トピックス

2023年5月29日

大阪本社のピアノ「スタンウエイフルコン」で東京経理部長、宮田由香さんが練習=フェイスブック転載


 今日(5月26日)は久々の大阪本社出張。会議と会議の間に、何とスタインウェイフルコンで練習させてもらいました。毎日新聞大阪本社ビル地下1階のオーバルホールにスタインウェイがあるという噂を大阪にいた時に聞いていましたが、それは隣のビルの毎日文化センターのベヒシュタインのことではないか?などと思ったりして、本当にスタインウェイがあるのを確認したのは大阪を去る少し前のこと。そのスタインウェイを弾かずに終わってしまったことは大阪での心残りでした。ちなみに文化センターのベヒシュタインフルコンは2021年5月3日に弾かせていただいています(投稿あり)。日曜日に演奏会を控えていることもあり、今回は少し前にお願いしていました。

 さて、弾いてみると、初めは音が伸びず、古さを感じました。響かない。う〜ん。でもベートーヴェンのピアノソナタ第31番第3楽章に集中して繰り返し弾いていくと、自分の指もなじんできて、気持ちよく感じられるようになりました。練習も熱を帯びていき、幸せな時間に。時々演奏会に使われているようですが、昨年は1回だったとか。残念なことに埃をかぶっていました。もったいないです。スタインウェイですよ!

 今日は大阪でお世話になったたくさんの会社の人、関係会社の人と再会して、お話しして、元気をもらいました。頑張らなくては。

 大阪に2泊して、日曜日に兵庫芸文で演奏会に出て帰ります。

(宮田 由香)

2023年5月22日

日本高野連初の女性副会長に前大阪事業本部次長、辻中祐子さん

 日本高校野球連盟で初の女性副会長が生まれた。辻中祐子さん(56歳)。毎日新聞社の前大阪事業本部次長兼大阪野球事務局長である。

 記者会見で、辻中さんは「(副会長就任は)女性だからという部分が大きいとは認識している。しかし、女性であることを意識して仕事はしてこなかった。男性の方と見えるものが違う部分があるかと思うが、そこは意識せずに、今までの経験を生かして高校野球のために頑張っていきたい」と述べた。

 辻中さんは大阪府出身で、春日丘高→同志社大経済学部卒。1990年4月入社。広島支局→特別報道部→運動部→2015年運動部デスク→2018年岡山支局長。その後、大阪本社運動部長→大阪事業本部次長。2021年から大阪野球事務局長兼務となり、センバツ大会の運営に携わってきた、と公表された履歴にある。

 駆け出しの広島支局時代の支局長、63年入社の藤田健次郎さん(私は大阪社会部で府警担当が一緒だった)にメールで問い合わせると、こんなエピソードを教えてくれた。

 《1991(平成3)年のセンバツに広島県から2校出場しました。瀬戸内高校と広陵高校です。彼女に、初めての甲子園特派員を任せましたら、広陵高校があれよあれよと快進撃、ついに優勝してしまいました。彼女は、持っているようです。

 当時の広陵高校中井哲之監督はいまも監督を務め、いい人脈になるでしょうね》

 中井監督(60歳)はセンバツ優勝2回、今春のセンバツでは優勝した山梨学園に準決勝で敗れた。夏の甲子園でも準優勝2回。2022年4月、同校に発足した女子硬式野球部の総監督を兼任している。

 藤田元広島支局長の述懐は続く。《彼女に最初の転勤先を告げると、「運動部志望なので、辞めて他社を受け直す」との返事をされて困った覚えがあります。長い目でみれば実現するから、新しい職場での経験はムダにならない、となだめたことを思い出します。たしか6年目ごろ待望の運動記者になり、プロ野球やサッカーの取材をしていました。当時は女性が運動記者を志願するのは珍しかった》

 《運動記者の間にドイツ留学をして、サッカーの造詣を深めていたようですし、プライベートではサーフィンを楽しんでいると聞いています》

 そして《ぼくも一緒に飲んだことがありますが、アルコールに強いようです》とも。

 元副社長・大阪本社代表の迫田太さん(91歳)からメールが入り《北新地の居酒屋「ふ留井」の常連で、令和2年3月、私の米寿誕生日祝いを宮本二美生君が「ふ留井」で開いてくれた時、辻中さんも出席して祝福してくれました》と。

 「ふ留井」のますみ女将も、辻中さんの高野連副会長に、さぞ喜んでいることでしょう。

 ことしのセンバツでは、甲子園球場で女性マネジャーがノックバットを振るっている。初の女性副会長、辻中さんに高校野球のさらなる発展・改革に期待大である。

(堤  哲)

2023年5月11日

広島サミットを機に、「被爆地の思いを伝えて」とモーリー・ロバートソンさん

 ——父は米国人の医師で、母は日本人のジャーナリストでした。5歳の時、米国から広島に移り住みました。原爆の人体への影響を研究するため米国が1947年、広島市に開設した「原爆傷害調査委員会」(ABCC)で、父が勤務することになったからです。

 小学生の頃、放課後にABCCのロビーで、父の仕事が終わるのを待つ間、読みふけったのが、原爆の惨劇を描いた漫画「はだしのゲン」でした。近所の駄菓子屋のおじさんから原爆の話を聞いたり、家に届く新聞で被爆者が描いた生々しい絵を何度も見たり。被爆地で起きたことを知るうちに、中学生の頃には、世界中の人が広島に来て平和について考えるべきだと思うようになっていました。

 読売新聞社会面で11日朝刊から始まった「広島サミットに望む」第1回。国際ジャーナリスト、モーリー・ロバートソンさん(60歳)の訴えである。

 見出しは「被爆地の思いを伝えて」。

 母親ロバートソン黎子(旧姓蒲田)さんは元毎日新聞記者。晩年は夫トーマスさんとともに米国で生活、ワシントンのナショナルプレスクラブの会員となって、ジャーナリストとして活動していた。トーマスさんは2017年没83歳、黎子さんも2020年、88歳で亡くなった。

(堤  哲)

(2003年撮影)
(2009年撮影)
 
トーマス・ロバートソン、黎子夫妻

2023年5月11日

将棋観戦記者37年、山村英樹さんに注目!

 大変な将棋ブームである。11日付朝刊には藤井聡太王将(20歳)が第71期王座戦の挑戦者決定トーナメントで初戦を突破、ベスト8に進んだという記事が載っていた。

 見出しは「藤井、8冠へ好発進」。藤井は8つのタイトルのうち6つを保持(竜王、王位、叡王、王将、棋聖、棋王)。現在名人戦7番勝負で渡辺明名人(39歳)に挑戦中で、王座戦で次戦から3連勝して永瀬拓矢王座(30歳)の挑戦者になれば、年内8冠達成の可能性がある、というのだ。

 今期の王将戦も羽生善治九段(52歳)が挑戦者となり、話題を呼んだ。勝負は、藤井王将が4勝2敗で羽生九段を退け、王将位を初防衛したが、週刊文春は今週発売の5月18日号から連載「いまだ成らず 羽生善治の譜」を始めた。

 筆者は、ノンフィクション作家鈴木忠平さんだが、いきなり毎日新聞の将棋観戦記者山村英樹さんが登場する。

 山村さんは1958年生まれ。京都大学囲碁部OBで、81年入社。86年東京本社学芸部に異動、囲碁・将棋の担当になった。観戦記者歴37年の大ベテランである。

 羽生は1970年生まれ。85年に中学生でプロ棋士となり、89年初タイトル竜王位を獲得。1996年2月14日、全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)を独占した。そして2017年12月、初の永世七冠(永世竜王、十九世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将、永世棋聖)を達成した。名誉NHK杯選手権者の称号も保持、2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与されている。

 羽生が名人位に初挑戦したのは、第52期(1994年度)。相手は、前年に長年の宿願を果たして初の名人位を史上最年長で獲得した50歳の米長邦雄(2012年没69歳)であった。

 連載第1回の最後に、米長の名人位就位式の模様が出てくるが、その会場に22歳の羽生がいた。米長は挨拶で、次の挑戦者は羽生になるであろう、名人位は1期で終えることを示唆している。

 山村観戦記者の活躍を含め、連載に注目だ。

 ネットで検索していたら、山村記者の名人戦の解説があった。参考までに。

 「将棋の棋士は江戸時代から存在しますが、当時は幕府の保護下にありました。プロのタイトル戦はそれまで世襲制だった名人を実力制にしたのが始まりで、毎日新聞の前身である東京日日新聞が企画しました。当時は娯楽が少なかったので、囲碁・将棋を新聞に載せれば読者の興味を引けると考えたのです」

(堤  哲)

2023年5月8日

北海道・松前で「平和を願う桜」記念碑序幕に、英国から阿部菜穂子さん

=毎日新聞北海道版転載

松前公園に建立された記念碑の除幕式に参加した浅利政俊さん(左端)、隣りが阿部菜穂子さん=北海道松前町で2023年5月5日、三沢邦彦撮影

 「桜」を通じた英国との交流が盛んな松前町の松前公園で5日、日英平和友好親善の礎となる記念碑の除幕式が行われた。30年前に英国に桜の苗木を贈った七飯町在住の桜研究家、浅利政俊さん(92)と、英国で松前桜の植樹を進める英オックスフォード大植物園のベン・ジョーンズ園長(45)らが出席し、鮮やかに咲き誇る桜の下、交流を深めた。

 記念碑は浅利さんが町に贈った。1863年、松前で座礁した英国商船から乗組員19人を救助したことが日英友好の礎となったと記されている。

 浅利さんは江差町で小学校の教諭をしていた1957年から桜の植栽や品種改良に取り組み、松前公園を桜の名所につくり上げた。93年には英ウィンザー王立公園の依頼を受けて58種の苗木を贈り、松前桜はその後、英国内の公園で育てられるようになった。

日英友好の礎、記念碑除幕 「平和願う桜」を世界に 松前公園 /北海道(毎日新聞 2023年5月6日)

 郷土研究家でもある浅利さんは、第二次世界大戦時に函館捕虜収容所で多くの英国人らが命を落としたことから「松前桜は平和と友好への思いを込めた『償いの桜』だった」と振り返る。この日の除幕式では、ロシアによるウクライナ侵攻が続くなか、「思いやりを持てる心を生かし、友好親善活動を発展させてほしい」と話した。

 英国では、英貴族のジェイソン・ゲイソンハーディ卿が松前桜を生かした公園づくりを進めるほか、オックスフォード大植物園も数百本の桜を植樹する計画を進めている。ジョーンズ園長は「浅利さんが英国に贈った桜は世界各地に広がっている。『松前』の名が世界中に広がっていることを誇りに受け止めてほしい」と話す。

 浅利さんの「償いの桜」のエピソードは、英国在住のジャーナリスト、阿部菜穂子さんの著作「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」で紹介されている。除幕式に出席した阿部さんは「松前公園の素晴らしい桜の価値を世界に発信してほしい」と話した。

(三沢 邦彦)

※前触れの「GW松前さくらまつりで日英親善の桜イベント」は3月27日に掲載されています。

2023年5月2日

大阪空港騒音公害訴訟はなぜ、最高裁大法廷に回付されたかー32年前の特ダネ紙面を元司法記者、三浦正己さんがNHKETV特集で振り返る

 「誰のための司法か〜團藤重光 最高裁・事件ノート〜」。NHKのETV特集で、そんな硬派の1時間番組が4月15日深夜に放映され、もう32年前に書いた記事を取り上げるとともに、ディレクターのインタビューを受ける形でほんの短時間ながら登場しました。

 著名な刑法学者で東京大学教授を経て最高裁判事を10年近く務めた団藤さんが生前、最高裁での裁判にずっとかかわった大阪空港訴訟のメモを詳細に大学ノート38冊に書き残し、遺族から龍谷大学に寄贈されました。その大学ノートの記述を読み解くことで、劇的な展開をたどった裁判経過の内実に迫り、司法の在り方を問いかけようとしたのです。

 こうした展開の骨格は、毎日新聞で報じていた内容でした。

<空港の公共性と被害救済の接点が問われ、百年に一度の大裁判といわれた大阪空港騒音公害訴訟で、最高裁の評議がいったん、最大の争点だった飛行差し止めを認める結論に固まっていたことが、関係者の証言で明らかになった。担当の第一小法廷は一九七八年の時点で、そのまま判決を出すつもりだったが、当時の岡原昌男長官の意向を受け、直前に大法廷に回付した。差し止めを却下し、司法の流れを決定づけた大法廷判決から十年を経て、秘められた逆転の審理経過が判明した。>

 1991年12月12日朝刊=写真・上。1面の前文を再録しました。3面に一緒に取材した河野俊史記者と連名の解説、社会面に関係者の3通りの証言、と全面展開の紙面になりました。

 1年前の1990年11月1日、司法百周年を迎えたのを機に、企画「検証 最高裁判所」を1面で計10回連載しました。取材班でテーマを決める中で、大阪空港訴訟の逆転審理は是非とも取り上げたかったのですが、あと一歩、詰め切れませんでした。

 その後、補足取材を重ね、最有力の取材源として団藤さんにも何回かお会いしました。最後の確認を兼ね、河野記者と二人で軽井沢の別荘にも団藤さんを訪ねています。これで取材は尽くしたと確信が持て、岡原長官(当時)からは「大法廷で審理してはどうかというようなことを、あるいは言ったかもしれない」と消極的肯定のコメントが得られました。そして、高揚感と達成感を抱え、記事化に踏み切ったことでした。同時期に、10回の連載企画を改めて書き起こした形で出版しましたが、そこでも大阪空港訴訟の章を新たに設けることができました。

 放映の中では、記事取材時の想定を超える団藤さんノートの記述が、ドラマ仕立てで取り上げられました。それによると、団藤さんも属する第一小法廷の岸上康夫裁判長が、法務省から大法廷回付の上申書が出た翌日、長官室を訪れると、別の二つの小法廷の裁判官一人ずつもいた。そこに電話が鳴り、岡原長官が受話器を取り上げて岸上裁判長に渡したところ、先輩で法務省経験もある村上朝一元長官からで、大法廷回付を要望された――という話を岸上裁判長から聞いた、というのです。団藤さんは怒りを隠せず、「この種の介入は怪しからぬことだ」とノートに書きつけていました。

 僕もコメントを求められて登場していますが、「団藤さんが介入だと受け取ったということでしょう」と、是非の判断は避けて抑制的な発言を心掛けました。確かに極めて異例の場面ですが、元最高裁長官の一言で大法廷回付が決まったわけではないし、あくまでも第一小法廷がどう判断したか、です。その場にいた岸上裁判長から団藤さんへの伝聞であり、どんなニュアンスが実際には込められていたのか、も少し気になったからでした。

 この点の受け止め方はともあれ、かつての団藤さんとの取材メモを読み返してみました。すると、ありました。村上元長官からの要望のことだったのかな、とも推測できるのです。

 「(長官が)岡原さんでなけりゃ、(大法廷回付は)絶対あり得なかった」と断言した後で、団藤さんはこう続けています。「あなた方が想像されているほかに、もう一つ、困ったことがありますよ。その点は、取材の能力の問題じゃなくて、ちょっと出てこないでしょう。当時の調査官にも、『とんでもない、あっちゃいけないことが起きた。けれども外には言わないことにしよう』と話したんです」と。

 うーん。このつぶやきは、やっぱり村上元長官の一件を指していたのだとの思いが、日を経るごとに強まっています。

 付記ながら、番組でどう取り上げられるか分からないのと気恥ずかしさもあって、ETV特集に出演することは特に話していませんでした。でも、司法記者クラブで一緒だった人たちには伝わり、一人からは「奥ゆかしすぎる」とお𠮟りを受けました。再放送、録画、見逃し配信ありで、観てくれた人が広がり、このHPの編集に携わっていて司法記者クラブの先輩の高尾義彦さんから寄稿の要望を受け、お引き受けしました。

(元社会部 三浦正己)

※写真はNHK・ETV特集から

2023年5月2日

写真の「江成常夫賞」にびっくり、感激ー横浜支局同人だった倉嶋康さんのFB転載

 晴れた皐月の風に誘われて、京王線の終点とJR横浜線が交わる相模原市の橋本に行ってきました。ここはリニア中央新幹線の神奈川県駅(仮称)が出来る場所で、新駅建設と周辺整備の大掛かりな工事が進んでいます。

 品川-名古屋間を40分で結ぶリニアは、静岡県知事の強硬な反対で工事が立ち往生しているそうです。相模原に住む私は「都心までわずかひと駅で行けるのに」と自分勝手なことを考えていますが、地域エゴは横に置いて、駅前は連休で大変な人出でした。

 人だかりしている掲示板をのぞいてびっくり。相模原は全国の自治体でも珍しい写真文化のイベントを20年余続けていることで有名です。プロ、アマそれぞれの部に優秀賞などを出すほか、アジア賞には中国、台湾、韓国、インド等14ヵ国の写真家が受賞しています。そこに今度は「江成常夫賞」も作られたという紹介ポスターでした。

 江成さんは相模原市田名に住むプロの写真家で、土門拳賞と木村伊兵衛賞を受けた超ベテラン。社会的な作品が多く、写真集も数多く出しています。自分の作品をそっくり市に寄贈したことでも有名。その名を冠した賞が出来て当たり前です。

 でもそんなことよりも、私にとりましては60年近く昔に、毎日新聞横浜支局で机を並べて一緒に仕事をした仲なのです。2人組んで海に出て、沖仲士、海上保安官、シップチャンドラー、釣り船などを取材して「港に生きる」という連載もやりました。「ペンの倉嶋、カメラの江成」と言われた時もあったのです。懐かしいな、江成君、おめでとう。

(倉嶋 康)

 江成常夫さんは1936年相模原市生まれ。1962年、東京経済大学を卒業し毎日新聞入社。74年に退社しフリーに。アメリカに住む日本人の戦争花嫁や中国残留孤児、旧満洲国、原爆など主に日本の負の遺産を撮った写真で知られる。

「フォトシティさがみはら」、節目に「江成常夫賞」を創設(神奈川新聞 2020年6月22日)

 写真文化を広く発信しようと、2001年に始まった相模原市の総合写真祭「フォトシティさがみはら」が今秋で20回目を迎える。節目を記念し、事業の創案者で市内在住の写真家江成常夫さんの名を冠した「江成常夫賞」を創設する。

 フォトシティさがみはらは、日本を含むアジア地域で作家活動をしているプロ写真家と全国のアマチュア写真家による写真展を開催。シンポジウム、親子写真教室など、さまざまな参加型のイベントが市内各所で開かれてきた。

 こうした活動が写真文化の振興に寄与したとして、06年には「日本写真協会賞・文化振興賞」を受賞、11年には「日本写真家協会賞」を受賞している。

 新たに創設される江成常夫賞は今年を含めた20年間で、プロの部で受賞した80人から最も優秀な写真家に贈られる。その後は5年ごとに設けられ、5年間で最も優秀な写真家を選ぶ。

2023年4月24日

「人をつなぐ 物語をつむぐ~毎日メディアカフェ9年間の挑戦」をカフェ責任者の斗ヶ沢秀俊さんが報告

カフェのファイナルイベントで講演する斗ケ沢さん

 毎日メディアカフェは2023年3月末、9年間の活動に幕を下ろした。2014年4月の設立以来、約1000回のイベントを実施し、延べ5万人以上の参加者が訪れた。活動内容の概要を以下に報告する。

 下野新聞社が宇都宮市内に「ニュースカフェ」を開店し、2013年の新聞協会賞(経営部門)を受賞したことをきっかけに、毎日新聞社内で、読者や市民と交流する場を開けないかと模索する動きがあった。採算が取れないという理由でとん挫したことを知った私は2013年12月、私が本部長を務める水と緑の地球環境本部と協力関係にあった市瀬慎太郎・イーソリューション社長に相談した。「水と緑の地球環境本部のオープンルーム(縦横約6メートル×6メートル)を毎日メディアカフェとして、一般の人が自由に入れるようにする。そこでは、時々、イベントを開催する。企業・団体に年間20万円の協賛金をいただいて運営する。協賛企業・団体には1年間に3回まで、毎日メディアカフェでイベントを実施することができ、イベントは毎日新聞東京都内版で記事掲載される」という基本骨格を2人でまとめた。経営会議に「毎日メディアカフェ」の企画書を提出した。経営会議で事業の意義と展望を話したところ、「5社以上の協賛を獲得したら開設してよい」との結論を得た。年間20万円という設定は、企業のCSR部門をターゲットにしたためだ。宣伝部や広報部などの部署に比べて、CSR部門の予算は少ない。これを考慮して、「CSR部門が出せる金額」にした。

 市瀬さんはアドバイザーを務めていたプレシーズ社にも協力を依頼した。私と市瀬さん、プレシーズ社員が協賛社集めの営業に回り、2014年3月中に8社の協賛を得て、同年4月の開設が決まった。4月8日のオープニングイベントでは、科学記者として人気の高い元村有希子記者に講演してもらった。

 当初、イベントは週に1、2回だったが、次々に企画が持ち込まれるようになった。毎日新聞記者が自身の取材や記事について語る記者報告会、シリーズ化された「元村有希子のサイエンスカフェ」、毎日新聞出版の新刊とタイアップした出版記念イベント、広告掲載と連動したイベントなど、会社関連のイベントのほか、協賛企業・団体のCSR(企業の社会的責任)活動、NPOの活動報告、東日本大震災被災地支援のイベントやマルシェ(市場)などがあった。

 新聞社は「情報、人や組織とのネットワーク、発信手段を持つ」という特性がある。私は毎日メディアカフェを「新聞社の特性を生かした、本業に根差すCSR」と位置付けた。

 毎日メディアカフェには、数多くの著名人が登壇した。ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里さんと物理学者の早野龍五・東京大学教授が「知ろうとすること。」(新潮社)の出版を記念して登壇した14年10月の「『知ろうとすること。』からはじめよう」は毎日ホール(定員180人)がすぐに埋まった(肩書・所属は当時、以下同様)。早野さんは後に、日本将棋連盟会長の佐藤康光さんとの対談(17年7月)も企画してくれた。将棋界では、「ひふみん」の愛称で人気の高い加藤一二三さんも新著「幸福の一手 いつもよろこびはすぐそばに」(毎日新聞出版)の出版記念イベント(18年12月)で講演してくれた。ジャズクラリネットの大御所である北村英治さんは85歳だった15年1月、当時コラムを連載していた「栄養と料理」誌の企画で登壇し、トークと演奏をしてくれた。今年の大阪府知事選に立候補して話題となった憲法学者の谷口真由美さんは毎日メディアカフェ教育シンポジウムで基調講演するなど、複数回登壇した。評論家・編集者の荻上チキさんも常連登壇者だった。

 イベントの内容は原則として、私が当日中に毎日メディアカフェのフェイスブックページに2000~3000字程度の詳報を掲載し、その後、毎日新聞東京都内版に40行前後の記事を掲載した。毎日メディアカフェは一般から提案された企画も、「社会的意義がある」「参加者に学びがある」と判断した場合は受け入れて実施した。

 協賛企業・団体には企業や商品の宣伝ではなく、CSR活動報告や参加者に役立つ情報提供をしてもらった。カシオ計算機の時計「Gショック」の開発物語は、「壊れない時計」という1行の企画書から始まり、研究室の3階から何千回も時計を落とす実験をしたという話が好評だった。日本労働組合総連合会はワークルールや教員の長時間労働などをテーマに、シンポジウムを重ねた。アラムコ・アジア・ジャパンはサウジアラビアの文化を知るシリーズ企画を実施した。2019年には、協賛企業・団体は32に増加した。企業・団体にとっては、容易にイベントを開催できて、その報告がフェイスブック、毎日新聞に掲載されるという、とてもコストパフォーマンスの良いシステムだった。

 記者報告会は、いくつかの種類に分けられる。一つは新聞協会賞を受賞した記者の報告会だ。2014年、「認知症のいま」をあぶり出し、社会を動かした渾身のキャンペーン「老いてさまよう」の銭場裕司記者に登壇してもらったのが最初だ。2017年に開催されたのは梅村直承記者報告会「新聞協会賞受賞 ボルトも驚がく 日本リレー史上初の銀」。2019年には、「強制不妊 旧優生保護法を問う」出版記念記者報告会が開かれ、2018年度新聞協会賞受賞のキャンペーン報道「旧優生保護法を問う」の取材班から、仙台支局の遠藤大志記者、生活報道部の上東麻子記者、医療福祉部の藤沢美由紀記者、地方部の栗田慎一デスクが登壇した。

 人気が高かったのは校閲記者報告会だった。最初は平山泉記者に登壇を依頼した。平山記者はわざと間違いを散りばめた1面ゲラを用意し、参加者に校閲体験をさせるワークショップをして、参加者から絶賛された。この後も、複数回の校閲記者報告会が実施された。本の出版を機に記者報告会を開いた記者も何人かいる。この中には、1945年8月18日に横浜市のカトリック保土ヶ谷教会で、神父が射殺死体で発見された未解決事件を取材した「封印された殉教」(上下巻、フリープレス社刊)を著した佐々木宏人OB記者報告会「神父射殺事件を取材して見えてきたもの」(2019年6月)も含まれる。78歳での登壇だった。

 大きな話題を集めたのは記者報告会「SMAP紙面と編集記者の仕事」(2016年2月)。 報告したのは、毎日新聞東京本社情報編成総センターの佐々木宏之記者と塩崎崇記者。「SMAP解散か?」のニュースが流れた1月13日、スポーツ面を担当していた佐々木記者と塩崎記者は、SMAPのヒット曲名を見出しにあしらうことを考え、「青いイナズマ」「らいおんハート」など計8曲(地域によっては9曲)の曲名を、14日朝刊スポーツ面に散りばめた。この紙面は「SMAPへの愛情に満ちあふれた紙面」として、SNSで拡散され、多くのテレビ番組で取り上げられた。2人は曲名を散りばめた経過を語った。この報告会を詳報したフェイスブック記事は2万人以上に拡散された。

 私が福島支局長経験者(2005~07年)だったこともあり、東日本大震災被災地支援イベント、特に福島県関連のイベントを多数実施した。菅野典雄飯舘村長、ラジオ福島元アナウンサーの大和田新さんなどに来ていただいて話をしてもらった。

 毎日メディアカフェ登壇者は原則として、謝礼なしだった。「毎日メディアカフェを利用して交流・発信をしたい人に、無料でシステムを提供する」との考え方にしていた。もちろん、イベントごとに謝礼を払う余裕がなかったことも背景にある。それでも、登壇希望者は数多くいた。2017~19年は、年間150回のペースでイベントを開催した。

 しかし、コロナ禍で状況は一変した。オンライン開催に取り組んだものの、イベント回数は激減した。打撃になったのは、協賛企業・団体が離れていったことだ。イベントを開催できないなら、協賛の意義がない。協賛企業・団体は3分の1になり、収支は悪化した。社内では、新規事業見直しの動きが出ていて、2022年12月から23年1月にかけて、毎日メディアカフェも見直しの対象となった。私は意義を主張したが、事業の将来性が疑問だという判断になり、経営会議で毎日メディアカフェの終了が決まった。

 毎日メディアカフェから生まれた「学びのフェス」という事業がある。2014年に始めたイベントで、企業・団体の出前授業を集めたイベントだ。毎年春夏の2回開催で、コロナ禍により4回中止したが、「学びのフェス2022春」から実践女子大学渋谷キャンパスを会場に再開した。私の最後の仕事となった「学びのフェス2023春」には親子1400人が集まり、盛況だった。幸い、学びのフェスは意義と将来性が認められ、存続になった。

 毎日メディアカフェの9年間は私にとって、夢のような9年間だった。毎日メディアカフェによって、多くのつながりが生まれ、物語がつむがれた。マスメディアへの厳しい意見がSNSで多く語られる中、毎日メディアカフェの取り組みは多くの方から評価してもらった。毎日メディアカフェは毎日新聞社の「開かれた新聞」を具現化する試みだった。それはいったん途絶えることになったが、こうした取り組みはいずれまた、必要になるに違いないと確信している。

(斗ヶ沢 秀俊)

斗ヶ沢秀俊さんの略歴
 1957年、北海道赤井川村生まれ。東北大学理学部物理学科卒業、1981年毎日新聞社入社。静岡支局、東京本社社会部、科学環境部、ワシントン支局、福島支局長、科学環境部長、水と緑の地球環境本部長、健康医療・環境本部長を歴任。2014年毎日メディアカフェを設立、責任者を務める。2023年3月、定年退職。

2023年4月21日

元生活報道部の鈴木あつこさんが群馬県議に、トップ当選

選挙運動中の鈴木あつこさん(尾中香尚里さん撮影)

 毎日新聞生活報道部時代の後輩で、統一地方選の群馬県議選(4月9日投開票)に立憲民主党から立候補した鈴木あつこさんが、堂々のトップ当選を果たしました。

 私自身は政治部の出身ですが、鈴木さんとは生活報道部でデスクと一線記者の間柄だったため、正直言って、彼女と「政治」がほとんど結びついていませんでした。

 しかし、聞くところによると、鈴木さんはその後に前橋支局で県政を担当した時、記者会見などで山本一太知事と堂々と渡り合う姿が立憲民主党県連の目に止まり、1年半前の群馬県議補選への出馬を打診されたとのこと。

 記者の仕事が大好きだったはずの鈴木さん、たぶん相当悩んだと思いますが、思い切って転身を決意。見事当選を果たしました。

 思えば生活報道部の頃から、鈴木さんは「生きづらさを抱える人たち」の問題にしっかりと目を向け、精力的な取材を続けていました。問題に取り組むための舞台が、報道から政治に移っただけであって、本人の志は何も変わっていなかった。だからこそ、短い期間で多くの有権者の皆さんの心を捉えたのだと思います。

 しかし、比較的ハードルが低かっただろう補選と違い、今度は本選です。鈴木さんにとって、事実上初めての本格的な選挙と言えました。

 陣営からの依頼を受け、私も高崎での総決起集会にお邪魔して、生まれて初めて応援演説をしてきたのですが、その時に見た鈴木さんの成長ぶりに、本当に驚かされました。

 「これ以上イエスマンが増えてもしょうがない!」

 そう言い切った彼女の語り口は、もはや後輩記者のそれではありませんでした。

 完全に政治家でした。

 総決起集会の際にもお話ししましたが、新聞記者としての鈴木さんを失ったのは、毎日新聞社のみならず新聞業界の大きな損失だと思っています。

 でも、その損失を補ってあまりあるほど、これから政治家・鈴木あつこが大きく育っていくことを心から願っているし、それを信じています。

 生活報道部で彼女とともに仕事をしてきた仲間たちも、そう信じているはずです。

 でも本当に大変なのはこれから。どうか身体に気をつけて、これからも頑張ってほしいと願っています。

 この場をお借りして恐縮ですが、群馬県にお住まいの方、またお知り合いがいらっしゃる方、どうぞ鈴木あつこの挑戦を、厳しくも温かく見守ってください。

(尾中 香尚里)

 鈴木さんは1981(昭和56)年生まれ。奈良女子大学文学部卒業(英国に1年留学)後、派遣社員を得て2005年に毎日新聞社に入社。前橋支局で記者生活スタート(以来、群馬県在住)。中越沖地震や東日本大震災の被災地取材を経験。その後、東京本社生活報道部を挟んで2016年から再び前橋支局。近年は主に行政分野を担当した。2021年に退社し、同年の補欠選挙で初当選。家族は夫と子ども2人=本人の公式サイトから

2023年4月20日

大谷翔平「ルースが建てた家」100周年記念日にアーチ描く

 これは、1923(大正12)年4月20日付大阪毎日新聞の社会面最下段の記事である。

 100年前の4月18日、ニューヨークで行われたボストン戦でベーブ・ルースが3ランホーマーを放ち、ヤンキースが4-1で勝った、という内容だ。

 東京日日新聞にも同じ記事が載っていた。

 100年後の同日、エンゼルス大谷翔平は、ニューヨーク・ヤンキースタジアムで右中間に2ラン本塁打を放った。

 毎日新聞19日付夕刊にこうある。

 ——1923年4月18日に旧ヤンキースタジアムが開場した。現球場の隣にあった旧球場はベーブ・ルースがヤンキース移籍後に観客を呼び、資金を潤沢にさせてから建設されたことで「ルースが建てた家」と呼ばれた。(大谷は)「野球の神様」も本塁打を量産した地で、100周年の記念日にアーチを描いた。(共同)

 大谷は、なんて運の強い男なのだ、と思う。以下はネットから拾ったこの日の大谷の笑顔である。

(堤  哲)

2023年4月18日

内外切抜通信社(近藤義昭社長)が毎日新聞WEBサイトで紹介されました

あらゆるメディアの情報を収集する職人集団

 毎日のように発売される新聞や雑誌をはじめ、ウェブメディアやSNSに至るまで、現代は膨大な量の情報にあふれている。その中から自分にとって必要な情報をピックアップして集めるのは至難の業。プロゲーマーとして活動する傍ら、ライターとしても活動する筆者すいのこも、記事作成にともなう情報収集をよく行うのだが、本当に骨の折れる作業だ。

 そんな手間暇かかる情報抽出の作業を代行してくれる「クリッピング」なる仕事があるそうだ。一体どのような仕事なのかを知るため、クリッピングを専門とする内外切抜通信社へ向かった。

 内外切抜通信社は1939年創業。80年以上の歴史を持つ会社だ。20代から40代の比較的若い世代が社員の大多数を占めている。

 オフィスに入ってまず目に飛び込んできたのが、新聞や雑誌、PCのディスプレイを凝視する社員たちの姿。静かな空間の中、極限まで集中して記事や紙面の情報を追いかけているその様子は、さながら受験を控えた図書室のようだ。彼らはリサーチを行う調査担当と呼ばれる社員だと、営業部の西川さんは説明する。

西川 1日のほとんどをひたすら読む作業に費やします。担当は大まかに新聞、雑誌、ウェブの3部門に分かれます。どんな風に仕事を進めるのか、実際にクリッピングの仕事を体験してもらいましょう!

以下、下記のURLで
https://mainichi.jp/sp/naigai2023/?dicbo=v4-4C90LQd-1131164443&fbclid=IwAR0E736uvmmUEQgcHWVbitF2RZWNqZtwpcDUuY1ayiEcvJx1khcsy53fdoU

取材・文 桑元康平
1990年、鹿児島県生まれ。プロゲーマー。鹿児島大学大学院で焼酎製造学を専攻。卒業後、大手焼酎メーカー勤務などを経て、2019年5月から2022年8月まで、eスポーツのイベント運営等を行うウェルプレイド・ライゼストに所属。現在はフリーエージェントの「大乱闘スマッシュブラザーズ」シリーズのプロ選手として活動中。代表作に『eスポーツ選手はなぜ勉強ができるのか』(小学館新書)。

2023年4月17日

毎日新聞事業部勤務だった貝塚健さん(63)が千葉県美術館新館長に 未来につながる道筋を

 =4月16日付千葉版から転載

千葉県美術館新館長の貝塚健さん

 石橋財団アーティゾン美術館(東京都中央区)の学芸員から、県立美術館の第29代館長に就任した。来年開館50年を迎える同美術館の活性化を託された、初の外部登用だ。「自分の原点に立ち返り、後世に誇れる仕事をしたい」と意気込む。

 幼い頃から両親に連れられ、東京・上野の美術館で芸術に親しんだ。都立白鷗高校時代はサッカー部と美術部に掛け持ち入部。「自分の絵の才能に自信が持てず」美大進学は断念したが、東大で美術史を専攻した。

 卒業論文のテーマにしたのは、館山の漁村を描いた青木繁の「海の幸」だった。「作品が持つパワーが何か、なぜ自分が引かれるのか追求したかった」といい、今も答えを探し続けている。

 その青木に導かれるように1989年、「海の幸」を所蔵するブリヂストン美術館(2019年、アーティゾン美術館に改称)の学芸員に就き、主に日本近代美術の調査研究や展覧会の企画に携わった。念願の「海の幸」にも関わることができた。

 95年1月17日、阪神大震災が発生すると、全国美術館会議による緊急対策として美術品を保護するため、1週間後に神戸市に赴いた。がれきと化した街並みに言葉では言い尽くせない衝撃を受けた。「なぜ美術が存在するのか、という問いを突きつけられた気がした。同時に、美術館をなくしてはならない。人間が生きていくために美術館は絶対に必要だと確信した」という。

 県立美術館の活性化のため、外部有識者の一員として昨年度まとめた骨子案を土台に、具体化した基本構想を策定するのが当面の課題だ。「後世の人たちに『当時の人たちが頑張ったから今の美術館がある』と言ってもらえるよう、未来につながる道筋を付けて次代に引き継ぎたい」【柴田智弘】

 ■人物略歴
貝塚健(かいづか・つよし)さん
 1959年、東京都中野区生まれ。東大文学部美術史学専修課程卒業。西武百貨店、1988年4月、毎日新聞入社、東京本社事業部勤務を経て1989年10月、石橋財団ブリヂストン美術館学芸員に。学芸部長、教育普及部長などを務めた。2023年4月から現職。

2023年4月17日

新聞小説の挿絵で活躍した大阪の画家たち

 「大阪の日本画」展が東京駅丸の内北口にある東京ステーションギャラリーで開かれている(毎日新聞社共催、6月11日まで)。

 「出品作家は50名超え! 躍動する個性が集結」とうたい、「浪速の女性を表現した北野恒富(1880-1947)、女性画家活躍の道を拓いた島成園(1892-1970)、大阪の文化をユーモラスに描いた菅楯彦(1878-1963)、新しい南画を主導した矢野橋村(1890-1965)、女性像にモダンな感覚を取り入れた中村貞以(1900-1982)など。大阪の街で育まれた個性が、展示室を賑やかに彩ります」。

 大阪といえば「大毎」「大朝」だが、図録に「大阪の新聞連載小説の挿絵について」を学芸員の田中晴子さんが書いている。

 「明治から昭和初期にかけて…印刷部数を格段に伸ばした新聞の発展期に、大阪で活躍した日本画家たちも紙面で大衆と繋がっていたのである」

 「当時大阪には毎日と朝日との2新聞よりなかった…朝日の小説が当たると…毎日のほうも負けていないので競争となる」

 大毎には歌川国峰、稲野年恒、坂田耕雪、織田東禹、多田北嶺ら、大朝には武部芳峰、三谷貞広、稲野年恒、山内愚仙(僊)、赤松麟作らの専属画家がいた、とある。

 新聞に写真が掲載されるのは1904(明治37)年からで、大阪では「大毎」が12月5日、「大朝」は翌05(明治38)年2月11日からである。

 活字で埋まった紙面の息抜きは、連載小説の挿絵だった。「新聞小説の挿絵で、一つ抜きんでた画家が、北野恒富の師である稲野年恒だった」と田中さんは紹介している。

 稲野年恒(1858~1907)は「大毎」で活躍し、1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会に大毎から派遣されているが、1902(明治35)年に「大朝」に移籍した。

 この紙面は、濃尾地震の惨状を伝える「大毎」1891(明治24)年10月29日付1面。稲野年恒画である。毎日新聞百年史には、記者4人と共に稲野を派遣した、とある。

 稲野は明治23年2月入社。「本社の挿絵画家は歌川国峰と2人となり、陸海軍大演習と第3回内国勧業博覧会に特派、その模様を絵によって報道した」(百年史)。

 朝日新聞で夏目漱石の「虞美人草」の連載が始まったのは1907(明治40)年6月からだが、「東京の読者には受けたが関西では一向に受けなかった」「挿絵を入れたらどうか」となって第1回文展で2等賞を受けた野田九浦(1879~1971)が「大朝」に入社。翌年の1月1日から連載が始まった夏目漱石の「坑夫」から挿絵を描き始めた。

 第7代大毎社会部長斎藤徳太郎(悳太郎、渓舟、部長在任1920年6月~翌21年3月)は、『京阪作家の印象』(大毎美術社1931年刊)を出版しているが、今回展観されている画家のうち北野恒富、島成園、菅楯彦、矢野橋村ら7人を自宅に訪ね、その時の模様を記している。

 ゆうLUCKペン第45集の「社会部長列伝」には、斎藤を《1900(明治33)年1月発行の「新小説」に懸賞小説で永井荷風を抑えて1等になった「松前追分」が掲載された。神戸新聞から入社。渓舟名で『女官物語』(1912年刊)、悳太郎名で『関雪詩存』(39年刊)と『二十六大藩の藩学と士風』(44年刊)を出版している》と紹介したが、斎藤は『京阪作家の印象』に「大毎美術に10年」と書いているから、大毎社会部長を務めあげて、すぐ大毎美術社に移ったとみられる。没年を調べたが判明せず、唯一「不明」とした。

(堤  哲)

2023年4月13日

「論文書いてるんじゃないんだから」と入社当時にデスクからー科学ジャーナリスト青野由利さんが東京大学「学内広報」1568号に寄稿

 「論文書いてるんじゃないんだから」

 今から40数年前、新聞社に入社し、研修を終えて配属された支局のデスクに言われた一言だ。

 大学での専攻は薬学だった。それでなぜ新聞社へ?という疑問は置いておくとして、最初は警察回りや地域の街ダネを書くところからのスタート。いったい何がニュースなのか、何が記事になるのか、さっぱりわからず、警察官がせっかくウィスパーしてくれたネタも、「?」と思ったまま、数日後、他紙に抜かれていた。

 そんな中で言われたデスクの一言が、どんな原稿への苦言だったかはすっかり忘れてしまった。ただ、その時、少しムッとした記憶がある。「論文のように正確に書くことの何が悪いの?」という気分だったはずだ。

 以来、一般記事、解説記事、インタビュー記事、連載、社説、コラムなどさまざまな記事を書き続けてきた。入社5年目からは科学担当として、論文を読み、学会をカバーし、研究者や官僚に取材する日々。

 その中で、「科学コミュニケーションとは何か」を立ち止まって考えたことは、たぶん(申し訳ないけれど)一度もない。それより、限られた時間で、締め切りに間に合うように、過不足なく記事を書く、ということが至上命令だった。

 気が付けば「論文じゃないんだから」は、当たり前になっていた。それどころか、取材先に「新聞は論文じゃないので」と言いかけたことさえある。

 何が違うのか。いろいろあるが、当然のことながら読者が違う。論文の主たる読者は同じ分野の研究者で、専門用語も、書き方の作法も、知識も考え方も共有している。「この話が通じるか」と悩むことは少ないだろう。

 新聞はそうはいかない。読者は科学に馴染みのある人ばかりではない。論文と同様の正確さにこだわっていては、まったく通じない。「読者に伝わらなければ書かなかったことと同じなんです」と取材先を説得したこともある。

 かといって、正確さは二の次というわけではない。誰が読者なのかを念頭に、正確さとわかりやすさのバランスをいかに保つか。鍛錬は今も続いている。

 実は、研究者の中にもそのバランスが優れている人たちがいる。私の経験上、そういう人は、研究者としても優れていることが多い。それは何故? については、また別の機会に。

(青野 由利)

 青野由利さんは80年入社。東大薬学部を卒業した後、東大大学院総合文化研究科修士課程修了。1988~1989年フルブライト客員研究員としてマサチューセッツ工科大学に在籍している。科学環境部、論説室などに在籍、2020年に日本記者クラブ賞受賞、客員編集委員。

東京大学「学内広報」は下記URLで
https://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1568/03column.html#インタープリターズ・バイブル

2023年4月10日

土門拳賞『満洲国の近代建築遺産』に大毎大連支局の写真

 ことしの第42回土門拳賞に写真家船尾修さん(62)が選ばれた。写真集『満洲国の近代建築遺産』(集広舎刊)によるもので、船尾さんは2016年から中国東北部に通い、かつて日本が各都市に造った数多くの建造物を調べ上げ、記録した。

 新京/長春67枚、大連75枚、旅順37枚、奉天/瀋陽53枚、ハルビン/哈爾濱58枚、その他の地方都市80枚。計370枚が掲載されている。


 この写真集を図書館から借りてきて、パラパラめくっていたら大毎大連支局の建物が出てきた。船尾さんの説明書きによると、設計は小野木横井建築事務所の横井謙介で、施工は福昌公司。1925年竣工。2017年11月撮影とある。

 現存しているか分からないが、ネットで検索すると、反対側から撮った写真が載っていた。

 「欣圓賓館」とあるからホテルになっているのであろう。

 支局新築落成祝賀会が1925(大正14)年5月10日に行われている。翌11日付「大阪毎日新聞」1面下にベタ記事で載っている。

 本社大連支局の披露

 【大連特電10日発】本社支局開設披露会は、銀婚奉祝の佳節10日挙行された。

 五層の支局は装飾の新意匠を凝らし、内部には本社の事業統計表、模型等その他で、説明的に陳列し、来賓は大連旅順その他各地の名士七百余名で関東州内の名士という名士殆ど顔揃いの態で支局内園遊会が大賑わいをなした。

 本社からは高木専務、松岡経済部長、大内支局長、その他総掛りで来賓の接待、陳列品の説明等に当たり、模擬店も開かれて和気談笑湧くが如く。いずれも支局開設を祝福した。

 「銀婚奉祝の佳節」とは大正天皇の結婚25周年のお祝いのことだ。

 初代支局長は大内秀麿。この年に『女の一念・妖女の恋 : 支那伝奇物語』を大阪毎日新聞社から出版しているが、ネットで検索すると、明治末は米子通信部主任、1915(大正4)年の御大典のときは京都支局、その後、名古屋支局長、関門支局長を歴任して、1925(大正14)年3月に大連支局の建設中に初代支局長に任命された。

 余談ながら大毎本社からの経済部長松岡正男は、日本のラグビールーツ校慶應義塾蹴球部の草創期中心メンバー。大毎は1926(大正15)年1月にラグビーチームを結成、「関西における実業団チームの第1号」(『関西ラグビーフットボール協会史』)といわれた。

 松岡は、60歳を超えて超OB戦に出場、「世界最年長のラグビープレーヤー」と新聞記事になった。羽仁もと子の実弟である。

 翌26(大正15)年には、大連支局開設1周年の記念イベントを支局のホールで開催しているが、その時の支局長は石村誠一。慶應義塾大を卒業、NYコロンビア大学に留学している。紳士録には「大連三田会会長」ともあった。

(堤  哲)

2023年4月6日

森林認証って? 「日本林政ジャーナリストの会」滑志田隆会長

質問する滑志田隆会長(左)とマイケル・バーガーPEFC本部事務局長/CEO

 「ヨーロッパ各国は80%、アメリカ15%、日本は10%です。森林認証の意味は何でしょうか」

 「日本林政ジャーナリストの会」会長の滑志田隆さん(71歳)=社会部OB=が、世界最大の森林認証制度PEFCの本部事務局長/CEOマイケル・バーガー氏に質問した。

 森林認証制度とは、適正に管理された森林から切り出された木材などに認証マークを発行し、持続可能な森林の利活用・保護を図る制度のことで、「森林・林業白書」(令和3年)によると、日本の森林面積2,494万haのうち認証面積は252万haである。

 滑志田会長から「タマにはこんな勉強もしてみたら」と誘われて、講演会をのぞいたが、話がまったく分からない。???だった。

 「日本林政ジャーナリストの会」の案内には《グローバル経済化の進展と共に、外貨の稼ぎ出しに狂奔するアジア諸国にとって、原材料としての木材資源は重要な輸出品目です。これに伴い、無秩序な森林開発が国土や生態系の保全を脅かしている実態も否定できません。1992年地球サミットの「森林原則声明」の趣旨を反映した「国際森林認証制度」の意味が問われるところです》とあった。

 改めて「森林・林業白書」から。《2020年の世界の森林面積は約41億haで、陸地面積の31%を占める。森林面積は、アフリカ、南米等の熱帯林を中心に減り続け、森林減少面積は2010年から10年間の年平均で470万ha、新規植林等による増加を考慮しなければ年平均1,020万ha》にのぼるのだ。

 国連では、1992年の「国連環境開発会議」(地球サミット)で「森林原則声明」を採択、2015年9月の国連サミットで「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択され、SDGs(持続可能な開発目標)が示された。

 「持続可能な森林の経営」。森林認証は、そこから生まれた。認証制度の第三者機関は①FSC(Forest Stewardship Council森林管理協議会、1993年設立)②PEFC(Pan European Forest Certification森林認証プログラム、1999年設立)③SGEC(一般社団法人「緑の循環認証会議」、2003年設立、日本独自の認証制度)があり、PEFCの認証面積が世界最大だ。

 滑志田さんは、リオ・デ・ジャネイロで開催された92年地球サミットを現地で取材している。『地球温暖化問題と森林行政の転換』(2007年刊)の著書もある。

 俳人でもあり、小説家でもある。サツ回り時代に遭遇した旧ソ連領空で起きた大韓航空機撃墜事件(1983年9月1日発生)をテーマにした小説『埋もれた波濤』(2018年刊)、『道祖神の口笛』(2021年刊、いずれも論創社)を上梓している。

 《ゆうLUCKペン第45号掲載の「落ち椿余録」も、小説化、5月に「論創社」から二千部ほど出してくれることになりました》と滑志田さん。

(堤  哲)

2023年4月5日

終刊の「週刊朝日」と「サンデー毎日」両編集長が対談

週刊朝日4月14日号

 5月末で終刊となる「週刊朝日」がライバル誌「サンデー毎日」と編集長対談をしている。

 「101年のライバルとして、同志として」

 「週刊朝日」渡部薫(95年入社、2021年4月から編集長)と「サンデー毎日」城倉由光(95年入社。2015年10月から編集長をつとめたあと早大大学院で学び、昨年4月編集長にカムバック)。

 カットに1922(大正11)年創刊の表紙が使われているが、週刊朝日は2月20日付「旬刊朝日」、4月2日付第5号から週刊誌化した。サンデー毎日は、第1号が4月2日。

 城倉 大阪堂島界隈の飲み屋でサンデー毎日が出ることを朝日新聞の人が聞きつけて、急いで「旬刊朝日」を創ったという伝説がありますが、真相は藪の中ですね。

 渡部 トイレで聞いたという話もあって、とにかく一日でも早く出せと。それで先に「旬刊朝日」で出して、4月2日にサンデー毎日と一緒に週刊にした。

 大阪では、「大朝」と「大毎」がしのぎを削っていた。

 あとは「週刊朝日」を読んで下さい。

(堤 哲)

2023年3月29日

「キャンパる」が夕刊から朝刊へ 「キャンパる」卒業生にも見守られ

 東京版・西部版の火曜日夕刊に掲載されてきた「キャンパる」が、4月から朝刊の地域面(東京本社管内)に移行することになりました。

キャンパる卒業生と現役学生の交流会も今年2月、3年ぶりに開催でき、 大いに盛り上がりました

 学生記者が取材し、記事を執筆する「キャンパる」は、1989(平成元)年の2月に夕刊(当初は土曜日夕刊)での掲載がスタートし、今年で34年の歴史を数えます。多くの大学の学生が自主的に集い、取材するテーマや題材の選定から実際の取材、記事執筆まですべて学生が自力でこなす、新聞業界では他に例をみない毎日独自の紙面ですが、この間活躍の舞台はずっと夕刊でした。ですので、より読者が多い朝刊への移行は「キャンパる」にとって、発刊以来の大変大きな変革となります。

 私は2020年4月、前任の内山勢さんから編集長の仕事を引き継ぎました。初代の堀一郎さんから数えて、10代目の編集長となります。

 この4月で就任して丸3年。この3年間は、新型コロナウイルスとの苦闘の3年間でもありました。感染予防のための行動制限の要請を受ける形で、「キャンパる」も2020年度、2021年度の2年間は、本社に集うことをやめ、リモート会議ツールを利用したオンライン会議で学生たちと話をせざるをえない期間が長かったです。

 取材も対面ではなく、オンラインのケースが急増しました。でも取材できるならまだましで、予定していた取材が取材相手の感染でキャンセルになったり、取材するはずだった学生が感染して取りやめになったりと、思わぬ事態に何度も遭遇しました。それでも、学生諸君のやる気と取材相手の皆さん、関係部門のご理解、ご協力に支えられて、なんとか紙面掲載を続けることができました。

 紙面を無事に掲載できるかどうかの心配とともに、もうひとつ大きな心配事がありました。それは、対面活動を原則的に取りやめたことによって、学生同士、私と学生、そして社会の第一線で活躍する「キャンパる」卒業生と現役学生の間の交流までもが難しくなってしまったことです。人と人との信頼関係や友情、親愛の念は、やはりお互い会って、議論をしながら、お酒を飲みながら、少しずつ固まり、高まっていくものです。オンラインだけのつながりでは、やはりダメなんだといろいろな場面で痛感させられました。

 幸い、コロナ感染対策の緩和もあって2022年度は徐々に対面活動を増やし、「キャンパる」卒業生と現役学生が直接会って親睦を深める交流の場も、3年ぶりに復活させることができました。試練の3年間を何とか乗り切って、やれやれというところなのですが、安閑としているひまもなく、今度は朝刊移行というチャレンジに直面しているのが現状です。

 大きな節目に直面して、これまで先輩方と「キャンパる」卒業生の皆さんが大事に積み上げてきた伝統と実績に傷をつけることなく、さらに充実した紙面作りに励む所存です。先輩方にはこれからも温かく見守っていただければ幸いです。

 地域面で常駐するのは東京版。第2、第4水曜日組みです。その他の県版は、東北を除くエリアで随時掲載という形になります。キャンパる編集部も本社の各出稿部門と同じく、デジタル版記事の先行掲載、デジタル限定記事の掲載を頑張っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

(キャンパる編集長 三島健二)

※元編集長、下川正晴さんのフェイスブック(2月27日)から

 鹿間玲子、フィンランドから一時帰国。元毎日新聞学生記者。長女ルミちゃんは、もうすぐ4歳。隣は、学生記者のキャップ・あすか姐さん(現パラスポーツ記者)。

2023年3月27日

GW「松前さくらまつり」で日英親善の桜イベント

 元毎日新聞記者というより桜大使・阿部菜穂子さんのオンライン講演会が25日午後7時から行われた。東洋文庫ミュージアム(文京区本駒込)で開催中の「フローラとファウナ 動植物誌の東西交流」展(5月14日まで)に伴うもので、演題は「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」。日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した自著(岩波書店2016年刊)の題名である。阿部さんはロンドンの自宅書斎からパソコンの画面を操作しながら1時間半にわたり、日英の桜物語を話した。

英語版の著書と自宅書斎から講演する阿部菜穂子さん

 「日本の桜を救ったイギリス人」コリングウッド・イングラム(1880~1981)は、1902~26年に3度訪日、多種多様な桜を持ち帰った。英国ケント州ベネンドン村のイングラム邸の庭園では120種類もの桜が咲き誇った。

 一方、日本ではソメイヨシノ一色となり、日本で絶滅した白い大輪の花をつける「太白」(たいはく)は、イングラムの桜園から里帰りしている。

 パワーポイントの画面で、アッと思ったのは、次の写真だ。

 沖縄へ飛び立つ特攻機を女高生が桜の小枝を持って見送っている。知覧基地でこの写真を撮影したのは、西部本社のカメラマン、早川弘(ひろむ)さん(81年逝去64歳)である、とこのHPで紹介したばかりだったためだ。

 阿部さんは、『同期の桜』の歌から《特攻機で「桜のように散る」ことを強要された事実は、西欧社会ではまったく知られておらず、特別に興味を持たれた》という。

 この写真は、英語版に掲載されている。毎日フォトバンクから購入したそうだ。

 日英の民間の桜プロジェクトも進行中で、1万本の桜を日本人から英国人にプレゼントする計画があり、すでに英国各地に7千本以上が植樹されている。

 阿部さんはGWに英国からの「桜使節団」を率いて北海道南端の松前公園を訪問し、桜を通じた日英の交流イベントに参加するという。現地では毎年、「松前さくらまつり」(今年は4月22日~5月7日)が開かれ、交流イベントはこの期間中に行われる。

浅利政俊さん

 松前公園には、250種、1万本の桜が4月中旬から1か月にわたって次々に開花し、お花見を長く楽しめる。多品種の桜を植樹したのが、元小学校教諭の「桜守」・浅利政俊さん(92)だ。

 「松前桜」は、浅利さんが創作した116品種の桜の総称。浅利さんは1993年にロンドン郊外ウィンザー城のある「ウィンザー・グレート・パーク」に友好の証として58本の松前桜を贈っている。2016年5月、英王立園芸協会(RHS)関係者の来日を記念して日英桜文化友好親善記念碑が松前公園内に建てられている。

 阿部さんは、桜の愛好家で英国東部・サフォーク州に桜公園を創っている貴族、ジェイソン・ゲイソーン=ハーディ卿や英オックスフォード大学樹木園の研究員、ベン・ジョーン氏らとともに公園を訪問、浅利さんと再会する。

 さらに知りたい人は、阿部菜穂子さんのHP www.naokoabe.com で。

(堤  哲)

2023年3月22日

英国在住の阿部菜穂子さんが「チェリーイングラムと桜」のズーム講演

阿部菜穂子さんのメールを以下に転載します

写真は彼女のフェイスブックから

 東京は染井吉野がほぼ満開だそうですね。
 気候変動で年々開花が早くなっているようですね、将来が心配です。
 実は25日夜(日本時間)にチェリー・イングラムと桜、英国での桜植樹の発展などについて日本語でズーム講演します(無料ですが申し込みが必要です)。もしお時間が許せば、と思ってご連絡しました。

http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/lecture/lecture_list.php

(阿部菜穂子)

2023年3月20日

挨拶3分、史上最短? センバツ開会式の松木健社長

 センバツが18日開幕した。95回の記念大会で、参加は例年より4校多い36校。選手全員がグラウンドを1周する入場行進は4年ぶりだった。写真はいずれもNHKテレビから。

 出場全チームがバックネットを目指して行進!ここで仕掛け花火が走る、派手な演出はなかった

高松商・横井亮太主将の選手宣誓
君が代独唱、高松一高・中村心澪(みれい)さん

 21世紀枠で初出場の徳島・城東高は、選手12人。49年前、1974(昭和49)年センバツの「さわやかイレブン」池田高(徳島)を思い出す。大阪社会部時代に酒井啓輔さんと私(堤)で担当した大会だった。

 池田は優勝戦まで勝ち進み、準優勝旗を手にした。蔦文也監督がイレブンを厳しく鍛えたが、城東は女子マネの永野悠菜さんがノックバットを振るう。入場行進でプラカードを掲げて先頭を歩いたのは永野マネジャーだ。

21世紀枠で初出場の城東(徳島)は選手12人。プラカードは、永野悠菜マネ

 主催の毎日新聞・松木健社長も初出場。優勝旗返還が初仕事で、そのあと大会会長の挨拶。

 「36校の選手が、甲子園球場の土を踏みしめ、力強く入場行進する姿を見て、胸を打たれました。出場校が一堂に会した開会式は、4年ぶりです。皆さんは青春まっさかりの時期に、新型コロナという困難に直面しながらも努力を重ね、周囲の人たちの支えを借り、憧れの舞台にたどり着きました。センバツは、飛躍に向けた礎を築く大会でもあります。全力でプレーをし、甲子園で得た経験を糧に、ポストコロナの時代に羽ばたいてください。甲子園を思い切り楽しんでください」

 これは19日朝刊に載った挨拶だが、これがほぼ全文だ。最後に「選手の皆さん、甲子園を思い切り楽しんでください」と言ったあと「終わります」。時間は、3分ほど。95回を数えるセンバツ大会で、最も短い大会会長挨拶だった、と思う。

(堤  哲)

2023年3月10日

「芳幾・芳年」展(三菱一号館美術館)と東京日日新聞など

 三菱一号館美術館で開催中の「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」(4月9日まで)展に、明治時代銀座通りの名物だった「日報社」社屋を描いた作品が展示されていた。

 山田年忠画「銀座街之夜景(写真は図録から)」。「日報社」の文字はガスによるイルミネーションにより夜でも浮かび上がって見えることが評判であった、と説明にある。銀座のランドマークだったのだ。

 落合芳幾は、1972(明治5)年に「東京日日新聞」を条野伝平、西田伝助と3人で創刊した。創刊の地浅草から銀座煉瓦街に進出したのは74(明治7)年2月。その3年後の77(明治10)年1月銀座の真ん中に移転した。銀座2丁目→尾張町1丁目(現銀座5丁目)へ。

 「東京日日新聞」は、呉服店「蛭子屋」跡を入手、1909(明治42)年3月に有楽町へ移転するまで32年間銀座に本拠地を置いていた。

 幕末を代表する浮世絵師、歌川国芳(1797-1861)の門下で腕を磨いた歌川(落合)芳幾(1833~1904)と月岡(大蘇)芳年(1839~92)。良きライバルとして人気を二分した。

 新聞錦絵のコーナーは、写真撮影可。以下は芳幾の「東京日々新聞」。

 これは館内に貼り出された感想。

 「芳幾の洒落」のコーナーも撮影可。「当世娘に聟八人」がこれだ。

 そういえば「東京日日新聞」主筆・福地源一郎(桜痴)の肖像画も飾られていた。

 三菱一号館美術館は、この「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」展終了と同時に休館、修繕工事に入り、2024年秋、再オープンする予定だ。

(堤  哲)

2023年3月6日

テレビ出演が増えている『オッサンの壁』佐藤千矢子論説委員

 写真は、BSTBS「報道1930」の画面を写したものだが、月刊「文藝春秋」3月号の有働由美子さんとの対談が面白かった。ダイジェストしましょう!

