2023年5月25日
生粋のワセダマン倉田眞さんと75年入社西部本社組が東京で“同窓会”

先日、東日印刷で思わぬ毎日新聞OBと出くわした。67年入社・元西部本社編集局長倉田眞さん(78歳)。東日印刷の社長武田芳明さん、元政治部長山田孝男さん、元東京本社社会部長玉木研二さんは、いずれも75年入社の西部本社組で、倉田キャップに鍛えられたというのだ。
武田社長は、毎日新聞グループホールディングスの取締役管理統括も務め、山田孝男さんは毎週月曜日の看板コラム「風知草」の筆者、玉木研二さんは定年退職後も客員編集委員としてコラム「火論」を担当していた。
勇将の下に弱卒なし、である。
東日印刷専務西川光昭さん(81年入社)は大阪府警・警視庁クラブキャップを務めた事件記者で、西部本社にも在籍、倉田さんの薫陶を受けている。元サンデー毎日編集長潟永秀一郎さん(85年入社)も西部本社育ちで、現在は「東日印刷新規事業担当T-plusマネジャー兼プロモーション本部事務局長兼T-proシニア・エディター」の名刺を持つ。この2人も同席していた。
「西部本社の歴代編集局長で、西部本社から一歩も出なかったのはオレだけ」と倉田さんは胸を張った。ネットを検索したら、倉田さんの講演録が出てきた。6年前に早稲田大学の校友会「料飲稲門会」で講演したものだ。
倉田さんは、生粋のワセダマンである。
《1962年政経学部政治学科に入学。郷里は富山で田舎者なりに早稲田で都会生活を楽しもうと早稲田を選びました。
これでも当時は超狭き門だった「大隈奨学金」受給の特待生で授業料免除でした。
でも“悪い先輩”に引きずり込まれた学生運動と好きな映画鑑賞、バイトで忙しく講義はほとんど顔出さず、1年次の単位取得はほぼゼロ。2年次の4月に学部長に呼び出され「大隈奨学生では過去最悪。打ち切り」の宣告を受けてしまう。
かくして卒業まで5年かかりました。4年次の学費値上げ反対の「早大闘争」時にバリケード封鎖して試験が無く、全科目レポート提出になり、まじめな友人のレポートを写させてもらって全単位を取得してなんとか5年で卒業。
闘争のおかげで、これが無ければおそらく中退もしくは除籍だったと思います。「早大闘争様さま」だなぁ。
したがって恩師は皆無ですが、運動やサークルの友人、先輩とは互いの下宿を行き来し泊まり、よく飲み語り、議論しました。かなりの人が亡くなりましたが、健在の方とは今も深い交友を続けています。
そんな学生時代で成績は「優」など皆無。親はなんとか就職をと迫るし、成績不問で入社試験を受けられるのは新聞社とか出版社くらい。両方受かりましたが1967年毎日新聞に入社しました。九州の西部本社に配属され、事件記者を4年。仕事の傍ら、水俣病患者支援運動、当時燃え盛っていた反戦運動、社内の組合活動にもかなり深く関わり、同僚がすすめる「東京への転勤」など希望せず、いざとなれば退社して水俣に住もうかとも考えていました。
ところがかみさんにつかまり家庭を持つとそんなことも言っておれず、ずるずると居ついてしまいました。
事件担当のキャップを小倉と、福岡の2か所で務めたのは私が初めて。事件担当デスクも3年間務めるなど、あれだけ嫌った警察取材にどっぷり漬かった社会部記者でした。
40代でデスク(副部長)として取材の指示、指揮、一線の記者の原稿チェック、直しの仕事を9年間もやりました。これも毎日新聞では最長不倒の伝説があるそうです。
仕事の中身はキャップ時代の事件、司法だけでなく、政治、選挙、話題物など幅広くなりました。
40代後半に報道(社会)部長、50代に編集局長をそれぞれ3年ずつ務めましたが、月に2日も休みがあれば御の字の多忙な日々でした。
でも部長とか局長になると管理職で、自分ではコラムを書くぐらい。新聞記者の醍醐味、刺激、面白さはデスクまでだと実感しました。
福岡、小倉勤務が各3回。大分で5年半、熊本はデスクと支局長と2回の勤務。水俣病の運動との付き合いもあり、熊本には友人、知人が多く今回の震災(2016年4月14日)でも見舞いや安否確認で大変でした。とにかく九州には記者仲間だけでなく、取材先も含め数多くの知り合いがいて今も年に数回は訪れます。
記者時代に感動したことではやはり水俣病の患者さんとの出会いです。入社3年目に現地を訪れ、チッソが水俣湾に垂れ流した水銀に侵され、歩くことも話すこともままならぬ患者さんを目の当たりにした事です。
今年(2017年)5月1日に公式確認60年ですが、母親の胎内で水銀に侵された「胎児性患者」がもう60代になり、よく回らない口でチッソ、国、県の責任を追及し、救済を今も訴えています。
1970年以来、水俣病との付き合いは40数年になりますが、未だに被害を訴え救済を待つ数千人の人々がいることを今も肝に銘じています。
石牟礼道子さん(2018年没90歳)や水俣病事件に関わった方との交流は今も続けています》
◇
私は途中で失礼したが、宴は延々と続いたと思われる。
(堤 哲)
2023年5月18日
昭和女子大学キャリア支援センター長として活躍の磯野彰彦さん――日刊工業新聞(5月9日付)転載

2023年5月18日
第46回39会ゴルフコンペに参加した5人

5月17日(水)若洲ゴルフリンクスで開催した毎日新聞1964(昭和39)年入社の「第46回39会」。
左からこの日のベスグロ優勝田中正延さん(83歳)、元経済部中瀬信一郎さん(83歳)、元社会部勝又啓二郎さん(82歳)、元毎日労組委員長大野裕朗さん(82歳)、それに小生堤哲(81歳)。
第1回は1999(平成11)年9月15日に行った。24年前だ。参加17人。広告局の赤羽仁さんがグロス87で、ベスグロ優勝している。志木市議30年、議長も務めた永井誠さん(元写真部)も参加している。17人のうち鬼籍入りが6人にのぼる。
この日は、都心の最高気温が31・6度と今年初の真夏日。「熱中症に注意」といわれたが、シーサイドコースには涼しい風が吹き抜け、気持ちよくラウンドができた。
「いつまで続くか分からないが、秋も元気に集まりましょう」で散会した。
(堤 哲)
2023年5月15日
元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 28 記者から不動産業へ?! 大阪本社ビル建設計画に取り組みながら、大阪の食文化を堪能 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo
今回は、佐々木さんが47歳のときの1989(平成元)年に、経営中枢の経営企画室に配属になります。かつて2年ほど組合委員長を務めたことがあるので、2度目の記者以外の職です。大阪本社ビルなどの建設計画を担当、また「新聞革命」をめざした、題字変更、紙面デザインの改革を行うCI(コーポレートアイデンティティ)プロジェクトに取り組みました。
目次
◆大阪本社ビルの建設計画 過去、鹿島に入れた一札とは?
◆うまい! はじめて触れた大阪の食文化
◆不動産のプロ生命保険会社とタッグを組んで
◆名古屋の中部本社ビル、九州の西部本社ビルも
◆東京本社の立て直しも視野に お台場移転案も?!
◆地下6階まであるパレスサイドビル 「毎日温泉」も
◆皇居一望のパレスサイドビル屋上には「毎日神社」
◆ペルシャ語の領収書? 今だから言える話
◆大阪本社ビルの建設計画 過去、鹿島に入れた一札とは?
Q.経営企画室の人材として見込まれたのはどういう背景だと思われましたか?
ぼくが目をつけられたのは、想像ですが甲府支局長時代に開催された国体、選抜高校野球、NHKの大河ドラマ「武田信玄」などの放映に合わせた、別刷り発行、販売拡張、広告社の売り上げ増につながることなどを一生懸命やったことで、「あいつは新聞記者より、経営の道を歩んだ方がいい」という事で目を付けられたんだと思いますね。その時は、筆一本で生きる道は断たれたと思っていました。

ぼくは甲府支局のあと、証券業界担当の兜町記者倶楽部、経済部デスクに2年近くいて、1989(平成元)年の3月に経営企画室委員になりました。経営企画室長はジャカルタ特派員、大阪経済部部長・編集局長などを歴任した7才年長で常務の秋山哲さんでした。東京の経済部におられたこともあり、よく知っていました。
秋山さんは面白い人で、毎日新聞退職後、奈良産業大学の教授になり2003年には今のSNS時代を予見した『本と新聞の情報革命―文字メディアの限界と未来』(ミネルバ書房刊)を出版されています。さらに現在90近い年齢で、自分一人でデジタル出版の作業をして、ルーツである京都の商家の物語、さらにジャカルタ特派員時代の記憶を生かした小説などを「檜 節郎」のペンネームで相次いで出版されています。人生百年時代を体現しているような人ですね。けっこう、面白い小説ですよ!
Q.経営企画室赴任後、担当されたのはどういうお仕事ですか?
ぼくが秋山さんから命じられたのは、「不動産担当」という事でした。編集局にいては絶対経験のできない“実業の世界”でしたから、これはこれで面白かったです。

当時・大阪駅に近いメインストリートの堂島にあった、70年前に建てられ手狭になっていた大阪本社ビル。この旧本社から歩いて10分程度離れたJR大阪駅西側の旧国鉄梅田貨物駅跡地再開発(現・オオサカガーデンシティ)によって発生する土地を取得し、ここに新本社をたてるというプロジェクトでした。当初、旧本社は商業ビルに建て直し、地上43階建ての超高層ビル・大規模ホールもある”大阪一のビル”にしようと、土地の半分を日本生命、第一生命に売却して、ビルのコンセプトを決めるために、この三社協議が月一度大阪で開かれました。大阪本社の担当者と東京本社の経営企画室の不動産担当者ということで、出席していたわけです。
ただ事実上の倒産である新旧分離(1977(昭和52)年)を経て、9年後、新旧分離を解消、新生「毎日新聞社」が生まれたばかり。だけどぼくの行った頃は“イケイケどんどん”のバブル経済の真っ最中。それがあっという間にバブルは崩壊、不動産ブームは鎮静化、堂島ビル計画も地上23階のオフィスビル計画に代わりました。
Q.経営企画室って、社内的にはどういう位置づけのポジションなんですか?
経営企画室というのは役員会直属の組織で、基本的には役員会で討議する四本社一支社(東京、大阪、中部、西部本社、北海道支社)の経営に関係するテーマに関する資料作り、経営企画室としてはこう考える―という意見を室内で議論して添付したケースもあったと思います。室員には各本社からのそれなりの人材が派遣され、東京本社からは編集、販売、広告、人事・総務関係の人が配置されていたと思います。ここに席をおくと全社の問題点、毎日新聞の弱み・強みが本当によくわかりました。
いろいろ紆余曲折ありましたけど、経済記者として記憶に残っているのは、建設会社選定の問題です。毎日新聞社は、大きな建設は同じ大阪生まれのゼネコン「大林組」なんですね。しかし今回は「鹿島建設」が入っているんです。
Q.鹿島が取ったのは、何かいきさつがあるのですか?
なるほどこういうのが建設業界なんだなあと思うことがありました。戦後、毎日の大阪本社裏の駐車場の工事を、たまたま鹿島に頼んだのです。当時の大阪代表が一札入れていたようですね。「本社ビルを建設するときには鹿島を入れます」と。今回、本社ビル建設の話を聞きつけた鹿島が。それは何十年前のも前のことなんだけど、ビル建築業者選定の時に、鹿島が金庫の奥から取り出したのが、この「証文」です。建設主体はやはり大林組でしたが、鹿島もジョイントベンチャーとして食い込むわけです。これはすごい世界だなあと思いましたよ。(以下略)
2023年5月10日
元大阪運動部長の北村弘一さん(59)が介護福祉士国家試験に合格

新聞社退職後に勤務した出版社を経て、4年前に介護の世界に飛び込みました。以前この欄に介護福祉士に挑戦する旨の投稿を掲載させていただきましたが、今年1月に受験した国家試験に無事合格し、このほど資格証が届きました。前回同様、初任地の支局長だった高尾義彦さんのお声掛けでこの欄に寄稿する機会に恵まれました。
介護福祉士は福祉系の国家資格である三福祉士(介護福祉士・社会福祉士・精神保健福祉士)の一つで、法的には「介護を必要とする方に適切な介護サービスを提供し、介護を行う者に対して指導やアドバイスを行える」と規定されています。実際のところ、事業所に介護福祉士として登録すると、一定の額の手当が付き、夜勤や残業の手当も増えます。
介護現場で3年勤務し、実技試験を伴う実務研修を修了していると、福祉系の大学や専門学校を修了していなくても受験資格を取得できます。試験は筆記のみ。今回の合格基準は125点満点中75点で、私はなんとか91点。例年8、9万人が受験し、合格率は7割程度でしたが、今回は受験者が7万人を割り、結果的に84.3%と広き門でした。
団塊の世代の方々が後期高齢者となる2025年に介護職員が30万人以上不足するといういわゆる「2025年問題」が目前に迫っているのに、国家試験の受験者数は2年連続で減少していて、このあたりの状況が合格水準の背景にあるのは間違いなさそうです。
この3月に59歳になりました。介護福祉士のうち、50、60歳代の男性は新規合格者ベースで6%。思い返せば、まったく未知の世界で、圧倒的に女性が支配する環境にあって、時に屈辱的なダメ出しを受けながら最初の1年を乗り切ったことが資格取得へのステップだったのでしょう。
介護福祉士になったところで食事や排せつ、移動、入浴介助など日常の仕事内容はほとんど変わりません。ただし介護福祉士としてさらに5年勤務すると、生活支援専門員(いわゆるケアマネ)の受験資格を得られます。
この先、ステップアップを目指すかどうかは、まだ決めようがないけれど、ともかくこの機に自宅から徒歩圏内の施設に転職することにしました。7月に勤務を始めるまでは、未消化の有休を利用し四国八十八箇所の歩き遍路に出かけます。梅雨の時期に入りますが、雨に打たれながら、今後のことをゆっくり考えてきます。
(北村 弘一)
北村弘一(きたむら・こういち) さんは1964年滋賀県生まれ。88年毎日新聞入社。東京社会部、浦和支局、編集制作総センタ-、運動部、秋田支局、北海道報道部などを経て、鳥取支局長、大阪運動部長。2018年選択定年退職。趣味は登山、園芸、寄席見物。
2023年 3月22日
元運動部、学芸部などの鈴木志津子さんが、逆風しのぎ「音訳ボランティア」

1995年1月、阪神淡路大震災が発生した時、全国各地から大勢のボランティアが駆け付け、ボランティア元年といわれるようになった。
私も定年後は何かボランティアをして少しは人の役に立ちたいと思った。でも、私にできるボランティアがあるだろうか?私は股関節脱臼で3歳まで歩けず、運動能力は著しく遅れた。7年前に人工股関節にして、以前よりは歩けるようになったが、歩き過ぎや重いものを持つのは好ましくない。事務能力はからきし。
“オンヤクボランティア”という言葉を、いつどこで聞いたか覚えていないが、私はその言葉を聞いた途端、「音訳ボランティア」だと思った。目の不自由な人のために本を読んで差し上げるのだろうと確信した。それなら私もできる。よかった!定年後の活動目標が決まった。安心した。
定年後、区報(葛飾区)に「音訳ボランティア養成初級講座の受講生募集」という記事が載った。音訳ボランティアとは、視覚障碍者だけでなく、文字情報にアクセスすることが困難な人(例えば手が不自由なために本のページをめくれないなど)のために録音図書を作ったり、対面で本を音読するボランティアだ。私は今、地元ではなく、墨田区の図書館に登録して細々と音訳をしている。
録音図書は、著作権の関係で勝手に作ることはできない。できるのは公立図書館、点字図書館、国会図書館や認証を受けた団体だけで、そこから依頼を受けて音訳者は活動する。読み間違いは、利用者に悪いだけでなく、著作物を勝手に改ざんすることになるのでいけないといわれる、なかなか厳しい世界でもある。
講座が終わるとボランティア・グループから勧誘の案内があった。葛飾区には当時2つの音訳グループがあった。1つは100人近い大所帯だった。見学した折り、新米の自分には当分仕事など回ってこないのでは、と思った。もう一つはそこから分派してできたばかり。メンバーは女性3人と極端に違う。代表はいい人そうだがちょっと頼りなく思えた。もう一人はベテランのようだ。あと1人は校正専門で区外に越し、データのやり取りでこなしている。比較的若い受講生の3人が入会するというので、私もそちらに入会させてもらった。
ところが、ベテランの女性は、今回の読みを引き受けたので当分勉強会には出られないという。若い新人も子育てやパートなどで欠席がち。新年度になると、代表は体調が悪いのでと、会の解散を宣言した。呆然としているところに“ベテラン女性”から電話があり「どういうことか」と聞かれた。説明すると、代表の悪口をさんざん言ったうえで「貴女はどうなのか」と言う。私は「やりたい」と答えた。私は名ばかりの代表となり、雑用を引き受けた。初級講座終了時に勧誘するよう言われ、3人の新人を獲得した。
初めての顔合わせで、初級講座のテキストにあった短いエッセイを読んだ。勉強したものだから3人とも大過なく読んだ。最後に先生が読み、いきなりかんだ。彼女はあわて、マイクに八つ当たりした。名人でも初見では失敗してもおかしくはないと思う。だが彼女は「もうやれない」と言ってきた。私がなだめればなだめるほど彼女は私を攻撃した。私は、3人に同じ失望を味合わせてしまったのが心苦しかったが、会を清算した。
一方で、都の初級、中級、上級講座を受講し、点字図書館の指導者講習会(2013年)も受講し、講座の講師を務めた墨田区立図書館の担当の人に連絡し、以来、墨田区立図書館で仕事をさせてもらっている。墨田区ではボランテァは個人登録なのだ。
厚労省のホームページでは、ボランティアについて「一般的には自発的な意思に基づき社会に貢献する行為。有償、無償がある」とある。それゆえ、意思の疎通は難しいのだ。
(鈴木 志津子)
鈴木志津子さんは運動部、学芸部などに所属し、2005年退職。
2023年3月13日
始まりは「婦唱夫随」 元論説委員、坂巻煕さん(87)の社会福祉人生

坂巻煕さんは、私(高尾)が社会部でサツ回りだった頃のサブデスク、府中通信部に異動した時は、八王子支局次長(デスク)で、仕事のかたわら、浅川の河原で草野球に興じたこともあり、所沢市のお宅にもお邪魔した。その後、仕事上の接点はほとんどなかったけれど、岩手県に私財を投じて設立した障がい者施設の理事長を85歳で退任し、後任に託したころから、「社会福祉」に情熱を注いできた人生について、毎友会ホームページに寄稿してほしいとお願いしていた。

最近になってお手紙をいただき、「小生の施設作りは、皆さんがゴルフや競馬に金を使うのと同様に趣味のようなものです。皆さんに知っていただくことではないので」とご自分で語ることは固辞された。しかし、施設作りの契機が「連れ合いのヒトコト」という文面を目にして、坂巻さん本人の遠慮はともかく、奥様の「手柄」は毎友会の会員に伝えたい、とここに紹介することにします。
坂巻さんは社会部、「サンデー毎日」編集次長、編集委員などを経て、論説委員として社会保障や福祉を担当しました。1991年に退社し、淑徳大学社会学部教授、日本福祉大学客員教授を歴任。総理府社会保障制度審議会委員、厚生省人口問題審議会委員などを務め、一貫して「福祉」をテーマにしてきました。『親の世話 ヒトに任せてボランティア』(あけび書房)の著書もあります。
老人福祉で有名だった岩手県沢内村(現西和賀町)の福祉大会に講演で招かれた際、障がい者共同作業所があまりにもお粗末だったことにびっくり。作業所を公的な授産施設にできないか、と村の社会福祉協議会と相談し、親の会などと一緒に村当局に陳情したところ、助役は「カネがないからダメ」という返事。そこで社会福祉協議会の会長だった元村長から「村と隣りの湯田町、それに坂巻さんたちがカネを出して社会福祉法人を作ればいい」と提案されたそうです。三者の負担はそれぞれ2500万円。
ここで潤子夫人が登場する。
「あなた、大学教授だとか審議会の委員だとか言って偉そうに福祉の話をしていますが、何一つ実践がありません。そういう人、口先男、口舌の徒と言うんじゃない」
毎日新聞退社直後だったので、退職金も手つかずで、この言葉に動かされて社会福祉法人潤沢会を設立、理事長に就任した。ただ、当時は大学教授の仕事があったため、潤子夫人が勤務していた青山学院初等部を辞めて施設長として赴任して切り盛りし、現場は夫人にお任せというスタートだった。
経済部OBの鈴田敦之さんから100万円の寄付が届き、それを活用して桑畑を作ったことも「嬉しい思い出」とのこと。「婦唱夫随」で20年間、いまも名誉会長として潤沢会の機関紙にコラムを執筆、潤子夫人も相談役としてコラムを寄稿し、社会福祉人生は続く。
(元社会部 高尾義彦)
2023年2月13日
磯貝喜兵衛さん、94歳の熱唱『オー・ソレ・ミオ』
社会部OBの磯貝喜兵衛が、2月11日(土)日本橋社会教育会館で開かれた中央区サークル発表会で、「オー・ソレ・ミオ」(私の太陽)を原語で熱唱した。
黒の蝶ネクタイでピシッと決めた磯貝さん。司会の「喜兵衛さん、94歳、最高齢です」の案内で登場すると、「お若い」「信じられない」と会場のご婦人方から驚きの声。
朗々と歌い上げ、一礼すると、拍手がしばらく鳴りやまなかった。ブラボーでした。
(堤 哲)



磯貝さんのフェイスブックもご覧ください。
https://www.facebook.com/kihei.isogai
2023年2月3日
日本林政ジャーナリストの会会長、社会部OB滑志田隆さん(71歳)

2月1日発行の「林政ジャーナル」62号が届いた。なんと会長が社会部OBの滑志田隆さん(71歳)。「森林・林業に携わる人々の元気な姿を見ていると、老骨ジャーナリストの血が騒ぐ」とつぶやいている。
高層木造建築の最先端「フラッツウッズ(FLATS WOODS)木場」を紹介している。
2020年2月に完成した地上12階、高さ40・8㍍。耐震・耐火に厳しい規制があり、「キノマチプロジェクト」を推進中の竹中工務店が開発した「燃エンウッド」を使っているが、すべてが木材でなく「コンクリートと木材のハイブリット」建築だ。
竹中工務店は三井不動産と日本橋本町1丁目で17階建て、国内最大・最高層の木造建築にことし着工する。高さ70m、延床面積2万6000㎡。2025年完成だ。



茨城県の大子町役場の新庁舎も取材している。設計は大阪中之島美術館を設計した遠藤克彦氏(茨城大大学院教授)。
「日本林政ジャーナリストの会」(略称「林J」)は、日本の豊かな森林を健全な姿で後世に伝え、国民の多様なニーズに対応していくための政策手法を探る研究・学習会。地球規模の視点から森林保全を通じた環境貢献への道筋を提言しています。あなたもどうぞ、わたくしたちの仲間にお入りください、と呼び掛けている。
この会は、1979 (昭和 54) 年、農林水産省を担当する一般紙、業界紙の記者クラブ員、OB が中心となり、「今後の森林の在り方や林政の進むべき方向を、ジャーナリスト活動を通して提起していきたい」(設立趣意書)と発足。最盛期(1996 年 2 月)の会員は個人 113 人、賛助会員25団体。現在は個人会員46人、賛助会員 17 団体。設立時以来、事務局を一般社団法人・日本林業協会に置いている。滑志田会長は 7 代目だ。
(堤 哲)
2023年1月31日
元モスクワ特派員、飯島一孝さんがフェイスブックで楽しむ「仲畑流万能川柳余聞」

毎日新聞朝刊3面の左下隅に毎朝、「仲畑流万能川柳」が掲載されているのは皆さんご存知の通り。でも、その中から筆者が独断と偏見で選んだ川柳をフェイスブックに掲載しているのをご存知でしょうか。近頃、このFB版の読者がジワジワと増えているらしいというので、編集の方から「連載を始めた動機や連載に対する反響を寄稿してほしい」との依頼を受けました。そこで投稿者の川柳を参考にしながら、万能川柳の魅力を深掘りしてみようと思います。

私がその日の朝刊に掲載される18点の中から4点を選んでFB版に掲載する企画を始めたのは2021年秋からです。それまでは毎朝、万能川柳を読んでいて、「面白いなあ」と思っていただけですが、そのうちに「これは是非、毎日新聞の読者以外の人にも教えてあげたい」と思うようになりました。
私も七十年以上生きてきて、近ごろ痛切に感じるのは、世の中の空気がとても重苦しくなってきたなということです。戦争、災害、凶悪犯罪などの記事が載っていない日はないので、せめて朝だけでも、そういう気分を笑い飛ばしたい、そんな川柳をピックアップしたいと思いました。以前、「笑いたいだけで川柳やってます」という投稿句がありましたが、まさにその通りです。
さらに、生活感のある句をできるだけ選ぼうと毎朝、妻にまず選んでもらい参考にしています。その上で、私なりに感じた投稿句の独創性や奇抜さを5・7・5の川柳っぽくして投稿句の後に載せています。いわば自分なりの選評のつもりです。
選んだ4句のうち、一番面白いと思った句を「本日の傑作」、二番目の句を「次点」、三番目を「三席」、最後に一風変わった句などを「選外」と分けました。
これまでの投稿句で、特に夫婦で大笑いした、あるいはクスクス笑ってしまった句をいくつか挙げてみましょう。
「ゴキブリの一か八かの死んだふり」
「偶数の月の半ばに孫来たる」
「肝心なものだけいつも出てこない」
「百円だ拾おうとしたら木漏れ日だ」
「大声で梶田(かじた)呼んだら大騒ぎ」
「老い二人落ちた錠剤探す朝」
FB版に自分が選んだ投稿句を載せ始めてから、川柳を読んだ読者から感想が寄せられ、元気をもらっています。中でも、毎日のように感想を載せてくれる熱いファン(?)が何人かいます。このうち、毎日必ず感想を寄せてくれる方が北海道在住の元大学教授です。私より年配ですが、時には自分で作った川柳も載せてくれます。こうした人たちに支えられながら、なんとか毎日続けているというのが実情です。
こんな時代でも、笑って暮らしたい、そんな希望を叶えてくれる「仲畑流万能川柳」を応援したい方はぜひ、毎日新聞とともに、FB版を見ていただければ幸いです。
(飯島一孝 いいじま・かずたか 74歳。2008年、外信部編集委員で定年退職)
2023年1月10日
元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み27 リクルート事件で週刊誌に追い回された“親分”…瞬間湯沸かし器と言われた激しさの背景に壮絶な秘話が 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo

今回は、佐々木さんが親しく仕えた上司・歌川令三さんのことを軸にお聞きしました。
目次
◆皇居の敷地でカルフォルニア州が買える?
◆リクルート事件発覚 未公開株がマスコミにも
◆飛ぶ鳥落とす勢いの歌川令三記者
◆逃亡者に明日はない
◆席順が「う」の歌川さんの隣に「え」の江副さん
◆バブルをあおった?………
◆渦中甲府にいてホッと………
◆秘話 歌川さんの壮絶なバックグラウンド
◆歌川さんへの感謝! 「自由企業研究会」で中国やシリコンバレーに
◆新聞記者は妬みの世界?!
◆皇居の敷地でカルフォルニア州が買える?(略)
◆リクルート事件発覚 未公開株がマスコミにも
Q.そういう中で歌川さんのリクルート事件への関与問題が起きるんですね。
1988(昭和63)年6月、朝日新聞横浜支局のスクープで、バブル経済の中で人材紹介という新規事業で急成長した「リクルート」の子会社、不動産会社の「リクルート・コスモス」が上場を目論んでいたんです。川崎市の助役に同社も関与する川崎駅周辺の再開発事業に便宜を図ってもらうため、1億円の未上場株を供与した、というのです。
1987(昭和62)年6月に上場したNTT株は売り出し価格が119万7千円、これがアッという間に318万円まで上がりました。文字通り濡れ手に粟の“バブル”。リクルート・コスモス株も成長株として上場すれば値上がり間違いなし、ということでリクルートの創業者社長の江副浩正が財界人としてのポジションを確保するという意図もあって、この未公開株を中曽根康弘、宮沢喜一元首相、NTTの真藤社長、文部・労働省の事務次官、森田康日本経済新聞社社長、丸山巌読売新聞副社長など、政官財界、マスコミにバラマキ、上場時70億円近い利益を受け手にもたらしました。これが原因で89 (平成元)年6月、時の竹下登首相は退陣しました。戦後最大の疑獄事件といわれており、自民党は同年の参院選挙で大敗、その後の連立政権、民主党政権への道を開きます。ホント、マスコミは連日、大騒ぎでしたね。
◆飛ぶ鳥落とす勢いの歌川令三記者
歌川令三さんは、われわれの世代の経済部記者は、各社ほとんど知っている有名記者でした。経済部記者として大蔵省、日銀担当を長くやり、ワシントン特派員になります。ぼくより7歳上ですが、分析力に優れ、原稿もわかりやすかった。「むずかしいことを、むずかしく書くのはやさしい」だいけど、「むずかしいことを、わかりやすく書く」のは本当にむずかしいんですよね。歌川さんはそれが本当にできた人だと思います。
ワシントン特派員の時、ぼくは商社担当だったんですが、当時の四大商社(三井物産、三菱商事、住友商事、日商岩井(現・双日))のある役員から「ワシントンからの記事で一番信頼しているのは歌川さんの原稿」といわれたことがあります。1971(昭和46)年8月15日のいわゆるニクソン・ショック(1㌦360円のそれまでの固定相場制が崩壊、変動相場制に移行)時の、第二次大戦以降の戦後経済の歴史的転換に現地で立ち会った記者でもあります。この時、僕は水戸支局から経済部に上がってきたばかりで、夏休みで長野に旅行中でしたが呼び戻されたことを憶えています。
歌川さんはワシントンから1972年、帰国後、経営危機にあった毎日新聞社立て直しのため、経済部の先輩の佐治俊彦さんが室長だった経営企画室に行き、倒産の危機にあった会社を“新旧分離”という手法で救う立役者になります。その後、経済部長、編集局長、取締役とスピード出世します。しかしその猪突猛進の突破力に社内に敵も多かった。ただ新旧分離の推進力となっていた経済部出身で財界に顔の広い平岡敏夫社長・会長、その後継者の外信部出身の山内大介社長がバックにいた時は順風満帆、佐治・歌川ラインは次期社長は確実と見られていました。しかし平岡さんが86(昭和61)年、山内さんが現職社長で87(昭和62)年12月に相次いで亡くなり、急速に歌川さんへのバッシングが強くなります。
特に故山内社長の後継の政治部出身の渡辺襄社長とは相性が悪く、88(昭和63)年1月、渡辺社長に「辞表をたたきつけた」(本人談)。その後、ワシントン特派員時代の仲間の読売新聞の渡辺恒雄社長の紹介で、中曽根康弘元首相が設立した「財団法人世界平和研究所」の主任研究員になります。(以下、一部略)
◆秘話 歌川さんの壮絶なバックグラウンド
Q.伺っていると歌川さんのキャラクターは、部員が次から次へと辞めていく、かなり独善的で激しい感じがしますが、どういう背景がある方なんですか。横浜国大出身の学生運動の闘士だったとも聞いているんですが。
ウーン、僕もその辺、不思議に思ったこともあります。「彼の親父は戦前のアナーキストで逮捕され獄中死しているんだ」というウワサ話を聞いたことがありました。確かめるすべはありませんでした。
実は、偶然知った事実があるんです。毎日新聞を定年で辞めてからしばらくして、ぼくが書いた終戦3日後の1945(昭和20)年8月18に横浜の保土ヶ谷教会で憲兵に射殺されたと言われている、戸田帯刀横浜教区長のことを書いた、ノンフィクション「封印された殉教」(2018年上下巻フリープレス社刊)の取材で知った事実のことです。
Q.何があったんですか?
実はノンフィクションの取材で、終戦前後に豊多摩刑務所で、ここで獄中死した唯物論学者の三木清や、長野刑務所で亡くなった戸田帯刀教区長と開成中学で同期生の同じ唯物論学者の戸坂潤のことを調べていたんです。たまたま「獄中の昭和史 豊多摩刑務所」(1986(昭和61)年、青木書店刊)という本を、2015(平成27)年頃だと思いますがアマゾンで取り寄せたんです。
この本には、豊多摩刑務所に収監されていた治安維持法などで逮捕された反戦活動家本人、関係者約70人の「獄中記」「体験記」「獄死者への追悼」「救援活動」などが掲載されていました。共産党の委員長・野坂参三など共産党関係者、河上肇などの唯物論学者、演出家・土方与志(ひじかたよし)など左翼系の著名人の文章もあります。この本は、日本国民救援会という、戦後も学生運動、労働争議、冤罪事件などについて、逮捕・拘禁された人たちへの弁護士の紹介、裁判のバックアップなど続けている団体がまとめた本なんです。
それに目を通していて「アレッ!」と思ったんです。「獄死者への追悼」の項目に「『宇田川信一の獄死』三浦かつみ」という項目があったんです。「宇田川信一」の説明に「別名・歌川伸(のぼる)」とあるではありませんか。筆者の「三浦かつみ」さんというのは、歌川さんの母親で恐らく当時、出世コースをばく進していた歌川さんに影響の出ることを考えて通称名にしたんではないでしょうか。
「歌川伸」さんは、東京外語大中国語科を卒業、中国語が堪能で中国共産党と壊滅状況下にあった日本の共産党・アナーキストとの関係を繋ぐため、秘密裏にしばしば訪中して、それが理由で1944(昭和19)年3月、神戸で治安維持法違反、徴兵忌避容疑などで逮捕されました。この本によると、面会に行った“三浦さん”は「宇田川さん」は「(特高の)拷問で顔など見分けがつかないほど歪み、皮膚は紫に膨れ上がっていた」と記されていました。
同じ年に判決を受けて東京の豊多摩刑務所所に移管されていたようです。12月23日、同刑務所から通知があり駆け付けると、獄舎の中のコンクリートの床の上のゴザの上に寝かされ「やせ衰え、歯は一本もなく、『犬死だよ。もう駄目だ。子どもをたのむよ』というだけでした。(中略)翌朝はやく行くともう冷たくなっていました。宇田川はその時50歳、子供は10歳でした」と記されていました。
この資料を見た時、ホント、ショックでしたね。この“10歳のこども”は歌川さんのことでしょう。「歌川令三編集局長」の壮絶なバックグランドを見た思いでした。軍国主義が頂点に達していた戦争末期に、父親が“反戦“を唱え、とらえられ獄死するというのは、どれほど残された家族にとって意味を持つのか。名誉の戦死を遂げた兵士の家族とは全く違う、戦中・戦後―想像を絶する辛い思いがあったのではないでしょうか。そのために戦後、母ひとり、息子ひとりの厳しい生活を送らざるを得なかった歌川さんが、時に激情を表し、一部の部下に忌避される行動をとったのは、胸に秘めた思いがほとばしり出たんだと、30年後の今になってようやく納得が行きました。
この本については歌川さんも知りませんでした。アマゾンでもう一冊取り寄せ、渡しました。その事実を伝えるページを一読して「知らんかった。ヒロトくんありがとう」目をうるませていました。ワシントンにいる息子さんにもこの本を送ったと聞いて、ホッとしました。歌川さんはこの本をみながら、子供の頃、母親から父の獄中死の話を聞いて「オレは親父の仇(かたき)を叩きのめす」といって母親をあわてさせたといっていました。「今でも豊多摩刑務所の名前を聞くだけでビクッとする」と語っています。ぼくなんかには想像のつかない、反権力の深い傷跡を残しているんだと思います。(以下略)
2023年1月5日
俳号「河彦」 元司法記者がツィッターで一日一句 満5年を達成

大晦日 喜寿の年過ぎ また一歩 河彦
俳句にもならない一句だが、ともかく一日一句のツィッター俳句は満5年を達成した。閏年もあり計1826句プラスアルファ―。それ以前も含め表示件数は3464件。フォロワーは62人。大学同クラスだった女性のコメントなどに後押しされ、来年も継続。
これは2022年の大晦日につぶやいたツィッター俳句。「河彦」は住まいのある隅田川沿いの「河」と自分の名前の一字を合成してつけた(高尾)。2018年の元旦以来、一日一句(たまに2句)をオンしてきて、とりあえずの目標だった満5年に到達した。
俳句は、2001年に元社会部長(元スポニチ社長)、牧内節男さん(97)がネット上の「銀座一丁目新聞」に「銀座俳句道場」を開設、自鳴鐘主宰の俳人寺井谷子さん(ご主人は元毎日新聞西部本社幹部)を選者に、毎月3句をメールで投稿し、天地人の評価や批評を加えてくれるというので、道場に弟子入りしたのが、本格的に楽しむきっかけになった。
俳句道場と並行してツィッターに登録、俳句らしきものが浮かんだら、書き込んできた。ツィッターのルールでは140字以内となっているので、その字数の範囲で、俳句の意味や背景、頭に浮かんだヒントなどを書き込んできた。素人の句集で、俳句だけを並べたものは、必ずしも意味が十分に伝わらないことが多く、この説明によって、自分の生活の報告にもなり、日記の役割も果たしてきた。フォローしてくれる方たちからは、「ツィッター俳句を読めば、日常生活がすべてわかる」と、俳句の出来栄えとは別の評価もいただいた。
これまでに、時々に執筆したコラムなどをまとめて『無償の愛をつぶやく』というタイトルで自費出版、つぶやいた俳句を収録してきた。第1巻(2014年)、第2巻(2017年)、第3巻(2020年)で、タイトルは拙句「無償の愛と ビールの泡に つぶやいて」からとった。この句は、銀座俳句道場の4回目(01年4月)に寺井さんが「天」に選んでくれて「見事にホップの効いた一句」とコメントしてくれた。
コラムは、昨年4月まで7年にわたって発行した季刊同人誌「人生八聲」、現在も毎月1回のペースで寄稿しているハワイの日本語新聞「日刊サン」などに掲載したものを収録した。現在、郷里の徳島新聞「勁草を知る」というコラム欄に2カ月に1回、寄稿しており、3年ごとの自費出版第4巻が実現すれば、未収録のコラムや俳句を記録に残しておきたいと考えている。
俳句をつぶやいていて嬉しいのは、一句ごとに反響があること。大学の教養学部時代に同じクラスだった女性が、クラス会の機会に自分の趣味を紹介したところ、ツィッターにコメントを書き込んでくれるようになり、それが励ましになって、できるだけ毎日、つぶやくようになり、5年前に一日一句を目標にするきっかけになった。
友人の花見正樹さんが主宰するブログ「開運堂」では、日々の拙句を転載し一部は内容に見合う写真も配置して紹介してくれている。
ツィッター俳句は今年に入っても継続しているので、興味のある方はご覧ください。
(元社会部司法記者 高尾 義彦)
2022年12月19日
93歳の元毎日映画社社長、磯貝喜兵衛さんが「オーソレミオ」を熱唱!
過日、歌仲間「ブラザーズ」のささやかな歳末公演で、恥ずかしながら「オーソレミオ」を歌いました。日本橋・人形町の喫茶店での一幕です。
(磯貝 喜兵衛)
磯貝さんのフェイスブックから転載です。
クリックしてYouTubeでご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=t_Y3_PyDvhg
2022年11月16日
元サンデー毎日、鈴木 充さん(73)が「東京レガシーハーフマラソン2022」に出場して、新旧国立競技場を走った!

この夏を、走って過ごしました。5月上旬、毎日新聞に「東京レガシーハーフマラソン2022」の初開催と参加ランナー募集の記事が載りました。「もうひとつの東京マラソンはじまる」とうたい、東京オリンピック・パラリンピックのレガシーとして、新国立競技場をスタート・ゴールに都心を走るハーフマラソンです。大会は10月16日。なぜか「よし、走るか」と思い立ちました。私はヒマだったのです。
私は3月末で地元の多摩市教育委員会教育委員を退任したばかりでした。2期8年の在任中、いじめ問題やコロナ感染対策、英語授業の小4スタート、一人一台のパソコン授業等々が取り組んだテーマでした。教科書選定も2度しました。各教科書会社の教科書100冊ほどを読み込み、多摩市立小中学校で使用する各教科の教科書を決めるのです。傍聴定員を大幅に増やした教育委員会で、推薦理由を詳述し、他の教育委員と意見を交わします。小中学生がその教科書で勉強しますから、責任があります。また、小中学校を「教育訪問」して、授業参観や給食を一緒に食べながら交流しました。そのほかにも、柳田邦男さんを委員長にした多摩市立中央図書館の基本理念作り、多摩市総合計画の基本計画策定などにも加わりました。
そうです、これは相当楽しい仕事でした。それが退任とともに消えてしまった。闘病生活丸8年になる妻への手助けは欠かせませんが、あとは無為徒食の日々になりかねません。そこに、毎日新聞が「東京レガシーハーフマラソン2022」のニュースを教えてくれたのです。無為徒食は、まあ受け入れてもいいのですが、新国立競技場のトラックを走ってみたいと強く思いました。
旧国立競技場は2度走りました。そのうち1回は新宿区民マラソン大会10キロレースで、勝又啓二郎、仁科邦男、田中真の諸先輩が一緒でした(この時は40分00秒ジャストで爺さんの部4位)。今回、「東京レガシーハーフマラソン2022」で新国立競技場のスタートラインに立ち、走る。新旧国立競技場を走った男、になるチャンスです。ただ、都心を走る市民マラソンは人気があり、募集定員は15,000人ですが、高い倍率の抽選があります。5年前に走った東京マラソンも、9回目(つまり9年目)の申し込みでようやく当選しました。今回も抽選ではじかれる確率大いにありです。一般の部の募集は都民枠(500人)と一般枠(11,170人)に分かれ(残り人数はエリートや車いすの部など)、都民枠の落選者は自動的に一般枠に回って、再度抽選対象になるルールです。「都民エントリー」募集初日の5月18日、「まあ、応募だけはしてみるか」とご気楽に申し込みました。
6月10日、主催者から届いたメールには「落選」とありました。落胆はなく「しょうがないな」程度でした。練習はしていないし、体は重いし、大会当日にはもう73歳10か月を過ぎています。自分ではそれほど思わないのですが、でもお年寄り。ハーフマラソンを簡単に走れるわけがないのです。落選は好事でした。
しかし、誰が言ったか好事魔多し。24日に届いたメールには「当選」とありました。一般枠で参加候補者に選ばれたのです。翌25日、メールの指示に従い参加料20,700円、手数料1,097円をクレジットカードで支払い、参加登録しました。それにしても参加料が高い。この10年の高騰ぶりはあきれるばかりで、定員割れの市民マラソン大会もあると聞きます。
さて、ここから先は「アナログ爺さん、できるかな?」の世界です。すべてがスマートホンによるインターネット手続きなのです。そもそも最初の大会要項入手そのものがパソコン検索でした(これ以外の方法なし)。その大会要項の「申込方法」欄には「インターネットによる申込」とあり、わざわざアンダーラインが引いてありました。何だこれはと思いながら、私は当然のように大会要項を紙にプリントしたのでした。
日を追って主催者からのメールが次々に届きました。当時、私はパソコンと「らくらくホン」を使っていましたが、スマートホンでないとアプリがダウンロードできないのです。やむを得ずドコモショップに行きスマホを購入しました。参加仮登録と本登録、新型コロナ対策のPCR検査日時登録、体調管理アプリ登録と日々の体温・体調送信、正式な大会案内の配信、アスリートビブスの引き換え日時の登録、新国立競技場入場に欠かせない「電子チケット」のダウンロードと顔写真登録。とにかくすべてがスマホありきで、そうこうしているうちに一日が終わってしまいます。結局、大会当日までスマホとの格闘が続きました。
当然、「練習しなくては」とは思いました。しかし「アスリートビブスって何だあ?ゼッケンのことか?ゼッケンと言え!」と腹を立てているうちに、6月が過ぎて行き、大会まで残るは実質3か月ほどになっていました。7月、8月、9月。練習期間は真夏です。当初、キロ4分ペースでレースプランを立てました。今より少し?若いころは走れました。しかし………冷静になって出した結論は「制限時間内完走」でした。7月は走れる体作り、8月は長い距離を走り切る、9月はスピード練習、と計画しました。
自宅から700メートルほど東方、多摩市と川崎市の都県境の森に山道があります。古代の官道で、万葉集にも出てくる「横山の道」です。防人の任に就く東国の人たちが、故郷を振り返り別れを告げた「防人見返りの峠」が残されています。「横山の道」はナラやクヌギ、カシワ、コブシ、サクラなどの木陰が真夏の日射しを遮え切ってくれます。7月上旬から中旬までは「横山の道」を8キロほど、ゆっくり走りました。脚は力なく体は重いままでした。
7月中旬以降、距離を伸ばしました。「多摩一周コース」と名付けた10キロです。多摩ニュータウンの街並みと大山、丹沢、富士山、高尾山、陣馬山、雲取山、大菩薩嶺、御岳山などが彼方に広がるコースです。途中、4キロから5キロにかけて箱根の峠道のような急坂があります。6キロ地点の神社は多摩ニュータウンの最高標高点で、明治天皇がウサギ狩りで行幸の折、野点をしたと伝わります。
気温は30度を超え35度になろうかという日もあります。対策として夜明け前後の練習スタートにしました。例えば、7月18日午前4時55分、20日午前3時39分、21日午前4時38分スタート、といった具合です。順調と思っていた同月22日、4回目のコロナワクチン接種をしました。2日間休み、その後一週間は歩くような走りで、体は「初期化」されていました。
夜明け前の暗がりを走り出すと、日中とは違う光景が見えます。決まって窓の明かりが点いている高層団地のいくつかの窓。同じ時間、同じ場所で追い越していく大手パン会社のトラック。コンビニ前でトラックから荷下ろしする人。夏の早朝の、なじみの光景になりました。
驚きの鉢合わせもありました。8月1日、午前3時38分スタートで多摩一周コースを走りました。2キロ地点からは多摩川支流の乞田川に沿って、遊歩道を走ります。乞田川との間は高さ1.2メートルほどの網目状のフェンスで仕切られています。途中にあるキリスト教会に差し掛かった時、フェンスにしがみついている何者かに気づきました。暗いし近眼と老眼だし良くは見えませんが、そいつは頭と前足を下向きに、お尻と尻尾と後ろ足を上向きにして、つまり逆さまになってフェンスを下りようとしていました。私は曲がりなりにも走っていますから、距離はどんどん詰まります。そいつは下りるのに夢中で、私には全く気づきません。距離1メートル。そいつは逆さのままようやく頭を上げ、私を見ました。そいつは目が合ったとたん、フェンス上部に向かって後ずさりし始めました。普通は飛び降りて逃げるはずですが、そいつはフェンスを上に向かって後ずさりです。何というやつだ!
警戒心の薄い妙なヤツなので、関わるのは止め、走り過ぎました。正体不明の四足動物ですが、そいつの額から目の間にかけて白い模様がありました(ハクビシンかなあ)。
長距離走に取り組んだのは、月が替わり日にちが経った9月10日です。計画よりもずいぶん遅れていました。ハーフマラソンの距離に合わせ、自宅近くの都道・尾根幹線を中心に往復22キロのコースを設定しました。多摩ニュータウンは多摩丘陵に造られた街で、長いアップダウンの坂道がたくさんあります。このコースもアップダウンの連続です。長距離走の合間にジョギング入れて疲れを取りながら、計8回走りました。これは大いなる誤解だったのですが、体の切れが良くなりました。
長距離走の途中、台風の大雨に見舞われずぶ濡れになった日がありました。上り坂の歩道を川のように雨水が流れて来ます。夫婦らしい男女を追い越した途端、「こんな日にどうして走るんだろうねえ」とあきれ声が聞こえ、自分でもうなずきました。
別のある日、夕暮れ時になり足元が暗い登り坂で、右足つま先を路面にひっかけて前倒しに転倒しました。あわや眼鏡ごと顔面強打の寸前、かばい手が間に合って体を支えました。犬と散歩する人、公園で遊ぶ家族連れ。全身から力が抜けた私。住宅地に囲まれたチャペル風のウエディング式場を過ぎ、JR四谷駅そばから移築した「四谷橋」を渡り、走り続けました。気分は「泣きっ面」でした。
大会開催月の10月が来て、ようやくスピード練習に取り組みました。家近くの公園に一周500メートルのジョギングコースがあります。そこで100メートルダッシュにトライ。何度ダッシュしてみても、15秒どころか20秒も切れません。これが73歳の現実でした。スピード練習は諦め、ペース走にしました。諦めがいいのは73歳の特権かもしれません。結局、計画通りには走り込めないまま大会当日が迫りました。
最終手続きは10月14日。堤哲さんに誘われた社会部旧友ゴルフを断り、事前受付のため午前11時に新国立競技場に行きました。入場ゲートには体の締まった若者(例え50歳代でも私には若く見える)たちが列を作っていました。入場ゲートで係員に運転免許証を示し、顔認証装置にスマホ(電子チケット)をかざし、実物の顔を認証用の枠内に映し、本人と認証されて新国立競技場に入りました。コンコースに設けた受付会場でPCR検査などの手続きを済ませました。手渡されたオレンジ色の大会参加記念Tシャツの胸には、黒い文字で「TOKYO LEGACY HALF 2022」と染め抜いてありました。
大会当日の10月16日午前6時過ぎ、地下鉄大江戸線国立競技場駅の改札を出て、長い階段を上がり、朝の神宮外苑に出ました。国立競技場が威風堂々、眼前にそびえていました。一帯は、どこから湧き出したかと思う大勢の市民ランナーで溢れていました。長い列に並び、入場ゲートで手荷物検査と電子チケットのチェックを受け、二階コンコースで衣服を脱ぎ、荷物を預けました。ひと息つく間もなく、新国立競技場の待機ブロックへ移動が始まりました。スタンド真下の薄暗い地下通路を通り抜けた先に、天を覆うかのような屋根と高くそびえるスタンドが現れました。足元には新国立競技場のアンツーカートラックがありました。初めてトラックを踏んだ瞬間、私はその場で足踏みし跳ね飛んで感触を味わいました。それまでのレースの激しさを物語るトラックのスパイク痕。400メートルのコースを際立たせる白線。走れ、走れと呼びかけてくるアンツーカートラック。そう、ここが新国立競技場なのだ。トラックの前にも後ろにも、国立競技場の外周にも、スタートを待つ15,000人の市民ランナー。午前7時40分、私たち第一ウエーブの整列が終わりました。曇り空の上空を取材のヘリコプターが飛び、スタート時間はすぐそこです。さあ、みんなで走ろう! 行くぞ!

午前8時5分、スターターの小池百合子東京都知事の号砲で、第一ウエーブのランナーが一斉に動き始めました。私はスタートラインから150メートルほど手前のトラックでスタートを待っていました。スタートライン目指して前後のランナーとともにゆっくり、ゆっくり歩いて、やがて速歩からジョギングになって、新国立競技場のすべてのランナーが動き始めました。スタートラインを過ぎ、私は新国立競技場のトラックを強く蹴って走り出しました。この瞬間、とうとう新旧国立競技場を走った男になったのです。
新国立競技場のトラックを50メートルほど走り、左手のゲートを抜けて外苑西通りへ。秋の神宮外苑が広がりました。何という開放感。国際マラソンの先頭に立ち新国立競技場を飛び出したかのような快感です。外苑西通りを北上し富久町西交差点を右折して、靖国通りの長い下り坂を走りました。左手の防衛省前を走り過ぎる時、三島由紀夫の事件を思い出しました。51年前、私は大学4年生でした。三島が立てこもっているその界隈を、機動隊にせかされながら訳もなくウロウロしたのでした。靖国通りから外堀通りに出て、市ヶ谷から飯田橋へ。ランナーは自然に集団を形作り、ほぼ同じペースで走っています。間を縫って追い越していくランナーが何人かいました。「以前はああやって走っていたなあ」と思いながら「制限時間内完走」と言い聞かせました。右手に外堀と中央・総武線、サクラの土手が見えます。サンデー毎日編集部で一緒だった岩見隆夫さんや岸井成格さんたちと花見をした土手。あれから何年経ったかなあ、酒の買い出ししたなあ、と考えながら走っているうちに、飯田橋の5キロ地点に差し掛かりました。想定タイムより5分ほど早い通過です。市ヶ谷の下り坂があったし、まあ、順調なペースです。
水道橋を右折して白山通りを南下、神保町交差点で左折し靖国通りへ。ここは毎日新聞社に近く、なじみの街です。須田町交差点で右折し中央通りを日本橋方面に向かいました。神田駅を過ぎ、三越、高島屋など日本橋の風景が現れました。日本橋北詰手前で折り返し、ほどなく10キロ地点を過ぎました。想定タイムより依然5分早く快調です。
同じコースを神保町まで戻りながら右手を見たらレストラン「ランチョン」がありました。ランチョンと言えばビール。ゴールしたらビール。この走りはビールへの走りだ。神保町交差点を左折して白山通りへ。共立女子大、如水会館が近づき、正面に皇居のお濠が現れました。その時になって、そうだ、毎日新聞社の通りだ、毎日新聞社だ、思い至りました。そろそろ疲れていたのです。
白山通りの真ん中から見上げた毎日新聞社は、立派なビルでした。堂々として、たじろぎのない毎日新聞社。好きだなあ、毎日新聞。いいえ、泣きそうになったとは言いません。でも、心は何かに揺さぶられていました。それも数十秒のこと、左折して内堀通りに入りお濠沿いを走りました。右手に皇居、左手に大手町や丸の内の高層ビル群。東京の、ここにしかない大都会の光景です。大手門の手前で折り返し、周囲を見ると、歩いているランナーが目立ち始めていました。私も左脚にダメージが生じていました。痙攣の予感があるのです。やはり練習不足でした。
復路、再び毎日新聞社に通りかかりました。私は毎日新聞社に頭を下げました。スピード落とします、このままでは完走できません、すみません………。水道橋を左折し、東京ドーム付近で15キロを通過しました。この5キロは想定より1分遅いタイムでした。もう恥も見た目もなく、足元に視線を落とし深く前傾して、歩幅を狭く市ヶ谷の上りに向かいました。脚は上がらず、スピードも落ちる一方です。ただ、苦しくはありません。応援の人々の声も表情も良くわかります。私はこの時、市ヶ谷の坂を克服したのではないか、と思ったほどです。富久町西交差点を左折して、声援は「残り1キロ!」に変わりました。まだ一度も歩いていません。完走するんだ、と強く言い聞かせて新国立競技場の取付道路にたどり着きました。
やや暗いスタンド下の走路を潜り抜けると、アンツーカートラックが現れました。左斜め前方150メートルにゴールが見えます。大会記念のオレンジ色Tシャツ姿など思い思いのスタイルがトラックに溢れ、中にはサンタクロース姿まで走っています。ランナーみんながゴールに向かっていました。ラスト100メートルの直線を、私は清々しい気分で走っていました。晴れがましく、誇らしく、苦しくもなく、ゴールラインを走り抜けました。
11月中旬、主催者から公式記録が配信されました。タイムも順位も人生最低記録でした。それでも、目標タイムから2分ほど遅れただけで完走しました。もちろん、制限時間内完走です。市ヶ谷の急坂を克服したかと思ったのは、錯覚でした。最後の5キロは目標タイムよりキロ1分ほど遅くなっていました。ただし、新国立競技場を含む1キロ少々は、目標のペースを取り戻していました。順位ですが「〇800位」でした(〇は千の位)。「800」は末広がりの、縁起の良い順位ではないでしょうか。めでたいなあ。
私の73歳の夏は、こうして過ぎて行きました。
(鈴木 充)
鈴木充さんは1971年入社。サンデー毎日編集部、社会部、宇都宮支局長、総務部長、事業本部次長兼文化事業部長など歴任。
2022年11月9日
元「サンデー毎日」編集長、山田道子さんがコラム教室の講師に

あの大リストラに応じ、2019年9月に退社しました。その後、再就職した会社も昨年8月に辞めました。同じ頃、認知症の母の世話をしなければならなくなり、流行りの介護退職みたいになった格好です。
現在は、自宅を拠点にフリーで働いています。名刺には「ライター」。顧みて「ジャーナリスト」と名乗るのはおこがましく、躊躇してしまいます。毎日新聞の有料ウエブサイト・経済プレミアのコラム「メディア万華鏡」は続けることがかない、その他単発で他媒体に記事を書いたりしています。
そんな中、声をかけていただき引き受けたのが、毎日文化センターのコラム教室の講師。通信添削のコラム講座の仕事もすることになりました。
コラム教室は2週間に1回、土曜日の午後2時間半。新聞、雑誌、書籍などから選んだコラムを生徒さんに渡し、文章の構成から表現まで書き方を解説するやり方です。最後に3つほどテーマを出し、自宅でコラムを書いてもらいます。次の教室の前に事務局を通じて送られてくる生徒さんの作品を添削し、教室で返します。添削していると、論理立て、文法、助詞や接続詞の使い方など問題点がよく分かるので、そこを重点的に話すといった感じです。
生徒さんの数は少ないですが、双方向のやりとりができ、書いてもらったコラムを共有しながら話せるのがありがたい。新型コロナでネット会議や授業が当たり前になりましたが、リアルで議論できる面白さにひたっています。
コラムを自分で書くのと、書き方を具体的に分かりやすく人に伝えるのは別物だと痛感しました。生徒さんの中には、名コラムニストでならした玉木研二さんの講義を聞いたという方もおられ、冷や汗ものです。
まず、コラムとはなんぞや? と改めて考えさせられました。ヒントになったのは、私の前任、堀井泰孝・元編成局次長&元運動部長が書いたコラム教室の案内文でした。曰く、コラムすなわち「column」は英語で「柱」「縦列」などの意味。新聞や雑誌の一般記事の中で、円柱のように独立した囲み記事とのこと。一般記事は、事実関係を逆三角形で重要なことから伝えるのに対し、コラムは自らの考えや訴えたいことを、読んだ人が分かるように伝え、最後まで読んでもらわなければなりません。
川崎支局長時代、神奈川県版の「支局長だより」なるコラムの担当が定期的に回ってきました。伝えたいことが思い浮かばない時には、わざわざ川崎市内のイベントを探して取材し、とってつけたように「訴え」で締めるコラムを書いたこともありました。「これがコラムと言えるのだろうか。一般記事でいいのではないか」とじくじたる思いでした。
伝えたい、訴えたいテーマがあって、中身を深めるために取材するのは当然。でも、コラムの題材がないから、一から探して取材して書くというのは違うのではないかと……。 ある生徒さんによると、玉木さんは「コラムを書くにあたって、自らの経験や体験は“七難を隠す”」と強調したそうです。至言。
自分の経験に基づいて伝えたいことが湧いてくると、ズバリはまるというのは生徒さんの作品でも露わです。最近出た「新訳 老人と海」(ヘミングウェイ著)と自らの加齢、体の衰えを重ねわせてつづった作品は見事でした。自殺に関するネット相談の番組を見て、かつて病院に通っていた時の医師との対話を振り返り、思考を深めた作品も心に残っています。いずれも自分事として頭の中に入ってきました。
コラムは、伝えたいこと、訴えたいことがただの感想にとどまらず、社会性や普遍性を帯びることが大切なのではないでしょうか。だから、新聞や雑誌の中で「囲み記事」として存在しうるのではないでしょうか。個人的体験にいかに意味を持たせるか、というところに書く人の力が表れるのです。
どちらがいいか悪いかの話ではなく、ここがエッセイとの違いになります。基本、エッセイは身辺雑記。これに対し、コラムは、読んだ人が「そうだ!」もしくは「違うのではないか?」などと受け止めるメッセージ性があるものだ、と私は区別しています。
ただ、講師をするにあたりそのような視点から読んでいると、著名人やその筋の権威がエッセイを書いても、メッセージ性を有するコラムになっていることがあります。また、あえて意識的に身辺雑記にとどめ、より読者に考えてもらおうとしていると思われるエッセイ(コラム)もあるのです。
以前より、毎日新聞などのコラムをいろいろな角度から読むようになりました。「あんたには言われたくない」と怒る方もおられるかもしれませんが、あえて言いたい。これコラム? と首をかしげ、一般記事でいいのにとこぼしたくなるのがあります。
(山田 道子)
山田道子さんは1961年東京都生まれ。85年毎日新聞入社。社会部、政治部などを経て、2008年サンデー毎日編集長。総合週刊誌で女性初。毎日新聞編集委員などを経て現在フリーライター。毎日新聞ウエブサイト「経済プレミア」でコラム「メディア万華鏡」を連載中。
2022年11月9日
53年入社北野栄三さん(92歳)と先斗町「ますだ」で


先斗町の「ますだ」。毎日新聞の京都支局、いや大阪本社の記者たちの馴染みの店である。
その「ますだ」で、53年入社、京都在住のOB北野栄三さんにご馳走になった。1930年生まれだからことし92歳。元気だ。『メディアの人々』(2000年刊)『メディアの光景』(2010年刊、いずれも毎日新聞社)の著作があり、大阪社会部の昔話を伺いに出掛けたのだ。
北野さんは、大阪本社社会部→東京本社「サンデー毎日」編集部→毎日放送(報道局長・テレビ編成局長・テレビ制作局長・常務取締役)→90年和歌山放送社長・99年同会長→01年バーチャル和歌山社長・06年同会長。その間に同志社大学文学部・立命館大学国際関係学部講師、和歌山経済同友会代表幹事、関西民放クラブ会長を務めたと著書の履歴にある。
社会部の昔話は、来年2月発行の「ゆうLUCKペン」に譲って、「ますだ」の話。
右側の写真のバックは、作家の司馬遼太郎が墨書したもののコピーである。写真に83.11.27の日付が入っている。
「瀬戸内の奈良本丸の走るなる
八尋の海の秋の永きや
依田の山添下村荒るる
秋の北風森谷に満つる
猛き武夫なる
思ひ遥かな夏の藤波 遼」
作家瀬戸内寂聴、歴史家奈良本辰也(65入社奈良本英佑の父親)、脚本家八尋不二、画家秋野不矩、脚本家依田義賢、画家下村良之介、考古学者森浩一、哲学者梅原猛ら、当日の出席者の名前が読み込まれている。
これがその屏風である。毎日新聞HPに載っていた。


この日の集まりは元毎日新聞副社長・大阪本社代表の藤平寂信さん(本名・信秀、2015年没92歳)の得度祝いだった。司馬さんが主催したという。
藤平さんは大阪社会部から東京社会部デスク、学芸部長、中部本社編集局長、取締役になって83年6月代表取締役副社長を退任。寂聴さんに相談して出家、天台宗僧侶になった。

(柴田書店1980年刊)から
この会には、北野さんも主催者側の一人として参加、写真の左側「秋の北風、の北は北野栄三さんです」と「ますだ」三代目の太田晴章さんが解説してくれた。
カウンター席の前に、司馬さん筆の「桃唇向陽開」の額。「これは読みようによって、ちょっとエッチかな」と北野さん。
「ますだ」は1952(昭和27)年創業。名物女将「おたかさん」益田好さん(1981年没68歳)が開いたおばんざい店。おばんざいは、京都の一般家庭で昔から作られてきたお総菜だという。
「おたかさんは、客を見る目があって、歴代京都支局長の評価は正しかったですよ。清水寺の早朝参拝を30年間も続け、葬儀は清水寺で大西良慶貫主のもと、司馬遼太郎さんら私も含め馴染みの客が主催して行われました」と北野さん。
私も長野支局の先輩堀一郎さん(2019年没78歳)に連れて行ってもらったことがある。
(堤 哲)
2022年10月17日
情報編集総センター副部長から日本証券新聞に転身の柴沼均さん

毎日新聞社を2020年2月に早期退職してから2年。現在は東京・茅場町にある日本証券新聞社の記者として、兜町で日々経済ニュースを追っている。生活報道部、情報編成総センターとデスクワークが続き、他人の原稿を見たり、社内調整に追われていたりした毎日時代の晩年よりも、取材を通じて世の中の動きがリアルに感じられる今のほうが、勉強になり、ワクワクすることが多い。
突然だが、「ANYCOLOR」という会社をご存じだろうか。2017年に創業され、まだ5年目のベンチャー企業。Vチューバー(アニメなどのバーチャルキャラクターを使って、動画配信サイトユーチューブで活動する人たち)グループ「にじさんじ」を運営している。ITや若者文化に詳しくないと、さっぱりわからない方も多いだろう。現に毎日OBで今は某経済メディアの幹部をしている友人に話したところ、知らなかった。
「ANYCOLOR」は今年6月に東証グロース市場に新規上場した。最近はウクライナ情勢や物価高で東証だけでなく、世界的に相場が下落しているにもかかわらず、わずか4カ月で株価が2倍を超えている人気ぶり。だが、それだけではない。「ANYCOLOR」の時価総額は、本稿執筆の10月13日現在、約3500億円超。これは、フジ・メディア・ホールディングス(2400億円)とテレビ東京ホールディングス(500億円)を足したのよりも多い。つまり株式市場は長らくメディアの王様だったテレビ局2社と、全国紙(産経新聞)、ラジオ局(ニッポン放送)、出版社(扶桑社)などを合わせたよりも、上場4カ月程度のネットベンチャーを評価しているわけだ。日本テレビやTBSなど他局の時価総額も上回っている。
今流行のメタバースやウェブ3・0はバブルなのかもしれないし、「ANYCOLOR」の株価も今がピークかもしれない。しかし現段階ではテレビの将来は厳しく、メタバース企業にかなわないという見立てが、市場では強いといえよう。実際、私の中学生の娘も将来はボカロP(Vチューバーなどで楽曲を投稿する人)になりたいと言って、ユーチューブにはかじりつくけど、テレビには目もくれない。クラスメイトも同様だそう。私が中学生時代に、学校での話題の中心は前日に見たテレビの話だったのとは雲泥の差であり、時代の変化を感じる。
長々と書いたが、今はオブザーバー参加の兜クラブ(東京証券取引所の記者クラブ)や日本アナリスト協会を根城に、企業の決算会見や経営幹部、経済アナリストへ取材し、中でもこのような新興企業を中心に回っている。経済部経験はないものの、取材の基本は一緒なので助かっている。
最近の取材で面白かった企業は、海底用ケーブル部品で世界トップの「湖北工業」、国産ドローン唯一の専業メーカー「ACSL」、半導体検査装置の結晶で世界シェア9割の「オキサイド」、訪問看護専用の電子カルテの制作で世界でも珍しい慢性期の医療データを保有する「eWELL」など。知名度があるとはいえないが、日本経済の行く先を最先端で感じさせる企業が多い。
何しろ日本の上場企業は4000社弱。毎日新聞など一般紙が通常取材している企業はごく一部だ。日本経済新聞ですら取材にこない企業も多い。しかし、そうした所にこそ次代の日本経済を担いそうなところがあるのだ。
日本証券新聞は1944年創業。個人投資家に企業情報を提供する日刊紙。JIA(ジャパンインベストメントアドバイザー)というプライム上場企業の子会社で印刷、販売は読売新聞に委託している。従業員は20人余と毎日新聞の100分の1もいない。
毎日新聞を早期退職した大きな理由は、当時、毎日新聞サイトのデスクをしており、週に2回は朝刊版で、数時間の仮眠、場合によっては徹夜という生活がしんどくなったこと。実家で一人暮らしをしていた老母が骨折してしまい、その介護のために実家に泊まり込みながら働いていたので心身共に消耗していた。これに対して、現職は表の取材だけなので、深夜勤務はないし、暦通り土日には休め、自分のペースで働いている。
日本ではスタートアップが育たないとか言われているが、個別にみていくと結構頑張っているところはあることがよくわかる。かつて米テスラの時価総額がトヨタ自働車を抜いた時に、日本の経済界が市場がおかしいと低く見ていたら、あっというまに世界的企業に成長されたことがあった。日本でも伝統的な大企業がいつまでも強いと思っていると、時代の変化に取り残されるかもしれない。正直、自分が現場に出て、こうした企業の生の声を取材しなければ分からなかっただろう。毎日新聞での取材経験を活かして、第二の人生に張り切っている。
(柴沼 均)
柴沼均さんは1991年入社。長野支局、東京社会部、デジタルメディア局、生活報道部副部長を経て2020年に情報編集総センター副部長で退職。
2022年10月14日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉖ある新聞記者の歩み26 支局のもうひとりの若手、のちのオウム事件での激烈な取材の原点?! 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第26回は、甲府支局時代の若手3人のお話の3人目です。クマちゃんの愛称で呼ばれる隈元浩彦さん難しい取材にも積極果敢に当たっていく人でした。それでいて、特ダネをモノにしても自慢したりしない隈元さんは、今も生涯一記者としての道を歩んでいます。

目次
1 難しいことでも「やりましょう!
2 オウム事件に出くわす
3 新雑誌挫折 雑誌ジャーナリズムで苦闘
4 日本一の支局はどのようにして成ったか
5 甲府生活が長編『封印された殉教』への取り組みを生んだ
隈元さんが、今回のインタビューに当たって、佐々木さんに送ったメールの一部を
――松木さんキャップ、小生兵隊時代、死刑事件は2つありました。じゃぱゆきさん(注:石和温泉にいたフィリピンからの出稼ぎ女性)放火殺人事件、春日居(石和温泉の隣町)連続殺人。松木さんは地元・石和を取り仕切る有名なヤクザに直接取材をしているところを、喫茶店のガラス越しに目撃したこともあります。そういう最中、秋山(壮一・デスク)さんに連れられて深夜、小さな殺人事件の現場に行きました。「現場百遍」という言葉を教えてくれました。秋山デスクと着任間もない頃、一緒に昼飯を食べました。(滝野、松木先輩記者にしごかれて)オロオロしているのを見るに見かねたのでしょう。「いいか、新聞記者は、人間が良くても、ネタを取ってこないと生きていけないんだ」。目の前のサンマ定食の塩っ辛く、苦いこと。いまも舌が覚えています――
佐々木さんのQ&Aの一部を――
Q 2018年に刊行されたノンフィクション『封印された殉教』の主人公に、佐々木さんが会ったのも甲府だったということですね。

そうなんです。そう考えるとぼくの毎日新聞退社後の方向性を決めてくれたのも甲府、とういうことになるなあ。
Q どういう出会いだったんですか?
女房がたまたまカトリック信者だったんですが、毎週日曜日、甲府カトリック教会のミサに小学校3年の男の子を筆頭に、子供4人連れて行っていたんですね。ところがこの“宗教二世”(笑)一筋縄でいかないんで、ミサの祈りの際の祈りの言葉「天にまします我らが主よ」と唱えるところに来ると、大声で「なんみょうほれんげきょう(南無妙法蓮華経)!」と言ったりするんですね(笑)。しょうがなくて口封じ役で、ボクも一緒にミサに行きました。 甲府教会に通ううち、ミサ終了後に聖堂わきの信者会館に行くと、山梨県出身の神父の肖像写真が天井近くの壁に掛かっていたんです。そこにメガネをかけた「戸田帯刀」という、ローマンカラーを付けた神父の肖像があったんです。「帯刀(たてわき)」なんて珍しい名前だなと思って記憶に残っていたんです。そうしたらたまたまその年、「山梨県カトリック宣教百年史」というのが発刊されました。それをめくっていると、甲府から車で小一時間の東山梨郡牧丘町(現・山梨市牧丘町)出身の横浜教区長・戸田帯刀神父が、終戦3日後の1945(昭和20)年8月18日午後に横浜の保土ヶ谷教会で射殺されたと書いてあるんですね。それも戦時中、「治安維持法違反で特高にも逮捕されたことがある神父」、「憲兵に射殺された」というんですね。「いやあ、すごい事件があるんだ」と思いましたね。
カトリック内で有名な事件なのかと、甲府教会の人に聞いてみると、誰も知らないんです。それで興味を持ってボチボチ調べ始めて、新聞社を退職してから本格的に北海道から九州まで取材旅行をしながら、カトリック系の隔月刊の雑誌「福音と社会」に2010年から連載を始めて48回、2018年8月に上下巻でフリープレス社から出版にこぎつけました。
2022年10月14日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉕ある新聞記者の歩み25 支局の若手の一人は未来の社長! 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo


佐々木宏人さんからの聞き書き第25回です。今回は、松木健さんをメインに取り上げます。松木さんは、今年(2022年)、毎日新聞社の社長に就任されました。なお、佐々木さんが支局長時代を振り返るときに忘れられないベテラン記者がいました。惜しくもガンで40歳の若さで亡くなったその山田正治さんのことを合わせてお話いただきます。
目次
1 特ダネ連発の″魔法使い″
2 若手トリオ 下宿でフォーク合唱
3 後輩のピンチに「あとはまかせろ」
4 学生のときのアルバイトで新聞社にあこがれた?
5 経済部に引っ張る〝裏工作″
6 新聞社冬の時代をどう乗り越えるか
7 若手を導いたヒューマンな記者、病に死す
事務局から:10月1日に25回目が校條諭さんのnoteにオンされていたことに気づかず、掲載が遅れました。長文なので、note検索でご覧ください。
2022年10月3日
特別編集委員、梅津時比古さんが早稲田大学高等学院同窓会報にエッセー
毎日新聞連載「音のかなたへ」の筆者、前桐朋学園大学学長の梅津時比古さん(74歳)が、早稲田大学高等学院同窓会メールマガジン2022秋号(9月30日発行)にエッセーを寄せている。
梅津さんは、1971年早大第一文学部西洋哲学科卒。社会部から学芸部、ケルン音楽大学へ留学するなど音楽への造詣を深め、2010年には日本記者クラブ賞を受賞している。現在毎日新聞特別編集委員。


以下≪学院の魅力「高大一体」~~入試面接で私の人生の方向も決まった」≫全文である。
桐朋と言えば、世間一般の人は「あぁ、小澤征爾さんの学校ね」とうなずく。小澤さんの頃には大学はできていなかったが、チェリストの斎藤秀雄さんが小澤さんたちを第一期生として戦後に始めた「子供のための音楽教室」が発展してきて、現在の形になった。そのころのごちゃごちゃした音楽教室の雰囲気が今も大学に残っている。
桐朋学園の法人は3部門に分かれていて、国立市に男子校があり、調布市の京王線仙川駅近くに女子校がある。そして音楽部門が戦後、女子校の敷地の一角に加わった。実は、音楽部門の高校は、組織面においては女子校に組み入れられていて、非常に分かりにくい。そのため、日本音楽コンクールなど名だたるコンクールで音楽部門の男子高校生が入賞すると、肩書きは【○○・○太郎=桐朋女子高等学校音楽科】という訳の分からない表記になる。この妙な肩書きのため、男子の名前で桐朋女子高等学校在学と新聞やウェブに発表されると、必ず、間違いではないか、と問い合わせがある。また、音楽部門の男子学生が身分証明書を見せると女子高等学校と明記されているため、怪しい目で見られるという笑えない話もある。最近は日本音楽コンクールなど各所で、【○○・○太郎=桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)】と、(男女共学)を入れた表記になっている。

そのように高校と大学が組織的には別になっていることが背景にあることも加わってか、音楽部門では「高校と大学は一体なのだ」と強くうたっている。実際、音楽部門の高校と大学は同じ教育形態を取ってきた。音楽専門の特徴であるレッスンは高校、大学と基本的に同じ先生になるし、授業の時間も高校は大学と同じ90分。問題は、授業料も高校と大学と同じなので、ほかの高校に比べると飛び抜けて高いことだろう(医学系、音楽系の大学の授業料は高い)。
私が桐朋学園音楽部門に関係し始めたのは2010年からだが、最初にやはり「高大一体」の魅力を説かれた。そのとき私は、それをいとも自然に感じて、特に驚かなかった。なぜだろう、と自問しているうちに、高等学院がまさにその雰囲気であったことに思い当たった。
事実、当時の「学院」には多くの大学の先生が教えに来ていた。そのなかには、フランス文学・哲学専門で、特にジャック・デリダの研究で高い評価を得ていた高橋允昭先生、横光利一の研究家の保昌正夫先生などがいた。職員室に行くと、それらの先生がたが談論風発の雰囲気で、自分もなにか大学生、あるいは大学院生になったような気がして、背伸びする年頃としては、なかなかに誇らしかったのである。私は文系であったが、理系で建築を目指していた学院の友人も似たようなこと(つまり建築界で名の通った先生に教わる喜び)を口にしていた。
そもそも学院の面接を受けたときの面接官の先生にも、子供心に、人間味あふれる優しさと、知的な高さを感じ、「この学校に絶対に入りたい」と強く思った。学院に入ってから、その面接官が、フランス哲学を研究し、バシュラールの専門家として名高い掛下栄一郎先生と分かった。私はそのような先生がたと話す内に、すっかり大学生気取りになって(受験勉強が無かったせいもあり)、同人誌を作り、哲学的エッセイや短編小説などを書いて発表していた。私が当時の学院生としては珍しく自ら文学部の西洋哲学科を志したのは、まさに学院の入試面接にさかのぼるのである。そのように自由勝手にしていた私に、担任の杉山信先生(体育)は何も言わず、あるとき不意に早稲田の大先輩の小説家、文芸評論家で、太宰治、梅崎春生、石原慎太郎、三浦哲郎らを見いだした浅見淵(あさみ・ふかし)先生のご自宅に連れて行ってくれた。
大学では掛下先生に卒業論文の主査をお願いし、先生に「大学院に残ったら?」と言っていただいた。私は毎日新聞に入社したが、学院から大学まで掛下先生には憧れ続けていた。その背景はまさに「高大一体」の雰囲気で、私にとっては背伸びすることが向上心にも結びつくことであった。
そして「高大一体」のなせるわざだろう。学院は「自由」であった。高等学院はわずか3年間だが、皆その雰囲気を身に付けているように思える。どこか、違うのである。
桐朋女子高等学校の現在の今野淳一校長に会議などでお会いしてお話を重ねるなかで、その素晴らしい人間性に感じいったのち、実は学院生!と分かって跳び上がるほど嬉しくなった(注:今野さんは学院33期生、梅津さんは18期生だから15年先輩)。そして今回、この原稿を書かせていただくきっかけとなった山口真一さん。クラシックの殿堂のひとつ、紀尾井ホールには桐朋学園音楽部門がさんざんお世話になり、学生や先生がさまざまな注文をする。そのとき、運営側の山口さんが実に理解のある方だなあと感激していたところ、その山口さんが、学院生(注:35期生)だったのである。
(堤 哲=学院11期生)
2022年9月22日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉔ある新聞記者の歩み24 「日本一の支局!?」を支えた若手3人 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo
甲府支局長時代の2回目、当時の若手記者の中の3人についてのお話です。いちばん先輩は1983(昭和58)年入社の滝野隆浩さんで、防衛大学校出身の異色の記者。最近は社会部専門編集委員として防衛問題に加えて、人生最終盤のケア、葬儀、墓問題など「周死期」の終活問題を柱に健筆を振るい、毎週日曜日の朝刊にコラム「掃苔記(そうたいき)」を連載。85年入社の松木健さんは、経済部長や編集編成局長などを経て、今年(2022年)、なんと!社長になりました。新聞社冬の時代にどう舵取りをしていくか。もうひとりの隈元浩彦さんは86年入社。社会部を経て「サンデー毎日」の編集長を経験しました。長年、冤罪事件やハンセン病の問題に長年取り組んで、弱い人の声を聞く毎日新聞の路線を担ってきました。定年後、“生涯一記者”をモットーに、現在、埼玉の熊谷通信部の記者をされていると聞きます。

目次
◇実は事件頻発だった甲府支局管内
◇自衛隊への国民の視線が冷たい時代
◇国体批判の「記者の目」誕生秘話
◇学歴不問の毎日を受けたワケ
◇“なまいきな”新人が将来社長に?!
◇実は事件頻発だった甲府支局管内
Q.当時の甲府支局には将来大記者となる人材がそろっていたんですよね。どういう新人教育をされていたんですか。
甲府支局時代は、支局長としてめぐまれていました。第一にデスク。前回も書きましたが倒産した地元紙「山梨時事新聞」出身のボクと同年齢の秋山壮一君、亡くなって2年くらいになるかな。その下にあなたがいうように、とんでもなく優秀な記者がいたわけで、甲府支局というのは僕にとってラッキーなところだったと思います。だれだったか入社して新人教育を終えて支局に赴任する時、「甲府支局のデスクは東京本社管内ではナンバーワンの優秀なデスク、支局長は将来の社の幹部。日本一の支局だ」と言われた、というの聞いたというんですね。まあ、送り出す方は、新入社員の記者に心配をかけたくないんで、おべんちゃらをいったのだと思いますがね。
Q.支局の記者の原稿が載るのは主として県版ですよね。当時の県版は1ページですか?
いや、2ページです。1ページはニュース関連で、もう1ページは、左の面で、週によって企画モノだとか短歌・俳句の投稿欄とか、県庁の役人だった人が「釣り日記」なんてコラムを書いていました。ぼくが行ったときでもう10年も書かれていました。だからそういう人を見つけたりするのは、支局長在任中の痛恨事、食道ガンで亡くなる、次回以降触れますが山田正治君という1948(昭和23)年生まれの記者が中心になっていました。支局長のぼくが毎週1回書くコラムの「やまなみ随想」もそうですけどね。時々、県庁キャップの元気だった山田君に代筆してもらいました(笑)。(1986(昭和61)年5月から88年4月まで毎週佐々木支局長が執筆)
Q.個々の記者の方は、記者クラブに所属しているのでしょうけど、そのルーチンの仕事と、それ以外の企画を追うというのはけっこうたいへんな印象がありますが・・・。

(社会部専門編集委員)
そんなにサツ回りなんて、事件事故が頻繁にあるわけじゃないから・・・、なんて校條さんのインタビューを受けた時、言いましたが、実は、インタビューのあと、滝野君にメールをしたんですよ。そうしたら、次のような返事をもらいました。
「佐々木さんは事件には一切かかわらず、秋さん(注:デスクの秋山壮一君のこと)にお任せだったからご存知ないかもしれませんが、当時の甲府支局はとんでもない事件ばかりの支局だったわけです。私がサツ回りのころは、甲府市議が殺され(未解決)、瑞牆山(注:みずがきやま、北杜市にある標高2,230メートルの山)でOLが山小屋の管理人に殺害され、白根町では妻が夫に保険金をかけて殺させる事件、道志村(注:県最東部の神奈川県との県境にある村)の汚職事件(村長、助役ら4役と村議ら逮捕)があり、山中湖で合宿中の東大生が遭難、水死し、中央高速で二階建てバスが事故、富士吉田市で「身代金目的の誘拐」として捜査本部が立った事件があり---。それはそれはサツ回りには大変な時期でした。
ワインの名産地の名『山梨』を汚す貴腐ブドウのワインに不凍液まぜて、そのあと県の検査を逃れるためにタンクのワインを入れ替えた事件とか。一課二課事件合わせて、毎月のように事件があり、県警は毎年サンズイ事件(注・汚職事件のこと)をあげてました。」
参ったなあ。まったく僕の認識と反対じゃないですか(笑)。支局長何やってたんだろう(笑)。もはや逃げられないということで(?)、滝野君から行きますか(笑)。
◇自衛隊への国民の視線が冷たい時代
3人とも取材には熱心で、腰も軽く、嫌がって人に会わないなんてことなかったんじゃないかなあ。滝野君は昔かたぎの新聞記者というか、すごく正義感があって、かけだしたら止まらないという感じの記者でした。要するに突破力がすごくあったような気がします。それでいて滝野君はもてた。女房に聞いたら、滝野さんは背が高く、スマートな感じで、礼儀正しく・・・そりゃそうだ防大出身だもんね(笑)、女房に聞くと当時、幼稚園に行っていたぼくの娘なんか「あたし将来は滝野さんのお嫁さんになるの」と言ってたそうです(笑)。もう結婚して子供もいる当の娘に先日聞いたら、「憶えていない」といってましたがね(笑)。さて、いまだったらパワハラで一発で非難されるようなことをぼくは言ってました。防衛大学校っていうのは普通の大学と違うので・・・。
Q.防衛大は防衛大学校で、管轄が文科省(当時文部省)じゃないんですね。
そうそう。それで給料もらえるでしょ。「おまえ正式な大卒じゃないじゃないか」とか、「学生時代に給料もらってたくせにとか(笑)」。酔って支局に上がった時かなあ、今じゃ支局長即クビだね。
滝野君は防衛大を卒業しながら自衛隊に進まず、いわゆる任官拒否をして毎日新聞社に就職しました。受けた新聞社はただ1社、毎日新聞社だけだったんですね。その理由は毎日だけは学歴不問だったから・・・。軍事評論家の小川和久さんが、1987年に出した『リーダーのいない経済大国』(太陽企画出版)の本の中で書いています。
◇国体批判の「記者の目」誕生秘話
滝野君の原稿についてはひとつ思い出すことがあります。彼は、国体(国民体育大会、年1回各県持回りで開催・開会式には天皇、皇后両陛下が出席)のキャップだったかな。本社から国体のことを「記者の目」に書けと言ってきたんです。それで滝野君が書くことになりました。デスクの秋山君が彼の原稿に目を通して、困った顔して「支局長この原稿どうしますか?」って、珍しくぼくに意見を求めたんですよ。「『かいじ国体』開いてよかったよかった、甲府市内から見える富士山、八ヶ岳など、風光明媚な観光県山梨が伝わったのではないか」というトーンで書いてあったんです。国体賛歌調だったんです。
それで、支局のソファーに滝野君を呼んで、「『記者の目』にはこんな原稿載せられないぞ、“国体万歳原稿”だ、何にも批判してないじゃないか」と。それで昔、テレビ時代の到来を「一億総白痴化」と評した、キャッチフレーズを作る名人の評論家の大宅壮一が、かつて国体開催で各地の開催地が天皇を招くのは、“地元の掃除”になるからだと、「天皇は掃除である」と喝破した話を、彼にした覚えがあります。
どういうことかというと、天皇来県を利用して、“国体様のお通りだ”と、立ち退き反対派などを黙らせて、競技場だとか駅前通りだとか全部改築するわけです。要するに国体というのは国の地方統治の装置として、地方の遅れているインフラを整備するために開催するという側面がある。「ただ駆けっこのスポーツ大会じゃないぞ」と。確かに甲府駅前広場は改装され、駅から車で30分程度のところにある小瀬スポーツ公園までの道は整備され、巨大なグランド、球場、体育館、テニスコートなどが作られました。

競技施設を作ることで地元の土建屋さんだとか建築関連業者がうるおって、それがトリクルダウンじゃないけども、山梨県の経済を豊かにするという意義があって国体というのは行われている。「地方活性化のため、国の装置として国体はあるんだ。その辺のところをちゃんと書かなきゃダメだぞ。県庁の役人の観光開発に役立ったなんていう、底の浅い見方に同調したら『記者の目』原稿は成立しない」と言ったように思います。そうしたら、彼ふくれっつらしてたけど、書き直しました。
そのあと、国体の後始末で国の監査があるわけです。そこで無駄遣いをいろいろ指摘されます。当時の調査をやっていた監察官が北海道に転勤させられました。それがどうも当時の自民党の実力者、県政でも絶大な力を持っていた甲府選出の衆院議員・金丸信の差し金だというのがもっぱらのウワサだった。中央権力と地方権力の動き方、そういう風なことを滝野君は知ったんじゃないかな。上官の命令が絶対という防大時代の呪縛が取れたのかもしれませんね。柔軟なジャーナリストの考え方を会得していったんじゃないかな。当方の勝手な推測だけど---。滝野君に今回聞いたところ、東京・社会部に来てもその監察官とつき合っていて、よく「官吏道とは何か」という“青臭い”話を感動して聞いたそうです。取材元を大切にする―そういうところはエライと思うな。
(以下略)
2022年9月20日
エリザベス女王の国葬中継でテレビ出演の黒岩徹さん(82歳)


9月19日(敬老の日)午後7時半からBS・TBS「報道1930」に、元ロンドン支局長・黒岩徹さん(82歳)が出演した。髪が銀髪になって、ロマンスグレーの魅力たっぷり!?

