聞き取り調査を行ったが、結局彼はすべてを認めた。横領額は約740万円。ただ全額は返金できないという。そこで奥さんも呼び出して話をし、返済を促した。

 実はこの夫婦は、当時二人とも57歳だったが、奥さんは若い時からずっとシステムエンジニアとして働いていて、子どもを私たちの保育園に預けていた。そのお子さんはすでに社会人で、彼女自身は10年以上、私たちNPO法人の理事として頑張ってくれた人なのである。そして新しく永田園が開園するときに「会計担当に夫を採用してほしい」と頼んできたのだ。当時は開園に向けて大勢の人を新規採用しなければならなかった。彼女自身多忙な中、大変まじめに理事として勤めてきてくれたし、ご主人は病気回復後失業していたので、私たちとしても彼女を助けることになればと思って採用した次第。したがって彼の人間性を全く疑っていなかったというのが、正直なところである。いま考えてみると、せめて経理のチェックシステムを作っていて、規則としてとにかく機械的にでもチェックしていたら、こんな事件は起きなかったと反省している。私をはじめとして園長や他の理事たちも経理に疎かったのが、最大の要因であったと思う。

 そして横領されたお金は、結局、奥さんがもうすぐ定年なので、退職金を前借することで、返済された。幸い今回は、全額戻ったが、もし戻らなかった場合は、たとえ役員がボランティアであっても、責任を取って返済しなければならない。なぜならばこの横領されたお金は、市民の税金を横浜市が子どもたちのために、保育園へ助成金として支給したものであるから、返済はあくまでも子どもたちになされなければならないのだ。

 この事件については、弁護士と税理士による第三者委員会を作ってすべて調査し、報告書も出してもらった。さらに園児たちの保護者には2回にわたって集まってもらい、説明し、謝罪した。そしてメディアにも報告書を配布したため、神奈川新聞とテレビ神奈川が報道した。しかし、その後、保護者や近隣からこの件について批判や、責任追及の声は聞かれなかった。 元会計担当は、懲戒解雇で一件落着というところだが、ケジメとして現在は地域の警察署に刑事告訴を行っている。

 振り返ってみれば、諸々の事情はあったにせよ、最大の責任は、理事長であった私にあると思う。もし私に経理の経験があって、他人を信じやすい性格でなかったならば、この事件は起きなかったのではないか。しかしそれにしても、そういうことを防ぐために、きちんとしたチェックシステムを導入すべきであったと深く反省している。

常勤理事長誕生へ

 一年後、やはりNPO法人の役員全員がボランティアで、片手間で二つの保育園を運営している形は、組織としてお粗末すぎると考え、何とか理事長だけでも常勤で働けるような方法はとれないものかと、横浜市に相談してみた。するとNPO法人としては、直接給与を払って職員を雇用することはできないという。しかしその人を保育園の職員として雇用し、保育園の仕事をしながら、NPO法人の役員となることは、構わないという回答を得た。そこで今年の総会において、もうすぐ80歳の私が理事長を退任し、最も若い男性の理事が現在の仕事を退職して、保育園の職員となり、なおかつNPO法人の理事長に就任してもらうということになった。ちょうど働き盛りで力量・意欲ともに兼ね備えた人材と巡り会えたことが大きく幸いした。これで長年考えてきたフルタイムの理事長を誕生させることができた。手前味噌ではあるが、小さな一歩として、NPO法人の組織強化が少し前進したと思う。   

                               

2020.9.15 完

2020年9月14日

元中部本社代表・佐々木宏人さん③

ある新聞記者の歩み 2
押し不足もあった。抜かれもした。しかし、“ガンクビ”集めに果敢にアタック。

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」2回目です。
 https://note.com/smenjo/n/n9570fa63406c?fbclid=IwAR2D0QBMW-Q3PluqoTlAWAs4sjJPHB-ixz0ZH3gzOjmM-9_ipYgHw2Nct_8

 1.水戸支局時代--新聞記者生活の原点(下)

 「今回は失敗談もお話しようと思います。」

 Q.それはまたどうしてですか?

 「イケイケどんどんの自慢話ばかりでは、なんか出来のよい記者のように読者に思われても困りますから(笑)、失敗談も話した方がいいのかなと思いまして・・・。」

 ◆歴史的人物が近くにいたのに

 1932年(昭和7年)の五・一五事件は、海軍の青年将校が犬養毅首相を「問答無用」と射殺した事件ですが、実は、同時に軍人数組のほか、水戸中学から一高を中退し水戸郊外で愛郷塾を主宰していた農本主義者・橘孝三郎率いる民間人・農民グループが行動に出ました。橘らがみな茨城県出身だったために、この2ヶ月前に起きた「血盟団事件で小沼正、菱沼五郎のテロリストを出したばかりの県民に大きなショックを与え、“水戸浪士”の伝統を継ぐ“水戸右翼”が全国的にクローズアップされた」と『茨城の明治百年』で佐々木宏人さんは書いています。

 「橘孝三郎は、五・一五事件のときは東京の変電所を襲撃しました。私が「茨城の明治百年」の連載記事の執筆に当たっている時期は存命でした。70代半ばくらいだったでしょう。この人に会わなかったことが、実はいちばん悔いていることです。茨城で愛郷塾というのを結成して、農本主義に基づいて、昭和恐慌と東北の冷害で苦しむ農民の地位向上をめざしていた橘は、ドイツ哲学への造詣も深くクーデターの理論的中心人物のひとりでした。」

 Q.どうして会えなかったのですか?

 「僕は何度か会おうとしたんです。しかし、なぜ会えなかったか。それは私自身の弱さと、歴史認識への甘さでした。それを思い知らされたのは、のちに保阪正康さんの『五・一五事件―橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(1974年草思社刊、2019年ちくま文庫刊)という本を読んだからです。保阪さんは、実に何度も橘に手紙を出して、自分の考えを書いて、やっと会って話を聞いているんです。私にはそこまでやる強い気持ちが不足していました。保阪さんみたいにきちんと手紙を書いて、どうせ水戸にいたんだから毎日でも通って、何とか会って話を聞いておくべきだったなと。慚愧に堪えません。歴史的な問題についての立ち位置が専門家に比べて、新聞記者は弱いなあというのを、今にして感じてます。」

 「悔いといえばもうひとつあります。血盟団事件の菱沼五郎(別名小幡五朗)です。三井財閥の団琢磨を暗殺した人で、戦後、小幡五朗の名前で茨城県の漁連の会長や県会議員を務めました。恐らく全国でテロ実行犯が県会議員をやっていたのは全国でも一人だけではなかった思いますが、県会議場で見かける小幡は実に温厚な老人で、とてもテロ犯という感じはしなかったですね。私は小幡に「当時の話を聞きたい」と面会を申し込んだのですが断られました。もっとしつこく当たるべきでしたが、1回であきらめてしまって押しが足りませんでした。そういう意味では、連載「茨城の明治百年」の記事は画竜点睛を欠くというか、まだ昭和史全体の重みを感じ取ってなかったと言えます。ただ保坂さんの本の巻末の参考文献に『茨城の明治百年』がリストアップされているのを見てうれしかったですね」

 ◆顔写真集めに苦心惨憺

 「失敗談ではないのですが、事故や事件の犠牲者の顔写真の報道について言っておこうと思います。個人情報保護という観点では、現在ではとても考えられないことをやってたことになります。」

 「殺人事件でも交通事故でも、何か死亡事故があれば必ず顔写真を入れるというのが当時の常識でした。「ガンクビ(顔写真のこと)はどうした!」という事件取材の際のデスクの言葉や、先輩記者の怒鳴り声は今でも忘れません。中には、本当かどうかわかりませんが、葬儀会場から飾ってある写真をかっぱらってきちゃったなんていう武勇伝も、事件記者の鑑(かがみ)として語られていました。記者はカメラにくっつける複写レンズというのを必ず持ってました。コピー機なんてありませんから、写真をそのまま接写するわけです。それで線香を上げて、「供養もありますので、ぜひ顔写真を紙面に載せて差し上げます」なんて調子のいいこと言って、アルバムを出してもらって選んで撮らせてもらうわけです。特に特ダネ的な事件の場合は、他社に渡さないためアルバムごと持ってきちゃう場合もありました。「貸してくださいって言って・・・。」

 「今でも覚えてますが、茨城県の栃木県に隣接するところに御前山村というのがありました。今は、常陸太田市に編入されています。昭和41年3月11日の未明、群馬県みなかみ町の水上温泉に慰安旅行に行った、この村のタバコ耕作組合団体客のうち30人くらいが焼死したのです。おじいさん、おばあさん、それに働き盛りのお父さん、お母さんたちでした。宇都宮支局から連絡があって、早朝、飛び出して車で御前山村に向かいました。火災現場の水上温泉を取材しているのは管轄の宇都宮支局でしたが、御前山村は茨城県なので水戸支局に取材要請が来たわけです。」

 「御前山村に車で向かうその途中、無線で住所、氏名などの情報をもらったりしてかけつけました。すると、山の方からたくさんの人が国道に降りてきて、情報を交換して話し合っている様子でした。そこへ新聞社の旗をつけて行ったので、みんな寄ってきまして、ひとりひとりが「名前が出てますか」などと必死の表情で聞いてくるんです。とにかく肉親が生きているか死んでるかの瀬戸際ですから。しかし、それはそれとして、紙面に犠牲者の写真を載せなくてはいけない。生前の人となりとか、どういう仕事をしていたかとか聞きながらも、顔写真が欲しくてしようがないわけです。するとアルバムを何冊も持ってきてくれるのです。「この人です」と教えてくれます。ほかの社に写真を取られては困るから「お預かりします」と言って、名刺を置いて持ってきちゃうました。まあ、後で返しましたがひどいことしたもんです。」

 Q.結局何人くらい集めたのですか?

 「結局29人位まで集めたかなあ。だけど1人だけ集めれられなくてデスクに怒られた覚えがあります。確か地元紙の茨城新聞は全員分を集めていました。そういうことで勝った負けたと言っていたんです。」

 「もう一つ顔写真取りの記憶です。茨城県の南端の太平洋に面した波崎町(現・神栖市波崎)というところがあります。利根川の河口をはさんで向こう側は千葉県の銚子市です。波崎にも銚子から遠洋漁業に出る漁師たちがたくさんいました。ある時、太平洋の洋上で遭難事故が起きたことがあります。それで漁師さんの家に行って顔写真をもらおうとするのですが、「まだ死体があがってるわけでもない。縁起でもない、ふざけるな。」と気の荒い漁師に怒鳴られたりしました。」

 「人の不幸につけこむような感じで、新聞記者は因果な商売だと思いましたよ。ただ、当時は、事故の悲惨さを伝えるとか、再発防止のために役に立つという大義名分があってやってたんだけど、その辺のところは、今とまったく違いましたね。当時はテレビ局も少なかったし、メディアスクラムなんてなかったし・・・。時代の流れで大きく変わりました。」

 「最近の相模原のヤマユリ園事件、京都の京アニ事件などでの遺族の意向を尊重して顔写真を載せないケースを見るにつけ、時代は変わったと思いますね」

 ◆茨城大の学生運動でなぐられたり、赤軍派予備軍に会ったり

 「写真と言えば、茨城大で学生になぐられたことを思い出します。昭和42年(1967年)茨城大でも学生運動が燃えさかってバリケードストライキを取材していたのですが、学生に殴られてカメラが壊れたことがありました。学生たちの言い争いをしている様子を写真に撮ったのだったのだと思います。なぐってきたのは全共闘と対立する右派の学生でした。その一件は私が記事を書いて、毎日の茨城県版の「本紙記者暴行を受ける」という記事になりました。」

 「暴力はだめだよと殴った学生をこんこんと説諭したことを覚えています。水戸警察署は立件する気は全然ありませんでした。全共闘側だったら別だったかもしれないけど。そのうちの1人はのちに県警本部に入ったって聞きました。権力側は体制側には甘いんだなと身をもって体験しました。」

 「写真の話からそれますが、その茨城大の全共闘には、のちに赤軍派に加わる松田久がいました。今でも指名手配されています。もう70歳を超えていると思います。1975年、赤軍派がマレーシアのクアラルンプールで米大使館、スウェーデン大使館で人質に取る事件を起こした際、政府は要求に屈して国内の赤軍派の服役拘留のメンバーを解放しますね。そのとき、松田久は1971年赤軍派の資金集めの銀行襲撃事件で逮捕され懲役10年の刑を受け、収監中でした。彼も解放され、リビアに渡ったといわれています。」

 「私は、松田らと何度も話したことがあります。学生運動を始めたころは、真面目な田舎の学生という感じだったのだけど、しばらくして、目つきがまったく違って人間が変わった印象を持ったことがあります。そのときは立てこもりに加わった頃で、赤軍派にすでに入っていたかどうかはわかりません。ブル新だといって、相手にされませんでしたよ。今もおそらく海外にいるんだと思うけど、交番に指名手配のポスターが貼ってありますね。茨城大で会ってからもう50年以上。先日彼の現在(72才)を想像した手配写真が公開されましたが、ウーン、そういう彼の人生の一断面を見たなという感慨があります。」

 「ただやはり60年代安保騒動の真っただ中で育ち、新聞記者生活を送り始めた世代の一人として、純粋に主義主張に生きている連中に出会えたことは、人間の生き方にはいろいろあるんだという事を知る上で、幸運だったと思います。 同級生にも東大全共闘に入り、安田講堂に籠城して逮捕された仲間もいます。大学の同じクラスのメンバーが革マル派にオルグされ、行方不明になった人もいます。ホントあの時代は、何が起きても不思議ではない時代でしたね」

 「公安調査庁とか水戸署の警備だとかは、新聞記者から情報を取ろうとしていました。そういう連中とも会っていろいろ話しましたが、話し方とか情報の取り方がけっこううまくて、おもしろい経験ではありました。支局のデスクからはあんまりつき合うなと釘を刺されましたが・・・。新聞社の内部ではそういう学生運動の活動家、共産党との関係などに注意を払っていて、入社の際の”身体検査”で調べられたような形跡はありましたね」

 ◆黒い霧事件で見た政治家の生態

 「水戸支局で体験した事件で忘れられない事件の一つに『県会議長選を巡る黒い霧事件』があります。これも苦い思い出の失敗談です。」

 「1966年(昭和41年)に起きた事件で、当時中央政界では田中彰治衆院議員の議会の質問をタネにした恐喝まがい事件や、東京都議会の議長選を巡る贈収賄事件などが頻発した上に、衆院の「黒い霧解散」などがあって”黒い霧”というのは流行語でした。この中で、茨城県議会で当時の県会議長・飯沼泉が短期で辞める約束だったのに居座って、彼を押した自民党県議からやめろコールが起きました。これに対し飯沼議長が「議長になるには経済的負担がかかった」と言い出して、大騒ぎになって贈収賄事件に発展しました。」

 「結局県議20人が連座・逮捕され、県議会は解散しました。当時私はサツ回りで水戸地検も担当していましたので、担当検事には割と食い込んでいましたから、取材には自信を持っていました。ところが、連日、地元紙の茨城新聞に抜かれっぱなしで参りました。地元紙の警察や検察への食い込みは、とても新人記者には太刀打ちできませんでした。」

 「ただ出直し選挙では獄中から立候補して当選したり、のちに国会議員になった人もいて。地方政治の在り方を本当に考えさせられました。自民党の幹事長にもなる梶山静六も事件に関係していたといわれましたが、逮捕は免れました。政治部時代、梶山氏を見かけるたびに政治家の運・不運を感じたものです。」(以上)

2020年9月11日

95歳の誕生日を迎えた牧内節男さん

 社会部旧友、元社会部長の牧内節男さんは、8月31日に95歳の誕生日を迎えた。 牧内さんは、インターネット上にブログ「銀座一丁目新聞」http://ginnews.whoselab.com/を持ち、10日に1回、4本の原稿を更新するとともに、「銀座展望台」を毎日アップしている。

 9月10日号には、「95歳」に関連する記事を書いている。100歳、センテナリアンを目標にブログを更新続けることを表明している。以下にその心意気を——。

 95歳というのは節目の年齢と見えて誕生日には女性5人、男性5人から誕生日カードやプレゼントいただいた。感謝のほかはない。

 後5年は生きようという目標もできた。「有終の美」を目指して書くことにしよう。

 「バラの香や秘められた謎我悟る」悠々

 100歳を目標にした。毎朝「南無阿弥陀仏」を数回口ずさむ。心が落ち着く。あと冷水摩擦と柔軟体操をするのが日課である。一日心の欲するままに楽しく過ごすことにしている。

 書くことが生きがいなので「銀座一丁目新聞」は続けていく。今、読書は藤沢周平の時代小説にはまっている。

 私は悟る。人は死ぬまで「快挙の旗」を立てるべきだと。「萎えた心では進めない。

 うつむいていては先が探せない。嘆いていては歌えない」。

 老子の言う通リ「人の命我にあり」である。

 その前段にこうある。

 《長生きの秘訣の一つは「良き友達を持つ」ことであろう。作詞家の阿久悠を知ったことである。当時の(スポニチ)編集局長の紹介であった。ゴルフも一緒にした。阿久悠さんから巧まずして教えられることが多かった》

 《スポニチ後援で、現日本山岳協会の会長八木原圀明氏、副会長尾形好雄氏が1993年(平成5年)12月18日、冬季のサガルマータ(エベレスト・8848メートル)に南西壁から初めて登頂に成功した。当時、群馬山岳連盟に所属するサガルマータ登山隊長と登頂隊長。

 翌平成6年1月元旦号のスポニチの一面に、サガルマータ頂上に翩翻と翻るスポニチ旗を持つ2人の登山隊員の写真とともに、「快挙の旗」の見出しで阿久悠さんの「きっとことしは」の歌が紹介された》

  思いうかべてみるがいい
  それがどれほど凄いことか
  8848メートル
  サガルマータの頂上で
  天のうたを聴き
  地の声を心によみがえらせることが

 私が社会部長であったのは昭和51年3月から昭和52年2月までわずか1年である。論説委員の時、同期生の編集局長(注:平野勇夫さん)に「ロッキード事件をやってくれないか」と頼まれて引き受けた。それよりも社会部のデスクを4年努め「鬼軍曹」と言われた。

 あとはブログを読んでください。

 ともかく元気な95歳です。

(堤  哲)

2020年8月31日

元中部本社代表・佐々木宏人さん①

 1965(昭和40)年入社の佐々木宏人さん(78歳)の記者生活のすべてをメディア研究者の校條諭さんが聞き書きしてネットにアップしている。
https://note.com/smenjo/n/n755f8c6a414e
(原文はこのURLをクリックすれば読めます)

 以下は第1回、「はじめに」

◆真夏の教会ミサ

 2020年8月16日、横浜市のカトリック保土ケ谷教会の主日(日曜日)のミサがYouTubeで中継され、元毎日新聞記者でカトリック信者の佐々木宏人さんがパソコンの画面に見入っていました。

 アダム神父が冒頭、この日の記念ミサの意義を説明し、その中で佐々木さんが2018年に出版した『封印された殉教』(フリープレス刊)を手にとって掲げました。アダム神父は「著者の佐々木宏人さんは、長年かけて取材をされてこの本をお出しになりました。平和の使徒としての戸田帯刀(たてわき)神父様のことを、何とか忘れないでほしいという願いがあったと思います。」と語りました。

 1945年(昭和20年)8月18日、つまり終戦の日の3日後に、この保土ケ谷教会で戸田帯刀神父(事件当時横浜教区長)が何者かに暗殺されました。その歿後75年の記念ミサでした。誰が何のためにやったのか。そもそもこの事件の存在自体が長きに渡って知られなかったのはなぜか。謎があまりにも多いこの事件について、カトリック信者として佐々木さんは一種の使命感をもって取材に取り組みました。

 佐々木さんが普段通うのは自宅から近い東京杉並の荻窪教会ですが、パソコンを通じて聞く神父の言葉に、新聞社の退職後およそ10年をかけて取材にあたった苦労のことが脳裏に浮かび、こみあげてくるものがあったといいます。

 ◆「新聞記者佐々木宏人」との出会い

 私が初めて佐々木宏人さんの講話を聞いたのは2019年6月のことでした。毎日新聞東京本社内の毎日メディアカフェで、佐々木さんが「神父射殺事件を取材して見えてきたもの」と題して話したのでした。毎日メディアカフェでは、コロナ禍に見舞われる前までは、毎週のようにセミナーが開催されていました。

 毎日メディアカフェで聞いた佐々木さんの話はたいへん興味深いものでしたが、それ以上に私は「佐々木宏人」という人そのものに関心を持ったのでした。セミナーのあとの懇親会で言葉を交わす機会を得た上に、たまたま自宅が近く、同じ駅が最寄り駅であることもあって、お開きのあといっしょに帰りました。その後も何度かお会いする機会があり、私はこの人の記者人生を詳しく聞いてみたいという欲求を持つようになりました。一人の記者の足跡をたどるというのは、メディア研究の方法論として意義深いという確信がありました。一人の人の連綿と続く記者生活を通して、時代時代のメディアのありようや社会の実像が見えてもくるだろうと期待しました。

 ◆Zoomで連続インタビュー

 幸い快諾をいただいたのですが、当初は、会議室とか喫茶店で会って話を聞こうと思っていました。ところが、折悪しくコロナ禍に見舞われることになって、お互いの自宅をつないでZoomで話を聞いたらどうかと思いついたのです。これが実に瓢箪から駒で、喫茶店などで会うよりもよほどやりやすいということがわかりました。わざわざどこかに足を運んでもらう必要もないし、顔をみながら心おきなく話ができます。パソコンに入っている資料はすぐに双方で共有できるし、何かの本を参照したいとなったときにも書棚から取りだして手元に持ってこられます。録画が簡単にできるのも助かります。こうして、週1回約2時間のペースでこれまでに15回ほど話を聞いてきてなお数回続きそうです。

 ◆毎日新聞を勤め上げ、その後も記者として生きる

 佐々木宏人さんは、昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃から2ヶ月半ほどさかのぼる9月25日、父親の出征中、東京から疎開中の母の実家の北海道釧路市で生まれました。その後、終戦まで4年ほど釧路で乳幼児期を過ごしました。終戦の1ヶ月前、釧路は空襲を受けています。まだ4歳にもなってなかったのですが、避難した蔵の中での記憶が残っているといいます。それほど強烈な経験だったのでしょう。

 戦後は主として東京杉並に住み、1965年(昭和40年)に早大政経学部を卒業、毎日新聞社に入りました。

 入社前年は東京オリンピックが開催された年でした。ベトナム戦争が泥沼化し、日本国内では60年安保条約改正反対運動が燃え盛り、学生運動も日本中の大学を席捲していました。高校の同級生の中には1969年の東大全共闘で安田講堂に立てこもり逮捕された人もいました。各地の公害問題が火を噴き、新聞自体が社会の指針の中心的存在で、大学生の就職希望リストのベストテンに常に朝日、毎日新聞は入っていたと思います。その社会の新聞への期待が熱い時代に入社しました。

 まず水戸支局に配属されて5年間過ごし、記者としての基本を身につけました。1970年(昭和45年)からは経済部や政治部に所属、エネルギー分野を主対象に、通産省担当として第一次石油ショック、高度成長期の日本経済の最前線を取材しました。さらにその後、バブルの進行とその崩壊時代、失われた20年の時代にも経済部記者、政治部記者として立ち会いました。

 2001年(平成13年)に同社を退職するまで36年間毎日新聞社に在籍したことになります。そのすべての期間記者職であったわけではないのですが、組合委員長や、甲府支局長、経済部長という第一線を経て、広告局長、中部本社代表を経験した時期も含めて、佐々木さんは記者という意識を持ち続けてきました。

 それどころか、佐々木さんは退職して自由の身になった後も記者であり続けたと言っていいでしょう。佐々木さんが、冒頭紹介した教会の記念ミサで神父が掲げた本『封印された殉教(上・下)』を出版したのは、退職後17年ほど経った76歳のことです。実際、約10年の年月をかけ各地を歩き回り、多くの人に会って取材を重ねるという文字通りの記者としての取り組みをしてきました。それが上下合わせて800ページ以上に及ぶノンフィクションとして結実しました。

 このあと、入社直後の水戸支局時代を皮切りに、経済部、政治部などでの経験を中心に、記者としての歩みを連載で辿っていくことにします。(校條諭)

 佐々木宏人氏略歴

 1941年、北海道釧路市生まれ。65年早稲田大学政治経済学部卒、毎日新聞社入社。水戸支局、経済部、政治部記者を経て、85年甲府支局長。在任中戸田師射殺事件を知る。

 91年経済部長、広告局長、役員待遇中部本社代表、㈱メガポート放送専務、2001年毎日新聞社退社。(株)チャンネル常務などを経て2010年より『封印された殉教』を執筆。

 現在NPO法人ネットジャーナリスト協会事務局長。

 著書『封印された殉教(上・下)』(フリープレス、2018年)

 共著『茨城の明治百年』(毎日新聞社茨城支局、1968年)、『当世物価百態』(毎日新聞社、1976年)、『岐路に立つ中国市場』(Japan Times社、1995年)、『トップが語る21世紀のITと経営革命』(日経BP社、1998年)

 筆者・校條諭(めんじょう・さとし)さんの略歴

 メディア研究者。1948年神奈川県生まれ。東北大学理学部卒。1973年野村総合研究所入社。同社及び、ぴあ総合研究所で情報社会、メディア産業、消費者行動などの調査研究に従事。1997年ネットビジネスで起業し、ネットコミュニティのサービスを開発、提供。

 現在、ネットラーニングホールディングス社外取締役。NPO法人みんなの元気学校代表理事ほか。

 著書『ニュースメディア進化論』(インプレスR&D、2019年)、編著書『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年)、共著多数

2020年8月31日

元中部本社代表・佐々木宏人さん②

ある新聞記者の歩み 1
https://note.com/smenjo/n/n18924f4154c8
(原文はこのURLをクリックすれば読めます)

 サツ回りも苦じゃない、体当たり新人時代

 1.水戸支局時代--新聞記者生活の原点 (上)

 ◆上り坂の時代に入社

 ——佐々木宏人さんが毎日新聞社に入社したのは昭和40年(1965年)。受験者およそ3千人から100人位が選ばれた一人として入社しました。

 「同期生には後に社長になる北村正任君、都知事選に立候補したニュースキャスター鳥越俊太郎君などがいました。」

 ——昭和40年と言えば、東京オリンピック開催の翌年で「40年不況」と呼ばれる景気後退の年でした。しかし、佐々木さん自身はその影響を特に感じることはなかったようです。

 「むしろ日本は高度経済成長の坂を登る途上でした。毎日新聞も朝日と並ぶ昇り竜でした。」

 「当時の東京本社は、今の竹橋のパレスサイドビルではなく、有楽町駅前にあった古いビルです。向かいには読売新聞、線路をはさんだ反対側には朝日新聞社がありました。本社内を見学した際、外信部長の席にいた大森実さんの姿を印象深く覚えています。大森さんは当時、ベトナム戦争報道で毎日の名を内外にとどろかせていました。大阪の社会部出身で、“書斎派”文化だった外信部に現場取材の手法を持ち込んで、スクープを連発していました。」

 ◆最後の伝書鳩

 「新入社員の社内見学で強烈に印象に残るのは、旧東京本社ビルの9階に伝書鳩が飼われていたことです。通信の発達が十分でない時代、現地からの速報のために帰巣本能を持つ伝書鳩が活用されていたのです。私の先輩は、「毎日の鳩は朝日の鳩より優秀なんだぞ」と言ってました。」

 「1953(昭和28)年3月30日、昭和天皇の名代として皇太子殿下(現上皇陛下)がイギリスのエリザベス女王の戴冠式に出席するため、客船プレジデント・ウィルソン号に乗船して横浜港を出発しました。そのとき同行した報道各社は、出港から2日目に、船上の皇太子殿下を写したフィルムを鳩につけて飛ばしたのです。」

 「発信地点は八丈島付近だったようです。そのとき、毎日の鳩は無事に着いたのですが、朝日の鳩は着かなかったというのが先輩の話だったわけです。もっとも、毎日の鳩も直接東京まで戻ったわけではなく、途中航行中の貨物船に舞い降りて保護されたということのようです。」

 実は、毎日新聞で鳩が飼われていたのは、佐々木さんが入社した年までであり、佐々木さんは屋上の鳩舎を見た最後の新入社員だったことになります。 注)「1960年代まで数百羽の「伝書鳩」が新聞社で活躍していた」(文春オンライン2018/10/14) 

 ◆水戸支局で新人時代

 「今でもおおむねそうですが、全国紙の場合、新人は全国の支局に配属されました。私が配属されたのは茨城県の水戸支局でした。昭和40年(1965年)4月からまる5年間水戸で過ごしました。」

 「当時、給料も基準外を入れると3万円程度で、県庁の課長クラスと大差ない感じだった思います。朝日に次いで読売新聞より上だったことを思い出します。その後、アッという間に抜かれましたが。」

 ——新聞社の支局というと、夜討ち朝駆けやら先輩のしごきやらでタコ部屋のようなイメージで語られることがしばしばでした。刑事の自宅に張り付いたりして、新しい情報やとっておきの情報を聞き出すような取材方法のことを言います。最近は夜討ちではなく夜回りと言うようです。

 「私は夜討ち朝駆けもそれほど苦痛ではありませんでした。何しろまだ戦後15年しかたっていない頃でしたから、水戸支局の支局長やデスクは軍隊帰りということもあって、よく怒鳴ったりすることがあったのですが、私にはタコ部屋というイメージはあまりなかったですし、支局生活にはむしろなじんでいたと言えます。人間関係も悪くなく、特に他社の記者仲間とは仲良くつき合っていましたよ。よくいっしょに飲んだものです。」

 ◆人間社会の甘辛を実感

 「私と同期で一緒にサツ回りをしていた某社の東大出身の記者が、支局長から県内通信部への転勤の内示を受けたのですが、それを拒否して自殺したことがあります。支局長が鳥見町という花柳界の芸者とねんごろになったのを批判して、転勤命令が出たと評判でした。自殺を知った日の夜、私は「企業社会には本当に理不尽なことが、まかり通る」と実感して、飲み屋でやるせなく痛飲して、最後は泣きながらその二階に運び込まれ寝たことを記憶しています。今でいうパワハラ、理不尽なことが企業社会の中でまかり通っていた時代でした。」

 「繁華街から離れた住宅街の中に「葵」という店があって、40過ぎのママがいて、たまり場になっていました。みんな「おばちゃん」と呼んでました。各社の記者が集まってよく飲みました。私は「ヒロ坊」とかわいがってもらいました。県警本部の人も来たりしていました。2015年ころか、おばちゃんが亡くなった時には、往年の記者が水戸に集まりしのぶ会をしました。おばちゃんには、東京での私の結婚式(1976年)にも出てもらいました。店を畳んでからも何回か夫婦で訪ねたことがありました。今も寝室にはおばちゃんが『私の形見よ』と言ってくれた、こけしのようなイエスを抱いたマリア像があります。」

 ◆サツ回りも苦ではなく

 「寮から支局にはバスで9時くらいまでに出勤して、管内の警電(警察電話)に電話するのが決まった行動でした。そして10時頃になると、副署長の席に行きます。机の上に広報の資料があって、それを副署長の席の前にある電話で、支局宛に読み上げて吹き込んでいました。当時、ある社の記者が、被害者と加害者(容疑者)の名前を取り違えて送ってしまって、そのまま紙面に載ってしまって大騒ぎになったことがありました。」

 「最初の1ヶ月は、1年上の先輩、つまり昭和39年入社の記者に、金魚の糞のようにくっついて回りました。その後はだいたい各社の記者がつるんで回るのです。その中には、昨今週刊誌で熱心に朝日叩きをして名前を売っている他社の記者もいました。朝回りは、警察と交番。駅前と、繁華街の大工町の交番には必ず行きました。」 

 「新人時代の2,3年はサツ回りが中心でした。ただし、警察そのものだけでなく、地検や県庁なども関連の組織として含まれます。」

 「現場に行くことはしょっちゅうでした。何せ支局の隣が「水戸警察署」。サイレンをならしたパトカーが出ると、すぐ警察に電話します。「○○で重傷の交通事故」、「○○町で火災」とわかると、原稿を書いていても「早く行け」とデスクにどやされるのです。」

 「初期の頃、交通事故の現場に行って、倒れている人に近づいて見ようとしたら、飛び散った脳みそを踏みつけて警官にどなられたことを思い出します。大洗海岸とか那珂川での水死の現場も見ました。あるときは、母親が半狂乱になって「目さまして!」と遺体をひっぱたいていました。水死体は水を飲んでいるのでたいて腹がふくらんでいます。火事場の焼死体の中には、丸裸で火ぶくれがして髪がつるんとなくなっている人もいました。」 

 ◆「権力は隠す」を知る

 「サツ回りで思い出すのは、裁判所も担当していたのです。ある日、公判廷のある二階の法廷の前に裁判名が書いてある名札がかかっていました。『特別公務員暴行陵虐罪事件』というもので、初めて見る名前でした。ほとんどの県内の事件は、起訴の段階で大体事件名は知っているつもりでしたから、おかしいと思い法廷内に入っていくと検察官と裁判長が“まずいな―”という目配せをしました。起訴状が読み上げられてビックリしました。土浦刑務所の看守が女囚を房内で暴行した事件でした。慌てて支局の戻り原稿にしました。特ダネでした。権力は自分の都合の悪いことは隠すんだ―という事を身をもって知りました。」

 「3年生ないし4年生になると、県庁や市役所の行政を担当するようになりました。」

 ◆原発草創期に立ち会う

 「サツ回りと兼務で日本原子力発電の取材を担当したことがありました。動燃、動力炉核燃料開発事業団は、現在青森県下北半島の六ヶ所村にある再処理工場を、大洗の水戸射爆場を移転したあとにつくろうとしていました。水戸から車で30分程度離れた日本原子力発電の東海発電所というのがあって、日本で最初のコールダーホール型という原子力発電を手がけていました。はじめて原子の灯がともったわけです。私が毎日に入る前の1963年(昭和38年)だったかな。」

 「あるとき、東海発電所の職員が作業服を脱がないで町に出てしまったことがありました。それを記事にしたところ、デスクが本紙に送って、社会面トップに載りました。その記事の見出しは「放射能男 町を行く」でした。ただし、当時、反原発の機運は特に無く、いわば反放射能だったと言えます。」

 「原発の取材は、支局の運転手付きの車に乗って出かけました。支局の運転手は1人で、書類の運搬などの雑用もこなしていた。新人でも運転手に依頼できます。広い茨城県の取材には車が必須です。」

 「車と言えば、世論調査のことを思い出します。世論調査を実施する場合、調査員として学生アルバイトを雇うのですが、一部は記者もやっていました。あるとき私が担当して車に乗って行ったのは現在筑波学園都市がある地域でした。当時は本当の山村というイメージで、隣の家までが500メートルも離れているようなところで、調査はたいへんでした。」

 ◆支局の出版「茨城の明治百年」の半分を執筆

 「支局時代の経験はいずれもその後の記者生活の原点となるものでしたが、その中でもよい経験をしたと思えるのは「茨城の明治百年」という企画に加わったことです。この企画は、全国の支局ごとに各県の明治百年を振り返る趣向でした。茨城の記録は昭和43年(1968年)に1冊の本として出版されました。毎日新聞の出版局の発行ではなく、水戸支局の発行です。この本の半分くらいを執筆していた記者が東京に転勤になり、私がそのあとの半分を書きました。」
*巻末に書かれている執筆陣の中には佐々木さんの名前があるのですが、本文の各項目に筆者名が書かれていないのが残念です。

 「昭和初期は五・一五事件に代表されるテロの時代でした。私は小沼正という元テロリストの水戸市内の自宅を訪ねて取材しました。小沼は昭和7年(1932年)2月、前蔵相で民政党の筆頭総務だった井上準之助をピストルで射殺した人です。小沼は、私心からやったのではなく、国家のためにやむをえなかったのだと語りました。床の間に井上準之助の位牌を飾り『毎朝お経を上げている』と言うのが印象的でした。」

 「翌3月には、三井財閥の三井合名理事長の団琢磨が暗殺されました。血盟団事件と呼ばれたこれらのテロ事件の首謀者は井上日召という人物でした。水戸は尊王攘夷の幕末から明治維新にかけての天皇中心のイデオロギーの中心とみられていました。霞ヶ浦には海軍の航空隊もあり“昭和維新”の中心地ともいわれていました。このため井上は茨城県大洗の護国堂に将校らを集めて国家改造計画の同志を募りました。政界の腐敗や農村の困窮ぶりなどの状況から、乱れた世の中はいったん破壊しなくてはならないという急進的な考えにたどりついたのです。」

 ◆歴史の証言者に出会えた幸運

 「私は、本の執筆にあたって、ずいぶん多くの人に会って話を聞きましたよ。私の担当部分は大正および昭和だったので、まだ証言を聞ける人が健在で幸いでした。もちろん、図書館の資料を探索したり、茨城大の歴史学の先生に教えてもらったりもしました。」

 「当時は知らなかったのですが、昭和史の勉強で茨城大学の近現代史研究の木戸田四郎教授のところに行くと塙作楽(はなわさくら)という方がおられました。あまりしゃべらない、好々爺という感じの方で歴史好きのおじさんとみていました。しかし東京に戻り何かの折に塙さんのことを聞いてびっくりしたことがあります。塙さんは、岩波書店の有名な編集者で『世界』の編集などに携わり、岩波文化人=進歩的文化人の間では知らない人はいないほどの有名人で、岩波の労組の委員長までやられた方だというのです。若い頃にそのようなレベルの高い研究者にお目にかかれたのはとても幸運なことだったと思います。」

 ◆後年のライフワークの原点

 「刊行された本は、県庁など県内の関係各方面に直接まとめて販売して約1万部が売れました。新潟出身のU支局長(注:K支局長の誤り、上村博美氏)のことを私は、密かに“小型角栄”と呼んでいました。その支局長が陣頭指揮を執って各地の通信部などを督促して販売に力を入れたのです。県内だけの出版物としては異例のベストセラーと言えます。」

 「支局長のはからいで、当時、その売上をもとに、支局員全員がダブルの礼服を買ってもらいました。東京に来てからもこの礼服には冠婚葬祭で重宝しました。支局主催の事業の収益金などについては、その行方についてとかくのうわさが立つものです。お金のことでは、このあたりの経験が後年の甲府支局長時代の「別刷り」の販売などに役立ったと思います。」

 「支局時代にこの明治百年の企画に取り組んで、人に会って話をじっくり聞いたり資料を読み込んで長い文章を書くという経験を持ったことが、後年『封印された殉教(上・下)』(2018年、フリープレス)という長編ノンフィクションをものにする素地になったと思います。特に民衆の側に立って歴史を書くというスタンスを木戸田先生、塙作楽さんなどに教えていただいたと思います。大正、昭和史の近現代史の勉強をタダでさせてもらったことは本当にありがたかったですね。」

 ——後年といっても、大部の本の刊行は毎日を退職した後の70代になってからのことですから驚きです。

2020年8月27日

「水を融通する」出版 元西部本社編集局次長、市川喜男さん

毎日新聞2020年8月27日 福岡都市圏版

 北九州市の水が福岡都市圏につながった背景を描いた「水を融通する~水ほとばしる」を元毎日新聞西部本社編集局次長、市川喜男さん(89)=宗像市=が今夏出版した。

 1963年の5市合併後、北九州市はしばしば渇水に見舞われ、水源の確保は緊急の課題だった。故・谷伍平市長の時代から大分県を含め周辺市町との協議、導水管の敷設に努め、後を継いだ末吉興一前市長も水源確保の取り組みを続けた。

 だが、この間に北九州市内の工場は撤退が続き、人口も減少、水需要は減り始めた。そこで、人口増加で水不足の心配がある福岡都市圏への水供給の構想が持ち上がった。

 2011年、47キロの「北部福岡緊急連絡管」が完成、災害時に北九州市と福岡市など17市町の福岡都市圏とが相互に水を融通し合う設備が整った。平時も北九州市から宗像、福津、古賀の3市、新宮町に連絡管を使って水が供給されている。

 この間の経過と背景を市川さんが事業を担当した水道局幹部らに話を聞いてまとめた。「政令市同士が水を融通し合うのは画期的なこと。水は高きより低きに流れるように、都市間で融通し合うのは自然なことでもある」と市川さんは話す。

 四六判で235ページ。1430円(送料別)。希望者は「櫻の森通信社」へ名前、住所、電話番号を書いてファクス(093・967・7058)で申し込みを。【松田幸三】

2020年8月24日

第二の人生 思いがけずボランティアに(その1)

 毎日新聞社を55歳で繰り上げ定年してから、早くもあと数か月で四半世紀25年にもなる。確かに私はもうすぐ80歳になるのだから、当然ではあります。そんなに長い間、一体私は何をしていたのか?

 まず、本社を繰り定(1995年平成7年12月末)後は、すぐにスポーツニッポン新聞社で特別嘱託として働いた。そこでは主に読者調査を思いきりやらせていただいた。いつまで働くという明確な雇用期限はなかったが、ちょうど私が60歳になる直前、スポニチの役員会において嘱託の定年が60歳に決まったとかで、私は60歳の誕生日の前日2000年(平成12年12月末)に退職し、家に入った。

 その後しばらくして、横浜関内の毎日横浜販売センターに呼ばれ、1年半ほどアルバイトとしてパソコンの仕事をしたが、本社から社員が異動してくるからという理由で突然解雇された。

 一時何も仕事がなくて少し不安定な気分だったが、突然池袋に住んでいた次女から電話があって「私、横浜の家で子供を育てたい」と言ってきた。私は娘夫婦と同居するなんて考えてもいなかったが、娘の連れ合いもそれを希望していると聞き、本当に仕方なく承知した。彼らはかねがね東京で子どもを預けて働ける保育園と住まいを探しているが、なかなか見つからないとは聞いていた。しかしこの決定は私を長いこと孫に縛り付ける結果になった。2005年(平成17年)2月に娘は池袋で出産し、産院を退院すると赤ん坊とともに、そのままタクシーで横浜の私の家へ帰ってきてしまった。それ以来娘のファミリーは私のところに居るわけである。その時生まれた孫は現在15歳(高校一年)になり、次に生まれた孫は12歳(六年生)になる。娘のファミリーを引き取ってから3年後に、隣に住んでいた夫の母に介護が必要となったため、私の家に引き取り1年半ほど寝たきりになった母の面倒を見た。同時に隣の母の家に娘のファミリーを転居させはしたが、孫の面倒をみることに変わりはなく、この間私は多忙でしっちゃかめっちゃかの毎日だった。

 上の孫が生まれたころ、横浜では、乳児を認可保育園に入れるのは、定員が少ないので大変難しいと聞いていた。そこで私は、致し方なく、私自身がかつて孫の母親である娘を預けた無認可保育園の園長先生に連絡をとってみたところ、運よく乳児の定員に空きがあるということで、娘の育児休業明けから、生後8か月の孫を入れてもらえることになった。しかしその直後、園長先生から電話があり、話は変って、私にNPO法人の理事長を引き受けてほしいというのである。無認可の保育園を行政から補助がたくさん出る認可園にするためには、経営組織が法人でないと申請することができないとのことなのだ。そこで是非ともNPO法人を立ち上げたいのだが、理事長候補がいなくて困っているという話だった。その時の園長先生の説得の言葉は、今でも忘れない。「理事長は1年に3日出てくださればよいのです」と言ったのである。私はとっさに要するに「お飾り理事長」でよいということかと早飲み込みし、同時に私が仕事を続けられたのは、保育園のお陰なのだから、ちょっとこの際「恩返し」をするかと言った軽い気持ちで引き受けてしまった。しかし今にして思えば、園長先生もちょっと調子良すぎたなと思うが、私もオッチョコチョイの極みで、よく考えて調べもせずに引き受けてしまったと以後反省してもしきれないのである。実際1か月はおろか、1週間に3,4日出勤することはざらで、しかもボランティアなのだから、いろいろ大変な面もあった。

 ここでこの保育園の組織的な成り立ちを説明すると、今より約50年前、地域に保育園がなかったため、必要に迫られたこの地の母親たちが集まって共同で保育園を作ったわけである。役員約10名はボランティアで、人件費はかからず、利益を上げることは目的としていないので、経営目標が厳しいわけではない。しかし行政の補助が少ない無認可園の経営は、保育園職員の人件費を低く抑えなければならず、一方で子ども達に対する保育の質は、認可園より低いものであってはならない。否、むしろこの保育園は、横浜市の中で良い保育をしているとの定評さえある。そんなわけで低賃金の待遇で職員に犠牲を強いてきたことは、否めない。私は最初に保育士の給料が勤続10年でも20万円台と聞いて驚き、なんとかしなくては思ったものである。

 私が理事長を引き受けてからまず最初の仕事は、NPO法人を立ち上げるための定款の作成だった。どのようなものを作るかはわからなかったので、先行している保育園の定款を見せていただいて作成したものを神奈川県のNPO を指導している部署に持参したところ、勝手に作ったことを叱られ、くそみそにケチを付けられた。結局最初からNPOの本部へ相談に行き、所定のマニュアルをもらってそれと同じに作るべきだったようで、私たちが勝手に作ったのは、認めないというわけなのだ。もちろん独自性など出すのはもっての外だった。初めて行政のお役人の融通のなさを知った次第。何度か神奈川県庁(現在は横浜市役所)のNPOを推進している部署へ通った末、私たちのNPO法人が認められたのは、約半年後の2005年(平成17年)11月でした。

 この当時私たちボランティアが共同経営していた保育園は、京急線井土ヶ谷駅から徒歩8分ほどのところにあって、「トトロの家」と呼ばれたほどおんぼろの平屋で、雨漏りなどに悩まされ、大きな地震がくればひとたまりもないほどの危なっかしい園舎だった。子どもたちは0歳から2歳までが対象で、定員は20名だったが、多い時で16名ほど、少ない時は8名程度になってしまう有様。このような定員の激しい増減が経営不安の大きな要因だったわけです。この保育園は無認可ではありましたが、一応横浜市からは「横浜保育室」という制度に入れられていて、認可園の3分の1ほどの補助をもらっていた。しかし定員が6名以下になるとこの恩典も取り消されてしまうという規定である。無認可園は子どもたちが認可園に入れない場合に保護者が仕方なく入れる受け皿のようなものだから、認可園に子どもたちが入ってしまえば、無認可園のこどもたちは少なくなる。すなわち、4月には、これまで認可園に入れず家に待機していた子どもたちや無認可園に通っていた子どもたちが一斉に認可園に入園する。一時的に待機児童が少なくなるのだ。そのため無認可園に入る子どもは少なくなる。しかし夏に向かいまた保育園に入れない子どもが出てくるので、無認可園の園児も少しずつ増加する。そんなわけで無認可園の定員数維持は非常に難しく、経営不安がつきまとうわけ。したがって無認可園の設備は悪く、しかも保育料は全員一律で認可園よりも高額、保護者の収入によるものではない。そのため無認可園の「売り」と言ったら、保育士の愛情がこもった保育だけなのだ。

 そしてついに、2008年(平成20年)8月の理事会では、翌年の4月時点の園児の人数は6人以上見込めそうもないという結論に達し、翌年3月末で「廃園」にするという決議をするまでに至ってしまった。

 それまで私たちNPO法人は、廃園を考えるまで何もしなかったわけではなく、認可をとれるような園舎を作れる土地や建物を10件以上見て回り、バザーを開いて資金を稼ぐなど、いろいろやってきた。しかし横浜の街中で、なかなかまとまった広さの土地や建物は、帯に短し、たすきに長しで見つからず、あきらめざるを得ませんでした。

 そんなとき9月も末のころ、井土ヶ谷駅近くの高層マンションの一階で、保育園に使える部屋が空くらしいという情報を耳にした。見に行ってみると、そこは少人数の幼児を預かりながら、子供の英語教室などをやっていた所で、ほとんど改築をしなくても保育園として立派に使える部屋(約140平米)だったわけです。

 当初、私たち法人は、その部屋を買うほどの資金はなかったので、賃貸で借りようと思って不動産会社と交渉したが、それは断られてしまった。しかし場所と建物の利便性を考えるとあきらめきれず、ズルズル5か月弱もの間交渉を続けた。不動産会社も相手は私どもだけでなく、他とも交渉をしていたのでしょうが、まとまらなかったらしいのだ。そのうちに当時の不動産不況が幸いし、当初の値段をだんだん下げ、3分の一ほどで何とかなりそうな見込みとなったわけです。私は他の役員に声をかけ、誰かこの物件を買う人がいないか聞いたが、誰も名乗りを上げない。仕方なく私は夫を説得し、私たち夫婦がその部屋を購入して、保育園に園舎として貸そうということになった。

 イチかバチかの賭けだったが、幸い駅近で建物は耐震性があり、近くには子どもたちが遊べる良い公園があるなど、環境も良かったためか、廃園を覚悟したのがウソのように、移転した5月に、開園早々から子どもたちが集まり出しました。その後7年間子どもたちは増加を続け、最高34人にもなった。すぐに認可を申請したかったのだが、認可園としては、多目的トイレが必ず必要などの規定があり、この建物では改築が無理と分かったこと、また一部屋だけ明度が不足しているということで、認可申請は諦めた。そんなわけで経営の形はまだ「横浜保育室」のままの無認可保育園だった。しかし「トトロの家」のころは毎年100万円ずつの赤字が出続けていたのが、移転後は経営が好転し、もっと大きな認可園を目指せるほどの資金の貯えもできたのである。(つづく)

(元販売企画本部・成田 紀子)

2020年7月15日

鎌倉で混声合唱団活動8年



 大船混声合唱団に入会して、8年になる。

 前回の昨年11月のコンサートでは、ケルビーニの「レクイエム」を演奏した。

 次は、シューマンの「レクイエム」や小林秀雄の「落葉松」を予定しているのだが、一向に練習が進まない。

 新型コロナ禍の影響で、3月当初から5か月、練習は行われていないのだ。

 最近朝4時ごろ、トタン屋根の上で2羽のカラスが騒いでいると、鳴き声が4度の和音に聞こえるほど、合唱に飢えていることに気が付く。

 9年前に鎌倉通信部を辞め、毎日が日曜日になって何かしないと、と考え、高校大学時代にやっていた混声合唱に復帰することにした。

 社を辞めてから静岡県伊東市に半分住み着いていたので、伊東で合唱団を探した。2つの合唱団が身近にあったのだが、どちらも女声30人に男声数人。どうも入団しようとする気になれなかった。

 連れ合いに相談したら、「私が高校時代に教わった音楽の先生が、合唱団の指揮をしているので、そこに入ったらどうか」と紹介された。その方は児島百代さんで、鎌倉での飲み仲間でもあり、すぐに自分で電話、入団となった。児島さんは当時、鎌倉合唱連盟の理事長だった。「いま、モーツアルトのレクイエムを始めたところだから、一緒にやりましょう」と激励された。

 1年半に1回のコンサート、ミサ曲や世界の歌曲、日本の歌曲などを演奏し続けてきた。しかし今回、コロナの影響で「合唱は3密の最たるもの」と練習に利用している鎌倉市の行政センターの使用許可が未だ下りない。来月になったら下りるというものでもなさそうだ。

 いくつあるか知らないが、多分、日本中の合唱団は、練習を手控えているのだと思う。

 70代半ばともなると、しばらく声を出していないと腹筋がだらしなくなって、声が出なくなる。

 コロナ禍がどのような形で収束するのか、あるいはこのまま続くのか、なんとも見通しのつかないことだが、合唱団の存続どころか、来年のオリンピック・パラリンピックの動向や、国の存続、世界の行く末など、なんとも見通しの悪い時代になったものだと思う。

(元鎌倉通信部 吉野 正浩)

2020年7月13日

ベスグロ高市さんは、美術展のプロ

 大阪毎友会のHPで、昨年東京本社事業本部の美術事業部長で退職した高市純行さん(55歳)の名前をみつけた。

 7月9日、宝塚クラシックGCで開かれた第161回毎日旧友会ゴルフコンペでベスグロに輝いたのである。グロス88、ネット72.3で第3位、と記事にあった。

 高市さんは1988年大阪入社で、もっぱら事業部の美術担当として、大阪・東京両本社で文化事業を展開してきた。神戸大大学院修了→大阪市立大大学院創造都市研究科博士課程単位取得満期退学。むろん学芸員の資格を取得している。

 私が最も印象に残っているのは、2000年4月に大阪市立美術館で展観した「フェルメールとその時代展」だ。入場者は59万人を記録した。

 目玉の作品は「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」(オランダ・ハーグ・マウリッツハイス美術館所蔵)。

美術展の講義をする現役時代の高市さん
青いターバンの少女

 この1点だけでも人気の展覧会になるのは間違いないのに、毎日新聞の特集の見出しは「春 5/35に出合う幸福」。

 「天秤を持つ女」(米ワシントン・ナショナルギャラリー)

 「地理学者」(独フランクフルト・シュテーデル美術研究所)

 「リュートを調弦する女」(米ニューヨーク・メトロポリタン美術館)

 「聖プラクセディス」(米プリンストン・バーバラ・ピアセッカコレクション)

 寡作なフェルメールの、当時確認されていた35点のうち5点を集めたのである。

 高市さんの仕事はこれだけではない。2017年秋、開館120周年を迎えた京都国立博物館で開催した「国宝展」。国宝指定の美術工芸品885件のうち210件を、4期に分けて展観した。会期48日間の入場者は、62万人を超えた。京都国博の入場者記録をつくった。

 他に「雪舟展」「円山応挙展」「祈りの道―吉野・熊野・高野の名宝」「狩野永徳展」

 「長谷川等伯展」「歌川国芳展」「横山大観展」など。どれも話題を呼んだ美術展である。

 ところで高市さんがこんなにゴルフがうまいとは知らなかった。性格はシャイで、おとなしい。京都をはじめ、日本の美術界での信用はバツグンなのであろう。

 退職後、企画会社を立ち上げた。ビッグな美術展を仕込んで「主催:毎日新聞社」で展開してもらいたいと思う。

(堤  哲)

2020年7月9日

能楽、短歌、俳句……年金生活のお楽しみ

毎日観世会のおさらい会=箱根強羅の寮で1977年11月

 定年になって一番嬉しかったのは、何と言っても朝御飯をゆっくりと食べられることであった。現役の頃は、朝起きるのが苦手で、高田馬場のアパートでの職住近接の生活でやっと凌いでいた。今は遅くとも5時には新聞を読み、約1時間の散策で新鮮な朝の空気を味わい、年を重ねるのも悪くないと思う日々である。

 1990年に55歳で毎日を卒業し、山崎れいみさんの紹介で人形町・今半に1年、その後、当時社長だった牧内節男さんのお誘いでスポニチに4年間在籍し、人とのご縁の有難さを実感した。60歳で生まれ育った埼玉の秩父盆地に戻り、遅まきながら親孝行もすることが出来たが、その母も亡くなり早くも12年になる。

 母は学ぶことが好きで、67歳の時に父が亡くなってからはお茶やお花に加えて、新しく俳画、俳句、謡曲、折り紙なども楽しんだ。毎月上京して能楽堂に通っていた母の影響で、私が謡曲の稽古を始めたのは40歳を過ぎてからになる。

 当時、社内には「毎日観世会」があり、経理から後に毎栄実業に移った相澤義治さんが熱心に幹事を務めておられた。初心者に対しても「鶴亀」から特別に指導するなど、有難い存在だった。稽古は地下のクラブ室でプロの先生を招いて月2回、6時半から行われていたと記憶する。仕事が終わらず途中で抜け出して参加することも多かったが、お稽古が終わると、相澤さんを中心に「いろは」で喉を潤すのが常だった。

 指導の先生も年を召されて交代し、最後は現在能楽師として活躍中の小早川修さんが見えていたが、当時はまだ東京藝大の学生だった。そしていまや泰輝、康充お2人のご子息も藝大を卒業し、若手の能楽師として舞台に立たれており、拝見するたびに大変、感慨深い。

 毎日観世会では、年に一、二度、箱根強羅の寮などへ泊り、おさらい会をしていたが、何を謡ったかなどは思い出せず、余興で小早川先生が能面の百面相をなさり、皆、驚くやら大笑いするやらの場面もあった。