 見出しは、ズバリ「私自身がオッサンでした」。

 有働由美子 (『オッサンの壁』講談社現代新書の)本の帯に〈全国紙初の女性政治部長が克明に記す「男社会」のリアル〉とありますが、私も拝読して「わかるわかる!」と2㌻に1回は頷いていました。

 佐藤千矢子 2017年に政治部長になる前から、全国紙でも社会部や外信部には過去に女性部長がいました。私は「オッサン」を男性優位の現状を維持しようとする人と定義していますが、とりわけ全国紙の政治部にはオッサンが多く、なかなか女性初が出なかったんです。

 有働 佐藤さんは1987年に名古屋大学卒業後、毎日新聞社に入社。初任地は長野支局で、ワシントン特派員時代にはアフガニスタン紛争やイラク戦争、米大統領選挙も取材され、政治部では首相官邸キャップなどを歴任された。

 佐藤 3年半のワシントン特派員生活を終え、東京の政治部に復帰してから外務省、与党の各キャップ。次に2006年から07年までの第1次安倍政権で首相官邸キャップを任されて。同じ経歴を歩んできた男性記者の先輩たちがたどったルートから、次はデスクに上がるかなと思っていたのですが、川崎支局長に異動を命じられたんです。

 有働 政治部を外れたことがあったんですね。

 佐藤 首相官邸キャップが地方支局長に出るのは、それまでなかった異例の人事でした。当時の部長から辞令を言い渡されたとき、唐揚げ定食を食べながらポロポロ泣きました。

 佐藤 「ガラスの崖」と言って、困ったときにリスクが高い役割を女性登用の名のもと担わせて、その“女性初”が成功すればもうけものだし、失敗すれば「やっぱり女性はダメだ」と言って崖から突き落として使い捨てにしているんですよね。

 有働 数々の「オッサンの壁」を乗り越え、政治部長になられたわけですね。なぜ佐藤さんは旧体質の中で政治部長になることができたと思われますか。

 佐藤 恥ずかしながら、私自身がオッサンだったからです。

 有働 えっ、それはどういうことですか?

 佐藤 昔は女性記者には2つの道しかなかったんです。1つは、完全にオッサン化して男性と同じように働く道。もう1つは、体力的にきつかったり家庭を大事にしたりすると、「文化・暮らし関係の別の仕事をするのは認めるけど、出世は望まないでね」と別のトラックに移される道。

 有働 なぜ「オッサン」の道を選ばれたのですか。

 佐藤 もし私が結婚して子どももいたら、ここまで男性と同じようにオッサン化して働く道は選ばなかったと思います。でもたまたまそうではなかったので、男と同じように競争してみようと考えたんです。「女性登用が進まないのは女の能力不足や努力不足じゃない。登用しない方の問題だ」と主張したい。そのためには男性と同じように働けると体を張って証明しなくてはいけないと、若い頃の私は考えてしまったんですね。ジェンダーの研究者からは怒られそうですけど。

(堤  哲)

2023年2月27日

木村葉子毎日小学生新聞編集長がBS11に出演

 「毎日小学生新聞」の木村葉子編集長が24日夜のBS11報道ライブインサイドOUTに出演、「おもしろいぞ!小学生新聞」の魅力をたっぷり語った。

 1936(昭和11)年12月22日創刊の「毎日小学生新聞」は、昨年6月11日、3万号を迎えた。最長の歴史を誇る。購読料は、月1,750円(税込)。

 すべての漢字にルビがついている。「ニッポンか、ニホンか。ケンキュウショか、ケンキュウジョか。いちいち確認の電話を入れます」

 最近の人気は、「論語くん」と「てつがくカフェ」。

 「論語くん」は、論語をまんがで紹介するが、「面白い」と好評だ。

 「てつがくカフェ」は、大学教授らの哲学者3人が「答えのない問い」に格闘する。「普通って?」「何故学校へ行かなくてはならないの?」「お金と命どちらが大事?」「親はなぜ怒るの?」「私は誰のもの?」などなど。

 中高生向け週刊新聞「15歳のニュースデジタル」も毎週土曜日に発行している。

 「読者には、93歳の方もおられます。ちょうどいい分量と言っています」と木村編集長。

 編集長自らも執筆していて、こんな記事を書いていた。

 全員が背番号「42」を着ける日 「人種の壁」破った選手 2022年4月23日付

 ――みなさん、こんにちは。アメリカ・大リーグの大谷翔平選手15日、待望の本塁打を2本放ました。大谷選手が着けた背番号は、いつもとは違う42番。他の選手全員同じ背番号でプレーしました。この日はある選手をたたえる、特別な日だったのです。

 私は野球について、苦い思い出があります。新人記者の大切な仕事の一つが、野球の取材です。でも私は、野球をほとんど見たことがなく、ルールもわかりませんでした。背番号、打順、ポジションの番号……。数字がいくつも出てきて、さっぱりわかりませんでした。そんな私が、もし選手全員が同じ「42」の背番号を着つけた試合を取材したら……。きっと目を回してしまうでしょう。

 背番号「42」は、1947年にブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャースに入団した大リーグ初の黒人選手、ジャッキー・ロビンソンの背番号です。人種差別が続いていた1900年代前半のアメリカでは、黒人選手は白人中心の大リーグでプレーすることを禁じられていました。黒人だけのリーグで活躍していたロビンソンですが、スカウトの目に留まります。そしてついに大リーグデビューを果たしたのが、1947年4月15日でした。差別的な言葉や、行為を受うけながらも耐えて活躍。黒人だけでなく、中央・南アメリカ系のヒスパニックらの大リーグ入りの道を切り開きました。

 ロビンソンをたたえるために、大リーグでは97年に全球団で「42」を永久欠番化。2004年にはロビンソンが大リーグデビューした日を、記念の日と定めました。(後略)

 先日亡くなった松本零士をはじめ、手塚治虫、藤子不二雄、園山俊二らがデビューしたのが「毎小」。

 作家の故田辺聖子さんは、小学生の頃「両手を大きく拡げて『毎小』を捧げ持ち、大人がいつもやっているように顔をあちこちに動かして、好きな記事を拾い読みした」と、創刊60年を記念して出版した『毎日小学生新聞にみる 子ども世相史』(1997年刊)に書いている。

 タブロイド判は、小学生向けにぴったりだったのである。

(堤  哲)

2023年2月20日

元経済部長、佐々木宏人さんが静岡県立大学で「宗教・ジャーナリズムを考える」ズーム講演(佐々木さんのフェイスブックから転載)

 イヤー疲れた。16日に静岡県立大学のジャーナリズム講座での「神父射殺事件と宗教とジャーナリズムを考える」というタイトルのZoom講演。

 翌17日は朝5時半起きで、都心での本来の仕事の8時からの朝食会の講演のサポート役。その前の準備が色々あり、両方のイベントとも無事終わりホッとしたのだが、その後何が悪かったのか女房共々、食中毒、激しいトイレ通いに参った参った。どうにか今日やっとFBを書く気力が出てきた。

 16日の静岡県立大学での講座では、同大特任教授の軍事評論家・小川和久先生のお誘いで安倍襲撃事件前に出て欲しいといわれ、これまでこの終戦後3日後に横浜・保土ヶ谷教会で射殺された戸田帯刀横浜教区長については、何回か各地の教会、平和団体での集会などでの講演をこなしてきたので「その調子でやればいいや!」と気楽に引き受けた。

 しかし安倍事件で旧統一教会、カルト宗教の問題で状況は一変、この問題を避けては通れないと腹をくくって、戦前天皇制国家下での宗教弾圧、戦後の宗教問題とジャーナリズムの問題を勉強しなおした。

 イヤー本当にこの問題、考えれば考えるほど難しい。何とか一時間チョットで講演を終わり、一時間の質疑応答タイム。

 付け焼刃の勉強ではとても対応できない鋭い質問が続々、往生した。81歳の老人、自分で話していて論理矛盾、人の名前が出てこない⋯⋯。近々、YOUTUBEにアップされるようだが、認知症の程度がどこまで行っているか誰か診断して。

 とにかくZoomイベントは何回か聞いているが、自分がホストになるのは初めて。当方のオーラルヒストリーをやって下さっているメディア研究家の校條諭さんがCTO(最高技術責任者)としてかけ付けて下さり、側で付きっきりで指南して下さった。写真まで取って下さった。ありがとうございました。

 7月に靖国神社近くの女学校・白百合学園の母体のシャルトル聖パウロ修道女会で、戦前の宗教弾圧時代のカトリックの状況を話すよう頼まれている。

 「ボク車いすなんですが⋯⋯」というと、「大丈夫です。お迎えに上がります」。いとも気楽に言われるので、考えてみれば今の各地の修道女会、当方より年上のシスターばかり。車イスは必需品。

 マー時間があるので、ゆっくり考えよう。

※講座「神父射殺事件を取材して 宗教・ジャーナリズムを考える」の動画です。
https://www.global-center.jp/holding_guidance/20230216/

このURLをクリックすると、講座案内がご覧になれます。
https://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/events/gc20230216/

第12回 神父射殺事件を取材して 宗教・ジャーナリズムを考える

静岡県立大学ジャーナリズム公開講座は今年度、全13回の講座を開講します。
講座の目標は「ジャーナリズムの向上による民主主義の成熟」です。

現在、日本ではジャーナリズムの位置付けが希薄で、とりわけ専門知識が問われる安全保障、危機管理、科学技術分野においては、十分な検証能力を備えていない印象さえあります。
そのような日本の現状を打開し、日本と静岡の安全と繁栄を確かなものにしたい。それが、本公開講座のねらいです。

第12回の2月16日は、元毎日新聞中部本社代表・東京本社経済部長の佐々木宏人氏が「神父射殺事件を取材して 宗教・ジャーナリズムを考える」について講義します。

2023年2月20日

鹿児島支局の記者だった杣谷健太さんが書店を開いた

=岩松城さんのフェイスブックから転載

【宮下正昭さん(元南日本新聞記者)のコメント】

 杣谷(そまたに)健太さんは毎日新聞の記者でした。鹿児島支局や宮崎支局にも勤務していたことから同紙の西部版では紙面で毎日のように名前を見ていました。原発や障害者問題などを精力的に書いていらした印象です。『毎日新聞』は事件事故報道でも署名記事が基本で1996年から続けています。事件事故の被害者や容疑者の実名を報じることを自らに課しているマスコミですが、報じる側は匿名が一般的です。実名報道を隗より始めているいい新聞社だと思います。『長崎新聞』もそうでしたが、最近、紙面を見る機会がなく、確認できていません。

 杣谷さんはその毎日新聞社を昨年辞めて、鹿児島市の名山堀に書店を開いたと本日(2月17日付)の『南日本新聞』が報じています=写真。鹿児島市役所前にある名山堀は古い木造家屋が密集して、昭和のかおりがぷんぷんする飲み屋街。でもその飲み屋が少しずつなくなっています。杣谷さんは元飲食店の長屋の一画で書店を始めたようです。新刊書中心に古本も。きっと店主のかおりがにじむ本屋さんでしょう。行ってみたいです。

2023年2月14日

中井良則元外信部長が「中南米 3つの無理な越境」を日本記者クラブ会報「書いた話 書かなかった話」に寄稿(会報転載)

 こっそり越える。だまして入る。へっぴり腰で渡る。

 境界をまたいで異国に入る方法はいざとなれば、あれこれ見つかるものだ。新聞社の特派員として中南米を歩き回っていたころ、あちこちで無理な越境を迫られた。最強といわれる日本パスポートも使えない時と場所がある。「密入国」というと悪事めくが、あれはまさに密入国だった。そして密入国した者はその瞬間から悩みごとを抱えることになる。密出国しなければならないからだ。3カ所の越境を思い出してみよう。30年ばかり昔の話になる。

「水道技師なんですが」

 【91年5月 エルサルバドル軍検問所からゲリラ支配地域】

 メキシコ市に住んで中南米33カ国をカバーしていたのは1990年から94年までの5年間だった。ベルリンの壁が89年に倒れ、「冷戦後」が世界中のキーワードだった時代だ。

 中米の小さな国エルサルバドルでは、左翼武装組織と政府軍の戦争が10年以上、続いていた。冷戦が終わり、内戦もそろそろ終結するかもしれない。ゲリラが現役でいる間に会ってみようか。反政府ゲリラ「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」(FMLN)の司令官の一人と会える段取りがついた。サンタマルタという村に行け、という。ホンジュラスとの国境に近い山の中らしい。

 ゲリラの支配区に入ってもいいという運転手と若いカメラマンを首都サンサルバドルで見つけ、助っ人に頼んだ。めざせサンタマルタ。

 首都から北東へ100㌔、ビクトリアという町のはずれに軍・警察の検問所があった。ここまでは政府軍が押さえているが、検問所を越えればゲリラの支配区だという。政府権力が及ばない別の国だ。舗装されていない細い山道の6㌔ほど先がサンタマルタらしい。「日本の新聞記者だよ、ちょっとゲリラと約束があってね」などと警備の兵士に言えるわけがない。

 さて、どうするか。運転手とカメラマンに相談した。「政府の重要な仕事で最前線まで来た、と説明しなきゃ」「水道開発の現地調査ってのはどうだ」。そんな作戦会議を事前にやった気がする。

 ともかく、私は水道技師を演じる羽目になった。うさんくさそうにパスポートを調べる指揮官にしどろもどろで説明した。こちらが愛想笑いを振りまいてもにこりともしない。やっぱり無理だったか。

 運転手が指揮官に声をかけ、二人で物陰に消えた。2、3分で戻ってきて「さあ行こう」。てっきりカネで解決したのかと思い「いくら払った?」と聞いた。「いや、軍のお偉方のだれそれは友達だ、と言っただけだよ」

住民虐殺 村人が証言

 緑に囲まれたサンタマルタ村は人口3000人と聞いた。水道も電気も公立学校もない。自給自足の共同体を維持してきた。81年、政府軍が村を襲い、家を焼き理由もなく何十人も殺した。国内でも知る人がいない住民虐殺事件を伝えてくれと村人が次々に証言した。驚いて、首都に戻ってから連載記事に書いた。

 3日目に山から現れた若いゲリラ兵に先導され山道を登った。尾根にいたのは中央戦線司令官だった。

 村を離れる時は、あの検問所を通る時だ。さて、水道調査の成果をどう説明しようか。ゲリラ取材がばれたらどうしよう。先に村を出ていた運転手がなんと検問所の政府側で待っていた。運よく、警備兵はほかの通行人の相手をしている。カメラマンと二人、見つからないように腰をかがめて走り、車に駆け込んだ。あんなに走ったのは初めてだった。

四つんばいで古タイヤに

 【93年1月 メキシコから米国】

 メキシコから米国へ入ろうとする移民の波は30年前もきょうも途切れない。メキシコ人の視点で国境を歩こうと、国境の町シウダーフアレスを訪れたのは93年だった。

 米テキサス州の都市エルパソとの間をリオグランデが流れる。川幅は15㍍ほどか。見ていると、メキシコや中南米の人々が次々に川を渡っている。直径2㍍ほどの古タイヤに乗る。コヨーテと呼ばれる密入国手配師がロープでタイヤを引っ張る。じゃぶじゃぶと腰までの深さの川を歩いて渡る。向こう岸に着くのに1分もかからない。

 メキシコ側では馬に乗った警官が無言で見ているだけだ。米国側は貨物列車の広大な操車場らしい。川岸のフェンスの切れ目をもぐり、列車に忍び込む。翌朝には米国の奥深く、見知らぬ町にたどり着けると移民志願者が説明した。

 「乗ってみるかい」とコヨーテに声をかけられた。これも取材だ。古タイヤに乗った。片道2㌦の運賃を払う。四つんばいでへっぴり腰になるのが情けない。あっという間に米国に上陸した。移民のあとを追って、列車に同乗すれば面白いルポ記事が書けるぞ、とささやき声が聞こえる。フェンスの切れ目は目の前だ。4、5分うろうろした。結局、古タイヤに戻った。帰りも2㌦。往復割引はない。米国の滞在時間5分は初めてだった。

「逮捕する」と大佐は言った

 【94年9月 ドミニカ共和国からハイチ】

 あの頃もハイチは大混乱だった。カリブ海のイスパニョーラ島の西部にあるこの国は91年、軍事クーデターで大統領が追放され、94年には米国が軍隊を送り込んで軍政に退陣を迫ろうとしていた。米軍進駐の日が決まり、それまでにハイチに入らなければならない。空港は閉鎖され、陸路を歩くしかない。

 というわけで、島の東隣のドミニカ共和国に日本人記者も集まっていた。国境のハイチ側の検問所で、といっても掘っ立て小屋だが、兵士が銃を構えている。日本人記者は4、5人いただろうか、指揮官の中尉に頼み込んでもらちが明かない。仕方がないと木陰に座り込んだ。

 日が沈むころ、中尉は何を思ったのか「行っていい」と通してくれた。入国スタンプも許可証もないが、ぎりぎりで首都のポルトープランスにたどり着けた。

 米軍の進駐や軍政退陣は流血の事態にならず、取材は一段落した。さて引き揚げよう。もう一人の日本人記者と二人でドミニカ共和国へのルートを逆にたどる。国境まで数㌔の検問所で兵士に見つかった。仕方がない。また木陰に座り込んだ。

 ここからが事実は小説より奇なり。あの中尉が通りかかったのだ。半日近く粘ったアジア人を彼も覚えていた。助かった、と思った。ところが、今度は上官の大佐がやってきた。中尉は大佐と話し込んでいる。こちらははらはらどきどき。大佐はわれわれのパスポートを調べ「密入国だ。逮捕する」と宣言した。まずい。逃げようかと足が動いて、思いとどまった。「中尉に命じて即時、国外追放する」と大佐が付け加えたからだ。ということは出られる?

 中尉はわれわれを国境の掘っ立て小屋に連行した。部下たちを集め、パスポートを手に尋問した。「どうやって国境を通過したのか」。「親切な中尉さんがいましてね」とは言えない。「旅行会社のバスで通った」と出まかせでしゃべった。中尉が叫んだ。「けしからん旅行会社だ。千㌦の罰金だ」。パスポートを返してくれ「行っていい」。

 部下の前で芝居を打ってくれたのだ。こんなにうれしい国外追放は初めてだった。

 1953年大阪市生まれ 75年毎日新聞社入社 横浜支局 東京社会部を経て 外信部 ロンドン メキシコ市 ニューヨーク ワシントンの特派員・支局長 外信部長 論説委員 論説副委員長 2009年退社 日本記者クラブ元事務局長・専務理事 現在は海外日系人協会常務理事 アジア調査会理事

2023年2月13日

「特派員たちの日中国交正常化 50年後の証言」に荒牧カメラマン

 2月11日夜放映されたBS1スペシャル「特派員たちの日中国交正常化 50年後の証言」に写真部OB荒牧万佐行さん(81歳)が出演した。

紅衛兵の写真を撮ったときの状況を説明する荒牧さん
文革取材時25歳の荒牧さん

 番組は、1964年、国交のない中国に戦後初めて派遣された9人の特派員の苦闘を描く。荒牧さんは、1967年1~2月、東大教授林健太郎さん(のち学長)、慶大教授村松暎さん、経済評論家土井章さん(いずれも故人)とともに毎日新聞が派遣した「中共(中国)特派視察団」の一員として中国を訪れ、「文化大革命」を取材した。

 番組では荒牧さん撮影の写真が何枚も使われた。以下は壁新聞。

 毎日新聞の高田富佐雄特派員(1991年没68歳)は国外退去処分された3人の1人。高田さんの書いた紙面と国外退去処分に遺憾の意を表明する社説も紹介した。

 番組には、当時香港特派員だった辻康吾さん(88歳)も出演した。

 再放送は、2月17日(金)午後6時50分と25日(土)午前6時40分、NHKBS1で。

(堤  哲)

2023年2月13日

毎日新聞写真部史『目撃者たちの記憶1964~2021』 この本をつくった佐藤泰則元写真部長(62歳)がテレビBS11出演

新聞協会賞を受賞した手塚耕一郎撮影の東北大震災取材について話す佐藤元写真部長

 2月10日午後9時からのBS11報道ライブインサイドOUT「あの報道写真 撮影秘話」に、毎日新聞写真部OB会編『目撃者たちの記憶』(大空出版2022年11月刊)の編集責任者・佐藤泰則元写真部長(62歳)が出演した。

 毎日映画社取締役木村将彦さん(報道番組担当)が、同番組のメーンキャスター二木啓孝さんに売り込んで実現した。

「この本を購入して」とアップで紹介された

 《「浅沼委員長刺殺」「日航機墜落事故」「東日本大震災」は二木さんと番組ディレクターのチョイス。「神戸騒動事件」「日航機遺族との付き合い」は私の提案でした。カミカミで見苦しい出演でしたが(汗)、私のコメントはほぼアドリブ。二木さんは週刊ポスト記者のころ、三留理男さんと一緒に仕事をしていたそうで、番組終了後はその話をしていました》

 番組の最後に二木キャスターが『目撃者たちの記憶1964~2021』をアップで写した。

 佐藤さんは、日航機墜落事故の遺族と現在も御巣鷹山に登って慰霊している。番組では、2010年8月12日付夕刊1面を紹介。遺児が成人して、結婚して、と話した。

遺児の妻も慰霊登山(2018年8月12日佐藤泰則撮影)
日航機事故で生存者が自衛隊のヘリで救出された(滝雄一撮影・部分)
2010年8月12日付夕刊1面
BS11報道ライブインサイドOUTのスタジオ

この番組を見逃した人は、以下で見られます。

https://vod.bs11.jp/contents/category/insideout_2kin

2月10日「あの報道写真 撮影秘話 / 女性の欲望が日本を支える」 | BS11+(BS11プラス)

2023年2月7日

NHKBS1「特派員たちの日中国交正常化 50年後の証言」(11日=土=夜)を見て、と写真部OB荒牧万佐行さん

 写真部OB荒牧万佐行さん(81歳)から「今週土曜日夜、NHKBSを見て」と電話があった。11日 午後9時55分から放送されるBS1スペシャル「特派員たちの日中国交正常化 50年後の証言」で取材を受けたというのだ。

 紅衛兵に三角帽子をかぶせられて引き回しされる実権派幹部(左)と毛沢東語録を手に気勢をあげる群衆(右)。当時、25歳のカメラマン荒牧万佐行さん(81歳)が撮影した。

 荒牧さんは、1967年1~2月、毎日新聞が派遣した「中共(中国)特派視察団」の一員として中国を訪れ、「文化大革命」を取材した。

 視察団は、当時東大教授で、のちに学長を務めた林健太郎さん、慶大教授の村松暎さん、経済評論家の土井章さん(いずれも故人)と、荒牧さんの4人。当時の中国政府は、新聞社の記者やカメラマンの同行を許さなかった。

 これが「文革」を報じる連載紙面の1回目だ。荒牧さんは、この取材がきっかけで毎日新聞写真部に入社した。一連の文革写真で1967年日本写真協会新人賞を受賞した。

1967年2月11日付の毎日新聞東京朝刊1面

 写真集も出版している(集広舎2017年刊)。

(堤  哲)

2023年1月5日

BS11で「東京日日新聞」創刊号を紹介

 「東京日日新聞」創刊号が2日夜、BS11に登場した。

 番組で創刊号を紹介したのは、知的財産ビジネス本部の五十嵐英美さん。

 「創刊号にも海外情報が盛られていました」と説明しているのは、紙面の真ん中にある「鹽湖之畧図圖」、米ソルトレークシティーから岩倉使節団の報告だ。同行の福地源一郎(桜痴)からといわれる。

銀座2丁目にあった時の「東京日日新聞」を発行していた日報社(部分)

 2番手の記事「江湖叢談」は、信州今井村で起きた殺人事件を元に落合芳幾が描いた錦絵新聞である。

 全文1239字と「毎日新聞百年史」にある。

(堤  哲)

※新聞の歴史の勉強を、もうひとつ。

〈宮武外骨の新聞号外コレクション〉

 東京大学の学術資産を再確認するコラム「デジタル万華鏡」の第32回では、明治新聞雑誌文庫の新聞号外コレクションについて紹介します。明治から昭和戦前期、事件や戦争の速報を掲載した新聞号外は、当時の人々にとっては大きな影響を持つ情報ツールでした。反骨のジャーナリスト宮武外骨が集めた号外のあれこれをご覧ください(画像は郵便ハガキに印刷されて購読者に届いた珍しい新聞号外。

2023年1月5日

『目撃者たちの記憶1964~2021』につながった森英介さんの話

 元日の新聞に元「話の特集」編集長・矢崎泰久さん(89歳)の訃報が載った。新聞記者から1965年に月刊誌「話の特集」を創刊。「ミニコミ・ブーム」の元祖といわれ、95年の休刊まで編集長を務めたとあった。

矢崎泰久さん(『風天』から)
『風天 渥美清のうた』
森英介さん(木村滋撮影)

 思い出したのが大阪社会部で一緒だった元毎日グラフ編集長・森英介さんである。

 森さんは、サンデー毎日の副編集長時代、1985年9月8日号で投稿俳句欄「サンデー俳句王(ハイキング)」を創設。「素人による素人のための素人の俳句欄」が受けて、現在も続いている。92年には隔月刊誌「俳句αあるふぁ」が創刊された。

  お遍路が一列に行く虹の中  風天

 著書『風天 渥美清のうた』(大空出版2008年刊)は、この俳句を知って、寅さん渥美清がどんな俳句を詠んだのか尋ね歩く。そのはじめの部分に矢崎さんが登場するのである。

 矢崎さんは、「話の特集」を創刊した1年目に「話の特集句会」を始める。渥美さんの初参加は1973年3月、永六輔さんが連れてきた。

 「俳句をやる以上は俳号がなければ、と言ってみんなで考えて、フーテンの寅だからやっぱり風天がいいということになって、渥美ちゃんもどうせオレはフーテンだからと納得した」

 俳号「風天」が決まる経緯を矢崎さんが説明している。

 「みんなで考えて」の会員がスゴイ。和田誠、小沢昭一、冨士眞奈美、岸田今日子、灘本唯人、黒柳徹子、山本直純、中山千夏、下重暁子……吉永小百合、山藤章二、色川武大、吉行和子、俵万智らの名前がある。

 森さんが集めた「風天」俳句は221。うち「話の特集句会」が135句を占める。

 矢崎さんがあげた「風天」句のベスト5。

  好きだからつよくぶつけた雪合戦
  秋の野犬ぽつんと日暮れて
  切干とあぶらあげ煮て母じょうぶ
  鍋もっておでん屋までの月明り
  たけのこの向う墓あり藪しずか

『優日雅・夏目雅子ふたたび』

 森英介さんは、これより前に女優夏目雅子さんの俳句を紹介した『優日雅(ゆうにちが) 夏目雅子ふたたび』(実業之日本社2004年刊)を出版している。

 毎日新聞創刊150周年記念出版『目撃者たちの記憶』(毎日新聞東京本社写真部OB会編)を刊行した大空出版・加藤玄一社長(61歳)は、森英介編集長時代の89年に「毎日グラフ」の記者になり、7年間在籍した。

 ここからは、加藤社長の思い出話。《「夏目雅子の次は誰ですか?」と僕が聞いた時、森さんは「渥美清だよ」と言っていました。しかし、その後お嬢様が亡くなられて、しばらく元気がなかったのですが、1年たった時に「そろそろ渥美清を執筆されるのでは?」と尋ねた。「あっ!忘れてた」と言うので「どこから出版するつもりだったんですか」と聞いた。そうしたら「思い出させてくれたからお前のところから出す。そのかわり1万部以下では出版しない」。というわけで1万部刷ったら1カ月で完売して増刷になりました。ちょうど渥美さんの13回忌を目前にして出版したので、松竹も宣伝してくれてタイミングがよかったですね。
 『風天』は現在7刷り、3万部です》

 森さんも俳句に親しんだ。

  がんばれといはれてもなあ鰯雲

 これが遺作だ。森さんは2009年12月14日肝臓がんで逝去、70歳だった。

(堤  哲)

2022年12月16日

「2022報道写真展」三越本店24日まで。入場無料

新聞協会賞:久保聡撮影
スカイツリーで海老蔵の「にらみ!」:西夏生撮影
「ウクライナの空を思う」=東京写真記者協会グランプリ受賞作品=小出洋平撮影
女流書100展をご覧の高円宮紀久子さま:前田梨里子撮影

 他にも毎日新聞カメラマンの力作がいっぱい展示されています。

(堤  哲)

2022年12月12日

「津波襲来、生きた証しとらえた 空撮のカメラマン」―写真部・手塚耕一郎記者が朝日新聞10日夕刊に

宮城県名取市北釜地区の海岸に押し寄せ、住宅をのみこもうとしている大津波。ヘリが仙台空港を離陸した直後の1枚で、翌日朝刊の遅版1面に載った=2011年3月11日午後3時55分、毎日新聞社・手塚耕一郎カメラマン撮影

 「BIG EARTHQUAKE!」

 航空自衛隊基地の管制官が叫ぶ声が、仙台湾上空にいた毎日新聞社のヘリコプターに響いた。乗っていたのは東京本社のカメラマン手塚耕一郎(45)ら。11年前のその日は、羽田から青森県へ飛び、空撮取材をした帰路だった。

 手塚の携帯に「震度6強 宮城県北部 宮城県中部」…(以下略)

 東日本大震災で東北などを大津波が襲った2011年3月11日、仙台上空のヘリコプターから津波に洗われるすさまじい光景をカメラでとらえ、新聞協会賞を受けた手塚耕一郎記者。その後の被災住民との交流などを報じた記事が、朝日新聞2022年12月10日付夕刊社会面に掲載されました。

(毎友会事務局)

2022年12月6日

印刷局OB、亀山久雄さんの「2022 あんなこと こんなこと」

 印刷局OBで水道橋でキッチン付きレンタルスペース「余白」を経営する亀山久雄さんが今年の世相をカルタで振り返りました。

  安倍撃たれ 統一教会あぶり出し
  石原死んだろう
  ウクライナ地下壕で聴くヴァイオリン

  エリザベスお疲れ在位70年
  汚職五輪金にまみれた5つの輪
  核兵器禁止言えない被爆国
  北の海 沈んだ船に手を合わせ
  具体策なし新しい資本主義
  原発の事故11年で忘れたか
  国葬はデモと警備に囲まれて
  三冠王ハズレ1位の村神様
  18も19も同時成人式
  素顔見たマスク外せばあんた誰
  性暴力 「いいね」を押した杉田水脈

  空飛んだビッグボスの開幕戦
  太平洋 横断堀江は 83
  千曲川流れに漂う田場ロマン
  ツイッター買収マスクが人減らし
  電車内 新聞読んでる 人を見た
  突破したW杯1次で眠い朝
  南極が氷解すれば街沈む
  日本が連続受賞化石賞
  ぬれ落ち葉踏んで転んで立ち上がり
  年末に物価値上げが目白押し
  ノーコロナ隔離弾圧習近平
  初笑い 秋ぬれ落ち葉 御嶽海
  ひと月で3閣僚の首が飛び
  プーチン語侵略を開放と
  ベーブルースSHOTIMEに苦笑い

  細田議長今日も元気だセクハラだ
  待ったなし止めろ地球温暖化
  見たくない歌丸圓楽のない笑点
  昔手書き今じゃスマホでカンニング
  冥土から元気ですかと猪木さん
  もういやだ安部菅岸田次だあれ
  やれるかな早口言葉で若隆景
  ゆ党です野党じゃないと玉木吠え
  よりそ~う与党にそっと 維国民
  来年はやるぞ統一地方選
  リーズナブル円安うれしと欧米人
  ルーレット回す胴元維新の会
  連合芳野麻生にチン上げおねだりし
  朗希完全聡太5冠19歳
  若い娘を牛丼中毒にするらしい
  ん、これはお宝かもと鑑定団
 ……………………………………………
  カメさんの豊かな感性来る年も

(K)

2022年11月24日

元出版局のナチュラリスト、永瀬嘉平さん(81)が「作家・井上靖の世界」を多摩市で語る

 毎日新聞社の先輩でもある井上靖さんとは亡くなるまで交流を重ねた。葬式には受付に立ち、1キロメートルの長い葬列の人々が駆け付けた。

 時間があるとたびたび、世田谷区桜の井上邸へ伺い、夫人のふみさんに可愛がられ、帰りには庭で育てた大根などをただいた。

「海のシルクロード」の一行(1980年3月23日撮影)
前列左から平山郁夫さん、井上靖さん、清水光照・東大寺管長
最後列右が永瀬さん(40歳)その右前が平山美知子さん

 私が40歳の時に「海のシルクロード」を企画し、井上靖、平山郁夫、奥さんの美知子さん、東大寺管長の清水光照さんに私とカメラマン、それに事業部の松本部長が参加した。

 旅費は毎日新聞社で販売した平山郁夫氏のリトグラフの売り上げの一部、300万円余を平山氏が何かこれで旅でもしましょうよ、となり、仮に「海のシルクロード」と名づけた。シルクロード、船で渡ってきた帰着点が正倉院であり東大寺なので、東大寺管長の清水氏を団長にした。

 最高のホテルに泊まり、最高の料理を味わい、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、バリ島など14日間の旅となった。大使公邸での宴会も含めて。

 その最大の地は「ボロブドゥール遺跡」であった。

 井上さんは晩年に『欅の木』という私小説を書いている。ケヤキの木が都市化で伐られているのを憂えた内容で、私はNHKの朝の番組に1週間、歌人の秋谷豊氏と出演して『欅の木』の一節を語って訴えたことがあった。

 井上邸に通っては「国宝百選」を夜遅くまでかかって二人で選んだ。日本には武器の国宝が一番多いのだが、井上さんは武器を選ばなかった。北支に出生して危ない目に遭っていたのだ。

 その井上さんも、一日一本のレミーマルタンが身体にこたえたのか、食道がんから胃がんとなり、卒した。

 いま、井上靖さんの、静かな微笑を思い出している。

(永瀬 嘉平)

 永瀬嘉平さんの講演は12月5日(月)午後1時半から3時半まで多摩市の公共施設「トムハウス」(042-371-806)第一会議室で。「昭和の偉人シリーズ」2回目で会費2,000円、定員20人。希望者は11月末までに永瀬さん090-3803-1292まで。

「トムハウス」ホームページ http://tomhouse.net/about.html

2022年11月21日

米大リーグのMVPはアーロン・ジャッジでした!

ブルース・オズボーン撮影

 写真を見て下さい。NYヤンキースのジャッジTシャツです。99は彼の背番号。Facebookにこの写真をアップしたら74入社・元論説委員長潮田道夫さんが「いいね」をくれた。

 アーロン・ジャッジ選手(30歳)は、ことし本塁打62本を放って、61年ぶりにア・リーグ新記録を更新、ことしのMVPに輝いた。二刀流大谷翔平選手(エンゼルス)の2年連続MVPはならなかった。

 ヤンキースタジアムでジャッジ選手が打席に入ると、観客が総立ちになる。アメリカでは裁判官(Judge)が法廷に入ると全員起立(All Rise)するのだ。

 このジャッジTシャツはヤンキースのキャッシュマンGMからいただいた。2018年6月21日の対マリナーズ戦。GMと旧知の元日ハム球団社長小嶋武士さん、シミズオクト清水卓治会長らとGM室を訪ねたのだ。そういえば当時NY支局長の國枝すみれさんにも来てもらった。グラウンドではイチローさんの姿もあった。

 ことし、このTシャツを着て歩くと、結構注目された。昨年までは、何?と見向きもされない感じだったのに。

(元大東京竹橋野球団S・ライターズオーナー・堤  哲)

2022年11月16日

元経済部副部長、鈴田敦之さん(91)が日本記者クラブに200万円を寄付

 日本記者クラブ会報11月号から

 鈴田敦之さんは東京本社・電波本部長兼ラジオ・テレビ報道部長、経済部副部長など歴任。

2022年11月10日

開演迫る「フィガロの結婚」:70年入社茂木和行さんがプロデュース

 70年入社茂木和行さん(76歳)がプロデュースする《気候変動に苦しむ人類の救出を宇宙人に託した、サステナブル・オペラ:オルゴール箱の「フィガロの結婚」》の公演が迫った。

 11月24日(木)サンパール荒川大ホール(都電荒川区役所前)で午後6時開演だ。文化庁の補助事業で、今回初めて毎日新聞社が後援する。

 送られた広報資料によると——。

 私たちはどこから来て、どこに行くのか。生きる意味とは何なのか。

 幕が上がるとレール上にSLが乗った人力発電遊園地に、段ボール胴体の人形型演者たちが静止しているのが目に入る。青い服を着た花道の宇宙人が、LED光り棒をオケピットの指揮者に一振りすると、モーツァルトの「フィガロの結婚」の序曲が鳴り響き、同時に、舞台上の人形型演者が誰かに操られているように、カタコトとぎこちなく動きを始める。

 宇宙に無尽蔵に存在する水素エネルギーを自在に駆使する300万光年かなたの脱炭素社会あおいろ星。気候変動と戦争に苦しむ地球人の危機シグナルをキャッチした星人の若者アオヒトが、時空ワープ機エアロバイクに乗って地球に舞い降りる。

 地球の破滅は宇宙破滅の引き金になることを知ったアオヒトは、哲学的とも言える問いの答えを「フィガロの結婚」のテーマ「愛」に求め、「愛」をオルゴール箱に封じ込めた究極のSDGsオペラの制作を試みる。

 「段ボール胴体の人形型演者が、歌って、踊る全く新しいモーツァルトの世界が展開する」意欲作。

<キャスト>フィガロ:高田智士▽スザンナ:斉藤園子▽伯爵:岡昭宏▽伯爵夫人:谷原めぐみ▽バルトロ:志村文彦▽マルチェリーナ:岡村彬子▽ケルビーノ:朝倉美和▽バジリオ/クルツィオ:渡辺大▽バルバリーナ:松永知史▽アントニオ:山田大智▽合唱<人力発電アンサンブル>平野柚香、鈴木えれ香、江端千尋、鹿沼華子、楢原篤人、山本雄太、野村真土、星田裕治
指揮:箕輪健太 エレクトーン演奏:山木亜美/柿崎俊也
主催:NPO法人人力エネルギー研究所(東京都中野区白鷺2-13-3-409、代表:茂木和行)

 詳細は、ホームページ https://kmogi46.wixsite.com/jinriki で。

◎チケット販売窓口
 チケットぴあ https://ticket.pia.jp/pia/event.ds?eventCd=2235916
 電子チケットLivePocket https://t.livepocket.jp/e/yoxps

◎クラウドファンディングによる資金募集も
 https://camp-fire.jp/projects/view/630829

 茂木さんは、東大理学部卒、1970年入社。水戸支局→東京社会部→サンデー毎日。退職してニューズウィーク日本版副編集長、フィガロジャポン編集長。聖徳大学人文学部現代ビジネス学科教授を務めた。NPO法人人力エネルギー研究所代表。

茂木和行さん
プロデューサー茂木和行

(堤  哲)

2022年11月9日

写真部史『目撃者たちの記憶』が1面に広告掲載

 毎日新聞1面の広告である。

 「赤字出版と聞いていたけど、広告を出稿してくれた大空出版に感謝!ですね」と、編集責任者の元写真部長佐藤泰則さんにメールすると、返信があった。

 「社長は加藤玄一さん。若いころ『毎日グラフ』の契約記者をしていたそうです。その後、編集プロダクションを立ち上げ、今は従業員45名の出版社です。

 奥様は関眞砂子さん、彼女も昔、学生新聞の記者をしていて、よく出版写真部に出入りしていたので私も知っています」

 毎日新聞びいきの出版社なのだ。そういえば、63年入社森英介さん(2009年没70歳)が寅さん渥美清の俳句を集めて2008年6月に出版した『風天 渥美清のうた』も1面によく広告が出ている。これも大空出版刊である。

 森英介さんは、「サンデー毎日」デスク、「毎日グラフ」編集長を務めているから、加藤社長と接点があったのだろう。

 社長夫人関眞砂子さん。そういえば私も覚えている。細い体で重いカメラを肩に、写真部に出入りしていた。Gパン姿の可愛らしいお嬢さんという印象だったが。

(堤  哲)

2022年10月26日

70年入社大島理森・前衆院議長(76歳)の回顧録、読売新聞に連載中

 26日朝刊が第9回。青森県立八戸高校→慶應義塾大学法学部法律学科を卒業して、70年大阪万博の年に毎日新聞広告局に入社したところまで。 74年7月に退職して、翌75年青森県議→83年衆院議員に初当選した。 毎日新聞が出てくるのは今回だけかもしれないが、お知らせまで

(堤  哲)

2022年10月21日

モロさん創設の「野球文化學會」が毎日新聞の見出しに

 21日付毎日新聞11面オピニオンのページで「村神様」の活躍を扱っている。

 《プロ野球・ヤクルトの村上宗隆内野手(22)が今季リーグ戦で史上最年少での3冠王、歴代2位のシーズン56本塁打など数々の記録を打ち立てた。なぜこれほど打てるのか、その活躍の意義や、プロ野球界にもたらすものは何なのか。日本中を沸かせた村上選手について、プロ野球関係者、識者、ファンに聞いた》

 3人のうち、識者が鈴村裕輔名城大学准教授。「野球文化学会」会長の肩書で紹介されている。「野球文化学会」の創設者、1959年入社諸岡達一(86歳)と54年入社鳥井守幸(90歳)両氏が喜んでいるだろうな、と最初に思った。

 正式には「野球文化學會」と表記するが、創設の経緯は『Baseball Tencyclopedia野球博覧』(2014年大東京竹橋野球団S・ライターズ編著)に詳しい。

 ハラサブ原田三朗(2017年没82歳)が書いている。《鳥井と諸岡が「野球学会」を作りたいと持ちかけてきた。例によって名前は鳥井がつけた。「大日本野球學會」というのである。設立の会議は、験を担いで後楽園のカフェで開くのが恒例となった。私は本物の学会同様、まず会合とパーティー、それに会員名簿をそろえようといった。諸岡はまず機関誌を出そうと主張した。諸岡が正解だった。年1回の機関誌と、執筆者と会員によるパーティーで野球文化学会は大きくなった》

 機関誌・野球文化學會論叢「ベースボーロジーBaseballogy」は1999年9月に第1号を刊行した。巻頭はモロさんの「ベースボーロージー宣言」である。

 野球を「歓喜の学問」にする。
 野球は人類にとっての重要な資産である。豊饒なる野球文化の土壌をさらに耕したいと思う気持ちそのものが「野球文化學會」である。
 野球を通して人の本質を知り、哲学を学び、思想を育み、喜びを創生する。
 野球は人の生き方であり、人のモノの見方であり、人の技術の粋であり、人の歴史と記憶であり、人の政治と経済であり、人の権利と義務であり、文化人類学であり、科学である。
 学に不足なし。論ずるに不足なし。
 語るに不足なし。研究するに不足なし。
 分析するに不足なし。愛するに不足のあろうはずがない。
 野球に包含されているすべての部品は複雑系の極地を行く。奥の深さは底なしの沼。
 その多岐多彩さは、現存するあらゆる「学会」をも凌駕する、と大見得を切っても、野球が舞台から落ちることはない。
 野球を学問にすることは「野球の尊敬」に対する人類の礼儀である。

 ことし7月には第15号が発行された。毎日新聞OBでは松崎仁紀さんの「アメリカ文学にみる野球の文化社会学的考察」、私(堤)の「新渡戸稲造がピッチャーだった札幌農学校のベースボール」が掲載されている。

(堤  哲)

2022年10月12日

パレスサイドビルが登場するテレビ東京「新 美の巨人たち」の放映日時変更

 (株)毎日ビルディング執行役員、営業部長、福田裕一朗さんからお詫びのメールが届きました。

 パレスサイドビルは8日夜放送のテレビ東京「新 美の巨人たち」で紹介される予定でしたが、「当日、テレビ東京が放映した『世界卓球』で日本が決勝へ進んだため、番組が飛んでしまいました。当日はテロップも流れず、未だ「新 美の巨人たち」の放送が何時なのか発表されていません。地上波放送は、番組編成が複雑で1週間前までは正式に決まらない、とのことです。おそらく変更の日時は、下記の予定です。

地上波=テレビ東京は11月12日(土)22時~
BS波= BSテレ東は11月19日(土)23時30分~」とのことです。

 福田さんから「毎友会ホームページから楽しみにされていたOB・OGの方にご迷惑をお掛けしました。是非、変更になった日時でご視聴いただければと存じます」とのメッセージが届きましたので、番組表を確認の上、ご覧ください。

2022年10月11日

東京駅ステーションギャラリーで「鉄道と美術の150年」展

 毎日新聞創刊150年、鉄道開業150年のことし、「美術」という言葉が初めて使われて150年だというのだ。

 東京駅の丸の内北口にある東京ステーションギャラリーで開催中の「鉄道と美術の150年」展(2023年1月9日まで)。冨田章館長が図録の巻頭「鉄道は美術を触発し、美術は鉄道を挑発する」で解説している。

 10月14日の「鉄道の日」に合わせたが、5年前から企画・作品の収集にとりかかったという。リキが入っている。充実した展覧会である。

 以下は鉄道開業を伝える毎日新聞の前身「東京日日新聞」である。トップ記事ではあるが、見出しもない。

東京日日新聞1872(明治5)年9月13日付

 《日本初の鉄道が開業したのは1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)。東京・新橋と外国船が停泊する商業都市・横浜を結んだ。この間に品川、川崎、鶴見、神奈川の4駅を設け、110形蒸気機関車が29キロを53分で、1日9往復していた。

 運賃は上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘。米1升がわずか4、5銭の時代、庶民が気軽に利用できる値段ではなかった。

 紙面は、鉄道開業日を伝え「前日迄ハ暴雨ナリシガ当日ハ麗シキ天気トナリ……」とある。当初11日(同9日)に予定されていたが延期されたという。

 かつて国鉄の「鉄道記念日」だった10月14日は1994年から「鉄道の日」となり、2022年は開通から150年の節目を迎える》=10月4日毎日新聞夕刊

 150点ほどの展示された作品に、山下清画の駅弁の包み紙=写真・右=があった。

 我孫子駅で弁当を販売していた弥生軒の社長が1960年、山下清に原画を依頼した。1983年ごろまで使われていたという。

(堤  哲)

2022年10月5日

パレスサイドビルが8日夜のテレビ東京「新美の巨人たち」に登場

 毎日ビルディングの福田裕一朗執行役員営業部長から「パレスサイドビルが10月8日(土)の22時~ テレビ東京の番組『新・美の巨人たち』に登場します。毎日新聞社のOBの方々に見ていただきたく存じます」とお知らせがありました。

テレビ東京
https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/

2022年10月8日(土)世界を変えたバウハウス×田辺誠一
約100年前に僅か14年しか存続しなかった建築とデザインを教えるドイツの学校が、日本そして世界の建築を変えました。「バウハウス」とはいったい何か?

 鉄筋やガラス、コンクリートといった資材を使って生み出された機能的でシンプルなデザインの考え方は、日本に持ち込まれると斬新な住宅を生み出しました。でもそのバウハウスはなんと日本の伝統建築に影響を受けてもいたのです。その歴史のうねりを建築好きの田辺誠一さんが探ります。

<Art Traveler>田辺誠一

<ナレーター>戸田恵子

番組概要

 美術鑑賞は本来自由なもののはず。知識があるなしに関わらず、作品を見た者が思いついたことを口に出したり、意見を交わしたり…。この番組では、旅人=アートトラベラーが、毎回作品が展示されている美術館や建築物、ゆかりがある場所などへ足を運び、作品の秘密や、アーティストの人生に迫り、より豊かな美術鑑賞の旅へと視聴者を誘います。アートトラベラーが作品に向き合ったときに、果たして何を思い、何を感じ、何を語るのか?彼ら独自の見方・見え方にぜひご注目下さい。30分の番組をみた後、もしかしたら世の中の見え方が変わるかもしれません。旅の情報、作品へのアクセスもていねいに伝えます。

※10月8日(土)の放送は「世界卓球2022」中継のため、放送時間変更または休止の可能性があります。

2022年9月30日

國枝すみれさんの『アメリカ 分断の淵を行く』に高い評価

 國枝すみれ著『アメリカ 分断の淵を行く』(毎日新聞出版刊)が今週発売の「週刊文春」10月6日号読書欄で紹介された。

 「アメリカで長期にわたる取材経験がある私でも二の足を踏むような取材現場に、女性の新聞記者が足を運ぶ姿には驚嘆せざるを得ない」と評者の横田増生さん。『ユニクロ帝国の光と影』の筆者だ。

 《登場するアメリカ人の多くは、スラムや国境、最果ての島など「辺境」に住んでいます。金と権力に縁がなく、悲しみや苦しみが凝縮している場所――。取材をしながら、こんなアメリカがあるのか、そんなアメリカ人もいるのか、と驚きました。固定観念がばらばらと崩れていきました。そして、私にとっては、困難の中でもがき、不条理や恐怖と闘っているアメリカ人が、ハリウッド俳優よりも輝いて見えたのです》

 これは、この毎友会HP新刊紹介で國枝さん自らが書いたものだが、面白い話があるとすぐ現場へ行ってしまう記者なのだ。

 ボーン・上田記念国際記者賞を受賞した「原爆ルポ60年ぶりの発見」=2005(平成 17)年6月 17 日毎日新聞朝刊1面=は、長崎原爆投下の1ヵ月後に惨状をルポしたアメリカ人ジョージ・ウェラー記者の未公開の原稿・写真を発掘・取材したものだ。

 湘南高校の新聞部員だった、と同窓会報にあった。慶應義塾大学法学部に進み、アメリカへの留学。英文毎日で英語に磨きをかけたのか。

 いつまでも面白がり精神を失わず、得意の英語を活かして益々のご活躍を!

(堤  哲)

※「日刊ゲンダイ」9月6日号にも以下の書評が掲載されています。

「アメリカ分断の淵をゆく」國枝すみれ著

 今年秋の中間選挙を前にトランプ派の勢いが増すアメリカ。分断の悩みは深い。

 毎日新聞記者の著者。生まれつき自立心と好奇心が旺盛らしく、大学時代にアメリカ留学したときは、たいして英語もできないのに「水を得た魚のよう」といわれたという。

 日本の同調社会におさまらない個性が、親しんだアメリカの苦境に心を痛める。

 訪問先は鎮痛剤オピオイド中毒に苦しむ貧しいウェストバージニアの被害者たち、人種差別むきだしのケンタッキーの白人至上主義団体、世論を二分した尊厳死を実行するオレゴンの終末期の老人たち、反黒人差別のBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動が発祥したカリフォルニア州オークランドの黒人ボランティア……。

 ネオナチの集会にも誘われると「行きます!」と即答する一方、反人種差別のBLMは「白人や警察官が黒人を殺したら問題にするけど、黒人が黒人を殺しても問題にしない」と期待しない黒人少女を前にことばを失う。

 単刀直入で硬軟自在。体当たりの積極性で難しいとびらを次々に開けていった様子が行間からうかがわれる。終章ではキング牧師の理想をうけつぐはずのBLMに対して「黒人の命は大切じゃない!」と叫ぶ白人少女を目撃する。

(毎日新聞出版 1980円)

2022年9月20日

変わる韓国、変わらぬ韓国――元ソウル特派員、論説委員、下川正晴さんが3年ぶりの現地取材

 8月下旬から16日間、3年ぶりで韓国を取材旅行した。コロナ禍による「空白」期間の中で隣国がどう変容したのか、興味津々だった。次回出版作「台湾と韓国の歴史認識/元ソウル特派員の体験的考察」(仮題)を準備中の私としては、新聞記者本来の「歩きながら考える」手法により、現状を確かめかったのである。

 私の韓国滞在歴は、1975年の朴正煕政権時代に始まる。年末年始のソウルを1週間ほど旅行した。韓国はまだ「暗くて貧しい」国だった。暗かったのは開発独裁時代だったからだけではない。空港や街の照明自体が暗かったのだ。当時は夜間外出禁止令があり、1週間に1回は「雑穀米の日」があった。米の自給体制すら実現できていなかったのだ。

明洞入口にある爆弾投擲犯の記念像

 2度目は1985年9月から1年間の語学留学だ。全斗煥政権時代である。当時のことについて、今回面談したある穏健派の歴史研究者は次のように語った。

 「全斗煥時代は再評価されるべきですよ。あの時代は韓国民が一番暮らしやすかった。物価抑制に努めた。その効果が上がり、賃金アップが物価上昇を上回った。朴正煕時代は経済成長したが、物価も上昇した」

 この全斗煥再評価論は、光州事件の暗いイメージがある日本人には、意外なものに聞こえるかもしれない。だが、これは当時の韓国社会の紛れもない一面であった、と私自身の体験からも証言できる。1985年のソウル留学当時、韓国社会は翌年のアジア大会、88年のオリンピックを控えて高揚期にあった。「韓国の1年は世界の10年」というスローガンが現実味を感じられる急激な躍動期だった。街には韓国歌謡「ああ大韓民国」「アパート」の軽快なメロディーが溢れていた。

 韓国は日本のメディア報道によって、正確な姿が伝えられていない外国の一つだ。これは多くの場合、ソウル特派員の眼前に生起するさまざまな現実が、あまりにも政治主義的かつ複雑であり、歴史的な虚偽と陰影に満ちているためだ。

 私自身の経験からみても、1989年からのソウル特派員時代に台頭した「慰安婦問題」を、冷静に取材対応できたと自己評価できたのは、2014年ごろになってからだ。朝日新聞が一連の慰安婦報道による誤報を訂正謝罪した時である。私は問題発生時から支援団体の慰安婦引き回しに違和感を持っていたし、吉田清治氏らの証言を信用していなかったのだ(1993年9月9日「記者の目」参照)

 今回の訪韓で、慰安婦「少女像」前で繰り広げられる少女像維持派と撤去要求派の相対立する集会を見ながら、「長い時間が過ぎて、ようやく真相が理解されつつある」という感慨に囚われた。前政権下で明らかになった慰安婦支援団体代表・尹美香氏の数々の醜聞は、「慰安婦引き回し」運動の当然の帰着であると思えるのだ。

 今回の旅行中、ソウルの旧王宮街に所在するお洒落なカフェで食べたモンブランは、驚くほどおいしかった。この「モンブラン体験」によって、韓国の一人あたりGDPが日本に並んだという統計数値を実感として把握した。2005年ごろ、韓国外国語大学で客員教授を務めていた当時ですら、ソウルの都心・光化門にあった私のオフィステル周辺には、おいしいケーキやパンを提供するお店がなかったのである。

 朴正煕政権以来の「圧縮発展」が特徴である現代韓国では、儒教的な文化秩序が崩壊する中で、急激に変わらぬものと変わらないものがある。

 今回の訪韓で驚いたのが、整形手術に加えたタトゥの流行だ。格段に増えた。女性のへそ出しルックも日本より多いので、タトゥーが丸見えなのだ。ルッキズム(外見至上主義)は21世紀韓国の代表的な表象である。

 韓国中部の天安駅窓口では、全羅北道「全州」行きの切符を買おうとして、「全州」という漢字を読めない30歳代と見られる女性従業員に遭遇した。漢字教育を全く受けていないので、こんな有名な地名でも漢字表記されると分からないのだ。「外国人でもないのに、なぜハングルで書かないのか」と彼女に怒られた。ある韓国人の知人は僕の驚きを受けて、「(ハングル専用化した)北朝鮮と同じような国になったのです」と嘆いた。

 変わらないのは、窓口係の無愛想な対応だ。その切符売り場のほか、銀行や空港売店で経験した。小さな困難が起きると、それを客の責任にして、一緒に問題を解決しようという態度が見られない。それは以前よりも自己主張が強化された印象を受けた。こういった「ミニ権力者」の唯我独尊的な態度は不変のものである。私のフェイスブックでこの報告を読んだ韓国通は、これを「Kサービス」と批判した。

 視野狭窄的な思考が顕著な韓国の民族主義史観(もしくは「反日種族主義」と呼ばれる)は、その「自己中心的な正義主張」の延長線上にあるというのが、私の見立てだ。韓国の歴史認識をレビューする著作を準備してきた私は、主に地政学的な弱点により国民国家の形成に失敗した韓国国民は、解放後も「分裂症的な歴史認識」にあるという有力な韓国人研究者の分析に同意せざるを得ない。

 韓国の急激な出生率低下は、「妊娠ボイコット」として英国BBCに揶揄された。これは韓国人口の急激減少を招く事態が、単純に経済的要因に原因があるのではないことを示している。男女関係に於いても従来の価値観が崩壊する一方、自己主張という伝統が強化されていることを意味する。20代、30代男女に見られる子作りをめぐる価値観の分断は、その儒教的伝統の崩壊と固執という「異なるベクトルが産んだ悲喜劇」である。

 東アジア各国で一様に見られる出生率低下が、最も極端なのが韓国だ。全国平均0・81。ソウル平均0・6。朴正煕政権後の圧縮された発展が、今や「圧縮された分断→崩壊」に進む兆候ではないか。産業発展と民主化の時代を生き抜いてきた韓国既成世代の憂慮は、1980年代以来、韓国観察を続けてきた私の危惧でもある。

(下川 正晴)

2022年9月14日

北海道毎友会総会、役員再選など決定

 北海道毎友会(会員数146人)の2022年定時総会が12日、北海道支社で開かれました。コロナ禍がやや落ち着きつつある中ではありましたが、お楽しみの懇親会の実施は3年続けて見送りとなり、出席した会員は11人でした。江畑洋一会長は「来年こそ、語り合える懇親会の場を持ちたい」と願いを込めて述べました。

 江畑会長は挨拶の中で、今年の新聞協会賞に決まった安倍晋三元首相銃撃事件の本紙写真報道を称賛し、「情報伝達手段が多様化する時代の中でこそ、毎日新聞の存在感は益々大きくなる」との確信を語りました。

 顧問を代表し、6月に就任したばかりの板垣博之支社長が挨拶。社会問題の解決に取り組む「コミュニケーターカンパニーの実践」など、創刊150年を期して経営刷新に挑んでいる社の現況を説明し、「新聞業界が一様に厳しい中、先手、先手を打ちながら、北の大地で毎日新聞の灯を守り続けたい」と決意表明しました。

 4人の退会者(物故者)の方々(吉田啓一さん、里村寛さん、佐藤修一さん、高橋正博さん)が報告され、黙祷をささげました。北海道報道部OBの安味伸一さん(特約通信員)が新入会者として紹介されました。残高43万円余の決算報告を承認。役員改選で江畑会長、松宮兌、山田寿彦両副会長、木下順一会計監査、小野寺義治会計担当、小原利光幹事が再任となりました。

 出席者は次の通り。【会員、敬称略】安味伸一、江畑洋一、大西康文、小野寺義治、小原利光、田口隆、立木正文、中川健三、野辺地徹、松宮兌、山田寿彦【顧問】板垣支社長、町田健総務部長、石川淳一報道部長、鈴木勝一・毎日サービス出向営業本部長

(北海道毎友会副会長・山田寿彦)

2022年9月12日

江成常夫さんと土門拳―記念館で二人の写真展

 日曜日連載の社会部旧友・専門編集委員、滝野隆浩さんの「掃苔記」11日付に、写真家土門拳(1909~90)の墓参りが載っていた。

 今、山形県酒田市の土門拳記念館で写真展「2つのまなざし 江成常夫と土門拳—ヒロシマ・ナガサキ—」が開催中だ。10月16日(日)まで。

滝野さん撮影の土門拳の墓(千葉県松戸市・都立八柱霊園)
江成常夫さん(2019年撮影)

 写真部旧友・江成さん(85歳)は容貌が土門拳そっくりといわれるうえ、1985年には土門拳賞を受賞している。

 写真展の企画趣旨にこうある。

 《1957年、原爆の惨禍を撮影するために⼟⾨拳が広島を訪れました。戦後12年を経てもなお⽣々しい傷を抱える被爆者の姿や、過酷な⼿術の現場などを⽬の当たりにした⼟⾨は、翌年に写真集『ヒロシマ』を発表。国内外に⼤きな反響を呼びます。

 同作に⼤きな影響を受けた写真家の1⼈が、当時20代前半だった江成常夫です。江成はその後⾃⾝の仕事の⽂脈を“戦争の昭和”に定め、様々な被写体と向き合っていきます。その間、彼の中には常に被爆地への思いがありました。そして終戦から40年後の1985年、初めて広島に踏み⼊り、今⽇に⾄るまで綿密な取材や撮影を継続。どのように“被爆”を写真化するか問い続けた末、2019年の写真集『被爆ヒロシマ・ナガサキいのちの証』では、被爆地の遺品や遺構などの「モノ」のみを徹底的かつ克明に写し出しました。

 土門と江成が異なる時代に異なる⼿法で表現してきた被爆の様相は、それぞれの視座から原爆の恐ろしさや平和への希求を重く深く訴えかけてきます。原爆投下から77年を経た現在も、世界では戦⽕が絶えません。本展における2⼈の写真家のまなざしが、戦争や平和を改めて考えていくきっかけになれば幸いです》

 初日の9月3日には酒田市美術館と共催で「記念フォーラム」が開かれ、江成さんが基調講演。土門拳の作品をめぐるパネルディスカッションには、酒田市出身の評論家佐高信さんも加わった。

 佐高さんは、政治部旧友・故岸井成格さんと慶應義塾大学同期で知られるが、実は、今秋刊行を予定している東京本社写真部OB会編『目撃者たちの記憶』(大空出版)に巻頭文を寄せている。

 《ここには、土門が背負わされなかった時事性を求められて走りまわった写真部員の熱い叫びが秘められている》《時代を超えて残るものは活字よりも写真なのかもしれないと思うのである》と。

 同書には、江成さんも東大紛争や航空機事故など、写真記者時代の仕事をいっぱい披露している。

 初校ゲラをチェックしながら、「掃苔記」・土門拳から広がる不思議な縁を感じている。

 『目撃者たちの記憶』出版プロジェクトの推進者は、1984年入社の元東京本社写真部長・佐藤泰則さん(62歳)である。「写真部史の出版にあたって」とあとがきでこう述べている。