ライブ中継されるエリザベス女王の国葬の解説役。いつもは「イギリスでは1分間に1つも気の利いたジョークを言わないとバカにされるんだ」と言っているが、厳粛な国葬に若干緊張気味。それでも発語はしっかりしていて、年齢を感じさせなかった。
2001年にエリザベス女王から授与された大英名誉勲章OBEも飾られ、「エリザベス女王はサインだけでも毎日、大変なんです」とコメントした。
黒岩さん、というより黒ちゃんは、面白い話があるとすぐ現場に行く行動派。1999年度の日本記者クラブ賞を受賞しているが、その理由に「代表的な英国通記者のひとりとして政治・経済はもとより、市井の話題を文化的背景やエピソードを織りまぜ紹介。特にそこに生活する庶民の顔と心が投影したコラムにみられる、徹底した現場主義と卓越した筆力が評価された」とある。
TV出演の事前連絡に「今後しばらくは英国から世界的ニュースがなさそうで、私のテレビ出演もこれが最後になると思うのでお知らせいたします」とあったが、そういわずテレビ局のオファーを受けて、元気な姿を引き続き見せてください。よろしく!ね。
メールに添付された「女王の評伝」を掲載します。
(堤 哲)
幾多の危機、乗り越え =【評伝】9月10日付朝刊=
70年という英国史上最長の在位期間を誇ったエリザベス女王は、国民に最も信頼され慕われた国王だった。だがその信頼感、尊敬心を得るには、いくつもの英王室の危機を乗り越えなければならなかった。
最初の危機は、伯父で独身の国王、エドワード8世が、2度の離婚歴のあるシンプソン夫人と結婚しようとして、首相、カンタベリー大主教らの大反対にあい、1936年に退位したときだ。弟君がジョージ6世として即位したとき、長女エリザベス王女が次の国王になることが確定した。エドワード8世の“王冠をかけた恋”によって英王室の権威はいたく傷ついた。エリザベスが、死ぬまで女王として働く決意をしたのは、この退位事件からである。
第二の危機は、52年、妹君マーガレット王女が離婚歴のあるタウンゼント大佐と恋におち、女王に結婚を相談したときである。愛する妹の幸せを願いながらも、女王は英国国教会の首長として王位継承権のある王女と離婚経験者との結婚を許してはならないとの立場に立った。王女に結婚をあきらめさせたことで危機は去った。
第三の危機は、97年、ダイアナ元皇太子妃がパリで交通事故死したときである。孫のウィリアム王子らとスコットランドにいたが、孫を守ることこそ祖母の第一の義務としてロンドンに帰らなかった。世論は、なぜロンドンに帰還しないのか、と激高。女王の権威は地に落ちたといわれた。
国民の怒りを知った女王は、その後王室の威信回復のため、王室費の削減を決め、パブを突然訪問するなど国民と近づく必死の努力をした。これが実を結び、一時戦後最低となった王室支持率は急上昇、女王の権威は復活した。
女王は通常、議会の開会式、叙勲式など儀式を執り行い、チャリティーのパトロンとして福祉の資金集めにも参加する。こうした行事をいやな顔ひとつせずに年間600件もこなしてきた。だから“王室のプロ”と称されたのだ。
さらに外国への公式訪問も多い。90年、アイスランド訪問で蒸気の出る穴を見学した際、風向きが変わって蒸気が女王一行に襲いかかった。逃げ出したお付きのものもいたが、女王は動かず、蒸気が去った後に乗っていた板からゆっくり下りた。女王の落ち着きはらった振る舞いに観衆から拍手が起こった。「ドント・パニック(うろたえるな)」。上に立つものが、慌てふためいてはならぬ、との英国教育の教えを体現していた。女王の威厳である。
女王は死ぬまで国民に奉仕する、との若いときの決意を見事実現した。いくつもの危機を乗り越えた女王は、国民に愛されつつ永遠(とわ)の旅に出たのである。
【黒岩徹・元欧州総局長】
2022年8月18日
山を愛して、毎日企画サービス社長、小野博宣さんは登山ガイドの資格も

毎日新聞社を2019年に選択定年退職し、毎日企画サービス(毎日新聞旅行)の代表取締役社長に就きました。ですが、当社の社長就任は意図したものではありませんでした。登山ガイドの資格を持つ私には「退職したら、山小屋の仕事を手伝おう」という夢があり、その準備も進めていました。そんな折に、上司から社長就任を勧められました。
なぜお断りしなかったのか。それは当社が「山の会社」だったからです。企画サービスには、イベントや事業を手がける企画部と、旅行部があります。旅行部は、「山のツアー会社」として知られていました。夏の深夜になると、パレスサイドビルから出発する登山バス「毎日あるぺん号」は当社が運航しています。「便利な登山バス」として、他のツアー会社にもご利用いただいています。また、主力商品も山旅を多く手がけています。
私が山と出合ったのは、40代半ば、宇都宮支局長だったころです。地元の登山愛好家に、初めての登山として那須岳に連れて行ってもらいました。その風景の美しさに心を奪われました。支局長として多忙な生活を送る私にとって、山と自然は清涼剤となったようです。その話を、登山愛好者である東京社会部の先輩記者や経済部の同期生に話すと、2人はよく山に連れて行ってくれるようになりました。山の技術と体力をつけて、2010年には社内クラブとして「毎日新聞山の会」(現在は発展的に解消)を発足させました。また、2014年には、社団法人日本山岳ガイド協会の登山ガイドの資格も取得しました。
山小屋ではなくとも、山を仕事にできたことはうれしく思います。その反面、「お客様の安全」「毎日あるぺん号の絶対無事故」に気を配らなければならなくなりました。私が就任直後、大手旅行会社の社長がお詫び会見を開きました。山のツアーでお客様を死亡させてしまったからです。深々と頭を下げるその姿を見て、「あれは明日の私だ」と思わざるを得ませんでした。「絶対無事故、絶対安全」を祈らない日は1日もありません。毎日新聞社にいた時と違った緊張感の日々を送っています。
(小野 博宣)
小野博宣さんは1985年、毎日新聞社入社、東京社会部、宇都宮支局長、生活報道部長、東京本社編集委員、東京本社広告局長、大阪本社営業本部長などを歴任。2014年に公益社団法人日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡの資格を取得。
※登山コラム≪山記者小野博宣の目≫は毎日企画サービスの「まいたびⓇツアーレポート」
http://maitabi.blog.jp/archives/40452754.html
でどうぞ。
2022年8月1日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉔ ある新聞記者の歩み23 甲府支局長に赴任。家族6人そろって転居、地域とつながる。抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo
佐々木宏人さんは、44歳の春、山梨県の甲府市局長として赴任しました。佐々木さんが異色だったのは、家族(妻と子供4人)もいっしょに引っ越して家まで買ってしまったことです。支局では、地元に明るく指導力あるデスクや、成長途上ながら優秀な若手といった人材に恵まれました。地方での仕事は実におもしろく有益だったと言います。
目次
◇支局には“キャリア組”と“ノンキャリア組”がいた。
◇絶対に家族で行くぞ、地元とつながるんだ
◇甲府に家を買って地元に定着、東京に異動後も“半身赴任”
◇地元通の辣腕デスクがいて大助かり、ぼくは事業で金集め
◇「無尽会」が取り結ぶ横の関係
◇支局には“キャリア組”と“ノンキャリア組”がいた。
Q.1986(昭和61)年4月に44歳で、甲府支局長として赴任されるのですね。
支局というのは当時の毎日新聞東京本社編集局内では、静岡県以北、青森までの17県の県庁所在地に置かれた支局と、その圏内にある中小都市に置かれた通信部という地方機関を統括する地方部に属します。地方部長は地方部育ちの人が定年前の“上がり双六”のような感じでなるか、社会部の経験者がなる印象でした。ただ首都圏の横浜、浦和などのニュースも多く、支局員の人数も多い支局はたまに政治部から支局長になる人はいた感じです。大阪本社でも京都、神戸支局は別格の感じでした。でも経済部から支局長になるというケースは、めったになかったんじゃないかなあ。
Q.なんでまた各部から出すように変わってきたんですか?
戦前・戦後、地方支局は通信部を含めて社内では「地方機関」と言いました。ほとんどが現地採用の記者が多かったと思います。支局の事務補助員(坊や―と呼んでいましたが)、運転手、男のパンチャーなど主に高卒の人、地元紙で全国紙で活躍したいと思う記者などを引き抜いたケースなど、その時の支局長が見込んで地方記者採用という枠の中で通信部主任にしたケースが多かったようです。
そういう地方採用の記者を昭和30年代半ばまでは“赤伝(あかでん)採用”と言っていたようです。それに対して、大卒の採用試験を受けた正社員は支局では“特待生”といっていたと、水戸支局の古い通信部主任の人から聞いたことがあります。そういう特待生は支局に1人か2人、しかも1年しかおらず、本社の社会部、政治部、経済部、外信部に上がる時代が続いていた。ですから当時の支局員のほとんどが“赤伝採用”だったようです。

でも昭和30年代半ばからだんだん大卒の正規採用が増えて、“赤伝採用”の人達は通信部主任になり、本社に上がったり、支局員の大半は正規の大卒社員に代わっていきました。ですから支局長も地方部出身者がなるケースが段々と少なくなり、編集局の各部で回さないといけないようになってきたんじゃないかな。それと新人教育という観点でも、各部出身の支局長がいた方がいいという事になったんだと思います。
Q.なんだか、採用差別のようで、あまり人聞きのいい言葉じゃないですね?
ぼくのおやじが毎日新聞の長野支局長で、母親と一緒に支局とつながっている社宅に住んでいました。中学3年の頃だったか支局内にいて、たまたま見ていたのですが、松岡英夫さんという当時の編集局長で余録(1面下のコラム)の筆者になっていた時期もあった、オヤジと同期生で都知事選にも立候補したことのある人から電話が来て、当時いた特待生を「政治部に上げる」ということになったのです。オヤジからその辞令を聞いた特待生のYさんは、「ホントは社会部に行きたかったんだよな」とつぶやいたのです。回りのデスクで原稿を書いていた赤伝の記者たちが、聞こえないふりをして原稿を書いていた様子が、ぼくの記憶に焼き付いています。まあ、うらやましいというか、「1年しかいないくせに--⋯」。くやしいというか、あの雰囲気は忘れられないですね。ジャーナリズムは正義の味方―なんて言いながら、社内には一種の身分差別があった時代ですね。
◇絶対に家族で行くぞ、地元とつながるんだ
ぼくが甲府支局長になったのは44歳で、支局長になる年齢としては若い方でした。「歌川のお陰で支局長になった」なんて編集局内のやっかむ声も聞こえてきました。歌川令三さんはワシントン特派員を経て、経済部長をやり、当時は取締役編集局長というポジションで、「将来は社長」ともウワサされ、外部でも大蔵省の政府税制調査会の委員などに指名されるなど、いわば社内では飛ぶ鳥を落とす勢いの人でした。ぼくは歌川さんにわりと可愛がられ、社内では“歌川派”と目されていたと思います。
Q.ご家族の反対はなかったのですか?
女房のおやじさんが八幡製鉄(現日本製鉄)勤務のサラリーマン、九州・広島、名古屋、東京と転勤族で、女房は転勤は家族でいくものと考えていましたから、転校は当たり前。辞令を受けた翌日から、子供の学校の転校手続きなどの準備を始めたのはビックリしましたね。当時、ぼくは子供が4人もいて、いちばん上が小2で、その下が小1、幼稚園2人でした。毎日新聞甲府支局は県庁のすぐ近く、子供の小学校も支局と目と鼻の先。甲府駅から歩いて7,8分、市内のメインの通り「平和通り」に面した甲府警察署のある一角でした。たぶん県有地を払い下げてもらったんじゃないかと想像してますが----。屋上には大きな「毎日新聞甲府支局」と書いた高さ3メートルはあったんじゃないかなー、大看板が立てられていました。目立ちましたねー。
ビルは3階建て、その3階に支局長住宅がありました。これがコンクリートの打ちっぱなしのところで、とてもじゃないけど住むようなところではなかったです。夜なんか窓をあけてるとコウモリが飛んでくるんですよ(笑)。掃除もたいへんでした。それと隣の警察のパトカーの朝から晩までサイレンを鳴らしての出入りの音がうるさくて(笑)。ほうほうのていで3ヶ月で逃げ出しました。
支局から7,8分、離れたところに当時だれも住んでいなかった「次長社宅」といわれる家があってそこに移りました。2階建ての築30年か、もっと古いかもしれない屋根にとんがり帽子のついた西洋館でした。できた当初は有名な建築だったらしいです。畳を替えるなどかかなり手を入れました。その経費は会社が出してくれたと思いますが。子供の学校が近いのは助かりました。
◇甲府に家を買って地元に定着、東京に異動後も“半身赴任”
実はその一年後位かな、市内の武田信玄の武田節で有名な「躑躅(つつじ)ヶ崎の城跡にある観光名所の武田神社近くの大手町というところに、東京・杉並のマンションを売って一戸建ての家を買いました。昔、甲府支局管内の大月通信部にいた記者が辞めて、市内で不動産屋やってたんですね。その人の世話で、100坪強ある広々とした平屋を買ったんです。広い部屋は5つあって、庭が30坪くらいでした。
そこに引っ越して、子供たちはみんなそこで育って、一番下の子が高校を卒業するまで10年近くいました。1988(昭和63)年4月に、甲府支局から経済部に異動になったのですが、そのあとも家族は甲府に残して、ぼくは毎週東京から甲府に戻るという生活でした。金曜の夜に帰って、月曜の朝早く出社してました。金曜は宴会の二次会は遠慮して、午後9時頃新宿から最終の「特急あずさ」に乗って、甲府では妻がクルマで迎えにきてくれました。単身赴任ならぬ半身赴任と言ってました(笑)。
Q.お仕事の方はいかがだったのですか?
ぼくはものすごく恵まれていました。デスクに、秋山壮一君という人がいました。年齢的にはぼくと同じでしたけど、数年前に亡くなりました。彼はもともと山梨時事新聞というところにいたのですが、昭和44年頃、同社は事実上倒産、現在は唯一の県紙の山梨日日新聞に事実上吸収され、時事新聞からは社員が各社に流れて、毎日に来た人は10人は下らないんじゃないかな。秋山君は青森支局にいっていたのかな、そのあと甲府支局のデスクをやってました。地方の支局の中でも秋山というデスクは優秀だと言われていました。
Q.佐々木さんが赴任される前からデスク?
そうです。半年くらい前からかな。おそらくぼくを支局長に出す側の歌川さんの息のかかった山田尚宏経済部長も、ここだったら“佐々木支局長”でも大丈夫だと踏んだのでしょう。本当に秋山デスクには助かりました。優秀なデスクでした。原稿のさばきはいいし、地元紙にいたわけで地元のことは全部知ってるし、いろんな県内政治の動きなんか本当によく知っている人でしたから。だから、若い支局員の原稿のチェック、事件事故の取材の指揮だとかは、安心して彼に全部まかせてました。人柄も温厚でした。
このヒアリング受けるので、当時の一番若かった隈元浩彦君に秋山デスクのことを聞いたんです。隈元君は前「サンデー毎日」編集長でした。「秋山さんに連れられて深夜、小さな殺人事件の現場に行きました。『現場百遍』という言葉を教えてくれました。着任して間もないころ、オロオロしているのを見るに見かねて『クマちゃん、いいか、新聞記者は人間が良くても、ネタを取ってこなくては生きていけないんだ』」と諭したというんだな。初めて聞きました。
ホント、クマちゃんは入社当時、素直で人間的に誰からも好かれる人なんだけど、図々しいところがなく謙虚で、押しが足りないところが当方から見てもあって、新聞記者として大丈夫かなあと思ったこともあったんだけど、秋山君が裏でこんなふうにコーチをしていたなんて、知らなかったなあ。報道し終わった殺人事件の現場で、深夜、秋山、隈元記者の二人がたたずむ姿を思い浮べると、新人記者をそだてようという秋山さんの執念を感じて、なんかウルウル来るなあ。秋山さんのお陰でクマちゃんは大成したと思うなあ。
Q.次回改めて伺いますが、当時の支局員には現在の毎日新聞の社長の松木健さん、編集委員でボクも愛読している週一回コラム「掃苔録」で終活問題や防衛問題など幅広い原稿を書いている防衛大出身の滝野隆浩さんなど多彩な人材がいたようですね。佐々木さんの時代にこんな優秀な記者が出たのは、“佐々木支局長”としての指導があった?
そうなんだよね。不思議なんですよ。この校條さんのインタビューを受けて初めて気がついたんですが、彼らを筆頭に支局にいた若い記者たちの事件・事故や苦労や活躍状況、原稿の記憶などほとんど覚えていないんですよね。結局全部、秋山デスクにお任せしていたんだということに気が付きました。クマちゃんの話なんかは、そのいい例ですね。彼らを育てたのは結局、秋山さんだと思います。その意味で支局長失格ですね。逆に彼らは自由奔放に活躍できたから良かったのかな(笑)?=以下略
2022年7月27日
森浩一さんが生活家庭部長だった頃を永杉徹夫さんが振り返って

「森浩一・元社会部長の『東京社会部と私:記憶の底から』」をプリントアウトして何度も読ませていただいている。きわめて貴重なこの個人史の凄さに圧倒されながら読み進んでいると、森さんが新設の東京・生活家庭部長になられた時からのちの6年ほど同部員だった頃のことも、しきりに思い出されるのだ。
筆者は社会部育ちではない。よって口をはさむのは気がひけるのだが、そのころの生活家庭部のこと(40年ほども前の話になるが)を僭越ながら書かせていただく。
同連載初回に付記されている経歴によると、生活家庭部長就任は1982年(当初は学芸部長兼務のち編集局次長兼務)。1985年に経営企画室長、1988年に東京・編集局長に就かれている。
82年までは学芸部で作っていた家庭面を拡充するために新設されたのが生活家庭部だった。その船出の責任を負い森さんが部長になられたのである。新しい家庭面づくりは時代の要請であり、緊急事だったのだ。

スタートした新部は森部長のもと、迅速かつ順調に育っていった。「森学校」とも言えるその空気のなかには、やる気と喜びがあふれていた。そしてその教室をより充実させた専門記者たちの顔ぶれも揃っていた。科学・医学分野の牧野賢治さん(マキケンジをもじって皆「マッケンジー」と呼んでいた)が、老人問題の「ヤッサン」こと安田睦男(みちお)さんがいた。ともにその道の嚆矢であり第一人で、毎日卒業後もその分野のジャーナリストとして世に貢献されたのは知られるとおりだ。ともに社会部から来た逸材だった。
手元に、ご両人の初期の著書がある。牧野賢治『入門 科学記事の読み方』(日本実業出版社、1983)は「重要になってきた科学記事」「ますます面白くなる科学記事」など93ポイントをあげ、科学記事をいかに読むかを丁寧に説いている。科学ジャーナリストの重要性と、今後の我が国独自の科学発展への期待など、その先見性は今さらに重みをましている。終章「科学ジャーナリズムの行方―これからが本当の確立の時代」中の「私は、科学ジャーナリストも足で書くべきだと思っています」も重い言葉と思う。その後の著作『神への挑戦』『タバコロジー』『背信の科学者たち』『科学ジャーナリストの半世紀』などに通じていく本書は、「謹呈」の署名の文字どおりの、柔らかい心にしみる本だ。

安田睦男『安心な老後・とまどう老い』(労働旬報社、1991)はヤッサンが毎日定年の記念に出版したもので、家庭では主夫もしながら老人ホームなどを取材して回るなどして記事にしたものをまとめた。送られてきたこの本には手紙が添えてあり「卒業論文のつもりでまとめました」とあった。生涯、反骨のジャーナリストを貫いたヤッサンだったが、心底優しい人だった。部員何人かでお宅に招かれて過ごしたことも忘れられない。
森さんは、東京社会部に着任した時の情景や大先輩の顔などを目に浮かぶように覚えていると書いておられるが、筆者も在籍時の生活家庭部の風景がまざまざと目に浮かぶ。
マッケンジーもヤッサンも、柔和で謙虚な人柄だったが、自他ともに厳しい人だった。
マッケンジーは当時から喫煙の害を強く訴えていて、喫煙者を断じて許さなかった。だが斜め前の席にいる冨重圭以子さんが、盛大に紫煙をくゆらせながら原稿を書いているのに対してはむしろ温かい目で見ていた。当時画期的な連載「現代の性」を一年がかりで加藤節子さんとともに取材・執筆中の彼女だった。
ご両人の厳しさと優しさは、まさに森部長のそれであった。部員への指導ぶりは、懇切丁寧で厳しいなかに秘めた優しさがあった。部員への敬意と信頼があったからだ。
部会で説教したり演説をぶったりするのではなく、自らの考えをデスクに伝え、デスクを通して部員に書かせるというふうだった。それはまたデスク教育でもあったのだろう。
思い出すシーンがある。ある記者が、障害児を持つ母親を訪ねて書いた記事に対してその母親から心のこもった礼状が森部長宛てに届いた。森さんはそれを書いた記者に手渡す前に、近くの席にいる同記者に聞こえるよう声を出して読み始めたのだ。それを他の数人も周りを囲んで聞いていた。文字どおりの森教室であった。
「生活家庭」という命名もよかった。生活と家庭はひとつだからだが、今は新聞もテレビも概ね「くらし」という言葉でひと括りにしているようで、家庭が置き去りにされ埋没してしまっているように思えてならない。だが「家庭」は消えてはならない。
あらゆるドラマの淵源は家庭にある。家庭喪失もドラマ、その再建もドラマだ。
世界は家庭から育つ一つの家族だ。その家族という小集団には、かつては家庭を構成する共同体が絡みあってつくりあげた様々なしきたりや生活様式があった。だが今の社会的しきたりや社会生活の崩壊ぶりはどうだ。家庭生活の崩壊が招いた結果ではないか。
連載1回目に添えられている、旧社屋跡地に建てられた有楽町のビル前に立っておられる森さんの近影および貫禄十分の旧社屋の写真の、懐かしいことよ。
同時に思い浮かぶ、ともに働いた友らの顔や姿も今はただ懐かしいばかり。石塚光行君がいた、荻野祥三君も、高田城君も、荒井魏(たかし)君もいた……。生活家庭部は心のふるさと、すばらしい経験だった。
以上「昔の光いまいずこ」を言うばかりになってしまったようだが、言いたいのはそればかりではない。毎日の歴史・伝統は脈々と引きつがれている。現在、この上なく重要度を増してきている科学報道、老人問題に対して、懸命に取り組んでいる現役記者たちは、よく頑張っているのだ。
新部発足と同時に、浦和支局員だった筆者にお声をかけてくださった森部長さんへの感謝は消えることがない。ずいぶん長い年月を経てのことであるが、今日まで口に出して言えないできたその思いを綴らせていただいた。
(東京生活家庭部OB 永杉 徹夫)
2022年7月22日
喜寿の元編集事務部、福島稔さんが「浅間山荘事件」取材本部を支えた思い出を

私は、毎日新聞社を退職してから17年になります。
この度、毎友会から喜寿のお祝いの商品券が突然届き、大変驚きました。
そうか私は、もう77歳になったのかと自覚せざるを得ませんでした(苦笑)。
私は晩酌しています。普段は焼酎のオンザロックですが、時折、ウィスキーなどを飲みます。その酒の香りが引き金となって50年前の「浅間山荘事件」での様々な場面が走馬灯のように蘇ります。
在職中の貴重な思い出話は、1972(昭和47)年2月に軽井沢「浅間山荘事件」の取材本部に派遣されたことです。
当時、編集事務部に所属していた私は、取材本部の世話係として取材記者達の必要な原稿用紙、筆記用具、現地での雇用車の手配、本社からの新聞配布、弁当配布、出張精算の手伝いなどで毎日、寝る暇もなく働いたことを記憶しています。

当初、出張は2~3日だと思っていましたが、1ヶ月以上となり疲労困憊の日々でした。
取材記者達に配る弁当が、マイナス20度以下の状況で凍ってしまい、割り箸が凍ったご飯に刺さらず食べられなかったので、軽井沢の釜飯を購入したことを覚えています。そんな中で現場の警察車両では暖かいカップヌードルを美味しそうに食べている警察官=写真=を目撃したので、直ぐに本社に連絡して取材本部にカップヌードルを送ってもらい、取材記者達に配布しました。
取材本部の記者達から、発売されたばかりのカップヌードルは大変喜ばれ感謝されました。
とにかく軽井沢は寒く記者の皆さんは毎晩、石油ストーブの回りでウィスキー飲んで身体を暖めていたことを思い出します。
現在、コロナワクチン四回目の予防接種も終わり、次なる「傘寿」「米寿」まで元気に頑張りたいと思っている次第です。
(終身名誉職 福島稔)
福島稔さんは1945年生れ。1965年に東京本社総務局車両部、編集局編集事務部、事業本部副部長、事業本部企画委員(部長職)、メディア総合企画室委員、事業本部企画委員。2004年、繰り上げ定年退職。
2022年7月21日
退職後4年、元編集委員、小島正美さんはいまも「食の安全」チェック、そして記者生活45年を振り返って

4年前、66歳で毎日新聞社を退職しました。その後は農林水産省の外郭団体「生研支援センター」という研究機関で非常勤の顧問(週に2~3日勤務)として広報の仕事をしています。いま脚光を浴びている「ゲノム編集技術」などで生まれた糖度の高いトマトなど、農林水産業や食品産業の先端技術の成果を「記者向けプレスリリース」としてまとめ、記者に記事を書いてもらう広報の仕事です。国の動きがよく分かるという点では大いに役立っていますが、これまで実際に記事になったヒット率は5割にも満たず、悪戦苦闘しています。
「兼業も可」という条件で仕事をしていますので、ジャーナリストという肩書で雑誌やWEBサイト(たとえば、朝日新聞デジタルの「論座」でワクチンの記事を書くとか)に記事を書いたり、講演(1年に20回程度)をしたりしています。守備範囲は主に3つです。「食の安全や健康医療の問題」「地球温暖化やエネルギー問題」「ファクトチェックなどメディアのあり方」の3つです。
メディアに関して言えば、任意のボランティア団体「食品安全情報ネットワーク」(約50人の専門家)の共同代表として、新聞やテレビなどのニュースをチェックして、訂正を求めたりする活動もやっています。このメディアチェック活動は記者の現役当時からやっており、すでに10年以上の実績があります。
■転機
なぜ、こんなメディアチェック活動を始めたのか。その転機は1990年代後半でした。当時、ダイオキシンなどの化学物質が大きな健康不安を呼び、「環境ホルモン」問題として連日報道されていました。少し遅れて、「遺伝子組み換え作物」も大きな話題になり、ダイオキシンと同じように不安を煽るニュースが世間を賑わせていました。当時、私は生活家庭部(その後、生活報道部に名称が変わり、2019年に廃部)に属し、いわゆる市民派の記者として、「プラスチックのおもちゃをなめると精子が減る」とか「遺伝子組み換え作物の安全性は分かっていない」などと、その危険性を重視する記事を書いていました。
それまで大した記事を書いたことは一度もなかったのですが、このときだけは、私の記事が大学の授業でも使われるなど相当な反響がありました。社内で「編集局長賞」といった賞をいただきましたが、賞のつく名誉はこれが最初で最後でした。
当時は、主に市民運動の側に立ち、政府を批判する形で記事を書いていたわけですが、その背景には、もともと親父が共産党員だったため、社会主義という理想を目指して、資本主義を変革するのが記者の役目といった考えを抱いていたことが大きかったように思います。
1991年にソ連が崩壊し、過去の凄まじい粛清や殺戮を知るに及び、ようやく目が覚めたころでしたが、それでもまだ巨大企業や工業文明への疑問のようなものが心に巣食っていました。
ところが、2000年代に入って、私の考えが揺らぎ始めました。米国や西欧の農場へ行き、遺伝子組み換え作物の現場を取材したときのことです。どの農家も「組み換え作物は農薬を節約でき、収入も増え、良いことばかりだ」などと話したのです。そこで初めて、現場を一度も見たことがないのに、「組み換え作物を栽培しても、農薬の使用は増える」などと偏った内容の記事を発していたことに気付いたのです。
ダイオキシンにしても同じでした。さまざまな科学者に改めて取材したところ、日本人の摂取レベルが健康被害を起こすほど高いものではないという論文がたくさんあることも分かりました。それもそのはず、ここ約20年、ダイオキシンは全く話題にも上りません。
当時、「小島さんの記事を読み、ダイオキシンが怖いので母乳をやめました」という母親にも会いました。「母乳をやめろ、とは書いてないですよ」とその母親に説明したら、「それなら、記事の書き方を変えてください」と言われてしまったのです。
学者にも取材すると、「危ないことだけを伝えても、解決にはならない。あるリスクを避けても、もっと大きい別のリスクが生じることは往々にしてある」と指摘され、やはり科学的思考法が必要だと悟る。
■科学に立脚
こうしたさまざまな経験を積むに至り、科学的なエビデンスを重視する方向に変わっていったわけです。科学に立脚しない記事が目立つことに対して、専門家から「新聞はもう読むに値しない」との声を直に聞くようになったのも2000年代以降のことです。
そんな経過から、2008年に「食品安全情報ネットワーク」を立ち上げたわけです。いまは媒体を問わず、どの記者たちに対しても、科学的な思考を重視した記事を書いてほしいという願いも込めて、記者向けセミナーなども開いています。
最近は、「地球温暖化は本当に二酸化炭素が主原因なのか」といったテーマでも記事を書いたりしていますが、それもすべて科学的な視点を考えてのことです。
こうした記者活動がいまなお、できているのもすべて毎日新聞の自由な気風で育ったおかげだと感謝しています。それにしても、記者時代で最も楽しかった松本支局(約10年間配属)が廃止になり、生活家庭部も廃部となったのは寂しい限りです。

振り返れば、記者生活45年。幸い編集委員という肩書をいただいたため、千葉支局のデスク2年を除き、退職の当日まで記事を書き続けた記者生活でした。その間、約20冊の本を書きました。いま過去を振り返ると、お世話になった諸先輩の顔が次々に浮かんできます。
(小島 正美)
小島正美(こじま・まさみ)さんは1951年生まれ。1974年入社。サンデー毎日(1年間のみ)を振り出しに長野支局、松本支局を経て、東京本社の生活家庭部へ。千葉支局次長のあと編集委員になり、2018年6月に退職。「食生活ジャーナリストの会」代表(6年間)も務めた。著書は「みんなで考えるトリチウム水問題」など多数。趣味は連凧揚げ(写真は凧80連)
2022年7月19日
戦いすんで 日が暮れて・我が「定年」回避50年―元論説副委員長、宮武 剛さんの報告

人間は、「実(暦)年齢」に加え、3種類の年齢を持つ、と書いたり話したりしてきた。実年齢より若々しい「肉体年齢」や「精神年齢」を持つ人々はざらにいる。肉体的には衰えても、みずみずしい感性を保つ人も多い。
だが、個々人の特性や努力は軽視・無視され、社会的に年齢を決めつけられることがある。その代表・象徴が「定年」である。働く意欲も能力もあるのに引退を迫る非道な、いわば「社会年齢」だ。
しかし、定年廃止は遅遅として進まず、自分自身は「定年」を迎えないように生きたい、とひそかに思った。
毎日新聞は定年60歳の時代に55歳で退職した。創立時の埼玉県立大学へ転じ、65歳定年前の63歳で辞めた。次いで、目白大学・大学院で創設の生涯福祉研究科へ移り、70歳定年前の68歳で辞めた。付録もあって、非常勤の客員教授で残ったものの、それにも73歳の定年があると知って、72歳で辞めた。
もちろん、そのたびに職場を紹介してくださる師匠格や先輩らに恵まれたおかげである。論説委員として社会保障、社会福祉を担当していたのも幸運だった。かつて「事件・裁判」「教育」、それに「福祉」の担当者は「論説室のバルト3国」と、天野勝文先輩がいみじくも名付けられた社会部出身の弱小勢力だった。ところが、福祉の大事さが叫ばれ、新たな大学、学部が生まれる一種の“福祉バブル”のお裾分けに預かった。
もちろん制度や慣習に反抗すると損もする。毎日新聞からは早期退職の割り増しをもらったものの、大学は自己都合に冷たく、正規の退職金にも名誉教授の称号にも縁がなかった。
68歳で、ついに夢に見たフリーランスになれた。実質的に無為徒食になると恐れていたが、友人、知人、先輩達があちこちから声をかけてくれた。「コラムを書いてみろ」「連載をやってみるか」、さらにEテレで「福マガ」(福祉マガジンの略)という新番組の編集長(キャスター)にしてもらった。とにかくヒトに仕えるのも、ヒトを使うのも嫌いな勝手ものには、「我が世の春」だった。
そこへ、専門学校の理事長を引き受けろという、とんでもない話が舞い込んだ。
医療や介護を中心に地域づくりのNPO「福祉フォーラム・ジャパン」を立ち上げ、医師や福祉関係者や官僚OBらと活動していた。その一人、アビリティーズ・ケアネットの伊東弘泰会長からの誘いだった。東京都小金井市の一般財団法人「日本リハビリテーション振興会」は、理学療法士(PT)と作業療法士(OT)養成の「社会医学技術学院」(昼夜間部、学生約500人)を運営する。1973年開学で、わが国のリハビリテーション黎明期からの老舗である。
こちらは、まったくの素人で断り続けた。しかし、財団の評議員でもある伊東さんや、OTの草分けで80歳を迎えた女性理事長は、厚労省からの天下りは忌避したい、医師も独善的になりがちで避けたい、という。伊東さんはポリオの後遺症で義足をつけ、就職時100社から拒否された体験を持つ。リハビリとその専門職育成の大事さを実体験され、この独立独歩の専門学校の強力な後援者である。「ぜひ」と懇請され、意気に感じた。
常勤の教職員35人、社会人や大卒者を含み500人弱の小さな学校だが、学生たちは口々に「こんにちわ」とあいさつし、授業中の私語もなく、国家試験を目標に夜遅くまで学内で自習する。合格した大学を振って入学する若者もいて、愛らしく、誇り高い専門学校である。
大病院(医療法人)の付属でもなければ、大学(学校法人)の傘下でもない。一般財団法人運営のリハビリ専門学校は全国でも数校しかない。なぜ学校法人に衣替えしないのか? 学校敷地1000坪余は借地で、買い取って自己保有しない限り、学校法人の要件を満たせないことを知った。
地主の家に通って、買い取り交渉を始めた。記者時代の「夜討ち朝駆け」に比べれば大したことはない。高い買い物だったが、3年がかりでまとめた。次は財団法人を解散し、新たに学校法人を設立し、一気に財産をすべて新法人へ移す。「離れ業ですな。管轄の内閣府が認めるかどうか」と顧問弁護士は心配した。
トイレに入り、便器の数を調べ、学生数に合うかどうかまで点検する東京都の厳密な調査はクリアーしたが、顧問弁護士の予測通り、土壇場になって内閣府は「前例がない」と渋った。経営的に安定し、何より学生のためになる組織替えを阻止される理由などない。下から積み上げてダメなら、上から叩くのも記者時代からよくやった手口である。
足掛け5年、晴れて学校法人「日本リハビリテーション学舎」が誕生した。「学舎」と名付け、塾のように教師と学生、学生同士が親密に交わる「学び舎」でありたいとの思いを託した。学校名は創立者がその志を示した社会医学技術学院(通称・社医学)のままである。
人生晩年で、思いがけない回り道をした。もう辞めようと思った頃、コロナ禍に見舞われ、動きがとれなくなった。それでも、初志は貫徹し、いわば理事長“定年”の任期を1年残して通算7年で、この5月末、辞任した。後任には、女性の学院長が初の生え抜き理事長となり、私も顧問で来年の創設50周年を迎える。
戦いすんで、日が暮れたが、日は沈んだわけでもない。回り道の途上も原稿を書く作業だけは続けてきた。毎日新聞には「暮らしの明日・私の社会保障論」を月1回、6年連載、健康保険組合連合会の月刊「健康保険」で「宮武剛の社会保障“言論”」をちょうど20年連載。
現在も福祉新聞に月1回の「論説」が10年目(福祉フォーラム・ジャパンと入力してもらうとホームページに論説が転載されています)、「週刊社会保障」のコラム「外野席から」は通算5年目になる。Eテレの「ハートネットTV」にもブログ「社会保障ってなんだ」「社会保障70年の歩み」がアップされている。
この世界には「定年」はないのが素晴らしい。
(宮武 剛)
宮武剛さんは1968年入社、西部本社・報道部、佐世保支局を経て東京社会部、論説委員、科学部長、論説副委員長
2022年6月30日
「認知症110番」が30年を迎えます―常務理事を退任した冠木雅夫さんの報告

パレスサイドビルの一角、3階の毎日信用組合の先に「公益財団法人 認知症予防財団」の部屋があるのをご存じでしょうか? 毎日新聞社が創刊120年を記念して設立した団体です。その中心的な事業である無料電話相談「認知症110番」はスタートが1992年7月20日ですから、まもなく30年を迎えます。ということで、改めてPRをさせてください。私は毎日新聞社を退職後、認知症予防財団の仕事に就いております。2022年6月で常務理事を退任しましたが、ゆえあってお手伝いを続行中です。
(昨年は資金不足を補うためのクラウドファンディングの呼びかけを掲載していただきありがとうございました。おかげさまで全部で800万円余りの寄付をいただき、一息つくことができました)
電話相談は毎週月曜と木曜の10時から15時まで、フリーダイヤル0120・65・4874(ろうご・しんぱいなし)で受け付けているので、お悩みのある方は気軽に電話してください。看護や心理、介護や福祉などの専門資格を持つ相談員が交代で対応しています(私は裏方のお世話係)。なかには1時間を越す長い相談もあり、3本ある電話がすべて話し中になることもあります。これまでの相談の累計は3万件余りです。
1 コロナ禍で困ったことに
「おじいちゃんがデイサービスに行けなくて、症状が進んでいるようです」「施設に入っている母に面会できなくなってしまい心配しています」
2020年に入り、新型コロナが拡大してからは、こんな電話もよくかかってくるようになりました。認知症は時間の経過とともに進行していきます。とはいえ、その進行を遅らせることもできます。それには薬物の投与とともに社会的交流(人と付き合う、外出するなど)や知的活動(アタマを使うことならなんでも、料理やゲームも)、運動(ただし過度にならないよう)、良質の睡眠(これがとても大事といいます)が有効とされています。ところがコロナ禍で外出や人の交流が減っていくので、運動不足にもなり、認知症の進行を抑えるには具合が悪い状況になっているのです。
あるとき、こんな質問がありました。「施設入所中の妻に会うのにコロナでガラス越しになってしまいました。行くと嬉しそうなのですが、理解力、記憶力が低下しているようです。面会に行く意味があるのでしょうか」。それに対して相談員はこう応じていました。「面会で嬉しそうにされるのは、いいですね。ぜひ続けてください。面会に行くことは奥様にとってはもちろんですが、ご自身の気分転換にもなりますし、運動不足解消にもつながりますよ」。
認知症の家族を持つ人は不安です。相談者ご自身も不安を解消したかったのでしょう。たとえガラス越しであっても面会には大きな意味があること、しかも相談者にとってもいいことが多いことを指摘され安心できたようです。相談員が言う「今できることを少しでもコツコツと」というアドバイスに頷いておられるようでした。
2 介護の悩みとストレスを支える
電話相談で一番多いのは介護にともなう悩みやストレスについてです。介護している人は孤独な状況になりがちです。身近な人や友人にも話ができず、弱音を吐けないことが多いのです。何もしていないのに「財布を盗んだでしょ」と責められたり、モノを投げつけられたり暴力を振るわれたり。とても辛いものです。そんな気持を誰かに訴えたいということで電話をかけてくる方が多いのです。
2021年度の1135件の集計では、回答した内容で一番多かったのが「精神的支援(励まし、慰めなど)」で679件ありました。SOSを発している相談者を支えるため、「自分を犠牲にしないことがいい介護につながる」「自分の暮らしを一番大切にして」ということをお伝えしてサポートしています。
次に多いのが「介護・対応方法の助言」374件です。具体的、実際的なアドバイスです。認知症の場合、物忘れなどの「中核症状」だけでなく、暴言や徘徊などの「行動・心理症状」に悩まされることが多いのです。前者について根本的な治療法は未だありませんが(現在の薬は進行を遅らせる作用)、後者は適切なケアによって症状を緩和できる可能性があります。食事や入浴、排便や排尿など日常生活の維持をどうするかも重要です。家の中でトイレの場所が分からなくなったり、外で迷子になったり。相談内容も多岐にわたります。次いで、「認知症の説明」(191件)、「認知症予防の助言」(61件)でした。(※1人に対し複数の回答もあり相談件数の合計より多くなっています)
多くの場合、相談は、介護を担う人の状況や気持ちををじっくり聞く「傾聴」から始まります。それから具体的なアドバイスをすることになりますが、解決策を示せない場合でも、介護者のストレス緩和や気持ちを支えることが大きな役目になります。「気が滅入った時にお話することで助かっている」と言ってくださる方もあります。長年にわたりお母さんを介護し、その間に何十回も相談してこられた娘さんから、「穏やかにお母さんを看取ることができました」といった感謝の電話をもらったこともありました。
3 一番多いのが娘さんから
では、どういう人が相談の電話をかけてくるのか。2021年度の集計で対象者(認知症の方)との続柄をみると、最も多いのは「娘」の541人で48%。「妻」157人(14%)、「息子」147人(13%)と続きます。自分自身が心配なのでという「本人」が88人(7%)、「夫」が73人(6%)そして「息子の配偶者」は41人(4%)となっています。
1992年~2013年集計分では、「息子の配偶者」が16%を占めていたのと比べると大幅に減っていることが分かります。一方で「娘から」は38%から随分増えています。未婚率が増えたこともあるのか、「同居の未婚の娘(または息子)」が介護し相談の電話をかけてくるケースが増えています。それと、「本人」からの相談が増えているのも近年の特徴です。
電話をかけてくるのも一苦労のようです。いろいろなハードルがあるようで、「思い切ってかけてみました」という方が多いのです。ほかの相談窓口でうまくいかなかったり、断られたりという方もいます。また、電話していることを認知症の本人に聞かれないように気をつかう場合もあります。「夫が起きてきたので」といったん電話を切り、しばらくしてまたかけて来た方もありました。
この電話相談は匿名でもOK。都道府県とともに名前も一応聞きますが、匿名でも、ペンネームのような仮名でも応じています。地元の相談窓口では知人などに出くわしたり知られたりする心配があるという方でも相談できるということです。
4 30年前に「ぼけ110番」として
財団の創設、そして電話相談の開設には佐藤哲朗さんはじめ先輩方の大変な努力があったと聞いています。電話相談30年というので、初期の新聞を調べてみました。
スタート前日、1992年7月19日の本紙1面には社告で<「ぼけ110番」を開設>とあり、こんな文章が載っていました。
<痴ほう性老人は現在約100万人(厚生省推計)を数え、うち75万人が在宅で、世話を受けています。この相談はこうした在宅介護家族へのカウンセリングと精神的支援、それに伴う情報提供などを行い、老いの極限にある「痴ほう」を正しく理解する一助にしてもらうことが狙いです。>
今読むと、時の流れを感じます。当時は「痴ほう」あるいは「ぼけ」と言っていたし、財団の名称も「ぼけ予防協会」でした。「認知症」という言葉が現れたのが2004年の厚労省の検討会で、その後徐々に広まり、わが財団も2010年に「認知症予防財団と」改称しています。患者数も、やはり推計値ですが最近は約600万人、2025年には700万人を超えるとも言われ、「100万人」と言われていた頃とは隔世の感があります。

相談開始の翌日の朝刊対社面には初日の模様を伝える小さな記事。介護家族からの相談として「七十歳の実母。ひどいもの忘れに加え、最近はねたみ深く、性格も一変した。どう対応したらいいのか」「八十一歳のぼけの両親の収容施設を探し求めて東奔西走する娘夫婦」などが紹介されていました。
30年前のこの日、最初の電話に出たという大ベテランを含め4人の相談員による座談会を機関紙『新時代』の最新号(7月1日号)に掲載しています(司会は不肖、私)。スタート当時の話を聞くと、「(認知症そのものよりも)寝たきりの老人をどうケアするかが中心的な課題でした。全身床ずれだらけとか5年風呂に入ってないとか」という様子だったそうです。家族が「恥」と思って抱え込んでしまい、家から社会に出ることもあまりなかったようです。
先にも紹介したように電話相談は介護をする人の悩みに応えサポートすることを大きな目的としております。悩んでおられることを傾聴し共感していくところから始まり、具体的な解決策が難しい場合でも気持を楽にしていただくためのアドバイスをしています。
5 事業継続にご協力を
財団では調査研究やシンポジウム、機関紙発行などもしていますが、事業の中心はこの電話相談です。ただ、残念ながら財政的に苦しいので、近年は日本財団によるコロナ関連助成などで事業を継続しています。先日のクラウドファンディングに続き、現在は月500円からご支援いただける「マンスリーサポーター」を募集しています。関心のある方は、下記のウエブサイトをご覧ください。
https://www.mainichi.co.jp/ninchishou/
なお、郵便振替で「財団法人認知症予防財団」(口座番号00120・0・551670)宛てに任意の金額をお振込みいただく方法もあります。公益財団法人ですので寄付は所得税、法人税の控除の対象となります。
ウエブサイトでは、本稿で紹介した「新時代」7月1日号の相談員座談会も掲載しています。
2022年6月20日
元経済部の牧野義司さんが「挑戦するシニアの会」で積極的に活動

コロナ禍で苦しむ若手音楽家の支援でコンサート、「挑戦するシニアの会」が主催
ちょうど1か月前の5月28日午後、東京千代田区の区立いきいきプラザ地下ホールで、コロナ禍で演奏機会が少ない若手の音楽家を支援しようという「挑戦するシニアの会」(早房長治代表理事)主催の「ワンコイン」コンサートが開かれた。この日は写真のように、ヴァイオリン演奏の東亮汰さん、ピアノの五十嵐薫子さんの若手2人による協奏だった。
「挑戦するシニアの会」の話をする前に、まずは、この日の演奏の話から始めよう。

ヴァイオリンの東さん、ピアノの五十嵐さんの若手2人はハイレベル
2人の演奏者のうち、ヴァイオリン奏者の東亮汰さんは桐朋学園大学を今年春、首席で卒業したあと、同大学院音楽研究科に進学、修士課程1年生に在学中という文字どおりの若手。初々しさを残す顔立ちだが、演奏に関しては、群を抜いている。数々の優秀な若手音楽家を輩出している日本音楽コンクールの第88回大会でヴァイオリン部門第1位、併せて鷲見賞などを受賞、その後、東京交響楽団や東京フィルハーモニーなどと堂々と共演している。
昨年の第18回ショパン国際コンクールで第2位受賞の反田恭平さんは、今や世界に誇る音楽家であると同時に、事業感覚も持ち合わせていて、音楽家の活動の場を音楽家自身で創出するため、JAPAN NATIONAL ORCHESTRAという株式会社組織を立ち上げた。東さんは、そのコアメンバーとして、プロジェクトに参画するほどの実力の持ち主。
ピアノの五十嵐薫子さんも、東さんに負けず劣らずで、日本音楽コンクールのピアノ伴奏で審査員特別賞などを受賞。また日本ショパンコンクールで優勝といった実績を持つ。
フランクのヴァイオリンソナタの4楽章を2人で演奏したのは圧巻

こうした実力ある2人の演奏なので、レベルの高さは、すごいものがある。
まず、クライスラーの「プレリュードとアレグロ」、続いてブラームスの「F.A.E、ヴァイオリンソナタより スケルツオ」を一気に演奏した。いずれも深い音色が印象的だ。このほかサン=サーンス「死の舞踏」も演奏した。
圧巻は、休憩後の後半の部で2人が演奏したフランク「ヴァイオリンソナタ イ長調FWV8」だった。何と第1楽章から始まって、第2、第3、第4楽章までのトータルで30分近くの長時間演奏にチャレンジし、楽章が終わるごとに、ひと呼吸を置きながら、2人はタイミングよく、次々に演奏し、見事に4つの楽章を弾きこなした。会場ホールの100人近いシニア、若手の聴衆たちは、その迫力ある演奏に誰もが魅了された。終わっても拍手がなかなか鳴りやまなかったほど。
「挑戦するシニアの会」はもともと経済社会課題を討議、問題提起する組織
こんなすごいレベルの若手音楽家を見つけ出し、コロナ禍で演奏機会が少ない彼らのためにコンサートの「場」づくりの形で支援、という「挑戦するシニアの会」は、どんな組織なのだろうと思われることだろう。
実は、演奏機会が少ない若手音楽家を支援する目的で始まった組織ではない。もともとは、アクティブシニアをめざすシニアが中心になって、経済社会が抱えるさまざまな重要課題に関する意見交換・学習会を通じて世の中に対して問題提起、とくに重要な問題についてはシニアの立場で意見をまとめ、政府や公的機関、政党、企業やメディアに提言していくという、文字どおり豊富な人生経験、活発な問題意識を持つシニアが時代に対して積極的にチャレンジ、挑戦しようという趣旨で立ち上がった組織だ。
公立中学に出張講義したり、超高齢社会のシステムづくり
代表理事の早房さんは、地球市民ジャーナリスト工房の代表で、朝日新聞OBの経済ジャーナリスト。その取り組み、志(こころざし)に共鳴して、私が所属した毎日新聞と新聞社は異なるが、活動に積極的に参画、今は理事の立場で、会の運営にもかかわっている。
当初は、シニアメンバーのうち、太平洋戦争中に生まれた世代が中心になって、東京都内の公立中学生に歴史教育の課外授業という形で出張講義に出向き、悲惨な戦争に巻き込まれた体験を語ると同時に、日本がなぜ戦争を引き起こし経済社会に混乱をもたらしたかなどの話を語ることで、後世代につなげていこうという活動に取り組んだ。
メンバーの中にはジャーナリストOBが多いので、その時々の日本の政治経済課題について意見交換する勉強会も活発に行っている。それだけでない。高齢社会に「超」がつくほどの高齢社会化が進行するのに伴い、シニア世代にとって、その新時代に合わせた社会システムづくりが課題になるため、互いに情報を共有して、新たな社会システムには何が必要か、取り組み課題は何かなどに関しても研究し、時には提言を行っている。
コンサート開催は2014年から15回、コロナ禍で中止の時期も
シニアがシニアの世界に閉じこもってしまうことは何としても避ける必要がある。そこで早房さんらが中心になって、「挑戦するシニアの会」を立ち上げたが、若い世代などとも積極交流の場をつくることが必要との判断から、冒頭の若手音楽家支援のコンサート開催に取り組んだ。
このコンサートに関しては、コロナ禍前の2014年から毎年春と秋の年2回、東京都内の千代田区区にある地域活性化のための施設、いきいきプラザの地下ホールを借りて開催してきた。今回で15回目となる。コロナ禍の長期化で、感染リスクが高い音楽ホールでのコンサートや音楽会が中止や延期に追い込まれるケースが多く、そのあおりを受けて「挑戦するシニアの会」のコンサートも中止を余儀なくされたことが多々あった。
コンサートに関しては、千代田区区のホールなど施設活用時の会費や入場料の上限制限があり、「挑戦するシニアの会」の独自判断で、ワンコイン、つまり500円玉1枚でクラシックコンサートが楽しめるようにと入場料を500円に設定した。音楽家への謝礼や会場ホールの使用料などは、これだけではまかないきれないので、東レ、セコム、清水建設、旭化成などの企業からコンサート支援の寄付をいただき、やりくりしてきた。しかしコロナ禍で、企業サイドも経費節減経営を強いられており、今後は入場料とは別に運営費のねん出のため、年会費プランをつくって、会員に呼びかけるようにしている。
(牧野 義司)
牧野義司さんは、早稲田大学大学院経済研究科卒業後、1968年に毎日新聞東京本社入社。山形支局を振り出しに地方部地方版編集を経て経済部に。一時期、新設の特別報道部に出向したが、経済部で大半、経済取材にかかわった。1988年、ロイター通信に転職、その後、2003年に生涯現役の経済ジャーナリストをめざし、メディアオフィス時代刺激人を立ち上げて取材活動。メディアで培った問題意識や人脈ネットワークなどを生かしてインターネット上などで情報発信、同時にコンサルティングビジネスにも関与、アジア開発銀行や日本政策金融公庫、それに複数の企業でコンサルタントとしての活動を経て、現在に至っている。今回の「挑戦するシニアの会」などの活動にも積極参加している。78歳
2022年6月13日
元社会部長、大坪信剛さんが、都市ガス専門紙「ガスエネルギー新聞」編集長に


コロナ禍が国内でも広まった2020年10月末に毎日新聞社を退職し、都市ガス専門紙「ガスエネルギー新聞」に転職しました。同紙は、1959年(昭和34年)に交通・電気・ガス・港湾など公共事業の発展を目的に「公益事業新聞」として創刊。その後、都市ガス事業の発展とともに、「ガス事業新聞」などを経て、1999年(平成11年)から会社名も媒体名も「ガスエネルギー新聞」となっています。週刊紙で、今年3月28日に3000号を発行しました。
編集長には、公益事業新聞の流れをくむ方や通信社出身の方もいらっしゃいましたが、毎日新聞社の編集局次長、紙面審査委員長などを歴任された山口正康さんが1998年に編集長に就任されてからは、エコノミスト編集長をされた今井伸さん、横田恵美さん、それから私へと毎日新聞出身者が続いています。
山口さんは今年3月末、86歳でお亡くなりになり福岡の地で永眠されていますが、お元気だった昨年7月に紙面(写真・右)へのお褒めの言葉をメールでいただきました。少し気恥しいですが、そのままご紹介したいと思います。
<ガス関連業界から7名の方がオリンピックに出場するのですね!そのことも素晴らしいのですが、それをしっかりと取材し選手7人の顔写真を1面トップに据え、十分な取材成果を示す本記にプラスして、東京ガス社員のトーチキスの別建て記事と写真を添えた紙面構成は、新聞作りのプロの腕をフルに発揮したものと感じました>
山口さんのお言葉は、すぐに編集部のみんなと共有しましたが、今井さん、横田さんら歴代編集長からの激励を糧に、記者たちは自信を持っていくのだと思います。どんな記者たちかは、(撮影時は)ちょっと酔ってしまっていますが、毎友会への掲載をみんなが了解してくれたので添付します。
ガスエネルギー新聞の印刷は、現在は東日印刷さんにお願いしており、コロナ禍で編集作業が困難になってからは、いわゆる整理部門も東日印刷さんにお願いして、二人三脚で制作しています。ですから、山口先輩からのお褒めのお言葉も、東日印刷のみなさんのおかげというのが本当のところです。
2020年10月に当時の菅義偉首相が「2050年カーボンニュートラル宣言」をして以来、ガス業界は脱炭素戦略の技術開発に必死で取り組んでいます。世界的に原油・LNG(液化天然ガス)が高騰し、国内は電力・ガス自由化の影響で電力ひっ迫が冬夏起こるようになり、さらに、今年2月のロシア軍によるウクライナ侵攻でさらに燃料価格が高騰。新規参入していた多くの新電力は撤退し、電気・ガス価格も上昇して家庭に企業に大きな影響を与えつつあります。
このような激動期に、改めて取材活動ができる意義を感じるとともに、この新聞社が生き残ることを考え続けることが多くなりました。
今回、毎友会への寄稿のお話が来ましたのは、毎日新聞千葉支局の企業人大学にお伺いすることが、千葉版に掲載されたことがきっかっけでした。毎日新聞を卒業してから、OBのみなさんをはじめ、現役のみなさんからもお声がかかることが多くなりました。その幸せをかみしめています。
(大坪 信剛)
大坪信剛さんは、社会部長、編集編成局次長、営業総本部ビジネス開発本部長を歴任。
2022年6月10日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉓ ある新聞記者の歩み22 記者から労組委員長へ 2年間の得がたい経験 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo

目次
◇記者がなりたがらない労組委員長に就任
◇〽ボロは着てても、心は錦―プライドがあり、記者の仕事が好きだから
◇新旧分離の“奇策”で会社延命、新旧合併への機運
◇組合委員長の役割と薄氷のストライキ
◇会社と組合、薄給の中で
◇目をかけてくれた先輩のひとりは“憤死”、もうひとりは辞めてサバサバ
◇記者とは違う組合委員長の日々の過ごし方
◇関連会社との微妙な関係
◇楽しかった組合活動 現業の人たちと知り合えたのも宝
◇記者がなりたがらない労組委員長に就任
Q.大蔵省記者クラブの後、労働組合の委員長に就任され、2年間勤められますね。
1983(昭和58)年10月に毎日労組の委員長になりました。今の時代、「労働組合」の存在自体、政治にはあまり影響がない時代なってきています。当時は国会で3分の1の議席を保有していた日本社会党(現・社民党)の“集票マシン”は、「総評」(日本労働組合総評議会の略称)でした。大手企業の450万組合員を傘下に持ち、「護憲運動」、“安保(日米安全保障条約)改定反対闘争“にも力を発揮していました。「総評」の戦後の平和運動主導の運動方針に反対して、賃上げの経済闘争を中心に据えた全繊同盟、海員組合などが1960年に「総同盟」を作り、民社党の基盤となります。これが統一され現在の「同盟」に。「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」という昨年10月に就任した、初の女性の委員長・芳野友子氏の発言、様変わりですね。ビックリしたなあ。当時、全国紙、地方紙問わず新聞各社の組合は総評系の「新聞労連」の傘下に入り、毎日新聞もその先頭に立っていました。その委員長は朝日、毎日、読売の順番で出していたと思います。産経新聞は脱退していましたね。(中略)
東京本社には、編集、営経総(営業・経理・総務)、印刷、地方機関会などの分会があるのですが、「東京本社の支部長は編集局の中から出す」という暗黙の了解があったように思います。2年任期で各部の持ち回り、経済部では六年前にFさんが出ています。私の前任者は国内外の原稿を各部に集配信する編集局連絡部のOさんでした。
Q.だけど大蔵省担当から組合委員長とは!また百八十度転換ですね。総評に加盟している新聞労連傘下で、共産党色もあるといわれた活動的な組合の委員長にどうして佐々木さんがなったんだろうかという疑問がわくのですが(笑)
毎日新聞はユニオンショップ制なので、とにかく社員だったら全員組合に入るわけです。だけど共産党色と言ったって紙面は“中立公正”がモットー。一部の現業職場の人がそうであっても編集紙面にはまったく関係ありませんよ。外務省機密漏洩事件の毎日新聞政治部者・西山太吉記者逮捕事件のとき、言論弾圧は許さないという主張で動いたこともあったし、編集分会でもそういう感じで動いていた。簡単に言うと毎日新聞をつぶしてなるものかという感じが強かった。組合側としても、経営トップとつながりがある佐々木だったらスムーズに行けるということがあったでしょう。ただ、編集局内部では冷たい見方をされました。あいつは経済部出身の役員の言う通りにしかしないとかね。
◇〽ボロは着てても、心は錦―プライドがあり、記者の仕事が好きだから
Q.他社とは待遇の差が続いたと想像しますが、だからといって、委員長を引き受けて急に年収を上げられるとは思えないんですが。

1977(昭和52)年の実質的な経営破綻である“新旧分離”から6年経っていますね。毎日労組の資料で各社の比較を見ると、ぼくが委員長になる1983(昭和58)年の年収(ボーナスを除く)は286万3337円、朝日は519万826円、労連加盟の大手12社平均が439万7143円で圧倒的な差ですね。債務を旧会社が全部引き受け、新聞発行に専念する新会社を作ったのが「新旧分離」策です。
でもやっぱり日本のジャーナリズムにとって、「毎日新聞」は、本当に必要だと本当に思っていましたね。倒産させてなるものか、こんなに自由で書きたいことを書ける新聞は、権力監視という観点でも日本の社会に欠かせないもの、今でいえば“社会的公共財”と社員みんな思っていたと思いますよ。当時の歌で水前寺清子の「一本どっこのうた」の〽ボロは着てても、心は錦(にしき) どんな花よりきれいだぜ〽という感じかな(笑)。だけど取材、紙面だけでは他社に負けていないというプライド・自信は絶対にあったからなー(笑)。でも本音は「花より団子」給料は高い方がいいよね(笑)。
Q.最終的に委員長を引き受けるわけですが、決断の引き金を引いたのは何ですか?

編集分会で次はどこの部から出すかを検討するわけですが、このところ委員長を出していない経済部に白羽の矢が立ち、多分、経済部出身の佐治俊彦取締役経営企画室長、経済部長の歌川令三さんあたりが画策して、僕の名前が出て、受けざるを得ないようになった感じだったと思います。気が付いたら周囲の堀を埋められた感じだったな。
Q.新聞記者として油の乗り切った時だったと思いますが、未練はなかったですか?
そりゃありましたよ。本当は経済記者として大蔵省担当をやり、まだまだ取材経験を積んでいきたいと思う時期ですよね。自分で言うのも変だけど、記者としてあなたがいうように“油が乗った時期”だったと思うんですよ。ですからいつも編集分会のこの労働組合委員長選びはもめるんですよ。出来たら逃げたいと思うのが普通ですよね。佐治さん、歌川さんから「受けたほうが良い」と言われて、逃げ道をふさがれ、抑え込まれた感じかな。
Q.経営側に立つ人が組合人事に介入するんですか。
もちろん直接的に表面に立つことはありません。でも先輩・後輩という立場で相談にいきますよね。そうすると2人とも僕が委員長になることを期待していることが、阿吽(あうん)の呼吸で分かるんですよね(笑)。 佐治俊彦さんは3年前86歳で亡くなられましたが、ワシントン特派員から戻ってきて、僕が経済部に来たときの経団連の1階のキャップだった記者です。中山素平(日本興業銀行頭取)だとか、今里廣記(日本精工社長)、永野重雄(新日鉄会長)などの、政界とも深いパイプを持つ財界人にも信頼が厚い記者でした。彼は経済部長から編集局長になるのが確実と見られていたんですが、自分でも「おれは筆一本で行きたい」と言っていましたね。そこに起きたのが新旧分離です。毎日新聞が実質的に倒産、この時期に社長になったのが監査役だった、財界人とも親しい経済部OBの平岡敏夫さんでした。佐治さんは平岡さんに懇願されて経営のかじ取りをする経営企画室長になり、当時、取締役を兼務していたと思います。
歌川さんもワシントン支局から帰って経済部長、その後で経営企画室長、編集局長をやります。佐治-歌川ラインで毎日新聞のリーダーシップを握って、平岡さんを社長(後に会長)にし、新旧分離路線を敷いて生き延びることに成功した。佐治・歌川さんとワシントン・ニューヨークで一緒だった山内大介さんという外信部出身の取締役主筆が1980(昭和55)年、社長になりました。ところが「次は、佐治から歌川体制になる。経済部支配だ!」と他部からから見ると、面白くない雰囲気が編集局の底流にはあったと思います。
でも、佐治さん、歌川さんは会社のためだと思って、一生懸命やっているわけです。ぼくなんかは、両方とも能力のある記者で好きだったし、わりとかわいがられていたと思います。だけど経済部内にもそのやり方に反発を持つ向きも多かった。TBSのニュースキャスターで成功する嶌信彦君などはその筆頭で、他にも英国通信社のロイターなどに転職した記者も多かった。
◇新旧分離の“奇策”で会社延命、新旧合併への機運
Q.当時の毎日新聞の経営状況は?
ぼくに組合委員長の白羽の矢が立った当時、会社は大きな転換点を迎えていました。ひとつは、新社、旧社の合併です。新旧分離の体制が6年目となり、新社はかろうじて黒字体質になり、旧社の抱えた莫大な借入金も少なくなり、新旧会社をもう一緒にしていいのではないかという経営判断です。確かに新社発足時に年間売上額が1千億円だったのが、1981年度には1400億円、部数も36万部増えて470万部になっていました。 しかしその後、委員長になった時は公正取引委員会の行政指導などもあり、販売正常化の流れの下で部数、売り上げとも減少傾向に入っていました。広告収入は80年度が513億円だったのが、84年が510億円でした。それと要員(組合員)も6155人から5364人に減っています。定年補充をしなかったことが大きいですね。
Q.新旧分離した会社を再度合併させる意味、メリットは何なんでしょう?
1985(昭和60)年9月に委員長を退任し、その10月に毎日新聞が新旧合併しました。それで資本金が41億5千万円となって新会社というか、元の毎日新聞社になりました。だけど旧社には累積欠損というのが107億円あったのかな。大阪本社の土地簿価11億円弱だったのを182億円強にして帳簿上黒字会社にしました。バブル経済時代の土地バブルのおかげですよね。 その前には東京本社のパレスサイドビルのリーダーズダイジェスト所有の底地を入手しています。大阪本社の土地の売却による新本社の建設、当時各社が競っていた地方分散印刷工場の建設などに充てました。どうにか“従来通り”他社の半分程度の給料・一時金を払える体制にもっていけたという事でしょうね。客観的に見れば、「佐治・歌川ラインに乗る経済部の佐々木に、この新旧合併の組合側のOKを取るために委員長に据えた」と見られていたと思います。
◇組合委員長の役割と薄氷のストライキ(中略)
組合委員長として過ごした2年間を振り返ると、春闘だとか冬、夏の一時金闘争で全国回ったりして、けっこう楽しかったですよ。でも今まで付き合ったこのなかった現業の社員、青色の菜っ葉服を着て、巨大な輪転機に相対してインクにまみれて働いているわけで、新聞はこういう人がいて初めてできるんだという実感を持ちましたね。本当の意味での「労働者」を知ったという感じがありましたね。ありがたかったなあ。もう一つ、新聞労連という組織の中で、毎日新聞が全国紙という観点で高い評価を得ているという実感を持てたのもよかった。委員長としてのぼくを支えてくれた当時の仲間は、何人か亡くなりましたけど、メンバーに本当に感謝したいと思いますよ。今のデジタル時代の組合員から見れば“新聞黄金時代”、夢のような時代なのかもしれません。あれから40年。デジタル化の急速な流れの中で、毎日新聞には取材網と人材を生かして頑張って欲しいですね。現在の毎日新聞労組のポジション、よくわかりませんが何とかこのデジタル化の波を乗り切れるように、経営側の尻を叩いていって欲しいですね。
2022年5月27日
元大阪本社運動部長、北村弘一さんの「大江戸寄席放浪記」

毎日新聞を2018年春に退職し、出版社を経て現在の介護事業所に転職して3年が経とうとしています。月に5回程度ある夜勤との兼ね合いもあって平日の休みが多く、妻を職場に、長男を学校に送り出してからの時間をどう使うかが課題でした。コロナ禍もあって、長らく外出を控えていましたが、昨年秋からは以前この欄でも紹介した都内の坂道散歩を開始。併せて週に2、3度の寄席通いも始めました。
朝のラッシュ時間が終わった頃に家を出て、10キロぐらい坂道を歩いてもお昼前。真っ直ぐ家に帰るのももったいないし、飲み始めるのも早すぎる。思い付いたのは寄席見物でした。東京には新宿、浅草、上野、池袋、三宅坂に五つの定席があり、通常はお昼頃から昼席、夕方から夜席があります。いつしか坂道歩きの後、昼席を見て帰宅し、夕食を準備するのが平日の休みの過ごし方として定着しました。
寄席との出会いは新聞記者になってすぐ。初任地の八王子で取材した地域落語会でした。小さなスナックで月に1回、若手落語家を招いていましたが、その落語会がスタートから何年目かの節目を迎えたという記事が地域面で初めてトップを飾った縁もあり、その後、新宿の方面回りに転勤してから寄席、ホール通いが始まりました。当時は古今亭志ん朝、立川談志、柳家小三治の全盛期でした。
その後、東京を離れて寄席からは遠退き、それ以来およそ20年ぶりの寄席通いになります。志ん朝、談志に続き、昨年、小三治も鬼籍に入られ、寄席の顔ぶれは随分変わりました。でも入船亭扇遊、柳家はん治、林家たい平など、かつて地域寄席で見た二つ目時代の若手が50歳代から60歳代の実力派となり、現在の落語界を背負っていることが何より頼もしくうれしい。
この春は落語協会で複数の女性真打ちが誕生しました。中でも注目株は蝶花楼桃花。春風亭小朝に入門する前にAKB48のオーディションを受け最終審査まで残ったという変わり種で、いまや独演会のチケットが最も取れない人気者です。昭和、平成のヒット曲を高座で披露するなど奔放な芸風には賛否両論あるけれど、そんな若手の成長を見守るのも楽しい。
面白ければ笑う。つまらなかったら眠る。都心にありながら「三密」とは程遠い客席で、贅沢な時間を楽しめるのも平日の寄席の楽しみ方。実力派からニューウェーブ、そして奇術、音曲、紙切りなどの色物まで、オムニバスで楽しめる寄席に出掛けてみてはいかがでしょう。
(元大阪本社運動部長、北村 弘一)
北村弘一さんは1988年入社。社会部八王子支局、浦和支局、編集制作総センター、運動部、秋田支局次長、北海道報道部副部長、鳥取支局長などを経て大阪運動部長。2018年に退職し、現在は介護士として国家試験合格目指し勉強中。フェイスブックで「大江戸寄席放浪記」連載中。58歳。
2022年5月10日
障害者支援の社会福祉法人理事長を続ける75歳山路憲夫さん

5月7日付け「みんなの広場」に「連合は労使関係に向き合え」との拙稿を掲載していただいたおかげで、社のOBや現役の方、労働組合の関係者から声を掛けて頂き、毎日新聞の影響力の大きさを痛感しました。
社会部の労働担当が長く、論説委員としては社会保障を担当、2003年に退社後は東京都小平市にある白梅学園大学子ども学部の社会保障社会福祉担当教授を14年間務め、4年前に大学は退職しましたが、小平学・まちづくり研究所を立ち上げ、今は同市内の障害者支援の社会福祉法人理事長を続けています。「毎日」退職後も記者時代の血が騒いで学内外でトラブルを起こしたり、時には短文を書いたりしています。
今回も「血が騒いだ」ひとつです。昨年秋、初代の連合女性会長となった芳野会長の言動、行動が目に余るものがある。これはただ連合会長だけの問題だけではない。あまりにも労働組合の存在感がなさすぎる。私の敬愛する連合の初代事務局長・山田精吾さん(故人)の「(労組幹部の)みんな政治が好きだけど、あれは(地道な労働運動からの)逃げだね」という言葉を思い出しながら「志あるリーダーよ、出でよ」という思いでまとめたものです。
年相応に持病を抱え、多少ヨロヨロしてきましたが、「血が騒ぐ」思いを抱えて、やっていきたいと思っています。
(山路 憲夫)

2022年4月18日
NPO「ライフリンク」の職員になりました、と元社会部長の小川一さん


2022年4月に「特定非営利活動法人 自殺対策支援センター ライフリンク」に就職しました。まもなく64歳になる私ですが、新人のNPO法人職員として働き始めました。応募した採用面接では「本当に、毎日新聞の小川さんですよね、小川さん、いったいどうされたんですか?」と不思議そうに聞かれました。同じ疑問を持たれた先輩方もおられたのでしょう。人生の終盤に決めた「転身」の理由を書くように薦められ、この拙文を綴ることにしました。
2021年6月に毎日新聞顧問の任期が終わり、客員編集委員になりました。入社からちょうど40年を経ての卒業でした。さて第二の人生をどうするか。大学の非常勤講師のほかメディア関係でいくつかの役職や仕事をもらっており、これを基盤に改めてジャーナリストとして活動することも考えました。これからのジャーナリストは、プログラミングの知識を含めたデジタルの高い知識とスキルが必須です。イロハのイから勉強し直そうかと準備も始めました。一方で、メディア関連の企業から営業担当としての誘いもありました。デジタルの広告やマーケティングは、メディアの全体像をつかむために、これもまた必須の分野です。過去の経験や人脈を生かせることには魅力も感じました。
そんな中、自分自身の変化に気づいた瞬間がありました。退任から1カ月ほど経った8月、20代前半の若い人たちとのオンライン飲み会に参加した時のことです。「生まれ変わったら、どんな仕事に就きたいですか」と聞かれ、「医療従事者か、人命を助けるNGO、NPOとして働きたい」という言葉が口から飛び出したのです。私はそれまでずっと恥ずかしげもなく「生まれ変わっても新聞記者になる」と言い続けてきました。ところが、この時は、自身から出た言葉に自分が驚きました。
コロナ禍の影響が大きかったと思います。医療現場の苦悶を伝えるNHKスペシャルには心底感動していました。エッセンシャルワーカーへの敬意もより強くなっていました。人生の終盤を前に、何がしたいのか、何をすべきかを改めて考え始めました。
そして、12月17日、27人が亡くなる大阪クリニック放火殺人事件が起きました。心の疲れから立ち直ろうとしていた人たちと彼らに寄り添ってきた名医を標的にした大量殺人です。容疑者とされる男性は私と同世代でした。携帯電話には1人の連絡先も登録されていなかったと報じられています。孤独孤立を深めるシニア世代の「拡大自殺」でしょうか。これは他人事ではないと強く感じました。さらに年が明けた1月27日、埼玉で人質立てこもり事件が起き、コロナ患者の治療に奔走していた医師が射殺されました。容疑者はまたも私と同世代の男性でした。同世代としても何かするべきことはないのか、と詮無いことと知りながらも、思いをめぐらせました。
2月10日のことでした。いつものように午前5時前に起き出し、スマートフォンでツイッターを開きました。最初に見たのが「ライフリンクが職員募集」のツイートでした。自殺防止に取り組む「ライフリンク」は、NHKのディレクターだった清水康之さんが遺児の取材を契機にNHKを退職して立ち上げたNPO法人です。その活動には以前から敬意を持っていました。もしかすると、何か運命的なものがあるのかも知れない、と勝手に妄想し、年齢制限がないことを確認して、その日に応募しました。筆記試験があり、二度の面接があって、採用が決まりました。
新しい職場では、広報を中心とした仕事になりそうです。ただ、電話相談、SNS相談にも関心があり、勉強していくつもりです。一般職員50人、電話・SNS相談員330人のNPOで、他の同僚はもちろん私よりも一世代も二世代も若い人たちですが、人生経験は驚くほど豊富です。海外留学や海外勤務の経験者が多く、公務員出身の人も目立ちます。心理学関係だけでなく司法書士、行政書士などの資格を持つ人も珍しくありません。NPOの底力を見る思いです。
「人の役に立つ仕事」を果たすべく、頑張りたいと思います。応援していただければ幸いです。
(小川 一)
※小川一さんは社会部長、編集編成局長、取締役デジタル担当など歴任。現在、客員編集委員。
2022年4月5日
毎日新聞埼玉版の短歌で年間最優秀賞に輝いた山本茂さん84歳

1964年同期入社の山本茂さん(84歳)に『七色の魔球―回想の若林忠志』(ベースボール・マガジン社1994年刊)という著書がある。
先日、仙台の野球史を研究している野球文化學會の会員から「1945年10月28日宮城県石巻市で進駐軍対地元の倶楽部チームが試合をした。戦後最初の日米野球・石巻決戦に、若林忠志投手が出場したのだ」というメールが送られてきた。
「こんな話知っている?」と転送したら、「いま、俳句・短歌ばかりつくって毎日新聞埼玉版に投稿しています。短歌は昨年度の年間最優秀賞を受賞しました」といって、ことし1月6日付けの埼玉版を添付してきた。
短歌最優秀賞の作品は――。
韃靼の風に打たれつ父しのぶ旧開拓地の峠を越え行き

選者井ケ田弘美さんの総評。《山本さんの歌は、父の辛苦の満蒙開拓の足跡をたどっており、韃靼の風は、遠き異境の地を彷彿とさせる響きがあります》
◇
《昨年6月、ふと埼玉版の短歌欄を見て傲慢にも「この程度なら俺でも書ける」と思い立ち、3首を投稿したらいきなり第1席に入選した。すっかり気持ちよくなって続けていたら新年のお年玉をいただいたってわけです。以後、毎週、俳句・短歌を投稿しているが、俳句は同好の士が多いせいかなかなか成果は出ませんが、短歌はかなり入選率は高いようです。ただいま、5月をめどに歌集を編んでいます》
俳号「雪彦」の俳人でもある。ことし1月に連句集『海峡』(楡影舎)を出版している。
同期入社の最年長。入社式で新入社員代表として代表して支局配属の辞令を受けた。青森支局→中部・東京整理部→社会部→サンデー毎日。残念ながら一緒に仕事をしたことはなかった。
ベースボール・マガジン社で「ボクシングマガジン」の編集長。その後フリーのライターとなって、『拳に賭けた男たち―日本ボクシング熱闘史』(小学館96年刊)、『アンラッキー・ブルース―“世界"をつかめなかったボクサーたち』(ベースボール・マガジン83年刊)『カーン博士の肖像』(同84年刊)、『復活』(毎日新聞87年刊、『復活―ロッキーを倒した男』幻冬舎アウトロー文庫98年)などボクシングの著書が多い。
北海道大学農学部卒。「青年よ大志を抱け」のクラーク博士、新渡戸稲造、内村鑑三を生んだ「札幌農学校」が始まりである。
北大で同じ寮にいた学芸部OB脇地炯さん(2021年没80歳)の追悼録に、こう書いた。
《1959年春、私は北大恵迪寮に入った。60年安保の前年である。アジトめいた暗い寮の玄関脇に約300人の寮生の名札がぶら下がっている。その中に「唐牛健太郎」の名があった。木札は裏返って赤文字。「不在」の意味である。唐牛はすでに東京にあって、共産主義者同盟(ブント)の全学連委員長に擬されていることは新聞の報道で知っていた。つまり、入れ違いではあったが、私と唐牛はひととき同じ寮生であった》
◇
メールの最後に「当方、壮年のように元気です。元気だったらまた連絡をください。当分は死なないだろうから」とあった。
(堤 哲)
2022年4月4日
小学校などで理科授業・工作で14年、斎藤光紀さん80歳
1965年入社斎藤光紀さんのFacebook2022年4月1日から。

《小学校の生徒からのメッセージが送られてきました(50人弱)。授業、クラブ、低学年とのお遊びなどで元気をもらったこどもたちからです。別に6年生(こちらも50人位)からはビデオメッセージも。毎年このようなメッセージをもらい、既に段ボールにいっぱい。残念ながら名前と顔が一致しない》
以下は過去に載った写真ですが、白衣を着て、まさに理科の斎藤先生。

自己紹介――。
《毎日新聞、スポニチでシステムを作っていました。経理総務など事務系、世論調査、写真データベース、工場の発送、組版などのシステム構築や人事、企画調査室、CI(題字の変更)、監査室などの事務職、ニューメディア(インターネットの前)、電波(放送)、技術本部など記者以外はほとんどやったかな?
スポニチを辞めてから、小学校で理科授業支援やクラブ活動のボランティア(週3、4日登校)や地元の施設やキッズクラブで工作教室など(年15回位)をやっています》
子どもたちから元気をもらって元気にしています
神田っ子。麻布中‣高→東京理科大→毎日新聞社。
65年同期入社の佐々木宏人さん(麻布高校でも一緒)が「我ら同期生の希望の星」と書き込んでいる。
奥さまのお父さんが横浜市南区中里の西光寺の住職、藤田義海さん(2006年没91歳)。毎日新聞の記者で、整理本部が長かったか。
Facebookをさかのぼっていたら、2019年3月21日にこんな記事。コロナ禍前です。
《爺さんたち5人が久しぶりに集まり昼飲み会。編集、人事、経理、広告、システムと出身職場はバラバラで、珍しい集まりだけれど、かつてはそれなりにお偉いさん》とあった。
皆さん、益々のご壮健を!

(堤 哲)
2022年3月30日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉒ ある新聞記者の歩み21 牙を抜かれる前の誇り高き時代の大蔵省こぼれ話 地下に霊安室?! 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
経済部大蔵省担当完結編(3回目)は、官庁の中の官庁と言われたエリート官庁大蔵省(現財務省)での見聞記です。大蔵省にとって大きな分岐点だった当時のことを振り返って。
目次
◇官官接待の日々、たくみに誘う民間金融業界
◇がんばる田舎出身者が消えた・・・
◇地下の“霊安室”と“大蔵温泉”
◇キャリアの謙虚さはどこから来る?
◇女性キャリア片山さつきさん
◇大蔵省裏の裏
◇官僚主導の方がよかったのか?
◇牙を抜かれた大蔵省
◇官官接待の日々、たくみに誘う民間金融業界(略)
◇がんばる田舎出身者が消えた・・・
Q.大蔵省の人材というのは、それまでつきあっていた通産省の人などと違いますか?
やっぱりプライドがありましたね、各官庁がみんなひれ伏してたから。それと政治家もひれ伏してたでしょ。地元の橋だとか道路だとかいうのは建設省や自治体の担当といったって、金の配分の大元を押さえているのは大蔵省ですから。大蔵省がトップだということでみんな認めていたし、大蔵省の役人自身そこをわきまえて、ふんぞり返ったりしないということはあったんでしょうね。よく、昔は官僚支配だったと言いますが、もっと言えば大蔵省支配だったわけです。
前回お話しした主税局長だった福田幸弘さんの「連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記」とか、主税局長、国税庁長官を歴任して僕が経済部長の時の次官・尾崎護さんなんていう人は、明治の時代の誰だったかな、何冊か伝記を書いてますね。そういう意味ではきちっとした人が多かったように思います。偉ぶらず、知性があったような気がします。自分の世界を持って、MOF担のちやほやに溺れる暇はなかったんじゃないかな。
Q.今と比べるとほとんど東大法学部だったでしょうか?
今の財務省の次官の矢野康治さんが“初の一橋大出”と言われるほどだかから「東大、それも法学部でなければ人にあらず」という感じはあったな―。でもその頃以降からだんだんと官僚気質も変化していったように思います。第一次石油危機の時の各社の取材仲間と、当時のエネ庁長官など通産省関係者との“石油戦争戦友会”というのがあり、取材当時の思い出話をするんです。バブル後の集まりだったかな、当時の通産省の秘書課長、人事・採用担当でもあるんですが、彼がボヤいて言ったことを記憶しています。「昔の役所には名前も知らない地方の高校の“田舎の秀才”が、その高校の創立以来初めて東大に入って、卒業後役所に入ってきた人物が一人や二人はいた。田舎の期待を一身に背負って泥臭く頑張る。それが役所のパワーになっている面もあった。ところが最近はそういう田舎の高校から人が来なくなった」というわけです。
僕は麻布高校だったけれども、霞が関界隈では「麻布を出たやつに次官はいない」って言われてたんですよ(笑)、というのはそういう田舎から出てきた連中と次官競争で競り合うと「そんな出世競争?カッコ悪いよ」と言って都会人だから降りちゃう。ところが東北や九州、四国などの田舎の高校の出身の人たちは、郷土の名誉にかけて、絶対負けられないと言ってがんばるんですよ。じゃがいもみたいな顔してるんだけど(笑)頭はいいんです。でもこういう人たちが、国土としての日本という全体を見渡せる目を持っていたんでしょうね。今みたいに東京の進学校の開成高校出身者ばかりが、幅を効かせる官僚社会というのはどうなんだろう。大蔵省にも本当のド田舎出身の優秀な人っていうのがいましたよ。新聞社もそうでしたね。開闢(かいびゃく)以来初めて東大に入ったという九州の高校からの人が政治部にもいましたね。ガッツありましたね。
◇地下の“霊安室”と“大蔵温泉”
Q.「開闢会」ってのが東大にあるって昔聞いたことがあります。おっしゃったようなめったに東大に入らないような高校の出身者の会です。
そういう人たちはものすごくガッツがありましたね。ちょうど、親父さんが戦争で亡くなって母一人で苦労して育てて、郷土の期待を一身に背負って頑張らなくてはいけないという世代ですよね。役所に入って夜の夜中まで時には徹夜してまで、主計官なんかそうやって仕事やってました。今でいうブラック企業どころじゃないです(笑)。地下には「霊安室」っていうのがありましたよ。霊安室っていうのはね、疲れて寝る場所なんですよ(笑)。いわば仮眠室。風呂場もあって、通称「大蔵温泉」と言ってました。予算編成のピーク時の年末には主計局の約360人中、200人は泊まり込みという状態になります。霊安室には30人も泊まれない。仕事部屋のソファー、机の上でのうたた寝、ごろ寝。超勤時間200時間から300時間はざらの“最強のブラック職場”。とにかく「坂の上の雲」を目指して何が何でも、日本を一流国にしようという時代だったから我慢できたのかもしれない。
◇キャリアの謙虚さはどこから来る?(略)
◇女性キャリア片山さつきさん(略)
◇大蔵省裏の裏

Q.寺村壮治さん(第19回参照)が博報堂にスカウトされ、ワシントンに行かれた後のキャップはだれがなられたんですか。
キャップになったのが経済部の森田明彦さん、確か日銀担当から来たんじゃなかったかな。一昨年亡くなりました。面白い人だったな。森田さんが中心になって紙面に連載した「大蔵省裏の裏」(同友館、1983年(昭和58)年6月刊)という本があります。
Q.企画の発想はどういうイメージですか。
当時、大蔵省と言えば官僚中の官僚、日本の経済を動かす司令塔、天下の秀才の集まるところ―なんてイメージがありました。そこに目をつけて実際の大蔵省の役人がどういうことをやっているのか、本当に大蔵省に日本の経済・財政をまかせていいのか、そこをキチンと描こうという意図だったと思います。世間に流布している大蔵省のイメージと、実際の大蔵省の役人とのギャップを描こうという気持ちがあったと思います。
Q.佐々木さんも書かれているのですか。
僕もこの本に「情報管理の裏の裏」というコラムを書いてます。当時、仲良くしていた「週刊宝石」の記者から聞いた話を書きました。証券局の課長が証券会社のツケで、銀座で飲み歩いていたというのを「週刊宝石」が書くことを大蔵省がキャッチするんです。大手広告代理店に手を回して、新聞広告の見出しを「大蔵官僚」という大見出しが「経済官僚」に変えられたというのです。森田さんは面白がって「それが本当の“裏の裏”だ」と言って書かされました。
Q.森田さんは後に論説委員長、監査役など。どういう方だったんですか?
それが不思議な人なんですよね。ほとんど自分のことをしゃべらなかったんです。ただ子供時代、中国にいて両親を亡くし日本に引き揚げてきた時、小学校6年生だったというんですね。ですから僕より二つ上になります。昭和30年頃引き上げてきたんじゃないかな。父上の仕事、毛沢東時代の中国のこと、酒飲んだ時も一言もこぼさなかったな。かなり大変な人生だったんじゃないかなあ。中国語はペラペラでした。
ところが日本に帰ってきて、そのハンデをものともせず東大経済学部に現役で入り、毎日新聞に入社したんですね。僕なんかから見ると、どういう頭をしてたんだろうと思いますね。若ハゲで度の強いメガネをかけ、太っていて愛嬌がありました。でも理解力は抜群で、僕がネタを取って来て説明すると、原稿の位置付けをキチンと示してくれました。その意味で寺村さんといい、森田さんといい、良きキャップに恵まれましたね。
◇官僚主導の方がよかったのか?
Q.<官邸主導>の現在よりも、<官僚主導>の時代の方がよかったと?
岸田内閣になって少しは変わってきたのかもしれないが、安倍、菅政権の8年間を見ていて、官邸にいる人がもうちょっときちんとした信念と知性を持ってやればできるんだろうけど、公文書は平気で隠すは、知らんぷりはするは、責任は取らないという形だとやっぱり国としてまずいですね。ウクライナへのロシアの侵略を見ていると、安倍首相があれだけプーチンと27回も会談して、友情を誇らしげにしていたのに、この事態に及んで何の動きもせずに平気でいるのにはびっくりしますね。本当の信頼関係がなかったという事なんでしょうね(以下略)。
◇牙を抜かれた大蔵省
「大蔵省の裏の裏」という森田明彦さんがまとめた本の最後に、大蔵省のドンと言われた元日銀総裁森永貞一郎さん(1957 年大蔵省事務次官、74年~79年日銀総裁、86年76才で死去)が、後輩にはなむけとしてのコトバを述べています。「国債を日銀に売るのは、日銀の国債引き受けと同じ効果になるので絶対にやるべきではない。大蔵省は安易な道を歩こうとはしないと私は信じている」、日銀の引き受けだけは絶対にやっちゃだめだといわれています。つまり国債発行の歯止めが無くなる、破滅の道だと警鐘を鳴らしています。
(以下略)
2022年3月28日
お得意の環境をテーマに熱弁!原剛・早大名誉教授、84歳

1962年入社の原剛さん(84歳、早稲田大学名誉教授、早稲田環境塾塾長、毎日新聞客員編集委員)が3月25日、JR有楽町駅前の日本交通協会で講演した。
演題は「文化としての『環境日本学』—いのちはめぐる―」。
会場の日本交通協会の隣に、かつて毎日新聞の東京本社があった。まず「懐かしい場所に戻って来た、という感じです」。
1971年7月1日、環境庁(現環境省)が発足と同時に担当記者に。環境問題がライフワークとなったのだ。98年、早大大学院アジア太平洋研究科教授。2008年定年の際、「早稲田環境塾」を創設して塾長として講座を継続した。
現役記者のときは、まず水俣病。有機水銀中毒によるネコ踊りが有名になっていた。
環境とは自然、人間、文化からなる。その三要素を統合、文化としての「環境日本学」の実体を現場から模索した、という。
その現場、山形県高畠町の有機農業、北海道標茶町のシマフクロウの森づくり。
高畠町の星寛治さん(86歳)は、74年から若手農家38人とともに無農薬有機農業を実践。有吉佐和子の小説「複合汚染」にも取り上げられた。生産者と消費者を直接つなぐ独自ルートをつくった。高畠町の教育委員長となって、全小中学校に学校農園・水田と植樹する森を設置した。
農園でできた無農薬野菜や果物は、生徒たちが毎日新聞1階で販売したが、わずかの時間で売り切れた。「早稲田環境塾」の「たかはた共生プロジェクト」の一環だった。その根底には生命を育む喜び、命の連鎖に希望を託す気持ちがあった。
北海道釧路湿原のシマフクロウは絶滅の危険の最も高い「絶滅危惧」類に指定され、現在生息しているのは165羽。標茶町の「シマフクロウの森を育てよう!プロジェクト」は、「シマフクロウを絶滅から救うと同時に、川・海の環境を浄化し、流域の酪農・漁業、さらには地域の生活を守ることにつながる」というのだ。
原さんの熱弁は、1時間10分に及んだ。最後は「人間の幸せとは」と、文明論に繋がっていったのだが、講演終了後、元国鉄官僚が「お若いですね、感心しました」と感想を述べたのが印象的だった。
(堤 哲)
2022年3月16日
葉山の通学路で「子ども安全みまもり隊」5年半の板垣雅夫さん


自宅近くで小学生たちの帰宅の見守り活動をしている。そのことを毎日新聞OB同人誌「ゆうLUCKペン」の最新号(2022.2.26)の会員消息欄に次のように書いたところ、何人かの先輩から連絡をいただいた。
「神奈川県の通学路で5年ほど学校帰りの小学生の見守りをしている。父親が英米仏、母親が中韓の子がいる。『イタガキさんが赤い帽子で立っていると安心する』。エリス君たちの声を耳にすると、活動をやめられない」
これだけの文章だが、先輩たちからは、よく頑張っている、というお褒めの言葉だった。それがきっかけとなり、この欄にも書かせていただくことになった。
見守り活動は5年半ほど続いている。74歳になり、非常勤を含むすべての仕事を辞めた時、運動のためにと毎日、散歩を始めた。それを見ていた町内会の役員さんから「どうせなら、防犯活動の赤いチョッキを着て歩いてください」と頼まれた。それだけならいいよ、と引き受けたが、それだけではなかった。いつの間にか「子ども見守り活動隊」の一員にさせられていた。
放課後の小学生の帰宅見守りである。地域には、お寺とお墓、畑に囲まれた狭い道がある。直線にして約400メートル。昼間、大人でも歩くのは気持ちが悪い。学校指定の通学路ではないが、200戸と300戸ほどの2つの住宅地へのショートカットとなっているので、子どもたちの利用は多い。
学校が終わる午後2時半から午後4時すぎまで、その道で見守り活動をしている。一般の方々や中学生らも通行するが、見守り対象の小学生は20数人だろうか。赤い帽子に赤いベスト、緑の小旗を持って立ち、「こんにちは」「お帰りなさい」と必ず声をかける。子どもたちは最初は警戒して反応してくれなかったが、1年もたつと顔なじみになった。
びっくりしたのは、こんな気持ちの悪い道を小学校1年生の女の子が1人で帰っていることだった。雨の日、どんよりと曇った日、雪の日、ランドセルが身体の半分もあるくらいの子がチョコチョコと歩いている。悪い人に声をかけられたら、どうしようもない。家族はずいぶん勇気があるなと思いながらも、自分が見守らなかったら大変なことになる、と背筋が寒くなった。
そこで、ほぼ毎日、見守り活動をした。目が離せなくなったのだ。昨年春、記録を調べると、過去1年間は学校開校日の93%、つまり10日に9日以上、ヒナちゃんやアイリちゃん、硫丸や音吉たちを見守り続けた。その後、シンドクなり、いま私は週3日、三菱銀行OBの方が週1、スペイン人の元語学教師と日本人の奥さまが週1と分担を決めた。
もう1人、曜日を決めずフリーで動いている男がいる。私の大学学部の10年後輩で、私に向かって「ボランティアは、お互い、罪滅ぼしですね」と言った。私は、お互いは余分だと思ったが、黙っていた。多少はそういう面があるかもしれない。
活動を続けていると意外な効能に気が付いた。1つは、子どもの母親たちから、しょっちゅう声をかけられることだ。通りがかつた車の女性から手を振られることは日常茶飯事だ。やはり少しは若返る。もう1つは、夜眠る時、子どもたちの行動や言葉、表情を思い出し、ニヤニヤしながら眠りにつくことができる。嫌なことは一切、頭に浮かばないのだから、これは、すごいことである。
最近、気がつくようになったのは地域社会のグローバル化である。小学生に日本人とのハーフの子が増えている。背の高い6年生のお姉さんとしっかりものの1年生の弟の父親はイギリス人。おしゃまな1年生の女の子の母は中国の美人。いつもランドセルを振り回している元気な2年生の男の子の母は韓国人で、その子はたまに韓国語で話しかけてくる。私が目を回しているとケラケラ笑っている。
父親がアイルランドの小4の男の子は、ユーチューブにデビューしたとか、明日はタコ焼きパーティーだ、などと嬉しいことを積極的に話しかけてくる。
けっして高い志を持って始めた見守り活動ではないが、いまは、やりがいを感じている。神さまがこの姿を見たら敬礼するんじゃないかな、と勝手に思ったりする。閻魔大王様に袖の下を使わなくても通過させてもらえるのではないか。今年、傘寿の身としてはそんなことも妄想している。いずれにしろ、町内会役員さんにうまく誘導されて見守りを始めなかったら、こんな思いには至らなかっただろう。
(板垣 雅夫)
板垣雅夫さんは、昭和40年入社。元社会部・元東京本社制作局長。79歳。
2022年2月28日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉑ ある新聞記者の歩み20 禁断の木の実を食べたらどうなるかと案ずる人たち 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo
Q.毎日新聞は2月21日、創刊150周年を迎えました。1965(昭和40)年入社の佐々木さんは在職中に100周年を迎えました。100周年、そして、150周年。どんな感想を?
100周年の時は1972(昭和47)年で、水戸支局から経済部に上がって2年目。130周年に出された『毎日の三世紀 新聞が見つめた激流130年』を見ると「2月21日に各本社で『百年記念式典』を挙行」とあります。でも、全然覚えてないなあ。その頃、経団連クラブで電機メーカー担当で飛び回っていたころですね。
むしろその2ヶ月後に表面化して大騒ぎになった、外務省沖縄密約機密漏洩事件で祝賀ムードは吹っ飛んじゃったことを思い出します。政治部の外務省キャップだった西山太吉記者が国家公務員法違反で逮捕されました。われわれ現場の記者は役員室まで乗り込んで「権力の横暴を許すな」と抗議して、紙面もその論調で行きました。ところが起訴状で西山記者が女性秘書と“情を通じ”て、情報を入手したことが書かれました。その結果、抗議の論調は腰砕けになり、読者の反発はすさまじく部数は減らすし、経営的にもピンチになり5年後の1977(昭和52)年12月、経営危機に陥り事実上の“倒産”、新旧分離につながっていくわけで、この経緯を振り返るといい思い出ではないなあ。
経済部長の後、1993(平成5)年4月以降、広告局に移り企画開発部長を経て、広告局長になります。この時は毎年「2月21日の創刊記念日広告特集」の企画広告の展開、協賛の名刺広告の集稿などをやりました。150周年の協賛広告を見ると広告局員の苦労がしのばれます。でもまあ、よく150年、持ったと思います。社内の風通しの良さ、リベラルな雰囲気、本当に勤めていて気持ちのいい会社でした。そういうユルイ社風だからダメなんだ―と他社の人から言われたことがありますが、そういう社風が他社のよりも多い新聞協会賞受賞につながっていると思いますね。デジタル化の波を受けて、厳しい環境にあることは承知していますが。ぜひ頑張って欲しい。4月に社長になる松木健君は、ぼくが甲府支局長時代の新人記者でよく知っているので、おおいに応援したい。
目次
◆ゆうちょ(郵貯)は日本の“スイス銀行”?!
◆1面トップ記事をものにするには「夜回り」!
◆底なしの赤字国債拡大へ
◆エリート資格「三冠王」宅夜回りで聞いた警告
◆戦争体験の無い政治家ばかりになると・・・
◆ゆうちょ(郵貯)は日本の“スイス銀行”?!
Q.1979(昭和54)年に政府がグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)を提案したのですが、結局つぶれてしまったということを伺いました。
それを潰した中心人物が、当時自民党の国対委員長だった金丸信さんと思います。金丸さんが言ったのは「水清くして魚棲まず」。その心は「世の中には違法スレスレのブラックマネーが流れていて、その金が経済を円滑に回しいていく潤滑油になっている。その潤滑油を止めたらどうなる⋯⋯⋯」です。いかにも金権政治の田中角栄派の重鎮らしい言い方ですよね。後年、1993(平成5)年自民党副総裁の時、脱税事件で逮捕されたことを考えると実感がこもっていますね。グリーンカード法案は、1980(昭和55)年に「4年後実施」ということで法案は成立したのですが、郵貯を含めた金融業界、特に証券業界の猛反対、「国民背番号制につながる」という世論の危惧もあり、結局それは施行されなかったのです。