 現在受け継がれている二百曲余の謡曲は、『源氏物語』『平家物語』等の古典や、伝説、民話などから着想を得ているが、能楽を父の観阿弥とともに完成させた世阿弥は、多くの古歌や唐詩を織り込み、日本語の持つ同音異義の特徴を生かしたレトリックを用いて、室町時代の文化を今に伝えている。

 『万葉集』をはじめとする歌集からの引用も多く、謡曲の稽古を通じて自然に古典に接する機会が増え、読書の幅も広がったと思う。10年前からは秩父の図書館で短歌や俳句、加えて万葉集講座を受講し、句誌「春燈」、歌誌「歌と観照」などに作品を発表する機会もいただいている。謡曲の稽古も続いていて、2017年に落成したGINZA SIXの観世能楽堂など都内にも足を運んでいる。

 勉強嫌いだった私が、母親に似てきたと言われている今日此の頃である。

宮前 和子(元渉外部、国際広告部)

1997年の毎日観世会素謡会。宮前さんは2列目右から3人目。
左後ろが相澤義治さん
2013年の大会。宮前さんは前列中央

2020年7月6日

銀座、新橋、柳橋……「忙中閑」の鉛筆画伯が行く

 退屈なはずのコロナ自粛の生活を、楽しいものにしてくれたのは、スケッチだった。

 本格的に描きだしたのは7年前、5歳の孫娘とお絵描きをしていたとき、「おじいちゃん、上手ね」と褒められたのがきっかけだった。「子供は褒めて育てる」は逆も真なりのようである。

 運動部のプロ野球担当だった頃には、春のキャンプ地にスケッチブックを持ち込んでいたから、好きではあった。暇になって、灰の中の埋み火を掻き熾したようにやる気が燃えてきた。

 30年以上のスケッチブックが捨てずにあった。それを7年前「忙中閑画 1」にまとめ、昨年に2巻目=写真=を出した。気にいったものが描けたら時折、生存確認の手紙代わりにフェイスブックにアップしている。

 誰に習ったこともない僕の絵は、下手の横好きそのもの。デッサンは勉強不足だから静物画、人物画は苦手。もっぱら風景画を描く。古い町角風景は特に好き。

 隅田川につながる水路で、柳橋、萬年橋、清洲橋、吾妻橋など沢山の橋も描いた。裏町の飲み屋街の夜景も描いた。

銀座4丁目の和光
川越市・時の鐘通り

 一番難しかったのは銀座4丁目の角、和光の建物。考えてみていただきたい。あの建物は交差点の直角に対して、ゆったりとした曲線の壁面に仕上がっている。縦は直線、横は曲線で交わるから難しい。無数の窓枠は曲線に沿って変化するから難しい。さらに無数のデコレーションがくっ付いているから難しい。しかし、それだからこそ4丁目に君臨する存在感があるのだろう。

酒田市・山居倉庫街
新橋の焼き鳥「ささ亭」

 「毎日夫人」の長期連載だった「あなたと歩きたい街」のスケッチが好きで、寺田みのる画伯のタッチを目標にしてきた。寺田さんの特徴は旅先などで、短い時間で、さらさらと仕上げる風景画。早く描くから鉛筆のタッチはあくまでも軽く、軟らかい。緻密とか、精密とかの対極にあるスケッチゆえに、絵描き仲間の間では「早描きのみのるちゃん」と呼ばれているとか。

雨の新橋烏森神社参道

 いいじゃないの、早書き宿命の新聞記者の目指す画伯としてはぴったりじゃ。 

 やってみると1本の線が難しい。軽妙を真似ると、ただの乱雑に終わる。軟らかさを真似ても、余分な力が抜けない。線は個性で、真似ができないものらしい。

 しかし、絵はうれしい。下手は下手なりに楽しめる。僕のスケッチは「ほのぼのとしているね」としか褒めようがないらしい。それは線のタッチが頼りないからだろう。

                      

 線は生きてきた道のようなもの。自分の個性。仕方がない。頼りなくも、曲がりなりにも、真っ直ぐに生きてきたつもり。たった1枚の絵で、そんな人生や個性が見られてしまうようだ。怖いことだが、絵は楽しい。

(渡部 節郎)

2020年7月3日

コロナ自粛「戦争の時よりマシ」—千葉旧友会会員の近況

 千葉旧友会から会計報告や名簿などの書類が届いた。コロナの影響で総会や秋のイベントも中止、「今年度の会費(2千円)はいただかないことにしました。お預かりしているもので賄います」とあった。

 近況報告の一部を転載——。

 ・古い話ですが、昭和20年の敗戦直前を思い出します。学校の登校中、空襲警報のサイレンが鳴れば、逃げ帰って防空壕に飛び込み、ひもじくても食うものはなし、あの頃は文句は言えず、本当に怖かったです。コロナ戦争はまだ幸せです=齊藤 修(船橋)

 ・コロナに負けず元気でがんばっています=幸松恵子(千葉)

 ・昨年暮れに妻が他界したので、80翁がポツンと独りコロナと闘っています=苫米地重亨(習志野市)

 ・歳はとってもコロナは怖い。そんなわけで私は2月初めから趣味の毎週の吹き矢教室や、毎月1回整理本部OBによる飲み会も欠席し、専ら巣ごもりを決め込んでいます。しかし友人は有難いもの。パソコンメールで「動物の笑顔」特集したもの、さだまさしの「亭主関白」の替え歌『緊急事態宣言の歌』をギターの伴奏付きで送ってくれた。また別の友人は「これはどうだ!」とばかり『フェルマーの最終定理』という本を送って来た。17世紀以来、最近まで解かれていなかった難解な数学の解説書。ヘキエキしながら毎日すこしずつ齧っています。私からも8年前、『宇宙は何で出来ているか』という本の読後メモ(A4判1枚)が出て来たので、これを友人たちに送ったりして……。そんなことで退屈せず過しています=本田克夫(柏)。【注】本田さんは大正15年生まれ、ことし93歳。

 ・コロナ騒動の前、オーストラリア・タスマニア島へ2週間。クレイドル山に登って来ました。山行記録を毎友会HPにアップしましたので、よろしければご笑覧のほどを=清水光雄(船橋)

 ・コロナには勝てませんね。私は日々元気に暮らしています。外出は病院だけ。出歩くこともすっかり無くなりました=鳥井輝昭(千葉)

 ・「数独」に時間をとられてお籠り生活も退屈しません=佐久間憲子(千葉)

 ・外出自粛をして居ります。何とか一日一日を頑張っています。又皆様にお会いする日を楽しみにして居ります=作田和三(千葉)。千葉旧友会事務局長。

 ・イヌ(4歳・メス)の散歩で一日がスタート。昼はゴルフ練習場かゴロゴロ、時々仕事。仕事は昨年小さな出版社を引き継いだので、原稿に手を入れたり、収支計算したり……赤字ですけど。友人知人の名前が出なくなった一方で、夜中のトイレが多くなりましたが、まあ元気でやっています=滝川徹(松戸)

 ・目に見えないウイルスの恐ろしさを感じたのは初めてです。再びお会いできるまで、お互いの健康を祈るばかりです=吉村健二(船橋)。千葉旧友会会長。

 ・馬齢を重ねて93歳と7か月。心身ともに老化を痛感する昨今ですが、お蔭さまで安穏な日々を元気に過ごしております。伝統ある毎日新聞千葉旧友会のために献身的な努力を続けられる作田事務局長をはじめ幹事各位にあらためて敬意と感謝を申し上げます=折茂仲治郎(松戸)

 ・房総半島の真ん中ミュアヘッドフィールズ土太郎村で静かに暮らしています。ここは空気も良く、過疎地なのでコロナウイルスもいないよう。本読みや雑文書きに時間を過ごし、たまにゴルフ。そういえば千葉旧友会のコンペ、楽しかったです。コロナが収まったらまた是非来て下さい=中島健一郎(市原)

 ・コロナ禍で巣ごもりも悪くはない。身辺整理、草取りと、5月の風と光の中で、萌黄色、蕨色……緑のグラデーションも一緒に楽しんでます。これから降りかかるであろう環境の変化、苦労や新しい時代の常識。手探りだけど出来るだけさわやかに受け止めていこうと自分に言い聞かせてもいます=佐藤和子(千葉)

 ・ひたすら自粛しています=勝又啓二郎(習志野)

 ・杖を頼りに散歩をする毎日。道端の野草を見つけ、しばしの安らぎを感じています=藤川敏久(東松山)

 ・3月末で毎日新聞社を退社しました。館山通信部は8年半、大変お世話になりました。東村山市の自宅に戻り、緊急事態の2か月近く、市の外に出ておりません。運動不足のコロナぶとり。困ったものです。秋には皆さんにお会いしたいものです=中島章隆(東村山)

 ・まだ竹橋で働いています。コロナの影響でビルの1F、B1Fの商店街もほとんど休業で、ガラガラ状態です=伊藤隆(四街道)

 ・米寿のお祝い、ありがとうございます。地元高齢者クラブの会長を今年で12年目となります。今年も色々と頑張っていく積りです=青木靖夫(佐倉)

 ・コロナの影響のせいで疲れました。このパンデミックで安倍首相ってつくづく政治の素人であることがわかり、国政のレベルの低さにあきれ果て、ニュースを見るたび怒りを覚える。ストレスフル=尾崎忠義(千葉)

(堤  哲)

2020年6月26日

秋山哲さんの挑戦「私の書いた小説をアマゾンが売っています」

 コロナ自粛を活用して、なんと小説をオンデマンド方式で出版するという挑戦をした。

 小説を書くのはもちろん初めて。オンデマンド出版の作業をするのも初めて。とくに、IT技術に弱い85歳にとっては、自力で後者をやり遂げるのは悪戦苦闘であった。入稿から組版まで、簡単にいえば、出版局がやる仕事を全部自分でやるのである。

 中でも表紙制作は難しかった。実に単純な、デザインなしの表紙なのだが、私のPCに入れているAdobeのバージョンが新しすぎて、古いバージョンを使えと指示が来たのには大変困った。あれやこれややっているうちに、突然うまくいく。ところがそれを再度やろうとすると、手順を忘れてしまっていて、再現できない。みっともないが、この年齢ではやむを得ない。

 しかし、先方のマニュアル通りに出来上がって送信すると、3日か4日たてばこの本をアマゾンが売り始める。だれのチェエックもない。しかも、私が負担した費用は、ISBN番号の取得費5,000円と、表紙制作支援費1,000円だけである。

 売値はこちらが決める。アマゾンは、売値の40%の販売手数料と、印刷費を引いて残りを私に振り込んでくれる。私の場合、税込み2,200円と値を決めたのだが、手取りは150円ほど。印税と似たようなものである。

 やってみて改めて実感したのは、誰でもが書籍を出版できる時代になった、ということである。だれでもがニュースを発信できるようになって情報のゲートキーパーがいない時代になっているが、出版もそうなっているのだ。ちょっとした技術を持てば、どのような本でも出版できる。出版コストも極めて小さい。

 私のような素人が書く小説を出版してくれる出版社などありえないのだが、それをアマゾンという巨大流通会社が宣伝も販売もやってくれる。出版社のゲートキーパー機能も失われる。オンデマンド印刷だから在庫は発生しない。買う人があれば直ちに印刷・製本して発送してくれる。翌日には届く。アマゾンが存在するかぎり、絶版はない。

 言論の自由、出版の自由はここまできている、ということを肌身にしみて実感したのである。

 肝心の小説の説明をしておかなければならない。

 題名は『耳順居日記』。作者は「檜 節郎」。小説家としての私の名乗りである。

 明治維新の原点ともいうべき神仏分離政策による混乱から話は始まる。話は大きく分けて三つの流れが絡んで進む。一つは、廃仏毀釈に関わって娘二人が連れ去られた華兵衛の家族愛。二つには、廃仏毀釈によって需要を失った老舗法衣商たちがそれをどう乗り越えていったか。三つ目は、華兵衛の思い切った転業を支える二人の若者の友情。明治維新から終戦までの80年の物語である。

(元東京代表、秋山 哲)

2020年6月20日

犬猫歴史研究家・仁科邦男さんNHKテレビ出演!

 元社会部記者、いや出版局長・毎日映画社社長を務めた仁科邦男さん(72歳、70年入社)が6月19日(金)夕と20日(土)午前の2回、NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる!」に出演した。

 「何故、犬の名前は『ポチ』なのか」を分かりやすく解説した。

 著書に『九州動物紀行』(葦書房)、『犬の伊勢参り』(平凡社新書)、『犬たちの明治維新 ポチの誕生』、『犬たちの江戸時代』、『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか』、『「生類憐みの令」の真実』(いずれも草思社)。

 《名もない犬たちが日本人の生活とどのように関わり、その生態がどのように変化してきたか、文献史料をもとに研究を続ける》と最新刊の著者紹介にあり、ヤマザキ動物看護大学(八王子市)で「動物とジャーナリズム」の講座を持つ(非常勤講師)。

 何故、ポチか。

 西洋人が連れた斑点模様の犬を、日本人が「ブチ」と呼んだ。ブチは英語で「パッチーズ(斑点)」。ブチ→パッチーズ→パッチ→ポチとなったという。双方の聞き間違いから「ポチ」が生まれたそうだ。

 ポチが全国に広まったのは、1986(明治19)年に文部省が発行した初の国語の教科書『読書入門』(よみかきにゅうもん)に、「ポチ」が出てくるのだ。小学校に入学して最初に読み書きを学ぶための入門書だった。

 毎日新聞の前身「東京日日新聞」が創刊した明治のはじめ、犬の名前ランキング1位はポチだったそうだ。

(堤  哲)

 以下、NHKの画面から——。

2020年6月1日

甲子園大会中止、高校球児に贈る阿久悠の詩

牧内節男さん

「一応生きる目標を100歳と立てた」

 8月に95歳の誕生日を迎える牧内節男さん(元毎日新聞常務、スポニチ社長・会長)が元気だ。ブログ「銀座一丁目新聞」を月3回リニューアルしているうえに、毎日、「銀座展望台」を書いている。

 センテナリアン宣言は5月30日の「銀座展望台」だった。

 「銀座一丁目新聞」6月1日号は、追悼録で阿久悠を取り上げた。以下はコピーである。

(堤  哲)

 ——夏の甲子園での高校野球大会が中止となった。残念だ。高校球児の心境は察するに余りある。

 私はスポニチに「甲子園の詩」を27年間も連載した阿久悠を想い出す。

 阿久悠がなくなったのは2007年8月1日である(享年70)。すでに13年も経つ。思い出は尽きない。とりわけ敗者を描く言葉がやさしかった。

 第88回全国高校野球決勝戦、駒大苫小牧対早稲田実業の一戦のとき、阿久悠は「しかし いつしか どちらにも勝たせてやりたいとか どちらにも負けさせたくないという そんな思いになった まさに終わりなき名勝負…」と綴っている(2006年8月21日・月曜日・スポニチ)。

 阿久悠の「夢・歌・阿久悠を語る会」(2009年9月18日・ホテルニューオータニ)が開かれた際、献杯の音頭を取った篠田正浩監督(78)は「阿久悠のキーワードは歌・映画・野球であった」と述べた。

 私はこれに「新聞」を付け加える。彼は夜、丹念に新聞を読み参考になる記事を切り抜いた。「円相場」も切り抜いたというから驚きである。新聞記者以上に熱心に新聞を読んだ。彼が時代感覚に優れポンポンと時代を紡ぐ言葉を生みだした要因の一つだと思う。

 この時、重松清著「星をつくった男」-阿久悠とその時代(講談社・2009年9月18日発行)を頂いた。これは作家重松清の感じた「阿久悠」物語である。阿久悠は不思議な人で、接した人百人が百様の感じ方をするような気がする。

 私には私なりの阿久悠がいる。「彼の詩(思いやり)、ゴルフ(堅実)、言葉(快挙・希望)」が交錯する。何よりもスポニチにとって《恩人》である。事あるごとに阿久悠の「詩」が紙面の彩りを添えた。

 阿久悠は常に≪希望の星≫を説いた。「スポニチ50年史」の巻頭を飾った「人間学の天才になろう」-21世紀の提案―はスポニチの記者たちが独占するには惜しい詩である。

 人間を宇宙と考えよう 人間の謎と人間の可能性は
 好奇に満ちて見つめる価値があると 今こそ確認しよう
 人間は十人十色 それぞれが 違った色の宇宙の所有者
 と思うと この地球には 六十億もの 体温を持った宇宙があるのだ
 定型で組み分けしないで 常識で切り捨てないで
 一人一人の宇宙を覗いてみよう 見たら触ってみよう
 手にあたったら確かめよう きっと面白さに遭遇する
 人間が面白くなくて 面白い世界があるわけがない
 人間が不機嫌で 愉快な時代になるわけがない
 人間 人間 人間
 二十世紀で小さくさせられた人間を
 二十一世紀には大きくさせよう
 二十世紀で硬直させられた人間を
 二十一世紀には柔らかくさせよう
 どうだ 見たか 人間って捨てたものじゃない
 どうだ 知ったか 人間って見限ったものじゃない
 どうせなら そんな思いで生きようじゃないか
 さあ 諸君 笑う人を愛そう 歓ぶ人を大切にしよう
 そして そして 人間の心と行為を面白がる
 人間学の天才になろう
 そうすると 朝が来る

 この言葉を、この夏甲子園球場でプレーできなかった全国球児たちにも読んで欲しいと思う。

『スポーツニッポン新聞50年史』(1999年2月発行)から

2020年5月25日

カミユの「ペスト」も「異邦人」も読みました

大島幸夫さん

 「どうしてる、元気?」

 長野支局・社会部の先輩、大島幸夫さん(82歳)からご機嫌伺いの電話があった。

 「ボストンマラソンが中止になって、読書三昧だよ。カミユの『ペスト』、『異邦人』も読んだよ」

 ——高尾義彦さん(74歳)は、『ペスト』の原書を丸善に注文した、とブログに書いていましたよ。

 「オレがフランス語の授業で読んだのは『星の王子さま』、サンテグジュペリの。早稲田と慶応の仏文に合格したが、ウチの商売の関係で商学部に入ったんだ。仏文に進んだら違う人生があったと思う」

 大島さんは、傘寿を迎え3度目の「ボストンマラソン完走」を目指した。

 ボストンマラソンは、「ザ・マラソン」と呼ばれる。1897(明治30)年に第1回が行われた世界で一番歴史があり、伝統を誇る大会だ。

 ところが1昨年は、冬の寒さに見舞われ、低体温症から全身に震えがきて途中リタイア。昨年は飛行機の長旅でエコノミー症候群にかかり、「スタートラインに立つことができなかった」(『人生八聲』第19巻)。

 いくら元気な大島さんでも、ことしはラストチャンスと思っていた。42.195キロは「死に行くGo!」とまで読まれる。走り込み、筋トレ、マッサージと準備は万全だった。

 目標は、5時間以内。ちなみに完走した2回は、3時間4分台(48歳の1986年第90回)と3時間19分台(58歳の1996年第100回)だった。

 ところが、コロナという伏兵に4月20日の第124回ボストンマラソンは中止、9月14日に延期となってしまったのだ。

 5月28日主催者が9月14日に延期されていたレースを中止すると発表した。

 大会が中止されるのは1897(明治30)年に第1回を開いて以来初めてである。

 大島さんが走り始めたのは、42歳の時。毎日新聞社前の皇居周回コースである。

 中学・高校は体操部、大学では山岳部(シゴキで退部)に入ったスポーツマン。社内野球ではもっぱら投手をつとめた。

 マラソンを3時間で完走するサブスリーは一般ランナーの勲章でもあるが、大島さんは1987(昭和62)年のつくばマラソンで達成している。2時間59分21秒だった。

  情熱家で実行力のある大島さんは、世界の大都市で開かれているマラソン大会に出場した。マラソン文化の違いを痛感する。そして2001年に始めたのが「東京夢舞いマラソン」である。

 「東京のど真ん中を誰でも走れる市民マラソン大会」

 2007年2月から始まった「東京マラソン」の源流だった。

 この記事は読売新聞の「顔」欄である。「東京マラソン」実現の功労者として取り上げている。

 もうひとつ。NYシティーマラソンなどで、障碍者が介護伴走のボランティアとともに走る姿を目撃した。1995年アキレストラッククラブ・ジャパンを設立、大島さん自身も、目の不自由なランナーと紐を結んで走るなど、活動を続けている。

 著書に『市民ランナーの輝き―ストリートパーティーに花を!』(岩波書店2006年刊)がある。

(堤  哲)

2020年5月22日

元大阪本社代表から、花のプレゼント

 毎日新聞社元副社長・大阪本社代表の迫田太さん(88歳)がFaceBookにベランダの花の写真を投稿しました。

 《我が家のニオイバンマツリです。満開で甘い芳香が漂っています》

 迫田さんは、鹿児島県立甲南高等学校の1期生で、鹿児島大学農学部を卒業して1954(昭和29)年毎日新聞入社。大阪本社編集局長→西部本社代表→大阪本社代表。2000年6月に副社長で退任されるまで10年間大阪本社代表をつとめた。

 大阪毎友会の前会長。関西プレスクラブ初代理事長。

 ネットで検索したら母校甲南高校に「迫田文庫」が設置されていた。写真は30年を記念して贈られた生徒の寄せ書き・感謝状で、2017年12月27日 (水)の日付があった。

 《“迫田文庫”には魅惑的な書籍がたくさん並んでいます。今年で30年にもわたり、毎月ご自分でも読まれた新刊書(毎月5冊以上!)を寄贈しくださっています。

 その読書量にも感服します。迫田様は甲南生が読みやすいように、なるべく話題の新刊書などを選んで読破されて寄贈してくださっているとのことでした。ご配慮に感謝いたします。ありがとうございます》

(堤  哲)

2020年5月9日

遅咲きの演歌歌手を、社会部OBの沢畠毅さんが応援

 社会部で警視庁や宮内庁を担当した沢畠毅さん(80歳)から、発売されたばかりのCDが送られてきた。原真由美さんの「倖せのれん」など3曲を収録、「縁あって、遅咲きの演歌歌手を応援しています」と手紙が添えられていた。

 引用すると「私たちのカラオケ教室(埼玉県鶴ヶ島市)の先生、原真由美さん(本名・黒川真由美)のデビュー曲です。高校時代、作詞作曲の大御所、石坂まさお(故人)に師事、何曲かレコードを出しましたが芽が出ず、引退、会社勤めを始めました。その後、結婚、子育て、仕事を両立、歌謡教室の指導者資格を取得し、自宅でカラオケ教室を開くことになりました」

 ママさん歌手としてのスタートだという。新曲は「倖せのれん」「恋のなきがら」「やるっきゃないさ」(日本クラウン、税込み1,350円)。

 「いずれも作詞は実母、西山和子さん(作詞家名は加津よう子)。長年、割烹料理店を経営し、その間に見聞した事柄を想い起して作詞したそうです」

 「演歌一筋、母娘で旅立つ茨の道、いつか乗り越え晴れ舞台。しっかり応援していく決意です」

 さわやかサワちゃんの面目躍如である。

 カラオケは高齢者の健康維持にもお勧めのようで、沢畠さんの楽しく元気な日常が想像されます。

(高尾 義彦)

2020年4月24日

早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊤

キルギス・ウティーチェリ峰(4527メートル)で=2015年8月23日

 ≪序章 早大探検部OB会≫

  2020年2月13日(木)午前7時50分、早大探検部OB会一行9人はオーストラリア・タスマニア島にあるクレイドル山(標高1545メートル)の登り口、ダブ湖駐車場にチャーターバスで到着した。天候は曇り。目指す山は霧に覆われて、全く見えない。真夏ではあるが、気温は10度を下回り、寒さを感じる。私は折り畳み式のストックを伸ばし、ひざ下にはスパッツを付ける。日除けのサングラスはまだ取り出すまでは至らない。昨年3月に白内障の手術をして以来、学生時代から手放せなかった近眼・乱視の眼鏡がいらなくなり、顔周りはすっきりしている。それにしても、この山周辺は10日に一度晴れたらラッキー、というほどに天候は恵まれない、という。事実、一行の中の夫婦連れは昨年も同様時期にこの山を登ろうとして1週間滞在したが、ずっと雨続きで山に近づくことが出来なかったという。朝方の天気予報では「晴れ」だった。が、「どうなる事やら」と私は独りごちた。

 早大探検部OB会は以下のような概要である。

 〖早大探検部OB会は1966年発足。会員300余人(アクティヴィな会員は50~60人か)。2か月に一回の定例会、海外遠征、現役の活動支援などを行っている。著名人では直木賞作家の西木正明(79)、同様に直木賞作家の船戸与一(2015年死去、享年71)、北朝鮮評論家の惠谷治(18年死去、享年69歳)、ノンフィクション作家(13年講談社ノンフィクション賞受賞)の高野秀明(53)、探検家・ノンフィクション作家(10年開高健ノンフィクション賞、11年大宅壮一ノンフィクション賞、12年新田次郎賞、13年講談社ノンフィクション賞、15年毎日出版文化賞、18年大佛次郎賞、それぞれ受賞)角幡唯介(44)らがいる。

 奥島孝康・元早大総長(80)が1986~94年まで、探検部部長を務めた縁でOB会名誉顧問となっている。奥島先生が総長職を降りた後の03年に「OB会主催慰労会」として、山梨県の黒川鶏冠山(1716メートル)登山を行い、以来、彼を囲むような形で年一回の登山や海外遠征が始まった。

 海外遠征の初回は05年台湾・玉山(3952メートル)。次いでマレーシア・キナバル山(4095メートル)(06年)、モンゴル・エルデネ山(2035メートル)(09年)、ロシア・カムチャッカ・アバチャ山(2741メートル)(10年)、ブータン(11年)、台湾・雪山(3886メートル)(12年)、ベトナム・ファンシーパン山(3143メートル)(13年)、石鎚山(1982メートル)(同)、インドネシア・ロンボク島リンジャニ山(3726メートル)とバリ島・バトゥール山(1717メートル)(14年)、キルギス・ウティーチェリ峰(4527メートル)(15年)、インドヒマラヤの4~5千メートル級の山のトレッキング(17年)等続いた。また、この間にも有志による山行も数多くあった。

 奥島先生には初回から海外の高峰を含めお付き合いいただいた。14年のバリ島バトゥール山(1717メートル)登山では、その準備として白馬縦走するなど訓練も怠りなく続けておられた。1昨年一時体調を崩され、ここ3年は登山はしていないとのことで、今回のタスマニア行では山楽会=先生を囲む早大職員の登山会=のメンバーとともに、ホテル周りに設置されている散策路を歩く程度にとどめていた。OB会にとっては変わらぬ精神的主柱である。〗

 ≪1章 タスマニア島行≫

 今回の「オーストラリア・タスマニア島行」一行は総勢16人、探検部OB12人と山楽会4人の合同隊である。公式日程は2月8日~16日の9日間で、現地集合・現地解散で、公式日程の後・先はそれぞれ自由に各地を回る。

 海外遠征の行先の選定は、行きたい山や海外について、言い出しっぺが自動的に幹事になり、同好の士を募る。ある程度、人数が集まると、幹事が日程を組む。OB会の存在意義は「物事に対する強い好奇心と辺境に対する強い憧れという価値観の似通った仲間たちが、年代を超えて折りにふれて集う心のふるさと」(「OB会会報2010年臨時号」、元OB会長・矢作和重さん=12期=の言)にある。

 今回の幹事は10年前から、タスマニア行を推していた12期(1966年入学組)の望月哲郎さん(73)。野生の動物が自由に観察できることから、タスマニアに興味を持ち、当時、新聞記事で見かけた現地の日系旅行社経営者の紹介記事を大事に保存。今回は昨年夏ごろOB会の大方の了解を得て、作業を始めた。新聞記事にあった旅行社(AJPR=オーストラリア・ジャパン・パブリック・リレーションズ=代表・石川博規氏)に連絡を取り、代表者は当時と変わってはいたものの、サポートを受けることが決まった。もっぱらラインで連絡を取り、日程を構築していった。この人、国内では「(絶滅した)ニホンオオカミはまだ存在するはず」の一念で、「ニホンオオカミ倶楽部」を組織、丹沢山塊に24時間ビデオを設置しその姿を捉えようとしている、探検部の“心”を忘れない人でもある)

 計画の概略が出来上がったところで奥島先生の世話をする山楽会とも打ち合わせ。登山・トレッキングを主体とするグループと観光主体のグループと二つに分け、夕食と移動の足は合同で行う案を作り上げた。

 OB会海外登山の初期は1960年前後入学の7~10期の先輩が多かったが、次第に我々団塊の世代の12~13期が中心に。今回も最高齢80歳の奥島先生を別にすると、71~75歳が中心。クレイドル登山を目指した9人は75歳~56歳で平均年齢70歳ほどだった。

クレイドル山全景

 16人は2月8日午後3時、タスマニア島の州都ホバートのホテル・グランドチャンセラーのロビー集合~15日午前10時、北部の都市、ロンセストンのホテル・グランドチャンセラーロンセストンのロビーで解散、の日程となった。

 タスマニア島とは、どんなところか。各種の本で得た知識によれば、以下のようだ。

 〖タスマニア島はオーストラリア本土の南東部から240㎞離れた南氷洋に浮かぶ島。地図で見ればオーストラリアの右下にあり、北海道より一回り小さく、8割ほどの面積。日本からはシドニーやメルボルン経由で国内便に乗り換え、2時間ほどで州都ホバートに着く。このホバートは島の南端部で、緯度で見れば、北海道北端の稚内からサハリン付近に近く、夏でも最高気温は21~22度である。

 1642年にオランダの探検家、アベル・タスマンが、この島に到達し、島の名前は彼に由来している。しかし、当時彼らが目当てとしていた香辛料や黄金が見つからなかったため、入植しなかった。植民が始まったのは1803年で、すでに本土のシドニーなどに入っていたイギリス人の手によるものだった。開発にはイギリス本土から大型船で3か月もかけて流刑囚が大量に送り込まれた。このため現在、島の世界遺産となっているのは、ポートアーサーなど刑務所跡地が多い。島の原住民、タスマニア・アボリジニは1830年代までは植民者に抵抗、ブラック・ウォーと呼ばれる戦争を起こしたが、近代兵器で武装するイギリス軍には到底勝てるわけはなかった。他の小さな島へ強制移住させられたり、ハンティングの獲物にされたり(南米大陸でのスペインのインディオ狩り、北米大陸でのインディアン狩り,等々、えげつないことである)して激減した。純血人は1876年に絶滅。今に残っているのは白人との混血した人たちである。本土のアボリジニと同じような経過を辿った。

 島内は開発の手が及ばなかった地域が多く、全島の36%が国立公園や自然保護区になっている。その多くは世界自然遺産・タスマニア原生地域。2万年前に本土と同様にゴンドワナ大陸と分離し、その後、ほかの大陸と一緒になることはなく、冷温帯雨林の特異な自然が残る島として知られる。野生生物もワラビー(カンガルーの中で体重25㎏以下のものの総称)、ハリモグラ、フェアリーペンギン、ウォンバット、タスマニアデビルなどが生息、各所で見られる。我が国で人気のコアラは、野生種は本土のみで、この島には動物園にしかいない。登山基地のクレイドルマウンテンホテルでは、窓外の庭には手の届く位置までワラビーが寄ってきて餌の牧草をついばんでいた〗

 ≪2章 クレイドル山登頂計画≫

 クレイドル登山のリーダーは元OB会長の12期・矢作さん(72)。某林業会社で、長年東南アジアで木材を調達、役員に上り詰めて退職。今は外国語学校で日本語教授のボランティアを務める一方、練馬区のシルバー人材センターで植木の剪定作業をしたりしている。大学時代は幹事長、OB会でも会長を6年務めた我々世代のリーダー。辺境大好き人間で、山の経験はヒマラヤから日本まで広範囲に及ぶ。豊富な海外経験で英語も達者。OB会メンバーは学生時代から「ともかく世界の行きたいところへ行き、理屈は後からくっつける」猪突猛進型が多い中、珍しい?インテリの一人。海外遠征の際、現地の交渉事など英語が必要なものは一手に担う。

 クレイドル山周辺はガイドブックによれば「数あるタスマニアの国立公園の中でも随一の景勝を誇るクレイドル山/セントクレア湖国立公園。世界自然遺産のタスマニア原生林の中核を占める国立公園で、クレイドル山(1545メートル)をはじめ、タスマニア最高峰のオサ山(1617メートル)を中心に1500メートル以上の山が並ぶ」と紹介されている。

 クレイドル山は氷河が削り出した1500メートルの峰々が屏風のように並んで天に突き出した岩山群だ。ふもとのホテルからバスで20分ほど行った登り口から、頂上まで往復7~8時間の日帰りコース。インド・ヒマラヤ、モンゴル、キルギス等の山々をこなしてきたメンバーにとっては、朝飯前の山行なはずだった。

 ところが、前述の旅行社AJPRの石川代表(現地で話して分かったことだが、名古屋の名城大山岳部出身)によれば「コースガイドは頑健なオーストラリア人向けで、日本人の足なら往復10時間は見た方が良いでは」とアドバイス。これに従って、登頂計画は以下のようになった。

【タスマニア・クレイドル山登頂計画】

1. 日程2月13日
2. メンバーはリーダー・矢作以下9人
3. ルート及び行動計画
7:30 クレイドルマウンテンホテルをチャーターバスで出発
7:50 ダブ湖駐車場・登り口
8:00 登山開始
リラ湖を経て ウォンバット・プール登山路を登り、ウォンバット沼からオーバーランド登山路へ行き、
10:00 マリオンズ展望台着
10:30 発
11:30 キッチン・ハット避難小屋着。昼食
12:00 発
14:00 クレイドル山・頂上着
下山開始。往路を引き返し、余裕があればオーバーランド登山路を経て、ロニークリーク駐車場に出る。
18:00 駐車場着
4. 特記事項
①当日日の出 7:04 日没19:34
②天候不順の場合は、展望なきため登山中止。麓のハイキングに変更。
③途中、マリオンズ展望台、或いはキッチンハットにて、各自の体調を判断し、二隊に分け、一隊は登頂せず引き返す(携帯電話は2台携行し各隊が持参)
④往路、マリオンズ展望台までは状況により、マリオンズ展望台登山路を使う(急登だが、30分間時間短縮できる)
⑤遅くとも18時には駐車場に戻る。
5. 装備
団体装備:ツエルト(ビバークテント)2~3
個装:秋山登山の服装。防寒着(フリース或いはダウン)、雨具、スパッツ、帽子、手袋、サングラス、スティック、懐中電灯、水筒、昼食(ホテルで用意)、非常食。

(元社会部 清水 光雄)

2020年4月24日

早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊥

 ≪3章 探検部時代の思い出≫

 私は探検部13期(1967年入学)ではあるが、部員としては半年しかおらず、落ちこぼれメンバーである。

 入学時、探検部の存在は大学キャンパスの一角にしつらえた、どでかい「各部の入部案内」看板で知った。秋田から早稲田の政経に入ったのは一にも二にも「新聞記者志望」だったため。クラブは高校時代同様「新聞会」志望だったが、1年生の間は「他の部」で少し楽しんでよいかな、と思っていた。当時、早稲田大学新聞会は革マル派の機関紙と化していた。キャンパス内で見かけた創刊したばかりの「早稲田新聞」という新聞では、一面に当時少しは知られた存在だった長田弘の詩を掲げたり、中面も吉本隆明論など「文化的理論」が満載で同人誌のようであり「いずれ入ろう」と憧れた。(高校新聞会では高橋和己本人に寄稿を頼み、掲載したこともあった)

 探検部は、法学部の屋上屋根裏部屋に部室があった。日々の訓練と称して、大学構内の周辺をランニングしたが、受験勉強で鈍った体は全然動かず、直ぐに息が上がる。それでも当時大学のサークルではよくあった「しごき」といったものはなく、先輩に「どこか体が悪いのか」と皮肉を言われる程度だった。部室が隣だった山岳部はかなり違ったようだったが。

 当時の名簿が残っており、同期新人に「柳井正・山口県出身」の記載がある。ユニクロの彼、である。OB会の大方に記憶がないところを見ると、入部して間もなく退部したのだろう。それでも探検部出身なら一番の有名人となる。OB会50年記念誌を作る際、寄稿文を頂こうと、その役目が私に割り当てられた。ネットで調べたユニクロのメルアドに、秘書室宛てに「依頼文」を出したが、案の定、なしのつぶてだった。

 登山靴(飯田橋の手作りの店で作ってもらった)、キスリング(当時のザックは横に幅が広く、これを担いで北海道辺りを旅する学生はカニ族と呼ばれた)を揃えて、2年生をリーダーに有志で丹沢の塔ノ岳に登ったのが最初の登山だった(そのせいか、今でも山の訓練はここへ行く)。沢登りでは5~6メートルずり落ちた経験もし、以来ザイルを使った登山は体が拒否。今は船頭が操る川下りが名物になっている長瀞をゴムボートで下ったこともあった(同期が食料として「パンの耳」を沢山もってきて、聞けば名古屋出身。高校時代からパン屋に行ってはサンドウィッチ作りで余分に出るこの耳をもらい、昼食にしたという。名古屋は聞きにしに勝る、しまり屋の多い土地柄と思ったものだ)

 GWには奥秩父の甲武信岳(2475メートル)で一泊二日の新人訓練合宿が行われた。河原で石を拾い、ザックに詰め、荷物の重さを20キロ(30キロと記憶していたが、今になって確かめるとこの重さだった)にした。先輩が荷物をぶら下げる吊り秤でそれぞれ測っていたような気がする。歩くに従って、ひざはがくがくし、肩にキスリングが食い込む。へばってしまう同期が出てくると、先輩が「どうした」と励まし、場合によっては荷物を肩代わりし(無論、ザックの中の石は捨てて)たりした。「ザックは何があっても自分で運ぶ」が不文律。ダウンして、他人に荷物を持ってもらうのは屈辱以外の何物でもない。「ガンバ、ガンバ」の掛け声に、ひたすら前を歩く部員の足だけを見つめて歩を運ぶ。眠気だけが頻繁に襲う。頂上直下、「後少しだ。もう何分」。リーダーのこの声に、なぜか、緊張の糸がぷつんと切れる。私は座り込んだまま、一歩も動けなくなってしまった。

 一昨年の会合で半世紀ぶりに会った同期に「(君がへばったときに)何もしてやれずにごめんな」と顔を見るなり言われた。故郷の名古屋市役所に長年勤務、今も嘱託の市職員を続ける、あの「パンの耳」男。「50数年間も同情され続けていた、とは」と心底、がっくり来た。先輩にも同じことを言われた。「あの時、ばてたお前にリンゴを与えたら、丸かじりして芯まで食ってしまった、よ、な」と。「なんで、こいつらは俺のトラウマだけをしっかり、覚えているのだ!」という気分だ。

 この年の夏休み、一か月にわたる「韓国遠征」が行われた。2年前の65年に「日韓国交回復」がなり、早稲田大学に韓国からの留学生が目立つようになっていた。約30人の部員が韓国の山々で登山や川下り、洞窟のケーヴィングを行った。韓国ほぼ全域を回ったが、合宿途上で事件が起きた。韓国学生の意識調査を女子高で行った3人が「スパイ容疑」で逮捕・拘留されたのだ。当時はベトナム戦争の真っ最中。アメリカの要請で韓国からベトナム派兵が行われ、韓国兵の勇猛果敢な戦いぶりは北ベトナム軍やべトコンに「タイガー軍団」と恐れられていた。交流した学生の中にも「ベトナム帰り」が何人もいた。アンケート調査は韓国人留学生に翻訳してもらったが、そのアドバイスで「ベトナム派兵をどう思うか」の項目があり、学校の目に留まった。学校長の通報で警察が来て、3人はスパイ容疑で逮捕、拘束、留置された。早稲田と姉妹校の漢陽大学の体育館でキャンプを張っていた我々も、荷物を全部点検され、日本語対訳付き朝鮮語会話集(当時、韓国語会話集は存在しなかった)や在日朝鮮人作家の本等が没収された。2泊3日で容疑は晴れ、全員釈放された。韓国の新聞には一面3段で「スパイ嫌疑の日本人学生強制送還」と報じられた。実際上は皆と旅を続けたのだが。

 当時、我が国では韓国の日本人による売春込みの妓生パーティーが話題になっていた。出発時、統率の幹事長が「絶対に妓生パーティーに出たり、夜の街で街娼に手を出さないこと。日韓友好にかかわる」と訓示した。このころ、ソウルは売春は合法で、繁華街、明洞地区の一角に街娼街があり、昼からそうした女性がたむろしていた。戒厳令も敷かれており、夜9時(8時だったか)には外出禁止令が出ていた。ある日、知り合いになった韓国人学生と痛飲し、禁止時刻を過ぎてしまった。郊外のキャンプ地へは帰れず、近くの高級ホテルに泊まる金もない。その学生のアイディアで、居酒屋隣の街娼街に赴き、男同士二人で貸し間で一夜まんじりともせず過ごした。無論、女性は呼ばなかった。

 登山では、韓国の最高峰、済州島の漢拏(かんな)山(1950メートル)はだらだら登りが続く山でなんなくこなしたが、北東部にある第三の山、雪岳(せつがく)山(1708メートル)は花崗岩でできた切り立った峰で、新人合宿同様、頂上直下で一度ダウン。それでも頂上は極めた。

 合宿最終日、ソウルに戻ってリーダーの幹事長が「男に戻るぞ!」と叫んで、明洞地区へ出かけた。何でも、大切にしてきた録音機を売って手にした大金を握りしめていた、という。驚くより、がっかりした。

 合宿から帰り、夏休みが終わった後、探検部を退部した。新聞会へは2年生で入会すると決めていたので、兄が地元の大学でやっていた航空部(グライダー部)に転部した。幹事長の行動に嫌悪感を覚えたこともあるが、この部にいると、4年で卒業するのは難しい、という不安が退部の一番の理由だった。実際に卒業時、同期は軒並み留年したようだった。それから10年後、探検部部長に就任した奥島先生が現役の部員に最初に与えた第一声は「君たちは4年で卒業するとは思うなよ」と聞いた。

 というわけで、探検部在籍はわずか半年。それでもOB会へ出るようになったのは、同期で戦場ジャーナリストから北朝鮮評論家になった惠谷君のお陰である。

 ≪4章 私のOB会山行≫

 社会部記者時代に、仕事が近いこともあって、彼とは時折、顔を合わせる機会があった。一度は正月特集紙面(毎年元旦に発行する90P~100Pにも及ぶ分厚い紙面。各紙、その厚さを競争しあったものだが、今は広告事情からだろう、30~40P程度になっている)で、私のアマゾン紀行や関野吉晴さんのグレートジャーニー行を特集し、「冒険」を巡る座談会で同様、部の先輩の西木正明さんとともにパネリストとして加わってもらったこともあった。(ちなみに関野さんの「人類誕生の足跡を自分の足で辿る」グレートジャーニーは、社会部先輩、吉田俊平さんがほれ込み、出版局に移ってから関野さんの原稿と写真で飾る豪華本に近い「グレートジャーニー~人類400万年の旅」を8巻まで出版している)。

 そんな縁から、惠谷君は「韓国合宿まで行った奴はOB会に出る資格があるよ」と誘ってくれ、2か月に一回開かれる「例会」に時に顔を出すようになり、数十年ぶりに探検部の先輩や同期と再会したのである。OB会山行が始まった2003年、私はまだ毎日新聞在職中で、長い休みは取れなかった。スポーツニッポン新聞に移り、役職も取締役からヒマな監査役に変わったころ、またも恵谷君が「たまにはみんなと一緒に山に登らんか」と誘ってくれた。

 学生時代、探検部をやめた後も「ばてた経験」を克服したい、と国内の山行は単独行で続けた。明治大山岳部の新人訓練合宿で、ばてた体験をばねに、当代随一の探検家になった植村直己さんに比すのは恐れ多いが、気分としては、ちょっとは似たところがあった。毎日に入社してからは、名古屋時代は“家族登山”、東京社会部に来てからは、丹沢・塔の岳に登る程度だった。

 私にとって初めてのOB会山行は2011年9月、北海道の利尻岳(1719メートル)登山。隣の礼文島観光を含めて3泊4日。この山は大学の卒業旅行で、北海道が郷里の母親孝行を兼ねて、一緒に道内一周したときに稚内から眺めた山であった。海から屹立した姿は山岳人ならずとも惚れ惚れする。OB会で登った日は快晴。朝から晴れ。未明から登り始め、頂上直下からが険しい行程だった。40人近い参加者で、奥島先生も登頂。降りてきてからの旅館での打ち上げは「都の西北」の大合唱で締めた。翌12年5月にはGWを利用しての台湾・雪山(3886メートル)登山。4泊5日で登山は1泊2日だった。天候は最悪。霧と雨が終日続き、海外登山ビギナーの私は、ザックカバーを忘れ、中の着替えなど装備までぐしょ濡れ。重量がぐんと増し、後輩に「荷物、少し持ちましょうか」と同情される始末。山頂では何も見えないまま、折からの雷に追い立てられるようにして下山。雪山山頂の標識だけは確認したが、どんな形状の山か、さえ分からないままの登山だった。台湾第2位の高峰で、途中の山小屋の登山道脇に「昭和天皇が皇太子のころ、登った」とする碑があった。

 台湾の日本統治は、日清戦争の後、当時の清朝から日本に割譲された1895年(明治28年)に始まる。最高峰の玉山(ぎょくざん、3952メートル)は富士山(3776メートル)より高いところから、明治天皇が「新高山(にいたかやま)」と命名した。1941年(昭和16年)12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる、海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、この山の名前に由来する。

 同年10月には5泊6日でベトナム行。目指す山はマレーシア半島で一番高い山、ファンシーパン(3143メートル)。ハノイから夜行列車(この寝台車がソ連製の年代物で、寝床は固く、部屋は狭くるしかった。しかし、相部屋の恵谷君の「イランでは「おしん」が人気で、田中裕子のブロマイドで税関はフリーパスだった」「アフガンでは~」等戦場話を夜を徹して語ってくれ、面白かった)で10時間。中国との国境の街、ラオカイに着き、一泊。ガイドの解説によれば、ここは1979年の中越紛争の激戦地で、中国に端を発しこの町を通り、ハノイまで流れる紅河(ホン河)は中国人兵士の血で一層赤みを増し、川底には今でも無数の白骨があるのだという。中国軍6万人、ベトナム軍2万人の戦死者を出したと聞くと、満更「白髪三千条」の話でもなさそうだ。

 登山基地のサパはさらに車で2時間、フランス統治時代を思わす小ぎれいな町だった。朝食に出るフランスパンが美味しく、一層旅情をかきたてた。山登りの日、麓は晴れていたが、やがて曇りから雨。荷物はガイドが背負ってくれる(海外の山行が好きな大きな理由の一つ)。日本では全く知られていない山で、ベトナム滞在経験の長い人でも聞いたことがない、という。

 登り始めると行きかう登山者はヨーロッパ、オーストラリアから来た人たちだった。大きな二つのこぶを持つような山容で、ゾウの岩といわれる一つ目のこぶを越して、大きく下り、もう一つのこぶの山頂を目指す山だった。登っている間中は、靄と雨でどこを登っているかさえ定かでない。降りてきて打ち上げをやったキャンプ地は地面がドロドロ。ガイドらが豚の丸焼きをご馳走してくれて、これはうまかった。ベトナムの経済成長で、今はこの山にロープウェイがかかり、我々が2日がかりで苦労して登った山頂がわずか数時間で行ける、と聞く。

 翌13年5月のGWには、有志で台湾五山の一つ、北大武山(3092メートル)へ。台北から新幹線で南の高雄へ出て、5泊6日の旅。後輩ばかりの隊だったが、登山歴に関しては私が一番の後輩。50代の彼らの背中ばかり追いかけていた。山登り後の観光で、スタジオジブリ「千と千尋の神隠し」のモデルとなったといわれる仇分(きゅうふん)の街を独り訪ねたのは思い出となった(それにしても、タスマニアの街でも「魔女の宅急便」のモデル、というホテルがあったり、海外では、ジブリ作品の舞台と称するところを用意することが、日本人観光客へのおもてなし、と考えているのかしらん)   

 同10月には、四国・松山の石鎚山(1982メートル)へ2泊3日の登山。

 14年5月のGWには、三度目の台湾挑戦。05年にOB会登山で既に登った玉山(3952メートル)へ、その時に参加できなかった連中6人で登る。5泊6日。この時もまた、雨。頂上手前で激しい雷雨に遭遇。他のパーティーが様子見をする中、我が隊だけは山頂へ。頂上に立った瞬間、私と後輩の間に、鋭い光線が走り、岩を直撃。遅れて耳をつんざくような爆音のような雷音。慌てて逃げ出したが、二人のどちらかに直撃していれば、命はなかっただろう。いつも探検部OB会のガイドを務め、この時も同行した林さん(台湾山岳会幹部)は、下山後「去年もね、2,3人落雷で死んでいるんだ」とこともなげだった。台湾の3度の登山は全てGW期間中で雨に見舞われた。台湾は台風の通り道で、天候が落ち着くのは11月~3月。その後、有志による台湾行はほぼ11月、となった。

 下山後の台湾は、街の食い物はうまいし、どこでも温泉が楽しめる。街の人は親日的(東日本大震災の際、海外からの援助は台湾が一番だった)。お勧めの観光地である。

 同14年9月にはインドネシア・ロンボク島のリンジャンニ山(3726メートル)とバリ島のバトゥール山(1717メートル)へ10日間。この年6月でスポーツニッポン新聞を退職、新聞記者・会社人生の終了で「退職記念山行」となった。

 奥島先生も参加、16人の隊だった。

 リンジャニ山は麓のコテージに着くと、きれいに晴れて、富士山を小型にした三角定規の山容が良く見えた。登山当日、朝から強い日差しとなる。広い野原を抜けて、山道の傾斜がきつくなってくると、土ぼこりがひどい。火山特有の地質で季節も乾季の真っ最中。小さな谷の橋を渡ると河は完全に干上がっている。火山のざらざらした土質に足を取られる。マスク持参を指示された意味が身に染みて理解できるほどに、ほこりがひどい。まばらに生える松に日陰を求めて休むが日差しの強烈さは避けきれない。キャンプサイトに近づくにつれて、今度は周囲に散らばった空き缶、トイレットペーパー、ビニール袋が山のようになり、ゴミロードと化す。キャンプ地は生ごみと排せつ物の臭いが充満。ガイドが作る夕食をかっ込んで、テント内のシュラフに早々と潜り込む。どんな場所でもすぐに眠れるのが私の得意技でもあるが、さすが3000メートル級の山だけあってかなり冷え込み、改めて起き上がり、上下のタイツをはく。

 翌日は早朝2時に起床。ヘッドランプをつけての行軍だったが、夜が明けるころにはきつい登りになって、しかも火山特有のざらざら道。少し立ち止まるとずるずると後退する。富士山の砂走は下りにしか使ったことはないが、あそこを登りに使うとこんな感じになるのでは、と思った。山頂に着くと展望を楽しむ間もなく、早々に下りにかかる面々が多かった。この山、それから2年後の16年から噴火を繰り返して、今は近づきがたい山となっている。

 インドネシア行後半はロンボク島からバリ島に飛ぶ。奥島先生はここからの参加だった。バトゥール山は同島内の最高峰、アグン山(3031メートル)に比べ、はるかに低いが手軽に登れる山として人気は高い。日帰り登山で、下りてきてから山麓にある温泉「バトゥール・ナチュラル・ホットスプリング」に入ったが、ここは良かった。水着で入る温泉で、露天のプール群がいくつか並び、それぞれ泳げるほどに広々している。湯温も適度。温泉につかりながらのビールは旨かった。

 翌15年8月には2週間にわたるキルギス・ウズベキスタン旅行。天山山脈の西のはずれ、キルギスのアルアラチャ山塊への挑戦である。日本では知る人もない山塊だ。キルギスは周囲の国と違って、地下資源ゼロ。目立った産業もなく、観光資源を生かそうとして、この年の数年前、キルギス山岳協会会長が来日してPRに当たった。同国にいた海外青年援助隊の人脈からOB会メンバーに情報が入り、縁がつながった。

 目標のウティーチェリ峰は標高4527メートル。私にとっては初めての4000メートルを超す山だ。冬山未経験者の私は、訓練でこの年3月、先輩たちの冬山合宿に合流する予定にした。ピッケル、冬山用の登山靴も備えた。ところが合宿直前、那須岳で栃木県の高校生が8人死亡、40人負傷する雪崩事故が起きた。これには完全にビビり、合宿参加を断念した。キルギス行も諦めなければ、と考えた時に、嬉しいことに「8月は真夏なので、山はアイゼン、ピッケルなしで登れる」という知らせがもたらされた。幹事に何度も念を押して、確認。同行することが出来た。

 OB会9人に他の山岳クラブ3人の12人の構成。ウズベキスタン航空で同国のタシケントを経由して、キルギスのビシュケクに入った。

 ビシュケクから麓のホテルまで車で行き、翌日、登山基地へ。いつもの荷物担ぎのガイドはいないため、重いザックを担ぎ、3000メートル近い標高の登山基地にたどり着くまで5~6時間の登山は、かなり高低差があり、いつになく消耗した。翌日は高山病に備えて、体を高所に慣らす日に当てられた。旧ソ連領のせいか、食事を提供するロッジの女性職員は不愛想で、飯もお世辞にも美味しいとは言えない。登山を引っ張る女性ガイドもどこか高圧的雰囲気。2泊目の夜はぐっと冷え込んだ。この時期としては「異常」という。

 翌未明、目覚めると、ロッジ周辺は真っ白。この高地でも極めて早い初雪、という。

 「登らずに済みそう!」と口には出さなかったが、快哉を叫んだ。キルギスまで来て、情けない感じだが、ともかく嬉しい。ところが、リーダーの矢作さんが「日が昇ると雪は次第に消えるかもしれない。ともかく登ろう」とのご託宣。一人留守番、という選択はない。一行についていく事を決める。

 高度を稼いでいくにしたがって、狭い登山路こそ雪が溶けだしていたが、その周りはかなりの積雪。少しでも足を踏み外すと、雪道に突っ込んでしまいそうだ。慎重に登山路を踏みしめて行くこと、何時間かかったろうか。やっと頂上に達する。日に照らされた頂上周辺はもう数メートルの積雪。360度見渡される山塊は全て白い雪で覆われていた。4500メートル地点で照らされる日の光はサングラスをかけていても目が痛むほどにまぶしい。早稲田の旗を用意してきた人がいて、それぞれ旗を手に記念写真を撮る。

 山を下りれば、ロマンあふれるウズベキスタンへシルクロードの旅が待っているのだ。

 この登頂で人生最高峰に達したので、後は国内回帰、と思っていた。しかし、2年後の17年には、インド・ヒマラヤへ3週間の山行の話が出て、乗ってしまった。社会部先輩の名物記者、佐藤健さん(2002年没、60歳)が1979年に訪ねたインド・ラダックの旅と重なるコースだったから。

 79年当時、入社8年生の私は中部本社報道部にいた。9~10月と2か月にわたって、アマゾンの自然破壊とそれに追われ種の絶滅に瀕する南米の新世界ザルをテーマに取材旅行を敢行していた。翌80年の正月紙面を飾るためであった。取材から帰ってきて、原稿出稿を終えた12月半ば、編集局長に呼ばれた。「正月特集の一面を君の原稿にするか、東京社会部の原稿にするか、論議になっている。東京へ行って話をしてきてくれないか」という。オイオイ、それを決めるのは編集局幹部のアンタじゃないの、という愚痴を飲み込んで東京へ。東京の担当局次長は幸い、社会部教育取材班へ一年間長期出張した折り、デスクとして教えを受けた浅野弘次さん(1986年没、61歳)だった。東京社会部の名文「三野(さんのう)」男の一人として名を馳せたこの人、無類の酒好き。局次長になってからもウィスキーの瓶を引き出しに忍ばせて、交番会議が終われば、一人ちびちびとやっていた、という。編集局の真ん中にあるソファでちょっと酒の匂いがする浅野さんと話し合ったが、私への説得のようなものだった。「社会部のサトケンが、よ、インドのラダックへ行って、(渾身の)一文を書いてきた。こちらが一面だよな」。健さんはこのころすでに「現代に宗教を問う」の「坊主になってみた」企画で、毎日のスター記者だった。名古屋のぽっと出がかなうはずもない。当時カラー化が始まったばかりの頃で、健さんの1部特集に続いて、2部に回る私の原稿・写真をカラー化することで、納得して名古屋へ帰った。健さんにしたって、自分の原稿が1部から外れることはない、と踏んでいたに違いない、と思い込んでいた。ところが、後年、社会部にきて話をしてみたら「イヤー、あの時は随分心配したんだ」という。新聞記者って原稿の前では先輩、後輩もなく平等なんだ、と改めて思った次第。