 《毎日新聞の創刊150年を機に写真部史『【激写】昭和』(平河出版1989年刊)の続編を出版したいとかねてから考えていた。『【激写】昭和』は昭和元年から昭和41年まで(竹橋移転)を収録して続編は昭和42年ということになるが、1964(昭和39)年の東京五輪の記録が少なく感じたので、同五輪から2021(令和3)年の東京五輪2020までの57年間とした》

 《作業は3年前から始めた。まず重大ニュースをリストアップし取材者を調べた》

 そして、全本社の写真部OB・現役から原稿を求めたのである。

 「どの原稿も最前線の現場を踏んだカメラマンの証言で、当時の状況を知る貴重な資料だ」と話している。

 出版が楽しみである。

(堤  哲)

2022年9月2日

「自殺報道はどう変化してきたのか ー元毎日新聞・編集編成局長の小川一さんに聞く」Yahoo!インタビュー

 小川一さんがフェイスブックで近況を報告しています。

 「Yahoo!さんからインタビューされた記事が公開されました。23歳の時の私の写真も紹介されています。読んでいただければうれしいです」とのこと。長文ですので、下記のURLでご覧ください。

自殺報道はどう変化してきたのか ー元毎日新聞・編集編成局長の小川一さんに聞く

https://news.yahoo.co.jp/newshack/media_watch/Reportingonsuicide_2022.html?fbclid=IwAR1vreQ_f9LFwRcHR5cZXclHnqmz_IWGigLuUReUQdvgltIF-pHXsR7yXEI

<小川一さんの略歴>
1958年生まれ。1981年毎日新聞社に入社。社会部記者として事件報道などに携わり、2008年に社会部長。編集編成局長、取締役、顧問などを歴任。2022年4月からNPO法人自殺対策支援センター ライフリンク職員。

2022年8月31日

ジャッジTシャツはいかが!? 大谷翔平とMVP争い

 エンゼルス大谷翔平(28歳)が29号を放ったら、NYヤンキースのアーロン・ジャッジ(30歳)は50号をバックスクリーン左に434 フィート(132m)の特大ホームラン。

 米大リーグ、ア・リーグのMVP候補2人の活躍が際立っている。

 30日(日本時間)、MLBのHPは数字で2人を比較していた。

  打率 出塁率 長打率 本塁打 盗塁 打点
Judge .294 .396 .661 50 14 110
Ohtani .267 .359 .523 29 11 79

 打撃ではすべてでジャッジが上回っている。しかし、大谷は投手として先発22回、128インニングを投げて、三振176個を奪い、防御率 2.67。奪三振率は、規定回数に達している投手の中で一番高く、防御率はMLB全体で11位である、と続けている。

 MVP争いは、シーズン終了まで続く。

 國枝すみれ記者が、NYヤンキースのキャシュマンGMに会った時の写真が私のファイルにある。

 2018年6月20日ヤンキースタジアムにGMを訪ねたときだ。

 右端が國枝さん、左端がキャシュマンGM。その右が元日本ハム球団の小嶋武士社長。その隣は東京ドームの管理・運営にあたるシミズオクト清水佳代子副社長。

 日ハムは、1973年にプロ野球の球団を持った時、NYヤンキースと業務提携。その派遣第1号として小嶋さんが「経営留学」し、そこで「まだ学生だった」(小嶋さん)キャッシュマンと知り合ったのだ。

 小嶋さんは、チャンピオンリングをはめていた。ヤンキースは1977、78年と2年連続でワールドチャンピョンになっている。レジー・ジャクソンが4番打者だった時だ。

 キャッシュマンGMからお土産にいただいたのが、ジャッジTシャツである。

背番号「99」ジャッジTシャツ

 ジャッジは、松井秀喜さん(2009年ワールドシリーズのMVP)がGM付特別アドバイザーとなった2015年の2A時代、松井さんから打撃指導を受けている。メジャーデビューは翌16年8月13日。17年には52本の本塁打を放って、ア・リーグの本塁打王になった。その後、負傷欠場などもあって低迷、2021年39本塁打で復活の兆しを見せ、今シーズンの大爆発となった。

 オール・ライズ(All Rise)はジャッジの愛称になっている。アメリカ合衆国の裁判官(judge)が開廷の際にall rise(全員起立)と言い放つことから来ている、とウィキペディアにある。

(堤  哲)

2022年8月24日

「週刊ポスト」にロッキード事件取材、46年前の「昔話」

 「週刊ポスト」(8月19日発売)に、「ロッキード事件 田中角栄を追い詰めた東京地検特捜部『吉永軍団』」の特集が掲載されています。取材に答えて当時の特捜検事について話をしたところ、現在の特捜検事への期待も込めた特集になりました。

 OBの方々に、PDFでお送りしたら、毎友会ホームページに掲載を、との要望をいただきました。その中のお一人からは「ロッキードの毎日、ベトナム戦争の毎日と元気溌剌でした。今、毎日に必要なのは『元気』ではないでしょうか?週刊ポストの記事はきっと現役にも勇気を与えてくれると思います」と有難いメッセージをいただきました。お言葉に甘えて、この特集を紹介します。

(元東京社会部 高尾 義彦)

2022年8月23日

107歳で逝った写真家、笹本恒子さんの売り出しを手助けした毎日新聞記者2人

100歳の笹本恒子さん(2014年11月撮影)

 107歳、日本初の女性報道写真家・笹本恒子さん逝去が23日朝刊各紙で報じられた。

 笹本さんが写真家になるきっかけは、毎日新聞の前身「東京日日新聞」社会部記者だった林謙一(NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」の原作者、1980年没73歳)による。

 「林さんは話がお上手で、『LIFE』創刊号(1936年11月)の表紙は女性写真家マーガレット・バークホワイトの作品。ここに入って報道写真家になりませんか、といわれました。報道写真家という言葉も初めて知ったのですが、林さんにあおられて、やってみたいと思います、と返事をしてしまったのです。それが写真家になるきっかけでした」

 ここに入って、というのは、1940年に創設された「写真協会」のことで、林さんは新聞記者からトラバーユしていた。

東京日日新聞昭和11年10月4日付「雑記帳」

 笹本さんの自伝『お待ちになって、元帥閣下』(毎日新聞社2012年刊)の巻頭に「わたしを写真の世界に導いてくださった林謙一さんに、この本を捧げます」と献辞を書いている。

 毎日新聞記者にもうひとり、小坂新夫(1984年没91歳)さん。小坂さんは、駆け出し記者のころ、笹本家の貸家に住んでいた。「東京日日新聞」社会部長を1936年4月から40年9月まで、4年余つとめた。笹本さんは女学校を卒業して、絵の勉強をしていて、ある日、笹本さんのスケッチブックを見た小坂社会部長は「ウチの社会面のカットを描くと良いよ。『雑記帳』のカットは毎日替わるんだ。2、30枚描いて会社に持って来なさいよ」といわれた。

 そのカットが紙面化された。

 以来、連日日替わりで笹本さんのカットが「雑記帳」に使われたが、ある時から版画家棟方志功の作品に変わった、と笹本さんは書いている。棟方は1936(昭和11)年国画展に出品した「大和し美し」が出世作となった、とウキペディアにある。のちに毎日芸術賞(1969年)も受賞している。

 今、雑記帳は社会面から消えている。

 自伝によると、小坂社会部長から転職した林謙一さんを紹介されたのが、1939(昭和14)年春。そこで冒頭のやり取りになるのだ。 

小坂新夫氏
林謙一氏

 私(堤)は、林謙一さんの取材で100歳の笹本さんを訪ね、話を聞き、写真を撮った。

 明るい方で、「東京駅、宝塚、森永キャラメルと同い年に生まれました」と言われたのが印象に残っている。1914(大正13)年である。ご冥福をお祈りします。

(堤  哲)

2022年8月15日

NHKスペシャルに元論説委員・社会部長、森正蔵さんの日記

 13日夜放映された NHKスペシャル「太平洋戦争1942」に、元論説委員・森正蔵さん(1953年没52歳)の日記が、時代の証言としてかなり使われた。

 森さんが遺した日記42冊から『あるジャーナリストの敗戦日記1945~1946』(ゆまに書房2005年刊)が出版されていたが、社会部旧友・長男の森桂さん(80歳)が入力して『挙国の体当たり—戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』(毎日ワンズ2014年刊)を出版、NHKもここから拾っている。

 桂さんは《「挙国の体当たり」「山本元帥の戦死」「沖縄に勝つを信ず」…》《「必ず勝つ」と国民の勇気を鼓舞した。今読んでも、連合国軍総司令部(GHQ)から戦争犯罪人と名指しされてもおかしくない論陣である》と、あとがきに書いている。《辞表は受理されず、毎日新聞ではその責をすべて社長が引き受けることになった》と続けている。

 だから戦後すぐ社会部長に就任するのだ。森正蔵さんは東京外国語学校(現東京外語大)を卒業して1926(大正15)年大阪毎日新聞社入社。神戸支局、奉天、ハルビン、モスクワ特派員、帰国してロシア課長、東京に転勤して東京日日新聞論説委員になった。

 1942(昭和17)年4月18日、東京は空襲に見舞われる。その日の日記に「東部軍からの発表では、九機を撃墜したとする」とあるが、翌19には「昨日の空襲に際して九機撃墜したという当局の発表も嘘らしい」と書いている。

 そしてミッドウェー海戦の大本営の水増し戦果発表につながる。

 あとはNHKの画面から——。

真珠湾攻撃を伝える「東京日日新聞」昭和17年1月1日付
森正蔵・豊子夫妻
資料を提供した長男・森桂さん

(堤  哲)

※番組の再放送、見逃し配信はNHKのホームページで確認してください。

2022年8月15日

8月のジャーナリズムで思い出す池田一之さん

 ——口の悪い友人は、私のことを「三八(さんぱち)で暮らすよい男」という。「三」は東京大空襲の《3・10》の三月であり、「八」はヒロシマ・ナガサキではじまり、敗戦記念日の《8・15》で終わる八月である。昭和ひと桁生まれで、戦争中、少年期を過ごした私は、毎年、この時期になると、当然のことのように「戦争」「平和」をテーマとした原稿を書き続けてきた。

 これは社会部旧友池田一之さん(1998年没69歳)の著書『新聞の犯した戦争責任—ある戦中派記者の証言』(経済往来社1981年刊)の書き出しである。

 あとがきには、こうある。

 ——小・中学生の少年期、皇国史観にがんじがらめにされ、侵略戦争を聖戦と信じて疑わなかった愚かな己に対する憤り。それと一九四五年、東京と千葉市で二度もB29によって家を焼かれた、惨めな体験…。

 ——B29爆撃による被災の時点で、私はまだ十六歳の少年であった。その二年前、父は病死しており、私たち母子五人は、家を焼かれる度に一片の罹災証明書を後生大事に、安住の地を求めてさまよわなければならなかった。国鉄駅の構内で夜を明かしたこともある。

 ——こういうかつて少年期に体験した「戦争」も私の新聞記者生活のエネルギーの源泉となった。

 終章には、毎日新聞東京本社発行の1946年以来の8月紙面の戦争・平和に関する原稿、連載企画の見出しを再録している。1975年まで30年の記録が載っているが、ひとまわり小さい活字で上下2段組み、71ページに及ぶ。

 1953年入社の池田さんとは社会部でほんのわずかだったが一緒だった。その後、池田さんは学芸部に移り、デスク・編集委員として活躍、退職後、母校明大政経学部の教授となった。『記者たちの満州事変—日本ジャーナリズムの転回点』(人間の科学新社2000年刊)の著書もある。

(堤  哲)

2022年8月15日

夕刊1面 大韓航空機「墜落か」 「金日成は拉致知らぬ」の衝撃――重村智計元ソウル・ワシントン特派員が明かす秘話

日本記者クラブ会報8月号「書いた話 書かなかった話」から転載

 まず大失敗から書く。

 大韓航空機(KAL)007便(乗 客乗員269人)は、1983年8 月 31日午後1時5分(日本時間)、 ニューヨークからソウル金浦空港に 向け飛び立った。9月1日午前3時 2 5分、ソ連軍機がサハリン上空でミ サイルを発射した。東京コントロー ルの管制塔は、機長の緊急連絡を受 けたが音声と機影は消えた。

◆機影消えた時、ゴルフ場に

 僕はその時、毎日新聞ソウル特派員で韓国にいた。9月1日の朝7時に、日本テレビの龍信也特派員ら三人で、ゴルフ場にいた。朝刊の朝鮮日報に、夕刊に送る記事があったので、「ハーフで帰る」と二人に告げていた。この朝鮮日報の記事で、人生を救われた。

 僕だけ、9時にクラブハウスに上がるとテレビの前に、人が群がって夕刊1面大韓航空機「墜落か」「金日成は拉致知らぬ」の衝撃 いる。「大韓航空機行方不明」の文字。 慌てて龍特派員を呼び戻し、支局に急いだ。9時半過ぎに支局に着くと、東京から盛んに電話がかかっていた。

 当時は、携帯電話もない時代。国際電話も直通ダイヤル方式でなく、電話局に申し込み、15分も待たされた。というよりは、新聞記者監視の当局が盗聴の準備をする間、待たさ れた。

 東京のデスクに、何食わぬ声で「今取材してきましたすぐ原稿送ります」と伝えた。早版の締め切りまで時間があるので、デスクもまだ落ち着いていた。東京は、「サハリン不時着の情報」という。

 この日だけは、つながらない国際電話で助かった。東京は、朝からゴルフで遊んでいた、とは全く気が付かない。

 夕刊最終版用に原稿を送って、午後1時前に念のために韓国外務省の記者室に電話した。朝鮮日報の林東明記者に様子を聞くと、ちょうど外務次官の懇談が始まるという。そのまま、受話器を次官の前に出してもらった。

 外務次官は小さい声でつらそうに、「大韓航空機は、サハリン上空で墜落、撃墜かも」という。林記者に確認すると、間違いないという。慌てて東京に国際電話を入れ、原稿を差し替えた。 夕刊で、「墜落か」とのソウル原稿が入ったのは、毎日新聞だけだった。ところが、夕刊の1面トップは「サハリンに不時着」の防衛庁記事。僕の原稿は、1面左肩だった。その日の午後には、不時着は否定された。

 夕方になって、デスクから「ごめん、申し訳ない、君の原稿を1面トップにすべきなのに、左肩にした」 と、謝りの電話がきた。ゴルフに行っていた身としては、なんとも返事 ができない。「いいですよ、終わったのはしょうがない」と、答えるしかない。ゴルフ場にいたとバレないか、ヒヤヒヤだった。その夜、龍特派員に食事をおごってもらった。「あのままゴルフしていたら、二人ともクビだった」と、背筋の寒い思いを慰めた。

◆日朝進展の裏にソ連の動き

 想像できない真実があった。 1990年9月末の金丸信副総理の訪朝で、日朝国交正常化交渉が始まった。ところが、92年 11月に交渉は決裂した。なぜ決裂したか。真実は、拉致問題がらみだったが、当時の日本は拉致に関心がなかった。

 金丸訪朝で、北朝鮮側が日朝正常化交渉を提案したから、日本政府、金丸本人、メディアの衝撃は大きかった。情報を入手していなかった。

 金丸訪朝のおよそ3週間前、9月2日にソ連のシェワルナゼ外相が密かに訪朝し、韓国との国交正常化を通告していた。それで、北朝鮮は慌てて日朝正常化に乗り出した。ソ連に捨てられた北朝鮮が、日本に駆け込んだというわけだ。

 日本はまんまと北朝鮮に乗せられ、駆け引きもせず国交正常化ムードに踊った。金丸に 誰も反抗できない空気が、あった。この時期、米国は偵察衛星で北朝鮮の核開発を確認していたのに、日本は正常化の代わりに「核開発放棄」を要求する駆け引きもしなかった。

 僕は当時、ワシントン特派員で米国にいた。国連総会取材で9月30日に国連本部に行くと、韓ソ国交正常化が発表された。9月2日に平壌にいたシェワルナゼが、韓国外相と正常化条約に調印した。直前に平壌にいたとは、夢にも思わない。

 奇妙な調印文書で、国交正常化の日は91年1月1日と印刷してあったが、シェワルナゼは万年筆で90年9月30日と書き換えてしまった。彼は、北朝鮮から「核開発する」と通告され、怒っていた。この日は、僕の誕生日だった。

 シェワルナゼは、平壌訪問直後に東京で日ソ外相会談をしたが、北朝鮮訪問と韓ソ国交正常化を日本政府に教えなかった。北朝鮮の核開発についても話さなかった。

 ワシントンにいた僕も、シェワルナゼ訪朝の裏側について何も書けなかった 。

◆「書かれたら粛清される」

 韓ソ国交正常化のおよそ2年後、僕はハワイでの日米韓朝4カ国の民間国際会議に行った。 北朝鮮から日朝正常化交渉の李三魯大使が来ていた。会議が終わる頃に、彼が米国務省の 韓国部長は来ないのか と聞く。

 韓国部長が来るというので、参加したという。だまされたのだ。米国と、秘密接触したかった。それがだめなら、日本外務省から来ていたA氏と話がしたいという。A氏は、サンフランシスコ総領事を終えたばかりの外務省幹部だった 。

 それで、僕は朝鮮語の通訳をしてほしいと頼まれた。ただし記事にはしないでくれ、という。記事にされたら、自分は粛清されるという。でも、なかなかの度胸だと思った。

 李三魯は、A氏に「日朝交渉は、必ずまとめる。李恩恵(田口八重子さん)問題を出さないでほしい」という。その年の春に埼玉県警が、李恩恵を田口八重子さんと確認し、日朝交渉で日本側が追及していた 。

 A氏が「なぜダメなのか」と聞くと、「会談が決裂する」という。なぜ決裂するのか 、 説明は要領をえない。

 「日朝交渉が終わると、交渉大使は単独で金正日書記に、報告する。前回の交渉後に報告したら、今度李恩恵問題が出たら、必ず決裂にしろと怒鳴られた」

 怒り狂った金正日は、机の上の大きなチェコ製のガラスの灰皿を李三魯に投げつけた。 間一髪よけたら、また怒られた。A氏は「なぜ李恩恵問題を出したら、決裂するのか。調査しますと言うのが、いつもの北の手口じゃないか」と反論した。

◆「重村さんから伝えてくれ 」

 李三魯は、今回はダメだという。しばらくやり取りしたが、堂々巡りだ。李三魯が「A氏に私から直接は話せない。重村さんに説明するから、それをA氏に伝えてほしい」という。ロビーの片隅で、朝鮮語で衝撃の理由を聞いた。

 「日本人拉致は、金日成主席の許可を得ずに、勝手に実行した。金日成主席にバレたら、大問題になる。将軍様は、後継者を降ろされるかも。主席に伝わらないように、懸命に抑えている。次の交渉で李恩恵問題が出たら、交渉を中止しろと言われている 」

 この話をA氏に伝えた。李三魯は、「外務省の首脳に伝えてほしい」とA氏に、何度も念を押した。

 92年11月の日朝正常化交渉で、日本側は李恩恵の名前を出した。北朝鮮代表団全員が席を立ち、交渉は決裂した。李三魯は、インドネシア大使に栄転した。李三魯は、金日成主席への拉致情報を遮断したから、評価されたのだ。日本人拉致の真実は金日成に届かなか った。

 94年5月にワシントンから、5年ぶりに帰国した。日本は北朝鮮核問題で大騒ぎしていた。僕だけが「北朝鮮は石油がないから戦争できない」と、中央公論誌に書いた。毎日新聞に転職する前、シェル石油で働いていたから、北朝鮮の石油を調べていた。NEWS23 の筑紫哲也さんがテレビで話せと、呼んでくれた。94年7月8日に金日成は死んだ。

 重村智計(しげむら・としみ つ)さん 1945年中国遼寧省生まれ 69 年早稲田大学法学部卒 71年毎日新聞社入社 ソウル、ワシントンの各特派員、論説委員などを務め2000年退社。拓殖大学教授、早稲田大学教授を経て現在早稲田大学名誉教授。著書に『絶望の文在寅、孤独の金正恩』『日韓朝「虚言と幻想の帝国」の解放』『金正恩が消える日』『外交敗北-日朝首脳会談と日米同盟の真実』。

2022年8月12日

大谷号外で思い出す46年前のロッキード事件号外

 米大リーグエンゼルスの大谷翔平(28歳)がベーブ・ルース以来104年ぶりとなる、投手として2ケタ勝利、打者として2ケタ本塁打を達成した8月10日午後、新聞の号外が街で配られた。大谷の地元「岩手日報」は、2連版印刷の大型紙面。フルカラーで4ページ分だ。

 朝日、読売は1面に広告が入っている。46年前のロッキード事件で、毎日新聞は「田中角栄逮捕」の号外に広告を入れた。

 当時の社会部長牧内節男さん(96歳)に大谷号外をメールで送ったところ——。

 「朝日新聞は毎日新聞のマネをしましたね。ロッキード事件の毎日新聞のことを覚えていた人がいたのですね」

 「すべて牧内節男の発想です。自慢ではありません、事実です。高官逮捕時は広告つきの号外を出すことを決め実行したのです。予め準備するのですから一般広告は掲載できません。だから書籍広告なのです」と返信があった。

 以下、その証拠紙面である。

 右が1976(昭和51)年7月27日(火)田中角栄逮捕の号外。下3段は、書籍広告の4つ割りだ。「東京90秒ユーモア」は、毎日新聞夕刊連載のミニコラム「赤でんわ」の特選集。サツ回りの担当で、長年の連載を1冊にまとめたものだ。

 高官逮捕第2弾の時(8月20日)の号外広告は、1面が『児玉番日記』と『日本を震撼させた200日』。「他紙を圧倒の毎日記者が暴く舞台裏!! 大胆、細心のロッキード報道」とうたった毎日新聞出版局の広告だ。

 裏面は山崎豊子著『不毛地帯』(新潮社)だった。

 タテに凸版で「ロッキード報道は毎日新聞で」とうたっている。「ロッキードの毎日」は元気だった。

(堤  哲)

2022年7月20日

「旧石器発掘ねつ造」のスクープ(2001年)
毎日新聞首都圏センター・渡邊雅春氏(元毎日新聞社)に聞く

 ――日本新聞協会ホームページ「ジャーナリズムの力」から転載

 毎日新聞社は2000年10月22日、「日本最古の遺跡」とされていた上高森(かみたかもり)遺跡(宮城県)で、NPO法人「東北旧石器文化研究所」(2004年1月に解散)の副理事長が発掘現場に石器を埋めている場面をビデオカメラで撮影しました。この映像に基づく取材により上高森など前期旧石器時代(※)のものとされた遺跡が捏造だった事実を突き止め、2000年11月5日付朝刊の一面トップで特報しました。石器を埋める場面のカラー写真3枚を一面に、捏造の過程が分かるよう映像から切り出した連続写真14枚を特別面に掲載。計6ページを使い捏造の一部始終を伝えました。


 2か月以上に及ぶ粘り強い取材で捏造を暴いたこの報道により、毎日新聞社は2001年度新聞協会賞を受賞しています。歴史の歪曲を正し、教科書の書き換えや考古学界による再調査につなげるなど社会を動かしたと評価されました。

 当時の取材班デスクで、現在は毎日新聞首都圏センターの代表取締役社長を務める渡邊雅春氏=写真・上=に、取材の様子や報道が社会に与えた影響などについて聞きました(インタビューは2022年6月に実施しました)。

教科書の書き換えにつなげる

遺跡の捏造を暴いた報道により、日本に前期旧石器時代が存在するという当時主流だった学説が否定されました。報道が社会に与えた影響をあらためてお聞かせください。

渡邊氏前期旧石器時代の遺跡の捏造は、歴史を歪曲したというより、勝手につくった、つまり歴史そのものを捏造する行為だといえます。今をつくっているのは過去です。過去の捏造は今につながるのです。ちょうど世紀の変わり目でしたし、取材班には「このような汚点を21世紀まで持ち越させない」という思いもありました。

 一般社団法人日本考古学協会は2年以上の調査を経た2003年5月の最終報告で、9都道県の計162遺跡で捏造があったと断定しました。その多くは遺跡でさえない単なる原野や畑でした。日本列島に70万年前から人類が住んでいたなどというのは真っ赤な嘘でした。結局、日本の旧石器時代研究は1946年の岩宿遺跡まで戻り、半世紀にわたる研究が無に帰したのです。19冊もの高校の日本史教科書が訂正を余儀なくされました。旧石器捏造報道は、自らの取材によって隠されていた事実を明るみに出すという典型的な調査報道だったと思っています。調査報道はジャーナリズムの存在価値に関わる根幹的な機能であり、新聞社が持つべき役割の一つを果たせたと考えています。

発掘現場に張り込み

捏造の瞬間をビデオ撮影するまでの経緯や苦労をお聞かせください。

渡邊氏 取材の端緒は2000年8月25日、根室通信部の記者が「副理事長の発掘成果はまゆつばだ」とする情報をつかんだことでした。当時の北海道支社報道部長の下、担当デスクである私と記者4人、カメラマン1人の計6人で取材班を結成しました。この段階では副理事長による捏造の確証などはありません。むしろスジが良くない、可能性の低い取材だと感じていました。それでも、ほとんど知識がなかった考古学の資料を読み込み、研究者らに取材を始めました。著名な専門家のほぼ全員が「(捏造は)ありえない。プロが見れば分かる」という反応でした。

 当時、新聞社が取材にビデオ映像を使うのは非常に珍しいことでした。しかし、張り込む予定の総進(そうしん)不動坂遺跡(北海道)の下見をしたところ、静かな未明・早朝はスチルカメラのシャッター音が予想以上に響き、遺跡からかなり距離をとらないといけないことが分かりました。ビデオなら撮影中も音はしないし、暗視モードなどの機能もあったというわけです。現場の記者とカメラマンは雑木林の木に登ったり、草むらに腹ばいになったりしてカメラを構えました。2000年9月のことです。結局、捏造の証拠となる映像の撮影には失敗しましたが、張り込んだ記者たちは副理事長が発掘現場の地面を掘り、何かを入れるような動作をした後、地面を踏み固める様子を目撃しました。この時点で、我々は捏造を確信しました。その後、小鹿坂(おがさか)(埼玉県)遺跡、上高森遺跡と取材を継続しました。

 決定的な瞬間を撮影できたのは10月22日、上高森遺跡でした。発掘調査の日程が2~3週間早まり、遺跡周辺で記者が身を隠せる草木がまだ生い茂っていたことも幸運でした。映像を確認したところ、副理事長がポリ袋から石器を取り出し、発掘現場に埋める様子が鮮明に映っていました。張り込みは発掘最終日まで継続し、別の日にも石器を埋める場面を撮影しています。

社内議論も読者に説明

発掘捏造の初報は2000年11月5日付朝刊でした。撮影に成功してから14日かかっています。紙面化に当たり社内でどのような議論があったのでしょうか。

渡邊氏 わざと時間をかけたのではなく、結果として2週間が必要だったいうことです。石器を埋めただけでは捏造ではないのです。埋めた石器を正式な発掘作業で掘り出し、調査団が数十万年前の石器だと認定・発表して初めて捏造になります。だから、発掘最終日まで取材を続け、埋めた石器と発表が一致することを確認しました。その上で副理事長本人から事情を聴く必要もありました。取材相手に不利な事実を紙面で報じる場合、本人の言い分を聞くのは鉄則だとも考えていました。

 紙面化に当たっては、新聞社としては当時異例だったビデオ撮影を巡り、編集局内から「盗撮と誤解する読者がいるのではないか」との懸念が示されました。そこで11月5日付朝刊に「おことわり」を掲載しました。取材班は、公式に認知されている「遺跡」は公の場所だと判断していましたし、仮にプライバシーの侵害に当たるとしても、捏造を暴くという公益性が優先されると考えていました。

 実名で報道するか匿名にするかについても議論がありました。副理事長はアマチュア考古学者ですが、NPO法人の副理事長であり、講演活動やラジオ出演も多く、論文の共著者にもなっていました。実質的に「公人」だと判断し、実名を選択しました。一方、関係者の名誉やプライバシーを必要以上に損なうことも避けなければならないと決め、紙面で公開した以上の素材を公にするのには慎重な姿勢で臨むことも確認しました。このため、海外のテレビ局などからビデオ映像の提供依頼がありましたが、断りました。

冷静に報じる機運高まる

捏造が明らかになる以前の報道は、副理事長の「歴史的発見」をどう伝えていましたか。また、特報によってどう変わりましたか。

渡邊氏 10万年前、20万年前、70万年前と日本列島の歴史が毎年のように塗り替えられていく、その興奮の中にメディアもいたと思います。そこにはロマンがあり、読者の関心も高かったのです。毎日新聞も含めたメディアは正式な報告書もないのに、まるで確定的な事実であるように大々的な報道を繰り返しました。報道は結果的に捏造を定着させるのに大きな役割を果たしました。そう批判されても仕方ないと言えるでしょう。このように旧石器発掘捏造報道は、メディアにも反省を迫るものとなりました。私は当時、特報により、冷静な報道が必要だという意識が記者たちに広がったと感じていました。発掘の成果に疑念を持つ専門家がいれば両論を併記するなど、成果について一方的な価値判断をしない記事が増えたと思います。

※旧石器時代=一般的に①後期(1~3万年前)②中期(3~30万年前)③前期(30~250万年前)に区分されます。日本では、1946年に発見された岩宿遺跡(群馬県)によって「後期」が存在することは確定しましたが、「前・中期」をめぐっては1960年代から「ある派」と「ない派」が学界を二分する論争を繰り広げました。ところが1981年、副理事長が座散乱木(ざざらぎ)遺跡(宮城県)で「4万数千年前の石器」を発見したとし、同遺跡は論争に終止符を打つものだとして国指定史跡(2002年に指定解除)となりました。その後も「石器発見」は続き、70万年前とされた上高森遺跡まで20年に満たない期間で、日本の人類史は60万年以上も時代をさかのぼりました。

2022年7月20日

銀座で開催中の書展に元主筆伊藤芳明さんの作品

 ふらりと入った銀座・鳩居堂画廊の書道展に、元主筆伊藤芳明さん(71歳)の作品が展示されていた。「書藝北辰会展/GINZA2022」展(24日まで)。奈良市の書家、毎日書道会参事の藤野北辰さん(77)主催。伊藤さんはその門下生で、「青暁」の号を持つ。

  もりもり/もりあがる/雲へ歩む

 「山頭火の辞世句としても知られる句」と解説にあった。

 脇に「第73回毎日書道展/佳作受賞」伊藤青暁。73回展は今年だ。現在国立新美術館で開催中の毎日書道展に、漢字部門「佳作」の青暁作品は25日まで展示されている。

 伊藤さんは、東大ラグビー部OBで、現在もOB戦などに出場している現役ラガーマンである。『ラグビー日本代表 ONE TEAMの軌跡』を共著でデジタル出版するほどのラグビーファンだ。

 むろん現役のジャーナリストであり、ロシアのウクライナ侵攻をどう見るか、毎日新聞紙面にも時々登場して見解を述べている。カイロ、ジュネーブ、ワシントンの特派員経験、編集局長、主筆の経験を存分に生かしている。日本記者クラブ理事長を長く務め、現在名誉会員となっていることは、この毎友会HPで紹介されている。

 「書藝北辰会展/GINZA2022」展にもうひとり毎日新聞社員が出品していた。和歌山支局の松本博子(香雲)さん。

 何を求める/風の中ゆく 松本香雲

 毎日新聞のHPを検索すると、昨年4月、大阪本社事業部副部長から和歌山支局に転任した。《大阪社会部、地方部では原爆など戦争体験の記録とホームレス支援の取材に注力。奈良支局では県政ほか遺跡や古社寺の文化財を担当、「もの」が語る歴史にときめきながら書きました》と紙面で挨拶している。藤野北辰さんは毎日新聞奈良支局でも書道教室を開いていることから奈良支局時代に出会いがあったのか。

 共催の「北辰墨花」は、毎日新聞京都支局が月1回開いている、誰でも参加できる書道教室だ。毎日新聞HPに「北辰墨花」ページがある。

https://mainichi.jp/search?q=%E5%8C%97%E8%BE%B0%E5%A2%A8%E8%8A%B1

 今西拓人さん(日本の霊長類研究の創始者といわれる今西錦司さん〈1902~92〉の孫)が京都支局長時代に始めたという。今西さんは、昨年4月大阪本社地方部に転任、ライターとして活躍している。

 ついでに話を拡げると、『今西錦司伝 「すみわけ」から自然学へ』(ミネルヴァ書房2014年刊)の著者斎藤清明さん(76歳)は、私(堤)が大阪社会部時代、千里の独身寮で一緒だった。

 斎藤さんは、京大山岳部で今西錦司さんの後輩で、「今西番記者」を自称していた。「子供のころ、うちにしょっちゅう斎藤さんが出入りしているので、親戚のおじさんかと思っていた」という拓人さんの談話がインターネット上にあった。

(堤  哲)

2022年7月20日

野球の「聖地・名所150選」に、なんと「毎日新聞跡」

 日本野球機構(NPB)、全日本野球協会、野球殿堂博物館は19日、野球伝来150年を記念して日本全国の野球にまつわる「聖地・名所150選」を発表した。

 2022年は、野球が日本に伝わって150年を迎えることから企画されたもので、プロ野球の本拠地となっている球場や北海道・旭川市のスタルヒン球場、大阪・豊中市の高校野球発祥の地記念公園など150か所が認定された。

 そのひとつに、「毎日新聞跡」があった。選定理由に、こうある。

 《実業団、クラブチームの大会は大正時代から活発に行われ、1920年には第1回全国実業団大会が開催。1927年からは都市対抗野球大会がスタートした。戦後も1946年8月に第17回大会としていち早く復活したが、当時は各地区の実業団の団体はあったものの、全

 国の統括的な組織がなく、国際的な行事を開催するためにも全社会人を一本化して活動できる体制づくりが急務といわれていた。1949年2月、毎日新聞東京本社8階のレストラン(セント・ポール)で「日本社会人野球協会(日本野球連盟の前身)」の第1回設立総会を開催。初代会長には宮原清氏が推された。毎日新聞は1966年に竹橋に移転、有楽町の社屋跡地には「新有楽町ビルヂング」が建つ》

 そしてこの写真を添えている。

 いつの写真なのか。有楽町の毎日新聞本社ビルが8階建てで、その最上階にレストラン「セント・ポール」があったなんて全く知らない。

 関西では、毎日新聞の前身大阪毎日新聞社(大毎)が、野球に力を入れた。1910(明治43)年秋、来日中の米シカゴ大学と早稲田大学(飛田穂州キャプテン)を関西に呼んだ。費用は全額大毎負担だった。

 当時阪神間には野球の試合を行うグラウンドがなかった。そこで阪神電鉄に頼んで、その3年前1907年に開園した香櫨園遊園地(現在の阪急電鉄夙川駅付近)内に野球場をつくって、3日間で3試合を行った。

 大毎は、早稲田大学のヒゲの応援団長吉岡信敬を呼ぶなど、関西初の国際野球試合を大宣伝。阪神電鉄は両軍選手の送迎を花電車で行った。入場料は無料。各地の中学校の野球部に団体で観戦を呼び掛けるなどで、「観客は3万人余」と紙面にある。

 「野球場を造れば乗客増につながる」。箕面有馬電気鉄道(現阪急電鉄)の豊中球場、阪神電鉄の鳴尾球場、さらには1924(大正13)年の甲子園球場の建設につながった。

 豊中、鳴尾、甲子園の各球場は、「聖地・名所150選」に入っているが、香櫨園遊園地は見当たらない。

(堤  哲)

2022年7月19日

58年前の東京五輪女子選手村の毎日新聞語学要員秘話

山口昌子さん

 15日付夕刊に元産経新聞パリ特派員山口昌子さんの記事が載っていた。

 《山口昌子さんに聞くパリジェンヌの生き方—他人と比べず我が道行く》

 慶應義塾大学文学部仏文科卒、66年産経新聞入社と略歴にあったが、64年東京オリンピックの時、毎日新聞の語学要員アルバイトとして女子選手村担当をしていたのだ。

 選手村担当だった社会部OBで、慶大の先輩磯貝喜兵衛さん(93歳)は「パリ特派員が長く、フランスからレジオンドヌール勲章をもらっていますよ。現在もパリに住んでいて、たまに帰国すると連絡があって、お会いしています」という。

 夕刊の記事には《山口さんはシングルで、「日本のシングルよりずっと楽よ。未婚だからって肩身の狭い思いをしないですむのはすごくよかったわね」》などとあった。

 磯貝さんによると、女子選手村は男子禁制。岡本初子さん(社会部→学芸部)がキャップで通訳の学生をまとめていた。取材配置表には山口さんの他、語学要員とみられる女性の名前が3人載っている。

 そのうちの1人が石塚滋子さん。63入社で当時仙台支局員だった石塚浩さん(82歳)の妹さん。日本女子大英文科4年生だった。

 「実は、田中真紀子さんも応募していたのですが、当時の運動部長仁藤正俊さん(2006年没92歳)が『政治家の娘はダメ』といって採用しなかったのです」と磯貝さん。

 「ある時、ドイツ大使館での催しに田中真紀子元外相がお見えになった。日独友好議員連盟の会長をされていたと思います。私は合唱団の一員としてドイツ国歌を歌ったのですが、真紀子さんはメロディーが留学したアメリカの高校の校歌とそっくりと感激していました。別の機会に夫の田中直紀さんが来られた時、『実は真紀子さんは毎日新聞の東京五輪の通訳に応募されたのですが、採用されなかったのです』と裏話をしました。そうしたら、真紀子さんから私の自宅に電話があったのです。残念ながら私は不在で、女房が電話に出て留守を伝えました。その後電話はありませんでした」と磯貝さんは続けた。

 「選手村から」のワッペンが大会期間中紙面を飾った。「キモノにごきげん」と和服姿の女子選手の写真つき。女子選手村で30人分の訪問着を用意して着付けをした。ソ連のラチニナ、タマラ・プレス、豪州のフレーザー、ルーマニアのバラッシュなどをはじめメキシコ、アメリカ、ハンガリーなどの選手たち、と記事にある。

 「毎日グラフ」東京五輪臨時増刊号には、女子選手村でツイストを踊る選手の写真を載せ、「女子村サロンは男子禁制とあって、あけっぴろげににぎやかだ。夜になればツイストやサーフィンをみんな楽しんでいた」と説明をつけている。

 極めつけは、米コノリー夫妻の金網越のキス。

 2人は、1956メルボルン大会で出会って結婚した。夫ハロルド・コノリーはハンマー投げ、妻オルガ・フィコトワ(チェコスロバキア)の円盤投げのともに金メダリスト。「禁断の恋」と騒がれ、プラハで結婚式をあげた。東京大会には夫婦そろって出場したのだ。

(堤  哲)

2022年7月13日

18日に開幕、第93回都市対抗野球大会

「and E」Vol9=2022年7月発行

 第1回都市対抗野球大会の開幕を報じる1927(昭和2)年8月3日発行4日付「東京日日新聞」夕刊を、JR東日本発行のコミュニケーション誌「and E」(アンド イー)第9号が掲載している。COVER STORYとして都市対抗野球大会の始まり、さらに「応援文化」にまで言及している。

 表紙の写真は、裏表紙まで見開きで東京ドームを埋めたJR東日本応援団の写真だ。

 都市対抗野球を主催する日本野球連盟の現会長は、JR東日本で社長・会長を務めた清野智氏(74歳)である。「国鉄改革3人組」松田昌士氏(2020年没84歳)が野球連盟会長に就任したのは2005年だった。当時JR東日本の会長。一面識もなかったアマチュア野球のドン山本英一郎氏(野球殿堂入り、2006年没87歳)から後任会長を託されたが、山本氏は「戦前の国鉄野球は強かった。JRの時代が必ず来ます」と予測していた。

 ことしの第93回大会にはJR東日本、JR東日本東北、JR東海、JR西日本の4チームが出場する。JR東日本は13年連続25回目の出場で、2011年の第82回大会で初優勝しているが、この年は東日本大震災の影響で大阪ドーム開催だった。「ことしこそ地元東京ドームで黒獅子旗を」と燃えている。

 JR東日本とJR東日本東北が1回戦を勝ち抜くと、2回戦で激突するという組み合わせになっている。

 日本で最初の野球チームは、「新橋アスレチック倶楽部」である。1878(明治11)年に新橋鉄道局に勤務した平岡熈(1856~1934、野球殿堂入り)が結成した。

 その平岡の功績を後世に残そうと全日本クラブ野球選手権大会の優勝チームには「平岡杯」が授与されている。2010(平成22)年の第35回大会からで、平岡杯を制定したのは日本野球連盟会長の松田昌士氏だった。

(堤  哲)

2022年7月11日

7月24日(日曜日)は毎日新聞が協力する20回目の「親子の日」

左から写真家の桑原史成、オズボーン・佳子夫妻、石川武志の各氏

 5月第2日曜日は「母の日」、6月第3週は「父の日」、それなら7月の第4日曜日を「親子の日」にしようと、運動を続けている米国人写真家ブルース・オズボーンさんと佳子さん夫妻。東京丸の内の日本外国特派員協会(FCCJ)=千代田区丸の内3-2-3 丸の内二重橋ビル5階=で写真展「親子写真まつり」を開いている(8月5日まで)。

 年に1度、親と子がともに向き合う日があっていい、とオズボーン夫妻が「親子の日」の運動を始めたのが2003年。7月24日は20回目の「親子の日」を迎える。

 毎日新聞はこの運動をバックアップして、毎月1回、オズボーンさんが撮影した親子の写真を掲載する特集面をつくってきた。毎日新聞社は「親子の日」協力団体に名を連ねている。

 https://mainichi.jp/ch151147492i/%E8%A6%AA%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%97%A5

 9日(土)に写真展会場を訪れると、隣の新東京ビルで「9人の写真家が見た水俣」の写真展を開催中(30日まで)の土門拳賞の写真家桑原史成さん(85歳)と、ユージン・スミスのアシスタントとして水俣取材をした写真家石川武志さん(71歳)が鑑賞していた。

 桑原さんは、「親子の日」写真展終了翌日の8月6日から同じ会場で水俣の写真展を開催する予定だという。

 イベントの予定は、親子の日公式サイト(www.oyako.org )へ。

(堤  哲)

2022年7月6日

何か変?! 創刊100年の「サンデー毎日」と「週刊朝日」

 「週刊朝日」7月15日号をパラパラとめくっていたら、元文藝春秋のノンフィクション作家下山進さんの「2050年のメディア」が載っているではないか。

 「サンデー毎日」の人気連載コラムだったはずなのだが。

 それも、サンデー毎日から引っ越し新連載!「第1回」とうたっている。

 あわてて前号の「サンデー毎日」をめくった。「2050年のメディア」第113回とあって、見出しは「また会う日まで/わが心の/サンデー毎日」。

 何があったのか。

 《この連載で何度か書いてきたように、紙の定期刊行物は厳しい時代を迎えている。週刊現代、週刊ポストなど多くの週刊誌が、「週刊」ではなく月3回刊となった。サンデー毎日もこの6月から月3回刊になったことに気がついた読者もおられるだろう。

 そうした流れのなかで、次週からサンデー毎日でのこの連載を、「週刊」で刊行を続ける『週刊朝日』に移すことの了承をいただきました。ケンカをしたわけではありません。サンデー毎日では別の形でお目にかかることになると思います。

 週刊朝日の連載は、コラム名もそのまま、ただし、北斎が61歳の時、一から始めるとしてその画号を「為一(いいつ)」と改めたひそみにならい、新連載は「第一回」から始まる》 そうか、「サンデー毎日」が旬刊になったのが理由だったのか。

 サンデー毎日」の最新号のトップ記事は
 消費税増税で岸田は自滅、次は林芳正、河野太郎か
 「黄金の3年間」はない!参院選後はこうなる!

 筆者を見てびっくりだ。ジャーナリスト鮫島浩。そう、『朝日新聞政治部』(講談社)をつい最近出版した、話題の元政治記者である。

 もはや「朝日新聞」「毎日新聞」などといっている場合ではない!?ということか。

(堤  哲)

2022年7月4日

続藤田コレクション:藤田組支配人・本山彦一(のち毎日新聞社長)

藤田光彦
藤田傳三郎
本山彦一

 写真は、左から藤田コレクション「慶應野球部の写真48枚」の撮影者藤田光彦(1911~1974)、その祖父で藤田財閥の創始者、男爵藤田傳三郎(1841~1912)、藤田組支配人から毎日新聞を全国紙に発展させた元社長の本山彦一(1853~1932)である(敬称略)。

 本山は、1886(明治19)年7月に藤田組支配人となった。そのきっかけは福澤諭吉(1835~1901)の関西旅行に同行して、紹介者を介して傳三郎と面会したことだった。

 本山は、諭吉がその4年前の1882(明治15)年に創刊した「時事新報」の会計を担当していた。会計の前は、編集で、「本山は編集室の真ん中に陣取り、集まった原稿を片っ端から読み上げた」と、高橋義雄(箒庵1861~1937)が書き残している。高橋は「時事新報」新卒入社第1号。同じ慶應義塾卒で同時入社の渡辺治(1864~93)は、大阪毎日新聞社の初代社長になった。

 本山の「時事新報」退社は、周囲から反対された。本山も断り状を紹介者に出したが、最終的に月給100円で藤田組の社員となった。

 支配人本山は、児島湾の干拓事業を進め、山陽鉄道の建設に乗り出し、1889(明治22)年には大阪毎日新聞の相談役となった。その後、原敬社長を継いで1903(明治36)年に社長就任。朝日新聞に追いつけ追い越せで、06(明治39)年、東京進出を図って、「毎日電報」を発刊、さらに11(明治44)年「東京日日新聞」を吸収合併して全国紙体制を確立した。

 本山彦一が藤田傳三郎と出会ったことが、今の「毎日新聞」につながっているわけだ。

 「藤田コレクション」藤田光彦の長男「バロン」昭彦さん(80歳)=元大阪本社社会部=から、この毎友会HP(6月29日トピックス)を読んだ感想がメールで届いた。

 「来年50回忌を迎えるオヤジのことを思い出す機会ができました。葬儀は狭い自宅でささやかに営み、屋内は6畳の部屋に身内が座るだけで、会葬者は道路での参列でした。大阪府警を一緒に回ったトリちゃん鳥越俊太郎氏が社会部木曜会幹事で来てくれました」

 「実はその日は休みで京都競馬のメーンでひいきの馬2頭が1枠に入り、1-1のゾロ目を買う予定だったのですがオジャンになり、結果はきっちり1-1で涙!! 以後、馬から見放されっぱなしです」

 「野球資料は私の弟に譲ったため、写真に記憶はないなあ。写真を撮るだけでなく、スコアブックも自分で書き込んでいて、『これを見たらゲーム展開が目に見える』と言ってました。スコアブックも一緒にサザビーに行ったはずですが……」

 「光彦の趣味は音楽と野球と落語でした」

 「不思議がられたのは、オヤジは終生丸刈りでした。身長が低いこと(徴兵検査で不合格)と合わせてどこでも目立ちました。長髪だと整髪にポマードを使い、それがレコードにつくといけないからとの理由でした」

 ――藤田光彦先生の名声を確立したのは、蛾をたべること、と立命館大学吉田恭子教授が『慶應義塾図書館の蔵書』(慶應義塾大学出版会2009年刊)に書いていますが……。

 「蛾の話はエピソードで必ず持ち出されるのですが、まるで常食にしている風に伝えられ、家族としては迷惑この上なし。一度はテレビ局が『蛾を食べるシーン』を撮影したいと言ってきたのに応じて、捕まえた蛾をスープに浮かべて食べて見せました。当時は家の裏に山があり、指の先ほどの小型の蛾がいくらでも家の中に飛び込んできていました。最初は子供のころにたまたま口の中に蛾が飛び込んで来たのをそのまま噛んだら『ヌガーのような味』でおいしかった、というのがきっかけだそうです」

 「世界的人口増で食糧難の将来に備えて『昆虫食』が脚光を浴びています。泉下で先見の明だと威張っているオヤジの顔が目に浮かびます」

(堤  哲)

2022年7月4日

元スポニチ社長、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」~四半世紀発行達成、25年間書き続けて

≪書くということの意味≫

=2022年7月1日発行の『銀座一丁目新聞』900号から転載
信濃 太郎

 「酒は涙かため息か、心の憂さの捨てどころ」という歌があった(作詞・高橋掬太郎・作曲古賀政男))。私の「書く作業」にはそのような所がある。「昔の事件振り返り夢に出てくる友の顔」。昭和23年6月、社会部に採用された8人の友人たち、その前後に入社の同僚もすでに全員があの世に行ってしまった。今は孤独をしみじみと噛み締めている。その味のなんと苦く渋い。

 艦爆乗り海軍中尉であった高橋久勝君は「練習機(赤とんぼ)肩で押し出す寒さかな」の句を残す。「下山事件」で下山国鉄総裁の自殺の決め手となる現場近くの旅館に休憩した事実を取材報道した。安永道義君はがんに侵されながら死ぬまで下野新聞のコラムを書き続けた。晩年は整理部で腕をふるった吉田錠二君は公私ともにお世話になった。文京区根津の社員寮に住んでいた昭和27年1月、女房が産気づき近くの東大病院に入院した。会社に連絡しても、今殺人事件の取材に行って連絡が取れないというので察デスクが上野署にいた吉田君を私の代わりに東大病院に差し向けてくれた。お陰で大いに助かった。

 桑原隆次郎君は忘れがたい。桑原君が亡くなった(平成20年4月15日・享年84歳)と聞いて、東京・文京区駒込3丁目の「駒込吉祥寺」に赴き、彼の遺骨が納められてある「大慈塔」(一重の仏舎利・永代供養塔)に線香を供え、冥福を祈った。いろいろお世話になった。妻との結婚には一役買ってくれ、ささやかな結婚式に友人として出席してくれた。人つき合いの悪い桑原君としては珍しいことであった。クラシック音楽が好きで週に一度の察回りの会合「木曜会」のあと、喫茶店でショスタコヴッチの「革命」を聞いた。私のクラッシクが好きになるきっかけを作ってくれた。

 また編集局長となり、新旧分離の際、旧会社の役員となった平野勇夫君とは察廻り記者当時から仲が良かった。ロッキード事件が起きた際、編集局長の彼から請われて論説委員から社会部長となったのもこのためであった。まさに激動の半年であったが、成果を上げることができたと自負する。その後、私が歩んだ道が西部本社代表6年余、スポーツニッポン新聞東京本社社社長6年。ともに自由に自分の仕事ができた。

 「銀座一丁目新聞」をネットで開設したのは平成9年4月からである。最初は原稿料を払って作成していたが、財政が立ち行かなくなり全て自分で書くようになった。自ずと今の形となった。書くことが自分の喜びとなり生きがいともなった。ネットで新聞を出したのは日本では私が第1号である。これは記録を見ればわかる。 友人に恵まれたというべきであろう。大いに感謝する。

≪創刊号≫1997年4月

発行所 東京都中央区銀座一丁目5-13仰秀ビル6F
(株)一ツ橋アーツ

編集方針 卓見、異見を吐き、面白く、 耳よりの話を伝え、実用的なトークなどを発信、ホームページを通じて、平和と民主主義社会の発展に微力をつくすものとする。

 日本アカデミー賞で初の主演女優賞に輝いた草刈民代は大胆なスリットの入ったドレスで視線をクギ付けにした(スポニチ3月30日付 スポーツニッポン新聞社提供)

※創刊号には、佐々木叶さんの「茶説」、大竹洋子さんの映画紹介、新山恭子さんの「ドリームトーク」などが掲載され、「付録」として「頑張れ阪神タイガース新聞」(阿久悠さんの「我ら猛虎党」など)。

下記URLでバックナンバーが検索できます。

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2022年6月29日

腰本寿・桐原真二・小野三千麿のサイン入りブロマイド
撮影者バロン藤田の孫、その長男は元大阪社会部の事件記者

 慶大三田キャンパスの慶應義塾史展示館(図書館旧館2階)で開かれている「慶應野球と近代日本」(8月13日まで)。そこに「慶應野球部の写真48枚」(福澤研究センター蔵)が展示されていた。水原茂、宮武三郎ら当時のスター選手がズラリだ。プロ野球のない時代、東京六大学、とりわけ早慶の野球選手は人気があった。

 ピックアップした3人は、左から腰本寿、桐原真二、小野三千麿。いずれも元毎日新聞社社員。新聞記者の傍ら「大毎野球団」の選手として活躍し、1925(大正14)年の大毎野球団アメリカ遠征のメンバー。3人とも野球殿堂入りしている。

 腰本(1894~1935、1921年入社)はアメリカ遠征時のキャプテン。早慶戦は1925(大正14)年に「復活第1戦」が行われたが、慶大は飛田穂州監督の早大に惨敗した。そこでハワイ生まれの腰本に白羽の矢が立った。「3年で復職」の約束で、翌26年慶大監督に就任、直後の春のリーグ戦で早大には敗れたものの、早速優勝した。

3年の約束は反故にされ、1934年暮れ病気で辞任するまで、9年16シーズン中、7回優勝している。慶應野球部、Enjoy Baseballのさきがけでもある。

 特筆されるのは、1928(昭和3)年秋の10戦10勝、全勝優勝である。後輩のスポーツ記者小野三千麿は「日本が産みたる最も監督らしい監督」(『慶應義塾野球部史』)と絶賛している。ブルー・レッド・アンド・ブルーのストッキングに白線が入ったのはその記念だ。現在白線は2本あるが、もう1本は前田祐吉監督時代の1985(昭和60)年秋の10勝1分けである。

 小野三千麿(1897~1956、1921年入社)は、「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」と野球殿堂の紹介にある。1922年11月19日三田倶楽部が米プロチームを9-3で破ったのだ。米国チームが力を抜いたとはいえ、日本の野球史に残る快挙だった。都市対抗野球大会の敢闘賞「小野賞」に名を残している。

 桐原真二(1901~1945、1925年入社)は、1924年度の慶應野球部の主将で、早慶戦復活に尽力した功績が認められ野球殿堂入りした。

 桐原は経済部長も務めたが、応召してフィリピンの首都マニラで陸軍報道部員だった。

 「マニラ新聞」は毎日新聞の経営で、南條真一編集局長(元東京日日社会部長)をはじめ200人近い社員が出向していた。毎日新聞記者・伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』には、南條編集局長、取材部長伊藤清六ら毎日新聞関係者の戦死者は56人にのぼった、とある。しかし、桐原がいつどこで戦死したかは分かっていない。

 『井上ひさし伝』(白水社2001年刊)の著者、元毎日新聞学芸部の桐原良光は息子である。

 マニラには、政治部記者後藤基治も海軍報道部長として勤務していた。首都マニラのあるルソン島に米軍が上陸したのは45年1月9日。後藤は、その2週間前に海軍機でマニラを離れた。毎日新聞の社員7人を「携行貨物」扱いで許可をとり、同乗させた。その中には政治部に戻って特ダネ記者として活躍した人もあり、生死は紙一重だった。

 後藤は戦後、東京本社の社会部長をつとめている。下山事件が起きた時の黒崎貞治郎社会部長の後任だった。

 さて、「慶應野球部の写真48枚」は、NYに本部のあるザザビーズのオークションで競売され、福澤研究センター蔵となった。その経緯「藤田コレクションに甦る慶應野球部選手たち」を、入手のきっかけをつくった立命館大学吉田恭子教授が福沢諭吉記念慶應義塾史展示館だより「Tempus(テンプス)」第2号(2022年6月)に書いている。

 早稲田の選手の写真69点も同時に出品されたが、誰が落札したか分からないという。

 写真の撮影者・藤田光彦(1911~1974)は《藤田財閥創業者・藤田傳三郎の三男彦三郎の長男で、神戸在住、音楽評論家として戦後は神戸放送のラジオ番組でクラシック音楽の普及に尽力されたことがしられている》と記している。

 さらに《光彦は野球ファンでもあり、学生時代(筆者注:京都大学文学部哲学科)、甲子園球場をはじめとする関西の球場に通って当時のスター選手たちを撮影し、その日のうちに現像すると、一族が経営するホテルに滞在する選手を訪れサインをもらっていたそうです》と続けている。

 大阪社会部で私(堤)が一緒に仕事をした、64年入社同期の藤田昭彦(現80歳)は、写真撮影者・藤田光彦の長男である。当時藤田姓が社会部に4人いて、昭彦さんは「バロン藤田」と呼ばれていた。大阪府警捜査1課担当の事件記者だった。

 父親の「藤田コレクション」の話は、今回初めて知った。

(堤  哲)

2022年6月27日

運動部OB松尾俊治さんのイラストが慶應義塾野球展に

野球部の同僚に贈った激励イラスト
1943年10月16日早大戸塚球場での「最後の早慶戦」
後列右端が松尾さん

 野球が日本に伝わって150年を記念して慶大三田キャンパスの慶應義塾史展示館(図書館旧館2階)で開かれている「慶應野球と近代日本」に、運動部OB松尾俊治さん(2016年没91歳)が学徒出陣の同僚野球部員に描いたイラストが展示されている。学徒出陣前の「最後の早慶戦」の写真もあったが、上に載せたのは慶應義塾野球部100年史にあった「最後の早慶戦」記念撮影の一部だ。

 松尾さんは、1943(昭和18)年旧制灘中学を卒業して入部した。ポジションは捕手。イラストは松尾さんが全軍に声を掛けている図だ。一緒に入部した外野手の松沢喜三郎さん(慶應普通部)が海軍飛行予備学生として入隊する際に描いた。松尾さんも「ほどなく陸軍のパイロット養成課程に志願」しており、「今度は大空で頑張ろうよ」と松沢さんにエールを送った。2人とも無事復員した。

 松尾さんは、1948(昭和23)年に卒業後、慶應の先輩が発行していた野球雑誌の記者から50年毎日新聞入社。以来アマチュア野球専門に記者席から試合を見続けた。東京六大学公式記録員、日本アマチュア野球規則委員などをつとめ、『六大学野球部物語』『最後の早慶戦—学徒出陣還らざる球友に捧げる』『神宮へ行こう』『ああ甲子園!!―高校野球熱闘史』『選抜高校野球優勝物語』『都市対抗野球優勝物語』など著書多数。

 慶應義塾創立100年の記念事業として出版された『慶應義塾野球部史』(1960年初版発行)でも編纂委員をつとめた。東京六大学をはじめ各大学の野球部史は、この慶應義塾野球部史をお手本としてつくられている。

 野球部史に「日本に野球が伝えられて間もなく三田の山にベースボールが始まった」とあり、明治30年頃の写真に「右翼手高石真五郎」と説明がついている。高石は慶應義塾に9年間在籍、最初の3年間は「童子寮」で生活、福沢諭吉から直接教えを受けている。のちの毎日新聞社第7代社長である。

 展覧会は8月13日まで。

(堤  哲)

2022年6月24日

俳人池田澄子さんは、高3のとき、新人記者池田龍夫さんと出会った

週刊文春6月30日号

 俳人池田澄子さんの記事が「週刊文春」の最新号に掲載されている。元整理本部長・故池田龍夫(2018年没87歳)夫人である。

 2人の出会い。澄子さんは新潟中央高校3年生。近所の知人の家に呼ばれ、毎日新聞記者池田龍夫さんと出会った。《新潟支局の新人記者。特別カッコ良いとも、話が面白いとも思わなかったが「あ、この人」と直感した》

 ビビッと来たのだ。

 池龍さんは、1930(昭和5)年生まれ。旧制成蹊高等学校から成蹊大学政治経済学部を卒業して53(昭和28)年入社。駆け出しが新潟支局だった。

 澄子さんは、新潟市の第四(だいし)銀行本店(現第四北越銀行)に勤めた。

 《彼は逢って間もなく東京本社に戻ってしまいました。だから結婚までいわゆる遠距離恋愛。直接会うのは半年に一度くらい。いざ逢ってもモジモジしているうちに時間が経ってしまい、慣れたころにはまた離れ離れ。電話はなかったから、毎週手紙を書き合ってね》

 《私が書く人になったのは、こんなことも影響しているかもしれないわね。夫との膨大なラブレターは、夫には内緒で少しずつ捨てました。だって死後に、子供に読まれたら恥ずかしいでしょ(笑)》

 1958(昭和33)年に結婚。《初恋の人と結婚して、その後も浮気もしたことがないっ。つまらない人生だわねー(笑)》

 俳句との出会いは、35歳のころ。41歳の時、『俳句研究』の特集で三橋敏雄を知り、その俳句に魅せられた、という。

 《俳句を考えるのはいつも掘り炬燵のある居間。俳句になりそうなことはないかと思いを巡らせたり、メモしておいたものを眺めたり、パソコンにいれたものを推敲したり》

 《「待ち遠しき俳句は我や四季の國」という三橋敏雄の句があるのですが、それは私にとってはお守りのような句で、今の私の思いそのもの。いつだって自分の句との出会いが待ち遠しい》

 1988(昭和63)年、52歳で第一句集『空の庭』を上梓、現代俳句協会賞を受賞。第七句集『此処』は、第72回読売文学賞詩歌俳句賞、俳句四季大賞を受賞した。

 お孫さんが3人。今も池龍さんの生家があった土地で暮らす、とある。

 澄子さんの紹介に次の3句があげられている。

  「じゃんけんで負けて蛍に生れたの」
  「ピーマン切って中を明るくしてあげた」
  「前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル」

(堤  哲)