この時の主税局長は福田幸弘という人でした。この人は海軍経理学校卒で主計中尉。終戦前年のフィリピンのレイテ沖海戦の生き残りで、「連合艦隊-サイパン・レイテ沖海戦記」(1981年、時事通信社刊)という400ページ2段組みに及ぶ本をまとめています。復員後1952(昭和27年)年東大法学部を出て大蔵省に入り、仕事の合間に書かれました。「これを書き終えなくては戦友に申し訳ない」と言っていましたね。大蔵省担当の時、献呈を受けましたが、今でも「第一級の史書」と評価は高いようです。背筋のピンとしていた人物でしたね。最後は国税庁長官から参議院議員になって、議員の途中、2年ぐらいで亡くなった。僕のいたころの大蔵省の幹部はみんな戦争体験があり、「二度とあんな馬鹿な戦争を起こしてはならない。財政をあずかるものとして野放図な軍備拡張のための国債発行だけはしない。財政規律は守らなくてはいいけない」という芯が通っていたように思いますね。
僕はこの福田主税局長の所にはしょっちゅう通っていました。グリーンカードの法案は実施段階の1985(昭和60)年には廃案になるんですね。この間、郵貯を抱える郵政省は「郵便局はスイス銀行です」なんてことを言って、自民党の郵政族の金丸さんなどを前面に出して公然とグリーンカード実施反対をとなえていました。福田さんは何とかしようとするのですが、結局、実施はお先真っ暗、法案はお蔵入り必至という感じでした。
Q.「郵便局はスイス銀行です」というのは、スイス銀行のように預金者の名前は一切明かさないという意味ですね?
そうです。スイス銀行は当時、世界の富裕層が匿名で安心して金融資産を預けられるということで知られていました。自国での課税逃れのためなんでしょうね。
◆1面トップ記事をものにするには「夜回り」! (略)
◆底なしの赤字国債拡大へ
Q.現在は消費税を10%でも国債残高は、令和4年度予算案ではI千兆円を突破していますよね。大丈夫なんでしょうか?
財政に関する資料というのを見てみると昭和40年度予算、40年不況といわれた時のテコ入れで2千億円の赤字国債を出しました。その後は48年まで赤字国債は出さず、予算執行で不足分が出ると、次年度返済するという“借換え債”でまかなっていたんですね。本格的に特例債といわれる赤字国債を出すのは、石油ショック(1973年)後の不況脱出のために1975(昭和50)年で、はじめて2兆円を発行しています。僕が財研にいたのが1981年から83年ですね。その頃、赤字国債発行額は6兆~7兆円。
赤字国債発行は1975(昭和50年)位までは“禁断の木の実”だった。政治部に行ったばかりの頃、福田番でしたから福田赳夫首相に赤字国債発行のことを聞いたことがある。福田さん戦前戦後、大蔵官僚で主計局長の経験もあり、戦前の財政、つまり戦時国債を国民に販売するなどして戦費調達したのが、戦後のハイパーインフレで紙切れになってしまったというのを知ってるから、「赤字国債というのは一回出すと禁断の木の実で、財政がとんでもないことになる。だから、これだけは手を染めてはいけない」と言ってました。
僕が政治部の1977(昭和52)年頃、赤字国債発行は4兆5000億円くらいかな、とにかく少ないですよね。2022(令和4)年度の新規国債発行額は37兆円で、その結果、年度末の発行残高は1026兆円の見込みというんですから、福田さんの言った通りですね。それも市中銀行では処理できなくなって安倍内閣時代、ついに日銀引き受けという禁じ手中の禁じ手に手を染めるんですから・・・。先進国中で断トツの債務残高比率ですよね。
◆エリート資格「三冠王」宅夜回りで聞いた警告
その当時、あとで証券局長と国税庁長官になる角谷正彦さん=写真=がいて、わりとこの人好きだったんですが、2019年に亡くなりました。財研担当を離れてからある勉強会で一緒になり、中国やシリコンバレー視察に一緒に行ったりしたこともあります。当時、彼は主計局総務・法規課長でした。角谷さんというのは、東大法学部を出るときに三冠王って言われてたんですよ。東大を首席で出て、行政職の公務員試験を一番で通って、司法試験も一番で通ったんです。それで有名な人だったんです。夜回りで目黒の自宅によく行きました。口を開けば「国債を発行し続けていくと国家財政が破綻する。とんでもないことになる。ハイパーインフレが起き、国民生活が大変なことになる。一定のところで歯止めをかけておかないとだめだ」と力説してました。そういうことを言われて当時一面トップで書いたことあったなナー。ホント、クレバーな人で僕のような素人にも分かりやすく、原稿が書きやすいようにレクチャーしてくれるんだよね。さすが“三冠王”、書かなきゃ悪いような気分にしちゃうんだよね。
でも結局、政治家と各省の圧力に負けて、出し続けることになり、国債発行については歯止めが効かなくなっちゃった。その当時はみんなイタリアの事をバカにしてました。「そんなことやってるとイタリアみたいになるぞ」と。手元のデータを見ると今のイタリアの国債比率はGDPの12%、日本は40%。考えちゃうなあ。
当時は国家の統治システムというのが、官僚支配という言葉があったくらい、官僚のガバナンスが効いていた時代ですから。今は官邸支配で大統領型になってきています。以前は大蔵省の力がものすごく強かったので、基本的にお金を出すのは大蔵省だっただから、大蔵省はものすごく抵抗できたんです。政治家はそういう強い大蔵省の掌の上で踊ってれば、自分たちも大蔵官僚のせいにして、選挙民に都合よく言い訳が出来たわけです。
◆戦争体験の無い政治家ばかりになると・・・
ところが官邸支配になってきちゃって、安倍長期政権で顕著になってきた選挙民迎合のポピュリズムみたいな形になってくると、財政規律っていうよりも国民の生活が先決だと。確かに東日本大震災、今回のコロナ渦もあるが、将来のことをどう考えるかということ本当に考えなくなってきたというか、政治家はもうちょっとしっかりしなくちゃいけないんだろうと思います。そういう意味で戦争体験者がいなくなったことは大きい。戦争で親兄弟、仲間を失っていることに対して、一つの後悔というか懺悔みたいな気持ちがあって、当時の官僚や政治家が財政に向かい合った時にも、やっぱりあの戦前の道をたどっちゃいけないというふうな・・・。体験に基づく信念があった。
Q.戦争体験というのはそんなに影を落としていますか。
戦後の政治家を戦争体験ということで切ってみると、1番目は、吉田茂を代表とする戦中から活躍して、戦後にもう戦争は絶対やらないぞという人達が作った政治があるような気がします。 2番目か3番目に竹下さんとか宮沢さんとかのように、大正生まれだがそんなに実戦経験のない世代、高度成長を実現させた自信を持つ政治家。田中角栄のように一兵卒で戦争に参加したが、それをバネに高度成長の中に身を置き、それをさらに追及した政治家。 3番目が中曽根さん、小泉さんのような戦後の復興を成し遂げたけども、これからは日本が前面に世界政治に出て行くんだ、戦争体験というのはそんなに前面に出さなくてもいけるぞという政治家。いずれにしても戦争というキーワードで語れるような気がする。ところが安倍さんなんかになると、そういう世代とは違うわけですよね。だから国債の発行の怖さというのもわからないだろうし、軍備の怖さもわからない。(以下略)
2022年2月25日
潟永秀一郎元サンデー毎日編集長が、RKB毎日放送・ラジオ出演ナマ再録

4月に社長に就任する松木健・東京本社代表(60)らと同期(85年入社)で、入社以来「85のイロモノ」として社内外をウロウロしておりました潟永です。今回は、私が出演しているRKB毎日放送(本社・福岡市)のラジオ番組「インサイト」で私が勝手に始め、なぜか人気コーナーになった「この歌詞がすごい!」というトークコラムについて、「何か書きなさい」という天野勝文・大先輩のご指示で、寄稿させていただきます。
恥ずかしながら私、学生時代は作詞家志望で、ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に出場する音大生らに歌詞を提供し、一部はヤマハと印税契約も結びました。
結果、「夢」に終わって毎日新聞に拾ってもらうわけですが、今も好きな曲は歌詞カードを読み込み、自分なりに解釈して楽しむという、暗い趣味を持っております。
ちなみにサンデー毎日の編集長当時、歌謡界の大御所だった故・なかにし礼さんにコラムや小説を連載していただきましたが、その圧倒的文才を知るにつけ、「自分はなんと大それた夢を見ていたのか」と、愕然としたことを忘れません。
そんな私が、図々しくも歌詞の解釈を始めた理由は、正直言って「ネタ枯れ」でした。私の出演は毎週水曜朝の約30分間。社会ネタなど2~3本の話題を語るのですが、取材現場を離れた今は毎週、ネタ探しに四苦八苦。しかも世の中「コロナ一色」になったこの2年はなおさらで、ついに番組プロデューサーに「こんなのはどうでしょう? 不評なら1回でやめます」と頼み込んだのが、昨年2月のことでした。
ところが、普段の話がつまらなかったというのもあってか、通常よりリスナーの反応が良く、「じゃあ、毎月最終週で」とレギュラー企画に。録音の使い回しは安上がりだからでしょうが、昨年12月には1年間の“好評回”が1週間、再放送されました。
と、ここまで書いても、「そこでお前は何をしゃべってるんだ?」と、お思いでしょう。はい、分かりました。恥ずかしながら、ある回の放送内容をそのまま起こして以下に記載します。「♪」の部分は、紹介する曲が流れています。恐縮ですが、歌詞の再掲は著作権法に触れますので、よろしければCDなどで補ってお読みください。
◇
今日のコラムは、月イチ企画「この歌詞がすごい!」。今日は、竹内まりやさんの、あの名曲を取り上げます。
♪(音楽流れる)『マンハッタンキス』
まず、お聞きいただいたのは1992年のヒット曲『マンハッタンキス』です。
この歌、何がすごいって、最初の歌詞から「深い」んです。
「Don't disturb」、分かります? シティホテルとかで「朝、起こさないでほしいときにドアに掛ける札」ですよね。そう、この歌い出しで既にここがホテルの一室だと想像できます。
しかも続いて「閉ざされた部屋の中だけが、私になれる場所」って、最初のワンフレーズでもう、女性が置かれた立場は「閉ざされたもの」、一緒にいる人とは、人に言えない関係だと気付かされます。
そうすると、「Don't disturb」は、単にドアに掛ける札でなく、「邪魔しないで」という言葉本来の意味、この女性の思いでもあると分かるんです。ねぇ、深いでしょう。
でもね、私が一番ハッとした歌詞は、このフレーズ
「何もかも まるでなかったようにシャツを着る 愛しい背中 眺めるの」
――の「眺める」です。
ここまでの歌詞の流れからしたら、普通は「見つめる」です。「邪魔しないで」「愛しい」ですから。でも、「眺める」なんです。眺めるって、距離があって少し客観視している、どこか冷めた言葉ですよね。
で、何を感じるかと言うと、彼女はきっと、「この関係は長続きしない」と分かっているんだな、ということです。「眺める」の、たった一言で。
そしてその背中に、無言でこう語り掛けます。
「私より本当はもっと孤独な誰かが あなたの帰り待ってるわ」って。
「誰か」は、もうお分かりですよね。プライドですね。
でも、やっぱり強がりだから、一人残された部屋で彼女は呟きます。
「どうして愛してるだけじゃ満たされなくなる 愛されるまでは」と。
そして、曲は最後また「Don't disturb」で締めるんですが、その前にこう言います。「Till I hear you say you love me」――「あなたが愛していると言ってくれるまで」、「Don't disturb」誰も邪魔しないで……そう終わるんですね。
これを覚えておいて、次の曲をお願いします。
♪(音楽流れる)『駅』
はい。こちらのほうが有名ですね。『駅』です。この曲を聞いて涙したことがある方、結構いらっしゃるんじゃないですか。
私、実はこの『駅』という歌は『マンハッタンキス』のアンサーソングなんじゃないか? いや、曲が生まれた順番は逆なので、『駅』からさかのぼってマンハッタンキスが生まれたのかな、と私は思っていまして、後で説明しますが、これが見事につながるんですね。
冒頭は有名な歌詞です。
「見覚えのあるレインコート 黄昏の駅で胸が震えた」
この歌も、最初のワンフレーズで情景が浮かぶんですね。レインコートだから雨、それもおそらく、少し冷たい雨の日の、黄昏の駅です。
「はやい足取り まぎれもなく 昔愛してた あの人なのね」
って、もうここまでで、目の前に映像が広がりますよね。愛していたのに結ばれなかった人と偶然出会い、彼は彼女に気づかないまま通り過ぎていく……まるで映画です。
そうして、私が「この歌詞がすごい」と思ったのは、次のフレーズです。
「一つ隣の車両に乗り うつむく横顔見ていたら 思わず涙あふれてきそう 今になって、あなたの気持ち、初めてわかるの 痛いほど 私だけ愛してたことも」
この「私だけ愛してた」の部分でして、これは二つの解釈が成り立つんです。
一つは、私だけ「が」、つまり、やっぱり自分は愛されていなかった――という解釈。
もう一つは、私だけ「を」、つまり、彼は別の人の元へ戻ったけれど、本当に愛していたのは私だった――という解釈。
歌詞を「私だけ」、で切ったことで、二つの解釈が生まれるんですが、私は後の方だと思いますし、そうすると「マンハッタンキス」とつながるんです。
さっき言いましたよね。マンハッタンキスは「Till I hear you say you love me」「Don't disturb」――「あなたが愛していると言ってくれるまで、誰も邪魔しないで」で終るんですが、もし、彼からその言葉を聞く前に別れが来たとしたら……。それから2年後、駅で出会った彼が、寂しそうにうつむいている横顔を見たとしたら……
ねっ、一つの物語になるでしょう。
彼女は「あの人は、本当は私だけを愛してくれていたんだ」「だから今、寂しそうなんだ」と、そう思いたいだけかもしれないけれど、確かにそう思って、結ばれなかった恋にピリオドを打てたんだろうと、そんな風に読んだんですね。
それが正しいかどうかは別にして、私はこうして、同じシンガーソングライターの曲をつなげて、一つの映画みたいに楽しむことがあります。
ちなみに、同じ竹内まりやさんの『純愛ラプソディー』は、『マンハッタンキス』の昼間バージョンとして聞くこともできます。
ま、歌にはそういう楽しみ方もあるということで、お時間あったら、ご紹介した3曲、続けて聞いてみてください。
◇
というような解釈を、原稿を書いている2月時点で13回、計二十数曲について話してきました。すみません。
言い訳めきますが、台本は決して仕事中に書いているわけではなく、週末に曲を選んで、放送前夜に(時に未明までかけて)仕上げています。費やす時間を考えると、ギャラは時給1000円にも満たないのですが、「楽しみにしているリスナーがいる」という担当プロデューサーの声に励まされながら、細々と続けています。
放送エリアは北部九州ですが、パソコンやスマホアプリの「radiko(ラジコ)」でもお聞きいただけます。「櫻井浩二インサイト」で検索できますので、もしよろしければ。私以外にも番組には日替わりで、元外信部長の飯田和郎さん、元社会部の神戸金史君、論説委員の元村有希子さんも出演しています。
(潟永 秀一郎)
潟永秀一郎さんは1985年入社。福岡本部報道部、生活報道部の各デスク、長崎支局長、サンデー毎日編集長など務め、2020年3月選択定年。2020年4月から東日印刷。新規事業部門のマネージャー兼務で、東日印刷子会社「トライ」の代表取締役。
※ラジコは https://www.radiko.jp
2022年2月24日
毎日フォント「M字」の生みの親・小塚昌彦さん

毎日新聞の基本活字をデザインした小塚昌彦さん(93歳)の元気な写真を創刊150年の特集紙面で拝見した。定年退職後、モリサワのタイプデザインディレクターを務めたことからか、「150周年おめでとうございます」を各種ロゴでレイアウトしたモリサワの祝賀広告と見開き特集になった。
小塚さんの功績は、1983年1月1日から実施した「M字」の開発だ。タテ2.58㍉、横3.07㍉。従来より26.9%拡大、1段の字数は15字から13字、1㌻86行(それまで96行)とした。紙面がすっきりして読みやすくなったと好評だった。

小塚さんは1947年入社。毎日書体をつくった元祖は村瀬錦司さん(1892-1962)で、37歳も年上だった。技術部副部長・古川恒さん(新聞印刷ガイドブック発行で他社の技術者とともに1962年度日本新聞協会賞技術部門受賞)の人選で、加賀谷薫さん(48年入社)らと有楽町の旧館4階の「種字研究室」に入れられた。
デジタル時代。横書きが主流となって「横組みに適した新しい書体が必要だ」と指摘する。「ひらがなはもともと前後の文字がつながった縦書きの連綿体として生まれたため、ぶつぎりにしてヨコに並べても良い書体は生まれない」と語っている。
著書に『ぼくのつくった書体の話 : 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(2013年12月、グラフィック社)。



この特集で、東京本社編集編成局に「フォント課」があるのを初めて知った。現在、書体デザインを専門に学んだ中林透さん(61歳)吉田千恵さん(29歳)木村文香さん(25歳)の社員3人が在籍。紙面で使用する書体の作成・管理のほか、社外向けの書体も作成している、とあった。
(堤 哲)
下段の写真は、三省堂HPの雪朱里さんの連載《「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン》から借用しました。
2022年1月31日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑳ ある新聞記者の歩み19 数字相手の仕事ながら、ハチャメチャな先輩やら少年自衛官出身の型破りな後輩やらに囲まれて 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文 MENJO,Satoshi
4年半の政治部生活を終えた佐々木さんは大蔵省配属となります。現在の財務省です。強烈な個性の先輩・後輩に囲まれてけっこうおもしろい日々だったと言います。
目次
◇政治部にいても先は明るくないよと言われ・・・
◇ハチャメチャながらユニークな発想のキャップのもとで
◇少年自衛官出身など若手もユニーク揃い
◇ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代
◇財政が厳しくなる時期、親しみやすい大蔵大臣ミッチー
◇グリーンカード構想の登場と挫折
◇政治部にいても先は明るくないよと言われ・・・
Q.1981(昭和56)年に経済部に戻って大蔵省記者クラブに所属ですね。

古巣に戻ってホッとしたというのが、正直な感想かな。経済部長がその時、東京の新聞業界の経済部関係では有名だった歌川令三さん、とくに兜町関係では野村證券の社長、会長をやった田淵節也さんなんかにはすごく食い込んでいました。いずれ、社長になるとも言われていました。その後、編集局長にもなり取締役だった時、当時の政治部出身の社長に辞表をたたきつけて辞めた人です。
その後、リクルート事件で名前が挙がり、週刊紙などで追い回されたりします。辞めた後、中曽根元首相の世界平和研究所主任研究員をへて、日本財団で常務理事までやります。コロナ渦までは3ヶ月に1度ぐらい虎ノ門で昔の仲間、数人で飲み会をやっていました。僕は割とこの人が好きで、原稿がシャープで尊敬していました。社内では歌川さんと仲の良いグループのことを“歌川派”と密かに呼ばれていました。当方もそのメンバーの一人と目されていました。
通常は政治部と経済部の交換人事は1、2年なんですが、僕の4年半もいるというのはかなり異例で、歌川部長にある時呼ばれて「オマエどうするんだ。政治部にはオマエと40年入社同期の優秀な人材が三人はいる。部長の目はないな。経済部は40年入社は、キミ一人。黙っていても部長になれるぞ!」と。そう言われると戻らざるを得ませんよね(笑)。
◇ハチャメチャながらユニークな発想のキャップのもとで
それとちょうど財研(財政研究会-大蔵省記者クラブの通称)のキャップが寺村荘治さんといって、歌川さんの後任でワシントンの特派員から帰って来たばかりのハチャメチャの記者でしたから、本当に伸び伸び仕事が出来ました。前に私がイギリスに語学留学した際、帰りに彼のワシントンの家に寄った話をしましたよね。郊外の湖の脇の大邸宅にいて「この池はオレの家のもののようなもんだからボートは自由に乗っていいよ」、「米政府の高官を呼んでパーティーをするのにこのくらいの家でないと、日本の沽券にかかわる」と。
とにかくスケールの大きな人でした。事実、東郷文彦駐米大使が1980年帰任の際、各社のワシントン特派員が集い、この寺村邸で送別会をやってくれたという思い出の記を東郷さんが残されているようです。これを読んだ日経の福田番を政治部で一緒にやった伊奈久喜記者が、20年後にワシントン特派員になるのですが、「大使の送別会を記者の自宅でやるなんて、今ではありえない」と日本記者クラブの会報に記しています。
「(こんな大豪邸、事実上の倒産をした)毎日新聞の給料で良くできますね」、恐る恐る聞くと「なに、銀行から借りるときは借りないと・・・。」と笑い飛ばしていました。おやじさんは戦前、毎日新聞のベルリン特派員だった人です。でも財研キャップ在任中、当時、博報堂の社長だった近藤道生(元国税庁長官)さんにアッという間にスカウトされ、ビジネス界に転身、毎日を辞めて米国の同社の米政府との橋渡し役のような存在になり、ワシントンに戻りました。
日本に帰り熱海の高台に別荘を作り、新築披露の時に招待されましたが、富士山、初島、伊豆大島を一望に見渡す凄いところです。熱海の山崩れ事故の時、あの別荘のこと思い出しましたよ。その時も「この別荘スゴイですね、高かったでしょう」と聞くと、「なに、購入費は銀行から借りたんだ」とケロッとしてました。その半年後かな、その別荘で大動脈解離で大量出血して、突然亡くなりました。僕が中部本社代表の頃(1998年~2000年)で、熱海の家に弔問に駆け付けましたが、60才に届いていなかったんじゃないかなあ。
Q.ハチャメチャってどんな感じなんですか?
とにかく抜かれても文句は言わない。デスクからの問い合わせにも、「抜かれたのは俺の責任」と部下の記者をかばってくれる。他社がベタ記事で書いているのを、経済面トップ、一面記事に仕上げると「よくやった!」ほめてくれました。そうなると頑張るんですよね。夜回りもどんどんするし、一面トップの特ダネも出てきます。時々息抜きに次官、主計局長なんかの面会のアポの権限を持っている秘書嬢と六本木のゲイバーに連れて行ってくれたり、取材しやすくする環境を作ってくれるんですね。
原稿の発想がすごかった。大蔵省の原稿って、小難しい数字だけの無味乾燥な原稿という感じですよね。「同じ人間が国の予算を作っているんだ。どういう人間が作っているのか連載をしよう」といって、予算編成を担当している主計局の主計官全員を一人ずつ取り上げる「主計官物語」を十数回連載したことがあります。連載終了後、赤坂の小料理屋で、登場した霞が関の官僚世界のエリート中のエリート、主計官全員を招いて打ち上げ会をしました。恐らく主計官の“総揚げ”ってマスコミでは前例がなかったんじゃないかな。
取り上げた主計官の中には、有名な“10年に一度の大物次官”といわれた斎藤次郎さんがいました。通称“デンスケ”といわれていた斎藤さんは、細川政権で小沢一郎さんと組んで「国民福祉税」構想をぶち上げる黒幕でした。首藤君は彼に食い込んでいたなあ。そのほか、篠沢恭助、小川是さんなど次官、長官、局長を輩出しています。
◇少年自衛官出身など若手もユニーク揃い
僕はサブキャップという役で、その下に若手が二~三人いるんです。この若手もユニークな人材がそろって楽しかったなあ。一人は愛媛出身の中卒で少年海上自衛官になり、大学検定試験で早稲田大に入って記者になったという西部本社の経済部から転勤してきた異色の首藤宣弘君(しゅとうのりひろ、のち「エコノミスト編集長」)、それと東大経済学部卒で原稿のうまいひょうひょうとした潮田道夫君(のち論説委員長)。少し遅れて三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の役員の御曹司のおっとりとした藤井晨君、こんな人たちが集まっているんだから、面白くないはずがない。
Q.少年自衛官出身の新聞記者というのもユニークですね。

ホント、海上自衛隊の駆逐艦に乗ってウラジオストックやマニラに行ったことある―なんて言っていたなあ。四国の松山の警察官の息子で酒を飲むと「わしゃ、佐々木さんみたいなひ弱な人間とは違いまっせ」とネクタイを肩に回しながら言われたもんです。まあ、酒の強いこと、強いこと、参ったなあ。でも釣りが好きで本も出しています。証券業界担当の兜町時代、“独眼竜”と異名を取った立花証券社長の石井久さんなどに食い込んで、その独特な相場観で連戦連勝の秘訣を連載、本にしたりしています。
首藤君は変わった人で電話取材の得意な人でした。昨年残念ながら亡くなりましたが・・・。僕が財研に着任してあいさつ回りで庁内を回っていると、理財局国債課の課長補佐だったか、その後、財務官などを歴任、国際協力銀行の総裁になる渡辺博史さんから首藤君を一度連れてきてほしいと頼まれました。「毎日電話で30分は話しているんだけど顔を見たことないんですよ」といわれてビックリしたことがあります。財研新人のぼくが渡辺さんの所に彼を引っ張っていき、名刺交換をさせました(笑)。渡辺さんが「あなたがスドウさんですか!」といったのはおかしかったなあ(笑)。つまり、電話で首藤さんは毎回「シュトウです」と言っていたはずなんですが、先方は「スドウ」と聞いていたんですね。
◇ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代(略)
◇財政が厳しくなる時期、親しみやすい大蔵大臣ミッチー(略)
◇グリーンカード構想の登場と挫折
Q.「増税なき財政再建」というスローガンがあったことは記憶していますが。
そうそう僕が財研に行った年の予算編成のスローガンが、「増税なき財政再建」というスローガンでした。それで取材のテーマは、一番の問題はグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)の実施でしたね。利子・配当所得への課税-証券会社や郵貯などの匿名口座を、どうやって捕捉するかというのが課題でした。そこに金持ちのお金がものすごく流れ込んでるわけです。マル優制度で300万円までだったら利子に税金がかからなかったですから。
大蔵省としては最終的な狙いは直接税と間接税の比率、いわゆる直間比率の是正にあったと思います。サラリーマンの源泉徴収システムに安住して、税収の70%強が直接税依存型の税制になっているのを、薄く広く税収を上げる間接税の一般消費税の導入をもくろんで財政再建を目指していました。そのまえに“金持ち優遇”のマル優制度を是正、公平性を担保して間接税・一般消費税を導入して、直間比率を是正しようという深謀遠慮があったと思います。当時、お金持ちは、株・債券、不動産売買のもうけなどを匿名で郵貯や、証券会社などに口座を作らせていたんですね、グリーンカードはそこを狙い撃ちして背番号をつけて口座を全部捕捉して課税しようという狙いでした。そうやって網をかぶせて行こうというはずだったんです。
ところがそのもくろみはもろくも崩れます。いったいどうして、誰がつぶしたのか?続きは次回とさせてください。
2022年1月11日
「余白」(水道橋)よいとこ一度はおいで――元労組本部書記長、亀山久雄さん(76)が呼んでます

JR水道橋駅から徒歩2分の所にキッチン付きレンタルスペース「余白」がある。
昼は弁当や総菜を販売、夜はイベントや飲み会が行われるコミュニティスペースである。弁当は、旬の野菜たっぷり、無農薬、無化学調味料、手づくりを基本に、日替わりで5種類ほどを作る。飽きのこない自然な味わいのお弁当に、日参してくださる常連さんも。夜はグループ貸し切りでの宴会が多い。毎日新聞OBらは編集、営業、現業出身に関わりなく言いたい放題。NPOで活動しているグループや日本酒を楽しむ会、同窓会などの利用と、ほかの客に気遣うことなく楽しめるのが人気のようだ。職場やイベントのケータリングにも応じている(費用は要相談 電話03-6261-7645)。

ヤクルトスワローズ優勝祝賀会「余白」の運営は連れ合いが代表を務める編集プロダクション「鐵五郎企画」が行っている=写真右。私も時々手伝っているが、有償ボランティアスタッフ募集中!
昨年、カミさんの父逝去のため年賀状はお送りしませんでした。その代わりに私が作成した川柳風「21年喜怒哀楽」を。暇がありましたらご笑読ください。
(亀山久雄)
※亀山久雄さんは、印刷部輪転課~労組本部書記長~出版局~工程センター
2021 喜・怒・哀・楽



2021年1月7日
元大阪本社運動部長、北村弘一さん(57)の「東京坂道散歩」
地方出身の私がこう切り出すのは憚られるのですが、東京は坂の街です。都心のうち、山の手と呼ばれるエリアは、武蔵野から伸びる舌状台地の先端にあたり、台地の間には石神井川、小石川、神田川、目黒川といった谷がある。これだけ小刻みな谷がある土地に、江戸時代以降、世界でも屈指の大都市を築き上げたわけだから、無数の坂があるわけです。
毎日新聞社を退職した2018年春に大阪から東京・世田谷に転居しましたが、その後のコロナ禍もあり、休日などに都心に出かけるのは控えてきました。この間に、タモリさんの名著「タモリのTOKYO坂道美学入門」(2004年)をはじめ、日本坂道学会会長の山野勝さんの「江戸の坂」(2006年)を読み、東京の坂道に対する愛情を膨らませてきました。

コロナ禍が一時収まった昨年11月に思い立って地下鉄赤坂駅から六本木、麻布十番方面に歩いてみると、勝海舟の旧宅があった本氷川坂、忠臣蔵「南部坂雪の別れ」の舞台の南部坂、六本木一丁目あたりの高層ビルに残された道源寺坂に出会い、その魅力に取りつかれました。
現在の介護の仕事は平日の休みが多いこともあり、家族を仕事や学校に送り出してから、文京、港、新宿、渋谷、目黒区あたりの坂道を一度に10キロあたり歩いています。年末からはフェイスブックで「東京坂道散歩」のお題で公開を始めました。
東京という街はとかく大規模開発などの変貌がクローズアップされがちですが、実は幹線道路から少し内側に入ってみただけで、古地図そのままの区割り、史跡・名跡が温存されていることに気づかされます。坂道歩きの醍醐味はまさにここにあります。
ちなみにこれまでに歩いた坂道の個人的なベスト3は、西郷従道旧邸があった西郷山近くで、坂上の庚申塔が趣深い別所坂(目黒区)、ロシア大使館西側から麻布十番方面に下っていく狸穴坂(港区)、TBS裏手にあり、雷電為右衛門の墓がある報土寺の築地塀が美しい三分坂(港区)。
タモリさんによると、坂道の鑑賞ポイントは(1)勾配の度合い(2)湾曲の仕方(3)周囲の江戸の風情(4)名前の由緒・由来――だとか。個人的には、武家屋敷など往年の様子を想像できる、視界が開けていて遠くまで見渡せる、坂も大好きで、いつか自分なりの尺度を作っていきたいな、などとも考えています。
※北村弘一(きたむら・こういち)さん 1988年入社。東京社会部、浦和支局、東京運動部、秋田支局次長、北海道報道部副部長、鳥取支局長などを経て、大阪運動部長、大阪編集局編集委員。2018年選択定年退職。現在は介護の国家資格取得に向け、都内の施設に勤務。滋賀県出身、57歳。
北村弘一さんのフェイスブック
https://www.facebook.com/profile.php?id=100001984002949
2021年1月5日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑲ ある新聞記者の歩み18 誰も首相になると思ってなかった中曽根康弘の実像(下)それでも首相になれた秘密とは? 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はhttps://note.com/smenjo/m/m949966550484

第18回は、中曽根康弘さんを取り上げた後半です。
目次
◇遊説先で記者をたたき起こして・・・
◇「カーライルって知ってるか?」
◇勉強家だが“ドーナツタイプ”
◇聴衆が涙を流す中曽根演説
◇大志と時の運で首相に
◇政治部での4年半を振り返って
◇経済部に戻って気をつけたこと
◇遊説先で記者をたたき起こして・・・
Q.もう少し中曽根さんのことについて教えてください。
選挙になると遊説で各地を回る政治家に同行取材をします。どこの駅だったか、駅長室で列車を待っているとき、寒い時期でストーブに当たりながら僕が経済部出身という事で、経済人の人となりなんかをサシで聞かれたことがあります。それがトップ経済人ではなく、正統派の大手企業の経済界の人たちには嫌われている“政商”、小佐野賢治(国際興業会長)、萩原吉太郎(北海道炭鉱汽船会長)なんて人の評判を聞くんですが、ぼくも会ったことありませんし、答えられなくて困りました。こんなところからも、当時、中曽根さんの経済界での主流派との付き合いが薄かったことを感じ取りましたね。
面白い話があります。私は行かなかったのですが、中曽根さんが北陸地方への遊説に行ったときのことです。毎日の松田喬和君(のち特別編集委員)と、のちに産経の社長・会長になる熊坂隆光記者、日経の常務、テレビ東京メディアネット社長などを歴任した岡崎守恭記者の3人が同行したんです。中曽根さんと同じ旅館で寝ていたところに、夜明け頃、彼らの部屋の障子を開けて中曽根さんが入ってきて「オイ起きろ!大平が死んだ」と言ったというのです。中曽根さんは重要なニュースを自分から記者に漏らすような政治家ではない。さすがにこの時は動揺したんでしょうね。「まだ本社に連絡するなよ」とくぎを刺したといいいますが、3人は中曽根さんが去ったのを確かめて、その頃携帯電話なんてありませんから3人で電話の取り合いになり(笑)、部屋や帳場の電話で本社に連絡、この連絡が政治部の中ではいちばん早かったといいます。この話は同僚の松田君から直接聞きましたが、日経の岡崎守恭記者の「自民党秘史」(講談社現代新書)にも詳しく書いてあります。
注)大平首相は総選挙中の1980(昭和55)年6月12日急死した。70歳。
◇「カーライルって知ってるか?」
Q.中曽根さんのエピソードで印象に残ることはなんですか?
印象に残るのは、特に吉田茂を評価していたことですね。遊説で羽田から飛行機で出かける際、中曽根さんの車に同乗し高速道路を走っていた時のことだったと思います。「吉田茂はすごい人だ。日本の政治家ではじめて衣裳が政治的発信力を持つということを気づいた人だ」と言うのです。吉田茂は白足袋にソフト帽に葉巻がトレードマークでした。そういうように“衣裳”の特徴がはっきりしているほうが漫画家も描きやすいし、政治家として発信力があると言ってました。中曽根さんはぼくに「カーライルって知ってるか」と聞くんです。知らないと答えると、軽蔑したような顔をして「衣裳哲学っていうのがあるんだよ」というわけです。つまり吉田茂はカーライルの「衣裳哲学」を実践しているんだ―と。
あと中曽根さんで思い出すのは、車の中でFEN(駐留軍放送)をよく聴いてましたねえ。実際、ニクソン、フォード大統領の特別補佐官で日本の頭越しに“米中国交回復”の秘密交渉に成功したヘンリー・キッシンジャーなんかとは英語でやりとりできてました。政治家としてはよく勉強しているというイメージでしたね。

◇勉強家だが“ドーナツタイプ”
でも、こういう中で中曽根さんはすごく勉強してました。「いつか首相の座が回ってくるかもしれない」という気持ちがあったんでしょうね。アメリカの国務長官キッシンジャーの論文を原文で読んで評価したり、政治学・安全保障論の保守派の論客だった東大教授・佐藤誠三郎、国際政治学の京大教授・高坂正堯なんていう、当時知識人にも評判の良かった著名で良質な政治学の学者などとの勉強会もやっていたようです。
さらに浅利慶太などという劇団四季を主宰する文化人とも付き合い、自分のウィングを広げようとしていました。カラオケでも当時はやりの歌をうたいましたね。特に「神田川」なんて売れ始めたばかりの、南こうせつ・かぐや姫のフォークを歌ったのが記憶に残っています。だけど〽ただ あなたのやさしが こわかった〽なんて唄われるとゾッとしなかったな―(笑)
Q.中曽根さんって、とっつきにくいとか、つき合いにくいとかいうことは?
それはありました。担当記者で本当に肝胆相照らす関係になる記者なんて、あまりなかったんじゃないかなあ。自分の知性の殻をキチンと持っていて、他人にはそこに入らせない―という面があったと思います。読売新聞のドンの渡辺恒雄さん、朝日の三浦甲子二さん(元テレビ朝日専務)、毎日の小池唯夫さん(のちに毎日新聞社長)なんかはその中に入り込んだ記者だと思うし、尊敬しますね。
以前ぼくは政治家には“ドーナツ”タイプと“あんパン”タイプがあるといいましたが、 中曽根さんは完全にドーナツタイプですね。つまりあんパンは外にはあんこ(人気)がなくて、中に入れば入るほどあんこ、つまり身近な官僚・政治家などに人気がある。福田赳夫首相がその典型。世論的には「なんだあのシミだらけの老人くさいの」といわれる。ドーナツ型は中にはあんこ(人気)がない。つまり身近な人には人気がないけど、外に出ていくほど人気がある政治家。昔の美濃部亮吉都知事がその典型。中曽根さんはホント、東京からはなれて地方などにいくと人気がありましたね。でも霞が関の中央官僚、他派の政治家などには、“キザ”、“スタンドプレー”が多い―と嫌われていましたね。
◇聴衆が涙を流す中曽根演説
Q.衣服哲学に関してですが、中曽根さん自身は何か実践されていたんですか?
それについてはびっくりしたことがあります。テレビのインタビューを受けるとき、慣れないわれわれだったらインタビューアーの方を見て話しますよね。ところが、中曽根さんは始まった瞬間からテレビカメラの真正面を向いて話すんですよ。その変わり身の早さには感心しましたし、驚きました。あとで聞いたことがあります。「どうしてテレビカメラ見てしゃべるんですか?」と。すると劇団四季の浅利慶太さんから指導を受けたというのですね。「インタビューを受ける際は、横向きだと視聴者に訴える力が無いのでカメラを見てしゃべりなさい」と言われたそうです。なるほどねえーと感心しましたよ。
中曽根さんは、政治における言葉の強さをよく知っている人といえるんではないでしょうか。「政治家は演説がうまくなければダメだ」。ボクもお世話になった岩見隆夫さん(故人。元毎日新聞政治部記者、論説委員。コラム「近聞遠見」筆者)もそういうことを書いてましたね。今は演説のうまい政治家っていうのはいるのかなあ。大衆にメリハリきかせて引き込んでいく力というのは、修羅場を経てきて何回もそういう体験を踏んできているということだと思います。
同僚の松田喬和記者のオヤジさんは高崎の出身で五・一五事件とか二・二六事件に関係した戦前の右翼活動家でした。戦後、戦地から帰国した中曽根さんが選挙区内を自転車で回った選挙の時から、応援しているんです。自宅が中曽根さんの選挙事務所と近いところにありました。松田記者の家に行くと、五・一五事件に参加した三上卓(元海軍軍人)の色紙が飾ってあったことを思い出します。中曽根さんに演説の仕方などを伝授したと思います。そういう意味では、松田君は中曽根さんにとっては恩人の息子だから頭があがらない。
◇大志と時の運で首相に
Q.中曽根さんが首相になるのは、佐々木さんが政治部を離れて経済部に戻ってからですね。大蔵省記者クラブに配属されたのが1981(昭和56)年7月で、中曽根内閣成立が翌82年11月と年表にあります。当時、感じたことや、何か思い出すことはありますか?
やはり政治家って野心、言い換えれば“大志”を持つこと、時の運を上手く使う事、この二つがホントに必要と思いました。だって大平さんが倒れて鈴木善幸内閣になって、中曽根さんは、通産相、運輸相や幹事長を経験している派閥の長としてはある意味でありえない、初入閣の新人のポストと見られていた行政管理庁長官になるわけですよ。派閥内部からは「中曽根派をバカにしている。受けるべきではないという」という声が出たことも確かです。でもそれが総理へのスプリングボードになるわけです。そのころ中曽根さんに会うと、「今は行革三昧!政局には興味ないよ!」といって煙に巻いていました。確かに戦後三十年経って制度疲労を起こしていた、国鉄、電電公社などの分割民営化などの戦後最大の行政改革に手を付け、着々と“総理への道”を準備して行くんですね。財界の経団連会長だった土光敏夫さん、旧陸軍の参謀で伊藤忠商事会長の瀬島隆三さんなどを使って、作戦を練り上げ実績を上げていきます。ポスト鈴木首相のNO1にのし上がるんですね。
Q.中曽根さんというと日本で初めて大統領型の総理といわれていますが、振り付けはだれかいるんですか。
その一人は劇団四季の浅利慶太さんだったと思います。世論の動きなどを捉えて浅利慶太さんなどの振り付けで、戦後初の大統領型の首相とイメージを確立していきます。やはり外交関係で世界の首脳と、サシで渡り合うというイメージを作り出したのが大きかったのではないですかね。特に1983年5月のウイリアムズバーグのサミットで、レーガン大統領とサッチャー英国首相の間に割り込んで談笑する写真。世界における日本のポジションを国民に実感させたんではないでしょうか。中曽根さんがそれまで培ってきた英語力でできたことで、今までのFEN放送を聞いてきた勉強が実った瞬間だったと思いましたね。
そして側近の官房長官に内務官僚の5年先輩の後藤田正晴氏を起用した。政治的にはこの起用が成功の一番の理由ではないかと思いますね。靖国神社参拝、防衛費の予算の1%突破など、タカ派のイメージの強い中曽根さんとしては、1980~88年のイラン・イラク戦争での海上封鎖に自衛隊の派遣を、米軍から要請されたことに対し前向きだったと思います。しかしタカ派ともハト派とも言われた後藤田官房長官は、自らの台湾での5年間の陸軍士官としての植民地・戦争体験を踏まえて「憲法9条のもと、海外の紛争地帯に自衛隊は送れない」と中曾根さんをいさめてやめさせた。この辺の緩急自在な手法が5年間の長期政権につながったのではないでしょうかね。
◇政治部での4年半を振り返って
Q.経済部記者から政治部に行かれて後悔はありませんでしたか?
それは全然ありませんね。むしろ記者人生の幅を広げてくれたことに感謝しています。ただ経済部における当方のライフワークになった、エネルギー問題のようなテーマを持てなかったことは、後悔が残りますね。政治部が当時党内少数派だった三木内閣誕生(1974(昭和49)年)の政局の裏面を描いた「政変」、岩見隆夫デスクが中心となってまとめられたもので、レベルが高いものだったと思います。岩見さんはこの連載で政治記者としてのポジションを不動なものにしたと思います。
ただ安保問題―日米安全保障問題はキチンとやりたかったですね。ぼくが経済部に戻る寸前の5月に、「ライシャワー元大使の核持ち込み報道」で政治部は新聞協会賞をもらう大スクープを出しました。これは後に社長になる斎藤明さんがキャップになり、「安保と非核-灰色の領域」という長期企画の中で生まれたものでした。
日米安保問題は今もって日本のビビットな問題で、米・中・露・韓と渡り合わなくてはならない日本の基本問題をキチンと押さえられなかったのは今もって残念だったと思います。当時、何となく僕も憧れて「安保問題を理解するには、英語が出来なくては・・・」と思い込んで、女房の知り合いの吉祥寺の成蹊学園前のカトリック女子修道院「ナミュール・ノートルダム修道院」の、アメリカ・ボストン出身のシスター・マリーに英語を毎週土曜日、習いに行っていました。でもモノになりませんでしたね(笑)。
◇経済部に戻って気をつけたこと(略)
2021年12月23日
元社会部長、清水光雄さんが学生時代の仲間と『団塊世代の句集』を出した!
今月(2021年12月)、学生時代から付き合いのある連中を中心に27年間続けてきた温泉句会をまとめた句集『酒宴の後、句会をなす~団塊世代の「温泉と俳句の会」全句集』を(株)ウェイツ社から刊行しました。
頭割りで費用を持ち寄った自費出版です。メンバーの多くは毎日新聞と何らかの形で交差しており、句集の紹介と同時に彼らと毎日新聞とのつながりも書いてみたいと思います。

≪句会メンバーは14人≫
メンバーは故人を含め14人。栃木弁でテレビ旅番組のMCをやって有名だった作家、故立松和平さん(通称ワッペイさん)、1979年の三菱銀行人質事件を題材にした映画『TATTOO<刺青>あり』で映画界に衝撃を与え、最近では『痛くない死に方』を作った映画監督の高橋伴明さん、2007年参院選比例区で45万票と自民党内2位の票を集めたJA全中(全国農業協同組合中央会)出身の参院議員の山田俊男さん、元連合社会政策局長で、今流行の「ふるさと回帰」運動の仕掛け人、認定NPO法人ふるさと回帰支援センター理事長の高橋公さん(通称ハムちゃん)、小池知事の知恵袋として、都政改革に招請された元環境庁審議官で弁護士の小島敏郎さんら多士済々です。
中心メンバーの多くは団塊世代であり、句集には「俳句」のほか、各人のプロフィール、或いはこれまでの生き方の小文「思い出の記」も収容し、「団塊世代の句集」と名付けました。
句会の始まりは、1994年です。リーダーは映像制作会社オフィスボウ社長で、テレビ朝日のキャスターも務めた故彦由常宏さん(通称彦さん)。彼は、1963年の早稲田大学費値上げ闘争時の全学共闘会議政経学部委員長。69年の大学闘争時には早稲田大でノンセクト集団「反戦連合」を率いました。開業医の鈴木基司さん(通称基司さん)、ハムちゃん、ワッペイさん、そして私もそのころからの付き合いです。
85年に会社を設立、アフガン戦争、ベルリンの壁崩壊、核禁止運動等をディレクターとしてカメラマンと共に取材、世界を飛び回っていました。社員が育ってからは、現場取材は彼らに任せ、農業関係のイベントを手掛けたり、河合塾と提携し、オンライン講義の模索を始めました。我々は学生時代の縁で、仕事と関係なく、雑談のためにだけに彼の会社に出入りしていました。
この94年ころ、彼は「酒飲みすぎ」で体調不良に陥っていました。しかし、幼少のころから剣道で鍛えた頑健な肉体には絶対の自信を持っており、医者嫌いも重なって、健康診断さえ受け付けない状況でした。
一の子分であるハムちゃんが心配し、高崎市に病院を持つ基司さんのところで健診を受けさせるべく、皆との温泉旅行を企画したのです。
旅館は宝川沿いに延べ850㎡(プロバスケットのBリーグ、千葉ジェッツのホーム、船橋メインアリーナの3分の1個分)もの露天風呂を持つ群馬県宝川温泉汪泉閣。夕食後、ハムちゃんが「俳句でも」と言い出し、ワッペイさんが「酒宴の後、句会をなす」と筆で前口上を書き、始まりました。夕食後に出た岩魚の骨酒に感激したハムちゃんが「大杯に/岩魚寝ている/春の宵」と詠み、大賞を獲得、気を好くします。彼は温泉旅行の企画者、いわば主宰者なので、以来、温泉旅行と句会はセットになりました。
彦さんは「春の夜や/日光の坂/トロツキー」等豪快な句を詠んでいましたが、「われ大臣/天の花火の/命かな」の句を残し、97年2月に食道がんで世を去りました。彦さんの大学先輩で句会の長老、三島浩司さん(社会派で著名だった三原橋法律事務所で弁護士として活躍しました)は句集の小文で、キャスター時代の彦さんに触れています。
『テレビ画面に映し出された君。顔は引きつり、声は上ずり、身体全体は強張って、まるで「失語症」に陥ったような君がそこにはいた。あのような「業界」で人を押しのけて生き抜いていくには、自らを「商品」として平然と売り込み、泳ぎ渡っていく相当の覚悟が要求されたことだろう。元来、剣一筋に生きてきた剣士としての君は(中略)内面は著しく傷つけられ、やがて棲みついたがん細胞は、酒を栄養分にして、増殖する事になった』と書いています。
彦さんの逝去時、私は千葉支局長で夕刊コラム「憂楽帳」を担当していました。「さらば彦さん」のタイトルでその死を取り上げ、「幽明境を異にしても、友は愛した者たちの心の中に生きる」と結びました。
彦さんは元来新聞記者志望で、早稲田にも彼の受験時には、まだあった政経学部新聞学科に入学しています。学生運動のリーダーだった責任を取って大学を中退した後も、新聞の役割には関心を示し、オフィスボウ時代、戦時に戦争をあおり、当局の報道統制に従った新聞を批判したテレビドラマ『新聞が死んだ日』にプロデューサーの一人として加わったこともありました。
キャスターの彦さん像を取り上げた三島さんもまた、がん手術で胃を全摘しています。「斗酒なお辞せず」派だったのに、句会では「酔生夢死」状態。しかし、酔うまでは中国古典に支えられた該博な知識を披露し、学ぶことが多いのです。酒を控えると「われもまだ/熟す間も無き/寒卵」「今朝もまた/生きながらえて/年の暮れ」等名句を連発します。
私が社会部長時代、彼がオウム裁判の弁護団に加わったことがありました。担当記者を紹介し、記者は三島宅を夜討ち朝駆けの結果、いくつかの特ダネをものにしました。後で経過を聞くと、三島さんはヒントをくれるだけで、担当記者が当局に裏どりして書いたものでした。弁護士としての守秘義務の矜持を見た思いでした。
彦さんの死後も句会は続きました。ワッペイさんはNHKの俳句番組にレギュラー出演するようになっていました。この句会でも大いなる自負はあったようですが、選句となると得票は余り伸びないことがよくありました。その模様を伴明さんは句集に『(彼は)文学者の割には打率が低かった。俳句と小説は別物という割り切りもあろうかと思うが、それにしてもということが多かった。「お前ら、文学が全然わかっていないんだよ!」。引き攣った顔でふてくされた顔を思い出すたび笑えて来る』と活写しています。
ただ、今になって句集を読み返してみると「山燃えて/ひとつひとつの/もみじかな」「山門を/くぐってそこに/柿ひとつ」「短夜を/沈めて青し/オホーツク」等、作家らしく豊富なボキャブラリーを駆使し、風景を切り取っています。
その彼もまた、2010年に逝去。皆には秘していましたが、長く心臓を患っていたようです。最初に手術した年の句会の発句「命あり/今年の桜/身に染みて」(2004年の句)が印象的です。
ワッペイさんは毎日新聞やサンデー毎日の連載などで我が社に貢献してくれました。私も社会部デスク時代の1993年、東京の「今」を文と写真で綴る連載を企画し、彼に執筆を依頼しました。この頃、彼はテレビに度々登場し、“時代の寵児”の趣があり、忙しい日々を送っていたのに、「清水の頼みなら」と二つ返事で引きうけてくれました。『東京楽苦園生活』のタイトルも彼が付けました。初回は『夕焼けとんび』など三橋美智也の望郷の歌の歌詞をいくつかひき、東京が持つ磁場の強さが地方を衰退に追い込んでいる悲しみを書き、「地方の良いものはすべて東京に吸収されてしまった」としました。地方から東京の大学に出て、なおも東京で働く多くの団塊世代の胸にキュンとくる話で滑り出し、連載は好調に進みました。
その93年の秋、ワッペイさんが雑誌『すばる』(集英社)に連載していた『光の雨』について、坂口弘死刑囚の手記を断りなく引用した「作品盗用疑惑事件」が降りかかりました。(NHKが裏どり取材もせずに報じた問題ですが、経緯の詳細は句集に譲ります)。
小説『光の雨』は1971年~72年に起きた連合赤軍事件、その中でも山岳ベースで「自己総括」の名のもとに同志12人を粛清したリンチ事件について、彼は「自分たち世代の責任として、文学にしたい」と取り組んだものでした。事件は彼が一切弁解をせず、雑誌に謝罪文を載せ連載を打ち切ることで告発側と和解しました。身近で見ていた我々は、この疑惑発覚で彼に仕事を依頼していた人間が次々と去っていくのを見せつけられました。テレビ朝日は早々と旅番組から彼を下すことを決め、出版社の集英社は初めから逃げ腰でした。“時代の寵児”を引きずり下ろすべく、世間から浴びせられる非難の嵐もまたすさまじいものがありました。
そしてわが毎日新聞。事件発覚翌日、私は社会部の朝刊番デスク、『東京楽苦園生活』の組み日でもありました。交番会議の席上、私に向かって「(疑惑問題は)大丈夫だよな」と担当交番が言いました。その一言で、掲載継続が決まりました。我が社の度量の広さを再認識しました。
その5年後の98年、ワッペイさんは稿を全く新たにした『光の雨』を完成させ、落とし前を付けました。その陰には事件当時、非難の嵐の中、「本当にお前が書きたいのなら、世間から何と言われようと、とにかく命がけで書くべきではないか」と励ました雑誌『新潮』編集長、坂本忠雄さんがいました。98年、原稿が出来上がり、3か月間の短期集中連載時には、校了直前の深夜まで表現をめぐって、ワッペイさん、担当編集者、坂本さんの3人が徹底的にやり合ったのだそうです。坂本さんは、ワッペイさんの追想集に「私は(彼を批判する)マスコミの風潮に単に反発したのではなく、作家は生涯に一度書き残しておかなければならない作品がある。連合赤軍事件の首謀者たちと同世代の彼にはこれを完成させる責務があるという一念から(執筆を)迫っただけである」と書いています。同じ活字文化の担い手として、誇るべき人もいるのだな、と思わされました。
さらに、それから3年後の2001年、今度は伴明さんが小説の映画化を実現してくれました。句会仲間の連帯感に私は胸を熱くしたものでした。
伴明さんの奥さんは、今なお美貌を誇る高橋惠子さんです。都内で開かれる句会には“サプライズ”で伴ってくることがあり、美人さんに出会える唯一の機会とメンバーの楽しみです。監督の句、「肩を抱き/銭湯帰りの/時雨道」は若き日の奥さんとの思い出か、はたまた…。東日本大震災後の句会では「五月雨の/瓦礫平野に/赤い傘」と映像作家としての鮮やかさを見せています。
≪農業・農政関係者も合流≫
メンバーには農業・農政関係者もいます。一人は有機野菜の産地直送の「大地を守る会」(現オイシックス・ラ・大地株式会社)の創設者で同社会長の藤田和芳さん(通称藤田大兄)。上智大新聞会で全共闘運動を闘い、青春の彷徨時代、サンデー毎日で有機農業を知り、その野菜を集めては団地で売り歩き、この道に入った人です。「大地を守る会」は元学生運動家で、加藤登紀子さんの主人だった藤本敏夫さんが会長を務め、有名でしたが、その下で藤田大兄は実務を支えていたのです。以来、今日まで50年間近く、この道一筋、今も現役で代表取締役会長です。我が秋田のお隣の県、岩手県水沢市出身。その持続性には同じ東北人として誇らしいものがあります。
連合の社会政策局長だったハムちゃんと「給食改善」政策会合で知り合い、我々との付き合いが始まり、句会の設立メンバーの一人でもあります。
「湯の谷で/鴨がつがいで/シャルウィダンス」「冬陽さす/隣の時計/二時を打つ」「花曇り/寝返り打てば/消える夢」等々句会の度に最優秀句&総合優勝者に選ばれています。ワッペイさんを送る句「またひとり/友乗せ逝きし/花いかだ」も忘れ難いものです。
もう一系統はJA全中出身の二人。一人は参院議員の山田さん。もう一人は全中時代、彼の部下で、今は遺跡の発掘というセカンドキャリアを生き、温泉旅行企画と句会の記録を一手に引き受ける森澤重雄さん。
二人は1987年に全中改革運動として、鉢巻き姿で拳を突き上げ、政府に米価のアップを迫るそれまでの「米価闘争」を「国民に理解される運動」にしようと画策しました。彦さんの会社がイベントを引き受け、「全都道府県の特産農産物を両国国技館の土俵に捧げる儀式とシンポジウム」を企画、「いのちの祭り」と命名し、準備に入りました。キャッチコピーは毎日新聞の名物「仲畑流万能川柳」の中畑貴志さん制作。そのコピー、「人間はアブナイものを作りすぎた。今 農業」は今も(今こそ)光り、覚えておられる方が多いかもしれません。
準備段階で、句会メンバーも“野次馬”として、議論に参加したものでした。イベント当日、全国から6~7千人が参加し、新聞・テレビにも多く取り上げられ(毎日新聞は社会面トップでした)、成功しました。全中という超保守団体が、国民の中に飛び込むという離れ業をやった訳です。
山田さんには毎日新聞はJA全中の広告出稿などで大いに世話になりました。
我々、編集局では海外取材は経費面でかなり厳しく制限されます。但し、スポンサーを見つけてきて、広告企画として紙面展開すれば、経費は瞬く間に出てきます。社会部の名物記者、佐藤健さん譲りの手法です。JA全農が卓球のスポンサーになって、石川佳純さんに賞品の米などを出して、ブランドイメージを高めるアレの、新聞バージョンです。私の専門分野の一つ、アマゾン等の南米企画で部下を出張させるのに、山田さんにお願いしたのは一度や二度ではありませんでした。
山田さんは参院選初出馬の折り、遊説中に飛び込みで句会に参加。「決意して/我も芽吹かん/この想い」と詠んだり、森澤さんは「人の世の/痛みも知らず/桜咲く」と減反政策廃止をチクリと刺したりしています。
≪句会の進行は、有名句会並みにオーソドックスに≫
句会は当初、思いつくままに詠み、皆で選句する、という単純なものでしたが、基司さんと群馬県前橋市の高校時代からの盟友、建設会社勤務の小峰昇さんが加わってから、句会の進行は様変わりしました。他の有名句会の常連でもあった彼が句会のオーソドックスな進行形態を持ち込んだのです。
まず、句会冒頭に彼が季題を出します(席題)。メンバーは短冊に発句した3~5句を書き提出します。その短冊を2~3人で手分けし、誰が作った俳句かわからないようにするために、「転記用紙」に書き写します。10人が参加し各自3句発句の場合、30枚の短冊が集まってくるので、転記用紙1枚に6句書き写すと5枚の転記用紙が出来上がります。この転記用紙を順繰りにメンバーに回覧し、優れていると思う句を「選句表」に書き留めます。そして、「選句表」を集計し、選ばれた句を「最優秀句」、総点数の最も高い人を「優勝」とします。
その彼。仕事で苦境にあった時には「身の軋む/こと多かりし/桜散る」と詠み、リタイア後の中東旅行では「時雨きて/シリア逃れる/母娘」とグローバル感を出しています。
学生時代の寿司店のアルバイト経験から、寿司の握りが特技です。市場で魚を仕入れ、マイ包丁で捌き、ヒラメ類白身は昆布締めにし、マグロは程よい大きさにカットし、自ら炊き上げたすし飯で、握るのです。銀座・久兵衛に負けないほどです(行ったことはないけど)。句集作りの過程で、基司さんの別荘で、私と彼、森澤さんの4人の編集委員が、2度にわたって一泊二日の合宿を行いましたが、夕食は無論、彼が握る寿司でした。それも一人当たり20~30貫も。22年1月の打ち上げ合宿では、私が我が郷土料理、きりたんぽ鍋を振る舞う予定です。
≪医学部のない早稲田出身者が多いのに、医師二人がメンバーに≫
いうまでもなく大学闘争でドロップアウト(中退)後、医学部に入り直して、医師になった人たちです。
基司さんは、そもそも早大反戦連合のトップに彦さんを据え、社会科学部自治会幹部で別組織にいたハムちゃんを引き抜いた人で、いわばこのグループの生みの親とも言えます。
早稲田を追われた後は、地元の群馬に帰り、群馬大医学部に入学、卒業しました。今は子供の心療内科の病院を開いています。地域医療にも熱心で2009年にはこの分野の最高賞と言われる「保険文化賞」を受賞しています。
森澤さんが加わるまでは、句会の記録を担当。溜めておいた古い資料が句集作りに役立ちました。
「さみだれて/共に向かいし/過去ありし」「雪解けの/ぬるむ野天に/身をまかす」と、若き日に夢見た“平等社会”への改革に思いを馳せる句を詠んだりしています。句会のチームドクターでもあり、私も伴侶ががんにかかった際、高崎まで通い、相談に乗ってもらったり、漢方治療を受けたりしました。
もう一人は埼玉県の勤務医の辻忠男さん。さいたま市立病院副院長を経て、現在は川口市の埼玉協同病院消化器内科に在籍。慢性膵炎・膵石の内視鏡治療数では世界のトップクラスです。基司さん、小峰さんとは高校時代からの知り合いで、早大反戦連合でも、基司さん、ハムちゃんらと最後まで闘い抜き、「栄光の中退」(本人言)後、基司さんより一足早く群大医学部に入り、医者の道へ。句会は初期のころには熱心に参加していましたが、最近はあまり顔を見かけませんでした。
それもそのはず、6年前から沖縄・辺野古闘争に参加し続けていたのです。2016年には「沖縄の闘いに連帯する関東の会」会長に就任。休日の度に沖縄通いを続け、地元では「(連帯する)ドクター」とリスペクトされています。句集には「自薦句」と「思いの出の記」に替えて、辺野古での闘いの熱い思いを綴り、本の冒頭の口絵写真には沖縄の“おばあ”に寄り添い、連帯する写真を投稿しました。
出版の打ち上げは12月中旬に行われましたが、伴明監督が「今の世の中、やはりおかしいよな。句集では辻さんの文章に感動した。私もいつの日にか、沖縄に行かなくては」と酔った勢いだけでなく、真顔で語っていました。
≪東大卒の元官僚らも≫
東大の現役時代、「国家公務員試験一けた台、司法試験二ケタ台」で合格した秀才、小島敏郎さんもメンバーです。環境庁2期生で、東大全共闘の経歴を隠さずに、審議官まで上り詰め、そのころハムちゃんと仕事で知り合い、句会に来るようになりました。リタイア後は天下りを拒否、青山学院大教授に就任。小池百合子都知事とは環境庁長官時代に仕えた縁で、知事就任時に都庁に招請され、都政改革の知恵袋を務めています。
「また一年/もう一年の/年の暮れ」と現役時代と変わらぬ忙しさを詠んだり、「満天の/空に流るる/花いかだ」と知り合いだったワッペイさんを悼む句も、ものしてます。

紅一点は電通出身で広告会社主宰のマエキタミヤコさん。50代でメンバー最年少。大学生と社会人の二人の子供の母親ながら、フェアリーの雰囲気を漂わせ、句も「考える/不在の不在/薄霞」とシュールなもので、新し物好きを自任するオジサン(オジイサン?)たちを喜ばせています。
さて、末席に控える私。2004年の中越地震後の句会で「崩れゆく/棚田に長し/秋の影」とジャーナリスト的感覚を発揮し、最優秀句に選ばれました。しかし、その後はサッパリ。「亡き人の/夢ばかり見て/秋深む」のような、亡妻を詠む句を中心に発句しますが、メンバーは口には出さないものの「情に流されすぎ」「毎度毎度の亡妻句では既視感あり」「未練がましい」「またか~」と思っているのでしょう、票が集まりません。
毎日俳壇の選者、片山由美子先生は毎日新聞夕刊の連載エッセイで、亡き妻を詠んだ投稿者とその句を取り上げ「日々、亡き妻とともに生活していることが伝わってくる。このように、詠みたいという心から発してこその俳句である」と書いていました。
私の夢は、亡妻の句で満点句を取る事です。そして、いつか、あの世で再会した時、一番褒めてほしかった人から大きな拍手を受けてみたいものです。
※尚、この句集は国立国会図書館(私の地元、船橋市東図書館にも)寄贈、年明け後には、検索をかければ、同図書館内で読むことができます。
(清水 光雄)
2021年12月20日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑱ ある新聞記者の歩み17 誰も首相になると思ってなかった中曽根康弘の実像(上)抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はMENJO,Satoshi
1面トップの特ダネが政治資金を動かした?!

政治部生活の続きとして中曽根康弘さんについて上下2回に分けてお届けします。
目次
◇中曽根担当になるのを喜べなかった背景にトラウマ
◇石油ショックで電力会社が窮地に
◇中曽根通産相からつかんだ特ダネが大きな金を動かした?!
◇グスタフレーションとは? 中曾根派担当の奇人
◇政治家にとって大きい秘書の役割
◇新聞社の社長になるのは政治部出身者向き?
◇中曽根担当になるのを喜べなかった背景にトラウマ
Q.佐々木さんは政治部で1979(昭和54)年に中曽根派の担当になるんですが、その前の経済部で通産省担当の頃、通産大臣は中曽根さんでした。そして、第一次石油ショックの頃、イラン、イラク、サウジアラビア、クエートなどに同行されていますね。その縁もあって担当になったんですか?
いやあ、実はあまり気乗りがしなかったですね。通産省担当時代の“中曽根通産大臣”へのトラウマがありましたから・・・。
Q.それはどういう意味ですか?
この連載の第一次石油ショックの時にはしゃべっていないんですが(第6回「降ってきた石油危機 しんどいながらも記者として得た幸運」参照)、中曽根さんへの不信感があったんですね。
その内容は20年経って経済部長時代のことですが、当時のことを頼まれて電気新聞に連載した「証言第一次石油危機」の中で「石油危機よありがとう」というタイトルの文章の中で書いています(「証言第一次石油危機」として1991年日本電気協会新聞部より刊行)。この本の原稿の中にもチラリと触れましたが、たんまり政治資金を電力業界から集めるのに、僕の書いた原稿をダシに使った形跡があるんです。はっきりと証拠があるわけではないので、電気新聞の連載原稿でも“政治資金”の話はぼやかされてしまいました。
Q.それはまた“物騒な”話ですね(笑)。半世紀近い昔の話ですし、中曽根さんも一昨年(2019年)、101歳で大往生されておられますから、解禁してもいいのではないですか?
そうね。ただ2年前だったか、関西電力が原子力発電所を立地している福井県高浜町の助役(故人)が、関電のトップ役員らに高額の付け届けをしていたり、助役の在職中に億単位の金額を払っていたのが明らかにされましたよね。あの話を聞いて、電力業界の体質に変化ないなと思うと同時に、中曽根さんの顔を思い出しましたよ。
◇石油ショックで電力会社が窮地に
Q.じらさないで教えてください(笑)。どういう話ですか?
1973(昭和48)年10月6日、アラブとイスラエルの第4次中東戦争が勃発しました。それで石油価格を戦争前の1バーレル3ドルから、4倍の12ドル近くまでにするという値上げを発表したんですよ。加えて石油輸出量を月ごとに削減して、イスラエル支持国へ石油を輸出しないというのです。11月から25%の削減、イスラエルへの支持をやめなければ、それ以降毎月5%のプラス削減を行う、日本もそれに含まれるというんですから日本中がパニック状態になりました。
とにかくアラブの立場を理解する日本の立場を説明して、日本への石油禁輸措置だけは解除してもらおうというわけで中曽根さんは中東訪問をするんです。その影響をまともに受けたのが電力会社でした。火力発電が主力で、その頃はCO2問題などありませんでしたから、石油を使い放題で発電していたわけですから、石油輸入価格が上がります。公益事業ですから、価格は政府(通産省)認可で据え置きのまま。「このままでは倒産する」、「電力会社は日銀特融を申請するかもしれない」というような発言が東京電力首脳や、電気事業連合会会長からかポンポン飛び出すほど、経営的にひっ迫するんですね。とにかく一日当たり億単位の赤字経営となると主張していました。
確か関西電力と四国電力がその年の石油ショック前の6月に10年ぶりの料金値上げ申請を行って、石油輸入価格の動向がはっきりしない11月に20%強の認可が下りたばかりでした。残りの7電力は石油危機の影響を真正面から受けたわけです。
そして4月に関電、四国電も含めて9電力平均62%アップという、とてつもない一斉値上げ申請を行います。最終的には5月末に平均56%の値上げで決着するんですが、ホントこの取材は大変でした。ちなみにこの時の値上げ申請・認可を担当したのが、今の岸田文雄首相の父上の岸田文武さん、退官後、衆院議員になられます。当時は電力・ガス事業などを担当するエネ庁の公益事業部長です。毎朝、毎晩、原宿の岸田邸には夜討ち朝駆けしました。でも口は堅かったですね。密かに“ブリキのパンツ”というあだ名をつけたほどです。その頃、息子の文雄さん(現首相)さんは開成高校に通っているという話を聞いたことがあります。
この時、値上げ認可は、先に料金値上げを認められている関電と四国電を含めて一斉認可するのか、2社は遅らせるのか大問題でした。
◇中曽根通産相からつかんだ特ダネが大きな金を動かした?!
Q.それが中曽根さんとどう関係するのですか?
確か5月の連休中の休みの日だったと思いますが、当時、目白にあった中曽根邸に夜回りをしたんです。偶然僕1人と中曽根さんのいわゆるサシ(2人だけ)で、応接間で向かい合いました。中曽根さんのソファーの後ろの壁には、有名な版画家・棟方志功の大きな雄渾な字と絵が書かれた掛け軸がかかっていたことを覚えています。
その時、中曽根さんに「電力料金の値上げは、関電と四国電は遅れて認可、残りの7電力を先行認可する2段階方式で行うか、9電力一斉に行うのか?」聞いたんです。そしたらかなり明確に「それは2段階だよ」といったんです。「これは1面トップ頂き!」とはやる心を押さえて経済部に電話し、会社に上がって原稿を書きました。「通産省首脳によると、電力料金の値上げは2段階で行うことを明らかにした。」見事に翌日の紙面の1面トップになりました。
ところがその3週間後、発表されたのは9電力一斉認可でした。当方の特ダネは完全な誤報だったわけです。「こん畜生!」と思ったんですけど、途中経過だし、通産大臣の発言なんだからしょうがないかと納得していたんです。ところがその年の暮れの頃か、親しかった関西電力の“政治部長”といわれたある役員と会うことがありました。だいぶ石油ショックの騒ぎも落ち着いたころでした。
彼が言うには「佐々木さんの二段階認可の原稿、あれは高くついたんですよ」
「どういうこと?」
「とにかく一月でも認可が遅れればこちらは数十億円の赤字、必死でしたよ。」
「中曽根さんにかなりのことをしたわけですか?」
「うん、まあ、そういうことですかね」
「やられた!」という感じでしたね。僕が書いた記事をめぐって巨額な政治資金のやり取りがあったことを示唆されたわけですから、ショックでしたね。新聞記者、その書く記事はすごい影響力があるんだ、また、はやる若い記者の特ダネ意識をくすぐって書かせた記事が、政治資金のネタになるんだ。ホント目からウロコでしたね。新聞記者って本当に怖い仕事だって思いましたね。政治家が大臣を目指すはずだと納得しました。
Q.その話は中曽根派担当になって、中曽根さん本人にしたことあるんですか。さきほどトラウマだといわれましたが、担当はイヤではなかったんですか。
まさか、それほど度胸ありませんよ(笑)。担当した直後の挨拶で「通産省担当の頃、石油ショックの際、一緒に中東に同行させてもらいました。」くらいの話はしました。中曽根さんもさるもので「そうだったかなあ」ととぼけていましたけどね。
でも担当中、中曽根さん本人とはよく遊説に同行したり、その際の演説を聞いたりしました。二人きりでよく話もしましたよ。FEN(駐留軍放送)の外国語放送を一生懸命聞いたりしてましたし、勉強家で世論の動向、人の意見をよく聞くなど政治家として優れた人物と思いました。あの当時、中選挙区で選挙は派閥応援の選挙でしたから、金はかかるわけで、その中である意味で役職を利用したぶきっちょな金の集め方をしていたんではないですかね。中曽根さんというと、若い時の“政界の青年将校”、“政界の風見鶏”などといわれ、金銭面での話は、土地ころがしで巨額な政治資金をひねり出す田中角栄さんの陰で聞こえませんしたけど、数十人の代議士を抱えての政治資金を書き集めるには、それなりの苦労があったと思います。その一面をぼくが垣間見たという事かもしれませんね。
でもちょうど、次男が生まれた時で新宿・落合の聖母病院に入院中の女房に大きく名前を書いた胡蝶蘭が届けられたのは、ここまで気を使うのかと、ビックリしたなー。看護婦さんも驚いていたようです(笑)。
◇グスタフレーションとは? 中曾根派担当の奇人
Q.中曽根担当はほかにもいっしょに担当されていた人がいたのですか?
1970年代の終わり頃のことですが、中田章さんと言って、大阪の社会部出身だった人です。僕より2年先輩かな。後で地方部長、編集局次長などを歴任します。彼が中曽根派のキャップで、僕と三年後輩の中曽根さんと同郷で、群馬県高崎市出身の、後に特別編集委員になる松田喬和君と3人で持ってました。
あと鈴木棟一(とういち)さんという僕より2年先輩の、早稲田出の体の大きな人も遊軍で担当していました。鈴木さんは退職後、政治評論家として活躍、サンデー毎日、週刊ダイヤモンドなどに政局の連載を持って「永田町の暗闘」というシリーズ本を確か8冊も書かれています。(中略)
中田さんと、僕は政治部のいわば外様で、ほかの福田派とか大平派、田中派なんてのは5人くらいで持っていて、他の福田派、田中派、大平派は支局から直接政治部にきた生きのいい記者がほとんど。キャップもそれぞれ政治部のエース、政治部長候補という感じでしたね。 こういう人事配置を見ても、当時の自民党内での中曽根派のポジションが想像できると思います。当時サラリーマン社会では、55才定年間際のおっさん社員を“窓際族”と呼ぶことが流行っていました。密かに僕は、中曽根派なんてのは“窓際派閥”だなんて言ってました。田中派の重鎮の金丸信さんなんて「オレの目の黒いうちは、あんなキザナ奴は総理として官邸入りさせない」と公言していたほどですからね。だから、喜んで担当する記者はいなかったんじゃないかなあ。若い頃の中曽根さんに深く食い込んでいたのは、読売のナベツネさん(渡辺恒雄氏)と一緒に担当していた、後に毎日の政治部長、社長になる小池唯夫さん位しかいなかったかもしれません。朝日新聞ではテレビ朝日の専務になる三浦甲子二さんでしたかね。小池さんが中曽根派の毎日新聞での窓口だったように思います。
◇新聞社の社長になるのは政治部出身者向き?
Q.その政治部と経済部の違いについて、もう少し説明していただけませんか?
とにかく政治部は取材先の政治家との人間関係を重視して、そのフトコロに入って行けばいずれ政局で内閣の替わる時などに役に立つという感じですね。担当の政治家が偉くなればなるほど、それがまた政治部内での自分のポジションをアップするのに役立つという感じかな。政策論の取材もその裏にあるんですけど、それも政治家対政治家の派閥の論理という“色メガネ”を通して見る、むしろそちらの方を中心にしているんで、政策の本当の意義というのはあまり重要視していなかった感じがします。でも官庁、特に外務省担当などは、純粋に日本の安全保障をどう保つか、という真っ当な観点で取材をしていたと思います。
以前、東京の中央区長を通算8期(1987~2020年)やって引退した共同通信政治部出身で官邸キャップまでやられた矢田美英さん(81)と飲んだ時、「新聞社の社長には政治部出身者が向いている」と言われたことがあります。つまり僕なりに解釈すると、経済部みたいにキチンとした理詰めの原稿を書くより、政治部のように人間関係を重視して付き合いを深めて政策を理解していく方が、経営をやっていく上で社長などには向いていると言いたかったんだと思います。自分の33年間の区長としての区政運営の体験を踏まえて言われたんでしょうね。(下に続く)
2021年11月10日
「平和のためなら 何でもやる」④ ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」
皆さん、長崎平和公園に原爆投下時、刑務所があったことをご存知でしょうか。長崎支局勤務(81~84年)時、原爆を担当し、祈念式典や企画記事を山ほど書いたのに、恥ずかしいことに知りませんでした。実は強制連行で中国から連れて来られ、炭鉱で働かされていて投獄された中国人労働者32人が爆死しているのです。
外務省が発表したデータでは「戦時中、全国35企業135事業所で3万8936人が働かされ6830人が死亡。長崎県では端島(軍艦島)、高島、崎戸、鹿町の4炭鉱で1042人が働かされ115人が死亡。そのうち32人は原爆による爆死」となっています。
中国から強制連行された挙げ句、治安維持法なる悪法で監獄に入れられ爆死した32人。なんとむごい話でしょう。
中国人原爆犠牲者追悼碑を建立

市長時代、「天皇の戦争責任」発言で右翼の銃撃テロに遭い重傷を負った本島等・元長崎市長は、「中国人の原爆犠牲者を追悼しよう」と追悼碑建立運動の先頭に立ちました。08年のことで、本島元市長が街頭に出て募金を呼び掛けているのを毎日新聞の記事で知った私はすぐに事務局に電話し、募金状況を尋ねました。すると「目標にまだ達していない」との返事。
「じゃあ、とりあえず20万円、振り込みます」
中国戦線に一兵卒として徴兵され、侵略戦争に加担した父を持つ私は「放っておけない」気持ちが強かったのです。送金すると後日、本島元市長から直接、電話があり「ありがとうね」の言葉をもらいました。
長崎県、長崎市、中国駐長崎総領事、被爆死犠牲者遺族らが参列して開かれた除幕式には私も参加。腰を折り杖をついて参列した当時86歳の本島元市長は、新聞、テレビ記者のインタビューで「日本人は戦争被害のことばかり言うのでなく、加害責任のことをもっと考えなければならない」と訴えていました。追悼碑の除幕式後、本島元市長は中国側遺族代表からお礼に贈呈された掛け軸を「大賀さんこれ、持って帰りやい」と言って差し出されました。びっくりして「そんな大切なものを受け取れませんよ」と断ると、「なんも遠慮せんでよか。おいが死んだら値打ちもんになるとぞ」と、本島元市長のいつものジョークが飛び出し、「わかりました。ありがたくお受けします。大切にします」と受け取りました。
縦1.8メートル、横75センチの掛け軸には「和」という1文字が大書され、右側に「本島等先生へ贈る」とあります。今、我が家の玄関に飾られ、前を通る度に「大賀さん、頼むよ」という本島元市長の声が聞こえてきます。14年、92歳で永眠されましたが、碑の建立後も活動を続けられ何年か後、私のところに「平和を 本島等」と墨書した顔写真付の色紙が送られてきました。強烈なメッセージです。色紙は私の部屋に飾り時折、対話しています。
「歴史倫理」――心にとめて

縁とは不思議なもので17年、本島元市長が初代代表を務めた「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」と「中国人原爆犠牲者追悼碑維持管理委員会」の代表(3代目)に私が就くことになりました。(19年3月末で退任)
最大の任務は翌18年7月に迎える「追悼碑建立10周年記念行事」でした。遺族2人を中国から招いて記念シンポジウムを開催。7月8日、中国駐長崎領事館と長崎市の来賓を迎え約50人が参列して碑の前で追悼式を行いました。
それにしても……。毎年、8月9日、長崎市主催で催される「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に私は憤りを抑えきれないでいます。中国人原爆犠牲者追悼碑は平和公園の東側の一角に、朝鮮人犠牲者追悼は爆心地公園のすぐ南側にありますが、市主催の祈念式典に参加する数千人の参列者は、中国・朝鮮の犠牲者には目もくれず、「悲惨な原爆」「長崎を最後の被爆地に」などと訴えるのみです。マスメディアも同じです。日本人の「貧困なる精神」の極みと言えましょう。
今年はコロナ感染拡大で控えましたが、祈念式典への抗議の意も込めて毎年、マイカーに供花と掃除道具を積み込み妻と2人、福岡を早朝に出発。式典が始まる前に碑の周囲を除草、碑を清拭し、32人の犠牲者の名前を書いた紙コップに水を注いで花と一緒に碑の前に供え、午前11時02分の投下時刻に黙とうしています。その後、朝鮮人犠牲者追悼碑にも足を運び、黙とうしています。
元長崎大学名誉教授で長崎の中国人強制連行裁判を支援する会、中国人原爆犠牲者追悼碑維持管理委員会の2代目代表、岡まさはる記念長崎平和資料館理事長などを歴任し、日本の『戦争加害』を追及し続けた髙實康稔氏(17年、77歳で永眠)は生前、講演会などで『歴史倫理』という言葉を使い「我々日本人は中国、アジア諸国への侵略戦争、朝鮮への植民地政策など加害の歴史に人間的倫理感でもって真摯に向き合っていくことが求められている」と訴えました。
私はこの『歴史倫理』という言葉を大事にしています。
マスコミの戦争責任を考える


私は88年8月に福岡県教職員有志の『中国平和の旅』に同行し南京大虐殺記念館を訪問した時、初めて戦時下の報道記事を目にしました。一方的で手前勝手な内容を恥ずかしく思い、また、そのような戦時報道について何の知識も持たなかったことを恥じました。
これをきっかけに帰国後、西部本社の調査室を訪ね、中国侵略のスタートとなった31年9月18日の柳条湖事件(満州事変)や中国全土への侵略戦争へのきっかけとなった37年7月7日の盧溝橋事件(日華事変)、同年12月の南京占領と翌年にかけて行われた大虐殺事件などを東京日日新聞(毎日新聞)がどう報道したのか調べました。また、朝日、読売の記事については東京の国会図書館に足を運び調べました。
3紙とも華々しい戦果、兵士の武勇伝などを大げさに書きたて、部数拡張競争を展開していたのが実情です。戦後マスコミはあたかも軍部の報道統制の犠牲者ヅラをしてきましたが、実際は率先して政府や軍部発表のネタを脚色しながら垂れ流ししていたのです。毎日新聞もそうですが、戦時中の記事がいかなるものであったか、各社とも若手記者に教えてきませんでした。先の戦争を「被害の視点」でしかとらえることが出来ず、「加害の視点」での報道はほとんど見られません。教育現場でも「戦争加害」を教えません。その結果として被害国、中国と韓国の間で国民感情のずれが生じ、悲しいことに隣国でありながら友好関係を築けないでいます。不幸の原因をつくっているのはまぎれもなく「歴史を正視しない」日本側にある──というのが私の見解です。こういう発言をすると『反日』として批判される時代になりました。これまた悲しいことです。
当時の新聞記事に、じっくりと目を通していただきたいと切に願います。新聞報道がどのように国民を「戦争へ戦争へ」と煽っていったか理解出来るかと思います。
貪欲で愚かな人間は何千年もの間、今日まで戦争を続けてきました。そんな中で私たちは「戦争したがり屋の側」で生きるのか、「戦争をやめさせる側」で生きるのかが問われていると考えています。2歳、6歳、8歳の3男児を家に残し中国への侵略戦争に徴兵された亡父は戦後、日本軍の残虐行為がトラウマになりアルコール依存症で精神病院に何度か入院しました。両親は敗戦翌年に生まれた私に平和を願い「和男」と名付けました。名に恥じないよう「平和のためなら何でもやる」覚悟でいます。
(了)
2021年11月9日
早くも、半田一麿さんから「Merry Xmas and Happy New Year!」

毎朝午前4時に届く社会部旧友で英文毎日在籍が長かった半田一麿さん(86歳)のToday’s Joke。2021年11月9日のToday’s Joke——。Merry Xmas and Happy New Year!
諸兄:
米商務省は7日、ジーナ・レモンド商務長官=(写真)=が15日に就任後初めて日本を訪問すると発表しました。キャサリン・タイ通商代表部(USTR)代表も同じ日に訪日する予定で、ドナルド・トランプ前政権が導入した日本製の鉄鋼とアルミニウムへの追加関税の見直しに向け協議することになります。
Commerce Department NewsはU.S. Secretary of Commerce Gina Raimondo announces first travel to Asia→「米レモンド商務長官が15日にアジアへの訪問を開始」と報じました。

ジョー・バイデン政権が「最も深刻な競争相手」と位置付ける中国への対抗策でも、日米の連携を確認するためのアジア訪問なのです。バイデン大統領は先月の東アジアサミット終了後、中国への対抗を念頭に、インド太平洋地域で新たな経済の枠組み構築を検討すると表明、「中国包囲網」の形成を進める上で、前政権下で悪化したアジアの同盟国との関係修復が急務と捉えているのです。一行は15日の日本訪問後、16,17日にシンガポール、18日にはマレーシアのクアラルンプールを訪問することになっています。
「不況でも安泰なのはNHK」... 万能川柳 depression = 不景気
● Merry Christmas and Happy New Year
During a Christmas exam, one of the questions was: What causes a depression?
One of the students wrote: "God knows! I don't. Merry Christmas!"
The exam paper came back with the prof's notation: "God gets 100. You get zero. Happy New Year."
【試訳】メリークリスマス、新年おめでとう
クリスマスの試験で教授が学生に出した試験問題の一つは"何が不況をもたらすか?"だった。
学生の一人が次のように書いて提出した。「神のみぞ知るです。私には分かりかねます。メリークリスマス!」
返却された答案用紙の教授の講評には次のように書いてあった。
「神様に100点満点。キミは零点。明けましておめでとう。」
(半田 一麿)
2021年11月8日
「平和のためなら 何でもやる」③ ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」
私の生き方は長崎大学で全共闘運動に加わったことが決定打になりました。セクトに属してはいませんでしたが、当時で言うノンセクト学生としてベトナム反戦運動や日米安保反対運動のためのデモ、集会に参加していました。また当時、全国展開していた「水俣病を告発する会」にも入り、患者たちの裁判闘争を支援するため熊本地裁の傍聴・集会に出かけていました。
68年1月の米空母「エンタープライズ」佐世保入港阻止闘争(通称・エンプラ闘争)、69年11月の佐藤訪米阻止闘争(東京)への参加は50年以上経た今も当時の緊迫したさまざまな情景が浮かんできます。エンプラ闘争には一昨年12月、アフガンで用水路建設を通じて砂漠を緑化し農村再建に大きく貢献しながらテロの凶弾に倒れた中村哲さんも参加していたそうです。また、最近、お互いに知ったことですが、69年11月17日の佐藤訪米を阻止するため、前日の16日に日比谷公園で開かれた全共闘主催1万人集会、翌17日、蒲田駅周辺での阻止闘争には、この原稿を書くように勧めてくれた後輩も参加していたそうです。お互い驚き合い、京都と福岡と遠くにいながら強い連帯感が湧くのを覚えました。
「大賀、お前、経済学部にいて学生運動していたら就職できんぞ」─大学前の書店でそっと近づいてきた私服刑事に脅された言葉には、自分もそう感じながら運動に参加していたので正直、動揺を隠せませんでした。しかし、その場は強がって「うるさい!」と言い返し、逃げるように下宿先へと急いだことを覚えています。
「新聞記者への道」はこうした学生運動に参加する中で必然の流れでした。入社試験のための勉強に力を入れたのは言うまでもありません。
学生運動の仲間と――長崎大アジア留学生奨学基金を設立
長崎大学アジア留学生奨学基金は15年春に設立されました。約50年前は全国の大学でベトナム反戦や大学の自治を求めて学生運動が広がっていました。何度も逮捕され退学した者もいます。卒業後、教師、医師、公務員、自営業、サラリーマンなど歩いた道はそれぞれですが、何年かに1回、大学の生協食堂を借りて同窓会を開いてきました。しかし、メンバーの高齢化が進み「14年3月開催を最後にしよう」と決まりました。
そこで、事務局を担当している元小学教師の友人に「このままサヨナラするのは寂し過ぎるのでは。もう一度、みんな力を合わせて何か社会貢献して死んでいこう。かつての中国・アジアへの侵略戦争を反省し、将来を背負うアジア諸国からの留学生を支援し平和の架け橋になってもらおう」と提案しました。行動力のあるその友人は「それはいい、すぐみんなに呼びかけよう。大学と生協にも協力をお願いしてみよう」と応じてくれました。
反響は想像以上でした。奨学生の募集をお願いすることになる大学側は「1千万円集まれば協力できます」。基金管理をお願いする大学生協は「無償で協力しましょう」との返事。全共闘仲間には予め、いくら程度寄付できるかを問い合わせると日を置かず大学側が求める「1千万円以上」の見通しがたちました。

「学生時代、少しでも戦争のない世の中にしようといって共に闘った熱い気持ちは消えていなかったんだ」と、基金提案者としての喜びは言葉で表せないほどでした。薬学部卒の元厚労省麻薬分析官(女性)は何と400万円の寄付を申し出てくれました。6桁の寄付者も数名。私も応分の負担はさせもらいました。基金設立から6年になりますが今も、1万円、2万円と毎年、寄付する仲間が数名います。今年9月末現在、49名から1900万円余が寄せられています。
学生募集は大学、基金管理は大学生協が協力。7月と10月の年2回選考・交流会、3月に研究発表・交流会を開き、これまで中国、韓国、ベトナム、タイ、台湾、バングラデシュ6カ国の留学生延べ35名に月々2万円を2年間給付。「平和の灯」を灯し続けています。
中国の高齢者施設でハーモニカ交流
12年8月、大阪と長崎の訪中グループに加わり南京を中心に日本軍の掃討作戦で被害を受けた農村部を訪問、幸存者(こうぞんしゃ=身内を日本軍に殺害された遺族や被害者)らから聴き取り調査をしました。私にとって3年ぶり6度目の南京訪問。2年前の10年9月、尖閣諸島近海で操業中の中国漁船と取り締まり中の海上保安庁の船が衝突。漁船船長が逮捕されて中国全土で反日デモが起きました。
その影響がまだ残っている中で思い立ったのが戦争被害を受けたお年寄りたちが入居している高齢者施設への寄付と趣味のハーモニカ交流でした。知人の元南京大虐殺記念館通訳・常嫦さんに相談し3施設を選んでもらいました。施設側は当初、「日本人は何か下心、他の目的があるのではないか」と疑ったそうです。

8月15日、訪中団約50人は南京大虐殺記念館の敷地内で追悼・平和集会を開きました。私は集会後、グループから離れ、常嫦さんの案内で3カ所の施設を巡り、合計150万円と入所者・職員全員(約130人)に持参のマフラーをプレゼントしました。訪問した時、お年寄りたちからどのような反応が返ってくるか、緊張と心配でいっぱいでしたが、温かく迎えられ、ハーモニカ演奏「北国の春」には、手拍子とともに一緒に歌ってもらうことができました。
私は3施設で、かつての侵略戦争で日本が中国に甚大な被害を与えたことを詫びたうえで、「日本では侵略戦争を心から反省し、二度と戦争をしない日本にするため大勢の人たちが努力しています。どうぞご理解ください」といった趣旨のあいさつをしました。私の話に聴き入るお年寄り、職員たちの優しい眼差しに接し、「自分の気持ちが通じてくれたかな…」と、少し安堵しました。
翌日の新聞を見て驚きました。若い記者とカメラマンが取材に来た南京最大の夕刊紙「揚子晩報」(100万部以上)は1ページぶち抜きの見出しでトップ記事でした。8月15日は中国の戦勝記念日。当然、関連記事が多い中での異例の扱いでした。
私が元新聞記者だったことに関心を示した両記者に「20年以上、記者として日中友好のため努力して来た。若いあなたたちはこれから活躍する年代。日中両国の友好促進のため力を貸して欲しい」と訴えました。
「8月15日」の関連記事の中で、朱成山・南京大虐殺記念館館長らのニュースの上に私の施設訪問を持って来たのは、同紙が日中友好を重視していることを示したものと思いました。後日、「人民日報日本語版」でも詳しく報じられました。施設訪問が少しは日中友好促進のお役に立てたのではと確信しています。
障がい者通所施設「あおぞら作業所」を開設・建設
長崎大学在学中、学生運動に参加しながら、障がい者施設を訪問するボランティアサークルに所属し、2年間、部長を務めました。後年、障がい教育の専門家として毎日新聞でも度々、紹介され、投稿もされた近藤原理先生(長崎県佐々町、故人)が顧問でした。小学教師をしながら夫婦で10数人の障がい者たちと共同生活し、農業をされていた方で、私は新聞社在職中も退職後もお付き合いをさせていただいていました。
記者時代、『医療・福祉の大賀』を自称し、障がい者に関するニュースを追い続けたのは、「障がい者と共に生きる」近藤先生夫婦の姿に大きな影響を受けていたからです。「退職後は人生最後の仕事として作業所運営を」と、妻と話し合い、自宅近くの一軒家を借りて開設したのが知的障がい者のための通所施設「あおぞら作業所」でした。定年1年前の05年、辞職願を社に提出しました。3月に卒業して即4月に開所するあわただしさでした。

作業所運営の詳細は省きます。自宅に隣接して小さな2階建て作業所を建設し、15人の仲間たちが「アルミ缶作業班」「紙漉き班」「クッキー班」の3班に分かれて楽しく元気に通っていました。しかし、法律改正で大規模化(20数人以上)が義務付けられ、基準を満たすにはさらに数百万円の資金が必要となり、「個人的運営は今後、無理」と判断し、わずか4年で閉所に追いやられました。仲間たちは全員、数カ所の大規模施設に移り元気に通所しています。「障がい者と共に歩く」という私たち夫婦の夢は露と消えたわけです。
それから11年が過ぎましたが、閉所後に仲間の保護者から「休日にすることがなくて困っている」との声が寄せられたため、月1回、日曜日に希望する5人の仲間たちが我が家にやって来て、地域60世帯や私の友人・知人提供のアルミ缶のプレス作業をしています。業者に納品して益金でファミレス昼食会を開き、年末にはボーナスも支給します。
地域の人たちは、回収に来た仲間に「頑張ってね」と声掛けしてくれたり、「昼食会の足しに」とカンパをくれたり、夏には飲み物を差し入れしてくれたり……。
人間世界は争い事が絶えませんが、福祉の世界には人間の優しさがたくさん集まってきます。この優しさの広がりを期待しながら、月1回、私の人生観や社会事象への意見などを織り込んだチラシ「アルミ缶をください」を11年間、約60世帯に配り続けています。ただ、私は75歳、妻も来年1月で75歳。「いつまで続けられるかわからないね」と話す二人ですが、仲間たちの純粋な心、優しさに教えられること多く、また地域の人たちの優しさに支えられ、もうしばらく続けたいと考えています。
2021年11月5日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑰ ある新聞記者の歩み 16抜粋
外交のおもしろさ実感 カップ麺で空腹しのいで原稿打電もよき思い出
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はMENJO,Satoshi
今回は政治部生活の終盤、外務省担当になった短い期間の体験談であり、外交のなまなましい現場を見た貴重な証言を話していただきました。