 インド・ヒマラヤの旅は登山というより、健さんが行ったラダックからさらにザンスカールを回る、登山というよりは高所トレッキング。3週間、歩き詰めだったが、荷物は例によってシェルパ持ち、食事も彼らが作ってくれる。矢作さんら屈強な人たちは、未踏峰の山(インド・ヒマラヤは未踏峰の山がまだいくつかある。登頂に成功後、インド政府に定額金を納めて申請すれば、証明書を発行してくれるという)の偵察行を行った。ちょっと”弱い“私を含めた3人はキャンプサイトで留守番役。後輩が「偵察部隊の動きを見に行きましょう」というので、仕方なくキャンプサイトから少し登って見物に行く以外は、テントに寝っ転がり、当時芥川賞を取って有名になったお笑い芸人、又吉直樹の「火花」を読んでいた。

 この旅で面白かったのは、最高高度5000メートルの峰まで登るとき、OB会メンバーではない他クラブのリーダーが、勢いに任せ、隊列からはるかに離れ、先を急ぎ、目的地点に我々より30分以上も早く到着した。ところが、そこでダウン。高山病を起こしたのだ。ヨーロッパアルプスやチベットヒマラヤもこなしてきた人だったが、75歳という高齢では”無理“は厳禁、ということのようだ。

(元社会部 清水 光雄)

2020年4月24日

早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊦

 ≪5章 岩が積み重なる山だった≫

 クレイドル山に戻ろう。

 2月13日朝、ダブ湖駐車場から登山路にかかった。足元は立派な木道になっている。オーストラリアの国立公園は実によく整備されており、ここでもそうだった。

 タスマニア州が国立公園の遊歩道の難易度を5つのレベルに分けている。ウィキペデイア「クレイドル国立公園」によれば、下記のようになっている。

 ①レベル1:ブッシュウォーキング(低木地帯のウォーキング)の経験不要。道は表面が平らで硬い。階段、坂はなく、補助者がいれば車椅子で行ける。
 ②レベル2:レベル1と同様だが、坂や階段はある。
 ③レベル3:ほぼ全年齢の健康者向き。ブッシュウォーキングの経験があればあった方が良い。道の表面がデコボコ。短い急坂、多数の階段のどれかがある。
 ④ブッシュウォーキングの経験は必要。歩行距離は長く、道の表面はデコボコ、傾斜きつい。案内標識は少ししかない。
 ⑤緊急処置や地形読み取りスキルを持つブッシュウォーキング経験者向き。歩行距離は長い。道の表面はデコボコ、傾斜はとてもきつい。

 私たちの登山は③~④程度から始まった。手元の山行記録をもとに再現する。

 8:10 登山開始。霧が濃い。先頭は高橋(同期)、次いで高岡女史。私は3番手。リラ湖を左手に見ながらウォンバットプール登山路を行く。

 8日に全員が合流してから、9日マウントフィールド国立公園ハイキングを3時間、10日タスマン国立公園ホーイ岬往復ハイキングを5時間(私は世界遺産のかつての囚人監獄施設・ポートアーサー見学に回った)、11日フレシネ国立公園・ワイングラスベイ展望台往復ハイキングで1・5時間~と足慣らしをしているので、皆の足取りは軽い。

 8:40 ウォンバットピーク(1105メートル)。霧が少し晴れてくるが、視界は十分とは言えない。

 ヤッケを脱ぐ。

 9:40 マリオンズ展望台。本来ならば、東側下にはダブ湖、これから辿る南側にはクレイドル山の山容が見渡せるのだが、霧のためほとんど見えない。コースタイムより20分早い着。小休止。

 9:50 出発。広々とした高原状の所を歩く。高低差はさほどなく、トレッキングの気分。

 10:20 キッチンハット着。避難小屋である。2人も入れば満杯になる広さで、屋根裏に寝床を設けている。こちらの冬の時期、7~9月には天候が荒れるから、そんな時に使うのだろう。南極から吹き付けるモーレツな大寒波があるのだろう。随分と古びて見えるのは、風の強烈さを表しているのかもしれない。すぐ近くにトイレ小屋がある。外には4,5人で抱えるような大きなタンクが転がっている。排せつ物をためるタンクのようだ。今のトイレの下にも埋設しているだろうから、計2個。満杯になれば、取り換えて設置し、満杯のものはヘリで吊り下げて麓へもっていき、中身を捨てて、また持ってくる、ということのようだ。

 トイレを済ませ、小休止する。予定では昼食時。1時間10分も早い到着で、昼食は頂上で、ということにする。復路で立ち寄って初めてわかったのだが、この地点から屏風を何枚も並べたようなクレイドル山が間近に見える場所だった。生憎というより、折よくというべきだろう。この時は霧で山容は確認できなかった。確認していれば、その、すさまじいまでの岩場の景観に、登る気が萎えていたかもしれない。台湾の玉山で、ベトナムのファンシーパンで、天山山脈で、インド・ヒマラヤで、と何度も経験したことだが、険しい山ほど登るときは霧や雨に閉ざされている方が、登りやすい。

 10:40 キッチンハット出発。

 岩場に出る。日差しが出てきて、ほとんど岩だらけの山道がはっきりと見える。屏風の直下にたどり着き、見上げると岩の積み重なりばかり。手足を総動員して、岩場にとりつく。滑り止めの軍手で岩をつかみ、体をグンと伸ばし、足を次の岩まで押し上げる。北アルプスの槍ヶ岳、頂上への登りが、連続する感じか。前を辿る人の足取りを忠実に追うより、自分で登りやすいところを探す。白のベンチマークや岩の間に突っ立てたポールが標識だが、すべてが正しいとは言えない。それにしても、この岩の重なりが、少しでも崩れると下に連なる人のケガは考えたくもないほど大きいものとなるだろう。数十分登ったところで、下を見下ろすとストーンと落ちている感じ。日差しが強烈だ。上着を腕まくりするが、風もなく暑いばかり。

 腰を下ろせる岩場に我々と同じくらいの高齢の夫婦が座っている。聞けば、尼崎に17年暮らしていた、といい、日本語も達者だった。一行の中の大阪人が、がぜん元気づき、熱心に会話を交わす。メンバーの一人、大阪人女性はこれだけきつい岩場になるとさすが寡黙になるが、普段の山登りでは良く喋る。時にはうるさいと思うこともあるほどだが、山登りの本に「適度の会話は呼吸が自然にできるから、望ましい」と書いてあるのを見つけ、なるほどと思ったものだ。夫婦は「頂上まで行きますか」という我々の問いに「体調次第」と答えていた。岩場の復路で遭遇しなかったところを見ると、山頂を踏むことはあきらめたのかもしれない。

 一つのピーク、稜線に出て、頂上かな、と思ったら、然(さ)に非(あら)ず。屏風の裏側に出ただけで、「ニセ頂上」と有名なところらしい。ここから下りになって、地底まで下りるような感じで下り、そこから、また岩場登りが連続する。手の肘を岩に乗せたり、足の膝を使ったりで「オー、しんど」。やがて隊列が崩れて、トップがいつの間にか、高橋氏に代わって、一期上の矢作、石田氏になっている。この辺がOB会登山の面白いというか、稚気あふれるというか、頂上近くになると決められた順番が崩れて、いつか体力自慢のこの二人がトップをとる。

 12:10 山頂(1545メートル)へ。かなり広い平坦な場所である。天候はすっかり良くなり、360度の展望が利く。岩場の連なりのその先には、クレイドル山を超す山が見え、周囲の湖は遥か下界にかすんで見える。一番心配された最高齢者も無事、登頂を果たし、一行9人が全員、山頂を踏んだ。時計を見れば、キッチンハットからわずか1時間半。このきつい登りでは、気分的には3~4時間は登った感じである。それでも予定タイムより1時間50分も早い到着。オーストラリア人向けのコースガイドよりも早く、一同、大いに満足したものだ。

クレイドル山の頂上で。左端が筆者

 車座になって昼食となる。金沢の名店・田中屋の「きんつばや」甲府の「クルミ餅」など名産を持ってきた人がいて、差し入れを頂く。山では甘いものが美味しい。昼食のバスケットはホテルが作ったサンドウィッチとフルーツでリンゴ2個。水はペットボトルで1リットル分を飲んでしまい、ポリタンク状の水筒の1リットルも、もうさみしくなっていた。両足がちょっと吊り気味。メンバーに気づかれないように、自分で揉んで直す。両手もややしびれ気味だ。

 12:40 下山開始

 岩場の下りは結構、きつい。足場の岩の具合を一つ一つ確かめながら降りる。1時間以上は費やしただろうか、やっと岩場は終わり、平坦なところへ出る。

 14:00 下り終えた満足感でルンルン気分。鼻歌交じりでキッチンハットに向かう。と、その時、後ろの矢作さんから声がかかる。「靴底がはがれていないか?」。一旦、止まって右足の登山靴を見る。底がはがれて、足を上げてみると、ぶらぶらしている状態。かつて何度か、他人の靴底剥がれを見ているが、私は初体験。「(靴を縛る)ガムテープ、あるよ」と言ってくれた人から、テープを借りて、靴と靴底をぐるぐる巻きにする。テープの色が白のせいで、まるで足に包帯を巻いた傷痍軍人のよう。「大抵、両足をやられるからもう片方も見ておいた方が良いよ」と矢作さん。さすがベテランは言うことが違う。しかし、左足は無事だった。

 14:05 キッチンハット着。降りてきた方を眺めると、屏風状のクレイドル山がくっきり見える。写真を何枚も撮るが、よくもまあ、あんなところを登ったものだ、という感慨に浸る。

 14:15 キッチンハット出発。

 15:00 マリオンズ展望台。ここからの下りは、往路の経験からすると、木道が続く高低差の少ない楽勝コースのはず。ところが、木々が密生した急傾斜の下りになる。トップが間違えて急斜面のマリオンズ展望台登山路へ入ってしまったのだ。「オイ、やめてくれ。俺の靴底が悲鳴を上げているぜ」と叫びたかったが、引き返すには急登になるので余計に厄介だ。

 15:50マリオンズ展望台登山路の下りが終わる。

 降り切って、トップの言うことが憎たらしい。「清水の靴のこともあって、時間短縮になると思って」だと。「間違えただけだろう」と突っ込みを入れたかったが、疲れで声も出ない。

 16:10 ダブ湖の北周辺を回り込んで、駐車場に出る。リーダーが携帯でチャーターバスを呼び、ほどなくバスが来る。すぐに乗り込むが、両足の吊りがぶり返す。今度はきつい。揉んでも容易には治らない。ホテルのベッドで手足を伸ばしたい。

 バスはハイキング組が合流しても、直ぐに出発しない。ホテル群から往復している無料のシャトルバス優先の決まりがあって、シャトルバスの到着を待っているという。チャーターバスの運転手が時間つぶしに気を利かせてか、すぐそばの散策路に「ウオンバットが顔を出しているよ」と案内。皆、バスを降りてカメラ片手に撮影に行く。足の痛さが増している私は座席から立ち上がるのも億劫だ。「ビール、ビール」と呪文のように繰り返す。駐車場の売り場にはビールは置いていなかった。ホテルまで戻らないと、下山の最高の味、ビールにありつけない。

 16:40 やっとバス出発。

 17:00 ホテル着

 ホバートからはるばる運び込んでいた缶ビール半ダースが我が部屋の冷蔵庫に冷えている。ここは一つ、チャリティー精神を発揮して、皆に呼びかける。夫婦と女性が遠慮して丁度6人分のビール。我が部屋で「カンパ~イ」の声が響き、わずか350ミリリットルの缶ビールのなんと貴重で、美味だったことか。

 ≪6章 山から下りて≫

 その日の夕食は盛大な打ち上げになり、ビール、ワインを何本も明けてもまだ足りず、2次会は暖炉のあるホテルロビーで行なった。

 翌14日はダブ湖周辺のサーキットが予定されていた。「誰が行くもんですか!」ホテルごもりを決め込んで、読書など。皆でランチを取った後、荷物をまとめてロンセストンへ移動。全員での夕食はこの日が最後になるので、こじゃれたレストランに乗り込んで、タスマニア最後の夜として、ビーフステーキを堪能する。 隊長の奥島先生の締めの言葉は、井伏鱒二の「勧酒」の名訳「サヨナラだけが人生だ」。

 「この杯を受けてくれ/どうぞなみなみ注がしておくれ/花に嵐のたとえもあるぞ/「サヨナラ」だけが人生だ」

 この言葉でタスマニアのOB会山行は終わりを告げた。

 この後、私は先輩・同期5人とメルボルンへ出て、やっと終わりかけていた豪州の山火事跡や世界一の海沿いロードといわれるグレートオーシャンロードのドライブなど旅を重ねるのだが、その話は機会があればいずれ、また。

 ≪終章 毎日の探検部人脈≫

 毎日人に探検部OBは多い(はずだ)。先輩にはいないが、後輩はかなりの数に上るようだ。OB会で良く名前が出たのは、社会部の萩尾信也君。学生時代は幹事長を務めていたとか。社会部の大川勇君の名前も何人からか聞いた。両人とも探検部を全うし、“難しい入社試験のある”毎日新聞に受かったことが、後輩から評価されているようだ。

 社会部から外信部へ行った福井聡君も探検部のはず。父親が愛知県警幹部で、私は探検部先輩の“名前”をフルに活用。県警の夜回りではいつも最終地点と決め、お酒を随分と飲ませてもらった。ネタもいくつも教えてくれたのだが、私自身、酒の酔いで、社へ上がってからメモ帳の字が判読できず、特ダネを逃したものだ。東京社会部に来てからは、そんな僥倖はなかった。

 社会部でデスクになってから随分と年の離れた連中で、「探検部OBのようだ」と名前を聞いたのが他部も含め、何人もいた。いまだ確認するところまでいっていないが。

(終わり)
(元社会部 清水 光雄)

2020年4月2日

90歳代の過ごし方を思う

 センテリアンへ、「生涯ジャーナリスト」牧内節男さんの研鑽の日々――。
 以下は「銀座一丁目新聞」2020年4月1日付「茶説」である。

 牧念人 悠々90歳代の過ごし方を思う

 今年誕生日が来て95歳になる(8月)。5年前に同期生たちと「五輪の会」を作って東京オリンッピクまで頑張ろうと年に2回大船の駅前の中華料理店で会合を重ねてきた。その間、あの世に往く人も少なからずあっていつも30人近く集まっていたのが最近では23名か24名ぐらいになってしまった。その東京オリンッピクが1年延期された。今年の「五輪の会」は開かれていない。この会ではいつも“知的刺激”を受けた。いつも励まされた。その都度「銀座一丁目新聞」でその会の模様を報告した。書く喜びもあった。 

 昨今はどうも動作が鈍い。動作は心の表現である。万事に悠長である。読みたい本があるのだが書店へ足が向かない。文章も思うように書けない。それでいて不思議に女性への関心が衰えない。最近はとみに花への関心が深くなったのにと思うのだが…。3月半ば、なくなった同期生の奥さんの電話の声を聞いて「少し落ち込んでいる」と感じたので早速俳句の本を2冊持参して訪問、「俳句を作ったり、自分の俳句をまとめたりしたらどうですか」と勧めた。また、20年ほどご無沙汰沙汰している女性(イベント企画経営)から「会いたい」とメールをしてきたので共通の知り合いの毎日新聞社会部時代の友人を誘って近日中に会うことにした。更に50年間も開いてきた会が今年解散した。この会は毎年4月はじめ靖国神社を参拝したあと懇談するのを常とした。私はこの会の発起人の後輩でこの人の本を出版したことで知己を得た。学ぶことが多く私の後半の人生を変えた。いつもこの会の司会をしていた女性を誘った。今年は二人だけで先輩を偲ぶ。 

 田中英道著「老年こそ創造の時代」―人生百年の新しい指針―(勉誠出版)に「老人論」として万葉集巻5-804に山上憶良の長歌が紹介されている。「この世の中で、なす術がないのは、年月が流れるように過ぎ去ることである。年月が過ぎ去るという事実は取り付いてはなれず、あらゆるものに追いかけてくる。例えば若い娘が、娘らしく振舞わって、舶来の玉を手首に巻き、同輩の若者たちと手に手を取って遊んでいる。しかし、若さの盛りは留めようにも留めることはできない。時が過ぎ去ってしまえば、黒々としていた髪には、いつの間にか霜が降りている。赤々としていた顔の上には、どこからか皺がやってくる。勇ましい若者が、男らしく振る舞って、剣太刀を腰につけ、弓を手に握り持って、馬に色鮮やかな布の鞍を置き、馬に這い上がって遊び歩く、そんな世の中がいつもそのままに続くだろうか。娘たちの寝所の板戸を押し開き、たどりよって、玉のような美しい手を絡めあって寝た夜などはいくらもなかった。なのに、いつの間にか手に手束杖を持ち、腰のあたりに頼って歩くようになってしまった。あちらにゆけば人に嫌われ、そちらにゆけば人に憎まれる。老人とはこういうものだ。命は惜しいがどうしようもない」(口語訳) 

 著者は憶良の考え方は仏教の「四苦八苦」から来ているとして解釈。「老年こそ創造の時代」と強調する。83歳で「蘭学事始」を表した杉田玄白は85歳まで生きた。「富嶽百景」を描いた葛飾北斎は90歳まで長生きしたとその生き方を紹介する。玄白、北斎の域は無理でも「生涯ジャーナリスト」を自認する私は多少でも文章で世の中に貢献したい。日々の生活に多少のゆとりと彩りをそえながらいいものを書くために日々の研鑽を怠らない所存である。

(牧内 節男)

2020年3月6日

元編集総務部の國井道子さん「東京都江東区の観光ボランティアガイドをしています」

 3月に入って、この頃は甘い香りとともに梅が見ごろの季節です。

 梅といえば私の住む江東区では学問の神様、菅原道真を祀る亀戸天神社が有名で、紅白の花をつけて見事です。こちらは藤の花も都内随一の名所です。

 と、ここまで記してから、以下はガイドならではのお話を紹介致します。

 亀戸では天神様のほか、江戸時代に「梅屋敷」と呼ばれた梅の名所がありました。ここは浅草の呉服商・伊勢屋彦右衛門の別邸で、庭内には多くの梅が植えられ、花の季節には江戸近郊の行楽地として、たくさんの人たちで賑わっていました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これは龍がまるで大地に横たわっているように見えるところから水戸光圀が命名したと伝えられています。これらの様子は歌川広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵で見ることができます。またこの傑作は、かの後期印象派の〝炎の画家〟フィンセント・ファン・ゴッホが摸写したことでも有名で、「日本趣味 梅の花」のタイトルで、オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されています。

 19世紀に度々パリで開催された万国博覧会以来、日本の美術様式は『日本趣味(ジャポニズム)』として欧州各地を席巻するほど流行し、その異国情緒を感じさせる雰囲気、斬新な構図、鮮やかな色彩などにゴッホは強く魅了されたようです。

歌川広重「亀戸 梅屋敷」
ゴッホ「日本趣味 梅の花」

 その後、「梅屋敷」は明治43年の水害ですべての梅樹が枯れ廃園となりました。

 以上が、ガイドの一コマでもあります。

 現在は住宅地となり、梅屋敷の案内板があるのみの場所ですが、お客様が江戸時代の様子に思いを馳せていただけるように。そして、亀戸の梅がゴッホと結びついた!!などなど、私にとっても興味深いところを皆さまに語ります。

 3年前に、江東区を案内する観光ボランティアガイドの募集を区報で知り、「鬼平犯科帳の長谷川平蔵はどの辺を駆けたのかしら」と単純な動機で応募しました。半年の研修を経て『江東区文化観光ガイドの会』会員としての活動が始まりました。会の構成員は100名を越え、年齢は60,70歳代が多く、会社のリタイア組、主婦が多数です。そしてびっくりするほど健脚。会長のもと、各専門部が組織されています。会社を離れれば皆一般人で、意見をぶつけ合いながらの運営も、どこにでもみられる面白い世界です。まち歩きを通して街を知り、歴史を学びながらいままで気付かなかった場所や出来事の発見をお客様に知らせしようとする熱意は皆、共有しています。居住している身近な街なので、なおさら新鮮で興味が沸きます。私も入会の動機となった鬼平に関しては、本所深川の町おこしとして「一本うどん」が復活されたとのことで、嬉しくなり早速味わいました。楽しみながらの活動でもあります。江戸の城下町を支え、時代に翻弄されながらも歴史を作ってきた下町、江東区。昔は殆どが海で埋立地から発展してきました。現代では更なる埋立地がウオーターフロントの街として開発が進み人口も増えています。また、東京2020オリンピック、パラリンピックの競技場も多く新設されています。旧い時代に思いをはせ、これからの新しい時を共有できる街でしょうか。「楽しいまち歩き」をモットーに、ガイドとしては江戸から現代のつながりが濃い江東区の魅力を誇りに持ちつつ、充分に伝えられるようにと心掛けておりますが、まだまだ勉強不足が続きます。学んだこともすぐに忘れます…。

《参考》まち歩きガイドは現在以下12のコースがあります。観光協会を通じての申込みです。歩きは健康の素!足に自信のある旧友会の皆様、いかがでしょうか。

まちあるきツアーコース

① 深川門仲ご利益コース
② 深川寺町・深江戸コース
③ 深川芭蕉コース
④ 深川佐賀町・永代橋コース
⑤ 亀戸文武ご利益コース
⑥ 小名木川、旧中川、そして荒川を満喫
⑦ 浅間神社と旧中川ウォーク
⑧ 深川七福神コース
⑨ 亀戸七福神コース
⑩ 豊洲臨海エリアコース
⑪ 赤穂浪士が歩いた道をゆくコース
⑫ 豊洲市場ご案内コース

他に四季折々の季節ごとや深川に縁のある人物関連のコースが設定されています。

・江戸の行楽 梅見三昧
・明治丸と桜めぐり
・隅田川テラスをめぐるトワイライトツアー
・松尾芭蕉
・澁澤栄一

などなどですが、3月6日現在はご多分に漏れず新型コロナウイルス感染拡大防止のため、全てのツアー受付は中止されています。

☆粋な半纏が制服です

豊洲湾岸まつりで仲間の皆さんと
江東区のキャラクターことみちゃんと

(元編集総務部 國井 道子)

2020年2月24日

元グラフィック部の菊地義正さんが上野の森美術館で絵画同好会展

「道」1974年 F50
二科展入選
「春雪(筑波山)」2004年 F100
大調和会展委員推挙
「紫朝靄」2011年 F20
第50回大調和会展
文部科学大臣賞受賞
「早春(水ぬるむ)」2020年 P20
第5回実生会展・今回の作品

 元グラフィック部の菊地義正さん(71歳)が創立メンバーに名を連ねた「第5回実生会展(みしょうかいてん)」が上野の森美術館で開かれます。 菊地さんは、龍ヶ崎市佐貫在住で1969年毎日新聞社に入社、グラフィック部一筋で2008年に退社されました。

 1972年第11回大調和会展で初入選、1974年二科展に入選。2004年第43回大調和会展「春雪(筑波山)」で委員推挙。その後、取手市で「菊地義正 油彩展」、つくば市で「二人展」を、龍ヶ崎市で「郷土作家・菊地義正展」等を開き龍ヶ崎文化財団や同市文化芸術委員会などと幅広く文化交流を続けています。

 また、会の仲間とともに札幌、青森、町田市…と絵の売り込みのために精力的に飛び回っています。

 作風は生まれ育った牛久沼を中心に描いていますが、その精緻な筆遣いは、見る人を思わず一歩前へと足を踏み出させる迫力があります。キャンバスはSMからF100、作品数は70点を超えます。

 2008年、退社時に毎日アートサロンで「菊地義正 油彩展」を開き、2011年には第50回大調和会展で文部科学大臣賞を受賞、同会の常任委員として活躍されました。その後、2016年に「実生会」を立ち上げ今に至っています。

 飾らない人柄と絵画に打ち込む一途さが厚い信頼を得たのでしょう。現在は、流通経済大学非常勤講師として絵を教え、龍ヶ崎市文化協会事務局長として地元文化に貢献しております。毎日の同好クラブ「逍遥会」の名誉顧問でもあります。

 未熟ながら私も「実生会」に過去2度出品させていただきました。創作を楽しんでいる方々の絵をご覧になって下さい。

 「上野の森美術館」で2月28日(金)~3月4日(水)まで。無料。

(元制作部・今野当夫)

2020年2月22日

「週刊将棋」創刊の柳沼正秀さんが立花隆編著「自分史の書き方」に登場

 英文毎日や静岡支局に勤務した柳沼正秀さん(72)から「自分史の書き方」=写真=という講談社学術文庫が送られてきた。ページをめくってみると、立教大学で2008年に始まったシニア向け「セカンドステージ大学」で作家、立花隆さんが講師を務めた「現代史の中の自分史」というゼミの記録で、柳沼さんの自分史が年表も含め40数ページにわたって紹介されている。この本は2013年に単行本として発行され、今年になって文庫本として再発行された機会にお送りすると私信が添えられていた。

 その自分史にも記されているが、柳沼さんは早稲田大学在学中、大学生に「英文毎日」の購読を勧誘するアルバイトに携わった。当時、毎日新聞ではこうした学生を「学生会」として組織し、入試・入学シーズンの3、4月に集中的に勧誘作戦を展開した。私も数年先輩として「学生会」に所属していた縁で、友人になった。いまは「紙」の英文毎日は存在しないが、当時は朝日、読売の英字紙と競争し学生の囲い込みを図って熾烈な競争を展開していた。

 自分史によると、彼は学生時代に30種以上のアルバイトを体験する、と目標を立て、毎日新聞が1971年に開催した「ゴヤ展」で「裸のマハ」の額絵などを販売するアルバイトにも駆り出された。その仕事ぶり、才覚を当時の英文毎日営業部長、江口末人氏(後に局長)に認められ、入社試験もクリアして毎日新聞に入社する。最初に配属された英文毎日局で創刊されたばかりの「毎日ウイークリー」の販売拡張などに携わり、ロンドン留学、静岡支局勤務を経験した。この後、やはり江口氏の誘いで毎日コミュニケーションズ(現マイナビ)に転身、「週刊将棋」の創刊やコンピュータ関連出版物の企画・編集に業績を上げた。

 毎コミ当時の取材を通じてファイナンシャル・プランナーの存在を知り、資格を取得して50歳で独立、現在に至る。定年を迎える社員にリタイア後のファイナンシャル・プランを講義していた姿を記憶している人もいるのではないか。柳沼さんは、アルバイト職種の目標だけでなく、「5年ごとに仕事を変える」「海外で生活する」などいろんな目標を立てて波乱の人生を歩んできたことが、自分史を読むと手に取るように実感できる。

 昨夏、「学生会」の同窓会を開いた際には、体調に懸念があり夫人同伴だったが、元気な消息を、当時の上司、同僚にお伝えしたくて、「自分史」を要約させてもらった(1,380円+税)。

(高尾 義彦)

2020年1月16日

「出版社を引き継ぎました」と社会部OB滝川徹さん

 「出版社を引き継ぐなんて、よく火中の栗を拾う気になったね」。業界の集まりに行くと、心配そうに声を掛けられる。苦笑しながら「まあ、なんとか」と答えるのだが…。

 

 ほぼ1年前に「株式会社海象社」を引き継いだ。そのいきさつは後述するとして、最初に手掛けた「石橋をたたいて渡るネット株投資術~シルバー世代の小遣い稼ぎ」(1460円+税)を説明させてください。

 

 年金だけでは老後の生活に2000万円足りないとの報告書が昨年話題になったのはご存知の通り。優良会社を定年になって十分な企業年金をもらっている人たちは別として、(わが社を含め)一般的には年金だけでは暮らしていくのが精いっぱい、なかなか優雅な老後は送れません。でもたまには家族で温泉旅行したり、話題のレストランで友人と食事したり、ちょっといいコースでキャディ付きゴルフをしたいじゃないですか。

 

 しかし、安倍政治による実質ゼロ金利で100万円を1年間定期預金しても金利は100玉1個のみ(さらに税金がひかれる)。証券会社で株式投資や投資信託しても儲かるとは限らないし、損したとの話もごろごろしています。それでも、手数料が8分の1で済むネット株取引を活用して「ローリスク、ほどほどリターン」を心がければ、楽しく活動的な老後を送れる程度は稼げますよ、という本です。

 

 情報を集めて頭を使うことでボケ防止にもつながります。一攫千金なんて求めません。筆者は日経新聞の元諭説副主幹で環境問題の著書が多い三橋規宏さんで、7年間、年平均15%の利益を出した自身の実践報告です。

 

 海象社は20年前に創設され、「ローカーボン グロウス」「環境立国日本の選択」「原発からの命の守り方」など約50冊の本を出してきたが、社長が大病を患い「後継者がいなければ廃業しかない」状況を知人から知らされ、再就職先を辞めてヒマだったこともあって手を挙げた次第です。

 

 先が見えない出版不況の中、取次ぎとの慣行的な商習慣、印刷の値段の複雑さ、アマゾンの無礼で一方的な仕切り~など苦労と出血は重ねているけれど、活字文化を守るため微力は尽くしているつもりです。「こんな本を出したい」などあれば、ぜひご連絡を。連絡先や出版本は海象社のホームページを見てください。 

            

(滝川 徹)

                         

 滝川氏は71歳。定年退職後、「海上保安新聞」「エネルギーと環境」編集長をつとめた。「日本環境ジャーナリストの会」発足時(1991年6月)からの会員で、元会長・理事。

2020年1月14日

新聞の切り抜きを今も続ける、今年91歳になるOB

 社会部OBの野村勝美さんは、ことし6月1日に91歳の誕生日を迎える。

 ネットマガジン「知の木々舎」に1か月2回「浜田山通信」を連載している。№257は「観測史上最高の温暖化」で、16歳のグレタさんと、トランプ米大統領のやりとりを書いているが、その中に「新聞の切り抜きを今も続けている」と書いている。

 スズメ100まで踊り忘れずか。エライ先輩である。

 https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-12-27-5

 —―新年早々もうしわけないが、「人々は苦しみ、死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている、私たちは絶滅にさしかかっているのに、あなたたちが話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけ」、スペイン・マドリードで開催されたCOP25(国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議)でのグレタ・トウーンベリさん(16)の演説が頭から離れない。私は新聞記者時代からの習慣で新聞切り抜きをいまも続けているが、グレタ演説のあとは、気候変動関連の記事しかスクラップしなくなった。

 米誌「タイム」」が恒例の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」を選ぶと、トランプ米大統領はツィッターで(この人はメデイアとの記者会見を一切やらず、一方的にツィッターで政策から批判、中傷まで発表する。フォロワーが何千万もいるそうだ)「とてもバカバカしい。落ち着けグレタ。落ち着けっ」とやゆし、「怒りの制御に取り組んで友だちと古き良き映画を見に行った方がいい」とも書き込んだ。

 これを受けてグレタさんは「今は落ち着いて友だちと古き良き映画を見ています」とツイッターに書き込んだそうだ。どちらが大人なのか。

 金儲け一本でやってきて、アメリカ・ファースト、グレート・アゲイン一本鎗でやってきた米大統領は、ほんとうは無視したかったのだろうが、世界中のとくに若い人たちに火がついてしまったので放っておくわけにもいかず、つい「映画でも」とツイートしてしまったのだろう。

 もう一人、温暖化の旗振り役ブラジルのボルソナロ大統領は「グレタだっけ、先住民がアマゾンを守っていたから殺されたとか言っていたな。あんなガキにマスコミがスペースを割くなんて驚きだ」とまくしたてたそうだ。ガキはポルトガル語で「ピラリア」といい、グレタさんは「私はピラリアです」と返事した。若いからこそ温暖化をくいとめなければ、私たちの未来はないというのだ。

 アマゾンの熱帯雨林は酸素を作り出すが、ブラジルは開発して農地にしたり、工場を作りたい。温室効果ガスの大量発生はまぬがれず気温上昇は惨憺たるものになる。アマゾンの大規模な山火事は、政府側が火をつけたとの報道もあるが、とんでもないことだ。山林火災はアメリカでも西海岸でひどく、カリフォルニアでは高級住宅地も脅かす。昨年はオーストラリアで大規模な森林火災によりユーカリの森も焼け、コアラが犠牲になった。フランスは最高気温47,1度。日本でも41,1度の、観測史上最高温度を記録した。

 もっとも世界の人口は、18世紀には10憶人にも満たなかったのが、2世紀の間に70憶人に達した。人間がこれだけ増えると温室効果ガスも当然増える。人間が増えたのは、産業革命以来、経済が成長し、暮らし向きが良くなったからだろう。

 日本は、昨年は観測史上一番高温だったそうだ。それでも私は夏も冬もエアコンつけっ放し。日本国がCOP25で二回目の「化石賞」をもらったからと言って文句をつける資格はない。

(堤  哲)

2020年1月10日

写真家・荒牧万佐行さんは「野鳥を撮ります!」

 写真部OBの写真家荒牧万佐行さん(78歳)からの年賀状に、上の3枚の写真が入っていた。

 近くの和田堀公園で撮ったカワスミとカイツブリの親子、それに北海道知床でのオオワシ。いずれもエサをくわえている。相当粘らないとモノにできない作品である。 

 「野鳥のカメラマンとして第2のスタートです」と、荒牧さん。「100枚とか作品がまとまったら写真展を開きたいと思います」

 荒牧さんは、日大芸術学部写真学科卒。建築写真家で、日本写真家協会会長を長く務めた渡辺義雄日大教授(2000年没、93歳)に師事。1967年中国文化大革命で天安門広場などの現場を撮影した。また鎌倉の円覚寺に通って、舎利殿や禅僧を撮影、写真集を出版している。

(堤  哲)

2020年1月10日

元選挙・世論センター副部長、濱田重幸さんが『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』(仮題)を執筆中です

 「終戦直後 学習院長の日記 『人間宣言』関与 山梨勝之進」。1月6日付け毎日新聞一面に掲載された特ダネ記事=写真=を読んでいて、「山梨の足跡を執筆中の濱田重幸・元毎日新聞記者(71)が入手して調査した」とのくだりに気づいた。岐阜支局次長、社長室MAP商品改革本部委員などを歴任、日本陶芸展運営委員も務めた濱田さんの顔が浮かび、記事の筆者の一人、岸俊光さんを通じて連絡をとったら、近況が届いた。

 「現在、極度の腰痛(新聞社時代の過労が原因です)による冷え性に悩まされています。両足の先端に血流が回らず、真夏でも湯たんぽを手放せません。気温が激しく上下する日は終日寝込むことは珍しくありません。外出する際は転倒防止のため杖を突き、リュックに湯たんぽを忍ばせています。さらに認知症の義母を施設から自宅に引き取って介護をしています。老老介護です。介護をする妻の補助のため洗濯や食器洗いを受け持っています。このため、パソコンに向かう時間が十分に取れないのが悩みです。また、2時間以上座ったまま仕事をしていると、腰が痛み出します」

 「執筆中のタイトルは『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』(仮題)です。敗戦直後、存続の瀬戸際に立たされた皇室を誰がどのようにして護ったのかを解き明かすのが狙いです。稀にみる戦略家である山梨勝之進さんが明治末から戦後にかけて数々の仕事をした足跡を実話でたどる話でもあります。研究者は誰も気付いてはいません。山梨さんは司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』の主人公のひとり秋山真之提督の愛弟子です。『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』は『坂の上の雲』の続編に当たると自負しています。文献の裏付けがある話だけを集めました。

 よほど歴史に詳しい人でないと山梨さんの名前を聞いてもピンときません。ご本人も自己宣伝はゼロに近い人で、数々の功績も当時の上司がした、と功を譲るタイプの人です。人間宣言も同様で、当時の宮内大臣がしたと語っています。取材を受けても、ご自分の活躍シーンは上手にそらしてしまいます。

 『山梨日記』に記されていた儒学者佐藤一斎の「須要有事天之心」「不要有示人之念」の漢詩(「物事はどんなことをする場合でも、すべて(天)に仕えるような気持ちで行うことである。他人の目を意識してはならない」)の内容から見て山梨さんは「天が知っていればよい」と考えていたとみています。

 例えば、山梨さんは、海軍の父といわれる山本権兵衛の副官を務め、山本権兵衛内閣の組閣時に事実上の〝総理秘書官〟として活動しました。しかし、そのことを全然PRしていません。大正政変時の話です。海軍関係者も知りません。海軍士官として初めて体験する組閣時の話を誰にも話していないのです。山梨さんが取材を受けたある本に「政友会本部に行った」と1行だけ記されていました。インタビューした記者もそのことの重要性に気付かず、別の話題に移っています。この記述で、濱田は初めて山梨さんが政治活動をしていたのでは、と気付きました。吉田首相の岳父、戦前の重臣牧野伸顕は、山本内閣の組閣時、山本の相談役だったことがその日記から分かります。原敬と山本、牧野らがどんな駆け引きをしたのか。立ち会っている山梨さんが語らない限り、永遠に分かりません。『原敬日記』の記述はあまりありません。

 本紙に記された小泉信三さんと山梨さんとの交流については親族の誰も知りませんでした。濱田の調べでは、山梨さんは小泉さんが19歳のとき、慶応義塾大学のときに知り合いました。小泉さんが出場するテニスの試合を新婚の山梨さん夫婦が観戦に行って以来の交際でした。このことのウラを取るのに数年掛かりました。『小泉信三全集』全巻に目を通してもヒントはありませんでした。

 山梨さん夫婦はなぜテニスの試合を見に行ったのか。カギは山梨夫人でした。夫人の実父が小泉さんの父親と明治初年以来、交際があり、大蔵省では上司と部下という関係を文献で突き止めました。はかま姿でテニスのラケットを手にする娘時代の夫人の写真を『1億人の昭和史』の中から見つけました。新婚の山梨さん夫婦もテニスをしていたのです。

 山梨さんの息子が結婚した際の媒酌人は、小泉さんの義兄松本丞治さん(商工大臣、本紙がスクープした憲法草案・松本試案の作成者)でした。47年4月に小泉さんが東宮御教育参与に選任されたのは、山梨さんが推薦したからです。山梨さんは公職追放される自分の後継者として小泉さんを推したことになります。このことを研究者は誰も指摘せず、小泉信三全集にも記されていません。

 日本国憲法成立に山梨さんが関与したとする研究者がいますが、濱田の調べでは裏付けが取れませんでした。状況証拠を集めると、相当疑わしい点がありますが、歴史の闇の中に消えたままになりそうです。

 『山梨日記』に記されていたGHQ渉外局長ベーカー准将と同民間情報教育局長ダイクの2人は意外な場面に登場します。2人とも日本側の憲法制定作業の模様を情報収集しているフシがあるのです。

 衆議院議員植原悦二郎は今では忘れられた存在ですが、明治43年、英国ロンドン大学大学院のとき、Political Development of Japan(日本の政治的発展)を発表しました。明治以降の日本政治史をつづった書ですが、この中で植原は「天皇はシンボルである」と説明しています。この書は西欧の日本研究者にとって基本文献になっています。

 敗戦直後の45年秋ごろ、ベーカー准将は植原に会っています。ダイクは植原と鈴木安蔵(憲法学者、「憲法調査会」の一員)、宮沢俊義ら憲法学者を銀座の料亭に招待して憲法改正の動向を探っています。植原はこのとき、Political Development of Japanをダイクに見せて「天皇はシンボル」と説明したことを自著で明らかにしています。また、首相官邸で開かれた「憲法調査会総会」に参考人として招かれた際、同じことを陳述しています。占領最初期のGHQの幹部の中で一番の切れ者のダイクが、この話をマッカーサーにしたのかどうか、文献がなく分かりません。日本国憲法第1条の「象徴」の言葉は日本人の発案なのかどうか、研究する人も少ないです。

 民俗学の柳田國男さんと山梨さんが親友だったと言うと、皆首をかしげるでしょう。21歳、海軍少尉候補生の山梨さんは、23歳の東京帝国大学法科大学生柳田さんと知り合いました。柳田さんの実弟が山梨さんの海軍兵学校の同期だったのです。柳田さんのおいの挙式の際、山梨さんが媒酌人を務めています。

 「人間宣言」草案作成の事前準備として、神道に詳しくない山梨さんは、柳田さんのアドバイスを受けたのでは、と仮説を立てて調べてみました。用意周到な山梨さんは、先を読んだ行動をするからです。濱田の推論は、今後発表する論文をお読み下さい。

 柳田さんが、神道と日本人の信仰の問題を深く考え始めたのは戦争末期とみられています。戦争の終結前から柳田さんは、なぜ神道に関する研究に拍車をかけたのか。戦争末期、70歳を超えた柳田さんがなぜ「いよいよ働かねばならぬ」と奮い立ったのか。敗戦直後、なぜ寝食を忘れて憑かれたように執筆活動をしたのか。なぜ柳田さんは敗戦を予期したのか。柳田さんの研究者からは、これまで合理的な説明はなされていませんでした。

 柳田さんの『炭焼日記』を分析すると、柳田さんは山梨さんに会って「戦争に負ける」と告げられてから、神道研究に邁進したとみられます。柳田さんなりに日本の再建をしようとしたのでしょう。濱田の推論です。

 山梨さんが経済に詳しい、ということを裏付ける話があります。27(昭和2)年の金融恐慌の最中、経営危機の川崎造船所(現川崎重工業)を当時、海軍艦政本部長だった山梨さんが救済しました。閣議でいったん救済を決めながら、後日見捨てた川崎造船所を一時的に海軍の〝直営工場〟とすることで倒産から救いました。同造船所に海軍の「臨時艦船建造部」を設置したのです。同造船所は、倒産せず、従業員の解雇数は少なくなり、軍艦はそのまま建造されことになりました。川崎造船所と川崎重工業の社史には、詳しい話は収録されていません。

 田中義一内閣が救済を放棄した話を柔軟な発想をした山梨さんが救ったことになります。川崎造船所が仮に倒産したら、大騒動が起きるところでした。神戸市にある川崎造船所の従業員、その家族、出入りの下請け業者、商人などを含めると、同造船所に関係する人々は約20万人に上り、当時の神戸市人口の3分の1を占めていました。

 山梨さんは当時の海軍大臣が決めたと、川崎造船所救済の功を譲っています。「人間宣言」とときと同じです。戦後、山梨さんは「臨時艦船建造部」は米国の例をヒントにし、「一石三鳥」だったと発言しています。川崎造船所が持つ潜水艦の製造技術を護る目的もありました。山梨さんの三回忌で、川崎造船所に派遣された機関出身の少将が、山梨さんの〝仕事〟と証言しています。山梨さんが第一次世界大戦時の米国経済に詳しかったことを裏付ける話でもあります。

 米国がドイツに宣戦布告したとき、総力戦態勢を取りました。造船会社などを国有化して国の資金を大量に投入したのです。まるで社会主義のようなやり方でした。日本の軍部が航空機製造会社を国有化したのは、戦争末期の45年でした。日本は米国のやり方を全然研究していなかったことになります。残念ながら現在でもこのことを研究する人は少ないです。

 海軍の「臨時艦船建造部」は、同様に倒産寸前の大阪市の藤永田(ふじながた)造船所(戦後、三井造船に吸収合併)にも設置されました。駆逐艦の「藤永田」といわれていました。作家谷崎潤一郎の夫人松子は、藤永田造船所の創業者一族です。谷崎の小説『細雪』のモデルとなっています。同造船所建造第一号の駆逐艦の進水式で、娘時代の松子がハンマーで薬玉を割ったことを自著で明らかにしています。

 〝軍人外交官〟としての山梨さんの洞察力を示す言葉が残っています。山梨さんは米国の国民性について「矛盾が多い大国(中略)。国民の性格が矛盾しているのです。非常にきれいな品の良いところがあると思うと、ごろつきみたいなところが同時にある」「神様みたいなことを言うかと思うと、野次馬で、非常にごろつきみたいなところが一方にある。両方見ないといけない」(『歴史と名将』)とズバリと記す。禁酒法時代の米国の話です。

 米国民は神様なのか。ごろつきなのか。昨今の米国政治の現状をまるで予見したかのような指摘です。上記のことを山梨さんは海上自衛隊のエリート将校に説明していたのです。

 さらに中国について山梨さんは「アメリカは日本を相手にせずに支那をかわいがり、支那もまた非常に日本を排斥してアメリカをひいきにし、アメリカは支那にうんと金をつぎこんだ」「ところが、今日のアメリカの最大の敵は支那であり、支那の最大の敵はアメリカである。(中略)これほどの失策というものはない」(『山梨勝之進先生遺芳録』)と19世紀末以来の米国の中国重視外交の失敗の歴史を分析。「支那人は口達者である」「世界の名人である」「(プロパガンダは)支那人というのは、世界一であって、これにかなうものはない」と中国との外交交渉の難しさを説明しています。現代の米国と中国の有り様をこれまた予言しているようです。

 最後に「人間宣言」について、『学習院百年史 第3編』に収録された山梨さん自身の言葉を紹介します。敗戦直後の皇室の危機的な状況について、山梨さんは55年9月の学習院中等科回顧座談会でこう語っています。

 『私の頭に皇室は大丈夫だな、従って陛下の御身分も皇太子様も大丈夫というような見当が髣髴(ほうふつ)として決まりかけるような気持になるまでは、何がどうなるか判らない。御勅語のあたりからそういう空気になってきて、やっと落ち着いた気分になったのです」

 山梨さん流の言い方ですが、「私の頭に」「御勅語」(濱田注:人間宣言のことを指す)という言葉からみて、事実上の関与を認めたのではないか。「皇太子様も大丈夫」の言葉は何を指すのか。人間宣言が皇太子の境遇にどう関係したのかは、46年から座談会があった55年の間、誰も気付いてはいません。45年末当時、皇太子の米国留学は、米国の人質になるのと同じでした。

 山梨さんの足跡を追う作業は、上記のようなことの繰り返しです。数十冊の文献を読んでも収穫があるのは数冊です。砂山の中から金の粒を見つけるようなことを繰り返しています。10年近く調査していますが、分からないことだらけです」。

 腰痛と介護の苦労を乗り越え、著書の刊行が待たれます。

(高尾 義彦)

 

 【山梨勝之進学習院院長・海軍大将の経歴・人柄】
=文献の裏付けに基づく濱田さんの調査結果です

 仙台市の士族の生まれ。同志社の分校・東華学校で米国人宣教師から英語を習う。人力車夫などをしながら海軍兵学校を受験する。1900(明治33)年、軍艦「三笠」回航委員に就任し、1年7月間、英国に滞在する。夏目漱石の訪英時と重なる。日露戦争に従軍し、08(41)年~13(大正2)年の間、海軍省副官兼海軍大臣秘書官と山本権兵衛付属副官を計4年間務める。13年の山本権兵衛内閣組閣時、事実上の〝総理秘書官〟として活動する。第一次世界大戦では、14年、インド洋の英国のシーレーンを独艦の攻撃から護るため英軍司令部に連絡将校として派遣され、「日英海軍の活ける鉄鎖」と報じられた。秋山真之提督の愛弟子で、16年、秋山と共に欧州戦線と米国を7カ月にわたって視察した。

 21(大正10)年のワシントン海軍軍縮会議では各国軍人らと水面下で交渉した。「軍人にとってこの軍縮は弾丸をうたない戦争」との言葉を残す。海軍次官時、暗殺の危険にさらされながら、30(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議を取りまとめ、「軍政家」といわれた。同会議問題を巡って統帥権干犯問題が起きた。英国から贈られた、サーの称号が付くKBE勲章を所持する。連合艦隊司令長官山本五十六と首相・海相の米内光政は山梨に兄事した。33年、強硬派の圧力で海軍を追われたが、第二次世界大戦中、学習院院長(39~46年)として明仁皇太子と義宮を護り抜いた。

 戦後、昭和天皇の地方巡幸の準備に関わり、GHQの圧力で廃止の瀬戸際の学習院を存続させた。学習院編『学習院の百年』は「(山梨の)先見の明と透徹した判断に負う」と評している。公職追放の対象となり、学習院院長退任直後、天皇の命で東宮御教育参与に就任する。海上自衛隊創設に裏面で活動し、軍人恩給復活、「記念艦三笠」の復元などに関与した。52(昭和27)年、天皇と吉田茂首相の依頼で、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯らを慰撫する。56(31)年、天皇の義母、香淳皇后の母親の葬儀の際に葬儀委員長を務めた。64(39)年、常陸宮夫妻が挙式した際、山梨夫妻が皇室の儀式、「三箇夜の餅(みかよのもち)の儀」に加わる。吉田茂元首相に続いて66(41)年、宮中杖(鳩杖)を贈られた。

 舎監となった宮城県の学生寮「五城寮」(舎監は51~58年)は、「最後の松下村塾」と評する人もいる。山梨が英米の詩人、古今東西の名将、政治家の講話をするほか、吉田茂首相ら政財学界人が山梨の依頼で時々講演に訪れた。創設期の海上自衛隊幹部学校で89歳までの11年間、各国の戦史などの講話を続けた。海上自衛隊エリートたちの精神的な指導者だった。胸像が同幹部学校、水交会、記念鑑「三笠」に残る。

 大正時代以降、山梨さんに接触した人々の山梨評の一部を紹介する。「ウラを喝破」「人間洞察力」「柔軟な思考」「機を見るに敏」「抜け目がない」「政治家」「綿密周到」「深謀遠慮」「数理的頭脳」「智嚢(ちのう)」「記憶力抜群」「先見の明」…。海上自衛隊の歴代トップも同じ感想をもらす。明治以降の陸海軍軍人の伝記・評伝の中で、「ウラを喝破する」というような表現をされる将軍・提督はいない。従来の山梨評と異なる「ウラを喝破」と「抜け目がない」は長谷川清海軍大将が山梨の三回忌で語った評である。

 戦後は終始狭い家に住み、清貧な生活を続けた。小柄で温和な外貌のため海軍提督時代、「商事会社の番頭さんみたいに、ものやはらか」と評された。威圧するように肩を張り、猛々しい軍人のイメージとは正反対の人だった。威張り散らすこともなかった。他人の悪口・批評も絶対に言わないのだ。学習院院長時代は、門衛や小使いと間違われた。寮の舎監時代は植木屋と勘違いされた。脳いっ血で入院中の山梨に昭和天皇と皇后は果物を、美智子さまは自ら摘んだチューリップを、常陸宮はスッポンのスープを贈った。亡くなったとき、6畳と4畳半の二間の自宅に安置された柩の周囲は昭和天皇と皇族からの生花で埋まった。葬儀には常陸宮夫妻が弔問した。

2019年11月13日

19年間で9冊の著作、今吉賢一郎さんの執念

 飛田八郎さんから最近刊『異界九夜』(藍書房刊、2200円+税)が送られて来た。

 内容を紹介するペーパーに、こうあった。

  戦に命 奪われて
  闇を漂う 私らは
  地上に生きる 人々に
  いまはっきりと 申したい

  

  地上に執着 なさりませ
  地上の命 大事にし
  無駄に失い 給うなよ
  一回限りの ものだから

  もしも戦を 無くすなら
  地上に勝る 楽土など
  どこにも無いと 思われよ
  命きらめく 至上界

 巻末に飛田八郎著作目録がある。

『カッパが見える日』短編集2000年10月
『少年の四季』2001年12月
『自然歩道で 』上・下巻 2003年5月
『隅田川』2005年10月
『黒いプカプカ』2007年2月
『影絵―続・隅田川』2010年1月
『三百六十六日の自然』2012年7月

 2000年から19年間で9冊著している。大変な書き手である。

 飛田八郎は誰か、と謎めかして書こうとしたら、牧内節男さんが自身発行のインターネット上の「銀座一丁目新聞」ブログ「銀座展望台」に《毎日新聞時代の友人今吉賢一郎君から『異界九夜』(ペンネーム飛田八郎。出版社藍書房)が送られてきた》(10月15日)と書いている。

 今吉賢一郎、ことし82歳。

 残念ながら一緒に仕事をしたことはない。東大文学部卒、61年入社。社会部、サンデー毎日編集部、毎日グラフ・サンデー毎日各編集長、編集委員。

 毎日新聞4万号(1987(昭和62)年8月30日)をきっかけにした連載記事が『毎日新聞の源流』—江戸から明治 情報革命を読む―という単行本になっている(毎日新聞社1988年刊)。

 毎日新聞の源流「東京日日新聞」は1872(明治5)年2月21日(旧暦)に創刊するが、「出板願」を当時の大蔵省に提出したのは戯作者粂野伝平(1832~1902)、貸本屋の番頭西田伝助(1838~1910)、浮世絵師落合幾次郎(1833~1904)の3人。1,2か月後に出版人の広岡幸助(1829~1918)が加わった、とある。

 「この4人が250円ずつ出し、千円で始まった」と、広岡の証言を紹介している。

 とにかくよく調べていて、人物も当時の世相もやたらと詳しい。

 2022年、毎日新聞は創刊150年を迎える。それに向けての準備は始まっていると思われるが、担当者は、まずこの本を読んでもらいたい。

 今吉さんの父親顕一さんも毎日新聞の記者だった。大阪本社の地方部長から応召、1944(昭和19)年7月9日、中国戦線で米軍の空襲を受けて戦死した。享年42。

 社報に追悼文が載っているが「軟派ものを書かせては当時東京社会部随一といはれた」とある。親子2代のナンパの書き手だった。 父親のことは『黒いプカプカ』に詳しいが、《父は空襲の際患者の退避が終わってから最後に経理室に駆け戻り、重要書類と金庫とを運び出そうとした。そのとき直撃弾を受けた。病院への投下爆弾は37に及んだという。父の身体は粉々になり、瞬時に異郷の土と化したはずである》。

 今吉さんは父親の戦死の模様をニューヨークタイムスにあたる。1944年7月10日付紙面に「重慶9日発AP」は「米空軍は作戦上の重要基地を攻撃した」とあり、翌11日付には「重慶発10日発UP」で「米空軍の爆撃機、戦闘機は衡陽北方で洞庭湖南東岸にある新市の日本軍補給基地を攻撃し、輸送車、燃料、弾薬を爆破炎上させた」。

 ペンネーム飛田八郎について、ある先輩記者はこう解説してくれた。「トンダヤロウと読める。数え8歳、国民学校1年生の時、父親が戦死した。新刊書の帯にある『どうか地上から戦争が無くなるように』は今吉さんの心からの願いだ」

(堤  哲)

2019年8月14日

戦艦武蔵の生き残り塚田義明さんの、もうひとつの闘い

 ことしもまたNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」が再放送された。「戦艦武蔵」の生き残り、社会部の先輩で、皇室ジャーナリスト塚田義明さん(現92歳)が映し出された。

 塚田さんは、1942(昭和17)年、中学2年のとき、第1期海軍練習兵(特別年少兵)を志願。砲術学校を卒業して、「武蔵」の乗組員となった。16歳だった。

 全長263メートル、最大幅38・9メートル。排水量6万4千トンの「不沈艦」は、1944(昭和19)年10月24日のレイテ沖海戦で米軍機の爆撃・魚雷を受け、沈没する。

 「乗組員2399人のうち生還者は430人。沈没時に救助された乗組員(1千人以上)の多くが陸上戦に動員され玉砕した」

 塚田さんは、著書『戦艦武蔵の最後:海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』(1994年光人社刊)で、その悲劇を克明につづり、文庫本にもなっているが、吉田裕著『日本軍兵士』(中公新書)は、この著作から「水虫との戦い」の部分を引用している。

 《戦後、色々な水虫治療薬が出て、そのつど試してみたが、かえって炎症を起こし、真っ赤に腫れあがって、歩くことができないほど、ひどい目にあったこともあった。わが水虫のしつこさにはうんざりだったが、昭和が平成に改まり、やっと私にあった治療薬に巡り会い、二年越しの根気ある治療が実って、やっと退治したのだった。じつに、半世紀に及ぶ水虫とつきあってきたわけで、オーバ-な言い方をすれば、これで私の戦後は終わった。それが実感であった》

 塚田さん、いつまでもご長命で、戦争の悲劇を語り続けてください!