 *池田龍夫さんの追悼録は、諸岡達一さんがこのHPに書いています。ご参照を。

2022年6月13日

1950年日本ワールドシリーズを制した「毎日オリオンズ」

 1950(昭和25)年、プロ野球にセ・パ2リーグが誕生して、初の日本一に輝いた毎日オリオンズの球団結成初試合の入場券が、10日付日経新聞文化面に載っていた。

 3月8日中日球場で行われた対米国第5空軍戦。内野席券40円。公式戦は80円だったから半額だ。ちなみに公式戦の特別席(ネット裏?)は100円、外野席は30円だった。

 毎日新聞は、この試合の結果を翌9日付で報じている。21―0の大勝である。

  毎 日 101 482 140| 21
  空 軍 000 000 000| 0

③西本幸雄(28)和歌山中→立大→別府星野組
3三宅宅三(29)玉島中→明大
⑦伊藤庄七(31)中京商→明大→愛知産業
⑧別当 薫(29)甲陽中→慶大→大阪タイガース
⑨戸倉勝城(31)豊浦中→法大→大洋漁業
②土井垣武(28)米子中→大阪タイガース
④本堂保次(31)日新商→大阪タイガース
⑥河内卓司(29)広島一中→慶大→大洋漁業
④今久留主淳(31)嘉義農林→別府星野組
①荒巻 淳(23)大分高商→別府星野組
PH小田野柏(33)岩手県福岡中→仙鉄局→阪急→豊岡物産
1野村武史(30)岐阜商→明大→全京城→セネタース→豊岡物産→大洋漁業
1上野重雄(26)九州学院→大連満倶→門鉄局
5225

 大差の試合になってしまったが、第五空軍は、前年に来日したサンフランシスコ・シールズに唯一勝利したチームだった。ところがこの日のメンバーでシールズ戦に出場した選手は3人だけと朝日新聞(名古屋版)は指摘し、「毎日のエース荒巻はアウト・シュートする速球と、大きく落ちるドロップを併用し、エースにはじぬ投手ぶりであった。戸倉、土井垣の各5安打をはじめ計25本の長短打はパ・リーグの第一級球団としてはずかしからぬものであった」と続けている。

 当時の新聞は、裏表2㌻が通常だった。ペラと呼ばれた。朝日新聞名古屋版は第2面に2段見出しで「オリオンズ大勝/21-0第五空軍不振」と報じた。

 毎日新聞は、この日4㌻で、3面の真ん中に写真も入れた。本文は小野三千麿(野球殿堂入り、慶大→大阪毎日新聞元体育部長=戦時中運動部は体育部と改称した)が書いている。

1950年3月9日付毎日新聞

 毎日オリオンズは、前年都市対抗野球大会で優勝した別府星野組を中心に社会人野球チームの選手を主体に編成した。さらに関西の人気球団大阪タイガースから、この日の試合に出場した別当、土井垣、本堂の3選手の他、監督兼投手の若林忠志(42歳、ハワイ出身で法大→川崎コロンビア)と呉昌征(33歳、嘉義農林→東京巨人軍)の計5人を迎えた。

 総監督は、湯浅禎夫(47歳)。米子中→明大→大阪毎日新聞社運動部長。入社した時は、小野三千麿に代わって大毎野球団のエースだった。

 毎日オリオンズは、この年81勝34敗5分 勝率.704でパシフィック・リーグの初代優勝チームとなった。セ・リーグ優勝の松竹ロビンスとの対戦は、日本ワールドシリーズと銘打って行われた。4勝2敗でロビンスを破り、初代日本一に輝いた。

 毎日オリオンズは1957年までで、大映映画永田雅一社長の大映スターズと合併して「大毎オリオンズ」(1958~1963)と変わった。その後東京オリオンズ(1964~1968)→ロッテオリオンズ(1969~1991)→千葉ロッテマリーンズ(1992~)につながっている。

(堤  哲)

2022年6月9日

89入社小座野容斉さんの作品も―AJPS報道展2022リスタート~その先へ~

 一般社団法人 日本スポーツプレス協会(AJPS/Association Japonaise de la Presse Sportive)の報道写真展が、東京・銀座4丁目交差点脇のソニーイメージングギャラリー銀座で開催されています。

 AJPSは国内外の第一線で活躍するフリーランスを中心としたスポーツジャーナリストが「職能の確立、表現及び報道の自由に努め、日本スポーツ界の発展に寄与すること」を目的として1976年に創立されました。

 海外在住会員を含め168名の会員と賛助会社14(2022年4月現在)によって構成され、あらゆる角度からスポーツを捉え、多種多様な取材活動を展開しています。私(小座野)は毎日新聞在職中の2016年度に入会し、現在7年目となります。

 展示作品は2018年11月から始まります。壮健なアントニオ猪木さん、はつらつとした姿の池江璃花子選手、雄渾な土俵入りの横綱・白鵬関、そして至高の演技を見せる羽生結弦選手・・・。

 あの頃に、後に続く時代のことは誰が想像できたでしょうか。世の中が止まり、スポーツもできない日々がやってきて、取材規制が始まり、仕事の機会も激減しました。

 その後、昨年に開かれた東京オリンピック、パラリンピック2020まで。写真の展示は続きます。

 今回、メーンストリームな競技に混じって、私の写真は、1枚だけ展示されております。私が取材を続けているアメリカンフットボールは、日本の国内ではマイナーな競技であり、私はフリーのフォトグラファーとしては、まったく何も成していない小さな存在です。

 2016年、AJPS40周年記念の報道展では、アメフトの写真は300枚中1枚だけ。しかもプレー中ではなく試合前のポートレートでした。今回は、私の撮影した1枚に加え、同志のフォトグラファーの関連写真も展示されています。

 私の写真は、名門でも強豪でもなく、無名の地方チームをとらえたものです。コロナのために、通常はつけないフェースシールドを全員が装着してプレーしている。

 草野球ならぬ草フットボールチームだった「茨城セイバーズ」は、11年前の東日本大震災でいったんはチーム解散、10年前の3月11日に再興し、現在に至りました。10年前、草チームだったセイバーズは、日本のトップリーグを目指して、今、最上位から3番目のカテゴリーまでたどり着きました。私も、セイバーズのように高みを目指して、少しずつでも歩を進めていきたいと考えております。

 拙作の話はこれくらいにして、会場には、この3年間の日本のスポーツシーンを切り取った、フリーカメラマンとしての先輩諸兄の傑作が並んでいます。観客の熱気に包まれたコロナ前から無観客試合が相次いだコロナ禍、そしてウィズコロナ時代のスポーツ大会の再起を、取材制限のある中でカメラを構え、アスリートの声に耳を傾けたAJPSメンバーがお届けします。

 AJPSの赤木真二代表は「2020年から続くコロナ禍でスポーツをめぐる取材環境は激変しています。東京オリンピック・パラリンピック2020は前代未聞の無観客で開催されました。今回の報道展のタイトル「リスタート ~その先へ~」にはコロナパンデミックから再生する人類の力への想いが込められています。スポーツは、その力を象徴する目に見える存在であり、我々はスポーツの魅力を表現するために活動を続けています」と語っています。

 毎日新聞グループとしては、2006年までスポニチ記者だった矢内由美子さん(ライター会員)が在籍しています。矢内さんは雑誌「Number」などで活躍されています。

 会場は、東京・銀座4丁目交差点、和光時計台ビルの斜め向かい、白い大きなビルの6階です。お近くにおいでの方はぜひ足をお運びください。

 

 日時:2022年6月3日(金)~16日(木)11:00~18:00
 会場:ソニーイメージングギャラリー銀座
    https://www.sony.co.jp/united/imaging/gallery/
 後援:スポーツ庁/公益財団法人
 日本オリンピック委員会/公益財団法人日本パラスポーツ協会
    https://www.ajps.jp/2022/05/4840/

また展示とは別にスペシャルトークショーもインターネットで無料ライブ配信します。

<今後のスケジュール>
 6月10日(金)小城崇史(写真家)
  19:00~20:00「東京2020大会を支える立場から見えたこと」
 6月11日(土)山﨑浩子(前新体操強化本部長)
  19:00~20:00「いかにして世界と戦うか?日本新体操の軌跡」
 6月12日(日)生島淳(スポーツライター)×近藤篤 (フォトグラファー)
  19:00~20:00「文筆家の視点・写真家の視点」

 視聴をご希望の方は専用のフォームから 応募してください。
 https://docs.google.com/forms/d/1LieUcx-p4t356LzC5ZNhNypueoWFk2cvLYGko6Qx_1E/viewform
 イベント前日までに視聴URLをご希望のメールアドレス宛にお送りします。

(元写真部 小座野 容斉)

2022年6月6日

お隣さんだった文化勲章受章の写真家田沼武能さん

2020年2月10日撮影

 写真界で初めて文化勲章に輝いた田沼武能さんが6月1日急逝された。93歳だった。

 田沼さんは、竹橋パレスサイドビルの2階に長いことオフィスを構えていた。いわばお隣さんだった。いつもニコニコ、温厚で怒った顔を見たことがない。「木村伊兵衛、土門拳の2人に仕えたのは、オレぐらいではないか」と、よく話していた。

 田沼さんの業績として毎日新聞は《95年からは、日本写真家協会会長として写真界の発展にも貢献。急速なデジタル化で劣化・消散の危機にある貴重なフィルムの保存が国の責務と訴え、「日本写真保存センター」の発足に関わった》ことを挙げた。

 文化勲章受章を祝う会で、最初にお祝いを述べたのは、現衆議院議長の細田博之さんだった。細田衆議院議員は、「日本写真保存センター」設立推進連盟の代表をつとめていた。

 続いてトットちゃん黒柳徹子さん。「私は芸能生活60年ですが、田沼さんはカメラマン70年。先ほど細田博之衆院議員が主賓の挨拶をされましたが、田沼さんは壇上からカメラを向けていました。いつまでも現役でいてください」

 それがこの写真だ。

 私(堤)は、夫婦の日特集で田沼武能・敦子ご夫妻にインタビューをしたことがあった。敦子夫人と2回り、24歳も年齢が違うのだが、仲の良い夫婦だった。

 田沼さんの写真展に、歯科大学を卒業して開業医に勤めていたアマチュア写真家・敦子さんが訪れたのが出会いだった。

 文化勲章受章を祝う会で、田沼さんは、こう挨拶した。「明日が結婚記念日なんです。だからその前日を選びました」と。さらに「(結婚を)向うの両親が許してくれない。すでに両親とも亡くなりましたが、受章を喜んでくれていると思う」と話した。

 脇の敦子夫人が目頭を押さえた。印象的な挨拶だった。

 「サムエル・ウルマンの詩『青春』ではありませんが、年齢は関係ないんです。今がシュン(旬)なのです」

 ちょっと早すぎました、田沼さん!

(堤  哲)

2022年5月20日

「ソヤッソヤッ」水野順右さんの「三社祭」掛け声考

 断捨離中に社会部の先輩水野順右さん(88歳)の若いころの写真が出てきた。水野さんとは、ことしの正月、ある新年会で同席した。相変わらずいつまでも「もう一杯!」が延々続いた。この日は中華料理だったので、紹興酒だった。

 浅草「三社祭」が3年ぶりに復活、21、22の両日、威勢のいい掛け声とともにお神輿が浅草寺境内を練り歩く。コロナ禍で中止されていたのだ。

 その掛け声は「ソヤッソヤッ」である。浅草の支局の時、初めて見物して、「ワッショイワッショイ」と違う威勢のよさに、感動したことを憶えている。

 順右さんは、夕刊「憂楽帳」で掛け声考を書いている。1983(昭和58)年5月13日付け。

 ――東京・浅草の三社祭。「ソヤッ、ソヤッ」という独特のかけ声で神輿が人の海を渡る。昔から「ソヤッ」だったと勘違いしている人も多いらしいが、実は「そうじゃねェ」と古老が言った。何が粋(いき)で何が無粋かはわからないが、古い新聞を調べてみると確かに昭和43年ごろまで三社祭りは「ワッショイ」「ワッショイ」。45年に「ホイヤ」「ホイヤ」。56年は「ホイサ」「ホイサ」である。40年代担ぎ手が足らず、あちこちから人を集めた。祭り好きの人たちが、東京中の祭りを渡り歩いて、元はといえば神田あたりの「ソリャッ」といういせいのいいかけ声が「ソヤッ」に変わり、“粋”なかつぎ方は「ソヤッ」だと全国に広がった。

 順右さんにしては珍しく資料、毎日新聞縮刷版にあたって原稿を書いている。

 「ソヤッ」は全国に広がった、としているが、深川・富岡八幡宮の夏祭りは「ワッショイ、ワッショイ」である。

 さて、順右さん、来年の新年会でまたお会いしましょう!お元気で。

(堤  哲)

2022年5月16日

「変わらぬ基地 続く苦悩」琉球新報の1面見出しは50年前と同じ

 沖縄復帰から50年。「琉球新報」は復帰50年特別号を発行した。右の紙面は、50年前1972年5月15日付1面。主見出し「変わらぬ基地 続く苦悩」は同じである。

 この紙面を編集したのは、元毎日新聞記者の嶋野雅明さん。ツイッターで「50年前の紙面とコラボした、けさの琉球新報(新聞見開きサイズ!)。50年後も見出しが変わらぬ現実。縦見出しも対句にしています。2022年バージョンが「祖国」ではなく「日本」である意味だけでも、一冊本が書けるかも」と発信している。

=小川一さんのフェイスブックから転載

2022年5月9日

「点毎」100年、ヘレン・ケラー女史視察を取材した銭本三千年さん

 5月11日、「点字毎日」は創刊100年を迎える。戦争中の用紙難で週刊から旬刊になったことがあるが、休刊したことはない。

 《初代編集長は全盲の日本人で初めて海外留学したと言われる中村京太郎だ。点毎を通して、自身が過ごした英国など海外の進んだ取り組みを伝えた》

 点毎の佐木理人(さきあやと)記者が毎日新聞本紙に連載している「心の眼」(7日付け)からだが、創刊の経緯が『毎日新聞百年史』にある。

 「新聞社というものは長い間には、知らないうちに罪を重ねているものだ。善根を積んで、同業者の罪滅ぼしをしたらどうか」

 ロンドンに留学中の「大阪毎日」記者河野三通士(のち外国通信部長→編集副主幹→編集総務)は、好本督(ただす)氏からこう言われた。好本氏は、網膜色素変性症のため視力が減退、英国で貿易商を営む傍ら盲人福祉に尽し『日英の盲人』(1906年刊)を著している。

 帰国した河野は、点字新聞の発刊を提案する。これを当時の本山彦一社長が受け入れた。大毎新社屋堂島本社(現堂島アバンザ)完成記念として「サンデー毎日」「英文毎日」などともに創刊したのだ。採算を度外視した社会貢献事業だった。1922(大正11)年である。

 初代編集長中村京太郎は、盲人初の文部省派遣海外留学生だった。好本氏が費用全額負担をして、盲人の留学制度を実現させている。

 「点毎」は、1963(昭和38)年に菊池寛賞を受賞した。それを記念して翌64(昭和39)年に「点字毎日文化賞」を創設、第1回の受賞者に好本督氏を選んだ。

 好本氏は1973年に95歳、初代中村編集長は1964年に85歳で亡くなったが、この2人に直接会って、話を聞いた元「点毎」編集長が存命だ。

お孫さんが描いた錢本さん(2008年8月)

 銭本三千年さん。ことし7月19日に93歳の誕生日を迎える。1954(昭和29)年同志社大法学部卒、毎日新聞入社。71(昭和46)年2月から「点毎」編集長を15年務めた。

 1955(昭和30)年、3度目の来日をしたヘレン・ケラー女史が「点毎」を視察。「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は”点字毎日”で自らの言論を得ました」と語った。

 その取材に当たったのが入社2年目の銭本さんだった。

 銭本さんは定年退職後、岡山・吉備高原都市へ転居して、高梁市の短大に介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授を務めた。

 銭本さんは、ツイッターで「2020年3月持病の腎不全が悪化し腹膜透析で余生を繋ぐ身に(身体障害者手帳1級)」と自己紹介している。発信の最後がことし2月25日。お元気か気になる。

(堤  哲)

2022年5月6日

写真展「沖縄返還50年」の苦い1枚

 「沖縄返還50年」報道写真展が5月15日(日)まで東京国際フォーラムのロビーギャラリーで開かれている。

 毎日新聞としては苦い思い出の1枚が掲出されていた。

 西山太吉記者が警視庁に逮捕され、釈放されたときの写真である。

 1972(昭和47)年4月9日の日付が入っている。

 説明に「西山氏は沖縄返還に伴い、米軍用地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりするとの密約情報を入手したが逮捕され、有罪判決が確定した。政府は密約の存在を一貫して否定。2000年に米国で裏付ける文書が見つかり、06年には吉野文六・元外務省アメリカ局長が認める証言をした」とある。

 西山記者の右が警視庁キャップ山崎宗次(1987年没52歳)、左に政治部長、上田健一(2016年没89歳)、政治部、岸井成格(2018年没73歳)。

 今なお元気なのは西山太吉さん(90歳)で、「沖縄返還50年」でマスコミの取材に応じている。

 サンデー毎日でも元政治部長、倉重篤郎さんがインタビュー、「情報を入手した時、何故書かなかったのか」と厳しく迫っていた。

(堤  哲)

2022年4月19日

客員編集委員、萩尾信也さんが「森と海からの手紙」 毎月第3火曜日に、東北版などに連載

 「こんな連載始めました」と元社会部専門編集委員の萩尾信也さん(66)からのお知らせが届きました。「人員カットの進む東北版、北関東版、甲信版に掲載されます」とのことです。「発信を続けること」を使命として記者としての人生を貫く、という萩尾さんのメッセージです。CWニコルさんゆかりの信州信濃町のアファンの森と三陸海岸を拠点に、記者活動を続けるようです。

 【昨年の退任挨拶状から】夏場は、少年時代を過ごした岩手県釜石市で、友人が経営するシーカヤックの店「MESA」のツアーを手伝いながら、イワナ釣りや山登りを満喫するつもりです。地元の仲間たちと、忘れ去られつつある三陸の人々の営みや文化風俗の掘り起こしもしたいと思います。MESAは、海辺にあるこじゃれた店です。震災で流され、昨春、再建されました。2段ベッドに宿泊も出来ます。遊びに来てください。

2022年4月11日

「変わった校長がいてもいい」 元「サンデー毎日」編集次長の中根正義さんが記者から転身、新しい風に

=毎日新聞 千葉版10日付け「ひと・ちば」欄から転載

 この春、毎日新聞の記者だった中根正義さん(59)が、千葉県柏市にある私立の進学校、芝浦工業大学柏中学高等学校の校長に転身した。一記者から約1500人の生徒を抱える中高一貫校のトップになったが、「背伸びせず地道にやりたい。一人ぐらい変わった校長がいてもいい」と気負いはない。

 35年間の記者生活のうち、約20年間は主に教育を専門に取材した。特に、週刊誌「サンデー毎日」のデスク時代は、定評のある大学合格者高校別ランキングの責任者を務め、毎日新聞の紙面では、データを元に独自の視点で大学の特色を分析するコラム「中根の目」を執筆した。その一方で、2020年10月から学校法人芝浦工大の評議員を務め、それが縁で鈴見健夫理事長から、昨秋、校長就任を打診された。柏市は少子化の中でも進学校がひしめく「激戦区」で、選ばれる学校作りが求められる中、「新しい風を入れてほしい」と要請されたという。

 千葉大教育学部出身で、4年次に教育実習で小学1年生を受け持った経験はあったものの、教育現場の経験はなく、約100人の教職員をマネジメントできるか思い悩んだ。しかし、大学の恩師から「今まで培った経験を生かしてやるべきだ」と後押しされ、与えられたチャンスを生かす決断をしたという。

 新型コロナウイルスやロシアのウクライナへの軍事侵攻など混迷の時代の教育のあり方について、情報を整理してさまざまな視点からものを見る力を養う数理思考と、グローバル化がキーワードと指摘する。「これからの教育は知識詰め込み型から、自分で課題を見つけて解決する子どもを育てることが求められる。意欲ある先生たちと対話を重ね、知的好奇心を持ったやる気のある子どもを育て、将来は社会に貢献できるような人にしたい。そのための新しい教育のモデルを提示できたら」と意欲を示す。

(橋本 利昭)

 中根正義(なかね・まさよし)さんは岐阜県生まれ、千葉県育ち。1987年毎日新聞社入社。仙台、静岡支局を経てサンデー毎日編集次長、大学センター長などを歴任。3月に法政大大学院政策創造研究科修士課程修了。趣味は旅行。好きな歌は「上を向いて歩こう」。

2022年4月11日

日本初・藤本英雄投手の完全試合のゲーム写真はないのだが…

 ロッテ佐々木朗希投手(20歳)が4月10日のバッファローズ戦で史上16人目の完全試合を達成した。槙原寛己(巨人)以来28年ぶり。投球数は105球。三振19、内野ゴロ5、ファウルフライ1、外野フライ2だった。

毎日新聞1950年6月29日付朝刊

 11日は新聞休刊日だったが、スポーツ紙各紙は佐々木投手の快挙を1面トップで扱った。ところが、72年前藤本英雄投手(巨人)が日本プロ野球史上初の完全試合を達成した時のゲーム写真が1枚もない、というのである。

 青森市営野球場には北海道遠征に帯同した記者たちがネット裏の記者席にいた。しかし、写真部のカメラマンは各社ともひと足先に帰京してしまったのだという。

 毎日新聞運動部・堀浩記者(2003年没83歳)の署名入り記事はたった8行である。外野飛球6、内野飛球3、ゴロ11、三振7、投球数は92球とある。

 完全試合という日本語訳がなかったのか、見出しも本文もパーフェクト・ゲームだ。

 「パーフェクト・ゲームは本場アメリカの大リーグでも1922年4月30日ホワイトソックスのロバートソン投手が記録しただけ」と解説しているが、それ以前にも完全試合は4試合あり、ロバートソン投手は史上5人目である。

 スポニチはどう扱ったか。

スポーツニッポン1950年6月29日付1面

 この紙面は『スポーツニッポン新聞50年史』からだが、《同行の本紙・杉山修八記者がこの快挙を取材、毎日青森支局の電話を利用して送稿。カメラマンはいないので、仕方なく写真は毎日から資料を借りて頭を作った。野球ファンも初体験の「パーフェクト」に、紙面には“9回を通じて1人の走者も塁に出さなかった試合”の説明つき》とある。

日刊スポーツ1950年6月29日付

 終戦の翌1946(昭和21)年3月6日創刊したスポーツ紙の魁「日刊スポーツ」。その50年史にも「大偉業にも生写真がない!」と取り上げている。

 野球文化學會生みの親、整理部OBの諸岡達一さんは、『野球博覧Baseball Tencyclopedia』 (大東京竹橋野球団編)にこの試合のことを書いているが、現場にいた記者は、毎日堀浩、スポニチ杉山修八のほか、朝日出野久満治、読売宇野庄治記者らがいた。「記者も写真くらい撮りゃいいのに撮っていないマヌケさ。なまじカメラマンがいたから写真機なんぞは扱わない偉い記者さん」と皮肉っている。

 余談だが、堀浩さんは早大スキー部の複合競技の選手で、学生チャンピオンになっている。

 創刊時の日刊スポーツに入社、その後毎日新聞運動部にスカウトされた。猪谷千春が回転で銀メダルを獲得した1956(昭和31)年の第7回冬季五輪コルティナダンペッツォ(イタリア)に毎日新聞社から特派され、猪谷の写真を撮っている(1957年全日本スキー連盟発行の『スキー年鑑』第24号)。

 さて、「完全試合当日に藤本英雄の記念写真がありますよ」と言って、『野球博覧』出版記念パーティーを兼ねた「大東京竹橋野球団S・ライターズ創設30周年」が2014年2月3日パレスサイドビルB1毎日ホールで開かれた時に、特ダネ号外を持ち込んだのは元サンデー毎日編集長の小川悟さん(84歳)だった。

 写真前列中央の少女が、のちの小川夫人晃子さん。その右に藤本投手、その左が父親でこの試合の青森開催を招聘した地元水産業者の佐藤幸治郎さん。左に川上哲治、青田昇。

 小川悟さんの義父にあたる幸治郎さん(1969年没)は「昭和25年という年は日本中がなんとかやる気になった時期ですよ。職業野球の世界も2リーグ制や地方遠征に乗り出したのをうれしく聞いてね、自分の本業はまだこれからというのに、応援させてもらいましたよ。そうしたら藤本さんのあの快投でしょう。痛快でしたなあ」と語っていたという。

 ネットで検索したらこの試合、当時中学生だった寺山修司が外野席で観戦、作詞家のなかにし礼は、この試合のバットボーイを務めたと語っています、という情報があった。

(堤  哲)

2022年4月4日

ミロ展に、56年前の東京本社竣工を記念した「祝毎日」の作品展示

 東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「ミロ展 日本を夢みて」で、5階役員室の入り口にいつも飾られているミロの作品=写真上・毎日新聞紙面から=にめぐり合い、驚きと嬉しさの一瞬を味わった。

 図録や会場の説明によると、毎日新聞は1966年に「ミロ展」を主催し、スペインの画家、ジョアン・ミロが73歳で初めて来日した。国立近代美術館と京都分館で開かれた「ミロ展」のためで、主催の毎日新聞社には10月4日に訪問。上田常隆社長の部屋で、9月に落成したばかりの新社屋落成を祝って揮ごうした。「祝毎日」という漢字とカタカナ、ローマ字のミロの署名。毎日書道界の金子卓義さんは「社長室で2枚書いたが、練習のほうがよかった」と伝えており、もう1枚の行方は不明という。

 ミロはその前の9月30日に飯島春敬さんら書道界幹部7人とホテルニューオータニ「山茶花荘」で交歓会を開き、その席で篆刻家の松丸東魚さんと知り合った。篆刻に興味を抱き、後日、松丸さん宅を訪れた際、墨で色紙を揮ごうし、この作品に押された「美露」の印は、松丸さんが提供したという=写真右・図録から

 この時のミロ展は、パリ支局員だった松原俊朗さんが全面的にコーディネートして実現した。松原さんは東京外語大学仏語科を卒業して1949年に入社。ゴヤ展の企画・交渉で社長賞を受けるなどパリを拠点に事業部兼務でダリ展などの実現に貢献した。ミロ展では、ミロに同行して帰国、その後、毎日コミュニケーションズ部長待遇なども務め、1981年に退職、1996年に69歳で亡くなった。

 毎日新聞では、ミロの日本滞在中、写真部員がつきっきりで撮影して作成した写真集を、ミロに贈呈したという。2度目の来日は、大阪万博(1970年)での作品制作だった。

 今回のミロ展は東京新聞などの主催だったせいか、毎日新聞では地味な扱い(1段)――

(高尾 義彦)

≪毎日新聞 2022/3/31 東京夕刊≫

 「ミロ展 日本を夢みて」が4月17日まで、東京・渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで開かれている(愛知県美術館、富山県美術館に巡回予定)。ジュアン・ミロ(1893~1983年)の創作活動の背景にある日本文化への憧れに焦点を当てた構成で、来日に焦点を当てた第5章「二度の来日」には、松丸東魚とミロによる「色紙」と毎日新聞東京本社の落成を記念してミロが揮毫(きごう)した「祝毎日」などが出陳されている。別章には、ミロのアトリエに残された平凡社刊「書道全集」や飯島春敬著「書の古典美 1集 眼で見る中国と日本の書道史」、瓦当の拓本も並べられている。

 ミロと当時の書人たちとの交流の歴史からは、書が世界の芸術家と接点を持っていた時代状況が浮かび上がってくる。字と絵画の融合、日本の書画が与えた影響に加えて、たわしやはけなどの用具についてなど、今後、日本の「現代の書」を世界に発信していくためのヒントが目白押しだ。

 ミロと金子鷗亭、宇野雪村、飯島春敬、松丸東魚といった人々が写った一枚の記念写真=下=が「毎日書道展 50年の歩み」に収められている。この瞬間が日本の書人たちに、どんな影響を与えたのか? 夢想は膨らむ。比田井南谷や手島右卿らの世界への発信から、「墨の世界 現代日本の書」(パリ展)のアンリ・ミショーらのポンピドーセンター所蔵の墨を用いた絵画作品の比較展示など、脈々と続く書の国際交流への試み。世情が厳しい現在だからこそ、「現代の書」の発展のために心を開いて先人たちの軌跡を再考したい。【桐山正寿】

2022年4月1日

季刊同人誌『人生八聲』が第30巻発行で幕を閉じます

 木戸湊・元主筆の発案で毎日新聞OBを中心に発行してきた同人誌『人生八聲』は4月発行の春季号30巻=表紙写真=でフィナーレを迎えました。2015年1月の第1巻以来7年半、「東京五輪・パラリンピックまで発行する」という目標を達成し、その後もしばらく発行してきましたが、同人のうち6人が鬼籍に入り、平均年齢も高齢化したことから、このあたりが潮時、と筆を擱くことにしました。

 主宰の木戸さんは、平塚市の介護老人保健施設「あさひの郷」で脳梗塞の療養中です。奥様の話では、オミクロン株など新型ウイルスの感染防止のため、対面の面会が出来ず、ガラス越し、アクリル板越しで笑顔を確認する状態が続いているようですが、穏やかに療養を続けられているとのことです。回復を祈りつつ、とりあえず当初の約束を果たしたことを報告したいと思います。

 最終巻では、30回にわたって「ならしの日記」を寄稿してきた勝又啓二郎さんが、千葉県交通安全推進隊の一員として、習志野市で通学の子供たちの見守り活動を続けていることを報告しています。先日の毎友会ホームページで、葉山の板垣雅夫さんが「交通安全見守り隊」の活動を報告していましたが、同じような日常のようです。

 外信部でワシントン支局長などを務めた北畠霞さんは、トランプ政権からバイデン大統領に引き継がれた米国の政治事情を、豊富な取材経験と資料をもとに、タイムリーに解説。犬猫研究の世界ではその名を知られた仁科邦男さんも皆勤の出稿で、最終巻では「猫は家畜なのか」と研究成果を展開しています。いずれ単行本刊行を期待したいものです。

 大阪本社OBでは、チベット登山や南極観測隊に同行するなど多くの海外取材体験と京大山岳部出身として幅広い分野の取材経験がある元編集委員の斎藤清明さんが、義父の彫金作家、鴨政雄さんの回顧展を解説。「さぎさか れん」のペンネームで憲法問題に焦点を当てて連載してきた山藤廉さんは「今昔物語」をテーマに蘊蓄を傾けていただきました。

21~29巻の表紙。上段左から21~23巻、中段左から24~26巻、下段左から27~29巻

 木戸さんが北新地のクラブで知り合い、いまは小樽で長男長女の子育てを終えて、小さな喫茶店を営む福岡洋子さんもほぼ毎回の参加で、「北の国から」を届けてくれました。元宝塚の鳳蘭さんは最終巻で20回目の「鳳便り」。新型ウイルスで舞台公演もままならない状況の中、近況を寄稿してくれました。津村裕子さんは中坊公平さんが始めたプロボノセンターを管理していた方です。

 途中から参加した高谷尚志さんは、生誕の地にこだわり、「わが代々木上原物語第8回――小田急線代々木八幡、代々木上原、東北沢―」。今回ではピリオドとならず、続編を執筆してPOD(パブリッシュ・オン・デマンド)も視野に入れています。

 今回は寄稿されていませんが、長岡民男さん、吉川泰雄さん、朝野富三さん、永井浩さん、宗岡秀樹さんも常連メンバーでした。

 第20巻の刊行に合わせて東西の国会図書館にまとめて寄託、その後も30巻まで発行ごとに寄託してありますので、関心のある方はご覧ください。第30巻については、余部がありますので連絡いただければ1部1,000円でお送りします。

 連絡は  まで。

≪「人生八聲」第30巻春季号目次≫

わが代々木上原物語第8回――小田急線代々木八幡、代々木上原、東北沢― 高谷 尚志
随筆「文・ぶん・ブン」の追記(2)〝古典の不思議〟 さぎさかれん
ツィッター俳句 「続無償の愛(二五)」 河   彦
草花や蝶々とともに 斎藤 清明
ニュース・コラム・イン・ハワイ 11 高尾 義彦
中坊公平先生の想い出 津村 裕子
岐路に立つ米国ーデモクラシーか、アノクラシーか 北畠  霞
ならしの日記(30) 勝又啓二郎
北海道 地名探り―㉚ 佐渡 征昭
小谷城阯碑 香水 敏夫
猫は家畜なのか 仁科 邦男
北の国から 人生は続く 福岡 洋子
鳳便り 20 鳳   蘭
政治もスポーツも 保苅 文雄
目次再録(1~29巻)
あとがき
執筆者プロフィール

(高尾 義彦)

2022年3月29日

「サンデー毎日」創刊100年、記念号発売中!

 今週発売の「サンデー毎日」4月10日号は、創刊100周年記念号だ。1部450円。記念に是非お求め下さい!

 創刊は、1922(大正11)年4月2日。「サンデー毎日」に続いて4月12日「英文毎日」、5月11日「点字毎日」が創刊している。この年4月に大阪毎日新聞社の本社ビルが堂島に完成、その記念事業だった。

 表紙の見出しに、「東大合格者実名アンケート」。いかにも「サンデー毎日」らしい。

 「大学合格者高校別一覧」が初めて掲載されたのは、「サンデー毎日」1964年4月5日号だった。企画の発案者は、デスクの三木正(1990年没70歳)。帰宅の電車内で東大新聞に載っていた東大合格者の名簿を見ていて思いついた。

 「これが東大合格ベスト20高校」。5ページの特集記事だった。三木がベスト20の一覧表をつくり、記事は編集部の増田れい子(2012年没83歳)が書いた。

 これが売れた。以来、年中行事となった。「受験戦争をあおる」と批判されたが、続いている。ことしで59年である。

 元「サンデー毎日」記者・徳岡孝夫さん(92歳)が、三島由紀夫から電話があって事件の現場にいたこと、「檄」分を全文掲載したことを証言している。

1928年10月発行の秋季特別号

 「三島の表紙のその号は、記録的に売れました」。1970年12月13日号。「通常80円が90円の特別価格だった」と写真説明にある。

 《新聞と違って『サンデー毎日』はタブーが無くて本当に楽しかった。読者の好奇心をそそる企画を考え、どこへでも出かけていって新聞のようにかしこまらず突撃取材して、見たこと、聞いたことを思い切り書ける――。それは今も昔も同じだと思います》

 鏑木清方の妖艶な絵が表紙を飾ったこともあった。1928年10月発行の「サンデー毎日」秋季特別号。「牡丹灯籠」のヒロインお露の艶姿である。

 文芸評論家東雅夫さんが「鏑木清方の大回顧展のためといわれ、その現物を貸してしまった」といっている。現在東京国立近代美術館で開催中の「没後50年鏑木清方展」で展観されているかも知れない。

 「サンデー毎日」で「ボケない名言」を連載中の五木寛之さんのインタビューが載っている。「サンデー毎日」頑張れ!のエールである。

(堤  哲)

2022年3月28日

銀座尾張町(現銀座5丁目)にあった「東京日日新聞」

 BSテレ東「池上彰と歩く謎解き日本地図」で、3月27日(日)夜、明治35(1902)年の銀座地図が紹介された。スマホで撮影したのが上図だ。

 右端が銀座4丁目交差点。かつては尾張町交差点と呼ばれていた。タクシーで「尾張町交差点」と言うと、ここに連れて行ってくれた。今はどうか?

 その角4か所すべてが新聞社だった。地図にあるのは、現在三越のところに「中央新聞社」。晴海通りを隔てて「毎日新聞社」。むろん現在の毎日新聞とは違う。

 和光・服部時計店のところは「朝野新聞」。三愛のところは「東京曙新聞」だった。

 「東京日日新聞」の日報社は、現EXITMELSA(イグジットメルサ)のところ。朝比奈知泉社長となっているが、社史に朝比奈社長はない。初代福地源一郎、2代目関直彦、3代目伊東巳代治。枢密院書記官長伊東巳代治が日報社を買収したのが1891(明治24)年11月。伊東は在官のままで、「表面に名前の出ることを避けて、東京新報を主宰していた朝比奈知泉を編集主幹に迎えた」(『毎日の3世紀』。

 銀座煉瓦街最大、450坪の敷地があった呉服商「恵比寿屋」の跡で、1877(明治10)年 1月1日付からここで発行した。1909(明治 42)年3月に有楽町に移転するまで、30年余、銀座通りの真ん中にデンと座っていた。

(堤  哲)

2022年3月28日

「ベトナム希望レストラン」の会場に亀山久雄さん経営の「余白」

 ベトナム中部ダナンにある児童養護施設「希望の村」を支援しようと、日本のNGO「ふぇみん婦人民主クラブ」の女性たちが活動を始めてから四半世紀が過ぎた。施設を巣立った若者たちの一部は留学や就労で来日し、やがて有志が月1回、「ベトナム希望レストラン」と名づけた料理店を開き、その収益を希望の村に寄付するようになった。共生社会を築くための「循環する支援」が広がっている――こんな書き出しの3月26日付け特集記事を見て、あれっと思った。

4月の再開準備のミーティングに集まったベトナムの若者たち(手前)と、ふぇみんベトナムプロジェクトの女性ら=13日、東京都千代田区の「余白」で、明珍美紀撮影

 筆者は明珍美紀さんで、会場は千代田区の水道橋駅近くにある「余白」。明珍さん撮影の写真を見ると、左上に控えめに亀山さんの姿が。奥様と並んで、集まった人たちを見守っているようだ。記事によれば、3月半ば、東京のJR水道橋駅近くのレンタルスペース「余白」で「ベトナム希望レストラン」のミーティングが開かれた、という。

 レストランの設立に関わったレ・ティ・ビンさん(34)=輸送会社勤務=はベトナム戦争後の貧困の時代に母子家庭で育ち、希望の村が創設された93年、5歳のときに入所した。ふぇみんの自立支援で日本語を学び、留学で来日した。

 これまでの歩みをつづる著書「ひろがるベトナム希望レストラン」(梨の木舎)があり、亀山さんは「今回は手伝いだけなので」と、ご自分で近況報告を寄稿することは遠慮されたので、僭越ながら紹介させてもらった。

 「余白」については、2022年1月11日付けの「元気で~す」をご参照ください。
 ちなみに記事は
 https://mainichi.jp/articles/20220326/ddm/010/040/035000c

(高尾 義彦)

 2022年1月11日付けの「元気で~す」
「余白」(水道橋)よいとこ一度はおいで――元労組本部書記長、亀山久雄さん(76)が呼んでます

2022年3月23日

YouTubeで「小川一のニュースのセンタク」配信始まる

 ユーチューブ番組の配信を始めました。「小川一のニュースのセンタク」と名付けています。今のところ月1回程度の試運転ですが、様子を見ながら、いろいろな展開を考えていきたいと思っています。ご笑覧いただければ幸いです。

https://www.youtube.com/watch?v=3CUWVsCsr_c

 元NHKキャスターの堀潤さんが主宰する8bitnewsの協力で運営しています。第1回目の配信は、2022年3月3日午後7時半から行いました。「情報戦争への備えは ロシアの工作、日本にも?」をテーマに、毎日新聞の木許はるみ記者を招いて議論しました。毎日新聞は「オシント新時代」という素晴らしいキャンペーン報道をしています。その中で、ロシアのメディアがヤフーコメント欄の投稿内容を改ざんして伝えたり、日本の報道機関のニュースを歪めた形で報じたりしていることを明らかにしました。

 ロシアの情報工作が日本にも及んでいることを浮かび上がらせた意義ある報道で、木許記者はその取材班にいました。ロシアが米大統領選に行った情報工作は有名ですが、ウクライナ侵攻に絡んでも悪質なフェイクニュースを垂れ流しています。言葉の壁に守られていた日本ですが、他国からの情報工作はもはや対岸の火事ではなく、現実に起きていると提起しました。

 また、番組冒頭の話題として、1987年6月に東京都東村山市で起きた17人焼死の高齢者施設放火事件の取材体験にも触れました。当時、私は警視庁担当で、事件現場から原稿を送るべく公衆電話を探していました。やっと見つけたと思ったら長い人の列。愕然としていると、私を記者と気づいた人たちは快く順番を譲ってくれ、私が「勧進帳」で原稿を送り終わると、「すごい!」と拍手までしてくれました。その思い出を紹介しながら、もし今、同じようなことが起きていたら、みんなが記者の姿をスマホで撮影し、「順番を抜かしたひどい記者」とネットに投稿し、集中砲火をうけるのではないかと指摘しました。本当に今の記者は大変な環境の中で仕事をしています。報道の信頼を高めることで、そうした状況を少しでも改善したいと番組の趣旨に付け加えました。

 8bitnewsが配信するユーチューブ番組は、これまでも私がSNSで紹介したニュースをひとつのコーナーに置き、議論のテーマにしていました。そのコーナーの名前が「小川一のニュースのセンタク」でした。今回はコーナーを番組に格上げした形です。「センタク」には、大事なニュースを選ぶ「選択」、ニュースの中にある事実誤認や虚偽を取り除く「洗濯」、ニュースから学び未来に生かす「宣託」の意味を込めています。

 毎日新聞はこれまでも率先して動画の活用に取り組んできました。2014年から始まった「注目ニュース90秒」、2017年から始まった「まいもく」など記者自らが出演してニュースを語ってきました。OB記者として、そうした流れを受け継ぎ発展させ、毎日新聞の「紙価を高める」(デジタル時代は何といえばいいのでしょうか)応援歌になれればと考えています。

(小川 一)

※小川一さんは社会部長、編集編成局長、取締役デジタル担当など歴任。現在、客員編集委員。

2022年3月16日

社会部OBの「個人史聞き取り調査」報告書を早稲田大学が刊行



 早稲田大学政経学部・土屋礼子教授の研究室が「ジャーナリスト・メディア関係者個人史聞き取り調査プロジェクト」に取り組み、第9回報告書をまとめた。今回は社会部経験者が対象で、朝日、読売、東京新聞を含め18人が聞き取りに応じて、うち8人が毎日新聞となっている。

 取り上げられたのは、高尾義彦、中島健一郎、磯貝喜兵衛、河野俊史、大住広人、萩尾信也、澁澤重和、朝比奈豊(登場順、敬称略)。森浩一・元社会部長(元スポニチ社長)にも無理を言って引き受けていただいたが、学生側の対応の不備でインタビューが実現しなかったのは残念だった。

 土屋研究室では、2010年度からほぼ毎年、分野を決めて新聞や放送の記者や広告営業経験者らにインタビューを続けている。1年目は政治部経験者、2年目は放送関係、3年目は広告代理店、4年目は科学ジャーナリスト、5年目はアジアを中心にカバーした国際記者、6年目は経済ジャーナリスト、7年目は雑誌編集の経験者、8年目は政党機関紙記者OBを対象とし、毎日新聞では確認できた限りで、以下のOBが協力している。

 嶌信彦、牧野義司、磯野彰彦、大須賀瑞夫、四方洋、斎藤明、坂巻煕、黒岩徹、岩見隆夫、牧内節男、上田健一、尾崎三千生、清水幹夫、横山裕道、原剛、牧野賢治、永井浩、下川正晴、古野喜政、辻庚吾、平野裕、古森義久(順不同、敬称略)

 このプロジェクトはスタートに当たり、天野勝文・元筑波大学教授(社会部、論説OB)が相談に乗って人選などの計画が立てられたという。今回は早稲田大学大学院ジャーナリズムコース卒業生の待鳥航志さん(総合デジタル取材センター)を通じて依頼があり、独断で先輩や後輩にお願いした。女性もリストアップしたが、尻込みされた人や取材現場は離れたもののまだ現役の人など、今回は見送らせていただいた人もあった。

 インタビューの内容は、1960年代の安保闘争の時代から激動の歴史を体験した記者たちのナマの証言。土屋教授は「戦後ジャーナリズム史の貴重な証言記録」として今後も継続するという。その証言は後輩記者にも参考になるのでは、と知財本部(調査部)と社会部に保管を依頼した。新聞記者を目指した動機、学生時代の生活など個人史も盛り込まれ、一読をお勧めする。

 土屋ゼミのホームページにも随時、掲載されるという。

 https://note.com/tsuchiya_zemi

(高尾 義彦)

2022年3月15日

高倉健特集が新設の毎日新聞映画情報サイト「ひとシネマ」で

 広告局から事業本部で活躍した宮脇祐介さん(55歳)から「役職定年のため営業本部企画業務部に映画出資を持って異動となりました」とメールが届いた。

 「本紙150周年の一環として学芸部勝田(友巳、毎日映画コンクール選考委員)とともに『ひとシネマ』 https://hitocinema.mainichi.jp/ を立ちあげました」

 HPには、《「ひとシネマ」は、毎日新聞社が運営する映画情報サイトです。独自の取材と蓄積したコンテンツを活用し、奥行きのある映画情報を発信します。ファンを含む全ての映画関係者にエールを送り、映画と人をつなぐ場を目指します》とある。

 そして特集しているのが、「高倉健を次世代に語り継ぐ」である。

 2021年生誕90周年を迎えた高倉健。
 昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。

 毎日新聞社では3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。

 その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。

 Ken Takakura for the future generations.

 神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと想っています。

 ――どうぞご鑑賞ください。

 https://hitocinema.mainichi.jp/

(堤  哲)

2022年3月14日

松川事件の冤罪暴いた元『毎日』の倉嶋康さん―「週刊金曜日」が『冤罪の構図 松川事件と「諏訪メモ」』を紹介

2022年3月11日

俺は俺! 「ゆうLUCKペン」44集刊行 情趣たっぷり……いま流スマホ談義

諸岡達一画

 人間は生を得た時いのちを与えられます。同時に体と心も与えられます。いのち・体・心の3つは生まれながら備わっているためか、その不思議さや巧妙さを改めて考えることは少ない。

 それが「ゆうLUCKペン」44集を読んでいるうちに「いのち・体・こころ」の巧妙さを身を以て感じたのです。老齢になっての人間革命のような思いでありました。

 「ゆうLUCKペン」とは毎日新聞社OB連が刊行を続けている文集です。44集ということは、44年前から出ているんです。バックナンバーは情報調査部に揃っております。定年後も「書きたい心が疼く」んだねえ。耄碌しませんよ「ゆうLUCKペン」に書いている人は……?

 とはいえ、かく言う私も「ゆうLUCKペン」に係わって30年以上になり、以前書いた原稿と今書いた原稿と、本文で書いた原稿と、近況報告で書いた原稿と、編集後記で書いた原稿と、社報に書いた原稿と、あれもこれも、何と書いたか忘れているので、同じことを何度も書いていて「耄碌×3」だよ、もう。(だから、どこかで読んだであろう、本日の文章も、)

 「ゆうLUCKペン」44集に集まったみなさんの原稿……元新聞記者の文章を……編集部は丹念に全部読みました。みなさんの原稿、それは、それは、1つ、1つ、感慨に耽って胸に沁みましたよ。みなさん、ほんとにまあ、きちっと原稿を書きます。しかも情趣に満ちている、興宴のごとく、深夜まで読んでも飽きない、楽しい、オモシロイ。「いのち」「体」「心」の仕組みを感じた次第です。

 それが過去(昔)現在(いま)未来(あした)と混在して、なにやら昔の編輯局で原稿を書いている記者の姿景色が「いま」思い浮かび、「いま」読んだ原稿が、あのとき書かれた原稿かしら? 幻覚のように仮想空間が脳内を走ります。「昔」「いま」「あした」が明確に区別できず、「いのち」「体」「こころ」の不思議がさらに増したのかも知れません。

 「ゆうLUCKペン」44集、テーマは「俺とスマホ・俺のスマホ」。愉快な持論スマホ論が展開されました。怪しいSMSが来て好奇心からロマンス詐欺に遭いそうになった噺やら、「便利こそが是ならず」と唱えるスマホ論、気に食わないスマホの4悪、ガラケーで文句あっか、97歳のスマホ事始め、アプリアプリと騒ぐなアプリ……などなど、身につまされるスマホ時代のスマホ談義は「読ませます」。まあ、ほんとにまあ、スマホは馬鹿だなあ! つくづく感じますね。そもコンピューターがアホだからなあ、銀行のATM故障でも列車の運休でも、超専門家が来て点検しても原因不明なのだから……。

 スマホに関係なく、自分流独自の自由主義を貫いて投稿してきた同人会員も多々おりまして「ゆうLUCKペン」44集も、いつものように賑やかな「俺は俺」文集になっています。

 元新聞記者のみなさん、以前にも増して「溌剌と」「何物も寄せ付けない」「俺は俺」になっているのであります。そう、コンニチ・今・現下のウイルス世情に於いては「俺は俺」です。昔の編輯局と同じ心。ひとつ言えばパソコン入力で記事を書く時代になったこと……ザラ紙に鉛筆で書いた「記事」、パソコンで書いた「e記事」……みなさんの原稿を読むにつけ、鉛筆の味わい風趣が残っているんです。言葉遣いに編輯局ってえ風が「そよ」と吹いているんです。だからゆうLUCKペンは長続きしているんです。それが、とっても嬉しい。いま流「e文学」はオモシロくねえもん。コンピューターは知らねえんだよ……上等の日本語表現を。

 ま、どうでもいいんである。あとは、ゆうゆうとして、後期高齢者は「美味しいもん」食って、健康も「俺は俺」です。でもねエ、日本は「食い物がなくなるヨ」。スーパー行けばたっぷり食品がある、なんて、昔噺となりますぞ。野菜なんぞは「種子」を95%も輸入しているんだし、野菜の自給率は数%であります。「何とかなるサ」と高をくくっているとカネ出しても他国に買い負けて、肉、魚、穀物、乳製品も入ってこない。コロナウイルス以上の世界異変(戦争)も起こりうる、若い世代は核武装希望だとか……こわい世の中が待っています。俺は俺、まもなく防空壕(墓)に入るからいいけどね。

 そんなワケで「ゆうLUCKペン」44集も、2年連続で発刊記念パーティは公的には「ナシ」となりました。ただし、ウイルスに感染してもモンダイない、軽傷だ、無症状だ、と考えている「やんちゃ老年」たちが、蔓延防止条例だか緊急事態宣言だか医療危機だか経済優先だか……社会をあやつる報道なんぞ知らんとばかりに、「勝手に開催する」ハラ積もりのようです(詳細は不明)。そのうち「集まりました」にレポートが掲載されるでしょう。

 いのち・体・心・昔・いま・あした……ごっちゃになって気分が乱れたのはスマホのおかげか、どうやら人間の脳はデジタル社会に適応していない。どもども。

(諸岡 達一)

ゆうLUCK ペン 第44集 目次

伊丹十三のスマホ/滑稽と悲惨にのみ有るデス   永杉徹夫(82歳)
たとえば、開けゴマ!/便利は「是ならず」/“滑り坂”へ向かうのは心か脳か   大住広人(84歳)
国際ロマンス詐欺に遭う/SNSアヤシイ・・・・好奇心   野島孝一(80歳)
ガラケーで文句あっか!   半田一麿(86歳)
私のスマホ談義/気に入らんっコト4つ   福島清彦(77歳)
つれずれなるがままに/秋深しスマホ手にして眺めおり   牧内節男(96歳)
俺はスマホ一年生/97歳の事始め…どんどん彩なす   山埜井乙彦(97歳)
<量子論の黎明期>恋文横丁から核エネルギーへ/「タラコ」の外側は〝非存在・・・   松尾康二(84歳)
哲学・モーツァルト・哲学/新米プロデューサー奮闘記   茂木和行(76歳)
〝惑星人との交信〟第1号! 先ず…お伺いしたいコトは/「気候危機をどう克服しましたか」?   横山裕道(77歳)
ドンクサ世代の「夜回り」秘話/老刑事が最後に明かした話   今吉賢一郎(84歳)
旭堂鱗林きょくどうりんりんの「追っかけ」   渡辺直喜(74歳)
気候危機…人類の未来は?/科学の進歩で乗り切れるか/人間の虚栄心こそが、ね   本田克夫(95歳)
若き日の不思議な「神武さん」/半世紀を経て恩師の前半生を知る   松上文彦(76歳)
馬鹿な私の1千5百万円   岩崎鴻一(85歳)
MLB……もう一人の「二刀流スーパースター」   松﨑仁紀(75歳)
アゲハ飼育から分かったこと   神倉 力(85歳)
軍縮ジャーナリスト新渡戸稲造と毎日新聞/「何かあると…滑稽に見えていけない」   堤  哲(80歳)
アプリアプリと騒ぐなアプリ/「アプレゲール」の方が勝ち!/スマホのアプリは頭悪りいョ   諸岡達一(85歳)
「来春も杖つき五歩行の身となりて」   中谷範行(81歳)

 ぜひ!是非!ぜひ! 手に取って読んでください。1冊千円でお分けします。

 申し込みは、事務局長中谷範行スマホ 080-1027-9340まで。送料は会負担で無料です。

 ちなみに執筆者20人の平均年齢は82.95歳。第45集も発刊します。原稿〆切りは11月半ばです。「オレ書くよ!」って、中谷スマホに連絡下さい。テーマなどをお知らせします。

2022年3月1日

阿部菜穂子さんの『チェリー・イングラム』中国語版-翻訳は8ヶ国語に

 岩波書店から2016年春に出版された拙著「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」がこのほど、中国語に翻訳された。実はこの本は、日本語版が出た後、現在私が住んでいるイギリスで本にすることになり、日本語版を全面的に書き直して2019年春、「Cherry Ingram  The Englishman Who Saved Japan’s Blossoms」のタイトルで出版された。それが思いがけなく好評で、その後、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語等に訳された。今回の中国語版を含めると、本は8か国語で出たことになる。なお、中国語版はオリジナルの日本語版の翻訳、その他の言語は英語版の翻訳である。

 中国語版の表紙は濃いピンク色の下地に、広重の浮世絵(カラー)や白黒のイングラムの写真があしらわれており、目を惹くデザインだ。中でも「イキ」なのは、タイトルである。中国語の題名は日本語と同じ「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」だが、その「イングラム」が「櫻格拉姆」と訳されているのだ。中国語に堪能なミライト・ホールディングス(NTT関連会社)幹部、西岡博之さん(前NTTヨーロッパ取締役)によれば、中国語では固有名詞を音訳か意訳で漢字に置き換え、「イングラム」は普通「英格拉姆(イン・ガゥ・ラー・ムー)」と訳される。しかし、今回は「英」ではなく、「桜」の中国語「櫻花・YingHua・インフゥア」の「櫻(イン)」を使っている。桜の育成と保存に全生涯をかけたイングラムを表すために、翻訳者があえて「櫻」の字をあてたのである。中国人の友人に確認したところ、この友人も「翻訳者の大変独創的な発想だ」と感心していた。

 実はこれは、中国版の表紙を私がフェイスブックに投稿したところ、西岡さんがコメントを書いてくれたためにわかったことで、その後西岡さんとメールやビデオ電話で会話を進めたところ、西岡さんはご親切にも表紙に記されている出版社(社会科学文献出版社)の論評まで翻訳してくださった。

 それによれば、物語は「‘無言の外交官’である桜が、日英両国間での野蛮と文明、戦争と平和、近代化と民族主義について書き記した逸話」である、としている。そして、「よく知られているように、桜は日本の象徴である。しかし、ほとんど知られていないことだが、一般的な意味での現代日本の桜には、わずか百年余りの歴史しかなく、さらに、桜と武士道との結びつきは、第二次世界大戦時の国家を挙げての宣伝の産物であったのである」。さらに、日本にはかつて多種多様な桜があったが、明治維新と戦後復興期において大量の‘染井吉野’が植えられ、その他の品種が絶滅寸前にまで至ったとし、「この本は桜の多様性を保護した英国の園芸師イングラム氏と日本の‘桜保護者’との2大陸・2大洋をつなぐ感動的な逸話である」と述べている。

 西岡さんのおかげで、中国の出版社が本のどこに目をつけて翻訳してくれたのかがよくわかった。過剰にナショナリスティックになることなく、バランスのとれた論評だと思う。

(阿部 菜穂子)

 阿部菜穂子さんは国際基督教大学卒業。毎日新聞記者を経てジャーナリスト、ノンフィクション作家。毎日新聞では政治部、社会部、外信部に在籍。2001年8月からイギリス・ロンドン在住。2016年春、20世紀の初めに日本の桜をイギリスに紹介したイギリス人園芸家、コリングウッド・イングラム(1880-1981)の生涯を追う「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」を岩波書店から出版。第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

2022年2月24日

『宮澤・レーン「スパイ冤罪」事件』箇条書き・総覧版発行

 2013年1月に札幌で結成した『北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会』は、10年目となりました。本会は、毎日新聞OBが北大OBらと協力し合って結成し、スパイの濡れ衣を着せられた北海道帝国大学学生・宮澤弘幸と、その師・レーン夫妻らの無実を証し名誉回復を期すると同時に、現に進行する旧・軍機保護法→現・特定秘密保護法などに伴う国民弾圧の国家権力犯罪を阻止する活動を展開してきました。

 こうした活動の経過と到達点を整理し、折から強まっている「憲法改悪・国民弾圧と戦争への道」へ警鐘を鳴らす目的で発行したものです。本会結成時から幹事として参加し、事務局体制に移行後も刊行書籍のすべての編集を担当してもらっている大住広人さんに全面的な協力をいただいています。「はじめに」から一部を引用し、紹介します。

 近頃は、高齢層にもスマホが蔓延し、日々の生活で重宝がられている。当座知りたいことが指1本で右から左なんだから、毒されるなといっても無理かもしれない。便利と効率が絶対価値であるかのようにふるまい、国家権力はデジタル統治に突き進もうとはかっている。

 一番の毒は、新聞で培われた一覧性が絶滅しかけている弊かもしれない。既に、スマホの群れは己に関心ある事だけを追い、「いいね」組だけで共感し合い、その余には無関心、あるいは排除する弊があると批判されている。その批判に、貸す耳を持たないと嘆かれてもいる。

 それでもなお、の思いで『宮澤・レーン「スパイ冤罪」事件』を再編集したのが本冊子で、「総覧版」と銘打った。(略)対米英開戦と同時に揮われた一斉検挙から80年、事実上の獄死となった宮澤弘幸の没後から75年を経ている。過去を解き、未来を正す、その再認識の踏台としたい。

 2021年の通常国会では国民投票=改憲手続法、デジタル関連6法、土地利用規制法等々の悪法を成立させた。安倍政権下での特定秘密保護法、安全保障関連法、共謀罪法等々と併せ、戦争への道となる法体制をなし崩しに固め、強権体制を定着させようとしている。

 あげく、2021年10月の総選挙では、自民・公明が国会運営での絶対安定多数を確保し、更には補完勢力となる党派が議席を増やした。目先の利便維持に執着する政治的無関心層に支えられての現象だ、との解説は当を得ているが、解説するだけでは遠吠えになる。

 奇手はない。議論の場を広げ、議論の多様さを知り、折合いの知恵を磨き合う、戦後培った風土を再確認し、愚直に努める。それにはスマホの対極である一覧性、その総体である総覧性が力になる。新聞をぱらぱら捲るだけで、世情を俯瞰し鳥の目を肥やすことができる。(略)

 本件冤罪は、上田誠吉・弁護士が国家権力による冤罪の具体例として発掘、1980年代の「スパイ防止法阻止」運動の中で深化した。その成果を引き継いだ本会が、安倍政権下で再燃した「秘密法制」阻止運動の中で発展させ、『引き裂かれた青春―戦争と国家秘密』(花伝社刊)として結実、集大成した。

 以来、さらに真相解明に努め(略)、今回冊子は、これら再度の集大成をと、一覧性・総覧性を意識し、めりはりある構成を心がけた。箇条書きとした所以である。(略)併せて本会既刊中の要訂正を「既刊訂正」として収録した。巻末の論考「土地利用規制法」は戦争法廃棄にむけた喫緊の課題への本会の考え方を明らかにするものとして、既刊寄稿の中から再録した。

 国民弾圧の仮面法「土地利用規制法」は2022年秋とされる施行まで、なお、間がある。施行を阻止し、一連の戦争法破棄に向け、さらなる連帯を強めたい。小さな冊子ながら、逆に、その手軽さを生かし、運動の現場で活用願えれば望外の成果となる。祈念して止まない。

 本会は、2016年に事務局体制を新たにし、現在に至っています。今回発行の「総覧版」全文と活動の現状は、下記のホームページで公開していますので、ご覧ください。

http://miyazawa-lane.com/index.html

(福島 清)

宮沢弘幸さん一家の墓参りをする山野井泰史さん(手前)と孝有さん(左から3人目)ら=東京都新宿区の常円寺で2022年2月22日午後1時15分、青島顕撮影

 関連して、宮澤さんの墓参りの記事が22日に配信されましたので、転載します(24日付都内版に掲載)。

戦時下弾圧、非命に倒れた北大生 登山家・山野井泰史さんが墓参り

 戦時中にスパイ事件に巻き込まれ、27歳で亡くなった元北海道帝国大生、宮沢弘幸さんの没後75年にあたる22日、登山家の山野井泰史さん(56)一家が、東京都新宿区西新宿の常円寺にある宮沢家の墓参りをした。一家と宮沢家とのつながりは37年前、山が取り持った。

 1985年夏、20歳の山野井さんは岩登りの聖地、米コロラド州ボルダーで落石に遭い、左足を粉砕骨折した。現地の病院でボランティアをしていたのが宮沢さんの妹、秋間美江子さんだった。山野井さんは家で世話になり、秋間さんから「兄は山が好きだった」と登山用ザックを見せられたという。

 話に出た兄の宮沢弘幸さんは41年12月の日米開戦の日、スパイを取り締まる軍機保護法違反で逮捕され、懲役15年の判決を受けた。戦後、同法の廃止と同時に釈放されたが、47年に結核で亡くなった。後に判明した罪とされた事実は、北大予科の英語講師レーン夫妻に旅行中に見聞きした海軍の根室飛行場の場所などを教えたこととされた。だが、飛行場の場所は周知で、いわれのない罪との評価が定着している。

 しかし一家は、世間から「スパイの家族」のレッテルを貼られ、戦後も苦しんだ。結婚した秋間さんは夫の仕事で米国に移住した。戦後40年が過ぎたころから兄の無実の罪を晴らすため、来日して活動するようになり、2020年10月に93歳で亡くなるまで続けた。  秋間さんが来日のたび泊まったのが千葉市の山野井さんの実家だった。山野井さんの父孝有(たかゆき)さんは事件を知り、美江子さんを支援し続けた。

 墓参後、山野井さんは「お兄さんのことがあったから秋間さんは厳しく最後までたたかったのだろう」。この日が90歳の誕生日の孝有さんも「二度とこんな思いをする人が出ないようがんばって生きていきたい」と語った。

 山野井さんは1994年にヒマラヤのチョーオユーで南西壁から新ルートで単独初登頂。昨年「登山界のアカデミー賞」と称される、フランスの「ピオレドール(金のピッケル)」賞の生涯功労賞に選ばれた。【青島顕】

https://mainichi.jp/articles/20220222/k00/00m/040/131000c

2022年2月14日

冬季五輪カーリングのスキップ、藤澤五月さんの北見北斗高校の先輩は?