目次
◇第2次石油ショックの記憶無し
◇大平・福田決選投票で解散へ
◇首相秘書官の涙、新聞記者の高揚感
◇誰が日本の外交のウォッチするのか?!
◇伊東外相を辞任に追い込んだものは?
◇難民センターで切実に訴えるおばあさん
◇「どん兵衛」で空腹をしのぎながら原稿打電
◇拉致された金大中が大統領に!
◇日本の外相を30分待たせた“アジアのあんちゃん”
◇小和田雅子さんが活躍していた北米二課
◇大平・福田決選投票で解散へ
Q.政治部で出会ったドラマをさらに伺います。
その年(1979年)の10月の総選挙で自民党が過半数割れとなって、福田さんが大平首相の責任追及をして、いわゆる “40日抗争”が起きるんですね。大平・福田が衆参両院で同じ自民党同士で決選投票やるんですが、まさに大福戦争、そのときぼくは議場の記者席にいて現場を見てるんです。しかし福田さんが負けました。
かれは前からこの間、“天の声”という言葉を使って記者を煙に巻いていたんです。その敗北会見でガックリ肩を落として「天の声もときには変な声もある」と言いました。それは自民党本部での記者会見のことで、それにもぼくは出ていました。政権奪取抗争の凄まじさを実感しましたね。
そのあと5月に、内閣不信任案が大平さんに出されて、自民党の福田派を中心に主流派が欠席しました。衆議院のホールというのがあるんですが、主流派百何十人かがそこにとどまったまま議場に行かなかったのです。それで結局不信任案が通っちゃうんです。結果として、6月末に戦後初の衆参ダブル選挙になりました。その前年の10月総選挙をやったばかり、わずか8ヶ月に満たないで選挙、いかに政局が激動の中にあったかが分かると思います。こっちはそれで「解散!選挙だ!」と高揚してしまいました。
◇首相秘書官の涙、新聞記者の高揚感
その解散決定、総選挙というとき、福川伸次さんと偶然衆院の車寄せで出会いました。福川さんはぼくが経済部で第一次石油ショックの時の通産省担当時代に“通産省の知恵袋”といわれた官房企画室長当時から、親しくさせてもらった人で、後に通産次官になる人です。
福川さんはその時、大平首相秘書官で、安倍首相当時の今井秘書官のような立場だったと思います。今井さんのようにアクの強い人ではなく、誠実な知識人というタイプでしたね。不信任案が成立して大平首相を首相官邸まで帰る車を送っているところでした。秘書官だった福川さんに「いよいよ解散ですね」と当方が嬉しそうに言ったら、福川さんがなんと目を真っ赤にして泣いているんです。なるほど現場にいて首相を支えて苦悩する首相の姿を目にしている人と、われわれ野次馬・ジャーナリストとは違うもんだなあと、感じたものです。当事者と、われわれとの距離というものをしみじみ感じました。その後、経済部に戻ってから福川さんに会合で会って、「あの時、福川さんは泣いていましたよね」といったら「そうだったかな」とトボケられましたけどね(笑)。
大平さんは本当に福川さんを信頼していたんですね。ぼくは大平さんというのは、読書量もすごく抱負で経綸の才があり、戦後の歴代の首相の中でも立派な人だったと思います。そういう人が政争の中で引きずり下ろされるというのは、福川さんにとって、日本のためにはどうなるんだろうという感じがあったのでしょうね。
結果として一月後、大平首相はこの選挙中に突然死するんですね。スゴイ心労だったんでしょうね。われわれは「政治家はタフだな―」の一言でかたづけていましが⋯⋯。本当に命がけの抗争なんですよね。
◇誰が日本の外交のウォッチするのか?!
こういう政局を背景に1980(昭和55)年春ころだと思いますが、外務省担当になっていたのです。政治部の官庁担当というのはあいまいなところがあって、解散になると役所を引き上げて本社の選挙班に入っちゃったり、元々の派閥の担当にもどり国会にかけつけるとかという感じになってしまいます。この辺は経済部と違いますね。
各社の霞クラブ(外務省)へ政治部デスクから「平河クラブ(自民党担当)に集まれ、内閣不信任案が通過、解散だ“選挙体制”に入る」と電話がかかってきて、みんな手伝いに来いって言われます。すると、ハーメルンの笛吹き男じゃないけど、他社の政治部記者もみんな一斉に飛び出て行っちゃいます。政治記者としては血湧き肉躍るという感じです。それで残るは外務省担当の経済部記者だけになってしまいうわけです。霞クラブはガランとします。
当時、外務省には外務報道官の下に国内報道を担当する、「報道課」というのがありました。阿南惟茂(あなみこれしげ)さんが主席事務官だった思います。終戦直後に陸軍大臣として自刃した有名な阿南惟機(これちか)大将の五男。いわゆるチャイナスクール(中国語担当)出身で、その後2001~6年まで中国大使になられました。余談ですが、息子さん(注:阿南友亮(ゆうすけ))は東北大の教授で「中国はなぜ軍拡を続けるのか」という本を数年前に新潮選書から出した若手の中国政治研究者です。
その阿南さんが、多くの記者が出ていって、ガランとなりつつある霞クラブの様子を見ながら、「誰が日本の外交のウォッチングをするんですか?!」と叫んでいたのを思い出します。引き上げる記者のだれかが、「そんなのおまえら勝手にやれ!」と。
でも確かに外務省は、僕はよく言うのですが、“マスコミ依存官庁”で、自分たちの活動の外交的成果が新聞などで報じられなければ、国民に浸透していきませんよね。外交機密にはものすごく口は堅いですが、マスコミを大切にする官庁と思います。その意味で、まだ財政的な裏付けのない経済政策をアドバルーン的に流す当時の通産省と似ていますよね。一方、大蔵省は自分のところで国の財布をにぎっているんですから、マスコミにことさら気遣いをする必要がないですよね。
Q.そのころの日韓関係は今と大分違うんでしょうね?
今自民党は嫌韓派が幅を利かせ、SNSの世界でも、韓国へのヘイトスピーチが飛び交っているじゃないですか、当時の自民党の長老の正統派はみんな親韓派でした。戦前の日本統治時代の贖罪意識に加え、戦後の日本経済を考えれば朝鮮戦争当時の朝鮮特需の恩恵、高度成長時代の一端を支えた韓国の存在の大きさが分かっていたと思いますよ。一衣帯水の国と歴史を踏まえて仲良くできないのは、大人の国としての外交ではないと思いますね。今でもぼく個人としては韓国問題には関心を持ち、この年になっても話題となっている韓国映画を見るようにしています。
◇日本の外相を30分待たせた“アジアのあんちゃん”
安保条約は軍事同盟ではないという発言をした鈴木善幸首相と対立する形となった伊東正義さんが外務大臣を辞任しました。そのあと、2年前福田内閣の外相として日中平和友好平和条約を締結した園田直さんが外務大臣になります。ぼくは同行取材でいっしょにASEANを回りました。
園田さんは、戦後すぐの選挙で当選、妻子ある身で、当時、初の女性議員の松谷天光光(てんこうこう)と“白亜の恋”と騒がれて結婚しというエピソードを持った人で、福田内閣の官房長官もやっていました。スーツの裏地が真っ赤で度肝を抜かれまことを記憶しています。アッ思い出した。その時の毎日新聞の園田官房長官番をやっていたのが、後に転職してイトーヨーカ堂の常務になる稲岡稔さんでした。
この時の同行取材で忘れられないのは“そのちょくさん”(園田さんのことをそう呼んでました)がマニラの大統領公邸で、マルコス大統領と会うことになっていたのです。ところがマルコスが会談に遅れて30分くらい待たされました。
これはかなり異例なことです。日本から巨額なODA(政府開発援助)を受けているわけで、その担当の外務大臣が来ているのに、会談の時間を守るのは外交儀礼として当然ですよね。われわれ同行記者団も二人の会談の写真を撮ろうと、待っているわけです。“そのちょくさん”はものすごくイライラして、「あいつはアジアのあんちゃんみたいなもんだからなあ」と言ったことを覚えています。(以下略)
2021年11月4日
「平和のためなら 何でもやる」② ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」
人生はつくづく筋書きのないドラマと感じています。現在、所属する団体の数を数えてみると14団体ありました。このうち4団体は会費を納入するだけの維持会員ですが、残る10団体は濃淡あっても活動を伴う所属団体です。世に言う「リタイア後は晴耕雨読の生活」とは無縁の老後となっています。
コロナで動けなかった昨年は春に「九州肝臓友の会」の会報最終号、6~12月の半年間は福岡県日中友好協会創立70周年記念誌、年末は福岡市日中友好協会の会報と休む間もなく編集作業に追われる日々でした。いつも「仕事」に追われている私を見かねた妻からは「あなたこのごろ、記者時代より忙しいんじゃない。自分の年齢考えてくださいね」と真顔で言われました。
05年に退職して16年。「残り少なくなったこれからの人生をどう生きるかが勝負だぞ」と自問しながら『今を生きて』います。
入社早々にB型肝炎発症――完全復帰まで7年の闘病
1971年4月、念願の新聞記者になり、苦しくも楽しく鹿児島県志布志通信部で警察署への夜回りを続けている最中、西部本社の産業医から「秋の定期検診の結果、肝臓機能が悪いので治療しなさい」との通知がありました。71年11月13日のこと。6日前の11月7日、その日の飛行機で鹿児島から福岡に飛び、新婚旅行抜きの日帰り結婚式を挙げて通信部に戻り「さあ、これから」と夢を膨らませていた矢先。「天国から地獄へ」そのものでした。
志布志湾埋め立て反対運動の先頭に立っていた知り合いの内科医に相談しました。「私のところに通院して注射を打ったらどうか」と言われ、会社に連絡すると「それでよし」との返事。今でいう「B型肝炎」。50年前の当時は治療法やウイルス検出も明快ではない時代でした。「注射すれば治る」と信じて通院するも回復せず、遂に翌年3月に産業医の指示で入院。先行きの見えない地獄の闘病生活が始まりました。
3カ月間、連日、点滴治療を受けるも回復せず、出身地・福岡にある九州大学附属病院に転院。12月末まで延べ9カ月間入院しました。退院と言っても完治したわけでなく「比較的症状が安定」した状態のことです。すぐに職場復帰することはかなわず、不安な中で自宅療養に入りました。
退院した翌年(73年)2月には藁にもすがる思いで、宮崎県延岡市に霊験あらたかな拝み屋さんがいると紹介されて水を浴びる苦行に参加しました。市内で祭壇に謝金を供えてお祈りすると夜、何キロも離れた山奥の神社に車で連れて行かれました。そこには池があり、洗面器を手にした大勢の信者が下着姿で集まっていました。私も準備を促され下着姿になり、ドンドンドンと打ち鳴らされる太鼓の合図で一斉に池の中へ入りました。そして洗面器で水をすくい全身に浴びるのです。
山道には残雪があるほど極寒の日でしたが、集団心理とは恐ろしいもので、寒さは感じませんでした。池から上がると暗闇の中で着替えて全員、拝殿へ。そこでポリ容器に入れられた「御利益あらたかな御霊水」と言われる山水を「お神さあ」から一人ひとり拝受するのです。
「大賀さんには2つ準備しました」と言われ、喜びつつも、「ほんとに効くのか」との疑問を抱きながら帰宅。毎日、少しずつ「どうか治りますように」と奇跡が起きるのを祈りながら2カ月ほど飲み続けましたが、肝機能の改善にはつながりませんでした。このほかにも高額漢方薬、針治療、温冷灸治療などさまざまな民間療法を試みましたが効果はありませんでした。しかし、自宅療養と職場復帰を2年間繰り返す中で症状は徐々に安定していきました。こうした闘病生活を書き綴ると際限がありません。
職場復帰は5時間の制限勤務から始まり、6時間、7時間、8時間と増やしていきましたが、夜勤勤務の許可が出るまで実に7年を要しました。

病状が落ち着いたため80年1月、福岡県肝臓友の会(後に「九州肝臓友の会」に改称)を設立し初代会長に就任。転勤で福岡県外勤務の時も役員を続け、退職後の06年から今年春まで15年間、会長(3度目)を務めました。会は会員の減少と役員の高齢化が進んで運営が困難になり今年3月末で解散しましたが、全国組織の日本肝臓病患者団体協議会(日肝協)常任幹事と福岡県肝炎対策協議会委員は現在も続けています。福岡県難病団体連絡会の創設にも加わり、昨年3月まで約20年間、副会長や福岡県難病医療連絡協議会委員を務めました。

国の肝炎対策は患者団体の長年にわたる陳情活動を受けて肝炎対策基本法(09年)が成立。検査や治療費の一部助成など支援制度が作られました。私もコロナ以前は年に数度、上京し、日肝協の厚労省や議員への陳情活動に参加してきました。
「自分は幸運にも治癒し新聞社を無事卒業できた。同じ病気に苦しむ人たちの手助けをしなければ」との思いでいます。この活動は今後も続けます。
日中友好――大切な民間交流
私が所属する九州沖縄平和教育研究所(福岡市)主催の南京大虐殺証言集会で「戦争加害」をテーマに講演したのをきっかけに14年4月、要請されて「福岡市日中友好協会」の理事に就任。同月、松本龍団長(福岡県日中友好協会会長)の「九州地区日中友好協会訪中団」に同行して北京、南京を訪問しました。19年から福岡市日中友好協会理事長、福岡県日中友好協会理事として活動しています。
松本会長は元衆院議員(福岡1区)・元環境大臣で、90年2月の衆院選に初出馬・当選した時、福岡県政担当として取材していたので旧知の仲。17年に67歳の若さで急逝しましたが、14年の北京訪問時に「お久しぶりです」と挨拶すると「大賀さんが友好協会に入ってくれたことは聞いていました。これから力を貸してください」と返されました。

日中関係は12年に日本政府が民有地だった尖閣諸島を買い取って国有化したことから中国全土で反日デモが起き、日系企業工場や商店が略奪・破壊の被害を受け最悪状態になりました。九州地区の日中友好協会と九州地区を統括する中国駐福岡総領事館は何とかこの関係を改善したいと、13年から5年間、連続して福岡市内のホテルで九州日中友好交流大会を開催しました。
14年から5年間毎年、九州地区の日中友好協会で訪中団を編成し、北京の中日友好協会を訪問して唐家璇・中日友好協会会長らと意見交換しました。「将来を担う若者に日中友好の重要性を伝えたい」と中国人民大学日本語学科の学生たちと交流会も開きました。また「真の日中友好関係を築くためには日本の戦争加害の歴史を知る必要がある」として戦後70年の15年には南京大虐殺記念館を訪問し追悼集会を開きました。

私が理事長を務める福岡市日中友好協会は9月に「日本の若手教師と中国人留学生の交流会」、12月に中国駐福岡総領事館で総領事館職員・家族、中国人留学生、友好協会会員が一緒に餃子を作って食べる「餃子交流会」、1月に糸島市の牡蠣小屋で「日本の食の風物詩・牡蠣を味わう交流会」を恒例行事として開いてきました。残念ながらコロナで昨年から休止状態に追い込まれています。
昨年は福岡県日中友好協会の創立70周年を迎えたので、記念誌を発行しました。日中友好協会(東京)の初代会長は福岡出身の松本治一郎・元衆院副議長で、福岡県日中友好協会の設立は全国で最も早いものでした。記念誌は唐家璇・中日友好協会会長、丹羽宇一郎・日中友好協会会長、律桂軍・中国駐福岡総領事、柏蘇寧・江蘇省人民対外友好協会会長、九州各県日中友好協会会長ら両国のリーダーからメッセージをもらうことになり、編集は大変な作業でした。北京の中日友好協会とは直接、メールでやりとりをしました。見出しの付け方、写真の張り付け方や修正、字体の選定、縦書き、横書きなどパソコンに詳しい甥の指導を受けながら半年がかりで「A4判141頁カラー刷りの記念誌」を仕上げ、12月に発行することができました。
中国駐福岡総領事館を直接訪問して律総領事に手渡すと後日、「すばらしい記念誌です。職員の勉強のため20部買い取りたい」との注文が来ました。「原価の500円で」と返事すると「とんでもない。2000円出してもいい」と高く評価していただき、結局、1000円で商談が成立。編集者として救われました。私の編集で16年に始めた福岡市日中友好協会の会報『友好』はこれまで11号を数えています。
日中関係は12年に尖閣諸島問題で急激に悪化した後、安倍晋三首相と習近平国家主席との首脳会談で一時、雪解けムードが出てきました。しかし、香港やウイグル自治区の人権問題、軍事強国への動きなどが障害となり、改善する兆しが見えません。日中友好協会の活動も正直なところやりにくくなっています。そんな中で「大賀はなぜ日中友好活動を続けるのか」と思われるかも知れません。
それは簡単です。朝起きて隣に住む人と顔を合わせた時、「おはようございます」と気持ちよくあいさつし合える関係を望みませんか。会っても顔を背け合い、警戒し合う関係を不幸と思いませんか。
「あいつ、何考えているかわからん」「うちに火をつけるかも知れない」「包丁か木刀を準備しておかないと危ない」
国家間がこんな関係だと、国は引っ越しが出来ないので、そこに住む国民は永遠に角突き合わせ、お互いに恐怖感を抱きながら生きていかなければなりません。
50年10月に設立された日中友好協会は、日本政府が中国を「中共」と呼んで国として承認していなかった時代から民間交流を続け、72年9月の田中角栄首相の北京訪問・国交正常化の実現に大きく貢献しました。そのことは「多難な中でも民間外交を続けることの重要性」を物語っています。
来年は国交正常化50周年です。九州地区の日中友好協会は北京訪問や中国駐福岡総領事館との共催で記念事業を計画しています。コロナで先行き不透明ではありますが、私なりに小さな推進役の歯車になって活動を続けるつもりです。
2021年11月2日
戦災銀杏に狐が〝出幻〟と、元出版局のナチュラリスト、永瀬嘉平さん(80)の東京散歩


犠牲者、実に10万人。東京の浅草や本所といった、いわゆる下町(したまち)を中心にして米軍の無差別爆撃で多くの焼夷弾が投下された。それは人間だけでなく江戸時代以来の建物や由緒ある橋をはじめ、厚い信仰の対象だった名木・古木なども一瞬に焼滅させた。とりわけ火に強いといわれた銀杏が多かった。しかし、中国原産で、2億年も前にこの世に出現した銀杏は、自ら水を噴き、地獄を脱出し、炭化しながらも今に生き続けている。
私はここ20年来、そうした木を探しては、スケッチを重ねてきた。
この「飛木(とびき)稲荷神社」の銀杏もその一つだ。樹齢500年余、伝えによると昔、大風の日に、一枝の銀杏が飛んできて根づいたそうだ。
私がこの銀杏をスケッチしたのはだいぶ前になるが、最近になってこの銀杏、大人気になった。というのは、あるカメラマンが銀杏を撮影していたら、枝先に〝狐〟の姿を発見したのだ。
神社の関係者は人が集まると写真を見せて、ここの稲荷の〝おキツネさん〟が出現したと説明して回る。
見上げると、尾を高々と上げた狐の姿がある。一度炭化した部分は虫害などもなく、その形を長くとどめるのだそうだ。
50年来、日本各地の滝や巨樹を訪ね歩いてきたが、私の撮影した那智の滝の中に人影を発見したという人がいたり、実際、私も樹齢600年余の大榧の木肌に〝仏さん〟が出現したのをこの目で見たことがあった。多分、木肌に出来た凹凸によって出来たのであろう。
地元の古老は「百年に一度、仏さんが出る」と言った。
世の中には、不思議な現象があるものだ。
※季刊同人誌「樹下」に寄稿。狐の姿が見える銀杏は、墨田区押上2-39-6、飛木稲荷神社境内に。すぐ近くに東京スカイツリーが高々とそびえる。永瀬嘉平さん(80)は毎日グラフ、サンデー毎日在籍が長く、カメラ毎日編集次長、重要文化財事務局次長などを歴任。多摩市に住み、現在も平均して一日20㌔を歩いているという。お便りに綴られたある一日は――大江戸線大門で下車、増上寺で戦災を免れた樹齢4~500年のカヤの木をスケッチ。日比谷公園まで歩き、松本楼前の「首かけ銀杏」をスケッチ。有楽町に出て、築地市場場外の寿司屋で寿司と日本酒。勝鬨橋を渡って隅田川沿いを歩き、佃島でハゼ釣りを楽しむ人たちを眺め、八丁堀あたりを歩いて、東京駅へ――。
2021年11月1日
「平和のためなら 何でもやる」① ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」
新型コロナの感染が少し落ち着いてきたとはいえ、私たちの生活がいろいろ制約される中、ОBの皆さんも何かとご苦労が多いかと思います。今年5月、75歳になり後期高齢者の仲間入りした私も外出を極力控えています。困っているのは所属する平和関係団体や肝臓病患者団体の活動が軒並み休止状態に追い込まれていることです。
そんな中、西部本社の後輩から突然、連絡がありました。
「大賀さんの生き方はすごい。ぜひ、毎友会の『元気で~す』の欄に投稿してみんなを元気づけてください」
2つ年下の後輩は、5年前に長崎の新聞、テレビ局ОBを中心に結成された「言論の自由と知る権利を守る長崎市民の会」の会員(私も)で、今は京都に住んでいます。在職中も卒業後も志を同じくする同志です。
34年間の記者生活を卒業後、「平和のためなら何でもやる!」とさまざまな平和団体に身を置き活動を続けてきました。「書いてもいいけど面はゆいなぁ」などと迷ったものの、後輩が京都で平和・市民運動に参加し頑張っていることを知っているだけに断るわけにもいかず、勇気を振り絞って、リポートすることにしました。
これを読まれたОBの何人かでもいいので「自分も負けておれないぞ!」と、元気を出していただけたら救われます。
2005年3月末に記者生活を卒業して16年が過ぎました。現役時代のさまざまな情景が今も鮮明に蘇ってきます。まずは、その中から、私の生き方に影響を与えた取材体験を紹介します。
長崎――故本島等市長と出会う

1981年2月1日付で長崎支局に転勤。長崎大学を出た私にとって長崎は福岡に次ぐ第二のふるさと。入社10年目にして念願の「原爆」「被爆者」「核廃絶運動」「平和運動」などを取材する長崎市政担当になり、市長だった本島等氏(14年10月、92歳で永眠)と出会いました。本島市長は「被爆者を含め日本国民は戦争被害者と同時にアジア各国に被害をもたらした加害者でもある。これを忘れてはならない」──などと戦争加害や植民地政策の戦後責任などを指摘していました。後年、右翼の銃撃テロで重傷を負うことになります。
83年2月、長崎平和推進協会が設立されました。設立者は長崎市ですが「官民一体となって悲願の核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を目指す」というのが目的です。理事長には爆心地近くの聖フランシスコ病院で多くの被爆者の治療に当たった被爆医師・秋月辰一郎院長(故人)が就任しました。秋月理事長は長崎の核廃絶運動の中心的存在で82年の国連軍縮特別総会に日本代表として出席しています。
私は個人的に親しくしていた本島市長から「記者さんたちも広報面で助けてくれんかね」と依頼を受けました。そこで市政記者たちに呼びかけると、長崎新聞、西日本新聞、テレビ長崎、長崎放送の若手記者が応じてくれました。推進協には国際交流部会、継承部会、広報部会の3部会が置かれ、広報部会は部長の私と5人の記者たちが担いました。競争関係にある記者が協力したのは偉いですね。主な仕事は広報誌「へいわ」の発行。84年2月に「会設立1周年」として本島市長、秋月理事長、3部会の代表が出席し新春座談会を開きました。
沖縄――米兵による女児暴行事件
93年4月、念願かなって沖縄勤務が始まりました。那覇支局は朝日や読売と違い1人支局です。シャカリキに走り回らなければなりません。沖縄には「米軍基地」「沖縄戦」「観光」の三つの顔があります。私は沖縄戦と基地取材に力を注ぎました。戦後50年企画、日米20万人以上の死没者名を刻んだ「平和の礎」建設、米兵による女児暴行事件と県民ぐるみの基地撤去運動など、息つく間もありませんでした。

大田昌秀知事(故人)は会見の途中、いらだつような口調で「本土のマスコミの皆さんはもっと沖縄のことを書いてくださいよ」と、私たちヤマトの記者たちに向かって言ったことがあります。
戦後27年間、本土から切り離されて米軍統治を受け、戦後50年(当時)を過ぎても国土面積の0.6%しかない沖縄に70%以上の在日米軍基地が集中している現状。米兵による事件、事故も多発し続けていました。大田知事は「これは沖縄差別でしょ。沖縄県民は日本人ではないのですか?」と会見で怒りを爆発させたこともあります。
沖縄勤務中、最大の事件は何と言っても95年9月4日に起きた米兵3人による小学女児暴行事件でした。一人が買い物帰りの小学6年の女児に道を尋ねるふりしていきなりみぞおちにパンチ。もう一人が後ろから羽交い絞めにし、もう一人が待っていた車の中に拉致するという、計画的犯行でした。犯行に人間味は微塵も感じられません。記者会見した県警広報室の幹部も、発表しながら怒りをこらえきれなくなったのか、「こいつら八つ裂きにしたい!」と言い放ちました。
日米安保体制の根幹を揺るがしかねない凶悪事件でしたが、日米地位協定の取り決めで3人の身柄は米軍下にあり、取り調べは3人が基地から所轄署へ通う形で行われました。「そんなバカな」と怒っても現行犯逮捕以外は手が出せない。県民の怒りが一気に高まり、10月21日、普天間基地近くの宜野湾市で「8万人抗議県民大会」が開かれました。これは自民党国会議員も参加するオール沖縄の大抗議集会となり、翌年4月の普天間基地移設・返還発表へとつながりました。
県民大会の翌日、外出中の私に、応援に来ていた東京社会部の記者から「県警刑事部長室にすぐ来て欲しいということです」との連絡がありました。「何の用事だろう」と首をひねりながら刑事部長室に入ると応接ソファに腰を下ろすように促され、1枚の用紙がポンとテーブルに置かれました。3人の名前が書いてあり、基地内に侵入した刑事特別法(刑特法)違反容疑で逮捕したというのです。
「えーっ!何ですこれは。基地に侵入したというのですか」
「この時の反応で大賀さんの嫌疑(基地侵入指示)が晴れた」(刑事部長)というのは後日談ですが、東京社会部の記者と写真部の記者が北部の基地内で地元民とともに、米軍に逮捕されたのです。2人は基地取材で知り合った地元の人に案内され、実弾演習場の写真(演習中の写真ではありません)を撮ったところで米兵に身柄を拘束されてしまいました。侵入した基地は金網が破られ地元民は時折、出入りしていたそうです。刑事部長から「今日中に釈放するので身柄を受け取りに行って欲しい」と言われました。頭が混乱する中で西部本社に連絡し、すぐに所轄の石川署にマイカーを飛ばしました。
署に入ると副署長が琉球新報と沖縄タイムスの取材に応じていました。
「今回はご迷惑をおかけしました」と、私が深々と頭を下げると、2人の記者曰く、
「これは不当逮捕ですよ。あの土地(基地)はもともと、米軍が県民の土地を強奪したもの。そこに入って何が悪い。早く釈放するべきだ!」(要旨)
驚きでした。逮捕記事をどのように毎日新聞に書こうか、と頭を悩ませていた中での沖縄記者の反応。本土の新聞はまさか、“不当逮捕”とは書けない。しかし、沖縄県民の目は違うんだと、教えられました。毎日新聞では社会面3段で事実のみを報道しました。ところが、琉球新報と沖縄タイムスは大きく扱い、逮捕そのものに批判的なトーンの記事だったと記憶しています。
驚きは続きます。取調室から出てきた2記者は憔悴した表情でした。ところが刑事課長が「ご苦労さんでした」と言って、彼らの肩を揉み始めたのです。「逮捕した被疑者の肩を揉むのはまずいのでは?」と、こちらが心配したほどでした。
沖縄県警が3人を即日釈放したことに那覇地検は激怒したようです。被疑事実を認めているので1回で済む事情聴取なのに、いやがらせのように複数回、東京から記者を呼びつけました。次席検事とは顔見知りなので面会を求め「聴取がなぜ何度も行われるのか」と質すと、押収した写真を見せながら「この写真と供述内容が一致しない」と、些細な理由を挙げて説明。「即日釈放した県警への当てつけだな」と受け止め、「ご迷惑をおかけしますが、迅速な処理をお願いします」と頭を下げました。
予想通りの略式起訴(罰金刑)で決着したのち、私は社会部記者を連れて署にあいさつに行きました。速やかに事件を処理してもらったお礼を述べるためです。
ところが署に着くと、思わぬことが待っていました。署長室に入ると、何とテーブルにご馳走が並んでいたのです。詳細なやりとりは記憶が薄れていますが、「遠い東京から沖縄にやって来て基地問題を書いてくれていることに沖縄県民として感謝している。是非、今後とも基地の現状を書いて欲しい」といった言葉で、逮捕された労苦を労われました。
また、副署長は別の日、この記者を自宅に招き、酒食の“慰労”で「落ち込まず今後も積極的取材活動を」と激励してくれました。その後、同記者は希望して東京本社から西部本社に転勤し、沖縄取材に当たりました。感動物語です。
逮捕した人物を警察が激励する──。これが公になったら、署長も副署長も刑事課長も責任を問われかねない話です。しかし、“沖縄の声”がなかなか本土に届かない中で、東京の人間(記者)には過重な基地負担に泣く沖縄の現実を是非、報道して欲しい──という強い気持ちがあったからに違いありません。普天間基地の辺野古への移転工事が県民の反対を無視して続くなど基地差別に泣き続ける沖縄県民の心を私たちヤマトンチュはもっと理解しなければならないでしょう。
加害実態を知る――「中国平和の旅」

福岡県政のキャップをしていた88年8月、県内在住の教職員有志90人で計画された「中国平和の旅」を同行取材しました。私の父親は盧溝橋事件(37年7月7日)の1カ月後に徴兵されて2年8カ月間、徐州会戦や武漢攻略戦など日中戦史に残る戦いに参加しています。捕虜の斬首や新兵の度胸づけのために行った捕虜への銃剣刺突訓練など日本軍が犯した残虐行為を幼い時から聞かされていたので「いつか戦地巡りをしたい」と考えていました。
真夏の過酷な12日間の旅。私を含め多くがお腹の調子を悪くしましたが、肉体的な面もさることながら想像以上にひどかった「加害の実態」を知り、精神的ショックは計り知れないものがありました。中国側の特別配慮で南京大虐殺記念館(南京市)、関東軍第731部隊資料館(ハルビン市)、平頂山殉難同胞遺骨館(撫順市)などでは館内撮影が許可され、その数は数百点にのぼりました。
「記者として、中国での日本軍の罪業を知った者として、持ち帰った写真・資料を手元で眠ったまま放っておくのは許されない」──。帰国後、そう思った私は、関東軍第731部隊の戦争犯罪を『悪魔の飽食』という著書で暴いた森村誠一氏に写真、資料の一部を送り評価を仰ぎました。何の面識もない一記者からの突然の手紙だったにもかかわらず、「貴重な資料だから世に出すべきだ」といった趣旨の手紙が届きました。
森村氏と奥田八二知事(当時)から原稿料なしで推薦文をいただき、写真集『日本軍は中国で何をしたのか』のタイトルで89年7月、自費出版にこぎつけました。写真集は「平和の旅」に参加した90人の先生たちが広めてくださり、また、新聞でも紹介されて全国に広まり、今日まで4刷9,200部印刷しています。

特筆すべきは、毎日新聞社内の温かい反応でした。多忙な県政キャップのポストにいたので「そんな暇があるのか」と、批判されるのではと心配でした。原稿書きは自宅でいつも深夜に行い、夜を明かすこともありました。デスクに「出版できました」と報告すると、「毎日新聞で紹介するから原稿を出せ」との指示。本紙で扱われたのをきっかけに「赤旗」「社会新報」の全国版で紹介され、全国から注文が寄せられました。編集局長からは「大賀君、頑張ったな。おめでとう」と言って金一封を手渡されました。妻共々、涙するほどの感激でした。妻に「自宅周辺で尾行がないか気をつけて」と注意されるなど、右翼からの攻撃を心配しピリピリした生活が続いていたのです。
益金は全額、「中国基金」としてプールし、戦後50年の95年8月15日、妻と2人、南京大虐殺記念館を訪問した際に、私の中国講演謝金を加えて200万円を寄付しました。記念館の空調設備や展示コーナーの改修に役立てられたそうです。
「中国平和の旅」の同行取材、写真集の自費出版などの経験が退職後に始めた日中友好協会の活動につながっていきました。
2021年11月1日
北ア白馬岳が雪化粧―ペンションオーナーの元スポーツ事業部長、江成康明さんの便り

ペンション「夢見る森」オーナー江成康明さん(元運動部、スポーツ事業部長)からメールが届いた。
◇
北アルプスが真っ白になり、紅葉も里まで降り始めました。
白馬は冬の準備真っ盛りです。
ただ、灯油の高騰には頭を痛めています。昨シーズンより1リットル当たり20円増。
本格的な冬には、どれほどの出費になってしまうのか…
考えただけでも恐ろしくなります。
長野県北安曇郡白馬村神城458-258
0261-85-0072(FAX兼用)
アクセス:JR大糸線南神城駅から徒歩10分
長野駅東口から特急バス・白馬行きで『白馬五竜』下車
2021年10月4日
元制作局、長友伸吾さんの「パキスタン共和国の思い出」
毎日新聞社を退職後、JICA「海外青年協力隊」のボランティア活動に興味が湧き、受験して合格。国から決められた派遣国がパキスタン共和国でした。1995年7月10日、3年間の予定で、成田空港から出発しました。20年以上前の経験ですが、パキスタン理解の一助にと考え、報告します。
『パキスタン』というと、2011年にはイスラム国のオサマ・ビンラディン氏が殺害された国として報道され、最近はアフガニスタン問題で再浮上してきたタリバンの関連で、テロリズムに関係する国と思われる方が多いのではないでしょうか。確かにその側面があることは事実です。でも多くの現地人は普通の国民であり、国旗に示されている緑色がイスラム教を象徴し、白色は他教の国民を表し、イスラム教徒だけではなく、他教も受け入れる共和国という意味があります。心優しく、誇り高く、外国人を家族と同じように受け入れてくれる寛大な包容力のある国民で成り立っている大陸に存在する国家です。忘れてはいけないのは、同じアジア人であり親日家であることです。
パキスタンの首都郊外にあるイスラマバード空港に到着した日は、シャルワールカミーズ(現地の人の普段着で、オウム真理教徒が纏っていた衣装に類似している弥生時代の貫頭衣のような衣装)をまとった人々が空港に密集していて、真夏だったこともあり、現地の方々が男性ばかりで口髭・顎鬚を生やした彫りの深い顔をされていて、少し恐怖を感じました。

赴任先は首都イスラマバードのF―6という地区にある国立障害者職業訓練センターでした。現地では、報酬のない準公務員という扱いです。言語は、地方の方言を除き、国語がウルドゥー語、公用語は、英国の植民地であったため英語でした。自分の言葉で伝え、信頼関係を築いていきたいと目標を持ってウルドゥー語の辞書・メモ帳をいつも身に着けて現地のスタッフと会話しました。
私の職種は竹工芸でした。籠作りがメインでしたが、現地には籠作りに適した竹が生息しておらず、センターでは籐籠つくりをメインに、知的障がい者に教えていました。日本人でも竹工芸は、刃物を用い、細かな作業のため、知的障がい者に仕事を伝えていくためには興味をよほど持ち、発達障がい者のように一芸に秀でているような方でないと1年間でやっと健常者の1日で覚えられる許容量だと思いました。
まずは生徒達の体力作りから始めました。昼食は生徒たちの弁当の他、私のボランティア活動の現地支給費で、肉のたくさん入ったナンやサモサ(日本の揚げ餃子のようなもの)などを買ってきて、一緒に食事を摂りました。時には自宅で日本食(豚肉・酒類はイスラム教で禁止されているので、それを避けたもの)を作って生徒や同僚などに振舞いました。しかし、基本的に自力で収入を得る力を身に着けさせることがボランティア活動の基本と学んでいたので、食事に重点を置きました。
次に運動でした。日本のラジオ体操をウルドゥー語に訳してカセットテープに吹き込み、朝・昼休憩後にラジオ体操、そしてストレッチ運動(真向法)を日本人会の図書館で見付けて、それを取り入れました。
生徒たちは衣食住が整った事、体力がついてきたことで、やる気が出てきました。ここまで1年近くかかりました。私もパキスタン人の同僚・友人などのお陰で現地語は新聞が読めるまでに上達しました。
それから生徒達の能力に合わせて簡単な作業で編めるような機材を手作りし、同僚の自宅の空き畑に竹を植えさせていただいたりして材料費をセンター(国)に負担させないために自給自足的な活動も始めました。

残念ながら籐はパキスタンの気候に合わないため、隣街のラワルピンディーに赴き、直接、業者から安く購入しました。パキスタンは日本の関西圏の文化に近く、言い値を負けてもらう交渉の文化が通常なので、2000ルピー(当時1ルピーが日本円で3円位の価値)が、200ルピーになったり、買い出しも楽しみの一つでした。
また当時は日本人でボランティアをしているのが珍しい事、パキスタンにメヘマーン(お客様)へのおもてなしの文化があり、チャエーやナンなどをご馳走してくれることは日常茶飯事でした。ご馳走になるチャエーも通常のナンも一杯・一枚が1ルピーなので互いに気を遣わせない国民食でした。
一年半が過ぎた頃、センターでチャリティーバザールをしようという事になり、それぞれのクラスでバザーへ出す作品作りをする事になりました。私の竹工芸クラスは、私と同僚が現地の節高の加工しにくい竹を使った籠、生徒たちが作った籐籠(瓶などに四ツ目編みから立ち上げゴザ網を瓶の周りに編み込んで仕上げた花瓶)をメインに製作しました。
バザール当日、日本人会の方々・専門家・現地の人々が多く訪れて下さり大盛況でした。私のクラスは、籐が現地では高価だったので値段も現地の方の収入からは高い方になるのですが、完売しました。日本人の方々の協力もあったおかげもありますが、初めて開催した国立障害者職業訓練校センターのバザールで売り上げトップとなり、所長に売上金をお渡ししたのですが受け取らず、竹工芸クラスの生徒たちへの報酬に使ってほしいとのことで生徒達に均等に売上金を渡した所、生徒達は「偉大な神様、有難うございます。先生、有難うございます。やったぜ、みんな友達、最高に幸せだぜー」と自然と発声しました。
周りの人達も生徒達に祝福の拍手を送ってくれていました。知的障がい者は家の厄介者と思っていた家族、思わされていた生徒達もみんなが心一つになり、誰でも努力をすれば可能性を持っていると思うことが出来た一日だったのでしょうか。生徒達の笑顔が今でも目に焼き付いています。私の厳しかった指導に耐えながら努力をしてきた生徒達が主人公、そこにはたくさんのスタッフや家族などの支えがあってからこその達成感と結果が残せたと思います。青春の良き思い出の一ページです。今も心の宝です。
(長友 伸吾)


※長友伸吾さんは1986年に毎日新聞東京本社制作局に入社。パキスタンには1995年7月から98年10月まで滞在し活動しました。54歳、岡山市に住み、福島清さん達が発行する会報「KOMOK」に10月から当時の話を連載していますので、要約を転載しました。
2021年9月29日
元スポニチ社長、牧内節男さん、96歳にしてスマホと格闘す

ブログに「スマホを手に入れる。使い方がまだ十分わからない。唯、わかったのは96歳の持つものではないということである。『今日の運勢』を見ようと操作したところ1930年生まれ以降しかわからないのだ。私のように1925年生まれはないのである。それでも面白そうである」と書いた(9月22日)。
物好きがいると見て「原稿にしろ」という。
スマホの良いところは表紙を開けると大きな時計版、日付と万歩計があることだ。もともと携帯は時計と電話代わりであった。それに時々、カメラを使用した。今回も使い方は携帯程度になるであろう。これは確かである。操作は指で上に撫でれば良い。後は表示される文字に従えば目的は達成される? ところがそういかないのである。私の指が悪いのか、機械が悪いのか・・・
暗証番号「5」「9」を入れると、次の事項が表示される。「電話/電話機、メール、インターネット、1,2,3,4,5の数字、PLAYストア、GOOGLE、カメレ・ビデオ、Dメニュー/検索アルバム、声で調べる・操作する、ドコモサービス、乗換案内、さくらさくらコミュニティ、地図、LINE、スケジュール、目覚まし、ホームカスタマイズ、花ノート、Dショッピング、本体設定、自分の電話番号、らくらくホンセンター、使い方ガイド、ダウンロードしたアプリ、よく使うブックマーク、便利ツール。今度は絵付きで電卓など16個の機能の図、エンターテイメント、トラベル・ドコモ海外利用、あんしんツール。災害用キット、データーコピー、つながりほっとサポ・・・安心データー保存」
よくできた機能がいっぱいある。
インターネットを指で押えると「銀座一丁目新聞」が出てくる。外で誰かに説明するときには役に立つ。「この新聞を出すのが私の生きがいなのです。平成9年4月開設だから20年を超えています」と胸を張る。GOOGLEは検索を押すと文字が表示され、「あ」「か」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」が出てくる。「本日の天気」「台風の動き」と書き込めばその状況が表示される。「常に最悪の場合を考えよ」を教え込まれているので「災害用キット」は使えるようした。
10月のスケジュールを入れようとしたが、文字と数字の変換がうまく行かず諦め、手帳に書き込んだ。スマホは若者にとってはなくてならない日常用品であろうが、私が使いこなせるようになるには後数年はかかる。英語「MACHINE」は女性名詞である。「男女7歳にして席を同じくせず」と教わった大正生まれは、ともかく女性は苦手なのである。連日涙ぐましい苦闘が続く・・・
「秋深しスマホ手にして吾惑う」悠々
(牧内 節男)
2021年9月27日
元科学環境部長、横山裕道さんが、久しぶりに長期連載に挑戦――「宇宙から見る気候危機」を「環境新聞」に

世界的に自然災害や異常気象が多発している。地球温暖化による気候危機が現実のものとなったのだ。このままでは過酷な未来が現在の子どもたちを待ち受ける。現役を離れても温暖化の問題を書き続けたいと思ってきた。だが正面から気候危機を取り上げてもあまり面白くない。何か新たな捕らえ方はないものか。
こう考えて、たどり着いたのが「宇宙の視点から考えてみよう」ということだった。いま太陽系外での惑星発見ラッシュが続き、地球外知的生命探査(SETI)も根強い人気を集めている。「第2の地球」では知的生命が人類以上の文明を発展させ、既にエネルギー・環境問題を克服しているという考え方もある。もしそうなら、彼らと接触できれば気候危機を乗り切る重大なヒントを聞けるかも知れない。
そもそも生命のもとは、宇宙からもたらされた可能性が強い。巨大隕石の地球への落下が人類誕生のきっかけになるなど、我々と宇宙の関係は極めて深い。地球の環境がこれ以上ひどくなれば、人類の宇宙進出も現実味を帯びてくる。「宇宙は人間出現を意図していた」とする人間原理の考え方もある。いま宇宙の視点から、地球上で偶然も重なって生命や人類が誕生し、化石燃料の大量使用から未曽有の事態に陥ったことを振り返ってみることは、地球温暖化・気候変動への理解を深め、解決策を見出すために有意義だろう。
こんな考え方を旧知の環境新聞社編集部長に伝えたところ、2021年春から「環境新聞(週刊)」で月2回の連載を2年間やりましょう、というありがたい返事をいただいた。カラーページの最終面に3分の1の枠をもらい、「宇宙から見る気候危機」のタイトルで連載が始まった。1回目は<架空ドキュメント「地球外知的生命がいた」 電波検出で世界が興奮――2040年>という見出しが躍った。
「まず2040年の世界にタイムスリップしよう」と書き、温暖化がどうなっているかにスポットを当てた。

<世界的に夏の熱波の襲来は耐えられないものになった。40℃を超える日が頻発し、欧米や日本の大都市では日中は人がほとんど出歩かない。日本で最高気温が40℃以上の日は酷暑日と名付けられた。熱中症による死者の数はどの国でも急増し、動植物への影響も目立つ。アフリカやアジアでは干ばつが襲い、水と食糧不足に悩む地域が増えた。島国では海面水位の上昇が現実的な脅威となった。>
こんな時に中国が「地球外知的生命からの電波を検出した」と発表する。「高度な文明がもう一つあった」という世紀の大ニュースに世界は興奮する。温暖化対策の専門家の間からは「我々の気候危機を知られたら恥ずかしいぞ」という率直な感想が漏れる――。
この後も<「第2の地球」も異常事態体験か><熱心に続く地球外知的生命探査>などをテーマに書いている。「月2回なら十分余裕はある」と最初は考えたが、原稿執筆、ゲラの確認、参考文献やSFに目を通すなどやるべきことはいっぱいある。それでも楽しみながら執筆している。現役時代に一人での長期連載は週1回の科学面に「大地震 警報時代の幕開け」を1年以上続けたことがある程度。それ以来のことに老体を鞭打ちながらの挑戦となった。
科学部長だった1996年に科学部の名称を科学環境部に変え、環境面を創設した。地球温暖化が必ず大きな問題になるから、それに備えようと考えたのだった。当時は気候危機の言葉はなく、やっと低炭素社会の言葉が使われ始めたころだ。それからちょうど4半世紀。温暖化は予想以上に高じ、現代文明が問われると同時に、国家の安全保障上の重大問題とまで認識されるようになった。
終活に入る前に、ずっと追いかけてきたテーマでもある今回の連載だけはしっかり書き上げたい、と思っている。これまでの連載分は、過去に本を出版した紫峰出版のHPで読めるようになっている。 https://www.shiho-shuppan.com/
(横山 裕道)
※横山裕道(よこやま・ひろみち)さんは1969年入社。東京社会部、科学部などを経て科学環境部長、論説委員。2003年退社後に淑徳大学教授を務めた。
2021年9月24日
新聞、テレビを〝オワコン〟にしないために――RKB毎日放送に移って8年、元外信部長、飯田和郎さんの提言
「新聞とテレビ。そんなに変わらないでしょ?」
2013年春、毎日新聞社からRKB毎日放送へ移りました。それ以降、多くの方から同じことを聞かれました。

「いえいえ、違うところばかりで…」
「どこが違うの?」
そんなやりとりの後、私は何度かこう答えました。
「新聞社にいた時は5分ぐらい電話取材して100行の原稿を書いていましたけど、テレビは2時間カメラを回して番組で使うのは数分ですからね」
少々誇張をまじえて説明してきましたが、新聞以上に「画(映像)の強さ」が優先されるのがテレビです。放送記者の取材アプローチも、新聞記者のそれと大きく異なることがあります。
RKBは今年、創立70周年を迎えました。全国で四番目、西日本では初めて開局した民放です。新聞に全国紙と地方紙があるように、放送局もキー局とローカル局に分けることができます。RKBはTBSをキー局とするJNN系列のローカル局。テレビは福岡県と佐賀県、ラジオは福岡県がそれぞれ主な視聴、聴取エリアです。
私の新聞社在籍30年間のうち、最初の8年間を過ごした佐賀市、北九州市はいずれもRKBの電波が届く範囲でした。新聞からテレビへ。「全国」から「地方」へ。戸惑いもありましたが、かつて一緒に警察を回っていたRKBの同世代とも久々に再会できました。22年ぶりに九州へ戻ってきたのは縁だったのかもしれません。
私が籍を置いた二つのメディア、新聞と放送はともに、「オワコン」(終わったコンテンツ)と呼ばれていると聞きます。確かにテレビの地上波放送を観る人は減少し、ラジオを聴く人も減っています。民放ですから、CM広告が大きな収入源です。スポンサーからすれば、購買意欲の高い若い世代をターゲットにしたいのですが、その若者はスマホには見入るものの、彼らのテレビ離れ、ラジオ離れが進んでいます。
もちろんテレビから離れない人たちもいます。だけど新しいテレビ受像機はいろいろな機能を備え、YouTubeも、有料ネット番組も視聴が可能です。「テレビ(=テレビ受像機)は観るけど、テレビ(=地上波番組)は観ない」と言われるのは、こういうことです。CM収入の減少はコロナ禍だけではなく、難しい時代に入っていることを示しています。
暗い話ばかりを並べてしまいました。還暦を過ぎたせいか、RKBにいる若者たち、この業界を志望する若者たちに、どんな組織を残せるかを考えることが多くなりました。
記者出身だからでしょうか。やっぱり良質のニュースを送り出し、地域から信頼してもらうこと。それに尽きるのかな。地方にいると強くそう思います。
もちろん、課題は少なくありません。例えば、前述の「強い画」を得るには時間も人手もお金もかかります。取材に大人数を充てることはできません。働き方改革に知らぬ顔できない時代です。予算も増やせません。最近ではデジタル媒体への対応も欠かせません。新聞社であれ、放送局であれ、悩みは同じでしょう。
でもライバル社には負けたくないし、若い人たちにこの仕事のやりがいと面白さを知ってほしい――。こちらも、新聞であれ、放送であれ同じです。在籍したままなら多分気づかなかった、今だからこそ見えてくる毎日新聞のチカラを感じるようになりました。テレビにも新聞にはない長所があります。新聞社は放送局を時にずる賢く「利用」してほしいと願っています。
一例として、こんな取り組みはどうでしょう。取材テーマによっては合同でチームを作り、それぞれが得た素材を共有し、タイミングを合わせてそれぞれの媒体で打つ……。オワコン同士(?)、新聞社と放送局共同の「実験」を始められないでしょうか。
RKBと西部本社が合同で取り組んだ北九州市5市合併促進キャンペーンは高く評価され、1962年度の新聞協会賞(編集部門)を受賞しました。RKBにとって唯一の協会賞受賞です。
半世紀以上前の両社の先人たちの方が、ずっとアイデアに優れていたのでしょう。
最後に近況報告です。RKBで8年間務めた役員をこの夏、退きました。違う形でしばらく会社に残りますが、少し時間ができそうです。来春からは会社近くの私大の大学院で学びます。これなら会社に在籍しながら、通えます。専攻はやはり新聞社時代からのテーマだった中国に関係します。
毎日新聞にいたころを振り返ると、難病で若くして他界した先輩、雲仙・普賢岳で火砕流にのみ込まれた同期、海外での業務中の事故で今も入院生活を送る後輩の顔、顔がなにより浮かびます。健康な日々を送れる自分は本当に幸せです。それだけに今できることを、の思いが募ります。
(飯田 和郎)
※飯田和郎(いいだ・かずお)さんは1960年、東京都生まれ。関西学院大経済学部卒。83年入社。佐賀支局、西部報道部を経て外信部。北京と台北で計3回特派員を務め、外信部長。2013年3月に退社
2021年9月24日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑯ ある新聞記者の歩み 15抜粋
若くしてひとり地方に降り立ち、もまれて育つキャリア官僚
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo


今回は、官僚の世界です。佐々木さんは政治部時代、自治省と外務省を担当され、今回は自治省、次回は外務省担当当時のことをお聞きします。
目次
◇大蔵省より人気だったエリート官庁
◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア
◇知事をめざす自治省エリート
◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問
◇記者会見今昔 昨今の会見を見て
◇ニュースがない自治省の最大のニュースは?
◇ニュースがない職場で読書と論文執筆
◇大蔵省より人気だったエリート官庁
Q.福田番を終えた後、1979(昭和54)年の春、中曽根派担当を兼ねながら、自治省の担当になっておられますね。
自治省という役所を担当して初めてとは言い過ぎかもしれませんが、ぼくは明治以来の「日本国」の統治機能の形がハッキリとわかったような感じがしました(中略)。
◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア
自治省を担当して日本の役所っていうのは、自治省と大蔵省とで持っているという感を強く持ちました。自治省の役人は、包丁一本さらしに巻いてじゃないけど、若い官僚が自治省に入って数年で各県の自治体の総務課長とか、企画課長、財政課長とか主要ポストに単身で天下りというか出向するわけですよ。最高ポストは副知事ですが、そうすると、当時の県庁、市役所、町村役場などの地方自治体の職員を組合員とする自治労(全日本自治団体職員労働組合)はまだ力があって「天下り反対!」なんて、赴任先の県庁所在地の駅に着いたときからプラカード立てて赴任させまいとするんです。そういう中で、霞が関から落下傘で一人で降りるわけです。でも最近では小さな村役場や、離島、豪雪地帯などにも派遣して日本国土の多様性を勉強させているようですね。地方の問題を中央の政策にフィードバックさせようというねらいもあると思います。そこでどうやってそこの自治体の部下となる人材を“手なづけて”、中央の方針をその地の政策に反映させるか。ということを学ぶわけです(中略)。こういう環境の中でもまれて役人生活を送ってきたわけですから、この人たちは懐が深く、付き合っておもしろい人が多かったな。
◇知事をめざす自治省エリート
いまでも自治省出身の知事がずいぶんいますね。数えたら47都道府県のうち13人もいます。兵庫県のように現在まで4代59年にわたって自治省出身者というところもあります。現在は総務省ということで、戦前は逓信省だった旧郵政省と一緒になって変な役所になってるからわからないですが、当時の自治省の役人は自治省自体でエラくなりたくはない、最終的には知事になりたいということでした。いまでも覚えているけど、行政局長の土屋佳照さんの部屋に行くと、堂々と壁に鹿児島の桜島の大きな写真が飾ってあるんです。それは彼が鹿児島出身だからです。しかも知事になりたいという意思表示なんですね。その後、1989(平成元)年から2期知事になり、見事に実現させましたね。鹿児島県というのは、戦後65年間、ずっと内務省、自治省出身の知事でした。でも最近は鹿児島県もですが、経済産業省出身の知事も増えていますね。調べたら全国で6人でした。
Q.赴任先の現地では床の間背に坐る立場ですよね?
当時の自治省というのはなかなかの官庁だったと思いますよ。人間的にもすぐれた役人が多かったと思いますね。中曽根内閣当時、官房長官を務めそのタカ派路線をいさめた後藤田正晴さんなんかもそうですし、自治省事務次官を務めた石原信雄さんも竹下内閣から8年間、7代の首相の官房副長官を務め、昭和から平成の改元時期を乗り切って、未だにその行政手腕、調整能力は評価されていますよね。やはり国の行政のツボを押さえている経験と、その練られた人間力が特徴ですよね。他にも政治家として日中国交回復に努力した自民党の厚相も経験した終戦時の内務次官・古井喜美、警視総監の町村金吾、自治相にもなったタカ派で有名だった奥野誠亮、東京都知事になって美濃部都政時代の赤字を一掃した鈴木俊一などを輩出していますね。やはり行政面ではやり手の印象が強いですね。
でも終戦時、戦犯を出すことを恐れて全国の市町村に戦争体制遂行の公文書の焼却を命じたのは、奥野誠亮、のち読売新聞会長になった小林与三次、若手内務官僚だった原文兵衛らだったと伝えられているようで、後世の歴史に公文書を残すなんていう感覚は皆無だったことは確かですよね。戦前の“天皇の官僚”としての限界はあったかもしれませんね。
◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問
自治省担当の時、第二次大平内閣の時で、後藤田さんが自治大臣だったですね。なんか“風圧”がありましたね。この人はすごい人だなあと思いましたよ。当時の自治省のドンのような感じだったな。自治省の官房長、税務局長、警察庁の警備局長、長官という経歴で、うかつなこと聞くと怒られそうで----。政治部の人っていうのは、公式の記者会見で質問というのはしない風潮があるんですね。サシ(一対一)で話すのが政治記者だ―みたいなところがあるんですね。ぼくは経済部出身だったから、夜回りなんかもするけど記者会見が真剣勝負、本命という意識があって、いろいろ聞くのが記者会見だと思っていたんです。内政クラブ(自治省の記者クラブ)の記者は、ほとんど質問しないんですよ。ぼくは後藤田さんにいろいろ質問したことを思い出します(中略)。
◇記者会見今昔 昨今の会見を見て
Q.昨今、首相などの記者会見で、突っ込みが足りないといった批判が。
当時と違うのは、各新聞のスタンスが“リベラルと保守”という今みたいに明確ではなかったですよね。読売や産経がやや政権に好意的という“感じがありましたが、“安倍政権支持”というように明確ではなかったですね。それに“金権政治”ということで、政治スキャンダルは田中金脈事件、ロッキード事件、ハマコーさんのラスベガスの一晩で450万㌦、4億6千万円をすってしまうという事件など、有権者の生活感覚とかけ離れた、政治と金に絡む事件で各社とも足並みそろえて批判が出来ました。それと自民党の派閥抗争も“我田引水”の自派の勢力の拡大、自派の閣僚ポストの獲得-という分かりやすい権力闘争で、各社とも足並み揃えて批判しやすかったと思います(中略)。
国のあり方を巡って新聞社間でスタンスが違うので、どうしても政権側は自分に有利な方のQ&Aでしのごうという気分が強いんじゃないでしょか。記者側も下手な質問をして官邸ににらまれたくない、ネット世界で炎上したくないというような忖度もあるんじゃないかな。当事者に食い込んでいる記者ほど、自分の持っているネタをもとに質問して他社に知られるようなことはしたくない、ということもある。政治記者のサガとして、どうしても政治家と一対一のサシで当事者本人と話をしたいという気分があると思います。
それと記者側も反対論調側との記者同士の対立を避けたい、記者クラブの“調和の世界”を崩したくないという記者クラブ内の同調圧力という感じがあるのかもしれませんね。また我々の時と違うのは、外国人記者クラブ、社会部の記者、ネット関係の記者、フリーランスの記者の参加もあるようで、記者の数は増えているのに会見の質の向上と活性化が出来ていない感じがします。
ただ記者側を責めるのは酷な面もあると思います。やはり会見の当事者側の腹がすわっていないかというか、語るべき自分の言葉を持って対応していないと思います。語るべき自分の世界観、国家像、政策の基本方針というものがカラッポという感じがしてしょうがないですね。特に安倍政権、コロナ禍の下の菅政権を見ているとその感を深くしますね。ですからなるべく早めに切り上げて、やめにしたいという感じが見え見えですね(中略)。
◇ニュースがない職場で読書と論文執筆
Q.物理的には、自治省のクラブにおられたのでしょうか?
そうです。あのときは、はっきり言って、そうとうにヒマでしたね(笑)。(中略)でも遊んでいたばかりじゃありません。この時期(1979(昭和54)年)の専門誌「法学セミナー」の総合特集シリーズ増刊号10月号「日本の公務員」特集に「“天下り”公務員・その構造と実態」という論文を寄稿したりしています。原稿用紙で30枚程度ですが、その頃批判のやり玉に挙がっていた高級公務員の天下りについて分析したものです。西尾勝東大教授、松下圭一法政大教授といった当時売れっ子の学者の論文と並んで、自分の原稿が載るのもいい気分でしたネ(笑)。自分で言うのもなんですが、よくできた論文と思います(笑)。後年「エコノミスト」の編集長になる、当時編集部におられた駆け出し記者時代世話になった図師三郎記者がこの論文を読んで、「佐々木君もこういう原稿が書けるようになったんだ」とほめられ、うれしかったことを思い出します。(了)
2021年9月13日
白寿、米寿、喜寿……敬老の日(20日)を前に、皆さん元気に、
「毎友会会長 石井國範様
この度は白寿祝 誠にありがとうございました。お陰様で元気に暮らしております。貴会の益々の発展をお祈り申し上げます」
白寿の石綿清一さんから、石井会長へお礼のメールが届きました。
毎友会では、今年度から満年齢に合わせて、白寿(99歳)、米寿(88歳)、喜寿(77歳)のお祝いをお送りしています(昨年までは数え年)。
「白寿」の方は、来年3月までの今年度分で、田中喜八郎さん、吉田 公一さん、阿久津 宏さん、石綿 清一さん、上野 信夫さんと5人を数えます。吉田さんは白寿を前に、残念ながら亡くなられましたが、毎友会も長寿社会を迎えているようです。
お礼のメールをいただいた石綿さんは、浦和支局長、校閲部長などを歴任。1976年繰り上げ定年退職後も、地元・埼玉で社会福祉法人埼玉療育友の会理事長や埼玉会館の文化活動に尽力し、2013年には著書「文化を耕す 福祉の光芒は 卒寿を乗り越えて」も出版しました。
今回のお祝いの対象ではありませんが、元スポニチ社長、牧内節男さんは、ネット上で主宰する「銀座一丁目新聞」9月1日号で「96歳になる(誕生日大正14年8月31日)。最近はめまいが酷いがなんとか生きている。大病はしたことがない。医者嫌いである。薬はほとんど飲まない。一応は100歳を目指す」と元気です。
米寿の皆様のお名前を紹介して、ともに祝いたいと思います(来年3月までに米寿を迎える方も含む)。喜寿の方は49人ですが、お名前は割愛させていただきます。
《米寿の皆様=敬称略》川村 金久、石垣 文夫、松井 頴敏、麻生 正志、大崎 惠子、福田 研一、伊藤 正、岩間 清松、榊田 耕一、酒井 完一、浜田 千文、平山 義輝、水野 順右、大庭 啓男、本橋 玄夫、徳田 浩、早川 定夫、大山 正己、岩井 信秀、 高橋 照夫、塩崎 弘崇、妹尾 彰、築達 栄八、山本 富貴、小野寺 幸男、桜田 忠孝、稲葉 一郎、上野 謙一、星 奎斌、中村 剛、関 茂、牧野 賢治、根本 精一、秋山 寅雄、加納 嘉昭
皆様のますますのご健勝をお祈りします。
(毎友会事務局)
2021年8月30日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑮ ある新聞記者の歩み 14抜粋
激動の日々の記憶に残る政治家群像
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんが政治部に配属となった年に、毎日新聞社は新旧分離という“離れ業”で、社の事業を継続。佐々木さんは、会社経営の大波をかぶることなく、政治部の現場で新聞記者としての仕事本位の日々を送ることができました。
目次
◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間
◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ
◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!
◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評
◇派閥懇親会で「ササキのこわいろ」が大ウケ
◇記憶に残る政治家群像
◇図抜けた迫力のハマコー
◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間

(出所)「金丸信語録 行き過ぎれば差し違える」末木幸一郎編、1985年、ユニバース出版刊
Q.政治部時代は振り返ってみると、どういう時代と位置づけますか?
政治部にいた4年半の時代(1977(昭和52)年1月~81(同56)年7月)、総理大臣が三人代わり(福田赳夫→大平正芳→鈴木善幸)、史上初の衆参ダブル選挙を含めた国政選挙が3回ありました。その後の、村山首相を生んだ1994年の自民党と社会党の事実上の連立政権、さらにそのあとの1999年の自民党・公明党の連立政権、2009年の民主党政権の成立などを生むきっかけともなった時代だったともいえるんではないかなあ。
自民党中曽根派、自治省、外務省担当などを通じて、総理大臣のポストを巡る権力闘争、国政選挙結果の与える影響、日本の地方自治・中央と地方の関係、日米安保条約をめぐる問題、日本と韓国の問題などなど―未だに日本の政治テーマとして解決できていないというか、永遠のテーマを取材できたことは、新聞記者として本当に幸運だった。 経済的な面から見れば、1950年代初期から約20数年間続いた年率10%近い高度経済成長の時代が第一次石油ショックの到来を経て終わりをつげ、農業などの一次産業中心の国から、大都市集中のサラリーマンが国の中心となるように“国のかたち”が完全に変って、“一億総中流”の時代に入っていました。それだけに選挙民の要望も社会保障の充実や、高速道路、新幹線などの国土インフラの充実を求める時代に変ってきていました。
◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ
自民党はどちらかといえば、農山村に軸足を置いた政策を看板に掲げていました。対する社会党も米ソ冷戦を背景としたイデオロギー的な労働組合をバックにした“平和憲法を守れ”-という運動中心でしたが、それだけでは“一億総中流時代”のサラリーマン組合員に対応しきれなくなってきていました。そういう両者の体制を支えていたのが、衆院の中選挙区制度だった言えます。しかし政治も時代の変化に対応せざるを得ない時期に入っていたんだと思いますね。
政治部は経済部と違って、国政選挙の結果と、総理大臣の交替が究極的には取材の最終テーマですから、それに合わせて全部員の配置を考えていたと思います。例えば外務省(霞クラブ)、自治省(内政クラブ)などを担当させられていても、必ず担当派閥を兼務していて自民党の平河クラブに名前を登録しておくシステムになっていました。ですから他のクラブを担当しても、自分が割り振られている派閥の動向、その親分(派閥の領袖)の記者会見、オフレコ懇談会、盆暮れの懇親会などには必ず顔を出すのが当然でした。ぼくは官庁担当の時でも中曽根派担当でしたからそういう会合には必ず行きましたね。
特に衆院総選挙は当時まだ中選挙区制で、一選挙区で4人も5人も当選するというシステムでした。小選挙区制が導入されるのは1994(平成6)年。それまでは各派閥が競って中選挙区に候補者を立候補させるわけです。そうなると選挙資金がかかりますね。派閥の親分の集金力が問われるので当選するには1億円、2億円もかかるといわれる金権派閥選挙になるわけです。政治部としては突然の解散がいつあってもいいように、各派閥からの選挙区ごとの候補者の把握、その選挙区の情勢分析などを頭に入れておかなくてはなりません。ですから派閥の事務所にはヒマがあると顔を出していました。
派閥担当というのは、国会からすぐの自民党本部ビル内にある平河クラブに所属しています。国会開会中は平河クラブは国会内に移ります。ほとんどの新聞、放送、通信社、地方紙などが加入していたと思います。今はどうか知りませんが、基本的には常駐している新聞社がデカイ面(笑)していたと思いますね。
◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!
Q.40日抗争”の頃の平河クラブは大変だったのでしょうね。
今でも思い出すのですが、79(昭和54)年10月の総選挙で自民党が過半数割れの事態となり、大平首相と福田前首相が敗北責任と後継首相を巡って対立します。大平派と田中派が組んで大平首相継続を打ち出し、一方「大平首相」の辞任を求める福田派、中曽根派、三木派の連合が自民党をまっ二つに割る、いわゆる“40日抗争”が起きます。当初はキャップやデスクに「こういう自民党の騒動は1週間で収まるよ、まあ夜討ち朝駆け頑張って!」なんて言われて・・・。
中曽根さんの目白の家への朝駆け、ほとんど連日、朝日新聞政治部の中曾根派担当の山下靖典記者と一緒になりました。交互に中曽根さんの車に“箱乗り”して一問一答をするのですが、やはり主役の派閥にいるわけではないので情報は薄いんですね。中曽根派の事務所のある砂防会館まで30分程度同乗して、車を降りて、中曽根さんを見送り、その会館の一階で、中曽根さんとのやり取りを山下君にも披露して、キャップに上げるメモを作るんです。翌日は僕が砂防会館に待っていて、山下君の箱乗り情報を聞くんです。二人でよく「政権からは遠い“窓際派閥”の中曽根派情報はどうせ使われないよなあ」と愚痴をこぼしあったことを記憶しています。
夜は渡辺美智雄、藤波孝生、宇野宗祐、原健三郎、武藤嘉文などの中曽根派幹部の家や、九段にある議員宿舎の夜回りをやるわけです。もちろん一人ではなく同じ中曽根派担当の中曽根派キャップの中田章記者(後地方部長)、入社年次では後輩の中曽根さんと同じ高崎出身の松田喬和記者(後編集委員)などと手分けしてやるんです。夜回りを終えて、本社に上がり、そのやり取りのメモをキャップに提出、それから平河のキャップや担当デスクなどと翌日の打ち合わせ。家に帰るのは1時、2時。帰ると朝6時半には朝駆けの迎えのハイヤーが来ているというわけです。
でも1週間たっても2週間たっても抗争は終わらず、ますますヒートアップ。「話が違うじゃない」とブツブツいいながら、昼間は疲れて記者クラブのソファーを各社で奪い合い、仮眠です。ソファーが取れないときは休憩室にある麻雀卓を囲みます。それも疲れてやってられないとなると、給湯室のどんぶりを出してその中にサイコロを振って出た目で勝敗を決めるチンチロリンか、トランプや花札でオイチョカブ。まったくヤクザの賭場か、ダム工事の労務者の飯場のすさんだ感じ(笑)。本当にあの4週間疲れたな―、政治のこと以外他のことへの思考能力がなくなるんだなあ。平河クラブというとあの時のことを思い出します。政治家はタフと思いましたが、その半年後の総選挙の最中に主役だった大平首相は亡くなりました。その疲労があったと思いますよ。(中略)
◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評
Q.当時、政治の世界では中曽根さんの存在は、田中派、大平派、福田派などの存在に較べて素人目にも存在感は薄かったような記憶がありますが。
三角大福中の中で中曽根が総理大臣になるなんて誰も思っておらず、政治の主流は田中角栄の田中派、大平正芳の大平派、福田赳夫の福田派が握っているわけです。この角大福派閥間で首相の座を回すというのが暗黙の了解で、政治部でもこの派閥を担当しているのが、政治部記者のエリートコースという感じだったと思いましたね。
三木派担当というのは、自民党の良心という感じのリベラル派の三木武夫さん自身が、大所高所の正論を述べる人でした。ここを担当する記者は“足して二で割る”いわゆる自民党的ではなく、論理的な正論派が多く、将来の論説委員候補という感じでしたね。もちろん例外はいましたがねえ(笑)。後に毎日の社長(2004年)になる同期の北村正任君も三木派担当でした。温厚かつ落ち着いた切れ味鋭い原稿を書く記者でしたね。東大法学部卒、公務員試験で大蔵省にも受かり、それを振って毎日新聞に入ったという伝説を聞いたことがあります、父親は当時の青森県知事・北村正哉でした。「大蔵省に入っていたら後継知事になれたのに・・・。」と冷やしたことがありましたが、苦笑いしていましたね(笑)。
その北村君が当時のキャップに40日抗争の終了後の総括の記事を書け―といわれて、「頭を冷やして、少し考えてきます」といって、クラブを出て黄色のイチョウの並木の国会周辺を散歩してきて、やおら原稿を書き始めたことを記憶しています。ぼくなんか書きながら考えるタイプの記者でしたから、こういう落ち着いた記者がいるのかとビックリした記憶があります。彼が社長になった時、真っ先にこのことを思い出しました。(以下略)
2021年8月23日
ナチュラリスト永瀬嘉平さん(80)のお酒と樹木とイラストと……

毎日新聞社を定年の1年前に辞めてからすぐに、飛行機を使わない世界一周の旅に出ました。88日間。「都民カレッジ」をはじめ「毎日旅行」「多摩サンピア」「桜美林大学カルチャー」「府中市民教室」「毎日文化センター」などで講師を務め、「気になる木の話」「日本人と木」「お話玉手箱」「方丈記の世界」などがテーマでした。しかし、コロナ禍で中止しています。
会社に勤務していた時に、他から本を6冊。毎月、3~4誌に連載したりしていました。目下は、「まなぶ」誌に、東京の名木や戦災木のイラストを連載しています。また西舘好子氏の「ららばい通信」に「男のひとり料理」を連載しています。毎日のように食べたものをイラストにしています。





テレビもラジオも洗濯機もすべて捨ててしまうと、実にのんびりとした生活が送れます。朝(朝とは言わないでしょうが)は、たいてい、午前3時に起きます。あれば冷酒一に軽い食事。6時ごろに朝風呂。駅まで歩いて1時間。「スターバックス」でコーヒー、原稿書きなど。その後、散歩したりしています。1日15キロ~20キロは歩いています。バスは10キロ以内は使いません。月に平均500キロ(東京~大阪間)、歩いています。
大学時代から食前酒を飲み続けているので、途中で必ず〝ガソリン〟を入れます。
私が主宰し22年間170回続いている「ビャクシン会」では、7月31日、奥多摩へ行きました。「川合玉堂美術館」など巡りました。
目下、「世の不思議を見ること やゝ度度(たびたび)なりぬ」(これは鴨長明の「方丈記」の一節)にあやかり、原稿を書いています。250枚ぐらい書きました。
「母が遺影の中に出てきた」
「風呂の蛇口をひねると、お経が聴こえる」
「四脚のヘビを見た」
「三億円」犯人と一杯
「マフィアのボスとコニャックの一気飲み」
「暴力団組長とあわや乱闘」
「有珠山噴火」などなど
肉眼で見えない小石に古代文字(表採)
世にも不思議なことに出合いました。
ざっとこんな日常です。
(永瀬 嘉平)
※永瀬嘉平さんは毎日グラフ、サンデー毎日在籍が長く、カメラ毎日編集次長、重要文化財事務局次長などを歴任。著書は『百木巡礼』(佼成出版会・序文は白洲正子さん)『日本の瀧』(毎日新聞社・串田孫一序文)『かくれ滝を旅する』など。「日本の滝100選」選定委員。
ボールペン一本で描くスケッチ展「東京の名木・被災木」を昨年10月、毎日新聞社1階の「花」で開催。
《「タウンユース」相模原・東京多摩版 2017年9月21日号から転載》
10月から桜美林大学多摩アカデミーヒルズで生涯学習講座の講師を務める永瀬 嘉平さん
「自然の魅力」多くの人に
○…10月から桜美林大学多摩アカデミーヒルズで開講する秋期生涯学習講座。その中の特別短期講座のひとつ「60本の木」の講師を務める。日本の国土の約68%を占める森林面積。2千~3千本あるとされる木の種類の中から「これを知っていればどこに行っても困らない」という”60本の木”を写真や実物の葉っぱなどを使って紹介する予定だ。「今、改めて木と日本人のかかわり合いを見つめることができれば」と笑顔で話す。
○…東京は目黒の生まれ。幼い頃から人と同じことが嫌いで「人に連れられて歩いたことがない」という。大手新聞社で記者、編集次長を務め、日航ジャンボ機墜落事故や有珠山噴火、原発問題など数々の現場を追った。「自分の目で見たもの以外は信じない」。あらゆるものに興味を持つ好奇心旺盛な性格。その中のひとつが自然だった。退職後、日本、世界各地を歩き回った。学生時代から本を読むのが好きで、本で得た知識と実際に見た経験を活かし、数々の紀行集や写真集を手掛け、都市圏のカルチャースクールなどで講師を務めてきた。
○…”ナチュラリスト”、直訳すると自然愛好家。自身の肩書について「NHKでそう紹介されたから」と苦笑い。各地を見て回る中で”世界唯一の木の文明国”と日本を例えた建築評論家の川添登氏の言葉を実感した。古くからある木造建築の神社仏閣などがその一例。多摩でみても昔は竹林が多く、めかい篭などの独自の工芸品などが生まれている。「沢山の木があるけど詳しくは知られていない。今、多摩にある木も外来のものばかり。木を知ると文学なんかも深く知ることができますよ」と微笑む。
○…記者時代から文化人との交流が深く今も続く。その秘訣はお酒だとか。「上司でも飲まない人とは話さない」と、いたずらっぽく笑う姿は若々しい。その豪放な性格でこれからも各地を見て回り、自然の魅力を多くの人に伝えていく。
2021年8月2日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑭ ある新聞記者の歩み13抜粋
会社“倒産”!それでも新聞記者で生きる
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書きも13回目となり、前回から政治部の時代
に入りました。しかしこの時期、毎日新聞社は、大変な経営危機に見舞われ財界などの支援を受け、倒産を回避する「新旧分離」という荒治療によって危機を乗り越えます。
目次
◇激動の政治状況
◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・
◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け
◇暮れのボーナス、他社の7、8分の1
◇外に出て羽ばたいた人たち
◇一時期悩んだものの・・・
◇退社の遠因、派閥抗争?
◇“ハゲタカ”が毎日を狙い撃ち
◇新旧分離路線が生き残りを導いた。
◇働くみんな「毎日」が好き!
◇激動の政治状況
Q.佐々木さんの政治部時代は激動の感がありますが、会社も事実上の倒産という大変なことになったのですよね?
まず、当時の政治状況を説明しておきましょう。ぼくは政治部に1977(昭和52)年1月から行ったのですが、その直前の前年12月下旬に福田赳夫首相の内閣が成立していました。前回(12回目)で話しましたが、福田首相の番記者をやっていたのですが、この時代は政界では、自民党の総裁候補を出す派閥として三木派、田中角栄派、大平派、福田派を称して、三角大福時代と言われました。時には最後に中(中曽根派)をつけて、三角大福中時代とも言われましたね。中曽根さんが総理大臣になるなんて誰も思わなかった時代です。
手元にある年表(「昭和・平成史1926-2011」岩波書店刊)を見させてください。え~と、田中角栄が首相となったのが72(昭和47)年7月ですね。先ごろ亡くなった評論家の立花隆が“田中金脈問題”を月刊文藝春秋(74年11月号)で暴露、田中首相は辞任します。そのあと自民党リベラル派代表格の三木武夫首相となるんですね。三木内閣の時代、田中前首相がローキード事件で逮捕(76年7月)されます。三木が田中逮捕を許したというので、自民党は大騒ぎ、保守本流の福田首相になるわけです。まさか政治部に行くなんて思いもしなかったので、「ダイナミックに政治の世界は動いているな―」という対岸の火事を見ているような感じでしたね。
この年の9月にバングラデシュの首都ダッカで赤軍派によるハイジャック事件が起きます。前年の8月に三木内閣当時、マレーシアのクアラルンプールのスエーデン大使館を占拠しました。そして、人質と交換に日本の刑務所にいる過激派の釈放を要求して成功します。次にダッカでハイジャック事件を起こしたわけです。そこで福田首相が刑務所にいた9人を人質の身代わりに釈放しました。「人命は地球よりも重い」という言葉を発したことを憶えています。そういう時代でした。クアラルンプール事件の時にも収監されていた5人の服役中の過激派が釈放されるのですが、この中に、僕が水戸支局時代のことを話したところにも出てきますが、茨城大学全共闘のメンバーで、取材を通して知っていた松田久(今も指名手配中)がいました。ベトナム戦争も米国の敗北で終わり、学生運動の季節も過激派の動きが目立つ程度の時代に入っていました。「ああ、あれから10年、あの松田が違う世界に行ってしまったんだ」という感じでしたね。
◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・
そんな政治部に行くのですが、バーターで経済部に政治部から来たのが、鈴木恒夫さんでした。当時の経団連会長の土光敏夫さんに食い込み、政治部に戻ってから河野洋平に引っ張られて退社。新自由クラブ創立にかかわり、選挙にも出て当選。2008年福田内閣で文部大臣もやります。そんなことないだろうけど、もしぼくが政治部に行かなかったら、鈴木恒さんの人生も変わっていたかもしれないな(笑)。
政治部に行って間もない昭和52(1977)年暮に、毎日新聞社は事実上の倒産となるわけです。新旧分離という手法で事業の継続をはかりました。その5年前の外務省機密漏洩事件、いわゆる西山事件などをきっかけに部数がどんどん落ち、最盛期600万部近くあったのが公称450万部といわれていて、「実際には300万部を切ってる」なんて、囁かれていました。さらに第一次石油危機(73年)後の経済危機の中で高度成長が止まり、74年には戦後初のマイナス成長という逆風を毎日新聞は受け止められなかったんでしょうね。
注)新旧分離方式=債務と資産をすべて旧会社が負って、新たに設立した新会社が事業を継承してそれまで通り続ける方式。会社更生法などを適用する倒産に陥らず、この方式が取れたのは、事業継続最優先を期待する各方面(金融機関、財界、労働界、学界、読者など)の支持・応援があったからだと言えよう。
借金が700億円近くふくらみ、実際は自転車操業状態で、74年以降41億円、75年56億円という巨額赤字決算を計上して経営危機が表面化する状態でした。広告収入は石油ショック前には月42億円あったのが10億円に落ち込んでいたんですね。誰の目にも倒産寸前と映っても仕方がない状況に追い込まれていたように思います。経済部の金融担当なんかは、メインバンクの三菱銀行、三和銀行などからは、「このままでは危ないよ!」というシグナルを送られていたようですが、社内的には共有化されていなかったと思います。ぼくも経済部の連中と会うと話は聞かされていましが、現実感がなかったなー。
Q.週刊誌が「毎日新聞倒産に瀕す!」などと書き立てたようですね。
「毎日は経営状態がピンチ!」というのは、ここぞとばかりに「週刊新潮」を筆頭に、週刊誌などはセンセーショナルにしょっちゅう取り上げていました。すでに部数的には「朝毎読(朝日、毎日、読売をチョウ・マイ・ヨミと読む)」の時代は過ぎて、販売面では完全に「朝読毎」、あるいは「朝読」の時代に変りつつあったように思います。でも取材先のイメージとして毎日は、朝日の次の新聞という感じに変わりなかったような気がしますね。一線の記者のプライドにも変化はなかったように思います。「まあ、何とかなる。日本社会にとって必要な社会インフラとしての毎日新聞は生き残るよ!」なんて考えていたフシがあります。今考えれば、いい気なもんですね。債務返済は一切合切、旧社にまかせて、新生毎日新聞社を発足させて事業をそのまま継続できたわけですが、新社がもし赤字を出したら倒産まちがいなしだから経営的にはシビアでした。
当時は福田内閣で、毎日政治部OBの安倍晋太郎(安倍晋三前首相の父)さんが官房長官、坊秀男さんが大蔵大臣だったということもあったでしょうから、政治部は安倍さん、坊さんを通じて財界、大蔵省などに「毎日を助けてほしい」と頼み込んでいたようです。
◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け

後に経営企画室に行ったとき(1989年3月)、毎日新聞の題字変更などのCIプロジェクトに携わります。この時、パートナーとなったNTTドコモのロゴデザインなどを手掛けたPAOS(株式会社中西元男事務所)の人が、社内ヒアリングを行った際、ある海外支局の特派員が彼らのインタビューに「ぼくは会社の経営状況には一切関心がない。いい原稿を書くだけ」と断言したので、「あの時は本当にビックリした」と語っていました。恐らく一線記者のほとんどが、そんな感じじゃなかったのかな。その辺が営業感覚で社内が一貫している“普通の会社”と、“インテリが原稿を書いた新聞”を、泥臭い販売戦線でナベカマの景品付きで新聞を売っている新聞社は違いましたね。特に毎日新聞はその傾向が強かったと思いますね。
でもこの頃、ジャーナリズムの世界では田中前首相の逮捕(76年7月)などが起きるロッキード事件をめぐる報道で、「毎日新聞の報道は一歩先を行っている」などと“ロッキードの毎日”という評価が高く、編集局の意気は高かったことを思い出します。
このとき、ぼくも経済部でなく政治部にいて取材に追われていたので、経営状況にそう関心はなかったと思います。だって会社の外の取材が面白くてしかたがないんですから。政治家の家に夜討ち朝駆けの忙しい日々。朝6時にはぼくの住まいの杉並のマンションの前に朝駆け用のハイヤーが来ているんです。マンションの人からは「お宅のご主人はハイヤー通勤でスゴイですね。新聞社ってすごいんですね」なんて言われていました。それって皮肉ですよね。こちらにしてみれば夜中の1時、2時に夜討ちをして帰宅、5時過ぎに起きるんですから寝不足で勘弁してといいたいところなんですが----。
でも政治家の家に行っていろいろと話を聞くのは面白かったな―。ですから朝起きて昨日の取材していた記事が「載った!」、他紙を見て「やられた、コンチキショウ、やり返すぞ!」という感じで、取材された側も「書きやがって!」と部数のことなんて気にしていなかったと思いますよ。
そのせいか新旧分離の挫折感というのはほとんどなかったですね。ぼくも前は経済部だけど、倒産回避方式で「新旧分離」なんて方式があるなんて知りませんでした。取り合えず新聞は毎日出ているわけで、取材先の政治家も「毎日新聞は大丈夫か?」なんて、夜回りで遠慮がちに聞いてきますが、「給料もチャンと出てるし大丈夫ですよ。ところで先生、今度の組閣で入閣といわれていますが、どうですか?」なんて感じでしたね。(以下・中略)
◇働くみんな「毎日」が好き!
Q.でも毎日新聞はそういう新旧分離、その後の厳しい経営状況、失礼ですが他社よりも大幅に低い給料の中で「宗教を現代に問う」、「記者の目」とかで菊池寛賞を受賞したりします。「宗教を現代に問う」の連載はよく覚えています。本になってますが、数年前に、古本屋で見つけて思わず全5巻を買ってしまいました。「記者の目」は、40年以上毎日新聞の目玉になっていますね。
そうですね。社史を見ていろいろ思い出しますが、それ以降、79年の「ワカタケル大王(雄略天皇)」の名前を刻んだ「埼玉(さきたま)古墳群」で発掘された「稲荷山鉄剣」の日本古代史を揺るがす大発見の特ダネ。早稲田大学商学部の入試問題漏洩事件(80年)、さらに日本に米軍が核兵器を積んだ空母などが日本に寄港していたという元駐日大使の「ライシャワー発言」(81年)など、三年連続で新聞協会賞受賞のスクープを放ちます。
ぼくがいまでも毎日新聞らしいなと思っているのは、2000年に新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受けた「隼君事件」です。この事件は97年11月に東京世田谷で当時小学2年生の隼君が横断ほどで、ダンプカーに轢かれて死亡します。翌日、毎日新聞にはベタ記事で「ひき逃げ小二男児死亡、容疑者逮捕」がのります。実は犯人は不起訴となっていたのです。その両親からの手紙で警視庁担当の社会部記者が取材を始めます。十分な捜査をせずに東京地検は不起訴にするのですが、記者のねばり強い取材で、目撃者が分かり、再捜査となり犯人は逮捕、起訴、有罪となります。
実はこの記事を手掛けた記者は江刺正嘉君といって、確か西部本社から経済部に来た記者でした。寡黙な男で、来た時から経済は合わない、社会部に行きたいといっていたように思います。念願の社会部に行ってこの記事を書き上げます。僕たちが記者になった時から、先輩記者に「ベタ記事をバカにするな」と何度も言われましたが、それを実現してくれたわけで本当に嬉しかったナ。その後も江刺記者はハンセン病患者のことなどを書いた記事を見かけますが、こういう記者がいることが毎日新聞の宝だと思いますよ(以下略)。
2021年7月26日
「かながわキャンパる」復活、「とちぎ」「しずおか」も展開

神奈川県版に7月13日、「かながわキャンパる」が掲載されました。ご存じのようにキャンパるは学生記者が書いた記事です。かながわキャンパるは、2017年3月に当時の澤圭一郎横浜支局長(現ビジネス開発本部長)がスタートさせましたが、18年から「休眠」、今回3年ぶりに「復活」しました。記事の見出しは「コロナ下のキャンパスライフ」。神奈川大学国際
日本学部2年生の女子学生が1年3カ月のコロナ禍の学生生活を記しています。今後、「かながわキャンパる」のワッペンで、随時掲載していきます。
私は、2020年度より、神奈川大学の授業を、網谷利一郎氏(元北京支局長)、弟の隆司郎氏(元アミューズ編集長)から引き継いで、かながわキャンパるの復活に、今年度から取り組みました。復活にあたっては、澤本部長の強力なサポートと、田中成之横浜支局長、伊澤拓也次長の全面協力を得ました。
キャンパるは、1989(平成元)年2月、東京本社管内の夕刊で「創刊」されました。今年で創刊32年になります。私は2010年4月から担当しました。当初は『学生が書く記事なんて』と思っていましたが、原稿を見ているうちに、自分がこれまで役所や企業に頼っていた取材とは違い、学生自らが発信する情報の新鮮さ斬新さや、その肉声(コラム「すた・こら」)の面白さに、自分の考えが間違っていたことに気が付くまでにそう時間はかかりませんでした。
次第に『東京夕刊だけではもったいない』と思うようになりました。たまたま、16年4月に宇都宮大学に地域デザイン科学部が新設されたのを機に、毎日新聞社がメディア授業を請け負うことになり、キャンパるをやっていた私が指名されました。そのタイミングで、当時の編集局長、地方部長、宇都宮支局長の全面協力を得て、「地域メディア演習」として栃木県版に「とちぎキャンパる」が月1回掲載でスタートすることになりました。

さらに、18年4月、静岡支局長に赴任した渡辺暖氏(現新聞研究本部長)がとちぎキャンパるの実績を静岡大学長にアピールしました。学長が人文社会科学部長に紹介し同学部の科目「地域メディア論」として、「しずおかキャンパる」を作ることになりました。現在、竹之内満支局長と二人三脚で取り組んでいます。「開かれた新聞」を標榜する毎日新聞ならではの紙面だと思っています。しずおかキャンパるを採用した日詰一幸・人文社会科学部長は今年4月学長に就任。さっそく、しずおかキャンパるで新学長インタビューを申し込み、7月の紙面を飾ることができました。
キャンパる記事の特徴は、大学でいろいろな活動に取り組んでいる学生を見いだし、取材をして学生視線で記事にすることもありますが、私が一番価値を見いだしたのは、「学生そのものがニュースだ」ということです。一般に新聞記事は取材対象があって成り立ちますが、キャンパるは学生そのものがニュースですから、学生たちの活動、考えがその時代を反映するニュースとなります。ですから、今回のかながわキャンパるの記事のように、学生が1年続いたオンライン授業で感じたコロナ禍の学生生活を赤裸々につづっています。
とちぎキャンパるの20年度のテーマは「コロナと〇〇」。コロナとプロスポーツ、コロナと授業、コロナとサークル活動など学生記者の立場から、「コロナの今」を記録しています。普段の取材では出てこない学生ならではの「キーワード」も豊富で、毎日新聞のデータベースの充実に貢献していると密かに自負しています。
学生の座談会も積極的に行っており、とちぎ、しずおかキャンパるをオンラインで結んだ座談会も紙面を飾りました。
とうきょうの夕刊キャンパるは1年生から4年生までスキルが継続していきますが、大学の授業では前期・後期で授業が終わります。せっかく学んだスキルを途切らせるのはもったいないので、各大学で履修経験者を中心にサークル化しています。宇大は「とちぎキャンパる編集室」、静大が「しずおかキャンパる編集部」、神大は「みなとみらいマスコミ研究会」です。現役履修生とも連携し、紙面の充実に努めています。

日詰静岡大学学長はインタビュー=写真=でしずおかキャンパるの活動について、「講義修了後も学生が主体的に行動しているのは理想的な形だと思う。継続していくことが大事」と高く評価しました。かながわキャンパるの記事も神奈川大学の国際日本学部長から「学生の側からのオンライン授業や今年度の目まぐるしい変化などを証言した、すばらしい記事のように思い、学部HPでも紹介したいと思います」との連絡をいただきました。
最後に。夕刊キャンパるを担当していた時に実感したのは、同じ世代の大学生より、大学生を子供や孫にもつ親、祖父母世代によく読まれており熱心な愛読者が多いということです。親にキャンパるを紹介され大学生になって入部を希望する学生が結構います。これは読者対策として、毎日新聞が他社の追随を許さない強みではないでしょうか。現在、教育事業室で、毎日新聞デジタル内サイト「@大学倶楽部」で、約80会員大学のニュースリリースの編集・掲載を担当しています。会員大学の学生広報委員会の組織化も考えており、このネットワークと、「キャンパる」の有機的な交流を盛んにして、毎日新聞の紙面、デジタルのさらなる活性化に取り組んでいきたいと思います。
(内山 勢)
内山勢(うちやま・つよし)さんは1959年、新潟県上越市生まれ。中央大経済学部卒。83年入社。山形支局を皮切りに、サンデー毎日編集部、大阪社会部、高松支局、経済部、日本BS放送(BS11)出向などを経て、2010年4月から20年3月までキャンパる編集長。2019年6月定年退職。同年7月からCS(キャリアスタッフ)として、ビジネス開発本部教育事業室で、毎日新聞デジタル内@大学倶楽部サイト運営の傍ら、宇都宮大学(とちぎキャンパる)、静岡大学(しずおかキャンパる)、神奈川大学(かながわキャンパる)の授業と紙面制作に携わっています。
2021年6月24日
僕はケンちゃんと危険な取材もした写真機、ニコンF

僕は中島健一郎が1968年4月、毎日新聞社に入った時に写真部の斡旋でケンちゃん(中島の愛称)が買った写真機だ。ニコンFは名機と言われたカメラで、とても頑丈。ミノルタの方が安かったがケンちゃんは、ぶつけてもびくともしない僕を選んだ。それ以来、僕はケンちゃんが取材に行くときはいつも一緒だった。
初任地の長野支局に信越線に乗って向かった。上野駅から列車がゴトゴトと動き出した。都会っ子のケンちゃんは都落ちみたいに感じてしんみりした。県知事公舎近くの支局は木造の古い建物。「まるで東京日々新聞時代のままのようだな」と、靴のまま上がろうとしたケンちゃんは「スリッパを履けよ」と早速、注意された。
宿直室の二段ベッドの上の方に半月ほど寝泊りさせられた。松代群発地震の頃で、なぜか朝方に発生する地震で宿直記者が飛び起きると、ケンちゃんも枕元に置いた僕を掴んで梯子を降りる。昔は最低でも1カ月は宿直室泊まり。便所掃除が新人記者の務めというしきたりは、もうなくなっており、日曜日は棟続きの支局長住宅に奥さんが呼んでくれ美味しい朝食をご馳走になった。
長野日赤病院の資格を取れたばかりの看護婦さんの戴帽式の記事と写真が小さく長野版に載った。ケンちゃんが僕で撮った写真で紙面化された最初の作品だ。支局ではフィルムは自前。その代り紙面に写真が掲載されると、確か顔写真が1つ150円、カット写真が300円もらえた。暗室で倹約のため撮影した分のフィルムを引き出して現像する。焼き付けも自分で行い、定着させて乾燥させたら電送機で送信する。ケンちゃんは僕で写真を撮るのが好きで1カ月に6千円も写真代を稼いだことがある。各社の中で一番良かった毎日新聞の初任給が2万8千円だったから僕は随分、ケンちゃんの懐に貢献したんだ。
支局で2年先輩の長崎和夫さんは「1枚の写真は千行の記事に勝ることがある」が口癖で写真の大事さをケンちゃんに指導した。ところが松代群発地震の被害の取材に現地に行っている時に地震が発生、揺れ動いている地面を撮って来たのは良いが写っていたのはただの地面。「やあ、参ったよ」と、こんな笑えるエピソードを語る長崎さんは1967年8月1日に西穂高岳で下山中の松本深志高校生を落雷が襲った事件で写真を入手した記者だった。死者11人、重軽傷者13人がバタバタと倒れている凄惨な現場を撮ったフィルムを入手して山道を駆け下りた。一面に大きく載った写真はそれこそ千行の記事に勝った。ちなみに1面の大見出しは「水平雷撃」。落雷は上から落ちるものだが、高い山の尾根では水平に感じられたのを表現した名見出しだった。

浅間山荘事件(1972年2月)でもケンちゃんは僕をいつも肩にぶら下げて取材していた。一瞬のシャッターチャンスを逃すわけにはいかないことを長崎記者らに叩き込まれていたからだ。連合赤軍と警察の攻防には写真部が山荘の周囲でカメラを構えた。土嚢の後ろに隠れる警官達。そこから20メートルほどの所に停めた毎日新聞の車両の中でケンちゃんと写真部員は見守っていた。突然、警視庁特科車両隊中隊長、高見繁光警部が立ちあがった。伏せている部下を見て指揮棒を振った時、銃声。高見警部の眉間から血が噴き出した。「中隊長!中隊長!」と叫びながら盾の上に高見警部を乗せて走る隊員達。ケンちゃんは車から飛び出した。みるみるうちに血が盾に溜まる。この時ばかりはケンちゃんは写真を撮れずにぼう然としていた。
浅間山荘の正面の斜面には報道陣がカメラの砲列を敷いた。撃たれた場合を考え、どの社も防弾チョッキを配った。ケンちゃんの数メートル下の斜面には信越放送のカメラマンがしゃがんでテレビカメラを構えていた。そこに銃撃。そのカメラマンはつんのめるように倒れた。しゃがんだので防弾チョッキがずり上がり、彼の睾丸が吹き飛ばされたのだ。でもその後、結婚した彼に子どもが持てたのだから片方の睾丸が無事なら大丈夫だ。
ケンちゃんは人質の泰子さんがどの部屋に監禁されているか推理するため近くの山荘の管理人に聞きまわった。訪問したことがある人は「一番立派な部屋はカエデの間かな。二段ベッドの部屋で柱にくくられている可能性が強いよ」などと語った。浅間山荘の内部を撮った写真は借りまくった。
「泰子さんはどこに」と題した記事が、内部写真と共に長野版に大きく掲載された。毎日新聞社の前線本部に届いた新聞を見た名文家で知られる社会部記者が「なんでこの記事が全国版に載らないんだ」と叫んだ。外側で発生している事象は毎日、報道されているが、山荘の中の様子は分からない。だから読者はどうなっているか知りたいからこの記事がタイムリーだというのだ。翌日の毎日新聞の全国版にケンちゃんの記事は掲載された。勿論、長野県に配達される新聞だけは二重掲載を避ける措置が取られた。「全国版から地方版に記事が落ちてくるのは当たり前だが、格上げは珍しい」と言われた。ケンちゃんは写真の大事さを教えられていたので「自分で撮れないなら、内部の写真があるか近くの山荘の管理人を当たろう」と走り回った結果、全国版に格上げされた記事が書けたのだった。
学芸部の映画担当が希望だったケンちゃんは、浅間山荘事件が契機となり社会部への異動になった。しかも1年はサツ回りをするのが当たり前なのに6方面担当のサツ回りを1ヵ月しただけで警視庁捜査1課担当になった。東京では大きな事件事故では写真部が出動するからケンちゃんが僕で写真を撮ることは減った。