(堤  哲)

2019年5月24日

椎名裁定で活躍した元政治部・池浦泰宏さん

 日本記者クラブ会報2019年5月号の「マイBOOK マイPR」欄に、元政治部の池浦泰宏さんの名前を見つけた。

 一般社団法人日本外交協会の理事長として、同協会が発行した波多野澄雄『日本外交の150年』(4104円)の案内をしている。その紹介文――。

 2019年は外務省設置150年。令和改元の年でもある。その節目の年に「日本外交の初の通史を残そう」と旧知の波多野澄雄・国立公文書館アジア歴史資料センター長に執筆を依頼し、A4判380㌻の本ができた。幕末から平成まで、国益と内外情勢のはざまで苦闘した外交指導者たちの行動の軌跡をたどり、その功罪を問い直した。フルカラーで年表、索引も充実、高校生以上なら無理せず読める本に仕上がったと思う。ぜひ書店でご覧ください。

池浦泰宏氏

 池浦さんは1936(昭和11)年北九州市生まれ。ことし83歳。60年早大卒、毎日新聞入社。静岡支局→政治部。川島(正次郎)派の番記者。椎名悦三郎(官房長官・外務大臣・自民党副総裁などを歴任)に食い込んでいた。田中角栄首相の後継を三木武夫と決めた「椎名裁定」にもかかわった。「椎名悦三郎秘録」15回を『サンデー毎日』1979年1月4日号~80年2月17日号まで連載している。

 政治部副部長で退職、日本外交協会の理事長をつとめる。

 表参道のスナックで何回か一緒になったが、ゴルフが上手で、日本記者クラブのゴルフ会の幹事をつとめていた。

(堤  哲)

2019年2月28日

磯貝喜兵衛

 1月31日のFacebookに次のようなコメントと写真を入れました。

<馬齢を重ねて「卆寿」を迎えました。おおぜいの皆さんのご祝辞に感謝し、「独立自尊」「独立自活」に努めたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。(写真 ㊧ゼロ歳、㊨90歳)

 Facebookでつながっている「友達」約200人の中から、天野勝文、前坂俊之両君がこれを見て過日、日本記者クラブでの昼食会にお招き頂き、久しぶりに歓談できましたことは何よりの幸せで、『元気で〜す』への寄稿もすすめて頂きました。

 毎日映画社をリタイアしてから早くも25年。このうち20年間は慶応のメディア・コミュニケーション研究所(旧新聞研究所)の後輩たちを相手に「マスコミ塾」を続けていましたが、家内が4年間のがんとの闘病で亡くなったためクローズ。以後は男声合唱と、横浜日独協会での活動をしながら、”独身生活”を続けています。

 横浜日独協会では、横浜市が姉妹提携をしているフランクフルト市へ高校生代表を派遣するための「作文コンテスト」を担当し、向こうから派遣されて来るドイツ人高校生のホームステイも引き受けています。

 男声合唱は地元の60人近いメンバーが30数年前から続けているもので、こちらもドイツ・ベルリンの男声合唱団と提携して、交互に訪問して合同演奏会を催したりしています。10年ほど前からは、その中のシニアだけで12人ほどのコーラスグループ(銀獅子クラブ)をつくり、定期的に神奈川県三浦市の老人向けケアー付きマンションのロビー・コンサートに出演したりして、音楽を通じての交流の輪を広げています。

 私のささやかな健康法は「音楽」プラス「入浴」で、『風呂は百薬の長』をかたく信じています。そして、楽しみは2020年の東京五輪を観ること。2013年9月に二度目の日本開催が決まったとき、近藤健君と夕刊特集ワイドで<OB対談>をしました。対談の最後に私が『開会式の毎日新聞夕刊1面には「世界は一つ」の見出しが踊っている。いつの間にか五輪精神が消え、商業主義が台頭してしまった。戦争もなくならない。もう年だけど、お祭り喜兵衛、また東京五輪の取材がしたいね。』と話したら、近藤君が『え? 磯貝さん、2020年には90歳を超えてますよ』と笑ったところで終わっていました。私より若い、その近藤君が先年、亡くなったのが何より残念です。心から御冥福をお祈りいたします。

2019年2月24日

日本記者クラブの囲碁大会で優勝の牧野賢治さん

日本記者クラブ会報2019年1月10日号

 以上が「日本記者クラブ会報」第587号にある記事。

 牧野さんは、1934(昭和9)年1月生まれだから、85歳である。

 大阪社会部から東京社会部に異動して科学記者として活躍。定年退職後は東京理科大学の理学部教授を務めた。

(堤  哲)

2019年2月1日

お得意のロシア語を披露した89歳の萩原康則さん

「東日、進化中です」

 元日付けの毎日新聞に東日印刷の全面広告が掲載されたが、1月25日(金)に開かれた旧友会の新年会に出席したOBたちも、その進化ぶりにびっくりしていた。

 新年会が開かれた4階社員食堂は「スカイビューレストラン」と名前を変え、外部の人にも開放した。超高層ビル群が借景になって、ランチの値段もリーゾナブル。「結構流行っているんですよ」と総務部長さん。

 ローケーション事業が結構な収入になっている。東日ビルがテレビドラマやコマーシャルの撮影に利用されているのだ。新年会では放映された画面を大型スクリーンで流したが、「エッこれがこのビルで?!」。5階の事務室も、土日に使われている。「すでに800万円は稼ぎました」と武田芳明社長。

 昨年入社してロケ事業部で働くのが、ロシア人のミハリョーワ・マリアさん(26)。旧友会出席者で最長老の萩原康則さん(89歳)は、ロシア語で話しかけ「正しいロシア語です」とマリアさんに褒められて相好を崩した。

 萩原さんは海兵出身。戦後神戸外語大学に入学、「今さら英語なんて」で、ロシア語を第一外国語で履修した。

マリアさんと。左は岩崎鴻一さん

(堤  哲)

2019年1月18日

従軍記者ら90人が死亡した事実の検証
64年入社中安宏規さん発行の「濁水かわら版」

 中安宏規さん(78)がユニークな情報紙をつくっている。創刊は2017年5月で、これまで74号を発刊しているから、1カ月に3回発行していることになる。

 「濁水かわら版」。「荘子」山木篇の「濁水を見て清淵を知る」からという。

 不定期発刊で、1号A4判3枚程度。PDFをメール添付で送信している。無料。

 「ボケ防止を兼ねて」と謙虚だが、最新の74号は、「日本の戦争22 支那事変シリーズ」。戦争の連載を22回も続けているということだ。

 73号に従軍記者が何人死亡したか、自ら各社別に集計している。

 ①毎日新聞     66人
 ②同盟通信(現共同)56人
 ③朝日新聞     47人
 ④読売新聞     41人
 ⑤NHK      37人

などとなっている。

 毎日新聞社は、1952(昭和27)年に『東西南北―毎日新聞社殉職社員追憶記―』(毎日新聞社終戦処理委員会編、非売品)を発行しているが、占領地の現地で新聞発行にあたった社員を含め、毎日新聞関係の死者は90近くにのぼる、と記してある。

 『東西南北』の表紙が載っている「濁水かわら版」第73号と、70号をこのページにアップします。

(堤  哲)

2018年12月3日

プロ野球のリプレー検証は、審判への冒涜である――諸岡達一

 毎日新聞社の編集委員室発祥の「野球文化學會」。その第2回研究大会が12月1日(土)午前10時半から東京新宿区の法政大学市ヶ谷キャンパス田町校舎(T 511教室)で開かれた。

 テーマは「野球と審判-その不可欠な存在と将来像-」。

 その目的は「野球文化の中核の一つともいうべき審判(アンパイア)及びその判定の在り方を取り上げ、 野球文化の更なる発展を企図すること」。

 基調講演は、元プロ野球審判員 で現在NPB(日本野球機構)審判技術員の 山崎夏生さん(63歳)。2010年、55歳定年で引退したが、1984年の初ジャッジから試合出場数は1451。自慢?は、ロッテ監督の金田正一をはじめ「退場!」を言い渡したのが17回。日本最多である。

 『プロ野球審判ジャッジの舞台裏』(北海道新聞社 2012年刊)の著書もある。

 「プレーボール」と高らかに宣言して始まった講演は、大変興味深かった。北海道大学文学部国文科を卒業して、日刊スポーツ新聞社に就職した。大学では野球部で投手をしていたが、ケガで4年生のシーズンを棒に振ったという。プロ野球の審判という職業を知って、2年余で新聞社を退社。なんとかパ・リーグと審判契約を結んだ。年俸は160万円だった。

 ことしから始まったリクエスト制度。今シーズン計858試合で、リクエストの要求でビデオ判定したのが494回。その結果、判定が覆ったのは162回、32.8%だった。

 一番の問題は、審判のジャッジが「仮判定」になってしまったことだ。野球規則には、打球がフェアかファウルか、投球がストライクかボールか、走者がアウトかセーフかの裁定は「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」と決められていた。従ってプレーヤーや監督も「その裁定に対して、異議を唱えることは許されない」とあった。

 リクエスト制度に痛烈な批判をして、予定の50分の最後に「退場!」と叫んで、講演を終えた。

 パネルディスカッションでは、東京プロ野球記者OBクラブ会長の菅谷齋さん(共同通信編集委員)が「長嶋ボール」「王ボール」「稲尾ストライク」があったことを証言。ビデオ判定・AI(人口頭脳)が将来「審判は不要なプロ野球」への道を進んでいる、と断言した。

 野球文化學會の鈴村祐輔会長(法政大学客員学術研究員)は、米大リーグのビデオ判定、チャレンジ制度について現状を話したが、2018年シーズン、チャレンジは1442件あって、そのうち判定が覆ったのは698件、48.4%だったこと、審判が判定を誤る割合は全体の14.4%とも明らかにされた。

 鈴村さんは、最後に「最新のIT技術を活用し、審判の判定を補正することも重要である」とまとめた。

 フロアーからトップバッターで発言したのが、この学会生みの親の諸岡達一さん(82歳)。元毎日新聞整理本部のカリスマ、レジェンドであることはご存知ですよね。

 マイク不要のでかい声で曰く「野球の審判の判断がゼッタイであって、ビデオ判定導入には断固反対です。審判が<アウト>と言えば、どんな場面であっても<アウト>なのです。たとへ誤審があったとしても誤審こそ“野球のうち”なのです。ルールブックにない試合中の全ての出来事に対して審判は絶対的権能を持っています。原本は<Each umpire has authority……>。リクエストだかチャレンジだか知りませんがあんな馬鹿げたことで試合が中断するなんぞはもってのほか、審判の権威が損なわれ、堕落のはじまりです!」。

 野球のドラマは、誤審とともにあったともいえる。「オレがルールブックだ」は二出川延明主審。「あー円城寺 あれがボールか 秋の空」といったザレ歌も生まれた。リクエストが当たり前になって、今シーズン「退場!」はたった3人。それも選手ばかりで、監督は1人もいなかった。

 監督の抗議と「退場!」と叫ぶ主審。あのドラマは、もう見られない。

 いつまでも野球を愛し、元気いっぱいの諸さんであった。

(堤  哲)

2018年9月18日

「銀座一丁目新聞」牧内節男さん

 8月31日に93歳の誕生日を迎えた牧内節男さん。

 17日の敬老の日にブログでこう発信した。

   100歳以上の人6万9785人。
   うち男性8331人、女性6万1454人。
   女性の方がはるかに長生きだ。
   「生涯ジャーナリスト」を目指す私はまだ93歳。あと7年もある。
   一応目標にして健康に注意していこう。

 陸士59期。卒業寸前、敗戦で全てがご破算になった。食うために昭和21年1月から新聞記者の道に入った(1年半地方記者、あとは全国紙)――。(東京本社編集局長・常務取締役西部本社代表・スポニチ社長などを務めた。)

 9月20日の銀座一丁目新聞には、新聞記者生活を振り返って、以下のように書いている。

 愛知県岡崎の地方紙時代、逮捕前の殺人容疑者と単独インタービューする貴重な経験をした(昭和22年夏)。当時つけられたあだ名は「青柿君」。文章のカタさからつけられたもの。

 白山丸でモンテルパノ戦犯たちが帰国した取材では横浜港外に停泊した白山丸に舷首に備えられた取っ手を伝って軽業師のように乗船する苦労をした(昭和28年7月)。帰国者の中に「モンテンルパの夜は更けて」を作曲した57期の伊藤正康さんがいた。

 台風で孤立した村へ濁流をくぐって渡る取材もした(昭和29年秋)。

 「退く戦術 われ知らず 見よや歩兵の操典を」(歩兵の歌)。ともかく突っ走った。その苦労は本科時代一週間連続での夜間演習に比べれば大したものではなかった。

 警視庁記者クラブ在籍時代。「麻雀」「花札」「競馬」「碁」などを覚えた。何人かのキャリアの課長(その後警察庁長官や宮内庁をやった人たちである)と雑談するうち読書の大切さを教えられた。時の警視庁総監からは「人毛嫌いしすぎる、人の短所をみす、長所を見てつきあいなさい」と忠告された。

 上司にも恵まれた。連載企画を任され企画立案のノウハウを自然と覚えた。この部長は当時「伍長」というあだ名があった。

 新聞記者は事件に育てられるといわれる。戦後の多くの事件を手がけた。下山事件、造船疑獄、日通事件、田中章治事件、ロッキード事件などである。

 戦術では「決心攻撃、矢(攻撃の重点)は左」と教わった。どこに取材の重点を置くかを考えた。『作戦要務令』が役にたった。「軍の主とする所は戦闘なり。故に百事皆戦闘を基準とすべし」だから「寝食を忘れ家庭を顧みず」働いた。電通の「鬼の10則」を拳々服膺する所以である。

 何が働き改革だといいたくなる。「凡そ兵戦の事たる独断を要することすこぶる多し而して独断はその精神において決して服従と相反するものに非ず」おかげでデスク、部長時代についたあだ名が「独断と偏見」「ドクヘン」であった。

 昭和43年メキシコ五輪の際。社会部から誰を出すかという時、社会部長に呼ばれた。「君は独断と偏見の持ち主で協調性がない。これではメキシコへ支局長として出すのをためらう」という。

 私は言った。「それは大変な誤解です。私をメキシコに出したら名支局長になって見せます」。部長の決断でメキシコ五輪を取材した。良い経験をした。

 ロッキード事件では論説委員から50歳で社会部長になった。それまで50歳を過ぎて社会部長になった人は1人しかいなかった。それだけ激職ということだ。同期入社の編集局長の要請であった。その後の私の人生を激変させたが親友の願いに応えた。

 ロ事件では「作戦要務令」に従って取材人員の配置を取材対象ごとに柔軟にした。記事も「コラム」「企画連載」も取材も効率的に進めることができた。私は常に「作戦要務令」が言う「為さざると遅疑するとは指揮官の最も戒むべきところとする是此の両者の軍隊を危殆に陥らしむることその方法を誤るよりも更にはなはだしきものあればなり」を念頭に置いていた。

 当時「毎日新聞を見ればロッキード事件のことがよくわかる」と言われたのを誇りとする。

 全国紙からスポーツ紙に移ってから文化事業に力を入れた。

 定年後もネットで新聞を出している。

 一貫して心の底流にあるのは「義を取り名節を貴び廉恥を重んず」という士官候補生の矜持であるように思う。これは2年8ヶ月の士官学校生活で身に付いたものであろう。

 戦後、阿南惟幾大将(敗戦時陸軍大臣で自決された)が「勇怯の差は小なれど責任感の差は大なり」を座右の銘としていたことを知って仕事する上での責任感について考えさせられた。

 男は常に責任を問われる。与えられた仕事は責任を持ってやることだと気が付いた時、死が怖くなくなった。その意味では戦後忌避されている陸海軍の将帥の伝記は後世に伝えるべきものであると痛感する。

銀座一丁目新聞
http://ginnews.whoselab.com/180920/safe.htm

(堤  哲)

2018年8月10日

前和歌山市長、大橋建一さん(72歳)

 これは「大橋建一ブログ」の表紙である。本人と、選挙には欠かせない夫人の似顔絵か。

 東大文学部を卒業して1971年毎日新聞に入社。整理本部に長く、2002年、56歳で和歌山市長に就任。3期12年務めた。

 お父さんが元和歌山県知事。その関係で市長選に担ぎ出されたのだろうが、とにかく真面目で、政治家とは縁遠いタイプに見えた。

 何かの折、市長室を訪ねたことがあった。阪神タイガースのグッズに埋まっていた?という印象が残っている。

 市長時代からブログで情報発信していたが、「根っからの歌好き」。自著『百歌自典』(2012年アガサス刊)は、105曲もの歌を時代背景やエピソードを紹介したエッセイ集。

 最近の生活について《暇な日々でカラオケに月1〜2回、市内の「うたごえ喫茶」に月1回、週2回「元気開発研究所」と称する年寄り向けジムのような所で1時間ほど体を動かすのが健康法》だとか。

 8月3日のブログは「狙いうち」。

 ――高校野球、夏の甲子園が間もなく始まる。今年は記念すべき100回大会ということで、主催の朝日新聞社は例年以上に盛り上がっている。その一方で、外国のメディアには「こんな酷暑に、甲子園のようなカンカン照りの球場で高校生に野球をやらせるとは信じられない。虐待のようなものだ」と非難する声もあり、時期や甲子園開催についてネット上で論争が起きている。しかし、朝日新聞や朝日放送は何が何でも「灼熱の甲子園大会」を守ろうと必死でキャンペーンしているように見えて痛々しい。そう感じるのは私だけか。

 ブログには自身の略歴も載っていて、【趣味】スポーツ観戦、音楽(なんでも)鑑賞、読書(ミステリー)、パソコン、雑文書き、温泉めぐり、とあって、そのあと【名前の由来】。

《終戦直後の昭和21年6月22日、焼け野原となった日本に生を受けた私に、父が日本復興の願いを込めて「大きな橋を一番に建てる」という意味でつけた名前です。だから「建」には「にんべん」がついていないのです》

(堤  哲)

                                 

2018年7月18日

元毎日新聞記者の歌人松村由利子さん

 何気なくテレビをカチャカチャやっていたら、毎日新聞で一緒に仕事をした女性が現れた。歌人の松村由利子さんである。石垣島に住んでいて、原発難民?だった歌人の俵万智さんを引き寄せたといわれる。

 NHK短歌(Eテレ毎週日曜午前6時放送、 再放送・毎週火曜午後3時)の選者である。

 番組のHPで選者を紹介している。

 松村由利子(まつむら ゆりこ)1960年福岡市生まれ。「かりん」同人。馬場あき子に師事。歌集に『大女伝説』(第7回葛原妙子賞)『耳ふたひら』など。著書に『与謝野晶子』(第5回平塚らいてう賞)『31文字のなかの科学』(科学ジャーナリスト賞2010)『短歌を詠む科学者たち』など。全国紙の記者として働いた後フリーに。

 選者の抱負――。

 【晶子の多才ぶりを伝えます】

 与謝野晶子は、実に多才な歌人でした。女性が経済的に自立する大切さを説くなど、さまざまな社会評論をものにし、子どもたちのために数々の童話も書きました。でも、デビュー作である『みだれ髪』の情熱的な恋の歌しか知らない人も多いのではないでしょうか。ワーキングマザーの先駆けだった晶子の生き生きとしたまなざしを、彼女の歌と文章から紹介してゆこうと考えています。

 私自身、折々に彼女の言葉に勇気づけられ、隣にいる大先輩「晶子さん」のような親しみを感じてきました。皆さんにもその魅力が伝わりますように。

 番組でも晶子の作品をクイズ風に紹介した。
 〇〇〇〇には何が入ると思いますか。
 ゲストの言語学者金田一秀穂さん(金田一京助の孫)は「うつくし」、司会の有森也実さんは「酔いどれ」。
 正解は「かわゆし」だった。

 番組の冒頭で紹介された彼女の短歌は――。
  フェミニズムは
  もう終わりだと
  友は笑み
  天然酵母ビール
  飲み干す

            松村由利子

(堤  哲)

元運動部・スポーツ事業部長、江成康明さん

画像
憩いの宿「夢見る森」HPから

 長野県白馬村でペンションを経営する傍ら松本大学非常勤講師もつとめている江成康明さんから、「若者のためのエナジー通信」第27号(2018年5月20日) が届いた。

♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜

 きょう、68歳の誕生日を無事に迎えることができた。
 体のどこにも異常なく、ここまで何事もなく生きてこられたのは、両親が健康に生んでくれたから、と改めて感謝した。盲腸以外に入院したことはないし、病院通いも全くない。ちょっと血圧が高いぐらいで、体調不良で生活に支障があったこともない。何より、骨太に生んでくれたことがうれしい。いろいろなスポーツをしてきたが、骨折は一度もなく、腰痛もなかった。何と幸せなのか。仏壇に線香をあげ、ひとり手を合わせた。
 そして、楽しい人生の糧となっている家族と孫のありがたさ、なんでも言い合えた仕事仲間、道で会って笑いながら会話ができる地元の人たち、祖父のような年齢の私の話を真剣に聞いてくれる学生たち…。付き合いのあったひとたちみんなに「ありがとう」と心で言った。
 (略)
 自由気ままに生きている、とわが身を思う反面、最近相次いだ訃報に「人間は生かされている」ことを実感した。時代の象徴だったアイドル歌手の西城秀樹さんが亡くなり、若大将シリーズで女性のしとやかさと華やかさを教えてくれた星百合子さんも他界した。頭には、ほとばしる汗も気にせず全身で歌っていた西城さん、素敵なお姉さんとそっと恋心を抱いたこともある星さんの姿しか残っていないのに、ともにそれなりの年になり、寿命に屈した。「生かされている」生命は必然的に終焉を迎え、私の中の「昭和」もひとつずつ消えていく。
 身近な人の死はさらに空しい。若いころの憧れであり、多くのことを教えてくれた会社の先輩が2人、続くようにあの世へ旅立った。
 学生時代に毎日新聞社の政治部で原稿取りのアルバイトしていた時、2人は同じころ支局から政治部へ上がってきた。橋本達明さんと岸井成格さん。私より5歳ほど年長で、新聞記者を目指していた私にとってはまさに生きた教科書だった。ベテラン記者が多い中で、ともに若さをそのまま押し出すような歯に衣着せぬ発言と行動力があった。
 とくに沖縄返還密約事件に端を発した西山事件のころは、毎晩のように社へ上がってきて、紙面の内容に対して上司にかみついていた。「この見出しはおかしい」「社としてどう考えているんだ!」。その声は編集局中に響き渡った。活気があった。新聞記者への憧れはさらに増した。
 2人は仲が良く、酒も好きだった。アルバイトごときの私を「飲みに行こう」と誘ってくれた。まだ付き合い始めたばかりの私の妻も一緒だった。酒が苦手な私をこのころからかわいがってくれた。
 私が記者になってからも、橋本さんはいつも気にかけてくれ、相談に乗ってくれた。岸井さんは廊下ですれ違うたびに声をかけてくれた。社の幹部になっても、出来の悪い後輩への接し方は全く変わらなかった。
 橋本さんが4月14日に胆管がんで亡くなった、と紙面で知った。体調が良くないとは聞いていたが、こんなに早く、とショックを受けた。会いに行けなかったことを後悔した。奥様に手紙を送り、私の中ではまだ生きている橋本さん宛の「礼状」もしたためた。
 それから1か月後の5月15日、岸井さんの訃報をテレビで知った。がんとの闘病で入院している時、「タツ(橋本さん)はどうしてる」と夫人に聞いたという。弱っていた岸井さんに、橋本さんの死を告げられなかった、と夫人は橋本さんの奥様に語ったそうだ。
 同じころ入社し、同じように政治部記者として活躍し、同じように社の屋台骨になり、同じ時期に天国行の列車に乗った2人に、「どこまで仲がいいんだ!」と胸の中で叫んだ。横で、妻も涙ぐんでいた。
(略)
 政界には相変わらずウソがはびこり、大学アメフト界でもとんでもないことが起きた。日本人の根底にあったフェアプレー精神と潔さはどこへ行ってしまったのだろう。
 いつも今の政治や社会を憂いていた橋本さんと岸井さんに話を聞いてみたい。何というのだろうか。

 江成さんは、運動部デスク、長野支局長から事業本部スポーツ事業部長をつとめた。退職して白馬のペンション「夢見る森」オーナーだ。

(堤 哲)

元点字毎日編集長・銭本三千年氏(87歳)

画像
お孫さんが描いた錢本さん(2008年8月)

 「点字毎日」が日本記者クラブ賞の特別賞を受賞するニュースを聞いて、その関連を調べているうちに「点毎」編集長を15年つとめた、というブログに出くわした。

 銭本三千年氏。インターネット上に公開されている自己紹介は――。1954(昭和29)年同志社大学法学部政治学科を卒業して毎日新聞入社。1971(昭和46)年2月「点毎」編集長に就任。31年勤めた毎日新聞社を定年後、大阪千里ニュータウンから岡山・吉備高原都市へ転居した。

 高梁市の短大に介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をつとめ、大学・短大での教職歴は通算25年という。

https://zenmz.exblog.jp/13441950/

 ブログでの発信は、岡山県に転居してすぐ始めたようで、2002 年(平成14 年)4月6日の「古希残照の日々」に、「吉備高原で古希老人が明日に託する想い/あなたと分かちあいたい残照人生の余録」とある。

 昨年8月2日の【吉備野庵】。「先月、87歳の誕生日を迎えたのを機に私のブログに日英両語で日記をつけることにしました」

 同8月23日。「高齢者の健康維持に最も理想的な修練はウオーキングです。私は起床と同時に庭に出て、日の出の太陽に向かって大きく数回、深呼吸をします。それからウオーキング開始。約30分間、速足で歩きます。2003年定年以降、もう14年間も日課として続けてきました」

★ Walking is the most ideal practice to stay healthy for the elderly people. As soon as I get up, I go out and breathe deeply several times towards sunrise. Then get it started to walk at fast pace for half an hour. It has been my daily routine for 14 years since I retired in 2003.

 こんな具合である。「点毎」関連では、点字新聞の発行を促した好本督(1973年没95歳)、初代編集長中村京太郎(1964年没85歳)両氏にも直接会って、話を聞いている。

 1955(昭和30)年、3度目の来日をしたヘレン・ケラー女史(68年没87歳)は、点毎を視察した。入社2年目の銭本が取材をした。

 「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は”点字毎日”で自らの言論を得ました」

 女史が、「点毎」の意義をこう述べた、とブログに綴っている。

 7月19日に88歳の誕生日を迎える。米寿である。

(堤 哲)

80歳の現役事件記者は、毎日新聞OB

画像

 この顔を知っている人も少なくないと思います。
 中京テレビ三重支局の服部良輝さん。三重県警本部を担当する現役記者で、5月末で引退するという記事が地元「伊勢新聞」などに報じられた。

 各紙の記事を総合すると、服部さんは、津市香良洲町出身。農家の四男坊で、地元の定時制高校を卒業して、21歳の時に、毎日新聞津支局の運転手になった。「特勤」である。
 クルマの運転だけが仕事ではない。出先のクラブや通信部から電話で入る原稿を受ける。IT時代では考えられないことだが、原稿はざら紙に鉛筆で書いた。
 写真の現像も任される。その前に、現像液や定着液をつくらなければならない。これは事務補助員の仕事になっていたが、「特勤」さんもよくやらされていた。
 出先から送られるフィルムを現像→焼き付けして写真ができると、次は電送にかける仕事が待っている。
 そのうちデスクから「スケッチ写真でも撮ってきてよ」などと写真撮影を頼まれる。
 事件・事故の現場には、記者と一緒に出掛けて、報道合戦の仲間入りする。
 入社直後に、死者・行方不明5千人余を出した伊勢湾台風に見舞われた。1961(昭和36)年の名張毒ブドウ酒事件では、現場の聞き込み取材に動員された。
 39歳の時、鈴鹿支局へ異動。記者職に転身した。1993(平成5)年に毎日新聞を定年退職。その後、中京テレビに再就職。三重県警本部の記者クラブに常駐して24年になる。県警本部の有名人であえる。56歳から詰めているから、現在80歳の事件記者である。

 各紙の見出しは――。
 「書かなあかん」 80歳記者、孫世代とスクープ合戦(朝日新聞)
 80歳の現役記者「事件から逃げたらあかん」若手にエール(産経新聞)
 スクープ追い続け50年 津出身の80歳記者、服部さん引退へ(伊勢新聞)
 むろん中京テレビの番組でも報道された。

 記事にはこんなことも書かれている。
 「けがは? 現場は信号あるん?」。交通事故について警察署に電話取材する力強い声が記者クラブに響く。周囲の記者がパソコンを使う中、取材が済むと愛用の軟らかい3Bの鉛筆で原稿用紙に記事を書き、ファクスで送信した。

 服部さん、お元気で。毎友会も応援しています。

(堤 哲)

曽孫が5人、月刊誌に連載を持つ88歳、碓井彊さん

画像
碓井 彊さん

 藤原新一郎さん(2月13日逝去、92歳)の追悼録をお願いした碓井彊(つとむ)さん(88歳)と日本記者クラブで会い、天野勝文さん(元筑波大教授)と3人で懇談した。

 「1年先輩(昭和26年入社)によくしてもらいました。藤原さんをはじめ、上田健一さん(2016年没89歳)、小野満さん(1996年没 66歳)、岩間一郎さん(1987年没63歳)、石塚俊二郎さん(2002年没74歳)ら皆亡くなられて、健在は藤岡周三さんくらい」

 懐かしい名前が次々に飛び出してくる。

 碓井さんは、早大政経学部経済学科卒、1952(昭和27年)入社。西部本社編集局→福岡総局→京都支局→大阪本社経済部→東京本社内信部→エコノミスト編集部。デスクから別冊編集長をつとめ、定年まで18年、エコノミスト誌とともにあった。

 日本記者クラブ会報2008年4月号に「編集者のみた戦後エコノミスト」を書いているが、経済白書の歴代執筆者と親しくお付き合いしていたことが分かる。

 大来佐武郎。何でも頼みを聞いてくれる「ホイキタさん」。「動」の金森久雄、「静」の宮崎勇。「景気探偵」赤羽隆夫はマンガ経済学をエコノミスト誌に発表した。

 経済学者を大学に訪ねている時に、慶応大商学部の入試問題漏洩事件の情報をキャッチ、社会部に通報して、社会面のトップを飾る特ダネとなった。「これは雑誌編集上の付録である」と記している。

 1984(昭和59)年の定年退職後は、桜美林大、創価大の講師、高崎商科短大教授。2001(平成13)年に4年制の大学にして、学長に就任した。

 日本エッセイスト・クラブ監事。日本船長協会の月報「Captain」に2006年から、その時々の話題を書き続け、現在もなお執筆している。

 「川崎市の地元図書館と、日比谷図書館は常連」といいながら、日本記者クラブでも参考文献のコピーに余念がなかった。

 奥さまに先立たれたが、親しい友人の紹介で再婚。「原稿を書くことはボケ防止にもなります。元気の秘訣ですね。曽孫が5人になりました」と目を細めた。

画像
1977年5月25日付毎日新聞社会面

(堤 哲)

東日印刷旧友会の新年会

画像
東日印刷旧友会の記念撮影
最前列右から秋野健、萩原康則、取違孝明、前田和彦旧友会会長、高梨一夫、武田芳明、木村栄作、平田睦夫旧友会前会長、福沢里次元旧友会会長、伊藤義一元東日役員
毎日OBは敬称を略しました。

 恒例の東日印刷の新年会が1月26日午後4時から、越中島の本社ビル5階大会議室で開かれた。

 昨年社長に就任した武田芳明氏が元気に新年の挨拶をして、懇親会がスタートしたが、毎日新聞出身で最高齢は、昨年米寿を迎えた萩原康則さん。「小池クン(唯夫元毎日新聞社長、昨年11月30日逝去、85歳)のお別れ会は2月20日だったよね」

 ロッキード事件が起きた1976(昭和51)年、萩原さんは夕刊編集長で、小池さんは政治部のデスクだった。ちなみに社会部長が牧内節男元スポニチ社長。

 萩原さんが東日印刷の監査役になったのが、1985(昭和50)年である。和田凖一社長時代だった。ともかく元気で、記憶力もバツグンだ。

 ついで岩崎鴻一さん(81歳)。少し下がって78歳が4人。千葉伸郎さん、赤松徳禎さん、岩田健一さん、坂戸悦偉さん。77歳が吉沢孝さん、秋野健さん、大野裕朗さん。76歳が元社長の木村栄作さん、川浪猛さん、それに私(堤)。

 73歳が星輝雄さん、72歳で取違孝昭元社長、松上文彦さん。イヌ年で年男の松崎仁紀さんはまだ71歳、若者の部類である。

 現会長高梨一夫さんは、69歳。先輩たちに「ことしもよろしく!」を繰り返していた。

 欠席者のはがきが貼り出されていた。毎友会HPにも原稿を寄せている元取締役の河合喜久男さんは、大正10年生まれ。ことし5月10日に97歳の誕生日を迎える。取締役就任が1977(昭和52)年2月である。

 もうひとり牧内節男さん。ことし8月31日に93歳になるが、そのはがきにあった近況報告。「ネットの新聞『銀座1丁目新聞』を開設して、今年で21年目に入りました。月に12本の原稿を書いております。書くことは生きることと思い、あと10年つづける所存です」

 100歳を超えて、なお書き続ける。威勢のよい宣言に、勇気と元気をもらった気がする。

(堤 哲)

森桂氏主宰の東京港区地域限定月刊紙が100号に

画像

 退社後に長期滞在のハンガリーから帰国して移り住んだ東京都心高輪で、森桂氏が発行した地域限定月刊紙「共和会だより」が、創刊8年目の昨年12月、100号に達した。森氏が居住する町は旧東海道の元品川宿と江戸入口「高輪大木戸」址間に位置、町内には高輪公園、幕末は大英帝国最初の公使館で臨済宗の名刹東禅寺。近くには泉岳寺。閑静な佇まいの中の史跡レポート目立ったが、最近、付近が東京大改革の目玉に浮上、急に慌ただしくなった「街づくり」が一段と紙価を高めている。(写真は森氏)

画像

 森さんが高輪にぶらり現れたのは10年ほど前だった。以前、品川付近に住み、土地勘がある高輪の大学同窓生を訪ねて相談するうちに、そこの町が気に入った。私(平野裕)が町会長。付近にはK大出身者も多く住むなど、もともと人付き合いがいい彼には打って付けの場所柄だったらしい。

 間もなく、私が会長職を譲ったのが彼のK大同窓で、森さんは副会長になりカメラ片手に大活躍、町内の人気者。広報担当を勤める私は言わば配達係り。いま、町内ではマンション建築問題で六年越しの建設会社との紛争を抱えるだけでなく、町内に都心環状4号線が乗り入れる都の大工事が本格化、域内の戸建住宅が立ち退きを迫られる事態になっている。

(写真 左は09年6月発行の創刊号。オールコック英公使の着任150年記念講演会特集。下は100号、左が一面、右が裏面。一面では前述のマンション建設批判記事。裏面で創刊100号の弁)

画像
    

(平野 裕)

明けましておめでとうございます。長沼芳夫

画像

 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 この絵は昨年5月、房総白浜海岸への都展撮影会で 描いた水彩50号です。

       

2018年元旦

 今年90歳。大分、体力的に絵もしんどくなりつつあります。

(元英文毎日。退職後コカ・コーラ。都展評議員。90歳)

(平野 裕)

88歳のジャーナリスト・野村勝美

 正月にネットを検索していて、社会部の先輩の文章を見つけた。

 〈明けましておめでとうございます。と書きながら何がおめでとうだという気分が、来年には90歳になる老生にはある。もう5、6年、もっとになるか年賀状は出さないし、正月料理も食べない。お雑煮は入歯がはずれ、のどに詰まるおそれがあるので小さな餅を一コか二コ用心しながら口にする〉

 野村勝美さん(88歳)である。「サンデー毎日」デスクから「毎日ライフ」編集長。繰上定年後、おもちゃ店経営とプロフィールにあった。ニッパチ(昭和28)入社。「司法記者として初陣の造船疑獄取材に頭角を現す。多角的な視野に立つ記事で多くの読者の感動を呼び起こした」とも。

 毎友会には必ず顔を見せる律義な先輩である。

 引用したのは、ことし1月1日付けの「浜田山通信」No208。見出しは「♯Me Too」。

 〈ことしはまちがいなく女性ファーストの年になると確信する。去年アメリカやヨーロッパで始まった♯Me Too運動はアジアでも、日本でも起こるはずだ。日本でジャーナリストの伊藤詩織さんが立上った〉

 〈私の一番信頼する評論家斎藤美奈子さんによると、昨年のアメリカでもっとも検索件数が多かったのは「フェミニズム」だったそうだ。トランプに対する「ウイメンズ・マーチ」などもフェミニズムがアメリカの昨年の言葉になった原因だ〉

 そして最後は〈日本の男女平等度は世界で百十四番目。…女も男もみんなフェミニストになろう〉と結んでいる。

 野村さん自身は、大変なフェミニストである。同僚女性記者の増田れい子さん(2012年没、83歳)や、「広島第2県女2年西組 原爆で死んだ級友たち」の関千枝子さんらと親交があった。

 いつまでもお元気で、健筆を期待したい。

(堤 哲)

『やすらぎの郷』と『返さなくてよい奨学金』

 テレビドラマ「やすらぎの郷」が評判になっているが、毎日新聞OBの大久保貞義さん(82歳)は、介護付有料老人ホーム「ロイヤルハウス石岡」(茨城県石岡市)と「ロイヤル川口」(埼玉県川口市)を経営する。

 東大を卒業して1959(昭和34)年に毎日新聞に入社、政治部記者となったが、その時の政治部長・小林幸三郎さん(元RKB毎日会長、2014年7月没102歳)は、ここで最期を迎えた。現在は論説OBがお世話になっている。

 大久保さんは、在社中に米スタンフォード大学、プリンストン大学に留学、さらに米議会の奨学生として留学して議員の政策担当秘書を経験したという。

 1967(昭和42)年、30歳で退社して、東海大学広報科助教授。72(昭和47)年に独協大に移り、70歳定年まで教授を務めた(行動科学論、マーケティング論)。指導したゼミの学生は34年間で500人にのぼる。

 記者から大学教授へ。政治部の先輩・諏訪正人さん(2015年没84歳)は「ジャーナリズムとアカデミズムの幸運な握手」と、大久保さんを称えた。

 「ロイヤルハウス石岡」の完成は、1988(昭和63)年。米留学中に見た老人ホームは、日本の「養老院」とは全く違っていた。高齢者が優雅に暮らせる老人ホームは、大久保さんの夢の実現であった。テレビドラマの「やすらぎの郷」に似ている。

 入る際には相応のお金が必要だが、あとは悠々とした生活が楽しめるし、終身介護も受けられるのである。

 もうひとつ、大久保さんは、自身の米留学が返却しないでよいアメリカの奨学金を受けたことから、一般社団法人「ロイヤル福祉助成法人」をつくり、2016(平成28)年から返さなくてよい、もらいっぱなしの奨学制度を創設、とりあえず大学生5人に計400万円、ことしは7人に計500万円を寄付している。若者の将来に期待してのことだ。

 目指すは日本一の老人ホームと、大久保さんは夢を語っている。

画像
大久保貞義さん

(堤 哲)

野球雑誌に記事を書いています! 元サンデー毎日編集長の鳥井守幸さん(85歳)

画像
「鉄道と野球」の旅路」  本の表紙

元サンデー毎日編集長の鳥井守幸さん(85歳)が久ぶりに野球の記事を書いた。現在発売中の「野球雲」08号(1200円+税、啓文社書房)で「最強門鉄と九州の野球」。炭鉱の町大牟田出身で、九州の野球に思い入れが深い。

 都市対抗野球で黒獅子旗した門司鉄道管理局(現JR九州)、八幡製鉄(現新日鉄住金)、西日本鉄道、別府星野組の4チームをはじめ、日鉄二瀬、志免鉱業所、植良組などの球団と選手たちを紹介している。小鶴誠、木塚忠助、武末悉昌、濃人渉、古葉竹織(毅)、権藤博……。毎日新聞OBの末吉俊信投手(故人)は早稲田大学に入る前に八幡製鉄にいた。

画像
鳥井守幸さん(左)と豊田泰光さん(故人)
(2003年4月撮影)

 股関節を痛めて杖をついているが元気だ。写真は「野球文化學會」のパーティーで豊田泰光さん(故人)とだが、福岡ダイエーホークスのスパイ事件(1998年)では、パリーグ特別調査委員を務めた。野球グッズのコレクターでもあり、著書に『野球ふしぎ発見』(毎日新聞社)。

 本が発売された日に、社会部OBの天野勝文、加納嘉昭、沢畠毅氏らが東上線若葉駅近くの回転寿司に集まってお祝いをした。車イスで現れた鳥井さん。「イエスの方舟事件はねぇ」などと昔話の独演会。いつ起きたのか必ず年号を口にしたので記憶は確かだ。いつまでも現役ジャーナリストでいて欲しい。

(堤 哲)

「音楽は平和を運ぶ」と訴える被爆者松尾康二さん

画像

昭和21年2月、広島の「未完成」

 シューベルトの名曲が聴こえるように楽譜を添えて、「それは生き残った人々に、共感と勇気を与えました」。

 こんなユニークな全面広告が2月16日の毎日新聞をはじめ、朝日、読売、日経と地元中国新聞の5紙に掲載された。

 広告主は、特定非営利活動法人「音楽は平和を運ぶ」。

 エッ、社会部OBで、カルビー元会長の松尾康二さん(79歳)が理事長をつとめるNPO法人じゃないか!

 昨年5月、オバマ米大統領が広島入りした日に合わせて、中国新聞に全面広告を出した。

画像
President Obama, Eradicate All War 
   オバマさん 戦争を廃絶してください

 そして今回――。《原爆投下の半年後、1946年2月、爆心地から4キロ離れた高校の講堂で、シューベルトの「未完成交響曲」の演奏会がありました。これはほとんど死に絶えた広島の人たちの心情から始まり、しかし苦難の中でようやく立ち上がろうとする人々の悲痛なうめきに近い気持、ここまでは短調で表現されていますが、ようやく復興が始まったところから長調、短調が交互に現れ苦難を乗り越えていく広島の人々の心をよく表現されています》

 この演奏会が広島の人たちをどれほど勇気づけたか。「広島の復興はクラシック音楽と共にあった」と広告の中見出しでうたっている。

 松尾さん自身被爆者である。《8歳の時、1・6キロ地点で被爆し、木造建築の下敷きになり…大人たちに助けられ焼死をまぬかれました。近い親戚3家族18人のうち合計10人が直接、間接に被爆死したことになります》

 そして《私の家族5人は全員無事だったので「奇跡」といわれました》。

 父親は焼け野原にいちはやく木造建築の食品工場をつくり、松尾少年も一緒に働いていた。(株)カルビーの始まりである。

 旧制広島高等師範付属中学校(現広島大学付属中・高等学校)の講堂で、かつて同中学の音楽教師だった竹内尚一氏(故人)が指揮して開かれた演奏会。国民学校2年生の松尾少年も聴衆のひとりだった。

 全面広告の反響は大きかった。指揮者の次男(69歳)が電話をしてきた。「私も聴いた」と当時旧制高校の学生(90歳)らからも。演奏会の模様が鮮明になりつつある。

 松尾さんがNPO「音楽は平和を運ぶ」を立ち上げたのは、2014(平成26)年8月。以来、指揮者の大野和士さんを迎えるなど広島市内でクラシックコンサートを開いている。

 ホームページ(http://music-peace.jp/#)では、この全面広告をクリックすると、シューベルトの「未完成」交響曲が流れるのだ。

 この活動ことは松尾さん自身が、毎日新聞の同人誌「ゆうLUCKペン」39集(2017年2月26日刊行)に綴っている。

 「ゆうLUCKペン」39集は、頒価@1千円+送料180円。申し込みは「ゆうLUCKペン」刊行委員会(〒171-0044 豊島区千早1-34-9 千早町ガーデンハウス303 中谷範行気付 TEL080-1027-9340)へ。

ヴェネチア大運河 長沼芳夫(元英文毎日編集部)

画像
「ヴェネチア大運河」長沼芳夫画

 明けましておめでとうございます。

 この絵は昨年(2016)、第52回都展で「寿賞」を頂いた水彩50号「ヴェネチア大運河」です。又絵で賞をもらいました。

 今年も皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

毎友会運営委員会・運営委員の言葉

平野 裕

 毎友会の現会員は皆、もう40年前になる未曾有の経営危機時代を経験した仲間です。このサイトは「毎日ジャーナリズム」とは何かを読み取って頂きたいと思い開設しました。真実の追及、使命感、ヒューマニズム、知識欲、友情、献身などその核心は数々の文章に滲みでています。私はソ連末期のモスクワで働き、生命を燃焼させ、生後6か月の息子を失う経験をしました。それも一つのエピソード。サイトへの寄稿をお待ちしています。

石井國範

 元気で健康な生活を送っている要因は2つあります。第一は人とのコミュニケーションを大切にすること。第二は愛犬との散歩です。

 在社時、各業界の方々との交友のおかげで、現在でも付き合いを継続し、社に役立つ情報を収集、また年齢的なこともあり、医療や社会保障問題に限らず日常の出来事等にも関心を持ってお互いに話し合っていることが精神的に良い結果を生み出しているように思います。

 犬(シベリアンハスキー・生後3年)とは、日々1万5千歩、歩くことを目標とし毎朝午前5時、夕方は日暮れ前トータル約2時間散歩します。

 四季折々の花々を眺め、いろいろな鳥の鳴き声を聞きながら散策すると気分爽快で最高です。今後も身体の続く限り実行していくことで元気もりもり、気力、精神力が充実した証になると確信しています。

教養と教育を活かして 岩崎鴻一(1959年定年)

 参院選から18歳以上に選挙権が与えられたが、18の逆さまは81歳。「まだ何も知らないが18歳。もう何も覚えていないが81歳」とか。

 あと1年で81になる運命、培った教養と教育を活かして頑張ってます。「きょう用がある、きょう行く所がある」。5月に発売された週間ダイヤモンド「日本を動かす慶応三田会」は、増刷するほど売れたとか。世界に860以上もあるOB組織の三田会、その二つの会長、毎友会の運営委員など。すべて無給ですが、教養と教育が元気の源です。

絵を描いています 上谷川 勉

画像

 絵は、小学校の低学年のとき、正月の飾り餅を描いて先生に出したら教室に掲示されました。この時の喜びの感動から絵を描くのが好きになり、四季折々の景色や草花を描き続けて今に至っています。

 自然のありがたさを味わいつつ老後の余暇にこれからも絵を描き続けて行こうと思っています。

 右の写真は、奥飛騨平湯大滝にて(平成25年8月描く)

男の料理教室 今野当夫(元制作部)

画像

 板橋区の「男の料理教室」に参加して11年になります。女性の先生指導のもと、毎月1回2時間30分の講習です。1回2時間30分の講習です。料理内容は和洋中と幅広く、12月にはクリスマスケーキを作ります。

 会員20名が5テーブルに分かれて、レシピをもとに下ごしらえから取り掛かりますが、調味料の量を間違えたり、食材の切り方を間違えたり、鍋の入れ間違えなどで中高年の教室はワイワイガヤガヤと一気に賑やかになります。出来上がった料理はその場で食べますが、各テーブルで味・形が異なるところが愛嬌です。まれに家でも料理はしますが、腕前はどうでしょうか。

田中 稔

 10数年前から連日のように、現役時代の夢をみる。先輩、同年代の諸氏に聞いてみると、同じ答えで安心したりもするが、多分高齢者特有のものであろう。

 昔に固執するのではなく、新しい夢をみたいとの思いから、年寄りの冷や水と言われながら、最近は地域の環境保護を目的とするボランテイア・サークルに顔を出すようにしている。やり出すと止まらないヘキもあって、カケモチをしたりしてけっこう忙しい日々を過している。

 これによって、3年後、5年後、10年後に新しい夢がみられるか、はたまた永遠に見られないか、分らないが新しい事に挑戦することで、生きがいを充実させたいものと、自分なりに自己満足をしている今日この頃である。

田口正穂

 リタイアして5年、東京の平井と館山市の実家をいったりきたりしています。館山の小さな庭でバラを育てています。そして、身体のために、毎日8000歩のウオーキングと月2回のゴルフ、頭のボケ防止に英会話、そして心のビタミンとしてアルトサックスを習いクラシックギターを江戸川ギターマンドリングクラブで弾いています。

 昨年11月に胃がんの手術を受け、お酒はかなり弱くなりましたが、現在はほぼ手術前の生活に戻りました。

 この7月は全英オープンを観戦後、セントアンドリュースに移動、ゴルフをしてきます。

 身体と頭と心のバランスをとって、音楽を聴きながらバラの香りを楽しんでいます。

インゲン豆  松下礼子(元情報調査部・社会事業団)

画像

 持続可能な社会をと、ささやかですが省エネでシンプルな日常生活を試みています。

 ベランダ菜園?もひとつ。早期退職で八ヶ岳山麓へ移った学友を年に1、2回訪ね、帰りにリュックサックいっぱいのお土産、昨年は幅広インゲン豆も加わりました。5月に残しておいた豆を蒔いてみたら何と芽がでました。今では支柱からベランダの柵までツルが伸び、朝の水やりから一日が始まります。

乗馬を始めました 山口 恒夫

 何か新しいことにチャレンジしようと思っていたところ、知人から乗馬を誘われました。今までいろいろなスポーツを楽しんできましたが、乗馬の経験は全くなく、どのようなものなのか想像がつきませんでしたが、なんとなく興味が湧きました。始めてみると難しい。あんなに大きな馬に乗って揺られながら姿勢を崩さずに保つことは本当に大変なこと。思っていた以上の運動量です。

 最近、そこで行われている障害をもつ人のための乗馬ボランテイアに参加しています。普段、車椅子で生活している子供たちが馬に乗り本当に楽しそうな満面の笑顔が素晴らしいです。社会事業団に在籍中、手足の不自由な子供たちのキャンプを行っており、その経験の継続と考え、続けていきたいと思っています。

中村 淑子(元販売管理部)

もう街はすっかり秋!
今年は冬の訪れも早いようです。
それで散歩途中の50%OFFの看板につられ、うっかり一歩踏み込んだのが運のつき。
ついダウン(擬き)のハーフコートを買って終いました。
でも、こん些細な事でストレス解消、気分もウキウキ・・・。
何時も何時も、何て私は単純なんでしょう!

荒川冨士男

 毎友会の運営委員に任じられて平成28年9月で15年になります。時の経つのは早いもので、自分では歳を取ったという感じは余りしないのですが、市からは、最近「健康診査受診券」「埼玉県後期高齢者医療健康長寿歯科健診のご案内」など後期高齢者に対する医療関係の受診案内が届くようになり、「後期高齢者の仲間入りをしたんだなあ」と実感しています。

 まだまだ健康には自信があると自負していますから、ボケ防止のためにも物事には前向きに対処して行こうと考えています。

 これからも月一のゴルフや週3回のウオーキングを中心に、武蔵野の面影を残す狭山丘陵の散策、歌舞伎、演芸、ユリ展やバラ展等の鑑賞を夫婦で楽しみ、健康管理に心を配りしながら暮らしていこうと思っている今日この頃です。

乗馬を始めました 山口恒夫

画像
横浜三ツ沢公園馬事練習場にて

 何か新しいことにチャレンジしようと思っていたところ、知人から乗馬を誘われました。

 今までいろいろなスポーツを楽しんできましたが、乗馬の経験は全くなく、どのようなものなのか想像がつきませんでしたが、なんとなく興味が湧きました。始めてみると難しい。あんなに大きな馬に乗って揺られながら姿勢を崩さずに保つことは本当に大変なこと。歩き方によっては馬の上に立つ、座るを繰り返します。インストラクターから「前かがみにならない!!胸を張って!!真っすぐ前を見て!!手綱を短く!!」などと指導され、跳ね上がる馬の上で電車の吊革みたいな鐙の上に立つことを繰り返します。冬でも汗をかき、思っていた以上の運動量です。

 最近、そこで行われている障害をもつ人のための乗馬ボランテイアに参加しています。 普段、車椅子で生活している子供たちが馬に乗り本当に楽しそうな満面の笑顔が素晴らしいです。馬の複雑な動きが体に良い影響を与え、高い目線もとても気持ちが良いようです。 社会事業団に在籍中、手足の不自由な子供たちのキャンプを行っており、その経験の継続 と考え、続けていきたいと思っています。キャンプに参加していた二人の子供も乗馬に来ており、再会することができました。一週間にレッスンとボランテイア、山歩き、飲み会 など元気に忙しくしております。

私のボランティア
「認可保育園」と「小規模事業保育園」が出来た

成田 紀子(元販売局)

 この保育園に私の次女がお世話になってから、43年が経過しましたが、娘が卒園してから30年余りは保育園と連絡をとることもなく、離れていました。しかし娘の子供たちがお世話になることになって、また私と保育園の接触が始まったのです。

 その時この保育園はNPOを発足させる準備をしていたのですが、理事長候補が見つからなくて困っていたのです。そんな中に私が飛び込んでしまったわけです。64歳の頃で、昼間特に何もしていなかったので、当時の園長が、ちょうどよいとばかりに、「理事長は、年に3日登園してくれればよい」などという甘い言葉で釣り、保育のことは全く分からないまま、理事長を引き受けさせられてしまったのです。そして保育士さんたちの低賃金に驚いたりしながら、4年ほど理事長をやり、その間に、おんぼろの園舎から子供たちが通いやすい場所で、耐震のしっかりした建物に移転し、なんとか経営を軌道に乗せることができたのです。しかし保育士の待遇改善まではできないまま、事情があって、理事長を退任しました。

 しかし昨年春また理事に復帰するよう頼まれて、NPOの運営に加わりましたが、そこでは無認可園から認可園に変わる運動が進んでいて、1月には横浜市から認可園の新設を認められたとのことでした。認可園にするためには、これまでの子供たち30数名(0歳〜2歳)という定員を60数名(0歳〜5歳)まで増やさなければなりません。そのため、大きな園舎が必要という大問題に直面しましたが、その後いろいろ紆余曲折があった結果、その目途もたって、昨年夏には新園舎の建設を始めることが出来ました。しかしその矢先、9月初めにこれまで理事長だった71歳の男性が急性の進行性末期の胃がんで倒れてしまいました。理事長として最高に多忙な時期でしたので、直ちに代行を立てなくてはということで、定職を持たない私のところへそんな役が回ってきてしまったのです。断ってぐずぐずしている時間的な余裕はありませんでした。

 それからは目が回るように忙しくなりました。今までより大きい保育園の組織を作るために、建物ばかりでなく、新しい要員の体制を整えなければならなくなったのです。まず、これまでの無認可園の保育士やその他の職員のうち3分の2を新しい認可園に移し、3分の1はもとの園に残しました。もとの無認可園は国と横浜市が進めている19人以下の小規模事業の保育園に新たに衣替えすることにしたのです。しかしとても保育士や調理師が足りないので、あらゆる募集をかけました。マスコミでは保育士不足がいろいろ取り上げられていましたが、本当に保育士探しは難航しました。採用を約束していた人が数日後にキャンセルしてくることが度々あったりして、シッチャかメッチャかでした。全く体力ぎりぎりまで追い詰められた感じでした。4月1日に両園がなんとかオープンできた時は、本当にほっとしました。そんなわけで、4月5月には、いろいろな人的対策を打ちながら、なんとか保育を進めるという有様でした。

 しかしそんな中でも、皆が何とか少しでも良い保育をしていこうという姿勢で臨んでいたことは、ありがたかっです。

 5月22日には、開園式とお披露目会を無事ひらくことが出来ましたが、何よりも地域の方たちが保育園ができたことを喜んでくださったのは、うれしかったです。

 6月9日に今年度のNPOの総会が開かれ、これまでの理事長が辞任したため、私が改めて理事長に選任されました。子供たちに少しでも良い保育をすることは当然ですが、今度こそ、保育士の待遇をなんとしてでも改善して、資格を持っている人たちが皆喜んで働きたいと思えるような保育園にしなければと現在考えているところです。

画像
認可保育園
画像
小規模事業保育園

 2016年7月7日

中村 淑子(元販売管理部)

 当たり前だった健康が、今では一番大切なものになりました。夫婦での街歩きや、友人らとの食事やおしゃべりに、たまーにですが旅行へ出かけるのが一番幸せな時間です。そして昨年から、歌舞伎や落語に加え、世界トップダンサーの選手権大会に接したり、あまり馴染みでは無かった新しい世界に触れようと、ささやかながら心がけております。相変わらずの生活、平凡で穏やかな毎日が、如何に貴重で有難いことかと、しみじみ実感しております。

◇社会部OBの中村静雄氏が船橋市会議長に

堤 哲

 社会部OBの中村静雄氏(69歳)が船橋市議会の第59代議長に就任、そのお祝いの会が11月23日船橋グランドホテルで開かれた。

 集まったのは、松戸徹船橋市長をはじめ、国会、県会、市会議員、支持者ら250人。毎日新聞関係では、乾杯の音頭をとった広田勝己常務執行役員、OBの井草隆雄(84歳)、堤哲(74歳)、高木康紀(70歳)の計4人。

画像

 中村氏は4月の統一地方選で4期目の当選を果たし議長に選ばれた。「戦後70年の節目の年に議長に就任できたのも、ここにお集まりの皆さまのお蔭」といって頭を下げた。

 中村議長は1970年に英文毎日記者となり、その後社会部で事件記者、船橋支局長から山形支局長となったが、1996年50歳で退社して政治の道に進んだ。

 井草先輩は「37年前に知り合いましたが、円満な性格で、モテました」と現役時代のエピソードを披露したあと、「船橋の政令指定都市化を頼む」と激励した。

 毎日新聞関係で市会議長になった現存者は、埼玉県志木市の永井誠市議(77歳、10期、1964年入社・写真部OB)がいる。

 

松下礼子(元情報調査部・社会事業団)

 豊島区地域講座から発展した混声合唱団に入って2年余り、厳しくても懇切丁寧な先生の下で汗だくで歌っています。未経験者中心の発足5年足らずの合唱団ですが、今年は区のコーラス大会と地域の文化祭に加えて初めて単独ミニコンサートを行いました。

画像

 歴史ある高レベルのアマチュア合唱団とは到底比較になりませんが、経歴も年齢も様々な人々とそれなりに調和するのは快感です。

 運営委員の一人として、この毎友会HPが交流の広場になることを祈っております。

2021年8月2日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑭ ある新聞記者の歩み13抜粋

会社“倒産”!それでも新聞記者で生きる

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書きも13回目となり、前回から政治部の時代

に入りました。しかしこの時期、毎日新聞社は、大変な経営危機に見舞われ財界などの支援を受け、倒産を回避する「新旧分離」という荒治療によって危機を乗り越えます。

目次
◇激動の政治状況
◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・
◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け
◇暮れのボーナス、他社の7、8分の1
◇外に出て羽ばたいた人たち
◇一時期悩んだものの・・・
◇退社の遠因、派閥抗争?
◇“ハゲタカ”が毎日を狙い撃ち
◇新旧分離路線が生き残りを導いた。
◇働くみんな「毎日」が好き!