 このテレビ画面は、北京五輪カーリング女子予選リーグROC戦、スキップ藤澤五月選手(30歳)の最終ショットである。2月12日深夜、いや13日未明である。

 この試合、日本は10―5で勝利して、予選リーグ3勝1敗とした。

 藤澤選手は、午前中に行われたデンマーク戦最終ショットで相手のストーンを2個打ち出して3点を獲得、8―7の大逆転勝利を決めている。調子があがっている。

 藤澤選手、愛称「さっちゃん」は、北海道立北見北斗高校85期。54年先輩の31期・社会部旧友の大住広人さん(84歳)にコメントを求めると――。

 「おりんぴっくは、とりわけ昨年あたりから嫌いでして、ぺきんも見とりませんが、てれびニュースの切れ目にちらと目に入り、じ~っと見てたら3点どりで逆転の瞬間でした。

 まあ納得、なんたって北見北斗の出身なんだから、おしゃべり抜きの口ま一文字もよかった。総論はともかく、いいもんはいい。拍手、です。これまたありがとさんです。南無

 おおすみひろんど」

 大住さんはテレているが、北見北斗は誇りなのである。ネットで検索すると、偏差値62とあった。進学校である。

 私(堤)が記憶していているOBは、ラグビーの宮井国夫選手(89歳)。明大―八幡製鉄(現日本製鉄)で活躍した快足ウイング。むろんラグビー日本代表だった。明大時代は陸上のインカレ100㍍に競走部の応援で出場、決勝で10秒6秒を記録して2位に入った。

 藤澤選手がスキップをつとめるロコソラーレは、前回2018年の平昌オリンピックでは銅メダルを獲得している。今回もメダルを!祈ろう。大住さんも応援して!

(堤  哲)

 もう一人の北見北斗高校卒、元編集委員、上杉恵子さん(城西国際大学特命教授)のコメント――

 辺境の地・北見が、平昌五輪でのロコソラーレの活躍でにわかに注目を集めた4年前。
今年開学100年を迎える我が母校・北見北斗高校の名も、藤沢五月選手の出身校として東京社会面に登場し、感激ひとしおでした。

 また、私の代の同級生LINEグループもそのときから、ロコソラーレ応援団LINE状態に。
そのLINEメンバーのひとりがチーム発足時からのスポンサーで、今回も現地に帯同。毎試合リアルタイムで届く実況メッセージに、全員一喜一憂。

 吉田知那美選手が勤務する会社の経営者でもある彼のみならず、同級生たちの仕事のパフォーマンスが、試合の行方以上に気になるほどです。

 この高校の風変わりな校歌は、大先輩である大住広人さんを通して、東京社会部のごく一部の皆さまにかつてはよく知られていました。毎友会会員の中にも、口ずさめる方がいらっしゃるはずです。

 「校歌つながり」の諸先輩、そして私自身も社を去り、ラグビー部が花園常連だった時代も遠い過去となって、毎日新聞との縁がすっかり薄れた我が母校の名が、今回の五輪紙面を再び飾ることをひそかに期待しつつ、白熱する試合を見守っています。

2022年2月9日

現役記者、米田堅持さんが10日から海保特殊救難隊の写真展

 海上保安庁の特殊救難隊(Special Rescue Team:SRT)。1975(昭和50)年10月創設された特殊な海難に対応するためのスペシャルチームで、当初の5人から現在は6個隊37人が任務に当たる。

 その訓練の表情を53枚の写真で紹介する写真展「特救 オレンジの頂点」が2月10日から東京・四谷「ポートレートギャラリー」(新宿区四谷1-7-12日本写真会館5F)で開かれる。

 米田堅持さん(52歳)は、日大芸術学部写真科卒。1992年毎日新聞社入社。東京本社写真部などで活躍、現在は東京本社コンテンツ編成センターに所属する記者である。

 2005年から海上保安庁の写真取材を始め、海保写真展は今回が8回目。

 2月16日午後3時まで。入場無料。

(堤  哲)

2022年2月4日

きっかけは「毎中」への投稿と毎日芸術賞の高橋睦郎さん

高橋睦郎さん

 ホテル椿山荘で2月3日、行われた第63回毎日芸術賞の贈呈式。詩集「深きより 二十七の聲」で受賞した文学Ⅱ部門の高橋睦郎さん(84歳)は毎日中学生新聞(2006年休刊)に詩や短歌などを投稿していた経験に触れ、「僕を育ててくれた毎日新聞からの最高のご褒美に言葉もありません」と語った(毎日新聞2月4日朝刊)。

 「毎日中学生新聞で育った文化功労者・高橋睦郎さん」

 これは、2018年1月14日(日)の日本経済新聞文化欄に高橋さんがエッセーを書いたときの見出しである。高橋さんは、その前年に文化功労者に選ばれ、日本芸術院会員にもなった。そのエッセーにこうある。

 《(中学校で文芸部に入り)私はいつか詩作の真似事に熱中し、母が取ってくれていた毎日中学生新聞の投稿欄に送った。詩だけでなく、短歌も、俳句も、ついでに作文も投稿した。

 それらすべてを通して入選・入賞回数が1位。選者の先生がたの煽(おだ)てに乗って、3年生の頃には詩作の習慣は抜けられないものになり……》

 《短歌、俳句、作文の欄でも入賞が続き、三年に進級する頃には西日本の少年文壇のちょっとした星だった》

 これは『高橋睦郎のFriends Index友達の作り方』(マガジンハウス1993年刊)を建築評論家植田実が画廊「ときの忘れもの」のHPで紹介しているものだが、画廊「ときの忘れもの」オーナー綿貫不二夫さん(76歳)=写真=は1969年入社の元毎日新聞販売局社員だ。出版写真部OB平嶋彰彦さん(75歳)のエッセー《「東京ラビリンス」のあとさき》も綿貫さんのHP連載URL http://www.tokinowasuremono.com である。

 植田のエッセ―を続ける。《週に数通は来ていたというファン・レターのなかに大人の文字の葉書があり、差出人は、山口県萩市明倫小学校柳井正一。生徒ではなく先生で、彼は上記の新聞(注:毎日中学生新聞西部版)などで目をつけた少年たちと連絡をとり、西日本少年文壇の同人誌を作ろうとしていた。それは1952年の大晦日に実現した。40ページの『でるた』という冊子である。そこに作品を寄せている「俊秀たち」を、高橋は「アトランダムに名前を挙げれば、日野孝之、八尋舜右、植田実、小田亨…」と10人ばかりを列挙し、「八尋舜右氏は現在朝日新聞社図書出版室長、植田実氏は建築評論家、…」といま知られる消息が紹介されている》

 朝日新聞に東日本大震災から1年後に高橋さんが自作を朗読したという記事があった。その詩を紹介したい。

    いまは      高橋睦郎
  言葉だ 最初に壊れたのは 
  そのことに私たちが気づかなかったのは
  崩壊があまりにも緩慢だったため
  気づいたのは 世界が壊れたのち
  亀裂や陥没を せめて言葉で繕おうと
  捜した時 言葉は機能しなかった
  私たちはようやくにして知った
  世界は言葉で出来ていたのだ と
  言葉がゆっくりと壊れていく時
  世界も目に見えず壊れていったのだ と
       *
  壊れた世界を回復するのだ といって
  そのための言葉が機能しないから といって
  たぶん あせらないほうがいい
  時間をかけて壊れた言葉は
  時間をかけてしか回復しない
  壊れたのなら 自分が回復する
  などと 過信しないほうがいい
  知るがいい 言葉が壊れた時
  きみじしんも壊れたのだ と
  きみもまた 言葉で出来ていたのだ と
       *
  いま思い出すべきは きみの未明の時
  きみの内なる闇に 一つの言葉が生まれ
  生まれた言葉が 別の言葉を呼び
  言葉たちが手をつないで 立ちあがった
  その時 幼いきみが怖ず怖ず立ちあがり
  幼い世界が危なっかしく立ちあがったのだ
  その時 きみはあせらなかった
  あせることなど知らなかった
  きみのその時を思いおこすがいい
  きみはいま あの時と同じ未明にある
       *
  科学者たちは言う
  big bangによって世界は始まった と
  もし その推論が正しいなら
  世界は崩壊によって始まったのだ
  始まった世界はゆっくりと立ちあがっていったのだ
  私たちの認識によって言うなら 言葉によって
  始まった世界はあせらなかったろう
  時間に委ねて ゆっくりと待ったろう
  言葉によって 自らが立たしめられるのを
  そのことにならって 私たちも待とう
       *
  うたわなければならない と きみは思う
  しかしうたい出せない と きみは嘆く
  たぶん うたい出せないのは 啓示
  壊れたきみと壊れた世界への 待てのシグナル
  きみは闇とともに眠り 光とともに起き
  日日にちにちの働きの中で 忍耐づよく待つがいい
  自分の中でいつか一つ しばらくして一つと
  言葉が目を覚まし 立ちあがるのを
  たぶん いまは世界の終わりで始まり
  私たちは老い 同時に生まれたばかり

(堤  哲)

2022年1月20日

44年前の花園大会にTBS佐々木卓社長も出場していた!

佐々木卓TBSホールディング社長

 純利益、株価、時価総額で業界首位「商社三冠」の伊藤忠商事社長石井敬太さん(62歳)が日経新聞夕刊連載「人間発見」で紹介されている。

 石井社長は、44年前、1977(昭和52)年の第57回全国高校ラグビーフットボール大会(毎日新聞社主催)に出場した。1回戦で同点引分け、抽選で敗戦となったが、商社マンになって一番大切にしてきたのはラグビー精神、フランカー魂だった。

 フランカーはFWの第3列。「スクラムが崩れると真っ先に混戦に飛び込み、味方にボールをつなぐ。相手の攻撃には頭からタックルを仕掛けてピンチをしのぐ。地味なポジションだが、やりがいがある。ラグビーだけでなく、その後の仕事人生でも不思議と私の役目は同じだと考えてきました」と、石井社長は連載で語っている。

ラグビーボールを持つ石井社長(1月17日付日経新聞夕刊)

 花園に出場したのは、早稲田大学付属高等学院の2年生のとき。縮刷版で調べると、東京都の決勝では国学院久我山を9―6で破り、初出場を決めた。

 超高校級の久我山FWをタックルで止めたのだ。久我山にはのちに早大→サントリー、日本代表本城和彦選手がいた。久我山は翌58回大会で優勝、本城は高校日本代表にも選ばれている。

 石井社長は、その時のメンバーを紹介しているが、キャプテン、No8寺林努は東京海上日動火災保険の元常務執行役員。副キャプテン、スクラムハーフ佐々木卓はTBSホールディングス社長で毎日新聞グループホールディングスの取締役も務める。社会部旧友佐々木叶さん(2017年5月1日没、92歳)の息子だ。

 FW第2列の2年生コンビで、本山浩は味の素グループのF-LINE社長、竹内徹は三越伊勢丹ホールディングス副社長。

 早大学院の監督は、早稲田ラグビーの理論的指導者大西鐡之祐さん(1995年没、79歳)だった。都大会で花園出場を決めた時、大粒の涙を流した、と記事にある。「こんなすばらしいチームは初めてだ。学業はみな80点以上。60人の部員は夕方4時半から練習して、帰るのは夜8時。それから勉強をやっている」と文武両道を称えた。

 着ていたユニフォームは、大学チームのお古の赤黒のジャージーだった。

 寺林と佐々木は大学に進んでもラグビーを続け、4年次は高校時代同様キャプテンと副キャプテン。佐々木は身長168cmと小柄ながら、9番SH(スクラム・ハーフ)として出場し、慶応には25―16、明治には21―15で、いずれも快勝した。

(堤  哲)

2022年1月6日

倉嶋康さん(88)インタビュー「『諏訪メモ』特報の裏側」が都内版に

 福島清さんが都内版記事を拡散――

 今日6日の毎日新聞都内版に、青島顕記者が「『諏訪メモ』特報の裏側」と題して、松川事件について、倉嶋さんとのインタビュー記事を掲載しています。簡潔にまとめられたわかりやすい記事だと思います。

 福島清さんたちが、倉嶋康さんのフェイスブックをもとに刊行した「冤罪の構図 松川事件と『諏訪メモ』 倉嶋康・毎日新聞記者の回顧から」についてインタビューした内容です。都内版読者以外の方にも読んでいただきたくて。

画像をクリックするとPDFで見ることができます

2022年1月5日

青森県の津軽飯詰駅に種村直樹「汽車旅文庫」がオープン

 レイルウェイ・ライター故種村直樹さん(2014年没、78歳)の「汽車旅文庫」が昨秋、津軽鉄道津軽飯詰駅(青森県五所川原市)に誕生した。

 種村さんの著書をはじめ、鉄道・旅行関係の書籍や雑誌など蔵書3200冊、原稿を執筆した愛用の机や「レイルウェイ・ライター事務所」の看板も持ち込まれた。

津軽飯詰駅舎内に設置された種村さん愛用の机。卓上には自筆の原稿も

 津軽飯詰駅は、1930(昭和15)年の津軽鉄道開業とともに設置された。2004年の無人化に伴って待合室以外は閉鎖されていた。

 開館は毎月第3日曜日の午前9時半~午後3時。入館無料。

 地元紙などの報道によると、種村さんの長女ひかりさん(54)と次女こだまさん(49)は「父が座って原稿を書いているのが目に浮かぶ」「本が散逸してしまうのではなく、まとまって展示することができ、父もほっとして喜んでいると思う」と話していた。

(堤  哲)

2021年12月27日

「アルパインクライマー 単独登攀者・山野井泰史の軌跡」―ビッグコミック2022年1月号から連載始まる

 元印刷部長・山野井孝有さんの長男で単独登攀者として世界的に評価されている山野井泰史さん(56)の人生が、小学館発行の「ビックコミック」新年号から連載で始まった。

 第1回は、中学生の泰史さんが、岩壁から落下して大けがをする場面から始まる。場所は書いていないが千葉県の鋸山。傷だらけで帰宅した姿をみた両親はびっくり。しばらくして傷が治り、また山に登るという泰史さんに、父・孝有さんが「二度と登山はさせん!」。「俺から山を取り上げるのは。死ねってことなんだ」。親子は取っ組み合いのけんかとなる。

 事態を冷静にみていた母・孝子さんは、「無理に取り上げたりすれば、心が死にます」。そうと悟った父は、「ちゃんとした大人の登山クラブで基礎から学べ。それなら許す」。泰史さんは片っ端から山岳クラブに電話するが中学生では相手にされなかった。

 ようやく相手にしてくれた日本登山クラブに、父は「山野井泰史が登山中に事故に遭っても日本登山クラブに一切責任を追及しません」との念書を出して、認めてもらった。そして泰史の岩壁登攀の訓練がスタートした……。

 山野井孝有さんは、2005年に出した「振り返れば波乱―73年の人生とこれから」と題した自分史で、「山への挑戦がすべて―泰史の人生」と詳しく書いている。連載第1回は、この記録に基づいて、正確に劇画化している。山野井さん夫妻を知っている人にとっては、描かれた姿にちょっと違和感を持つだろうが、それは仕方がない。毎月10日と25日発行のビックコミックの連載は、相当長期間になりそうだという。泰史さんの人生と、単独登攀の苦闘、そして両親の苦悩がどのように描かれていくか、楽しみにしたい。

(福島 清)

2021年12月22日

きょう冬至――山本修司さんのFacebookから

「富士とスカイツリーのシルエット。版画のような風景です」

(堤  哲)

2021年12月20日

超高齢社会という新時代対応で元経済部、牧野義司さんが「身軽化作戦」――自宅を売却処分後、シニア向け賃貸マンションへ転居

 人生100年時代という言葉に、誰もが違和感を持たないほど、今や日本は、人口の高齢化・長寿化が急速に進み、世界でも先端部分の超高齢社会国家となった。しかも医療技術の進展などに支えられ、80歳、90歳でも元気に活動する高齢者が増えつつある。

 私自身も1943年生まれのため、今や78歳となった。しかしありがたいことに、特に大病もせず健康で生涯現役の経済ジャーナリストを意識して、アクティブに動き回ることが出来ている。そんな私が、周囲で認知症リスクを抱える事例など、超高齢社会のさまざまな現象や問題を目にすると、「余力」があるうちに早く資産処分などを行って身軽になっておくことが大事だ、と考えるようになった。

 「終活」発想ではなく、人生終盤の再活性化への新たなチャレンジ

 そして最近、私は決断し、21年間住み慣れた東京調布市内の2階建て住宅を売却という形で資産処分に踏み切り、大手住宅メーカーが東京都内に新たに開発したシニア向け賃貸マンションに夫婦2人で転居した。

 要は、「終活」といった人生の店仕舞いの発想ではなく、資産処分を行って人生終盤の再活性化チャレンジのきっかけにするため、できるだけ身軽になっておこうと考えた。いわば超高齢社会時代への積極対応策だ。

 そんな意味合いを込めて転居あいさつという形で友人や知人に連絡したら、毎日新聞時代の先輩から「毎友会ホームページのトピックス欄で事例紹介として書いたらどうか。いろいろ悩んでいる人にとって参考事例になるはずだ」と勧められた。そこで今回、私のプライベートな話ながら、皆さんの参考事例になるかと考え、登壇させていただくことにした。

 生涯現役ジャーナリストを目指すと同時に、メディアコンサルティングに関与

 「牧野って、どんな人物だっけ?」と思われる方がおられるかもしれないので、ますは簡単に自己紹介させていただこう。私は早稲田大学大学院経済研究科を卒業した1968年に毎日新聞東京本社に入社した。新聞記者としての駆け出しは「農業を勉強したい」と希望を出した山形支局勤務で、4年間、地方記者として現場を走り回った。72年に東京本社に移り、地方版編集を1年間担当したあと経済部に異動。特別報道部に2年間ほど在籍してキャンペーン報道にかかわった以外は、経済部でさまざまな現場取材に対応した。

 そして、入社20年目の45歳の時に、英国に本社のあるロイター通信が日本に拠点をつくったロイタージャパンに転職、主として日本語ニュースサービス部門で引き続き経済問題取材や編集に約15年間、かかわった。企業文化の大きく異なるロイター通信での編集記者生活は、私にとって外国人記者との日常交流を含め、とても得るものが多かった。

 その後、私は60歳時点で、生涯現役経済ジャーナリストをめざすことを決め、フリーランスで現場取材活動を続けた。インターネット上で「時代刺激人」コラムを書くと同時に、メディアオフィス時代刺激人という事業法人を立ち上げ、メディアで培った人脈や経験、問題意識を生かしメディア向け情報発信アドバイスなどコンサルティングにかかわった。

 身軽化のポイントは自宅という固定資産の処分、「余力」あるうちに決断必要

 さて、本題に入ろう。超高齢社会時代対応を意識したのは、私の周囲で同世代の人が亡くなるケースが目立つと同時に、一家の柱となる人が運悪く認知症、高齢者うつに陥って資産処分をめぐるトラブルに遭遇している事例を聞くようになったことが大きい。

 私の場合、両親はともに85歳でかなり以前に他界しており、親の介護などの問題はほとんどない。また3人の息子たちは会社勤め、あるいは独立してベンチャービジネスなどを立ち上げて活動しており、あとは私自身がどう対応するかどうかだけだった。

 その点で、親の介護や認知症に陥って判断力がつかない親のもとで、老朽化した実家の資産処分をどうするかといった難題を抱えて対応に苦慮されている方々から見れば、私は間違いなくラッキーだ。しかし高齢者に降りかかるリスクは突然、襲ってくることもあり、早期対応が重要。そこで、私は、判断能力や動き回るフットワークなどで「余力」があるうちに行動に移そう、という結論に至った。

 運よく早めに自宅売却でき、転居先にと考えたシニア向け賃貸マンションに

 身軽になる最大のポイントは、自宅という固定資産を売却処分だ。我が家の場合、築21年の中古住宅ながら、軽量鉄骨づくりで、内装に気を付け、補強修理も心掛けていたので、運よく1か月ほどで売れた。この点もラッキーだった。結果的に、固定資産税などの税負担、庭の手入れはじめ屋内の掃除などから解放された。自分事のように申し上げているが、実は、長年の人生パートナーと言えるわが女房の負担軽減の意味合いがはるかに大きい。

 そこで、資産売却のメドがついた段階から、私たち夫婦は、旭化成の子会社、旭化成ホームズが高齢社会時代に対応して開発したシニア向け賃貸マンションが転居先にベストでないかと照準をあてた。ただ、なかなかこれはという物件が見当たらず、当初は苦悩したが、運よく9世帯が入るシニア向け賃貸マンションが東京杉並区内で新築中というので、仲介する不動産会社の案内で見学に行った。2LDKで何と72平方メートルというゆったりスペースで、月額の賃料も飛び上がるような高さでなく、むしろ、サービス内容から見れば、十分にリーズナブルなものだった。そこで、躊躇なく申し込んだら、運よく完成後に入居OKとなって、現在、転居して新たな生活をエンジョイしている。

 シニア向け賃貸マンションはバリアフリー配慮だけでなく健康見回りサービスも

 私自身は、問題意識に裏付けられた好奇心、フットワークのよさ、ネアカコミュニケーション力の3点セットを軸に生涯現役経済ジャーナリスト生活にこだわっており、都心に近い場所を生活&活動の拠点にすることをめざしていたので、身軽化作戦を発動してよかったと思っている。

 皆さんの中にはご関心の向きもあるかもしれず、事例研究の対象として、このシニア向け賃貸マンションのメリットを簡単にご報告しよう。シニア向けのため、一般のマンションと違って、至るところにバリアフリーの工夫が施されている。介護サービス付きの高齢者住宅とは目的が違っており、健康かつアクティブシニア夫婦向け用で、すべて自炊生活。ただ、看護師さんが毎月、「健康面で問題ありませんか」といった巡回サービスの形での見守りをしてくれるほか、綜合警備保障会社ともつながっていて、万一、救急対応が必要な場合、連絡するシステムになっている。

 余談だが、このシニア向け賃貸マンションが見当たらない場合には、他の一般の民間賃貸マンションに行かざるを得ないなと覚悟していた。仲介の不動産会社に聞いたら、賃貸する大家さんが高齢者の入居にはいろいろな意味でリスクが大きいと敬遠気味。しかも生活保護世帯に続いて高齢者層はマンション貸しをしたくない、というランク付けだそうで、当然、安心して新シニア生活を送れる状況でないので、私自身にとっては計画の外だった。

 身軽化作戦での想定外は引っ越しの大苦労、でも2、3年後だったら遅きに?

 ただ、身軽化作戦で想定外だったのは、引っ越しだ。一軒家から一気に手狭なマンション生活に転居するため、さまざまな荷物の整理、処分を覚悟していたが、私の蔵書もバッサリと大処分、わがパートナーの女房も四苦八苦の大整理だった。しかし、今は転居して、本当に身軽になった。この身軽化作戦を早期に進めていなければ、問題先送りのまま、さまざまな難しい問題に直面しただろうな、と実感する。

 さらに、ぜひ付け加えさせていただきたいのは、将来の私自身の認知症リスクなどさまざまなリスクが一気に表面化する前に身軽化のアクションをとる必要があると考えたこと、加えて、私自身が80歳になってからでは、今回のようなアクティブな行動をとれたかどうかわからず、その意味でも早期の決断はよかったのでないかと思っていることだ。

 超高齢社会システムデザイン行えば、人口高齢化で続く国々からリスペクトも

 最後に、私は経済ジャーナリストの立場で、ここ数年、ますます重要だなと思っているのは、超高齢社会化した日本が早く超高齢社会の社会システムデザインを行い、さまざまな分野で新たな制度設計を行うことだ。

 日本は人口の高齢化のみならず少子化でさまざまな問題を抱え、中でも高齢化に関しては世界のトップランナーだ。社会の高齢化に伴う医療や介護などにとどまらず、あらゆる分野で社会システムデザインを行って、先進モデル事例をつくれば、中国、韓国だけでなくタイ、ベトナムなど高齢化の面で後追いしてくる国々にとって学びの対象になり、逆にリスペクト(尊敬)の対象となるのは間違いない。

 その場合、高齢者が住みやすい経済社会づくりがポイントではない。後に続く若い世代との共生、端的には人生椅子取りゲームでシニア世代は座る椅子を若い世代に積極的に譲って世代間交流をつづけ、自身は別の、新たな椅子をつくる、という発想が重要なことは言うまでもない。私は今回の身軽化をきっかけに、フットワークよく活動を続けていこうと思っている。皆さん、いかがだろうか。

(牧野 義司)

2021年12月17日

元中部本社代表、佐々木宏人さんの著著『封印された殉教』がフランス語で紹介された!

 佐々木宏人さん(1965年入社)のノンフィクション『封印された殉教』上下(フリープレス社2018刊)が「パリミッション」(カトリック・パリ外国宣教会)の海外向け機関誌「Mission Etrangeres」に6㌻にわたって紹介された、とFacebookに自身で書いている。

 それによると、筆者は、前横浜教区保土ヶ谷教会のジェラール・アダム神父。
 辞書を片手に見出しを読むと——。
 「戸田神父の死の謎」

 Facebookはこう続く。
 この事件、終戦後3日後の8月18日に当時横浜教区長だった戸田帯刀神父が、保土ヶ谷教会の司祭館で射殺死体で発見された。戸田神父は前任の札幌教区でも平和主義者として逮捕されて、横浜でも特高、憲兵に付きまとわれていた。

 終戦に向けてのバチカンを通じての和平工作の役割を担っていたとも言われ、それが原因となって憲兵に射殺されたとも言われているが、犯人は10年後に東京・吉祥寺教会に「私が殺しました」と自首してきた。カトリック東京教区は調べもせずに”赦し”を与えて、犯人と名乗る男の行方は分からなくなった。

 10年近い年月をかけて、北は北海道から九州まで行き、取材、執筆したのだが、その平和を求める姿勢が、アダム神父様を通じて、世界に発信されたとは、ホントにうれしい😊限り。

 有難うございますアダム神父様🌈
 先ほど神父にお礼の電話をした。「戸田神父の事件、世界に知られていい事件。佐々木さんの努力に応えたかった」といわれた。

 サー、フランス語辞書を片手に読んでみよう。何だか「解体新書」を訳した前野良沢の気分。どこまで読めるかなー😂

(堤  哲)

※『封印された殉教』上・下は フリープレス/星雲社刊。上下巻とも税込2,200円
(本体価格: 2,000円)ISBN:978-4-434-24981-5 発売年月:2018年8月23日

2021年12月16日

暮れの風物詩:2021報道写真展始まる

 ことしはコロナ禍で1年延期となった東京五輪が大きなスペースを占めた。毎日新聞の写真部員が撮った傑作が何点も展観されている。

 会場は日本橋三越本店、入場無料。24日まで。

金メダル2つ獲得の大橋悠依選手(400m個人メドレーで優勝した時のスナップ)
スポーツクライミングで銀メダル野中生萌(右)と銅メダル野口啓代選手
パラアーチェリー「奇跡の射手」アメリカのスタッツマン選手
車いすバドミントン女子ダブルス金メダルの里見紗李奈(左)と山崎悠麻選手

 一般写真では、企画部門(国内の部)で奨励賞を受けた小出洋平写真部員の組み写真「路上の命 守りたい」のほか、以下の4点「コロナ禍 ロボットで卒業式」「都心に光跡、日本人2人滞在のISSが通過」「復興と感謝『モッコ』に乗せて」「10年ぶり着席」などが飾られている。

(堤  哲)

2021年12月13日

元政治部、尾中香尚里さんの新刊『安倍晋三と菅直人』が東京新聞書評に

 《尾中香尚里さんのフェイスブック転載》

 今日(11日)の東京新聞朝刊に、作家の江上剛さんが拙著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」(集英社新書)の書評を書いてくださいました。

 江上さんとは直接面識はないのですが、とても心のこもった書評で感激しました。

 本当にありがたいことです。また、書評をごらんになった何人かの方から久々に連絡をいただき、それはまた違う意味で嬉しかったです。

2021年12月6日

9回裏、4点差をはね返して逆転サヨナラ・JR東日本東北-師走の都市対抗野球

ちょっとピンが甘いですが。代打攻勢が逆転劇につながった(12月3日午後5時すぎ)

 「ドラマは九回に待っていた」と、宮城版の記者は書いた。

 9回裏2―6。4点差は絶望的だった。西村亮監督(47歳)は、トップバッターに代打を送った。若林蒼太(東京農大24歳)がセンター前ヒット。2番キャプテン大保優真(星槎道都大26歳)、3番鈴木聖歩(桐蔭横浜大22歳)が連続四球で無死満塁。

 4番打者に代打を送る。新人・大西蓮(履正社高19歳)。センター前へタイムリー。1点を返し、なおノーアウト満塁。

 5番DHにまた代打。トヨタ自動車東日本から補強の望月直也(盛岡大付高26歳)。ライト前へタイムリー。2点差となって、なおノーアウト満塁。

 ここでNTT西日本は投手交代。一塁走者に代走・森勇二(国士館大30歳)。森が還ると逆転サヨナラだ。

 6番安西聡(東洋大27歳)空振り三振で1アウト。
 7番夷塚圭汰(東北福祉大27歳)は四球を選んで、押出しで1点差。なお1死満塁。
 8番小山倭誠(亜細亜大25歳)がレフト前ヒットで同点。なお1死満塁。
 9番新人・金沢龍介(専修大23歳)。打球はレフトへ。三塁走者森がタッチアップして本塁へ滑り込む。劇的な逆転サヨナラ勝ちの瞬間だった。

 西村監督の代打策がズバリ当たった。4点差の9回裏。「流れを変えるしかない」、4・5番打者は「相手投手に(タイミングが)合っていなかった」と試合後に話した。

 西村監督は静岡高→駒澤大→JR東日本東北。高校・大学・社会人といずれもキャプテンを務め、東都大学リーグでは1996秋に、現ロッテ監督の井口資仁(青学大)を抑えて首位打者になっている。2012年母校駒澤大監督となり、2014年秋、エース今永昇太(横浜DeNAベイスターズ)を擁して優勝、明治神宮野球大会でも優勝して日本一になった。

 JR東日本東北監督は、2018年からで、今大会前「やるからには目指すは日本一」と抱負を話していた。

 ネットで9回裏の大逆転劇を調べると、
 《プロ野球では6点差が最大》
93年6月5日藤井寺球場
  ダイエー010 031 003  |8
  近  鉄002 000 007X|9
《高校野球では14年夏石川大会決勝・星稜対小松大谷の8点差》
  小松大谷150 110 000  |8
  星  稜000 000 009X|9
とあった。

 では、都市対抗野球大会では? 残念ながら運動面にその情報はなかった。

 鈴木美嶺さん(1991年没70歳、2017年野球殿堂入り)が記者席にいたら「黒獅子の目」に書いただろうなと思った。

 JR東日本東北は準々決勝で敗れたが、小野賞が贈られた。

 「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」小野三千麿(1897~1956)は、慶大から毎日新聞記者となり、大毎野球団でも活躍した。1959年に都市対抗野球大会生みの親・橋戸頑鉄(1879~1936)らとともに野球殿堂入り第1号を果たした。

 ことし第92回大会で初優勝した東京ガスは、94年ぶりと報道されたが「創部が都市対抗野球大会の始まった1927(昭和2)年。都市対抗とは縁が深いのですが、黒獅子旗には縁がなくてね」とOBの石丸徹さん(故人)が話していたのを思い出した。

(堤  哲)

2021年12月2日

ファッション記者市倉浩二郎さんの連れ合い、美登子さんの訃報

 ——わが友・市倉浩二郎(元毎日新聞社編集委員、1994年逝去53歳)の奥様の訃報が届きました。奥様は文化出版局「ミセス」編集長などエディターとして長年活躍された篠田美登子さんです。

 市倉さんは東京コレクション初日の夜に倒れて意識不明の重体に。集中治療室の控室で「旦那がもし死んだら、僕(太田)はいまの仕事辞めます」と話しました。そして、快復することなく友は亡くなり、私は東京コレクション主催者だった東京ファッションデザイナー協議会の議長を退任しました。

 そのとき、「もしも会社を設立するようならイッチャンの退職金を遣ってちょうだい。きっと喜ぶから」と電話をいただきました。未亡人になって心細いはずなのに。もちろん「ハイ」とは言えませんし、会社を設立するプランもありませんでした。

 姪っ子さんの話では、先日授賞式が行われた毎日ファッション大賞の冊子が届いたときは目がキリッと編集者の目になっていたそうです。いま頃イッチャンに受賞者のこと報告しているんでしょうね。合掌。 

 毎日ファッション大賞(毎日新聞社が創刊110年を記念して1983年に創設)の選考委員を務める太田伸之さん(MDコンサルタント/日本ファッション・ウィーク推進機構理事)がFacebookに書き込んだ。

市倉浩二郎(左)と太田伸之さん(太田伸之著『ファッションビジネスの魔力』毎日新聞社刊から)

 太田さんの三重県桑名市の実家は、テイラーだった。明治大学を卒業してNYへ。ファッション情報を繊研新聞に送るとともに、アートとデザインの私立専門大学Parson’s School of Designに通った。のちに同校の講師となって、授業も受け持った。

 8年のNY生活を終えて帰国、1989(平成元)年11月に東京ファッションデザイナーズ協議会(CFD)を立ち上げて、議長に就任する。東京コレクションが始まり、ファッション記者市倉浩二郎(65年入社、社会部・サンデー毎日)と出会うのだ。

 『ファッションビジネスの魔力』に美登子さんの談話が載っている(184㌻)。

 「今日は太田と飲むぞと出かけるとき、いつも市倉は嬉しそうだったのよ。2人はよほど気が合ったのね。でも、帰って来ると決まってグデングデンだったけど」

 市倉の葬儀は、社会部旧友大住広人さん(1961年入社)と太田さんの2人ですべてを仕切った。太田さんは、今でも「桜の季節は市倉を思い出すので好きでない」という。

 太田さんはCFD議長を退任したあと銀座の松屋デパート東京生活研究所所長→2000年イッセイミヤケ社長→2011年松屋常務執行役員、MD戦略室長→海外需要開拓支援機構(クールジャパン)社長→18年退任。(株)MD03設立。

 毎日新聞のHPで毎日ファッション大賞を検索したら、太田さんが創設に関わった「鯨岡阿美子賞」(毎日新聞の元ファッション記者)の候補者に名前があった。

(堤  哲)

2021年12月1日

英国の阿部菜穂子さんから「桜の植樹式」便り フェイスブックに



 『チェリー・イングラム――日本の桜を救った英国人』(岩波書店)で2016年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した英国在住の阿部菜穂子さん(81年入社)が近況をフェイスブックに。著書は英米をはじめヨーロッパ各国などで翻訳され、日本の「桜」の普及に貢献しています。

 11月29日、ケント州ベンデンにあるコリングウッド「チェリー」イングラムの旧宅The Grangeでの桜の植樹式に出席しました。

 「チェリー・イングラム」ことコリングウッド・イングラムの旧住居(ケント州)‘ザ・グレンジ’に11月29日、イングラムゆかりの桜9本が植樹され、セレモニーが行われました。

 これは日本人から英国民に6000本以上の桜を贈呈する「桜プロジェクト」の一環として実施されたもので、植樹されたのはダイコク、アサノ、ホクサイ、オカメ、ウミネコ、コリングウッド・イングラム、オータム・グローリー、ショーサーの9品種。イングラムが人工交配して開発したものや、日本で発見したもの、日本から英国に初めて紹介したものなど、貴重な品種です。

 これらはかつてはすべて、ザ・グレンジの庭に咲いていましたが、1981年のイングラムの死後、失われており、今回「里帰り」しました。ケント州在住の桜の専門家、クリス・レーンさんが接ぎ木をして準備しました。

 すべてイングラム関連の木で、栽培されたもの、英国に導入されたもの、または日本でIngramによって発見されたもの。 北斎は1919年にザ・グランジに移籍した時に、イングラムの桜への情熱を最初に発火した木です。

2021年11月29日

元印刷部長、山野井孝有さん(89)の長男、登山家、泰史さん(56)が「ピオレドール生涯功労賞」受賞のニュースに、みんなで祝福

 山野井泰史さんが、27日、フランスで「登山界のアカデミー賞」ともいわれる「ピオレドール生涯功労賞」を受賞したニュースです――と、福島清さんがTBSのニュース(28日朝)を引用して、拡散しています(写真はTBS)。山野井さん方には、お祝いの電話が相次いでいるそうです。

山野井泰史さんのインタビュー
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4414967.html

登山界・最高の栄誉 山野井泰史さんに「ピオレドール生涯功労賞」

(28日 10時47分 TBSニュース)

 登山界の最高の栄誉と言われるピオレドール賞の授賞式がフランスで行われ、日本の山野井泰史さんが生涯功労賞を受賞しました。

 記者「世界の名だたる登山家だけに贈られる賞に日本人の名前が刻まれました」

 27日、フランス南東部のブリアンソンで“登山界のアカデミー賞”とも言われるピオレドール賞の授賞式が行われ、日本の山野井泰史さんに生涯功労賞が贈られました。

 山野井さんはヒマラヤなどの山の巨大な壁に単独で挑み続けるクライマーとして知られ、2002年、ヒマラヤのギャチュン・カン北壁登頂後に凍傷で手足の指10本を失いましたが、その後も精力的に登り続けています。山野井さんは今回、「カリスマ性が顕著で、若い世代のアルピニストに道筋を示した」と評価されました。

 登山家 山野井泰史さん「成功した登山もそうですけど、決めてくれた方が失敗した登山もちゃんと評価してくれてるので、そこがすごく僕には嬉しかったかなと思います」

 生涯功労賞は山野井さんで13人目、日本人としては初めての受賞です。

2021年11月25日

瀬下恵介さんを追悼する「ペンの森」機関誌「瀬下塾ジャーナル」 発行







 今年8月9日、82歳で亡くなった元社会部遊軍長で「ペンの森」を創設した瀬下恵介さんを追悼する「瀬下塾ジャーナル」Vol.56(第14巻4号)が発行され、新聞やテレビなどジャーナリズムの世界に約500人を送り込んだ瀬下さんを偲ぶ80人余の追悼の言葉が捧げられている。

 追悼号は、瀬下さんの仕事を引き継いで塾頭を勤める岩田一平さん(朝日新聞出身)が編集・発行を担当し、1995年から2002年の「1~8期」、2003年から2010年の「9~16期」、2011年以降の「17期~」と、草創期の「~0期」に分けて、卒業生のメッセージが掲載されている。神保町に1995年、「ペンの森」を創設、80歳になった2018年に塾頭を退いた経歴も掲載されている。

 

 追悼号の冒頭で、元サンデー毎日編集長、鳥越俊太郎さんが「瀬下恵介 この類稀な幸せな男」と題して、「瀬下恵介は書くことが好きだった。書くことに人生の全てを燃やし尽くした、この上なき幸せな男だったんだなぁ」と社会部での仕事ぶりを偲んでいる。

 「瀬下さんより5~6歳下で経済部に所属していた」と振り返るジャーナリスト、嶌信彦さんは「人を包み込んだ〝瀬下笑顔〟」というタイトルで、「ちょっと文章に気の利いた語句をはさんでくれただけで、原稿が生き生きとしたような気がして、そのまま納得した」と一緒に仕事をした思い出を記している。

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 「ペンの森」を経て毎日新聞社に入社した卒業生のうち、追悼文を寄せたのは、社長室委員、中村由紀人さん、元毎日新聞・TBS記者、神田和則さん、カスタマーリレーション本部、石原聖さん、ブリュッセル支局、岩佐淳士さん、写真部、小出洋平さん、記者、田村彰子さん、事業本部、杉本修作さん、一般社団法人カイロス代表理事(元毎日新聞記者)、西田真季子さん、毎日新聞記者、田中裕之さん(共同通信社、田中明子さんと連名)、毎日新聞社カスタマーリレーション本部、中本慎二さん、毎日新聞東京本社外信部、金寿英さん、毎日新聞、高良駿輔さん(掲載順。肩書は本人の記載による)。

 機関紙などの挿絵を担当してきたイラストレーター、中里まっちさんは、ロッキード事件の1976年、毎日新聞首都圏版で連載が始まった「大学漫研対抗まんが甲子園」を瀬下さんが担当していた縁で、「ペンの森」を手伝うようになったという。「新宿・職安通りに原点を見た」と西支局の当時を綴っている。

 巻末で、夫人の安子さんが〝なれそめ〟を告白している。それによると、安子さんが立教大学社会学部1年生だった頃、その年に立教大学から毎日新聞に入ったという、趣味は〝ドン行〟という黒シャツの男性がいて、ある日、大学に顔を出し、研究室でアルバイトをしていた安子さんの仕事を手伝ったのが運命の出会いだったとのこと。長女徳田美奈さん、次女瀬下文さんも、団地での4人家族の生活や晩年、父親の病気と付き合った日々を報告している。

(高尾 義彦)

2021年11月16日

ON→OF時代(大谷翔平・藤井聡太)時代と池井優さんが命名——連載小説「無月の譜」終了を惜しんで

 連載小説「無月の譜」作・松浦寿輝/画・井筒啓之が16日、336回で終了した。

 ——藤井聡太の驚くべき快進撃が止まる気配はいっこうにない。向かうところ敵なしといった按配(あんばい)で、A級棋士の面々さえ次々に連破しつづけている。どうやらこの若きヒーローは、将棋の歴史において前代未聞の高峰としてそびえ立った羽生善治の後を襲う、令和の大棋士へと成長していきつつあるようだ。

 慶応大学の名誉教授で野球通、大リーグ通の池井優さんが、「ON時代から今はOF時代」とあるコラムに書いている。

 19歳3か月、最年少四冠藤井聡太さんが誕生して最終回を迎えた。

 SNSにある読者の感想が温かい。

 *毎日新聞連載の、松浦寿輝「無月の譜」。今朝、静かにクライマックスを迎え、朝食をとりつつ少し感動に浸る。
 *いつも不思議だなと思うのは、新聞の小説が始まった時にはなんとも思わなくて、なんとなく読んだり読まなかったりだったのに、中盤でかかさず読むようになって気づいたら話題の内容に近いものになっていた。
 *最年少四冠達成のニュースが一面の日に、お名前が登場するという… その不思議にまた鳥肌たってしまった。

 藤井聡太四冠の活躍で大変な将棋ブームなのだという。

 こんな話もあった。今年の初め、「無月の譜」に関連してこのHPに掲載したものを再録したい。

(堤  哲)

2021年2月9日

将棋の駒の書体「無劍」は大毎取締役の号だった ― 連載小説「無月の譜」から

 毎日新聞朝刊の連載小説、松浦寿輝作「無月の譜」66回(2021年2月9日朝刊)に将棋の駒の書体についてのやりとりに、こうある。

 飛車の裏は龍王、角の裏は龍馬であるが、竜介が手にしている駒の「龍王」「龍馬」の字は、隷書よりももっと象形文字に近い、絵とか図のような感じがする記号だった。

 ――その「龍王」「龍馬」は、隷書体よりさらにいにしえに遡(さかのぼ)る、篆書(てんしょ)体の字なんだよ。歩の裏の「と金」も面白い字だろう。字というのか、記号というのか。人が武器を持って手を広げているみたいに見えるだろ。この無劍(むけん)という書体はたしか、われわれと同郷の、信州出身の政治家の手になる書から作られた、というんじゃなかったかな。

 竜介が後になって調べてみたところでは、「無劍」は、長野県松本市生まれの政治家・実業家である渡辺千冬(一八七六-一九四〇)の、書家としての号なのだった。隷書が得意な書家だったらしい。衆議院議員、貴族院議員となり、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣で司法大臣を務めた。大阪毎日新聞社取締役、枢密顧問官といった重職にも就いている。理論物理学者の渡辺慧(さとし)は、その渡辺千冬の息子なのだという。

 渡辺千冬は、毎日新聞の社史に1932.12.21~39.9.1取締役とある(『「毎日」の3世紀』)。どういう経緯で取締役に就任したかは記述がない。

 ネットで調べると、1908(明治41)年衆院選で当選、政友会に入党。19(大正8)年養父国武が没し、子爵を襲爵。翌年、貴族院議員に選ばれ再び政界へ。29(昭和4)年浜口雄幸の民政党内閣で司法大臣に就任。36(昭和11)年、現在の国会議事堂が完成したとき、貴族院を代表して記念演説をした、などとある。

 その前段に《(東京帝国大学)卒業後、フランスへ留学し、帰国後、電報新聞社主筆》とあった。

 「電報新聞」は、千冬の養父渡辺国武が1903(明治36)年11月23日に創刊。3年後に大阪毎日新聞社に買収され、題字が「毎日電報」と変わっている。

 「電報新聞」創刊時、千冬はフランス留学中だったといわれ、「主筆」は一時期だったと思われる。

 「毎日電報」は、大阪毎日新聞の東京進出→全国紙展開の足掛かりになったもので、さらに1911(明治44)年3月1日付「東京日日新聞」は、「毎日電報」合同とうたった。

 「大阪毎日新聞」が「東京日日新聞」を吸収合併したのだ。「毎日新聞」に題字を統一したのは、1943(昭和18)年1月1日からだった。

 以下は、『慶応義塾出身名流列伝』(1909年6月刊)にある渡辺千冬の紹介である。

(堤  哲)

2021年11月11日

29歳、平成生まれ初の国会議員を見守るオジサン記者

馬場雄基衆議院議員

 10日召集された特別国会で、全国最年少29歳で初当選し、初めての平成生まれの国会議員・立憲民主党の馬場雄基さんが初登院した。福島2区から立候補、比例で復活当選した。

 報道陣に囲まれ、馬場さんは「ここからが本当のスタートだという気持ちだ。現場から見えてくるものをこの場で話し合い、国の方向性をしっかり皆さんと一緒に指し示すことができるように全力を尽くしていきたい」などと話した。

 Facebookに郡山通信部の元運動部記者・熊田明裕さんがこんなことを書いていた。

 6月下旬の出馬表明直後から、その成長ぶりを感じながら接した若者が「平成生まれ初の国会議員」になりました。「福島の、日本の課題を次世代に積み残さない」の言葉を、きっと実現してくれると思います。

 私の実家に近く、彼が生まれ育った場所での街頭演説に詰めかけた人々へ「希望ヶ丘団地初の国会議員になる」と約束した初志を貫徹しましたね。

 スポーツ担当時代に培った「勝負勘」と4カ月で2回、野球の「完全試合」に立ち会った「取材運」を発揮して取材者の中で多分、一番付きまとったであろうオジサンも期待しています。

 ついでに2021年4月1日に郡山通信部に赴任したときのFacebook。

 本日より郷里の福島県郡山市を拠点に仕事をすることになりました(会社はそのままです)。36年ぶりの「郡山市民」としての生活。町割りもすっかり変わり、しばらくはカーナビやスマホのマップなしには身動きがとれなさそうですが、福島県の中通り(東北新幹線沿線)の南半分とJR水郡線(郡山ー水戸間のローカル線)の福島県部分すべての自治体をカバーエリアに、文字通り走り回る(車で)ことになりそうです。

 先月29日に着任してから拠点兼住居の環境整備や官公庁への諸手続き、及び買い物などで忙殺されていますが、車での移動がほとんどのため、3月までの主治医と約束していた「1日1時間、1万歩以上のウオーキング」ができていないのが残念。サクラも見頃の、散歩にはうってつけな季節なんですが……。

(堤  哲)

2021年11月11日

毎日新聞政治部出身の渡辺創さん(44)が衆議院議員に初当選、初登院

当選確実の一報を受けて支援者の拍手に応える渡辺氏(中央)と妻の杏子さん(右)=宮崎市で2021年11月1日午前1時21分

《毎日新聞宮崎版から》

 10月31日投開票された衆院選は、一部選挙区や比例代表の開票作業が11月1日未明に持ち越した。大激戦となった宮崎1区は、立憲新人の渡辺創氏が、自民前職の武井俊輔氏ら3人を破り、初当選し、武井氏も比例復活で4選。宮崎2区で自民前職に敗れた国民民主新人の長友慎治氏は未明に比例復活で初当選した。鹿児島3区では立憲元職に競り負けた自民前職の小里泰弘氏も比例復活で6選を果たした。

《NHK宮崎放送局の10日のニュースから》

 先の衆議院選挙では、県内からは3つの小選挙区と九州ブロックの比例区で合わせて5人が当選しました。このうち小選挙区の宮崎1区で自民党の前職などを破り、初めての当選を果たした、立憲民主党の渡辺創さんも初登院しました。取材に応じた渡辺さんは「あらためて気が引き締まり、有権者のみなさんに担わせていただいた責任の重さを実感している。まっとうな野党の議員として、緊張感を持つ政治を取り戻すことが大事だ。胆力があり、人が望まないことでもしっかり役割を果たせる議員になりたい」と述べました。

《渡辺創さんのホームページに掲載されたプロフィールから》

 宮崎県立宮崎東高校卒業後は、宮崎から遠く離れた新潟大学法学部に進学。初めての一人暮らし、際限のない自由な時間、そして社会の構成員としての責任・・・充実した4年間を過ごしました。政治学を学び、フィールドワークと称して思いつくまま各地を訪れる日々。野球サークルでは選手としてよりチーム運営に興味を持ち、新聞連載を行う学生サークルを立ち上げ、学生編集長として卒業前には連載をまとめた本を出版しました。

 「私なりの社会貢献のあり方」を模索した就職活動は、新聞社中心にマスコミ一本でした。毎日新聞社に入社(2001年)。初任地・横浜支局では、大半を事件事故を担当する県警クラブに所属し、まさに夜討ち朝駆け・抜き抜かれの生活。この頃の話はたくさんの失敗談を中心に枚挙に暇がありません。

 初めて臨場した児童3人が焼死した公営住宅火災、小説『空飛ぶタイヤ』のモデルで大企業の構造的不正発覚につながる大型トラック脱輪死亡事故、3カ月に渡った暴走族取材、人間模様に思い巡らせた沢山の事件・・・。横浜市政担当時の米軍基地返還問題や、甲子園準決勝まで同行した1年目の高校野球取材など忘れることのできない取材がいっぱいです。

 私生活では、大学の後輩だった妻と結婚し、長女は横浜で生まれました。

 東京本社政治部へ異動すると、時は小泉政権の絶頂期。官邸の総理番からスタートし、官房副長官番(事務)、内閣府担当、教育再生会議担当、自民党幹事長番などを経て、2007年の参院選直後から民主党担当へ。小沢一郎氏や藤井裕久氏の担当を2年半ほど務め、2009年の政権交代前後を取材しました。少し変わった担務で、永田町にとどまらず選挙取材の名目で日本中を歩き、全都道府県に足を踏み入れました。この時の経験が自らが担い手として政治を志すきっかけになったのかもしれません。

 長男は東京で誕生。まだ「働き方改革」の言葉もなかった時代、自宅滞在時間は毎日5時間という生活でまさに妻の「ワンオペ育児」が続きました。一時は担当記者として少子化対策・子育て支援の記事を書きながら、自らの生活には大きな矛盾もありました。

 「社会との関わり方をより直接的に」と政治家への転身を決意したのは2009年末でした。毎日新聞社を退職・帰郷し、2010年参院選宮崎選挙区に県内参院選では初の民主党公認で挑戦するも17万8854票で次点。たくさんの方々の後押しがあり、翌2011年県議選宮崎選挙区に初当選。その後2015年、2019年と3期連続当選を果たしました。

 この間、民主党(民進党への党名変更あり)県連幹事長代理、同幹事長を務めたほか、2018 年2月から立憲民主党県連代表。活動は全国にも拡がり、同党全国自治体議員団幹事長も2020年8月まで経験しました。県議会では、3度の文教警察企業常任委員長のほか県監査委員、会派「県民連合宮崎」の幹事長を務めました。

 もっぱら仕事をしていれば、満足するタイプですが、趣味は、読書と旅行、(なかなか行けませんが)スポーツ観戦。出張も含め旅先で車窓の風景を眺めながら、思いを巡らす時間が大好きです。宮崎市東大宮在住で、子どもたちは市内の学校に通っています。

《渡辺さんは自身のツィッターで、神奈川新聞にも取材してもらい「ちょっとジーンと」と。以下は神奈川新聞から》

 政治・行政 | 神奈川新聞 | 2021年11月10日

初登院で報道陣の求めでマスクを外しポーズをとる渡辺氏=国会正門そば

 元毎日新聞記者で横浜支局にも勤務した衆院宮崎1区選出の立憲民主党・渡辺創氏(44)が10日、国会へ初登院し「横浜での地方記者としての勤務経験も政治を志す動機となった」と感想を述べた。

 2000年代初頭の横浜勤務では横浜市政取材などを担当。高校野球の神奈川代表にも同行取材した。

 故郷宮崎に戻り10年参院選に臨むも落選。以後は県議を務め、3期目途中に衆院選に挑み初当選した。

 取材する側から受ける側に回って「この立ち位置で良いですか?」などと現場で配慮をのぞかせつつ「さまざまな地域で取材などを通じて得た経験を生かしたい」と議事堂をバックに抱負を述べた。

(有吉 敏)

2021年11月5日

「認知症110番」 クラウドファンディングにご支援を

認知症予防財団  冠木雅夫

 毎日新聞OB、OGの皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。もしお願いできればということで、クラウドファンディングの案内をさせていただきます。

 認知症は今や国民的な関心事、大問題と言っていいと思いますが、認知症予防財団が実施している無料の電話相談「認知症110番」は運営費に困り、11月1日よりクラウドファンディングを始めました。期間は来年1月14日までの75日間、目標額は750万円です。もしよろしければ、可能な範囲(最小単位3000円です)でのご支援、あるいは関心のありそうな方々へお知らせしていただければありがたいです。

 「認知症110番」は認知症の本人や家族の悩みにフリーダイヤル(0120 654874 毎週月・木の10~15時)で相談を受ける窓口です。同様の電話相談は今では全国各地にありますが、その先駆けとして約30年前に始まったものです。相談はベテランの専門家(看護師、公認心理師、ケースワーカー、介護福祉士など)が応じており、高い水準を保っていると自負しております。どんな相談でも親身に対応することがモットーで、中には他の電話相談では納得がいかなかったり断られたりしたという方もおられます。

 認知症予防財団は、毎日新聞社が創刊120年の記念事業として、経済界から計3億円の寄付を募って設立した財団(当初は「ぼけ予防協会」)です。2010年に公益財団法人に衣替えしました。発足後まもなく電話相談を始めたほか、シンポジウムなどの啓発活動、認知症や介護に関する調査・研究、機関紙や出版、ウェブサイト運営などを行っています。専従2人、アルバイト1人のこじんまりした組織です。近年の収支は、年間の総経費は3千3百万円強、それに対し収入は2千万円弱(内訳は本社及びTBS、毎日放送からの賛助金が計約900万円、事業収入と資産運用益など)。つごう千数百万円の赤字で、残念ながら資産を食い潰しながら続けているのが実情です。

 創設以来の諸先輩方の尽力により、大口のスポンサーが支えてくれた時期もありました。しかし、最近はコロナ禍もありスポンサー探しは厳しい状況です。生損保、製薬、不動産など、いくつもの企業に働きかけておりますが、いい返事をもらえず、自らの至らなさを痛感しております。幸い、コロナ禍下での事業継続資金として日本財団から一時的な助成を受けておりますが、来年度以降の見通しは立っていません。というような事情を踏まえ、目先を変えて、広く全国の皆さまに寄付をお願いすることにした次第です。

 いただいた寄付金は、電話相談員の方々への報酬・交通費(年約780万円)、フリーダイヤルの電話代(同120万円)、順天堂大学への医療相談委託料(約280万円)などの一助にするつもりです。目標額とした750万円では足りませんが、少しでも赤字を減らせればというのが狙いです。

 クラウドファンディングの詳細は以下をご覧ください。
 https://readyfor.jp/projects/ninchishou110

 公益法人ですので、寄付金については所得税、法人税の控除の対象になります(ただし、領収書の発行は来年4月なので、今年の確定申告には間に合いません)。これも詳細は同上のウェブサイトをご覧ください。

 皆さまからのご支援とともに、皆さまのお付き合いの中で関心のありそうな方に情報をお知らせいただければありがたいです。

 なにとぞよろしくお願いいたします。

公益財団法人 認知症予防財団
100-8051東京都千代田区一ツ橋1-1-1
パレスサイドビル3階
03-3216-4409
https://www.mainichi.co.jp/ninchishou/
問い合わせは

2021年10月29日

元印刷部長・山野井孝有さんの長男泰史さんがピオレドール生涯功労賞を受賞

 「ソロ・クライマー」として、世界の登山界から高く評価されている山野井泰史さん(56)が、第13回ピオレドール生涯功労賞を受賞することになりました。

 以下のニュースをご覧ください。

 昨日朝、登山家の寺沢玲子さんからメールで知らされ、出勤途中の電車内で読み、代々木についたらすぐに山野井孝有さんから電話がありました。「親バカだが……」と言っていましたが、相当うれしそうでした。泰史さんには、「来春90歳を迎える父上に対する最高の贈り物ですね」と、お祝いのメールを送りました。

福島 清

 以下はCLIMBING-NETからの引用です。
 https://www.climbing-net.com/news/yamanoiyasushi_211027/

韓国・トボンサンの岩場にて(写真=萩原浩司)

 フランスのピオレドール事務局は10月27日、日本の山野井泰史に第13回ピオレドール生涯功労賞を贈ることを発表した。

 ピオレドール生涯功労賞(Lifetime Achievement Award)とは、長年にわたってアルパインクライミングの世界で活躍し、その実績と精神が次世代のクライマーに大きな影響を与えてきた者に対して贈られる賞である。

 2009年に創設された同賞の最初の受賞者はワルテル・ボナッティ。2年目はラインホルト・メスナー、3年目はダグ・スコット。以下、ロベール・パラゴ、クルト・ディームベルガー、ジョン・ロスケリー、クリス・ボニントン、ヴォイテク・クルティカ、ジェフ・ロー、アンドレイ・シュトレムフェリ、クシストフ・ヴィエリツキ、そして昨年受賞したカトリーヌ・デスティベルと続く。これら12人の顔ぶれを見ても、クライミング界の錚々たるレジェンドたちがこの賞を受賞してきたことがわかるだろう。

 今回、13人目の栄誉を受けることになった山野井は、1988年のバフィン島トール西壁単独初登攀、1990年のフィッツ・ロイ南西稜冬期単独初登攀、1994年のチョ・オユー南西壁新ルート単独登攀等の輝かしい登攀記録とともに、2002年のギャチュン・カン北壁登攀時に凍傷で10本の指を失ってからも精力的に登り続け、世界の高峰に、あるいは高難度のクライミングルートに挑み続ける姿勢が多くのクライマーたちに刺激を与え続けてきた。

 それは日本国内のみならず、お隣・韓国のクライマーたちにも強い影響を与えてきたのだが、今回の受賞を機に彼の業績とその精神がより多くの国の人々に認知されていくことだろう。

 ピオレドール受賞式典は11月26日からフランスのブリアンソンで開催される。

 詳報は本サイトと『ROCK&SNOW』094号で掲載する予定である。

《日テレニュース24》

 “登山界の最高の栄誉”と言われ、優れた登山家に贈られる国際的なピオレドール賞の生涯功労賞に日本の山野井泰史さんが選ばれました。 ピオレドール賞の生涯功労賞は長年にわたり登山界で活躍し、その実績と精神が次世代のクライマーに大きな影響を与えた人に贈られるもので、山野井さんは日本人として初めて選ばれました。 山野井さんは、ヒマラヤなどの高所で岩壁や氷壁をよじ登るアルパインクライマーとして活躍し、一人で山頂をめざすソロのスタイルで世界の難所を制覇してきました。 2002年、ヒマラヤのギャチュン・カン北壁に登頂した際、凍傷で手と足の指をあわせて10本失いましたが、その後も精力的に登り続けています。 フランスのピオレドール事務局は選考理由について、山野井さんのクライミングは、「創造性と献身性、そして立ち直る力を示し、若い世代が現代のアルパインスタイルで活躍する道をひらいた」として、影響力を高く評価しました。