「入社以来の大事なニコンFを修理した」というケンちゃんのフェースブックの投稿を見て、「カメラの話を書いてくれませんか」とメールして来た高尾義彦さんについて触れたい。彼はロッキード事件の時に司法担当記者だった。田中角栄が検察庁に出頭して来た時に車から降りてきた姿を高尾記者は自分のカメラに収めた。高尾さんも写真の大切さを分かっていた。もし彼が写さなかったら紙面ではその朝、「検察、重大決意」と大見出しで報道した毎日新聞は写真では負けるところだった。「田中が。田中が検察庁舎に入りました」という高尾記者の電話を本社の宿直室で受けたのはケンちゃん。「写真は?」と問いに高尾記者は「僕が撮りました」と答えた。ケンちゃんはその返事にホッとしたのを覚えている。
殺人事件の取材で怪しい人物にインタビューした時にケンちゃんは最後に「写真を撮らせて」と言う。無実を主張する人物が「なんで俺を撮るんだよ」と怒らない。僕、ニコンFのシャッター音は結構大きく「あんた、やったんだろう」と響く。やましいから写されるのを拒否できないと、ケンちゃんは確信する。
野方の衛生検査技師行方不明事件では広島まで出張して男を追及した。1時間ほど質問した後、同じ問いを繰り返す。初めの答えと二回目の答えが微妙に食い違っていたらその矛盾を突く。男はうつむいたまま黙り込む。そしたら写真を撮るのだ。今から思うと事件記者ケンちゃんは相当、きつい取材をしたものだが、「警視庁刑事」(鍬本實敏著、1996年10月発行、講談社)にケンちゃんと鍬本刑事が協力して事件を解決したいきさつが載っている。
その後、調査報道や脱税担当などをした後、ケンちゃんはレーガン政権発足後の1981年2月末、ワシントン特派員になった。写真部は駐在していないから僕の出番だ。軍のグレナダ侵攻の取材で、焼け落ちた首相官邸や弾痕が残る要塞の写真も。中米紛争でコントラ(ニカラグアのサンディニスタ政権と戦う右翼ゲリラ)の野戦病院では足や腕をなくしたゲリラ兵士を撮影した。倉庫の荷箱を写した時、ゲリラの指揮官が「そこは撮るな」とわめいた。米国はイランに武器を売り、その代金でコントラに物資を流していた。後に問題になるイランコントラゲートの証拠が木箱に刻印されたナンバーを追えば可能だから指揮官は怒ったのだろう。


帰国後、1985年6月の皇太子夫妻=写真=の北欧4か国訪問取材で僕は大活躍した。日本国内では皇室の写真取材は厳しく規制されるが、海外ではかなり自由だ。僕を構えているケンちゃんの写真は他社の記者が撮ってくれたものだ。ノルウェーのベルゲンで皇太子夫妻と、留学中の英国から合流した浩宮様の記者会見があった。ケンちゃんは「ノルウェーの女性記者を浩宮様は写真に撮られましたね」と質問した。美智子様が「あの赤いコートの方ね」と述べ、クスリと笑われた。浩宮様と美智子様の間で、この女性記者は話題になっていたのだ。鼻筋の通った美人記者だった。ケンちゃんは浩宮様が「鼻が高い人が好みだ」と思った。後に皇后となられた小和田雅子さんも鼻はしっかり大きい。
その後、警視庁キャップ、社会部、外信部デスクをしたが、僕が活躍したのはソ連のトップインタビューの仕掛け時だ。ゴルバチョフソ連共産党書記長との会見を毎日新聞社長が行うための工作で、ソ連共産党中央員会イデオロギー部長の案内で真夜中、ヤコブレフ政治局員と会うためクレムリンに非常口から入った。森浩一編集局長、上西朗夫政治部長がヤコブレフに挨拶している写真を撮った。ポポフ・モスクワ市長からハズブラートフ第一副議長ら要人と軒並みインタビューを重ねたが、写真撮影はケンちゃんの担当だった。
この事前工作が功を奏して社長のゴルバチョフ会見に持ち込めたのだが、味をしめた毎日新聞社はケンちゃんにブッシュ米大統領とのインタビューのセットを指示した。だがマスメディアが発達した米国で大統領への単独インタビューは難しかった。あらゆるツテを使ってホワイトハウスに要請したが、良い返事はない。ソ連崩壊を予想して身の振り方を考えていたイデオロギー部長が日本に期待していたのを利用出来たからソ連では仕掛けが出来た。しかし米国ではそうはいかない。くたくたに疲れてワシントンのホテルのベッドの上に横たわって天井を見つめた。やっと国務省の日本部長から「ダン・クエール副大統領が会う」との返事が来た。「副大統領じゃ嫌だ」と言うと「それでも大変なことだ。感謝しろ」と怒られた。工作を始めて約2週間後、編集局長と政治部長に飛んできてもらい、インタビューは実現し、ホワイトハウス専属カメラマンが記念写真を撮ってくれたが気持ちは晴れなかった。
1991年に今度はワシントン支局長としてケンちゃんは僕を携えて赴任した。ブッシュ大統領とクリントンが戦った大統領選で、クリントン勝利を予想したケンちゃんとクリントンキャンペーンについて各州を回った。キャンペーン中は至近距離で取材しやすい。パチパチ写真が撮れる。
黒人男性への警察官の暴力が無罪になったことから、50人以上が死亡する惨事となったロサンゼルス暴動(1992年)。白人警官4人が黒人のキングさんを50回以上も警棒で殴っている様子を撮影したビデオ映像がテレビ放映され、抗議活動が盛り上がったのに警官は罪を問われなかったのだ。映像の力は時としてすごい。
ワシントン支局長から東京本社の社会部長になったケンちゃんは僕を片手に取材に出ることはあまりなかった。しかし阪神大震災(1995年1月17日発生)で神戸支局に差し入れを持っていった時のことだ。山口組がボランティア活動をしているというので本家を見に行った。大きな屋敷の玄関前にテントを張って援助物資が並べてある。組員にいろいろ質問していると「あんた、誰や」と聞かれた。毎日新聞の社会部長だと答えると、「もうすぐ広報担当が帰ってくる」という。間もなく帰って来た広報担当は面白い男だった。「5代目組長が全国の山口組の組長に役立つ物を持ってこい、と命令したんや。洋品店などに“神戸の人たちのため何か出さんかい”と言うと沢山の品が集まる。それをトラックに積んですっ飛ばす。お巡りに捕まったら“ウルセイ。被災地を助けに行くんだ”と怒鳴ればオーケー。渋滞したら裏街道を走る。お手の物や」。ヤクザにも広報担当がいるのに感心していると、屋敷の庭にはもっと多くのテントがあるという。300坪ほどの舗装された敷地に張られた4つのテントには毛布やコメ袋などが山積み。そこに1台のトラックが到着し、家から走り出て来た男達が荷降ろし。それを指揮する男がいた。「5代目組長だ」と広報担当が紹介してくれた。「わいらは神戸の皆さんにはお世話になっている。震災の時に恩返しするのは当然だ」という5代目と一緒の写真を撮った。
首都の地下鉄にサリンが1995年3月20日に撒かれて、大騒ぎになったオウム真理教事件。山梨県の上九一色村にあったサティアン(オウム真理教の拠点)の張り番をしている記者の激励に5月2日に行ったケンちゃんは富士山の写真を撮った。この写真はなんと1面に掲載された。余録(1面のコラム)に経緯が紹介された。
以下は余録のさわり。
本紙に連載中の「1989年秋 そして今」(牧太郎編集委員)の第1回目に、山梨県上九一色村から見た富士山の幻想的な写真が載っていた▲深い淵のような藍色の空に、紅の瑞雲がたなびいている。山肌にも紅の筋が何条か浮かんでいる。撮ったのは中島健一郎・東京本社社会部長。上九一色村で「ほら、ご覧なさい」と地元の人に促され、シャッターを切ったという▲普段、濃い霧に閉ざされている富士山が全容を現した瞬間の光景だ。
余録の後半は端折るが牧太郎さんはサンデー毎日編集長として6年前にオウム真理教と対峙したジャーナリスト。その狂信と闘ったペンの記録の連載のカット写真にケンちゃんの富士山の写真が「富士山の美しさは6年前も今も変わらない」として採用されたことを余録は取り上げたのだった。TBSラジオの森本毅郎スタンバイにコメンテーターとして出演した時、「今朝の毎日新聞の富士山の写真は中島さんが撮ったんですよね」と紹介された。写真の反響は大きい。

その後、ケンちゃんは編集局次長、英文毎日局長、事業本部長と管理的な仕事に移り、僕は仕舞い込まれることが多くなった。2006年に毎日新聞社を退社してからケンちゃんは携帯やスマートホンで写真を撮るようになった。その僕を今年(2021年)に倉庫から取り出したケンちゃんはカビが生えているのにビックリした。同じタイミングで長女が「6月1日は写真の日だけど、ぶつけて角がへこんだお父さんの黒い写真機は今どこにあるの?」と聞いてきた。小学生だったのに写真機の傷まで覚えていたのだ。「ほったらかしにしてごめんね」と謝って、ケンちゃんは僕を分解掃除に出した。新品くらいに綺麗になった僕を見たケンちゃんは嬉しくなってフェースブックに投稿した。それで高尾さんが「中島さん、写真機の話を書いてくれませんか」と連絡して来たのだ。愛機ニコンFを撫で擦っていると、いろんな写真取材を思い出す。写真の持つ訴える力や記録性を改めて感じた。それでついついだらだらと書いてしまったが、きっかけをくれた高尾さんに感謝したい。
(中島 健一郎、77歳)
2021年6月22日
元編集委員、倉嶋康さんが「松川事件・諏訪メモ」スクープで55年ぶりの主筆感謝状を贈られた思い出をフェイスブックに
戦後の大きな冤罪事件の一つ「松川事件」で、被告のアリバイを証明し無罪の判決を導いた「諏訪メモ」を発見し、スクープとして報道した倉嶋康さん(88)が、報道から55年ぶりに主筆感謝状を贈られた経緯を、ご自分のフェイスブックで報告しています。倉嶋さんは当時を検証する「記者クラブ」を連載、この表彰については「第1部(138)」で報告しています。倉嶋さんは、和凧を持って世界25か国を旅した体験などもフェイスブックに連載しています。

2012年春、自宅に電話がかかってきました。女性の声で「もしもし、毎日新聞にいらした倉嶋さんですか。こちら東京本社の社長室です。丸山室長に代わります」。これには驚きました。定年退社してから干支で2回りもたっています。年1回の旧友会に時々顔を出すくらいの本社から電話。しかも社長室なんて現役時代からまったく縁がありませんでした。
いまは社長になっている丸山昌宏室長の話を聞いてもっとびっくりしました。「倉嶋さんが55年前に書いた松川事件の諏訪メモの特ダネに対して主筆から感謝状をお贈りしたいのです」。なんですか今ごろと思いながら喜んでお引き受けし、指定された日に出掛けました。実は若い日に書いたあのスクープ記事について、普通は出してもらえる「特賞」を頂いていなかったのです。上の人たちはあれが新聞に載った時はそんな大特ダネとは気づかず、また最高裁で無罪が確定した時は記事から時間がたち過ぎていて、みんなが忘れていたのでしょう。私自身も父親の言いつけを守って社内で自慢も不平も言いませんでした。
本社に顔を出した私を朝比奈豊社長と岸井成格主筆が迎えてくれました。いずれも顔なじみの後輩です。雑談していていきさつがわかりました。私が家で昔話になった時に「あれだけ苦労したのに、紙きれ1枚もくれないんだから」ともらしたのを心にとめていた息子が手紙で本社に訴えたのだそうです。担当が驚いて調べたらまさしくその通りとわかり、前例に無い表彰になったとか。それから間もなく他界した息子の最後の親孝行になりました。
感謝状はOB社員が集まる毎友会の総会の席上で渡されました。なんとこの日は「諏訪メモ」が毎日新聞福島版に掲載された6月29日。気の利いた演出でした。大勢の仲間の拍手を浴びて口にしたビールは、ひとしおうまいものでした。
(倉嶋 康)
倉嶋康さんのフェイスブックはhttps://www.facebook.com/naslgate

2021年6月18日
論説委員から筑波大学教授へ、鴨志田公男さんは「ゲノム編集トマト」の発信や筑波大学新聞編集で活躍

毎日新聞社を選択定年退職したのは、2年前の5月でした。翌月から縁あって故郷・茨城県の筑波大に移り、教員と科学コミュニケーター、筑波大学新聞編集代表の三役をこなす日々を送っています。
現在、一番大きなウェイトを占めているのは科学コミュニケーターでしょうか。大学発の研究成果を社会に発信するとともに、研究者たちにその反応をフィードバックし、相互理解を深めるというのが、その役割です。
最近で印象深いのは、ゲノム編集トマトです。ミニトマトより一回り大きな実を1粒食べるだけで、高血圧の改善効果が期待できるというもので、筑波大の江面浩教授が開発しました。大学発ベンチャーが昨年末に国に届け出をし、今年5月には苗の配布も始めました。ゲノム編集食品としては国内初の商品化です。この間、2度にわたって記者説明会を開き、当日の司会を務めました。
安全性を疑問視する消費者団体もある中、説明会では正確で丁寧な情報提供に努めました。記者時代とは逆の立場になりましたが、受け手のことを考えながら情報を伝えるという点では、記者時代と変わりません。
教員としては、ジャーナリズム論の演習授業を担当し、マスコミ希望者向けに作文の書き方指導などを行うゼミも開いています。この2年間で15人ほどの学生が、毎日新聞を含む大手紙や通信社、NHK、出版社などに進むことになりました。ゆとり世代ですが、国内外でボランティアを経験するなど、社会に貢献したいという気持ちを持っている学生が多いです。この後触れる大学新聞の編集部員もいますが、新聞より放送・出版業界の希望者の方が多いのが、ちょっと残念です。
筑波大学新聞はタブロイド判12㌻で年7回発行。部数は約2万部で、入学式や秋の学園祭の時期に発行される号はさらに部数が増えます。大学の広報紙という位置付けですが、1年生から3年生まで約25人の部員が話し合って内容を決め、取材、執筆、編集作業までをこなします。つくば市の駅前再開発など地域の話題も積極的に取り上げます(紙面は大学のウェブページでご覧いただけます)。
https://www.tsukuba.ac.jp/about/public-newspaper/pdf/363.pdf
編集代表の私はいわばデスク役で、企画の立て方や取材の仕方を指導し、原稿の修正など編集作業全般をチェックしています。
昨年4月以降、紙面の中心は新型コロナを巡る問題になりました。特に昨年の春学期(4~9月)は授業が全てオンライン化され、キャンパスへの出入りも厳しく制限されました。大学新聞では、オンライン授業のメリット・デメリット、新人勧誘ができず存続の危機に陥った課外活動団体、売り上げ大幅減で廃業に踏み切った学内食堂など、さまざまな話題を取り上げてきました。
先程、部員は約25人と言いましたが、1、2年生だけで20人を超えます。コロナ禍で学生生活にも影響が出ている今だからこそ人とつながりたい、情報を伝えたいという思いを持っているからに違いありません。10年後、20年後に大学新聞を読み返してみると、きっと貴重な歴史の記録になっているはずです。
今年5月で還暦を迎えました。肩や腰の痛みに悩まされるなど、体の方は年相応にボロが出始めました。でも、若者たちから元気をもらいつつ、もうしばらくは、つくばの地で現役生活を送りたいと考えています。
(鴨志田 公男)
※鴨志田公男(かもした・きみお)さんは1961年水戸市生まれ。京都大理学部卒。86年入社。初任地は奈良支局。福井、京都、大阪科学部を経て東京科学環境部。前橋支局長、北海道報道部長を経て論説委員。2019年5月に退社。
2021年6月15日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑬ ある新聞記者の歩み12
政治部に移って、人間くさい政治家とのつきあいを楽しむ日々 抜粋
(インタビューは校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、“本拠地”経済部を離れて政治部に移ります。1977(昭和52)年、35歳の頃でした。政治の現場で政治家という人間に当たるのはむしろおもしろいと感じ、自分に合っていたと言います。昨今、記者と政治家の距離の取り方が問題視されたりしていますが、マスメディア、なかでも新聞の権威が輝いていた時代に、取材の現場はどんなだったのか、それをビビッドに率直に伝える証言は貴重です。
目次
◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”
◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍
◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」
◇35歳 最年長“番記者”になる
◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく
◇番記者は鵜飼の鵜
◇聞き終わったら「合わせ、合わせ」で各社共有
◇首相の追っかけ係は通信社
◇まんじゅう的魅力かドーナツ的人気か 深くつきあわないとわからない
◇ナベツネさんはすごい
◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”
Q.いよいよ政治部ですね。
1977(昭和52)年の1月に政治部に配属になりました。大手町の経団連会館3階の重工クラブから永田町への“転勤”でした。前年末に“保守傍流リベラル派”といわれた三木内閣が総辞職して、“保守本流”の福田赳夫内閣が成立(1976年12月24日)した直後です。個人的なことで言えばその前年の10月に結婚したばかり。女房はカトリック系の私立の中高一貫校で英語の先生をやっていて、真面目一本ヤリ、昼夜逆転生活のブンヤと結婚してビックリしたようです(笑)。マーそれでも経済部は政治部に較べて、そんなに忙しくはなかったですが、政治部は本当に“夜討ち・朝駆け”の生活でしたから、そのペースに合わせるのが大変だったようです。
なぜ政治部に行ったかということですが、当時、毎日新聞編集局には政経交流という方針がありました。「経済部は大所高所の高みの見物で、とってつけたような経済理論でバンバン書いてるけど、最終的な結論を出す政治の現場って理論で決まるような世界じゃない。政治家一人一人選挙区の事情、その集団の自民党内の派閥の力学、野党との関係、中央と地方の関係など生臭い現場の力学の中で政策が決定されている。これを知らなきゃいけないぞ」というのがひとつです。
もうひとつは、いろんなテーマで社内的な紙面調整が大切になってくるんですね。社会保障政策だとか、農業政策、特に減反政策、地方への交付税予算だとか、代議士の当落にかなり関係するわけで、結果として政府の政策が「政高官低」、つまり政治が強くなりつつある時代でした。だからどうしても政治部からの情報だとか、パイプ役というのが必要だということになってきたと思います。政治部と経済部の記者を交流させ、パイプの流れを良くしようという事だったのではないですかね。
今でも思い出すのは、政治部から帰ってきて大蔵省担当当時、いまの「マイナンバーカード」を先取りした「グリーンカード」案が大蔵省から提案され、富裕層の株式所得などを税制面で課税・総合的に捕捉しようとしたんです。法案提出寸前のいいところまで行ったんですが自民党につぶされます。当時の海軍主計学校出身、レイテ海戦生き残りのF主税局長が「本当に政治家ってしょうがないねー、将来の国のことを考えているんかなー」と唇をかんで、天を仰いでいたことを思い出します。
この辺のところを先取りしていたのは読売新聞で、経済部記者は例えば石油危機の際の電力料金の値上げの時など、自民党の政調会幹部のところに夜回りをして数字を探っていたようですね。毎日の経済部にはそういう意識はなかったな―。
◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍
ちょうどその頃、相前後して与野党逆転だとかロッキード事件だとかいろんな問題が起きて、政治が経済に介入する場面というのが多くなっていたということがあるんだと思います。また経済界も政治力を必要としていた、グローバル化する経済の中で発展途上国への経済援助など、経済界が請け負うわけですから、いわば“政官財複合体”というものが出来ていたんだと思います。
Q.政治部に行かれたのは、特に希望してではなく、指名されたということですか?
ぼく自身は政治部でやってみたいと思ってましたよ。ぼくで2代目だったか3代目だったか・・・。ぼくの前は一年先輩の小邦宏治さんという記者が行ってたんですよ。経済部から行くのはだいたい2年契約なんです。契約と言ってますが正確には慣習ですが。ぼくの場合は4年いました。その後ないんじゃないかなー。これはかなり異例なことなんですね。ぼくわりと調子がいいから、政治家とつき合うのはきらいじゃなかったんです。一橋とか東大出た経済部の真面目な記者は、官僚と一緒になって、政治家なんか政策を曲げてけしからんとか言ってバカにしてるわけです。こっちはそんなこと気にしないから、おもしろがってつき合うという気持ちがありました。でも逆に考えてみれば経済部では、あまり必要とされていなかったのかも(笑)
◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」

最後の四年目の頃は、「おまえ政治部に残るのか、経済部にもどるのか、どうするんだ?」と当時の経済部長から呼び出されたことがありました。ぼくは残ってもいいかなあ―と一瞬思ってました。ところが、政治部は僕と同期の40年入社(昭和40年、1965年)の人が6,7人いました。のちに政治部長から社長になった、横綱審議会の会長にもなった北村正任君、RKB毎日放送の社長になった石上大和君とか、間違いなく政治部長になれる人が3人くらいいたんです。だから、ぼくが残ったとしてもとてもじゃないけど政治部長なんかなれないなと思いました。
当時、(経済部の時の上司の)歌川令三さんに相談したことがありました。そうしたら「帰ってこい、政治部にいても(部長になれる)目は無いぞ」と言われました。不思議なことに経済部は昭和40年入社(1965年)がぼく以外誰もいなかったのです。入社試験の時は東京オリンピックの時で、百人近く採用したんですね。支局から本社に上がる際、優秀なやつはみんな政治部、社会部などに取られちゃったんですね。それはやっぱり、経済部と政治部の社内的な政治力の違いなんだな。人材については水面下の争奪戦ですから。経済部はあまり社内政治力が無いですからねえ。
その時、歌川さんが言ったのは「40年組はオマエひとりなんだから、黙って坐ってれば部長になるぞ」って(笑)まあ、そのとおりになりましたが(笑)・・・。めぐりあわせです。でもこんな事、話すと出世主義者のガリガリと思われていやだな―(笑)
Q.では、政治部に配属された頃まで時間を巻き戻して、政治部でのお仕事を具体的に伺います。
◇35歳 最年長“番記者”になる
政治部の時代というのはすごくおもしろかったです。とにかく、政治部っていうのは一種の徒弟制度のようなところです。スタートは番記者です。支局から上がってきた各社の政治部の若い記者が、だれでも最初に通るポジションです。少なくとも日本の政治、経済、外交あらゆる問題が、最終的には総理官邸に集中するわけで、本当に勉強になります。そこで1年程度やって各クラブに行くわけです。政治記者の登竜門といってもよかったですね。
ぼくは当時35歳位でしたから、各社の中で最年長でした。特に、日経は、以前“少年探偵団”と呼ばれていたなんて話をしたように、支局まわりがなくて入社後、直接政治部に配属になるので、いちばん若かったですね。安全保障担当していた伊奈さんなんて、大学を出たばかりで一回り違いました。
Q.伊奈さんというのは伊奈久喜さんのことですね?2016年に胃がんのためなんと62歳で亡くなったのですね。何か印象に残っていますか?
背の低い、小太りで色の白い、でも福田赳夫首相に臆せず質問をしていましたね。ぼくが経済部から頼まれて、税制の問題かなんかで総理に質問すると「佐々木さん、今の総理の発言、解説してよ、経済問題は佐々木さん専門でしょ」なんて調子のいいこと言いながら、メモ帳を出していたことを思い出します。後年、安全保障問題について署名入りで格調高い記事を書いているのを見て、いい記者になったな、あの伊奈ちゃんが―、と思いました。残念だな―。
それと今テレビで売れっ子のコメンテーター田崎史郎さんも時事通信で、一時期、福田番をしていたと思いますよ。ウイキペディアで見ると大平番となっているけど、一緒にいたように思うな。彼は学生時代、成田空港建設反対闘争、いわゆる三里塚闘争で逮捕され13日間も拘留されていたんですよね、そういう人が権力のトップの間近かにいたんだから----。公安も困っただろうな―。でもその彼が今や政権寄りのコメンテーターとして有名で、安倍政権時代は首相と一緒に寿司会食をしたというんで“スシロー”なんてネットで冷やかされていたんだから面白いよねー(笑)。
そうか思い出しました。当時番記者仲間だった共同通信の福山正喜さんはその後、社長(2013~18年)になりましたね。産経は後に社長(2011~17年)になる熊坂隆光記者がいましたね。その後、中曽根派担当で一緒で仲良くしました。
政治部の記者はその後、社内でトップに上り詰める人が多いですね、各社とも。やはり菅総理ではないですが「総合的・俯瞰的」にモノを見る目が自然と養われ、社内の派閥抗争も自民党のそれに比べれば赤子の手をひねるようなもんだったかもしれません(笑)。
◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく
ぼくといっしょに番記者をしていた毎日の記者は、支局から上がってきた若いⅠ記者と、後にセブン&アイ・ホールディングスの常務になる稲岡稔さんの3人だったように思います。3人でローテーション組んでいたように思います。
昔の官邸の入口のすぐ脇に、通称番小屋というのがありました。10畳もないくらいの広さの部屋でソファーが2つくらい置いてありました。そこに各社のみんなが詰めているわけです。担当ではないときには、番記者が持つことになっている内閣府、官房副長官などのところに行くわけです。時間があれば首相官邸前にある「国会記者会館」の毎日新聞の部屋に行って先輩記者の話を聞いたりしていました。思い出しましたがその一階に喫茶店があって、そこに当時はやりのコンピューター・ゲームの走りの“インベーダーゲーム”機があってよく遊びましたね(笑)。
番記者は官邸記者クラブに属しているわけですが、このクラブには官邸キャップの下に名簿上は数十人いたと思います。総理会見には経済、社会部などからも出ることがありますから、そのくらいの数になりますね。常駐記者は10人くらいはいたんではないでしょうか。官邸内にチョットした学校の体育館並のデカいスペースの「官邸記者クラブ」の看板を掲げた部屋がありました。
このほかに自民党担当の「平河クラブ」、野党担当の「野党クラブ」があって、これに外務省担当の「霞クラブ」というのが、さしずめ四大クラブという感じでした。他には厚生省、労働省、自治省などのクラブが政治部の担当でした。ただ政治部の主流はこの四大クラブで、ここのキャップを幾つかやっていなくては部長にはなれない、という暗黙の了解があったように思います。「平河クラブ」には、党内の各派閥、当時は福田派、大平派、田中派、中曽根派、三木派などの各派閥担当がいました。いわゆる派閥記者ですね。やはり福田、大平、田中派担当が幅をきかせていましたね。
番記者を上がると、こういったクラブに所属するわけです。
番記者というのは番小屋に詰めてて、黒板にその日の総理の概略の日程が張り出されのを見て、朝8時頃に総理が車から降りて官邸入りすれば、二階の執務室の前まで付いて行くわけです。テレビ各社も入れて十数人で取り囲んで、組閣の時、新内閣の閣僚がひな壇のように並んで写真を撮る、議員あこがれの階段を上がるわけです。なにせ数分、二三分位だったでしょうから、質問内容を事前に各社で打ち合わせていたと思いますが、「今日のご日程に〇〇さんに会われるというのが入っていますが何のお話するのですか?」とかいうように質問したりします。あるいは他社の特ダネ「今朝の〇〇新聞の記事はどうなんですか?」なんて聞くわけです。(以下略)
2021年6月1日
フクロウの森から <前略。このほど、毎日新聞社を退社しました>と 萩尾信也さんの挨拶状

<最後まで記者を続けることが出来たのは、おおらかな社風と個性豊かな先輩と、多彩な同僚諸氏、取材を通して知己を得た方々のおかげです。この場を借りて、御礼申し上げます。
思い起こせば、入社試験の面接で「取り組みたいテーマはありますか?」と問われ、臆面もなく「人という存在と、心という迷宮を探検したい」と答えました。
42年間の記者生活を経て、いまだ迷路にはまり込んだままです。探求の旅は、いのちの際まで続けたいと思います。
やりたい事、行きたい所、会いたい人は、数え切れません。身の丈に合わせて、ぼちぼち歩いて行くつもりです。どこかで姿を見かけたら、声を掛けてください>
退職の挨拶状を方々にお送りしたら、社会部の先輩から「毎友会のホームページに載せてもいいかな。加筆してくれる?」と電話がありました。
この期に及んで、私事をさらすことに躊躇しましたが、お世話になった方々の顔を浮かべながら、パソコンに向かいました。御笑読いただければ、幸いです。
* * *
入社したのは、高度経済成長とバブル期の谷間にある1980年の春でした。同期は40人ほどいたでしょうか。
経済白書が「戦後の終焉」を告げた時代に生まれ、空き地でチャンバラや三角ベースボールに興じ、テレビが我が家に来た日のことを、子ども心に記憶する「三丁目の夕日」の世代です。
記者になった年の夏には、ソ連のアフガン侵攻に抗議して日米を含む67カ国がモスクワ五輪をボイコットし、年の瀬にはジョン・レノンが凶弾に倒れました。
その3年前には、経営が破綻した毎日新聞は、「新旧分離」で存続を図っています。記者の募集要項から「大卒以上」の条件を外し、「学歴不問」としたのも、再建への様々な試みのひとつでした。
結果、同期には高卒や大学中退者が並び、「学力不問の80組」と呼ばれました。大学在籍中に計2年に渡って南米やアフリカを放浪していた私も、紛れ込むことが出来ました。
当時の早稲田は、代返やレポートで単位をもらえる寛容な空気に満ちていました。その恩恵で、私は世界に飛び出し、多様な文化や価値観に接することが出来ました。
履歴書の書き方も知らず、特技には「逃げ足が速い」、得意語学は「言葉の通じない民族との会話の仕方」と記入しました。役員面接では、ライオンやクマに遭遇した時の処し方、砂漠で暮らす裸族の娘に求愛したい一心で未知の言語に挑んだ体験を話しました。
アポなしで早稲田の総長室を訪ねたのは、一次試験(学科と作文)パスの連絡があった翌日です。当時の新聞社の入社試験は、11月でした。
「せっかくのチャンスを、ものにしたい」。思案の末に、「総長の推薦状をもらおう」と思い立ち、ダメ元でドアをノックしました。
「推薦状を書いていただけないでしょうか」「‥‥‥」「室長、前例はありますか?」「聞いたこともありません」「前例を作っていただけないでしょうか」
清水司総長や総長室長とこんなやり取りがあり、1時間後に総長直筆の推薦状を手に、竹橋の本社の人事部を訪ねました。
そして、さらに1時間後。私は、推薦状を持ったまま、総長室で頭を下げていました。「申し訳ありません。社長の名前を間違えてしまいました」
毎日は、平岡敏男社長でした。「としおのとしは、どっちかな」「俊敏の俊です」。総長の質問に、答えたのは私です。
「君、記者に向いていませんね。でも、このままにしておくのは、平岡さんに失礼だしな‥‥」。総長は頭を振って、もう一度筆を手にし、私は書き直して頂いた推薦状を持って、いま一度、人事部を訪ねました。
余談ですが、社会部の先輩の佐藤健さんの「生きる者の記録」が、2003年の早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した際に、私は故人の名代で授賞式に臨みました。
授賞式の後に、肩をたたかれて振り向くと総長室長の顔があり、こんな言葉が続きました。「字は間違えたけど、毎日が採用したのは間違ってなかったようだね」
初任地は、群馬県の前橋支局でした。大学の後輩が調達してきた軽トラの荷台に布団袋と着替えや洗面道具を詰め込んだリュックを積み、支局の3階にある支局長宅の空き部屋に荷を解きました。
「親と上司は選べない」。支局の先輩に教わった教訓です。当時の湯沢支局長と寺田デスクは、今でも同人に語り継がれる名コンビで、支局は活気に満ちていました。
支局長の手料理に、バス・トイレ付。快適さにそのまま居ついてしまい、先輩たちに「アパートを探せ」とせかされるまで、2カ月近くお世話になりました。
支局には、通信部やパンチャーさんや運転手さんを加えて、20人近くが在籍していました。新旧分離に伴う人事の滞留で7年生もおり、地元紙とも渡りあえる顔ぶれでした。
通信部は、土地に根付いたベテラン揃いで、事あるたびに通信部に泊まり込んで、取材のいろはを教わりました。奥さんの手料理は、遠慮なくおかわりしました。
沼田通信部の佐藤和昭さんは顔が広く、尾瀬や谷川岳の連載記事では、山の人脈をつないで頂きました。山岳遭難が発生すると、東京本社の屋上にあった鳩小屋から、「鳩係」が伝書鳩を運んできた時代の証人でもありました。
捜索隊に同行して現場に向かい、小さな字で原稿をつづった紙片を鳩の脚管に入れて、放ったそうです。「東京の本社の屋上に鳩小屋があってね。うちの鳩は、他社の鳩を引き連れて帰ってくるのさ。だから、一報は毎日の圧勝だ。降版した後に、『おたくの鳩が来ていますよ』って電話したよ」
佐藤さんは2年前に亡くなり、沼田の家に焼香にうかがいました。
5年間の支局暮らしを経て、東京社会部に異動になりました。サツ回りで下町を担当し、月に3度は泊まりで社に上がりました。
最終版が降版すると、テーブルを囲んで深夜の酒盛の開宴です。そのうち、政治部や外信部や運動部の猛者が顔を出し、口角泡を飛ばして論争が始まりました。
記事の扱いから世界情勢や社会風俗に至るまで話題は尽きず、明け方まで続くこともありました。個性的なメンツがそろい、風通しのよい社風を肌で感じました。
日航ジャンボ機墜落事故が起きたのは、その夏です。リュックに登山道具を入れて社に上がり、遊軍長に「上野村は、私のショバです」と現場取材を志願しました。ホバリングするヘリから現場の尾根に飛び降り、野宿をしながら取材を続けました。
乗客のご家族たちとは、今でもお付き合いを頂いており、多くの学びや気づきを得ました。日航機事故に限らず、取材先で出会った方々に結んでいただいた縁は、記者人生の最大の財産となりました。
バンコク支局で過ごした3年と、甲府のデスクを務めた1年半、サンデー毎日で副編集長を務めた1年半を除き、東京本社の社会部で記者を続けました。「本籍は」と問われれば、迷うことなく「東京社会部」と答えます。
先輩諸氏から授かった「記者の流儀」も数え切れません。
「群れるな。君は、かもめのジョナサンになれ」。入社に際して、社会部OBの山崎宗次さんから頂いた言葉です。
群れを離れて、飛ぶことを探求した孤高のカモメの寓話でした。山崎さんには、入社試験の前に2カ月ほど作文の指導を受けました。
「警視庁をやってみるかい」。サツ回りの終盤に、山本祐司部長から打診を受けました。
「クエスチョンマーク付きですか」「そうだね」「ノーで、お願いできますか」。この顛末が部内に伝わり、顰蹙を買いましたが、部長は遊軍の一員に加えてくれました。
「まずは1年、やってみることだ。チャンスを生かすも殺すも、自分次第だよ。自由にさせてもらうというのは、そういう事だよ」。牛のようなその風貌とともに、忘れがたい言葉です。
「記者の醍醐味は、異なる文化や物差しに遭遇することかな。自分の価値観が崩れるのはショックだけど、新しい風景が見えてくるこがある。その感受性を失ったら、脳みそが固くなった時だよ。潔く一線から退いて、後進を育てた方がいい」
バンコク支局とプノンペン支局でお世話になった草野靖夫支局長からは、こんな薫陶を受けました。インドシナ紛争の残り火がくすぶる時代に、御一緒した3年間は、熱く、刺激的な毎日でした。
「クサノさ~ん」。蒸したての中華饅頭のような顔を見つけると、屋台のおばさんやゴーゴーバーのお姉さんから、政財界の顔役や東南アジア各国のジャーナリストに至るまで、親しげに声を掛けてきました。退社後、インドネシアで邦字紙の編集長を務められ、その門下生が毎日を含む多くの新聞社で活躍しています。
「一緒に三途の川を渡ろう」「いいえ、途中までは同行しますが、僕は途中で帰ります」。遊軍記者の大先輩である佐藤健さんとは、「生きる者の記録」の連載を始める前に、こんな会話がありました。
「人間ってやつは実におもしろい。人の数だけ生老病死の物語がある」。自らの死出の軌跡もルポする「生涯一記者」の先達でした。
「最期まで、目をそらすなよ」「望むところです」。意識を失われた後、聴診器で心音を聞き、瞳孔を見続けました。気が付けば、とうに健さんの享年を超えてしまいました。
「お前は、会社に足を向けて寝られないな」。同期入社の仲間に繰り返し言われた言葉です。自由に飛び回ることが出来たのは、社の経営や後進の育成に携わって頂いた先輩や同僚諸氏のおかげです。
最後の取材現場は、東日本大震災から10年を迎えた東北の沿岸部となりました。
震災の年に、1年間に渡って被災地から記事を送り続けた私は、再訪の地で、地元の方々に固有名詞で記憶されている毎日の記者がたくさんいることを知り、誇らしく思いました。
記者と取材対象という関係を超えて、家に泊まり込み、胸襟を開いて、絆を育み続ける後輩たちです。その数は、朝日やNHKや共同を凌駕していました。
そんな現役諸氏のさらなる健闘を祈念しつつ、老兵は去り時を自覚しました。
寂しさとは無縁の、清々しい思いです。社を去っても、「記者」という生き方は骨の髄まで染みついています。
お世話になりました。今後も、末永いお付き合いを頂ければ、幸いです。
<略歴>1980年春、毎日新聞入社。前橋支局、東京社会部、バンコク支局兼プノンペン支局。外信部副部長、サンデー毎日副編集長、東京社会部編集委員などを経て、2015年6月~21年3月末まで東京社会部専門編集委員。現・毎日新聞客員編集委員。
【退任挨拶状には、次のくだりも】これから夏場は、少年時代を過ごした岩手県釜石市で、友人が経営するシーカヤックの店「MESA」のツアーを手伝いながら、イワナ釣りや山登りを満喫するつもりです。地元の仲間たちと、忘れ去られつつある三陸の人々の営みや文化風俗の掘り起こしもしたいと思います。MESAは、海辺にあるこじゃれた店です。震災で流され、昨春、再建されました。2段ベッドに宿泊も出来ます。遊びに来てください。
2021年5月31日
元「サン写真新聞」中森康友さんからの便り
元スポニチ編集委員のジャーナリスト・中森康友さん(ことし86歳)から、スポニチ紙面添付のメールが届いた。
中森さんは、1946年に創刊した「サン写真新聞」に入社、その後スポニチに移り、ボウリング担当を長く続けた。
《変種株コロナ禍のさなか、お元気でお過ごしですか。ワクチン接種に望みをかけて一日も早い収束を願う日々です。ご自愛ください。
女子ボウリング界の隆盛に活躍されたプロボウラーの女王、須田開代子さんが逝かれて今年で26年になります。
今朝のスポニチ紙面に連載企画“ヒーロー巡礼「ありがとう」を伝えに…“で須田開代子さんが取り上げられました。
かつてのボウリング担当記者として改めて故人のご冥福をお祈りし掲載記事をお届けします。一人息子さんの近況にも触れられています》
(堤 哲)

2021年5月19日
奈良本英佑さんがFacebookに写真を何枚も添え、投稿しています
5月14日の追加情報です。


イスラエル大使館へ、デモ隊の行く手を遮ったのは警察官だった。
奈良本さんは、こう書いています。
「麴町警察署の警官は、イスラエル大使館のお雇い警備員でしょうか。数年前は、こんなことはなかった。2014年5月にイスラエルのネタニヤフ首相が来日、両国間の「軍事協力協定」ともいうべきものが成立して後だと記憶しています。こんな役割をさせられる警官も気の毒です」
(堤 哲)
2021年5月18日
大阪社会部旧友、奈良本英佑さん(79歳)がガザ支援のデモに

イスラエルによるガザ地区への空爆が続いているが、それに抗議するデモ隊に大阪社会部旧友・奈良本英佑さん(79歳)の姿があった。
5月14日(土)午後3時半過ぎ、東京メトロ有楽町線麴町駅近くの旧日本テレビ本社ビル跡前の交差点。デモ隊は、近くの在日イスラエル大使館を目指したが、警備の警察官に阻まれ、集会になったとみられる。
「ガザへの攻撃をやめろ」「殺すな」
「Stop War」「Stop Killing」
「SAVE GAZA」「Free Palestine」
手に手にプラカードを持ったデモ隊は50人ほどだ。
奈良本さんは、法政大学名誉教授。中東問題の専門家で、『14歳からのパレスチナ問題—これだけは知っておきたいパレスチナ・イスラエルの120年』(合同出版2017年刊)の著書がある。
同書の著者プロフィールによると、1965年から80年まで毎日新聞記者。退職後、プリンストン大学で中東史を専攻、1984年修士課程修了。独協大学非常勤講師などを経て、1991年から2012年まで法政大学教員。主な著書に『パレスチナの歴史』(明石書店2005年刊)、翻訳書は、G.H.ジャンセン『シオニズム—イスラエルとアジア・ナショナリズム』(第三書館)、Y.ハルカビ『イスラエル・運命の刻』(第三書館)など。
奈良本さんは、大阪社会部の吹田通信部員だったことがある。通信部は、北千里の毎日新聞独身寮の1階にあって、私は大阪社会部に転勤になって、この独身寮に住んでいた。通信部からよくピアノの音が流れた。ピアノは独身寮の備品とは思われないので、奈良本さん自身が持ち込んだものと思う。休みに通信部を訪ねると、美味しい紅茶を入れてくれた。京都生まれの穏やかな趣味人という感じだった。お父さんは歴史学者の奈良本辰也さんである。
大阪社会部の同期は、北村正任、田中良太、鳥越俊太郎、藤田修二、亘英太郎、高山義憲、葛西進司、高橋裕夫、山崎貞一らである。
連帯の挨拶に立った奈良本さんは、パレスチナの歴史を述べたあと、「イスラエルはガザ地区への攻撃をやめるよう」強く訴えた。
現地時間で翌15日は、イスラエルの建国でパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大破局)の日」にあたり、世界各地で抗議行動が行われる、と司会者が紹介した。
(堤 哲)
2021年5月9日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑫ ある新聞記者の歩み ⑪トマトから鉄鋼まで 自由な社風のもとでのびのび取材 抜粋
(インタビューは校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、入社後約5年間水戸支局に勤め、そのあと28歳で経済部に配属となりました。政治部に移るのが35歳のときですが、その間8ヶ月ほど語学留学で英国に行ったので、経済部生活は実質6年強ということになります。佐々木さんの新聞記者としての骨格がこの6年間でできた印象を持ちます。後年また経済部に戻ってきますが、今回は第1次経済部時代のしめくくりです。
目次
経済部時代(7)
◆「冬のトマトは石油のかたまり」
◆部会では自由に発言 時には激論
◆社説は特に意識になし
◆「重工記者クラブ」配属 春闘取材の相手から飲まされて
◆「鉄は国家なり」鉄がいちばんエライ時代
◆経営者の運と不運をまのあたりに
経済部時代(7)
◆「冬のトマトは石油のかたまり」
Q.ところで、『当世物価百態』(毎日新聞経済部編、1976年1月20日発行)という本が、佐々木さんが英国留学に行く同じ頃に出ていますね。佐々木さんが書かれたと以前伺ったトマトの話がトップに載っていて、たいへんおもしろかったです。「冬のトマトは石油のかたまり」なんてのは、いい表現ですよね。70の品目ごとに書かれているんですね。
トマトって調べてみたらおもしろかったんですよ。ほかにもいくつか書いていると思うんだけど、どれだったかなあ・・・。これは当時の経済部長の西和夫さんが、ゴーサインを出した企画だったと思います。東大経済学部出身のシャープなセンスを持った人で、後に編集局長になります。第一次石油ショックがもたらした“狂乱物価”が落ち着いて、ようやく世界経済が景気回復への軌道に乗った時期、物価を鳥の目ではなく、虫の目でみてみようという発想でスタートしたと思います。 今この本を見ると「生鮮食品」にトマト、サンマ。「加工食品」にたくあん、インスタントラーメン。背広などの「衣料品」、ラジオ、大工の手間賃などの「家具、住居関係」など本当に雑多な商品が扱われていて驚きます。今の各社の経済面を見ても、こういうセンスの企画はないように思いますね。今は生活家庭部の守備範囲になるんですかね。でも今読んでも面白い企画ですね。
Q.いまだったら書いた人の署名が入るからわかるんですけど、個人名は入ってないですね。
当時は記者名を入れていませんでしたね。だから記者個人がキチンとスクラップしなくてはいけないんでしょうが‐‐‐、ズボラだからやってないんだよね(笑)。この「トマト」の記事には思い出があって、フジテレビのアナウンサーで有名だった田丸美寿々さんと結婚した、商社問題に強かったフリー・ジャーナリストの美里泰伸さんが丸紅の広報室に行ったとき出会って、「佐々木さんが書いたトマトの原稿面白かった」とほめてくれたことを思い出します。
Q.経済部長の西和夫さんのお名前だけは代表として入っていますね。
西さんは最近亡くなりました。90歳くらいだったと思いますが、最期までしっかりなさってました。横浜にお住まいで、時々、東京に出て来られてはご一緒に飲みました。でも彼は「佐々木君は会社を辞めてから活躍している。原稿も上手くなった」と、当方が2018年出版したノンフィクション「封印された殉教」(上下巻、フリープレス刊)などをほめてくれました。嬉しかったナ。出来たら現役の頃、ほめてもらえればよかったんですが(笑)
この『当世物価百態』の各項目の最後に「格言」が出てるでしょ?Q.出てますね。トマトのところは「どんな虫けらだって、踏みつけられりゃ、何を!というかっこうをするものだ セルバンテス」とあります。
こういうのを入れようっていうのは、ぼくが考えたんだと思うんだけど・・・。「馬鹿野郎、違うぞ」って言われるかもしれないけど、当時、なんかこういう格言使うのが好きだったんですよ。わざわざ「世界の名文句引用事典」(自由国民社刊)なんて本を買い込んで読んだりしてましたから。
ぼくは原稿あんまりうまくなかったんですが、認められたっていうのは、石油ショックのとき・・・いや、終わってからかなあ、あの前後に石油危機の検証みたいな原稿を書いたんですよ。4回か上中下だったか・・・。その原稿はすごく手法が新しかったのです。「情報」、「証言」、「検証」という項目を使って、こういう情報があります、たとえば「アラブの石油埋蔵量は40年と言われています」が、その「証言」はこうです。それを「検証」するとこうですという手法です。一回の連載に5本くらい「情報」、「証言」、「検証」を入れたかな。高度な分析原稿が下手だから苦し紛れに編み出した手法なんです。
担当デスクなんかに、「新しい手法だ。すごくおもしろい」って、ほめられた覚えがあります。それを読んだ週刊東洋経済に原稿書いてくれって言われたので、同じパターンではよくないと思って、普通の原稿で書いたら、その後、注文が来なくなっちゃいました(笑)。
◆部会では自由に発言 時には激論
毎日の経済部は自由に書かせるというか、新しい角度で書かせることについては臆病ではなかったですね。おもしろいからやろうかって。
Q.『当世物価百態』の前書きには1975年7月から毎週4回、約4ヶ月連載されたとあるので、貿易記者クラブの頃ですか?
そうそう、商社担当の頃ですね。当時、経済面に加えて新経面(新経済面)というのができて間がない頃でした。他社に先がけて実体経済っていうのは民間にありというので作られました。日経産業新聞なんかもそういう流れの中で登場したということだと思います。
Q.年表を見ると日経産業新聞、1973年創刊ですね。
なるほど、少し早いですね。新経面は、ぼくが経済部に来る前の年にできたと思います。Q.経済部は部会なんかはどんな風にやっていたのですか。
経済部は官庁担当と民間経済担当が別々に部会をやってました。民間部会は、10時からだったかな。大手町ビルの自動車工業会の会議室を借りてやりました。そこでこの週のできごとだとか、企画記事などを出し合ってました。でも途中から工業会の会議室が使えなくなり、本社の会議室になった記憶があります。
Q.パレスサイドビルの本社でやるっていう発想はないんですか?
やっぱり取材現場に近いからですね。経団連会館とか歩いて5分もかからないでしょ。
Q.パレスサイトビルには、経済部在籍中はあまり縁がなかったということですか?
いやそうではなく、原稿は所属のクラブから本社に送るわけで、その掲載の確認のためにほとんど毎日、本社に上がって、刷り上がりを点検します。普通のサラリーマンと違って、朝は担当の記者クラブ、霞が関(官庁)、大手町界隈(民間)に“出勤”、夜遅く会社に上がるというパターンですね。
ただ月に1回の経済部の全体部会はありましたね。夜8時位からの開催ではなかったかな。パレスサイドビル4階の編集局の会議室でした。そのときに民間担当と官庁担当キャップが、来月はこうなりそうだとか話をして、部長が編集局の方針など、いろんなことを話したりしました。海外取材帰りの人からの土産の酒も入りますから、そこで大議論をしたりして、忖度なし、言いたいことは言いましたね。転勤などがある際は本人の挨拶と、出席者全員からのはなむけの言葉が述べられたりして、結構、時間がかかって、終わるとビルの裏口に出ている屋台のラーメン屋で良く飲みました。
Q.部会で意見が分かれるようなテーマって、たとえばどんなことですか?
ぼくの時代は国債発行の限度額が確か30%を超えるか超えないかの議論があって、いかに政治からの圧力に歯止めをかけるかについて、大蔵省は財政健全化一本ヤリ、国債増発絶対反対。だからそういうことについての議論がありました。また当時の内閣は自民党リベラル派の三木内閣、東京には革新の美濃部知事、大阪は共産党推薦の黒田知事など革新自治体が続出する時代。談論風発、若い記者の意見を聞こうという感じが強かった気がします。
それから石油ショックのときも、部会にはキャップが上がって現状説明をして、こういう方向に行くというような話をしたはずです。それでぼくの「情報」と「証言」、「検証」みたいな、今までにない企画をやらせよう、という話になったんではないかと思いますよ。こういう議論を受けて経済部長は、編集局長が開く局長会で局次長以下の編集幹部に説明、了解を受けていたと思います。
(以下略)
2021年4月19日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑪ ある新聞記者の歩み ⑩抜粋
(インタビューは校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
現在は、ネットの発達とスマホの普及のもと、新聞というメディアの退潮が目立ちます。しかし、石油危機当時は、新聞がマスメディアの王者としてニュースの供給を圧倒的に担っていました。テレビも映像の力を発揮して成長しつつありましたが、信頼度という点では新聞が常にまさっていて、ジャーナリズムの中心的担い手でした。新聞記者の“酒とバラの日々”とでもいうのでしょうか。
目次
経済部時代(6)
◆現役記者との会話から
◆隔世の感!日経の「就職企業人気ランキング」の特集記事
◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・
◆砂漠の国と新緑の日本
◆中東のオアシス レバノン
◆中曽根さんの政治家としてのカン
◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も
◆得がたい記者仲間たち
◆記者にとって麻雀とは
Q.毎日新聞社という企業体は(新旧分離という)苦難にぶつかったわけですが、メディアとしての新聞は全盛期だったわけで、その時代を経験された記者のオーラルヒストリーを記録しておくのは、時代の証言としておおいに価値があると思います。そこで少々趣向を変えて、取材にまつわるこぼれ話などいかがでしょうか?
◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・
1974年1月7日に当時の中曽根康弘通産相がイラン、イラク、アブダビ(現アラブ首長国連邦)を訪問します。その時、同行取材をした話はすでに第6回で話しましたよね。その前年の73年10月6日に第四次中東戦争を契機として、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が消費国に供給制限をかけ、反イスラエル・パレスチナ支持を条件に、石油供給の段階的制限を打ち出します。
石油危機の勃発です。日本経済はパニックに状態となり、“アブラ乞い外交”と揶揄されながら、12月に三木前首相がサウジアラビアなどを訪問、中曽根通産相も、1月早々に旅立つわけです。日本国内では原油を燃やす火力発電が主流だった電力供給体制でしたから、大変です。電力供給制限が発令されるなどの緊迫した状況下、三ヶ国を訪問して、日本政府がパレスチナへの理解を示していることを表明、18日に帰国しました。
私は帰らずにテヘランからレバノンのベイルートに移り、「無資源国日本の危機」をテーマとする1面連載企画の取材のため、サウジアラビア、クエート、アブダビの現地取材に出かけました。ベイルートに拠点を置いて風呂敷一つに取材用具を入れて飛び回った記憶があります。そのときに第1回目か2回目の記事を書きました。1面の左上で連載したかなり大きい企画でした。とにかく“産業のコメ”といわれた石油が来なくなるというので、狂乱物価といわれ、物価がほぼ3倍になって日本経済を揺さぶっていました。

でもサウジアラビアなどの産油国に行くと、国中のんびりした様子。石油危機とは程遠い状況。産油国と消費国というポジションを考えれば当たり前なんですが、そのギャップに驚きました。
思い出すエピソードがあります。首都リアドで東京で紹介状をもらっていた、三菱商事、伊藤忠、丸紅などの現地駐在員に会うと、「市内でタクシーに乗る時はよく気をつけろ」と言われましたよ。運転手が、日本人男性を見ると助手席に座れと言うんだそうです。
サウジでは結婚の際、男性が女性の家に大金を払うんだそうです。お金がないと女性と結婚することができないんです。タクシー運転手はそういう経済的余裕がないので、同性愛が多いんだというんですね。それで助手席に座るとさわられると言われました(笑)。
「佐々木さんは色白だから気をつけた方がいいよ!」(笑)
そんなおかしな話が交わされるほどのどかでした。被害には会いませんでしたが(笑)。
◆砂漠の国と新緑の日本
当時、三菱商事がリアド郊外で石油化学工場の建築工事をやっていたので訪ねました。とにかく日本人男性だけで20人はいたでしょうか。酒は飲めず、女性の事務員がいるわけでもない索漠とした、周りは緑のない全くの“砂漠の飯場”だったことを憶えています。とてもここには長期滞在はできないなと思い、商社マンってえらいな!と思いましたね。
日本に帰ってからその話を確か第5回に書いた、右翼の資源派フィクサーといわれた田中清玄さんにしたことがあります。そうしたら、田中さんが以前サウジの王族を5月の新緑の時期に、箱根に招待したことがあるんだそうです。その時、その王族がホテルの部屋から見える新緑に見惚れて立ち尽くしていたとか。「砂漠の国からきて新緑の美しさに感動していたんだね。その心中を考えると声をかけられなかった」という話を聞いたことがあります。本当に日本は四季に恵まれた“美しい国”だと思いますね。
◆中東のオアシス レバノン
この当時、レバノン・ベイルートは中東のオアシスでした。旧フランス植民地でイスラム教のスンニ派、シーア派が共存し、キリスト教もカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教などが共存してモザイク国家といわれていました。バランスよく政治的にも安定したいたようです。町並みはヨーロッパ風、アラブ風の衣装を着ている人も少なく、切れ長の目をした先端のパリモードを着こなした美人が多く、“中東のパリ”また“中東のオアシス”とも言われていました。地中海に面して気候も良く、食い物もおいしくて、私は海外で「また行きたいところはどこか?」と」言われれば、間違いなく「あの当時のベイルート」といいますね。
しかし訪れた翌年の1975年には、この政治的バランスが崩れます。石油危機をきっかけとした中東紛争に巻き込まれ、内戦が始まり、見る影もなく市内は破壊されたようです。ようやく落ち着いてきたと思ったら昨年、ベイルート港で大爆発が起きて混乱が収まらないようです。日産のレバノン出身のゴーン元社長がここに逃げましたが、彼はここの生まれですから昔の思い出があるんでしょうかね。
当時、サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦とか、厳しいイスラム教の戒律の国の金持ちは、休暇のときはレバノンに来て羽を伸ばして遊んでいたといわれていました。日本料理店も2軒くらいありました。地中海の海岸沿いのPigeon Cliff(鳩のがけ)といったかな、そこに日本料理屋と地中海料理屋があって通いました。
◆中曽根さんの政治家としてのカン
Q.中曽根さんは石油危機の前の年に中東を訪問しているのですね。
石油危機の半年前の1973(昭和48)年5月の連休中に、イラン、イラク、サウジアラビア、アブダビ、クウエートに行ってます。全部国王などの元首に会っているんです。そのルートが、翌年行く時に生きるのです。当時、ぼくの通産省時代のキャップだった山田尚宏記者(後・経済部長)が同行したのですが、イランのパーレビ―国王に単独会見したことを覚えています。
Q.そのとき中曽根さんは“石油ショック”の到来を、察知していなかったわけですよね?
そうです。だけど、彼の勘というのは、政治家としてやっぱりすごいですね。当時日本のエネルギーの80%は中東からの石油輸入に依存していたんです。イランからは37.3%、サウジアラビアは16.7%という具合でした。「民族の興亡は石油外交の成否に」と帰国後の「エコノミスト」誌(毎日新聞社発行)の73年6月19日号で語っています。 中曽根さんは、戦争中、海軍主計学校卒業後、海軍中尉としてインドネシアなんかに行ってるから、石油がなくて日本がたいへんだったということは身に染みて知ってるわけです。“無資源国・日本”という安全保障上の基本ポジションを押さえていたと言えます。
わたしはその4年後の1977年に政治部に異動になり中曽根派担当になるんです。ある時、二人だけの時、中曽根さんに「あのとき中曽根さんはアラブによく行かれましたね?アメリカのキッシンジャー大統領補佐官などから日米同盟の枠の中で動けと言われていたのに、独自の対アラブ寄り外交を展開できたのですね。外務省の抵抗もすごかったと聞いています」という質問をしたことがあるんです。
中曽根さんは「1970年代は戦後の第一ラウンドが終わって第二ラウンドが始まったところ。経済大国となった日本は、アメリカ中心という外交第一ラウンドから次の30年間を持ちこたえなくてはならない。そのため無資源国・日本が生きていく上にアラブ産油国の重要性を考えなくてはいけない。日本がこれから30年間持ちこたえるだけの外交姿勢に修正していかなくては―そう考えて取り組んだんだ」と語っていました。日本の安全保障の基点に“無資源国”というのがあるんだというわけです。その石油の替わりが原子力発電だったわけです。イヤー中々すごいなーと思いました。でもそれも限界に来ていますね。
◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も
Q.当時の取材競争の中で、他社というのはどれだけ意識していたのでしょうか?
日経はなんとなく違う感じでしたね。通産省の記者クラブにも、5人か6人くらい配属されていたんじゃないかなあ。だいたいほかの社は2~3人なんですが。日経は「日経少年探偵団」なんて言われていました。我々は入社後、4,5年地方支局に行って本社に上がってきているんです。日経の場合、そもそも支局は一人支局で、新人の支局勤務がないんです。入社直後の学生気分が抜けていない、われわれの立場からいえば、彼らにとって通産省が記者として最初の“サツ回り”の感じではなかったかなー。我々の仲間よりも5歳から10歳の下の記者が多かった。
だから彼らを率いるキャップも、新人教育が大変で他社の記者と付き合う暇がない様な感じでしたね。日経は若い記者が通産省の中の各局を分担していたんじゃないかな―。記者クラブでは、キャップの指揮下になんとなく固まって動いていたのに対して、我々はいい大人の気分で、一人一人それぞれという感じが強かったと思います。
ただ当時の日経のキャップは後に経済部長、編集局長、副社長になる新井淳一さん。僕と同年代ですが、後年、財界人との勉強会などで一緒になり親しくさせていただきました。でも通産省記者クラブでは、こちらはヒラで新井さんはキャップ。もっぱら当社のキャップの山田さんが「新井ちゃん」という感じで、親しくしていたと思います。ちょう・まい・よみ(朝日、毎日、読売)と産経、共同、時事の記者は、年齢的に近いということもあって、割と仲がよかったです。とはいえ、競争は競争として当然ありました。
◆得がたい記者仲間たち
他社の記者で思い出すのは、やっぱり今や評論家としても著名な朝日の船橋洋一さん(後同社主筆、現アジアパシフィック・イニシアティブ理事長)、読売の中村仁さん(後・経済部長、読売新聞大阪本社社長)、産経新聞の美濃武正さん、共同通信の米倉久邦さん(後・経済部長、論説委員長)、NHKの中村侃さん(後・報道局総務部長、アナウンス室長)だとかについては、何を取材してるのかなとか意識していたですね。このメンバーとは通産省クラブを出てからも、定期的に当時の通産省幹部と“割り勘”での定期会合をやってました。幹部の方が亡くなって自然消滅しましたけど懐かしいですね。
記者仲間では、特に朝日の船橋君は、かれはそう思っていなかったかもしれませんが当方は一番のライバルと思っていました。本当にコマ鼠のようによく省内を回って特ダネを書いていました。石油危機の時も「後楽園(現東京ドーム)のナイターの火が消える」とか、「自衛隊の空の演習中止」など一面ものの特ダネをよく抜かれました。彼は、熊本支局で、毎日の政治部出身で後年、TBSのニュースキャスターとして有名になる故・岸井成格君と一緒でした。そこでアメリカ人の奥さんをもらうのです。
おかしいのは朝日のクラブのデスクは毎日と隣り合わせなんです。他社の電話には出ないのがマナーなんですが、ある時、あんまりうるさいんで出たら英語なまりの日本語で「ヨウイチはヨマワリですか?」「そうです」と答えてガチャンと切ったことありました(笑)。 でも彼は仁義に厚い男で、後年サントリー学芸賞を受賞した「内部」、吉野作造賞の「通貨烈烈」などの本を出すたびに自宅に送ってくれました。ぼくが、終戦3日後に射殺死体で見つかったカトリック神父・戸田帯刀師のことを書いたノンフィクション『封印された殉教』を出した時、「英語に訳してバチカンに送れ」という手紙をくれました。嬉しかったですね。
共同通信の米倉久邦さんは、一橋大学名誉教授の米倉誠一郎さんとは親族。数年前、日大のアメフットボールの不祥事で記者会見の司会を日大広報部長としてやり、詰めかけた報道陣とケンカになり袋叩きになりました。記者時代と同じ態度でおかしかった。でも彼はナチュラリストで、自然を愛して森のこと、山のこと、本を何冊も出しています。素敵なロマンティストなんですよ。
読売の中村仁さんは僕の高校の後輩なんですが、思い切りのいい、スパっとして切れのいい原稿を書いていましたね。今でもニュース解説的なブログをずっと書いているんです。先日「格安スマホ加入でドコモに怒り」というNTTドコモの格安スマホ「アハモ」の加入についての体験記を書いたところ、「年寄りがシステムを知らずに書くな」と大炎上。ネットで話題になりました。でも全然へこたれないで書き続けています。偉いと思います。 みんな年とっても頑張っています。
産経の美濃さんはこういう仲間と、通産省の幹部との会合のセット役をやってくれていて本当に有難かったですね。確か東北の石巻の出身で3.11の時にお兄さんが亡くなられたという事で、当時の仲間に呼びかけて見舞金を送ったこともあります。ここ2,3年、携帯での連絡がつかなくなったんですね。どうされているか。
2021年3月18日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑩ ある新聞記者の歩み9
イギリス短期留学で人生のふくらみが増した
(インタビューは校條 諭さん)
短期留学の巻
元毎日新聞記者佐々木宏人さんからZoomでお話を聞くシリーズの第9回です。30代半ばにさしかかった佐々木さん、短期の語学留学を希望します。その頃は、毎日新聞の経営が厳しくなりつつある時期でしたが、会社はイギリスへの短期留学を認めてくれました。
◇結婚前に行っておこう
ロッキード事件が1976年火を噴く以前の一時期、ぼくは外信部記者になりたいと思っていたことがあります。新聞記者になった以上、海外特派員ってあこがれじゃないですか。入社当時、大森実外信部長が「泥と炎のインドシナ」というベトナム戦争の現地ルポを連載して、外信記者も事件記者―というイメージが出てきました。一時は“外信記事は毎日”という時代もありました。でもぼくは英語は学生時代から得意なわけではないし、「オレは、ヘレンケラーだ(字も読めない、耳も聞こえない、しゃべれない―三重苦)」と威張っていました。でも本音は行きたかった。特派員の取材は現地で英字紙とラジオのBBC放送が頼りと聞いていました。当時、毎日新聞経済部はロンドン、ワシントン、ジャカルタなどに特派員を送っていました。ワシントン特派員から帰国間もないデスクだった歌川令三さん(後編集局長、取締役)のところに、「ニューズウイーク」や「タイム」のエネルギーや、中東問題の記事を自分なりに翻訳して読んでもらったこともあります。
だから「Mainichi Daily News」(当時日刊の英文毎日新聞)を自宅で購読したりしましたが、ほとんど読んでいなかったですね(笑)。それを見て、独身で杉並の実家に住んでいましたから母から「もったいない」といわれました。自腹で払っているんですから文句をいわれる筋合いはないんですけど‐--(笑)当時、すでに34,5歳、独身で親からは「早く身を固めろ」と、やいのやいよいわれて何回も見合いもさせられました。ようやく話が決まり、婚約しました。75年の秋ですかね。一年後に結婚式ということになったんです。「英語を習得して特派員になれなかったら、海外生活を送るチャンスはい」と思い込んだんでしょうね。「今しかない‐‐‐」。思い返すと無茶苦茶ですね。(笑)
Q.どんな学校なんですか?
◇リゾート地のボーンマスに
ロンドンから汽車で南に下った、イギリス海峡に面した英国有数のリゾート地として知られるボーンマス(Bournemouth)というところがありました。日露戦争の講和条約“ポーツマス条約”の結ばれた日本でもなじみのあるポーツマスの上の方の港町です。そこに、世界各国からの留学生を受け入れる「ユーロセンター」というのがありました。毎日新聞社の子会社、毎日旅行社がそこに短期英語留学者を送り出すことをやってました。
やはりイギリスは世界に強大な植民地を持っていたわけで、英語は「キングス・イングリッシュが正統派」というプライドがありますから、こういう語学学校が各地にあるようです。ヨーロッパ各地と南米、中東から英語圏の観光客を相手に商売をしようという若い人が多かったですね。大学卒はいなくて高卒の人が多かった感じでしたね。
前から、英会話くらいできないとまずいぞという気持ちがあったわけで、それに毎日新聞が経営危機などという話も週刊誌にはしょっちゅう出ていて、いずれ大変な時期になるから、ある程度能力高めておかないとまずいということもあったのでしょう。確か1クール3ヶ月だったと思います。最初、ボーンマスで、そのあとロンドンに行って3ヶ月くらい通い授業を受けました。イギリスで過ごしたのは7,8ヶ月の短い間だったけど、この経験というのは、今から思うとすごく役立っています。ただ英語は全然ものにならなかったけど(笑)。
Q.位置づけは、仕事ではなく、短期留学のようなものですか?
そうです。給料の基本給部分は出ました。ありがたかったですね。商社担当の時、丸紅の専務だった伊藤宏という人のところにあいさつに行って、「毎日新聞、経営が大変だけど、社員をちゃんと育てるんだね」と言われました。まあ、自分が行きたいと言って行かしてもらっているだけなんだけど・・・。そういう見方があるんだと思いました。
今読売新聞の科学部などの記者と付き合いがあるのですが、ほとんど在勤中、米国の大学などに、留学を経験していますね。その意味でスゴイですね。国際感覚を持つというのは、このグローバリズムの時代本当に大切と思います。今はコロナの時代で大変ですが---。
注)伊藤宏 丸紅元専務。2001年死去。ロッキード事件で贈賄罪などに問われ、有罪が確定した。桧山広元丸紅会長(2000年死去、懲役2年6月)らと共謀して田中角栄元首相へ5億円のわいろを贈ったなどとして贈賄のほか外為法違反、議院証言法違反の罪に問われた。
◇大ニュースを背に“逃亡”
Q.渡航費とか現地での宿泊費などは自前ですか?
もちろん、そうです。毎日新聞に信用組合というのがあって、そこからお金を借りました。退職金に見合う額までは貸してくれる仕組みだったと思います。そこで目一杯借り込みました。ただラッキーだったのは、その頃の英国は経済的には“大英帝国の落日”といわれて、ポンド安・円高の時代でした。それまでは日本でのイメージとしては「一ポンド、千円」という感じでした。僕のいる間にそれが「1ポンド800円、700円」位まで円高になって、円の使い出が日増しに変わりましたね。お陰で英国名物のフィッシュ&チップスを普段は、一袋なのが、二袋買っても大丈夫、という感じで為替相場がこんなに実生活に影響があるんだと感じましたね。
Q.でも事実上の倒産といわれた新旧分離が2年後ですね。それでも出してくれたんですね。いい会社でしたね(笑)
そりゃあ、いい会社でしたよ。感謝してます。いまでも足向けて寝られませんね(笑)
Q.短期留学は勤続年数には影響しないのですか?
そのはずです。短期留学休職という名前だったかなあ・・・。ほかの人もそういうケースがあったように思います。特に外信部は中国特派員が香港の大学に行くとか・・・。いまでも思い出すけど、ロッキード事件のコーチャン(ロッキード社副会長)証言が2月にアメリカの上院の委員会で、日本の政界にロッキード社の飛行機を売るために巨額な賄賂をまいたと証言して大騒ぎになるでしょ。それを羽田で聞いて飛行機の中で新聞を読んだ覚えがあるんです。いわば敵前逃亡みたいなものでした。
注)ロッキード事件 米国航空機メーカーのロッキード社が、エアバスを外国に売り込むために巨額のわいろを使ったとされた事件。日本では30億円以上が児玉誉士夫など右翼大物や商社、政府高官に流れたと言われる。経営が深刻化しつつあった毎日新聞だが、社会部を中心に特別取材班を組み紙面は活況を呈し、「ロッキードの毎日」と言われるほどの評価を得た。
Q.大ニュースに背を向けて、英語の勉強に行っちゃうという・・・在勤中。
そうそう(笑)。ホントなら羽田から引き返さなくては‐‐‐。見送りには経済部のデスクや今の女房も来てましたから、帰るに帰れない(笑)飛行機の中で村上武雄さんという東京ガスの社長に手紙を書きました。10月に結婚するので、仲人を引き受けてほしいと依頼したんですから、まあ図々しいですね。
◇角栄逮捕の記事をロンドンの公園で
ロッキード事件で言えば、東京にいたら商社担当として夜討ち朝駆けをさせられた大変だった思います。経済部も大変だったわけで、本当に敵前逃亡だったと思います。今考えれば大分、恨まれたと思います。ぼくは、事件で逮捕される丸紅の桧山廣社長さんとか、専務の伊藤宏さんとかとはわりと仲良かったんですよ。同じく逮捕される専務の大久保利春さんという人は知らなかったですが。明治維新の立役者・大久保利通の孫で、ものすごく真面目な人だったという話です。伊藤さんというのは、人当たりのいい、面白い人でした。人なつこくキューピーさんのような感じで、好きな経営者の一人でしたね。事件前は、次の社長と言われていました。丸紅のビルは毎日新聞の入っているパレスサイドビルと通りを挟んで隣でしたから、時々パレスサイドビルの9階にある皇居を見晴らすアラスカで食事なんかしました。確か最後に1月中旬と思いますが、送別のご馳走だといって二人で食事をしました。そのときに、伊藤さんが、「ここで一番うまいのは何か知ってるか」と言いまして、「牛骨の髄のスープがうまい」と言うんですよ。ぼくは知らなかったなあ。向こうのおごりだったから、いくらくらいしたのかわからなかったですが、うまかったなー。でもロッキードのことはまったく出ませんでしたね。事件記者失格ですねー(笑)。
ロッキード事件については、ボーンマスやロンドンで英字紙を逐一見てました。
そのころは英語漬けでしたから割とすんなり英字紙が読めました。田中角栄逮捕のニュースは、学校近くのロンドンの小さな公園で、「The Times」の囲み解説記事で読んだ覚えがあります。

◇日本人の習性
英国で面白かったのは、世界には人間がたくさんいるんだなということと、日本人はこうなんだというのがわかったことです。それはユーロセンターというところに行ったときのことで、最初の日に新入生のクラス分けの1時間の英語の能力をチェックする試験がありました。そうすると日本人は、試験となると必死になって向き合うじゃないですか。書いてて40分くらいたって教室を見回したら、各国からの40人位のうち残っているのは日本人だけだったんですよ。日本人は女7人、男3人の10人くらいだったような・・・。全員残ってました。要するにみんな必死になってたんです。少しでも上のクラスに行こうという思いなんでしょうね。でも英語を学びに来たんだから、少しでも下のほうがいいと思うんだけど、“受験、受験”の習性から抜けられないんですね(笑)。
◇「学校」の経験がないサウジ人
たとえば、サウジアラビアから来た20前後の男性、アブドラといったかなー、学校に通った習慣がないようでした。家庭教師についてでも学んでいたんですかね。「学校」というシステム自体が、良くわかってないようでした。いいことだと思うんだけど、授業中に先生が説明している間に突然手を上げたりとか。全然授業に来なかったり、早引けして、他のサウジの連中とロンドンに遊びに行っちゃうとか。日本人の学校の感覚からするとハチャメチャでした。だけど、先生に指されるといっぱいしゃべるんです。ところが日本人は指されたら必死になって中学、高校で教わった英文法を間違わないように頭で考えて、「Because‐‐なんとか・・」とか言って(笑)。サウジの人は、文法お構いなし単語を並べ、10分も15分もしゃべるわけです。するとイギリス人の教師は「Yor are rubbish・・」「ゴミみたなこと言ってんじゃないの」っていうわけなんだけど、おかまいなしなんですよ。他人の迷惑なんて考えない、あの度胸はすごいですね。日本人はまねできない。不毛の砂漠で生き抜いてきた知恵なんでしょうかね。
◇ラテン語圏の人にはかなわない
でもヨーロッパ圏の人には、英語の学習の習得のスピードはかなわないと、つくづく感じましたね。彼らは基本的に同じ民族から派生していると感じました。ドイツ人、フランス人とかスペイン人とかは、3ヶ月であっという間にうまくなる。我々新入生がロンドンからボーンマス駅に着いたときに、学校のバスが迎えに来ているんです。入学当時、駅に集合だったのですね。学校まで行くんだけど、フランスからきたものすごくかわいい女の子と隣り合わせて、僕はその気になって自己紹介をしたんですが、ところが、彼女一切英語わからないんです。それがなんとひと月かふた月たつだけで、もう我々なんかよりペラペラになってしまうんですよ。あれには驚いたな。
ドイツ人も来てるんだけど、先生が英単語でいちばん長い名前は?というクイズで、20字か30字くらいの長い単語を黒板に書くんです。こちらはチンプンカンなわけです。ところがドイツ人の女の子なんか、この前半はラテン語でこうだから、ドイツ語でこうだから医学用語の多分これのことじゃないかとか言って、語学的な類推ができるわけです。ところが、我々日本人はまったくそういうのできないですよね。これはかなわんなと思いました。まあ、向こうはラテン語が元だからしかたないんですが。
もうひとつびっくりしたのは、スイスの山小屋をやっている家の息子がいたのですが、彼は山小屋の案内人なので英語を学ばなくてはいけない。ところが風呂に入ったことがないっていうんですよ。シャワーは浴びているんでしょうが、風呂に入る習慣がないという人種がいるっていうことに驚きました。山小屋は水が貴重品なんでしょうが‐‐‐。年齢的には僕より7,8歳若かったですね。 日本人の女性が南米の男に“ひっかかったり”、スイスの人と結婚したりとかありました。いまどうしてるかなあ。
◇スペインの同級生宅に泊まり込んでお祭りを
ボーンマスを出てからロンドンにいた時、同級生だったスペイン人の家を訪問したことがあります。ポルトガルの近くのベナベンテという田舎町に、汽車でロンドン、パリ、マドリッドを経てたどり着きました。日本人なんか行ったこともないようなところでした。大歓迎してくれました。確か彼の家に2,3泊しました。5月だったか、マリアの祝日のときでお祭りがありました。黒いマリアでした。それをかついで町中練り歩くんです。それを見た記憶があります。彼は英語はあまりうまくなく、ぼくと同程度の感じでしたが物静かな男で、クルマの運転をしてくれて、田舎のバルを何軒も案内してくれました。あいつそういえば飲んでたんだろうなあ、運転してたけど(笑)。ディスコに行って最後の音楽がビゼーの「闘牛士の歌」なんですよ。「なるほどここはスペインなんだ」と納得しましたね。日本に帰ってからだいぶたってから、スイス人の同級生が訪ねてきてくれたことがありました。政治部のときだったか、夜回り用のハイヤーであちこち都内見学させたこともありました。彼は感激してましたね。でも当時新婚間もなくて地下鉄丸の内線の中野新橋駅近くの2LDKの狭いマンションに住んでいたんですが、なんか黒塗りのハイヤーを乗り回すぼくとのギャップが理解できないようでした。
◇人種差別を実感
僕にとって、あの8ヶ月ほどは、国際感覚なんて言うと大げさですが、グローバルというか、そういう感覚が身についたというか、井の中の蛙でなくなったということがありましたね。当時のコマーシャルに競艇の元締めの日本船舶振興会の笹川良一会長が叫ぶ「地球は一つ 人類みな兄弟」という感じが少しわかったような気がしましたね。イギリスに行く前は「なんか変なことを言うオヤジだな」と」冷ややかに見ていましたけどー。
その裏返しなんですが、人種差別ってやっぱりあるんですよね。こんどのコロナ禍のフランスやアメリカなどの街頭で、「中国人のコロナ野郎」と日本人が言われたとかいうニュースが出てたけど、やっぱりそういう感じってあるんですね。当時、イギリスは移民に寛大な感じではなかったし、ボーンマスなんて、いまは黒人がすごく増えたらしいけど、黒人なんて見たことなかったですね。古き良きイギリスを残そうという感じが町全体にありましたね。
ボーンマスだったと思うけど、夜、中心街のパブに寄っていい気持ちになって海岸近くの高級ホテルに立ち寄ったんです。たまたまパーティー会場の裏からカーテンをめくってそっとのぞいたんです。地元のハイソサエティの人たちがパーティーをやってました。たまたまカーテンをあけたら僕と目が合ったのですが、蝶ネクタイをしたジェントルマン(紳士)が何かきたないものを見るような目つきで睨まれました。あわててカーテンを閉めて逃げ出しました。その冷たい目つきは、今でも思い出します。いつもにこやかに対応する英国紳士とは明らかに違っていましたね。
Q.すると、夏目漱石がイギリス滞在中に感じたようなことが残っていたということですか?
そうでしょうね。しかも、いまだにあると思いますね。だからそれをちゃんと踏まえておかないとまずいなと思います。今でも人種差別ということ自体は、ヨーロッパ人もそうだけど、われわれ日本の中にも被差別部落の問題とか、在日朝鮮人、韓国人の問題とか、あるわけで、ぼく自身そういう差別は絶対許せないですね。イギリスでの体験が根っこにあって、差別を受ける痛みは比較にはなりませんが、ネットで見聞きする、平気でヘイトスピーチをする人たちの“コトバ”を許せない気持ちはあります。
特にヨーロッパ人と我々とでは顔つきが違うのですぐにわかりますし、パブなんかで知り合って話していると、酔った勢いで彼らが言うのは、東洋人は目尻が上がってるって。「おまえらこれだからさあ」と両手で目尻をあげる動作をしたり・・・。なんとも白人優位で、アジア人を馬鹿にするというか、イギリスの漫画とか風刺画を見ると、中国人や日本人は必ず目尻があがってます。

◇オペラやミュージカルを気軽に楽しめるイギリス
ロンドンがよかったと思うのは、ボーンマスもそうだったけど、音楽、演劇、バレー、オペラがとてつもなく安いので、すごく身近なんですね。それでよく行きました。ロンドンでは「ジーザス・クライスト・スーパースター」とか、アガサクリスティ原作の、ロンドンの劇場街ウエストエンドで世界最長の70年間公演を続けているという「マウストラップ」(いまはコロナ渦で中断中)という劇があります。ミュージカルの「ロッキーホラーショー」も見ました。5,6年やってるんじゃなかったかなあ。ちょっとヌードもあるエロチックなやつでしたが。バレーも オペラも安かったなあ、貧乏学生の持ってるお金で週1回くらいは行けたんだから。そんないい席で見られたわけではなかったが、堪能しました。
オペラでは「魔笛」だとか「ドンジョバンニ」だとか「セビリアの理髪師」だとかにも行きました。新聞の公演情報が楽しみでしたね。日本に帰ってきて、魔笛のイタリアからのオペラを国立劇場に女房と見に行きましたが、1回行ったら終わりでした(笑)。チケット高くて、二人で数万円、そうそういけないですよね。
本当に文化と日常生活が結びついているというヨーロッパの奥深さを感じさせられました。文化の深さがすごくある。安いし、ロングランが可能だから収益が成立する。日本の場合はせいぜい10日とか1ヶ月ですよね。
◇ロンドン支局の先輩のベビーシッターも
ロンドンでは毎日新聞の支局によく行きました。明治時代の有名な日本のジャーナリズムの草分けの黒岩涙香が祖父の、特派員の黒岩徹さんの家に何度か泊まりました。彼のロンドンの住まいはテニスの全英大会で有名なウインブルドンにありました。庭付の広い家で黒岩さん夫妻が音楽会とかバレーなんかに行くときに、僕はベビーシッターやってました(笑)。
Q.岩波新書から出た『イギリス式人生』を昔読みました。黒岩さんはイギリス生活を相当楽しんでたみたいですね。
そうそう。彼は英語がうまかったし、腰が軽くてひょいひょい行く人だったから・・・。とても東大法学部卒には見えなかったな―。彼がロンドン行の準備のために東京の通産省の関係者に会いに来て、クラブに来たことがありました。僕が担当者で案内したと思うんです。クラブに待ってるはずなのに、「いないなあー」と思ったら戻って来て、「通産省の連中が昼休みでピンポン(卓球)やってたから、オレもやってきた」なんて。そういう気軽さがある人です。サッチャーの記者会見では、臆せず質問して最後には「トオル!」と指名を受けたという伝説を聞いたことがあります。さもありなんと思いましたあ。
◇婚約者がはるばるイギリスまで
Q.最高の短期留学でしたねえ。
そうそう(笑)。いろんな意味で一皮むけたところがあったと思います。これはあまり言ったことがないんですが、婚約していた女房、彼女、中高一貫のカトリック系の女子高の英語の教師だったんです。はるばる訪ねてきてくれました。二人でウエールズまで行ったことを思い出します。丁度、ラクビ―五か国対抗戦、といってもイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ、フランスの闘いなんですね。見物しようと思ったら満員で入れず、試合の終わった後のパブでの乱痴気騒ぎに巻き込まれ愉快でした。ただボーンマスの僕が下宿していた家のブランドさんというマダムが、「彼女の英語は本当にキングスイングリッシュで“ヒロトは彼女に教えてもらえ”」といわれたのには、参りましたね。
◇ワシントンで破天荒な先輩に会う
留学を終えた帰りにワシントン、ニューヨークに寄りました。ワシントンは寺村荘治さんという経済部から行ってた人が特派員の一人でした。これがまた破天荒な記者で、戦前のベルリン特派員の、寺村荘一って言ったかなあ、そのせがれなんですよ。とにかく豪放磊落というか、背の高い細身の人で、そうは見えないんですが、全然ものごとに動じない人なんです。日本に戻って来て、ぼくは彼が大蔵省の財研(財政研究会=大蔵省の記者クラブ)のときに財研に行くんですが、寺村さんは途中でやめて、博報堂にスカウトされて移るんです。博報堂の会長の近藤道生という、大蔵省から国税庁長官をやった人に見込まれたのですね。ワシントン事務所を拠点にして日本とアメリカの関係の情報を上げていたようです。日本に帰ってきて、言ってみればアメリカ人脈を生かして、博報堂の情報収集のアンテナみたいな役割をしてました。ところが、熱海に大別荘を作ったまではいいんですが、披露パーティーまでやって半年も経たないうちに死んじゃった。生きてりゃおもしろかったんですが。肝硬変を持ってて、結局動脈瘤破裂でした。別荘から見ると、伊豆大島と富士山が見えてすごいところでした。
ワシントンの自宅というのもすごかったですね。郊外の家の前が湖でボート遊びができるんです。「これくらいじゃないと、ワシントンじゃお客なんか接待できないぞ」なんて言ってました。家も広いし、「使うとき使わないとしょうがないからなあ。借金なんかするときしないとしょうがないんだよ」と。巨額の借金に平然としているんですからスゴイ。とても僕はあんな度胸はないですね。でも本当に面白い人で好きでした。彼も僕のことをすごく買つてくれて、「佐々木は小さくまとまるな、ケチな記者になるな」とハッパをかけてくれましたね。亡くなった時は本当に残念でしたね。
◇ニューヨークで会った通産省四人組事件の当事者
アメリカにいた時の思い出はニューヨークで、通産省から派遣されたJETRO事務所長の内藤正久さんがいたので会いました。子どものいない彼の家のアパートに一週間位居候しましたね。豪放磊落な人で、笑い声が大きくて、包容力のある人でした。通産省担当時代に知り合った官僚で、本当に心を割って話のできる人でしたね。次官就任は確実といわれていました。のちの話ですが、次官の芽が摘まれる、四人組事件という有名な事件の当事者の一人となります。いまでも日本エネルギー経済研所の理事長を引退されたあと、顧問で活躍されていてお会いすることあります。
注)通産省四人組事件とは、1993年に起きた通産省の人事をめぐる抗争。通産省内部の派閥抗争にとどまらず、自由民主党と新生党の代理戦争の性格もあったとされる(一六戦争)高杉良『烈風 小説通産省』(講談社、1995年/文春文庫、2011年)などの小説のモデルにもなった。
内藤さんは通産省の産業政策局長から、普通なら次官になるところ、時の大臣--いま調べると元通産官僚出身の熊谷弘さんでした--が次官にさせなかったんです。ニューヨークの内藤家に泊まった際には、あとで衆議院議員になる松田岩夫さん(小泉内閣で科学政策担当大臣)とか何人かが集まって酒を飲んだことを覚えています。
◇ベタ記事でも書きようでトップ記事になる
寺村さんの話に戻りますが、亡くなったのは、後年の、ぼくが広告局長のとき1996年でした。そのときに僕が述べた弔辞で寺村さんからしばしばいわれていた言葉を引用しました。「原稿というのは、バットを長く持って長打をねらえ。ゴロとかヒットでなく」と。寺村さんは、ベタ記事でも書きようによってはトップになるということを言いたかったのです。彼は、ぼくがワシントンに訪ねたときに、日本から来た新聞の外電を指しながら、「これベタ記事になっているけど、書きようによってはトップになるんだ」と言ってました。こういう教えというのはありがたいことでした。
◇スランプの時ほど原稿を書け
ここで思い出すのは、ぼくが新聞記者になったときに親父(元毎日新聞記者)が言った言葉で、「新聞記者はスランプがある。スランプになったときに原稿を書かないのは負けだ。スランプのときほど原稿を書け」と。確かにそうだと思います。どうしたってスランプになるときがあります。そのときに原稿を書かないとずっと書けなくなってしまいます。
「スランプになったら原稿を書け」、「バットは長く持て」というのもそうだと心に刻みました。その意味でいい先輩、取材先に恵まれたと思います。
Q.いま自分はスランプだなあと自覚したことはあるのですか?
そりゃあ、しょっちゅうありますよ。だって、抜かれたときだとか、相手が1面トップで行くじゃないですか。するとデスクが「何やってんだ!」って。会社行くのいやになるよね(笑)。朝、布団の中で、朝毎読(ちょうまいよみ)と日経の4紙見て、やられたと思えばね・・・あれだけこっちは苦労してるのに、このやろう書きやがってと・・・。記者クラブに抜かれ面で行きたくないですよね。
※ユーロセンター https://www.eurocentres.com/ja/discover-eurocentres
2021年3月11日
駆け出し記者の思い出を文芸誌に連載中の取違孝昭さん(75歳)



社会部旧友・取違孝昭さん(70年入社)が「ヨコハマ文芸」第5号(2021年3月発行)に「駆け出し記者だったころ」第2回ハマのメリーさん列伝を発表している。第4号の第1回は「かまくら道」。1冊500円。横浜市内の書店にある。
HPによると、「横浜文芸の会」(通称ハマブン)は横浜を拠点に活動する文芸団体で、2018年9月発足。代表世話人は芥川賞作家宮原昭夫氏で、作家やエッセイスト、詩人たち約40人が参加。取違さんも会員なのである。
「エッ、事件記者の取違チャンが文芸誌に」と、ハテナマークの人もいるかも知れないが、HPの会員紹介に著書が紹介されている。
『騙す人ダマされる人』(新潮社1995年刊)と『詐欺の心理学 : どうだます?なぜだまされる?』(講談社1996年刊)。
『騙す人ダマされる人』は新潮文庫に入っているロングセラー本だ。
警視庁捜査一課担当の事件記者が、詐欺=知能犯の捜査二課ものを2冊もモノにしているのである。
前置きはこれまでにして、「ハマのメリーさん列伝」である。
話は入社前年の1969年に起きた73歳の女性バー経営者「メリケンお浜」殺害事件から始まる。「メリケンお浜」は大正から昭和にかけてヨコハマの夜の世界で一世を風靡した。
「ジャズのお勝」「ふうてんのお時」「カミソリンのお蘭」……。
「ジャズのお勝」には、直接会って境遇を取材している。
《敗戦で境遇はがらりと変わった。
「街にアメチャンがあふれ、女たちがいっぱい流れて来た。あたしはね、米軍の下士官クラブを根城にして、彼女たちの取締りをやってたんだ。子分が5,60人もいたかな。堅気の娘や行く所のない女たちさ。みんな悲しい連中でね。タバコのラッキーストライク3箱で身を売っていた」》
「ハマのメリーさん」は、ウィキペディアに載っている。
メリーさん(本名不詳、1921年~2005年1月17日)。歌舞伎役者のように白粉を塗り、フリルのついた純白のドレスをまとっていた。
取違さんたちサツ回り仲間は「皇后陛下」と呼んでいた。後年ドキュメント映画がヒットして「ハマのメリーさん」に定着する。
あとは「ヨコハマ文芸」を手に取っていただくとして、びっくりするのは当時の毎日新聞横浜支局の取材体制である。
《入社1年間は支局の“タコ部屋”に寝泊まりするのが毎日新聞横浜支局の決まりだった。定まった出社・退社時間などなく、あえていえば24時間勤務。…
昭和初期に建てられ、戦後、進駐軍に接収されていたという建物で、タコ部屋はその4階にあった》
《そこを拠点に各署を回っていたわけだが、部屋に帰っても仕方なく、深夜まで街を徘徊し、警察署を回っていた》
多分県警キャップは、伝説の事件記者・越後喜一郎さん(2010年没72歳)だったと思う。鍛えられたんだろうな、取違チャンは。
(堤 哲)
取違さんは、元毎日新聞常務。2007年~東日印刷社長・会長。2011年~毎日新聞グループホールディングス取締役。
2021年3月9日
本山彦一翁の書と地図 ― 元経営企画室委委員、吉原勇さんが保管

私のマンションのリビングには力強い見事な筆跡で「奮闘不撓」と書かれた大きな額がかかっている。長さ1・8メートル、高さ45センチほどある。大きな文字の横には「為京都同人」「松蔭題」とやや小振りな字で書かれている。松蔭というのは、毎日新聞の中興の祖といわれる本山彦一翁の雅号であり、翁が京都支局同人のために揮毫したものなのである。
私が毎日新聞社京都支局から中部本社報道部に転勤になった昭和40年8月、支局長だった橋本和蔵.さんが「支局にあるもので何か欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい。餞別としてあげるから」と言うので、私が希望したのがこの揮毫だった。支局長はわずか1年3か月で転勤を命じた私を憐れんでいたようだった。
私がなぜこの揮毫を指定したかと言うと、この偉大な人物の書いたものが湿気の多い三条御幸町の京都支局地下室の床、それも多くの額の一番下に放置され、朽ち果てようとしていたからだった。
なにしろ本山彦一翁は明治36年に大阪毎日新聞社長に就任してから昭和7年に退任するまで30年間も社長に在任、その間、部数を大幅に伸ばし、東京日日新聞を合併して今日の毎日新聞を作り上げた人である。その書は大事にしなくてはならない。
支局長の承諾を得たので地下室に行き、カミソリで額から切り取った。一部ボロボロになって腐っていた。先輩記者の岡本健一さん(のちに稲荷山鉄剣のスクープで新聞協会賞受賞)が「父は表具師をしているから表装してあげる」と言って引き取り、一か月くらい経って名古屋のアパートに送ってきてくれた。その後、結婚した妻も本山彦一翁をよく知っており、巻物になっていたこの書を見つけて額装し、飾るようになったのである。
我が家には本山社長時代に部数拡張のために付録として発行した新聞紙見開き大の大きさの都道府県分県地図が20数枚残っている。小さな字名まで記載されており今でも役に立つ。北海道や台湾、朝鮮などは道や省ではなく全体を2枚、ないし3枚に分割されて作られているから総数55、6枚になったと思われる。それを大正2年(1913)ごろから同7年にかけ、月1回付録として読者に配っていたのである。社史を見ると大正2年には47万部だった部数が同7年には80万部になっている。地図は部数拡張の原動力になっていたのである。全体を知りたいと経営企画室在勤のとき、どこかに保管されているかどうか調べてみたが、見つからなかった。幻の地図になっているようだ。
私は今、終活を始めている。本山翁の書と地図をこの世に残すにはどうすればよいか悩んでいる。新聞博物館が引き取ってくれるかどうか、一度相談してみようか、と思うこのごろである。
(吉原 勇)
吉原さんは、昭和39年(1964)入社。京都支局→中部本社報道部・経済部→東京本社経済部副部長→大阪本社経済部副部長→経営企画室委員→西部本社代表室長→編集委員→下野新聞社監査役・同取締役。作新学院講師など歴任。
2021年3月3日
北大山岳部と毎日新聞(その2)―山岳部OBだった浜名純さんと藤原章生さんのいま
前回予告したように、北大山岳部の後輩の毎日新聞記者・藤原章生君と私で2月24日、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 絵はがきにされた少年』刊行記念オンライン対談」を行った。彼は2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞した。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行したのを機に、販売促進を兼ねて開催したのである。
その宣伝の惹句がなかなかおどろおどろしい。
「浜名さんは、藤原さんの山岳部時代の先輩で、書き上げたばかりの『絵はがきにされた少年』の価値を見出し、まる4年の歳月を経て、受賞にこぎつけた立役者です。
著者の原稿のどこに魅力を感じたのか。出版社に持ち込み続けた4年間、どんな紆余曲折があったのか。名著を世に送り出す浜名さんの眼力、アフリカを通して描かれた人間哲学など、二人の対話をお楽しみください。二人が目指してきたヒマラヤなど山登りへと話が広がるはずです」
というものだ。なんともおもはゆい。というより、「名著を世に送り出す浜名さんの眼力」などと言われると、「何を言っているのだ。いかにも“目利き”のように言われているが、目利きなんて、どこかのテレビの○○鑑定団の安手のいい加減な鑑定士を想像してしまうじゃないか」と素直でない私は思ってしまう。

閑話休題。素晴らしい原稿だから、ぜひ世に出して皆さんに読んで欲しいと思ったのは、紛れもない事実である。そして、いくつもの出版社に売り込みに行き、大手出版社では上から目線の偉そうなことばかり言う編集者から拒否され続けたのも事実である。しかし、最後には「開高健ノンフィクション賞」を受賞し、日の目を見ることになったのだ。
では、この本のどこに私は惚れたのだろうか。それは、一般的な特派員の原稿と一味違っていたからだ。きっと新聞社が海外の特派員に望むのは、その国の政治・経済・社会の動き、それも「今」を読者に伝えるということだろう。災害や事件もそうだ。
しかし、彼の原稿は違った。その国の“今”を伝えるものではない。明日の朝刊に載せなくてはいけないものではないのだ。彼は市井に生きる一人の人間に焦点を当てる。その人は何故今この姿でここにいるのか、どのような人生を歩むことで、ここに辿り着いたのか。それにはアフリカの歴史が大きく関わっているのだろうか、と考え、取材を掘り進める。「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」というあまりに有名なゴーギャンの作品を思い出してしまう。