◇激動の政治状況

Q.佐々木さんの政治部時代は激動の感がありますが、会社も事実上の倒産という大変なことになったのですよね?

 まず、当時の政治状況を説明しておきましょう。ぼくは政治部に1977(昭和52)年1月から行ったのですが、その直前の前年12月下旬に福田赳夫首相の内閣が成立していました。前回(12回目)で話しましたが、福田首相の番記者をやっていたのですが、この時代は政界では、自民党の総裁候補を出す派閥として三木派、田中角栄派、大平派、福田派を称して、三角大福時代と言われました。時には最後に中(中曽根派)をつけて、三角大福中時代とも言われましたね。中曽根さんが総理大臣になるなんて誰も思わなかった時代です。

 手元にある年表(「昭和・平成史1926-2011」岩波書店刊)を見させてください。え~と、田中角栄が首相となったのが72(昭和47)年7月ですね。先ごろ亡くなった評論家の立花隆が“田中金脈問題”を月刊文藝春秋(74年11月号)で暴露、田中首相は辞任します。そのあと自民党リベラル派代表格の三木武夫首相となるんですね。三木内閣の時代、田中前首相がローキード事件で逮捕(76年7月)されます。三木が田中逮捕を許したというので、自民党は大騒ぎ、保守本流の福田首相になるわけです。まさか政治部に行くなんて思いもしなかったので、「ダイナミックに政治の世界は動いているな―」という対岸の火事を見ているような感じでしたね。

 この年の9月にバングラデシュの首都ダッカで赤軍派によるハイジャック事件が起きます。前年の8月に三木内閣当時、マレーシアのクアラルンプールのスエーデン大使館を占拠しました。そして、人質と交換に日本の刑務所にいる過激派の釈放を要求して成功します。次にダッカでハイジャック事件を起こしたわけです。そこで福田首相が刑務所にいた9人を人質の身代わりに釈放しました。「人命は地球よりも重い」という言葉を発したことを憶えています。そういう時代でした。クアラルンプール事件の時にも収監されていた5人の服役中の過激派が釈放されるのですが、この中に、僕が水戸支局時代のことを話したところにも出てきますが、茨城大学全共闘のメンバーで、取材を通して知っていた松田久(今も指名手配中)がいました。ベトナム戦争も米国の敗北で終わり、学生運動の季節も過激派の動きが目立つ程度の時代に入っていました。「ああ、あれから10年、あの松田が違う世界に行ってしまったんだ」という感じでしたね。

 ◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・

 そんな政治部に行くのですが、バーターで経済部に政治部から来たのが、鈴木恒夫さんでした。当時の経団連会長の土光敏夫さんに食い込み、政治部に戻ってから河野洋平に引っ張られて退社。新自由クラブ創立にかかわり、選挙にも出て当選。2008年福田内閣で文部大臣もやります。そんなことないだろうけど、もしぼくが政治部に行かなかったら、鈴木恒さんの人生も変わっていたかもしれないな(笑)。

 政治部に行って間もない昭和52(1977)年暮に、毎日新聞社は事実上の倒産となるわけです。新旧分離という手法で事業の継続をはかりました。その5年前の外務省機密漏洩事件、いわゆる西山事件などをきっかけに部数がどんどん落ち、最盛期600万部近くあったのが公称450万部といわれていて、「実際には300万部を切ってる」なんて、囁かれていました。さらに第一次石油危機(73年)後の経済危機の中で高度成長が止まり、74年には戦後初のマイナス成長という逆風を毎日新聞は受け止められなかったんでしょうね。

 注)新旧分離方式=債務と資産をすべて旧会社が負って、新たに設立した新会社が事業を継承してそれまで通り続ける方式。会社更生法などを適用する倒産に陥らず、この方式が取れたのは、事業継続最優先を期待する各方面(金融機関、財界、労働界、学界、読者など)の支持・応援があったからだと言えよう。

 借金が700億円近くふくらみ、実際は自転車操業状態で、74年以降41億円、75年56億円という巨額赤字決算を計上して経営危機が表面化する状態でした。広告収入は石油ショック前には月42億円あったのが10億円に落ち込んでいたんですね。誰の目にも倒産寸前と映っても仕方がない状況に追い込まれていたように思います。経済部の金融担当なんかは、メインバンクの三菱銀行、三和銀行などからは、「このままでは危ないよ!」というシグナルを送られていたようですが、社内的には共有化されていなかったと思います。ぼくも経済部の連中と会うと話は聞かされていましが、現実感がなかったなー。

Q.週刊誌が「毎日新聞倒産に瀕す!」などと書き立てたようですね。

 「毎日は経営状態がピンチ!」というのは、ここぞとばかりに「週刊新潮」を筆頭に、週刊誌などはセンセーショナルにしょっちゅう取り上げていました。すでに部数的には「朝毎読(朝日、毎日、読売をチョウ・マイ・ヨミと読む)」の時代は過ぎて、販売面では完全に「朝読毎」、あるいは「朝読」の時代に変りつつあったように思います。でも取材先のイメージとして毎日は、朝日の次の新聞という感じに変わりなかったような気がしますね。一線の記者のプライドにも変化はなかったように思います。「まあ、何とかなる。日本社会にとって必要な社会インフラとしての毎日新聞は生き残るよ!」なんて考えていたフシがあります。今考えれば、いい気なもんですね。債務返済は一切合切、旧社にまかせて、新生毎日新聞社を発足させて事業をそのまま継続できたわけですが、新社がもし赤字を出したら倒産まちがいなしだから経営的にはシビアでした。

 当時は福田内閣で、毎日政治部OBの安倍晋太郎(安倍晋三前首相の父)さんが官房長官、坊秀男さんが大蔵大臣だったということもあったでしょうから、政治部は安倍さん、坊さんを通じて財界、大蔵省などに「毎日を助けてほしい」と頼み込んでいたようです。

 ◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け

 後に経営企画室に行ったとき(1989年3月)、毎日新聞の題字変更などのCIプロジェクトに携わります。この時、パートナーとなったNTTドコモのロゴデザインなどを手掛けたPAOS(株式会社中西元男事務所)の人が、社内ヒアリングを行った際、ある海外支局の特派員が彼らのインタビューに「ぼくは会社の経営状況には一切関心がない。いい原稿を書くだけ」と断言したので、「あの時は本当にビックリした」と語っていました。恐らく一線記者のほとんどが、そんな感じじゃなかったのかな。その辺が営業感覚で社内が一貫している“普通の会社”と、“インテリが原稿を書いた新聞”を、泥臭い販売戦線でナベカマの景品付きで新聞を売っている新聞社は違いましたね。特に毎日新聞はその傾向が強かったと思いますね。

 でもこの頃、ジャーナリズムの世界では田中前首相の逮捕(76年7月)などが起きるロッキード事件をめぐる報道で、「毎日新聞の報道は一歩先を行っている」などと“ロッキードの毎日”という評価が高く、編集局の意気は高かったことを思い出します。

 このとき、ぼくも経済部でなく政治部にいて取材に追われていたので、経営状況にそう関心はなかったと思います。だって会社の外の取材が面白くてしかたがないんですから。政治家の家に夜討ち朝駆けの忙しい日々。朝6時にはぼくの住まいの杉並のマンションの前に朝駆け用のハイヤーが来ているんです。マンションの人からは「お宅のご主人はハイヤー通勤でスゴイですね。新聞社ってすごいんですね」なんて言われていました。それって皮肉ですよね。こちらにしてみれば夜中の1時、2時に夜討ちをして帰宅、5時過ぎに起きるんですから寝不足で勘弁してといいたいところなんですが----。

 でも政治家の家に行っていろいろと話を聞くのは面白かったな―。ですから朝起きて昨日の取材していた記事が「載った!」、他紙を見て「やられた、コンチキショウ、やり返すぞ!」という感じで、取材された側も「書きやがって!」と部数のことなんて気にしていなかったと思いますよ。

 そのせいか新旧分離の挫折感というのはほとんどなかったですね。ぼくも前は経済部だけど、倒産回避方式で「新旧分離」なんて方式があるなんて知りませんでした。取り合えず新聞は毎日出ているわけで、取材先の政治家も「毎日新聞は大丈夫か?」なんて、夜回りで遠慮がちに聞いてきますが、「給料もチャンと出てるし大丈夫ですよ。ところで先生、今度の組閣で入閣といわれていますが、どうですか?」なんて感じでしたね。(以下・中略)

◇働くみんな「毎日」が好き!

Q.でも毎日新聞はそういう新旧分離、その後の厳しい経営状況、失礼ですが他社よりも大幅に低い給料の中で「宗教を現代に問う」、「記者の目」とかで菊池寛賞を受賞したりします。「宗教を現代に問う」の連載はよく覚えています。本になってますが、数年前に、古本屋で見つけて思わず全5巻を買ってしまいました。「記者の目」は、40年以上毎日新聞の目玉になっていますね。

 そうですね。社史を見ていろいろ思い出しますが、それ以降、79年の「ワカタケル大王(雄略天皇)」の名前を刻んだ「埼玉(さきたま)古墳群」で発掘された「稲荷山鉄剣」の日本古代史を揺るがす大発見の特ダネ。早稲田大学商学部の入試問題漏洩事件(80年)、さらに日本に米軍が核兵器を積んだ空母などが日本に寄港していたという元駐日大使の「ライシャワー発言」(81年)など、三年連続で新聞協会賞受賞のスクープを放ちます。

 ぼくがいまでも毎日新聞らしいなと思っているのは、2000年に新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受けた「隼君事件」です。この事件は97年11月に東京世田谷で当時小学2年生の隼君が横断ほどで、ダンプカーに轢かれて死亡します。翌日、毎日新聞にはベタ記事で「ひき逃げ小二男児死亡、容疑者逮捕」がのります。実は犯人は不起訴となっていたのです。その両親からの手紙で警視庁担当の社会部記者が取材を始めます。十分な捜査をせずに東京地検は不起訴にするのですが、記者のねばり強い取材で、目撃者が分かり、再捜査となり犯人は逮捕、起訴、有罪となります。

 実はこの記事を手掛けた記者は江刺正嘉君といって、確か西部本社から経済部に来た記者でした。寡黙な男で、来た時から経済は合わない、社会部に行きたいといっていたように思います。念願の社会部に行ってこの記事を書き上げます。僕たちが記者になった時から、先輩記者に「ベタ記事をバカにするな」と何度も言われましたが、それを実現してくれたわけで本当に嬉しかったナ。その後も江刺記者はハンセン病患者のことなどを書いた記事を見かけますが、こういう記者がいることが毎日新聞の宝だと思いますよ(以下略)。

2021年7月26日

「かながわキャンパる」復活、「とちぎ」「しずおか」も展開

復活したかながわキャンパる。コロナ下の赤裸々の学生生活をつづる

  神奈川県版に7月13日、「かながわキャンパる」が掲載されました。ご存じのようにキャンパるは学生記者が書いた記事です。かながわキャンパるは、2017年3月に当時の澤圭一郎横浜支局長(現ビジネス開発本部長)がスタートさせましたが、18年から「休眠」、今回3年ぶりに「復活」しました。記事の見出しは「コロナ下のキャンパスライフ」。神奈川大学国際

 日本学部2年生の女子学生が1年3カ月のコロナ禍の学生生活を記しています。今後、「かながわキャンパる」のワッペンで、随時掲載していきます。

 私は、2020年度より、神奈川大学の授業を、網谷利一郎氏(元北京支局長)、弟の隆司郎氏(元アミューズ編集長)から引き継いで、かながわキャンパるの復活に、今年度から取り組みました。復活にあたっては、澤本部長の強力なサポートと、田中成之横浜支局長、伊澤拓也次長の全面協力を得ました。

 キャンパるは、1989(平成元)年2月、東京本社管内の夕刊で「創刊」されました。今年で創刊32年になります。私は2010年4月から担当しました。当初は『学生が書く記事なんて』と思っていましたが、原稿を見ているうちに、自分がこれまで役所や企業に頼っていた取材とは違い、学生自らが発信する情報の新鮮さ斬新さや、その肉声(コラム「すた・こら」)の面白さに、自分の考えが間違っていたことに気が付くまでにそう時間はかかりませんでした。

 次第に『東京夕刊だけではもったいない』と思うようになりました。たまたま、16年4月に宇都宮大学に地域デザイン科学部が新設されたのを機に、毎日新聞社がメディア授業を請け負うことになり、キャンパるをやっていた私が指名されました。そのタイミングで、当時の編集局長、地方部長、宇都宮支局長の全面協力を得て、「地域メディア演習」として栃木県版に「とちぎキャンパる」が月1回掲載でスタートすることになりました。

コロナ禍の1年生座談会。まとめも授業履修の1年生=とちぎキャンパるで

 さらに、18年4月、静岡支局長に赴任した渡辺暖氏(現新聞研究本部長)がとちぎキャンパるの実績を静岡大学長にアピールしました。学長が人文社会科学部長に紹介し同学部の科目「地域メディア論」として、「しずおかキャンパる」を作ることになりました。現在、竹之内満支局長と二人三脚で取り組んでいます。「開かれた新聞」を標榜する毎日新聞ならではの紙面だと思っています。しずおかキャンパるを採用した日詰一幸・人文社会科学部長は今年4月学長に就任。さっそく、しずおかキャンパるで新学長インタビューを申し込み、7月の紙面を飾ることができました。

 キャンパる記事の特徴は、大学でいろいろな活動に取り組んでいる学生を見いだし、取材をして学生視線で記事にすることもありますが、私が一番価値を見いだしたのは、「学生そのものがニュースだ」ということです。一般に新聞記事は取材対象があって成り立ちますが、キャンパるは学生そのものがニュースですから、学生たちの活動、考えがその時代を反映するニュースとなります。ですから、今回のかながわキャンパるの記事のように、学生が1年続いたオンライン授業で感じたコロナ禍の学生生活を赤裸々につづっています。

 とちぎキャンパるの20年度のテーマは「コロナと〇〇」。コロナとプロスポーツ、コロナと授業、コロナとサークル活動など学生記者の立場から、「コロナの今」を記録しています。普段の取材では出てこない学生ならではの「キーワード」も豊富で、毎日新聞のデータベースの充実に貢献していると密かに自負しています。

 学生の座談会も積極的に行っており、とちぎ、しずおかキャンパるをオンラインで結んだ座談会も紙面を飾りました。

 とうきょうの夕刊キャンパるは1年生から4年生までスキルが継続していきますが、大学の授業では前期・後期で授業が終わります。せっかく学んだスキルを途切らせるのはもったいないので、各大学で履修経験者を中心にサークル化しています。宇大は「とちぎキャンパる編集室」、静大が「しずおかキャンパる編集部」、神大は「みなとみらいマスコミ研究会」です。現役履修生とも連携し、紙面の充実に努めています。

 日詰静岡大学学長はインタビュー=写真=でしずおかキャンパるの活動について、「講義修了後も学生が主体的に行動しているのは理想的な形だと思う。継続していくことが大事」と高く評価しました。かながわキャンパるの記事も神奈川大学の国際日本学部長から「学生の側からのオンライン授業や今年度の目まぐるしい変化などを証言した、すばらしい記事のように思い、学部HPでも紹介したいと思います」との連絡をいただきました。

 最後に。夕刊キャンパるを担当していた時に実感したのは、同じ世代の大学生より、大学生を子供や孫にもつ親、祖父母世代によく読まれており熱心な愛読者が多いということです。親にキャンパるを紹介され大学生になって入部を希望する学生が結構います。これは読者対策として、毎日新聞が他社の追随を許さない強みではないでしょうか。現在、教育事業室で、毎日新聞デジタル内サイト「@大学倶楽部」で、約80会員大学のニュースリリースの編集・掲載を担当しています。会員大学の学生広報委員会の組織化も考えており、このネットワークと、「キャンパる」の有機的な交流を盛んにして、毎日新聞の紙面、デジタルのさらなる活性化に取り組んでいきたいと思います。

(内山 勢)

 内山勢(うちやま・つよし)さんは1959年、新潟県上越市生まれ。中央大経済学部卒。83年入社。山形支局を皮切りに、サンデー毎日編集部、大阪社会部、高松支局、経済部、日本BS放送(BS11)出向などを経て、2010年4月から20年3月までキャンパる編集長。2019年6月定年退職。同年7月からCS(キャリアスタッフ)として、ビジネス開発本部教育事業室で、毎日新聞デジタル内@大学倶楽部サイト運営の傍ら、宇都宮大学(とちぎキャンパる)、静岡大学(しずおかキャンパる)、神奈川大学(かながわキャンパる)の授業と紙面制作に携わっています。

2021年6月24日

僕はケンちゃんと危険な取材もした写真機、ニコンF

 僕は中島健一郎が1968年4月、毎日新聞社に入った時に写真部の斡旋でケンちゃん(中島の愛称)が買った写真機だ。ニコンFは名機と言われたカメラで、とても頑丈。ミノルタの方が安かったがケンちゃんは、ぶつけてもびくともしない僕を選んだ。それ以来、僕はケンちゃんが取材に行くときはいつも一緒だった。

 初任地の長野支局に信越線に乗って向かった。上野駅から列車がゴトゴトと動き出した。都会っ子のケンちゃんは都落ちみたいに感じてしんみりした。県知事公舎近くの支局は木造の古い建物。「まるで東京日々新聞時代のままのようだな」と、靴のまま上がろうとしたケンちゃんは「スリッパを履けよ」と早速、注意された。

 宿直室の二段ベッドの上の方に半月ほど寝泊りさせられた。松代群発地震の頃で、なぜか朝方に発生する地震で宿直記者が飛び起きると、ケンちゃんも枕元に置いた僕を掴んで梯子を降りる。昔は最低でも1カ月は宿直室泊まり。便所掃除が新人記者の務めというしきたりは、もうなくなっており、日曜日は棟続きの支局長住宅に奥さんが呼んでくれ美味しい朝食をご馳走になった。

 長野日赤病院の資格を取れたばかりの看護婦さんの戴帽式の記事と写真が小さく長野版に載った。ケンちゃんが僕で撮った写真で紙面化された最初の作品だ。支局ではフィルムは自前。その代り紙面に写真が掲載されると、確か顔写真が1つ150円、カット写真が300円もらえた。暗室で倹約のため撮影した分のフィルムを引き出して現像する。焼き付けも自分で行い、定着させて乾燥させたら電送機で送信する。ケンちゃんは僕で写真を撮るのが好きで1カ月に6千円も写真代を稼いだことがある。各社の中で一番良かった毎日新聞の初任給が2万8千円だったから僕は随分、ケンちゃんの懐に貢献したんだ。

 支局で2年先輩の長崎和夫さんは「1枚の写真は千行の記事に勝ることがある」が口癖で写真の大事さをケンちゃんに指導した。ところが松代群発地震の被害の取材に現地に行っている時に地震が発生、揺れ動いている地面を撮って来たのは良いが写っていたのはただの地面。「やあ、参ったよ」と、こんな笑えるエピソードを語る長崎さんは1967年8月1日に西穂高岳で下山中の松本深志高校生を落雷が襲った事件で写真を入手した記者だった。死者11人、重軽傷者13人がバタバタと倒れている凄惨な現場を撮ったフィルムを入手して山道を駆け下りた。一面に大きく載った写真はそれこそ千行の記事に勝った。ちなみに1面の大見出しは「水平雷撃」。落雷は上から落ちるものだが、高い山の尾根では水平に感じられたのを表現した名見出しだった。

 浅間山荘事件(1972年2月)でもケンちゃんは僕をいつも肩にぶら下げて取材していた。一瞬のシャッターチャンスを逃すわけにはいかないことを長崎記者らに叩き込まれていたからだ。連合赤軍と警察の攻防には写真部が山荘の周囲でカメラを構えた。土嚢の後ろに隠れる警官達。そこから20メートルほどの所に停めた毎日新聞の車両の中でケンちゃんと写真部員は見守っていた。突然、警視庁特科車両隊中隊長、高見繁光警部が立ちあがった。伏せている部下を見て指揮棒を振った時、銃声。高見警部の眉間から血が噴き出した。「中隊長!中隊長!」と叫びながら盾の上に高見警部を乗せて走る隊員達。ケンちゃんは車から飛び出した。みるみるうちに血が盾に溜まる。この時ばかりはケンちゃんは写真を撮れずにぼう然としていた。

 浅間山荘の正面の斜面には報道陣がカメラの砲列を敷いた。撃たれた場合を考え、どの社も防弾チョッキを配った。ケンちゃんの数メートル下の斜面には信越放送のカメラマンがしゃがんでテレビカメラを構えていた。そこに銃撃。そのカメラマンはつんのめるように倒れた。しゃがんだので防弾チョッキがずり上がり、彼の睾丸が吹き飛ばされたのだ。でもその後、結婚した彼に子どもが持てたのだから片方の睾丸が無事なら大丈夫だ。

 ケンちゃんは人質の泰子さんがどの部屋に監禁されているか推理するため近くの山荘の管理人に聞きまわった。訪問したことがある人は「一番立派な部屋はカエデの間かな。二段ベッドの部屋で柱にくくられている可能性が強いよ」などと語った。浅間山荘の内部を撮った写真は借りまくった。

 「泰子さんはどこに」と題した記事が、内部写真と共に長野版に大きく掲載された。毎日新聞社の前線本部に届いた新聞を見た名文家で知られる社会部記者が「なんでこの記事が全国版に載らないんだ」と叫んだ。外側で発生している事象は毎日、報道されているが、山荘の中の様子は分からない。だから読者はどうなっているか知りたいからこの記事がタイムリーだというのだ。翌日の毎日新聞の全国版にケンちゃんの記事は掲載された。勿論、長野県に配達される新聞だけは二重掲載を避ける措置が取られた。「全国版から地方版に記事が落ちてくるのは当たり前だが、格上げは珍しい」と言われた。ケンちゃんは写真の大事さを教えられていたので「自分で撮れないなら、内部の写真があるか近くの山荘の管理人を当たろう」と走り回った結果、全国版に格上げされた記事が書けたのだった。

 学芸部の映画担当が希望だったケンちゃんは、浅間山荘事件が契機となり社会部への異動になった。しかも1年はサツ回りをするのが当たり前なのに6方面担当のサツ回りを1ヵ月しただけで警視庁捜査1課担当になった。東京では大きな事件事故では写真部が出動するからケンちゃんが僕で写真を撮ることは減った。

 「入社以来の大事なニコンFを修理した」というケンちゃんのフェースブックの投稿を見て、「カメラの話を書いてくれませんか」とメールして来た高尾義彦さんについて触れたい。彼はロッキード事件の時に司法担当記者だった。田中角栄が検察庁に出頭して来た時に車から降りてきた姿を高尾記者は自分のカメラに収めた。高尾さんも写真の大切さを分かっていた。もし彼が写さなかったら紙面ではその朝、「検察、重大決意」と大見出しで報道した毎日新聞は写真では負けるところだった。「田中が。田中が検察庁舎に入りました」という高尾記者の電話を本社の宿直室で受けたのはケンちゃん。「写真は?」と問いに高尾記者は「僕が撮りました」と答えた。ケンちゃんはその返事にホッとしたのを覚えている。

 殺人事件の取材で怪しい人物にインタビューした時にケンちゃんは最後に「写真を撮らせて」と言う。無実を主張する人物が「なんで俺を撮るんだよ」と怒らない。僕、ニコンFのシャッター音は結構大きく「あんた、やったんだろう」と響く。やましいから写されるのを拒否できないと、ケンちゃんは確信する。

 野方の衛生検査技師行方不明事件では広島まで出張して男を追及した。1時間ほど質問した後、同じ問いを繰り返す。初めの答えと二回目の答えが微妙に食い違っていたらその矛盾を突く。男はうつむいたまま黙り込む。そしたら写真を撮るのだ。今から思うと事件記者ケンちゃんは相当、きつい取材をしたものだが、「警視庁刑事」(鍬本實敏著、1996年10月発行、講談社)にケンちゃんと鍬本刑事が協力して事件を解決したいきさつが載っている。

 その後、調査報道や脱税担当などをした後、ケンちゃんはレーガン政権発足後の1981年2月末、ワシントン特派員になった。写真部は駐在していないから僕の出番だ。軍のグレナダ侵攻の取材で、焼け落ちた首相官邸や弾痕が残る要塞の写真も。中米紛争でコントラ(ニカラグアのサンディニスタ政権と戦う右翼ゲリラ)の野戦病院では足や腕をなくしたゲリラ兵士を撮影した。倉庫の荷箱を写した時、ゲリラの指揮官が「そこは撮るな」とわめいた。米国はイランに武器を売り、その代金でコントラに物資を流していた。後に問題になるイランコントラゲートの証拠が木箱に刻印されたナンバーを追えば可能だから指揮官は怒ったのだろう。



北欧で写真取材中の中島健一郎さん

 帰国後、1985年6月の皇太子夫妻=写真=の北欧4か国訪問取材で僕は大活躍した。日本国内では皇室の写真取材は厳しく規制されるが、海外ではかなり自由だ。僕を構えているケンちゃんの写真は他社の記者が撮ってくれたものだ。ノルウェーのベルゲンで皇太子夫妻と、留学中の英国から合流した浩宮様の記者会見があった。ケンちゃんは「ノルウェーの女性記者を浩宮様は写真に撮られましたね」と質問した。美智子様が「あの赤いコートの方ね」と述べ、クスリと笑われた。浩宮様と美智子様の間で、この女性記者は話題になっていたのだ。鼻筋の通った美人記者だった。ケンちゃんは浩宮様が「鼻が高い人が好みだ」と思った。後に皇后となられた小和田雅子さんも鼻はしっかり大きい。

 その後、警視庁キャップ、社会部、外信部デスクをしたが、僕が活躍したのはソ連のトップインタビューの仕掛け時だ。ゴルバチョフソ連共産党書記長との会見を毎日新聞社長が行うための工作で、ソ連共産党中央員会イデオロギー部長の案内で真夜中、ヤコブレフ政治局員と会うためクレムリンに非常口から入った。森浩一編集局長、上西朗夫政治部長がヤコブレフに挨拶している写真を撮った。ポポフ・モスクワ市長からハズブラートフ第一副議長ら要人と軒並みインタビューを重ねたが、写真撮影はケンちゃんの担当だった。

 この事前工作が功を奏して社長のゴルバチョフ会見に持ち込めたのだが、味をしめた毎日新聞社はケンちゃんにブッシュ米大統領とのインタビューのセットを指示した。だがマスメディアが発達した米国で大統領への単独インタビューは難しかった。あらゆるツテを使ってホワイトハウスに要請したが、良い返事はない。ソ連崩壊を予想して身の振り方を考えていたイデオロギー部長が日本に期待していたのを利用出来たからソ連では仕掛けが出来た。しかし米国ではそうはいかない。くたくたに疲れてワシントンのホテルのベッドの上に横たわって天井を見つめた。やっと国務省の日本部長から「ダン・クエール副大統領が会う」との返事が来た。「副大統領じゃ嫌だ」と言うと「それでも大変なことだ。感謝しろ」と怒られた。工作を始めて約2週間後、編集局長と政治部長に飛んできてもらい、インタビューは実現し、ホワイトハウス専属カメラマンが記念写真を撮ってくれたが気持ちは晴れなかった。

 1991年に今度はワシントン支局長としてケンちゃんは僕を携えて赴任した。ブッシュ大統領とクリントンが戦った大統領選で、クリントン勝利を予想したケンちゃんとクリントンキャンペーンについて各州を回った。キャンペーン中は至近距離で取材しやすい。パチパチ写真が撮れる。

 黒人男性への警察官の暴力が無罪になったことから、50人以上が死亡する惨事となったロサンゼルス暴動(1992年)。白人警官4人が黒人のキングさんを50回以上も警棒で殴っている様子を撮影したビデオ映像がテレビ放映され、抗議活動が盛り上がったのに警官は罪を問われなかったのだ。映像の力は時としてすごい。

 ワシントン支局長から東京本社の社会部長になったケンちゃんは僕を片手に取材に出ることはあまりなかった。しかし阪神大震災(1995年1月17日発生)で神戸支局に差し入れを持っていった時のことだ。山口組がボランティア活動をしているというので本家を見に行った。大きな屋敷の玄関前にテントを張って援助物資が並べてある。組員にいろいろ質問していると「あんた、誰や」と聞かれた。毎日新聞の社会部長だと答えると、「もうすぐ広報担当が帰ってくる」という。間もなく帰って来た広報担当は面白い男だった。「5代目組長が全国の山口組の組長に役立つ物を持ってこい、と命令したんや。洋品店などに“神戸の人たちのため何か出さんかい”と言うと沢山の品が集まる。それをトラックに積んですっ飛ばす。お巡りに捕まったら“ウルセイ。被災地を助けに行くんだ”と怒鳴ればオーケー。渋滞したら裏街道を走る。お手の物や」。ヤクザにも広報担当がいるのに感心していると、屋敷の庭にはもっと多くのテントがあるという。300坪ほどの舗装された敷地に張られた4つのテントには毛布やコメ袋などが山積み。そこに1台のトラックが到着し、家から走り出て来た男達が荷降ろし。それを指揮する男がいた。「5代目組長だ」と広報担当が紹介してくれた。「わいらは神戸の皆さんにはお世話になっている。震災の時に恩返しするのは当然だ」という5代目と一緒の写真を撮った。

 首都の地下鉄にサリンが1995年3月20日に撒かれて、大騒ぎになったオウム真理教事件。山梨県の上九一色村にあったサティアン(オウム真理教の拠点)の張り番をしている記者の激励に5月2日に行ったケンちゃんは富士山の写真を撮った。この写真はなんと1面に掲載された。余録(1面のコラム)に経緯が紹介された。

 以下は余録のさわり。

 本紙に連載中の「1989年秋 そして今」(牧太郎編集委員)の第1回目に、山梨県上九一色村から見た富士山の幻想的な写真が載っていた▲深い淵のような藍色の空に、紅の瑞雲がたなびいている。山肌にも紅の筋が何条か浮かんでいる。撮ったのは中島健一郎・東京本社社会部長。上九一色村で「ほら、ご覧なさい」と地元の人に促され、シャッターを切ったという▲普段、濃い霧に閉ざされている富士山が全容を現した瞬間の光景だ。

 余録の後半は端折るが牧太郎さんはサンデー毎日編集長として6年前にオウム真理教と対峙したジャーナリスト。その狂信と闘ったペンの記録の連載のカット写真にケンちゃんの富士山の写真が「富士山の美しさは6年前も今も変わらない」として採用されたことを余録は取り上げたのだった。TBSラジオの森本毅郎スタンバイにコメンテーターとして出演した時、「今朝の毎日新聞の富士山の写真は中島さんが撮ったんですよね」と紹介された。写真の反響は大きい。

 その後、ケンちゃんは編集局次長、英文毎日局長、事業本部長と管理的な仕事に移り、僕は仕舞い込まれることが多くなった。2006年に毎日新聞社を退社してからケンちゃんは携帯やスマートホンで写真を撮るようになった。その僕を今年(2021年)に倉庫から取り出したケンちゃんはカビが生えているのにビックリした。同じタイミングで長女が「6月1日は写真の日だけど、ぶつけて角がへこんだお父さんの黒い写真機は今どこにあるの?」と聞いてきた。小学生だったのに写真機の傷まで覚えていたのだ。「ほったらかしにしてごめんね」と謝って、ケンちゃんは僕を分解掃除に出した。新品くらいに綺麗になった僕を見たケンちゃんは嬉しくなってフェースブックに投稿した。それで高尾さんが「中島さん、写真機の話を書いてくれませんか」と連絡して来たのだ。愛機ニコンFを撫で擦っていると、いろんな写真取材を思い出す。写真の持つ訴える力や記録性を改めて感じた。それでついついだらだらと書いてしまったが、きっかけをくれた高尾さんに感謝したい。

(中島 健一郎、77歳)

2021年6月22日

元編集委員、倉嶋康さんが「松川事件・諏訪メモ」スクープで55年ぶりの主筆感謝状を贈られた思い出をフェイスブックに

 戦後の大きな冤罪事件の一つ「松川事件」で、被告のアリバイを証明し無罪の判決を導いた「諏訪メモ」を発見し、スクープとして報道した倉嶋康さん(88)が、報道から55年ぶりに主筆感謝状を贈られた経緯を、ご自分のフェイスブックで報告しています。倉嶋さんは当時を検証する「記者クラブ」を連載、この表彰については「第1部(138)」で報告しています。倉嶋さんは、和凧を持って世界25か国を旅した体験などもフェイスブックに連載しています。

 2012年春、自宅に電話がかかってきました。女性の声で「もしもし、毎日新聞にいらした倉嶋さんですか。こちら東京本社の社長室です。丸山室長に代わります」。これには驚きました。定年退社してから干支で2回りもたっています。年1回の旧友会に時々顔を出すくらいの本社から電話。しかも社長室なんて現役時代からまったく縁がありませんでした。

 いまは社長になっている丸山昌宏室長の話を聞いてもっとびっくりしました。「倉嶋さんが55年前に書いた松川事件の諏訪メモの特ダネに対して主筆から感謝状をお贈りしたいのです」。なんですか今ごろと思いながら喜んでお引き受けし、指定された日に出掛けました。実は若い日に書いたあのスクープ記事について、普通は出してもらえる「特賞」を頂いていなかったのです。上の人たちはあれが新聞に載った時はそんな大特ダネとは気づかず、また最高裁で無罪が確定した時は記事から時間がたち過ぎていて、みんなが忘れていたのでしょう。私自身も父親の言いつけを守って社内で自慢も不平も言いませんでした。

 本社に顔を出した私を朝比奈豊社長と岸井成格主筆が迎えてくれました。いずれも顔なじみの後輩です。雑談していていきさつがわかりました。私が家で昔話になった時に「あれだけ苦労したのに、紙きれ1枚もくれないんだから」ともらしたのを心にとめていた息子が手紙で本社に訴えたのだそうです。担当が驚いて調べたらまさしくその通りとわかり、前例に無い表彰になったとか。それから間もなく他界した息子の最後の親孝行になりました。

 感謝状はOB社員が集まる毎友会の総会の席上で渡されました。なんとこの日は「諏訪メモ」が毎日新聞福島版に掲載された6月29日。気の利いた演出でした。大勢の仲間の拍手を浴びて口にしたビールは、ひとしおうまいものでした。

(倉嶋 康)

 倉嶋康さんのフェイスブックはhttps://www.facebook.com/naslgate

2021年6月18日

論説委員から筑波大学教授へ、鴨志田公男さんは「ゲノム編集トマト」の発信や筑波大学新聞編集で活躍

今年の卒業式後、巣立っていく4年生などと一緒に

 毎日新聞社を選択定年退職したのは、2年前の5月でした。翌月から縁あって故郷・茨城県の筑波大に移り、教員と科学コミュニケーター、筑波大学新聞編集代表の三役をこなす日々を送っています。

 現在、一番大きなウェイトを占めているのは科学コミュニケーターでしょうか。大学発の研究成果を社会に発信するとともに、研究者たちにその反応をフィードバックし、相互理解を深めるというのが、その役割です。

 最近で印象深いのは、ゲノム編集トマトです。ミニトマトより一回り大きな実を1粒食べるだけで、高血圧の改善効果が期待できるというもので、筑波大の江面浩教授が開発しました。大学発ベンチャーが昨年末に国に届け出をし、今年5月には苗の配布も始めました。ゲノム編集食品としては国内初の商品化です。この間、2度にわたって記者説明会を開き、当日の司会を務めました。

 安全性を疑問視する消費者団体もある中、説明会では正確で丁寧な情報提供に努めました。記者時代とは逆の立場になりましたが、受け手のことを考えながら情報を伝えるという点では、記者時代と変わりません。

 教員としては、ジャーナリズム論の演習授業を担当し、マスコミ希望者向けに作文の書き方指導などを行うゼミも開いています。この2年間で15人ほどの学生が、毎日新聞を含む大手紙や通信社、NHK、出版社などに進むことになりました。ゆとり世代ですが、国内外でボランティアを経験するなど、社会に貢献したいという気持ちを持っている学生が多いです。この後触れる大学新聞の編集部員もいますが、新聞より放送・出版業界の希望者の方が多いのが、ちょっと残念です。

 筑波大学新聞はタブロイド判12㌻で年7回発行。部数は約2万部で、入学式や秋の学園祭の時期に発行される号はさらに部数が増えます。大学の広報紙という位置付けですが、1年生から3年生まで約25人の部員が話し合って内容を決め、取材、執筆、編集作業までをこなします。つくば市の駅前再開発など地域の話題も積極的に取り上げます(紙面は大学のウェブページでご覧いただけます)。
https://www.tsukuba.ac.jp/about/public-newspaper/pdf/363.pdf

 編集代表の私はいわばデスク役で、企画の立て方や取材の仕方を指導し、原稿の修正など編集作業全般をチェックしています。

 昨年4月以降、紙面の中心は新型コロナを巡る問題になりました。特に昨年の春学期(4~9月)は授業が全てオンライン化され、キャンパスへの出入りも厳しく制限されました。大学新聞では、オンライン授業のメリット・デメリット、新人勧誘ができず存続の危機に陥った課外活動団体、売り上げ大幅減で廃業に踏み切った学内食堂など、さまざまな話題を取り上げてきました。

 先程、部員は約25人と言いましたが、1、2年生だけで20人を超えます。コロナ禍で学生生活にも影響が出ている今だからこそ人とつながりたい、情報を伝えたいという思いを持っているからに違いありません。10年後、20年後に大学新聞を読み返してみると、きっと貴重な歴史の記録になっているはずです。

 今年5月で還暦を迎えました。肩や腰の痛みに悩まされるなど、体の方は年相応にボロが出始めました。でも、若者たちから元気をもらいつつ、もうしばらくは、つくばの地で現役生活を送りたいと考えています。

(鴨志田 公男)

※鴨志田公男(かもした・きみお)さんは1961年水戸市生まれ。京都大理学部卒。86年入社。初任地は奈良支局。福井、京都、大阪科学部を経て東京科学環境部。前橋支局長、北海道報道部長を経て論説委員。2019年5月に退社。

2021年6月15日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑬ ある新聞記者の歩み12
政治部に移って、人間くさい政治家とのつきあいを楽しむ日々 抜粋

(インタビューは校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、“本拠地”経済部を離れて政治部に移ります。1977(昭和52)年、35歳の頃でした。政治の現場で政治家という人間に当たるのはむしろおもしろいと感じ、自分に合っていたと言います。昨今、記者と政治家の距離の取り方が問題視されたりしていますが、マスメディア、なかでも新聞の権威が輝いていた時代に、取材の現場はどんなだったのか、それをビビッドに率直に伝える証言は貴重です。

目次
◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”
◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍
◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」
◇35歳 最年長“番記者”になる
◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく
◇番記者は鵜飼の鵜
◇聞き終わったら「合わせ、合わせ」で各社共有
◇首相の追っかけ係は通信社
◇まんじゅう的魅力かドーナツ的人気か 深くつきあわないとわからない
◇ナベツネさんはすごい

◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”

Q.いよいよ政治部ですね。

 1977(昭和52)年の1月に政治部に配属になりました。大手町の経団連会館3階の重工クラブから永田町への“転勤”でした。前年末に“保守傍流リベラル派”といわれた三木内閣が総辞職して、“保守本流”の福田赳夫内閣が成立(1976年12月24日)した直後です。個人的なことで言えばその前年の10月に結婚したばかり。女房はカトリック系の私立の中高一貫校で英語の先生をやっていて、真面目一本ヤリ、昼夜逆転生活のブンヤと結婚してビックリしたようです(笑)。マーそれでも経済部は政治部に較べて、そんなに忙しくはなかったですが、政治部は本当に“夜討ち・朝駆け”の生活でしたから、そのペースに合わせるのが大変だったようです。

 なぜ政治部に行ったかということですが、当時、毎日新聞編集局には政経交流という方針がありました。「経済部は大所高所の高みの見物で、とってつけたような経済理論でバンバン書いてるけど、最終的な結論を出す政治の現場って理論で決まるような世界じゃない。政治家一人一人選挙区の事情、その集団の自民党内の派閥の力学、野党との関係、中央と地方の関係など生臭い現場の力学の中で政策が決定されている。これを知らなきゃいけないぞ」というのがひとつです。

 もうひとつは、いろんなテーマで社内的な紙面調整が大切になってくるんですね。社会保障政策だとか、農業政策、特に減反政策、地方への交付税予算だとか、代議士の当落にかなり関係するわけで、結果として政府の政策が「政高官低」、つまり政治が強くなりつつある時代でした。だからどうしても政治部からの情報だとか、パイプ役というのが必要だということになってきたと思います。政治部と経済部の記者を交流させ、パイプの流れを良くしようという事だったのではないですかね。

 今でも思い出すのは、政治部から帰ってきて大蔵省担当当時、いまの「マイナンバーカード」を先取りした「グリーンカード」案が大蔵省から提案され、富裕層の株式所得などを税制面で課税・総合的に捕捉しようとしたんです。法案提出寸前のいいところまで行ったんですが自民党につぶされます。当時の海軍主計学校出身、レイテ海戦生き残りのF主税局長が「本当に政治家ってしょうがないねー、将来の国のことを考えているんかなー」と唇をかんで、天を仰いでいたことを思い出します。

 この辺のところを先取りしていたのは読売新聞で、経済部記者は例えば石油危機の際の電力料金の値上げの時など、自民党の政調会幹部のところに夜回りをして数字を探っていたようですね。毎日の経済部にはそういう意識はなかったな―。

◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍

 ちょうどその頃、相前後して与野党逆転だとかロッキード事件だとかいろんな問題が起きて、政治が経済に介入する場面というのが多くなっていたということがあるんだと思います。また経済界も政治力を必要としていた、グローバル化する経済の中で発展途上国への経済援助など、経済界が請け負うわけですから、いわば“政官財複合体”というものが出来ていたんだと思います。

Q.政治部に行かれたのは、特に希望してではなく、指名されたということですか?

 ぼく自身は政治部でやってみたいと思ってましたよ。ぼくで2代目だったか3代目だったか・・・。ぼくの前は一年先輩の小邦宏治さんという記者が行ってたんですよ。経済部から行くのはだいたい2年契約なんです。契約と言ってますが正確には慣習ですが。ぼくの場合は4年いました。その後ないんじゃないかなー。これはかなり異例なことなんですね。ぼくわりと調子がいいから、政治家とつき合うのはきらいじゃなかったんです。一橋とか東大出た経済部の真面目な記者は、官僚と一緒になって、政治家なんか政策を曲げてけしからんとか言ってバカにしてるわけです。こっちはそんなこと気にしないから、おもしろがってつき合うという気持ちがありました。でも逆に考えてみれば経済部では、あまり必要とされていなかったのかも(笑)

◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」

 最後の四年目の頃は、「おまえ政治部に残るのか、経済部にもどるのか、どうするんだ?」と当時の経済部長から呼び出されたことがありました。ぼくは残ってもいいかなあ―と一瞬思ってました。ところが、政治部は僕と同期の40年入社(昭和40年、1965年)の人が6,7人いました。のちに政治部長から社長になった、横綱審議会の会長にもなった北村正任君、RKB毎日放送の社長になった石上大和君とか、間違いなく政治部長になれる人が3人くらいいたんです。だから、ぼくが残ったとしてもとてもじゃないけど政治部長なんかなれないなと思いました。

 当時、(経済部の時の上司の)歌川令三さんに相談したことがありました。そうしたら「帰ってこい、政治部にいても(部長になれる)目は無いぞ」と言われました。不思議なことに経済部は昭和40年入社(1965年)がぼく以外誰もいなかったのです。入社試験の時は東京オリンピックの時で、百人近く採用したんですね。支局から本社に上がる際、優秀なやつはみんな政治部、社会部などに取られちゃったんですね。それはやっぱり、経済部と政治部の社内的な政治力の違いなんだな。人材については水面下の争奪戦ですから。経済部はあまり社内政治力が無いですからねえ。

 その時、歌川さんが言ったのは「40年組はオマエひとりなんだから、黙って坐ってれば部長になるぞ」って(笑)まあ、そのとおりになりましたが(笑)・・・。めぐりあわせです。でもこんな事、話すと出世主義者のガリガリと思われていやだな―(笑)

Q.では、政治部に配属された頃まで時間を巻き戻して、政治部でのお仕事を具体的に伺います。

◇35歳 最年長“番記者”になる

 政治部の時代というのはすごくおもしろかったです。とにかく、政治部っていうのは一種の徒弟制度のようなところです。スタートは番記者です。支局から上がってきた各社の政治部の若い記者が、だれでも最初に通るポジションです。少なくとも日本の政治、経済、外交あらゆる問題が、最終的には総理官邸に集中するわけで、本当に勉強になります。そこで1年程度やって各クラブに行くわけです。政治記者の登竜門といってもよかったですね。

 ぼくは当時35歳位でしたから、各社の中で最年長でした。特に、日経は、以前“少年探偵団”と呼ばれていたなんて話をしたように、支局まわりがなくて入社後、直接政治部に配属になるので、いちばん若かったですね。安全保障担当していた伊奈さんなんて、大学を出たばかりで一回り違いました。

Q.伊奈さんというのは伊奈久喜さんのことですね?2016年に胃がんのためなんと62歳で亡くなったのですね。何か印象に残っていますか?

 背の低い、小太りで色の白い、でも福田赳夫首相に臆せず質問をしていましたね。ぼくが経済部から頼まれて、税制の問題かなんかで総理に質問すると「佐々木さん、今の総理の発言、解説してよ、経済問題は佐々木さん専門でしょ」なんて調子のいいこと言いながら、メモ帳を出していたことを思い出します。後年、安全保障問題について署名入りで格調高い記事を書いているのを見て、いい記者になったな、あの伊奈ちゃんが―、と思いました。残念だな―。

 それと今テレビで売れっ子のコメンテーター田崎史郎さんも時事通信で、一時期、福田番をしていたと思いますよ。ウイキペディアで見ると大平番となっているけど、一緒にいたように思うな。彼は学生時代、成田空港建設反対闘争、いわゆる三里塚闘争で逮捕され13日間も拘留されていたんですよね、そういう人が権力のトップの間近かにいたんだから----。公安も困っただろうな―。でもその彼が今や政権寄りのコメンテーターとして有名で、安倍政権時代は首相と一緒に寿司会食をしたというんで“スシロー”なんてネットで冷やかされていたんだから面白いよねー(笑)。

 そうか思い出しました。当時番記者仲間だった共同通信の福山正喜さんはその後、社長(2013~18年)になりましたね。産経は後に社長(2011~17年)になる熊坂隆光記者がいましたね。その後、中曽根派担当で一緒で仲良くしました。

 政治部の記者はその後、社内でトップに上り詰める人が多いですね、各社とも。やはり菅総理ではないですが「総合的・俯瞰的」にモノを見る目が自然と養われ、社内の派閥抗争も自民党のそれに比べれば赤子の手をひねるようなもんだったかもしれません(笑)。

◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく

 ぼくといっしょに番記者をしていた毎日の記者は、支局から上がってきた若いⅠ記者と、後にセブン&アイ・ホールディングスの常務になる稲岡稔さんの3人だったように思います。3人でローテーション組んでいたように思います。

 昔の官邸の入口のすぐ脇に、通称番小屋というのがありました。10畳もないくらいの広さの部屋でソファーが2つくらい置いてありました。そこに各社のみんなが詰めているわけです。担当ではないときには、番記者が持つことになっている内閣府、官房副長官などのところに行くわけです。時間があれば首相官邸前にある「国会記者会館」の毎日新聞の部屋に行って先輩記者の話を聞いたりしていました。思い出しましたがその一階に喫茶店があって、そこに当時はやりのコンピューター・ゲームの走りの“インベーダーゲーム”機があってよく遊びましたね(笑)。

 番記者は官邸記者クラブに属しているわけですが、このクラブには官邸キャップの下に名簿上は数十人いたと思います。総理会見には経済、社会部などからも出ることがありますから、そのくらいの数になりますね。常駐記者は10人くらいはいたんではないでしょうか。官邸内にチョットした学校の体育館並のデカいスペースの「官邸記者クラブ」の看板を掲げた部屋がありました。

 このほかに自民党担当の「平河クラブ」、野党担当の「野党クラブ」があって、これに外務省担当の「霞クラブ」というのが、さしずめ四大クラブという感じでした。他には厚生省、労働省、自治省などのクラブが政治部の担当でした。ただ政治部の主流はこの四大クラブで、ここのキャップを幾つかやっていなくては部長にはなれない、という暗黙の了解があったように思います。「平河クラブ」には、党内の各派閥、当時は福田派、大平派、田中派、中曽根派、三木派などの各派閥担当がいました。いわゆる派閥記者ですね。やはり福田、大平、田中派担当が幅をきかせていましたね。

 番記者を上がると、こういったクラブに所属するわけです。

 番記者というのは番小屋に詰めてて、黒板にその日の総理の概略の日程が張り出されのを見て、朝8時頃に総理が車から降りて官邸入りすれば、二階の執務室の前まで付いて行くわけです。テレビ各社も入れて十数人で取り囲んで、組閣の時、新内閣の閣僚がひな壇のように並んで写真を撮る、議員あこがれの階段を上がるわけです。なにせ数分、二三分位だったでしょうから、質問内容を事前に各社で打ち合わせていたと思いますが、「今日のご日程に〇〇さんに会われるというのが入っていますが何のお話するのですか?」とかいうように質問したりします。あるいは他社の特ダネ「今朝の〇〇新聞の記事はどうなんですか?」なんて聞くわけです。(以下略)

2021年6月1日

フクロウの森から <前略。このほど、毎日新聞社を退社しました>と 萩尾信也さんの挨拶状

昨年の春にかの地に先立たれたCWニコル大兄が眠る信州信濃町のアファンの森で、1週間ほど前から山小屋に泊まりながら山仕事の手伝いをしています。氏と四万十川や北極圏を旅し、グラスを手に語り明かした日々は至福の時間でした。写真は、この春に森で生まれたフクロウです。樹幹の間に見つけ、シャッターを押しました

 <最後まで記者を続けることが出来たのは、おおらかな社風と個性豊かな先輩と、多彩な同僚諸氏、取材を通して知己を得た方々のおかげです。この場を借りて、御礼申し上げます。

 思い起こせば、入社試験の面接で「取り組みたいテーマはありますか?」と問われ、臆面もなく「人という存在と、心という迷宮を探検したい」と答えました。

 42年間の記者生活を経て、いまだ迷路にはまり込んだままです。探求の旅は、いのちの際まで続けたいと思います。

 やりたい事、行きたい所、会いたい人は、数え切れません。身の丈に合わせて、ぼちぼち歩いて行くつもりです。どこかで姿を見かけたら、声を掛けてください>

 退職の挨拶状を方々にお送りしたら、社会部の先輩から「毎友会のホームページに載せてもいいかな。加筆してくれる?」と電話がありました。

 この期に及んで、私事をさらすことに躊躇しましたが、お世話になった方々の顔を浮かべながら、パソコンに向かいました。御笑読いただければ、幸いです。

*     *     *

 入社したのは、高度経済成長とバブル期の谷間にある1980年の春でした。同期は40人ほどいたでしょうか。

 経済白書が「戦後の終焉」を告げた時代に生まれ、空き地でチャンバラや三角ベースボールに興じ、テレビが我が家に来た日のことを、子ども心に記憶する「三丁目の夕日」の世代です。

 記者になった年の夏には、ソ連のアフガン侵攻に抗議して日米を含む67カ国がモスクワ五輪をボイコットし、年の瀬にはジョン・レノンが凶弾に倒れました。

その3年前には、経営が破綻した毎日新聞は、「新旧分離」で存続を図っています。記者の募集要項から「大卒以上」の条件を外し、「学歴不問」としたのも、再建への様々な試みのひとつでした。

 結果、同期には高卒や大学中退者が並び、「学力不問の80組」と呼ばれました。大学在籍中に計2年に渡って南米やアフリカを放浪していた私も、紛れ込むことが出来ました。

 当時の早稲田は、代返やレポートで単位をもらえる寛容な空気に満ちていました。その恩恵で、私は世界に飛び出し、多様な文化や価値観に接することが出来ました。

 履歴書の書き方も知らず、特技には「逃げ足が速い」、得意語学は「言葉の通じない民族との会話の仕方」と記入しました。役員面接では、ライオンやクマに遭遇した時の処し方、砂漠で暮らす裸族の娘に求愛したい一心で未知の言語に挑んだ体験を話しました。

 アポなしで早稲田の総長室を訪ねたのは、一次試験(学科と作文)パスの連絡があった翌日です。当時の新聞社の入社試験は、11月でした。

 「せっかくのチャンスを、ものにしたい」。思案の末に、「総長の推薦状をもらおう」と思い立ち、ダメ元でドアをノックしました。

 「推薦状を書いていただけないでしょうか」「‥‥‥」「室長、前例はありますか?」「聞いたこともありません」「前例を作っていただけないでしょうか」

 清水司総長や総長室長とこんなやり取りがあり、1時間後に総長直筆の推薦状を手に、竹橋の本社の人事部を訪ねました。

 そして、さらに1時間後。私は、推薦状を持ったまま、総長室で頭を下げていました。「申し訳ありません。社長の名前を間違えてしまいました」

 毎日は、平岡敏男社長でした。「としおのとしは、どっちかな」「俊敏の俊です」。総長の質問に、答えたのは私です。

 「君、記者に向いていませんね。でも、このままにしておくのは、平岡さんに失礼だしな‥‥」。総長は頭を振って、もう一度筆を手にし、私は書き直して頂いた推薦状を持って、いま一度、人事部を訪ねました。

 余談ですが、社会部の先輩の佐藤健さんの「生きる者の記録」が、2003年の早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した際に、私は故人の名代で授賞式に臨みました。