2021年10月25日

「旧石器遺跡発掘捏造」報道が、ネット上の「FRONTLINE PRESS 調査報道アーカイブス」(10月23日)に

世紀のスクープ「旧石器遺跡発掘捏造」報道の舞台裏
「旧石器遺跡発掘捏造」報道 毎日新聞(2000年11月)
{ 調査報道アーカイブス No.23}

 平成以降、日本で最もインパクトのあった調査報道は? そう質問されると、毎日新聞の「旧石器遺跡発掘捏造」報道を挙げるメディア関係者は、相当数に達するだろう。

 日本の考古学研究では、前期・中期の旧石器時代は存在しないとされてきた。ところが、その存在を証明する証拠とされた遺物(石器)が1970年代から相次いて発掘された。手掛けたのはアマチュア考古学者の男性。「ゴッドハンド」の異名を持つ彼は、宮城県の座散乱木遺跡、高森遺跡、馬場檀A遺跡、上高森遺跡などで次々と発掘に携わった。その都度、旧石器発見という「大きな成果」が付いて回った。日本人の暮らしの痕跡は、そうした発掘のたびに、より古い時代へとさかのぼり、教科書の記述も次々と更新された。

 これを根底からひっくり返したのが、2000年11月5日の毎日新聞朝刊だった。その後も続いたスクープ報道によると、アマチュア考古学者は旧石器時代とされる遺跡での発掘が始まる前、密かに現場に行き、時代が全く異なる縄文時代の石器を地中に埋め込んだ。そして大勢の関係者が集合して行う発掘の本番作業で、見事に石器を掘り当て、「旧石器時代の石器を発見だ」と成果を誇ったのである。衆人環視下での発掘だから、それを疑う者はまずいなかったのだろう。結局、このアマチュア考古学者による前期・中期旧石器の発掘・発見劇のほとんどは、自作自演の捏造だったことが判明した。

◆世紀のスクープはこうして生まれた

 「世紀のスクープ」とされた調査報道の取材は、毎日新聞北海道支社報道部の記者たちが担った。きっかけはその年の8月25日、北海道の東端・根室通信部の記者から報道部長へのメールだった。「1面トップになるかもしれないネタですが」というタイトルで、「あのアマチュア考古学者による旧石器発掘はインチキ。次々と歴史を振り返るような発見はおかしい。近く道内の新十津川町の遺跡でも発掘するようだから取材したほうがいい」という趣旨である。

 報道部長の肝いりで取材班が結成された。事前に石器を埋める場面を取材するにしても、どうやって動かぬ証拠をつかむか。写真を撮っても、本人に確認取材する必要がある。その際に言い逃れされるかもしれない。それなら、一部始終を動画で撮影したほうがいい。でも、埋める作業が夜間に行われたらどうするのか。そんなカメラがあるのか……。最終的には、決して安くはない赤外線式ビデオカメラを準備した。

 新十津川町は札幌から車で2時間足らずの場所にある。発掘対象は「総進不動坂遺跡」である。

 取材班は8月31日の夜から現場での張り込みを始めた。周囲の状況などから、アマチュア考古学者が来るとしたら午前2時頃だろうと目星を付けたのである。その日は何もなかった。9月の1日も2日も動きはない。現場に近づきすぎてバレたら元も子もない。そうして待ち続けた5日早朝、誰もいない発掘現場で不審な動きを繰り返すアマチュア考古学者の姿を確認した。ところが、動画撮影に失敗してまった。撮影できたのは不鮮明なスチール写真1枚だけだった。

 それでも取材班はめげない。今度は10月、宮城県の上高森遺跡の発掘現場に向かった。雑木林に身を隠し、再び、アマチュア考古学者が現れるのを待つ。そしてついに、彼が石器をあらかじめ地中に埋める自作自演の決定的瞬間をビデオに収めることに成功した。その5日後、アマチュア考古学者が所属する「東北旧石器文化研究所」は、まさにその石器を新たな発見として発表した。

 スクープが紙面を飾る前日の11月4日、取材班キャップは仙台市内のホテルの一室でアマチュア考古学者にビデオ映像を見せ、事実関係はどうかと尋ねた。ビデオの画面には、上高森遺跡で穴を掘り、石器らしいものを埋める本人の姿が映っている10分ほど沈黙した後「魔がさした」と、ねつ造の事実を認めた。

 この報告を受けた11月5日付朝刊は、1面に「旧石器発掘ねつ造」の大きな横見出しを掲げ、アマチュア考古学者が石器を埋めている決定的な写真3枚を載せた。2面と3面、社会面は見開き。写真14枚を使った特集面まで制作し、「世紀のスクープ」を量でも支えた。

 その後は新聞・テレビが入り乱れての報道合戦となり、歴史学者などからは「人類史研究の汚点」といった厳しい声が続出した。

 最終的には、このアマチュア考古学者が関わった遺跡の石器は、すべて自作自演の末の発掘だったことが判明する。文化庁は全国の遺跡を調査。前期旧石器時代の研究は根底から見直しを迫られ、高校の日本史教科書では、2001年4月から上高森遺跡の記述がすべて消えた。多くの遺跡が旧石器時代の埋蔵文化財遺跡としての認定・登録を取り消された。日本考古学協会も後に「長くこの犯行を見逃してきた点に忸怩たる思いがある」と振り返った。

◆「隠し撮り」は適切だったかの議論も

 この調査報道をめぐっては、読者や一部の有識者などが取材手法に疑問を投げかけた。深夜・早朝に張り込んで、密かに動画や写真を撮影する行為は「隠し撮り」であり、プライバシーの侵害ではないか、という疑問だ。

 一報から間もない2000年12月5日に掲載された毎日新聞の「開かれた新聞」委員会の報告によると、「隠し撮りは卑劣だ」「本人に承諾なしで盗撮はよくない」「毎日新聞の取材方法はスパイの探知方法そのもの」「家族や関係者が受ける苦痛を思うと、写真掲載は拷問(=人権侵害)だ」といった苦情や批判が寄せられたという。

 これに対し、編集局次長は同じ紙面で「取材に際しては不法などと批判されない方法を採用しました」と指摘。そのうえで「社会の正当な関心事とは言えない事柄について私的空間などで盗撮をして問題になるようなケースとは全く異なります」「写真を多用して報道することにしたのは、そこに撮られた様子がまさに人類史を『ねつ造』した歴史的瞬間と位置付けられるべきものと判断したからです」とし、公益性の観点からも適切だったと結論付けている。実際、関係機関や多くの読者は一連の報道を高く評価していた。

※筆者は、ジャーナリスト、フリー記者、本間 誠也さん。新潟県生まれ。北海道新聞記者を経て、フリー記者に。原文は、調査報道アーカイブス
※この事件の取材については、NHK・BSプレミアム『アナザーストーリーズ』が2020年9月15日、スクープの顛末を取り上げた機会に、取材班キャップだった山田寿彦・元北海道支社報道部副部長にレポートを書いていただきました(2020年9月21日、トピックス)。

2021年10月13日

「新聞革命」の記憶——国会図書館で閲覧できます

秋山哲さん

オンデマンド出版『「新聞革命」の記憶』

 ——『「新聞革命」の記憶』はすでに国会図書館で公開されているようです。おついでの時に眺めてみてください。秋山哲

 元東京本社代表・秋山哲さん(57年入社)からメールが届いた。

 「読んでみたいけど、オンデマンド出版、実費4267円(送料込み)は高い」とメールをしていたのか。

 早速、国会図書館で読んできた。「新聞革命」をうたって題字を現在のインテリジェントブルーに変えたのは、1991(平成3)年11月5日の朝刊だった。

 「毎日新聞」の題字は、1943(昭和18)年1月1日から「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」を一本化したもので、題字を変えたのは48年ぶりだった。

  同時に1ページ15段だった紙面を14段にして、二つ折りにしたとき真ん中に活字がかからないようにした。「腹切り紙面」と整理本部からは悪評ふんぷんだったが、読者からは「読みやすくなった」と好評だった。

 当時、企業の広報担当者用に出版されていた雑誌に私が書いたものが残っている。「素晴らしい紙面に変わりました。とにかく読みやすい。題字もすっきりしている」(当時多摩大経営情報学部長・中村秀一郎氏)。毎日新聞OBの評価は厳しく「題字が安っぽくなった感じで、もうひとつしっくりこない」(経済評論家・田中洋之助氏)。

 毎日経済人賞の最終審査会(委員長は江藤淳氏)が始まる前の雑談で出た話である。

 朝日新聞はメディア欄で取り上げた。

 「新聞革命」とレイアウト学/タブーに逆手 毎日新聞の挑戦

 競争各紙はとりあえず“勇気”に敬服

 「題字変更や腹切りなど、思い切ったことをやったと思う。敬意を表したい。今後これが定着するかどうかは読者次第。注目している」(朝日新聞整理部長)

 「実験だと思う。われわれには勇気がなくてできなかったことをしている。読者がどう受け止めているのか、大いに関心がある」(読売新聞広報室長)

 辛口の意見も紹介しておく。「(紙面改革といっても)いい記事がなければ何の意味もない。そのためには、いい記者がいなければどうにもならない」「そのことを忘れてしまっての刷新は、読者にはなにほどのこともなく、他社から恐れられるものでもない。もっと記者にかかわること、記事の内容を中心とした第二、第三の刷新を期待している」

 これは元大阪読売新聞社会部長の黒田清氏(月刊「宝石」1992年1月号)。

 秋山さんは『「新聞革命」の記憶—MAP30周年を迎えて』(秋山哲編著、2021年3月刊)巻頭に「MAP運動を振り返って」を9ページにわたって綴っている。1988年7月大阪本社編集局長から経営企画室長に異動になって、「新聞革命」に取り組んだ。丸3年かかったことになる。

 高邁な理念は本を読んでいただくことにして、社員の意識改革のために「MAP NEWS」を発行した。その第6号で、「新聞は商品である」と説いた第5代社長・本山彦一を8ページ丸ごと特集している。福沢諭吉が創刊した「時事新報」で総編集のあと会計局長を務めた。新聞社の編集も経理も知悉していた。「藤田組」支配人のまま「大阪毎日新聞」の経営に参画し、社長となって、明治末に「東京日日新聞」を吸収合併して全国紙体制を整えた。

 「MAP NEWS」に当時MAP実施本部長の平野裕さん(90歳)と、秋山さんの前任の経営企画室長・森浩一さん(86歳)が見開きで載っていた。平野さんは東京毎友会の前会長で、このHP創設者である。森さんは東京本社社会部長を戦後最長の4年10か月、スポニチ社長・会長でも活躍した。

 最後に、秋山さん(ことし87歳)は、オンデマンド出版で小説家デビューをしている。ペンネーム檜節郎。本の題名は『耳順居日記』。税込み2,200円、アマゾンで発売中だ。

(堤  哲)

2021年10月7日

おめでとう! 新聞協会賞受賞・貝塚太一カメラマン

 写真「防護服超しの再会」が2021年度日本新聞協会賞——と7日朝刊1面にあった。どこかで見た写真だと思ったら、スマホに残っていた。昨年暮れの日本橋三越本店で開かれた報道写真展で撮ったのだ。

 「『ぬくもりは届く』~新型コロナ 防護服越しの再会~」

 「宇宙服のような防護服の一見ユーモラスな構図の中に、触れ合いを求める人々の切実な願いを写し出した。コロナ禍が続いた1年を象徴し、読者の大きな共感を呼んだ」と日本新聞協会。毎日新聞の受賞は6年連続33件目で最多記録である。

 中面の特集で、撮影した貝塚太一記者(44歳)=北海道報道部写真グループ=が撮影の経緯を明かしている。

 ——2020年。北海道は全国でいち早く新型コロナの感染が拡大した。休校や外出自粛で閑散とする繁華街、マスクを買い求める人たち、変わっていく生活スタイル……。見えないウイルスと闘う今を、写真でどう表現できるか。

新聞協会賞に輝いた毎日新聞の写真報道

2020報道写真展のポスター

 9月中旬、東京本社写真映像報道センターの竹内紀臣(きみ)記者から「空気感染や飛沫感染を防ぐ新しい防護服の初納入が、札幌の老人ホームになる予定です」と連絡があった。竹内記者はテレビ番組で大型テントなどを製造する大阪の企業が宇宙服のような防護服の開発を進めているのを知り、土曜日夕刊の1面写真企画「読む写真」の題材にならないかと交渉していた。

 一方の私は、北海道内で「会えない家族」をテーマにした写真を撮りたいと医療機関や葬儀社に掛け合っていたが、難航していた。竹内記者がコロナ禍で東京から移動しづらかったこともあり、私が引き継ぐ形になった。

 メーカーや購入した介護付き有料老人ホームの了承を取り付け、約1カ月後の10月29日、施設を訪れた。部屋に入る前、同行取材を許可してくれた箕浦尚美さん(63)から、入居する母の中島万里子さん(90)のことを聞かせてもらった。

 貝塚記者は続ける。——部屋に入った瞬間、箕浦さんは両手を広げて駆け寄り、母を抱き締めた。衝動的に「抱き合う」という場面は見たことがなかった。

 「一枚の写真で世界を変えたい」。教師志望だった私は大学4年生の時、ある写真展で戦時下の国の子どもを撮った写真に衝撃を受け、報道カメラマンを志した。あれから20年になる。

 おめでとう、貝塚記者。

(堤  哲)

2021年10月6日

パレスサイドビル、55年たっても存在感を増す傑作

東京五輪開幕1000日前イベントで万国旗を掲げたパレスサイドビルと原敏郎社長=2017年10月撮影

 パレスサイドビルが10月、開館55周年を迎えた。オフィスビルとして唯一「モダニズム(近代主義)建築20選」に選ばれるなど、「モダニズム建築の傑作」としての評価は定まっているが、歳月を重ねるにつれて評価が一段と高まっているのを実感している。古くて新しいビル。決してレトロではないことは、周囲に新しいビルが建っても、その意匠の斬新さがまったく色褪せないのを見てもわかる。ますます存在感を増していくこのビルの近況を報告したい。

 社長に就任した2017年6月、まず驚いたのはパレスサイドビルに対する取材の多さである。雑誌や書籍を中心に、テレビ、ラジオなど、メディアでの露出は3年間で20件を超えた。そしてそれに付いた「見出し」はというと、以下の通りである。

 「クイーン・オブ・ビル」「日本一美しいビル」「日本のオフィスビルの至宝」「戦後建築で5本の指に入る傑作」「(世界に)自信を持って送り出せる日本代表がこのビル」……。

 ビル関係者としては面映ゆくもあるが、日本を代表する建築家の安藤忠雄さんは2018年2月、竹橋に立ち寄った際に「今でも全く色褪せない魅力を持った近代建築の名作中の名作だと、改めて実感した」というコメントとともに、外観のスケッチを新聞社に寄せた。また同じ建築家・隈研吾さんも2017年の新聞インタビューで、幼いころに父親に連れられて多くの建物を見たことが建築家を志すきっかけになったと振り返り「中でも毎日新聞社が入っているパレスサイドビルは印象的だった。『オフィスビルなのに、こんなにかっこいいんだ』と感動した。今見てもかっこいい」と答えている。

 建築の専門家以外でも、足を運んでいただいた著名人は多い。人気アイドルグループ「嵐」の櫻井翔さんは月刊誌の連載コラムで訪れ、玄関などで撮った写真が紙面を飾った。写真界の巨匠、篠山紀信さんはビルの館内や屋上を会場にして、高級ブランドを身にまとったモデルを激写。これを月刊誌に22ページにわたり発表し、ビルの魅力を伝えてくれた。「ビルのどの場所も洗練され、しかも個性がある。写真家として『オイシイ!』という感じだよ」とは、篠山さんのコメントである。

 東工大、東京理科大、早大、日本大、日本建築学会などの大学・団体のビル見学も引きも切らない。ビルを設計した日建設計の林昌二さんの母校・東工大からは毎年春、約150人もの新入生が訪れるため、受け入れるビル社員は1日がかりの大仕事になる。屋上などを使った映画やテレビドラマ、CMの撮影なども多く、テレビを観ていて「あっ、パレスサイドだ!」と気づくことも多い。

 林昌二さんはパレスサイドビルを「100年ビル」というコンセプトでデザインした。それは外観だけでなく内部の構造からも窺うことができる。55年はまだ半ばである。「100年間このままで」と切望する熱狂的なパレスサイドファンもいる。そんな声が伝わったのか、近くテレビ番組に「出演」することになった。NHK‐BSプレミアムが11月13日(土)午後10時から放映する「すこぶるアガるビル」(90分間)という特別番組。大学で建築を学んだお笑い芸人の田中卓志さん(アンガールズ)と、建物好きの俳優、青木崇高さんが専門家とともに都内のモダニズム建築を巡り、その魅力を伝える。パレスサイドビルは冒頭の約30分間登場し、建設・設計にかかわる裏話などが紹介される。ぜひご視聴をお願いしたい。

 パレスサイドビルは先輩方が支えてきた毎日新聞社のシンボルである。ビルとしての機能性・快適性の向上を追求し、誰もが認める高い意匠性を大切に守っていくことが私たちの使命であり責務であると、開館55年を迎え改めて肝に銘じている。

(株式会社毎日ビルディング  代表取締役社長 原 敏郎)

NHK-BSの特別番組が
パレスサイドビルを紹介します!

NHK-BSプレミアム 『すこぶるアガるビル』
放映日時:11月13日(土)22時~23時30分

大学で建築を学んだ田中卓志さん(アンガールズ)と、建物への関心が高い俳優の青木崇高さんが異色のタッグを組んだ紀行番組。東京オリンピックを境に、日本の街が大きな変貌を遂げる今だからこそ、20世紀に新しい都市と生活を創造したモダニズム建築の魅力を伝えます。

2021年10月5日

150年前「東京日日新聞」の印刷機を輸入した男

 10月5日朝刊地域面の連載「渋沢栄一を歩く」に、渋沢栄一とともにパリ万国博覧会(1867年)に参加した清水卯三郎(1829~1910年)が万博閉幕後、英国から米国に渡り、日本に持ち込んだ足踏み活版印刷機械は、東京日日新聞(現毎日新聞)の創刊に貢献した、とある。

 清水卯三郎は、パリ万博でニューヨークの会社が出品した足踏み印刷機に着目して、直ちに製造元に注文。それが明治5(1872)年に輸入された。「創刊当時の東京日日新聞を印刷したのはこの機械である」(『毎日新聞百年史』)。

 足で踏むことからfoot pressと呼ばれた印刷機は、最大22×15インチ(56×38センチ)の用紙を印刷できる。明治5年2月21日の創刊号から翌6年5月17日の第372号までは和紙を使っていて、大きさは横1尺5寸、縦1尺5分。実測で横45・8センチ~46・2センチ、縦31・2センチ~31・6センチ。「菊四截」だった。

 当時すでに発行されていた日刊「横浜毎日新聞」が現在の新聞のように縦型だったのに、「東京日日新聞」は横型だった。「本町一丁目瑞穂屋卯三郎」が輸入したフート印刷機に合わせ、紙の大きさ、つまり創刊する新聞の判型が決まった。

 記事に、《清水は輸入業「瑞穂屋」を浅草や日本橋で経営し、洋書や機材の輸入、自ら翻訳した西洋の専門書の出版を手がけた。特に歯科医学分野での寄与が大きく、1875(明治8)年に歯科治療用機材を米国から初めて日本に輸入販売したほか、歯科医学書も数多く翻訳出版した。

 同時に、文化の普及にも関心が高く、日本語から煩雑な漢字を廃し、ひらがなを使って国民全体の知識を向上させるべきだとする「ひらがな表記」を提唱。西洋文明啓蒙を目的に外交官で教育者の森有礼が福沢諭吉らと73(明治6)年に創立した日本初の学術団体「明六社」で会計を担当するなど、文明開化を先導した》

 『毎日新聞百年史』には、「清水は、明六社の会員、東京府議会の議員、商法会議所の議員になった」とある。

 2022年2月21日、毎日新聞は創刊150年を迎える。

(堤  哲)

2021年10月4日

旧京都支局1928ビルが朝日新聞で紹介されました!

朝日新聞10月2日夕刊

 10月2日朝日新聞夕刊3面「いいね!探訪記」に、旧毎日新聞京都支局「1928ビル」が紹介された。毎友会HP随筆集で元京都支局長・磯貝喜兵衛さんが取り上げたばかり。

 磯貝さんの寄稿に「五山の送り火の夜は、近所の方たちに屋上を解放し、ご馳走までふるまった」という美風は、現在も続いているそうです。

(堤  哲)

1928ビル(2016年撮影)
住所は「三条通御幸町通角」

2021年10月1日

季刊同人誌『人生八聲』28巻に 7年間継続

 元主筆、木戸湊さんが提唱して、毎日新聞OBを中心に2015年正月から刊行を続けてきた同人誌『人生八聲』が、10月1日発行の28巻秋季号を迎えました。東京五輪・パラリンピックまで、という当初の目標を達成し、〝公式〟には、満7年の今回で幕を閉じることにします。この間、同人6人が鬼籍に入り、社会部旧友、小林弘忠さんと園木宏志さんともお別れしました。

 ただ、「まだ書き残したことがある」「切りがいい30巻まで続けたい」という同人の意見もあり、29巻(2022年1月)、30巻(4月)まで有志で発行します。

 主宰の木戸湊さんは、脳梗塞により平塚市の病院で闘病中です。28巻には、兄洸さんが「弟」と題して感謝の短文を寄せられました。元大阪運動部の長岡民男さんが1964年東京五輪の取材の思い出を寄稿し、その中で木戸さんに触れた部分がありますので、お二人の原稿を抜粋して再録します。

 「弟」(一部略)

 『人生八聲』の皆様方には大変お世話になりました。心より厚くお礼申し上げます。

 湊の状態はあまり変わることなく日々が過ぎております。弟の妻、ゆたかも少しでも回復をと願い、懸命に努めております。コロナ禍で直接会えない昨今ですが、仕切り窓の向こうより、手招きして応えているそうです。

 『人生八聲』も皆様のお陰で最終号まで発行して頂けました。感謝の気持でいっぱいです。

 コロナ、ワクチン接種がすすめられていますが終息までには未だ時間がかかりそうです。

 皆様方のご健康を心よりお祈り申し上げます。

 誠にありがとうございました。

二〇二一年八月  木戸 湊の兄 洸

 新幹線初乗り記   長岡 民男

 (略)東京オリンピックといえば、五七年前の一九六四年、国をあげての大歓声に包まれたアジアで初めてのビッグイベントを忘れることが出来ない。長い記者生活の中で、あの体験は体の隅々までしみ渡っている。毎日新聞社は北海道から九州まで四本社の外勤部門、支局、通信部を総動員した四百人を超える陣容にスポーツニッポンの協力まで得て、世紀の報道にあたった(中略)。

 東京の宿舎はメイン会場の国立競技場に近い千駄ヶ谷の将棋会館。夏を越し開幕が近付くと、各地から記者たちが続々と集まって来た。その中に今では「人生八聲」になくてはならない人がいた。和歌山支局から来た木戸湊さんだ。

 将棋会館は将来の「名人」を夢見る若い棋士たちの修練の場である。何かと彼らのお世話になりながら国立競技場へ通った。ある日、表道路で木戸さんが一人の少年棋士とキャッチボールを楽しんでいた。そうだ。木戸さんは甲子園目指した高校球児だったんだなあ(以下略)。

 28巻に寄稿している毎日新聞OBは以下の通りです(敬称略、原稿到着順)。

 朝野 富三、高尾 義彦、斎藤 清明、さぎさか れん(本名山藤 廉)、長岡 民男、北畠 霞、高谷 尚志、吉川 泰雄、勝又 啓二郎、仁科 邦男

2021年9月30日

岸田新総裁誕生で元毎日新聞・田巻一彦さんが辛口コラム

田巻一彦さん

 ロイター通信シニアエディター田巻一彦さん(62歳)のコラムがFacebookにアップされた。

 田巻さんは、都立白鴎高→慶大法卒→84年毎日新聞入社。千葉支局→東京本社経済部→94年1月ロイター入社。日本語ニュース副編集長、コラムニスト、日本語ニュースエディターを経て2020年10月からシニアエディター。

 コラムのタイトルは「岸田新総裁を待ち受ける総選挙と市場評価、問われる発信力」。

 [東京 29日 ロイター] 自民党総裁選を勝ち抜いて次の首相の座を確実にした岸田文雄前政調会長には、国民の審判を仰ぐ衆院選が待ち受ける。地方票で2位に甘んじて議員票で逆転した「ねじれ」の結果は、衆院選勝利が「低いハードル」ではないことを示している。また、28日に起きた米長期金利上昇を起点にした世界的株安は、企業や消費者の心理を冷え込ませかねない存在として浮上した。

 9月29日、自民党総裁選を勝ち抜いて次の首相の座を確実にした岸田文雄前政調会長には、国民の審判を仰ぐ衆院選が待ち受ける。

 この2つの関門を無事に通過するには、岸田氏が示した政権公約の中で何が最も優先される項目かはっきり打ち出す強いメッセージ力が不可欠だ。安倍晋三元首相が持っていたような発信力を発揮できるのか、いきなり試される場面に直面している。

<地方票と議員票のねじれ>

 自民党の名門派閥・宏池会の会長が首相に就任するのは、宮沢喜一元首相が退陣した1993年以来、28年ぶりとなる。首相の有力候補と目されながら昨年の総裁選で敗れた岸田氏の胸中には、抑えがたい感慨が沸き上がっているに違いない。だが、新総裁就任の喜びも、これから待ち受けるハードルを考えると急に冷めるかもしれない。

 待ち受ける1つ目のハードルは、11月とみられている衆院選だ。菅義偉首相の辞任表明後、自民党総裁選をめぐる国内メディアの連日の報道に後押しされ、自民党の注目度は急上昇し、各種の世論調査でも支持率が急回復している。

 このため岸田新総裁での衆院選は楽勝との声が、この日の総裁選投票前から同党内でささやかれていた。だが、事態はそれほど楽観できるのだろうか。

 まず、象徴的なのは1回目の投票結果だ。地方票の獲得率は岸田氏が29%と河野太郎行革担当相の44%の後塵を拝した。地方票は河野氏の169票に対し、岸田氏は110票だった。これを議員票でひっくり返し、河野氏の86票に対して146票を獲得した。地方票と議員票の「ねじれ」現象が明確に出たと言える。

 地方票は、全有権者の世論の動向を映し出す鏡に近い働きがあると政治学の専門家は指摘している。つまり、世論がより支持するだろうとみられていた河野氏ではなく、岸田氏が総裁になって衆院選に勝てるのか、という問題があるということだ。

 実際、29日の東京株式市場の午後の取引では、いったん買い戻されていた日経平均が1回目の投票結果判明後に下げ幅を拡大。結果に反応したとの見方が市場の一部で聞かれた。「岸田氏では、衆院選で勝ったとしても僅差になり、その後の政権基盤が不安定になるリスクを感じた」(国内証券)との声も出ていた。

<株安長期化なら、企業・個人の心理に冷水>

 また、総裁選前日の28日のニューヨーク市場で、米国のインフレ懸念と米連邦準備理事会(FRB)の政策修正が後手に回るのではないかという「ビハインドザカーブ」への危惧から米長期金利が急上昇。米株が急落したことで29日の日本株も大幅下落となった。

 当初、菅政権から新政権への移行を材料に、日経平均は3万2000円台を回復し、年末には一段高になるとの「株高シナリオ」が、国内市場関係者の一部でささやかれていた。だが、このシナリオは今回の世界的株安でとん挫した格好だ。

 岸田氏にとって、この株安現象は「一時的な調整」と言って放置していたら危険な展開になりかねない「爆弾」になる可能性がある。今回の米長期金利の上昇は、FRB幹部が指摘してきた「一過性」の可能性が低下し、金利上昇と株安が長期化するシグナルである公算が大きいからだ。

 新政権発足の出はなをくじくような株安が長期化すれば、企業の投資マインドを冷え込ますだけでなく、国内総生産(GDP)の6割近くを占める個人消費の復調をさえぎり、衆院選にも悪材料になりかねない。

<強いメッセージと政策優先順位の明示>

 この2つの難関を突破するには、岸田新政権が何を最優先の政策として掲げ、どの公約を短期間に実施していくかと具体的に示すことが必要だ。

 岸田氏は総裁選に当たり、新型コロナウイルス対策では「医療難民ゼロ」、「ステイホーム可能な経済対策」、「電子的ワクチン接種証明の活用と検査の無料化・拡充」、「感染症有事対応の抜本的強化」の4つを掲げた。

 また、令和版「所得倍増計画」や「健康危機管理庁」の創設、数十兆円の経済対策も主張した。

 いったい、どれから手を付けて、何を最優先に実行するのか。中長期的にどのような国づくりを目指しているのか。それが、国民の目からみてはっきり分かるような岸田氏自身の言葉による強いメッセージが必要だと指摘したい。

 安倍元首相のアベノミクスには、多くの批判があるものの、停滞した日本を変えるという強いメッセージがあった。それが、国内では多くの有権者の支持を受けて衆参の選挙で連勝し、海外勢の注目を集めて日本株の上昇につながった。

 岸田流の強い「発信力」を発揮することができるのかどうか。筆者は、米政権のような「100日間で達成できる目標」を掲げ、「日本は変わる」というイメージを強く打ち出してほしいと思う。

 だが、発信力を発揮できず、党役員人事や組閣で総裁選の論功行賞と思われる起用が目に付いた場合、世論調査の支持率や株価で低い評価が示される危険性も残されている。

 さらに来年7月には参院選が控えている。半数改選の対象になる前々回の選挙では安倍ブームで大勝した自民党だが、実績を残せなければ、単独過半数の確保に黄信号が点灯しかねない。岸田氏の真剣勝負は、すでに始まっている。

2021年9月27日

大毎野球団も紹介されています―野球伝来150年記念展



 野球伝来150年記念展「第1期 1872-1945 ベースボールがやってきた」が東京ドームにある野球殿堂博物館企画展示室で開かれている。12月9日(木)まで。

 覗いて見ると、毎日新聞関連が目につく。まず大毎野球団。

 大毎野球団は1920(大正9)年5月に結成された。初代監督は阿部真之助(元NHK会長)。6月には京都支局長に転任しているから監督はわずかな間だ。その後大毎社会部長、東京に転勤して整理部長、政治部長、学芸部長、編集局主幹を歴任した。学芸部長時代に菊池寬、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一、高田保、木村毅らを社友・顧問として迎えた。1937(昭和12)年に将棋の名人戦を始めた。44年60歳で退職。

 2代目監督は社会部の木造龍蔵(当時37歳)。展示パネルの写真は1925(大正14)年アメリカ遠征をした際、ホワイトハウスにカルビン・クーリッジ大統領を表敬したあと撮影したものだが、右から9人目が監督の木造だ。その左は総監督でのちに社長になった奥村信太郎。その右はキャプテン腰本寿。

 腰本は、慶應義塾大学の監督に招かれ、28(昭和3)年東京六大学秋のリーグ戦で10戦10勝の全勝優勝。その記念に慶大の青と赤のストッキングに白線1本を入れた。15シーズンに7回優勝した名将。67年野球殿堂入り。

 その下のウイニングボールは、小野三千麿投手(写真の左から3人目)の収蔵品だが、大毎野球団が日本の「最強チーム」になったのは、慶大のエース小野が21(大正10)年4月に入社してからだ。身長1㍍77、体重75㌔。「重さと速さと、コントロールの三拍子揃った小野のタマは、振って当たらず、当たって飛ばず」といわれた。米大リーグ相手に初勝利の記録を持つ。59(昭和34)年最初に野球殿堂入りした9人の1人。

橋戸頑鉄のブロンズ像
頑鉄が小杉未醒(放庵)にデザインしてもらった初代優勝旗

 都市対抗野球大会生みの親・橋戸頑鉄のブロンズ像も飾られていた。ガラスケース入りで、反射して見ずらいのは勘弁していただくとして、頑鉄も野球殿堂入り第1号だ。

 1903(明治36)年第1回早慶戦の時の早大キャプテン。05年の早大アメリカ遠征でもキャプテンを務め、帰国後『最新野球術』(博文館1905年刊)を出版した。

 万朝報→大阪朝日新聞→大正日日新聞→東京日日新聞と渡り歩くが、大阪朝日新聞には1915年(大正4年)8月の第1回全国中等学校優勝野球大会終了後に、キチンとした大会規則をつくるために招聘された。東京日日新聞からは、明治神宮外苑の野球場新設に伴い、それにふさわしい野球大会の創設を頼まれた。

 都市対抗野球大会は1927(昭和2)年に第1回大会を開いた。最高殊勲選手賞「橋戸賞」は、頑鉄が58歳で亡くなった36(昭和11)年の第10回大会に創設された。

 写真の初代優勝旗は、この展覧会とは別に飾られていた。

(堤  哲)

2021年9月27日

「歴史の検証から閉ざされた裁判記録 保存・閲覧のためのルール整備を」と  青島 顕記者が、朝日新聞社の月刊誌「Journalism」に寄稿

青島顕記者

 ライバル社の雑誌で少し気が引けましたが、朝日新聞社の月刊誌「Journalism」9月号に寄稿しました。刑事裁判記録の公開を求める硬いテーマですが、中身はそうでもありません。

 5年前の2016年2月のことです。経済部長を務めたOBの佐々木宏人さんから「治安維持法で捕まった人に会うのだけど、一緒に行きませんか」と声を掛けられました。新潟県上越市に住む90歳過ぎの女性だと言います。私は治安維持法に格別の   関心のない意識の低い記者ですが、これを逃したら聞くことのできない話だろうと考えて、同行させてもらうことにしました。

 2月の上越なのに、晴れて暖かい日でした。つえをついて現れた小柄な女性は、カトリックの信者でした。戦時中、オルガンの音色にひかれて教会を訪れ洗礼を受けたという彼女は、1944年4月に突然、特高警察に捕まります。不潔な留置場を転々としながらの生活、取り調べの刑事にだまされて供述調書を取られ、思わず鉛筆をなげつけたこと。さらには赤とんぼが飛ぶ頃に未決のまま新潟市の刑務所に移されたところ、ドイツ人神父と2人の女性信徒がいることに気付いたこと。さらに怖い顔をした所長から「キリストなんて男のことは忘れて天皇陛下の赤子になれ」と言われたことなどを話してくれました。

 翌年春ごろに保釈された女性は、戦争終結後に呼び出されて裁判を受けたこと。形式的だったことや、裁判記録を見た覚えがないことなどを話してくれて、それが印象に残りました。

 いちおう記事にはしたのですが、裁判記録は残っていないのかが気になりました。刑事裁判記録は確定すると一審のあった検察庁に保管されます。そこで、新潟地検に問い合わせてみたところ、この女性のものはすぐ見つからず、共犯に問われた女性の裁判書(判決文)が倉庫にあるけれど、「誰にも見せられない」と言われました。

 刑事裁判記録は法律で定められた保管期間が過ぎると、特に重要なものは保存されますが、それ以外の記録の扱いは検察に任されるのです。 この事件の1人の女性の判決文は、廃棄されず内部資料として残っていたというのです。判決を受けた女性は20年ほど前に亡くなっていたので、妹に連絡を取って、だめもとで閲覧請求書を作り、それを検察庁に送ったところ、閲覧が可能になったという話です。

 この妹さんは戦後の小学校で、「スパイの家族」としていじめられた経験がありました。だから「我が家の名誉の問題」として、姉の問われた「罪」の中身を知りたかったのです。

 閲覧できた治安維持法違反の有罪を認定する判決文には「天照大神をアダムとエバの子孫だと言い、皇室の尊厳を冒瀆した」といったことが書いてあったそうです。名誉は回復されたけれど、妹は「ほんとにこんなことが罪になるのか」と力が抜けたようでした。

 この妹さんにとって、閲覧できたことは、よかったのですが、当事者の人生を左右する裁判記録が検察の内部資料になり、「誰にも見せられない」状態になっているのは問題だと考えました。しかも、情に訴えたら、だめなものが見られたりするのです。こんな恣意的な管理でよいのでしょうか。

 これを受けて取材したり、考察したりしたことを6ページ使って論考しています。朝日新聞社の「Journalism」9月号は大きな書店でしか扱っていないものですが、アマゾンでも買えます。朝日を取っている方は販売店からも取り寄せられます。よろしかったらお手にとって読んでいただけますとうれしいです。大事な話だと思っています。どうかよろしくお願いします。

(東京社会部・青島顕)

※青島顕(あおしま・けん)さんは、1991年入社。西部本社整理部、佐賀支局、福岡総局を経て2003年に東京社会部。水戸支局次長、内部監査室委員の後、11年から再び社会部。「記者の目」(2021年9月23日)に「戦争体験継承の壁 個人情報保護、運用は柔軟に」を執筆。メディア欄などを担当し、情報公開などをテーマに記者活動をしています。佐々木宏人さんのフェイスブックがきっかけで、寄稿を依頼しました。

《佐々木宏人さんのフェイスブックから》

 「佐々木さんの名前が今月号の『Journalism』(朝日新聞社発行)に出てますよ!」。当方の新聞記者時代のオーラルヒストリーを書いて下さっているメディア研究家・校條諭さんからメールが届いた。

 「へー」と思っているうちに筆者の毎日新聞社会部の青島顕記者から現物が送られてきた。どれどれと見ると、特集の「裁判を取り戻す」という中で、青島記者が「歴史の検証から閉ざされた裁判記録 保存・閲覧のためのルール整備を」という厳めしいタイトルで書いている。

 その冒頭に近い部分に確かに当方の名前が出てくる。

 「2016年2月、戦時中のカトリック教会について調べている勤務先のOBの佐々木宏人さんから声をかけられた。『治安維持法違反で捕まった人の話を聞きに行くけど、来ませんか』」。思い出した。二人で新潟県上越市のカトリック高田教会に出かけた時のことだ。当方がカトリック横浜教区の保土ヶ谷教会で、終戦3日後に射殺死体で発見された戸田帯刀教区長の事件を調べていた当時のこと。偶然、同教会主任司祭だったことのあるマリオ・カンドッチ神父と知り合い、終戦間際の頃、高田教会でドイツ人主任司祭と若い女性との「聖書研究会」のメンバー数人が不敬罪容疑で逮捕された事件を知った。そのうちの一人の当時20歳だった女性が90才を越えて生存しており、マリオ神父が手配して教会内で話を聞けることになった。

 「治安維持法で逮捕された人が生存している」という予想外の思いで、はやる心を押さえて戸田事件に興味を持ってくれていた青島君を誘って、新幹線で高田教会のある上越市まで行った日のことを思い出した。

 青島君はこのインタビューをきっかけに、この治安維持法逮捕事件に興味を持って調べを進めた。新潟地検に判決記録が残されていることを突き止めて、親族に見てもらうまでにこぎ着ける。しかし裁判記録については公開のシステムが決められておらず、地検とねばり強く交渉して実現させた。

 裁判記録が歴史の中での検証に耐えうるものになっていないことを問題視、キャンペーン原稿を書き続けている。

 当方の一昨年刊行した「封印された殉教」(上下巻フリープレス社刊)から、スピンオフした高田教会の治安維持法逮捕事件をきっかけとなった裁判資料の公開化問題、実現に向けて是非とも青島君に頑張ってほしい。

2021年9月18日

濁水かわら版111号 内閣支持率20%台の激流にのまれた菅(すが)総理

(中安 宏規)

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2021年 9月17日

第71期王将戦・挑戦者決定リーグが始まります。スポニチに注目!

 渡辺明王将(37)=名人、棋王との三冠=への挑戦権を争う第71期ALSOK杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の挑戦者決定リーグが23日の豊島将之竜王(31)=叡王含め二冠=―広瀬章人八段(34)戦で開幕する。

 11月下旬までの2カ月間で前期成績上位のシード4人と予選通過者3人の計7人で総当たり戦を行う。そのメンバーは——。

 ➀ 永瀬拓矢王座 ➁ 豊島将之竜王 ③ 羽生善治九段 ④ 広瀬章人八段 ⑤ 藤井聡太三冠、糸谷哲郎八段、近藤誠也七段

 注目は藤井聡太三冠(19)=王位、棋聖、叡王=だ。三冠達成が19歳1か月で、羽生九段の22歳3か月の最年少三冠記録を28年ぶりに大きく更新した。10月からの竜王戦7番勝負では、豊島竜王に挑む。年内に四冠達成もあり得る。

 棋王戦では3回戦で破れたため、この王将戦で渡辺二冠への挑戦権を得れば、今年度内に藤井三冠が五冠を達成する可能性は残っている。

 藤井三冠の王将戦・挑戦者決定リーグ戦の日程は、9月27日対糸谷哲郎八段、10月4日対広瀬章人八段が決まっている。

 スポーツ紙で唯一、将棋のビッグタイトル「王将戦」を主催するスポニチ。2020-2021年シーズンに節目の70期を迎え、王将戦記念誌「70年のあゆみ」を出版した。

記念誌『王将戦70年の歩み』
渡辺明王将(同時出版のオリジナルフォトブックから)

 それもクラウドファンディングで。目標200万円を掲げて昨年7月10日から募集を始めたが、469人から目標を遥かに超える756万円の応募があった。8月末には募集を終えている。将棋ブームが反映したのは間違いない。

将棋「王将戦」を独占掲載

 スポニチ1面トップでこう報じたのは、1977(昭和52)年5月7日だった。王将戦がスポニチ主催となったのは、第27期からである。それ以前は、1951年の第1期から毎日新聞が主催していたが、名人戦も毎日新聞主催に戻ることになって、王将戦は系列のスポニチが主催することになったのだ。名人戦は現在、毎日新聞と朝日新聞の共同主催になっている。

 今季、藤井三冠が挑戦者決定リーグ戦を勝ち抜いて、渡辺王将に挑戦するか、最大の話題である。

 ちなみにこれまでの王将は以下の通りだ(日本将棋連盟のHPから)。

(堤  哲)

2021年9月13日

物故社員の功績を称え、偲んで~大阪本社で中央追悼会、ネット中継も

 =大阪毎友会ホームページから

 第156回先覚記者ならびに第160回物故社員中央追悼会が2021年9月9日、毎日新聞オーバルホールで開催され、毎友会を代表して供花・焼香をしてきました。

 中央追悼会は、2年に一回、東京・大阪本社が交代で開催しているもので、今年は大阪が会場となりました。今年合祀されたのは、2019年8月1日から2021年7月31日までに亡くなられた方々で、全国で267柱、うち大阪は74柱でした。コロナ緊急事態宣言下のため、遺族、来賓の参列もしぼられ、約30人が、遺影の飾られた祭壇に手を合わせました。希望された遺族には、インターネットで中継もしていました。

 追悼法要は和宗総本山四天王寺館長らの読経の中、丸山昌宏・代表取締役社長を祭主にして執り行われました。丸山社長は、亡くなられた方々の功績や人となりを紹介した後、「来年2月の創刊150年を超えて、読者からいつまでも選ばれる毎日新聞でありたい」と追悼の辞を締めくくりました。社員総代の鳴神大平代表室長も「難しい世の中だからこそ、信頼されるメディアの伝統を守っていく」と決意を述べました。最後に、大阪でも長く経理部長を務めた故廣瀬剛さんのご遺族、千秋さんが「夫は毎日新聞ととともに生きられて、本当に幸せだったと思います」と遺族を代表して感謝の言葉を述べました。

(毎友会会長 渡会 文化)

2021年9月3日

元印刷部長、山野井孝有さん(89)が戦時中の「グライダー特攻」訓練語る―朝日新聞千葉版に掲載

 「幻のグライダー特攻」の見出しで、8月12日付け朝日新聞千葉版に、印刷部長だった山野井孝有さん(89)の第二次大戦中の体験が紹介されています。高等小学校2年生になったばかりの13歳だった1945年4月、「グライダー訓練に派遣する」と校長から告げられ、長野県・霧ヶ峰で軍の訓練を受けた。特攻隊の要員養成が目的だったとみられ、山野井さんはいま、戦争体験を伝えることの大切さをかみしめている。

2021年8月30日

元印刷部長の長男、登山家・山野井泰史さんがビッグコミックに登場

 単独かつ無酸素で岩壁に挑戦する登山家として世界に知られている山野井泰史さん(56)が、小学館発行「ビッグコミック」2022年新年号から「新連載 登山家・山野井物語(仮)」と題して登場します。泰史さんは、元東京本社印刷部長・山野井孝有さん(89)の長男です。同誌の9月10日号に写真のように予告が掲載されました。原作者・よこみぞ邦彦さんは「ゴルゴ13」の脚本も手掛けているとのことです。

 今年春、よこみぞ邦彦さんは、父・孝有さんの千葉の自宅を訪ねて、5時間以上にわたって取材しました。泰史さんが死と隣り合わせて登山家として成長していく過程で、父母が体験した苦しみと喜びもまた描かれるのではないかと思います。

 父・孝有さんは著書「振り返れば波乱」(自費出版・2005年刊)、「いのち五分五分―息子・山野井泰史と向きあって」(山と渓谷社・2011年刊)などで、登山にのめりこんでいく泰史さんとの葛藤とともに、控えめながら息子自慢を書いています。一方、母親の孝子さん(2015年死去)は、一貫して長男の生き方に説教も批判も自慢話も一切せず、「自分で選んだ道を進みなさい」と端然としていました。

 父・孝有さんは2013年に札幌で結成した「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会」の代表をされましたが、この発端も泰史さんの出会いからです。1985年6月、ロッキー山脈で岩壁登攀中の泰史さんが転落して入院したとき、コロラド州ボルダーの病院で、ボランティアとして通訳と看護をしてくれたのが、秋間美江子さんでした。これを機会に家族ぐるみの交友が続きました。その過程で、秋間さんが太平洋戦争開戦日の1941年12月8日、軍機保護法違反のスパイとして特高に検挙された北大生・宮澤弘幸さんの実妹であったことを知らされました。宮澤弘幸さんは北大時代、登山を愛する文武両道に秀でた学生でした。孝有さんが宮澤弘幸さんがスパイとされた事件の真相を知らせる努力を続けているのは、昨年10月、93歳で亡くなった美江子さんへの感謝とともに、「戦争は絶対に繰り返してはならない」との思いからだと思います。

 登山家・山野井泰史さんが、「ビッグコミック」誌上で、どのように描かれるか、期待したいと思います。「ビッグコミック」2022新年号は、今年12月25日発行。以後、毎月10日、25日付で発行されます。

(福島 清)

2021年8月12日

元北京特派員、金子秀敏さんが「中台関係めぐる『92共通認識』 読み切れなかった京劇の思い」を、日本記者クラブ会報8月号に執筆

2021年8月10日

雲仙・普賢岳大火砕流被害の慰霊活動報告――RKB毎日放送報道局担当局長神戸金史さんの報告

 雲仙・普賢岳の大火砕流被害の慰霊活動に関して、ご寄付をいただきまして、ありがとうございました。毎日新聞写真部員らが犠牲になった「定点」の整備・維持管理に充てるため寄せられたご寄付は、7月30日を締め切りとしておりました。集計がまとまりましたので、ご報告いたします。

◆銀行振込       61人   947,000円
◆クレジットカード振込 69人   535,878円
       【合計】128人 1,482,878円

 銀行振込分は今週、島原市の被災地にある町内会の連合組織「安中地区町内会連絡協議会」さまに全額を振り込みました。

 クレジットカード振り込み分は、寄付サイトSyncableにより、手数料(5%)が引かれた約50万円が、月末に振り込まれる予定です。

 ※ほかに振込手数料が双方で計数百円引かれます。

 寄せられたご寄付は、私たちの仲間が被災した「定点」の維持管理にご活用いただきます。以上、ご報告いたします。

 被災遺稿整備に寄付を募ります=2月に神戸さんが呼びかけた内容

 雲仙被災30年にあたり、地元の方々が、私たちの仲間を追悼し、教訓を語り継ぐ場を整備することを企画しました。「消防団は、報道陣の巻き添えで死んだ」という厳しい目があった中、30年後にここまで来たことは、胸に迫るものがあります。

 毎日新聞を含め、長崎に拠点を置くメディアは資金協力で一致しましたが、当時取材に携わり、知人・友人を亡くした方も全国におられます。受け皿となる窓口を作って、広く募金を集めて地元に送り、かつ二度とこうした被災を起こさない誓いとしたい。

 当事者である私は、そう考え、寄付専用口座を開設した次第です。

※神戸金史さんは91年毎日新聞入社。長崎支局を振り出しに島原支局、福岡総局。2005年に東京社会部からRKB毎日放送へ。

2021年8月10日

Sayonara Tokyo and Bonjour Paris

 社会部旧友、元英文毎日の半田一麿さん(86歳)から毎朝午前4時に届く「today's joke 」。本日10日早朝に着信したものを紹介したい。

Summer Olympics say Sayonara Tokyo and Bonjour Paris.

 諸兄:

 新型コロナウイルスの影響で史上初の1年延期となった東京五輪ですが、異例の大会の光と影を見詰めた世界は、8日の閉会式=(写真)=から次の冬季、夏季五輪にバトンをつなごうとしています。

 France24 NewsはSummer Olympics say Sayonara Tokyo and Bonjour Paris→「史上初の1年延期となった2020東京夏季オリンピックが8日、無事に閉幕、フランスのパリに五輪を引き継ぐことになる」と報じました。

 「一つの米国、一つのチームで共に成し遂げられることを示した」。ジョー・バイデン米大統領は閉幕前、多様性を体現した選手団をたたえました。

 ただ、スポーツ大国で、東京五輪は終始盛り上がりに欠けた大会となりました。独占放映権を持つNBCテレビによる中継の視聴者数は1日平均で約1700万人。2016年のリオデジャネイロ五輪の半数近くに落ち込みました。

 北京冬季五輪を半年後に控える中国の大会組織委員会幹部は7月の記者会見で「東京の対策を注視しており、手本にする」と述べました。

 「喧嘩した後の空気を換気する」... 万能川柳

 ※ argument = 論争

(堤  哲)

● Man vs. Woman
A woman has the last word in any argument.
Anything a man says after that is the beginning of a new argument.
【試訳】男対女
女はどんな議論になっても最後のとどめの言葉を用意しているんですねえ。
議論の最後に言う男の言葉は新しい議論を引き起こす引き金になるんですぞ。

2021年8月3日

57年前の東京五輪閉会式ナンパは、「飲んべえ安」

 《これがオリンピックだ。これが“世界は一つ”の東京大会なのだ。——そんなほほえましい、しかも強く人の心を打つシーンが24日の閉会式で満員のスタンドをわきにわかせた。選手たちの入場、退場行進のときの巧まざる演出がそれだった。各国の選手たちがとけこみ、腕を組み肩を抱き、走り、お辞儀をし……。そこには人種、宗教、政治などの違いはまったくない。若い友情と信頼と平和だけが、ひたすら自由に、たくましく燃え上がっていた》

 57年前、東京五輪閉会式の社会面の前文である。むろん毎日新聞だ。

 筆者は、社会部の安永道義さん。当時39歳。

 1面トップの記事も「まったくスケジュールにないことがおきた」と書き出している。予定稿が使えずに、勧進帳で吹き込んだのだ。

安永道義さん

 安永さんは、社会部のデスクから熊本支局長に転勤する。熊本支局5年生だった三原浩良さん(2017年没79歳)が『地方記者』(葦書房1988年刊)に綴っている。

 《安永さん着任の第一声は「オレを支局長と呼ぶな」と無理なことを言う。「そりゃまたどうして?」と尋ねると「だってな、お前、支局長ての、一語々々区切って読んでみな」と言う。

 シキヨクチヨウ、なるほど色欲長と読めてしまう。されば何と呼べばいい。

 「安さんでいい。オレは飲んべえ安と呼ばれてた。だから安でもいい」》

 《「飲べえ安」を自称するだけあって大変な酒豪、その日のうちにご帰館なんていうことはまずなかった。翌朝がまためっぽう早い。薄暗いうちから起き出して支局の裏庭で「エイ、ヤー」と剣道の素振り。さっと各紙の朝刊に目を通してしまい…》

 毎週月曜日に支局長のコラムがあった。熊本版は「肥後評論」。

 《安永さんの毎週のコラムの特徴は文章も理屈も簡潔の一語に尽きる。わかりやすい、センテンスの短い文章でたたみかけていくもので、愛読者からは“安永節”ともてはやされていた》

 支局員に、64年入社鳥井輝昭、65年入社近江邦夫(2014年没72歳)、近藤正志、67年入社岸井成格(2018年没73歳)、工藤茂雄の名前が載っている。

 牧内節男「銀座一丁目新聞」2002年(平成14年)5月1日号追悼録。

 《毎日新聞社会部の同期生、安永道義君の事を書く。ガンに冒されながら最後までペンをはなさず、下野新聞一面のコラム『平和塔』を書きつづけた。11年間にその数3533本にのぼる。

 彼とはいくつかの共通点がある。ともに軍人の息子である。安永篤次郎さんは陸士27期(大正2年入校)で陸軍中将である。航空畑を歩まれたと聞く。安永君は昭和19年10月、陸軍特別操縦見習士官(特操)として、早稲田から学徒出陣する。筆者の父は、少尉候補生の4期(大正12年陸士入校)で陸軍大尉である。予備役後ハルピン学院の生徒監をつとめた。その志をついで私は昭和18年4月、陸士(59期)に入る。剣道はともに有段者である。戦後は二人とも社会部の「サツ廻り」から新聞記者をスタートする。下山事件(昭和24年7月)、三鷹事件(同)と大きな事件に狩り出され、苦労した仲間である。

 洒脱で男前の彼はよく女性にもてた。他意はない。女性にもてない記者は取材が下手であるといいたいだけである。熊本支局長時代の彼の部下であった三原浩良君(葦書房社長)は「支局長と呼ばせず、『のんベえ安』で通した。当時の支局は自由闊達な雰囲気であった。若い記者も先輩記者に容赦のない批判を浴びせ掛けていた」と書いている。「頑固で協調心がない君は支局長には向かない」とある社会部長(故人)からいわれ、ついに支局長を経験しなかった私には、羨ましい話である。

 安永君の『平和塔』から引用する。「敗戦の日」(昭和59年8月15日)『来年は戦後40年。戦後が終わり、新たな戦前が始まっているという人がいる。それが現代とも言う。戦後世代は平和にどっぷりとひたりきる。だが今日の平和は何によってもたされたものか。このことは忘れてほしくない』》

 《平成4(1992)年1月16日、66歳でなくなった。下野新聞の平成4年1月18日の「平和塔」には「がん告知の恐怖にもたじろくことなく、死の淵瀬までペンを滑らせた不屈の精神力。生涯一記者、コラムニストの姿勢を、いま後輩たちは誇りに思う」とある》

 安永さんは、社会部旧友会の懇親ゴルフ会に1度だけ参加した。1991年11月19日我孫子ゴルフ倶楽部での第3回。前半の9ホールを終えて、「靴擦れが出来た」といってリタイアした。この大会の優勝者は牧内節男さんグロス93、準優勝は浮田裕之さん同88だった。

 我孫子ゴルフ倶楽部の会員は、東京五輪のときの運動部長仁藤正俊さん(2006年没92歳)。早大剣道部OBで、安永さんの先輩だ。

(堤  哲)

2021年7月26日

世界は1つ東京オリンピック→2021コロナ五輪

 長野県白馬村でペンション〈憩いの宿「夢見る森」〉を経営する江成康明さん(元運動部・スポーツ事業部長→元松本大学非常勤講師)から「若者のためのエナジー通信」第50号(2021年7月21日)が届いた。

 《1964(昭和39)年10月10日の毎日新聞オリンピック特集の1面に元慶応義塾塾長で経済学者だった小泉信三氏の原稿が掲載されている。…「世界は一つ 東京オリンピック―まさにこの標語の通りである」と書き出し、戦禍に焼けただれた東京で開催される喜びと主催国として世界の選手を受け入れるフェアプレー精神を体得してほしいと願っている。

 そして、こう続く。「…五年前に次回オリンピックの主催都市(東京)が決定した時、ごく少数の当事者は別として、部外者の多くはひそかに危惧と当惑を感じていたのが事実であったろう。果たして、手落ちなくやれるかどうか。この懸念は多くの人の心にあったと思う。しかし、今日はどうか。当事者としてはまだまだ無数の不満の箇条があるであろうが、一般の部外者たる国民は準備の進行のさまを見て、実は感嘆しているのである。人々の素朴な感想を一言にしていえば、やはり日本人は相当なものだ、というに尽きる。東京オリンピックということは、ある人々の心に久しく抱かれた夢であった。『祖先は思い、子孫は行う』というが、その夢は、きょう事実になろうとしている」》

 それに比べて今回の東京オリンピックは、と続くのだが、最後にこうある。

 《今回の通信を書くきっかけになったのは、64年東京五輪終了直後に購入した「毎日新聞縮刷版・東京五輪記念号」をそれとなく開いたからだ。中学2年生の時、五輪のあまりの感動にどうしても記録として残しておきたくて母親に買ってもらい、以来本棚にいつもあった。半世紀前の縮刷版はもう黄色く変色し始めている。将来の就職など全く考えていなかったが、

 毎日新聞社に入り、運動部の記者として勤め上げることができたのも何かの縁だろう。

 その縮刷版には、五輪が閉幕した10月24日の翌日となる25日夕刊までが掲載されている。そこに横凸版で「池田首相、辞任を表明」の見出しがある。がんに侵され、五輪開会式は何とか出席した池田勇人首相が「入院治療以来1か月余が過ぎたが、首相としての重責をかんがみ、党総裁と首相の地位を辞任することを決めた」とコメントしている。閉会式翌日の突然の辞任劇だった。

 「首相としての重責」が重く響く》

 毎日新聞社発行の『毎日新聞縮刷版’64東京オリンピック記念号』が、この写真である。開会式の10月10日から閉幕翌日の10月25日夕刊までの毎日新聞を1冊にしたものだ。

 A4判、540ページ。定価900円。

 毎日グラフも『オリンピック東京1964』を臨時増刊した。172ページ(うちカラー56ページ)、定価250円。

 この2冊は1年生記者だった私(堤)が長野支局で購入した。57年前もテレビ観戦だったが、閉会式に一番感動した。

 社会面の見出し——。

 爆笑!型破りの閉会式
  踊って、おどけて
    日の丸も肩車に
     結び合う若い友情

(堤  哲)

2021年7月20日

毎日書道会の書家・石飛博光先生(80歳)、聖火リレーに参加

 東京2020オリンピックの聖火リレー。書道界を代表する石飛博光先生が、東京都足立区で開かれた点火セレモニーに参加しました。

 ご家族が見守る中、見事なトーチキス。80歳になったばかりの石飛先生は躍動し、35度の猛暑を吹き飛ばしました。

 人生の全てをかけたのは書家もアスリートも同じ。熱いエールを送ったように感じました。

 以上は、毎日新聞社執行役員営業本部長・オリパラ室長山本修司さんがFacebookに投稿した記事と写真。

 石飛先生は、北海道赤平出身で、金子鷗亭先生に師事。前回の東京五輪の年64年3月に東京学芸大学書道科を卒業して高校の先生をしていた。毎日書道展の重鎮で、2011年第53回毎日芸術賞を受賞している。

(堤  哲)

2021年7月16日

「新聞革命の記憶 ― MAP30周年を迎えて」の刊行と社長への献本

 7月4日付け日曜の紙面、「CI・MAP精神健在なり!」と思わず快哉を叫んだ。

 一面の「毎日新聞」の題字が、ヨコになりその題字の脇には毎日新聞のトレードマークの、鮮やかなインテリジェント・ブルーの“目玉マーク”が付いているではないか。四角題字とともに、コーポレートシンボルとしてCI-MAPが提案し決定したものそのままである。

 1991年11月5日付け紙面から、戦前から続く毎日新聞の題字が消え、鮮やかなインテリジェント・ブルーブルーの題字、その上の両脇には目玉が付いていた。そして紙面は”腹切り”といわれた、二つ折りにしても記事が分かれない読みやすい紙面が登場した。百年に一度の大改革だった―と思う。

 あれから30年、当時この紙面改革のプロジェクトのリーダー役だった秋山哲・元経営企画室長兼MAP実施本部事務局長(元常務)を中心に、当時の各本社から集まった事務局メンバーのうち元気な5人(アイウエオ順、中部・里見登、東京・宍戸廸武、同・福永平和、大阪・藤田修二、東京・筆者佐々木)と、このCIプロジェクトを担当した「㈱PAOS」の中西元男社長、小田嶋考司常務も参加して、昨年から“毎日新聞CI・MAPプロジェクト記録保存”プロジェクトを発足させた。

 オンデマンド本の出版の制作では、ご自分の小説をオンデマンド本化するなどの実績のある、秋山元室長の驚異的なパソコン力を駆使した編集力で今年三月には出来上がった。毎日新聞に献本、各本社の資料室に保存、また国立国会図書館などに送ることなどを了解してほしいと丸山昌宏社長との面会を要請していた。

 しかしコロナ渦で思うようにいかず、ようやく緊急事態宣言施行前の7月8日午後に、秋山、宍戸、筆者の3人で社長にお目にかかった。この席上、秋山元室長ら、厚さ2センチ、281ページにもなるB5版の「新聞革命の記憶―MAP30周年を迎ええて」を丸山社長に献本した。(写真参照)

 この本には当時のMAP実施本部事務局員と、「PAOS」の中西元男社長、小田嶋考司常務のそれぞれの活動証言記録と、MAP活動を社内アッピールするための1990年から4年間に渡って発刊された「MAP NEWS 」全24号、PAOSから提供していただいた「毎日新聞CI開発導入計画資料」も収められている。さらにMAP運動期間の9年間(1988-1997)のクロニクル(年表と活動記録)もある。いわば“毎日新聞題字変更-MAPのすべてが分かる”ムック本。

 丸山社長からは「本来当社がやらなくてはいけなかったこと。よくやって頂けました。各本社に送りCI・MAP活動の内容をだれでも見られるようにして、今後の経営に役立てたい」とこれまでの労をねぎらう言葉を頂いた。国会図書館、関係各方面への寄贈などについても了解をいただいた。

 この「新聞革命の記憶―MAP30周年を迎えて」制作の発端は、昨年春頃、あるデザイナーの死亡記事が毎日新聞に掲載された。その中にそのデザイナーの功績として「毎日新聞の題字変更を手掛けた」とあるのが目に留まった。秋山元室長などから「この人の名前は知らない」というので、PAOSなどに問い合わせたがはっきりしない。毎日新聞の社史編纂資料室などにCI・MAP関係の資料が残されているのではないかと、地下の資料室までいって調べたところ、行方不明になっていることが分かった。

 そこで秋山元室長から「このままでは毎日新聞の題字変更という百年に一度の大事業がどのように行われたのか、分からなくなってしまう。とにかくまだ生きているCI・MAP関係者の証言、資料を集めて書籍の形で残るオンデマンド本を作ろう」という提案を各本社の関係者にメールで投げかけた。「資料がないというのはいかにも毎日新聞らしいね」などと現役当時と同様、毒舌は元気な同じ釜の飯を食ったメンバー、気が付けば80才を優に超えた秋山元室長を筆頭に、みな後期高齢者ばかり。でも体調不良の方、亡くなった方(中部・溝口節二)などもいる。

 残っているメンバーは幸いにも、昔取った筆はさびておらず、あっという間に原稿はそろった。秋山さんと大阪の藤田さんの手元に保存してあった「MAP NEWS」全24号、PAOSからも保存されている資料コピーも快く提供していただき、メンバーの最年長者の秋山さんの神業?としか思えないデジタル技術-オンデマンド出版技術を駆使してでき上がったのがこの本だ。

 新聞業界がデジタル化の波の中で苦闘している現在、当時の毎日新聞の苦境に少しでも貢献しようと全社挙げて盛り上がったMAP運動を振り返ることには、意味があるのではないだろうかと思う。そこから教訓を汲み上げてもらえれば、こんなうれしいことはない。是非役立ててほしいと思う。

 PAOS関係者の毎日新聞への率直な意見や、当時のCI導入時の社内の熱気を伝える社員大会の懐かしい当時の仲間の写真付記事などが読める「MAP NEWS」など、見て損はないと思う。日曜日の横題字だけでなく、MAPの精神である“受けて発想”に立った新聞づくりに役立ててほしい―という願いが込められている。

 もし読みたいという方があれば秋山さんまで、メールで連絡してほしい。ただオンデマンド出版なので、制作会社から直接申し込みされた方へ送られます。実費で送料込み4267円。申し込みのあった方には秋山さんから送金用の口座の連絡をするとのことです。

 秋山哲さんのメールアドレスは以下の通り。
 

(佐々木宏人=元MAP実施本部事務局員)

2021年7月12日

社会部旧友、堤哲さん思い出の球場で大谷翔平、100万ドル獲得間違いなし!