その人の生きてきた人生に思いを馳せ、その生き様を深く省察することで、実は「アフリカの今」を浮かび上がらせている。「その国の“今”を伝えるものではない」と私は少し前に書いたが、ちょっと言葉足らずだった。事件・事故の第一報や続報とは異なった「本当のアフリカの今」である。よくある特派員の通り一遍の「その国の事情本」ではない。
それは、我々が抱いていたアフリカやアフリカ人に対するステレオタイプの見方をも変えるものだった。「アフリカには少数の支配層と多数の搾取される層がいる。支配層は悪であり、搾取される層は善人である」といった漠然とした思いを正してくれる。金鉱山で働いていた老鉱夫は、アパルトヘイトの下で絞り取られたなどとは思っていない。金鉱山で働き本当に充実した素晴らしい日々を過ごしたと思っているのだ。
そうだ、明日の朝刊に載せる必要がない、コロナ禍時代の今流に言えば「不要不急の原稿」が実はアフリカの抱える諸問題を雄弁に語っていたのだった。
毎日新聞OBの布施広さんは、書評でこう書いている。本の帯にある『ジャーナリストの目と心が捉えた、豁然と生きるアフリカの人々』といううたい文句は、まさにこの本にぴったりだ。…中略…「悲惨な風景の中でさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある」と本書の一節が示すように、藤原君の筆はなにげない風景から人の生をあぶり出す。
◇
『絵はがきにされた少年』は2005年に集英社から出版され、昨年10月、「新版」が発売された。15年の歳月を経ての新版だが、決して新しさを失っていない。特に「差別」という視点で見た時、当時のアフリカの今は、2021年のアフリカの今でもある。いや、アフリカだけでなく、世界の今を考えさせてくれるだろう。
トランプによるアメリカの分断、Black Lives Matter、人種差別や性的マイノリティの差別、宗教的差別や氏素性による差別、貧富に対する差別……。そして、コロナの蔓延は、社会に新たな差別を生み出している。社会が変遷する度に、社会が新しくなる度に、新しい差別が次々に生まれてくるのだ。そんなご時世だからこそ、皆さんに読んでいただきたいと思うのである。
我々人間は 誰しも知らず知らずのうちに 心の奥深くに『差別』を内包しているのだろう。人は差別についての体験が多ければ多いほど、他人に優しくなれるのだろうか? 援助とは? 寄付行為とは? 援助する側と援助される側にも差別と被差別の問題が絡んでくるのではないだろうか。読んでいてそんな様々な思いが頭を巡る。
◇
少し藤原君のことを褒めすぎただろうか。同じ大学の山岳部の先輩後輩で身内意識から褒めたのだろうか。いやいや、そんなことは決してない。「藤原にゴマをすっても何のプラスにもならない」のだ。そう、いいものはいいのである。
藤原君は、つい最近『ぶらっとヒマラヤ』(毎日新聞出版)を出版した。こちらもおもしろい。ぜひ一読を。
(浜名 純)
※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。
2021年3月2日
永井荷風の「断腸亭日乗」を読みながら ― 92歳の磯貝 喜兵衛さんが大川端を歩く

昨秋、横浜から東京・鉄砲洲に引っ越してから半年近く。コロナ禍を横目に、隅田川をマンションのベランダから眺め、日々を過ごしております。好天の日は大川端(遊歩道)を歩いて、深川や柳橋、両国、浅草などへ足を伸ばすと、思いがけない史跡や記念碑に出くわし、往時を偲んでいます。
例えば寛永元年(1624年)、江戸歌舞伎の創始者、中村勘三郎が櫓(やぐら)をあげた「江戸歌舞伎発祥の地」(京橋)や、小山内薫らが大正3年に建てた「築地小劇場跡」(築地)など、芝居・演劇好きの私には印象深いスポットがいくつもありました。
そう言えば私の好きな永井荷風は実によく歩いていますね。関東大震災前の東京市中はもちろん、名作「濹東綺譚」などを生むきっかけとなった墨田、江東・下町への散歩は、実に念の入ったものです。その詳細は、荷風の膨大な日記を集めた「断腸亭日乗」にも明らかです。引っ越しの際、大量の本や雑誌を売却・処分した中に、うっかり愛読書の「断腸亭日乗」(岩波書店)を入れてしまったらしく、丸善で岩波文庫(上下)を買い直し、今、読み返しているところです。
日記は大正6(1917)年9月(39歳)から始まっていますが、荷風は翌7年12月に、わが家から近い築地本願寺わきに引っ越しています。
◇十二月二十二日 築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書篋を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に往き、家具を排置す。日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。この妓無毛無開、閨中欷歔(ききょ)すること頗(すこぶる)妙。(「四畳半襖の下張」的、エッチな表現ですが、ご容赦を)◇
荷風は1年余りで、築地本願寺近くの築地の家から、麻布市兵衛町に引っ越すことになるのですが、その間の翌年五月二十五日の記述に、「新聞紙連日支那人排日運動のことを報ず。要するにわが政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害かへって国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくするに至らずむば幸いなり。」と書いているのは、その後の日本の歴史と考え合わせ、印象的です。
荷風の反軍、反国家主義的思考は昭和に入ってさらに強くなっていくようで、昭和7(1932)年4月9日の日記には次の記述があります。
◇余つらつら往時を追憶するに、日清戦争以来大抵十年ごとに戦争あり。即明治三十三年の義和団事変、明治三十七、八年の征露戦争、大正九年の尼港事変の後はこの度の満 州、上海の戦争なり。

しかしてこの度の戦争の人気を呼び集めたることは征露の役よりもかへって盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑わいに異ならず。今や日本全国挙って戦捷の光栄に酔へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は満州より進んで蒙古までをわが物となし露西亜を威圧する計略なりといふ。武力を張りてその極度に達したる暁独逸帝国の覆轍を践まざれば幸なるべし。百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。◇
そして、この日記の1か月後に起きた5・15事件で犬養毅首相が射殺され、さらに4年後の昭和11(1936)年に2・26事件が勃発。今から85年前。その日の「断腸亭日乗は以下の通りです。
◇二月廿六日 朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来たり見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、軍人、警視庁を襲ひ同時に朝日新聞社、日日新聞社等を襲撃したり。各省大臣官房及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞こゆるのみ。市中騒擾の光景を見に行きたく思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田齋藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪止む。◇
淡々たる記述ですが、荷風の思想からすれば、その衝撃の大きさは想像に難くありません。
この時代の荷風は頻繁に銀座で飲食を繰り返していますが、戦後は浅草の踊り子たちとの交友を楽しみ、昭和34(1959)年4月30日、千葉県市川市の自宅で79歳の生涯を閉じることになります。
日記の最後は死の前日。『四月廿九日。祭日。陰。』で終わっています。
(磯貝 喜兵衛)
※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB
2021年2月18日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑨ ある新聞記者の歩み 8
ライフワークのエネルギー問題でスクープをねらう
(インタビューは校條 諭さん)
長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください
https://note.com/smenjo/n/nc50d72424100?fbclid=IwAR0D-IdD_fRjYfRU7VkFTC9b-X6hBtBxGslFLZU9plcUFfPpnJhrRdyumTU
目次
経済部時代(5)
◇永田ラッパの最後―大映の倒産
◇社長会見で、空気を読まずに(?)質問
◇安宅産業破綻をスクープ
◇安宅社長宅へ夜回り 言質得てスクープ記事執筆
◇清張の小説やドキュメント本の題材に
◇論説記者でなく特ダネ記者としてエネルギー問題に取り組む
◇石油危機後の商社批判盛んな時期に貿易記者会に
◇三菱重工爆破事件に至近距離で遭遇
◇三菱商事、口銭稼ぎからの脱却をねらってエネルギー開発へ
経済部時代(5)
ミサイルからラーメンまで扱う総合商社という業態は世界でもめずらしいと言われます。
元毎日新聞記者の佐々木宏人さんの経済部時代の話はまだ続きます。エネルギー問題をメインテーマにしてきた佐々木さんが、総合商社を取材対象にした話が今回の中心です。貿易立国ニッポンを支えてきた総合商社ですが、石油危機を経て曲がり角にさしかかっていたのでした。
◇永田ラッパの最後―大映の倒産
商社の話に入る前に、映画会社の話を思いだしたと佐々木さん。いまや大映も永田ラッパも聞いたことがないという人の方が多いかもしれません。佐々木さんは経済部記者として大映の終幕に“立ち会った”のでした。
ぼくが昭和45年(1970年)5月に経済部に移って、家電業界担当になったことはこの連載の2、3回で話しましたね。この頃の取材で印象に残っているのは、映画会社の「大映」の社長の永田雅一さんの会見に行ったことですね。
大映は黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」などベネチア国際映画賞やアカデミー賞などを相次いで受賞した作品を制作した有力映画会社でした。
しかしテレビが一家に一台時代となり、映画館がどんどん姿を消していきました。調べてみると1958(昭和33)年の映画観客数は11億人、それが73(昭和48)年には3億人まで減っているんですね。東宝のように直営館経営主義ではなかった大映が経営不振になるのは当たり前、時代の流れですね。調べてみると1971(昭和46)年の12月に倒産しています。多分、会見に行ったのは、その寸前の11月頃でしょうね。
どうして家電担当記者が行ったかというと、映画産業担当は学芸部で主に作品制作情報、映画評の取材が中心でした。経営状況については把握しておらず、経済部の担当記者もいなかった。経済部は経済部で、偉そうに「映画なんて経済部の取材の対象ではない」という感じで、何でも屋の駆け出し記者の「佐々木行け」という事になったんだと思います。
永田さんは“永田ラッパ”というあだ名が付くキャラクターで有名で、映画以外に岸信介首相など自民党首脳とも親しく、右翼の大物・児玉誉士夫らと並んで政界のフィクサーともいわれた経営者でした。
◇社長会見で、空気を読まずに(?)質問
会見と言ったって、5,6人しかいないんです。他社は学芸部(文化部)の映画担当記者で経済部は僕一人だったような気がします。日本橋の本社で、今みたいな会見というイメージじゃなくて、長テーブルに坐って話を聞くという感じでした。
まだ倒産とは言っていないのですが、経営的に生き詰まって大変だという話だったと思います。学芸部の記者は黙って聞いているんです。沈黙が続くんで、ぼくが「会社更生法の申請するんですか?」などと質問したら、会見後に学芸部の記者から「あんなこと君、言うもんじゃないよ」などと怒られちゃいました。でも経営的に切迫した状況は感じましたから、債権どうする、手形どうするとか、会社更生法どうするという話を聞けるのは、経済部の私一人でした。永田雅一さんは、本当に困った表情をしていました。それでも支援を仰いで、まあなんとかしのぐという反応でした。
結局翌月の12月に破産宣告を受けて倒産してしまいました。“永田ラッパ”という愛称で威勢のいい経営者でしたから、その沈痛なメガネ姿は忘れられませんね。経済には時代の流れがあり、隆盛を誇っていた会社も消えていくんだ―という印象を本当に感じました。
永田さんには、その時一度しかお目にかかっていませんが、「経済社会の原点」に触れたような思いがしています。
水戸の支局では良く、勝新太郎、市川雷蔵、若尾文子、山本富士子などの出演する大映映画を上映する朝までやっている深夜映画館に行きました。それだけに永田ラッパの苦悩の表情が忘れられません。
後年の話になりますが、大映映画の版権は紆余曲折あったのですが、旧角川映画と角川書店が一緒になった「KADOKAWA」の所有になっています。僕が2000年に毎日新聞中部代表から出向して、設立されたばかりの系列の「メガポート放送」(2005年、現日本BS放送「BSイレブン」に合併)の専務になった際、角川書店が主要株主の一社でした。勝新太郎の「座頭市物語」などを提供してもらい、昔の大映映画の放映を手がけました。“永田ラッパ”を思い出して、なにか因縁を感じましたね。
◇安宅産業破綻をスクープ
駆け出し記者として思い出すのは、商社を担当する「貿易記者会」にいたころの1975年の12月の安宅産業の事実上の倒産―伊藤忠商事との合併事件です。ちょっとWikipediaで「安宅産業破綻」というのを見てみたら、毎日新聞が出てくるんです。12月7日にすっぱぬいて、それがきっかけでつぶれたということになっているんですね。その記事、ぼくが書いたのです。
Wikipediaには「12月7日、『毎日新聞』朝刊は安宅のNRCへの融資焦げ付きをスクープ、経営危機が広く世間に知られることとなった」と載っています。これは三菱商事のブルネイだとかと同じ資源開発投資なんですが、三菱は英国石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル石油と組んで大成功、安宅は失敗―なんです。
安宅産業は当時10大商社(三菱商事・三井物産・住友商事・伊藤忠商事・丸紅飯田・日商岩井・トーメン・ニチメン・兼松江商・安宅産業)の一角にいた商社でした。当時、商社は売上高が業界のランク付けになっていたので、各社とも売上高至上主義でした。
安宅産業は戦前から鉄鋼を扱う堅実な商社でした。それが売上高競争に巻き込まれます。アメリカの子会社が中東から購入する石油を、資金を貸し付けたカナダの石油精製会社(NRC)に回して利ザヤを取るプロジェクトに資金をつぎ込みます。しかしそれが1973年の石油ショックの直前で、石油価格の値上がりで回らなくなり、4千億円近い巨額の赤字を計上することになりました。石油ショックに出会ってしまって、結局つぶれて安宅産業はとんでもない債務を背負って、伊藤忠と1977年10月合併させられるわけです。
どうしてこの記事が書けたかというと、大蔵省担当の先輩記者からの電話がありまして、「安宅産業が、えらいことになってるみたいで大蔵省も困っている」という連絡を聞いたのがきっかけです。大蔵省もメインバンクの住友銀行とか協和銀行(現りそな銀行)などと、鳩首協議をしているというのです。
◇安宅社長宅へ夜回り 言質得てスクープ記事執筆
そこでぼくは当時の市川政夫という安宅産業の社長のところに夜回りをしました。自宅は大田区の洗足だった思います。向こうも、10大商社どん尻の商社トップのところを夜回りをする記者もいなかったからでしょうから、まあ、しょうがないということで応接間に上げてくれたようです。それで話を聞いたら、いろいろ銀行と話をしているということでした。
でも図書館で縮刷版を見てみたら、銀行の情報が主で「安宅への救済措置で50億円の送金」が見出しになっています。
石油取引の話は記事の最後の方で、市川社長の「本社への影響はない」という談話が掲載されていました。多分銀行担当の記者との共作ですね。


注:安宅産業事件
安宅産業は、政商といわれたシャヒーンという米国人実業家が、カナダのニューファンドランド島に石油精製工場を建設して石油市場に参入するという情報を得て、それに乗ることにした。安宅産業の常務会が1973年6月に決定したのは、安宅アメリカがニューファンドランド・リファイニング・カンパニー(略称NRC)の総代理店になることを承認し、L/C(信用状)を開設して原油代金の面倒を見ることに加えて、NRCに対して6,000万ドル(当時の為替レート1ドル271円、約162億円)の与信限度を設けるということだった。ところが、契約がいいかげんで、甘い与信で抵当も無しという実態だった。
そうこうするうちに、2年後に石油危機が起きて原油価格が急上昇、精製工場の資金回収がうまくいかなくなってしまった。与信枠を広げて傷がどんどん広がった。総額4000億円という巨額なものとなり、それで安宅は資金的に行き詰まってしまったのである。
このへんの情報を他の商社の人に調べてもらい、市川社長にぶつけたわけです。夜回りで会った市川さんは、「そこまで知っているんならしょうがない」という感じで、それをほぼ認めました。そのあと帰ってきて記事を書いたのだと思います。そうして一面左に四段見出しがついたスクープ記事が新聞に出て大騒ぎになりました。
たしか土曜日で紙面に出たのが日曜日で、今の女房と渋谷あたりをデートしていて途中、会社に電話したら「銀行トップや安宅の市川社長の緊急記者会見が開かれる予定だ、大騒ぎだぞ、対応しろ」といわれて会見に出席しました。デートは中止、顰蹙を買いましたね(笑)。
2021年2月18日
レッド・パージ70年を書いた大住広人さん(83歳)
このHPの新刊紹介にある『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに―』は、大住広人さん(83歳)の労作である。
1950(昭和25)年7月28日、新聞界でレッド・パージが行われた。「アカ」という理由で、毎日新聞では49人(東京31、大阪18)が退職を通告された。日本放送協会(NHK)119人、朝日新聞104人、読売新聞34人、日本経済新聞20人など49社701人にのぼる。
「新聞界には国家権力の非を糺そうとする意欲さえもが見られないことに、半生を新聞界で過ごした者として忸怩をおぼえたことによる」と執筆の動機を述べている。
毎日新聞では政治部の嶌信正(1912〜1998)がパージにあった。「何故だ」と根拠を尋ねたが、一切ノーコメントだった。元毎日新聞のジャーナリスト嶌信彦(78歳)の父親である。
「解雇後の嶌信正」の117ページに、こんな文章がある。嶌は当時、安井謙参院副議長の秘書だった。
《そんなある日、毎日新聞の若い社会部記者が訪ねてきた。当時、革新都政で名を全国に知られた都知事・美濃部亮吉の再選を翌年に控え、選挙情勢を教えてくれ、という。嶌が副議長の兄(注・安井誠一郎元東京都知事)の秘書もやっていて、かつ美濃部の奥の院として知る人ぞ知る小森武と昵懇であり、しかも、その奥にいる労農派の学者たちにも知己をもつ往年の労農記者と知っての「教えてください」だった。
嶌は、気を許し、知ってることを何でも話した。楽しかった。記者が席を立ったとき、思わず一緒に立ち上り、ちょっとはにかみながら「息子がいま秋田にいる。いつ上がってこれるかわからんが、よろしく頼む」といった。若い記者は「えっ?」といい、年寄りのはにかみもいいもんだ、と思った。嶌の半生にとって、このころが一番、気持ちの上でも優雅だったのかもしれない》
美濃部都知事再選の前年とあるから1970年である。この若い社会部記者は、都庁担当の大住さん、当時33歳。秋田支局の息子は、70年入社の嶌信彦である。
あとはこの本を読んでいただくとして、次の写真を見て下さい。

写真部時代の大住さんである。当時27歳。Yシャツにネクタイ姿は、珍しいのではないか。写真説明に《昭和40年4月3日の日韓条約仮調印に集まったカメラマン》とある。売新聞写真部OBの平井實著『スピグラと駆けた写真記者物語』(グリーンアロー出版社1997年刊)からである。
大住さんはニコンF、後ろのカメラマンはスピグラを持っている。スピグラと35ミリカメラの端境期だった。
大住さんは、この年の8月異動で社会部に配置替えとなる。
送別部会でこういった、と本人が書いている。
《「——無念です。求めて(写真部を)出るんじゃありません。求められて出るのでもありません。だから必ず堂々ときっと帰ってきます。そして写真部の部長をやります」》
社内同人誌『ゆうLUCKペン』第36集(2014年2月発行)にある。毎日新聞入社の経緯も明かしている。
《新聞カメラマンになれると、けっこう本気で思っていた。太鼓判を押してくれたのは、かの三原信一だ》
大住さんは東京都立大学法経学部の4年生。サークルは写真部に入っていた。
三原信一さん(1987年没、84歳)は毎日新聞元社会部長。元陸軍伍長。「ヒットラー、のらくろ、と並んで世界三大伍長のひとり」が自慢?だった。
戦時中、広東から特ダネを連発したと都立大の特別講義で話したのだろう。大住さんはその講座を「広東特電」と書いている。
《「就職はどこだ?」…「おれんとこに来い」と命じられた。おれんとこ、とは「毎日新聞」で、それもカメラマンに、だった》
《写真だって実はいけていた。一九六〇年度の「全日本学生写真コンクール」の受賞者名鑑には、ちゃんと
「入選 全学連 大住広人」
と載っている。「全学連」というのは所属名ではなく作品名だ。ときに六〇安保、これまたちゃんと、時機にあった被写体をものにしていたのである》
《わたしは引かれるままに毎日新聞を受けて、合格し、入社する》
二次試験のあと、三原さんから電話があり「合格」を知らされた、とある。
三原さんは、51歳で社会部長になって丸3年務め、55歳定年。東京本社編集局顧問だった。社内では、相当の実力者だったと思われる。
◇
大住さんの社会部、毎日労組などでのその後の活躍ぶりは説明するまでもないと思う。
「写真部長」就任の話も実際にあったことで、あとは『ゆうLUCKペン』第36集を。情報調査部の書架にあります。検索でこんな写真が出てきたので、貼り付けます。
(堤 哲)

2021年2月5日
北大山岳部と毎日新聞 ― 山岳部OB記者だった浜名純さんの回顧といま(その1)

1970年春。私は積丹半島にある積丹岳の稜線直下の雪穴の中でじっとしていた。有り体に言えば遭難したのである。メンバーは北大山岳部の4人。私がリーダーだった。明日は下山という夜に天候が急変した。天気が悪くなるのは分かっていたが、明日早朝一気に里に駆け下りれば大丈夫だという読みだった。甘かった。
大型で強い低気圧はその夜、テントを直撃した。テントは破壊され、我々は真っ暗な雪稜を数時間さまよった。やっと一カ所雪庇(せっぴ)の下の急斜面に風の当たらない場所を見つけ、雪洞を掘って潜り込んだ。
それが一週間前であった。食糧と燃料を節約して生き延びていた。携帯ラジオからは当初、「北大パーティー遭難」というニュースが流れていたが、それが「北大パーティー絶望か」というトーンに変わっていた。「バカヤロー、こんなに元気で雪洞の中で暮らしているぞ」と怒鳴っても、その声はどこにも届かない。携帯電話など皆無の時代である。今なら携帯で「雪洞を掘ってビバークしている。無事で元気だ。天候が回復したら下山する」と連絡できただろうが……。札幌でも4月としては何十年振りという大雪で、小学校が休校となった。東京の私立大学生だった妹は、ゼミの旅行中だったが、NHKのニュースを聴いて一人、家に戻ったと後から知った。
やがて天気が回復した。一気に下った。とはいえ深い雪のラッセルの連続で里に近づく頃には陽もとっぷりくれていた。だいぶ下ってきた時、潮の香が風に乗って鼻をくすぐった。海が近い。助かった、と確信した。
とぼとぼと海沿いの道を歩き、一軒の漁師の家に飛び込んだ。「電話を貸してください」。札幌の山岳部に下山の報告をした。「おい、今テレビで放送しているのがあんたらか」と漁師。「そうです」と答えると大喜びだ。「俺のうちに遭難した奴らが来ている」。知り合いに軒並み電話し、たっぷりと夕ご飯をご馳走してくれた。そのうち、最寄りの警察署に前戦基地を置いていた報道各社が駆けつけ、ごった返した。私たちが予想外に元気だったので、テレビ局の放送記者が「捜索隊の人の肩につかまって歩いてカメラに向かって歩いてください」と言った。拒否した。俗にいうやらせではないか。バカヤロー。
場所を警察署に移して記者会見が開かれた。だんだん腹が立ってきた。山の知識がない新聞記者に登山の専門用語を解説しながら話さなくてはならないのだ。そのうち朝日新聞の記者がこう言った。「これだけ世間を騒がせ、迷惑をかけたことに対して一言お願いします」。私は怒った。「なぜ、あなたにそんなことを言われなくてはいけないのだ。捜索に当たってくれた山岳関係者、北海道警察のみなさん、捜索の後方支援をしてくれた人たち、心配しくれた方々には本当にお礼を言い、頭を下げます。でも、なんで世間に謝らなくてはいけないんだ。何で新聞記者に言われなきゃならないんだ。騒いでいるのはお前ら新聞記者だろう。遭難がなければ取材もしなくてよかったというなら、しなければいいだろう」と言ってやったのだ。バッキャロー。20歳をほんの少し越えただけの若造の私に怒鳴られ、朝日の記者は静かになった。
今はテレビで定番になった企業の謝罪会見。社長以下役員が横並びになって一斉に深々と頭を下げる。その瞬間カメラの放列……。そんなふうに私も頭を下げればよかったのかもしれない。若気の至りだろうか。翌日の朝日新聞地方版には「またも人騒がせな北大山岳部」という大きな見出しが躍っていた。
◇
やがて卒業した私は、札幌の繁華街ススキノやもう一つの繁華街「狸小路」で、ギョウザの店を切り盛りするようになった。進学塾の先生やバーテンなどもやった。そして数年後、新聞記者をやってみるか、と思い立ち、札幌で毎日新聞の試験を受けた。面接官が並んだ最終面接。その中の一人が「君のことは知っているよ。あの遭難の時、私が総指揮を取っていたんだ」と言い、皆がどっと笑った。あっ、これは受かった、とその時思った。

浜名さんは、最前列で座っている隊員の後方に立っている。日焼けした顔。
遭難現場で体験したような記者にはならないぞ、とうそぶきつつ、入社後はそれなりに記者生活を楽しんだ。10数年勤めた後に退社したが、その間、休職もさせてくれた。それも3回だ。2回は北大ネパール・ヒマラヤ遠征隊であり、1回は日本山岳会の中国登山隊である。普通の企業ならこうはいかないだろう。退職をしていくしかない。その点、毎日新聞は実にいい会社であった。条件は帰国したら連載を書けばいいという。写真部の先輩は、ごっそりとフィルムをくれた(もちろん当時はデジカメなどはない)。
もっとも2回目に関してはさすがにすんなりとはいかなかった。何しろ、1年間休職して、帰国して1年ちょっと勤め、その後また1年間休職するというのである。しかし、日本山岳会の会長が毎日新聞社長に直接手紙を書いてくれたら一発でオーケーとなった。
1985年夏、日航機の御巣鷹山墜落事故の時は、中国の青海省で山登りをしていた。「山の経験のある奴に現場に行かせろ。浜名はどうした」という話になったらしいが、長期休暇を取ったことがばれた。
◇
私が毎日新聞を辞めてしばらくして、フリーライターと編集者の仕事を始めた1989年、北大山岳部の後輩、藤原章生君が毎日新聞に入社した。言うまでもなく皆さんご存じの今が旬の花型記者である。2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行した(ぜひお読みください。まだの方はぜひ購入のほどお願いします。とても良い本です。*どういうわけか、ここだけはなぜか「ですます調」)。
2月24日19時からは、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 ダウラギリ1峰ベースキャンプで(冬季8000メートル以上峰世界初登頂=1982年)。絵はがきにされた少年』」と題するオンライン対談が開かれる。対談者は藤原と私・浜名である。それらについては、次回(その2)で詳細を報告したいと思う。
(浜名 純)
※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。
2021年1月25日
北村正任元社長ら出品、「湖心社書展」を2月に銀座で開催

湖心社代表の書家、友野浅峰さん=写真・毎日文化センターHPから=の指導の下、毎日新聞書道クラブで日々、修練を重ねている会員が参加する「第45回湖心社書展」が2月3日(水)から7日(日)まで、中央区銀座3-9-11の紙パルプ会館5階、セントラルミュージアム銀座で開催されます。昨年夏に開催予定でしたが、新型ウイルス感染拡大のため、延期されていました。ウイルスの脅威は、さらに強くなっていますが、今のところ開催の予定です。

毎日新聞関係では、北村元社長のほか、寺田健一元毎日書道会専務理事、高尾義彦元監査役、元地方部の石崎瑠璃さんが「客員」として作品を展示します。客員以外は、ほとんどがプロの書道家の方々で、毎回、見応えのある作品が揃う書展です。
書道クラブは月曜の夕方に毎月3回、開催されていますが、緊急事態宣言に伴い、1月はお休みで、恒例の新年会も実現しませんでした。
湖心社書展は本来なら、会員の作品を見ていただき懇親の機会に、と楽しみにしたいところ。「密」を避けて作品が鑑賞できるように、と気配りしながらの開催となります。無理はされないで、会場に足を運んでいただければ、有難く。
(毎日新聞書道クラブ)
2021年1月20日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑧ある新聞記者の歩み 7
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」7回目です。
(インタビューは校條 諭さん)
長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください
ある新聞記者の歩み 7 伝書鳩からスマホまで 技術革新と共に歩んだ記者生活

前回まで、時間を追って佐々木宏人さんの記者としての歩みを聞いてきましたが、今回は1965年(昭和40年)に毎日新聞社に入って水戸支局に配属された頃に戻って、記者の仕事の中で出会った技術革新について伺います。
目次
◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・
◇原稿は電話で読み上げて伝える
◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・
◇キーパンチャーは花嫁候補?
◇合理化であぶれた人が支局で記者に
◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も
◇新聞のカラー化も画期的だった
◇支局では写真の現像も自分で
◇運転手がカメラマン兼任
◇新聞記者は無線技士
◇水戸支局管内の通信部に電話をするとたいてい奥さんが出て・・・
ぼくが入社したときに、毎日の有楽町の駅前のビルの屋上に鳩小屋があったという話をしましたよね。実際には通信のためには、その年以降もう使ってなかったんですね。
そうー。当時の支局の通信事情をお話しましょう。支局の電話は今では考えられませんが直通ではなく、水戸電報電話局の交換台への申し込み制だったのです。電話機はもちろん今のような携帯ではなく、昭和のテレビドラマに登場する指先でダイヤルを回す黒電話でした。支局の大きなテーブルの上に四台位ありましたかね。土浦、取手、下館とかの(毎日新聞の)通信部や警察にかけるときに現在の市外局番の029(土浦市)、0297(取手市)とか回すのではなくて、交換に土浦市の〇〇〇〇番とか伝えてつないでもらうわけです。事件など起きると警察署の回線が一杯になるのか、5分待ち、10分待ちというのはざらでした。
しょっちゅう申し込むのでウワサ話ですが、交換手とデートに成功してゴールインした記者がいたという話を聞いたことがあります(笑)。
だから県下の各通信部とは定時通話というのがありました。電話局と契約して毎日12時と5時だったかな。これは夕刊の締め切りと朝刊の早版の締め切りのタイミングです。そのときに定時通話を入れておくわけです。通信部との定時通話では、だいたい奥さんが出てきます。それで「主人、今○○町役場まで取材に行ってますが、何も無いって連絡してくれと言われました」と言うんです。「ウソつけっ」とこっちは内心思うんです。自分のことは棚に上げて「どうせクラブで麻雀やってるんだろう」って・・・(笑)。
◇原稿は電話で読み上げて伝える
支局に着任した当時、原稿はデスクが本社との直通電話で吹き込んでいました。ダイヤルのない黒電話の受話器を取り上げて、「水戸から交換さん、交換さん」と呼んで、交換手が出てくると「速記さんお願いします」と言って、デスクが原稿を読み上げて送るわけです。たとえば、「〇月〇日、水戸市元吉田(みとしもとよしだ-元吉田は、もとは元旦のもと、吉田はきちでんよしだ)4丁目の信号機のない交差点で、佐々木宏人(ささきひろと-ささきは普通のささき、ひろとは、うかんむりに片仮名のナム、人間のひと)さんの乗用車と、東茨城郡茨城町内原鯉渕(うちはら-内外のウチ、原っぱのハラ、鯉渕はいけのコイ、サンズイのブチ)の内藤次郎(ないとう-内外のウチに、藤の花のフジ、じろうはツグロウ)さんの軽自動車が正面衝突、内藤さんは胸の骨を折って全治二か月のケガ。水戸署の調べによると佐々木さんの前方不注意。」というように読み上げて送ります。そうやってデスクは、毎日県版1ページ分の原稿を全部読み上げて送っていました。
Q.固有名詞がたいへんですね。
固有名詞はもちろん大変なんですが、もうひとつたいへんなのが方言です。茨城弁は「い」と「え」の区別がはっきりしないんです。たとえば、戸籍上は「すい」さんなんだけど、口頭では「すえ」になっていたりするわけです。こういうケースがけっこうありました。通信部の主任で地元出身の古手の先輩記者は、方言がきつく、原稿を電話で取る際「すえさんの『え』は『江戸の「え」』ですね」と確認すると、『うん井戸の「い」だ』」と答えるんですから参ります。地元の人にはその微妙なニュアンスが分かるんでしょうが‐‐‐。今から考えるとおかしい、漫才選手権の“M1グランプリの世界”ですね(笑)。
同じ茨城県でも福島に近い高萩市、北茨城市になるとほとんど福島弁に近くなり、朝そこの警察署に警戒電話を入れると古手の地元出身の宿直警官が出るのですが、何を言っているのかほとんど聞き取れず往生しました。青森、秋田、岩手など東北の支局に行った仲間は方言で苦労したようです。
◇駅から送る原稿便 発車ベルを押させないことも・・・
それとは別に、県版には、短歌とか俳句とか、県庁や市町村の行事予定だとか、発表期日が指定されている県庁人事、教員異動情報、連載企画記事などは、原稿便というので本社に送ります。原稿便は駅に持って行って、電車に乗せて送ります。各社みんなそうやって送ってました。それを上野で取り分けて、各社に持って行くというわけです。
ときには、駅に届ける原稿が遅れて、電車が出発しようとしているところを、車掌に発車ベルを押させないようにして間に合わせた、なんてひどい話も聞いたことありますが本当かどうか(笑)。
そんな通信事情だったのですが、1年か2年たって市外局番ができて、県内各地どこにも直接自由にかけられるようになりました。これは画期的でした。これで県内の警察署--27署だったかなあ--の全部に、朝、支局から電話ができるようになりました。それまでは水戸警察署や、県警本部にある直通の“ケイデン”(警察電話)を使わせてもらっていたのです。
◇キーパンチャーは花嫁候補?
その次に漢テレというのが支局に入ってきます。漢字テレタイプっていうやつで、デカいんですよ。新聞を見開きにして、もうひとまわり大きくしたくらい。『毎日の3世紀』という上下と別巻3 冊からなる社史(2002年発行)を見ると、ぼくが入社した1965年(昭和40年)に全支局に導入されたとのことです。
NHKの番組の「日本人のお名前」ではないですが、難しい名前がたくさんありますが、それも全部漢和辞典のように感じのキーが並んでいて、打ち込めるわけです。茨城では「圷(あくつ)」さん、「塙(はなわ)」さん、「永作(ながさく)」さん、「深作(ふかさく)」さんなんて言う東京では聞いたことのない名前が多かったですね。「生田目(なまため)」さんなんて言うのもありました。東京に来てタクシーに乗って運転手さんの名札を見て、こういう名前があると「茨城出身?」というと間違いなかったですね(笑)。
漢テレ作業のために女性を雇いました。パンチャーとしてです。東京の新聞社のパンチャーということで、あこがれの対象だったようです。水戸の優秀な高校を出た品行方正な女性が入ってきました。ですから、当時、ぼくの同期入社を見るとパンチャーと結婚した人も多いですネ。
◇合理化であぶれた人が支局で記者に
パンチャーさんが原稿を打ち込むと、さん孔紙と呼ぶ紙テープに穴があきます。それを送信機にかけて、本社にさん孔紙の穴開き情報を送ります。それを本社の機械にかけると、さん孔テープから鉛活字を自動鋳造するシステム活字になるわけです。
ところが困るのは、それによってこれまで支局からの電話原稿を書きとっていた、本社の速記さんや漢テレの導入で活字を拾う人たちの仕事がなくなってしまったことです。その速記さんが新聞記者として各支局に出されました。しかし、速記さんは新聞記者の訓練を受けたわけではありませんから、記者会見に出ても全部速記してしまう。するととにかく長い原稿になってしまうわけです。記事でなくて速記録。でもどんどん成長してできる記者になった人も多いですよ。パンチャーさんはずっといました。1985年(昭和60年)にぼくが甲府支局長に出たときもまだいましたね。
この技術革新のために、鉛活字を拾う活版関係の人もどんどん地方支局や広告・販売・総務などのセクションに送り出されていきました。
こうした大合理化が進行していたのですが、各社とも組合が強いということもあって人員整理をするわけにもいかず、合理化の対象になった職種の人をみんな抱え込んでいました。
そういう合理化の波は日本全国の新聞社にあったわけですが、日本企業の終身雇用体質に加えて、新聞自体も広告収入がどんどん伸びていた時期だったので、抱え込むのにそんなに苦労はなかったと思います。
◇ワープロ導入後も鉛筆で通す人も
それから間もなくワープロが導入されて、甲府支局長の時代(1985~89年)の末期には、「東芝のルポ」をぼくも使うようになりました。
その当時は、編集局内でも「オレはエンピツ1本で勝負してきたんだ。ワープロなんかで書けるか!」なんて大見えを切る人がたくさんいました。僕もお世話になった政治部の名物記者・岩見隆夫さんなんてそうでしたよ。最後まで鉛筆でした。さすがにもう今はいないでしょうね。ん
Q.「近聞遠見」という、政治家も必ず読むというコラムを長らく連載していた人ですね。
そうです。それはともかく、ワープロの時代があって、あっという間にパソコンの時代になっちゃいましたね。思えば、技術革新というのがすごい時代だったですね。入社したときは伝書鳩がまだいたわけで、30年くらいで明治100年分くらいの技術革新を体験したのではないでしょうか。その渦中にいるなんて思いもしなかったですね。
◇新聞のカラー化も画期的だった
『毎日の3世紀』を見ると、「1968年のメキシコ五輪でカラー電送で受信しカラー化」とあります。水戸支局にいた時代ですがあまり印象に残っていませんね。雑誌なんかはとうの昔にカラー紙面が主流でしたから、なって当然という感じだったんではないでしょうか。日々短時間での大量印刷の新聞の、カラー化の特殊性、現場の苦労などになんかに想いは至らなかったんでしょうね。
むしろ日常必携の電話機の変化の方が気になっていましたね。電話が固定電話から携帯になって、スマホになるという変化の時代でした。ポケベルも一時盛んに使われましたね。入社してから甲府支局長になるまで20年、スマホはまだ登場していませんでしたが、“伝書鳩からスマホ”までのすさまじい技術革新の時代に新聞記者をやっていたことになるんですね。今考えると英国に始まる18世紀から19世紀半ばの近代史の産業革命で、織物の手工業から蒸気機関の動力源としての発達による、機械工業の大変化をとげるような時代を体験していたんですね。
振り返ってみると、そんな技術革新のことなんてあまり考えたことはなかったですね。新聞を産業としてとらえず、正義感にあふれた取材一筋というといえばカッコイイですが走り回っていただけで、新聞を支えてきたバックヤードとしての技術の力をあらためて感じますね。さらに販売・広告のこともほとんど考えず過ごせたんですから、いい気なもんですね。
(以下はこちらをクリック )
2020年12月25日
コロナの今年も、元写真部、山田茂雄さんがプライベートカレンダー31作目

カレンダー いつもの写真 届かずに
河彦の名前で日々、つぶやいているツィッター俳句にこの一句をオンした12月23日、元写真部の山田茂雄さん(73)から、恒例の2021年プライベートカレンダーが届いた。毎年、海外で撮影した写真をあしらっているので、今年は海外旅行が出来なかったと推測、断念したかと早とちりしたが、これで31回目という永年の積み重ねに、感動した。

山田さんのカレンダー作りは、東京ヘレンケラー協会の調査で1987年にネパールに同行取材、翌年にはあき子夫人がやはりネパールを訪れたことをきっかけに、「日本とは別の時間が流れているネパールの人々の生活を1年間、楽しんでもらおう」と発想、その後、1996年を除き、毎年、作品を作ってきた。当初はポストカードにプリントしていたが、少部数でプライベートカレンダーを印刷出来る印刷所を見つけ、卓上カレンダーとして年賀状替わりに400部ほどを友人、知人に送っているという。
これまで訪問した国を挙げてもらうと、36カ国・地域にのぼる(カッコ内は回数)。アジアでは、韓国(2)、中国(広州1)、香港(4)、マカオ(2)、タイ(3)、マレイシア(2)、シンガポール(3)、ネパール(1)、インドネシア(1)、台湾(4)。オセアニアでは、オーストラリア(1)。アフリカ・中東では、マダガスカル(1)、ケニア(3)、エジプト(1)、ヨルダン(1)、トルコ(2)。ヨーロッパは、イタリア(6)、サンマリーノ(1)、オランダ(5)、ベルギー(4)、フランス(2)、スイス(1)、ドイツ(1)、英国(3)、スペイン(2)、ポルトガル(1)、マルタ(1)、ノルウエー(1)、スエーデン(1)、デンマーク(2)、オーストリア(1)、ハンガリー(1)、ロシア(1)、ギリシャ(1)。南北アメリカは、米国(8)、チリ(1)、アルゼンチン(1)となっている。
ちなみに21年版カレンダーは、1-2月=スペイン・ビルバオ(2016年撮影)、3-4月=トルコ・イスタンブール(2009年撮影)、5-6月=オランダ・アムステルダム(2011年)、7-8月=スペイン・サン・セバスティアン(2016年撮影)、9-10月=トルコ・イスタンブール(2009年撮影)、11-12月=台湾・台北(2009年撮影)。美術館のそばや避暑地のホテル、自転車のサイクルツアーグループ、ボスポラス海峡を行く乗合船などが目を楽しませてくれる。

1971年入社の山田さんは、大阪・東京両本社の写真部に在籍。1995年に退社した後も、フリーのカメラマンとして仕事を続け、毎日新聞主催のイベントなども手掛けてきた。夫人とともに、仕事以外でも海外への旅を楽しむ機会が多く、その成果が毎年のカレンダーに反映された。
最も興味を引かれたのは、オランダで、人口約1700万人(東京は約1400万人)、九州とほぼ同じ面積で国家が成り立っていて、山田さんは「人口減少が続く中、日本も大国主義を捨て、中規模の国になるためにはオランダには何かヒントがあるのでは」と語る。
実は、山田さんとはニューヨークの国連本部で1982年に開かれた第2回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)の際、反核市民運動などを現地で10日間ほど一緒に取材した。海外での取材の縁で、海外の景色をテーマにしたカレンダーをいただくことになり、来年はもっといい年に、と願うばかりだ。
(高尾 義彦)
2020年12月17日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑦ ある新聞記者の歩み 6
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」6回目です。
(インタビューは校條 諭さん)
長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください
ある新聞記者の歩み6 降ってきた石油危機 しんどいながら記者として得た幸運

「新聞記者にとって事件に恵まれるほど幸運なことはない」と毎日新聞の元記者佐々木宏人さんは『証言・第一次石油危機』(1991年、電気新聞刊)に寄せた一文の冒頭に書いています。
佐々木さんにとって石油危機に出会うのは、入社して8年、32歳という油に乗った時期のことです。佐々木さんは経済部で仕事をするようになって3年経っていました。そこで出会った大きなできごとは石油危機(オイルショック)でした。昭和48年(1973年)の10月に第4次中東戦争が起き、それがもとで原油の価格が4倍にはねあがりました。それに伴い日本国内の石油価格が暴騰し、物価が急上昇して狂乱物価と言われるようになりました。物資不足への不安から消費者は買いだめに走り、トイレットペーパーや洗剤、砂糖などがたちまち店頭から消えました。
目次
◆寝耳に水の石油危機
◆通産省を震撼 石油危機直前の汚職事件
◆書くか、書くまいか 通産次官の爆弾発言
◆押し入れいっぱいのトイレットペーパー
◆書けば何でも1面トップ 寝過ごして特落ちも
◆朝日の原稿が毎日に!?
◆初の海外同行取材でフセインに会う
◆法案を“創作”
◆寝耳に水の石油危機
「昭和48年(1973年)10月6日第四次中東戦争が起き、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が、米国を筆頭とするイスラエルを支持する西側諸国への米国を筆頭とする西側諸国への原油供給禁止措置を発表、第1次石油危機が勃発しました。電力からトイレットペーパーの生産まで“油漬け”の日本経済でしたから、日本はパニック状態になりました。
そのわずか2ヶ月前に、僕は通産省(現経済産業省)記者クラブに配属になりました。通称「虎クラ」、虎ノ門クラブといいました。家電業界担当、電力記者会(現エネルギー記者クラブ)担当を経て、はじめての官庁詰めでした。毎日は各社とほぼ同じ3人体制でした。」
「このとき、経済記者としてのキャリアを積むには欠かせない官庁取材の試金石ともなる経済官庁へ移ったわけです。経済記者のキャリアパスには、大蔵省(現財務省)、通産省担当は経験しなくてはいけないポストだったように思います。その内の一つである通産省配属になったのですから、今にして思えば意気揚々と乗り込んでいきました。というのも、水戸支局から経済部に移って約3年、東京での取材にも慣れて、特に電力記者会当時は、エネルギー問題に興味を持って、シベリア、インドネシア、アブダビなどの石油資源開発問題取材に首をつっこんでいました。前回お話したように、資源派財界人の安西浩、今里広記、中山素平、右翼の巨頭・田中清玄といった方々のところに通っては、1面トップを飾るような特ダネを幾つかものにもしていました。その年の7月に通産省に資源エネルギー庁も発足したばかり、記者としての実力を買われたような気分でしたネ。」
「ところが、石油危機という“事件”に出会ったこの時期は、長い記者生活のなかでも、最大級にしんどい経験となりました。しかし、その後なんとか新聞記者として勤め上げることができたのも、「あの時の取材に比べれば」という、この経験があったからだという気がします。今では、この“事件”に出会ったことは幸運だったと感謝しています。」
「とにかく、石油危機などという事態と、それが戦後経済史の中で最大の影響を生み出すきっかけになると予想した人は、通産省に詰めていた記者の中にひとりとしていなかったと思いますし、通産省の幹部にもいなかったと思います。いわゆる中東問題というのは政治、外交のテーマとしては意識されていたけど、経済問題、特に石油との関連でこれを考えることはまったくといってありませんでした。経済界全体が「水と油は蛇口をひねれば出てくる」という意識ではなかったでしょうか。時あたかも田中角栄首相の「日本列島改造論」で土地高騰が起きる高度成長の時代、エクソン、モービル、シェルなどのアラブの石油を押さえている国際石油資本(メジャー)に頼めばなんとかなる、日本にとっては金さえ払えば石油はどうにでもなるという感じではなかったでしょうか。私もその一人ですが、経済問題、特に石油との関連でこれを考える思考はまったく定着してなかったといっても過言ではありません。」
「今でも覚えていますが、電力記者会当時の話です。経済部では毎週月曜日朝10時から、民間経済担当記者がその週の取材予定、記事出稿予定、情報交換を行う民間部会をやっていました。その時、私から国際石油資本と関係の深い東亜燃料㈱の、高校の先輩でもある中原伸之社長から「佐々木君、英国のアラブ情報誌に『金本位制、ドル本位制を揺さぶる“石油本位制”の時代が来る』という記事が掲載されている。読んでみろよ」といわれ記事を渡されました。その話を民間部会で披露すると司会役の一橋大出身で後に大学教授に転身する民間担当デスクに「そんなバカなことあるわけないだろう」と一笑に付されたことを良く覚えています。石油ショック到来の半年間位前の時だったと思います。僕も「そうだよな―」と引き下がりましたけど、そんな時代でした。」
「山形(栄治・初代資源エネルギー庁長官)さんが、大分たってから当時を回顧してこう言っていたことを記憶しています。「(石油ショックには)ぼう然自失だった。予測もしなかった」と。「メジャーにさえ頼んでおけば、石油なんてジャブジャブ入ってくるんだと、こう思っていた」と。」
「エネルギー獲得のためには、メジャーの他にやはり自主開発原油も必要ということで、資源エネルギー庁ができたと思います。当時「和製メジャー」なんて言葉がエネルギー業界に飛び交っていました。」
(以下はこちらをクリック )
2020年12月16日
演劇記者の思い出 ― いまも演劇の現場に、と水落 潔さん

私は1961年の入社です。演劇記者になりたくて受験したのです。面接の時、「何を勉強したのかね」と聞かれ「上方和事の研究です」と答えたところ、「新聞社に入って役に立つと思うかね」。 「役に立たないと思います」と言ったことを覚えています。とても無理だと諦めていたところ、思いがけず採用の報せを貰いました。生涯で一番嬉しかったことでした。後に、この年は変な奴を取ろうという方針だったと聞きました。
前橋支局で二年勤務した後、学芸部に配属されましたが、当初は家庭欄、二年後に音楽担当になりました。当時、歌謡曲界が一挙に若返って橋幸夫、舟木一夫、都はるみら十代歌手が人気を集め始めたので、担当者も若い者が良いだろうというのが理由でした。これも二年、最後はビートルズの来日でした。小生意気な四人組でした。この後、毎日グラフに移りました。風俗、事件、人物など時の話題を写真と文で紹介する写真週刊誌で、三島由紀夫、小松左京、浅利慶太、桂米朝、永六輔、中村歌右衛門ら様々なジャンルの「時の人」を取材しました。三島さんの取材は死の前年でしたが「歳を取るというのは真っ逆さまの転落だね」と言っていたのと「三島は好きなことばかやっていると思うだろうが、そうでないことは僕が死ねば分かるよ」との言葉が印象に残っています。グラフの最後の仕事は、大阪万博の別冊特集号で、会場案内を含むカタログ雑誌にしたので飛ぶように売れました。
再び学芸部勤務となりテレビと演劇を兼務しました。昼間NHKの放送記者クラブに詰め、夜は舞台を見るという生活です。入社して十年目にやっと志望の仕事に辿りついたわけです。演劇担当は二人で、先輩が新劇を持ち、私は古典演劇と演芸、商業演劇は二人で分担することになりました。新劇は老舗の劇団に陰りが出て、アングラと呼ばれた小劇場が台頭した時代でした。蜷川幸雄、井上ひさしなど平成の演劇界を代表する人材が出てきました。アングラ演劇は安保闘争の挫折から生まれたもので、既成価値を一切認めないという新左翼の政治運動の側面を持っていました。商業演劇は映画スターが主演する女優劇が全盛で、家電メーカーをはじめとする企業や商店街が招待する中高年の女性が客席を占めていました。歌舞伎は戦後歌舞伎を支えてきた名優が円熟期を迎えていましたが、興行的には苦しい時代でした。歌舞伎座を例にとっても三波春夫、大川橋蔵、中村錦之助らの公演が人気を集めていたのです。藤山寛美の松竹新喜劇の人気が沸騰していました。
私自身のことで言うと、歌舞伎俳優に名前を覚えて貰うのが一苦労でした。子供のころから歌舞伎や文楽は見てきましたが、仕事となると別です。あらゆる俳優と適当な距離を取ることと、下調べを充分にしたうえで取材をする。それが一番大切だと教わりました。学芸部員は交代で連載小説を担当する仕事があります。私は源氏鶏太さんと瀬戸内寂聴さんの小説を担当し、デスク時代には白木東洋部長と共に藤沢周平さんに小説の依頼をしました。池波正太郎さんからも「次は毎日に」と約束を貰っていたのですが、亡くなられて果たせなかったのが残念です。瀬戸内さんは当時から売れっ子で、原稿がまま遅れがちになります。当時(昭和五十三年)はファクスという便利な器械が無かったので、夜遅く芝居を観終わった後に電話で原稿を受けるのです。これも修業の一つでした。源氏さんからは、「世の中に大人物がいると思ってはいけませんよ」と言われました。今も肝に銘じています。
色々なことがありましたが、経済が右肩上がりの時代でしたから、楽しいことの方が多かったです。演劇記者でもう一つ大切なことは訃報です。素早くキャッチすることも大切ですが、その人の業績をしっかりと伝える記事が故人への何よりの追悼になるのです。不謹慎な話ですが、予定稿が不可欠です。
昭和末から平成にかけて演劇界は大きく変貌しました。ミュージカルが大劇場演劇の柱になり、歌舞伎界では次世代の俳優が主流になりました。その先鞭をつけたのは劇団四季の「キャッツ」と三代目市川猿之助の「猿之助歌舞伎」、宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」でした。それらの舞台を見た若者が演劇ファンになったのです。ミュージカルでは次々に人気作品が上演され、歌舞伎では猿之助に続いて十八代目中村勘三郎が出てきました。歌舞伎座は平成二年から年間すべてが歌舞伎公演になりました。私は平成八(1996)年に退社したのですが、二十五年間に亘って好きな演劇の仕事を続けられたことを感謝しています。お陰で今もってささやかながら演劇の仕事をしています。毎日新聞のお陰です。ある先輩から「お前は毎日の看板を利用して自分の商売をしてきただろう」と言われました。まさにその通りの人生でした。
(水落 潔)
水落 潔(みずおち・きよし)さんは1936年、大阪出身。早稲田大学文学部演劇科卒。1970年より学芸部で演劇を担当。編集委員、特別委員を経て96年退社。幼時から歌舞伎、文楽に親しみ、主として古典演劇、商業演劇を中心に評論活動。主な著書は芸術選奨新人賞受賞(91年)の『上方歌舞伎』をはじめ、『歌舞伎鑑賞辞典』『平成歌舞伎俳優論』『幸四郎の見果てぬ夢』『文楽』『演劇散歩』。日本演劇協会理事。2000年、桜美林大学文学部教授に就任、名誉教授。
2020年12月14日
一人オペラ・奈良ゆみさんを追いかけて ― 元写真部の橋口さん、リタイア後は音楽の世界に

パリでは10月30日から2度目のコンフィヌモン(自己隔離・外出規制)対策を施行しているにもかかわらず、コロナ禍は拡がるばかり。沈静化の気配がうかがえない。
3月の退職後、カヌーでの大隅海峡漕破を目指すプロジェクトへの参加や、さまざまなイベントやコンサートの関係者からの依頼もあり、昔取った杵柄の写真撮影で、多少なりと禄を食もうと考えていたが、ご多聞に漏れず、すべてがパーに。
夏には、予定されていたオファーを全てクリアして、まず、パリへ行こうと思っていたが、それもかなわぬことに。なぜパリなのか。それは、日欧で活発な公演活動を続けるソプラノ歌手、奈良ゆみさんと、パリで逢うことにしていたから。
11月6日に、奈良ゆみさんの会報「ラ・プレイヤード」の世話人、海老坂武さんから寄稿の依頼があった。そこに、なぜパリに行きたいのかという経緯を含め書いた拙文を寄せた。
〈奈良さんの『一人オペラ』との出会い―—〉
「まだ新型コロナ騒ぎが発生する前の今年1月11日、東京・港区の山王オーディアムで、奈良ゆみさんの『葵の上~業のゆくえ』を、音楽好きの友人ら3人と一緒に聴いた。
住宅街に築かれた100人収容ほどの小さなホール。演出の笈田ヨシさんは、中央部分を舞台に仕立て、三方を客席で囲んだ。このため約80人分の席しか設けられず、昼夜2回の公演とも満席となった。聴いたのは昼の公演だったが、立錐の余地もなく、コロナ禍の現状では考えられないほど濃密な空間は、冬の最中にもかかわらず、開演前から熱気に包まれていた。
演奏されたのは作曲家の松平頼則さん(1907~2001年)が書いたモノオペラ『源氏物語』から『六条御息所』の部分を再構成したもの。松平さんの絶筆となった『鳥(迦陵頻)の急』をフィナーレに加えて一層深化させ、『愛の瞑想と魂の浄化が描く美しい世界』が展開する。
奈良さんの澄んだ張りのある歌声が、愛と情念の歌絵巻を劇的に描く。揺るぎない圧倒的な歌唱が、息遣いが聴こえるほどの密接な距離感の中で、深く大きく、時に激しく心を揺さぶる。またヴァイオリンとヴィオラで卓越した技量を示した亀井庸州さんが吹く尺八にも魅了された。二人の呼吸に乱れはなく、加えて物語を進める山村雅治さんの穏やかな口調が、葵の上の悶え苦しむような〝業〟を、より鮮やかに際立たせていた。
私が奈良さんの『一人オペラ』と出会ったのは2004年、千葉県習志野市の習志野文化ホールでの『ソロ・ヴォイス』の公演だった。このコンサートでも『源氏物語』からアリアがメインに据えられた。また公演ではステージ上に観客を乗せて鑑賞させるというユニークなスタイルをとっていたこともあり、毎日新聞の記事として取材、掲載した。
以降、奈良さんとはメールの遣り取りを続け、国内の公演に足を運んだり、また誕生日にささやかなプレゼントを贈ったりも。頂いた礼状には、ぜひパリに遊びに来てくださいと書かれていた。40年務めた新聞記者業をこの3月に終えた以降、パリに奈良さんを訪ねようと思っていたが、予期せぬコロナ蔓延により叶わぬことに。

半ば諦め感が漂う中、奈良さんのフェイスブックを見ると『来年1月23日には大阪でやる予定です。舞台は生きています。私達も!』と嬉しい書き込み。これから、どうなるか一寸先は闇状態だが、ぜひ実現させて欲しい。そのためにも猖獗を極める新型コロナ流行に、一刻も早く終止符が打たれることを祈るばかりだ」
寄稿した文面通り04年に出会った後、12年にフェイスブックで再会。翌年の東京でのリサイタルに招待を受けた。リサイタルを聴き終え、地下鉄銀座駅で撮影した写真と一緒にフェイスブックに投稿した。(「銀座でのリサイタル」=写真・右)
13年6月7日
「久しぶりに夜の銀座でフリーに。『あれ、久しぶり』という声も聞きたかったが、真っ直ぐ『家路』に…。いやー良かった。本当に酔いしれてしまった。一滴も呑んでいないのに…。奈良ゆみさんの『詩人の魂』というプログラム。人を愛することへの『てらい』が吹き飛ぶような感じが漲って…。ちょっと危険なので、直帰しました!」

その後、メッセンジャーでのやり取りを続ける中、たまたま奈良さんの17年の誕生日に投稿されたファンからの「賛歌」に曲を付けるという暴挙を。(「西瓜の姫賛歌」=写真・上)
「怒られるかもしれない…。きっと…。
奈良ゆみさんの投稿にあった『西瓜の姫賛歌』…。ちゃんとした作品が、きっとあるだろうに…勝手に作曲してはいけませんねぇ~。
でも物憂げな雰囲気が良かったので、ついつい…。
投げやりな雰囲気をいっぱい醸し出させられるよう、右では4拍子で左は6拍子…。
オスティナート的な伴奏が気に入って、譜面にしてしまいました。
奈良さん、お許しください…」(フェイスブック17年7月11日投稿)
これに対し、すぐ奈良さんからメッセンジャーで返信があった。
「何と嬉しい予期せぬ贈り物!ありがとうございます!!!ああ、幸せ…明後日ピアニストのところに行きますので、持って行って早速歌ってみます」
この返信に気を良くしたからではありませんが、さらに次の年にも誕生祝いの詩に作曲することに。(写真=西瓜の姫の誕生日))

「あれやこれやと忙しくやった割に、成果の方は…。多忙な時こそ集中して…と、西瓜の姫への贈り物を、一気呵成に仕上げました…。
誕生日ですから、明るくしっかりニ長調…。入りのホンキーなピアノだけが、ちょっとそれっぽいですが、後は、全くのポピュラー仕立て…。
ロックにサンバのリズムを加え、所々、複雑にしていますが、終始、能天気な雰囲気を維持しました…。メロディーは繰り返しなのでリピート処理したかったのですが、細かな変化があるので、繰り返し記号なく77小節…ラッキーな数字にピタリと…。昔の手書きだと大変ですが、今は、コピペで一気に…。良い時代に生まれたものだ!」(同18年7月7日投稿)
奈良さんからは、前回同様感謝の言葉が。そして、パリの自宅を訪ねてほしいとも。
現状では当分、出入国が難しい状況が続くだろう。しかし、何とか叶えたい。
奈良さんは今月4日、フェイスブックに「来年1月23日に大阪のザ・フェニックスホールで『葵の上』の公演をいたします。秋になる頃にはすこし考えたのですがあまり迷うこともなくやることに決断しました」と投稿している。だがその4日以降も、大阪そして全国でのコロナの感染拡大は拡がるばかり。
無事公演ができればと、これまで不謹慎にも神仏に願うことなどあまりなかったが、毎朝の散歩の折に、自宅近くの茂呂神社(船橋市東船橋)で、パリでの再会の期待も含め「コロナ退散」を祈っている。
(橋口 正)
橋口正さん略歴:1954年寝屋川市生まれ。府立高卒業後、アジアアフリカ欧州を2年近く放浪。81年、毎日新聞入社、東京写真部。三越岡田社長事件、日航機墜落の御巣鷹山、伊豆大島噴火取材では搭乗ヘリに火山弾などを経験。阪神大震災発生直後、大阪湾上のヘリから、燃える神戸の街を撮影。写真部編集委員、船橋支局長、東京本社事業部、茨城県土浦通信部を経て、10年にわたる千葉県松戸通信部を最後に2020年3月退社。夏は軽井沢、冬は船橋の二重生活。約2万枚のCD管理もままならず、一日2時間のピアノ練習と、レスキューした愛犬「ソラ」と「ミク」の散歩が日課。
2020年11月30日
宇宙・地球・人力発電―新しい時代の創造者を目指して 元社会部、茂木和行さんの新世界

「人力」を究極の自然エネルギーと位置付け、人力発電とアートを結び付ける「発電アート」を展開することによって、持続可能で循環型社会の実現を目指すNPO法人人力エネルギー研究所を設立して3年目になる。毎日新聞の企業理念として「生命をはぐくむ地球を大切にし」「生き生きとした活動を通じて時代の創造に貢献する」ことがあげられている。社会部の警視庁担当記者として、地球環境問題よりも、特ダネ取りに熱中し、ロッキード事件などの現場を渡り歩いていた私が、いまになって毎日の理念に重なる活動をしていることに、不思議な因縁を感じている。
足踏みで発電する「発電床©」を使ったコンサート・オペラ「ドン・ジョヴァンニ」(河口湖円形ホール)、富士河口湖役場前で行った足こぎ発電でSL「まてき号」を走らせた人力発電遊園地、と、次第に規模を大きくし、この4月12日には「発電アート」の集大成であるサステナブル・オペラ「魔笛@人力発電遊園地」を河口湖ステラシアターで上演することになっていた。
ご多聞に漏れず、新型コロナウイルスの感染拡大のために舞台稽古を1回しただけで公演は中止。来年4月25日に三鷹市公会堂光のホールでの再チャレンジが決定したものの、中止にともなう経済的損失がかなりな額に上り、東京公演では河口湖公演で予定していたSLレールの設置や富士山を模した電飾は断念し、足こぎ発電エアロバイク1台を設置する次のようなストーリーに転換することにしている。
昼の王国ザラストロは、太陽光、風力、水力で電力を賄うスマート・シティ。夜の女王は、魔法の足こぎ発電エアロバイクで電気を賄っている夜の国の支配者。愛と友情を信じる者が魔笛を吹きエアロバイクと 呼応すると、世界を明るく照らす「光の輪」が起動する。
夜の女王の国は、かつてこの「光の輪」によって明るく輝く世界だったが、女王の夫が亡くなった時に、親友のザラストロに「光の輪」を預けたことから、女王の国は鳥刺しパパゲーノがこぐ足こぎ発電エアロバイクだけで電気を賄う夜の世界になってしまった。「光の輪」を持ちながら魔笛を欠いているザラストロの王国も、陽がささず、風もなく、水が凍ってしまう冬の季節には、エネルギーの枯渇に悩んでいる。
夜の国に迷い込んだ王子タミーノは、ザラストロの王国に幽閉されている夜の女王の娘パミーナを救って欲しいと女王に頼まれ、魔笛を預けられる。女王の真の狙いは、「光の輪」を取り戻し、夜の国を再びエネルギーに満ちた明るい世界に戻すことだった。タミーノは、愛するパミーナとともに魔笛を吹き、足こぎバイクをこぐパパゲーノの友情の力を借りて、見事「光の輪」を復活させることに成功、パミーナとめでたく結ばれることになる。
魔法の鈴の力で娘に戻ったパパゲーナとパパゲーノも結ばれ、大団円に。「宇宙の神よ、愛と友情の力が世界に光を取り戻させたのだ。愛と友情、そして平和への祈りをあなたに捧げる」と、夜の女王も再登場して、全員の合唱でフィナーレとなる。


11月に入って、思いもかけず文化庁の「文化芸術活動の継続支援事業」交付金を頂戴することになり、11月27日に木場のスタジオで、魔笛公演用の衣装を使って、ファッションショーを行い、魔笛公演用のPR動画作成にあたった。辣腕演出家で知られる岸聖展氏にお願いしたこのファッションショーは、添付写真でご覧いただけるように、出演陣全員が黒マスク姿でコロナ・ウイルスを威嚇する、なかなかのシュールに仕上がっている(写真:嶋谷真理)。
魔笛に登場予定の宇宙人アオヒト=国際的なアーティスト・パフォーマーの関根かんじさん=も先行出演し、足こぎ発電エアロバイクをこいでくれている。
世界はいまや宇宙への進出競争の時代に入っている。その背景に、地球という惑星がエネルギー資源においても、居住空間としても、増殖する人類をもはや支えきれないとの危機感があることは言うまでもない。だが、宇宙進出によって食料や水、エネルギーを獲得する道が開けたとしても、加速する人類の進出はいつか宇宙のエネルギーそのものを食い荒らし、地球環境問題は宇宙環境問題へと拡大していくのではないだろうか。
そんな想いから、時空を超えて高天原に降り立った宇宙人が、人力発電の力で地球だけでなく宇宙全体の環境危機を救う未来劇「アマテラスと魔法の足こぎ発電エアロバイク」を、魔笛外伝として制作する準備も進めている。
はるか昔、銀河系内の地球から移住した人間種族のために、光を失い、枯死寸前に追い込まれている「あおいろ星」人は、地球人の秘密を探るために、一人の若者アオヒトを地球に送り込む。高天原の天岩戸にタイムスリップしたアオヒトは、使われないままに放置されていた「足こぎ発電エアロバイク」に出会う。それは、宇宙の気を集め、ごみをクリーンなエネルギーに変える力を持つ魔法のマシンだった。
アメノウズメとともにこの魔法のマシンによって天岩戸をクリーンな青い光で満たし、アマテラスを天岩戸から連れ出すことに成功したアオヒトは、アマテラスを連れて宇宙へと旅立ち、地球人に汚された宇宙を元のきれいな宇宙へと戻してゆく。
宇宙的視野で「古事記」の世界をも見せる私どもの未来劇は、日本文化の深淵を垣間見せることによって、新しいジャポニズムのうねりを世界へと発信すると信じている。
折も折り、新型コロナ・ウイルス感染拡大の「巣ごもり」日常で、行動範囲が自宅周辺への散歩、ランニング、自転車によるツーリング、に変わった結果、身の回りに実に多くの神社、鷺宮八幡神社、阿佐ヶ谷神明宮、本天沼稲荷神社、猿田彦神社…が存在することを知った。

JR荻窪駅近くの「天沼八幡神社」(杉並区天沼=写真左)に置かれていた「天沼八幡神社報」の中面3頁に、「日本書記1300年」の文字を見つけ、2020年が、『日本書記』誕生(養老4年=720年)1300年の記念すべき年であることに恥ずかしながら気づいた。その8年前の712年(和銅5年)には『古事記』が誕生している。
「戦後75年間、日本は二千年以上続く皇統と伝統文化を持つ地球上でも稀有な国であることを学校で教わらなくなりました」と、天沼八幡神社報は嘆き、平成十年(1998年)IBBY(国際児童図書評議会)ニューデリー大会で行った上皇后陛下の基調講演でのお言葉を紹介している。
「一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴しています。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や死生観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます」
記紀神話に無知・無関心だけでなく、この「お言葉」に返す言葉がない我が身がなんとも情けない。日本書記誕生1300年にあたるこの機に、日本人の精神構造に深く根を下ろしているアマテラスの存在を世に問うことは、コロナ・自然災害など人類存亡の危機が露呈するこの時代に、明るい希望の光を取り戻すことにつながる、のではないか、の思いを強くしている。
機を同じくして、未来劇「アマテラスと魔法の足こぎ発電エアロバイク」の演出もお願いする予定の岸氏から「日本全国のアマテラス神社を結ぶ道(トレイル)を構築し、太古の英知によって高密度社会がもたらしたコロナ禍の時代を乗り切る処方箋を提示するGo toトラベル・キャンペーン:アマテラス・トレイルを企画して、毎日新聞社に旗振り役をお願いしたらどうか」との提案が出されたのは心強い。岸氏は「日本人は古代から人の力の源である大地と語り合ってきた。アマテラス・トレイルとして再発見される大地の結びつきは、点と点を繋ぐ聖座(星座)を形作り、コロナ禍で消沈した社会に再び明るい未来を取り戻す力となるのではないか」と尻を押してくれている。
毎日新聞の長期連載企画「宗教を現代に問う」が、1976年の新聞協会賞を受賞したことは記憶に新しい。そのパート2として、「神道を現代に問う」といった形で、アマテラスに始まる天皇の歴史を含めた「神道と日本人」の連載を始めてみてはどうだろうか、と思い始めている。日本人の心の原点を探り、私たち日本人の文化の深層を明らかにしていくことは、「時代の創造者」である毎日新聞にふさわしい企画になる気がする。
アマテラスの道を、フランス南部からスペイン国境までの1500kmを結ぶ「サンティアゴ巡礼」や「歩く瞑想」として知られる「ラビリンス・ウオーク」などとつないでゆけば、「祈り」の輪によって世界が一つになってゆく、素晴らしい試みになるのではないだろうか。
昔取った杵柄で、アマテラス・トレイルの同行取材などやってみたいと、「面白がり屋」の記者魂が復活するのを感じ、ワクワク感が否めない。流行語になった「お・も・て・な・し」に変わって「ア・マ・テ・ラ・ス」が、時代の先頭に立つようなことができれば、記者生活最後の残照を「時代の創造者」の一人として終えることが出来るかもしれない。そうなれば、何という幸せだろうか。
ちなみに、東京都の芸術活動助成金プロジェクト「アートにエールを!」に、魔笛公演を題材とした以下の映像作品2点も採用され、ユーチューブ上で公開されている。
〇サステナブル・オペラ「魔笛@人力発電遊園地」
https://www.youtube.com/watch?v=ydrPDLMAfMA&t=270s
〇パパゲーノの冒険「持続可能な愛と平和を求めて」
https://www.youtube.com/watch?v=IIZkH4P4krY
ご覧いただければ幸いである。
※茂木和行さんは1970年、東大理学部天文学科卒、毎日新聞社入社。水戸支局を皮切りに社会部記者、サンデー毎日記者。1986年 退社。ニューズウイーク日本版副編集長、フィガロ・ジャポン編集長、生命誌研究館サイエンス・キュレーター、聖徳大学教授を経て 現在 NPO法人人力エネルギー研究所理事長。
2020年11月27日
タウン誌、地域FM、「47NEWS」の「三つのわらじ」── 新しいメディアで歩む元政治部副部長、尾中香尚里さん

昨年9月に早期退職し、毎友会に加えていただきました。どうぞよろしくお願いします。
昨年春に夫の仕事の都合で神奈川県藤沢市に転居し、遠距離通勤となったことなどを機に、次の人生を考え始めました。地域面の仕事の経験から、毎日新聞を含む新聞各社が(経営戦略上仕方ないとはいえ)地域報道を縮小していくのを寂しく思っていたので、卒業後は地域のタウン誌かコミュニティーFMで、地域情報の発信にかかわりたいと思っていました。
「新たな地元」となった藤沢市のタウン誌「ふじさわびと」の門を叩きました。地元の駅や行政機関などに置かれているフリーペーパーですが、デザインも編集も無料とは思えない質の高さに感動しました。調べると日本タウン誌・フリーペーパー大賞(現日本地域情報コンテンツ大賞)を受賞した経歴もあるとのこと。地元タウン誌で長く編集長を務め、定年後に起業し1人でタウン誌を立ち上げたパワフルな女性編集長の生き方にも、強くひかれるものがありました。
編集スタッフとしての参加が決まり、退職を決断。それをSNSで公表したところ、その日のうちに高校時代の友人から電話がかかってきました。歌手をしているその友人は、間もなく東京都狛江市に開局するコミュニティーFM「コマラジ」(85.7MHz)で、週1回お昼の情報番組のパーソナリティーを務めることになっており、その番組の制作にかかわってほしいというのです。
あれよあれよという間に、私はこの友人とともに、毎週月曜正午から2時間の生番組に出演することになってしまいました。番組名は「アフタヌーンナビ Good Day Monday」。狛江市以外でもスマホアプリ「リスラジ」を使えばインターネット経由で聞くことができるので、よろしかったら聞いてみてください。
番組では「最近の気になるニュースについて友人とおしゃべりする」というコーナーのほか、多くのゲストさんをお招きしています。ゲストさんはミュージシャンの方が多く、在職中にはお会いできなかったようなジャンルの方々と話すことができ、非常に刺激を受けています。また、放送でかける曲の一部を、自分で選曲できるのも魅力です。音楽でキャリアを積んだわけではないのにこんな仕事を任せていただき、本当に感謝の一言です。
これで卒業後の新しい活動が固まったと思いきや、退職直後にさらなる仕事が降ってきました。共同通信社のウェブサイト「47NEWS」で、ネット向けの政治記事を書いてみないか、と誘われました。
実は政治報道にかかわることは、退職後の仕事としてはさほど考えていませんでした。現役時代にどっぷりと仕事したので、退職後は少し局面を変えたかった。でも一方で、長く取材を続けてきた野党陣営の行方をもう少し見届けたい思いもあり、迷いましたがお引き受けしました。その途端に発覚したのが、ご存じ「桜を見る会」問題、そして新型コロナウイルスの感染拡大でした。
気楽に野党関係の記事を書くつもりが、気がつけばこの間の安倍政権、続く現在の菅義偉政権のコロナ対応について、立て続けに論評記事を出すようになっていました。
私は2011年、菅(かん)直人政権時の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の際に政治部デスクを務めていました。取材先の多くが閣内にいたこともあり、一記者としてあの「国難」に対峙した政権の苦闘を間近に見てきました。当時の政権もひどく批判されましたが、コロナ禍という新たな「国難」に対峙する政権の無責任さを見過ごせなかったのです。
いざ書いてみると、予想外に多くの方に読んでいただけているようで、正直戸惑いました。現役時代に新聞記事を読んでくださっていた層とは、明らかに異なるようでした。国民の政治不信が広がるなか、こうした記事にはほとんど需要がないと思っていただけに、これは驚きでした。そして反応のなかに、毎回いくつも同じような言葉があるのに気づきました。
「今まで自分の中でもやもやしていたことを言葉にしてくれた」「もやもやが可視化された」
なるほど、と思いました。
会社を離れた(そしてほかの仕事もある)今、日常的に永田町を歩いて生の取材をしているわけではありません。書くのは国会審議など表に出ている事象の解説が主体。記者時代を振り返れば「こんなことでいいのか」と思うこともあります。
でも、いいかどうかは別として、読者の皆さんは今、一次情報や調査報道によるスクープだけでなく、複雑な社会のなかで感じている「もやもや」を整理し、言語化してもらいたいのではないか。そういう方向で、私の仕事にも少しは意味があるかもしれない。そう感じたのです。
そんなわけで今日も「三つのわらじ」で、地元・藤沢から狛江、国会まで出没しています。コロナ禍で行動は思うに任せませんが、「自分の足で歩いている」実感があります。さらなる精進を続けつつ、さまざまなトラブルも楽しみながら、新たな人生を歩んでいきたいと思います。
※尾中香尚里(おなか・かおり)さんは福岡県出身。早稲田大学第一文学部卒業後、1988年入社。初任地は千葉支局。主に政治部で野党や国会を中心に取材。政治部・生活報道部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを務め、2019年に退社。共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。
2020年11月27日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑥ ある新聞記者の歩み 5
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」5回目です。
経済部時代(3) エネルギー問題が大きな柱に
長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記URをクリックしてお読みください。
https://note.com/smenjo/n/n29ad13427a32
(インタビューは校條 諭さん)
目次
◆三島事件の現場の近くにいながら 松下二重価格問題余話
◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!
◆エネルギー問題にどっぷりの始まり
◆電力会社などの広報担当と銀座を飲み歩く
◆ガレージの門に松葉をはさんでおくと
◆右翼の巨頭・田中清玄にかわいがられる
◆フィクサー児玉誉士夫の影
◆ブルネイへの視察旅行-初のLNG輸入
◆シンガポールで石油公団総裁から特ダネ
◆三島事件の現場の近くにいながら 松下二重価格問題余話
Q.前回、松下電器の二重価格問題で大スクープを放ったというお話をお聞きしたのですが、そのテーマの取材が続く中で、印象深く残っているできごとがあるそうですね。
「松下と地婦連の対決が続いている時期、確か当時の家電商品安売りで名をはせていた城南電気に取材に行って、その帰りに取材用のハイヤーの中で、カーラジオで三島由紀夫の自決事件が起きたことを聞いたんです。昭和45(1975)年の11月25日ですね。あれから50年たつんですね。ビックリです。三島は昭和元年生まれですから当時45才。」
「ぼくは高校生、大学生の頃、三島はかなりたくさん読んでいてわりと好きでした。初版本も結構集めていました。10年位前かな、阿佐ヶ谷の自宅を整理した時、段ボールに入った当時の本が出てきて、文学書の初版本などを扱っている荻窪の古本屋に持ってい行ったら、5万円くらいで売れて驚きました。
高校時代から三島の作品を読んでいました。麻布高校時代、数人しかいない「文芸部」に所属していた“文弱の徒”でしたから。三島の作品では『鏡子の家』(昭和34年刊)という、評論家からは失敗作というのが定評の長編作品が好きでした。その都会的ロマンチシズムにあこがれていました。
ただ終戦時の天皇の人間宣言を呪詛する『英霊の聲』(昭和41年刊)くらいからは熱心に読まなくなっていましたけどね。とてもその天皇への憧憬にはついていけなくなりました。でも新刊が出れば大体目を通していましたよ。最後の事件直前に完結した『豊穣の海』四部作は現実感が乏しくついていけなかったなー。その最終巻発刊直後の事件だっただけに驚きました。」
「いまだに後悔しているんですが、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の現場に寄ればよかったなと。野次馬だけど、現代史の現場ですし、社旗を立てたハイヤーで回っているわけだから、ある程度近くまで行けたと思うんですよ。 もちろん社会部とか学芸部の記者が行っているはずだし、記事も彼らが書くわけで、経済部のぼくが行ったからといって記事を書くわけではありません。今でもそうだけど、とにかく現場に行きたかったということでしょう。そういう意味では社会部の方が向いていたかも(笑)・・・。でも下手に現場に行って「経済部が何しに来た!」と言われて編集局で問題になったかもしれないですね(笑い)。」
「考えてみると水戸支局を経て新聞記者になって5年目、三島のロマンチシズムとは距離感が出てきたんでしょうね。物見遊山で現場に行くものではないという、職業意識が確立してきていたのかもしれませんね。そういうわけで、自分の中ではカラーテレビの二重価格問題と三島事件とはオーバーラップしていますね。両者は直接関係ないんですが、カラーテレビの普及というのは、三島が危惧していた「空虚で空っぽな」大衆消費社会への入口でもあって、つながっている面もあったかなという気がしています。」
◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!
Q.経済部の方から聞いたのですが「佐々木さんといえば“ソニー”と、“リコー”問題だよ」と聞いたんですが、どういう事ですが?家電担当の頃のことでしょう?
「まいったな。そんなことまで知っているの?今だに当時の仲間と飲んだりすると冷やかされる“わが記者人生最大?の失敗”です。
当時、各企業が出す新製品のプリント二、三枚、写真付きのニュースリリースが経団連記者クラブの各社ボックスに投げ込まれていました。その中で面白そうな新商品をピックアップして、活字も小ぶりで10行位の原稿にする「ビジネス情報」というコーナーがありました。一日10本程度は載せていたでしょうか。各社の広報にしてみれば、正式な記事として経済面に無料で掲載されるんですから「『ビジ情』でいいから載せてください」と頼まれたもんです。」
「ある時、ソニーが確かトリニトロンテレビの16インチテレビの新製品のニュースリーリスを持て来たんです。それまでにも何回か型の違う製品の発表があったので、「これはビジネス情報でいいですね」とキャップの図師さんに伝えて10行位のビジ情にまとめました。「ソニーは新しい高精細のトリニトロンテレビの16インチの新製品を出した」という感じですね。
ところが降版が過ぎて、もう訂正の効かない夜中の12時過ぎに赤い顔をして編集局に上がって紙面を見るとなんと!「ソニー」が事務機メーカーの「リコー」になっているではありませんか。ビックリ仰天!担当の当番デスクのYさんに「これ違いますよ!ソニーですよ!」。「もう輪転機回っているよ」
デスクの手元に残された原稿を見ると「ソニー」と書いたところが、「リコー」と赤ペンで補正されているではありませんか。デスク「君がそう書いたんだよ」。下手な字で書きなぐった当方の原稿は、確かに見方によっては「リコー」と読めないことはない。当時から「経済部三悪筆?」と言われ、原稿を読んで写植する活版部には「佐々木の原稿が来ると、原稿が読める担当者が打つことになっている」というウワサが出るほどでした。」
「当時、三島と並ぶ花形作家の石原慎太郎も悪筆で有名で、その原稿を読める専門家が新潮社や文藝春秋社などにはいるという話を聞いて、「おれも慎太郎並なみだ!」とえばっていたんですからどうしようもないですね(笑)」
「でもおかしいのは翌日、紙面化された記事を見て「ソニー」、からも「リコー」からもクレームはなし。そのためか訂正記事もなし。今から考えれば信じられませんね。今だったら炎上騒ぎでしょうね。残ったのは「リコーにテレビを出させたササキ」という伝説、いや実話。」
「「リコーがテレビなんて出すはずないじゃないの」という批判があるかと思います。担当デスクだったYさんのために弁明しておくと、Yさんは当時、経済企画庁担当の長老記者だったと思います。正式な役職上のデスク(副部長職)ではなく、キャリアの長い記者が経験を買われて臨時に民間経済面のデスクに入っていました。アップツーデートな民間経済情報には疎かったと思います。
Yさんは某製紙会社の社長の御曹司で慶大卒。戦時中、海軍の短現(短期現役主計士官)に行かれてすぐ終戦になり、実戦経験はゼロ。それだけに海軍への思い入れは強く、酔うと必ず〽さらばラバウル、また来る日まで―という「ラバウル小唄」を腕を振りまして、歌われました。我々もそれに合わせて大声で歌ったものです。本当に憎めない面白い人でした。
でも同じ職場の身近に戦争帰りの人がいたんです。そういう時代だったんです。」
(以下はこちらをクリック )
2020年11月26日
司会と編集長 海外日系人協会を手伝ってます ―― 元外信部長、中井良則さん
「司会」といえばいいものを「モデレーター」なんてカタカナで呼ぶようになったのは、いつからでしょう。聞きなれないカタカナ語にすれば、何やら高級そうに錯覚するからか。そんなことを気にしながらも「モデレーター」を務める羽目になりました。
◆海外日系人大会中止でオンライン会議◆
毎年、世界各国から日系人の代表が200人前後東京に集まります。新聞もテレビもあまり記事にしませんが、自分の出自をジャパニーズと認識している人々にとっては、結構、大きな国際会議です。日系人人口はブラジルで190万人、米国で150万人を数え、世界では390万人といわれます。この「海外日系人大会」を主催する海外日系人協会という公益財団法人があり、この数年、常務理事としてボランティアで手伝っております。記者時代、中南米や米国で日系人に会い、記事も書きました。
2020年は新型コロナウイルスで外国のお客さんは呼べません。国際会議は軒並み中止でした。61回目となるはずだった海外日系人大会も見送りとなったのはやむをえません。
「でも、対面の会議に代わるなにかをやらないと」「なにか、ってなんだ」「だから、なにだよ、なんだろね」なんてやりとりはなかったけれど、オンライン・フォーラムなるものを開こうという話になりました。またカタカナ語です。要は、「日系人のメッセージや会議をビデオ録画し、YouTubeで公開しよう。世界どこでも、いつでも見てもらえるし」というわけです。
10月31日にYouTubeにアップしました。お時間があれば、海外日系人協会のホームページから、簡単にアクセスできるので、ご覧ください。
http://www.jadesas.or.jp/
◆日系人の記憶が危機を乗り切る支えに◆
15か国の日系社会の代表17人からビデオメッセージが送られてきました。これもまた日本ではあまり報道されないけれど、コロナ・パンデミックで、どこの日系人団体も施設閉鎖や活動中止に追い込まれました。収入激減で、かつてない危機にあります。そんな窮状と、それでも立ち上がって踏ん張っている現状をみなさん報告してくれました。
追いつめられると人間、自分は何者かと問い直すのですね。
「第2次大戦の日系アメリカ人二世部隊の勇気を思い出します」「この地に渡ってきた父祖が示した忍耐力に励まされています」「ガンバレ・スピリットです」
日系人としてのアイデンティティや歴史の記憶が受け継がれ、コロナの時代を乗り越える支えになっているようです。
◆貸しスタジオ見つけてビデオ収録◆
で、ようやく書き出しに戻って、モデレーターの話です。このオンライン・フォーラムの中で、ミニ会議というかパネルディスカッション(またカタカナだ)をやり、その司会役が回ってきたという次第です。
これまでも日系人大会で何回か司会を務めたことがあります。今回は参加者3人ずつの討論会を二つ続けて担当するわけです。この質問をこちらの人に振り、このテーマはあちらに聞いて、とコンテを準備しました。

打ち合わせはZoomで済まし、さて本番はどこでやろうか。
海外日系人協会の会議室ならおカネはかからないけれど、ビデオの撮影や録音がうまくいくか、ちょっと心配でした。素人がカメラやマイクを使うと、画像が揺れたり声が聞き取れなくて大失敗、という惨事はよくあります。事務局の人が、川崎駅前の貸しスタジオを見つけてくれました。カメラ3台が自動で切り替わり、マイクもプロ仕様で音質の保証つき。こういう場所貸しビジネスがあるとは知りませんでした。
収録で気をつけたのは時間管理。オンラインで人の話を延々と聞くのは疲れるものです。40分以内でセッションを終わらせるようにしました。
◆コロナ対策、機械翻訳じゃわからない◆
モデレーター、いや議論の出来栄えはYouTubeをのぞいてもらうとして、とりあげたテーマの一つが日本で働き、生活する日系人コミュニティです。日本には30万人を超える日系人がいて、これは日系人人口としてブラジル、米国に次ぐ世界第3位です。あまり知られていません。何度もいうけど、新聞も書いてない。
コロナになって雇い止めやしわ寄せが各地の日系人を苦しめています。困るのは役所のコロナ対策のお知らせがポルトガル語やスペイン語、英語にはなっているけれど、意味不明なこと。グーグルなどの機械翻訳に任せ、ネイティブがチェックしないまま公開するので、わけがわからないんだそうです。そんな驚くべき現状が次から次へ出てきた議論でした。またもいうけど、後輩の記者諸君、取材して書いてよ。
◆「海外日系人大会60回の歩み」も出版◆

海外日系人協会の仕事は、毎日新聞の大先輩、新実慎八さんからいわれて、やっています。この1年ほどは「海外日系人大会60回の歩み」という日系人の歴史をまとめた本の編集長を仰せつかり、かなり真面目に取り組みました。A4版391ページ、重量1,051グラム。11月1日に発行できました。半分以上のページは資料編に充て、60回におよぶ大会の宣言など文書の全文を掲載しました。次の世代に引き継ぐ記録は、原文のままでないと役に立ちません。この本もPDF版を海外日系人協会のホームページで無料公開しています。
※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職。
2020年11月18日
介護の職場が第二の人生 ― 元大阪本社運動部長、北村弘一さん

2年半前の2018年3月に、大阪本社編集局編集委員を最後に毎日新聞社を選択定年で退職し、1年5カ月前から介護大手が運営する東京多摩地区の有料老人ホームで介護職員として働いています。この11月に介護職員の現場リーダーとしての資格である実務者研修を修了し、当面は現場での実務経験が3年必要な国家資格である介護福祉士の取得を目指しています。
まずは初任地の八王子支局で支局長だった高尾義彦さんの勧めでこの欄に寄稿させていただくことに、感謝いたしております。
40歳の頃始めたランニングが縁で、毎日を辞めて最初に転職したのはランニング大会の運営や雑誌を発行するイベント会社でした。しかし、当初約束された編集職のポジションに就くことはなく、広告営業や大会運営など想定していなかった業務を担うことになりました。経営陣に対する不信もあり1年2ヶ月で退職し、いちから仕事を探すことになりました。
知人を頼り新聞記者として勤務した大阪や札幌への移住も検討しましたが、世田谷区の自宅近くで既に保育士として働いていた妻に、にべもなく却下され、都内での就職に方針転換して複数の就職サイトに登録して情報収集しました。当初はライターの仕事も探しましたが、50代半ばを過ぎ、資格も持たない身には、さしたる誘いもありません。「キャリアを生かせないばかりか、社会の何の役にも立たないのか」と悲観し始めた頃、たまたまインターネットで見た「介護職員初任者研修を無料で受講 さらに就職先を斡旋」との広告が目に止まりました。初任者研修とは介護職員の入口にあたる未経験者向けの15日間のスクーリングで、介護全般の座学と実務の基礎を学びます。
自宅近くで働けるから通勤のストレスから解放される、健康維持のため身体を動かして働ける、この歳からでもキャリアアップが目指せる、ことが決断の後押しになりました。後期高齢者が急増し、介護職員が38万人不足すると言われる2025年問題も頭の片隅にありました。幸いまだ身体が動かせるうちの仕事としては相応しい業界のようにも感じました。
ただし現場はそう甘くはありません。言うまでもなく、「きつい」「汚い」「危険」の3K職場の典型です。例えば介護の具体的な手順は個々の利用者向けに共有されてはいますが、せっかく手順を覚えても、スタッフ個々の考え方はさまざまで、ベテランのおばちゃんパートにダメ出しを食らうこともしばしばでした。
加えて現在務める事業所は平均の要介護度が3の半ばで高く、ほとんどの方が程度の違いはあれ認知症を患っています。認知症の方々の生活にこれほど濃密に接するなど、これまで考えてもみなかったことでした。
なまの人間相手の仕事であるがゆえ、決められた時間通りに仕事が進まないことは日常茶飯事で、理想の介護を胸に留めつつも、新聞記者時代とは比べようもないほどのアンガー・マネジメントと日々向かい合っています。「自分がこの職に向いているのか」「この先10年間働ける環境としてふさわしいのか」などと思い悩む日々です。
先頃修了した実務者研修でも、20~30歳代の若い受講者のなかで人一倍手順が拙い私に厳しく接してくる看護師上がりの女性講師との闘いの連続でした。ハートの持ちようが試されている、と日々感じます。
今後は現場での実務経験3年の条件をパスすれば、受験資格が得られる介護福祉士の資格取得が当面の目標となります。さらに、そこで5年の経験を積めば、介護保険利用者のケアプランを策定するケアマネージャーの受験資格を得ることができます。
現在56歳の私がそこまで到達できるとすれば63歳。ただ私を採用してくれた事業所の女性上司は「ケアマネは70歳過ぎても働ける」などと励ましてくれます。現在、小学校4年の長男が大学まで進めば、卒業するのは私が68歳のとき。腰痛のリスクや体力の衰えと向き合いながら、そこまではあらゆる可能性を視野にキャリアアップを目指すことになりそうです。
※北村弘一さんは1964年滋賀県生まれ。関西大社会学部卒業後、生命保険会社などを経て1988年毎日新聞社入社。社会部八王子支局、浦和支局、編集総センターを経て東京運動部。2002年サッカーワールドカップ現場キャップ。その後、秋田支局次長、北海道報道部副部長、大阪運動部副部長、学研宇治支局長、鳥取支局長、大阪運動部長を務め、2018年に大阪編集局編集委員を最後に退職。趣味はマラソン、登山。
2020年11月4日
91歳の引っ越し ー ハマから江戸へ 電動自転車で元気な磯貝喜兵衛さんの近況です

横浜南部の洋光台に住んで40年余り。4年前に妻に先立たれてからは、一人暮らしを続けて来ました。今年1月に91歳を迎え、去年のイタリア旅行に次いで、今年も春に合唱仲間の一人とニューヨークへオペラを見に行く予定だったのですが、コロナ騒ぎで流れてしまい、逼塞しているところへ、東京の鉄砲洲に住む長男から「隣りに新しくマンションが建つので、来ないか?」との誘い。<老いては子に従え>という諺もあり、『スープの冷めぬ距離』に住むことに決断をした次第です。
毎日新聞では、初任地の徳島支局を皮切りに、大阪、東京、京都など12回の転勤をしましたが、これまでは家財道具一切と一緒に引っ越しを繰り返していたのが、今度だけは5LDKの一戸建てから、1DKの小マンションに移るので、家財道具の大処分が必要です。
先ず取り掛かったのが、家内が残していった膨大な資料です。と申しますのは、長女が昔通った東京女子大付属幼稚園の母親たち七人と、日本、イギリス、ドイツ三国が第二次大戦中行った学童疎開を比較、研究し、30年近く前「切り取られた時」(京都・阿吽社刊)という本にしたのですが、その膨大な資料・写真を残していたのです。
その次に、家内の亡父(経済学者)が残していった著作(イングランド銀行史)の、これも大量の原稿の山などとの格闘です。我々夫婦の本や雑誌は2軒の古書店とBook off に引き取ってもらい、最後に残った家財、衣類の山は大部分を破棄しました。


私の荷物は中型トラック1台で済みましたが、残りの家財は中型トラック3台が処分場に運ぶのに3往復。朝の9時から、夜の7時過ぎまでみっちり掛かってやっと、という始末でした。
「これも一種の ”終活”」と割り切って、何とか切り抜けましたが、これまで経験したことのない難事業でした。とりわけ苦労したのが、写真・アルバム類の整理です。驚いたのは新聞社時代の写真の中で、飲み屋やパーティーの写真がどれだけ多かったか!!改めて脱帽(?)した次第です。
引っ越し先の東京都中央区湊1丁目は、地下鉄日比谷線八丁堀駅から、歩いて10分ほど。銀座一帯までの広い地域に氏子を持つ鉄砲洲稲荷神社(昔の湊神社)のすぐそば。小さなマンション4階のベランダからは、隅田川が目の下に。対岸の佃島の高層マンション群が川越しに眺められます。(歌川広重が描く江戸百景の「湊神社」と、わが家のベランダから「隅田川をへだてた佃島」の写真を添付します。)
佃島には高尾義彦さん、さらに向こうの月島には堤哲さんという社会部OBが住まれ、今は亡き岩崎繁夫さんも対岸の月島に住んでおられたことなども思い返し、懐旧の念を新たにしているところです。
昨年末、車の運転をやめてから、電動補助機付きの自転車を愛用していますが、都内を自転車で走るのは、思いのほかに便利で楽。「転んだらお終い」と自分に言い聞かせて、近隣を走っています。
時々、検診を受けている聖路加国際病院や福澤諭吉が幕末に開いた慶應義塾発祥の地、赤穂四十七士ゆかりの播州浅野藩屋敷跡などもすぐ近くにあり、暇に任せて探訪をし始めたところです。
先日、日本記者クラブで高尾さんにお会いした時、佃島から日比谷まで自転車で来られていると聞き、私もそのうち・・・などと考えているところです。
(磯貝 喜兵衛)
※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB
2020年11月1日
「世界一貧しい大統領」が政界引退 ―― 江成康明さん「エナジー通信」から
長野県白馬村でペンション〈憩いの宿「夢見る森」〉を経営する江成康明さん(元運動部・スポーツ事業部長)から、定期便「若者のためのエナジー通信」第45号(2020年11月1日)が届いた。紹介したい。
♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~
若者のための エナジー通信
by Yasuaki Enari Vol.45 (2020.11.1)
♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~♪~