 授賞式の後に、肩をたたかれて振り向くと総長室長の顔があり、こんな言葉が続きました。「字は間違えたけど、毎日が採用したのは間違ってなかったようだね」

 初任地は、群馬県の前橋支局でした。大学の後輩が調達してきた軽トラの荷台に布団袋と着替えや洗面道具を詰め込んだリュックを積み、支局の3階にある支局長宅の空き部屋に荷を解きました。

 「親と上司は選べない」。支局の先輩に教わった教訓です。当時の湯沢支局長と寺田デスクは、今でも同人に語り継がれる名コンビで、支局は活気に満ちていました。

 支局長の手料理に、バス・トイレ付。快適さにそのまま居ついてしまい、先輩たちに「アパートを探せ」とせかされるまで、2カ月近くお世話になりました。

 支局には、通信部やパンチャーさんや運転手さんを加えて、20人近くが在籍していました。新旧分離に伴う人事の滞留で7年生もおり、地元紙とも渡りあえる顔ぶれでした。

 通信部は、土地に根付いたベテラン揃いで、事あるたびに通信部に泊まり込んで、取材のいろはを教わりました。奥さんの手料理は、遠慮なくおかわりしました。

 沼田通信部の佐藤和昭さんは顔が広く、尾瀬や谷川岳の連載記事では、山の人脈をつないで頂きました。山岳遭難が発生すると、東京本社の屋上にあった鳩小屋から、「鳩係」が伝書鳩を運んできた時代の証人でもありました。

 捜索隊に同行して現場に向かい、小さな字で原稿をつづった紙片を鳩の脚管に入れて、放ったそうです。「東京の本社の屋上に鳩小屋があってね。うちの鳩は、他社の鳩を引き連れて帰ってくるのさ。だから、一報は毎日の圧勝だ。降版した後に、『おたくの鳩が来ていますよ』って電話したよ」

 佐藤さんは2年前に亡くなり、沼田の家に焼香にうかがいました。

 5年間の支局暮らしを経て、東京社会部に異動になりました。サツ回りで下町を担当し、月に3度は泊まりで社に上がりました。

 最終版が降版すると、テーブルを囲んで深夜の酒盛の開宴です。そのうち、政治部や外信部や運動部の猛者が顔を出し、口角泡を飛ばして論争が始まりました。

 記事の扱いから世界情勢や社会風俗に至るまで話題は尽きず、明け方まで続くこともありました。個性的なメンツがそろい、風通しのよい社風を肌で感じました。

 日航ジャンボ機墜落事故が起きたのは、その夏です。リュックに登山道具を入れて社に上がり、遊軍長に「上野村は、私のショバです」と現場取材を志願しました。ホバリングするヘリから現場の尾根に飛び降り、野宿をしながら取材を続けました。

 乗客のご家族たちとは、今でもお付き合いを頂いており、多くの学びや気づきを得ました。日航機事故に限らず、取材先で出会った方々に結んでいただいた縁は、記者人生の最大の財産となりました。

 バンコク支局で過ごした3年と、甲府のデスクを務めた1年半、サンデー毎日で副編集長を務めた1年半を除き、東京本社の社会部で記者を続けました。「本籍は」と問われれば、迷うことなく「東京社会部」と答えます。

 先輩諸氏から授かった「記者の流儀」も数え切れません。

 「群れるな。君は、かもめのジョナサンになれ」。入社に際して、社会部OBの山崎宗次さんから頂いた言葉です。

 群れを離れて、飛ぶことを探求した孤高のカモメの寓話でした。山崎さんには、入社試験の前に2カ月ほど作文の指導を受けました。

 「警視庁をやってみるかい」。サツ回りの終盤に、山本祐司部長から打診を受けました。

 「クエスチョンマーク付きですか」「そうだね」「ノーで、お願いできますか」。この顛末が部内に伝わり、顰蹙を買いましたが、部長は遊軍の一員に加えてくれました。

 「まずは1年、やってみることだ。チャンスを生かすも殺すも、自分次第だよ。自由にさせてもらうというのは、そういう事だよ」。牛のようなその風貌とともに、忘れがたい言葉です。

 「記者の醍醐味は、異なる文化や物差しに遭遇することかな。自分の価値観が崩れるのはショックだけど、新しい風景が見えてくるこがある。その感受性を失ったら、脳みそが固くなった時だよ。潔く一線から退いて、後進を育てた方がいい」

 バンコク支局とプノンペン支局でお世話になった草野靖夫支局長からは、こんな薫陶を受けました。インドシナ紛争の残り火がくすぶる時代に、御一緒した3年間は、熱く、刺激的な毎日でした。

 「クサノさ~ん」。蒸したての中華饅頭のような顔を見つけると、屋台のおばさんやゴーゴーバーのお姉さんから、政財界の顔役や東南アジア各国のジャーナリストに至るまで、親しげに声を掛けてきました。退社後、インドネシアで邦字紙の編集長を務められ、その門下生が毎日を含む多くの新聞社で活躍しています。

 「一緒に三途の川を渡ろう」「いいえ、途中までは同行しますが、僕は途中で帰ります」。遊軍記者の大先輩である佐藤健さんとは、「生きる者の記録」の連載を始める前に、こんな会話がありました。

 「人間ってやつは実におもしろい。人の数だけ生老病死の物語がある」。自らの死出の軌跡もルポする「生涯一記者」の先達でした。

 「最期まで、目をそらすなよ」「望むところです」。意識を失われた後、聴診器で心音を聞き、瞳孔を見続けました。気が付けば、とうに健さんの享年を超えてしまいました。

 「お前は、会社に足を向けて寝られないな」。同期入社の仲間に繰り返し言われた言葉です。自由に飛び回ることが出来たのは、社の経営や後進の育成に携わって頂いた先輩や同僚諸氏のおかげです。

 最後の取材現場は、東日本大震災から10年を迎えた東北の沿岸部となりました。

 震災の年に、1年間に渡って被災地から記事を送り続けた私は、再訪の地で、地元の方々に固有名詞で記憶されている毎日の記者がたくさんいることを知り、誇らしく思いました。

 記者と取材対象という関係を超えて、家に泊まり込み、胸襟を開いて、絆を育み続ける後輩たちです。その数は、朝日やNHKや共同を凌駕していました。

 そんな現役諸氏のさらなる健闘を祈念しつつ、老兵は去り時を自覚しました。

 寂しさとは無縁の、清々しい思いです。社を去っても、「記者」という生き方は骨の髄まで染みついています。

 お世話になりました。今後も、末永いお付き合いを頂ければ、幸いです。

 <略歴>1980年春、毎日新聞入社。前橋支局、東京社会部、バンコク支局兼プノンペン支局。外信部副部長、サンデー毎日副編集長、東京社会部編集委員などを経て、2015年6月~21年3月末まで東京社会部専門編集委員。現・毎日新聞客員編集委員。

【退任挨拶状には、次のくだりも】これから夏場は、少年時代を過ごした岩手県釜石市で、友人が経営するシーカヤックの店「MESA」のツアーを手伝いながら、イワナ釣りや山登りを満喫するつもりです。地元の仲間たちと、忘れ去られつつある三陸の人々の営みや文化風俗の掘り起こしもしたいと思います。MESAは、海辺にあるこじゃれた店です。震災で流され、昨春、再建されました。2段ベッドに宿泊も出来ます。遊びに来てください。

2021年5月31日

元「サン写真新聞」中森康友さんからの便り

 元スポニチ編集委員のジャーナリスト・中森康友さん(ことし86歳)から、スポニチ紙面添付のメールが届いた。

 中森さんは、1946年に創刊した「サン写真新聞」に入社、その後スポニチに移り、ボウリング担当を長く続けた。

 《変種株コロナ禍のさなか、お元気でお過ごしですか。ワクチン接種に望みをかけて一日も早い収束を願う日々です。ご自愛ください。

 女子ボウリング界の隆盛に活躍されたプロボウラーの女王、須田開代子さんが逝かれて今年で26年になります。

 今朝のスポニチ紙面に連載企画“ヒーロー巡礼「ありがとう」を伝えに…“で須田開代子さんが取り上げられました。

 かつてのボウリング担当記者として改めて故人のご冥福をお祈りし掲載記事をお届けします。一人息子さんの近況にも触れられています》

(堤  哲)

2021年5月19日

奈良本英佑さんがFacebookに写真を何枚も添え、投稿しています

 5月14日の追加情報です。

 イスラエル大使館へ、デモ隊の行く手を遮ったのは警察官だった。

 奈良本さんは、こう書いています。

 「麴町警察署の警官は、イスラエル大使館のお雇い警備員でしょうか。数年前は、こんなことはなかった。2014年5月にイスラエルのネタニヤフ首相が来日、両国間の「軍事協力協定」ともいうべきものが成立して後だと記憶しています。こんな役割をさせられる警官も気の毒です」

(堤  哲)

2021年5月18日

大阪社会部旧友、奈良本英佑さん(79歳)がガザ支援のデモに

集会で挨拶する奈良本さん(右端)

 イスラエルによるガザ地区への空爆が続いているが、それに抗議するデモ隊に大阪社会部旧友・奈良本英佑さん(79歳)の姿があった。

 5月14日(土)午後3時半過ぎ、東京メトロ有楽町線麴町駅近くの旧日本テレビ本社ビル跡前の交差点。デモ隊は、近くの在日イスラエル大使館を目指したが、警備の警察官に阻まれ、集会になったとみられる。

 「ガザへの攻撃をやめろ」「殺すな」
 「Stop War」「Stop Killing」
 「SAVE GAZA」「Free Palestine」

 手に手にプラカードを持ったデモ隊は50人ほどだ。

 奈良本さんは、法政大学名誉教授。中東問題の専門家で、『14歳からのパレスチナ問題—これだけは知っておきたいパレスチナ・イスラエルの120年』(合同出版2017年刊)の著書がある。

 同書の著者プロフィールによると、1965年から80年まで毎日新聞記者。退職後、プリンストン大学で中東史を専攻、1984年修士課程修了。独協大学非常勤講師などを経て、1991年から2012年まで法政大学教員。主な著書に『パレスチナの歴史』(明石書店2005年刊)、翻訳書は、G.H.ジャンセン『シオニズム—イスラエルとアジア・ナショナリズム』(第三書館)、Y.ハルカビ『イスラエル・運命の刻』(第三書館)など。

 奈良本さんは、大阪社会部の吹田通信部員だったことがある。通信部は、北千里の毎日新聞独身寮の1階にあって、私は大阪社会部に転勤になって、この独身寮に住んでいた。通信部からよくピアノの音が流れた。ピアノは独身寮の備品とは思われないので、奈良本さん自身が持ち込んだものと思う。休みに通信部を訪ねると、美味しい紅茶を入れてくれた。京都生まれの穏やかな趣味人という感じだった。お父さんは歴史学者の奈良本辰也さんである。

 大阪社会部の同期は、北村正任、田中良太、鳥越俊太郎、藤田修二、亘英太郎、高山義憲、葛西進司、高橋裕夫、山崎貞一らである。

 連帯の挨拶に立った奈良本さんは、パレスチナの歴史を述べたあと、「イスラエルはガザ地区への攻撃をやめるよう」強く訴えた。

 現地時間で翌15日は、イスラエルの建国でパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大破局)の日」にあたり、世界各地で抗議行動が行われる、と司会者が紹介した。

(堤  哲)

2021年5月9日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑫ ある新聞記者の歩み ⑪トマトから鉄鋼まで 自由な社風のもとでのびのび取材 抜粋

(インタビューは校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、入社後約5年間水戸支局に勤め、そのあと28歳で経済部に配属となりました。政治部に移るのが35歳のときですが、その間8ヶ月ほど語学留学で英国に行ったので、経済部生活は実質6年強ということになります。佐々木さんの新聞記者としての骨格がこの6年間でできた印象を持ちます。後年また経済部に戻ってきますが、今回は第1次経済部時代のしめくくりです。

目次

経済部時代(7)

◆「冬のトマトは石油のかたまり」
◆部会では自由に発言 時には激論 
◆社説は特に意識になし
◆「重工記者クラブ」配属 春闘取材の相手から飲まされて
◆「鉄は国家なり」鉄がいちばんエライ時代
◆経営者の運と不運をまのあたりに

経済部時代(7)

◆「冬のトマトは石油のかたまり」

Q.ところで、『当世物価百態』(毎日新聞経済部編、1976年1月20日発行)という本が、佐々木さんが英国留学に行く同じ頃に出ていますね。佐々木さんが書かれたと以前伺ったトマトの話がトップに載っていて、たいへんおもしろかったです。「冬のトマトは石油のかたまり」なんてのは、いい表現ですよね。70の品目ごとに書かれているんですね。

 トマトって調べてみたらおもしろかったんですよ。ほかにもいくつか書いていると思うんだけど、どれだったかなあ・・・。これは当時の経済部長の西和夫さんが、ゴーサインを出した企画だったと思います。東大経済学部出身のシャープなセンスを持った人で、後に編集局長になります。第一次石油ショックがもたらした“狂乱物価”が落ち着いて、ようやく世界経済が景気回復への軌道に乗った時期、物価を鳥の目ではなく、虫の目でみてみようという発想でスタートしたと思います。 今この本を見ると「生鮮食品」にトマト、サンマ。「加工食品」にたくあん、インスタントラーメン。背広などの「衣料品」、ラジオ、大工の手間賃などの「家具、住居関係」など本当に雑多な商品が扱われていて驚きます。今の各社の経済面を見ても、こういうセンスの企画はないように思いますね。今は生活家庭部の守備範囲になるんですかね。でも今読んでも面白い企画ですね。

Q.いまだったら書いた人の署名が入るからわかるんですけど、個人名は入ってないですね。

 当時は記者名を入れていませんでしたね。だから記者個人がキチンとスクラップしなくてはいけないんでしょうが‐‐‐、ズボラだからやってないんだよね(笑)。この「トマト」の記事には思い出があって、フジテレビのアナウンサーで有名だった田丸美寿々さんと結婚した、商社問題に強かったフリー・ジャーナリストの美里泰伸さんが丸紅の広報室に行ったとき出会って、「佐々木さんが書いたトマトの原稿面白かった」とほめてくれたことを思い出します。

Q.経済部長の西和夫さんのお名前だけは代表として入っていますね。

 西さんは最近亡くなりました。90歳くらいだったと思いますが、最期までしっかりなさってました。横浜にお住まいで、時々、東京に出て来られてはご一緒に飲みました。でも彼は「佐々木君は会社を辞めてから活躍している。原稿も上手くなった」と、当方が2018年出版したノンフィクション「封印された殉教」(上下巻、フリープレス刊)などをほめてくれました。嬉しかったナ。出来たら現役の頃、ほめてもらえればよかったんですが(笑)

この『当世物価百態』の各項目の最後に「格言」が出てるでしょ?

Q.出てますね。トマトのところは「どんな虫けらだって、踏みつけられりゃ、何を!というかっこうをするものだ セルバンテス」とあります。

 こういうのを入れようっていうのは、ぼくが考えたんだと思うんだけど・・・。「馬鹿野郎、違うぞ」って言われるかもしれないけど、当時、なんかこういう格言使うのが好きだったんですよ。わざわざ「世界の名文句引用事典」(自由国民社刊)なんて本を買い込んで読んだりしてましたから。

 ぼくは原稿あんまりうまくなかったんですが、認められたっていうのは、石油ショックのとき・・・いや、終わってからかなあ、あの前後に石油危機の検証みたいな原稿を書いたんですよ。4回か上中下だったか・・・。その原稿はすごく手法が新しかったのです。「情報」、「証言」、「検証」という項目を使って、こういう情報があります、たとえば「アラブの石油埋蔵量は40年と言われています」が、その「証言」はこうです。それを「検証」するとこうですという手法です。一回の連載に5本くらい「情報」、「証言」、「検証」を入れたかな。高度な分析原稿が下手だから苦し紛れに編み出した手法なんです。

 担当デスクなんかに、「新しい手法だ。すごくおもしろい」って、ほめられた覚えがあります。それを読んだ週刊東洋経済に原稿書いてくれって言われたので、同じパターンではよくないと思って、普通の原稿で書いたら、その後、注文が来なくなっちゃいました(笑)。

◆部会では自由に発言 時には激論 

 毎日の経済部は自由に書かせるというか、新しい角度で書かせることについては臆病ではなかったですね。おもしろいからやろうかって。

Q.『当世物価百態』の前書きには1975年7月から毎週4回、約4ヶ月連載されたとあるので、貿易記者クラブの頃ですか?

 そうそう、商社担当の頃ですね。当時、経済面に加えて新経面(新経済面)というのができて間がない頃でした。他社に先がけて実体経済っていうのは民間にありというので作られました。日経産業新聞なんかもそういう流れの中で登場したということだと思います。

Q.年表を見ると日経産業新聞、1973年創刊ですね。

なるほど、少し早いですね。新経面は、ぼくが経済部に来る前の年にできたと思います。

Q.経済部は部会なんかはどんな風にやっていたのですか。

 経済部は官庁担当と民間経済担当が別々に部会をやってました。民間部会は、10時からだったかな。大手町ビルの自動車工業会の会議室を借りてやりました。そこでこの週のできごとだとか、企画記事などを出し合ってました。でも途中から工業会の会議室が使えなくなり、本社の会議室になった記憶があります。

Q.パレスサイドビルの本社でやるっていう発想はないんですか?

 やっぱり取材現場に近いからですね。経団連会館とか歩いて5分もかからないでしょ。

Q.パレスサイトビルには、経済部在籍中はあまり縁がなかったということですか?

 いやそうではなく、原稿は所属のクラブから本社に送るわけで、その掲載の確認のためにほとんど毎日、本社に上がって、刷り上がりを点検します。普通のサラリーマンと違って、朝は担当の記者クラブ、霞が関(官庁)、大手町界隈(民間)に“出勤”、夜遅く会社に上がるというパターンですね。

 ただ月に1回の経済部の全体部会はありましたね。夜8時位からの開催ではなかったかな。パレスサイドビル4階の編集局の会議室でした。そのときに民間担当と官庁担当キャップが、来月はこうなりそうだとか話をして、部長が編集局の方針など、いろんなことを話したりしました。海外取材帰りの人からの土産の酒も入りますから、そこで大議論をしたりして、忖度なし、言いたいことは言いましたね。転勤などがある際は本人の挨拶と、出席者全員からのはなむけの言葉が述べられたりして、結構、時間がかかって、終わるとビルの裏口に出ている屋台のラーメン屋で良く飲みました。

Q.部会で意見が分かれるようなテーマって、たとえばどんなことですか?

 ぼくの時代は国債発行の限度額が確か30%を超えるか超えないかの議論があって、いかに政治からの圧力に歯止めをかけるかについて、大蔵省は財政健全化一本ヤリ、国債増発絶対反対。だからそういうことについての議論がありました。また当時の内閣は自民党リベラル派の三木内閣、東京には革新の美濃部知事、大阪は共産党推薦の黒田知事など革新自治体が続出する時代。談論風発、若い記者の意見を聞こうという感じが強かった気がします。

 それから石油ショックのときも、部会にはキャップが上がって現状説明をして、こういう方向に行くというような話をしたはずです。それでぼくの「情報」と「証言」、「検証」みたいな、今までにない企画をやらせよう、という話になったんではないかと思いますよ。こういう議論を受けて経済部長は、編集局長が開く局長会で局次長以下の編集幹部に説明、了解を受けていたと思います。

 (以下略)

2021年4月19日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑪ ある新聞記者の歩み ⑩抜粋

(インタビューは校條 諭さん)

 全文はこちらで https://note.com/smenjo

 現在は、ネットの発達とスマホの普及のもと、新聞というメディアの退潮が目立ちます。しかし、石油危機当時は、新聞がマスメディアの王者としてニュースの供給を圧倒的に担っていました。テレビも映像の力を発揮して成長しつつありましたが、信頼度という点では新聞が常にまさっていて、ジャーナリズムの中心的担い手でした。新聞記者の“酒とバラの日々”とでもいうのでしょうか。

目次

経済部時代(6)
◆現役記者との会話から
◆隔世の感!日経の「就職企業人気ランキング」の特集記事
◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・
◆砂漠の国と新緑の日本
◆中東のオアシス レバノン
◆中曽根さんの政治家としてのカン
◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も
◆得がたい記者仲間たち
◆記者にとって麻雀とは

Q.毎日新聞社という企業体は(新旧分離という)苦難にぶつかったわけですが、メディアとしての新聞は全盛期だったわけで、その時代を経験された記者のオーラルヒストリーを記録しておくのは、時代の証言としておおいに価値があると思います。そこで少々趣向を変えて、取材にまつわるこぼれ話などいかがでしょうか?

◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・

 1974年1月7日に当時の中曽根康弘通産相がイラン、イラク、アブダビ(現アラブ首長国連邦)を訪問します。その時、同行取材をした話はすでに第6回で話しましたよね。その前年の73年10月6日に第四次中東戦争を契機として、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が消費国に供給制限をかけ、反イスラエル・パレスチナ支持を条件に、石油供給の段階的制限を打ち出します。

 石油危機の勃発です。日本経済はパニックに状態となり、“アブラ乞い外交”と揶揄されながら、12月に三木前首相がサウジアラビアなどを訪問、中曽根通産相も、1月早々に旅立つわけです。日本国内では原油を燃やす火力発電が主流だった電力供給体制でしたから、大変です。電力供給制限が発令されるなどの緊迫した状況下、三ヶ国を訪問して、日本政府がパレスチナへの理解を示していることを表明、18日に帰国しました。

 私は帰らずにテヘランからレバノンのベイルートに移り、「無資源国日本の危機」をテーマとする1面連載企画の取材のため、サウジアラビア、クエート、アブダビの現地取材に出かけました。ベイルートに拠点を置いて風呂敷一つに取材用具を入れて飛び回った記憶があります。そのときに第1回目か2回目の記事を書きました。1面の左上で連載したかなり大きい企画でした。とにかく“産業のコメ”といわれた石油が来なくなるというので、狂乱物価といわれ、物価がほぼ3倍になって日本経済を揺さぶっていました。

出所)『証言第一次石油危機』(社)日本電気協会新聞、1991年

 でもサウジアラビアなどの産油国に行くと、国中のんびりした様子。石油危機とは程遠い状況。産油国と消費国というポジションを考えれば当たり前なんですが、そのギャップに驚きました。

 思い出すエピソードがあります。首都リアドで東京で紹介状をもらっていた、三菱商事、伊藤忠、丸紅などの現地駐在員に会うと、「市内でタクシーに乗る時はよく気をつけろ」と言われましたよ。運転手が、日本人男性を見ると助手席に座れと言うんだそうです。

 サウジでは結婚の際、男性が女性の家に大金を払うんだそうです。お金がないと女性と結婚することができないんです。タクシー運転手はそういう経済的余裕がないので、同性愛が多いんだというんですね。それで助手席に座るとさわられると言われました(笑)。

 「佐々木さんは色白だから気をつけた方がいいよ!」(笑)

 そんなおかしな話が交わされるほどのどかでした。被害には会いませんでしたが(笑)。

◆砂漠の国と新緑の日本

 当時、三菱商事がリアド郊外で石油化学工場の建築工事をやっていたので訪ねました。とにかく日本人男性だけで20人はいたでしょうか。酒は飲めず、女性の事務員がいるわけでもない索漠とした、周りは緑のない全くの“砂漠の飯場”だったことを憶えています。とてもここには長期滞在はできないなと思い、商社マンってえらいな!と思いましたね。

 日本に帰ってからその話を確か第5回に書いた、右翼の資源派フィクサーといわれた田中清玄さんにしたことがあります。そうしたら、田中さんが以前サウジの王族を5月の新緑の時期に、箱根に招待したことがあるんだそうです。その時、その王族がホテルの部屋から見える新緑に見惚れて立ち尽くしていたとか。「砂漠の国からきて新緑の美しさに感動していたんだね。その心中を考えると声をかけられなかった」という話を聞いたことがあります。本当に日本は四季に恵まれた“美しい国”だと思いますね。

◆中東のオアシス レバノン

 この当時、レバノン・ベイルートは中東のオアシスでした。旧フランス植民地でイスラム教のスンニ派、シーア派が共存し、キリスト教もカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教などが共存してモザイク国家といわれていました。バランスよく政治的にも安定したいたようです。町並みはヨーロッパ風、アラブ風の衣装を着ている人も少なく、切れ長の目をした先端のパリモードを着こなした美人が多く、“中東のパリ”また“中東のオアシス”とも言われていました。地中海に面して気候も良く、食い物もおいしくて、私は海外で「また行きたいところはどこか?」と」言われれば、間違いなく「あの当時のベイルート」といいますね。

 しかし訪れた翌年の1975年には、この政治的バランスが崩れます。石油危機をきっかけとした中東紛争に巻き込まれ、内戦が始まり、見る影もなく市内は破壊されたようです。ようやく落ち着いてきたと思ったら昨年、ベイルート港で大爆発が起きて混乱が収まらないようです。日産のレバノン出身のゴーン元社長がここに逃げましたが、彼はここの生まれですから昔の思い出があるんでしょうかね。

 当時、サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦とか、厳しいイスラム教の戒律の国の金持ちは、休暇のときはレバノンに来て羽を伸ばして遊んでいたといわれていました。日本料理店も2軒くらいありました。地中海の海岸沿いのPigeon Cliff(鳩のがけ)といったかな、そこに日本料理屋と地中海料理屋があって通いました。

◆中曽根さんの政治家としてのカン

Q.中曽根さんは石油危機の前の年に中東を訪問しているのですね。

 石油危機の半年前の1973(昭和48)年5月の連休中に、イラン、イラク、サウジアラビア、アブダビ、クウエートに行ってます。全部国王などの元首に会っているんです。そのルートが、翌年行く時に生きるのです。当時、ぼくの通産省時代のキャップだった山田尚宏記者(後・経済部長)が同行したのですが、イランのパーレビ―国王に単独会見したことを覚えています。

Q.そのとき中曽根さんは“石油ショック”の到来を、察知していなかったわけですよね?

 そうです。だけど、彼の勘というのは、政治家としてやっぱりすごいですね。当時日本のエネルギーの80%は中東からの石油輸入に依存していたんです。イランからは37.3%、サウジアラビアは16.7%という具合でした。「民族の興亡は石油外交の成否に」と帰国後の「エコノミスト」誌(毎日新聞社発行)の73年6月19日号で語っています。 中曽根さんは、戦争中、海軍主計学校卒業後、海軍中尉としてインドネシアなんかに行ってるから、石油がなくて日本がたいへんだったということは身に染みて知ってるわけです。“無資源国・日本”という安全保障上の基本ポジションを押さえていたと言えます。

 わたしはその4年後の1977年に政治部に異動になり中曽根派担当になるんです。ある時、二人だけの時、中曽根さんに「あのとき中曽根さんはアラブによく行かれましたね?アメリカのキッシンジャー大統領補佐官などから日米同盟の枠の中で動けと言われていたのに、独自の対アラブ寄り外交を展開できたのですね。外務省の抵抗もすごかったと聞いています」という質問をしたことがあるんです。

 中曽根さんは「1970年代は戦後の第一ラウンドが終わって第二ラウンドが始まったところ。経済大国となった日本は、アメリカ中心という外交第一ラウンドから次の30年間を持ちこたえなくてはならない。そのため無資源国・日本が生きていく上にアラブ産油国の重要性を考えなくてはいけない。日本がこれから30年間持ちこたえるだけの外交姿勢に修正していかなくては―そう考えて取り組んだんだ」と語っていました。日本の安全保障の基点に“無資源国”というのがあるんだというわけです。その石油の替わりが原子力発電だったわけです。イヤー中々すごいなーと思いました。でもそれも限界に来ていますね。

◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も

Q.当時の取材競争の中で、他社というのはどれだけ意識していたのでしょうか?

 日経はなんとなく違う感じでしたね。通産省の記者クラブにも、5人か6人くらい配属されていたんじゃないかなあ。だいたいほかの社は2~3人なんですが。日経は「日経少年探偵団」なんて言われていました。我々は入社後、4,5年地方支局に行って本社に上がってきているんです。日経の場合、そもそも支局は一人支局で、新人の支局勤務がないんです。入社直後の学生気分が抜けていない、われわれの立場からいえば、彼らにとって通産省が記者として最初の“サツ回り”の感じではなかったかなー。我々の仲間よりも5歳から10歳の下の記者が多かった。

 だから彼らを率いるキャップも、新人教育が大変で他社の記者と付き合う暇がない様な感じでしたね。日経は若い記者が通産省の中の各局を分担していたんじゃないかな―。記者クラブでは、キャップの指揮下になんとなく固まって動いていたのに対して、我々はいい大人の気分で、一人一人それぞれという感じが強かったと思います。

 ただ当時の日経のキャップは後に経済部長、編集局長、副社長になる新井淳一さん。僕と同年代ですが、後年、財界人との勉強会などで一緒になり親しくさせていただきました。でも通産省記者クラブでは、こちらはヒラで新井さんはキャップ。もっぱら当社のキャップの山田さんが「新井ちゃん」という感じで、親しくしていたと思います。ちょう・まい・よみ(朝日、毎日、読売)と産経、共同、時事の記者は、年齢的に近いということもあって、割と仲がよかったです。とはいえ、競争は競争として当然ありました。

◆得がたい記者仲間たち

 他社の記者で思い出すのは、やっぱり今や評論家としても著名な朝日の船橋洋一さん(後同社主筆、現アジアパシフィック・イニシアティブ理事長)、読売の中村仁さん(後・経済部長、読売新聞大阪本社社長)、産経新聞の美濃武正さん、共同通信の米倉久邦さん(後・経済部長、論説委員長)、NHKの中村侃さん(後・報道局総務部長、アナウンス室長)だとかについては、何を取材してるのかなとか意識していたですね。このメンバーとは通産省クラブを出てからも、定期的に当時の通産省幹部と“割り勘”での定期会合をやってました。幹部の方が亡くなって自然消滅しましたけど懐かしいですね。

 記者仲間では、特に朝日の船橋君は、かれはそう思っていなかったかもしれませんが当方は一番のライバルと思っていました。本当にコマ鼠のようによく省内を回って特ダネを書いていました。石油危機の時も「後楽園(現東京ドーム)のナイターの火が消える」とか、「自衛隊の空の演習中止」など一面ものの特ダネをよく抜かれました。彼は、熊本支局で、毎日の政治部出身で後年、TBSのニュースキャスターとして有名になる故・岸井成格君と一緒でした。そこでアメリカ人の奥さんをもらうのです。

 おかしいのは朝日のクラブのデスクは毎日と隣り合わせなんです。他社の電話には出ないのがマナーなんですが、ある時、あんまりうるさいんで出たら英語なまりの日本語で「ヨウイチはヨマワリですか?」「そうです」と答えてガチャンと切ったことありました(笑)。 でも彼は仁義に厚い男で、後年サントリー学芸賞を受賞した「内部」、吉野作造賞の「通貨烈烈」などの本を出すたびに自宅に送ってくれました。ぼくが、終戦3日後に射殺死体で見つかったカトリック神父・戸田帯刀師のことを書いたノンフィクション『封印された殉教』を出した時、「英語に訳してバチカンに送れ」という手紙をくれました。嬉しかったですね。

 共同通信の米倉久邦さんは、一橋大学名誉教授の米倉誠一郎さんとは親族。数年前、日大のアメフットボールの不祥事で記者会見の司会を日大広報部長としてやり、詰めかけた報道陣とケンカになり袋叩きになりました。記者時代と同じ態度でおかしかった。でも彼はナチュラリストで、自然を愛して森のこと、山のこと、本を何冊も出しています。素敵なロマンティストなんですよ。

 読売の中村仁さんは僕の高校の後輩なんですが、思い切りのいい、スパっとして切れのいい原稿を書いていましたね。今でもニュース解説的なブログをずっと書いているんです。先日「格安スマホ加入でドコモに怒り」というNTTドコモの格安スマホ「アハモ」の加入についての体験記を書いたところ、「年寄りがシステムを知らずに書くな」と大炎上。ネットで話題になりました。でも全然へこたれないで書き続けています。偉いと思います。 みんな年とっても頑張っています。

 産経の美濃さんはこういう仲間と、通産省の幹部との会合のセット役をやってくれていて本当に有難かったですね。確か東北の石巻の出身で3.11の時にお兄さんが亡くなられたという事で、当時の仲間に呼びかけて見舞金を送ったこともあります。ここ2,3年、携帯での連絡がつかなくなったんですね。どうされているか。

2021年3月18日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑩ ある新聞記者の歩み9

イギリス短期留学で人生のふくらみが増した

(インタビューは校條 諭さん)

全文はこちらで

短期留学の巻

 元毎日新聞記者佐々木宏人さんからZoomでお話を聞くシリーズの第9回です。30代半ばにさしかかった佐々木さん、短期の語学留学を希望します。その頃は、毎日新聞の経営が厳しくなりつつある時期でしたが、会社はイギリスへの短期留学を認めてくれました。

◇結婚前に行っておこう

 ロッキード事件が1976年火を噴く以前の一時期、ぼくは外信部記者になりたいと思っていたことがあります。新聞記者になった以上、海外特派員ってあこがれじゃないですか。入社当時、大森実外信部長が「泥と炎のインドシナ」というベトナム戦争の現地ルポを連載して、外信記者も事件記者―というイメージが出てきました。一時は“外信記事は毎日”という時代もありました。でもぼくは英語は学生時代から得意なわけではないし、「オレは、ヘレンケラーだ(字も読めない、耳も聞こえない、しゃべれない―三重苦)」と威張っていました。でも本音は行きたかった。特派員の取材は現地で英字紙とラジオのBBC放送が頼りと聞いていました。当時、毎日新聞経済部はロンドン、ワシントン、ジャカルタなどに特派員を送っていました。ワシントン特派員から帰国間もないデスクだった歌川令三さん(後編集局長、取締役)のところに、「ニューズウイーク」や「タイム」のエネルギーや、中東問題の記事を自分なりに翻訳して読んでもらったこともあります。

 だから「Mainichi Daily News」(当時日刊の英文毎日新聞)を自宅で購読したりしましたが、ほとんど読んでいなかったですね(笑)。それを見て、独身で杉並の実家に住んでいましたから母から「もったいない」といわれました。自腹で払っているんですから文句をいわれる筋合いはないんですけど‐--(笑)当時、すでに34,5歳、独身で親からは「早く身を固めろ」と、やいのやいよいわれて何回も見合いもさせられました。ようやく話が決まり、婚約しました。75年の秋ですかね。一年後に結婚式ということになったんです。「英語を習得して特派員になれなかったら、海外生活を送るチャンスはい」と思い込んだんでしょうね。「今しかない‐‐‐」。思い返すと無茶苦茶ですね。(笑)

 Q.どんな学校なんですか?

◇リゾート地のボーンマスに

 ロンドンから汽車で南に下った、イギリス海峡に面した英国有数のリゾート地として知られるボーンマス(Bournemouth)というところがありました。日露戦争の講和条約“ポーツマス条約”の結ばれた日本でもなじみのあるポーツマスの上の方の港町です。そこに、世界各国からの留学生を受け入れる「ユーロセンター」というのがありました。毎日新聞社の子会社、毎日旅行社がそこに短期英語留学者を送り出すことをやってました。

 やはりイギリスは世界に強大な植民地を持っていたわけで、英語は「キングス・イングリッシュが正統派」というプライドがありますから、こういう語学学校が各地にあるようです。ヨーロッパ各地と南米、中東から英語圏の観光客を相手に商売をしようという若い人が多かったですね。大学卒はいなくて高卒の人が多かった感じでしたね。

 

 前から、英会話くらいできないとまずいぞという気持ちがあったわけで、それに毎日新聞が経営危機などという話も週刊誌にはしょっちゅう出ていて、いずれ大変な時期になるから、ある程度能力高めておかないとまずいということもあったのでしょう。確か1クール3ヶ月だったと思います。最初、ボーンマスで、そのあとロンドンに行って3ヶ月くらい通い授業を受けました。イギリスで過ごしたのは7,8ヶ月の短い間だったけど、この経験というのは、今から思うとすごく役立っています。ただ英語は全然ものにならなかったけど(笑)。

 Q.位置づけは、仕事ではなく、短期留学のようなものですか?

 そうです。給料の基本給部分は出ました。ありがたかったですね。商社担当の時、丸紅の専務だった伊藤宏という人のところにあいさつに行って、「毎日新聞、経営が大変だけど、社員をちゃんと育てるんだね」と言われました。まあ、自分が行きたいと言って行かしてもらっているだけなんだけど・・・。そういう見方があるんだと思いました。

 今読売新聞の科学部などの記者と付き合いがあるのですが、ほとんど在勤中、米国の大学などに、留学を経験していますね。その意味でスゴイですね。国際感覚を持つというのは、このグローバリズムの時代本当に大切と思います。今はコロナの時代で大変ですが---。

 注)伊藤宏 丸紅元専務。2001年死去。ロッキード事件で贈賄罪などに問われ、有罪が確定した。桧山広元丸紅会長(2000年死去、懲役2年6月)らと共謀して田中角栄元首相へ5億円のわいろを贈ったなどとして贈賄のほか外為法違反、議院証言法違反の罪に問われた。

◇大ニュースを背に“逃亡”

 Q.渡航費とか現地での宿泊費などは自前ですか?

 もちろん、そうです。毎日新聞に信用組合というのがあって、そこからお金を借りました。退職金に見合う額までは貸してくれる仕組みだったと思います。そこで目一杯借り込みました。ただラッキーだったのは、その頃の英国は経済的には“大英帝国の落日”といわれて、ポンド安・円高の時代でした。それまでは日本でのイメージとしては「一ポンド、千円」という感じでした。僕のいる間にそれが「1ポンド800円、700円」位まで円高になって、円の使い出が日増しに変わりましたね。お陰で英国名物のフィッシュ&チップスを普段は、一袋なのが、二袋買っても大丈夫、という感じで為替相場がこんなに実生活に影響があるんだと感じましたね。

 Q.でも事実上の倒産といわれた新旧分離が2年後ですね。それでも出してくれたんですね。いい会社でしたね(笑)

 そりゃあ、いい会社でしたよ。感謝してます。いまでも足向けて寝られませんね(笑)

 Q.短期留学は勤続年数には影響しないのですか?

 そのはずです。短期留学休職という名前だったかなあ・・・。ほかの人もそういうケースがあったように思います。特に外信部は中国特派員が香港の大学に行くとか・・・。いまでも思い出すけど、ロッキード事件のコーチャン(ロッキード社副会長)証言が2月にアメリカの上院の委員会で、日本の政界にロッキード社の飛行機を売るために巨額な賄賂をまいたと証言して大騒ぎになるでしょ。それを羽田で聞いて飛行機の中で新聞を読んだ覚えがあるんです。いわば敵前逃亡みたいなものでした。

 注)ロッキード事件 米国航空機メーカーのロッキード社が、エアバスを外国に売り込むために巨額のわいろを使ったとされた事件。日本では30億円以上が児玉誉士夫など右翼大物や商社、政府高官に流れたと言われる。経営が深刻化しつつあった毎日新聞だが、社会部を中心に特別取材班を組み紙面は活況を呈し、「ロッキードの毎日」と言われるほどの評価を得た。

 Q.大ニュースに背を向けて、英語の勉強に行っちゃうという・・・在勤中。

 そうそう(笑)。ホントなら羽田から引き返さなくては‐‐‐。見送りには経済部のデスクや今の女房も来てましたから、帰るに帰れない(笑)飛行機の中で村上武雄さんという東京ガスの社長に手紙を書きました。10月に結婚するので、仲人を引き受けてほしいと依頼したんですから、まあ図々しいですね。

◇角栄逮捕の記事をロンドンの公園で

 ロッキード事件で言えば、東京にいたら商社担当として夜討ち朝駆けをさせられた大変だった思います。経済部も大変だったわけで、本当に敵前逃亡だったと思います。今考えれば大分、恨まれたと思います。ぼくは、事件で逮捕される丸紅の桧山廣社長さんとか、専務の伊藤宏さんとかとはわりと仲良かったんですよ。同じく逮捕される専務の大久保利春さんという人は知らなかったですが。明治維新の立役者・大久保利通の孫で、ものすごく真面目な人だったという話です。伊藤さんというのは、人当たりのいい、面白い人でした。人なつこくキューピーさんのような感じで、好きな経営者の一人でしたね。事件前は、次の社長と言われていました。丸紅のビルは毎日新聞の入っているパレスサイドビルと通りを挟んで隣でしたから、時々パレスサイドビルの9階にある皇居を見晴らすアラスカで食事なんかしました。確か最後に1月中旬と思いますが、送別のご馳走だといって二人で食事をしました。そのときに、伊藤さんが、「ここで一番うまいのは何か知ってるか」と言いまして、「牛骨の髄のスープがうまい」と言うんですよ。ぼくは知らなかったなあ。向こうのおごりだったから、いくらくらいしたのかわからなかったですが、うまかったなー。でもロッキードのことはまったく出ませんでしたね。事件記者失格ですねー(笑)。

 ロッキード事件については、ボーンマスやロンドンで英字紙を逐一見てました。

 そのころは英語漬けでしたから割とすんなり英字紙が読めました。田中角栄逮捕のニュースは、学校近くのロンドンの小さな公園で、「The Times」の囲み解説記事で読んだ覚えがあります。

◇日本人の習性

 英国で面白かったのは、世界には人間がたくさんいるんだなということと、日本人はこうなんだというのがわかったことです。それはユーロセンターというところに行ったときのことで、最初の日に新入生のクラス分けの1時間の英語の能力をチェックする試験がありました。そうすると日本人は、試験となると必死になって向き合うじゃないですか。書いてて40分くらいたって教室を見回したら、各国からの40人位のうち残っているのは日本人だけだったんですよ。日本人は女7人、男3人の10人くらいだったような・・・。全員残ってました。要するにみんな必死になってたんです。少しでも上のクラスに行こうという思いなんでしょうね。でも英語を学びに来たんだから、少しでも下のほうがいいと思うんだけど、“受験、受験”の習性から抜けられないんですね(笑)。

◇「学校」の経験がないサウジ人

 たとえば、サウジアラビアから来た20前後の男性、アブドラといったかなー、学校に通った習慣がないようでした。家庭教師についてでも学んでいたんですかね。「学校」というシステム自体が、良くわかってないようでした。いいことだと思うんだけど、授業中に先生が説明している間に突然手を上げたりとか。全然授業に来なかったり、早引けして、他のサウジの連中とロンドンに遊びに行っちゃうとか。日本人の学校の感覚からするとハチャメチャでした。だけど、先生に指されるといっぱいしゃべるんです。ところが日本人は指されたら必死になって中学、高校で教わった英文法を間違わないように頭で考えて、「Because‐‐なんとか・・」とか言って(笑)。サウジの人は、文法お構いなし単語を並べ、10分も15分もしゃべるわけです。するとイギリス人の教師は「Yor are rubbish・・」「ゴミみたなこと言ってんじゃないの」っていうわけなんだけど、おかまいなしなんですよ。他人の迷惑なんて考えない、あの度胸はすごいですね。日本人はまねできない。不毛の砂漠で生き抜いてきた知恵なんでしょうかね。

◇ラテン語圏の人にはかなわない

 でもヨーロッパ圏の人には、英語の学習の習得のスピードはかなわないと、つくづく感じましたね。彼らは基本的に同じ民族から派生していると感じました。ドイツ人、フランス人とかスペイン人とかは、3ヶ月であっという間にうまくなる。我々新入生がロンドンからボーンマス駅に着いたときに、学校のバスが迎えに来ているんです。入学当時、駅に集合だったのですね。学校まで行くんだけど、フランスからきたものすごくかわいい女の子と隣り合わせて、僕はその気になって自己紹介をしたんですが、ところが、彼女一切英語わからないんです。それがなんとひと月かふた月たつだけで、もう我々なんかよりペラペラになってしまうんですよ。あれには驚いたな。

 ドイツ人も来てるんだけど、先生が英単語でいちばん長い名前は?というクイズで、20字か30字くらいの長い単語を黒板に書くんです。こちらはチンプンカンなわけです。ところがドイツ人の女の子なんか、この前半はラテン語でこうだから、ドイツ語でこうだから医学用語の多分これのことじゃないかとか言って、語学的な類推ができるわけです。ところが、我々日本人はまったくそういうのできないですよね。これはかなわんなと思いました。まあ、向こうはラテン語が元だからしかたないんですが。

 もうひとつびっくりしたのは、スイスの山小屋をやっている家の息子がいたのですが、彼は山小屋の案内人なので英語を学ばなくてはいけない。ところが風呂に入ったことがないっていうんですよ。シャワーは浴びているんでしょうが、風呂に入る習慣がないという人種がいるっていうことに驚きました。山小屋は水が貴重品なんでしょうが‐‐‐。年齢的には僕より7,8歳若かったですね。 日本人の女性が南米の男に“ひっかかったり”、スイスの人と結婚したりとかありました。いまどうしてるかなあ。

◇スペインの同級生宅に泊まり込んでお祭りを

 ボーンマスを出てからロンドンにいた時、同級生だったスペイン人の家を訪問したことがあります。ポルトガルの近くのベナベンテという田舎町に、汽車でロンドン、パリ、マドリッドを経てたどり着きました。日本人なんか行ったこともないようなところでした。大歓迎してくれました。確か彼の家に2,3泊しました。5月だったか、マリアの祝日のときでお祭りがありました。黒いマリアでした。それをかついで町中練り歩くんです。それを見た記憶があります。彼は英語はあまりうまくなく、ぼくと同程度の感じでしたが物静かな男で、クルマの運転をしてくれて、田舎のバルを何軒も案内してくれました。あいつそういえば飲んでたんだろうなあ、運転してたけど(笑)。ディスコに行って最後の音楽がビゼーの「闘牛士の歌」なんですよ。「なるほどここはスペインなんだ」と納得しましたね。日本に帰ってからだいぶたってから、スイス人の同級生が訪ねてきてくれたことがありました。政治部のときだったか、夜回り用のハイヤーであちこち都内見学させたこともありました。彼は感激してましたね。でも当時新婚間もなくて地下鉄丸の内線の中野新橋駅近くの2LDKの狭いマンションに住んでいたんですが、なんか黒塗りのハイヤーを乗り回すぼくとのギャップが理解できないようでした。

◇人種差別を実感

 僕にとって、あの8ヶ月ほどは、国際感覚なんて言うと大げさですが、グローバルというか、そういう感覚が身についたというか、井の中の蛙でなくなったということがありましたね。当時のコマーシャルに競艇の元締めの日本船舶振興会の笹川良一会長が叫ぶ「地球は一つ 人類みな兄弟」という感じが少しわかったような気がしましたね。イギリスに行く前は「なんか変なことを言うオヤジだな」と」冷ややかに見ていましたけどー。

 その裏返しなんですが、人種差別ってやっぱりあるんですよね。こんどのコロナ禍のフランスやアメリカなどの街頭で、「中国人のコロナ野郎」と日本人が言われたとかいうニュースが出てたけど、やっぱりそういう感じってあるんですね。当時、イギリスは移民に寛大な感じではなかったし、ボーンマスなんて、いまは黒人がすごく増えたらしいけど、黒人なんて見たことなかったですね。古き良きイギリスを残そうという感じが町全体にありましたね。

 ボーンマスだったと思うけど、夜、中心街のパブに寄っていい気持ちになって海岸近くの高級ホテルに立ち寄ったんです。たまたまパーティー会場の裏からカーテンをめくってそっとのぞいたんです。地元のハイソサエティの人たちがパーティーをやってました。たまたまカーテンをあけたら僕と目が合ったのですが、蝶ネクタイをしたジェントルマン(紳士)が何かきたないものを見るような目つきで睨まれました。あわててカーテンを閉めて逃げ出しました。その冷たい目つきは、今でも思い出します。いつもにこやかに対応する英国紳士とは明らかに違っていましたね。

 Q.すると、夏目漱石がイギリス滞在中に感じたようなことが残っていたということですか?

 そうでしょうね。しかも、いまだにあると思いますね。だからそれをちゃんと踏まえておかないとまずいなと思います。今でも人種差別ということ自体は、ヨーロッパ人もそうだけど、われわれ日本の中にも被差別部落の問題とか、在日朝鮮人、韓国人の問題とか、あるわけで、ぼく自身そういう差別は絶対許せないですね。イギリスでの体験が根っこにあって、差別を受ける痛みは比較にはなりませんが、ネットで見聞きする、平気でヘイトスピーチをする人たちの“コトバ”を許せない気持ちはあります。

 特にヨーロッパ人と我々とでは顔つきが違うのですぐにわかりますし、パブなんかで知り合って話していると、酔った勢いで彼らが言うのは、東洋人は目尻が上がってるって。「おまえらこれだからさあ」と両手で目尻をあげる動作をしたり・・・。なんとも白人優位で、アジア人を馬鹿にするというか、イギリスの漫画とか風刺画を見ると、中国人や日本人は必ず目尻があがってます。

◇オペラやミュージカルを気軽に楽しめるイギリス

 ロンドンがよかったと思うのは、ボーンマスもそうだったけど、音楽、演劇、バレー、オペラがとてつもなく安いので、すごく身近なんですね。それでよく行きました。ロンドンでは「ジーザス・クライスト・スーパースター」とか、アガサクリスティ原作の、ロンドンの劇場街ウエストエンドで世界最長の70年間公演を続けているという「マウストラップ」(いまはコロナ渦で中断中)という劇があります。ミュージカルの「ロッキーホラーショー」も見ました。5,6年やってるんじゃなかったかなあ。ちょっとヌードもあるエロチックなやつでしたが。バレーも オペラも安かったなあ、貧乏学生の持ってるお金で週1回くらいは行けたんだから。そんないい席で見られたわけではなかったが、堪能しました。

 オペラでは「魔笛」だとか「ドンジョバンニ」だとか「セビリアの理髪師」だとかにも行きました。新聞の公演情報が楽しみでしたね。日本に帰ってきて、魔笛のイタリアからのオペラを国立劇場に女房と見に行きましたが、1回行ったら終わりでした(笑)。チケット高くて、二人で数万円、そうそういけないですよね。

 本当に文化と日常生活が結びついているというヨーロッパの奥深さを感じさせられました。文化の深さがすごくある。安いし、ロングランが可能だから収益が成立する。日本の場合はせいぜい10日とか1ヶ月ですよね。

◇ロンドン支局の先輩のベビーシッターも

 ロンドンでは毎日新聞の支局によく行きました。明治時代の有名な日本のジャーナリズムの草分けの黒岩涙香が祖父の、特派員の黒岩徹さんの家に何度か泊まりました。彼のロンドンの住まいはテニスの全英大会で有名なウインブルドンにありました。庭付の広い家で黒岩さん夫妻が音楽会とかバレーなんかに行くときに、僕はベビーシッターやってました(笑)。

 Q.岩波新書から出た『イギリス式人生』を昔読みました。黒岩さんはイギリス生活を相当楽しんでたみたいですね。

 そうそう。彼は英語がうまかったし、腰が軽くてひょいひょい行く人だったから・・・。とても東大法学部卒には見えなかったな―。彼がロンドン行の準備のために東京の通産省の関係者に会いに来て、クラブに来たことがありました。僕が担当者で案内したと思うんです。クラブに待ってるはずなのに、「いないなあー」と思ったら戻って来て、「通産省の連中が昼休みでピンポン(卓球)やってたから、オレもやってきた」なんて。そういう気軽さがある人です。サッチャーの記者会見では、臆せず質問して最後には「トオル!」と指名を受けたという伝説を聞いたことがあります。さもありなんと思いましたあ。

◇婚約者がはるばるイギリスまで

 Q.最高の短期留学でしたねえ。

 そうそう(笑)。いろんな意味で一皮むけたところがあったと思います。これはあまり言ったことがないんですが、婚約していた女房、彼女、中高一貫のカトリック系の女子高の英語の教師だったんです。はるばる訪ねてきてくれました。二人でウエールズまで行ったことを思い出します。丁度、ラクビ―五か国対抗戦、といってもイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ、フランスの闘いなんですね。見物しようと思ったら満員で入れず、試合の終わった後のパブでの乱痴気騒ぎに巻き込まれ愉快でした。ただボーンマスの僕が下宿していた家のブランドさんというマダムが、「彼女の英語は本当にキングスイングリッシュで“ヒロトは彼女に教えてもらえ”」といわれたのには、参りましたね。

◇ワシントンで破天荒な先輩に会う

 留学を終えた帰りにワシントン、ニューヨークに寄りました。ワシントンは寺村荘治さんという経済部から行ってた人が特派員の一人でした。これがまた破天荒な記者で、戦前のベルリン特派員の、寺村荘一って言ったかなあ、そのせがれなんですよ。とにかく豪放磊落というか、背の高い細身の人で、そうは見えないんですが、全然ものごとに動じない人なんです。日本に戻って来て、ぼくは彼が大蔵省の財研(財政研究会=大蔵省の記者クラブ)のときに財研に行くんですが、寺村さんは途中でやめて、博報堂にスカウトされて移るんです。博報堂の会長の近藤道生という、大蔵省から国税庁長官をやった人に見込まれたのですね。ワシントン事務所を拠点にして日本とアメリカの関係の情報を上げていたようです。日本に帰ってきて、言ってみればアメリカ人脈を生かして、博報堂の情報収集のアンテナみたいな役割をしてました。ところが、熱海に大別荘を作ったまではいいんですが、披露パーティーまでやって半年も経たないうちに死んじゃった。生きてりゃおもしろかったんですが。肝硬変を持ってて、結局動脈瘤破裂でした。別荘から見ると、伊豆大島と富士山が見えてすごいところでした。

 ワシントンの自宅というのもすごかったですね。郊外の家の前が湖でボート遊びができるんです。「これくらいじゃないと、ワシントンじゃお客なんか接待できないぞ」なんて言ってました。家も広いし、「使うとき使わないとしょうがないからなあ。借金なんかするときしないとしょうがないんだよ」と。巨額の借金に平然としているんですからスゴイ。とても僕はあんな度胸はないですね。でも本当に面白い人で好きでした。彼も僕のことをすごく買つてくれて、「佐々木は小さくまとまるな、ケチな記者になるな」とハッパをかけてくれましたね。亡くなった時は本当に残念でしたね。

◇ニューヨークで会った通産省四人組事件の当事者

 アメリカにいた時の思い出はニューヨークで、通産省から派遣されたJETRO事務所長の内藤正久さんがいたので会いました。子どものいない彼の家のアパートに一週間位居候しましたね。豪放磊落な人で、笑い声が大きくて、包容力のある人でした。通産省担当時代に知り合った官僚で、本当に心を割って話のできる人でしたね。次官就任は確実といわれていました。のちの話ですが、次官の芽が摘まれる、四人組事件という有名な事件の当事者の一人となります。いまでも日本エネルギー経済研所の理事長を引退されたあと、顧問で活躍されていてお会いすることあります。

 注)通産省四人組事件とは、1993年に起きた通産省の人事をめぐる抗争。通産省内部の派閥抗争にとどまらず、自由民主党と新生党の代理戦争の性格もあったとされる(一六戦争)高杉良『烈風 小説通産省』(講談社、1995年/文春文庫、2011年)などの小説のモデルにもなった。

 内藤さんは通産省の産業政策局長から、普通なら次官になるところ、時の大臣--いま調べると元通産官僚出身の熊谷弘さんでした--が次官にさせなかったんです。ニューヨークの内藤家に泊まった際には、あとで衆議院議員になる松田岩夫さん(小泉内閣で科学政策担当大臣)とか何人かが集まって酒を飲んだことを覚えています。

◇ベタ記事でも書きようでトップ記事になる

 寺村さんの話に戻りますが、亡くなったのは、後年の、ぼくが広告局長のとき1996年でした。そのときに僕が述べた弔辞で寺村さんからしばしばいわれていた言葉を引用しました。「原稿というのは、バットを長く持って長打をねらえ。ゴロとかヒットでなく」と。寺村さんは、ベタ記事でも書きようによってはトップになるということを言いたかったのです。彼は、ぼくがワシントンに訪ねたときに、日本から来た新聞の外電を指しながら、「これベタ記事になっているけど、書きようによってはトップになるんだ」と言ってました。こういう教えというのはありがたいことでした。

◇スランプの時ほど原稿を書け

 ここで思い出すのは、ぼくが新聞記者になったときに親父(元毎日新聞記者)が言った言葉で、「新聞記者はスランプがある。スランプになったときに原稿を書かないのは負けだ。スランプのときほど原稿を書け」と。確かにそうだと思います。どうしたってスランプになるときがあります。そのときに原稿を書かないとずっと書けなくなってしまいます。

 「スランプになったら原稿を書け」、「バットは長く持て」というのもそうだと心に刻みました。その意味でいい先輩、取材先に恵まれたと思います。

 Q.いま自分はスランプだなあと自覚したことはあるのですか?