 この写真は、DenverのCoors Field。大谷翔平選手が7月12日(日本時間13日)にホームラン競争に出場する球場である。

 大谷はこの球場で打撃練習の際、右中間外野席の3階席へ、500フィート(152メートル)を超えるmoonshotを放っている。2018年5月8日。この写真で見ると、センターバックスクリーンの右上、黄色の広告のある3階席の、真ん中の通路のちょっと下まで飛んだ。

 写真は、現在の外野3階席が改修される前だが、それにしても随分遠くへ飛ばしたものである。標高1600メートル、Mile High Stadiumと呼ばれ、空気が薄い分、打球が飛ぶのである。

 大谷選手の100万ドル獲得は間違いないでしょう!

 ついでに見てもらいたいのが、この写真。この球場の記者席での私(堤)です。2006年5月15日。娘の卒業式で来て、「ロッキー時報」発行人とともに観戦しました。ドジャーズの斎藤隆投手が初セーブを挙げた試合でした。

 上の2枚の写真は、私が撮影しました。

(堤  哲)

2021年7月5日

57年前の東京五輪写真展、日本外国特派員協会で開催中

青空に自衛隊機が五輪のマークを描いた
10月10日開会式。満員の国立競技場
戦後復興のオリンピックだったと写真展の案内

 1964東京五輪の写真展が日本外国特派員協会(千代田区 丸の内 3-2-3「丸の内二重橋ビル」5階)で開かれている。入場無料、8月6日まで。

 日本の金メダル第1号は、重量挙の三宅義信選手だった。大会3日目。「あの記事はオレが書いたんだ」と社会部旧友・堀井淳夫さん(2017年没、90歳)から聞いたことがあった。

 柔道無差別級で優勝したのはアントン・ヘーシンク(オランダ)。決勝で神永昭夫をけさ固めで破った。

 

日本人金メダル第1号・三宅義信選手
ヘーシンクvs神永昭夫
マラソン2連覇のアベベ(エチオピア)
女子体操で個人優勝のチャスラフスカ(チェコ)

 会場の日本外国特派員協会(03・3211・3161)の開館は午前10時~午後6時。日曜日と祭日は休館。

(堤  哲)

2021年7月2日

特ダネだった立花隆さんの訃報

 今週発売の「週刊文春」(7月8日号)の立花隆特集で、その訃報の第1報が6月23日の毎日新聞1面だったことを知った。改めて調べてみると、朝日新聞、読売新聞も半日遅れの23日夕刊で初めて報道している。毎日ジャーナリズムの力を称えたい。

 元社会部長・東京本社編集局長の牧内節男さん(95歳)は、HP「銀座一丁目新聞」のブログ「銀座展望台」6月23日(水曜日)午前8時22分に立花隆さんの訃報をアップしている。

 その1週間ほど前、小林亜星さんの訃報が流れた時の「銀座展望台」(6月15日)。

 《なくなったのは5月30日。葬儀は近親者のみで行われた。

 5月30日に死去したというのに6月14日の事務所の発表までその死がわからなかったというのは新聞記者の怠慢というほかない。

 119番通報で病院に運ばれている。救急車が出動している。新聞記者が消防庁の救急司令室を覗けばその日のうちに亜星さんの死がわかったはずである。何でも発表待ちの新聞記者の実態がここにはっきりでた。新聞が売れなくなる理由の一つである。

 「努力しないものに成功はない」》

  訃報を大事にしてもらいたい、と思う。

(堤  哲)

2021年6月25日

23年前、「蘋果日報」を訪ねた毎日新聞論説OBのメディア調査団

 「報道の自由、暴政の犠牲に」/りんご日報最後の100万部/香港市民が列、販売直後に完売も(毎日新聞)

 香港、消された言論/リンゴ日報最終号「暴政の犠牲」(朝日新聞)

 香港紙 無念の廃刊/最後の朝刊 売り切れ相次ぐ(読売新聞)

 香港の「蘋果日報(アップル・デイリー)」廃刊を伝える24日の朝刊各紙。1面コラム「余録」「天声人語」「編集手帳」も、揃ってこの事件を扱った。

 香港返還から1年後の1998年、香港の「言論の自由」はどうなっているか。毎日新聞論説OBでマスコミ学専攻の学者らの「香港マスメディア調査団」は、「蘋果日報」の本社を訪ね、当時の羅燦社長(当時43歳)にインタビューをした。残念ながら同紙の創業者、黎智英(ジミー・ライ)氏(当時39歳)に会うことはできなかった。

 羅社長は、こう答えた。

 「私どもの新聞が生き残れるか。それが香港の“言論の自由”のバロメーターになるのではないですか」

 玄関ロビーには、その日の発行部数が表示されていた。41万3996部。95年6月に創刊以来、急速に売り上げを伸ばし、香港紙で最大の部数を誇る「東方日報」(当時、公表60万部)を追いかけていた。

 「蘋果日報」は、その年(98年)の3月に、工業団地内に本社を新築、従来外注していた印刷を自社工場で行えるようになった。

 「もし、どこかからの圧力で印刷工場から刷れないと断られたら、結果的に新聞発行が止まる。それを避けるために自社工場をもったのです」

 今回、廃刊に至ったのは、国家安全当局が「蘋果日報」など関連3社の資産1800万香港ドル(約2億5000万円)を凍結したため、資金繰りに窮し、新聞発行を継続できなくなったためと新聞報道にある。

 創業者でオーナーの黎智英氏(72歳)は、2020年8月、香港国家安全維持法違反容疑で逮捕され、12月に同法違反で起訴されている。1997年の香港返還が決まった時、米ニューヨークタイムスは、社説で「香港の自由よ、さようなら」と書いた。それが現実となったのである。

 「香港マスメディア調査団」は団長・鳥井守幸平成帝京大教授、副団長・天野勝文日大教授、秘書長・澁澤和重昭和女子大教授、他に柴田寛二城西国際大教授(2017年没、82歳)、前坂俊之静岡県立大学教授(肩書は当時)。毎日新聞OB以外で川名好裕現立正大学教授。

1998年9月15日付スポーツニッポン社会面

 私(堤)も調査団に加えてもらい、帰国後、「香港メディア・ウォーズ」/揺れる「言論の自由」をスポーツニッポン紙で6回連載した。その2回目で「“圧力”に屈しない言論を」の見出しで、黎智英氏の写真を入れて「蘋果日報」を取り上げた。

 記事を引用する。オーナーの黎智英(ジミー・ライ)氏は立志伝中の人物だ。中国広州から12歳の時、香港に密入国。若者のカジュアルウエア「ジョルダーノ」を開発、大実業家となった。

 90年に週刊誌「壹」を創刊して言論界にも進出。香港返還の前に「香港人のための新聞マーケットがあるのではないか」と、95年6月に「蘋果日報」を創刊した。

 羅燦社長は、79年に香港中文大学新聞学科を卒業、新聞よりテレビの記者が長かったが、94年にヘッドハンティングされた。

 黎氏は96年3月に社長を羅氏に譲って一時アメリカへ渡ったが、香港返還後、再び香港に戻り、毎日午後3時から開いている紙面検討会を陣頭指揮、読者12人を集めて週1回開く「読者会」にも必ず出席している。

 週刊誌「壹」で李鵬首相(当時)を批判したことから、北京にあった「ジョルダーノ」の支店に閉鎖命令。北京政府とは、以来関係改善がなされていない。香港の新聞で唯一北京特派員を置くことができない。

 その上、政府機関はもとより、中国政府の資金が入っている会社とか、中国本土で事業展開している企業の広告出稿がない。

 「1部5香港ドル(98年現在)のうち3ドルが本社の収入。97年度に初めて700万香港ドルの利益が出ました。98年度も7月までの4カ月で500万香港ドルの黒字です」と羅社長は説明した。

 記事の最後にこう書いている。

 《キャセイ航空は香港一の航空会社だが、機内サービス紙に「蘋果日報」はない》

(堤  哲)

2021年6月21日

写真展 「親子写真まつり」が日本外国特派員協会で開催中

 5月の第2日曜日は「母の日」、6月の第3日曜日は「父の日」、それなら7月の第4日曜日は「親子の日」だ。

 日本で活動する米国出身の写真家、ブルース・オズボーンさん(70)が提唱して2003年からこの運動が始まった。毎日新聞社はオリンパス光学(当時)の協賛を得て、毎月1回、「親子の日」の特集紙面をつくってきた。
https://mainichi.jp/ch151147492i/親子の日

 「親子の日」のイベントとして、応募のあった親子の写真をオズボーンさんが都内のスタジオで撮影。その作品の写真展を開いてきた。

 しかし、その写真撮影会もコロナ禍で今年も中止となった。

 その代わりというわけではないが、世界各地の親子の姿を撮影した写真展が日本外国特派員協会(千代田区 丸の内 3-2-3「丸の内二重橋ビル」5階)で開かれている。

 毎日新聞に掲載された記事(6月18日東京版)を転載したい。

「親子というベーシックな関係について改めて考えるきっかけにしてもらえたら」と話すブルースさん=千代田区で

 アジアや欧米、中東など世界各地の親子の姿を写真で伝える「親子写真まつり」(毎日新聞社など特別協力)は、千代田区丸の内3の日本外国特派員協会で開かれている。7月2日まで。入場無料。展示作品は「親子の日公式サイト」(https://www.oyako.org)でも公開している。

 小さなバイクに5人でまたがるカンボジアの家族や、子を肩車した親が一列になってスタートを待つ日本の運動会風景など、ほほえましい作品が目立つが、それだけではない。生きるために越えようとした米国とメキシコとの国境で拘束され、泣き叫ぶホンジュラスの親子など、胸がしめつけられる現場も映し出す。

 企画したのは日本で活動する米国出身の写真家、ブルース・オズボーンさん(70)。「7月の第4日曜を『親子の日』に」と訴えるブルースさんに賛同した世界10カ国の写真家26人が1枚ずつ作品を提供した。

 会場の日本外国特派員協会は「丸の内二重橋ビル」5階。開館は午前10時~午後6時。日曜日と祭日は休館。日程を変更する可能性があるため、電話(03・3211・3161)で確認してからの来館を呼びかけている。【川上克己】

(堤  哲)

2021年6月18日

日本新聞協会会長に丸山昌宏毎日新聞社社長が就任

 毎日新聞社の丸山昌宏社長(68歳)が6月16日、日本新聞協会の会長に選任された。

 毎日新聞の日本新聞協会会長は、本田親男(1957年6月~61年1月)、上田常隆(64年3月~67年7月)、小池唯夫(95年6月~99年6月)、北村正任(2005年12月~09年6月)に次いで5人目。

 丸山新会長は、愛知県出身。早大卒。1979年毎日新聞社入社。東京本社写真部長、政治部長、大阪本社編集局次長などを経て、2011年執行役員資財本部長。12年取締役広報・コンプライアンス担当社長室長。15年常務取締役編集編成・五輪・パラリンピック担当。16年から代表取締役社長。毎日新聞グループホールディングスでは15年取締役、19年から代表取締役社長。新聞協会では18年から理事を務めていた。

(堤  哲)

2021年5月29日

濁水かわら版110号 40代女性医療従事者のワクチン接種体験談

(中安 宏規)

2021年5月27日

6月2日(水)テレビ朝日「徹子の部屋」に注目! ――ロバートソン黎子さんの息子モーリーさんが出演します

 この紙面(3月8日付け夕刊社会面)で紹介されたNHK大河ドラマ「青空を衝け」のペリー提督役のモーリー・ロバートソンさんが、6月2日(水)午後1時から放送されるテレビ朝日「徹子の部屋」に出演する。

 モーリーさんは、元毎日新聞外信部のローバートソン黎子さんの長男。俳優としてだけでなくテレビのコメンテーターとしても活躍している。

 旧姓蒲田黎子さんは、1957(昭和32)年早大政経卒。駆け出しの仙台支局でフルブライト留学生募集を知って応募、ヴァージニア大学に1年間留学。59年10月帰国後は外信部。日曜夕刊一面のインタビュー記事をまとめて、『もしもしハロー 私は第一線婦人記者』(七曜社1961刊)を出版した。その序文を作家の三島由紀夫と、同じフルブライト留学生だった作家の小田実が寄せている。61年退職。

 黎子さんは、2020年10月、88歳で亡くなった。夫のトーマスさんは、その3年前の2017年5月、83歳で亡くなった。

 テレビ朝日「徹子の部屋」の担当者から「毎友会HPで見た。黎子さんの写真をお借りしたい」と電話があり、HPに掲載した写真の他、以下の写真をメールでお送りした。

(堤  哲)

トーマス・ロバートソン、黎子夫妻(2003年7月10日撮影)

2021年5月24日

日本画家・鏑木清方(文化勲章受章者)は「東京日日新聞」創業者の息子

 「コロナ禍で休館を余儀なくされ、みなさんに会場をご覧いただけないのは残念でなりません...」「せめてテレビで、展示内容の充実ぶりを知っていただけると嬉しいです」

 東京ステーションギャラリー(東京駅丸の内北口)HPに、学芸員がやるせない気持を吐露している。鏑木清方の作品を目玉にした「コレクター福富太郎の眼—昭和のキャバレー王が愛した絵画」展。4月24日に開幕したが、展観されたのは翌25日までの2日だけで、緊急事態宣言の発令で臨時休館が続いている。会期は6月27日までだ。

 休館中に、NHK Eテレ「アートシーン」や民放局の番組でも紹介されたが、YouTubeでも見られる。

https://youtu.be/mXvqfOUfE3I

 ロバート・キャンベルさんの「キャンベルの四の五のYOUチャンネル」だ。

 日本文学者で東京大学名誉教授のキャンベルさんは、福富太郎さん(本名=中村勇志智、1931~2018)に直接会って、話を聞いている。その時のテープを再生するとともに、この展覧会を監修した山下裕二さん(美術史家・明治学院大学教授)が解説している。

 福富太郎は、1964年の東京オリンピック景気を背景に、全国に44店舗にものぼるキャバレーを展開して、キャバレー王の異名をとった実業家。美術品蒐集の手始めは、鏑木清方(1878~1972)の日本画で、清方からの手紙も展示されている。

 清方は、毎日新聞の前身「東京日日新聞」を創設した戯作者・条野伝平(1832~1902 山々亭有人)の三男。1954(昭和29)年に文化勲章を受章している。鎌倉市に鏑木清方記念美術館(1998年開館)がある。

 「東京日日新聞」は、1872(明治5)年2月21日創刊だから、来年創刊150年を迎える。社会部旧友・今吉賢一郎著『毎日新聞の源流』(毎日新聞社1988年刊)によると、創刊したのは、かぞえ41歳の条野の他、35歳で貸本屋の番頭西田伝助(1838~1910)、40歳の浮世絵師・落合幾次郎(芳幾、1933~1904)の計3人。その後、44歳で地本問屋(出版・販売会社経営者)の広岡幸助(1829~1918)が加わった。

(堤  哲)

2021年5月11日

社会部旧友・堤哲さんの娘さんが、ニューヨークからワクチン報告

 ニューヨーク在住の娘さんのメール

 「ワクチン2回目行ってきたよ!
 1回目と同じで今のところ腕の痛みだけ。
 接種後48時間は発熱など要注意らしいので、スポーツドリンクとか風邪薬とかも一応用意しておいた。
 なんともない人もいるので、人それぞれらしい。(高齢者は副反応が出にくいとか?)ワクチン終わったよ、の報告でした!」

 堤さんが住んでいる東京都中央区では、やっと85歳以上の高齢者を対象にワクチン接種が始まったばかり。

2021年5月7日

5月11日は「点字毎日」創刊記念日、来年が創刊100年だ!

「点字毎日」創刊号1922(大正11)年5月11日付

 「点字毎日」佐木理人記者の社会面連載「心の眼」(毎月第1金曜日)で、「点字毎日」が来年創刊100年を迎えることを知った。

 5月7日付「心の眼」にこうある。

 《99年前の1922(大正11)年5月11日、日本でただ一つの週刊点字新聞「点字毎日」は大阪で産声をあげた。点字毎日とゆかりが深く、同じ視覚障害のある当事者として私が敬愛してやまない人物がいる。明治から大正にかけてイギリスで貿易会社を営んでいた弱視の好本督(よしもとただす)だ。

 全盲の人を「わが隣人」と呼んだ好本は、イギリスの進んだ福祉の実情を点字本で日本に伝えた。私財を投じ、視覚障害者を物心両面で支え、「日本盲人の父」とも称される。

 当時の大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)に点字新聞の発刊を提案。初代編集長には全盲で初めて海外留学した中村京太郎(1880~1964)を推した。ラジオ放送もなかった時代、日本の視覚障害者に情報の扉を開くきっかけを作った》

 好本督(1878~1973)は、東京高商(現在の一橋大)を卒業、英国オックスフォード大に留学した。生まれつき弱視で、1902(明治 35)年、24 歳のとき帰国してイギリスの盲人福祉を紹介した『真英国』を発刊、各盲学校に送った。

 1906年早稲田大学の英語講師。「日本盲人会」を結成。『真英国』の中から「英国の盲人」の部分を抜き出して増補、『日英の盲人』を出版した。50ページほどの小冊子だが、日本の盲人教育の改革に強い影響を与えたという。

 その後、再び渡英し、英国人女性と結婚。商事会社「オックスフォード・ハウス」を設立し、ここで得た利益は,日本盲人のために使ったという。

 「点字毎日」発刊を訴えたのは、1912 年当時ロンドンに留学していた大阪毎日新聞(大毎)の記者・河野三通士(1885~1974)にだった。

 それから10年後、大毎が堂島新社屋落成記念事業として、「サンデー毎日」、「英文毎日」とともに「点字毎日」を創刊したのである。河野の提案を、本山彦一社長が実現した。初代編集長、中村京太郎は、好本の資金援助でイギリス留学を果たした。

 「点字毎日」は、1963(昭和38)年に菊池寛賞を受賞。その記念として翌64年、毎日新聞社は「点字毎日文化賞」を創設した。その第1回受賞者に選ばれたのは、好本督だった。

 好本は次のようなコメントを残している。

 「採算を無視して発行を続けられた『点字毎日』は、社会が協力してくれた例のうち最も著しいもので、敬意を表するとともに、感謝をしている。私のしたことはただ、英国のいいところを見て、それを報告し、そして盲人の福祉、教育が進められるよう励ましただけだ」

(堤  哲)

2021年5月5日

スペイン風邪から100年⓯ (すだれ) の後ろに座る人が頼りで

(中安 宏規)

2021年5月6日

元印刷局の戸塚章介さんが「しんぶん赤旗」で「不戦の誓い」

 戸塚章介さん(83)のインタビュー記事が憲法記念日の「しんぶん赤旗」1面・社会面「誓い―戦争体験者の憲法」に掲載されています。「まとまっていて、いい記事だと思います」と福島清さんが連絡してくれました。戸塚さんは自分のブログでも、この記事に触れているほか、毎日新聞労働組合、新聞労連の歴史、東京都労働委員会労働者委員時代の出来事や日々の社会観察などを綴っています。

http://baritoubudo.livedoor.blog/

 戸塚さんは、1956年に毎日新聞東京本社印刷局養成員として入社し、印刷部輪転課に配属。翌年、毎日新聞労働組合員になると活動を開始し、東京支部青年部書記、同執行委員などを経て新聞労連東京地連書記長、委員長を歴任、77年から95年まで東京都労働委員会労働者委員として活躍。93年6月30日、毎日新聞社を定年退職しました。



2021年4月30日

100年前、「毎日新聞」はベーブ・ルースのインタビュー記事を掲載した

28日付毎日新聞より

 本塁打数トップの選手が先発登板は「野球の神様」ベーブ・ルース(ヤンキース、当時26歳)が1921年6月13日にタイガース戦で果たして以来100年ぶり、と話題になった4月27日(日本時間)アーリントンでのレンジャーズ対エンゼルス戦。

 大谷翔平(26歳)は「2番、投手」で先発出場。5回75球、被安打3、4失点、9奪三振で交代したが、チームは9-4で勝って2018年5月20日(現地時間)のレイズ戦以来、1072日ぶりの白星を挙げた。

 打者大谷は、4打席2安打(二塁打・単打各1)、1四球、打点2、得点3。投げて、打って、走っての大活躍。先制点は、大谷が本塁にスライディングして得たもので、「泥のついたユニホームでマウンドに立つ投手は珍しい」とNHKの解説者。

 100年前のベーブ・ルースのインタビュー記事が「大阪毎日新聞」(毎日新聞の前身)1920(大正9)年8月21日付に載っている。ニューヨーク特派員高田元三郎(のち「東京日日」編集主幹→毎日新聞代表取締役)が健筆を振るった。

  紐育ポログラウンドの選手席で
  本塁打王ルーズと語る
  大決心で商売人チームに投じた彼
     早く母を喪ひ厳格な父に育てられた彼は
     遠き日本の野球選手諸君への言伝と共に
     ホームランの秘訣を説く
     8月18日紐育に於て―高田特派員発電

 ルースの打撃フォームと顔写真を載せ、社会面の左半分をつぶしている。日本にプロ野球はなかった。「商売人チーム」と見出しにある。同じ記事が「東京日日新聞」にも載っているが、扱いは小ぶりだ。

 ここから先は、毎日新聞の草野球チーム「大東京竹橋野球団」が2014年に発行した『Baseball Tencyclopedia野球博覧』から引用する。Tencyclopediaは「野球を『歓喜の学問』にする」と「野球文化學會」を立ち上げた整理マン諸岡達一(59年入社)の造語である。「天才」と「百科事典」をかけたのであろう。

 ——「試合中に選手席(プレヤース・ベンチ)でルーズと快談」と小見出しがあって、「日本から御出ででしたか」と愛相のよいルーズは25万円の手で余の痩せ細った手を握った。ルーズの写真の載っている大阪毎日新聞を一葉差出すとその喜んだこと、とある。

 ルースはボストン・レッドソックスから10万ドルの金銭トレードでこの年ヤンキースに入団した。当時1ドル=約2・5円だったから、「25万円の手」。この年の日本の総理大臣の月給は1000円だから、ざっと20倍だ。

 初ホームランは7歳の時。ちっちゃな学校の捕手でした。ボルチモアで本職の野球選手となったのが19の時。まずボストンで435フィート(132メートル)という記録破りのホームランをやった。54オンスのバットでかっ飛ばす、と語っている。

 54オンスをグラムに直すと1530グラム。現在大リーグでもこんな重たいバットを持っている選手はいない。マスコットバットで打席に入っているようなものだ。

 《彼の打撃順が来た。静かに立ち上がったルーズは自署(サイン)をした球(ボール)1個掴んで来て「之を毎日新聞に呈します」と云ったと思ふと25万円の手に大バットを握りユニホームに包んだ巨躯をヅカヅカとホームベースの方へと運んで行った》

 ルース25歳。レッドソックスから金銭トレードでNYヤンキースに移籍した年で、54ホーマーを放っている。放出したレッドソックスは2003年までワールドチャンピオンが遠のき、「バンビーノの呪い」といわれた。ルースが読売新聞の招きで来日するのは1934(昭和 9)年である。

 ベーブ・ルース情報は、諸サンが『野球博覧』でたっぷり披露している。

『野球博覧』135p

 本名:George Herman “Babe”Ruth,Jr. 1895年2月6日~1948年8月16日、53歳。

 本塁打:714本。本塁打王12回は今も破られていない。ボストンレッドソックス時代に1918年11本、19年29本、NYヤンキースに移って1920年54本、21年59本、1年置いて23年41本、24年46本、1年置いて26年47本、27年60本、28年54本、29年46本、30年49本、31年46本、6年連続である。

 シーズン60本の記録を破ったのは、1961年ロジャー・マリス(NYヤンキース)。最終戦に61本を放った。

 714本は、1974年ハンク・アーロン(アトランタ・ブレーブス)に破られ、アーロンの755本は、2007年バリー・ボンズ(SFジャイアンツ)に破られた。大リーグ記録は、ボンズの762本である。

 投手成績:登板163、投球回数1221.1、94勝46敗、防御率2.28、奪三振488。

 《レッドソックスからヤンキースに移り(1920年)打者に転向した後も時たま投げて5勝0敗は恐れ入る》

 大阪毎日新聞社の野球チーム「大毎野球団」は1925(大正14)年にアメリカ遠征。ニューヨークでヤンキース対ブラウンズ戦を観戦している。

 ブラウンズにヒット打ちの達人ジョージ・シスラー。2004年イチロー(シアトル・マリナーズ)に262安打で破られるまで、1920年シスラーの257本が年間最多安打だった。

 この試合4-4で延長戦に入り、10回裏、ヤンキースは先頭打者がヒットで出塁すると、ベーブ・ルースは犠牲バントで走者を2塁に進めた。本塁打より貴重な場面を見たわけだ。

 アメリカ遠征は、大毎1万5千号記念事業のひとつとして実施されたが、大毎野球団は、当時日本で最強の野球チームだった。

 総監督・奥村信太郎(編集総務、のち社長)、監督・木造龍蔵(社会部)。

 選手13人に、のち野球殿堂入りが3人。(カッコ内は入社年月と出身校、★印は野球殿堂入り)

 主将・二塁手★腰本寿(21年末、慶大)
 投手  ★小野三千麿(21年4月、慶大)
     新田恭一(24年8月、慶大)
 捕手  森 秀雄(21年7月、慶大)
     井川 完(20年8月、同志社大)
 一塁手 渡邊大陸(23年8月、明大)
 三塁手 内海 寛(20年3月、関学)
 遊撃手 ★桐原真二(25年4月、慶大)
     内海深三郎(23年1月,第一新港商業)
 外野手 高須一雄(23年3月、慶大)
     菅井栄治(22年5月、慶大)
     二神 武(25年4月、立大)
     川越(棚橋)朝太郎(22年4月、京都一商)

 サンデー毎日は、メンバーの写真を表紙にして「亜米利加遠征」特集号を発行(1925(大正14)年3月22日号)。米大統領を表敬訪問して、ホワイトハウスで撮った写真が残っている。

 これらはすべて『野球博覧』(A5判、415p)に書いてあります。残部が多少あります。

 @1,000円(送料は竹橋野球団負担)でお分けします。興味ある方は申し込んでください。

(堤  哲:

2021年4月22日

「献脳」ってご存知ですか? と、元中部本社代表 佐々木宏人さん

 当方、今年の9月の誕生日で80歳になる。そろそろではなく、遅いかもしれないが、“終活”を本格的に考えなくていけない。考えてみれば大した財産があるわけでもない。コロナ禍で当分、葬式も簡略化、何か「世のため、人のため」残せることはないかと、漠然と考えていた。

 3月中旬、一週間ほど自分の国指定難病「遠位性ミオパチー」の進行状況などを調べるため、東京・小平市の、戦前は陸軍病院だったという、広大な敷地内にある「国立精神・神経医療研究センター病院」( https://www.ncnp.go.jp/ )に入院してきた。

 それこそ頭の先からつま先まで、連日CT、MRI、手足運動能力などの検査を受けてきた。4月初め、その総合結果の説明を、この病気が分かってから十数年の付き合いになるぶっきらぼうだが、面白い神経内科の担当医の女医さんに聞きに行ってきた。

 とにかく言いにくいことを平気で言う先生。

 こんな調子だ。病名が分かった時の会話―。

 「この病気は薬もありません。リハビリも効果はあまりありません。進む一方です。」

 「そんな!どうすりゃいいんですか?」

 「マー、佐々木さんは社会人として普通に過ごされてきたんですから、今までと同じに過ごされるんですね!」

 こんな調子のやり取りを年に数回、重ねてきた。

 そしてこの日の検査結果のやり取り。

 「MRIなどの検査結果を見ると、マー、内臓はあと20年は持ちますね」

 「ゲッ、先生、そうなると100才ですよ」

 「大丈夫!病気自体は徐々に進行しますけど‐‐‐、マー、脳内部に筋疾患特有の変化が見られます。そうだ、佐々木さん、こういうのがあるんです。登録しませんか?」と言って渡されたのが「ブレインバンク」の説明書=写真。要するに死後、大学病院などでの解剖を希望する”献体”と同じで、脳を提供するのだという。だから「献脳」。「ブレインバンク」というそうです。

 突然勧めるのがいかにもこの先生らしい。

 当方の死後、遺体を「国立精神・神経センター病院」に運び3、4時間かけて解剖、脳や脊髄の神経細胞を取り出し、研究のために保存、役立てるシステムという。

 薬も、治療法もなく、全国に500人程度しかいない当方の病気の解明に少しでも役立つならーと早速、申し込むことにした。患者のほとんどが20歳前後で発病、数年で車イス状態になる。

 当方が診断されたのは65歳、担当医は「佐々木さん、あなたはこの病気の学会では有名人なんですよ。70歳近くなってこの病気にかかる人はレアケースなんです」。

 毎日新聞社での十分楽しい生活を送ってきたことを考えれば、恩返し。それなりに役に立ちそう。

 死後、大学病院などに遺体を解剖に役立たててもらう「献体」というシステムがある。しかし独居老人などが増えて、申し込みが多く、「申し込みお断り」というところも多いと聞く。私の身の回りにも大学病院への「献体を」断られた‐という人がいる。さらにこの「献体」は解剖の順番がすぐに来るわけではなく、数ヶ月かかることもある。解剖後、お骨になって帰ってくる。葬儀から骨上げの儀式がなくなる。

 しかしこのブレインバンク、「献脳生前登録」では同病院での病理解剖後3、4時間で遺体は自宅に戻れる。そのまま葬儀を執り行うことが可能だ。

 「国立精神・神経医療研究センター病院」は、パーキンソン病や筋ジストロフィー、ALSなど脳神経疾患、筋肉疾患、精神疾患などの、脳や脊髄に存在する神経細胞の異常によって起きる難病の全国の中心センター病院になっている。このため2006年から、これらの病気の治療法を確立するため、患者や健常者の脳の提供を死後に受けて、治療法や薬品の開発に役たてようという事で、このブレインバンクをスタートさせた。すでにパーキンソン病などの治療に役立つ成果が出ているという。

 別に脳の異常がない人でも、病気を持つ人との比較の意味で「献脳」は有難いという。将来的には認知症の解明にも役立つこともありそう。

 私が「ブレインバンク」への登録を家族に話したら、「私も申し込もう。認知症の治療に役に立つかもしれない」と女房。娘に話すと「お母さんの方が役に立つかもしれない!」

 マー、ご興味のある方は下記のところに連絡を取ってみてください。ブレインバンク研究協力関係を結んでいる「献脳」可能な大学病院などは全国に、9か所があるようだ。ご興味のある方は、以下のホームページなどでコンタクトをとってください。

https://www.brain-bank.org/ (ブレインバンク事務局のHP)
https://www.ncnp.go.jp/ (国立精神・神経研究センター病院)

2021年4月21日

写真が撮れます!近美で開催中の「あやしい絵」展



 毎日新聞東京本社のある竹橋パレスサイドビルのお隣さん、東京国立近代美術館で開催中の「あやしい絵」展(毎日新聞社など主催、5月16日まで)。

 「あやしい絵」のネーミングが受けたのか、連日かなりのにぎわいだという。4月20日から後期展となって、毎日新聞社が出品している「新聞錦絵」も変わった。

 この「新聞錦絵」、「東京日日新聞」創刊者のひとりである浮世絵師の落合芳幾が「東京日日新聞」から題材を拾った。1045号(明治8年6月19日付)の記事にある事件をビジュアル化したものだ。

 社会部旧友・今吉賢一郎著『毎日新聞の源流』(毎日新聞社1988年刊)によると、《「錦絵は新聞の付録だった」といわれることがある。が、これはあくまで日報社(注:東京日日新聞の発行元)とは別個の版元がつくる商品だった。新聞のおまけではない》。

 さらに《題字に脇の天使の絵は、長野県松本市の開智学校の正面玄関の彫刻にもなった》と紹介している。

 いきなり脱線してしまったが、同館のHPにある開催の趣旨——。

 明治期、あらゆる分野において西洋から知識、技術などがもたらされるなか、美術も西洋からの刺激を受けて、新たな時代にふさわしいものへと変化していきました。

 このような状況のもとで生み出されたさまざまな作品の中には、退廃的、妖艶、グロテスク、エロティックといった「単なる美しいもの」とは異なる表現がありました。これらは、美術界で賛否両論を巻き起こしつつ、激動する社会を生きる人々の欲望や不安を映し出したものとして、文学などを通して大衆にも広まっていきました。

 本展では幕末から昭和初期に制作された絵画、版画、雑誌や書籍の挿図などからこうした表現を紹介します。

 これから私が撮影した「あやしい絵」のいくつかを紹介します。うれしいことに、一部の作品を除いて「撮影可」なのである。

 甲斐庄楠音「畜生塚」(大正4年頃)。「描かれているのは、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の妻妾と侍女たち」。謀反の疑いを晴らすため秀次は自害したが、この女性たちは市中引き回しのうえ、見せしめとして殺された。遺骸を埋めた塚は「殺生塚」「畜妾塚」「畜生塚」などと呼ばれた、と説明にあった。

甲斐庄楠音「横櫛」
上村松園「花がたみ」

 この2枚は、アップで撮った。左は、この展覧会のメーンキャスター。看板、チラシ、チケットに使われている。

 松園の「花がたみ」は、20日からの展示替えで遭遇する機会に恵まれた。

 次は、これが何故「あぶない絵」なのかは、分からない。つい先日、日本橋の三井記念美術館「小村雪岱展」で、「シャレた絵だなぁ」と感心したばかり。展覧会のサブタイトルが「江戸の粋から東京モダンへ」だったから、なおさらだ。

小村雪岱「おせん 傘」。邦枝完二の連載小説「おせん」の挿絵原画

 かつてのお隣さんへ、是非足を運んでください。

(堤  哲)

2021年4月19日

「あやしい絵」展に、明治時代の「東京日々新聞」展示

 東京国立近代美術館で開催中の「あやしい絵」展(毎日新聞社など主催)に「東京日々新聞」892号(明治7年12月)が展示されています。後期(4月20日~5月16日)には、1045号(明治8年8月)が展示されます。「毎日新聞社所蔵新屋文庫 : 新屋、山下両家寄贈 : 幕末・明治錦絵新聞等コレクション」からの出品とのことです。

 毎友会ホームページで今月から閲覧できるようになった社報・春号で、来年(2022年)2月21日に「創刊150年」を迎えるにあたり、「社会をつなぐ、言葉でつむぐ」のキャッチフレーズとロゴマークを決定、発表したと記載されています。

 社報閲覧にはIDとパスワードの入力が必要です。すでに1月の社報配布の際にご案内していますが、不明の方は「毎友会ホームページ改革のお知らせ」をご覧になってメールでお問い合わせください。

(毎友会事務局)

2021年4月15日

元外信部、永井浩さんの「ミャンマー民主化伴走記」を福島清さんが拡散

「日本のお金で人殺しをさせないで!」と訴える在日ミャンマー人(撮影・明珍美紀「憲法とメディア」サイトより

 アウンサンスーチーさんの「ビルマからの手紙」を紙面化した永井浩さん(79)が、WEB上の「日刊べリタ」で、軍部のクーデターが起きたミャンマーについて論評を続けていることは、2月にお知らせしましたが、友人の福島さんが「クーデターと私たち~ミャンマー民主化伴走記」としてレポートを再録、多くの人に読んでほしいと呼びかけています。

 福島さんは北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会の事務局を務めていますが、「広める会」の会報号外として、永井さんの19本の論評を紹介。「東南アジア問題を徹底取材した経験を基礎にしたミャンマーに関する論評は、歴史・風土・人々から仏教の関わりまで多彩です。とりわけ、ODAを通じて、ミャンマーの経済に深く関わっている日本政府と財界の姿勢を鋭く糾弾しています。この永井レポートは、ニューズウイークが注目して連載をはじめ、4月9日版は、81,000ものアクセスがあったとのことです。今、ミャンマー民主化と闘う人々と連帯して、日本国内でも在日ミャンマー人をはじめ多くの方々が、ミャンマー国軍の暴挙糾弾の行動を起こしています」と拡散の趣旨を記しています。

 「伴走記」ですので、継続します。続きはぜひ「日刊ベリタ」 www.nikkanberita.com をご覧ください――と福島さん。2月1日紙面は

 http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202102012123521
「広める会」はhttp://miyazawa-lane.com/

 これまでのレポート19回の見出しは以下の通りです。

1 ミャンマーでクーデター、日本政府は今度こそ民主化支援を惜しむな バイデン米政権はスーチー氏らの解放求める(2021/02/01)
2 スーチーさん、4度目の自宅軟禁 よみがえるミャンマー国民の軍政への恐怖(2021/02/03)
3 「アウンサンスーチー」か「アウン・サン・スー・チー」か メディアの表記不統一が意味すること(2021/02/04)
4 アジアの女性政治指導者たちの栄光と失脚 新しい指導者像を予感させたスーチー氏の復権は可能か?(2021/02/05)
5 ミャンマーの軍政反対デモ、連日つづく 仏教の真実を求め、「諸行無常」を現体制否定の武器に(2021/02/07)
6 キリンの英断、ミャンマー国軍系企業との提携解消 企業の倫理責任重視は世界の潮流(2021/02/08)
7 軍は再び民主化デモへの武力弾圧に乗り出すか ミャンマー国軍に「ファシスト」日本軍の負の遺産(2021/02/12)
8 ミャンマーの民には義理がある! 日本軍兵士たちが戦場で見た「もうひとつのビルマ」(2021/02/18)
9 民主化に託すミャンマー国民の「豊かな」暮らしとは? ビルマで日本の経済繁栄を自問した元日本兵(2021/02/21)
10 「おなじ人間として」の灯を受け継ぐために 「3・11」とミャンマー民主化をつなぐもの(2021/02/23)
11 ミャンマー国軍の武力弾圧激化、日本政府の新規ODA停止は民主化逆行の歯止めになり得るか 問われる人権への本気度(2021/03/01)
12 ミャンマーの名もなき英雄たち「恐怖からの自由」を武器に非暴力で軍の銃口に立ち向かう(2021/03/06)
13 ミャンマー・クーデター、新聞社説は政府の絵空事を合唱 問われる日本の民主主義 (2021/03/12)
14 クーデターで混乱長期化のミャンマー 都市部の物価高騰が貧困層直撃、不服従運動で輸出入が低迷、戸惑う進出企業(2021/03/21)
15 「ビジネスにも日本の美学を」スーチー氏がミャンマー進出日本企業にもとめる「和敬清寂」の精神(2021/03/27)
16 孔雀の勝利の踊りはいつ? クーデターへの非暴力抵抗を呼びかけ拘束されたスーチー氏側近のNLD幹部、不屈の歩み(2021/03/17)
17 繰り返されるミャンマーの悲劇 繰り返される「民主国家」日本政府の喜劇(2021/03/30)
18 日本の対ミャンマー政策はどこで間違ったのか 世界の流れ読めず人権よりODAビジネス優先(2021/04/04)
19 「日本のお金で人殺しをさせないで!」 ミャンマー国軍支援があぶり出した「平和国家」の血の匂い(2021/04/09)

※「クーデターと私たち~ミャンマー民主化運動伴走記」全文は、以下をクリックしてください。
★★ミャンマー情勢伴走記・永井浩.pdf

2021年4月14日

元主筆の伊藤芳明さんが日本記者クラブ名誉会員に

 日本記者クラブ会報4月号を転載します。

2021年4月5日

小倉孝保論説委員が日刊ゲンダイに連載「一条さゆり」

 毎日新聞金曜日朝刊2面の連載コラム「金言」(kin-gon)の筆者・論説委員の小倉孝保さん(88年入社、カイロ支局長→ニューヨーク支局長→欧州総局長→外信部長→編集編成局次長)が日刊ゲンダイに「伝説のストリッパー一条さゆりとその時代」を連載している。

 何故?と思って調べると、小倉さんは大阪本社社会部時代に、釜ヶ崎に住んでいた晩年の一条さゆりにインタビュー取材を重ねていた。

連載第1回(3月30日付日刊ゲンダイ)

 一条さゆりが1997年8月3日に60歳で亡くなり、その訃報を社会面に書いた。さらに全文1742字にのぼる評伝?も執筆した。

 その後、『初代一条さゆり伝説—釜ヶ崎に散ったバラ』(葉文館出版1999年刊)を出版した。

 《私が一条を訪ねるようになったのは前年(96年)5月だった。東京オリンピックの年に生まれた私にとって、「一条さゆり」という名前に深い感慨はなかった》

 《「ストリップの世界で一時代を作った人」「わいせつ裁判で権力と闘った女性」という知識だけはあった。その女性が、日雇い労働者の町、大阪・釜ヶ崎で生活保護を受けて一人で暮らしていると聞き、連絡を取ったのが最初だった》

 《私の頭にあった、「一世を風靡」「幻のストリッパー」「特出しの女王」というイメージと、「労働者の町」「生活保護」という現実がおよそかけ離れた感じがして興味を覚えたのだ》

 《電話を持たない一条に、手紙で会いたい趣旨を伝えると、彼女はすぐに電話をかけてよこした》

 おもろいネタは取材して紙面化する。大阪社会部「街頭班」育ちの記者は、どん欲だ。

 小倉記者もその典型で、海外特派員になっても現場第一、突撃取材を続けている。

 ニューヨーク特派員だった2008年1月に、ロサンゼルス郊外の高級住宅街に住んでいた元外信部長大森実さんにインタビューしている。大森さんは、その2年後に88歳で亡くなり、小倉記者は「記者の目」を書いている。

 大森さんは、大阪社会部の伝説の特ダネ記者だった。

 「記者の目」にこうある。《大森さんは終戦と同時に毎日新聞記者になった。大阪本社社会部を経てニューヨーク、ワシントンの特派員を経験、66年に退職している。その2年前に生まれた私は、外信部長として指揮した連載「泥と炎のインドシナ」に代表される大森さんの記者としての実績を同時体験しているわけではない。しかし、学生時代から国際報道に関心を持ち、どこかで大森さんの存在を漠然と意識し、入社の動機の一部には、「泥と炎のインドシナ」があったように思う》

 《実際に記者になって特派員の道に進むと、大森さんの成し遂げたことの大きさに圧倒された。60年のアイゼンハワー米大統領の訪日(安保闘争の混乱で途中で中止)に同行して特ダネを連発、ボーン国際記者賞(現在のボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。65年1月からの連載「泥と炎のインドシナ」で新聞協会賞に輝いた。インドネシアのスカルノ大統領(当時)と会見してハノイ訪問のあっせんを依頼、同年9月、西側記者として初めて北爆下のハノイからリポートした。このうちのどれか一つでも、記者としては評価されるはずだ。まさしく近寄りがたいほど大きな先輩だった》

『大森実伝—アメリカと闘った男』は、毎日新聞社から2011年に出版された。

 新聞に書いた原稿をフォローして、出版に結びつける。精力的だ。

『戦争と民衆—イラクで何が起きたのか』(毎日新聞社2008年刊)
『ゆれる死刑—アメリカと日本』(岩波書店2011年刊)
『柔の恩人—「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館2012年刊)
『三重スパイ—イスラム過激派を監視した男』(講談社2015年刊)
『空から降ってきた男—アフリカ「奴隷社会」の悲劇』(新潮社2016年刊)
『がんになる前に乳房を切除する—遺伝性乳がん治療の最前線』(文藝春秋2017年刊)
『100年かけてやる仕事—中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社2019年刊)
『ロレンスになれなかった男—空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA 2020年刊)

 「一条さゆり」連載のきっかけは、日刊ゲンダイが『ロレンスになれなかった男』を書評で取り上げたこと。その際、「日刊ゲンダイで連載できるネタがないか」と尋ねられ、『初代一条さゆり伝説』の著作を話したという。

 連載が始まって、反響は「会社は許可したのか」。

 小倉さんは言う。「日刊ゲンダイから依頼があったとき、会社の知財担当部署に相談し、本人の著作権利用ということでOKをもらい、所属長の許可をもらい、人事部に書類を提出しています。つまり社内手続きはすべて済んでおります。ご了解ください」

 連載は6月まで続く予定という。

(堤  哲)

2021年4月4日

濁水かわら版108号 日本の医療改革を本気で目指したサムズ氏…

 濁水かわら版第107 号に載ったサムスさんの略歴を再掲します。

 クロフォード・F・サムス軍医大佐(後准将1902~1994)

 1902 年:イリノイ州生まれ
 1922 年:カリフォルニア州歩兵連隊に入隊
 1925 年:カリフォルニア大学理学部卒業
 1929 年:医学博士号(脳神経外科)取得
 1940 年:第8 師団軍医1942-3 年:中東チフス調査団責任者・軍医大佐
 1944-5 年:ヨーロッパ戦線に参加
 1945 年:日本本土進攻作戦計画に関与、マニラから日本へ。公衆衛生福祉局

2021年4月3日

元学芸部長、奥武則さん、BPO任期満了で「ホッと」

 放送倫理・番組向上機構(BPO)という組織について知っている人はそれほど多くないだろう。NHKと民放連、民放各社が作った第三者機関である。放送倫理検証委員会・放送人権委員会・青少年委員会という独立した3つの委員会で構成されている。まだ大学教師をしていたころ、なぜか、このうちの放送人権員会の委員にスカウト(?)された。委員長代行として3年+3年、委員長として3年、計9年間も関わってきた。ようやくこの3月いっぱいで委員長の任期も終わり、委員会からリタイアした。

 どういう活動をしているのか、といったことについてはここではふれない(興味のある方は、BPOのホームページをみれば、くわしく分かる)。

 「人権」の専門家だったわけではないし、新聞記者としてどちらかというと、人権を侵害する側にいた人間である。その後も、一介の研究者として日本の近現代のジャーナリズムについて勉強してきたに過ぎない。こうした身には、委員会の仕事は正直いささか荷の重いものだった。

 私にとって、最後の案件となったのは、フジテレビのリアリティ番組「テラスハウス」をめぐる申立てだった。退任直前の3月30日、決定内容を当事者に通知し、記者会見で公表した(上の写真はテレビニュースの画面から)。

 31日の新聞各紙には比較的大きく報道された。毎日新聞は1面トップ。2面に解説風記事があり、社説でも取りあげていた。ちょっとびっくりである。

 まあ、反響を含めていろいろ感想はあるが、私的ブログで述べることではないだろう。

 ともかく私としては「重い荷」を降ろして、ホッとしているところである。

(奥 武則)=「新・ときたま日記」から転載

 ※奥武則さんは、法政大学名誉教授。毎日新聞客員編集委員

2021年3月30日

『チェリー・イングラム』阿部菜穂子さんがZoom講演会

 イギリス在住の社会部旧友・阿部菜穂子さん(81年入社)が3月26日午後9時(現地同日正午)から「チェリー・イングラム―日本の桜を救ったイギリス人」を日本語で講演した。大和日英基金(Daiwa Anglo-Japanese Foundation 、1988年設立)主催のZoom講演会。

 「参加64人。50人の定員を大幅に上回り、これまでのウェビナーで参加者が一番多かったそうです。そのほとんどが日本とイギリス。日本では東京以外に秋田や岩手、大分、福岡、京都の方がいらっしゃいました。在ロンドン日本大使館の公使の方を含め2名の大使館員もおられました」と阿部さん。

司会のジェイスン・ジェイムズ大和英日財団事務局長
阿部さんが前回行った同財団の講演会で

 東京ではソメイヨシノが満開だが、イギリスでは3月半ばから桜が咲き始め、5月半ばまで2か月間もお花見を楽しめる。英国人園芸家コリングウッド・イングラム(1880-1981)=写真・右=が20世紀初めに日本の桜の虜になり、明治・大正・昭和期に3度訪日して、多種類の桜の穂木を持ち帰ったことによる。英国の桜は多種多様で、「太白」などは日本に里帰りしているのである。

「太白」の花

 阿部さんは、最後に「日英桜植樹プロジェクト」で、すでにイギリス国内の120か所に4241本の桜が植樹され、来年春までに目標の6000本を達成することを明らかにした。

 このプロジェクトは、日本人から6000本の桜をイギリス人に贈呈するもので、在英日本人による実行委員会が2017年から推進している。日英協会(東京・千代田)が資金を調達した。米ワシントンのポトマック河畔の桜並木のような名所を英国各地につくる構想だ。日英友好事業である。

 メールで阿部さんに感想を求めると——。

 《パワーポイントがうまくスタートしなかったのでひやひやしましたが、無事に終えることができてよかったです》

 《英語でのウェビナーも何度かやりましたが、その時は英国のほか米国やオーストラリア、アジア、中東などからも参加者がありました。日本語となるとやはり日本語のできる人は限られるようです》

 《私としては、今のところチェリー・イングラムの本は日本以外の国からの反響のほうがずっと大きいので、もうちょっと日本でも知られたらいいなと思います。日本の桜が親善大使として外国に広まっていくのはうれしいです。そして世界のなかでは、日本はやはり、こういった「ソフトパワー」で勝負すべきだと思います。争いではなく、平和、友情、愛情。人と人をつなぐ絆。日本を代表して、桜にそんなシンボルになってほしいと思います。(もうなっていると思います)》

『チェリー・イングラム』各国版

 『チェリー・イングラム――日本の桜を救った英国人』(岩波書店)は2016年、第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

 日本語版を全面的に英語で書き直し、2019年春、英国、米国、オーストラリア等英語圏で’Cherry’ Ingram—The Englishman Who Saved Japan’s Blossoms をペンギン社から出版。さらにドイツ語、イタリア語、オランダ語、ポーランド語、スペイン語に翻訳され、2022年には中国語版が出版される予定だ。

 阿部さんのHPにある各国での反応・称賛——。

 *BBC Radio4: ‘Book of the Week’ March 2019 (BBC ラジオ4‘ブック・オブ・ザ・ウィーク’ 2019年3月)
*The Sunday Times: Best Gardening Books, 2019(英サンデー・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍)
*NPR's Science Friday: Best Science Books, 2019(米公共ラジオ放送、2019年最優秀科学書籍)
*The Irish Times: Best Gardening Books, 2019 (アイルランド・アイリッシュ・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍)
*PopMatters: Best Non-Fiction Books, 2019 (ポップ・マターズーー米国で人気のあるポップカルチャーに関するウェブサイトーー 2019年最優秀ノンフィクション)
*The Daily Mail: Best Books for Nature Lovers, Christmas, 2019 (英デイリー・メイル紙 2019年12月 自然愛好家に最適の書籍)
*Woodland Trust: Best books of the Year 2019  (ウッドランド・トラストーー英国最大の環境保護団体――2019年最優秀書籍)

(堤  哲)

2021年3月30日

5万号をめぐる朝毎読の号数比べ

 朝日新聞の大阪・名古屋本社発行版が2021年3月2日、5万号を迎えた。朝日新聞が大阪で創刊したのが1879(明治12)年1月25日だから、142年ちょっとかかっている。

 この日の東京発行の朝日新聞は4万8392号。毎日新聞は5万2204号、読売新聞は5万2148号だった。

 毎日新聞が5万号に達したのは、2015(平成27)年2月12日。「東京日日新聞」創刊の1872(明治5)年2月21日から号を重ねている。来年創刊150年を迎える。

 読売新聞の5万号は、同じ2015年の4月9日だった。創刊は1874(明治7)年11月2日だ。

朝日新聞の東京本社版は4年後に5万号を迎える、と記事にあった。東京での創刊は1888(明治21)年7月10日である。

 他にすでに5万号を突破したのは、スポーツ報知(報知新聞)が2020(令和2)年11月18日(「郵便報知新聞」として1872(明治5)年6月10日創刊)。

もうひとつ、山梨日日新聞が同じ2020年の12月3日に「5万号」特集を発行している。同紙は1872(明治5)年7月1日「峡中(こうちゅう)新聞」として創刊、「地方紙で最も古い歴史を持つ」とHPにある。

 ところで本日3月28日の毎日新聞は第5万2230号、読売新聞は第5万2174号。56号差だ。

 号数の起算の原点、創刊が2年以上も違うのに、「56号差」は何故か。

 読売新聞は5万号紙面に、「号数」の解説をした。《東京本社では、休刊日で朝刊がない日は夕刊をカウントし、夕刊がない地域は翌朝刊を「合併号」として2回分カウントする》

 一方の毎日新聞は、「号数」は朝刊の発行回数で、夕刊は朝刊と同じ号数を付けていた。

 つまり休刊日の度ごとに、1号ずつその差が縮まっていたのである。

 「このままでは読売新聞に号数が抜かれる」

 毎日新聞幹部が危機感を感じたのか。毎日新聞は4万号を達成した次の休刊日1987(昭和62)年9月24日付け夕刊から「読売方式」を導入、以来「56号差」は保たれているのだ。

 もっとも朝日新聞も日本経済新聞も産経新聞も、「毎読」の号数競争には一切関知せずで、休刊日明けの夕刊は休刊日の朝刊の号数をそのまま付けている。

 号数競争はともかく、今最大の問題は、各紙とも発行部数を減らしていることだ。新聞の危機がいわれる。反転攻勢はあり得るのか。現役諸君の踏ん張りを期待したい。

(堤  哲)

2021年3月24日

青田孝著『鉄道を支える匠の技』が「島秀雄記念優秀著作賞」受賞!

 3月24日付け「交通新聞」1面の記事を転載する。

 ——鉄道友の会の2020年「島秀雄記念優秀著作賞」受賞作品、「鉄道を支える匠の技」(青田孝著、交通新聞社新書)に対する表彰式が23日、東京・神田駿河台の交通新聞社本社で行われた。

 「鉄道を支える匠の技」は、鉄道関連企業の現場を訪ね、ものづくりの角度から鉄道業 全体を検証する著作。企業へのきめ細やかな取材と分かりやすい解説で、国際的にも認められつつある匠(たくみ)の技を紹介する書として評価を得た。

贈呈式後の記念撮影(左から3人目が青田氏)

 式には、青田氏のほか、選考委員会選考委員長の大賀寿郎氏(芝浦工業大学名誉教授)、鉄道友の会の小野田滋理事(鉄道総研情報管理部担当部長)、鹿山晃理事・事務局長、交通新聞社の横山裕司社長、中村直美常務、石田見常務、松河克彦取締役らが出席。大賀委員長から青田氏に賞状と記念盾が贈られた。

 青田氏は「神様のような存在である島秀雄さんの名を冠した賞をいただき、これほど名誉なことはない」と述べた。

 青田孝著『鉄道を支える匠の技—訪ね歩いた、ものづくりの現場』(交通新聞社2019年6月刊、865円)は、この毎友会HP「新刊紹介」2019年8月8日で紹介した。

 その全文——。

 2019年8月3日付日本経済新聞に続き、7日付東京本社朝刊「ブックウオッチング」欄で紹介された。

 ——鉄道を支える企業20社の技術に肉薄した。気づくのは、取り上げた企業のほとんどが中小、なかには社員8人という会社さえあることだ。日本の鉄路が、こうした人たちの汗で磨かれてきたことが手に取るように分かる。南満州鉄道(満鉄)出身者が創立した企業が登場するなど、日本の鉄道技術者の系譜がかいま見え、ぞくりとさせられる。鉄道はどんな角度からでも楽しめる、くめどもつきぬ愉楽の泉だ。

 青田さんは、1947(昭和22)東京生まれ。日大生産工学部機械工学科で鉄道車両工学を学び、卒業研究として国鉄鉄道技術研究所で1年間研修をしたという鉄道技術マニア。卒業後、毎日新聞社に入社。技術職から編集職場に移り、編集委員などをつとめた。

 70年入社の青田クンとの出会いは、「くりくり」編集部。少年野球の取材が記者生活のスタートとなった。成田支局、メディア情報部、編集委員などを歴任して2003年退職。フリーランスとして執筆活動を続けている

 交通新聞社新書として、これまでに『ゼロ戦から夢の超特急 : 小田急SE車世界新記録誕生秘話』(2009年10月刊)▽『箱根の山に挑んだ鉄路 : 「天下の険」を越えた技』(2011年8月刊)▽『蒸気機関車の動態保存 : 地方私鉄の救世主になりうるか』(2012年8月刊)▽『ここが凄い!日本の鉄道 : 安全・正確・先進性に見る「世界一」』(2017年6月刊)を刊行しているほか『トコトンやさしい電車の本』(日刊工業新聞社2019年7月刊)を発刊するなど、鉄道マニアぶりを発揮している。

(堤  哲)

2021年3月19日

センバツが2年ぶりに開幕!

 センバツが19日午前9時、阪神甲子園球場で開幕した。

 これまで開会式のクライマックスは、出場全チームがバックネット目指して行進を始めると同時に仕掛け花火が走る、派手な演出だった。

 ことしは出場32校のうち初日に出場する6チームだけが登場したが、グラウンドを行進することなく、残り26校はオーロラビジョンでの紹介となった。

 大会会長・丸山昌宏毎日新聞社社長は「2年ぶりの春がやってきた」と挨拶し、仙台育英高校の島貫丞キャプテンは「2年分の甲子園。多くの思いを込めてプレーすることを誓います」と選手宣誓をした。

丸山昌宏大会会長挨拶
島貫丞主将の選手宣誓

 観客は1万人と制限されていて、アルプススタンドも、無料で入場できる外野席もガランとした印象だったが、球児たちの熱いプレーが全国の高校野球ファンに勇気を与えることは間違いない。大会の大成功を祈りたい。

(堤  哲)

2021年3月14日

濁水かわら版 107号 背の低い日本人 が コロナに勝つには…

(中安 宏規)

2021年3月9日

ペリー提督役は、元毎日新聞記者の息子さん

交通ペンクラブ総会で挨拶する藜子さん、右は夫トーマス・ロバートソンさん(2009年)
東北新幹線試乗会で(2010年11月)

 3月8日付け夕刊社会面を見てビックリした。NHK大河ドラマ「青空を衝け」のペリー提督役が、毎日新聞の先輩記者ローバートソン黎子さんの息子さんだというのだ。

 黎子さんは、旧国鉄「ときわクラブ」のOB会的組織だった「交通ペンクラブ」の会員だった。台湾新幹線「台湾高鉄」に乗るツアー(2008年)に夫妻で参加、会報にトーマスさんが英語で紀行文を寄せ、黎子さんが翻訳して4ページの特集となった。

 夫妻でワシントンに戻ったあとも、黎子さんはナショナルプレスクラブに属し、日本のメデイアに情報発信していた。

 前回の米大統領選のとき、この毎友会HPでも、その活躍ぶりを紹介した。「84歳の現役ジャーナリストである」とある。

 このHPの随筆欄をず~っと下がってもらうと出てくる。

【ワシントン発ロバートソン黎子】頑張れ新聞!