米国大統領選をめぐって、トランプ、バイデン両氏の毒舌合戦が続いている。相手を卑下するだけのウソも混じった汚い言葉のオンパレードに辟易する。日本では学術会議の任命問題で、菅首相が拒否した理由説明もせずに時間だけが流れていく。所信表明でも「日本をどうしたいのか」が見えなかった。見慣れた光景とはいえ、国のリーダーはこんなにも落ちてしまったのか、と残念な気持ちになる。新聞を広げながら、見出しだけ見て毎日同じような内容の記事を素通りしてしまう自分に気づく。
それでもページをめくっていく。習慣がそうさせる。小さな記事に目が止まった。<「世界一貧しい大統領」が政界引退>。見出しが端的に事実を伝えている。ここ数年の世界の政治情報の中で、私が最も尊敬していた政治家のことだと分かる。ショックを抱えたまま、気に記事を読む。85歳という高齢と、対話するためにどこへでも足を運んでいた楽しみがコロナ禍によってできなくなったことが引退の理由だそうだ。まだまだ全世界の人々に心ある言葉を伝え続けてほしいとの願いは届かなかった。
ホセ・ムヒカ氏。名前を初めて聞いたのは6年ほど前のことだった。それ以前の2012年6月、国連の「持続可能な開発会議」でウルグアイ大統領としてスピーチした発言は、今の時代に生きる「人間」と「政治家」に足りないものをわかりやすく問いかけた。ほかの政治家にない理路整然とした演説と、国民のための政治家として実践してきたウソ偽りのない生きざまが次第にメディアにも注目され、数々の本も出版された。こんな政治家がいるんだ、と知り、以来大ファンになった。何よりも、ぜいたくな社会になり、経済中心に回っている世界に対して、「本当の豊かさ」「人生の大切さ」を説く言葉の重さに引き付けられた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
初来日したムヒカ氏のインタビュー番組がテレビで放映された日のことを忘れられない。それまで活字でしか知らなかったムヒカ氏の映像を見られることに興奮していた。ごく自然にノートを用意し、発言をメモすることにした。それは、忘れかけていた記者時代の緊張感に似ていた。一言も漏らすまいと走り書きし、時おり彼の表情を見つめた。その言葉が本心であるかどうかは、ちょっとした目の動きや動作が見極めの分かれ目になる。取材記者の原点である、と若いころ教わった。よどみも戸惑いもなく、彼は穏やかにインタビューに答えていた。メモしながら、背筋がゾクゾクっとした。2016年3月8日のことだった。
メモを読み返すと、人を愛し、より高い政治理念を掲げていたすごさが改めて分かる。
「何のために自分の時間を使うか、が大事。家族や子供、友人や自分のために使うのならいいが、もっとお金が欲しいと思うなら消費社会に支配されている。モノを買うのはお金ではなく、お金を得るために働いたあなたの時間なのだ。人生の時間というのは、ゼンマイが切れるように必ず終わる。モノは最小限あればいい。決められたあなたの時間を、モノを買うためにではなくもっとすてきなことに使ってほしい」
「幸せとは希望があること。情熱を傾けられる何かを見つけることが必要であり、それは欲望ではなく、愛を育むこと、人間関係を築くこと、子どもを育てることなど身近にたくさんある。幸せこそが私たちに最も大切なことであり、発展が幸せを阻害してはいけない」
一人ひとりにできる「時間」と「幸せ」の考え方を述べているが、そこから発展してムヒカ氏の話は政治に及ぶ。
高価な商品を欲しがり、ぜいたくな消費社会を作ってしまったのは政治の責任だと。若者に希望の光を示すこともなく、世界中に貧困家庭が増えている現状。「我々の前に立ちはだかる巨大な危機は、環境問題ではなく政治的な危機なのだ」と強調した。そして最後に、「人の幸せは政治が作るもの」と言い切った。
ムヒカ氏自身は、大統領を辞めたときにフォルクスワーゲンの中古車一台しか財産がなかったそうだ。議員や大統領としての報酬は、貧困者のための住宅や教育施設の建設費に当てたらしい。「世界一貧しい大統領」と言われるゆえんでもある。国民の生活を肌で感じ、自ら清貧な人生を送っていたムヒカ氏は多くのモノを求めずに「共助、公助」に徹し続け、静かに政界を去った。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
今、改めてムヒカ氏の言葉を振り返ると、ただの理想論ではなかったことがよく分かる。新型コロナ禍が実証して見せた。世界中のほとんどが自粛規制に追い込まれ、自宅で過ごすことが当たり前になった。もちろん出勤や登校ができない状態になり、誰もが消費社会から遠ざかった。ぜいたくをすることもなく、非日常という日常に頭を切り替えた。
それまで無意識だった「時間」をいかにうまく使うか、をみんな考えて実践した。本を読んだり、趣味の幅を広げたり…自分を高めるために時間を有効に使った。収入がなくなることに不安があっても、誰にでも均等に与えられている「時間」の大切さを知った。周りに流されていた自分に気づき、考えることも多くなった。
「幸せ」についても家族で会話を楽しみ、それまではあまり話す時間もなかった父親や母親とじっくり語り合った。友達に手紙を書くことも多くなったという学生もいた。ネット社会では味わったことのない「人のありがたさ」に幸せを感じる時間が持てた。そして何よりも、仲間と会えない寂しさを実感し、会話できないもどかしさが誰の心にも生まれた。YouTubeを使ってダンスや歌がリレー方式でつながれたのも、みんなで幸せをつかみ取ろう、という思いが大きかったのではないだろうか。モノが欲しいというより、「人恋しさ」に戻ったのは、決して無駄な時間ではなかった、と思う。コロナ禍がなければ、ムヒカ氏の言葉は実際の生活の中で感じ得なかったかもしれない。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
なのに、ムヒカ氏の言うもう一つの願いは何もかなえられていない。政治家は相変わらず消費社会の中で欲望に満ち続けている。世界中が危機感を抱いている地球温暖化対策のパリ協定から離脱し、新型コロナの陽性診断を受けてもすぐに退院してマスクもしないトランプ氏は相変わらずだ。「自助」を前面に打ち出す菅総理の方針も、ムヒカ氏の実行してきた国民への「共助、公助」には程遠い。コロナ禍で経済的にも精神的にも苦しんでいる国民に「まずは自分の力で」というのは筋違いだろう。
河合克行夫妻の選挙違反事件や杉田水脈議員の「女はウソをつく」発言についても説明すらない。安倍政権時代から続いている「説明責任を果たさなくても、時間が経てばみんな忘れる」ということが定着してしまった。それを許していた国民が、コロナ自粛の期間中に「政治に関心を持つようになった」という。だったら、コロナ禍は転換期にもなりうる。幸せは政治が作るもの、と意識して政治を見つめる若者が増え、声を上げればきっと何かが変わるはず。ムヒカ氏が言い続けた「政治的危機」が水面下ではなく、表面化している怖さに今こそ気づかなければいけないと思う。
「人類が今の悲劇的現状から何かを学び取ることができると考えている。それが実現すればコロナ禍は人類にとって大きな糧になるだろう。人類は過去の世界的危機のたびに新しいものを生み出したのだから」
コロナ騒動真っ盛りの6月にこう発言したムヒカ氏。現役時代には実現しなかった夢が、コロナ後には叶うかもしれない。政界から身を引いても世界を憂え続けるであろうムヒカ氏にその日を届けたい。そんな気がした。
くれぐれも、新型コロナウイルス感染には気を付けて下さい。
ご意見、ご感想をお待ちしています。
松本大学非常勤講師 江成 康明
2020年10月29日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑤ ある新聞記者の歩み 4
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」4回目です。
https://note.com/smenjo/n/n6f00229e2566
(インタビューは校條 諭さん)
経済部時代(2) 1面トップを飾るスクープに
◆興奮しながら記事執筆 地婦連事務局長は不買運動宣言
Q.すぐに記事を書かれたのですか?
「これはもう一面トップいただきだ!と、はやる気持ちで夕方会社に帰り、編集局入り口の経済部別室に籠りキャップの図師さんと興奮しながら一面の本記は図師さん、僕が経済面の2面で会議の様子を書き分けました。

それが「松下、消費者運動に反撃」というような大見出しで1面トップと経済面の大記事になりました。確か早版からではなく、特ダネなので13版から掲載されたように思います。ただし、今見ると、販売店主を装って潜入したので、写真がありません。今ならスマホで撮ることもできるでしょうから、時代を感じさせます。」
「原稿を書き上げてデスクに出稿、図師さんが「とりあえずいいよ、適当なところで電話してくれ」という事で、当時付き合っていた大学のサークル仲間と約束していた映画を見に新宿の「アートシアター」に行きました。切りのいいところで経済部に映画館の中の公衆電話、通称赤電話に十円玉を入れながら連絡したら、「1面トップだからたいへんなことになっている、地婦連事務局長の田中里子の談話を取れ」と言われました。田中さんとは二重価格問題で何回か電話で話したことがあるので、連絡を取り浦和での松下の大会の話をしました。田中さんは藤尾専務の発言、特に「消費者運動には負けない」という発言に怒り心頭で「消費者運動をバカにしている。年末に向けて、松下製品不買運動を展開する」と松下を批判しました。」
◆のちに出た“松下本”にいきさつが
「これらのいきさつについては、ノンフィクション作家の立石泰則さんが『復習する神話 松下幸之助の昭和史』(1988年、文藝春秋刊、1992年、文春文庫)という本にも詳しく書いています。」
不運なことには、この会場には新聞記者が二名取材のために潜入していたのだ。もちろん、そのことを松下側は知るよしもなかった。
翌十月十五日の朝刊で、毎日新聞は一面トップに「カラーテレビ 松下、強気な販売作戦 値段引下げ応じぬ」という大見出しで藤尾発言をすっぱぬいたのである。この藤尾発言は、当然のごとく消費者団体を刺激し、その態度を硬化させた。消費者運動のイニシアティブをとっていた地婦連では、ただちに事務局長の田中里子がコメントを発表した。
「まったく消費者をバカにした話だ。松下がこのような態度を打ち出したのは、私たちの消費者運動に対する挑戦だと思う。・・・私どもは松下の系列店を狙い撃ちにボイコットするなど、強力な対抗策を全国六百万の会員に訴えていくつもりだ」
◆松下、とうとう白旗 新聞の役割を実感
「そういうボイコット運動のきっかけを作ったのが、このスクープ記事だったということです。ほかの松下のことを取り上げた本にも、毎日新聞とは必ずしも書いてないですが、新聞記者が潜入して記事を書いたというのが載っています。
それに加えて米国への輸出価格が日本の販売価格の半額だという事も伝わり、年末のボーナス商戦に向けてボイコット運動が続くわけです。毎日新聞のすっぱ抜きの記事は、その流れの火に油を注いだものだったと思います。マスコミはみんな消費者運動側の味方でした。」
「年末だったか年初だったかに松下と地婦連の公開討論があって、松下側は白旗をあげるんです。それによって二重価格というのは解消して、販売店の自由価格という形に落ち着きました。その背景には、正価販売をするメーカーのチェーン店、その一方安売りをするダイエーなど大手ス-パーと量販店が出てきたということがあって、消費者の不満が高まったということがあります。家電製品のマーケットでの価格決定権を握る松下の覇権に対する不満が高まり、消費者運動が燎原の火のごとく広まって、最終的に松下が白旗を掲げたという顛末です。今もメーカーは商品に値段をつけてないですね。「希望小売価格」という遠慮がちな価格を出してはいることはあります。そのそもそものきっかけはあのときの不買運動だったということになります。記事は日本の消費者運動に役立ったということになるような気がします。」
「あのとき思ったのは、新聞というのはすごい役割を果たすのだなということです。当時としては消費者は、メーカーにタテ突くには新聞への投書くらいしかなかったわけです。おしゃもじデモというようなことはありましたが、それも新聞が報じなければ知られないのですから。」
◆松下が広告をストップ
「松下電器は、当然、毎日新聞に恨み骨髄です。広告局を通じて圧力をかけてきたようです。結局、松下はかなりの期間、毎日への広告出稿をストップしたようです。社内で広告局から編集局に苦情が来たと思います。それを受けた経済部のデスクは、我々に一切伝えませんでした。当時のデスクはエライと思いました。絶対に出先の取材記者を萎縮させてはいけないという思いがあったんではないでしょうか。後年、広告局に行って商業新聞として、いかに松下の広告の存在が収入源として大きかったことを知り、当時の経済部の幹部は前線の記者を守ってくれたんだと、本当に毎日新聞記者でよかったと、しみじみ思いました。」
「でも当時、こちらはそんなこと知らないで「特ダネ記者の佐々木だ!」みたいなデカイ顔しては浜松町の松下東京支社広報室に通っていたからいい気なもんだと思います。相手もさるもので、本当はハラワタが煮えくり返る思いをしていたと思います。でも広告をストップしたなんて一言も言いませんでした。ただ東京広報部長のSさんが「あの大会の情報を流したのは埼玉の○○さんですね」とこちらは知っているぞ、とチラリと漏らしたことはありました。」
◆20年後に、当時の松下社長と対面
「それが翌年3月位に収まります。松下が二重価格解消宣言を出したのです。消費者運動が勝利した記念碑的出来事だったと思います。それによって、毎日への広告出稿の停止も解かれて、ある日突然、3月頃だったと思いますが、創業者松下幸之助と毎日新聞大阪本社の経済部長との対談が1ページの紙面を取って掲載されました。紙面を見てビックリしました。恐らく手打ちだったと思います。対談記事を見て、なるほどそういうことだったのか、とわかりました。」
「1992年ころ事件から約20数年後、広告局にいた際、東京のホテルで開かれたパナソニックの正月パーティーだったか、90才前後の杖を突き、ソファーに腰をおろした松下正治名誉会長にお目にかかったことがあります。その時、名誉会長に挨拶をして「埼玉・浦和のナショナル店会総会に潜入して一面トップの記事を書いた毎日新聞の佐々木です。今は広告局にいてお世話になっております」と自己紹介しました。「君かあの時の記者は。あの時は本当に大変だった。そうか君だったのか」と元伯爵家出身で、創業者松下幸之助の娘婿の赤ら顔の松下名誉会長と握手を交わしました。
しかしやがて3C(カー、クーラー、カラーテレビ)マーケットは飽和状態になり、東芝、日立、シャープ、三菱電機、三洋電機など他の家電メーカーがやせ細っていきました。松下電器はあの時の教訓をもとに消費者向けの姿勢をとるようになり、2008年パナソニックに名称変更し、日本のマーケットで絶対的なポジションをキープして、世界の「パナソニック」となりました。松下にとって、消費者運動に対処した体験は、今日の「パナソニック」隆盛の根幹になっているのではないかと思います。」
◆ニクソンショックで固定相場制終焉
「その当時の経済情勢を考えると、僕が経済部に上がったのは昭和45年(1970年)5月、翌年の1971年8月15日に、ニクソンのドルと金との交換停止が発表がありました。いわゆるドル・ショックです。第二次ニクソンショックとも言います。第一次は同年7月15日にニクソン大統領の訪中発表です。
その時、お盆休みの真っ最中でしたが経済部員全員に非常招集がかかりました。僕はたぶん、長野県大町市の山間にある山荘(これは僕のオヤジが持っていたです)に行っていたと思うんですが、そこから東京までかけつけました。だけど、経済部の連中にとっては、このニクソンショックがどういう意味なのかほとんどわからなかったんじゃないかな。少なくとも水戸支局から上がりたての僕にはその意味がピンときませんでした。そもそも1ドル=360円、その米ドルは米国の金保有に担保されているんだ、という固定相場制のもとに日本経済は戦後が成立していたんですから。戦後26年間その体制が続いていた。外国為替相場なんていうのは経済記者の頭になかったように思います。いまから考えるとウソみたいなですが、そんなこと考える必要がなかった。」
「日本経済が成長軌道に乗り、家電製品を中心とした日本製品が米国や世界を席巻し始めて、日本の為替相場の不公平さを指弾するようになって来たんですね。ボクシングでいえばフライ級のつもりが、いつの間にかヘビー級になっていたようなものです。なにしろ1962年、当時の池田首相が訪仏した時、誇り高きフランスのド・ゴール大統領に手土産にトランジスタ・ラジオをプレゼントした際、同大統領から“トランジスタのセールスマン”と揶揄された、と伝えられました。文化より、経済優先で官民挙げて日本電化製品を売らざるを得ない状況でした。今でもその屈辱感を記憶しています。」
「71年12月のスミソニアン合意で、1ドルが従来の360円から308円になりました。財研(大蔵省記者クラブ)や日銀記者クラブ(日本銀行担当)なんか、新しい相場がいくらになるかって大騒ぎして、夜討ち・朝駆けの特ダネ合戦で大変だったと思います。こっちはまあ為替がドル300円、200円になると輸出はどうなるかという反響を取ったり、工場の海外進出を考えなくてはという反響原稿を書く程度で、いわば蚊帳の外でした。そうして73年2月に変動相場制に移行しました。でも“円高不況論”というのがあって、経済界からは、中小企業を中心に「明日にもつぶれる」という声が強かったですね。しかし結果として、日本経済はグローバル化の荒波にさらされることになったわけです。」
◆グローバル化と消費社会到来の潮流のただ中に
「その前に資本の自由化がありました。昭和42年(1967年)だったかな。日本も海外に出て行くのは自由だし、海外から日本に来るのも自由になりました。これはグローバル経済の発端だったと言えます。だから、そういうバックグラウンドがあってのできごとだったわけです。当時のデスクの中尾光昭さん(退職後、名古屋商科大学教授)がエール出版というところから『円切り上げ待望論-インフレを防ぐキメ手はこれだ』(1970年刊)というのを出してベストセラーになったのですが、その頃は、円高っていう言葉がピンと来なくて、1ドル360円が370円になるのが円高なんじゃないかとつい思ってしまうくらいに、みんなが知らなかったという実態だったと思います。一般向けにやさしく書いてあるんですが、一生懸命読んで勉強しました。だけど何しろ「円高」と「円安」の「高」と「安」がそれまでの常識と逆転しているわけで、なかなか当方の“灰色の脳細胞”にはスンナリ入らなかったことを憶えています。そんな時に経済記者をやっていたというのは、今考えれば、国際的な波に洗われはじめた瞬間にめぐりあっていたということになりそうです。」
「こういう時期に僕は、松下電器を筆頭とする家電の二重価格問題なんていう国内の問題に当たっていたわけです。当時ベストセラーになった東大教授の林周二さんの『流通革命―製品・経路および消費者』(1962年刊)という中公新書の本があります。この本は、大型量販店が進出してきて、直売というのが増えてきて、日本の消費の体制ないしマーケットが変わるということを初めて分析した本だったように思います。本が出たのはだいぶ前ですが、メーカーの販売部門、流通業界などではバイブルのように読まれていました。そういう中で二重価格問題というのが起きてきたわけですが、まさにこの本が予言した通りの状況になってきたんですね。
僕なんか大所高所からの論はあまり得意でなく頭に入らず、目の前の問題を追ってかけずりまわっていました。あとから考えると、家電メーカーは国内でのもうけを、為替のメリットを生かしながら外国でのシェアを取るために使うため必死だったと思います。そういう時代の潮流の中に真っただ中にいたと言えます。」
(続く)
2020年10月19日
元中部本社代表・佐々木宏人さん④ ある新聞記者の歩み 3
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」3回目です。
スーパー・量販店の成長前夜、記者人生一の大特ダネ(前編)
(インタビューは、校條 諭さん)

2.経済部時代(1)家電販売店主会に潜入してエイエイオー!
佐々木さんは、水戸支局に5年いて、1970年(昭和45年)5月に経済部に移りました。27歳のときでした。
Q.そのときはご結婚されていたのでしょうか?
「いえいえ、ぼくは結婚が遅くて、35歳のときでしたから。」
Q.では、あとでそのいきさつを詳しくお聞きしたいです。
「あはは(笑い)、本当はノーコメントといきたいなあ。いずれゆっくり。話しましょう。ビックリしたのは、あなた(インタビュアー・校條諭さん)と女房の妹と高校のときの同級生だったという関係があることが分かったんで逃れませんね。」
◆5年ぶりの東京 意気上がる経済部に配属
「東京に5年ぶりに戻ってきて、会社のある竹橋の周りを歩いた時、お堀端の柳の木が目に鮮やかな新芽を吹いていたのを見て、「ああ東京に戻って来たんだなー」と感慨があったことを記憶しています。
東京という日本経済の中心地で“経済”を取材するんだ―という武者震いというと大げさですが、緊張感があったことは確かですね。
竹橋の本社ビル4階の編集局にある経済部に配属になりました。でもビルのフロア全体が編集局で、支局の何十倍もある広さに“本社”を実感しましたね。
そのころ毎日新聞の経済部は、2年前に「八幡製鉄 富士製鉄合併」という“世紀の合併”をスクープして一面トップに掲載、それが新聞協会賞を受賞するなどしていたので意気軒高、外からの評価は高かったと思います。「俺もやるぞ!」という気持ちがあったと思いますよ。
最初の1、2週間は経済部のデスクに座り、「今度水戸支局から来ました佐々木です。よろしくお願いします」とあいさつをしながら、出先記者からの電話による原稿取りをしました。新米の「経済部記者・佐々木宏人」のオリエンテーションという感じでしたね。
原稿取りというのは、官庁などの記者クラブに貼りついている先輩記者が、電話で簡単な記事を送稿してくるのを、ザラ紙の原稿用紙に一枚2行(当時の紙面の記事は一行15字)書いていくのです。今はパソコン送稿なんでしょうが、どうしてるんでしょうね。」
◆経団連記者クラブの“新人養成所”機械クラブで電機担当に
「そのあと、配属先が決まりました。僕は大手町の経団連ビルにある「経団連記者クラブ」の配属になり、家電・機械担当で図師三郎さんというキャップの下につきました。
図師さんは原稿の上手い人でした。時事通信から移ってきた人で、ほかにも東京新聞からの人など2、3人、他社から来た人がいました。というのも、当時、他社に先がけて経済面を2ページに拡大して、新経面(新経済面)というのを新設して、民間企業の動向を主に扱うというので人材をスカウトしたわけです。当時、毎日新聞にはそれだけジャーナリズム業界からの誘因力があって、ブランドイメージが高かったんでしょうね。
図師さんはのちに毎日新聞が出している「エコノミスト」誌の編集長になりました。ほかにも、後に経済部長になる東京新聞から移籍した山田尚宏さん、日刊工業新聞からの小島徹さんなどもおられます。他社の人から、毎日新聞は偉いね、スカウトした人材をチャント使っている―といわれたこともあります。その意味で風通しの良い自由な気風がありましたね。」
「経団連記者クラブに配属ということになって、その中の「機械クラブ」というところに身を置くことになりました。東京駅から歩いて10分程度の大手町の経団連会館の1階でした。私は当時、地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷駅近くに住んでいましたから、同会館目の前の大手町駅下車で片道45分程度の通勤でした。担当業種は電機、自動車、財界という3つの担当にわかれていて、私は電機担当でした。会館の3階には、化学、鉄、繊維業界を担当する重工業クラブ、5階には電力業界、石油会社などのエネルギー産業を担当する電力記者会(現エネルギー記者クラブ)クラブがありました。自動車担当、機械担当にはキャップが各1人いて、それぞれ新人を1人か2人預かっていました。」
「経団連1階の機械クラブは、あがってきた新人を養成するクラブでした。財界担当の記者が“校長先生”で、民間担当キャップといって経団連会館にある記者クラブ全体に目を光らせていました。私の時は佐治俊彦さんでした。佐治さんは、その後毎日新聞が倒産の危機の際、活躍されて新旧分離という荒業で危機を乗り越えた立役者の一人で、専務にもなりました。ワシントン特派員帰りで永野重雄、中山素平などの財界人に食い込み、文章も上手く、あこがれの存在でしたね。」
◆先輩や他社の記者と屋台で交流
「壁に向かって長細い経団連記者クラブの机で原稿を本社に送ったあと、夜の9時頃、夜回りもないときは、経団連会館の隣にある日本経済新聞社の前のビルの谷間に出る、バンタイプの自動車の屋台に立ち寄り、各階にいる先輩記者たちとよく飲み議論したものです。各社の担当者や日経の記者とも、ビールケースの箱に座り席を同じにしたこともしょっちゅうでした。またクラブの休憩室にはマージャン卓があり、キャップクラスが良く卓を囲んでいました。取材のコツがわかり始めたころ、気が付くと私も参加していました。
また丸の内ホテルが近くにあり、そこがシンガポール航空の定宿になっていました。乗務員がよく顔を出していました。きれいなスチュワーデスとは片言の英語で話して楽しかった思い出もあります。」
◆カラーテレビの販売競争にあけくれる家電メーカーを取材
「私が電機担当当時は3種の神器(カー、クーラー、カラーテレビ)という言葉がありました。1970年は大阪万博が開催されており、高度成長の消費ブームに沸き立っていたころですね。特にカラーテレビは一家に一台の時代に入りつつありましたから、販売競争は激しいものがありましたね。」
「この取材はすごくおもしろかったですね。当時は、東京オリンピックのあとで、ちょうど70年くらいが白黒テレビからカラーテレビに主役が移った頃でした。それで、浜松町にあった松下の東京支社とか、東京駅から有楽町駅に沿った形の“三菱中通り”を中心とするビル街周辺に電気メーカーが軒並み並んでいたんですよ。丸ビル内にあった日立製作所、三菱仲通りの三菱電機、三菱重工業、富士電機、そのころ黎明期にあったコンピューターメーカーの富士通など順繰りに取材に行ける位置にありました。松下電器(現パナソニック)東京支社は浜松町、NECは田町、ソニーは品川で少し離れていました。」
◆スーパーの台頭で起こった二重価格問題
「そのころカラーテレビが毎年百万台近くも出て、家電メーカーの大きな収益源になっていました。それで二重価格問題というのが起きたのです。松下がいちばんシェアが大きくて、価格のリーダーシップを持っていました。16インチくらいのカラーテレビの正価が10万円くらいでしたかね。松下はそれを絶対くずさなかった。ところがその時期台頭してきたのが価格破壊と言われたスーパー「ダイエー」でした。城南電気もありました。それらが8万円とか7万円、5万円というような値段で売るようになりました。どうも松下などの販売店がウラでスーパーに回しているといううわさでした。それに対抗して松下を筆頭に、メーカーは製品に秘密の番号を付けるなどして、ダイエーなど量販店に横流しするのを防止ししてつぶそうとしていました。なんとかメーカーは正価を守ろうと必死でした。」
「それに対してダイエーの中内さんなどは反発していたんだけど、当時は中内さんもまだそんなに力がなくて往生していた。そこで、怒ったのが、当時勃興しつつあった数百万のメンバーを有する消費者運動でした。その先頭に立っていたのが地婦連(全国地域婦人団体連合会)でした。理事長は山高しげりさん。しかし、松下は「消費者運動何するものぞ」という態度で、断固として正価販売を死守しようと必死でした。」
◆家電販売店主が毎日新聞に駆け込んで窮状訴え
「その渦中、十月の初めだったでしょうか、埼玉の家電販売店の店主が毎日新聞に電話をかけてきて、経済部のデスクに小売店の窮状を訴えたのです。デスクから我々のところに至急連絡を取るよう言ってきました。確かキャップの図師さんが電話をしたのですが、その店主が竹橋の本社まで来てくれました。編集局入り口の小部屋で図師さんと二人で話を聞きました。純朴でとつとつと厳しい情勢を話してくれました。
その話を聞くと、販売店としては困ってしまっているというのです。周辺に安売り店ができて、7万円とか5万円で売っているんだけど、松下からは10万円で売れといって、ギューギューしめつけられている。でも売れないんだというわけです。店主が言うには、10月14日に埼玉県浦和市(現さいたま市)の県民会館で、埼玉県のナショナル販売店会の総会があって、そこに本社の社長以下おえらいさんが来て激励する会があります。実情を見てくださいということでした。」
◆松下電気の販売店主会に潜入取材
「そういう情報をもらって、ぼくはキャップの図師さんと一緒に県民会館に行きました。会場にどうやって入ったのかなあ・・・とにかく、販売店のナントカですとか言ったと思います。受付で式次第やハチマキ、饅頭かなんか入っていたと思いますが紙袋をもらい中に入りました。会場では2階のいちばん前にすわりました。そこで周囲にバレない様にひやひやしながらテープをまわして、その様子を記録しました。あとで松下側から原稿で抗議を受けた時の用心のためでした。そのテープは今も手元にあります。
会場正面には「躍進」と大きく書かれたスローガンなどがあり、その前に松下正治社長以下同社幹部がずらりと並んでいました。
松下正治社長は「消費者運動はまことに困った風潮だ。いずれ理解されると思う。」と語り、創業者の秘蔵っ子といわれた販売担当の藤尾津与志専務が「消費者運動なんかに負けないで、松下としては定価販売を断固として守る」という発言をしたのです。そして、最後にみんなでエイエイオーとやるのですが、我々も、確か鉢巻きも巻いていたと思うけど、エイエイオーとやりました。」(後編に続く)
2020年10月1日
新婚旅行の写真もアップしています — クラさんのFaceBook
社会部旧友倉嶋康さん(87歳)、クラさんが元気だ。FaceBookに連日記事を書き続けている。「飛天隊」という凧揚げグループの隊長としてゴビ砂漠や標高5千メートルを超すチベット、さらには北朝鮮にまで行って、空中高く凧を揚げ、国際親善に励んでいる。これまでに30回、25ヵ国へ遠征した。
同時に1955(昭和30)年12月に福島支局で新聞記者生活をスタートさせたときの話を連載している。
クラさんといえば松川事件「諏訪メモ」のスクープで知られる。死刑4人を含む17人全員が無罪となったのである。死刑判決を受けていた佐藤一さん(2009年没、87歳)は、元社会部長山本祐司さんの出版記念パーティーに出席して、「命の恩人」倉嶋さんと固い握手を交わした。
さて、駆け出し時代のクラさんの写真に、社会部旧友堀井淳夫さん(2017年没、90歳)が写っている。

前列右端。左に茂泉繁、倉嶋康、朝井貞一郎。昭和30年代初めの福島支局メンバーだ。
《FBの連日連載はボケ防止のため昨年始めました。…堀井さんとは福島時代からの仲良しで、相手を「貴殿」と呼んで印象付ける努力をしていたのでクラブでは「キデン」があだ名でした。体格に似合わず気の弱い優しい性格でした。福島のあと地方部取材課や内信部、社会部でも一緒になり、縁の深い方でした》
キデン堀井さんは、慶應義塾陸上競技部でハイジャンプの選手だった。いい体格をしている。
クラさんは鳥打帽とシャレているが、FBにはこんな写真も載っていた。
当時流行のミルキーハットをかぶっている。

《福島に来た時に支局次長から「とにかくなんでもいいから取材先に社名と自分の名前を憶えてもらえ」と厳命されました。初対面の警察官や検事に名刺を渡しただけではなかなか憶えてくれません。意地の悪い捜査課長などは10回近くも会っているのに「わが(お前は)スンブンキジャ(新聞記者)か」と福島弁で素っとぼけます。
一計を案じて当時はやっていたミルキーハットと呼ばれた帽子を常にかぶりました。先輩記者は「チンピラみたいだ」と言いましたが、取材先を訪れる時はもちろん脱いで近くのイスに置きます。「なんがあったっだがい(なにか事件か事故がありましたか)」と福島弁も慣れてきて、何も無いと言われて部屋を出る時にわざと帽子を忘れるのです。しばらくしてとりに戻って、皆に笑われながらかぶって出ます。これを2、3回繰り返して印象を深めました》
サツ回りで最初に本紙へ特ダネを送ったときのことを詳報している。その間の事情はFBを読んでもらうことにして、《特ダネを書いた翌朝の社会部記者クラブは居心地の悪いものでした。入ると共用のテーブルに毎日新聞の私が書いた記事が拡げられている。「深夜の血清輸送 官民協力が命を救う」の見出しが目立ちます。あちこちで自社の支局からの電話に受け答えする記者、キャップに怒鳴られているサツ回り。私を見ても見ぬふりです。中には当時のラジオドラマで子供たちの人気を集めた「赤胴鈴之助」の主題歌をもじって「ペンを取ったら日本一の、バカどうスズノスケ」とあてこすりを小声で歌っているヤツもいました。
私は《特ダネとは気持ちがいいものだな》と心の底から思い、この時から『マル特病』にかかってしまいました。目立った特ダネを毎月本社で審査した上で、書いた記者に部長賞、局長賞などを金一封とともに授与しています。やはり「他紙には載らなかった」ということは宣伝材料となり発行部数を増やすのに大きく役立ったからでしょう》
「マル特病」が諏訪メモ発見につながるのだが、元朝日新聞記者上原光晴著『現代史の目撃者』(光人社NF文庫)にこう紹介されている。
《福島地検は信夫山のふもと、坂道にあり、県警記者室から3キロほども離れていた。他社の記者が毎日1回ですませるところを、倉嶋は事件の発生を警戒しながら2回、足を運んだ。検事の知的レベルの高いのが気に入り、小ダネもよく書いて、検事や記者仲間から「倉嶋検事」と呼ばれた》

地道な努力が実ったのである。
FBにこんな写真もアップされている。
《【新婚旅行はつましく志賀高原へ】60年前にこんなことがあったなんて、オレにはまったく信じられない。女房はもっとだろう》
(堤 哲)
2020年9月30日
上州暮らし50年 ― 83歳いまも現役

滝野隆浩専門編集委員の「掃苔記」(8月30日付け)に「寺じまい」が報告された元前橋支局長、曽我祥雄さん(83)から近況が寄せられた。「掃苔記」と合わせて、お読みください。
◇ ◇ ◇
群馬県に住み始めてから48年、いまやすっかり上州人になった。
生まれ育ちは静岡県で、1972年、30歳過ぎに転勤で初めて名古屋から群馬に来るまでは、それこそ縁もゆかりも無い土地だった。上越線新前橋駅前に下り立った時は「野に新しき停車場は建てられたり/便所の扉風にふかれ/……いづこに氷を喰まむとして賣る店を見ず/ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり」と、まさに私の群馬についての唯一の知識である萩原朔太郎の詩「新前橋驛」を思い起こさせるものだった。ただ、私はもともと田舎町出身、むしろ安どする気持ちがあった。
会社の転勤で来ただけの私が上州に居ついてしまった理由はいくつか挙げられる。カラッとした気候風土や開放的な人柄、東京への手ごろな距離感などは、誰もが指摘するこの地の住み心地の良さだ。こんなにも長くなったのには、もっと身近な生活上の現実的ないくつかの理由があった。一つは家であり、一つは仕事、さらにもう一つは人との出会いである。
家、つまりマイホーム。1973年ごろ、県が高崎市の郊外に大きな住宅団地の建設計画を立てた。列島改造論で東京―新潟間に関越高速道路、上越新幹線の建設が進んでいたころである。県庁の記者クラブで広報を見た先輩から「高崎は便利になるし、応募してみようよ」と誘われた。当然、借家暮らしでマイホームのあてなどない。どうせ当たりはしないと思って、土地付き建売分譲の最もよさそうな区画を選んで応募した。ところがそれが当たったのである。33倍の競争率だったそうだ。
冷やかし半分の応募だったし、購入資金など持ち合わせていない。自宅に帰ってその日の「珍しい出来事」を妻に報告すると、応募したこと自体知らなかった妻は、即座に「絶対、買おう」と真顔になった。それから、四方八方、頭を下げて資金を借り集め、75年、高崎にマイホームを持つことになった。まだ30代の記者がいつまでも同じところに住めるわけでもない。現に、その後、東京、川崎、長野などと転勤を繰り返したが、いつも単身赴任。妻は当然のように高崎の家に残った。妻にも縁のない土地ではあったが、もともと貧乏育ちで思わぬ幸運を一時でも手放したくない様子だった。
単身で前橋を離れた後も、再び転勤時期が来ると私は「できれば群馬」を希望した。そして、その通りに支局次長として戻り、最後は支局長として前橋に赴任することになった。全国紙の記者が郷里でもない同じ地に支局員、次長、支局長と、三度も赴任するような例は稀有ではなかろうか。もちろん、私の個人的事情を察し、わがままを許してくれた毎日新聞ならではの配慮だと思っている。同時に、私自身も学生時代の経験とか自身の能力に対する自覚、人生観みたいなものがあって、東京本社へ「上がりたい」などという希望など全く持っていなかった。大都市より地方の方がいいとずっと思っていた。
上州暮らしを支えたのは、当然のことながら、そこでの働き場が得られたことにもよる。満54歳で選択定年退職すると、一日休んだだけで、翌日から「ぐんま経済新聞」という地元の新聞社で働き始めた。新聞社と言っても、記者は5、6人、週刊の発行部数が数千部というまさにミニコミ紙だ。それでも、何とか生活できる賃金は保証されたし、いつ天井が落ちて来るかもしれない経営不安の小企業で、地元の若い人たちと地域のために働くことにためらいはなかった。
小寺弘之氏という人物との出会いも大きかった。自治省(現総務省)出身の官僚で、私が群馬に来る数年前に、やはり名古屋(愛知県庁)から県医務課長に転任してきた。当時28歳、まさに「天下り」人事だが、群馬が気に入って自ら自治省人事を離れ、県職員として数々の職場を上りつめ1991年に知事の座に就いた。
前橋支局では私は県政を6年間担当、次長、支局長として戻ってきたときも、県庁や県議会には出入りしていた。小寺氏とは年齢も近く、名古屋から来て住みついたという経緯も同じ。親しみやすさと同時に思慮深い人柄に魅かれた。初任地の愛知県庁では武村正義氏(滋賀県知事から国政に進出、新党さきがけ代表や細川内閣の官房長官を務めた)と机を並べ、この先輩を生涯の師としていた。そんな「思想傾向」もあり、4人の総理を生んだ自民党王国の政治風土の重苦しさを語り合うことも多い間柄だった。
知事としての小寺氏は、独自のセンスで特に文化・教育に力を入れ、数々の施策は県内外から注目された。県人口200万記念事業として小栗康平監督の映画「眠る男」を県費で製作したのは代表例だ。「次代を担う子供たちのために」と、県立の昆虫の森や天文台を新設、矢島稔(元多摩動物園長)古在吉秀(元国立天文台初代台長)といった専門家を招いて内容・質の面でも一流を目指した。
私も、再就職した「ぐんま経済新聞」は企業情報専門紙だったのにもかかわらず、知事の言動、県政施策を積極的に紙面に取り上げ応援した。個人的にも地方労働委員会や審議会など、様々な形で県行政に参加する機会を得た。交流は2007年、小寺氏が5期目を目指した知事選で、当時は真っ向から対立していた自民党の公認候補に敗れて落選するまで35年に及んだ。県政トップと1県民という一線は常にあったが、小寺氏との交流は私にとって、上州暮らしを支える大きな柱であった。
残念ながら小寺氏は、再起をかけた参院選に民主党から出馬して落選、2010年、失意のうちに亡くなった。私は小寺氏の知事落選と同時にミニコミ紙を引退した。しかし83歳になった今も、前橋にある地方公務員志望の学生を集めた専門学校の非常勤講師として働き、「時事問題」を解説、上州で生きる若者たちの発奮を促している。
毎日新聞を退職してから28年、すでに在職期間とほぼ同じ年数が過ぎた。この間「元毎日」を自ら名乗ることはほとんどなかったが、その経歴や肩書が背中の方で力になってくれたのは確かだと思っている。
(元前橋支局長、曽我祥雄)
「掃苔記(そうたいき)」8月30日付
「実家の寺を解散しました」。群馬県高崎市に住む曽我祥雄さん(83)から、少々長めの寒中見舞いが届いたのは昨年2月のこと。静岡県掛川市にあった実家の了源寺を2018年12月8日に解散し、最後の法要と「お別れの会」を開いたという。
曽我さんは会社の先輩。後輩記者の気安さから思い立って話を聞いた。「寺じまい」する気持ちを聞ける機会はあまりない。400年という歴史を閉じるとは、いったいどういう心持ちなのか。
解散にあたり、曽我さんは寺の歴史を「想い出の了源寺 掛川」という冊子にまとめた。掛川藩の「掛川誌稿」などの資料を調べ、歴代住職の名前を載せた。教育者であった13代の祐章が曽我さんの実父。1964年の没後、寺は「無住」となり、区画整理に伴う移設もあった。その後は檀家(だんか)の手で維持されてきたが、高齢化で「力尽きる形」になり同じ宗派の寺が吸収合併。127区画の檀家の墓は、移設したまま市営霊園に残ることが決まった。
男ばかり5人兄弟の三男。兄たちに寺を継ぐ意思はなく、曽我さんも高校卒業後、地元に戻らなかった。後輩の気軽さで、聞きにくいことを聞いてしまう。ご自身は継ぐ気持ちはなかったのですか? 「何度も考えました」。先輩は思いを巡らす。高校時代の同級生が妻を亡くしたあと僧籍を取得した話など、ぽつりぽつりと。「妻は『あなたがやればいい』と言ってくれたんだけどね……」
寺の子に生まれた親しい坊さんに聞くと、みんな一度は悩み、でも最後は「運命」を受け入れる。だけどこれからは僧侶という職業に魅力がなければ、後継は途絶え寺は姿を消していく。
一昨年の「お別れの会」のあと、曽我さんは実家の寺のあった場所を久しぶりに訪ねた。きれいな児童公園になっていた。大きなマツの木、墓地や山門の近くで遊びまわった日々を思い出す。朝鮮半島出身の子や障害を持った子もいた。年齢もバラバラで、いまなら言えない差別用語も口にしたけど、翌日はまた、くったくなく笑い合った。寺という空間の持つ、自由で、多様で、濃密な雰囲気が、いとおしい。自分はもう、菩提(ぼだい)寺は持たないという。(専門編集委員)
2020年9月28日
スケッチはお預け、ジャズ三昧の日々 ― 元運動部長、渡部節郎さんの近況報告

9月も残すところわずかとなった日々、来月上旬に開催するジャズリサイタルに備えて歌のおさらいに追われています。
昨年秋、銀座6丁目のジャズバーで開いたのに続き、2回目となるリサイタル。
今回は10月9日、港区赤坂のライブハウス「STAGEー1」で開きます。ジャズスタンダードナンバーを中心にして、映画音楽、ラテンダンスミュージックなど好きな楽曲ばかり15曲ほどを一人で歌う予定です。(毎友会の)古い音楽ファンなら懐かしいかと思うので、曲目を羅列してみます。
①Volare
②You‘ll never find another love like mine(別れたくないのに)
③Time after Time
④I‘ve got a crush on you(君に首ったけ)
⑤Amapola
⑥Sway
⑦Love is a many splendored thing(映画「慕情」のテーマ)
⑧Summertime in Venice(映画「旅情」のテーマ)
⑨Love letters
⑩ Quand Quand Quand
⑪On a slow boat to China
⑫Dream
⑬Star Dust
⑭Again
どうですか? 懐かしい曲ばかりでしょう。
歌うのは楽しいものの、高齢者にとって一番の苦労は何と言っても歌詞を覚えることに尽きます。英語、スペイン語、イタリア語の混じった長い歌を、虎の巻の歌詞カードに頼らずに人前で歌うのは、高齢者がナビなしのクルマでドライブするようなもの。今回はなるべくナビなしで挑戦しますが、無謀運転に近いです。②③は新曲だし、僕が出すことのできる高音域ギリギリの音があったりして、歌の品質保証ができるかどうか、ああ、不安が募ります。しかし、聴いてくれるのは僕の長年のファンばかり。その点はありがたい。
それは10年前にビル解体で無くなった銀座7丁目のピアノバーの仲間たちが中心で、職業も弁護士、IT、企画会社員など様々。その中に篤志家の女性がおられまして、ご主人の遺産を我々、ジャズ好きの仲間がいつでも集えるようにと、軽井沢に大きな別荘を建ててくれたのが7年前のこと。おかげで、ジャズとお酒と雑談の楽しく親密な時間を続けていられるというものです。 今月もボーカルの師匠たちと同行してここでライブ用のおさらい特訓を受けてきました。
ジャズとの出会いは早稲田に入学したころですが、ジャズボーカルは仙台支局長だった50歳の手習いで。それまで無趣味だったので、仙台赴任に当たって、詩吟か何か一つ身につけようと考えていました。仙台はストリートジャズの街。知り合いの稲門会メンバーが定禅寺通でサキソフォンを吹いているのに出会ったのがきっかけでした。
「詩吟よりジャズだ」。譜面が読めないのに?「歌なら何とかなるだろう」。
持ち前の無鉄砲で、面識も紹介もなく、仙台市の繁華街、一番丁のジャズバーに飛び込んで教授を受けることになったのです。それから四半世紀。50曲ほど持ち歌ができました。
ジャズの楽しいところは酒あり、ダンスあり。歌う方も聴く方も一つになって楽しめるところかな。名刺も肩書きもなく、楽器一つ(ボーカルは身体が楽器です)を持ち寄って遊ぶ。これぞ、高齢者の遊びじゃありませんか。朝は定期的通院、夜はジャズで痛飲、一人の日はもう一つの趣味であるスケッチブック片手にふらり散歩。こんな生活が続いたら、とりあえず幸せかな、というところです。

コロナがライブハウスでクラスターを起こしたことで、日本中のライブハウスとミュージシャンが大きな痛手を受けました。ライブハウスも様々で、若い男女が密集して絶叫、飛び跳ねるものばかりじゃないのに、十把一絡げで槍玉に挙げられたものだから、あの宇崎竜童・阿木燿子さん夫妻がオーナーだった赤坂のレストランライブハウスも春に店を閉めました。当初は僕もそこを予約しておいしい料理をお客さんに食べてもらうのを楽しみにしていたのでしたが。残念です。
STAGE-1は40年以上になる赤坂の老舗で、今回はコロナ対策での換気環境を整えました。定員70人のところを、今回は20人前後に抑えて3蜜を避けます。
メンバーに告知したライブ案内を、ご参考までに、以下添付します。
音楽好きの皆様 その後、いかがお過ごしでしょうか?
長い自粛生活の中、季節はいつの間にか秋です。
以前ご案内しました私のジャズライブ、一度はコロナで断念も考えましたが、周りから背中を押されて、決行することにしました。
コロナで休廃業するライブハウスが多い中、会場のStageー1さんはエアコン増設やフロアにダクトで外気を送るなどのコロナ対策をして、やる気満々でした。密集回避のために、定員70人のところ、客数20人前後に抑えて開催します。
飲んで食べて、おしゃべりを楽しんで、自粛生活で縮こまった羽根を伸ばしにおいで下さいますよう。再会を楽しみにお待ちしています。
【ご案内】
日時 | 10月9日(金)開場午後5時 開演午後6時、午後9時前に終了予定 |
ライブハウス | STAGE−1(ステージ ワン) 港区赤坂3丁目11−19 UFビル4階 電話3585ー1827 地下鉄赤坂見附駅から徒歩3分。みすじ通り沿い、角のビルです。 |
お店へのアクセス | 必要な方には写真、地図などご案内します。ご連絡下さい。 |
入場料 | 5000円。 ドリンク何でもフリー(ワインは好みがあるので、持ち込み自由)軽食付きです。 |
出演 | Vo渡部節郎 Pf中西雅世 B磯部英貴 D大井川俊英 |
◆今回は予約をいただきませんが、事務処理上、参加希望の連絡を下されば幸いです。
メールでも、電話でも。 080ー3095ー6982 渡部節郎
2020年9月24日
第二の人生 思いがけずボランティアに (その2)
(元販売企画本部) 成田 紀子

前回、最後のところで、保育園の新しい園舎を確保し、経営が好転したと書いたが、NPO法人の規定に、当時は園舎のオーナーは経営に参加してはいけないという規約があったため、私は平成21年5月、新園舎オープンの時点で、理事長を退任していた。それから4年ほど後、NPOの規約が変わったので、もう一度理事に復帰してほしいと言われ、ヒラの理事ならということで、
また保育園の経営に参加した。
認可園と小規模事業保育園の2園を開園決意
その頃、全国的に待機児童が問題になり始め、横浜市の林市長は「横浜には待機児童はいない」と豪語していたが、人数の算出方法がいい加減だったようで、算入されなかった待機児童がたくさんいることがわかり、平成25年ごろから横浜市として保育園を開設する際には、その費用の4分の3を市から補助するので、27年から29年までに、保育園を開園してほしいということが、市の待機児童が多い地域を重点地区として、法人に呼びかけられた。私どもの保育園は、その要請に応えるべきかどうか討議したが、いつまでも無認可で園の経営を続けることは、子どもたちのためと保育士をはじめとした従業員の待遇のためにも良くないということ、さらに手厚い助成があるうちに対応したほうがよいということで、認可園開設に応募することを決めた。
そして多方面に協力を呼び掛けて保育園を建設するための土地探しを行ったところ、現在の園から10分余り、京急線井土ヶ谷駅から7分ほどのところに土地を持っていた大地主の方から、保育園なら園舎を建てて貸してもよいという申し出があった。そこは、60人か70人定員くらいの中規模園ならOK という広さの静かな住宅地で、すぐ前に子どもたちが遊ぶにちょうどよくて、運動会ができる程度の公園もあった。そこで直ちに認可園の申請書類を提出したところ、27年1月に許可され、4月から園舎の建築に着手した。一方これまでの無認可園は0歳から2歳の子どもたちが対象の園舎であり、人数も30人以上は無理な広さであるため、このまま経営を続けるか、廃園とするかを理事会で討議した。
するとちょうどそのころ、国から小規模保育事業として、小さな保育園を認可するので、開園してほしいという呼びかけがあった。小規模保育事業の保育園というのは、定員が最大19人で、0歳から2歳までの子どもたちが対象である。認可保育園の場合、設置を義務づけられている多目的トイレなどは必要ないので、現在の園舎を増改築はせずともそのまま使える。したがって園舎はOK、しかもこれまで働いていた無資格の保育士も助成金は少なくなるが、継続雇用してかまわないとのことだったので、ここで小規模事業の認可を受けたほうが経営は安定すると判断し、開園の申請をすることにした。これは簡単に認められ、認可園(以下「永田園」と記述する)の開園と同時(平成28年4月)に小規模事業保育園(以下「共同園」と記述する)も開園の運びとなった。
新しい2園を開園へ
NPO法人は永田園が平成27年1月に、共同園は同年2月に認可の申請を許可されたため、両園とも翌年4月の開園に向けて動き出した。同時に2園を開園するのは初めての経験であり、保育対象の子どもたちの定員も永田園66名、共同園18名で、合わせるとこれまでの3倍近い。保育士をはじめとした職員の数も3倍必要となった。しかし予想していたことではあるが、募集をかけても集まらず、苦労した。折しも保育士不足はピークに達していた。
一方、永田園の園舎の建築が7月ごろから開始された。建物の建屋の部分は地主であるオーナーが受け持つことになっていたが、内装は保育園側であった。
また建物を建築開始する前に、近隣の住民の方たちに保育園設立の趣旨を理解してもらうための会合を3回開催した。さらに建築工事を開始する直前には、10数軒のお宅を一軒一軒あいさつして回った。若干の苦情はあったが、最終的には納得してくれてほっとした。高齢のお年寄り世帯が多かったので、「子どもたちの元気な声を聞けるのは、ありがたい」というような声は数人から聞かれた。
再び理事長に就任
その年の9月6日、当時の加藤理事長が突然スキルス性の胃がんで入院してしまった。病状はステージ4だった。新しい保育園の設立業務はドンドン進んでいたので、NPO法人は園長とともに休みなく活動していた。そのため空席となった理事長を立てなければならなかった。誰にするかということになったが、当時仕事を持っていなかったのは、私だけだったので、致し方なく私が理事長を代行することになった。

それから翌年4月の開園まで、人・物・金 に関し、いろいろな作業があった。特に2園同時に開園というのは、初めての経験で、いろいろ難しいことがあった。最も大変だったのは、職員の配置で、これまで1園にいた職員を2園に分ける際に、園内の人間関係での問題が一気に噴き出し、収めるのに苦労した。その上不足している要員補充でツテを頼ったり、ハローワークや人材派遣を通じて集めたが、OKの返事をもらっていたのに、翌日には反故にされたりして、いやな思いをさせられた。
しかしなんとか平成28年4月には、規定の保育士をはじめとして他の職員も何とかそろい、無事開園することができた。そしてその年の6月のNPO法人の総会で、私は正式に理事長に就任した。前理事長の闘病生活は、その後1年続き、翌年5月に他界された。


開園一年目の苦闘
これまで先に認可を受けて開園している先輩保育園の経営者などから、「開園して1、2年は、大変苦しい思いをする」と聞かされていた。私は経済的に厳しいことになるのかと、バクゼンと思っていたが、私どもの園の場合、そうではなかった。実際、経済的には、認可園となり、無認可時代と比べて大幅に保育助成金が増えたため、以前ほど厳しい経営をしないで済んだ。大変だったのは職員の人間関係である。何しろあちらこちらから集まってきた保育士が予行練習なしにグループで初めて会う子どもたちを保育したのである。保育士は学んだ学校、その後働いてきた保育園でそれぞれの保育をしていたわけであるから、保育理論が異なり、統一するのがむずかしかった。それに人間の好き嫌いも加わるのであるから、大変だったわけ。保育室だけでなく、調理室でも栄養士と調理師のバトルがあったりして、1年目は落ち着いた運営ができなかった。これは両園の園長が保育士やその他の職員を上手に指導しながら、強い信頼関係を築くに至らなかったことによると思う。
永田園の園長は、独善的に采配を振るったため、1年目の秋には、「来年の3月には、辞めます」という保育士が数人、私のところに訴えてくる状況になってしまった。これでは組織がもたないと、私は園長と話し合いを進めたが、精神的に彼女は参ってしまい、11月末には辞表を出してきた。あまりに職員の信頼を失ってしまった状況だったので、理事会も即了解して、次年度から主任保育士を園長に昇格させ、一段落した。しかしこの園長の交代に関しては、横浜市に「3年間は園長を交代させない」ことを約束させられていたので、私は横浜市から厳しく注意され、詳しい報告書を提出させられた。
次に大変だったのは、新しい組織を動かしていくための規約の作成だった。無認可園の場合は、横浜市の助成金が多くなかったので、市の監査はそれほど厳しくなかったが、認可園となってからは、助成金が多いだけにいろいろな面で監査は厳しくなった。就業規則とか賃金規程程度の規約集だけではすまず、経理規程や物品管理規定などその他諸々の規程集を要求され、また必要であることも納得させられた。しかし新しい組織には当然あるべきものが備わっておらず、一つ一つ作成していかなければならない。実際ボランティアで成り立っている法人としては、これ等の規程類の作成にあたる要員確保が困難で、大体そのようなものを作成した経験のある人がいない有様だった。
NPO法人の保育園運営は、儲ける必要はなく、利益はもっぱら子どもたちの保育と従業員の処遇改善のために使っていき、お金をため込んではいけないことになっている。NPO法人の役員は全員ボランティアで、理事長,副理事長には、自分の時間を使うので、通信費・交通費程度の若干の手当てが出るだけである。
開園から2年3年は大した問題はなく推移した。しかし2園を運営していることの難しさは痛感させられた。両園とも待遇は全く同じにして、スムーズに人事異動や人のやりくりを容易にできるようにしたつもりであったが、2園が全く同一の園ではないので、比較をして不満が出やすく、職員の組み合わせでは、人間関係が難しかった。その上保育士不足は恒常的に続いており、待遇は勤続7年以上になると、プラス4万円アップする制度が横浜市として実施されたが、それでも世間の給与水準に比べると低いため、保育士は高姿勢で少し不満があると退職をチラつかせる始末だった。
横領事件発生
開園4年目を迎えた6月の初めに一つの事件が発覚した。税理士の報告によると、永田園の預金から3百万円が百万円ずつ3回に分けて勝手に引き出されていたというのだ。会計担当者に聞くと、理事長から給与の支払いが足りなくなるといけないので、引き出すように言われたという。しかしそんなことを私は言わないし、これまでそんな指示を出したこともない。すると2日ほどしてその金は預金口座に振り込まれていることが分かった。これはおかしいということで、横浜市の監査課に連絡したところ、そういえばこれまで監査の際に、領収書などに不審な点が若干見受けられたということで、私ども法人の役員は、市の監査課とは別に徹底的な調査を開始した。すると次々とおかしな処理が見つかってきたため、6月7月と2か月間、休み返上で調べ続けた。その結果、犯人は永田園の会計担当者であることが明確になった。その段階で彼を呼び出し、聞き出したところ、素直に犯行を認めた。しかし当初、どの程度の被害額かわからなかったが、調べを続けるうちに、彼が開園と同時に採用されてから、数か月後には早くもごまかし、着服を行っていることが分かった。以後3年間、税理士に内容チェックを任せ、私ども役員が経費の処理を見なかったことで、起きてしまった犯罪だった。各種の伝票、領収書、元帳などあらゆる帳票類を調査して横領額がまとまると、会計担当者を何度も呼び出して聞き取り調査を行ったが、結局彼はすべてを認めた。横領額は約740万円。ただ全額は返金できないという。そこで奥さんも呼び出して話をし、返済を促した。
実はこの夫婦は、当時二人とも57歳だったが、奥さんは若い時からずっとシステムエンジニアとして働いていて、子どもを私たちの保育園に預けていた。そのお子さんはすでに社会人で、彼女自身は10年以上、私たちNPO法人の理事として頑張ってくれた人なのである。そして新しく永田園が開園するときに「会計担当に夫を採用してほしい」と頼んできたのだ。当時は開園に向けて大勢の人を新規採用しなければならなかった。彼女自身多忙な中、大変まじめに理事として勤めてきてくれたし、ご主人は病気回復後失業していたので、私たちとしても彼女を助けることになればと思って採用した次第。したがって彼の人間性を全く疑っていなかったというのが、正直なところである。いま考えてみると、せめて経理のチェックシステムを作っていて、規則としてとにかく機械的にでもチェックしていたら、こんな事件は起きなかったと反省している。私をはじめとして園長や他の理事たちも経理に疎かったのが、最大の要因であったと思う。
そして横領されたお金は、結局、奥さんがもうすぐ定年なので、退職金を前借することで、返済された。幸い今回は、全額戻ったが、もし戻らなかった場合は、たとえ役員がボランティアであっても、責任を取って返済しなければならない。なぜならばこの横領されたお金は、市民の税金を横浜市が子どもたちのために、保育園へ助成金として支給したものであるから、返済はあくまでも子どもたちになされなければならないのだ。
この事件については、弁護士と税理士による第三者委員会を作ってすべて調査し、報告書も出してもらった。さらに園児たちの保護者には2回にわたって集まってもらい、説明し、謝罪した。そしてメディアにも報告書を配布したため、神奈川新聞とテレビ神奈川が報道した。しかし、その後、保護者や近隣からこの件について批判や、責任追及の声は聞かれなかった。 元会計担当は、懲戒解雇で一件落着というところだが、ケジメとして現在は地域の警察署に刑事告訴を行っている。
振り返ってみれば、諸々の事情はあったにせよ、最大の責任は、理事長であった私にあると思う。もし私に経理の経験があって、他人を信じやすい性格でなかったならば、この事件は起きなかったのではないか。しかしそれにしても、そういうことを防ぐために、きちんとしたチェックシステムを導入すべきであったと深く反省している。
常勤理事長誕生へ
一年後、やはりNPO法人の役員全員がボランティアで、片手間で二つの保育園を運営している形は、組織としてお粗末すぎると考え、何とか理事長だけでも常勤で働けるような方法はとれないものかと、横浜市に相談してみた。するとNPO法人としては、直接給与を払って職員を雇用することはできないという。しかしその人を保育園の職員として雇用し、保育園の仕事をしながら、NPO法人の役員となることは、構わないという回答を得た。そこで今年の総会において、もうすぐ80歳の私が理事長を退任し、最も若い男性の理事が現在の仕事を退職して、保育園の職員となり、なおかつNPO法人の理事長に就任してもらうということになった。ちょうど働き盛りで力量・意欲ともに兼ね備えた人材と巡り会えたことが大きく幸いした。これで長年考えてきたフルタイムの理事長を誕生させることができた。手前味噌ではあるが、小さな一歩として、NPO法人の組織強化が少し前進したと思う。
2020.9.15 完
2020年9月14日
元中部本社代表・佐々木宏人さん③
ある新聞記者の歩み 2
押し不足もあった。抜かれもした。しかし、“ガンクビ”集めに果敢にアタック。
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」2回目です。
https://note.com/smenjo/n/n9570fa63406c?fbclid=IwAR2D0QBMW-Q3PluqoTlAWAs4sjJPHB-ixz0ZH3gzOjmM-9_ipYgHw2Nct_8

1.水戸支局時代--新聞記者生活の原点(下)
「今回は失敗談もお話しようと思います。」
Q.それはまたどうしてですか?
「イケイケどんどんの自慢話ばかりでは、なんか出来のよい記者のように読者に思われても困りますから(笑)、失敗談も話した方がいいのかなと思いまして・・・。」
◆歴史的人物が近くにいたのに
1932年(昭和7年)の五・一五事件は、海軍の青年将校が犬養毅首相を「問答無用」と射殺した事件ですが、実は、同時に軍人数組のほか、水戸中学から一高を中退し水戸郊外で愛郷塾を主宰していた農本主義者・橘孝三郎率いる民間人・農民グループが行動に出ました。橘らがみな茨城県出身だったために、この2ヶ月前に起きた「血盟団事件で小沼正、菱沼五郎のテロリストを出したばかりの県民に大きなショックを与え、“水戸浪士”の伝統を継ぐ“水戸右翼”が全国的にクローズアップされた」と『茨城の明治百年』で佐々木宏人さんは書いています。
「橘孝三郎は、五・一五事件のときは東京の変電所を襲撃しました。私が「茨城の明治百年」の連載記事の執筆に当たっている時期は存命でした。70代半ばくらいだったでしょう。この人に会わなかったことが、実はいちばん悔いていることです。茨城で愛郷塾というのを結成して、農本主義に基づいて、昭和恐慌と東北の冷害で苦しむ農民の地位向上をめざしていた橘は、ドイツ哲学への造詣も深くクーデターの理論的中心人物のひとりでした。」
Q.どうして会えなかったのですか?
「僕は何度か会おうとしたんです。しかし、なぜ会えなかったか。それは私自身の弱さと、歴史認識への甘さでした。それを思い知らされたのは、のちに保阪正康さんの『五・一五事件―橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(1974年草思社刊、2019年ちくま文庫刊)という本を読んだからです。保阪さんは、実に何度も橘に手紙を出して、自分の考えを書いて、やっと会って話を聞いているんです。私にはそこまでやる強い気持ちが不足していました。保阪さんみたいにきちんと手紙を書いて、どうせ水戸にいたんだから毎日でも通って、何とか会って話を聞いておくべきだったなと。慚愧に堪えません。歴史的な問題についての立ち位置が専門家に比べて、新聞記者は弱いなあというのを、今にして感じてます。」
「悔いといえばもうひとつあります。血盟団事件の菱沼五郎(別名小幡五朗)です。三井財閥の団琢磨を暗殺した人で、戦後、小幡五朗の名前で茨城県の漁連の会長や県会議員を務めました。恐らく全国でテロ実行犯が県会議員をやっていたのは全国でも一人だけではなかった思いますが、県会議場で見かける小幡は実に温厚な老人で、とてもテロ犯という感じはしなかったですね。私は小幡に「当時の話を聞きたい」と面会を申し込んだのですが断られました。もっとしつこく当たるべきでしたが、1回であきらめてしまって押しが足りませんでした。そういう意味では、連載「茨城の明治百年」の記事は画竜点睛を欠くというか、まだ昭和史全体の重みを感じ取ってなかったと言えます。ただ保坂さんの本の巻末の参考文献に『茨城の明治百年』がリストアップされているのを見てうれしかったですね」
◆顔写真集めに苦心惨憺
「失敗談ではないのですが、事故や事件の犠牲者の顔写真の報道について言っておこうと思います。個人情報保護という観点では、現在ではとても考えられないことをやってたことになります。」
「殺人事件でも交通事故でも、何か死亡事故があれば必ず顔写真を入れるというのが当時の常識でした。「ガンクビ(顔写真のこと)はどうした!」という事件取材の際のデスクの言葉や、先輩記者の怒鳴り声は今でも忘れません。中には、本当かどうかわかりませんが、葬儀会場から飾ってある写真をかっぱらってきちゃったなんていう武勇伝も、事件記者の鑑(かがみ)として語られていました。記者はカメラにくっつける複写レンズというのを必ず持ってました。コピー機なんてありませんから、写真をそのまま接写するわけです。それで線香を上げて、「供養もありますので、ぜひ顔写真を紙面に載せて差し上げます」なんて調子のいいこと言って、アルバムを出してもらって選んで撮らせてもらうわけです。特に特ダネ的な事件の場合は、他社に渡さないためアルバムごと持ってきちゃう場合もありました。「貸してくださいって言って・・・。」
「今でも覚えてますが、茨城県の栃木県に隣接するところに御前山村というのがありました。今は、常陸太田市に編入されています。昭和41年3月11日の未明、群馬県みなかみ町の水上温泉に慰安旅行に行った、この村のタバコ耕作組合団体客のうち30人くらいが焼死したのです。おじいさん、おばあさん、それに働き盛りのお父さん、お母さんたちでした。宇都宮支局から連絡があって、早朝、飛び出して車で御前山村に向かいました。火災現場の水上温泉を取材しているのは管轄の宇都宮支局でしたが、御前山村は茨城県なので水戸支局に取材要請が来たわけです。」
「御前山村に車で向かうその途中、無線で住所、氏名などの情報をもらったりしてかけつけました。すると、山の方からたくさんの人が国道に降りてきて、情報を交換して話し合っている様子でした。そこへ新聞社の旗をつけて行ったので、みんな寄ってきまして、ひとりひとりが「名前が出てますか」などと必死の表情で聞いてくるんです。とにかく肉親が生きているか死んでるかの瀬戸際ですから。しかし、それはそれとして、紙面に犠牲者の写真を載せなくてはいけない。生前の人となりとか、どういう仕事をしていたかとか聞きながらも、顔写真が欲しくてしようがないわけです。するとアルバムを何冊も持ってきてくれるのです。「この人です」と教えてくれます。ほかの社に写真を取られては困るから「お預かりします」と言って、名刺を置いて持ってきちゃうました。まあ、後で返しましたがひどいことしたもんです。」
Q.結局何人くらい集めたのですか?
「結局29人位まで集めたかなあ。だけど1人だけ集めれられなくてデスクに怒られた覚えがあります。確か地元紙の茨城新聞は全員分を集めていました。そういうことで勝った負けたと言っていたんです。」
「もう一つ顔写真取りの記憶です。茨城県の南端の太平洋に面した波崎町(現・神栖市波崎)というところがあります。利根川の河口をはさんで向こう側は千葉県の銚子市です。波崎にも銚子から遠洋漁業に出る漁師たちがたくさんいました。ある時、太平洋の洋上で遭難事故が起きたことがあります。それで漁師さんの家に行って顔写真をもらおうとするのですが、「まだ死体があがってるわけでもない。縁起でもない、ふざけるな。」と気の荒い漁師に怒鳴られたりしました。」
「人の不幸につけこむような感じで、新聞記者は因果な商売だと思いましたよ。ただ、当時は、事故の悲惨さを伝えるとか、再発防止のために役に立つという大義名分があってやってたんだけど、その辺のところは、今とまったく違いましたね。当時はテレビ局も少なかったし、メディアスクラムなんてなかったし・・・。時代の流れで大きく変わりました。」
「最近の相模原のヤマユリ園事件、京都の京アニ事件などでの遺族の意向を尊重して顔写真を載せないケースを見るにつけ、時代は変わったと思いますね」
◆茨城大の学生運動でなぐられたり、赤軍派予備軍に会ったり
「写真と言えば、茨城大で学生になぐられたことを思い出します。昭和42年(1967年)茨城大でも学生運動が燃えさかってバリケードストライキを取材していたのですが、学生に殴られてカメラが壊れたことがありました。学生たちの言い争いをしている様子を写真に撮ったのだったのだと思います。なぐってきたのは全共闘と対立する右派の学生でした。その一件は私が記事を書いて、毎日の茨城県版の「本紙記者暴行を受ける」という記事になりました。」
「暴力はだめだよと殴った学生をこんこんと説諭したことを覚えています。水戸警察署は立件する気は全然ありませんでした。全共闘側だったら別だったかもしれないけど。そのうちの1人はのちに県警本部に入ったって聞きました。権力側は体制側には甘いんだなと身をもって体験しました。」
「写真の話からそれますが、その茨城大の全共闘には、のちに赤軍派に加わる松田久がいました。今でも指名手配されています。もう70歳を超えていると思います。1975年、赤軍派がマレーシアのクアラルンプールで米大使館、スウェーデン大使館で人質に取る事件を起こした際、政府は要求に屈して国内の赤軍派の服役拘留のメンバーを解放しますね。そのとき、松田久は1971年赤軍派の資金集めの銀行襲撃事件で逮捕され懲役10年の刑を受け、収監中でした。彼も解放され、リビアに渡ったといわれています。」
「私は、松田らと何度も話したことがあります。学生運動を始めたころは、真面目な田舎の学生という感じだったのだけど、しばらくして、目つきがまったく違って人間が変わった印象を持ったことがあります。そのときは立てこもりに加わった頃で、赤軍派にすでに入っていたかどうかはわかりません。ブル新だといって、相手にされませんでしたよ。今もおそらく海外にいるんだと思うけど、交番に指名手配のポスターが貼ってありますね。茨城大で会ってからもう50年以上。先日彼の現在(72才)を想像した手配写真が公開されましたが、ウーン、そういう彼の人生の一断面を見たなという感慨があります。」
「ただやはり60年代安保騒動の真っただ中で育ち、新聞記者生活を送り始めた世代の一人として、純粋に主義主張に生きている連中に出会えたことは、人間の生き方にはいろいろあるんだという事を知る上で、幸運だったと思います。 同級生にも東大全共闘に入り、安田講堂に籠城して逮捕された仲間もいます。大学の同じクラスのメンバーが革マル派にオルグされ、行方不明になった人もいます。ホントあの時代は、何が起きても不思議ではない時代でしたね」
「公安調査庁とか水戸署の警備だとかは、新聞記者から情報を取ろうとしていました。そういう連中とも会っていろいろ話しましたが、話し方とか情報の取り方がけっこううまくて、おもしろい経験ではありました。支局のデスクからはあんまりつき合うなと釘を刺されましたが・・・。新聞社の内部ではそういう学生運動の活動家、共産党との関係などに注意を払っていて、入社の際の”身体検査”で調べられたような形跡はありましたね」
◆黒い霧事件で見た政治家の生態
「水戸支局で体験した事件で忘れられない事件の一つに『県会議長選を巡る黒い霧事件』があります。これも苦い思い出の失敗談です。」
「1966年(昭和41年)に起きた事件で、当時中央政界では田中彰治衆院議員の議会の質問をタネにした恐喝まがい事件や、東京都議会の議長選を巡る贈収賄事件などが頻発した上に、衆院の「黒い霧解散」などがあって”黒い霧”というのは流行語でした。この中で、茨城県議会で当時の県会議長・飯沼泉が短期で辞める約束だったのに居座って、彼を押した自民党県議からやめろコールが起きました。これに対し飯沼議長が「議長になるには経済的負担がかかった」と言い出して、大騒ぎになって贈収賄事件に発展しました。」
「結局県議20人が連座・逮捕され、県議会は解散しました。当時私はサツ回りで水戸地検も担当していましたので、担当検事には割と食い込んでいましたから、取材には自信を持っていました。ところが、連日、地元紙の茨城新聞に抜かれっぱなしで参りました。地元紙の警察や検察への食い込みは、とても新人記者には太刀打ちできませんでした。」
「ただ出直し選挙では獄中から立候補して当選したり、のちに国会議員になった人もいて。地方政治の在り方を本当に考えさせられました。自民党の幹事長にもなる梶山静六も事件に関係していたといわれましたが、逮捕は免れました。政治部時代、梶山氏を見かけるたびに政治家の運・不運を感じたものです。」(以上)
2020年9月11日
95歳の誕生日を迎えた牧内節男さん
社会部旧友、元社会部長の牧内節男さんは、8月31日に95歳の誕生日を迎えた。 牧内さんは、インターネット上にブログ「銀座一丁目新聞」http://ginnews.whoselab.com/を持ち、10日に1回、4本の原稿を更新するとともに、「銀座展望台」を毎日アップしている。
9月10日号には、「95歳」に関連する記事を書いている。100歳、センテナリアンを目標にブログを更新続けることを表明している。以下にその心意気を——。

95歳というのは節目の年齢と見えて誕生日には女性5人、男性5人から誕生日カードやプレゼントいただいた。感謝のほかはない。
後5年は生きようという目標もできた。「有終の美」を目指して書くことにしよう。
「バラの香や秘められた謎我悟る」悠々
◇
100歳を目標にした。毎朝「南無阿弥陀仏」を数回口ずさむ。心が落ち着く。あと冷水摩擦と柔軟体操をするのが日課である。一日心の欲するままに楽しく過ごすことにしている。
書くことが生きがいなので「銀座一丁目新聞」は続けていく。今、読書は藤沢周平の時代小説にはまっている。
◇
私は悟る。人は死ぬまで「快挙の旗」を立てるべきだと。「萎えた心では進めない。
うつむいていては先が探せない。嘆いていては歌えない」。
老子の言う通リ「人の命我にあり」である。
◇
その前段にこうある。
《長生きの秘訣の一つは「良き友達を持つ」ことであろう。作詞家の阿久悠を知ったことである。当時の(スポニチ)編集局長の紹介であった。ゴルフも一緒にした。阿久悠さんから巧まずして教えられることが多かった》
《スポニチ後援で、現日本山岳協会の会長八木原圀明氏、副会長尾形好雄氏が1993年(平成5年)12月18日、冬季のサガルマータ(エベレスト・8848メートル)に南西壁から初めて登頂に成功した。当時、群馬山岳連盟に所属するサガルマータ登山隊長と登頂隊長。
翌平成6年1月元旦号のスポニチの一面に、サガルマータ頂上に翩翻と翻るスポニチ旗を持つ2人の登山隊員の写真とともに、「快挙の旗」の見出しで阿久悠さんの「きっとことしは」の歌が紹介された》
思いうかべてみるがいい
それがどれほど凄いことか
8848メートル
サガルマータの頂上で
天のうたを聴き
地の声を心によみがえらせることが
◇
私が社会部長であったのは昭和51年3月から昭和52年2月までわずか1年である。論説委員の時、同期生の編集局長(注:平野勇夫さん)に「ロッキード事件をやってくれないか」と頼まれて引き受けた。それよりも社会部のデスクを4年努め「鬼軍曹」と言われた。
◇
あとはブログを読んでください。
ともかく元気な95歳です。
(堤 哲)
2020年8月31日
元中部本社代表・佐々木宏人さん①
1965(昭和40)年入社の佐々木宏人さん(78歳)の記者生活のすべてをメディア研究者の校條諭さんが聞き書きしてネットにアップしている。
https://note.com/smenjo/n/n755f8c6a414e
(原文はこのURLをクリックすれば読めます)
以下は第1回、「はじめに」
◆真夏の教会ミサ
2020年8月16日、横浜市のカトリック保土ケ谷教会の主日(日曜日)のミサがYouTubeで中継され、元毎日新聞記者でカトリック信者の佐々木宏人さんがパソコンの画面に見入っていました。
アダム神父が冒頭、この日の記念ミサの意義を説明し、その中で佐々木さんが2018年に出版した『封印された殉教』(フリープレス刊)を手にとって掲げました。アダム神父は「著者の佐々木宏人さんは、長年かけて取材をされてこの本をお出しになりました。平和の使徒としての戸田帯刀(たてわき)神父様のことを、何とか忘れないでほしいという願いがあったと思います。」と語りました。
1945年(昭和20年)8月18日、つまり終戦の日の3日後に、この保土ケ谷教会で戸田帯刀神父(事件当時横浜教区長)が何者かに暗殺されました。その歿後75年の記念ミサでした。誰が何のためにやったのか。そもそもこの事件の存在自体が長きに渡って知られなかったのはなぜか。謎があまりにも多いこの事件について、カトリック信者として佐々木さんは一種の使命感をもって取材に取り組みました。
佐々木さんが普段通うのは自宅から近い東京杉並の荻窪教会ですが、パソコンを通じて聞く神父の言葉に、新聞社の退職後およそ10年をかけて取材にあたった苦労のことが脳裏に浮かび、こみあげてくるものがあったといいます。

◆「新聞記者佐々木宏人」との出会い
私が初めて佐々木宏人さんの講話を聞いたのは2019年6月のことでした。毎日新聞東京本社内の毎日メディアカフェで、佐々木さんが「神父射殺事件を取材して見えてきたもの」と題して話したのでした。毎日メディアカフェでは、コロナ禍に見舞われる前までは、毎週のようにセミナーが開催されていました。
毎日メディアカフェで聞いた佐々木さんの話はたいへん興味深いものでしたが、それ以上に私は「佐々木宏人」という人そのものに関心を持ったのでした。セミナーのあとの懇親会で言葉を交わす機会を得た上に、たまたま自宅が近く、同じ駅が最寄り駅であることもあって、お開きのあといっしょに帰りました。その後も何度かお会いする機会があり、私はこの人の記者人生を詳しく聞いてみたいという欲求を持つようになりました。一人の記者の足跡をたどるというのは、メディア研究の方法論として意義深いという確信がありました。一人の人の連綿と続く記者生活を通して、時代時代のメディアのありようや社会の実像が見えてもくるだろうと期待しました。
◆Zoomで連続インタビュー
幸い快諾をいただいたのですが、当初は、会議室とか喫茶店で会って話を聞こうと思っていました。ところが、折悪しくコロナ禍に見舞われることになって、お互いの自宅をつないでZoomで話を聞いたらどうかと思いついたのです。これが実に瓢箪から駒で、喫茶店などで会うよりもよほどやりやすいということがわかりました。わざわざどこかに足を運んでもらう必要もないし、顔をみながら心おきなく話ができます。パソコンに入っている資料はすぐに双方で共有できるし、何かの本を参照したいとなったときにも書棚から取りだして手元に持ってこられます。録画が簡単にできるのも助かります。こうして、週1回約2時間のペースでこれまでに15回ほど話を聞いてきてなお数回続きそうです。
◆毎日新聞を勤め上げ、その後も記者として生きる
佐々木宏人さんは、昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃から2ヶ月半ほどさかのぼる9月25日、父親の出征中、東京から疎開中の母の実家の北海道釧路市で生まれました。その後、終戦まで4年ほど釧路で乳幼児期を過ごしました。終戦の1ヶ月前、釧路は空襲を受けています。まだ4歳にもなってなかったのですが、避難した蔵の中での記憶が残っているといいます。それほど強烈な経験だったのでしょう。
戦後は主として東京杉並に住み、1965年(昭和40年)に早大政経学部を卒業、毎日新聞社に入りました。
入社前年は東京オリンピックが開催された年でした。ベトナム戦争が泥沼化し、日本国内では60年安保条約改正反対運動が燃え盛り、学生運動も日本中の大学を席捲していました。高校の同級生の中には1969年の東大全共闘で安田講堂に立てこもり逮捕された人もいました。各地の公害問題が火を噴き、新聞自体が社会の指針の中心的存在で、大学生の就職希望リストのベストテンに常に朝日、毎日新聞は入っていたと思います。その社会の新聞への期待が熱い時代に入社しました。
まず水戸支局に配属されて5年間過ごし、記者としての基本を身につけました。1970年(昭和45年)からは経済部や政治部に所属、エネルギー分野を主対象に、通産省担当として第一次石油ショック、高度成長期の日本経済の最前線を取材しました。さらにその後、バブルの進行とその崩壊時代、失われた20年の時代にも経済部記者、政治部記者として立ち会いました。
2001年(平成13年)に同社を退職するまで36年間毎日新聞社に在籍したことになります。そのすべての期間記者職であったわけではないのですが、組合委員長や、甲府支局長、経済部長という第一線を経て、広告局長、中部本社代表を経験した時期も含めて、佐々木さんは記者という意識を持ち続けてきました。
それどころか、佐々木さんは退職して自由の身になった後も記者であり続けたと言っていいでしょう。佐々木さんが、冒頭紹介した教会の記念ミサで神父が掲げた本『封印された殉教(上・下)』を出版したのは、退職後17年ほど経った76歳のことです。実際、約10年の年月をかけ各地を歩き回り、多くの人に会って取材を重ねるという文字通りの記者としての取り組みをしてきました。それが上下合わせて800ページ以上に及ぶノンフィクションとして結実しました。
このあと、入社直後の水戸支局時代を皮切りに、経済部、政治部などでの経験を中心に、記者としての歩みを連載で辿っていくことにします。(校條諭)

佐々木宏人氏略歴
1941年、北海道釧路市生まれ。65年早稲田大学政治経済学部卒、毎日新聞社入社。水戸支局、経済部、政治部記者を経て、85年甲府支局長。在任中戸田師射殺事件を知る。
91年経済部長、広告局長、役員待遇中部本社代表、㈱メガポート放送専務、2001年毎日新聞社退社。(株)チャンネル常務などを経て2010年より『封印された殉教』を執筆。
現在NPO法人ネットジャーナリスト協会事務局長。
著書『封印された殉教(上・下)』(フリープレス、2018年)
共著『茨城の明治百年』(毎日新聞社茨城支局、1968年)、『当世物価百態』(毎日新聞社、1976年)、『岐路に立つ中国市場』(Japan Times社、1995年)、『トップが語る21世紀のITと経営革命』(日経BP社、1998年)
筆者・校條諭(めんじょう・さとし)さんの略歴
メディア研究者。1948年神奈川県生まれ。東北大学理学部卒。1973年野村総合研究所入社。同社及び、ぴあ総合研究所で情報社会、メディア産業、消費者行動などの調査研究に従事。1997年ネットビジネスで起業し、ネットコミュニティのサービスを開発、提供。
現在、ネットラーニングホールディングス社外取締役。NPO法人みんなの元気学校代表理事ほか。
著書『ニュースメディア進化論』(インプレスR&D、2019年)、編著書『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年)、共著多数
2020年8月31日
元中部本社代表・佐々木宏人さん②
ある新聞記者の歩み 1
https://note.com/smenjo/n/n18924f4154c8
(原文はこのURLをクリックすれば読めます)
サツ回りも苦じゃない、体当たり新人時代
1.水戸支局時代--新聞記者生活の原点 (上)
◆上り坂の時代に入社
——佐々木宏人さんが毎日新聞社に入社したのは昭和40年(1965年)。受験者およそ3千人から100人位が選ばれた一人として入社しました。
「同期生には後に社長になる北村正任君、都知事選に立候補したニュースキャスター鳥越俊太郎君などがいました。」
——昭和40年と言えば、東京オリンピック開催の翌年で「40年不況」と呼ばれる景気後退の年でした。しかし、佐々木さん自身はその影響を特に感じることはなかったようです。
「むしろ日本は高度経済成長の坂を登る途上でした。毎日新聞も朝日と並ぶ昇り竜でした。」
「当時の東京本社は、今の竹橋のパレスサイドビルではなく、有楽町駅前にあった古いビルです。向かいには読売新聞、線路をはさんだ反対側には朝日新聞社がありました。本社内を見学した際、外信部長の席にいた大森実さんの姿を印象深く覚えています。大森さんは当時、ベトナム戦争報道で毎日の名を内外にとどろかせていました。大阪の社会部出身で、“書斎派”文化だった外信部に現場取材の手法を持ち込んで、スクープを連発していました。」
◆最後の伝書鳩
「新入社員の社内見学で強烈に印象に残るのは、旧東京本社ビルの9階に伝書鳩が飼われていたことです。通信の発達が十分でない時代、現地からの速報のために帰巣本能を持つ伝書鳩が活用されていたのです。私の先輩は、「毎日の鳩は朝日の鳩より優秀なんだぞ」と言ってました。」
「1953(昭和28)年3月30日、昭和天皇の名代として皇太子殿下(現上皇陛下)がイギリスのエリザベス女王の戴冠式に出席するため、客船プレジデント・ウィルソン号に乗船して横浜港を出発しました。そのとき同行した報道各社は、出港から2日目に、船上の皇太子殿下を写したフィルムを鳩につけて飛ばしたのです。」
「発信地点は八丈島付近だったようです。そのとき、毎日の鳩は無事に着いたのですが、朝日の鳩は着かなかったというのが先輩の話だったわけです。もっとも、毎日の鳩も直接東京まで戻ったわけではなく、途中航行中の貨物船に舞い降りて保護されたということのようです。」
実は、毎日新聞で鳩が飼われていたのは、佐々木さんが入社した年までであり、佐々木さんは屋上の鳩舎を見た最後の新入社員だったことになります。 注)「1960年代まで数百羽の「伝書鳩」が新聞社で活躍していた」(文春オンライン2018/10/14)
◆水戸支局で新人時代
「今でもおおむねそうですが、全国紙の場合、新人は全国の支局に配属されました。私が配属されたのは茨城県の水戸支局でした。昭和40年(1965年)4月からまる5年間水戸で過ごしました。」
「当時、給料も基準外を入れると3万円程度で、県庁の課長クラスと大差ない感じだった思います。朝日に次いで読売新聞より上だったことを思い出します。その後、アッという間に抜かれましたが。」
——新聞社の支局というと、夜討ち朝駆けやら先輩のしごきやらでタコ部屋のようなイメージで語られることがしばしばでした。刑事の自宅に張り付いたりして、新しい情報やとっておきの情報を聞き出すような取材方法のことを言います。最近は夜討ちではなく夜回りと言うようです。
「私は夜討ち朝駆けもそれほど苦痛ではありませんでした。何しろまだ戦後15年しかたっていない頃でしたから、水戸支局の支局長やデスクは軍隊帰りということもあって、よく怒鳴ったりすることがあったのですが、私にはタコ部屋というイメージはあまりなかったですし、支局生活にはむしろなじんでいたと言えます。人間関係も悪くなく、特に他社の記者仲間とは仲良くつき合っていましたよ。よくいっしょに飲んだものです。」
◆人間社会の甘辛を実感
「私と同期で一緒にサツ回りをしていた某社の東大出身の記者が、支局長から県内通信部への転勤の内示を受けたのですが、それを拒否して自殺したことがあります。支局長が鳥見町という花柳界の芸者とねんごろになったのを批判して、転勤命令が出たと評判でした。自殺を知った日の夜、私は「企業社会には本当に理不尽なことが、まかり通る」と実感して、飲み屋でやるせなく痛飲して、最後は泣きながらその二階に運び込まれ寝たことを記憶しています。今でいうパワハラ、理不尽なことが企業社会の中でまかり通っていた時代でした。」
「繁華街から離れた住宅街の中に「葵」という店があって、40過ぎのママがいて、たまり場になっていました。みんな「おばちゃん」と呼んでました。各社の記者が集まってよく飲みました。私は「ヒロ坊」とかわいがってもらいました。県警本部の人も来たりしていました。2015年ころか、おばちゃんが亡くなった時には、往年の記者が水戸に集まりしのぶ会をしました。おばちゃんには、東京での私の結婚式(1976年)にも出てもらいました。店を畳んでからも何回か夫婦で訪ねたことがありました。今も寝室にはおばちゃんが『私の形見よ』と言ってくれた、こけしのようなイエスを抱いたマリア像があります。」
◆サツ回りも苦ではなく
「寮から支局にはバスで9時くらいまでに出勤して、管内の警電(警察電話)に電話するのが決まった行動でした。そして10時頃になると、副署長の席に行きます。机の上に広報の資料があって、それを副署長の席の前にある電話で、支局宛に読み上げて吹き込んでいました。当時、ある社の記者が、被害者と加害者(容疑者)の名前を取り違えて送ってしまって、そのまま紙面に載ってしまって大騒ぎになったことがありました。」
「最初の1ヶ月は、1年上の先輩、つまり昭和39年入社の記者に、金魚の糞のようにくっついて回りました。その後はだいたい各社の記者がつるんで回るのです。その中には、昨今週刊誌で熱心に朝日叩きをして名前を売っている他社の記者もいました。朝回りは、警察と交番。駅前と、繁華街の大工町の交番には必ず行きました。」
「新人時代の2,3年はサツ回りが中心でした。ただし、警察そのものだけでなく、地検や県庁なども関連の組織として含まれます。」
「現場に行くことはしょっちゅうでした。何せ支局の隣が「水戸警察署」。サイレンをならしたパトカーが出ると、すぐ警察に電話します。「○○で重傷の交通事故」、「○○町で火災」とわかると、原稿を書いていても「早く行け」とデスクにどやされるのです。」
「初期の頃、交通事故の現場に行って、倒れている人に近づいて見ようとしたら、飛び散った脳みそを踏みつけて警官にどなられたことを思い出します。大洗海岸とか那珂川での水死の現場も見ました。あるときは、母親が半狂乱になって「目さまして!」と遺体をひっぱたいていました。水死体は水を飲んでいるのでたいて腹がふくらんでいます。火事場の焼死体の中には、丸裸で火ぶくれがして髪がつるんとなくなっている人もいました。」
◆「権力は隠す」を知る
「サツ回りで思い出すのは、裁判所も担当していたのです。ある日、公判廷のある二階の法廷の前に裁判名が書いてある名札がかかっていました。『特別公務員暴行陵虐罪事件』というもので、初めて見る名前でした。ほとんどの県内の事件は、起訴の段階で大体事件名は知っているつもりでしたから、おかしいと思い法廷内に入っていくと検察官と裁判長が“まずいな―”という目配せをしました。起訴状が読み上げられてビックリしました。土浦刑務所の看守が女囚を房内で暴行した事件でした。慌てて支局の戻り原稿にしました。特ダネでした。権力は自分の都合の悪いことは隠すんだ―という事を身をもって知りました。」
「3年生ないし4年生になると、県庁や市役所の行政を担当するようになりました。」
◆原発草創期に立ち会う
「サツ回りと兼務で日本原子力発電の取材を担当したことがありました。動燃、動力炉核燃料開発事業団は、現在青森県下北半島の六ヶ所村にある再処理工場を、大洗の水戸射爆場を移転したあとにつくろうとしていました。水戸から車で30分程度離れた日本原子力発電の東海発電所というのがあって、日本で最初のコールダーホール型という原子力発電を手がけていました。はじめて原子の灯がともったわけです。私が毎日に入る前の1963年(昭和38年)だったかな。」
「あるとき、東海発電所の職員が作業服を脱がないで町に出てしまったことがありました。それを記事にしたところ、デスクが本紙に送って、社会面トップに載りました。その記事の見出しは「放射能男 町を行く」でした。ただし、当時、反原発の機運は特に無く、いわば反放射能だったと言えます。」
「原発の取材は、支局の運転手付きの車に乗って出かけました。支局の運転手は1人で、書類の運搬などの雑用もこなしていた。新人でも運転手に依頼できます。広い茨城県の取材には車が必須です。」
「車と言えば、世論調査のことを思い出します。世論調査を実施する場合、調査員として学生アルバイトを雇うのですが、一部は記者もやっていました。あるとき私が担当して車に乗って行ったのは現在筑波学園都市がある地域でした。当時は本当の山村というイメージで、隣の家までが500メートルも離れているようなところで、調査はたいへんでした。」

◆支局の出版「茨城の明治百年」の半分を執筆
「支局時代の経験はいずれもその後の記者生活の原点となるものでしたが、その中でもよい経験をしたと思えるのは「茨城の明治百年」という企画に加わったことです。この企画は、全国の支局ごとに各県の明治百年を振り返る趣向でした。茨城の記録は昭和43年(1968年)に1冊の本として出版されました。毎日新聞の出版局の発行ではなく、水戸支局の発行です。この本の半分くらいを執筆していた記者が東京に転勤になり、私がそのあとの半分を書きました。」
*巻末に書かれている執筆陣の中には佐々木さんの名前があるのですが、本文の各項目に筆者名が書かれていないのが残念です。
「昭和初期は五・一五事件に代表されるテロの時代でした。私は小沼正という元テロリストの水戸市内の自宅を訪ねて取材しました。小沼は昭和7年(1932年)2月、前蔵相で民政党の筆頭総務だった井上準之助をピストルで射殺した人です。小沼は、私心からやったのではなく、国家のためにやむをえなかったのだと語りました。床の間に井上準之助の位牌を飾り『毎朝お経を上げている』と言うのが印象的でした。」
「翌3月には、三井財閥の三井合名理事長の団琢磨が暗殺されました。血盟団事件と呼ばれたこれらのテロ事件の首謀者は井上日召という人物でした。水戸は尊王攘夷の幕末から明治維新にかけての天皇中心のイデオロギーの中心とみられていました。霞ヶ浦には海軍の航空隊もあり“昭和維新”の中心地ともいわれていました。このため井上は茨城県大洗の護国堂に将校らを集めて国家改造計画の同志を募りました。政界の腐敗や農村の困窮ぶりなどの状況から、乱れた世の中はいったん破壊しなくてはならないという急進的な考えにたどりついたのです。」
◆歴史の証言者に出会えた幸運
「私は、本の執筆にあたって、ずいぶん多くの人に会って話を聞きましたよ。私の担当部分は大正および昭和だったので、まだ証言を聞ける人が健在で幸いでした。もちろん、図書館の資料を探索したり、茨城大の歴史学の先生に教えてもらったりもしました。」
「当時は知らなかったのですが、昭和史の勉強で茨城大学の近現代史研究の木戸田四郎教授のところに行くと塙作楽(はなわさくら)という方がおられました。あまりしゃべらない、好々爺という感じの方で歴史好きのおじさんとみていました。しかし東京に戻り何かの折に塙さんのことを聞いてびっくりしたことがあります。塙さんは、岩波書店の有名な編集者で『世界』の編集などに携わり、岩波文化人=進歩的文化人の間では知らない人はいないほどの有名人で、岩波の労組の委員長までやられた方だというのです。若い頃にそのようなレベルの高い研究者にお目にかかれたのはとても幸運なことだったと思います。」
◆後年のライフワークの原点
「刊行された本は、県庁など県内の関係各方面に直接まとめて販売して約1万部が売れました。新潟出身のU支局長(注:K支局長の誤り、上村博美氏)のことを私は、密かに“小型角栄”と呼んでいました。その支局長が陣頭指揮を執って各地の通信部などを督促して販売に力を入れたのです。県内だけの出版物としては異例のベストセラーと言えます。」
「支局長のはからいで、当時、その売上をもとに、支局員全員がダブルの礼服を買ってもらいました。東京に来てからもこの礼服には冠婚葬祭で重宝しました。支局主催の事業の収益金などについては、その行方についてとかくのうわさが立つものです。お金のことでは、このあたりの経験が後年の甲府支局長時代の「別刷り」の販売などに役立ったと思います。」
「支局時代にこの明治百年の企画に取り組んで、人に会って話をじっくり聞いたり資料を読み込んで長い文章を書くという経験を持ったことが、後年『封印された殉教(上・下)』(2018年、フリープレス)という長編ノンフィクションをものにする素地になったと思います。特に民衆の側に立って歴史を書くというスタンスを木戸田先生、塙作楽さんなどに教えていただいたと思います。大正、昭和史の近現代史の勉強をタダでさせてもらったことは本当にありがたかったですね。」
——後年といっても、大部の本の刊行は毎日を退職した後の70代になってからのことですから驚きです。
2020年8月27日
「水を融通する」出版 元西部本社編集局次長、市川喜男さん
毎日新聞2020年8月27日 福岡都市圏版