 そりゃあ、しょっちゅうありますよ。だって、抜かれたときだとか、相手が1面トップで行くじゃないですか。するとデスクが「何やってんだ!」って。会社行くのいやになるよね(笑)。朝、布団の中で、朝毎読(ちょうまいよみ)と日経の4紙見て、やられたと思えばね・・・あれだけこっちは苦労してるのに、このやろう書きやがってと・・・。記者クラブに抜かれ面で行きたくないですよね。

※ユーロセンター https://www.eurocentres.com/ja/discover-eurocentres

2021年3月11日

駆け出し記者の思い出を文芸誌に連載中の取違孝昭さん(75歳)



 社会部旧友・取違孝昭さん(70年入社)が「ヨコハマ文芸」第5号(2021年3月発行)に「駆け出し記者だったころ」第2回ハマのメリーさん列伝を発表している。第4号の第1回は「かまくら道」。1冊500円。横浜市内の書店にある。

 HPによると、「横浜文芸の会」(通称ハマブン)は横浜を拠点に活動する文芸団体で、2018年9月発足。代表世話人は芥川賞作家宮原昭夫氏で、作家やエッセイスト、詩人たち約40人が参加。取違さんも会員なのである。

 「エッ、事件記者の取違チャンが文芸誌に」と、ハテナマークの人もいるかも知れないが、HPの会員紹介に著書が紹介されている。

 『騙す人ダマされる人』(新潮社1995年刊)と『詐欺の心理学 : どうだます?なぜだまされる?』(講談社1996年刊)。

 『騙す人ダマされる人』は新潮文庫に入っているロングセラー本だ。

 警視庁捜査一課担当の事件記者が、詐欺=知能犯の捜査二課ものを2冊もモノにしているのである。

 前置きはこれまでにして、「ハマのメリーさん列伝」である。

 話は入社前年の1969年に起きた73歳の女性バー経営者「メリケンお浜」殺害事件から始まる。「メリケンお浜」は大正から昭和にかけてヨコハマの夜の世界で一世を風靡した。

 「ジャズのお勝」「ふうてんのお時」「カミソリンのお蘭」……。

 「ジャズのお勝」には、直接会って境遇を取材している。

 《敗戦で境遇はがらりと変わった。

 「街にアメチャンがあふれ、女たちがいっぱい流れて来た。あたしはね、米軍の下士官クラブを根城にして、彼女たちの取締りをやってたんだ。子分が5,60人もいたかな。堅気の娘や行く所のない女たちさ。みんな悲しい連中でね。タバコのラッキーストライク3箱で身を売っていた」》

 「ハマのメリーさん」は、ウィキペディアに載っている。

 メリーさん(本名不詳、1921年~2005年1月17日)。歌舞伎役者のように白粉を塗り、フリルのついた純白のドレスをまとっていた。

 取違さんたちサツ回り仲間は「皇后陛下」と呼んでいた。後年ドキュメント映画がヒットして「ハマのメリーさん」に定着する。

  あとは「ヨコハマ文芸」を手に取っていただくとして、びっくりするのは当時の毎日新聞横浜支局の取材体制である。

 《入社1年間は支局の“タコ部屋”に寝泊まりするのが毎日新聞横浜支局の決まりだった。定まった出社・退社時間などなく、あえていえば24時間勤務。…

 昭和初期に建てられ、戦後、進駐軍に接収されていたという建物で、タコ部屋はその4階にあった》

 《そこを拠点に各署を回っていたわけだが、部屋に帰っても仕方なく、深夜まで街を徘徊し、警察署を回っていた》

 多分県警キャップは、伝説の事件記者・越後喜一郎さん(2010年没72歳)だったと思う。鍛えられたんだろうな、取違チャンは。

(堤  哲)

 取違さんは、元毎日新聞常務。2007年~東日印刷社長・会長。2011年~毎日新聞グループホールディングス取締役。

2021年3月9日

本山彦一翁の書と地図 ― 元経営企画室委委員、吉原勇さんが保管

 私のマンションのリビングには力強い見事な筆跡で「奮闘不撓」と書かれた大きな額がかかっている。長さ1・8メートル、高さ45センチほどある。大きな文字の横には「為京都同人」「松蔭題」とやや小振りな字で書かれている。松蔭というのは、毎日新聞の中興の祖といわれる本山彦一翁の雅号であり、翁が京都支局同人のために揮毫したものなのである。

 私が毎日新聞社京都支局から中部本社報道部に転勤になった昭和40年8月、支局長だった橋本和蔵.さんが「支局にあるもので何か欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい。餞別としてあげるから」と言うので、私が希望したのがこの揮毫だった。支局長はわずか1年3か月で転勤を命じた私を憐れんでいたようだった。

 私がなぜこの揮毫を指定したかと言うと、この偉大な人物の書いたものが湿気の多い三条御幸町の京都支局地下室の床、それも多くの額の一番下に放置され、朽ち果てようとしていたからだった。

 なにしろ本山彦一翁は明治36年に大阪毎日新聞社長に就任してから昭和7年に退任するまで30年間も社長に在任、その間、部数を大幅に伸ばし、東京日日新聞を合併して今日の毎日新聞を作り上げた人である。その書は大事にしなくてはならない。

 支局長の承諾を得たので地下室に行き、カミソリで額から切り取った。一部ボロボロになって腐っていた。先輩記者の岡本健一さん(のちに稲荷山鉄剣のスクープで新聞協会賞受賞)が「父は表具師をしているから表装してあげる」と言って引き取り、一か月くらい経って名古屋のアパートに送ってきてくれた。その後、結婚した妻も本山彦一翁をよく知っており、巻物になっていたこの書を見つけて額装し、飾るようになったのである。

 我が家には本山社長時代に部数拡張のために付録として発行した新聞紙見開き大の大きさの都道府県分県地図が20数枚残っている。小さな字名まで記載されており今でも役に立つ。北海道や台湾、朝鮮などは道や省ではなく全体を2枚、ないし3枚に分割されて作られているから総数55、6枚になったと思われる。それを大正2年(1913)ごろから同7年にかけ、月1回付録として読者に配っていたのである。社史を見ると大正2年には47万部だった部数が同7年には80万部になっている。地図は部数拡張の原動力になっていたのである。全体を知りたいと経営企画室在勤のとき、どこかに保管されているかどうか調べてみたが、見つからなかった。幻の地図になっているようだ。

 私は今、終活を始めている。本山翁の書と地図をこの世に残すにはどうすればよいか悩んでいる。新聞博物館が引き取ってくれるかどうか、一度相談してみようか、と思うこのごろである。

(吉原 勇)

 吉原さんは、昭和39年(1964)入社。京都支局→中部本社報道部・経済部→東京本社経済部副部長→大阪本社経済部副部長→経営企画室委員→西部本社代表室長→編集委員→下野新聞社監査役・同取締役。作新学院講師など歴任。

2021年3月3日

北大山岳部と毎日新聞(その2)―山岳部OBだった浜名純さんと藤原章生さんのいま

 前回予告したように、北大山岳部の後輩の毎日新聞記者・藤原章生君と私で2月24日、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 絵はがきにされた少年』刊行記念オンライン対談」を行った。彼は2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞した。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行したのを機に、販売促進を兼ねて開催したのである。

 その宣伝の惹句がなかなかおどろおどろしい。

 「浜名さんは、藤原さんの山岳部時代の先輩で、書き上げたばかりの『絵はがきにされた少年』の価値を見出し、まる4年の歳月を経て、受賞にこぎつけた立役者です。

 著者の原稿のどこに魅力を感じたのか。出版社に持ち込み続けた4年間、どんな紆余曲折があったのか。名著を世に送り出す浜名さんの眼力、アフリカを通して描かれた人間哲学など、二人の対話をお楽しみください。二人が目指してきたヒマラヤなど山登りへと話が広がるはずです」
というものだ。なんともおもはゆい。というより、「名著を世に送り出す浜名さんの眼力」などと言われると、「何を言っているのだ。いかにも“目利き”のように言われているが、目利きなんて、どこかのテレビの○○鑑定団の安手のいい加減な鑑定士を想像してしまうじゃないか」と素直でない私は思ってしまう。

岩手県安比高原スキー場で今年2月。前列右端が藤原さん、その隣が浜名さん

 閑話休題。素晴らしい原稿だから、ぜひ世に出して皆さんに読んで欲しいと思ったのは、紛れもない事実である。そして、いくつもの出版社に売り込みに行き、大手出版社では上から目線の偉そうなことばかり言う編集者から拒否され続けたのも事実である。しかし、最後には「開高健ノンフィクション賞」を受賞し、日の目を見ることになったのだ。

 では、この本のどこに私は惚れたのだろうか。それは、一般的な特派員の原稿と一味違っていたからだ。きっと新聞社が海外の特派員に望むのは、その国の政治・経済・社会の動き、それも「今」を読者に伝えるということだろう。災害や事件もそうだ。

 しかし、彼の原稿は違った。その国の“今”を伝えるものではない。明日の朝刊に載せなくてはいけないものではないのだ。彼は市井に生きる一人の人間に焦点を当てる。その人は何故今この姿でここにいるのか、どのような人生を歩むことで、ここに辿り着いたのか。それにはアフリカの歴史が大きく関わっているのだろうか、と考え、取材を掘り進める。「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」というあまりに有名なゴーギャンの作品を思い出してしまう。

札幌市郊外の北大山岳部山小屋「ヘルべチア・ヒュッテ」で。秋のOB・現役のヘルべチア祭り

 その人の生きてきた人生に思いを馳せ、その生き様を深く省察することで、実は「アフリカの今」を浮かび上がらせている。「その国の“今”を伝えるものではない」と私は少し前に書いたが、ちょっと言葉足らずだった。事件・事故の第一報や続報とは異なった「本当のアフリカの今」である。よくある特派員の通り一遍の「その国の事情本」ではない。

 それは、我々が抱いていたアフリカやアフリカ人に対するステレオタイプの見方をも変えるものだった。「アフリカには少数の支配層と多数の搾取される層がいる。支配層は悪であり、搾取される層は善人である」といった漠然とした思いを正してくれる。金鉱山で働いていた老鉱夫は、アパルトヘイトの下で絞り取られたなどとは思っていない。金鉱山で働き本当に充実した素晴らしい日々を過ごしたと思っているのだ。

 そうだ、明日の朝刊に載せる必要がない、コロナ禍時代の今流に言えば「不要不急の原稿」が実はアフリカの抱える諸問題を雄弁に語っていたのだった。

 毎日新聞OBの布施広さんは、書評でこう書いている。本の帯にある『ジャーナリストの目と心が捉えた、豁然と生きるアフリカの人々』といううたい文句は、まさにこの本にぴったりだ。…中略…「悲惨な風景の中でさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある」と本書の一節が示すように、藤原君の筆はなにげない風景から人の生をあぶり出す。

 『絵はがきにされた少年』は2005年に集英社から出版され、昨年10月、「新版」が発売された。15年の歳月を経ての新版だが、決して新しさを失っていない。特に「差別」という視点で見た時、当時のアフリカの今は、2021年のアフリカの今でもある。いや、アフリカだけでなく、世界の今を考えさせてくれるだろう。

 トランプによるアメリカの分断、Black Lives Matter、人種差別や性的マイノリティの差別、宗教的差別や氏素性による差別、貧富に対する差別……。そして、コロナの蔓延は、社会に新たな差別を生み出している。社会が変遷する度に、社会が新しくなる度に、新しい差別が次々に生まれてくるのだ。そんなご時世だからこそ、皆さんに読んでいただきたいと思うのである。

 我々人間は 誰しも知らず知らずのうちに 心の奥深くに『差別』を内包しているのだろう。人は差別についての体験が多ければ多いほど、他人に優しくなれるのだろうか? 援助とは? 寄付行為とは? 援助する側と援助される側にも差別と被差別の問題が絡んでくるのではないだろうか。読んでいてそんな様々な思いが頭を巡る。

 少し藤原君のことを褒めすぎただろうか。同じ大学の山岳部の先輩後輩で身内意識から褒めたのだろうか。いやいや、そんなことは決してない。「藤原にゴマをすっても何のプラスにもならない」のだ。そう、いいものはいいのである。

 藤原君は、つい最近『ぶらっとヒマラヤ』(毎日新聞出版)を出版した。こちらもおもしろい。ぜひ一読を。

(浜名 純)

※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。

2021年3月2日

永井荷風の「断腸亭日乗」を読みながら ― 92歳の磯貝 喜兵衛さんが大川端を歩く

正月に、鐡砲洲稲荷神社で

 昨秋、横浜から東京・鉄砲洲に引っ越してから半年近く。コロナ禍を横目に、隅田川をマンションのベランダから眺め、日々を過ごしております。好天の日は大川端(遊歩道)を歩いて、深川や柳橋、両国、浅草などへ足を伸ばすと、思いがけない史跡や記念碑に出くわし、往時を偲んでいます。

 例えば寛永元年(1624年)、江戸歌舞伎の創始者、中村勘三郎が櫓(やぐら)をあげた「江戸歌舞伎発祥の地」(京橋)や、小山内薫らが大正3年に建てた「築地小劇場跡」(築地)など、芝居・演劇好きの私には印象深いスポットがいくつもありました。

 そう言えば私の好きな永井荷風は実によく歩いていますね。関東大震災前の東京市中はもちろん、名作「濹東綺譚」などを生むきっかけとなった墨田、江東・下町への散歩は、実に念の入ったものです。その詳細は、荷風の膨大な日記を集めた「断腸亭日乗」にも明らかです。引っ越しの際、大量の本や雑誌を売却・処分した中に、うっかり愛読書の「断腸亭日乗」(岩波書店)を入れてしまったらしく、丸善で岩波文庫(上下)を買い直し、今、読み返しているところです。

 日記は大正6(1917)年9月(39歳)から始まっていますが、荷風は翌7年12月に、わが家から近い築地本願寺わきに引っ越しています。

 ◇十二月二十二日 築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書篋を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に往き、家具を排置す。日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。この妓無毛無開、閨中欷歔(ききょ)すること頗(すこぶる)妙。(「四畳半襖の下張」的、エッチな表現ですが、ご容赦を)◇

 荷風は1年余りで、築地本願寺近くの築地の家から、麻布市兵衛町に引っ越すことになるのですが、その間の翌年五月二十五日の記述に、「新聞紙連日支那人排日運動のことを報ず。要するにわが政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害かへって国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくするに至らずむば幸いなり。」と書いているのは、その後の日本の歴史と考え合わせ、印象的です。

 荷風の反軍、反国家主義的思考は昭和に入ってさらに強くなっていくようで、昭和7(1932)年4月9日の日記には次の記述があります。

 ◇余つらつら往時を追憶するに、日清戦争以来大抵十年ごとに戦争あり。即明治三十三年の義和団事変、明治三十七、八年の征露戦争、大正九年の尼港事変の後はこの度の満 州、上海の戦争なり。

 しかしてこの度の戦争の人気を呼び集めたることは征露の役よりもかへって盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑わいに異ならず。今や日本全国挙って戦捷の光栄に酔へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は満州より進んで蒙古までをわが物となし露西亜を威圧する計略なりといふ。武力を張りてその極度に達したる暁独逸帝国の覆轍を践まざれば幸なるべし。百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。◇

 そして、この日記の1か月後に起きた5・15事件で犬養毅首相が射殺され、さらに4年後の昭和11(1936)年に2・26事件が勃発。今から85年前。その日の「断腸亭日乗は以下の通りです。

 ◇二月廿六日 朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来たり見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、軍人、警視庁を襲ひ同時に朝日新聞社、日日新聞社等を襲撃したり。各省大臣官房及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞こゆるのみ。市中騒擾の光景を見に行きたく思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田齋藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪止む。◇

 淡々たる記述ですが、荷風の思想からすれば、その衝撃の大きさは想像に難くありません。

 この時代の荷風は頻繁に銀座で飲食を繰り返していますが、戦後は浅草の踊り子たちとの交友を楽しみ、昭和34(1959)年4月30日、千葉県市川市の自宅で79歳の生涯を閉じることになります。

 日記の最後は死の前日。『四月廿九日。祭日。陰。』で終わっています。

(磯貝 喜兵衛)

※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB

2021年2月18日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑨ ある新聞記者の歩み 8

ライフワークのエネルギー問題でスクープをねらう

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください
https://note.com/smenjo/n/nc50d72424100?fbclid=IwAR0D-IdD_fRjYfRU7VkFTC9b-X6hBtBxGslFLZU9plcUFfPpnJhrRdyumTU

目次
経済部時代(5)

◇永田ラッパの最後―大映の倒産
◇社長会見で、空気を読まずに(?)質問
◇安宅産業破綻をスクープ
◇安宅社長宅へ夜回り 言質得てスクープ記事執筆
◇清張の小説やドキュメント本の題材に
◇論説記者でなく特ダネ記者としてエネルギー問題に取り組む
◇石油危機後の商社批判盛んな時期に貿易記者会に
◇三菱重工爆破事件に至近距離で遭遇
◇三菱商事、口銭稼ぎからの脱却をねらってエネルギー開発へ

経済部時代(5)

ミサイルからラーメンまで扱う総合商社という業態は世界でもめずらしいと言われます。

 元毎日新聞記者の佐々木宏人さんの経済部時代の話はまだ続きます。エネルギー問題をメインテーマにしてきた佐々木さんが、総合商社を取材対象にした話が今回の中心です。貿易立国ニッポンを支えてきた総合商社ですが、石油危機を経て曲がり角にさしかかっていたのでした。

◇永田ラッパの最後―大映の倒産

 商社の話に入る前に、映画会社の話を思いだしたと佐々木さん。いまや大映も永田ラッパも聞いたことがないという人の方が多いかもしれません。佐々木さんは経済部記者として大映の終幕に“立ち会った”のでした。

 ぼくが昭和45年(1970年)5月に経済部に移って、家電業界担当になったことはこの連載の2、3回で話しましたね。この頃の取材で印象に残っているのは、映画会社の「大映」の社長の永田雅一さんの会見に行ったことですね。

 大映は黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」などベネチア国際映画賞やアカデミー賞などを相次いで受賞した作品を制作した有力映画会社でした。

 しかしテレビが一家に一台時代となり、映画館がどんどん姿を消していきました。調べてみると1958(昭和33)年の映画観客数は11億人、それが73(昭和48)年には3億人まで減っているんですね。東宝のように直営館経営主義ではなかった大映が経営不振になるのは当たり前、時代の流れですね。調べてみると1971(昭和46)年の12月に倒産しています。多分、会見に行ったのは、その寸前の11月頃でしょうね。

 どうして家電担当記者が行ったかというと、映画産業担当は学芸部で主に作品制作情報、映画評の取材が中心でした。経営状況については把握しておらず、経済部の担当記者もいなかった。経済部は経済部で、偉そうに「映画なんて経済部の取材の対象ではない」という感じで、何でも屋の駆け出し記者の「佐々木行け」という事になったんだと思います。

 永田さんは“永田ラッパ”というあだ名が付くキャラクターで有名で、映画以外に岸信介首相など自民党首脳とも親しく、右翼の大物・児玉誉士夫らと並んで政界のフィクサーともいわれた経営者でした。

◇社長会見で、空気を読まずに(?)質問

 会見と言ったって、5,6人しかいないんです。他社は学芸部(文化部)の映画担当記者で経済部は僕一人だったような気がします。日本橋の本社で、今みたいな会見というイメージじゃなくて、長テーブルに坐って話を聞くという感じでした。

 まだ倒産とは言っていないのですが、経営的に生き詰まって大変だという話だったと思います。学芸部の記者は黙って聞いているんです。沈黙が続くんで、ぼくが「会社更生法の申請するんですか?」などと質問したら、会見後に学芸部の記者から「あんなこと君、言うもんじゃないよ」などと怒られちゃいました。でも経営的に切迫した状況は感じましたから、債権どうする、手形どうするとか、会社更生法どうするという話を聞けるのは、経済部の私一人でした。永田雅一さんは、本当に困った表情をしていました。それでも支援を仰いで、まあなんとかしのぐという反応でした。

 結局翌月の12月に破産宣告を受けて倒産してしまいました。“永田ラッパ”という愛称で威勢のいい経営者でしたから、その沈痛なメガネ姿は忘れられませんね。経済には時代の流れがあり、隆盛を誇っていた会社も消えていくんだ―という印象を本当に感じました。

 永田さんには、その時一度しかお目にかかっていませんが、「経済社会の原点」に触れたような思いがしています。

 水戸の支局では良く、勝新太郎、市川雷蔵、若尾文子、山本富士子などの出演する大映映画を上映する朝までやっている深夜映画館に行きました。それだけに永田ラッパの苦悩の表情が忘れられません。

 後年の話になりますが、大映映画の版権は紆余曲折あったのですが、旧角川映画と角川書店が一緒になった「KADOKAWA」の所有になっています。僕が2000年に毎日新聞中部代表から出向して、設立されたばかりの系列の「メガポート放送」(2005年、現日本BS放送「BSイレブン」に合併)の専務になった際、角川書店が主要株主の一社でした。勝新太郎の「座頭市物語」などを提供してもらい、昔の大映映画の放映を手がけました。“永田ラッパ”を思い出して、なにか因縁を感じましたね。

◇安宅産業破綻をスクープ

 駆け出し記者として思い出すのは、商社を担当する「貿易記者会」にいたころの1975年の12月の安宅産業の事実上の倒産―伊藤忠商事との合併事件です。ちょっとWikipediaで「安宅産業破綻」というのを見てみたら、毎日新聞が出てくるんです。12月7日にすっぱぬいて、それがきっかけでつぶれたということになっているんですね。その記事、ぼくが書いたのです。

 Wikipediaには「12月7日、『毎日新聞』朝刊は安宅のNRCへの融資焦げ付きをスクープ、経営危機が広く世間に知られることとなった」と載っています。これは三菱商事のブルネイだとかと同じ資源開発投資なんですが、三菱は英国石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル石油と組んで大成功、安宅は失敗―なんです。

 安宅産業は当時10大商社(三菱商事・三井物産・住友商事・伊藤忠商事・丸紅飯田・日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松江商・安宅産業)の一角にいた商社でした。当時、商社は売上高が業界のランク付けになっていたので、各社とも売上高至上主義でした。

 安宅産業は戦前から鉄鋼を扱う堅実な商社でした。それが売上高競争に巻き込まれます。アメリカの子会社が中東から購入する石油を、資金を貸し付けたカナダの石油精製会社(NRC)に回して利ザヤを取るプロジェクトに資金をつぎ込みます。しかしそれが1973年の石油ショックの直前で、石油価格の値上がりで回らなくなり、4千億円近い巨額の赤字を計上することになりました。石油ショックに出会ってしまって、結局つぶれて安宅産業はとんでもない債務を背負って、伊藤忠と1977年10月合併させられるわけです。

 どうしてこの記事が書けたかというと、大蔵省担当の先輩記者からの電話がありまして、「安宅産業が、えらいことになってるみたいで大蔵省も困っている」という連絡を聞いたのがきっかけです。大蔵省もメインバンクの住友銀行とか協和銀行(現りそな銀行)などと、鳩首協議をしているというのです。

◇安宅社長宅へ夜回り 言質得てスクープ記事執筆

 そこでぼくは当時の市川政夫という安宅産業の社長のところに夜回りをしました。自宅は大田区の洗足だった思います。向こうも、10大商社どん尻の商社トップのところを夜回りをする記者もいなかったからでしょうから、まあ、しょうがないということで応接間に上げてくれたようです。それで話を聞いたら、いろいろ銀行と話をしているということでした。

 でも図書館で縮刷版を見てみたら、銀行の情報が主で「安宅への救済措置で50億円の送金」が見出しになっています。

 石油取引の話は記事の最後の方で、市川社長の「本社への影響はない」という談話が掲載されていました。多分銀行担当の記者との共作ですね。

注:安宅産業事件

 安宅産業は、政商といわれたシャヒーンという米国人実業家が、カナダのニューファンドランド島に石油精製工場を建設して石油市場に参入するという情報を得て、それに乗ることにした。安宅産業の常務会が1973年6月に決定したのは、安宅アメリカがニューファンドランド・リファイニング・カンパニー(略称NRC)の総代理店になることを承認し、L/C(信用状)を開設して原油代金の面倒を見ることに加えて、NRCに対して6,000万ドル(当時の為替レート1ドル271円、約162億円)の与信限度を設けるということだった。ところが、契約がいいかげんで、甘い与信で抵当も無しという実態だった。

 そうこうするうちに、2年後に石油危機が起きて原油価格が急上昇、精製工場の資金回収がうまくいかなくなってしまった。与信枠を広げて傷がどんどん広がった。総額4000億円という巨額なものとなり、それで安宅は資金的に行き詰まってしまったのである。

 このへんの情報を他の商社の人に調べてもらい、市川社長にぶつけたわけです。夜回りで会った市川さんは、「そこまで知っているんならしょうがない」という感じで、それをほぼ認めました。そのあと帰ってきて記事を書いたのだと思います。そうして一面左に四段見出しがついたスクープ記事が新聞に出て大騒ぎになりました。

 たしか土曜日で紙面に出たのが日曜日で、今の女房と渋谷あたりをデートしていて途中、会社に電話したら「銀行トップや安宅の市川社長の緊急記者会見が開かれる予定だ、大騒ぎだぞ、対応しろ」といわれて会見に出席しました。デートは中止、顰蹙を買いましたね(笑)。

2021年2月18日

レッド・パージ70年を書いた大住広人さん(83歳)

 このHPの新刊紹介にある『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに―』は、大住広人さん(83歳)の労作である。

 1950(昭和25)年7月28日、新聞界でレッド・パージが行われた。「アカ」という理由で、毎日新聞では49人(東京31、大阪18)が退職を通告された。日本放送協会(NHK)119人、朝日新聞104人、読売新聞34人、日本経済新聞20人など49社701人にのぼる。

 「新聞界には国家権力の非を糺そうとする意欲さえもが見られないことに、半生を新聞界で過ごした者として忸怩をおぼえたことによる」と執筆の動機を述べている。

 毎日新聞では政治部の嶌信正(1912〜1998)がパージにあった。「何故だ」と根拠を尋ねたが、一切ノーコメントだった。元毎日新聞のジャーナリスト嶌信彦(78歳)の父親である。

 「解雇後の嶌信正」の117ページに、こんな文章がある。嶌は当時、安井謙参院副議長の秘書だった。

 《そんなある日、毎日新聞の若い社会部記者が訪ねてきた。当時、革新都政で名を全国に知られた都知事・美濃部亮吉の再選を翌年に控え、選挙情勢を教えてくれ、という。嶌が副議長の兄(注・安井誠一郎元東京都知事)の秘書もやっていて、かつ美濃部の奥の院として知る人ぞ知る小森武と昵懇であり、しかも、その奥にいる労農派の学者たちにも知己をもつ往年の労農記者と知っての「教えてください」だった。

 嶌は、気を許し、知ってることを何でも話した。楽しかった。記者が席を立ったとき、思わず一緒に立ち上り、ちょっとはにかみながら「息子がいま秋田にいる。いつ上がってこれるかわからんが、よろしく頼む」といった。若い記者は「えっ?」といい、年寄りのはにかみもいいもんだ、と思った。嶌の半生にとって、このころが一番、気持ちの上でも優雅だったのかもしれない》

 美濃部都知事再選の前年とあるから1970年である。この若い社会部記者は、都庁担当の大住さん、当時33歳。秋田支局の息子は、70年入社の嶌信彦である。

 あとはこの本を読んでいただくとして、次の写真を見て下さい。

 写真部時代の大住さんである。当時27歳。Yシャツにネクタイ姿は、珍しいのではないか。写真説明に《昭和40年4月3日の日韓条約仮調印に集まったカメラマン》とある。売新聞写真部OBの平井實著『スピグラと駆けた写真記者物語』(グリーンアロー出版社1997年刊)からである。

 大住さんはニコンF、後ろのカメラマンはスピグラを持っている。スピグラと35ミリカメラの端境期だった。

 大住さんは、この年の8月異動で社会部に配置替えとなる。

 送別部会でこういった、と本人が書いている。

 《「——無念です。求めて(写真部を)出るんじゃありません。求められて出るのでもありません。だから必ず堂々ときっと帰ってきます。そして写真部の部長をやります」》

 社内同人誌『ゆうLUCKペン』第36集(2014年2月発行)にある。毎日新聞入社の経緯も明かしている。

 《新聞カメラマンになれると、けっこう本気で思っていた。太鼓判を押してくれたのは、かの三原信一だ》

 大住さんは東京都立大学法経学部の4年生。サークルは写真部に入っていた。

 三原信一さん(1987年没、84歳)は毎日新聞元社会部長。元陸軍伍長。「ヒットラー、のらくろ、と並んで世界三大伍長のひとり」が自慢?だった。

 戦時中、広東から特ダネを連発したと都立大の特別講義で話したのだろう。大住さんはその講座を「広東特電」と書いている。

 《「就職はどこだ?」…「おれんとこに来い」と命じられた。おれんとこ、とは「毎日新聞」で、それもカメラマンに、だった》

 《写真だって実はいけていた。一九六〇年度の「全日本学生写真コンクール」の受賞者名鑑には、ちゃんと

 「入選 全学連 大住広人」

 と載っている。「全学連」というのは所属名ではなく作品名だ。ときに六〇安保、これまたちゃんと、時機にあった被写体をものにしていたのである》

 《わたしは引かれるままに毎日新聞を受けて、合格し、入社する》

 二次試験のあと、三原さんから電話があり「合格」を知らされた、とある。

 三原さんは、51歳で社会部長になって丸3年務め、55歳定年。東京本社編集局顧問だった。社内では、相当の実力者だったと思われる。

 大住さんの社会部、毎日労組などでのその後の活躍ぶりは説明するまでもないと思う。

 「写真部長」就任の話も実際にあったことで、あとは『ゆうLUCKペン』第36集を。情報調査部の書架にあります。検索でこんな写真が出てきたので、貼り付けます。

(堤  哲)

毎日新聞東京本社西口玄関前で開かれた新聞労連東京総行動であいさつする大住広人毎日新聞労組委員長=1977年11月

2021年2月5日

北大山岳部と毎日新聞 ― 山岳部OB記者だった浜名純さんの回顧といま(その1)

ネパールヒマラヤ・ダウラギリ1峰(8167メートル)

 1970年春。私は積丹半島にある積丹岳の稜線直下の雪穴の中でじっとしていた。有り体に言えば遭難したのである。メンバーは北大山岳部の4人。私がリーダーだった。明日は下山という夜に天候が急変した。天気が悪くなるのは分かっていたが、明日早朝一気に里に駆け下りれば大丈夫だという読みだった。甘かった。

 大型で強い低気圧はその夜、テントを直撃した。テントは破壊され、我々は真っ暗な雪稜を数時間さまよった。やっと一カ所雪庇(せっぴ)の下の急斜面に風の当たらない場所を見つけ、雪洞を掘って潜り込んだ。

 それが一週間前であった。食糧と燃料を節約して生き延びていた。携帯ラジオからは当初、「北大パーティー遭難」というニュースが流れていたが、それが「北大パーティー絶望か」というトーンに変わっていた。「バカヤロー、こんなに元気で雪洞の中で暮らしているぞ」と怒鳴っても、その声はどこにも届かない。携帯電話など皆無の時代である。今なら携帯で「雪洞を掘ってビバークしている。無事で元気だ。天候が回復したら下山する」と連絡できただろうが……。札幌でも4月としては何十年振りという大雪で、小学校が休校となった。東京の私立大学生だった妹は、ゼミの旅行中だったが、NHKのニュースを聴いて一人、家に戻ったと後から知った。

 やがて天気が回復した。一気に下った。とはいえ深い雪のラッセルの連続で里に近づく頃には陽もとっぷりくれていた。だいぶ下ってきた時、潮の香が風に乗って鼻をくすぐった。海が近い。助かった、と確信した。

 とぼとぼと海沿いの道を歩き、一軒の漁師の家に飛び込んだ。「電話を貸してください」。札幌の山岳部に下山の報告をした。「おい、今テレビで放送しているのがあんたらか」と漁師。「そうです」と答えると大喜びだ。「俺のうちに遭難した奴らが来ている」。知り合いに軒並み電話し、たっぷりと夕ご飯をご馳走してくれた。そのうち、最寄りの警察署に前戦基地を置いていた報道各社が駆けつけ、ごった返した。私たちが予想外に元気だったので、テレビ局の放送記者が「捜索隊の人の肩につかまって歩いてカメラに向かって歩いてください」と言った。拒否した。俗にいうやらせではないか。バカヤロー。

 場所を警察署に移して記者会見が開かれた。だんだん腹が立ってきた。山の知識がない新聞記者に登山の専門用語を解説しながら話さなくてはならないのだ。そのうち朝日新聞の記者がこう言った。「これだけ世間を騒がせ、迷惑をかけたことに対して一言お願いします」。私は怒った。「なぜ、あなたにそんなことを言われなくてはいけないのだ。捜索に当たってくれた山岳関係者、北海道警察のみなさん、捜索の後方支援をしてくれた人たち、心配しくれた方々には本当にお礼を言い、頭を下げます。でも、なんで世間に謝らなくてはいけないんだ。何で新聞記者に言われなきゃならないんだ。騒いでいるのはお前ら新聞記者だろう。遭難がなければ取材もしなくてよかったというなら、しなければいいだろう」と言ってやったのだ。バッキャロー。20歳をほんの少し越えただけの若造の私に怒鳴られ、朝日の記者は静かになった。

 今はテレビで定番になった企業の謝罪会見。社長以下役員が横並びになって一斉に深々と頭を下げる。その瞬間カメラの放列……。そんなふうに私も頭を下げればよかったのかもしれない。若気の至りだろうか。翌日の朝日新聞地方版には「またも人騒がせな北大山岳部」という大きな見出しが躍っていた。

 やがて卒業した私は、札幌の繁華街ススキノやもう一つの繁華街「狸小路」で、ギョウザの店を切り盛りするようになった。進学塾の先生やバーテンなどもやった。そして数年後、新聞記者をやってみるか、と思い立ち、札幌で毎日新聞の試験を受けた。面接官が並んだ最終面接。その中の一人が「君のことは知っているよ。あの遭難の時、私が総指揮を取っていたんだ」と言い、皆がどっと笑った。あっ、これは受かった、とその時思った。

ダウラギリ1峰ベースキャンプで(冬季8000メートル以上峰世界初登頂=1982年)。
浜名さんは、最前列で座っている隊員の後方に立っている。日焼けした顔。

 遭難現場で体験したような記者にはならないぞ、とうそぶきつつ、入社後はそれなりに記者生活を楽しんだ。10数年勤めた後に退社したが、その間、休職もさせてくれた。それも3回だ。2回は北大ネパール・ヒマラヤ遠征隊であり、1回は日本山岳会の中国登山隊である。普通の企業ならこうはいかないだろう。退職をしていくしかない。その点、毎日新聞は実にいい会社であった。条件は帰国したら連載を書けばいいという。写真部の先輩は、ごっそりとフィルムをくれた(もちろん当時はデジカメなどはない)。

 もっとも2回目に関してはさすがにすんなりとはいかなかった。何しろ、1年間休職して、帰国して1年ちょっと勤め、その後また1年間休職するというのである。しかし、日本山岳会の会長が毎日新聞社長に直接手紙を書いてくれたら一発でオーケーとなった。

 1985年夏、日航機の御巣鷹山墜落事故の時は、中国の青海省で山登りをしていた。「山の経験のある奴に現場に行かせろ。浜名はどうした」という話になったらしいが、長期休暇を取ったことがばれた。

 私が毎日新聞を辞めてしばらくして、フリーライターと編集者の仕事を始めた1989年、北大山岳部の後輩、藤原章生君が毎日新聞に入社した。言うまでもなく皆さんご存じの今が旬の花型記者である。2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行した(ぜひお読みください。まだの方はぜひ購入のほどお願いします。とても良い本です。*どういうわけか、ここだけはなぜか「ですます調」)。

 2月24日19時からは、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 ダウラギリ1峰ベースキャンプで(冬季8000メートル以上峰世界初登頂=1982年)。絵はがきにされた少年』」と題するオンライン対談が開かれる。対談者は藤原と私・浜名である。それらについては、次回(その2)で詳細を報告したいと思う。

(浜名 純)

※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。

2021年1月25日

北村正任元社長ら出品、「湖心社書展」を2月に銀座で開催

 湖心社代表の書家、友野浅峰さん=写真・毎日文化センターHPから=の指導の下、毎日新聞書道クラブで日々、修練を重ねている会員が参加する「第45回湖心社書展」が2月3日(水)から7日(日)まで、中央区銀座3-9-11の紙パルプ会館5階、セントラルミュージアム銀座で開催されます。昨年夏に開催予定でしたが、新型ウイルス感染拡大のため、延期されていました。ウイルスの脅威は、さらに強くなっていますが、今のところ開催の予定です。

 毎日新聞関係では、北村元社長のほか、寺田健一元毎日書道会専務理事、高尾義彦元監査役、元地方部の石崎瑠璃さんが「客員」として作品を展示します。客員以外は、ほとんどがプロの書道家の方々で、毎回、見応えのある作品が揃う書展です。

 書道クラブは月曜の夕方に毎月3回、開催されていますが、緊急事態宣言に伴い、1月はお休みで、恒例の新年会も実現しませんでした。

 湖心社書展は本来なら、会員の作品を見ていただき懇親の機会に、と楽しみにしたいところ。「密」を避けて作品が鑑賞できるように、と気配りしながらの開催となります。無理はされないで、会場に足を運んでいただければ、有難く。

(毎日新聞書道クラブ)

2021年1月20日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑧ある新聞記者の歩み 7

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」7回目です。

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください

ある新聞記者の歩み 7 伝書鳩からスマホまで 技術革新と共に歩んだ記者生活

前回まで、時間を追って佐々木宏人さんの記者としての歩みを聞いてきましたが、今回は1965年(昭和40年)に毎日新聞社に入って水戸支局に配属された頃に戻って、記者の仕事の中で出会った技術革新について伺います。

目次
◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・
◇原稿は電話で読み上げて伝える
◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・
◇キーパンチャーは花嫁候補?
◇合理化であぶれた人が支局で記者に
◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も
◇新聞のカラー化も画期的だった
◇支局では写真の現像も自分で
◇運転手がカメラマン兼任
◇新聞記者は無線技士

◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・

ぼくが入社したときに、毎日の有楽町の駅前のビルの屋上に鳩小屋があったという話をしましたよね。実際には通信のためには、その年以降もう使ってなかったんですね。
そうー。当時の支局の通信事情をお話しましょう。支局の電話は今では考えられませんが直通ではなく、水戸電報電話局の交換台への申し込み制だったのです。電話機はもちろん今のような携帯ではなく、昭和のテレビドラマに登場する指先でダイヤルを回す黒電話でした。支局の大きなテーブルの上に四台位ありましたかね。土浦、取手、下館とかの(毎日新聞の)通信部や警察にかけるときに現在の市外局番の029(土浦市)、0297(取手市)とか回すのではなくて、交換に土浦市の〇〇〇〇番とか伝えてつないでもらうわけです。事件など起きると警察署の回線が一杯になるのか、5分待ち、10分待ちというのはざらでした。
しょっちゅう申し込むのでウワサ話ですが、交換手とデートに成功してゴールインした記者がいたという話を聞いたことがあります(笑)。

だから県下の各通信部とは定時通話というのがありました。電話局と契約して毎日12時と5時だったかな。これは夕刊の締め切りと朝刊の早版の締め切りのタイミングです。そのときに定時通話を入れておくわけです。通信部との定時通話では、だいたい奥さんが出てきます。それで「主人、今○○町役場まで取材に行ってますが、何も無いって連絡してくれと言われました」と言うんです。「ウソつけっ」とこっちは内心思うんです。自分のことは棚に上げて「どうせクラブで麻雀やってるんだろう」って・・・(笑)。

◇原稿は電話で読み上げて伝える

 支局に着任した当時、原稿はデスクが本社との直通電話で吹き込んでいました。ダイヤルのない黒電話の受話器を取り上げて、「水戸から交換さん、交換さん」と呼んで、交換手が出てくると「速記さんお願いします」と言って、デスクが原稿を読み上げて送るわけです。たとえば、「〇月〇日、水戸市元吉田(みとしもとよしだ-元吉田は、もとは元旦のもと、吉田はきちでんよしだ)4丁目の信号機のない交差点で、佐々木宏人(ささきひろと-ささきは普通のささき、ひろとは、うかんむりに片仮名のナム、人間のひと)さんの乗用車と、東茨城郡茨城町内原鯉渕(うちはら-内外のウチ、原っぱのハラ、鯉渕はいけのコイ、サンズイのブチ)の内藤次郎(ないとう-内外のウチに、藤の花のフジ、じろうはツグロウ)さんの軽自動車が正面衝突、内藤さんは胸の骨を折って全治二か月のケガ。水戸署の調べによると佐々木さんの前方不注意。」というように読み上げて送ります。そうやってデスクは、毎日県版1ページ分の原稿を全部読み上げて送っていました。

Q.固有名詞がたいへんですね。

固有名詞はもちろん大変なんですが、もうひとつたいへんなのが方言です。茨城弁は「い」と「え」の区別がはっきりしないんです。たとえば、戸籍上は「すい」さんなんだけど、口頭では「すえ」になっていたりするわけです。こういうケースがけっこうありました。通信部の主任で地元出身の古手の先輩記者は、方言がきつく、原稿を電話で取る際「すえさんの『え』は『江戸の「え」』ですね」と確認すると、『うん井戸の「い」だ』」と答えるんですから参ります。地元の人にはその微妙なニュアンスが分かるんでしょうが‐‐‐。今から考えるとおかしい、漫才選手権の“M1グランプリの世界”ですね(笑)。
同じ茨城県でも福島に近い高萩市、北茨城市になるとほとんど福島弁に近くなり、朝そこの警察署に警戒電話を入れると古手の地元出身の宿直警官が出るのですが、何を言っているのかほとんど聞き取れず往生しました。青森、秋田、岩手など東北の支局に行った仲間は方言で苦労したようです。

◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・

それとは別に、県版には、短歌とか俳句とか、県庁や市町村の行事予定だとか、発表期日が指定されている県庁人事、教員異動情報、連載企画記事などは、原稿便というので本社に送ります。原稿便は駅に持って行って、電車に乗せて送ります。各社みんなそうやって送ってました。それを上野で取り分けて、各社に持って行くというわけです。
ときには、駅に届ける原稿が遅れて、電車が出発しようとしているところを、車掌に発車ベルを押させないようにして間に合わせた、なんてひどい話も聞いたことありますが本当かどうか(笑)。

そんな通信事情だったのですが、1年か2年たって市外局番ができて、県内各地どこにも直接自由にかけられるようになりました。これは画期的でした。これで県内の警察署--27署だったかなあ--の全部に、朝、支局から電話ができるようになりました。それまでは水戸警察署や、県警本部にある直通の“ケイデン”(警察電話)を使わせてもらっていたのです。

◇キーパンチャーは花嫁候補?

その次に漢テレというのが支局に入ってきます。漢字テレタイプっていうやつで、デカいんですよ。新聞を見開きにして、もうひとまわり大きくしたくらい。『毎日の3世紀』という上下と別巻3 冊からなる社史(2002年発行)を見ると、ぼくが入社した1965年(昭和40年)に全支局に導入されたとのことです。
NHKの番組の「日本人のお名前」ではないですが、難しい名前がたくさんありますが、それも全部漢和辞典のように感じのキーが並んでいて、打ち込めるわけです。茨城では「圷(あくつ)」さん、「塙(はなわ)」さん、「永作(ながさく)」さん、「深作(ふかさく)」さんなんて言う東京では聞いたことのない名前が多かったですね。「生田目(なまため)」さんなんて言うのもありました。東京に来てタクシーに乗って運転手さんの名札を見て、こういう名前があると「茨城出身?」というと間違いなかったですね(笑)。
漢テレ作業のために女性を雇いました。パンチャーとしてです。東京の新聞社のパンチャーということで、あこがれの対象だったようです。水戸の優秀な高校を出た品行方正な女性が入ってきました。ですから、当時、ぼくの同期入社を見るとパンチャーと結婚した人も多いですネ。

◇合理化であぶれた人が支局で記者に

パンチャーさんが原稿を打ち込むと、さん孔紙と呼ぶ紙テープに穴があきます。それを送信機にかけて、本社にさん孔紙の穴開き情報を送ります。それを本社の機械にかけると、さん孔テープから鉛活字を自動鋳造するシステム活字になるわけです。
ところが困るのは、それによってこれまで支局からの電話原稿を書きとっていた、本社の速記さんや漢テレの導入で活字を拾う人たちの仕事がなくなってしまったことです。その速記さんが新聞記者として各支局に出されました。しかし、速記さんは新聞記者の訓練を受けたわけではありませんから、記者会見に出ても全部速記してしまう。するととにかく長い原稿になってしまうわけです。記事でなくて速記録。でもどんどん成長してできる記者になった人も多いですよ。パンチャーさんはずっといました。1985年(昭和60年)にぼくが甲府支局長に出たときもまだいましたね。
この技術革新のために、鉛活字を拾う活版関係の人もどんどん地方支局や広告・販売・総務などのセクションに送り出されていきました。 こうした大合理化が進行していたのですが、各社とも組合が強いということもあって人員整理をするわけにもいかず、合理化の対象になった職種の人をみんな抱え込んでいました。 そういう合理化の波は日本全国の新聞社にあったわけですが、日本企業の終身雇用体質に加えて、新聞自体も広告収入がどんどん伸びていた時期だったので、抱え込むのにそんなに苦労はなかったと思います。

◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も

それから間もなくワープロが導入されて、甲府支局長の時代(1985~89年)の末期には、「東芝のルポ」をぼくも使うようになりました。

その当時は、編集局内でも「オレはエンピツ1本で勝負してきたんだ。ワープロなんかで書けるか!」なんて大見えを切る人がたくさんいました。僕もお世話になった政治部の名物記者・岩見隆夫さんなんてそうでしたよ。最後まで鉛筆でした。さすがにもう今はいないでしょうね。ん

Q.「近聞遠見」という、政治家も必ず読むというコラムを長らく連載していた人ですね。

そうです。それはともかく、ワープロの時代があって、あっという間にパソコンの時代になっちゃいましたね。思えば、技術革新というのがすごい時代だったですね。入社したときは伝書鳩がまだいたわけで、30年くらいで明治100年分くらいの技術革新を体験したのではないでしょうか。その渦中にいるなんて思いもしなかったですね。

◇新聞のカラー化も画期的だった

『毎日の3世紀』を見ると、「1968年のメキシコ五輪でカラー電送で受信しカラー化」とあります。水戸支局にいた時代ですがあまり印象に残っていませんね。雑誌なんかはとうの昔にカラー紙面が主流でしたから、なって当然という感じだったんではないでしょうか。日々短時間での大量印刷の新聞の、カラー化の特殊性、現場の苦労などになんかに想いは至らなかったんでしょうね。
むしろ日常必携の電話機の変化の方が気になっていましたね。電話が固定電話から携帯になって、スマホになるという変化の時代でした。ポケベルも一時盛んに使われましたね。入社してから甲府支局長になるまで20年、スマホはまだ登場していませんでしたが、“伝書鳩からスマホ”までのすさまじい技術革新の時代に新聞記者をやっていたことになるんですね。今考えると英国に始まる18世紀から19世紀半ばの近代史の産業革命で、織物の手工業から蒸気機関の動力源としての発達による、機械工業の大変化をとげるような時代を体験していたんですね。
振り返ってみると、そんな技術革新のことなんてあまり考えたことはなかったですね。新聞を産業としてとらえず、正義感にあふれた取材一筋というといえばカッコイイですが走り回っていただけで、新聞を支えてきたバックヤードとしての技術の力をあらためて感じますね。さらに販売・広告のこともほとんど考えず過ごせたんですから、いい気なもんですね。

以下はこちらをクリック

2020年12月25日

コロナの今年も、元写真部、山田茂雄さんがプライベートカレンダー31作目

2021年のカレンダー1-2月(ビルバオのホテルの窓に反射する風景)

 カレンダー いつもの写真 届かずに

 河彦の名前で日々、つぶやいているツィッター俳句にこの一句をオンした12月23日、元写真部の山田茂雄さん(73)から、恒例の2021年プライベートカレンダーが届いた。毎年、海外で撮影した写真をあしらっているので、今年は海外旅行が出来なかったと推測、断念したかと早とちりしたが、これで31回目という永年の積み重ねに、感動した。

最初に作ったカレンダー。ネパールの生活を伝える。

 山田さんのカレンダー作りは、東京ヘレンケラー協会の調査で1987年にネパールに同行取材、翌年にはあき子夫人がやはりネパールを訪れたことをきっかけに、「日本とは別の時間が流れているネパールの人々の生活を1年間、楽しんでもらおう」と発想、その後、1996年を除き、毎年、作品を作ってきた。当初はポストカードにプリントしていたが、少部数でプライベートカレンダーを印刷出来る印刷所を見つけ、卓上カレンダーとして年賀状替わりに400部ほどを友人、知人に送っているという。

 これまで訪問した国を挙げてもらうと、36カ国・地域にのぼる(カッコ内は回数)。アジアでは、韓国(2)、中国(広州1)、香港(4)、マカオ(2)、タイ(3)、マレイシア(2)、シンガポール(3)、ネパール(1)、インドネシア(1)、台湾(4)。オセアニアでは、オーストラリア(1)。アフリカ・中東では、マダガスカル(1)、ケニア(3)、エジプト(1)、ヨルダン(1)、トルコ(2)。ヨーロッパは、イタリア(6)、サンマリーノ(1)、オランダ(5)、ベルギー(4)、フランス(2)、スイス(1)、ドイツ(1)、英国(3)、スペイン(2)、ポルトガル(1)、マルタ(1)、ノルウエー(1)、スエーデン(1)、デンマーク(2)、オーストリア(1)、ハンガリー(1)、ロシア(1)、ギリシャ(1)。南北アメリカは、米国(8)、チリ(1)、アルゼンチン(1)となっている。

 ちなみに21年版カレンダーは、1-2月=スペイン・ビルバオ(2016年撮影)、3-4月=トルコ・イスタンブール(2009年撮影)、5-6月=オランダ・アムステルダム(2011年)、7-8月=スペイン・サン・セバスティアン(2016年撮影)、9-10月=トルコ・イスタンブール(2009年撮影)、11-12月=台湾・台北(2009年撮影)。美術館のそばや避暑地のホテル、自転車のサイクルツアーグループ、ボスポラス海峡を行く乗合船などが目を楽しませてくれる。

オランダの冬

 1971年入社の山田さんは、大阪・東京両本社の写真部に在籍。1995年に退社した後も、フリーのカメラマンとして仕事を続け、毎日新聞主催のイベントなども手掛けてきた。夫人とともに、仕事以外でも海外への旅を楽しむ機会が多く、その成果が毎年のカレンダーに反映された。

 最も興味を引かれたのは、オランダで、人口約1700万人(東京は約1400万人)、九州とほぼ同じ面積で国家が成り立っていて、山田さんは「人口減少が続く中、日本も大国主義を捨て、中規模の国になるためにはオランダには何かヒントがあるのでは」と語る。

 実は、山田さんとはニューヨークの国連本部で1982年に開かれた第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)の際、反核市民運動などを現地で10日間ほど一緒に取材した。海外での取材の縁で、海外の景色をテーマにしたカレンダーをいただくことになり、来年はもっといい年に、と願うばかりだ。

(高尾 義彦)

2020年12月17日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑦ ある新聞記者の歩み 6

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」6回目です。

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください

ある新聞記者の歩み6 降ってきた石油危機 しんどいながら記者として得た幸運

 「新聞記者にとって事件に恵まれるほど幸運なことはない」と毎日新聞の元記者佐々木宏人さんは『証言・第一次石油危機』(1991年、電気新聞刊)に寄せた一文の冒頭に書いています。

 佐々木さんにとって石油危機に出会うのは、入社して8年、32歳という油に乗った時期のことです。佐々木さんは経済部で仕事をするようになって3年経っていました。そこで出会った大きなできごとは石油危機(オイルショック)でした。昭和48年(1973年)の10月に第4次中東戦争が起き、それがもとで原油の価格が4倍にはねあがりました。それに伴い日本国内の石油価格が暴騰し、物価が急上昇して狂乱物価と言われるようになりました。物資不足への不安から消費者は買いだめに走り、トイレットペーパーや洗剤、砂糖などがたちまち店頭から消えました。

目次
◆寝耳に水の石油危機
◆通産省を震撼 石油危機直前の汚職事件
◆書くか、書くまいか 通産次官の爆弾発言
◆押し入れいっぱいのトイレットペーパー
◆書けば何でも1面トップ 寝過ごして特落ちも
◆朝日の原稿が毎日に!?
◆初の海外同行取材でフセインに会う
◆法案を“創作”

◆寝耳に水の石油危機

 「昭和48年(1973年)10月6日第四次中東戦争が起き、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が、米国を筆頭とするイスラエルを支持する西側諸国への米国を筆頭とする西側諸国への原油供給禁止措置を発表、第1次石油危機が勃発しました。電力からトイレットペーパーの生産まで“油漬け”の日本経済でしたから、日本はパニック状態になりました。

 そのわずか2ヶ月前に、僕は通産省(現経済産業省)記者クラブに配属になりました。通称「虎クラ」、虎ノ門クラブといいました。家電業界担当、電力記者会(現エネルギー記者クラブ)担当を経て、はじめての官庁詰めでした。毎日は各社とほぼ同じ3人体制でした。」

 「このとき、経済記者としてのキャリアを積むには欠かせない官庁取材の試金石ともなる経済官庁へ移ったわけです。経済記者のキャリアパスには、大蔵省(現財務省)、通産省担当は経験しなくてはいけないポストだったように思います。その内の一つである通産省配属になったのですから、今にして思えば意気揚々と乗り込んでいきました。というのも、水戸支局から経済部に移って約3年、東京での取材にも慣れて、特に電力記者会当時は、エネルギー問題に興味を持って、シベリア、インドネシア、アブダビなどの石油資源開発問題取材に首をつっこんでいました。前回お話したように、資源派財界人の安西浩、今里広記、中山素平、右翼の巨頭・田中清玄といった方々のところに通っては、1面トップを飾るような特ダネを幾つかものにもしていました。その年の7月に通産省に資源エネルギー庁も発足したばかり、記者としての実力を買われたような気分でしたネ。」

 「ところが、石油危機という“事件”に出会ったこの時期は、長い記者生活のなかでも、最大級にしんどい経験となりました。しかし、その後なんとか新聞記者として勤め上げることができたのも、「あの時の取材に比べれば」という、この経験があったからだという気がします。今では、この“事件”に出会ったことは幸運だったと感謝しています。」

 「とにかく、石油危機などという事態と、それが戦後経済史の中で最大の影響を生み出すきっかけになると予想した人は、通産省に詰めていた記者の中にひとりとしていなかったと思いますし、通産省の幹部にもいなかったと思います。いわゆる中東問題というのは政治、外交のテーマとしては意識されていたけど、経済問題、特に石油との関連でこれを考えることはまったくといってありませんでした。経済界全体が「水と油は蛇口をひねれば出てくる」という意識ではなかったでしょうか。時あたかも田中角栄首相の「日本列島改造論」で土地高騰が起きる高度成長の時代、エクソン、モービル、シェルなどのアラブの石油を押さえている国際石油資本(メジャー)に頼めばなんとかなる、日本にとっては金さえ払えば石油はどうにでもなるという感じではなかったでしょうか。私もその一人ですが、経済問題、特に石油との関連でこれを考える思考はまったく定着してなかったといっても過言ではありません。」

 「今でも覚えていますが、電力記者会当時の話です。経済部では毎週月曜日朝10時から、民間経済担当記者がその週の取材予定、記事出稿予定、情報交換を行う民間部会をやっていました。その時、私から国際石油資本と関係の深い東亜燃料㈱の、高校の先輩でもある中原伸之社長から「佐々木君、英国のアラブ情報誌に『金本位制、ドル本位制を揺さぶる“石油本位制”の時代が来る』という記事が掲載されている。読んでみろよ」といわれ記事を渡されました。その話を民間部会で披露すると司会役の一橋大出身で後に大学教授に転身する民間担当デスクに「そんなバカなことあるわけないだろう」と一笑に付されたことを良く覚えています。石油ショック到来の半年間位前の時だったと思います。僕も「そうだよな―」と引き下がりましたけど、そんな時代でした。」

 「山形(栄治・初代資源エネルギー庁長官)さんが、大分たってから当時を回顧してこう言っていたことを記憶しています。「(石油ショックには)ぼう然自失だった。予測もしなかった」と。「メジャーにさえ頼んでおけば、石油なんてジャブジャブ入ってくるんだと、こう思っていた」と。」

 「エネルギー獲得のためには、メジャーの他にやはり自主開発原油も必要ということで、資源エネルギー庁ができたと思います。当時「和製メジャー」なんて言葉がエネルギー業界に飛び交っていました。」

以下はこちらをクリック

2020年12月16日

演劇記者の思い出 ― いまも演劇の現場に、と水落 潔さん

 私は1961年の入社です。演劇記者になりたくて受験したのです。面接の時、「何を勉強したのかね」と聞かれ「上方和事の研究です」と答えたところ、「新聞社に入って役に立つと思うかね」。 「役に立たないと思います」と言ったことを覚えています。とても無理だと諦めていたところ、思いがけず採用の報せを貰いました。生涯で一番嬉しかったことでした。後に、この年は変な奴を取ろうという方針だったと聞きました。

 前橋支局で二年勤務した後、学芸部に配属されましたが、当初は家庭欄、二年後に音楽担当になりました。当時、歌謡曲界が一挙に若返って橋幸夫、舟木一夫、都はるみら十代歌手が人気を集め始めたので、担当者も若い者が良いだろうというのが理由でした。これも二年、最後はビートルズの来日でした。小生意気な四人組でした。この後、毎日グラフに移りました。風俗、事件、人物など時の話題を写真と文で紹介する写真週刊誌で、三島由紀夫、小松左京、浅利慶太、桂米朝、永六輔、中村歌右衛門ら様々なジャンルの「時の人」を取材しました。三島さんの取材は死の前年でしたが「歳を取るというのは真っ逆さまの転落だね」と言っていたのと「三島は好きなことばかやっていると思うだろうが、そうでないことは僕が死ねば分かるよ」との言葉が印象に残っています。グラフの最後の仕事は、大阪万博の別冊特集号で、会場案内を含むカタログ雑誌にしたので飛ぶように売れました。

 再び学芸部勤務となりテレビと演劇を兼務しました。昼間NHKの放送記者クラブに詰め、夜は舞台を見るという生活です。入社して十年目にやっと志望の仕事に辿りついたわけです。演劇担当は二人で、先輩が新劇を持ち、私は古典演劇と演芸、商業演劇は二人で分担することになりました。新劇は老舗の劇団に陰りが出て、アングラと呼ばれた小劇場が台頭した時代でした。蜷川幸雄、井上ひさしなど平成の演劇界を代表する人材が出てきました。アングラ演劇は安保闘争の挫折から生まれたもので、既成価値を一切認めないという新左翼の政治運動の側面を持っていました。商業演劇は映画スターが主演する女優劇が全盛で、家電メーカーをはじめとする企業や商店街が招待する中高年の女性が客席を占めていました。歌舞伎は戦後歌舞伎を支えてきた名優が円熟期を迎えていましたが、興行的には苦しい時代でした。歌舞伎座を例にとっても三波春夫、大川橋蔵、中村錦之助らの公演が人気を集めていたのです。藤山寛美の松竹新喜劇の人気が沸騰していました。

 私自身のことで言うと、歌舞伎俳優に名前を覚えて貰うのが一苦労でした。子供のころから歌舞伎や文楽は見てきましたが、仕事となると別です。あらゆる俳優と適当な距離を取ることと、下調べを充分にしたうえで取材をする。それが一番大切だと教わりました。学芸部員は交代で連載小説を担当する仕事があります。私は源氏鶏太さんと瀬戸内寂聴さんの小説を担当し、デスク時代には白木東洋部長と共に藤沢周平さんに小説の依頼をしました。池波正太郎さんからも「次は毎日に」と約束を貰っていたのですが、亡くなられて果たせなかったのが残念です。瀬戸内さんは当時から売れっ子で、原稿がまま遅れがちになります。当時(昭和五十三年)はファクスという便利な器械が無かったので、夜遅く芝居を観終わった後に電話で原稿を受けるのです。これも修業の一つでした。源氏さんからは、「世の中に大人物がいると思ってはいけませんよ」と言われました。今も肝に銘じています。

 色々なことがありましたが、経済が右肩上がりの時代でしたから、楽しいことの方が多かったです。演劇記者でもう一つ大切なことは訃報です。素早くキャッチすることも大切ですが、その人の業績をしっかりと伝える記事が故人への何よりの追悼になるのです。不謹慎な話ですが、予定稿が不可欠です。

 昭和末から平成にかけて演劇界は大きく変貌しました。ミュージカルが大劇場演劇の柱になり、歌舞伎界では次世代の俳優が主流になりました。その先鞭をつけたのは劇団四季の「キャッツ」と三代目市川猿之助の「猿之助歌舞伎」、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」でした。それらの舞台を見た若者が演劇ファンになったのです。ミュージカルでは次々に人気作品が上演され、歌舞伎では猿之助に続いて十八代目中村勘三郎が出てきました。歌舞伎座は平成二年から年間すべてが歌舞伎公演になりました。私は平成八(1996)年に退社したのですが、二十五年間に亘って好きな演劇の仕事を続けられたことを感謝しています。お陰で今もってささやかながら演劇の仕事をしています。毎日新聞のお陰です。ある先輩から「お前は毎日の看板を利用して自分の商売をしてきただろう」と言われました。まさにその通りの人生でした。

(水落 潔)

水落 潔(みずおち・きよし)さんは1936年、大阪出身。早稲田大学文学部演劇科卒。1970年より学芸部で演劇を担当。編集委員、特別委員を経て96年退社。幼時から歌舞伎、文楽に親しみ、主として古典演劇、商業演劇を中心に評論活動。主な著書は芸術選奨新人賞受賞(91年)の『上方歌舞伎』をはじめ、『歌舞伎鑑賞辞典』『平成歌舞伎俳優論』『幸四郎の見果てぬ夢』『文楽』『演劇散歩』。日本演劇協会理事。2000年、桜美林大学文学部教授に就任、名誉教授。

2020年12月14日

一人オペラ・奈良ゆみさんを追いかけて ― 元写真部の橋口さん、リタイア後は音楽の世界に

キャプション

 パリでは10月30日から2度目のコンフィヌモン(自己隔離・外出規制)対策を施行しているにもかかわらず、コロナ禍は拡がるばかり。沈静化の気配がうかがえない。

 3月の退職後、カヌーでの大隅海峡漕破を目指すプロジェクトへの参加や、さまざまなイベントやコンサートの関係者からの依頼もあり、昔取った杵柄の写真撮影で、多少なりと禄を食もうと考えていたが、ご多聞に漏れず、すべてがパーに。

 夏には、予定されていたオファーを全てクリアして、まず、パリへ行こうと思っていたが、それもかなわぬことに。なぜパリなのか。それは、日欧で活発な公演活動を続けるソプラノ歌手、奈良ゆみさんと、パリで逢うことにしていたから。

 11月6日に、奈良ゆみさんの会報「ラ・プレイヤード」の世話人、海老坂武さんから寄稿の依頼があった。そこに、なぜパリに行きたいのかという経緯を含め書いた拙文を寄せた。

 〈奈良さんの『一人オペラ』との出会い―—〉

 「まだ新型コロナ騒ぎが発生する前の今年1月11日、東京・港区の山王オーディアムで、奈良ゆみさんの『葵の上~業のゆくえ』を、音楽好きの友人ら3人と一緒に聴いた。

 住宅街に築かれた100人収容ほどの小さなホール。演出の笈田ヨシさんは、中央部分を舞台に仕立て、三方を客席で囲んだ。このため約80人分の席しか設けられず、昼夜2回の公演とも満席となった。聴いたのは昼の公演だったが、立錐の余地もなく、コロナ禍の現状では考えられないほど濃密な空間は、冬の最中にもかかわらず、開演前から熱気に包まれていた。

 演奏されたのは作曲家の松平頼則さん(1907~2001年)が書いたモノオペラ『源氏物語』から『六条御息所』の部分を再構成したもの。松平さんの絶筆となった『鳥(迦陵頻)の急』をフィナーレに加えて一層深化させ、『愛の瞑想と魂の浄化が描く美しい世界』が展開する。

 奈良さんの澄んだ張りのある歌声が、愛と情念の歌絵巻を劇的に描く。揺るぎない圧倒的な歌唱が、息遣いが聴こえるほどの密接な距離感の中で、深く大きく、時に激しく心を揺さぶる。またヴァイオリンとヴィオラで卓越した技量を示した亀井庸州さんが吹く尺八にも魅了された。二人の呼吸に乱れはなく、加えて物語を進める山村雅治さんの穏やかな口調が、葵の上の悶え苦しむような〝業〟を、より鮮やかに際立たせていた。

 私が奈良さんの『一人オペラ』と出会ったのは2004年、千葉県習志野市の習志野文化ホールでの『ソロ・ヴォイス』の公演だった。このコンサートでも『源氏物語』からアリアがメインに据えられた。また公演ではステージ上に観客を乗せて鑑賞させるというユニークなスタイルをとっていたこともあり、毎日新聞の記事として取材、掲載した。

 以降、奈良さんとはメールの遣り取りを続け、国内の公演に足を運んだり、また誕生日にささやかなプレゼントを贈ったりも。頂いた礼状には、ぜひパリに遊びに来てくださいと書かれていた。40年務めた新聞記者業をこの3月に終えた以降、パリに奈良さんを訪ねようと思っていたが、予期せぬコロナ蔓延により叶わぬことに。

 半ば諦め感が漂う中、奈良さんのフェイスブックを見ると『来年1月23日には大阪でやる予定です。舞台は生きています。私達も!』と嬉しい書き込み。これから、どうなるか一寸先は闇状態だが、ぜひ実現させて欲しい。そのためにも猖獗を極める新型コロナ流行に、一刻も早く終止符が打たれることを祈るばかりだ」

 寄稿した文面通り04年に出会った後、12年にフェイスブックで再会。翌年の東京でのリサイタルに招待を受けた。リサイタルを聴き終え、地下鉄銀座駅で撮影した写真と一緒にフェイスブックに投稿した。(「銀座でのリサイタル」=写真・右)

 13年6月7日

 「久しぶりに夜の銀座でフリーに。『あれ、久しぶり』という声も聞きたかったが、真っ直ぐ『家路』に…。いやー良かった。本当に酔いしれてしまった。一滴も呑んでいないのに…。奈良ゆみさんの『詩人の魂』というプログラム。人を愛することへの『てらい』が吹き飛ぶような感じが漲って…。ちょっと危険なので、直帰しました!」

 その後、メッセンジャーでのやり取りを続ける中、たまたま奈良さんの17年の誕生日に投稿されたファンからの「賛歌」に曲を付けるという暴挙を。(「西瓜の姫賛歌」=写真・上)

 「怒られるかもしれない…。きっと…。

 奈良ゆみさんの投稿にあった『西瓜の姫賛歌』…。ちゃんとした作品が、きっとあるだろうに…勝手に作曲してはいけませんねぇ~。

 でも物憂げな雰囲気が良かったので、ついつい…。

 投げやりな雰囲気をいっぱい醸し出させられるよう、右では4拍子で左は6拍子…。

 オスティナート的な伴奏が気に入って、譜面にしてしまいました。

 奈良さん、お許しください…」(フェイスブック17年7月11日投稿)

 これに対し、すぐ奈良さんからメッセンジャーで返信があった。

 「何と嬉しい予期せぬ贈り物!ありがとうございます!!!ああ、幸せ…明後日ピアニストのところに行きますので、持って行って早速歌ってみます」

 この返信に気を良くしたからではありませんが、さらに次の年にも誕生祝いの詩に作曲することに。(写真=西瓜の姫の誕生日))

 「あれやこれやと忙しくやった割に、成果の方は…。多忙な時こそ集中して…と、西瓜の姫への贈り物を、一気呵成に仕上げました…。

 誕生日ですから、明るくしっかりニ長調…。入りのホンキーなピアノだけが、ちょっとそれっぽいですが、後は、全くのポピュラー仕立て…。

 ロックにサンバのリズムを加え、所々、複雑にしていますが、終始、能天気な雰囲気を維持しました…。メロディーは繰り返しなのでリピート処理したかったのですが、細かな変化があるので、繰り返し記号なく77小節…ラッキーな数字にピタリと…。昔の手書きだと大変ですが、今は、コピペで一気に…。良い時代に生まれたものだ!」(同18年7月7日投稿)

 奈良さんからは、前回同様感謝の言葉が。そして、パリの自宅を訪ねてほしいとも。

 現状では当分、出入国が難しい状況が続くだろう。しかし、何とか叶えたい。

 奈良さんは今月4日、フェイスブックに「来年1月23日に大阪のザ・フェニックスホールで『葵の上』の公演をいたします。秋になる頃にはすこし考えたのですがあまり迷うこともなくやることに決断しました」と投稿している。だがその4日以降も、大阪そして全国でのコロナの感染拡大は拡がるばかり。

 無事公演ができればと、これまで不謹慎にも神仏に願うことなどあまりなかったが、毎朝の散歩の折に、自宅近くの茂呂神社(船橋市東船橋)で、パリでの再会の期待も含め「コロナ退散」を祈っている。

(橋口 正)

橋口正さん略歴:1954年寝屋川市生まれ。府立高卒業後、アジアアフリカ欧州を2年近く放浪。81年、毎日新聞入社、東京写真部。三越岡田社長事件、日航機墜落の御巣鷹山、伊豆大島噴火取材では搭乗ヘリに火山弾などを経験。阪神大震災発生直後、大阪湾上のヘリから、燃える神戸の街を撮影。写真部編集委員、船橋支局長、東京本社事業部、茨城県土浦通信部を経て、10年にわたる千葉県松戸通信部を最後に2020年3月退社。夏は軽井沢、冬は船橋の二重生活。約2万枚のCD管理もままならず、一日2時間のピアノ練習と、レスキューした愛犬「ソラ」と「ミク」の散歩が日課。

2020年11月30日

宇宙・地球・人力発電―新しい時代の創造者を目指して 元社会部、茂木和行さんの新世界

シルク・ドゥ・ソレイユ公演「O(オー)」を観劇したホテル「ベラージオ」の劇場の前で(ラスベガス)

 「人力」を究極の自然エネルギーと位置付け、人力発電とアートを結び付ける「発電アート」を展開することによって、持続可能で循環型社会の実現を目指すNPO法人人力エネルギー研究所を設立して3年目になる。毎日新聞の企業理念として「生命をはぐくむ地球を大切にし」「生き生きとした活動を通じて時代の創造に貢献する」ことがあげられている。社会部の警視庁担当記者として、地球環境問題よりも、特ダネ取りに熱中し、ロッキード事件などの現場を渡り歩いていた私が、いまになって毎日の理念に重なる活動をしていることに、不思議な因縁を感じている。

ドン・ジョヴァンニの開演を告げる私
足踏み発電で地獄門の電飾が輝くドン・ジョヴァンニの一風景
富士河口湖町役場前で開催した 人力発電遊園地 で走るSL「まてき号」

 足踏みで発電する「発電床©」を使ったコンサート・オペラ「ドン・ジョヴァンニ」(河口湖円形ホール)、富士河口湖役場前で行った足こぎ発電でSL「まてき号」を走らせた人力発電遊園地、と、次第に規模を大きくし、この4月12日には「発電アート」の集大成であるサステナブル・オペラ「魔笛@人力発電遊園地」を河口湖ステラシアターで上演することになっていた。

 ご多聞に漏れず、新型コロナウイルスの感染拡大のために舞台稽古を1回しただけで公演は中止。来年4月25日に三鷹市公会堂光のホールでの再チャレンジが決定したものの、中止にともなう経済的損失がかなりな額に上り、東京公演では河口湖公演で予定していたSLレールの設置や富士山を模した電飾は断念し、足こぎ発電エアロバイク1台を設置する次のようなストーリーに転換することにしている。

 昼の王国ザラストロは、太陽光、風力、水力で電力を賄うスマート・シティ。夜の女王は、魔法の足こぎ発電エアロバイクで電気を賄っている夜の国の支配者。愛と友情を信じる者が魔笛を吹きエアロバイクと 呼応すると、世界を明るく照らす「光の輪」が起動する。

 夜の女王の国は、かつてこの「光の輪」によって明るく輝く世界だったが、女王の夫が亡くなった時に、親友のザラストロに「光の輪」を預けたことから、女王の国は鳥刺しパパゲーノがこぐ足こぎ発電エアロバイクだけで電気を賄う夜の世界になってしまった。「光の輪」を持ちながら魔笛を欠いているザラストロの王国も、陽がささず、風もなく、水が凍ってしまう冬の季節には、エネルギーの枯渇に悩んでいる。

 夜の国に迷い込んだ王子タミーノは、ザラストロの王国に幽閉されている夜の女王の娘パミーナを救って欲しいと女王に頼まれ、魔笛を預けられる。女王の真の狙いは、「光の輪」を取り戻し、夜の国を再びエネルギーに満ちた明るい世界に戻すことだった。タミーノは、愛するパミーナとともに魔笛を吹き、足こぎバイクをこぐパパゲーノの友情の力を借りて、見事「光の輪」を復活させることに成功、パミーナとめでたく結ばれることになる。

 魔法の鈴の力で娘に戻ったパパゲーナとパパゲーノも結ばれ、大団円に。「宇宙の神よ、愛と友情の力が世界に光を取り戻させたのだ。愛と友情、そして平和への祈りをあなたに捧げる」と、夜の女王も再登場して、全員の合唱でフィナーレとなる。

魔笛衣装によるファッションショー風景

 11月に入って、思いもかけず文化庁の「文化芸術活動の継続支援事業」交付金を頂戴することになり、11月27日に木場のスタジオで、魔笛公演用の衣装を使って、ファッションショーを行い、魔笛公演用のPR動画作成にあたった。辣腕演出家で知られる岸聖展氏にお願いしたこのファッションショーは、添付写真でご覧いただけるように、出演陣全員が黒マスク姿でコロナ・ウイルスを威嚇する、なかなかのシュールに仕上がっている(写真:嶋谷真理)。

 魔笛に登場予定の宇宙人アオヒト=国際的なアーティスト・パフォーマーの関根かんじさん=も先行出演し、足こぎ発電エアロバイクをこいでくれている。

 世界はいまや宇宙への進出競争の時代に入っている。その背景に、地球という惑星がエネルギー資源においても、居住空間としても、増殖する人類をもはや支えきれないとの危機感があることは言うまでもない。だが、宇宙進出によって食料や水、エネルギーを獲得する道が開けたとしても、加速する人類の進出はいつか宇宙のエネルギーそのものを食い荒らし、地球環境問題は宇宙環境問題へと拡大していくのではないだろうか。

 そんな想いから、時空を超えて高天原に降り立った宇宙人が、人力発電の力で地球だけでなく宇宙全体の環境危機を救う未来劇「アマテラスと魔法の足こぎ発電エアロバイク」を、魔笛外伝として制作する準備も進めている。

 はるか昔、銀河系内の地球から移住した人間種族のために、光を失い、枯死寸前に追い込まれている「あおいろ星」人は、地球人の秘密を探るために、一人の若者アオヒトを地球に送り込む。高天原の天岩戸にタイムスリップしたアオヒトは、使われないままに放置されていた「足こぎ発電エアロバイク」に出会う。それは、宇宙の気を集め、ごみをクリーンなエネルギーに変える力を持つ魔法のマシンだった。

 アメノウズメとともにこの魔法のマシンによって天岩戸をクリーンな青い光で満たし、アマテラスを天岩戸から連れ出すことに成功したアオヒトは、アマテラスを連れて宇宙へと旅立ち、地球人に汚された宇宙を元のきれいな宇宙へと戻してゆく。

 宇宙的視野で「古事記」の世界をも見せる私どもの未来劇は、日本文化の深淵を垣間見せることによって、新しいジャポニズムのうねりを世界へと発信すると信じている。

 折も折り、新型コロナ・ウイルス感染拡大の「巣ごもり」日常で、行動範囲が自宅周辺への散歩、ランニング、自転車によるツーリング、に変わった結果、身の回りに実に多くの神社、鷺宮八幡神社、阿佐ヶ谷神明宮、本天沼稲荷神社、猿田彦神社…が存在することを知った。

 JR荻窪駅近くの「天沼八幡神社」(杉並区天沼=写真左)に置かれていた「天沼八幡神社報」の中面3頁に、「日本書記1300年」の文字を見つけ、2020年が、『日本書記』誕生(養老4年=720年)1300年の記念すべき年であることに恥ずかしながら気づいた。その8年前の712年(和銅5年)には『古事記』が誕生している。

 「戦後75年間、日本は二千年以上続く皇統と伝統文化を持つ地球上でも稀有な国であることを学校で教わらなくなりました」と、天沼八幡神社報は嘆き、平成十年(1998年)IBBY(国際児童図書評議会)ニューデリー大会で行った上皇后陛下の基調講演でのお言葉を紹介している。

 「一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴しています。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や死生観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます」

 記紀神話に無知・無関心だけでなく、この「お言葉」に返す言葉がない我が身がなんとも情けない。日本書記誕生1300年にあたるこの機に、日本人の精神構造に深く根を下ろしているアマテラスの存在を世に問うことは、コロナ・自然災害など人類存亡の危機が露呈するこの時代に、明るい希望の光を取り戻すことにつながる、のではないか、の思いを強くしている。

 機を同じくして、未来劇「アマテラスと魔法の足こぎ発電エアロバイク」の演出もお願いする予定の岸氏から「日本全国のアマテラス神社を結ぶ道(トレイル)を構築し、太古の英知によって高密度社会がもたらしたコロナ禍の時代を乗り切る処方箋を提示するGo toトラベル・キャンペーン:アマテラス・トレイルを企画して、毎日新聞社に旗振り役をお願いしたらどうか」との提案が出されたのは心強い。岸氏は「日本人は古代から人の力の源である大地と語り合ってきた。アマテラス・トレイルとして再発見される大地の結びつきは、点と点を繋ぐ聖座(星座)を形作り、コロナ禍で消沈した社会に再び明るい未来を取り戻す力となるのではないか」と尻を押してくれている。

 毎日新聞の長期連載企画「宗教を現代に問う」が、1976年の新聞協会賞を受賞したことは記憶に新しい。そのパート2として、「神道を現代に問う」といった形で、アマテラスに始まる天皇の歴史を含めた「神道と日本人」の連載を始めてみてはどうだろうか、と思い始めている。日本人の心の原点を探り、私たち日本人の文化の深層を明らかにしていくことは、「時代の創造者」である毎日新聞にふさわしい企画になる気がする。

 アマテラスの道を、フランス南部からスペイン国境までの1500kmを結ぶ「サンティアゴ巡礼」や「歩く瞑想」として知られる「ラビリンス・ウオーク」などとつないでゆけば、「祈り」の輪によって世界が一つになってゆく、素晴らしい試みになるのではないだろうか。

 昔取った杵柄で、アマテラス・トレイルの同行取材などやってみたいと、「面白がり屋」の記者魂が復活するのを感じ、ワクワク感が否めない。流行語になった「お・も・て・な・し」に変わって「ア・マ・テ・ラ・ス」が、時代の先頭に立つようなことができれば、記者生活最後の残照を「時代の創造者」の一人として終えることが出来るかもしれない。そうなれば、何という幸せだろうか。

 ちなみに、東京都の芸術活動助成金プロジェクト「アートにエールを!」に、魔笛公演を題材とした以下の映像作品2点も採用され、ユーチューブ上で公開されている。

〇サステナブル・オペラ「魔笛@人力発電遊園地」
https://www.youtube.com/watch?v=ydrPDLMAfMA&t=270s

〇パパゲーノの冒険「持続可能な愛と平和を求めて」
https://www.youtube.com/watch?v=IIZkH4P4krY

ご覧いただければ幸いである。

※茂木和行さんは1970年、東大理学部天文学科卒、毎日新聞社入社。水戸支局を皮切りに社会部記者、サンデー毎日記者。1986年 退社。ニューズウイーク日本版副編集長、フィガロ・ジャポン編集長、生命誌研究館サイエンス・キュレーター、聖徳大学教授を経て 現在 NPO法人人力エネルギー研究所理事長。

2020年11月27日

タウン誌、地域FM、「47NEWS」の「三つのわらじ」── 新しいメディアで歩む元政治部副部長、尾中香尚里さん

 昨年9月に早期退職し、毎友会に加えていただきました。どうぞよろしくお願いします。

 昨年春に夫の仕事の都合で神奈川県藤沢市に転居し、遠距離通勤となったことなどを機に、次の人生を考え始めました。地域面の仕事の経験から、毎日新聞を含む新聞各社が(経営戦略上仕方ないとはいえ)地域報道を縮小していくのを寂しく思っていたので、卒業後は地域のタウン誌かコミュニティーFMで、地域情報の発信にかかわりたいと思っていました。

 「新たな地元」となった藤沢市のタウン誌「ふじさわびと」の門を叩きました。地元の駅や行政機関などに置かれているフリーペーパーですが、デザインも編集も無料とは思えない質の高さに感動しました。調べると日本タウン誌・フリーペーパー大賞(現日本地域情報コンテンツ大賞)を受賞した経歴もあるとのこと。地元タウン誌で長く編集長を務め、定年後に起業し1人でタウン誌を立ち上げたパワフルな女性編集長の生き方にも、強くひかれるものがありました。

 編集スタッフとしての参加が決まり、退職を決断。それをSNSで公表したところ、その日のうちに高校時代の友人から電話がかかってきました。歌手をしているその友人は、間もなく東京都狛江市に開局するコミュニティーFM「コマラジ」(85.7MHz)で、週1回お昼の情報番組のパーソナリティーを務めることになっており、その番組の制作にかかわってほしいというのです。

 あれよあれよという間に、私はこの友人とともに、毎週月曜正午から2時間の生番組に出演することになってしまいました。番組名は「アフタヌーンナビ Good Day Monday」。狛江市以外でもスマホアプリ「リスラジ」を使えばインターネット経由で聞くことができるので、よろしかったら聞いてみてください。

 番組では「最近の気になるニュースについて友人とおしゃべりする」というコーナーのほか、多くのゲストさんをお招きしています。ゲストさんはミュージシャンの方が多く、在職中にはお会いできなかったようなジャンルの方々と話すことができ、非常に刺激を受けています。また、放送でかける曲の一部を、自分で選曲できるのも魅力です。音楽でキャリアを積んだわけではないのにこんな仕事を任せていただき、本当に感謝の一言です。

 これで卒業後の新しい活動が固まったと思いきや、退職直後にさらなる仕事が降ってきました。共同通信社のウェブサイト「47NEWS」で、ネット向けの政治記事を書いてみないか、と誘われました。

 実は政治報道にかかわることは、退職後の仕事としてはさほど考えていませんでした。現役時代にどっぷりと仕事したので、退職後は少し局面を変えたかった。でも一方で、長く取材を続けてきた野党陣営の行方をもう少し見届けたい思いもあり、迷いましたがお引き受けしました。その途端に発覚したのが、ご存じ「桜を見る会」問題、そして新型コロナウイルスの感染拡大でした。

 気楽に野党関係の記事を書くつもりが、気がつけばこの間の安倍政権、続く現在の菅義偉政権のコロナ対応について、立て続けに論評記事を出すようになっていました。

 私は2011年、菅(かん)直人政権時の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の際に政治部デスクを務めていました。取材先の多くが閣内にいたこともあり、一記者としてあの「国難」に対峙した政権の苦闘を間近に見てきました。当時の政権もひどく批判されましたが、コロナ禍という新たな「国難」に対峙する政権の無責任さを見過ごせなかったのです。

 いざ書いてみると、予想外に多くの方に読んでいただけているようで、正直戸惑いました。現役時代に新聞記事を読んでくださっていた層とは、明らかに異なるようでした。国民の政治不信が広がるなか、こうした記事にはほとんど需要がないと思っていただけに、これは驚きでした。そして反応のなかに、毎回いくつも同じような言葉があるのに気づきました。

 「今まで自分の中でもやもやしていたことを言葉にしてくれた」「もやもやが可視化された」

 なるほど、と思いました。

 会社を離れた(そしてほかの仕事もある)今、日常的に永田町を歩いて生の取材をしているわけではありません。書くのは国会審議など表に出ている事象の解説が主体。記者時代を振り返れば「こんなことでいいのか」と思うこともあります。

 でも、いいかどうかは別として、読者の皆さんは今、一次情報や調査報道によるスクープだけでなく、複雑な社会のなかで感じている「もやもや」を整理し、言語化してもらいたいのではないか。そういう方向で、私の仕事にも少しは意味があるかもしれない。そう感じたのです。

 そんなわけで今日も「三つのわらじ」で、地元・藤沢から狛江、国会まで出没しています。コロナ禍で行動は思うに任せませんが、「自分の足で歩いている」実感があります。さらなる精進を続けつつ、さまざまなトラブルも楽しみながら、新たな人生を歩んでいきたいと思います。

※尾中香尚里(おなか・かおり)さんは福岡県出身。早稲田大学第一文学部卒業後、1988年入社。初任地は千葉支局。主に政治部で野党や国会を中心に取材。政治部・生活報道部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを務め、2019年に退社。共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。

2020年11月27日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑥ ある新聞記者の歩み 5

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」5回目です。

 経済部時代(3) エネルギー問題が大きな柱に

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記URをクリックしてお読みください。
 https://note.com/smenjo/n/n29ad13427a32

(インタビューは校條 諭さん)

 目次
 ◆三島事件の現場の近くにいながら  松下二重価格問題余話
 ◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!
 ◆エネルギー問題にどっぷりの始まり
 ◆電力会社などの広報担当と銀座を飲み歩く
 ◆ガレージの門に松葉をはさんでおくと
 ◆右翼の巨頭・田中清玄にかわいがられる
 ◆フィクサー児玉誉士夫の影
 ◆ブルネイへの視察旅行-初のLNG輸入
 ◆シンガポールで石油公団総裁から特ダネ

◆三島事件の現場の近くにいながら  松下二重価格問題余話

Q.前回、松下電器の二重価格問題で大スクープを放ったというお話をお聞きしたのですが、そのテーマの取材が続く中で、印象深く残っているできごとがあるそうですね。

 「松下と地婦連の対決が続いている時期、確か当時の家電商品安売りで名をはせていた城南電気に取材に行って、その帰りに取材用のハイヤーの中で、カーラジオで三島由紀夫の自決事件が起きたことを聞いたんです。昭和45(1975)年の11月25日ですね。あれから50年たつんですね。ビックリです。三島は昭和元年生まれですから当時45才。」

 「ぼくは高校生、大学生の頃、三島はかなりたくさん読んでいてわりと好きでした。初版本も結構集めていました。10年位前かな、阿佐ヶ谷の自宅を整理した時、段ボールに入った当時の本が出てきて、文学書の初版本などを扱っている荻窪の古本屋に持ってい行ったら、5万円くらいで売れて驚きました。

 高校時代から三島の作品を読んでいました。麻布高校時代、数人しかいない「文芸部」に所属していた“文弱の徒”でしたから。三島の作品では『鏡子の家』(昭和34年刊)という、評論家からは失敗作というのが定評の長編作品が好きでした。その都会的ロマンチシズムにあこがれていました。

 ただ終戦時の天皇の人間宣言を呪詛する『英霊の聲』(昭和41年刊)くらいからは熱心に読まなくなっていましたけどね。とてもその天皇への憧憬にはついていけなくなりました。でも新刊が出れば大体目を通していましたよ。最後の事件直前に完結した『豊穣の海』四部作は現実感が乏しくついていけなかったなー。その最終巻発刊直後の事件だっただけに驚きました。」

 「いまだに後悔しているんですが、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の現場に寄ればよかったなと。野次馬だけど、現代史の現場ですし、社旗を立てたハイヤーで回っているわけだから、ある程度近くまで行けたと思うんですよ。 もちろん社会部とか学芸部の記者が行っているはずだし、記事も彼らが書くわけで、経済部のぼくが行ったからといって記事を書くわけではありません。今でもそうだけど、とにかく現場に行きたかったということでしょう。そういう意味では社会部の方が向いていたかも(笑)・・・。でも下手に現場に行って「経済部が何しに来た!」と言われて編集局で問題になったかもしれないですね(笑い)。」

 「考えてみると水戸支局を経て新聞記者になって5年目、三島のロマンチシズムとは距離感が出てきたんでしょうね。物見遊山で現場に行くものではないという、職業意識が確立してきていたのかもしれませんね。そういうわけで、自分の中ではカラーテレビの二重価格問題と三島事件とはオーバーラップしていますね。両者は直接関係ないんですが、カラーテレビの普及というのは、三島が危惧していた「空虚で空っぽな」大衆消費社会への入口でもあって、つながっている面もあったかなという気がしています。」

◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!

Q.経済部の方から聞いたのですが「佐々木さんといえば“ソニー”と、“リコー”問題だよ」と聞いたんですが、どういう事ですが?家電担当の頃のことでしょう?

 「まいったな。そんなことまで知っているの?今だに当時の仲間と飲んだりすると冷やかされる“わが記者人生最大?の失敗”です。

 当時、各企業が出す新製品のプリント二、三枚、写真付きのニュースリリースが経団連記者クラブの各社ボックスに投げ込まれていました。その中で面白そうな新商品をピックアップして、活字も小ぶりで10行位の原稿にする「ビジネス情報」というコーナーがありました。一日10本程度は載せていたでしょうか。各社の広報にしてみれば、正式な記事として経済面に無料で掲載されるんですから「『ビジ情』でいいから載せてください」と頼まれたもんです。」

 「ある時、ソニーが確かトリニトロンテレビの16インチテレビの新製品のニュースリーリスを持て来たんです。それまでにも何回か型の違う製品の発表があったので、「これはビジネス情報でいいですね」とキャップの図師さんに伝えて10行位のビジ情にまとめました。「ソニーは新しい高精細のトリニトロンテレビの16インチの新製品を出した」という感じですね。

 ところが降版が過ぎて、もう訂正の効かない夜中の12時過ぎに赤い顔をして編集局に上がって紙面を見るとなんと!「ソニー」が事務機メーカーの「リコー」になっているではありませんか。ビックリ仰天!担当の当番デスクのYさんに「これ違いますよ!ソニーですよ!」。「もう輪転機回っているよ」

 デスクの手元に残された原稿を見ると「ソニー」と書いたところが、「リコー」と赤ペンで補正されているではありませんか。デスク「君がそう書いたんだよ」。下手な字で書きなぐった当方の原稿は、確かに見方によっては「リコー」と読めないことはない。当時から「経済部三悪筆?」と言われ、原稿を読んで写植する活版部には「佐々木の原稿が来ると、原稿が読める担当者が打つことになっている」というウワサが出るほどでした。」

 「当時、三島と並ぶ花形作家の石原慎太郎も悪筆で有名で、その原稿を読める専門家が新潮社や文藝春秋社などにはいるという話を聞いて、「おれも慎太郎並なみだ!」とえばっていたんですからどうしようもないですね(笑)」

 「でもおかしいのは翌日、紙面化された記事を見て「ソニー」、からも「リコー」からもクレームはなし。そのためか訂正記事もなし。今から考えれば信じられませんね。今だったら炎上騒ぎでしょうね。残ったのは「リコーにテレビを出させたササキ」という伝説、いや実話。」

 「「リコーがテレビなんて出すはずないじゃないの」という批判があるかと思います。担当デスクだったYさんのために弁明しておくと、Yさんは当時、経済企画庁担当の長老記者だったと思います。正式な役職上のデスク(副部長職)ではなく、キャリアの長い記者が経験を買われて臨時に民間経済面のデスクに入っていました。アップツーデートな民間経済情報には疎かったと思います。

 Yさんは某製紙会社の社長の御曹司で慶大卒。戦時中、海軍の短現(短期現役主計士官)に行かれてすぐ終戦になり、実戦経験はゼロ。それだけに海軍への思い入れは強く、酔うと必ず〽さらばラバウル、また来る日まで―という「ラバウル小唄」を腕を振りまして、歌われました。我々もそれに合わせて大声で歌ったものです。本当に憎めない面白い人でした。

 でも同じ職場の身近に戦争帰りの人がいたんです。そういう時代だったんです。」

以下はこちらをクリック

2020年11月26日

司会と編集長 海外日系人協会を手伝ってます ―― 元外信部長、中井良則さん

 「司会」といえばいいものを「モデレーター」なんてカタカナで呼ぶようになったのは、いつからでしょう。聞きなれないカタカナ語にすれば、何やら高級そうに錯覚するからか。そんなことを気にしながらも「モデレーター」を務める羽目になりました。

◆海外日系人大会中止でオンライン会議◆

 毎年、世界各国から日系人の代表が200人前後東京に集まります。新聞もテレビもあまり記事にしませんが、自分の出自をジャパニーズと認識している人々にとっては、結構、大きな国際会議です。日系人人口はブラジルで190万人、米国で150万人を数え、世界では390万人といわれます。この「海外日系人大会」を主催する海外日系人協会という公益財団法人があり、この数年、常務理事としてボランティアで手伝っております。記者時代、中南米や米国で日系人に会い、記事も書きました。

 2020年は新型コロナウイルスで外国のお客さんは呼べません。国際会議は軒並み中止でした。61回目となるはずだった海外日系人大会も見送りとなったのはやむをえません。

 「でも、対面の会議に代わるなにかをやらないと」「なにか、ってなんだ」「だから、なにだよ、なんだろね」なんてやりとりはなかったけれど、オンライン・フォーラムなるものを開こうという話になりました。またカタカナ語です。要は、「日系人のメッセージや会議をビデオ録画し、YouTubeで公開しよう。世界どこでも、いつでも見てもらえるし」というわけです。

 10月31日にYouTubeにアップしました。お時間があれば、海外日系人協会のホームページから、簡単にアクセスできるので、ご覧ください。
http://www.jadesas.or.jp/

◆日系人の記憶が危機を乗り切る支えに◆

 15か国の日系社会の代表17人からビデオメッセージが送られてきました。これもまた日本ではあまり報道されないけれど、コロナ・パンデミックで、どこの日系人団体も施設閉鎖や活動中止に追い込まれました。収入激減で、かつてない危機にあります。そんな窮状と、それでも立ち上がって踏ん張っている現状をみなさん報告してくれました。

 追いつめられると人間、自分は何者かと問い直すのですね。

 「第2次大戦の日系アメリカ人二世部隊の勇気を思い出します」「この地に渡ってきた父祖が示した忍耐力に励まされています」「ガンバレ・スピリットです」

 日系人としてのアイデンティティや歴史の記憶が受け継がれ、コロナの時代を乗り越える支えになっているようです。

◆貸しスタジオ見つけてビデオ収録◆

 で、ようやく書き出しに戻って、モデレーターの話です。このオンライン・フォーラムの中で、ミニ会議というかパネルディスカッション(またカタカナだ)をやり、その司会役が回ってきたという次第です。

 これまでも日系人大会で何回か司会を務めたことがあります。今回は参加者3人ずつの討論会を二つ続けて担当するわけです。この質問をこちらの人に振り、このテーマはあちらに聞いて、とコンテを準備しました。

パネルディスカッションの司会を務める筆者(左)。アクリル板で新型コロナウイルス対策も

 打ち合わせはZoomで済まし、さて本番はどこでやろうか。

 海外日系人協会の会議室ならおカネはかからないけれど、ビデオの撮影や録音がうまくいくか、ちょっと心配でした。素人がカメラやマイクを使うと、画像が揺れたり声が聞き取れなくて大失敗、という惨事はよくあります。事務局の人が、川崎駅前の貸しスタジオを見つけてくれました。カメラ3台が自動で切り替わり、マイクもプロ仕様で音質の保証つき。こういう場所貸しビジネスがあるとは知りませんでした。

 収録で気をつけたのは時間管理。オンラインで人の話を延々と聞くのは疲れるものです。40分以内でセッションを終わらせるようにしました。

◆コロナ対策、機械翻訳じゃわからない◆

 モデレーター、いや議論の出来栄えはYouTubeをのぞいてもらうとして、とりあげたテーマの一つが日本で働き、生活する日系人コミュニティです。日本には30万人を超える日系人がいて、これは日系人人口としてブラジル、米国に次ぐ世界第3位です。あまり知られていません。何度もいうけど、新聞も書いてない。

 コロナになって雇い止めやしわ寄せが各地の日系人を苦しめています。困るのは役所のコロナ対策のお知らせがポルトガル語やスペイン語、英語にはなっているけれど、意味不明なこと。グーグルなどの機械翻訳に任せ、ネイティブがチェックしないまま公開するので、わけがわからないんだそうです。そんな驚くべき現状が次から次へ出てきた議論でした。またもいうけど、後輩の記者諸君、取材して書いてよ。

◆「海外日系人大会60回の歩み」も出版◆

「海外日系人大会60回の歩み」

 海外日系人協会の仕事は、毎日新聞の大先輩、新実慎八さんからいわれて、やっています。この1年ほどは「海外日系人大会60回の歩み」という日系人の歴史をまとめた本の編集長を仰せつかり、かなり真面目に取り組みました。A4版391ページ、重量1,051グラム。11月1日に発行できました。半分以上のページは資料編に充て、60回におよぶ大会の宣言など文書の全文を掲載しました。次の世代に引き継ぐ記録は、原文のままでないと役に立ちません。この本もPDF版を海外日系人協会のホームページで無料公開しています。

※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職。

2020年11月18日

介護の職場が第二の人生 ― 元大阪本社運動部長、北村弘一さん

昨年秋、丹沢塔の岳で

 2年半前の2018年3月に、大阪本社編集局編集委員を最後に毎日新聞社を選択定年で退職し、1年5カ月前から介護大手が運営する東京多摩地区の有料老人ホームで介護職員として働いています。この11月に介護職員の現場リーダーとしての資格である実務者研修を修了し、当面は現場での実務経験が3年必要な国家資格である介護福祉士の取得を目指しています。

 まずは初任地の八王子支局で支局長だった高尾義彦さんの勧めでこの欄に寄稿させていただくことに、感謝いたしております。

 40歳の頃始めたランニングが縁で、毎日を辞めて最初に転職したのはランニング大会の運営や雑誌を発行するイベント会社でした。しかし、当初約束された編集職のポジションに就くことはなく、広告営業や大会運営など想定していなかった業務を担うことになりました。経営陣に対する不信もあり1年2ヶ月で退職し、いちから仕事を探すことになりました。

 知人を頼り新聞記者として勤務した大阪や札幌への移住も検討しましたが、世田谷区の自宅近くで既に保育士として働いていた妻に、にべもなく却下され、都内での就職に方針転換して複数の就職サイトに登録して情報収集しました。当初はライターの仕事も探しましたが、50代半ばを過ぎ、資格も持たない身には、さしたる誘いもありません。「キャリアを生かせないばかりか、社会の何の役にも立たないのか」と悲観し始めた頃、たまたまインターネットで見た「介護職員初任者研修を無料で受講 さらに就職先を斡旋」との広告が目に止まりました。初任者研修とは介護職員の入口にあたる未経験者向けの15日間のスクーリングで、介護全般の座学と実務の基礎を学びます。

 自宅近くで働けるから通勤のストレスから解放される、健康維持のため身体を動かして働ける、この歳からでもキャリアアップが目指せる、ことが決断の後押しになりました。後期高齢者が急増し、介護職員が38万人不足すると言われる2025年問題も頭の片隅にありました。幸いまだ身体が動かせるうちの仕事としては相応しい業界のようにも感じました。

 ただし現場はそう甘くはありません。言うまでもなく、「きつい」「汚い」「危険」の3K職場の典型です。例えば介護の具体的な手順は個々の利用者向けに共有されてはいますが、せっかく手順を覚えても、スタッフ個々の考え方はさまざまで、ベテランのおばちゃんパートにダメ出しを食らうこともしばしばでした。

 加えて現在務める事業所は平均の要介護度が3の半ばで高く、ほとんどの方が程度の違いはあれ認知症を患っています。認知症の方々の生活にこれほど濃密に接するなど、これまで考えてもみなかったことでした。

 なまの人間相手の仕事であるがゆえ、決められた時間通りに仕事が進まないことは日常茶飯事で、理想の介護を胸に留めつつも、新聞記者時代とは比べようもないほどのアンガー・マネジメントと日々向かい合っています。「自分がこの職に向いているのか」「この先10年間働ける環境としてふさわしいのか」などと思い悩む日々です。

 先頃修了した実務者研修でも、20~30歳代の若い受講者のなかで人一倍手順が拙い私に厳しく接してくる看護師上がりの女性講師との闘いの連続でした。ハートの持ちようが試されている、と日々感じます。

 今後は現場での実務経験3年の条件をパスすれば、受験資格が得られる介護福祉士の資格取得が当面の目標となります。さらに、そこで5年の経験を積めば、介護保険利用者のケアプランを策定するケアマネージャーの受験資格を得ることができます。

 現在56歳の私がそこまで到達できるとすれば63歳。ただ私を採用してくれた事業所の女性上司は「ケアマネは70歳過ぎても働ける」などと励ましてくれます。現在、小学校4年の長男が大学まで進めば、卒業するのは私が68歳のとき。腰痛のリスクや体力の衰えと向き合いながら、そこまではあらゆる可能性を視野にキャリアアップを目指すことになりそうです。

 ※北村弘一さんは1964年滋賀県生まれ。関西大社会学部卒業後、生命保険会社などを経て1988年毎日新聞社入社。社会部八王子支局、浦和支局、編集総センターを経て東京運動部。2002年サッカーワールドカップ現場キャップ。その後、秋田支局次長、北海道報道部副部長、大阪運動部副部長、学研宇治支局長、鳥取支局長、大阪運動部長を務め、2018年に大阪編集局編集委員を最後に退職。趣味はマラソン、登山。

2020年11月4日

91歳の引っ越し ー ハマから江戸へ 電動自転車で元気な磯貝喜兵衛さんの近況です

 横浜南部の洋光台に住んで40年余り。4年前に妻に先立たれてからは、一人暮らしを続けて来ました。今年1月に91歳を迎え、去年のイタリア旅行に次いで、今年も春に合唱仲間の一人とニューヨークへオペラを見に行く予定だったのですが、コロナ騒ぎで流れてしまい、逼塞しているところへ、東京の鉄砲洲に住む長男から「隣りに新しくマンションが建つので、来ないか?」との誘い。<老いては子に従え>という諺もあり、『スープの冷めぬ距離』に住むことに決断をした次第です。

 毎日新聞では、初任地の徳島支局を皮切りに、大阪、東京、京都など12回の転勤をしましたが、これまでは家財道具一切と一緒に引っ越しを繰り返していたのが、今度だけは5LDKの一戸建てから、1DKの小マンションに移るので、家財道具の大処分が必要です。

 先ず取り掛かったのが、家内が残していった膨大な資料です。と申しますのは、長女が昔通った東京女子大付属幼稚園の母親たち七人と、日本、イギリス、ドイツ三国が第二次大戦中行った学童疎開を比較、研究し、30年近く前「切り取られた時」(京都・阿吽社刊)という本にしたのですが、その膨大な資料・写真を残していたのです。

 その次に、家内の亡父(経済学者)が残していった著作(イングランド銀行史)の、これも大量の原稿の山などとの格闘です。我々夫婦の本や雑誌は2軒の古書店とBook off に引き取ってもらい、最後に残った家財、衣類の山は大部分を破棄しました。

歌川広重が描く江戸百景の「湊神社」
隅田川をへだてた佃島(自宅ベランダから)

 私の荷物は中型トラック1台で済みましたが、残りの家財は中型トラック3台が処分場に運ぶのに3往復。朝の9時から、夜の7時過ぎまでみっちり掛かってやっと、という始末でした。

 「これも一種の ”終活”」と割り切って、何とか切り抜けましたが、これまで経験したことのない難事業でした。とりわけ苦労したのが、写真・アルバム類の整理です。驚いたのは新聞社時代の写真の中で、飲み屋やパーティーの写真がどれだけ多かったか!!改めて脱帽(?)した次第です。

 引っ越し先の東京都中央区湊1丁目は、地下鉄日比谷線八丁堀駅から、歩いて10分ほど。銀座一帯までの広い地域に氏子を持つ鉄砲洲稲荷神社(昔の湊神社)のすぐそば。小さなマンション4階のベランダからは、隅田川が目の下に。対岸の佃島の高層マンション群が川越しに眺められます。(歌川広重が描く江戸百景の「湊神社」と、わが家のベランダから「隅田川をへだてた佃島」の写真を添付します。)

 佃島には高尾義彦さん、さらに向こうの月島には堤哲さんという社会部OBが住まれ、今は亡き岩崎繁夫さんも対岸の月島に住んでおられたことなども思い返し、懐旧の念を新たにしているところです。

 昨年末、車の運転をやめてから、電動補助機付きの自転車を愛用していますが、都内を自転車で走るのは、思いのほかに便利で楽。「転んだらお終い」と自分に言い聞かせて、近隣を走っています。

 時々、検診を受けている聖路加国際病院や福澤諭吉が幕末に開いた慶應義塾発祥の地、赤穂四十七士ゆかりの播州浅野藩屋敷跡などもすぐ近くにあり、暇に任せて探訪をし始めたところです。

 先日、日本記者クラブで高尾さんにお会いした時、佃島から日比谷まで自転車で来られていると聞き、私もそのうち・・・などと考えているところです。

(磯貝 喜兵衛)

 ※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB

2020年11月1日

「世界一貧しい大統領」が政界引退 ―― 江成康明さん「エナジー通信」から

 長野県白馬村でペンション〈憩いの宿「夢見る森」〉を経営する江成康明さん(元運動部・スポーツ事業部長)から、定期便「若者のためのエナジー通信」第45号(2020年11月1日)が届いた。紹介したい。

♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~
若者のための       エナジー通信
by Yasuaki Enari   Vol.45  (2020.11.1)
♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~

写真は江成さんのフェイスブックから

 米国大統領選をめぐって、トランプ、バイデン両氏の毒舌合戦が続いている。相手を卑下するだけのウソも混じった汚い言葉のオンパレードに辟易する。日本では学術会議の任命問題で、菅首相が拒否した理由説明もせずに時間だけが流れていく。所信表明でも「日本をどうしたいのか」が見えなかった。見慣れた光景とはいえ、国のリーダーはこんなにも落ちてしまったのか、と残念な気持ちになる。新聞を広げながら、見出しだけ見て毎日同じような内容の記事を素通りしてしまう自分に気づく。

 それでもページをめくっていく。習慣がそうさせる。小さな記事に目が止まった。<「世界一貧しい大統領」が政界引退>。見出しが端的に事実を伝えている。ここ数年の世界の政治情報の中で、私が最も尊敬していた政治家のことだと分かる。ショックを抱えたまま、気に記事を読む。85歳という高齢と、対話するためにどこへでも足を運んでいた楽しみがコロナ禍によってできなくなったことが引退の理由だそうだ。まだまだ全世界の人々に心ある言葉を伝え続けてほしいとの願いは届かなかった。

 ホセ・ムヒカ氏。名前を初めて聞いたのは6年ほど前のことだった。それ以前の2012年6月、国連の「持続可能な開発会議」でウルグアイ大統領としてスピーチした発言は、今の時代に生きる「人間」と「政治家」に足りないものをわかりやすく問いかけた。ほかの政治家にない理路整然とした演説と、国民のための政治家として実践してきたウソ偽りのない生きざまが次第にメディアにも注目され、数々の本も出版された。こんな政治家がいるんだ、と知り、以来大ファンになった。何よりも、ぜいたくな社会になり、経済中心に回っている世界に対して、「本当の豊かさ」「人生の大切さ」を説く言葉の重さに引き付けられた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 初来日したムヒカ氏のインタビュー番組がテレビで放映された日のことを忘れられない。それまで活字でしか知らなかったムヒカ氏の映像を見られることに興奮していた。ごく自然にノートを用意し、発言をメモすることにした。それは、忘れかけていた記者時代の緊張感に似ていた。一言も漏らすまいと走り書きし、時おり彼の表情を見つめた。その言葉が本心であるかどうかは、ちょっとした目の動きや動作が見極めの分かれ目になる。取材記者の原点である、と若いころ教わった。よどみも戸惑いもなく、彼は穏やかにインタビューに答えていた。メモしながら、背筋がゾクゾクっとした。2016年3月8日のことだった。

 メモを読み返すと、人を愛し、より高い政治理念を掲げていたすごさが改めて分かる。

 「何のために自分の時間を使うか、が大事。家族や子供、友人や自分のために使うのならいいが、もっとお金が欲しいと思うなら消費社会に支配されている。モノを買うのはお金ではなく、お金を得るために働いたあなたの時間なのだ。人生の時間というのは、ゼンマイが切れるように必ず終わる。モノは最小限あればいい。決められたあなたの時間を、モノを買うためにではなくもっとすてきなことに使ってほしい」

 「幸せとは希望があること。情熱を傾けられる何かを見つけることが必要であり、それは欲望ではなく、愛を育むこと、人間関係を築くこと、子どもを育てることなど身近にたくさんある。幸せこそが私たちに最も大切なことであり、発展が幸せを阻害してはいけない」

 一人ひとりにできる「時間」と「幸せ」の考え方を述べているが、そこから発展してムヒカ氏の話は政治に及ぶ。

 高価な商品を欲しがり、ぜいたくな消費社会を作ってしまったのは政治の責任だと。若者に希望の光を示すこともなく、世界中に貧困家庭が増えている現状。「我々の前に立ちはだかる巨大な危機は、環境問題ではなく政治的な危機なのだ」と強調した。そして最後に、「人の幸せは政治が作るもの」と言い切った。

 ムヒカ氏自身は、大統領を辞めたときにフォルクスワーゲンの中古車一台しか財産がなかったそうだ。議員や大統領としての報酬は、貧困者のための住宅や教育施設の建設費に当てたらしい。「世界一貧しい大統領」と言われるゆえんでもある。国民の生活を肌で感じ、自ら清貧な人生を送っていたムヒカ氏は多くのモノを求めずに「共助、公助」に徹し続け、静かに政界を去った。

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

 今、改めてムヒカ氏の言葉を振り返ると、ただの理想論ではなかったことがよく分かる。新型コロナ禍が実証して見せた。世界中のほとんどが自粛規制に追い込まれ、自宅で過ごすことが当たり前になった。もちろん出勤や登校ができない状態になり、誰もが消費社会から遠ざかった。ぜいたくをすることもなく、非日常という日常に頭を切り替えた。

 それまで無意識だった「時間」をいかにうまく使うか、をみんな考えて実践した。本を読んだり、趣味の幅を広げたり…自分を高めるために時間を有効に使った。収入がなくなることに不安があっても、誰にでも均等に与えられている「時間」の大切さを知った。周りに流されていた自分に気づき、考えることも多くなった。

 「幸せ」についても家族で会話を楽しみ、それまではあまり話す時間もなかった父親や母親とじっくり語り合った。友達に手紙を書くことも多くなったという学生もいた。ネット社会では味わったことのない「人のありがたさ」に幸せを感じる時間が持てた。そして何よりも、仲間と会えない寂しさを実感し、会話できないもどかしさが誰の心にも生まれた。YouTubeを使ってダンスや歌がリレー方式でつながれたのも、みんなで幸せをつかみ取ろう、という思いが大きかったのではないだろうか。モノが欲しいというより、「人恋しさ」に戻ったのは、決して無駄な時間ではなかった、と思う。コロナ禍がなければ、ムヒカ氏の言葉は実際の生活の中で感じ得なかったかもしれない。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

 なのに、ムヒカ氏の言うもう一つの願いは何もかなえられていない。政治家は相変わらず消費社会の中で欲望に満ち続けている。世界中が危機感を抱いている地球温暖化対策のパリ協定から離脱し、新型コロナの陽性診断を受けてもすぐに退院してマスクもしないトランプ氏は相変わらずだ。「自助」を前面に打ち出す菅総理の方針も、ムヒカ氏の実行してきた国民への「共助、公助」には程遠い。