北九州市の水が福岡都市圏につながった背景を描いた「水を融通する~水ほとばしる」を元毎日新聞西部本社編集局次長、市川喜男さん(89)=宗像市=が今夏出版した。
1963年の5市合併後、北九州市はしばしば渇水に見舞われ、水源の確保は緊急の課題だった。故・谷伍平市長の時代から大分県を含め周辺市町との協議、導水管の敷設に努め、後を継いだ末吉興一前市長も水源確保の取り組みを続けた。
だが、この間に北九州市内の工場は撤退が続き、人口も減少、水需要は減り始めた。そこで、人口増加で水不足の心配がある福岡都市圏への水供給の構想が持ち上がった。
2011年、47キロの「北部福岡緊急連絡管」が完成、災害時に北九州市と福岡市など17市町の福岡都市圏とが相互に水を融通し合う設備が整った。平時も北九州市から宗像、福津、古賀の3市、新宮町に連絡管を使って水が供給されている。
この間の経過と背景を市川さんが事業を担当した水道局幹部らに話を聞いてまとめた。「政令市同士が水を融通し合うのは画期的なこと。水は高きより低きに流れるように、都市間で融通し合うのは自然なことでもある」と市川さんは話す。
四六判で235ページ。1430円(送料別)。希望者は「櫻の森通信社」へ名前、住所、電話番号を書いてファクス(093・967・7058)で申し込みを。【松田幸三】
2020年8月24日
第二の人生 思いがけずボランティアに(その1)

毎日新聞社を55歳で繰り上げ定年してから、早くもあと数か月で四半世紀25年にもなる。確かに私はもうすぐ80歳になるのだから、当然ではあります。そんなに長い間、一体私は何をしていたのか?
まず、本社を繰り定(1995年平成7年12月末)後は、すぐにスポーツニッポン新聞社で特別嘱託として働いた。そこでは主に読者調査を思いきりやらせていただいた。いつまで働くという明確な雇用期限はなかったが、ちょうど私が60歳になる直前、スポニチの役員会において嘱託の定年が60歳に決まったとかで、私は60歳の誕生日の前日2000年(平成12年12月末)に退職し、家に入った。
その後しばらくして、横浜関内の毎日横浜販売センターに呼ばれ、1年半ほどアルバイトとしてパソコンの仕事をしたが、本社から社員が異動してくるからという理由で突然解雇された。
一時何も仕事がなくて少し不安定な気分だったが、突然池袋に住んでいた次女から電話があって「私、横浜の家で子供を育てたい」と言ってきた。私は娘夫婦と同居するなんて考えてもいなかったが、娘の連れ合いもそれを希望していると聞き、本当に仕方なく承知した。彼らはかねがね東京で子どもを預けて働ける保育園と住まいを探しているが、なかなか見つからないとは聞いていた。しかしこの決定は私を長いこと孫に縛り付ける結果になった。2005年(平成17年)2月に娘は池袋で出産し、産院を退院すると赤ん坊とともに、そのままタクシーで横浜の私の家へ帰ってきてしまった。それ以来娘のファミリーは私のところに居るわけである。その時生まれた孫は現在15歳(高校一年)になり、次に生まれた孫は12歳(六年生)になる。娘のファミリーを引き取ってから3年後に、隣に住んでいた夫の母に介護が必要となったため、私の家に引き取り1年半ほど寝たきりになった母の面倒を見た。同時に隣の母の家に娘のファミリーを転居させはしたが、孫の面倒をみることに変わりはなく、この間私は多忙でしっちゃかめっちゃかの毎日だった。
上の孫が生まれたころ、横浜では、乳児を認可保育園に入れるのは、定員が少ないので大変難しいと聞いていた。そこで私は、致し方なく、私自身がかつて孫の母親である娘を預けた無認可保育園の園長先生に連絡をとってみたところ、運よく乳児の定員に空きがあるということで、娘の育児休業明けから、生後8か月の孫を入れてもらえることになった。しかしその直後、園長先生から電話があり、話は変って、私にNPO法人の理事長を引き受けてほしいというのである。無認可の保育園を行政から補助がたくさん出る認可園にするためには、経営組織が法人でないと申請することができないとのことなのだ。そこで是非ともNPO法人を立ち上げたいのだが、理事長候補がいなくて困っているという話だった。その時の園長先生の説得の言葉は、今でも忘れない。「理事長は1年に3日出てくださればよいのです」と言ったのである。私はとっさに要するに「お飾り理事長」でよいということかと早飲み込みし、同時に私が仕事を続けられたのは、保育園のお陰なのだから、ちょっとこの際「恩返し」をするかと言った軽い気持ちで引き受けてしまった。しかし今にして思えば、園長先生もちょっと調子良すぎたなと思うが、私もオッチョコチョイの極みで、よく考えて調べもせずに引き受けてしまったと以後反省してもしきれないのである。実際1か月はおろか、1週間に3,4日出勤することはざらで、しかもボランティアなのだから、いろいろ大変な面もあった。
ここでこの保育園の組織的な成り立ちを説明すると、今より約50年前、地域に保育園がなかったため、必要に迫られたこの地の母親たちが集まって共同で保育園を作ったわけである。役員約10名はボランティアで、人件費はかからず、利益を上げることは目的としていないので、経営目標が厳しいわけではない。しかし行政の補助が少ない無認可園の経営は、保育園職員の人件費を低く抑えなければならず、一方で子ども達に対する保育の質は、認可園より低いものであってはならない。否、むしろこの保育園は、横浜市の中で良い保育をしているとの定評さえある。そんなわけで低賃金の待遇で職員に犠牲を強いてきたことは、否めない。私は最初に保育士の給料が勤続10年でも20万円台と聞いて驚き、なんとかしなくては思ったものである。
私が理事長を引き受けてからまず最初の仕事は、NPO法人を立ち上げるための定款の作成だった。どのようなものを作るかはわからなかったので、先行している保育園の定款を見せていただいて作成したものを神奈川県のNPO を指導している部署に持参したところ、勝手に作ったことを叱られ、くそみそにケチを付けられた。結局最初からNPOの本部へ相談に行き、所定のマニュアルをもらってそれと同じに作るべきだったようで、私たちが勝手に作ったのは、認めないというわけなのだ。もちろん独自性など出すのはもっての外だった。初めて行政のお役人の融通のなさを知った次第。何度か神奈川県庁(現在は横浜市役所)のNPOを推進している部署へ通った末、私たちのNPO法人が認められたのは、約半年後の2005年(平成17年)11月でした。

この当時私たちボランティアが共同経営していた保育園は、京急線井土ヶ谷駅から徒歩8分ほどのところにあって、「トトロの家」と呼ばれたほどおんぼろの平屋で、雨漏りなどに悩まされ、大きな地震がくればひとたまりもないほどの危なっかしい園舎だった。子どもたちは0歳から2歳までが対象で、定員は20名だったが、多い時で16名ほど、少ない時は8名程度になってしまう有様。このような定員の激しい増減が経営不安の大きな要因だったわけです。この保育園は無認可ではありましたが、一応横浜市からは「横浜保育室」という制度に入れられていて、認可園の3分の1ほどの補助をもらっていた。しかし定員が6名以下になるとこの恩典も取り消されてしまうという規定である。無認可園は子どもたちが認可園に入れない場合に保護者が仕方なく入れる受け皿のようなものだから、認可園に子どもたちが入ってしまえば、無認可園のこどもたちは少なくなる。すなわち、4月には、これまで認可園に入れず家に待機していた子どもたちや無認可園に通っていた子どもたちが一斉に認可園に入園する。一時的に待機児童が少なくなるのだ。そのため無認可園に入る子どもは少なくなる。しかし夏に向かいまた保育園に入れない子どもが出てくるので、無認可園の園児も少しずつ増加する。そんなわけで無認可園の定員数維持は非常に難しく、経営不安がつきまとうわけ。したがって無認可園の設備は悪く、しかも保育料は全員一律で認可園よりも高額、保護者の収入によるものではない。そのため無認可園の「売り」と言ったら、保育士の愛情がこもった保育だけなのだ。
そしてついに、2008年(平成20年)8月の理事会では、翌年の4月時点の園児の人数は6人以上見込めそうもないという結論に達し、翌年3月末で「廃園」にするという決議をするまでに至ってしまった。
それまで私たちNPO法人は、廃園を考えるまで何もしなかったわけではなく、認可をとれるような園舎を作れる土地や建物を10件以上見て回り、バザーを開いて資金を稼ぐなど、いろいろやってきた。しかし横浜の街中で、なかなかまとまった広さの土地や建物は、帯に短し、たすきに長しで見つからず、あきらめざるを得ませんでした。
そんなとき9月も末のころ、井土ヶ谷駅近くの高層マンションの一階で、保育園に使える部屋が空くらしいという情報を耳にした。見に行ってみると、そこは少人数の幼児を預かりながら、子供の英語教室などをやっていた所で、ほとんど改築をしなくても保育園として立派に使える部屋(約140平米)だったわけです。
当初、私たち法人は、その部屋を買うほどの資金はなかったので、賃貸で借りようと思って不動産会社と交渉したが、それは断られてしまった。しかし場所と建物の利便性を考えるとあきらめきれず、ズルズル5か月弱もの間交渉を続けた。不動産会社も相手は私どもだけでなく、他とも交渉をしていたのでしょうが、まとまらなかったらしいのだ。そのうちに当時の不動産不況が幸いし、当初の値段をだんだん下げ、3分の一ほどで何とかなりそうな見込みとなったわけです。私は他の役員に声をかけ、誰かこの物件を買う人がいないか聞いたが、誰も名乗りを上げない。仕方なく私は夫を説得し、私たち夫婦がその部屋を購入して、保育園に園舎として貸そうということになった。
イチかバチかの賭けだったが、幸い駅近で建物は耐震性があり、近くには子どもたちが遊べる良い公園があるなど、環境も良かったためか、廃園を覚悟したのがウソのように、移転した5月に、開園早々から子どもたちが集まり出しました。その後7年間子どもたちは増加を続け、最高34人にもなった。すぐに認可を申請したかったのだが、認可園としては、多目的トイレが必ず必要などの規定があり、この建物では改築が無理と分かったこと、また一部屋だけ明度が不足しているということで、認可申請は諦めた。そんなわけで経営の形はまだ「横浜保育室」のままの無認可保育園だった。しかし「トトロの家」のころは毎年100万円ずつの赤字が出続けていたのが、移転後は経営が好転し、もっと大きな認可園を目指せるほどの資金の貯えもできたのである。(つづく)
(元販売企画本部・成田 紀子)
2020年7月15日
鎌倉で混声合唱団活動8年


大船混声合唱団に入会して、8年になる。
前回の昨年11月のコンサートでは、ケルビーニの「レクイエム」を演奏した。
次は、シューマンの「レクイエム」や小林秀雄の「落葉松」を予定しているのだが、一向に練習が進まない。
新型コロナ禍の影響で、3月当初から5か月、練習は行われていないのだ。
最近朝4時ごろ、トタン屋根の上で2羽のカラスが騒いでいると、鳴き声が4度の和音に聞こえるほど、合唱に飢えていることに気が付く。
9年前に鎌倉通信部を辞め、毎日が日曜日になって何かしないと、と考え、高校大学時代にやっていた混声合唱に復帰することにした。
社を辞めてから静岡県伊東市に半分住み着いていたので、伊東で合唱団を探した。2つの合唱団が身近にあったのだが、どちらも女声30人に男声数人。どうも入団しようとする気になれなかった。
連れ合いに相談したら、「私が高校時代に教わった音楽の先生が、合唱団の指揮をしているので、そこに入ったらどうか」と紹介された。その方は児島百代さんで、鎌倉での飲み仲間でもあり、すぐに自分で電話、入団となった。児島さんは当時、鎌倉合唱連盟の理事長だった。「いま、モーツアルトのレクイエムを始めたところだから、一緒にやりましょう」と激励された。
1年半に1回のコンサート、ミサ曲や世界の歌曲、日本の歌曲などを演奏し続けてきた。しかし今回、コロナの影響で「合唱は3密の最たるもの」と練習に利用している鎌倉市の行政センターの使用許可が未だ下りない。来月になったら下りるというものでもなさそうだ。
いくつあるか知らないが、多分、日本中の合唱団は、練習を手控えているのだと思う。
70代半ばともなると、しばらく声を出していないと腹筋がだらしなくなって、声が出なくなる。
コロナ禍がどのような形で収束するのか、あるいはこのまま続くのか、なんとも見通しのつかないことだが、合唱団の存続どころか、来年のオリンピック・パラリンピックの動向や、国の存続、世界の行く末など、なんとも見通しの悪い時代になったものだと思う。

(元鎌倉通信部 吉野 正浩)
2020年7月13日
ベスグロ高市さんは、美術展のプロ
大阪毎友会のHPで、昨年東京本社事業本部の美術事業部長で退職した高市純行さん(55歳)の名前をみつけた。
7月9日、宝塚クラシックGCで開かれた第161回毎日旧友会ゴルフコンペでベスグロに輝いたのである。グロス88、ネット72.3で第3位、と記事にあった。
高市さんは1988年大阪入社で、もっぱら事業部の美術担当として、大阪・東京両本社で文化事業を展開してきた。神戸大大学院修了→大阪市立大大学院創造都市研究科博士課程単位取得満期退学。むろん学芸員の資格を取得している。
私が最も印象に残っているのは、2000年4月に大阪市立美術館で展観した「フェルメールとその時代展」だ。入場者は59万人を記録した。
目玉の作品は「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」(オランダ・ハーグ・マウリッツハイス美術館所蔵)。


この1点だけでも人気の展覧会になるのは間違いないのに、毎日新聞の特集の見出しは「春 5/35に出合う幸福」。
「天秤を持つ女」(米ワシントン・ナショナルギャラリー)
「地理学者」(独フランクフルト・シュテーデル美術研究所)
「リュートを調弦する女」(米ニューヨーク・メトロポリタン美術館)
「聖プラクセディス」(米プリンストン・バーバラ・ピアセッカコレクション)
寡作なフェルメールの、当時確認されていた35点のうち5点を集めたのである。
高市さんの仕事はこれだけではない。2017年秋、開館120周年を迎えた京都国立博物館で開催した「国宝展」。国宝指定の美術工芸品885件のうち210件を、4期に分けて展観した。会期48日間の入場者は、62万人を超えた。京都国博の入場者記録をつくった。
他に「雪舟展」「円山応挙展」「祈りの道―吉野・熊野・高野の名宝」「狩野永徳展」
「長谷川等伯展」「歌川国芳展」「横山大観展」など。どれも話題を呼んだ美術展である。
ところで高市さんがこんなにゴルフがうまいとは知らなかった。性格はシャイで、おとなしい。京都をはじめ、日本の美術界での信用はバツグンなのであろう。
退職後、企画会社を立ち上げた。ビッグな美術展を仕込んで「主催:毎日新聞社」で展開してもらいたいと思う。
(堤 哲)
2020年7月9日
能楽、短歌、俳句……年金生活のお楽しみ

定年になって一番嬉しかったのは、何と言っても朝御飯をゆっくりと食べられることであった。現役の頃は、朝起きるのが苦手で、高田馬場のアパートでの職住近接の生活でやっと凌いでいた。今は遅くとも5時には新聞を読み、約1時間の散策で新鮮な朝の空気を味わい、年を重ねるのも悪くないと思う日々である。
1990年に55歳で毎日を卒業し、山崎れいみさんの紹介で人形町・今半に1年、その後、当時社長だった牧内節男さんのお誘いでスポニチに4年間在籍し、人とのご縁の有難さを実感した。60歳で生まれ育った埼玉の秩父盆地に戻り、遅まきながら親孝行もすることが出来たが、その母も亡くなり早くも12年になる。
母は学ぶことが好きで、67歳の時に父が亡くなってからはお茶やお花に加えて、新しく俳画、俳句、謡曲、折り紙なども楽しんだ。毎月上京して能楽堂に通っていた母の影響で、私が謡曲の稽古を始めたのは40歳を過ぎてからになる。
当時、社内には「毎日観世会」があり、経理から後に毎栄実業に移った相澤義治さんが熱心に幹事を務めておられた。初心者に対しても「鶴亀」から特別に指導するなど、有難い存在だった。稽古は地下のクラブ室でプロの先生を招いて月2回、6時半から行われていたと記憶する。仕事が終わらず途中で抜け出して参加することも多かったが、お稽古が終わると、相澤さんを中心に「いろは」で喉を潤すのが常だった。
指導の先生も年を召されて交代し、最後は現在能楽師として活躍中の小早川修さんが見えていたが、当時はまだ東京藝大の学生だった。そしていまや泰輝、康充お2人のご子息も藝大を卒業し、若手の能楽師として舞台に立たれており、拝見するたびに大変、感慨深い。
毎日観世会では、年に一、二度、箱根強羅の寮などへ泊り、おさらい会をしていたが、何を謡ったかなどは思い出せず、余興で小早川先生が能面の百面相をなさり、皆、驚くやら大笑いするやらの場面もあった。
現在受け継がれている二百曲余の謡曲は、『源氏物語』『平家物語』等の古典や、伝説、民話などから着想を得ているが、能楽を父の観阿弥とともに完成させた世阿弥は、多くの古歌や唐詩を織り込み、日本語の持つ同音異義の特徴を生かしたレトリックを用いて、室町時代の文化を今に伝えている。
『万葉集』をはじめとする歌集からの引用も多く、謡曲の稽古を通じて自然に古典に接する機会が増え、読書の幅も広がったと思う。10年前からは秩父の図書館で短歌や俳句、加えて万葉集講座を受講し、句誌「春燈」、歌誌「歌と観照」などに作品を発表する機会もいただいている。謡曲の稽古も続いていて、2017年に落成したGINZA SIXの観世能楽堂など都内にも足を運んでいる。
勉強嫌いだった私が、母親に似てきたと言われている今日此の頃である。
宮前 和子(元渉外部、国際広告部)

左後ろが相澤義治さん

2020年7月6日
銀座、新橋、柳橋……「忙中閑」の鉛筆画伯が行く

退屈なはずのコロナ自粛の生活を、楽しいものにしてくれたのは、スケッチだった。
本格的に描きだしたのは7年前、5歳の孫娘とお絵描きをしていたとき、「おじいちゃん、上手ね」と褒められたのがきっかけだった。「子供は褒めて育てる」は逆も真なりのようである。
運動部のプロ野球担当だった頃には、春のキャンプ地にスケッチブックを持ち込んでいたから、好きではあった。暇になって、灰の中の埋み火を掻き熾したようにやる気が燃えてきた。
30年以上のスケッチブックが捨てずにあった。それを7年前「忙中閑画 1」にまとめ、昨年に2巻目=写真=を出した。気にいったものが描けたら時折、生存確認の手紙代わりにフェイスブックにアップしている。
誰に習ったこともない僕の絵は、下手の横好きそのもの。デッサンは勉強不足だから静物画、人物画は苦手。もっぱら風景画を描く。古い町角風景は特に好き。
隅田川につながる水路で、柳橋、萬年橋、清洲橋、吾妻橋など沢山の橋も描いた。裏町の飲み屋街の夜景も描いた。


一番難しかったのは銀座4丁目の角、和光の建物。考えてみていただきたい。あの建物は交差点の直角に対して、ゆったりとした曲線の壁面に仕上がっている。縦は直線、横は曲線で交わるから難しい。無数の窓枠は曲線に沿って変化するから難しい。さらに無数のデコレーションがくっ付いているから難しい。しかし、それだからこそ4丁目に君臨する存在感があるのだろう。


「毎日夫人」の長期連載だった「あなたと歩きたい街」のスケッチが好きで、寺田みのる画伯のタッチを目標にしてきた。寺田さんの特徴は旅先などで、短い時間で、さらさらと仕上げる風景画。早く描くから鉛筆のタッチはあくまでも軽く、軟らかい。緻密とか、精密とかの対極にあるスケッチゆえに、絵描き仲間の間では「早描きのみのるちゃん」と呼ばれているとか。

いいじゃないの、早書き宿命の新聞記者の目指す画伯としてはぴったりじゃ。
やってみると1本の線が難しい。軽妙を真似ると、ただの乱雑に終わる。軟らかさを真似ても、余分な力が抜けない。線は個性で、真似ができないものらしい。
しかし、絵はうれしい。下手は下手なりに楽しめる。僕のスケッチは「ほのぼのとしているね」としか褒めようがないらしい。それは線のタッチが頼りないからだろう。
線は生きてきた道のようなもの。自分の個性。仕方がない。頼りなくも、曲がりなりにも、真っ直ぐに生きてきたつもり。たった1枚の絵で、そんな人生や個性が見られてしまうようだ。怖いことだが、絵は楽しい。
(渡部 節郎)
2020年7月3日
コロナ自粛「戦争の時よりマシ」—千葉旧友会会員の近況
千葉旧友会から会計報告や名簿などの書類が届いた。コロナの影響で総会や秋のイベントも中止、「今年度の会費(2千円)はいただかないことにしました。お預かりしているもので賄います」とあった。
近況報告の一部を転載——。
・古い話ですが、昭和20年の敗戦直前を思い出します。学校の登校中、空襲警報のサイレンが鳴れば、逃げ帰って防空壕に飛び込み、ひもじくても食うものはなし、あの頃は文句は言えず、本当に怖かったです。コロナ戦争はまだ幸せです=齊藤 修(船橋)
・コロナに負けず元気でがんばっています=幸松恵子(千葉)
・昨年暮れに妻が他界したので、80翁がポツンと独りコロナと闘っています=苫米地重亨(習志野市)
・歳はとってもコロナは怖い。そんなわけで私は2月初めから趣味の毎週の吹き矢教室や、毎月1回整理本部OBによる飲み会も欠席し、専ら巣ごもりを決め込んでいます。しかし友人は有難いもの。パソコンメールで「動物の笑顔」特集したもの、さだまさしの「亭主関白」の替え歌『緊急事態宣言の歌』をギターの伴奏付きで送ってくれた。また別の友人は「これはどうだ!」とばかり『フェルマーの最終定理』という本を送って来た。17世紀以来、最近まで解かれていなかった難解な数学の解説書。ヘキエキしながら毎日すこしずつ齧っています。私からも8年前、『宇宙は何で出来ているか』という本の読後メモ(A4判1枚)が出て来たので、これを友人たちに送ったりして……。そんなことで退屈せず過しています=本田克夫(柏)。【注】本田さんは大正15年生まれ、ことし93歳。
・コロナ騒動の前、オーストラリア・タスマニア島へ2週間。クレイドル山に登って来ました。山行記録を毎友会HPにアップしましたので、よろしければご笑覧のほどを=清水光雄(船橋)
・コロナには勝てませんね。私は日々元気に暮らしています。外出は病院だけ。出歩くこともすっかり無くなりました=鳥井輝昭(千葉)
・「数独」に時間をとられてお籠り生活も退屈しません=佐久間憲子(千葉)
・外出自粛をして居ります。何とか一日一日を頑張っています。又皆様にお会いする日を楽しみにして居ります=作田和三(千葉)。千葉旧友会事務局長。
・イヌ(4歳・メス)の散歩で一日がスタート。昼はゴルフ練習場かゴロゴロ、時々仕事。仕事は昨年小さな出版社を引き継いだので、原稿に手を入れたり、収支計算したり……赤字ですけど。友人知人の名前が出なくなった一方で、夜中のトイレが多くなりましたが、まあ元気でやっています=滝川徹(松戸)
・目に見えないウイルスの恐ろしさを感じたのは初めてです。再びお会いできるまで、お互いの健康を祈るばかりです=吉村健二(船橋)。千葉旧友会会長。
・馬齢を重ねて93歳と7か月。心身ともに老化を痛感する昨今ですが、お蔭さまで安穏な日々を元気に過ごしております。伝統ある毎日新聞千葉旧友会のために献身的な努力を続けられる作田事務局長をはじめ幹事各位にあらためて敬意と感謝を申し上げます=折茂仲治郎(松戸)
・房総半島の真ん中ミュアヘッドフィールズ土太郎村で静かに暮らしています。ここは空気も良く、過疎地なのでコロナウイルスもいないよう。本読みや雑文書きに時間を過ごし、たまにゴルフ。そういえば千葉旧友会のコンペ、楽しかったです。コロナが収まったらまた是非来て下さい=中島健一郎(市原)
・コロナ禍で巣ごもりも悪くはない。身辺整理、草取りと、5月の風と光の中で、萌黄色、蕨色……緑のグラデーションも一緒に楽しんでます。これから降りかかるであろう環境の変化、苦労や新しい時代の常識。手探りだけど出来るだけさわやかに受け止めていこうと自分に言い聞かせてもいます=佐藤和子(千葉)
・ひたすら自粛しています=勝又啓二郎(習志野)
・杖を頼りに散歩をする毎日。道端の野草を見つけ、しばしの安らぎを感じています=藤川敏久(東松山)
・3月末で毎日新聞社を退社しました。館山通信部は8年半、大変お世話になりました。東村山市の自宅に戻り、緊急事態の2か月近く、市の外に出ておりません。運動不足のコロナぶとり。困ったものです。秋には皆さんにお会いしたいものです=中島章隆(東村山)
・まだ竹橋で働いています。コロナの影響でビルの1F、B1Fの商店街もほとんど休業で、ガラガラ状態です=伊藤隆(四街道)
・米寿のお祝い、ありがとうございます。地元高齢者クラブの会長を今年で12年目となります。今年も色々と頑張っていく積りです=青木靖夫(佐倉)
・コロナの影響のせいで疲れました。このパンデミックで安倍首相ってつくづく政治の素人であることがわかり、国政のレベルの低さにあきれ果て、ニュースを見るたび怒りを覚える。ストレスフル=尾崎忠義(千葉)
(堤 哲)
2020年6月26日
秋山哲さんの挑戦「私の書いた小説をアマゾンが売っています」

コロナ自粛を活用して、なんと小説をオンデマンド方式で出版するという挑戦をした。
小説を書くのはもちろん初めて。オンデマンド出版の作業をするのも初めて。とくに、IT技術に弱い85歳にとっては、自力で後者をやり遂げるのは悪戦苦闘であった。入稿から組版まで、簡単にいえば、出版局がやる仕事を全部自分でやるのである。
中でも表紙制作は難しかった。実に単純な、デザインなしの表紙なのだが、私のPCに入れているAdobeのバージョンが新しすぎて、古いバージョンを使えと指示が来たのには大変困った。あれやこれややっているうちに、突然うまくいく。ところがそれを再度やろうとすると、手順を忘れてしまっていて、再現できない。みっともないが、この年齢ではやむを得ない。
しかし、先方のマニュアル通りに出来上がって送信すると、3日か4日たてばこの本をアマゾンが売り始める。だれのチェエックもない。しかも、私が負担した費用は、ISBN番号の取得費5,000円と、表紙制作支援費1,000円だけである。
売値はこちらが決める。アマゾンは、売値の40%の販売手数料と、印刷費を引いて残りを私に振り込んでくれる。私の場合、税込み2,200円と値を決めたのだが、手取りは150円ほど。印税と似たようなものである。
やってみて改めて実感したのは、誰でもが書籍を出版できる時代になった、ということである。だれでもがニュースを発信できるようになって情報のゲートキーパーがいない時代になっているが、出版もそうなっているのだ。ちょっとした技術を持てば、どのような本でも出版できる。出版コストも極めて小さい。
私のような素人が書く小説を出版してくれる出版社などありえないのだが、それをアマゾンという巨大流通会社が宣伝も販売もやってくれる。出版社のゲートキーパー機能も失われる。オンデマンド印刷だから在庫は発生しない。買う人があれば直ちに印刷・製本して発送してくれる。翌日には届く。アマゾンが存在するかぎり、絶版はない。
言論の自由、出版の自由はここまできている、ということを肌身にしみて実感したのである。
肝心の小説の説明をしておかなければならない。
題名は『耳順居日記』。作者は「檜 節郎」。小説家としての私の名乗りである。
明治維新の原点ともいうべき神仏分離政策による混乱から話は始まる。話は大きく分けて三つの流れが絡んで進む。一つは、廃仏毀釈に関わって娘二人が連れ去られた華兵衛の家族愛。二つには、廃仏毀釈によって需要を失った老舗法衣商たちがそれをどう乗り越えていったか。三つ目は、華兵衛の思い切った転業を支える二人の若者の友情。明治維新から終戦までの80年の物語である。
(元東京代表、秋山 哲)
2020年6月20日
犬猫歴史研究家・仁科邦男さんNHKテレビ出演!

元社会部記者、いや出版局長・毎日映画社社長を務めた仁科邦男さん(72歳、70年入社)が6月19日(金)夕と20日(土)午前の2回、NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる!」に出演した。
「何故、犬の名前は『ポチ』なのか」を分かりやすく解説した。
著書に『九州動物紀行』(葦書房)、『犬の伊勢参り』(平凡社新書)、『犬たちの明治維新 ポチの誕生』、『犬たちの江戸時代』、『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか』、『「生類憐みの令」の真実』(いずれも草思社)。
《名もない犬たちが日本人の生活とどのように関わり、その生態がどのように変化してきたか、文献史料をもとに研究を続ける》と最新刊の著者紹介にあり、ヤマザキ動物看護大学(八王子市)で「動物とジャーナリズム」の講座を持つ(非常勤講師)。
何故、ポチか。
西洋人が連れた斑点模様の犬を、日本人が「ブチ」と呼んだ。ブチは英語で「パッチーズ(斑点)」。ブチ→パッチーズ→パッチ→ポチとなったという。双方の聞き間違いから「ポチ」が生まれたそうだ。
ポチが全国に広まったのは、1986(明治19)年に文部省が発行した初の国語の教科書『読書入門』(よみかきにゅうもん)に、「ポチ」が出てくるのだ。小学校に入学して最初に読み書きを学ぶための入門書だった。
毎日新聞の前身「東京日日新聞」が創刊した明治のはじめ、犬の名前ランキング1位はポチだったそうだ。
(堤 哲)
以下、NHKの画面から——。




2020年6月1日
甲子園大会中止、高校球児に贈る阿久悠の詩

「一応生きる目標を100歳と立てた」
8月に95歳の誕生日を迎える牧内節男さん(元毎日新聞常務、スポニチ社長・会長)が元気だ。ブログ「銀座一丁目新聞」を月3回リニューアルしているうえに、毎日、「銀座展望台」を書いている。
センテナリアン宣言は5月30日の「銀座展望台」だった。
「銀座一丁目新聞」6月1日号は、追悼録で阿久悠を取り上げた。以下はコピーである。
(堤 哲)
◇
——夏の甲子園での高校野球大会が中止となった。残念だ。高校球児の心境は察するに余りある。
私はスポニチに「甲子園の詩」を27年間も連載した阿久悠を想い出す。
阿久悠がなくなったのは2007年8月1日である(享年70)。すでに13年も経つ。思い出は尽きない。とりわけ敗者を描く言葉がやさしかった。
第88回全国高校野球決勝戦、駒大苫小牧対早稲田実業の一戦のとき、阿久悠は「しかし いつしか どちらにも勝たせてやりたいとか どちらにも負けさせたくないという そんな思いになった まさに終わりなき名勝負…」と綴っている(2006年8月21日・月曜日・スポニチ)。
阿久悠の「夢・歌・阿久悠を語る会」(2009年9月18日・ホテルニューオータニ)が開かれた際、献杯の音頭を取った篠田正浩監督(78)は「阿久悠のキーワードは歌・映画・野球であった」と述べた。
私はこれに「新聞」を付け加える。彼は夜、丹念に新聞を読み参考になる記事を切り抜いた。「円相場」も切り抜いたというから驚きである。新聞記者以上に熱心に新聞を読んだ。彼が時代感覚に優れポンポンと時代を紡ぐ言葉を生みだした要因の一つだと思う。
この時、重松清著「星をつくった男」-阿久悠とその時代(講談社・2009年9月18日発行)を頂いた。これは作家重松清の感じた「阿久悠」物語である。阿久悠は不思議な人で、接した人百人が百様の感じ方をするような気がする。
私には私なりの阿久悠がいる。「彼の詩(思いやり)、ゴルフ(堅実)、言葉(快挙・希望)」が交錯する。何よりもスポニチにとって《恩人》である。事あるごとに阿久悠の「詩」が紙面の彩りを添えた。
阿久悠は常に≪希望の星≫を説いた。「スポニチ50年史」の巻頭を飾った「人間学の天才になろう」-21世紀の提案―はスポニチの記者たちが独占するには惜しい詩である。
人間を宇宙と考えよう 人間の謎と人間の可能性は
好奇に満ちて見つめる価値があると 今こそ確認しよう
人間は十人十色 それぞれが 違った色の宇宙の所有者
と思うと この地球には 六十億もの 体温を持った宇宙があるのだ
定型で組み分けしないで 常識で切り捨てないで
一人一人の宇宙を覗いてみよう 見たら触ってみよう
手にあたったら確かめよう きっと面白さに遭遇する
人間が面白くなくて 面白い世界があるわけがない
人間が不機嫌で 愉快な時代になるわけがない
人間 人間 人間
二十世紀で小さくさせられた人間を
二十一世紀には大きくさせよう
二十世紀で硬直させられた人間を
二十一世紀には柔らかくさせよう
どうだ 見たか 人間って捨てたものじゃない
どうだ 知ったか 人間って見限ったものじゃない
どうせなら そんな思いで生きようじゃないか
さあ 諸君 笑う人を愛そう 歓ぶ人を大切にしよう
そして そして 人間の心と行為を面白がる
人間学の天才になろう
そうすると 朝が来る
この言葉を、この夏甲子園球場でプレーできなかった全国球児たちにも読んで欲しいと思う。

2020年5月25日
カミユの「ペスト」も「異邦人」も読みました

「どうしてる、元気?」
長野支局・社会部の先輩、大島幸夫さん(82歳)からご機嫌伺いの電話があった。
「ボストンマラソンが中止になって、読書三昧だよ。カミユの『ペスト』、『異邦人』も読んだよ」
——高尾義彦さん(74歳)は、『ペスト』の原書を丸善に注文した、とブログに書いていましたよ。
「オレがフランス語の授業で読んだのは『星の王子さま』、サンテグジュペリの。早稲田と慶応の仏文に合格したが、ウチの商売の関係で商学部に入ったんだ。仏文に進んだら違う人生があったと思う」
◇
大島さんは、傘寿を迎え3度目の「ボストンマラソン完走」を目指した。
ボストンマラソンは、「ザ・マラソン」と呼ばれる。1897(明治30)年に第1回が行われた世界で一番歴史があり、伝統を誇る大会だ。
ところが1昨年は、冬の寒さに見舞われ、低体温症から全身に震えがきて途中リタイア。昨年は飛行機の長旅でエコノミー症候群にかかり、「スタートラインに立つことができなかった」(『人生八聲』第19巻)。
いくら元気な大島さんでも、ことしはラストチャンスと思っていた。42.195キロは「死に行くGo!」とまで読まれる。走り込み、筋トレ、マッサージと準備は万全だった。
目標は、5時間以内。ちなみに完走した2回は、3時間4分台(48歳の1986年第90回)と3時間19分台(58歳の1996年第100回)だった。
ところが、コロナという伏兵に4月20日の第124回ボストンマラソンは中止、9月14日に延期となってしまったのだ。
5月28日主催者が9月14日に延期されていたレースを中止すると発表した。
大会が中止されるのは1897(明治30)年に第1回を開いて以来初めてである。
◇
大島さんが走り始めたのは、42歳の時。毎日新聞社前の皇居周回コースである。
中学・高校は体操部、大学では山岳部(シゴキで退部)に入ったスポーツマン。社内野球ではもっぱら投手をつとめた。
マラソンを3時間で完走するサブスリーは一般ランナーの勲章でもあるが、大島さんは1987(昭和62)年のつくばマラソンで達成している。2時間59分21秒だった。
情熱家で実行力のある大島さんは、世界の大都市で開かれているマラソン大会に出場した。マラソン文化の違いを痛感する。そして2001年に始めたのが「東京夢舞いマラソン」である。

「東京のど真ん中を誰でも走れる市民マラソン大会」
2007年2月から始まった「東京マラソン」の源流だった。
この記事は読売新聞の「顔」欄である。「東京マラソン」実現の功労者として取り上げている。
もうひとつ。NYシティーマラソンなどで、障碍者が介護伴走のボランティアとともに走る姿を目撃した。1995年アキレストラッククラブ・ジャパンを設立、大島さん自身も、目の不自由なランナーと紐を結んで走るなど、活動を続けている。
著書に『市民ランナーの輝き―ストリートパーティーに花を!』(岩波書店2006年刊)がある。
(堤 哲)
2020年5月22日
元大阪本社代表から、花のプレゼント


毎日新聞社元副社長・大阪本社代表の迫田太さん(88歳)がFaceBookにベランダの花の写真を投稿しました。
《我が家のニオイバンマツリです。満開で甘い芳香が漂っています》
迫田さんは、鹿児島県立甲南高等学校の1期生で、鹿児島大学農学部を卒業して1954(昭和29)年毎日新聞入社。大阪本社編集局長→西部本社代表→大阪本社代表。2000年6月に副社長で退任されるまで10年間大阪本社代表をつとめた。
大阪毎友会の前会長。関西プレスクラブ初代理事長。
ネットで検索したら母校甲南高校に「迫田文庫」が設置されていた。写真は30年を記念して贈られた生徒の寄せ書き・感謝状で、2017年12月27日 (水)の日付があった。
《“迫田文庫”には魅惑的な書籍がたくさん並んでいます。今年で30年にもわたり、毎月ご自分でも読まれた新刊書(毎月5冊以上!)を寄贈しくださっています。
その読書量にも感服します。迫田様は甲南生が読みやすいように、なるべく話題の新刊書などを選んで読破されて寄贈してくださっているとのことでした。ご配慮に感謝いたします。ありがとうございます》
(堤 哲)
2020年5月9日
遅咲きの演歌歌手を、社会部OBの沢畠毅さんが応援

社会部で警視庁や宮内庁を担当した沢畠毅さん(80歳)から、発売されたばかりのCDが送られてきた。原真由美さんの「倖せのれん」など3曲を収録、「縁あって、遅咲きの演歌歌手を応援しています」と手紙が添えられていた。
引用すると「私たちのカラオケ教室(埼玉県鶴ヶ島市)の先生、原真由美さん(本名・黒川真由美)のデビュー曲です。高校時代、作詞作曲の大御所、石坂まさお(故人)に師事、何曲かレコードを出しましたが芽が出ず、引退、会社勤めを始めました。その後、結婚、子育て、仕事を両立、歌謡教室の指導者資格を取得し、自宅でカラオケ教室を開くことになりました」
ママさん歌手としてのスタートだという。新曲は「倖せのれん」「恋のなきがら」「やるっきゃないさ」(日本クラウン、税込み1,350円)。
「いずれも作詞は実母、西山和子さん(作詞家名は加津よう子)。長年、割烹料理店を経営し、その間に見聞した事柄を想い起して作詞したそうです」
「演歌一筋、母娘で旅立つ茨の道、いつか乗り越え晴れ舞台。しっかり応援していく決意です」
さわやかサワちゃんの面目躍如である。
カラオケは高齢者の健康維持にもお勧めのようで、沢畠さんの楽しく元気な日常が想像されます。
(高尾 義彦)
2020年4月24日
早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊤

≪序章 早大探検部OB会≫
2020年2月13日(木)午前7時50分、早大探検部OB会一行9人はオーストラリア・タスマニア島にあるクレイドル山(標高1545メートル)の登り口、ダブ湖駐車場にチャーターバスで到着した。天候は曇り。目指す山は霧に覆われて、全く見えない。真夏ではあるが、気温は10度を下回り、寒さを感じる。私は折り畳み式のストックを伸ばし、ひざ下にはスパッツを付ける。日除けのサングラスはまだ取り出すまでは至らない。昨年3月に白内障の手術をして以来、学生時代から手放せなかった近眼・乱視の眼鏡がいらなくなり、顔周りはすっきりしている。それにしても、この山周辺は10日に一度晴れたらラッキー、というほどに天候は恵まれない、という。事実、一行の中の夫婦連れは昨年も同様時期にこの山を登ろうとして1週間滞在したが、ずっと雨続きで山に近づくことが出来なかったという。朝方の天気予報では「晴れ」だった。が、「どうなる事やら」と私は独りごちた。
早大探検部OB会は以下のような概要である。
〖早大探検部OB会は1966年発足。会員300余人(アクティヴィな会員は50~60人か)。2か月に一回の定例会、海外遠征、現役の活動支援などを行っている。著名人では直木賞作家の西木正明(79)、同様に直木賞作家の船戸与一(2015年死去、享年71)、北朝鮮評論家の惠谷治(18年死去、享年69歳)、ノンフィクション作家(13年講談社ノンフィクション賞受賞)の高野秀明(53)、探検家・ノンフィクション作家(10年開高健ノンフィクション賞、11年大宅壮一ノンフィクション賞、12年新田次郎賞、13年講談社ノンフィクション賞、15年毎日出版文化賞、18年大佛次郎賞、それぞれ受賞)角幡唯介(44)らがいる。
奥島孝康・元早大総長(80)が1986~94年まで、探検部部長を務めた縁でOB会名誉顧問となっている。奥島先生が総長職を降りた後の03年に「OB会主催慰労会」として、山梨県の黒川鶏冠山(1716メートル)登山を行い、以来、彼を囲むような形で年一回の登山や海外遠征が始まった。
海外遠征の初回は05年台湾・玉山(3952メートル)。次いでマレーシア・キナバル山(4095メートル)(06年)、モンゴル・エルデネ山(2035メートル)(09年)、ロシア・カムチャッカ・アバチャ山(2741メートル)(10年)、ブータン(11年)、台湾・雪山(3886メートル)(12年)、ベトナム・ファンシーパン山(3143メートル)(13年)、石鎚山(1982メートル)(同)、インドネシア・ロンボク島リンジャニ山(3726メートル)とバリ島・バトゥール山(1717メートル)(14年)、キルギス・ウティーチェリ峰(4527メートル)(15年)、インドヒマラヤの4~5千メートル級の山のトレッキング(17年)等続いた。また、この間にも有志による山行も数多くあった。
奥島先生には初回から海外の高峰を含めお付き合いいただいた。14年のバリ島バトゥール山(1717メートル)登山では、その準備として白馬縦走するなど訓練も怠りなく続けておられた。1昨年一時体調を崩され、ここ3年は登山はしていないとのことで、今回のタスマニア行では山楽会=先生を囲む早大職員の登山会=のメンバーとともに、ホテル周りに設置されている散策路を歩く程度にとどめていた。OB会にとっては変わらぬ精神的主柱である。〗
≪1章 タスマニア島行≫
今回の「オーストラリア・タスマニア島行」一行は総勢16人、探検部OB12人と山楽会4人の合同隊である。公式日程は2月8日~16日の9日間で、現地集合・現地解散で、公式日程の後・先はそれぞれ自由に各地を回る。
海外遠征の行先の選定は、行きたい山や海外について、言い出しっぺが自動的に幹事になり、同好の士を募る。ある程度、人数が集まると、幹事が日程を組む。OB会の存在意義は「物事に対する強い好奇心と辺境に対する強い憧れという価値観の似通った仲間たちが、年代を超えて折りにふれて集う心のふるさと」(「OB会会報2010年臨時号」、元OB会長・矢作和重さん=12期=の言)にある。
今回の幹事は10年前から、タスマニア行を推していた12期(1966年入学組)の望月哲郎さん(73)。野生の動物が自由に観察できることから、タスマニアに興味を持ち、当時、新聞記事で見かけた現地の日系旅行社経営者の紹介記事を大事に保存。今回は昨年夏ごろOB会の大方の了解を得て、作業を始めた。新聞記事にあった旅行社(AJPR=オーストラリア・ジャパン・パブリック・リレーションズ=代表・石川博規氏)に連絡を取り、代表者は当時と変わってはいたものの、サポートを受けることが決まった。もっぱらラインで連絡を取り、日程を構築していった。この人、国内では「(絶滅した)ニホンオオカミはまだ存在するはず」の一念で、「ニホンオオカミ倶楽部」を組織、丹沢山塊に24時間ビデオを設置しその姿を捉えようとしている、探検部の“心”を忘れない人でもある)
計画の概略が出来上がったところで奥島先生の世話をする山楽会とも打ち合わせ。登山・トレッキングを主体とするグループと観光主体のグループと二つに分け、夕食と移動の足は合同で行う案を作り上げた。
OB会海外登山の初期は1960年前後入学の7~10期の先輩が多かったが、次第に我々団塊の世代の12~13期が中心に。今回も最高齢80歳の奥島先生を別にすると、71~75歳が中心。クレイドル登山を目指した9人は75歳~56歳で平均年齢70歳ほどだった。

16人は2月8日午後3時、タスマニア島の州都ホバートのホテル・グランドチャンセラーのロビー集合~15日午前10時、北部の都市、ロンセストンのホテル・グランドチャンセラーロンセストンのロビーで解散、の日程となった。
タスマニア島とは、どんなところか。各種の本で得た知識によれば、以下のようだ。
〖タスマニア島はオーストラリア本土の南東部から240㎞離れた南氷洋に浮かぶ島。地図で見ればオーストラリアの右下にあり、北海道より一回り小さく、8割ほどの面積。日本からはシドニーやメルボルン経由で国内便に乗り換え、2時間ほどで州都ホバートに着く。このホバートは島の南端部で、緯度で見れば、北海道北端の稚内からサハリン付近に近く、夏でも最高気温は21~22度である。
1642年にオランダの探検家、アベル・タスマンが、この島に到達し、島の名前は彼に由来している。しかし、当時彼らが目当てとしていた香辛料や黄金が見つからなかったため、入植しなかった。植民が始まったのは1803年で、すでに本土のシドニーなどに入っていたイギリス人の手によるものだった。開発にはイギリス本土から大型船で3か月もかけて流刑囚が大量に送り込まれた。このため現在、島の世界遺産となっているのは、ポートアーサーなど刑務所跡地が多い。島の原住民、タスマニア・アボリジニは1830年代までは植民者に抵抗、ブラック・ウォーと呼ばれる戦争を起こしたが、近代兵器で武装するイギリス軍には到底勝てるわけはなかった。他の小さな島へ強制移住させられたり、ハンティングの獲物にされたり(南米大陸でのスペインのインディオ狩り、北米大陸でのインディアン狩り,等々、えげつないことである)して激減した。純血人は1876年に絶滅。今に残っているのは白人との混血した人たちである。本土のアボリジニと同じような経過を辿った。
島内は開発の手が及ばなかった地域が多く、全島の36%が国立公園や自然保護区になっている。その多くは世界自然遺産・タスマニア原生地域。2万年前に本土と同様にゴンドワナ大陸と分離し、その後、ほかの大陸と一緒になることはなく、冷温帯雨林の特異な自然が残る島として知られる。野生生物もワラビー(カンガルーの中で体重25㎏以下のものの総称)、ハリモグラ、フェアリーペンギン、ウォンバット、タスマニアデビルなどが生息、各所で見られる。我が国で人気のコアラは、野生種は本土のみで、この島には動物園にしかいない。登山基地のクレイドルマウンテンホテルでは、窓外の庭には手の届く位置までワラビーが寄ってきて餌の牧草をついばんでいた〗
≪2章 クレイドル山登頂計画≫
クレイドル登山のリーダーは元OB会長の12期・矢作さん(72)。某林業会社で、長年東南アジアで木材を調達、役員に上り詰めて退職。今は外国語学校で日本語教授のボランティアを務める一方、練馬区のシルバー人材センターで植木の剪定作業をしたりしている。大学時代は幹事長、OB会でも会長を6年務めた我々世代のリーダー。辺境大好き人間で、山の経験はヒマラヤから日本まで広範囲に及ぶ。豊富な海外経験で英語も達者。OB会メンバーは学生時代から「ともかく世界の行きたいところへ行き、理屈は後からくっつける」猪突猛進型が多い中、珍しい?インテリの一人。海外遠征の際、現地の交渉事など英語が必要なものは一手に担う。
クレイドル山周辺はガイドブックによれば「数あるタスマニアの国立公園の中でも随一の景勝を誇るクレイドル山/セントクレア湖国立公園。世界自然遺産のタスマニア原生林の中核を占める国立公園で、クレイドル山(1545メートル)をはじめ、タスマニア最高峰のオサ山(1617メートル)を中心に1500メートル以上の山が並ぶ」と紹介されている。
クレイドル山は氷河が削り出した1500メートルの峰々が屏風のように並んで天に突き出した岩山群だ。ふもとのホテルからバスで20分ほど行った登り口から、頂上まで往復7~8時間の日帰りコース。インド・ヒマラヤ、モンゴル、キルギス等の山々をこなしてきたメンバーにとっては、朝飯前の山行なはずだった。
ところが、前述の旅行社AJPRの石川代表(現地で話して分かったことだが、名古屋の名城大山岳部出身)によれば「コースガイドは頑健なオーストラリア人向けで、日本人の足なら往復10時間は見た方が良いでは」とアドバイス。これに従って、登頂計画は以下のようになった。
【タスマニア・クレイドル山登頂計画】
- 1. 日程2月13日
- 2. メンバーはリーダー・矢作以下9人
- 3. ルート及び行動計画
- 7:30 クレイドルマウンテンホテルをチャーターバスで出発
- 7:50 ダブ湖駐車場・登り口
- 8:00 登山開始
- リラ湖を経て ウォンバット・プール登山路を登り、ウォンバット沼からオーバーランド登山路へ行き、
- 10:00 マリオンズ展望台着
- 10:30 発
- 11:30 キッチン・ハット避難小屋着。昼食
- 12:00 発
- 14:00 クレイドル山・頂上着
- 下山開始。往路を引き返し、余裕があればオーバーランド登山路を経て、ロニークリーク駐車場に出る。
- 18:00 駐車場着
- 4. 特記事項
- ①当日日の出 7:04 日没19:34
- ②天候不順の場合は、展望なきため登山中止。麓のハイキングに変更。
- ③途中、マリオンズ展望台、或いはキッチンハットにて、各自の体調を判断し、二隊に分け、一隊は登頂せず引き返す(携帯電話は2台携行し各隊が持参)
- ④往路、マリオンズ展望台までは状況により、マリオンズ展望台登山路を使う(急登だが、30分間時間短縮できる)
- ⑤遅くとも18時には駐車場に戻る。
- 5. 装備
- 団体装備:ツエルト(ビバークテント)2~3
個装:秋山登山の服装。防寒着(フリース或いはダウン)、雨具、スパッツ、帽子、手袋、サングラス、スティック、懐中電灯、水筒、昼食(ホテルで用意)、非常食。
(元社会部 清水 光雄)
2020年4月24日
早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊥
≪3章 探検部時代の思い出≫
私は探検部13期(1967年入学)ではあるが、部員としては半年しかおらず、落ちこぼれメンバーである。
入学時、探検部の存在は大学キャンパスの一角にしつらえた、どでかい「各部の入部案内」看板で知った。秋田から早稲田の政経に入ったのは一にも二にも「新聞記者志望」だったため。クラブは高校時代同様「新聞会」志望だったが、1年生の間は「他の部」で少し楽しんでよいかな、と思っていた。当時、早稲田大学新聞会は革マル派の機関紙と化していた。キャンパス内で見かけた創刊したばかりの「早稲田新聞」という新聞では、一面に当時少しは知られた存在だった長田弘の詩を掲げたり、中面も吉本隆明論など「文化的理論」が満載で同人誌のようであり「いずれ入ろう」と憧れた。(高校新聞会では高橋和己本人に寄稿を頼み、掲載したこともあった)
探検部は、法学部の屋上屋根裏部屋に部室があった。日々の訓練と称して、大学構内の周辺をランニングしたが、受験勉強で鈍った体は全然動かず、直ぐに息が上がる。それでも当時大学のサークルではよくあった「しごき」といったものはなく、先輩に「どこか体が悪いのか」と皮肉を言われる程度だった。部室が隣だった山岳部はかなり違ったようだったが。
当時の名簿が残っており、同期新人に「柳井正・山口県出身」の記載がある。ユニクロの彼、である。OB会の大方に記憶がないところを見ると、入部して間もなく退部したのだろう。それでも探検部出身なら一番の有名人となる。OB会50年記念誌を作る際、寄稿文を頂こうと、その役目が私に割り当てられた。ネットで調べたユニクロのメルアドに、秘書室宛てに「依頼文」を出したが、案の定、なしのつぶてだった。
登山靴(飯田橋の手作りの店で作ってもらった)、キスリング(当時のザックは横に幅が広く、これを担いで北海道辺りを旅する学生はカニ族と呼ばれた)を揃えて、2年生をリーダーに有志で丹沢の塔ノ岳に登ったのが最初の登山だった(そのせいか、今でも山の訓練はここへ行く)。沢登りでは5~6メートルずり落ちた経験もし、以来ザイルを使った登山は体が拒否。今は船頭が操る川下りが名物になっている長瀞をゴムボートで下ったこともあった(同期が食料として「パンの耳」を沢山もってきて、聞けば名古屋出身。高校時代からパン屋に行ってはサンドウィッチ作りで余分に出るこの耳をもらい、昼食にしたという。名古屋は聞きにしに勝る、しまり屋の多い土地柄と思ったものだ)
GWには奥秩父の甲武信岳(2475メートル)で一泊二日の新人訓練合宿が行われた。河原で石を拾い、ザックに詰め、荷物の重さを20キロ(30キロと記憶していたが、今になって確かめるとこの重さだった)にした。先輩が荷物をぶら下げる吊り秤でそれぞれ測っていたような気がする。歩くに従って、ひざはがくがくし、肩にキスリングが食い込む。へばってしまう同期が出てくると、先輩が「どうした」と励まし、場合によっては荷物を肩代わりし(無論、ザックの中の石は捨てて)たりした。「ザックは何があっても自分で運ぶ」が不文律。ダウンして、他人に荷物を持ってもらうのは屈辱以外の何物でもない。「ガンバ、ガンバ」の掛け声に、ひたすら前を歩く部員の足だけを見つめて歩を運ぶ。眠気だけが頻繁に襲う。頂上直下、「後少しだ。もう何分」。リーダーのこの声に、なぜか、緊張の糸がぷつんと切れる。私は座り込んだまま、一歩も動けなくなってしまった。
一昨年の会合で半世紀ぶりに会った同期に「(君がへばったときに)何もしてやれずにごめんな」と顔を見るなり言われた。故郷の名古屋市役所に長年勤務、今も嘱託の市職員を続ける、あの「パンの耳」男。「50数年間も同情され続けていた、とは」と心底、がっくり来た。先輩にも同じことを言われた。「あの時、ばてたお前にリンゴを与えたら、丸かじりして芯まで食ってしまった、よ、な」と。「なんで、こいつらは俺のトラウマだけをしっかり、覚えているのだ!」という気分だ。
この年の夏休み、一か月にわたる「韓国遠征」が行われた。2年前の65年に「日韓国交回復」がなり、早稲田大学に韓国からの留学生が目立つようになっていた。約30人の部員が韓国の山々で登山や川下り、洞窟のケーヴィングを行った。韓国ほぼ全域を回ったが、合宿途上で事件が起きた。韓国学生の意識調査を女子高で行った3人が「スパイ容疑」で逮捕・拘留されたのだ。当時はベトナム戦争の真っ最中。アメリカの要請で韓国からベトナム派兵が行われ、韓国兵の勇猛果敢な戦いぶりは北ベトナム軍やべトコンに「タイガー軍団」と恐れられていた。交流した学生の中にも「ベトナム帰り」が何人もいた。アンケート調査は韓国人留学生に翻訳してもらったが、そのアドバイスで「ベトナム派兵をどう思うか」の項目があり、学校の目に留まった。学校長の通報で警察が来て、3人はスパイ容疑で逮捕、拘束、留置された。早稲田と姉妹校の漢陽大学の体育館でキャンプを張っていた我々も、荷物を全部点検され、日本語対訳付き朝鮮語会話集(当時、韓国語会話集は存在しなかった)や在日朝鮮人作家の本等が没収された。2泊3日で容疑は晴れ、全員釈放された。韓国の新聞には一面3段で「スパイ嫌疑の日本人学生強制送還」と報じられた。実際上は皆と旅を続けたのだが。
当時、我が国では韓国の日本人による売春込みの妓生パーティーが話題になっていた。出発時、統率の幹事長が「絶対に妓生パーティーに出たり、夜の街で街娼に手を出さないこと。日韓友好にかかわる」と訓示した。このころ、ソウルは売春は合法で、繁華街、明洞地区の一角に街娼街があり、昼からそうした女性がたむろしていた。戒厳令も敷かれており、夜9時(8時だったか)には外出禁止令が出ていた。ある日、知り合いになった韓国人学生と痛飲し、禁止時刻を過ぎてしまった。郊外のキャンプ地へは帰れず、近くの高級ホテルに泊まる金もない。その学生のアイディアで、居酒屋隣の街娼街に赴き、男同士二人で貸し間で一夜まんじりともせず過ごした。無論、女性は呼ばなかった。
登山では、韓国の最高峰、済州島の漢拏(かんな)山(1950メートル)はだらだら登りが続く山でなんなくこなしたが、北東部にある第三の山、雪岳(せつがく)山(1708メートル)は花崗岩でできた切り立った峰で、新人合宿同様、頂上直下で一度ダウン。それでも頂上は極めた。
合宿最終日、ソウルに戻ってリーダーの幹事長が「男に戻るぞ!」と叫んで、明洞地区へ出かけた。何でも、大切にしてきた録音機を売って手にした大金を握りしめていた、という。驚くより、がっかりした。
合宿から帰り、夏休みが終わった後、探検部を退部した。新聞会へは2年生で入会すると決めていたので、兄が地元の大学でやっていた航空部(グライダー部)に転部した。幹事長の行動に嫌悪感を覚えたこともあるが、この部にいると、4年で卒業するのは難しい、という不安が退部の一番の理由だった。実際に卒業時、同期は軒並み留年したようだった。それから10年後、探検部部長に就任した奥島先生が現役の部員に最初に与えた第一声は「君たちは4年で卒業するとは思うなよ」と聞いた。
というわけで、探検部在籍はわずか半年。それでもOB会へ出るようになったのは、同期で戦場ジャーナリストから北朝鮮評論家になった惠谷君のお陰である。
≪4章 私のOB会山行≫
社会部記者時代に、仕事が近いこともあって、彼とは時折、顔を合わせる機会があった。一度は正月特集紙面(毎年元旦に発行する90P~100Pにも及ぶ分厚い紙面。各紙、その厚さを競争しあったものだが、今は広告事情からだろう、30~40P程度になっている)で、私のアマゾン紀行や関野吉晴さんのグレートジャーニー行を特集し、「冒険」を巡る座談会で同様、部の先輩の西木正明さんとともにパネリストとして加わってもらったこともあった。(ちなみに関野さんの「人類誕生の足跡を自分の足で辿る」グレートジャーニーは、社会部先輩、吉田俊平さんがほれ込み、出版局に移ってから関野さんの原稿と写真で飾る豪華本に近い「グレートジャーニー~人類400万年の旅」を8巻まで出版している)。
そんな縁から、惠谷君は「韓国合宿まで行った奴はOB会に出る資格があるよ」と誘ってくれ、2か月に一回開かれる「例会」に時に顔を出すようになり、数十年ぶりに探検部の先輩や同期と再会したのである。OB会山行が始まった2003年、私はまだ毎日新聞在職中で、長い休みは取れなかった。スポーツニッポン新聞に移り、役職も取締役からヒマな監査役に変わったころ、またも恵谷君が「たまにはみんなと一緒に山に登らんか」と誘ってくれた。
学生時代、探検部をやめた後も「ばてた経験」を克服したい、と国内の山行は単独行で続けた。明治大山岳部の新人訓練合宿で、ばてた体験をばねに、当代随一の探検家になった植村直己さんに比すのは恐れ多いが、気分としては、ちょっとは似たところがあった。毎日に入社してからは、名古屋時代は“家族登山”、東京社会部に来てからは、丹沢・塔の岳に登る程度だった。
私にとって初めてのOB会山行は2011年9月、北海道の利尻岳(1719メートル)登山。隣の礼文島観光を含めて3泊4日。この山は大学の卒業旅行で、北海道が郷里の母親孝行を兼ねて、一緒に道内一周したときに稚内から眺めた山であった。海から屹立した姿は山岳人ならずとも惚れ惚れする。OB会で登った日は快晴。朝から晴れ。未明から登り始め、頂上直下からが険しい行程だった。40人近い参加者で、奥島先生も登頂。降りてきてからの旅館での打ち上げは「都の西北」の大合唱で締めた。翌12年5月にはGWを利用しての台湾・雪山(3886メートル)登山。4泊5日で登山は1泊2日だった。天候は最悪。霧と雨が終日続き、海外登山ビギナーの私は、ザックカバーを忘れ、中の着替えなど装備までぐしょ濡れ。重量がぐんと増し、後輩に「荷物、少し持ちましょうか」と同情される始末。山頂では何も見えないまま、折からの雷に追い立てられるようにして下山。雪山山頂の標識だけは確認したが、どんな形状の山か、さえ分からないままの登山だった。台湾第2位の高峰で、途中の山小屋の登山道脇に「昭和天皇が皇太子のころ、登った」とする碑があった。
台湾の日本統治は、日清戦争の後、当時の清朝から日本に割譲された1895年(明治28年)に始まる。最高峰の玉山(ぎょくざん、3952メートル)は富士山(3776メートル)より高いところから、明治天皇が「新高山(にいたかやま)」と命名した。1941年(昭和16年)12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる、海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、この山の名前に由来する。
同年10月には5泊6日でベトナム行。目指す山はマレーシア半島で一番高い山、ファンシーパン(3143メートル)。ハノイから夜行列車(この寝台車がソ連製の年代物で、寝床は固く、部屋は狭くるしかった。しかし、相部屋の恵谷君の「イランでは「おしん」が人気で、田中裕子のブロマイドで税関はフリーパスだった」「アフガンでは~」等戦場話を夜を徹して語ってくれ、面白かった)で10時間。中国との国境の街、ラオカイに着き、一泊。ガイドの解説によれば、ここは1979年の中越紛争の激戦地で、中国に端を発しこの町を通り、ハノイまで流れる紅河(ホン河)は中国人兵士の血で一層赤みを増し、川底には今でも無数の白骨があるのだという。中国軍6万人、ベトナム軍2万人の戦死者を出したと聞くと、満更「白髪三千条」の話でもなさそうだ。
登山基地のサパはさらに車で2時間、フランス統治時代を思わす小ぎれいな町だった。朝食に出るフランスパンが美味しく、一層旅情をかきたてた。山登りの日、麓は晴れていたが、やがて曇りから雨。荷物はガイドが背負ってくれる(海外の山行が好きな大きな理由の一つ)。日本では全く知られていない山で、ベトナム滞在経験の長い人でも聞いたことがない、という。
登り始めると行きかう登山者はヨーロッパ、オーストラリアから来た人たちだった。大きな二つのこぶを持つような山容で、ゾウの岩といわれる一つ目のこぶを越して、大きく下り、もう一つのこぶの山頂を目指す山だった。登っている間中は、靄と雨でどこを登っているかさえ定かでない。降りてきて打ち上げをやったキャンプ地は地面がドロドロ。ガイドらが豚の丸焼きをご馳走してくれて、これはうまかった。ベトナムの経済成長で、今はこの山にロープウェイがかかり、我々が2日がかりで苦労して登った山頂がわずか数時間で行ける、と聞く。
翌13年5月のGWには、有志で台湾五山の一つ、北大武山(3092メートル)へ。台北から新幹線で南の高雄へ出て、5泊6日の旅。後輩ばかりの隊だったが、登山歴に関しては私が一番の後輩。50代の彼らの背中ばかり追いかけていた。山登り後の観光で、スタジオジブリ「千と千尋の神隠し」のモデルとなったといわれる仇分(きゅうふん)の街を独り訪ねたのは思い出となった(それにしても、タスマニアの街でも「魔女の宅急便」のモデル、というホテルがあったり、海外では、ジブリ作品の舞台と称するところを用意することが、日本人観光客へのおもてなし、と考えているのかしらん)
同10月には、四国・松山の石鎚山(1982メートル)へ2泊3日の登山。
14年5月のGWには、三度目の台湾挑戦。05年にOB会登山で既に登った玉山(3952メートル)へ、その時に参加できなかった連中6人で登る。5泊6日。この時もまた、雨。頂上手前で激しい雷雨に遭遇。他のパーティーが様子見をする中、我が隊だけは山頂へ。頂上に立った瞬間、私と後輩の間に、鋭い光線が走り、岩を直撃。遅れて耳をつんざくような爆音のような雷音。慌てて逃げ出したが、二人のどちらかに直撃していれば、命はなかっただろう。いつも探検部OB会のガイドを務め、この時も同行した林さん(台湾山岳会幹部)は、下山後「去年もね、2,3人落雷で死んでいるんだ」とこともなげだった。台湾の3度の登山は全てGW期間中で雨に見舞われた。台湾は台風の通り道で、天候が落ち着くのは11月~3月。その後、有志による台湾行はほぼ11月、となった。
下山後の台湾は、街の食い物はうまいし、どこでも温泉が楽しめる。街の人は親日的(東日本大震災の際、海外からの援助は台湾が一番だった)。お勧めの観光地である。
同14年9月にはインドネシア・ロンボク島のリンジャンニ山(3726メートル)とバリ島のバトゥール山(1717メートル)へ10日間。この年6月でスポーツニッポン新聞を退職、新聞記者・会社人生の終了で「退職記念山行」となった。
奥島先生も参加、16人の隊だった。
リンジャニ山は麓のコテージに着くと、きれいに晴れて、富士山を小型にした三角定規の山容が良く見えた。登山当日、朝から強い日差しとなる。広い野原を抜けて、山道の傾斜がきつくなってくると、土ぼこりがひどい。火山特有の地質で季節も乾季の真っ最中。小さな谷の橋を渡ると河は完全に干上がっている。火山のざらざらした土質に足を取られる。マスク持参を指示された意味が身に染みて理解できるほどに、ほこりがひどい。まばらに生える松に日陰を求めて休むが日差しの強烈さは避けきれない。キャンプサイトに近づくにつれて、今度は周囲に散らばった空き缶、トイレットペーパー、ビニール袋が山のようになり、ゴミロードと化す。キャンプ地は生ごみと排せつ物の臭いが充満。ガイドが作る夕食をかっ込んで、テント内のシュラフに早々と潜り込む。どんな場所でもすぐに眠れるのが私の得意技でもあるが、さすが3000メートル級の山だけあってかなり冷え込み、改めて起き上がり、上下のタイツをはく。
翌日は早朝2時に起床。ヘッドランプをつけての行軍だったが、夜が明けるころにはきつい登りになって、しかも火山特有のざらざら道。少し立ち止まるとずるずると後退する。富士山の砂走は下りにしか使ったことはないが、あそこを登りに使うとこんな感じになるのでは、と思った。山頂に着くと展望を楽しむ間もなく、早々に下りにかかる面々が多かった。この山、それから2年後の16年から噴火を繰り返して、今は近づきがたい山となっている。
インドネシア行後半はロンボク島からバリ島に飛ぶ。奥島先生はここからの参加だった。バトゥール山は同島内の最高峰、アグン山(3031メートル)に比べ、はるかに低いが手軽に登れる山として人気は高い。日帰り登山で、下りてきてから山麓にある温泉「バトゥール・ナチュラル・ホットスプリング」に入ったが、ここは良かった。水着で入る温泉で、露天のプール群がいくつか並び、それぞれ泳げるほどに広々している。湯温も適度。温泉につかりながらのビールは旨かった。
翌15年8月には2週間にわたるキルギス・ウズベキスタン旅行。天山山脈の西のはずれ、キルギスのアルアラチャ山塊への挑戦である。日本では知る人もない山塊だ。キルギスは周囲の国と違って、地下資源ゼロ。目立った産業もなく、観光資源を生かそうとして、この年の数年前、キルギス山岳協会会長が来日してPRに当たった。同国にいた海外青年援助隊の人脈からOB会メンバーに情報が入り、縁がつながった。
目標のウティーチェリ峰は標高4527メートル。私にとっては初めての4000メートルを超す山だ。冬山未経験者の私は、訓練でこの年3月、先輩たちの冬山合宿に合流する予定にした。ピッケル、冬山用の登山靴も備えた。ところが合宿直前、那須岳で栃木県の高校生が8人死亡、40人負傷する雪崩事故が起きた。これには完全にビビり、合宿参加を断念した。キルギス行も諦めなければ、と考えた時に、嬉しいことに「8月は真夏なので、山はアイゼン、ピッケルなしで登れる」という知らせがもたらされた。幹事に何度も念を押して、確認。同行することが出来た。
OB会9人に他の山岳クラブ3人の12人の構成。ウズベキスタン航空で同国のタシケントを経由して、キルギスのビシュケクに入った。
ビシュケクから麓のホテルまで車で行き、翌日、登山基地へ。いつもの荷物担ぎのガイドはいないため、重いザックを担ぎ、3000メートル近い標高の登山基地にたどり着くまで5~6時間の登山は、かなり高低差があり、いつになく消耗した。翌日は高山病に備えて、体を高所に慣らす日に当てられた。旧ソ連領のせいか、食事を提供するロッジの女性職員は不愛想で、飯もお世辞にも美味しいとは言えない。登山を引っ張る女性ガイドもどこか高圧的雰囲気。2泊目の夜はぐっと冷え込んだ。この時期としては「異常」という。
翌未明、目覚めると、ロッジ周辺は真っ白。この高地でも極めて早い初雪、という。
「登らずに済みそう!」と口には出さなかったが、快哉を叫んだ。キルギスまで来て、情けない感じだが、ともかく嬉しい。ところが、リーダーの矢作さんが「日が昇ると雪は次第に消えるかもしれない。ともかく登ろう」とのご託宣。一人留守番、という選択はない。一行についていく事を決める。
高度を稼いでいくにしたがって、狭い登山路こそ雪が溶けだしていたが、その周りはかなりの積雪。少しでも足を踏み外すと、雪道に突っ込んでしまいそうだ。慎重に登山路を踏みしめて行くこと、何時間かかったろうか。やっと頂上に達する。日に照らされた頂上周辺はもう数メートルの積雪。360度見渡される山塊は全て白い雪で覆われていた。4500メートル地点で照らされる日の光はサングラスをかけていても目が痛むほどにまぶしい。早稲田の旗を用意してきた人がいて、それぞれ旗を手に記念写真を撮る。
山を下りれば、ロマンあふれるウズベキスタンへシルクロードの旅が待っているのだ。
この登頂で人生最高峰に達したので、後は国内回帰、と思っていた。しかし、2年後の17年には、インド・ヒマラヤへ3週間の山行の話が出て、乗ってしまった。社会部先輩の名物記者、佐藤健さん(2002年没、60歳)が1979年に訪ねたインド・ラダックの旅と重なるコースだったから。
79年当時、入社8年生の私は中部本社報道部にいた。9~10月と2か月にわたって、アマゾンの自然破壊とそれに追われ種の絶滅に瀕する南米の新世界ザルをテーマに取材旅行を敢行していた。翌80年の正月紙面を飾るためであった。取材から帰ってきて、原稿出稿を終えた12月半ば、編集局長に呼ばれた。「正月特集の一面を君の原稿にするか、東京社会部の原稿にするか、論議になっている。東京へ行って話をしてきてくれないか」という。オイオイ、それを決めるのは編集局幹部のアンタじゃないの、という愚痴を飲み込んで東京へ。東京の担当局次長は幸い、社会部教育取材班へ一年間長期出張した折り、デスクとして教えを受けた浅野弘次さん(1986年没、61歳)だった。東京社会部の名文「三野(さんのう)」男の一人として名を馳せたこの人、無類の酒好き。局次長になってからもウィスキーの瓶を引き出しに忍ばせて、交番会議が終われば、一人ちびちびとやっていた、という。編集局の真ん中にあるソファでちょっと酒の匂いがする浅野さんと話し合ったが、私への説得のようなものだった。「社会部のサトケンが、よ、インドのラダックへ行って、(渾身の)一文を書いてきた。こちらが一面だよな」。健さんはこのころすでに「現代に宗教を問う」の「坊主になってみた」企画で、毎日のスター記者だった。名古屋のぽっと出がかなうはずもない。当時カラー化が始まったばかりの頃で、健さんの1部特集に続いて、2部に回る私の原稿・写真をカラー化することで、納得して名古屋へ帰った。健さんにしたって、自分の原稿が1部から外れることはない、と踏んでいたに違いない、と思い込んでいた。ところが、後年、社会部にきて話をしてみたら「イヤー、あの時は随分心配したんだ」という。新聞記者って原稿の前では先輩、後輩もなく平等なんだ、と改めて思った次第。
インド・ヒマラヤの旅は登山というより、健さんが行ったラダックからさらにザンスカールを回る、登山というよりは高所トレッキング。3週間、歩き詰めだったが、荷物は例によってシェルパ持ち、食事も彼らが作ってくれる。矢作さんら屈強な人たちは、未踏峰の山(インド・ヒマラヤは未踏峰の山がまだいくつかある。登頂に成功後、インド政府に定額金を納めて申請すれば、証明書を発行してくれるという)の偵察行を行った。ちょっと”弱い“私を含めた3人はキャンプサイトで留守番役。後輩が「偵察部隊の動きを見に行きましょう」というので、仕方なくキャンプサイトから少し登って見物に行く以外は、テントに寝っ転がり、当時芥川賞を取って有名になったお笑い芸人、又吉直樹の「火花」を読んでいた。
この旅で面白かったのは、最高高度5000メートルの峰まで登るとき、OB会メンバーではない他クラブのリーダーが、勢いに任せ、隊列からはるかに離れ、先を急ぎ、目的地点に我々より30分以上も早く到着した。ところが、そこでダウン。高山病を起こしたのだ。ヨーロッパアルプスやチベットヒマラヤもこなしてきた人だったが、75歳という高齢では”無理“は厳禁、ということのようだ。
(元社会部 清水 光雄)
2020年4月24日
早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊦
≪5章 岩が積み重なる山だった≫
クレイドル山に戻ろう。
2月13日朝、ダブ湖駐車場から登山路にかかった。足元は立派な木道になっている。オーストラリアの国立公園は実によく整備されており、ここでもそうだった。
タスマニア州が国立公園の遊歩道の難易度を5つのレベルに分けている。ウィキペデイア「クレイドル国立公園」によれば、下記のようになっている。
①レベル1:ブッシュウォーキング(低木地帯のウォーキング)の経験不要。道は表面が平らで硬い。階段、坂はなく、補助者がいれば車椅子で行ける。
②レベル2:レベル1と同様だが、坂や階段はある。
③レベル3:ほぼ全年齢の健康者向き。ブッシュウォーキングの経験があればあった方が良い。道の表面がデコボコ。短い急坂、多数の階段のどれかがある。
④ブッシュウォーキングの経験は必要。歩行距離は長く、道の表面はデコボコ、傾斜きつい。案内標識は少ししかない。
⑤緊急処置や地形読み取りスキルを持つブッシュウォーキング経験者向き。歩行距離は長い。道の表面はデコボコ、傾斜はとてもきつい。
私たちの登山は③~④程度から始まった。手元の山行記録をもとに再現する。
8:10 登山開始。霧が濃い。先頭は高橋(同期)、次いで高岡女史。私は3番手。リラ湖を左手に見ながらウォンバットプール登山路を行く。
8日に全員が合流してから、9日マウントフィールド国立公園ハイキングを3時間、10日タスマン国立公園ホーイ岬往復ハイキングを5時間(私は世界遺産のかつての囚人監獄施設・ポートアーサー見学に回った)、11日フレシネ国立公園・ワイングラスベイ展望台往復ハイキングで1・5時間~と足慣らしをしているので、皆の足取りは軽い。
8:40 ウォンバットピーク(1105メートル)。霧が少し晴れてくるが、視界は十分とは言えない。
ヤッケを脱ぐ。
9:40 マリオンズ展望台。本来ならば、東側下にはダブ湖、これから辿る南側にはクレイドル山の山容が見渡せるのだが、霧のためほとんど見えない。コースタイムより20分早い着。小休止。
9:50 出発。広々とした高原状の所を歩く。高低差はさほどなく、トレッキングの気分。
10:20 キッチンハット着。避難小屋である。2人も入れば満杯になる広さで、屋根裏に寝床を設けている。こちらの冬の時期、7~9月には天候が荒れるから、そんな時に使うのだろう。南極から吹き付けるモーレツな大寒波があるのだろう。随分と古びて見えるのは、風の強烈さを表しているのかもしれない。すぐ近くにトイレ小屋がある。外には4,5人で抱えるような大きなタンクが転がっている。排せつ物をためるタンクのようだ。今のトイレの下にも埋設しているだろうから、計2個。満杯になれば、取り換えて設置し、満杯のものはヘリで吊り下げて麓へもっていき、中身を捨てて、また持ってくる、ということのようだ。
トイレを済ませ、小休止する。予定では昼食時。1時間10分も早い到着で、昼食は頂上で、ということにする。復路で立ち寄って初めてわかったのだが、この地点から屏風を何枚も並べたようなクレイドル山が間近に見える場所だった。生憎というより、折よくというべきだろう。この時は霧で山容は確認できなかった。確認していれば、その、すさまじいまでの岩場の景観に、登る気が萎えていたかもしれない。台湾の玉山で、ベトナムのファンシーパンで、天山山脈で、インド・ヒマラヤで、と何度も経験したことだが、険しい山ほど登るときは霧や雨に閉ざされている方が、登りやすい。
10:40 キッチンハット出発。
岩場に出る。日差しが出てきて、ほとんど岩だらけの山道がはっきりと見える。屏風の直下にたどり着き、見上げると岩の積み重なりばかり。手足を総動員して、岩場にとりつく。滑り止めの軍手で岩をつかみ、体をグンと伸ばし、足を次の岩まで押し上げる。北アルプスの槍ヶ岳、頂上への登りが、連続する感じか。前を辿る人の足取りを忠実に追うより、自分で登りやすいところを探す。白のベンチマークや岩の間に突っ立てたポールが標識だが、すべてが正しいとは言えない。それにしても、この岩の重なりが、少しでも崩れると下に連なる人のケガは考えたくもないほど大きいものとなるだろう。数十分登ったところで、下を見下ろすとストーンと落ちている感じ。日差しが強烈だ。上着を腕まくりするが、風もなく暑いばかり。
腰を下ろせる岩場に我々と同じくらいの高齢の夫婦が座っている。聞けば、尼崎に17年暮らしていた、といい、日本語も達者だった。一行の中の大阪人が、がぜん元気づき、熱心に会話を交わす。メンバーの一人、大阪人女性はこれだけきつい岩場になるとさすが寡黙になるが、普段の山登りでは良く喋る。時にはうるさいと思うこともあるほどだが、山登りの本に「適度の会話は呼吸が自然にできるから、望ましい」と書いてあるのを見つけ、なるほどと思ったものだ。夫婦は「頂上まで行きますか」という我々の問いに「体調次第」と答えていた。岩場の復路で遭遇しなかったところを見ると、山頂を踏むことはあきらめたのかもしれない。
一つのピーク、稜線に出て、頂上かな、と思ったら、然(さ)に非(あら)ず。屏風の裏側に出ただけで、「ニセ頂上」と有名なところらしい。ここから下りになって、地底まで下りるような感じで下り、そこから、また岩場登りが連続する。手の肘を岩に乗せたり、足の膝を使ったりで「オー、しんど」。やがて隊列が崩れて、トップがいつの間にか、高橋氏に代わって、一期上の矢作、石田氏になっている。この辺がOB会登山の面白いというか、稚気あふれるというか、頂上近くになると決められた順番が崩れて、いつか体力自慢のこの二人がトップをとる。
12:10 山頂(1545メートル)へ。かなり広い平坦な場所である。天候はすっかり良くなり、360度の展望が利く。岩場の連なりのその先には、クレイドル山を超す山が見え、周囲の湖は遥か下界にかすんで見える。一番心配された最高齢者も無事、登頂を果たし、一行9人が全員、山頂を踏んだ。時計を見れば、キッチンハットからわずか1時間半。このきつい登りでは、気分的には3~4時間は登った感じである。それでも予定タイムより1時間50分も早い到着。オーストラリア人向けのコースガイドよりも早く、一同、大いに満足したものだ。

車座になって昼食となる。金沢の名店・田中屋の「きんつばや」甲府の「クルミ餅」など名産を持ってきた人がいて、差し入れを頂く。山では甘いものが美味しい。昼食のバスケットはホテルが作ったサンドウィッチとフルーツでリンゴ2個。水はペットボトルで1リットル分を飲んでしまい、ポリタンク状の水筒の1リットルも、もうさみしくなっていた。両足がちょっと吊り気味。メンバーに気づかれないように、自分で揉んで直す。両手もややしびれ気味だ。
12:40 下山開始
岩場の下りは結構、きつい。足場の岩の具合を一つ一つ確かめながら降りる。1時間以上は費やしただろうか、やっと岩場は終わり、平坦なところへ出る。
14:00 下り終えた満足感でルンルン気分。鼻歌交じりでキッチンハットに向かう。と、その時、後ろの矢作さんから声がかかる。「靴底がはがれていないか?」。一旦、止まって右足の登山靴を見る。底がはがれて、足を上げてみると、ぶらぶらしている状態。かつて何度か、他人の靴底剥がれを見ているが、私は初体験。「(靴を縛る)ガムテープ、あるよ」と言ってくれた人から、テープを借りて、靴と靴底をぐるぐる巻きにする。テープの色が白のせいで、まるで足に包帯を巻いた傷痍軍人のよう。「大抵、両足をやられるからもう片方も見ておいた方が良いよ」と矢作さん。さすがベテランは言うことが違う。しかし、左足は無事だった。
14:05 キッチンハット着。降りてきた方を眺めると、屏風状のクレイドル山がくっきり見える。写真を何枚も撮るが、よくもまあ、あんなところを登ったものだ、という感慨に浸る。
14:15 キッチンハット出発。
15:00 マリオンズ展望台。ここからの下りは、往路の経験からすると、木道が続く高低差の少ない楽勝コースのはず。ところが、木々が密生した急傾斜の下りになる。トップが間違えて急斜面のマリオンズ展望台登山路へ入ってしまったのだ。「オイ、やめてくれ。俺の靴底が悲鳴を上げているぜ」と叫びたかったが、引き返すには急登になるので余計に厄介だ。
15:50マリオンズ展望台登山路の下りが終わる。
降り切って、トップの言うことが憎たらしい。「清水の靴のこともあって、時間短縮になると思って」だと。「間違えただけだろう」と突っ込みを入れたかったが、疲れで声も出ない。
16:10 ダブ湖の北周辺を回り込んで、駐車場に出る。リーダーが携帯でチャーターバスを呼び、ほどなくバスが来る。すぐに乗り込むが、両足の吊りがぶり返す。今度はきつい。揉んでも容易には治らない。ホテルのベッドで手足を伸ばしたい。
バスはハイキング組が合流しても、直ぐに出発しない。ホテル群から往復している無料のシャトルバス優先の決まりがあって、シャトルバスの到着を待っているという。チャーターバスの運転手が時間つぶしに気を利かせてか、すぐそばの散策路に「ウオンバットが顔を出しているよ」と案内。皆、バスを降りてカメラ片手に撮影に行く。足の痛さが増している私は座席から立ち上がるのも億劫だ。「ビール、ビール」と呪文のように繰り返す。駐車場の売り場にはビールは置いていなかった。ホテルまで戻らないと、下山の最高の味、ビールにありつけない。
16:40 やっとバス出発。
17:00 ホテル着
ホバートからはるばる運び込んでいた缶ビール半ダースが我が部屋の冷蔵庫に冷えている。ここは一つ、チャリティー精神を発揮して、皆に呼びかける。夫婦と女性が遠慮して丁度6人分のビール。我が部屋で「カンパ~イ」の声が響き、わずか350ミリリットルの缶ビールのなんと貴重で、美味だったことか。
≪6章 山から下りて≫
その日の夕食は盛大な打ち上げになり、ビール、ワインを何本も明けてもまだ足りず、2次会は暖炉のあるホテルロビーで行なった。
翌14日はダブ湖周辺のサーキットが予定されていた。「誰が行くもんですか!」ホテルごもりを決め込んで、読書など。皆でランチを取った後、荷物をまとめてロンセストンへ移動。全員での夕食はこの日が最後になるので、こじゃれたレストランに乗り込んで、タスマニア最後の夜として、ビーフステーキを堪能する。 隊長の奥島先生の締めの言葉は、井伏鱒二の「勧酒」の名訳「サヨナラだけが人生だ」。
「この杯を受けてくれ/どうぞなみなみ注がしておくれ/花に嵐のたとえもあるぞ/「サヨナラ」だけが人生だ」
この言葉でタスマニアのOB会山行は終わりを告げた。
この後、私は先輩・同期5人とメルボルンへ出て、やっと終わりかけていた豪州の山火事跡や世界一の海沿いロードといわれるグレートオーシャンロードのドライブなど旅を重ねるのだが、その話は機会があればいずれ、また。
≪終章 毎日の探検部人脈≫
毎日人に探検部OBは多い(はずだ)。先輩にはいないが、後輩はかなりの数に上るようだ。OB会で良く名前が出たのは、社会部の萩尾信也君。学生時代は幹事長を務めていたとか。社会部の大川勇君の名前も何人からか聞いた。両人とも探検部を全うし、“難しい入社試験のある”毎日新聞に受かったことが、後輩から評価されているようだ。
社会部から外信部へ行った福井聡君も探検部のはず。父親が愛知県警幹部で、私は探検部先輩の“名前”をフルに活用。県警の夜回りではいつも最終地点と決め、お酒を随分と飲ませてもらった。ネタもいくつも教えてくれたのだが、私自身、酒の酔いで、社へ上がってからメモ帳の字が判読できず、特ダネを逃したものだ。東京社会部に来てからは、そんな僥倖はなかった。
社会部でデスクになってから随分と年の離れた連中で、「探検部OBのようだ」と名前を聞いたのが他部も含め、何人もいた。いまだ確認するところまでいっていないが。
(終わり)
(元社会部 清水 光雄)
2020年4月2日
90歳代の過ごし方を思う

センテリアンへ、「生涯ジャーナリスト」牧内節男さんの研鑽の日々――。
以下は「銀座一丁目新聞」2020年4月1日付「茶説」である。
牧念人 悠々90歳代の過ごし方を思う
今年誕生日が来て95歳になる(8月)。5年前に同期生たちと「五輪の会」を作って東京オリンッピクまで頑張ろうと年に2回大船の駅前の中華料理店で会合を重ねてきた。その間、あの世に往く人も少なからずあっていつも30人近く集まっていたのが最近では23名か24名ぐらいになってしまった。その東京オリンッピクが1年延期された。今年の「五輪の会」は開かれていない。この会ではいつも“知的刺激”を受けた。いつも励まされた。その都度「銀座一丁目新聞」でその会の模様を報告した。書く喜びもあった。
昨今はどうも動作が鈍い。動作は心の表現である。万事に悠長である。読みたい本があるのだが書店へ足が向かない。文章も思うように書けない。それでいて不思議に女性への関心が衰えない。最近はとみに花への関心が深くなったのにと思うのだが…。3月半ば、なくなった同期生の奥さんの電話の声を聞いて「少し落ち込んでいる」と感じたので早速俳句の本を2冊持参して訪問、「俳句を作ったり、自分の俳句をまとめたりしたらどうですか」と勧めた。また、20年ほどご無沙汰沙汰している女性(イベント企画経営)から「会いたい」とメールをしてきたので共通の知り合いの毎日新聞社会部時代の友人を誘って近日中に会うことにした。更に50年間も開いてきた会が今年解散した。この会は毎年4月はじめ靖国神社を参拝したあと懇談するのを常とした。私はこの会の発起人の後輩でこの人の本を出版したことで知己を得た。学ぶことが多く私の後半の人生を変えた。いつもこの会の司会をしていた女性を誘った。今年は二人だけで先輩を偲ぶ。
田中英道著「老年こそ創造の時代」―人生百年の新しい指針―(勉誠出版)に「老人論」として万葉集巻5-804に山上憶良の長歌が紹介されている。「この世の中で、なす術がないのは、年月が流れるように過ぎ去ることである。年月が過ぎ去るという事実は取り付いてはなれず、あらゆるものに追いかけてくる。例えば若い娘が、娘らしく振舞わって、舶来の玉を手首に巻き、同輩の若者たちと手に手を取って遊んでいる。しかし、若さの盛りは留めようにも留めることはできない。時が過ぎ去ってしまえば、黒々としていた髪には、いつの間にか霜が降りている。赤々としていた顔の上には、どこからか皺がやってくる。勇ましい若者が、男らしく振る舞って、剣太刀を腰につけ、弓を手に握り持って、馬に色鮮やかな布の鞍を置き、馬に這い上がって遊び歩く、そんな世の中がいつもそのままに続くだろうか。娘たちの寝所の板戸を押し開き、たどりよって、玉のような美しい手を絡めあって寝た夜などはいくらもなかった。なのに、いつの間にか手に手束杖を持ち、腰のあたりに頼って歩くようになってしまった。あちらにゆけば人に嫌われ、そちらにゆけば人に憎まれる。老人とはこういうものだ。命は惜しいがどうしようもない」(口語訳)
著者は憶良の考え方は仏教の「四苦八苦」から来ているとして解釈。「老年こそ創造の時代」と強調する。83歳で「蘭学事始」を表した杉田玄白は85歳まで生きた。「富嶽百景」を描いた葛飾北斎は90歳まで長生きしたとその生き方を紹介する。玄白、北斎の域は無理でも「生涯ジャーナリスト」を自認する私は多少でも文章で世の中に貢献したい。日々の生活に多少のゆとりと彩りをそえながらいいものを書くために日々の研鑽を怠らない所存である。
(牧内 節男)
2020年3月6日
元編集総務部の國井道子さん「東京都江東区の観光ボランティアガイドをしています」
3月に入って、この頃は甘い香りとともに梅が見ごろの季節です。
梅といえば私の住む江東区では学問の神様、菅原道真を祀る亀戸天神社が有名で、紅白の花をつけて見事です。こちらは藤の花も都内随一の名所です。
と、ここまで記してから、以下はガイドならではのお話を紹介致します。
亀戸では天神様のほか、江戸時代に「梅屋敷」と呼ばれた梅の名所がありました。ここは浅草の呉服商・伊勢屋彦右衛門の別邸で、庭内には多くの梅が植えられ、花の季節には江戸近郊の行楽地として、たくさんの人たちで賑わっていました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これは龍がまるで大地に横たわっているように見えるところから水戸光圀が命名したと伝えられています。これらの様子は歌川広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵で見ることができます。またこの傑作は、かの後期印象派の〝炎の画家〟フィンセント・ファン・ゴッホが摸写したことでも有名で、「日本趣味 梅の花」のタイトルで、オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館に所蔵されています。
19世紀に度々パリで開催された万国博覧会以来、日本の美術様式は『日本趣味(ジャポニズム)』として欧州各地を席巻するほど流行し、その異国情緒を感じさせる雰囲気、斬新な構図、鮮やかな色彩などにゴッホは強く魅了されたようです。


その後、「梅屋敷」は明治43年の水害ですべての梅樹が枯れ廃園となりました。
以上が、ガイドの一コマでもあります。
現在は住宅地となり、梅屋敷の案内板があるのみの場所ですが、お客様が江戸時代の様子に思いを馳せていただけるように。そして、亀戸の梅がゴッホと結びついた!!などなど、私にとっても興味深いところを皆さまに語ります。
3年前に、江東区を案内する観光ボランティアガイドの募集を区報で知り、「鬼平犯科帳の長谷川平蔵はどの辺を駆けたのかしら」と単純な動機で応募しました。半年の研修を経て『江東区文化観光ガイドの会』会員としての活動が始まりました。会の構成員は100名を越え、年齢は60,70歳代が多く、会社のリタイア組、主婦が多数です。そしてびっくりするほど健脚。会長のもと、各専門部が組織されています。会社を離れれば皆一般人で、意見をぶつけ合いながらの運営も、どこにでもみられる面白い世界です。まち歩きを通して街を知り、歴史を学びながらいままで気付かなかった場所や出来事の発見をお客様に知らせしようとする熱意は皆、共有しています。居住している身近な街なので、なおさら新鮮で興味が沸きます。私も入会の動機となった鬼平に関しては、本所深川の町おこしとして「一本うどん」が復活されたとのことで、嬉しくなり早速味わいました。楽しみながらの活動でもあります。江戸の城下町を支え、時代に翻弄されながらも歴史を作ってきた下町、江東区。昔は殆どが海で埋立地から発展してきました。現代では更なる埋立地がウオーターフロントの街として開発が進み人口も増えています。また、東京2020オリンピック、パラリンピックの競技場も多く新設されています。旧い時代に思いをはせ、これからの新しい時を共有できる街でしょうか。「楽しいまち歩き」をモットーに、ガイドとしては江戸から現代のつながりが濃い江東区の魅力を誇りに持ちつつ、充分に伝えられるようにと心掛けておりますが、まだまだ勉強不足が続きます。学んだこともすぐに忘れます…。
《参考》まち歩きガイドは現在以下12のコースがあります。観光協会を通じての申込みです。歩きは健康の素!足に自信のある旧友会の皆様、いかがでしょうか。