日本交通協会で講演する黎子さん
熊本日日新聞のコラム「ウーマンズ・アイ」第151回

 ロバートソン黎子さんは、1957(昭和32)年早大政経卒。駆け出しの仙台支局でフルブライト留学生募集を知って応募、ヴァージニア大学に1年間留学。59年10月帰国後は外信部。日曜夕刊一面のインタビュー記事をまとめて、蒲田黎子著『もしもしハロー 私は第一線婦人記者』(七曜社1961刊)を出版した。61年退職、結婚してアメリカに渡った。

 黎子さんは、辛口のジャーナリストだった。日本でテレビにもよく出たが、本音をズバリと言った。熊本日日新聞のコラムは、新大統領に決まったトランプ氏を取り上げている。4年前である。ニューヨークタイムズなど主要紙は、クリントン支持を表明。トランプ氏は「真実を報道しない」とマスコミ批判を繰り返した。しかし、ニューヨークタイムズには自ら出掛けて記者たちと会見。ニューヨークタイムズは、その模様を記事、社説できっちと取り上げた。

 〈アメリカの民主主義を守る大きな柱は新聞である、という認識が、昔からアメリカ社会にはある〉                   

 〈「新聞は社会の木鐸」という自負が、日本の新聞にも昔からある〉

 〈読者のよりどころとなる新聞に、エールを送りたい〉

 と結んだ。

 黎子さんとは、メールでやりとりしていたが、ここ何年かご無沙汰していた。

 息子さんの記事をメールで送ったら、宛先不明で戻ってきてしまった。

 その後、2020年10月に88歳で永眠、とモーリーさんのブログに報告されていることが分かった。

 夫のトーマスさんは、2017年5月に亡くなった。83歳だった。

 モーリーさんの「装飾品扱いの日本女性」は、紙面より先に7日(日)「毎日新聞デジタル」にアップされた。有料記事で、文字数は3493文字。紙面でカットされた部分に、母親の黎子さんが「女性差別」と闘ったことを話している。

 《例えば、うちの母(ロバートソン黎子さん)なんか、毎日新聞の女性記者(外信部などで活躍)だった。試験会場に行ったときに女性は採用していないって言われたのを押し通したんですよ。形式的にだけでもと言って。だから、オヤジが大好きな女傑なんですよ。何かその凜とした才色兼備のみたいな。まるで、男みたいでほれるねみたいな、そういうふうにかわいがられるレイコちゃんだったんですよ、僕の母は。彼女はアファーマティブアクション(積極的格差是正措置)じゃなくてもぶち抜く人ですよね》

 モーリーさんにとって、黎子さんは、自慢の母親だったわけだ。

(堤  哲)

2021年3月8日

28日まで、人気の木版画「吉田博展」(東京都美術館)

東京都美術館の看板

 ————世界各国を旅し、雄大な自然をとらえた吉田博(1876~1950)のみずみずしい木版画は、アメリカをはじめ国外で早くから紹介され、現在も高い評価を誇ります。イギリスのダイアナ妃や精神科医フロイトに愛されたことでも知られています。日本に生きる画家として、世界に対抗しうるオリジナルな「絵」とは何かを模索し続けた末に生まれた、新しい木版画をご覧いただきます。

 これは「没後70年 吉田博展」(3月28日まで東京都美術館)のHPにある紹介文だが、会場に故ダイアナ妃の執務室での写真が飾られていた。そのバックに吉田博の木版画が2枚。右が瀬戸内海の「光る海」。左は同妃が1986(昭和61)年に来日した際、自ら購入した「猿澤池」だ。

 飾られているのは、ロンドン・ケンジントン宮殿の同妃の執務室。1987(昭和62)年5月に発行された皇室専門誌『Majesty』に掲載された、とHPにある。来日の翌年である。

 吉田博の木版画のスゴサは、複雑な色彩を表現するために、摺りを何回も重ねることにある。一番摺数が多いのは、日光東照宮の「陽明門」(1937年)。なんと96回摺りを重ねた。

 2番目は、亀戸の天神さんの太鼓橋を描いた「亀井戸」(1927年)の88回である。

 その平均は30数度に及ぶ。同じ版木を使って、摺色を替えることで刻々と変化する大気や光を表現。巨大な版木を使って特大版も制作している。

 そのあくなき探究心で独創的な木版画を生み出した、と解説にある。

 特大版では「渓流」(1928年)の水の流れのダイナミックさに圧倒される。

 会場に写生帖が何冊も展示されているが、どれも細密を極めている。とりわけ富士山や北アルプス穂高連峰などのスケッチは、息を呑むほどといったら大袈裟か。

 吉田は山好きで、二男に「穂高」と名付けたほどだ。

 23歳でアメリカに渡り、ボストン美術館、デトロイト美術館で展覧会を開き、さらにヨーロッパへ渡ってロンドン・パリ・イタリア、再びアメリカに戻るなど、31歳までの6年間を海外で過ごした。戦後、洋館の自宅が進駐軍に接収されそうになると、得意の英語で接収を免れ、その後、進駐軍が集う芸術のサロンとなったという。

 痛快な人生である。

 展示は200点ほど。閉幕まで3週間。上野へ行って下さい! ヘーとうなること間違いありません。

(堤  哲)

2021年3月5日

88歳で亡くなった関千枝子さんが『検証 レッドパージ70年』に感想を残す

 昨年12月31日付で発行した『検証 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに』について、感想・意見をいただきました。関千枝子さんは、亡くなる直前にご意見をいただき、関さんをはじめ嶌信彦さん、澤田猛さんら7人の感想・意見を「事務局だより」に特集しました。また引き続き感想・意見をお願いします。制作費カンパとして141人、5団体から、63万2500円のカンパを頂戴しました。

 ありがとうございます。心からお礼申し上げます。

(北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会・事務局 福島 清)

レッド・パージが新聞界を襲った意味

関 千枝子(毎日新聞OB)

 「検証レッド・パージ70年」ありがとうございました。大住さんが“70年”にこだわり」、どうしても2020年中に出すという覚悟らしいので、そんなの無理じゃない?と思っていたのですが、さすが剛腕・大住、改めて感心しました。池田一之さんの記事、覚えている人もなく、なかなか見つからないと聞いて心配していましたが、時間がかかったけれど、見つかって良かったです。でも当時、毎日新聞をやめている私が「(池田さんは)よくレッド・パージのことを書いたな」とびっくりしたのに、大勢の方々が全く記憶しておられなかったこと、ショックでした。とにかく、小林登美枝さんも、池田さんの取材をとても喜んでおられたので、小林さんの晩年に、よく声をかけていただいた後輩として、この冊子ができたことうれしいです。私、ほかの新聞社でパージにあい、本当に苦しんだ人知っています。レッド・パージがまず新聞界をおそったこと、その意味を今の方々がもっともっと知るといいですね。“70年”というのは大変な年月ですから。私が大学に入ったのもあの年。学内はレッド・パージ反対のデモがうずまいていました。大学の闘争、いろいろあったけれど、大学はレッド・パージをくいとめたのですから。

(関千枝子さんは去る2月21日、88歳で永眠されました。小林登美枝さんに関する貴重な証言と、池田一之記者の記事があることを教示くださいました。ご冥福をお祈りします)

★関千枝子さん追悼.pdf - OneDrive (live.com)

2021年2月26日

サンデー毎日に好評連載中!村山由佳「Row&Row」

 ——私たち毎日新聞出版は、時代を生き抜き、人生を多くの人とともに謳歌できるような本や雑誌を読者の皆さまにお届けしたい。その志を胸に、日々努力します。

 これは2020年6月に毎日新聞出版社の社長に就任した小島明日奈さんの就任挨拶である。初の女性社長だ。

 月刊「創」3月号に小島社長のインタビュー記事が掲載されているが、増刷の続く書籍をあげている。『汚れた桜—「桜を見る会」疑惑に迫った49日』『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』『公文書危機 闇に葬られた記録』など。いずれも毎日新聞取材班のキャンペーンものだ。秋山信一記者の『菅義偉とメディア』、大治朋子記者の「歪んだ正義『普通の人』がなぜ過激化するのか」も好評だ。

 日本の週刊誌で一番長い歴史を誇る「サンデー毎日」では、人気作家村山由佳さんの連載「Row&Row」が2021年正月から始まっている。

「Row & Row」第1回(2021年1月3・10日号)
同時に掲載された斎藤環×村山由佳対談

 ●村山由佳の連載小説「Row & Row」話題に
 人気作家、村山由佳さんの連載小説「Row & Row」(ロー・アンド・ロー)が話題です。村山さんといえば、女と男の赤裸々な性愛を描いた「ダブル・ファンタジー」(週刊文春連載)で新境地を切り開き、多くのファンを獲得しました。満を持しての今作も、男女の間に横たわる深い川をこぎ出し、歩み寄る作品に。「夫婦の会話とセックスレスを大きなテーマに据えています」(村山さん)とあって、初回から「自己決定権による一人の愉しみ」(同)を描くなど村山ワールド全開です。

 以上は、HPからの引用だが、現在発売中の3月7日号が連載第9回。ご愛読ください!

(堤  哲)

2021年2月17日

雲仙大火砕流30年―亡くなった石津勉さんとの同期の友情は今も(嶋谷 泰典)=大阪毎友会ホームページから

2017.06.03 長崎県島原市 雲仙・普賢岳定点にて

 東京毎友会のホームぺージに掲載された「雲仙普賢岳火災流取材拠点『定点』から取材車両など掘り起こし ― 発生から30年、災害遺稿整備に募金活動」を、大阪毎友会のホームページにも転載させてもらいました。その中に出てくる「カメラマンの石津勉さん」は、大阪本社写真部から西部本社写真部に移った記者でした。そこで、同期の嶋谷泰典さんに、石津さんの思い出や同期で取材拠点だった「定点」を訪ねた時の様子を、執筆してもらいました。(梶川 伸)

 西部本社写真部の石津勉さん(当時33歳)も犠牲になりました。4カ月後には、大阪本社に戻ることが予定されていました。

 ローテーションで早めに現地番を交代し「ちょっと上がってくるわ」の言葉を残して行き、そのまま帰らぬ人となりました。そのタイトルで、遺作集も出版されました。

 石津さんは1983年入社で私も同期。仲のいい期だったこともあり、大阪でのお葬式には、大阪本社はもとより、東京本社、西部本社からも多く参列してくれました。警視庁の泊まり勤務を代わってもらった者もいました。

 弟の石津勝さんも同世代であることから、今も「同期」としてのお付き合いが続いています。勝さんは内装美術のお仕事もされていることから、2002年にオープンした雲仙普賢岳災害記念館建設の外部スタッフも務められました。命日の前後には毎年、大阪府茨木市の石津さん宅に83年組が集まって、仏壇を拝んだあと、勝さんを囲んで、勉君が好きだったバーボンを飲みながら、思い出話を交わします。

 27回忌にあたる2017年、東京組も含めて6月3日に約10人が現地に集まり、この日だけ開放される「定点」に初めて足を踏み入れ、犠牲になった皆さんのご冥福を祈りました。そのおり、土中に埋まった社有車の一部を草村の中に見つけたのですが、それが今回掘り出されて、展示されるとのこと。関係者に感謝いたします。 以前私は、夕刊「憂楽帳」に、「風化させぬ」というタイトルで、コラムを書きました。でもその記事中、勝さんは「風化されるのはやむを得ない」と語っておられます。

 83年組はほぼ全員が還暦となり、私のように退職していたり、キャリアスタッフになったりしています。でも少なくとも、その友情が薄れることはありません。災害30年の今年、改めて同期で現地に集まろう、という声が上がっています。皆、さまざまな思い出を持ち寄ります。私は、亡くなる半年ほど前に、福岡の立呑屋で、安い「てっさ」に舌鼓を打っていた石津君の笑顔が、一番の思い出となっています。

(元広告局、嶋谷 泰典)

2021年2月12日

東日本大震災10年・龍崎孝さん(元政治部)がJNN三陸臨時支局開設の「書いた話 書かなかった話」を日本記者クラブ会報に

JNN三陸臨時支局/大震災取材で民放初の「通信部」/系列の総力が生んだ〝奇跡〟

 「このまま東京に居続けていいものだろうか」

 2011年3月、東日本大震災の発生から10日ほどたったある晩、ビールを飲みながら考え込んだ。TBSの多くの記者やカメラマンが被災の現場でいま取材を続けている。一方、自分は政治部のデスクとして、日々菅直人政権の動向を注視している。役割分担といえばそうだが、果たしてこのまま未曾有の災害を自分の足で取材しないで「記者」といえるのか。首都圏では計画停電が実施されていたが、都内は「別格」とばかり普段とあまり変わらない生活に戻りつつある。何より自分は今、一息ついているではないか。このまま「安全地帯」にいて、いずれ記者稼業から卒業した時に胸が張れるだろうか。

 と、思いついた、「あ、通信部という方法がある」。民放テレビ局はTBSも含め地方の系列放送局と友好関係で結ばれたネットワークで、全国のニュースをカバーし合っている。被災した岩手県や宮城県、福島県などではJNNの場合、その県にある岩手放送、東北放送、テレビユー福島の各局が放送の主体であり、TBSやJNN系列局から送り込まれるクルーは「応援」という形態をとる。JNNの中核であるTBSからデスクなども派遣するがあくまで当該局のサポートであり、言い換えれば「共同運航」ともいえる。ネット番組のスタッフもあまた取材に入るが、限られた時間内で現地取材し、東京に戻って放送に結びつける。

◆被災地駐在希望、支局開設へ

 今思うと当時よく使われた、被災地に「寄り添う」とはまさに絶妙な表現だった。そば近くに「寄り添」ってはいても、被災地、被災者と一体ではないのだ。あくまで傍観者にすぎない。だが、新聞社の通信部(局)の記者は、取材地に住み、24時間、警察も行政もスポーツも、ジャンルを問わず取材を続け、任期を終えると別の赴任地に去る。あくまで「よそ者」の視点を持ちながら、暮らしと取材を一体とする。

 テレビ局の取材で抜け落ちていたものは、「寄り添う」だけでなく「共に暮らす」「24時間そばにいる」取材ではないか。そう思い付くとその場で、星野誠報道局長(当時)にメールした。「被災地に行かせてください、一人でデジカメもって駐在します」。すぐに戻ってきた返事は「わかった、でもちょっと考えさせて」だった。

 1週間後に星野局長が明らかにしたのは、「被災地に支局を設ける」というスケールアップした発想だった。支局となれば放送の送出機能を持ち、取材体制も大がかりなものになる。新聞記者時代の経験から「3年間行きたい」と再び報道局長に伝えると「支局をまかせるからまず1年行ってみて。ただし君は記者というより『行政職』だから」と申し渡された。こうしてJNN三陸臨時支局の構想はスタートした。

◆未知数だった全国からの人員集め

 無理難題をお願いして気仙沼市内のホテルで支局開設にこぎつけた経緯は日本記者クラブ会報「リレーエッセー」(2016年7月号)に書かせていただいた通りだが、さて支局がスタートするにあたってはもう一つの難事があった。

 「行政職」ともなれば、自分がそこでなにを取材するかというより、全国からスタッフを集め、どのように取材をしてもらうかを考えるのが主務である。重大なポイントがあった。大阪の毎日放送=MBSの動向である。取材体制は4クルー、1中継チームと決まった。4クルーのうち2組はTBSと東北放送が派遣し、残り2組は北海道、名古屋、大阪、福岡にある準キー局が1カ月交代で1クルー、全国の地方局が2週間交代で1クルー出すことになった。震災直後の混沌とした中での、かつJNNにとって初めての試みに、各局がどのような経験を持ったクルーを派遣してくるか未知数だった。つまり支局の取材団の力がどの程度になるか、そこがスタート時の最大の課題だったといえる。支局長の私からは派遣する各局に対し「誰を送ってほしい」とは言えない。

 さて、新聞社でも同じような傾向があると推察するが、東京に「対抗」する大阪の放送局の意向は系列全体に影響を及ぼす。はっきり言えば、大阪の毎日放送がどのような協力姿勢を示すかで、三陸臨時支局の存在もパワーも大きく影響を受けるということだ。阪神・淡路大震災を経験した毎日放送の「震災報道」への思い入れは強く、この時すでに応援部隊とは別に、宮城県南三陸町を対象に独自の定点取材体制を整えつつあるほどだった。逆に言えば後発の三陸臨時支局にクルーを派遣する余力はあまりない、とも考えられた。

◆MBS、府警キャップ派遣の英断

 やきもきしながら気仙沼プラザホテルで5月1日に予定される支局開設の準備を進めていると、毎日放送から電話があった。「今日の午後、うちの社長がそちらに行きます。支局を見たいというので」。毎日放送は被災地で不足がちのラジオを提供する支援活動を始めており、被災自治体を訪問した河内一友社長(当時)が、岩手県内を回ったその帰路に立ち寄るとのことだった。

 その日午後、河内社長とは放送機材が積まれた支局の送出ルームでお会いした。1時間ほど、気仙沼の現状や見聞きした様子、支局開設に至った経緯などをお伝えしたと思う。緊張していたのだろう、今私の記憶に詳細なやり取りはない。2人だけで向かい合って座り、ただ淡々とお話をさせていただいたように思う。支局の窓からは3月11日の夜、猛火に包まれた気仙沼湾が広がっている。目を遠くにやれば、真っ黒に焦げ付いた大型漁船が、海岸線に横たわっているのが見える。「わかりました、この支局は必要です。毎日放送は協力します」。河内氏は会話の最後をそう結び、大阪に戻っていかれた。

 翌日だった。MBSの報道幹部から電話があった。「(大阪)府警キャップを行かせます、1カ月。使ってやってください」。被災地に応援クルーを何組も出している中で、留守を預かる大阪府警キャップの存在はとてつもなく大きいはずだ。いや、平時にあってももちろんそうだ。その府警取材のトップを支局に派遣してくれるのは「英断」というほかない。「涙が出るほどうれしい」とはまさに、この時こそ使う言葉だった。

◆気仙沼に集結した多彩な記者ら

 「MBSは府警キャップを支局に送り込んだ」。この決断は系列局にどのように響いたのだろうか。

 私には当時も今も確認するすべもない。ただ、三陸臨時支局にやってきたJNN各局の記者たちは、多彩だった。志願して2度も赴任した女性記者は、被害を受けたカキ漁師が再び立ち上がったことを自分の目で確かめた。準キー局のベテラン遊軍記者は夜の避難所に入り込み、消灯までカメラを回し続け、被災者の本物の言葉を引き出した。居ても立っても居られない、と三脚を担いできた報道制作局次長がいた。約束の赴任期日が終わっても本社に戻らず、車に泊まって取材を続けていた猛者もいた。「三陸の生き物はどうなってしまったのかを知りたい」と言ってやってきた大学院出の理系女性記者は、その後、ガラパゴス諸島に渡りチャールズ・ダーウィン研究所のスタッフになった。三陸で初めて全国中継デビューした北陸の記者たちは、その後地元市議会の不正を暴き、ドキュメンタリー作品を世に問うた。

 これらの記者たちすべての取材に立ち会えた幸せは、気仙沼に1年間暮らしたからこそだろう。政治部という職場を1年にわたって放棄した「罪」は、「JNNには被災地に24時間いつでも飛び込める取材拠点がある」という安心を守り続けたことで許してほしい。思いかえせば三陸臨時支局とは、JNN系列の責任感と誠意が生んだ〝奇跡〟だったかもしれない。

 龍崎 孝(りゅうざき・たかし)1984年毎日新聞社入社 浦和支局 東京本社政治部などを経て 95年に東京放送(現TBSテレビ)入社 報道局政治部 「報道特集」 JNN昼ニュース編集長 外信部デスク モスクワ支局長 政治部長 報道局担当局次長 解説委員 JNN三陸臨時支局長(2011年4月から12年3月) 16年4月から学校法人日通学園 流通経済大学スポーツ健康科学部教授

2021年2月12日

雲仙普賢岳火災流取材拠点「定点」から取材車両など掘り起こし ― 発生から30年、災害遺構整備に募金活動

 30年前の1991年6月、死者・行方不明者43人が犠牲となった雲仙・普賢岳大火砕流。毎日新聞カメラマンらが亡くなった取材拠点「定点」で、火山灰に埋もれていた毎日新聞の取材車両など3台が8日、掘り起こされた。周辺を災害遺構として整備、3月中の完成を目指し、報道各社も資金協力する。当時、現地で取材した神戸金史さん(54)=現RKB毎日放送=のフェイスブックック報告を転載し、加えて募金の趣旨などを紹介します。

 大火砕流で毎日新聞関係では、カメラマンの石津勉さん(33)▽制作技術部の笠井敏明さん(41)▽車両係の斉藤欣行さん(35)=年齢はいずれも当時=が亡くなった。写真部OBでフォーカスのカメラマンだった土谷忠臣さん(当時58歳)も犠牲になっています。

 神戸金史さんは91年入社。長崎支局を振り出しに島原支局、福岡総局。2005年に東京社会部からRKB毎日放送へ。09年6月から報道部長。現在、報道局デジタル報道担当局長

 長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流で被災した毎日新聞の取材車両を、30年ぶりに掘り起こしました。

 入社したばかりでまだ24歳だった私はあの日、1991年6月3日は交代していたので助かりましたが、この車に乗っていた3人の先輩が死亡しました。

 午後4時、最初の大きな火砕流が起きました。いつも火山灰が降る中、水を飲ませてくれたりよくしてくれた住民のお宅が心配になった3人は、「ちょっと上がってくるわ」と別のカメラマンに言って、車で上流に登って行き、2度目のさらに大規模な火砕流に巻き込まれてしまいました。

 43人の犠牲者のうち、報道関係者は、チャータータクシーの運転手を含め20人。

 住民が巻き添えになったという批判もあり、複雑な感情が地元にはありましたが、30年経って、地元の町内会が「この車をこのままにしておいてはいけない」と、掘り出してくれました。現地を整備し、毎日新聞の車両と2台のタクシーを保存します。長崎に拠点を置くメディアは資金面で協力することになっています。

 掘り起こされ、釣り上げられた車が地面に降ろされた時、万感胸に迫る思いがしました。

 今日はとても良く晴れて、きれいに普賢岳の全貌が見えました。

 普賢岳災害は、噴火から終息まで5年にわたりました。この間、1000人を超える報道関係者が現地入りしたと思いますが、大火砕流前を知る記者で終息まで見続けたのは、私一人だと思います。

 当時のことは、28歳で書いた手記『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした150 0日』にまとめて、1995年に出版しておりますが、すでに絶版であるため、昨年秋からネット上で公開を始めています。
https://note.com/kanbe67/m/m7b35a97cf3ae

災害遺構整備に寄付を募ります

 雲仙被災30年にあたり、地元の方々が、私たちの仲間を追悼し、教訓を語り継ぐ場を整備することを企画しました。「消防団は、報道陣の巻き添えで死んだ」という厳しい目があった中、30年後にここまで来たことは、胸に迫るものがあります。

 毎日新聞を含め、長崎に拠点を置くメディアは資金協力で一致しましたが、当時取材に携わり、知人・友人を亡くした方も全国におられます。受け皿となる窓口を作って、広く募金を集めて地元に送り、かつ二度とこうした被災を起こさない誓いとしたい。

 当事者である私は、そう考え、寄付専用口座を開設した次第です。

ジャパンネット銀行 はやぶさ支店 (金融機関コード 0033、店番号 003)
※ 4月、PayPay銀行に改称予定
普通 4858626 カンベ カネブミ
◆1口 2,000円から
◆振込手数料 各自ご負担ください
◆受け付け期限 7月30日まで

 同じ趣旨の文章を、RKBニュースnote公式で公開しています。
https://note.com/rkb_digital_hodo/n/ne7ba435dddd7/

 定期的に関連記事を掲載する公式Facebookページは、こちらです。
https://www.facebook.com/Unzen.Teiten/

 クレジットカードを利用する寄付専門サイトも用意いたしました。
https://syncable.biz/associate/Unzen-Teiten/

 大火砕流から20年に当たる2011年6月に、「長崎・雲仙普賢岳噴火:同僚失った毎日新聞記者、20年の思い」として神戸さんを含め4人の記者の思いがヤフーニュースに綴られています。下記のURLでご覧ください。

https://ameblo.jp/tokugawa39/entry-10911839364.html

2021年2月9日

長崎原爆テーマに、元「カメラ毎日」編集部、松村明さんが東京で写真展

 長崎の被爆者たちのポートレート「閃光の記憶 被爆75年」をテーマに、福岡在住の松村明(74)さんの写真展が11日から新宿区四谷1-7-12、日本写真会館5階ポートレートギャラリーで開催されます。入場無料。17日まで。詳しくは写真展案内をご覧ください。

2021年2月9日

ミャンマーのクーデターを懸念して―「ビルマからの手紙」の永井浩さんがコラム連発

ビルマ応援の会代表・宮下夏生さんと(会のHPから)

 元バンコク特派員で、外信部でアウンサンスーチーさんの「ビルマからの手紙」を紙面化した永井浩さん(79)が、WEB上の「日刊べリタ」で、クーデターの論評を連載しています。「手紙」について、外務省は再三、連載中止を要請してきましたが、当時の木戸湊編集局長は「『毎日』は民主主義を大切にする新聞」と、要求を突っぱねたことにも触れています。このうち2月7日付けコラムを紹介しますが、全編(2月1日、3日、4日、5日、8日)は下記のURLでご覧ください。

http://www.nikkanberita.com/index.cgi?cat=writer&id=200503311807354

《ミャンマーの軍政反対デモ、連日つづく 仏教の真実を求め、「諸行無常」を現体制否定の武器に》

 ミャンマーの最大都市ヤンゴンで6日につづき7日にも、国軍のクーデターに対する大規模な抗議デモがあった。なぜ軍政に反対なのか。それは、強権により民主主義と人権を奪うことは、国民の9割が信じる仏教の教えに反するからだ。軍側は抗議行動の封じ込めに躍起になるだろうが、人びとは抵抗をつづけるだろう。「諸行無常」という仏教の世界観が、この国では現体制否定の支えとなってきたからである。(永井浩)

▽政治的正当性の根拠としての仏法

 6日の抗議デモには約1500人が参加、アウンサンスーチー国家顧問が率いる国民民主連盟(NLD)のシンボルカラーである赤いシャツやリボンを身につけて、「軍政を倒し、民主主義を勝利させよう」「スーチー氏を釈放しろ」などと叫びながら、市内を練り歩いた。僧侶らの姿も見られた。

 ビルマ応援の会代表・宮下夏生さんと(会のHPから)ロイター通信によると、インターネットが遮断され、電話線の利用が制限されているにもかかわらず、7日の参加者は数万人にふくれあがり、抗議行動は国内各地に広がっている。

 その市民らが解放を要求するスーチー氏は敬虔な仏教徒である。

 彼女が1995年に6年間におよぶ最初の自宅軟禁から解放されたあと、最初にヤンゴンを離れて向かった先は東部カレン州の寺院ターマニャだった。同年から毎日新聞に連載された彼女の連載エッセイ『ビルマからの手紙』は、その紀行からはじまっている。そこは、「何十年も暴力が支配してきた土地の片隅に築かれた、たぐいまれな慈悲と平和の領地」として知られ、ミャンマー全土から何千人もの巡礼者が師ウー・ウィイナヤの説法を聴きにおとずれる。彼女もその巡礼者の一人となったのである。

 同師に教えを乞うたあと、彼女はこう記す。「政治とは人間にかかわることであって、慈愛(ミッター)と誠実(ティッサー)がいかなる強制よりも人びとの心を動かすことができるということを証明した」

 これが、彼女の政治哲学の基本姿勢であり、慈愛と誠実という仏教の教えは民主主義・人権と変わりないものとされる。

 それを政治的文脈でとらえると、軍政は、ミャンマーのような途上国の経済発展には上からの強権が必要だとする開発独裁を正当化するが、軍政下で経済は悪化し、特権層と国民の貧富の格差の拡大しているではないか。すべての人間は平等であるとする、仏教の教えに背くものである。だがそれに異を唱えようとすると、軍政は暴力によって国民を弾圧してまで富と権力に執着する。ここでも彼らは、非暴力・不殺生(アヒンサー)という仏教倫理に反している。

 いっぽう、民主化勢力がめざすのは、すべての国民の開発過程への平等な参加であり、それなしには健全な経済発展は望めないとされる。またわれわれはその目標を、あくまで非暴力によって実現しようとしている。

 こうしてアウンサンスーチーらは、ミャンマーの伝統的価値観である仏教の教えを正しく実践しようとしているのは、軍事政権かそれとも民主化勢力のどちらであるかと国民に問う。つまり仏法(ダンマ)が政治的正当性の根拠とされる。

 彼女は米国人僧侶アラン・クレメンツとの対話で、「民主主義のなかには、仏教徒が反対しなければならないようなものは、なにひとつありません」と言い切っている。また自分たちの運動を、ミッターを実践する「エンゲージド・ブッディズム」(Engaged Buddhism、社会参画する仏教)と呼んでいる。

 この国における仏教と政治の不可分の関係を国際社会に強く印象づけたのが、2007年9月に起きた10万人規模の僧侶たちの反政府デモである。

 ヤンゴンの目抜き通りを徒歩行進する僧侶たちが口にしていたのは「軍政打倒」のシュプレヒコールではなく、「慈経」の詩句だった。人間の宗教的実践、基本的原理として慈悲の大切さを強調する、仏教初期の経典は東南アジアの上座部仏教圏では現在も重要視され、「慈しみ」は結婚式で僧侶が新郎新婦におくる祝福と説教のことばのひとつとなっている。

 僧侶たちは軍事政権に道徳的忠告をしたのである。

 この僧侶の運動は欧米のメディアでは、僧衣の色から「サフラン革命」と名づけられた。東欧のオレンジ革命やグリーン革命になぞらえたのである。

 僧侶たちの隊列が、3度目の自宅軟禁下にあるアウンサンスーチー邸にさしかかると、彼女は家の門をすこし開き、僧侶たちに両手を合わせた。その姿が市民の携帯電話におさめられ、軍政のきびいしい情報統制をかいくぐり国内外に発信された。軍政批判と民主化支援の国際的な世論がさらに高まった。

 僧侶はミャンマーで、世俗を離れて日々、仏法をきわめようと精進する聖なる存在とされている。だが軍事政権は、その僧侶たちの隊列にも容赦ない暴力をふるった。軍政の権威はいっきょに失墜し、国民の軍政批判を加速させた。

 2日連続でおこなわれた、今回のクーデターへの抗議行動はサフラン革命以来の規模とロイター通信は伝えている。

▽「今日と精いっぱい向き合おう」

 軍政はサフラン革命後も、粘り強い抵抗をつづける人びとへの弾圧の手をゆるめようとしなかったが、民主化勢力は屈しなかった。

 彼らの精神的拠りどころとなったのが、諸行無常の世界観である。

 諸行無常といえば、私たち日本人がまず思い浮かべるのは、方丈記の「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という冒頭であろう。「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」とつづき、人の世のはかなさと無常観をあらわすものと考えがちである。

 だがミャンマーでの諸行無常は、もっと前向き、積極的なとらえ方をされている。

 この仏教の言葉は、「あらゆる現象は変化してやむことはなく、人間存在もふくめ、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一でありえない」という理法を述べたものとされる。これを、この世はつねに生成と破壊を繰り返していると解釈し、現体制を「過ぎ行く相」として否定する考えが生まれ、英国の植民地体制を打倒するイデオロギーの基盤となった。大英帝国の支配は未来永劫つづくわけではなく、いずれ終わらざるをえないとして、多数の青年僧が民族主義運動に参加した。独立を勝ちとれば、仏教の説く支配や搾取、貧富の差が否定された、現世の苦痛を克服する新しい世界が実現するであろう。

 ただし、世の中は自然に変わっていくのではない、よりよき未来をつくりだすには一人ひとりが現在の一瞬一瞬を大切にしてできるだけの努力を怠ってはならない。それが正しい仏教の行為であるという考え方が生み出され、一般民衆にも受け入れられていった。

 じじつ、諸行無常の世界観による闘いによって英国の植民地支配と、それに取って代わろうとした日本帝国主義のビルマ侵略の企ても終わりを告げた。軍事政権の支配もおなじようにいつまでも続くことはありえないが、その終焉を一日でもはやめるには、われわれ一人ひとりが過去にとらわれず、現在の一瞬一瞬をおろそかにせず新しい未来の実現にむけて働きかけねばならないのである。

 アウンサンスーチーは3度目の自宅軟禁から解放されて自由の身になり、『ビルマからの手紙』を再開した2011年元旦に、「今日と向き合おう」というタイトルで、「亡き夫がこよなく愛し、色あせない英知として私も胸にしまっている」という詩を紹介している。

 昨日はただの夢であり
 明日は予感にすぎない
 今日をしっかり生きたらば
 昨日という日は理想となり
 明日という日に希望を開く
 だから、今日と精いっぱい向き合おう
 (インドの詩人カーリダーサ作『暁への讃歌』の一節より)

2021年2月2日

「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」(阿部菜穂子著)がポーランド語に

 拙著「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」のポーランド語版がこのほど、ポーランドで出版された。このことをフェイスブックに投稿したところ、毎日OBの高尾義彦さんから「ぜひ、近況報告として毎友会に書いてほしい」と依頼があった。

 私は毎日新聞社に記者として14年間在籍(1981年-1995年)したとはいえ、定年まで勤めあげたわけではなく、OB (OG)とは言い難い。でも、亡父、阿部汎克も元毎日新聞記者で、毎日新聞社には親子二代でお世話になったうえ、私は退社後も同僚や先輩方との長いお付合いが続いている。今もこのようにお声をかけてくださることをとても有難く思い、「毎日ファミリーの一員」として近況報告させていただくことにした。

 さて、「チェリー・イングラム」ポーランド語版は、2016年春に東京で岩波書店から出版した冒頭の日本語の本がもともとの原本である。20世紀の初めに日本の桜の虜になり、日本に3度行って桜を持ち帰りイギリスに紹介した園芸家、コリングウッド・イングラム(1880―1981 )の生涯と業績を追ったこの本は、幸運にも第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、そこから外国語版の出版へ、と話が進んだ。

 まず2019年春、日本語版に新しい材料を加えて英語で全面的に書き直した「’Cherry’ Ingram –The Englishman Who Saved Japan’s Blossoms’」がイギリスの出版社(ペンギン・Chatto & Windus)から出た。これが予想以上に好評で、BBC ラジオで朗読されるなどの反響を経て、翌年、ドイツ語、オランダ語、イタリア語に翻訳された。そして今回、ポーランド語になった、という経緯だ。今年3月にはスペイン語版、来年には中国語版も出版される予定(中国語版は日本語版の翻訳)。コロナウィルスの被害が世界で広がり、出版界も大きな打撃を受ける中でこのような展開をしていることは、うれしい限りだ。日本の桜には国境を超えて人々を魅了する不思議な力があるものだと感心している。

 各国語版はみな表紙が違い、イタリア語版は薄い緑の地に桜の花を優しくあしらったデザイン、ドイツ語版は花と枝、葉をやや重厚に組み合わせた構成、またオランダ語版はピンクの花模様を下地に、眼光鋭いイングラムの白黒写真を上に重ねたもの、となっている。それぞれのお国柄が出ているようでとても興味深い。

 今回のポーランド語版は、これまでのどの表紙とも違って、きわめて異色である。黒地に中折れ帽をかぶったイングラムの肖像画を上乗せしたデザインで、油絵風の絵はヴァン・ゴッホの作品を思わせ、イングラムはまるで探偵のような雰囲気。ちょっとセンセーショナルで、大胆な表紙だと思う。

 出版元は、かつてのポーランド王国の首都、クラコフにある「ヤゲオ大学出版」で、研究書や政治、歴史ものを多く出している硬派の老舗出版社である。日本の歴史と絡めた桜の歴史や、近代日本で桜がイデオロギーに利用された経緯を書き込んだ部分など、「チェリー・イングラム」の硬派の部分を気に入ってくれたのかな、と思う。表紙のイングラムは、伝統の桜を忘れて染井吉野一辺倒となっていく日本人に対して「多様性を大事にしろ」と警告を発しているかに見える。

父阿部汎克(左端・元論説委員、ジュネーブ支局長)と楽しんだ最後の花見(2016年春、東京・調布の多摩川べりで)

 意表を突く表紙の背景には、ポーランド人の国民性があるのだろうか、とふと考えた。ポーランドの歴史は、ロシアやドイツなど近隣の大国によるパワー・ポリティクスに翻弄された歩みだった。大国に蹂躙され、征服されて何度も祖国が地図から消滅した。しかし、暗い時代も決して民族の誇りを忘れず、大国の圧政に抵抗し、言語や文化を子孫に伝え続けて最後には独立を勝ち取った。希望を捨てずに耐え忍ぶという強靭な精神を国民は共有しているのではないかと想像する。

 桜にも実は、2000年以上の年月の中で、人間社会の勝手な思惑に翻弄されたという過去がある。花の美しさの裏には、人間の愛憎入り混じった、きれいごとだけではない歴史があったのだ。

 ポーランド語版の一見衝撃的な表紙は、桜と人間社会のそんな複雑な歴史を見通したもののようにも思えるが、考えすぎだろうか。

 ポーランド人は伝統的に親日的で、両国は長く友好関係を保ってきた。ポーランドの人たちは本を読んで、どんな感想をもってくれるだろうか。反響が楽しみである。

(在英国・阿部菜穂子)

2021年2月1日

滋賀の都よ、いざさらば 毎日マラソン、大阪に里帰り

 敗戦から1年2ヵ月後の1946年10月10日、第一回を開いた毎日マラソンは、現存する日本最古のマラソン大会である。初期の16年間は大阪で行われたが、「故あって」琵琶湖畔にコースを移した。それがまた今年限りで60年ぶりに大阪に戻る。

 「故あって」とは、大阪開催続行が不可能になるアクシデントがあったからだ。

 1961年6月25日、第16回大会は前年のローマ・オリンピックで優勝したアベベ・ビキラ(エチオピア)を招き、大阪の浜寺公演を発着する国道26号線で行われた。ローマで靴をはかずに完走し、「ハダシのアベベ」の異名とどろく主賓は仲間のワミ・ビラツとともに来日し、今度は日本のメーカーから贈られたシューズで走った。

 午後3時スタートというのに、沿道は午前中から集まった群衆であふれ返った。歩道からコースにはみ出し、これで選手が走れるのか、と危ぶまれる中、号砲が鳴った。

 気象条件は高温多湿。それだけでも選手は苦しいのに、思いもかけぬ観衆の妨害が起こった。コースに侵入するどころか、自転車やオートバイでアベベに近付き、取り囲む。握手を求め、背中に触れ、中には手帖を差し出してサインを求めたり……。アベベは見向きもしないが、立ち止まることしばしば。それでも何とかゴールにたどり着き、2位のワミを10分以上離す2時間29分47秒で完勝した。まともに走っていれば、2時間10分を軽く切っていただろう。

 
見物のバイクに囲まれて走るアベベ

 異様なレースには大きな罰点が付いた。警備に当たった大阪府警の怒りを買い、「今後、大阪でロードレースは一切認めない」と追放を申し渡された。主催している毎日新聞社は返す言葉もない。どこかに新しいコースを探さなければならない。手を尽くした末、何とか行き着いたところは琵琶湖畔。大津市の皇子山陸上競技場をスタートし、近江神宮前を経て志賀町を折り返す湖岸の新しい舞台に決まった。のちに琵琶湖大橋の完成によって、西岸の競技場から東岸にわたり折り返すコースとなった。大会の名称も「びわ湖毎日マラソン」となり、昭和―平成―令和をつないだ。

 2年後に東京オリンピックが迫っていた。琵琶湖畔に移ったばかりのレースはすぐ東京へ。競技運営、選手に本番コースをなじませること、報道……円満に世紀のレースを運ぶための配慮だった。本番イヤー(1964年)は代表選考レースとなり、円谷幸吉、君原健二、寺沢徹の3人が代表に決まった。

 役目を果たした毎日マラソンは翌年、滋賀に戻る。そしてアベベがまたやって来た。オリンピック二連覇の栄光に輝いての再来だ。大阪で混乱を招いただけに運営サイドはことのほか気を遣い、混乱もなくアベベはまた2位を4分近く離す完勝だった。

 マラソン界に新時代が訪れる。女子の登場である。1982年1月24日、長居競技場を起点とする大阪女子マラソンは、豊臣秀吉築城400年を記念して「太閤はんの街」を走るのだ。イタリアのリタ・マルシチオが2時間52分55秒で優勝したが、21年前、「大阪で二度とマラソンはやらせない」と毎日マラソンを追放した警察は、今度はどう対応したのか。当時とは人も変わっていたにしても、これは時効と考えたほうがよさそうだ。

 この時、日本選手は誰ひとり10位にも入れなかったが、2年後には増田明美がロサンゼルス・オリンピック代表選考会を兼ねたレースで2位(2時間32分05秒)となり、代表に選ばれた。日本の女子マラソンの開拓者・増田の忘れられないレースである。

 そのころ大阪では一般市民が走る市民マラソンも始まり、やがてびわ湖毎日と統合する構想が浮かんだ。実現すれば湖畔から大阪復帰がかなえられる。

 昨年暮、大阪マラソン組織委員会が動き出した。市民マラソンは大阪府庁前をスタートし、御堂筋、なにわ筋、千日前通、今里筋……と市街を貫くメインストリートを3万6千人が駆け抜け、大阪城公園のゴールに至る。大阪をアピールするのにこの上ない舞台だ。

 今後の日程は2月28日に開かれる第76回大会(初期の国道26号線時代通算)を湖畔の最後のレースとして、来年、大阪に里帰りする。すでに帰阪第1回の開催日も来年の2月27日と決まっており、準備は着々と進んでいる。

 気にかかるのは、大阪から追放されて行く宛てのなくなった毎日マラソンを受け入れてくれた滋賀県、大津市当局、住民のみなさんが、移動を快く受け入れてくれるか、どうか。

 「伝統があり、県民が親しんできたマラソンが無くなってしまうとは」「このまま続くと思っていたのに残念」。湖畔から聞こえてくる声には淋しさがこもる。もちろん、大阪側は滋賀サイドに礼を尽くして了解を得た。

 こうして琵琶湖の春を彩ってきた毎日マラソンは、今年を最後に生まれ故郷に帰って行く。

(元大阪本社運動部 長岡 民男)

※長岡さんは昭和33年、和歌山支局から大阪運動部へ。陸上競技を中心に20数年、スポーツ取材を続け、50歳で繰り上げ定年。びわ湖マラソンは、アベベが走ったレースなども取材。自分でも中距離ランナーとして「駆けっこ大好き」と。89歳。

2021年1月25日

追悼・安野光雅さん ― 田中元首相の初公判イラストを描いていた!

 画家で文化功労者の安野光雅さんの訃報が1月17日に伝えられ、思い出したことがある。ロッキード事件丸紅ルートの初公判は1977年1月27日に東京地裁で開かれ、被告席の田中角栄元首相のイラストを担当したのが、安野さんだった。

 確か、あのイラストは安野さんのはず、と古いスクラップブックを引っ張り出して確認したら、迫力のある1枚が「法廷の田中被告 イラスト・安野 光雅」と、毎日新聞28日朝刊に掲載されていた。27日夕刊には簡単な法廷全景のスケッチが掲載され、田中被告のイラストは仕上がりにこだわる丁寧な描き方で、夕刊の締め切りには間に合わなかった。

 ここで一つの謎が残る。このイラストはその後、誰が保管しているのか。安野さんは昨年12月24日、94歳で亡くなったが、当時50歳。1968年に42歳の時に刊行した『ふしぎなえ』で絵本作家としてデビュー。74年には芸術選奨文部大臣新人賞などを受け、注目され始めた時期だった。学芸部を通じてイラストを依頼したと推定され、紙面に掲載された後、当時の調査部に保存されたとも聞いたことはない。

 どこに行ったのか、ご存じの方がいたら情報をお願いしたい。

(高尾 義彦)

2021年1月15日

TBSプレバト!!で紹介、石寒太さんの俳句歳時記

1月14日放映のTBS画面から

 TBSの俳句人気番組「プレバト!!」を見ていたら、毎日新聞出版から発行されている季刊『俳句αあるふぁ』元編集長の俳人石寒太さん(本名・石倉昌治、77歳)編著『ハンディ版 オールカラー よくわかる俳句歳時記』(2020年12月ナツメ社刊)が紹介された。

 この番組で俳句の査定をしている夏井いつき先生が「歳時記に自作が掲載されるのは一生の栄誉」と「プレバト!!」で発表した3人の作品が掲載されたことを発表、「(編著者の)石寒太さんは、俳句の世界の実力者のひとり」と紹介した。

 その3句。

 季語「双六」に、お笑いコンビ「フルーツポンチ」村上健志の作品。

  双六の駒にポン酢の蓋のあり

 季語「着ぶくれ」に、タレント的場浩司の

  職質をするもされるも着膨れて

 季語「無花果」に、お笑いコンビ「オアシズ」光浦 靖子の

  無花果や苛(いじ)めたきほど手が懐(なつ)き

 この歳時記、ナツメ社のHPでは「句会・吟行への携帯に便利なハンディサイズの歳時記。基本季語から表現の幅が広がる関連季語まで、充分な6630語を収録しました。季語のイメージが膨らむカラー写真、古典から現代までの幅広い例句、わかりやすい解説で初心者から愛好者まで長く愛用していただける一冊です」。

 小B6判・640ページ。定価:2,100円+税
 ISBN:978-4-8163-6936-0

 編著者の石寒太(石倉昌治)さんは、国学院大文学部卒。加藤楸邨に師事。1988年「炎環」を創刊、主宰。毎日新聞社『俳句αあるふぁ』編集長、毎日文化センターやNHK俳句教室の講師をつとめた。『あるき神』『炎環』『翔』『夢の浮橋』『石寒太句集』などの句集多数。

(堤  哲)

2021年1月5日

元サンデー毎日編集長、潟永 秀一郎さん、愛犬を悼む

 元「サンデー毎日」編集長、潟永秀一郎さん(現東日印刷)が、ご自分のフェイスブックに「ペットロス」の哀しみを報告しています。

 公的ではない喪中欠礼のご挨拶です。

 元日の午前3時半、子犬から15年、人生を共にした愛犬チェリンが死去しました。

 亡くなる1週間ほど前から少し息苦しそうでしたが、3日前まで普通に散歩に行って、ご飯もおやつも食べていました。2日前から急に呼吸が荒く、足腰立たなくなり、2回注射に行きましたが、最後は妻の腕の中で、眠るように逝きました。

 もう立ち上がるのも厳しいのに、亡くなる1時間ほど前、私のベッドの横まで歩いてきて私を呼び、直前は小さく鳴いて妻に「抱っこして」と知らせてくれました。

 福岡・天神の街頭で保護犬のケージで震えていたのを長男が引き取ってきてから、子どもの高校・大学進学、就職、結婚。新聞記者だった私の転勤、サンデー毎日への異動、東京転居という激動の時期を、いつも癒し支えてくれた、本当に家族でした。

 飼い主バカですが、言葉を理解しているとしか思えない反応や、私に叱られている二男の前に立って庇うように「クーン」と鳴いたり、凹んでいる家族の顔を舐めに来たり、よく「家族で一番賢いよね」と言っていました。

 みんなで側にいてあげられる正月休みに逝ったのも、最後の親孝行でした。

 喪失感は想像以上ですが、間もなく産まれる二男の娘に、すべての愛情をバトンタッチしていった気がします。

 たくさんの思い出と愛に感謝します。ありがとう、チェリン。

 (正月早々、私的な訃報をすみませんでした)

2021年1月3日

「初春や生き方問わる年男」悠々…ことし96歳

 今年、年男である。8度目の「丑」である。生まれた時「この子は毛深いから情け深い男の子になります。大事に育てなさい」と産婆さんに言われたと母親がよく言っていた。思い当たるフシがないではない。若いときは「前しか見ていないから過去のことはおぼえていない」と豪語した。96歳になった今、前しか見ないといっても寿命はあとわずか4年しかない。

「初春や生き方問わる年男」悠々

 書くことしか能のない男である。本誌を忠実に書いていかねばならない。編集方針は「卓見、異見を吐き、面白く、耳よりの話を伝え、実用的なトークなどを発信、ホームページを通じて、平和と民主主義社会の発展に微力をつくすものとする」である。

 気になるのは「地球温暖化対策」である。異常気象により地球はますます災害が頻発して住みにくくなる。世界は化石燃料に依存する経済社会からできるだけ早く脱却しなければならない(日本の目標2050年にCO2排出実質0)。「新型コロナウイルス」は世界が情報を共有し、国情にあった対策を立て、開発したワクチンを早急に高齢者や弱者に提供する等難局に対処する道筋を示した。「地球温暖化対策」は全く同じである。米国の大統領がバイデン氏に代わったのはよい。早速パリ協定には復帰するであろう。バイデン大統領の試練は中国対応である。世界の覇権を狙う中国に対して対抗できるのはアメリカしかいない。中国とすぐに事を構えるということでなくアメリカ社会に生じた「分断」「分裂」をなくし、建国以来の「自由」「平等」の民主主義の実を示すことだ。さらに日本とともに豪州・インドを加えてインド太平洋での戦略的パートナーシップを強固にしたい。

 国内的に見れば東京五輪開催である。33競技339種目、約1万1000名。パラリンピック22競技、539種目、約4400名。それに観客、ボランティアが加わる。大会費用は1兆6440億円になる。それなりの経済的効果は期待できよう。危惧する向きもあるが「コロナ禍のオリンッピク」として成功と言わずとも無事に運営しなければなるまい。「規則正しい」「清潔」「おもてなし」「親切。丁寧」など日本人の美徳を十分発揮し「コロナ禍の五輪」を成功させたい。

 今年は10月までに総選挙がある。菅政権が続くかは判断が難しい。そろそろ小池百合子東京都知事が「中原の鹿を追う」機が熟したと見てもいいのではないか。政界にひと波乱起こりそうな気配がする。

 牧内節男さん(牧念人悠々)のHP「銀座一丁目新聞」2021年1月1日号の「茶説」である。8月31日に96歳の誕生日を迎える。

 100歳、センテナリアンまで「あと4年」。元気な初春のメッセージである。

 毎友会HPを見た牧内さんから一句が届いた。

 「初春や生恥さらし96年」悠々

(堤  哲)

2020年12月31日

  • スペイン風邪から100年⑫ コロナに負けるな 勝ちましょう
  • (中安 宏規)

    2020年12月25日

    ♪オ・エン・ザ・センツ… コロナ禍のクリスマスのお話

     嬉しい、びっくりの、、、お知らせです。

     100年前、スペイン風邪に勝ったジャズの発信をしました。

     ・・・・予想を超える反響です!

     12月25日、クリスマスの日、毎日新聞夕刊に出ます、、、、、

     日本のサッチモと呼ばれる外山喜雄さんから予告メールが届いたのは23日の午後だった。

     その紙面が25日夕刊、鈴木琢磨編集委員の特集ワイドだった。

     前文を紹介すると――。

     スペイン風邪のパンデミックを乗り越え、世界へ広がったデキシーランドジャズ。「サッチモ」の愛称で知られるジャズ・トランペット奏者、ルイ・アームストロングにあこがれ、若き日にジャズ発祥の地・米ルイジアナ州ニューオーリンズに渡った外山喜雄さん(76)が、コロナ禍の東京で希望のトランペットを吹き続けている。オンライン配信された「外山喜雄とデキシーセインツ」のライブは忘年会もままならぬ年の瀬のモヤモヤまで吹き飛ばしてくれた。来年はサッチモ没後50年――。

     メールには「1994年、日本ルイ・アームストロング協会が発足した年、12月24日毎日夕刊でも、まったくの偶然ですが、社会面トップ記事になりました」とあって、その記事が添付されていた。

     「これは26年目の記事です!偶然、、、26年前のクリスマス、、、、です!! サッチモの悪戯が、続いているようです! 外山喜雄」

     私は千葉支局長の時、企業人大学の忘年会で外山さんのバンド「外山喜雄とデキシーセインツ」を頼んだ。東京ディズニーランドに出演している時に知り、パーティーで受けるに違いないと思っていた。♪オ・エン・ザ・センツ…と、「聖者の行進」を演奏しながら会場に入ってくるだけで大盛り上がりだった。もう30年前のことだ。

     戸山喜雄・恵子夫妻は早大のジャズ研究会で知り合ったとかで、2人とも私の後輩にあたる。以来、付き合いが続いていた。 添付の26年前の記事は、前社会部長、現編成編集局次長の磯崎由美さんが書いた、とコピーが送られてきたことがあった。

     彼女に転送すると、「外山さんご夫妻、すばらしい方々ですね!取材でお会いしてからすっかりご無沙汰してしまいなかなか活動にご協力できずにいますが、あんなに昔に書いた記事がお役に立てているなんて、記者冥利に尽きます」と返信が届いた。

     コロナ禍のクリスマスのお話——。

    (堤  哲)

    2020年12月23日

    検察ウオッチャー村山治さんに学ぶ

     メディア関係者には必読のコラムといわれる「サンデー毎日」連載、下山進さんの「2050年のメディア」。現在発売中の2021年1月3・10日号は、つい最近『安倍・菅政権vs.検察庁』(文藝春秋)を出版した元毎日新聞・朝日新聞記者、村山治さん(70歳)を取り上げている。

     見出しに 

     「伝説の検察記者」は記者クラブに所属せず

     《「伝説の検察記者」、村山のことを人はそう呼ぶが、実は村山が(毎日新聞時代)司法記者クラブにいた期間は大阪で1年、東京で1年だけだ。1991年に村山は朝日新聞に移籍するが、村山が朝日移籍の際に、朝日側につけた条件は「出世はいいから、現場においてほしい」ということ。

     つまり、記者クラブのサブキャップやキャップをやって社会部長、編集局長、役員というコースを最初から拒否していた。その理由を村山は「自分は前うち報道ではなく、検察をふくんだ構造のほうに興味があったから」だという》

     『安倍・菅政権vs.検察庁』は、検察庁の内部にやたら詳しい。司法クラブたった2年でこれだけの情報を集めるのは無理だ。

     同書にある略歴を見て納得した。

     《(毎日新聞社会部時代)「薬害エイズキャンペーン」を手掛け、連載企画「政治家とカネ」(89年度新聞協会賞)に携わる。91年、朝日新聞社に入社。社会部遊軍記者として、東京佐川急便事件(92年)、金丸脱税事件(93年)、ゼネコン汚職事件(93,94年)、大蔵省接待汚職事件(98年)、KSD事件(2000,01年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(04年)などバブル崩壊以降の大型経済事件の報道にかかわった》

     村山さんは2008年に同じ文藝春秋社から『市場検察』を出版している。あとがきにこうある。《この本は、文藝春秋出版局の下山進さんに、グローバリゼーションと検察の関係を整理しては、と勧められたことがきっかけで執筆した》

     本の副題は英語でProsecutors on Globalization. 《80年代日米構造協議にかかわった検事たちは2000年代に次々と検事総長の座に坐り検察を変えた!》と。

     「だんご3兄弟」原田明夫・松尾邦弘・但木敬一、のちに3代続けて検事総長となった3人が司法制度改革に取り組み、実現した過程を描く。

     下山さんはこう続ける。《検察と言えば、「巨悪を剔抉(てっけつ)する」正義の味方という見方がもっぱらだった90年代にすでに村山は、「検察は日本の官僚機構を守るための装置なのではないか」という問題意識をもっていた。私はそうした問題意識にもとづく本をつくれば面白いと考えた》

    村山治さん(「サンデー毎日」から転載)

     それが『市場検察』だった。

     『安倍・菅政権vs.検察庁』のあとがきで、村山さんが《この本で記したのは、あくまで法務・検察を足場とする筆者が、取材で得た証言などをもとにした政治と検察の関係の記録である。官邸や政権与党などを足場とする記者には、違った風景が見えているのかもしれない。本書がきっかけとなり、それらが世に出ることを期待している》と書いていることに、下山さんは、こう発破をかける。

     《これはまさに今の新聞がやらなくてはならないことだ。政治部や警察担当の社会部記者、検察担当の司法記者が垣根を越えて一体となってチーム取材をしてその「大きな構図」を描け。それこそが新聞だけができる唯一無二の価値だ》

    (堤  哲)

    2020年12月22日

    60年前、ピュリッツアー賞に輝いたのはこの写真だ

    1960年10月12日毎日新聞夕刊

     《とっさに左によってピントを15フィート(5メートル)に合わせて、シャッター・ボタンを押した。ストロボ・フラッシュが青白くチカッと光り、委員長はよろめいて、くずれるように倒れた。
     その間5秒もあったろうか。”アッ、刺されたッ”という声がとび、ステージのそでから係員がかけつけた時、すべての人びとは事の重大性にきがついた》

     この写真を撮影した東京本社写真部員(当時)の長尾靖さんが「新聞研究」1961年10月号に、決定的瞬間をスピグラ(スピード・グラフィック・カメラ)で捕らえたときのことを記している。

     1960(昭和35)年10月12日、午後3時過ぎ。日比谷公会堂で開かれた3党首立ち合い演説会で、演説中の日本社会党の浅沼稲次郎委員長が17歳の右翼少年に刺殺されたのである。

     NHKテレビはプロ野球日本シリーズを中継していた。午後3時13分、画面に「特別ニュース」の字幕が出て「浅沼社会党委員長暴漢に刺される」とテロップが流れた。

     スピグラのフィルムは12枚撮り。長尾はすでに11枚を撮影、最後の1枚しか残っていなかった。《それまでに会場の全景と、西尾(民主党委員長)・浅沼委員長の演説のアップなどを納め、つぎの池田勇人首相(自民党総裁)のときにフィルム・パックを取りかえるつもりでいた》《“とにかく1枚、一番よいシャッター・チャンスをとらえなければ”緊張のなかにも、そんな考えがチラッと頭をかすめた》

     長尾が撮影した写真は、有楽町にあった本社に運ばれ、夕刊1面を飾った。同時にUPI通信社を通じて世界に配信され、翌年、ジャーナリスト最高の栄誉であるピュリッツアー賞に輝いたのである。

     長尾の隣には東京新聞のカメラマンがいて、ほぼ同じ場面を撮影している。しかし、評価されたのは長尾の作品で、新聞協会賞も受賞した。

    長尾靖さん

     30年前、朝日新聞が2人に取材して、その違いを質している。長尾は《僕のは、主役2人の陰に駆けつけた人たちが隠れているし、3党首演説会を示す3本の垂れ幕が、うまく入った。浅沼さんの眼鏡も、ずり落ちています。結果としてだけど、全く好運な場所とシャッターのタイミングでした》と語っている。=朝日新聞1990年6月5日付朝刊「30年前アンポがあった」。

     長尾さんは千葉大工学部を卒業後、1953(昭和28)年4月入社。62(昭和37)年1月に退社、フリーカメラマンとなった。2009年没、78歳

     この写真は私が撮影した。池袋で開かれていたカメラ機材の展覧会のあと、近くのホテルで歓談したときのもの。写真部OBの木村勝久さん(2005年没、74歳)が紹介してくれた。

    (堤  哲)

    2020年12月18日

    スペイン風邪から100年⑪ 第3波はスペイン風邪より悪質?

    (中安 宏規)

    2020年12月18日

    2020報道写真展は24日まで日本橋三越本店

     暮れ恒例、東京写真記者協会主催の第61回報道写真展が日本橋三越本店で開かれている。クリスマスイブの24日(木)まで。入場無料。

    人影の消えた銀座4丁目交差点の写真を使ったポスターのキャッチフレーズは

    激動の時代へ。
    一枚の写真が歴史を刻む。

    やはりコロナ禍の写真が目立った。
    以下は毎日新聞写真部員の作品である。

    集団感染のダイヤモンドクルーズ乗客を搬送する救急車(手塚耕一郎撮影) 
    防護服で8カ月ぶりに母と面会(貝塚太一撮影)
    長さ2メートルのバトンを使ってリレー競技(滝川大貴撮影)
    疾走するウーバーイーツの自転車(北山夏帆撮影)
    「犬の焼きいも屋さん人気」という写真もあった。  店番するのは柴犬のケン。雪が舞っているのに、ほのぼのと温かい気持ちになりますよね。(貝塚太一撮影)

    (堤  哲)

    2020年12月17日

    柿崎明二・首相補佐官が、毎日新聞水戸支局員だった頃

    柿崎明二首相補佐官

     共同通信社前論説副委員長の柿崎明二さん(59歳)が、10月1日付で菅義偉内閣の首相補佐官に就任した。

     「権力監視を担ってきたジャーナリストが一転して政権中枢に入るとは」という批判もあるが、柿崎さんは「これまで政権批判をしてきた立場なので、批判やいろんな受け止め方があることは自覚している。私がメディアの立場だったら『(今回の転身で)国民がメディア全体に疑念を抱き、メディアへの信頼を損ねるかもしれない』と批判していたと思う」と、秋田魁新報のインタビューで答えている。

     公益財団法人新聞通信調査会の月刊機関誌「メディア展望」(12月1日号)で、元共同通信論説委員長の井芹浩文さんが「記者の転身は是か非か」と取り上げている。

     それはさて置き、私の手元に柿崎さんが書いた追悼文がある。水戸支局の記者たちがたむろした居酒屋の女将さんが92歳で亡くなって、その偲ぶ会を開いた。2015年11月のことである。

     参加28人。朝毎読、日経、産経、東京、共同、NHK、茨城、常陽、いばらき放送のほか元警察官、警察官僚→参院議員らも。

     出席トップは毎日新聞だった。佐々木宏人(65年入社)、松崎仁紀(69年)、倉重篤郎(78年)、末次省三(86年)、大平祥也(88年)、上野央絵(91年)さんに、私(堤64年)。共同通信論説委員兼編集委員で参加した柿崎さん(84年)を含めると8人になる。

     故人の畠山和久さん(64年)は開拓者のひとりで、故小畑和彦さん(68年)はブログに「飲み代はつけで、あるとき払いの催促なしだった。それどころか、飲み代を支払うとその中から私名義で貯金し、困った時に通帳を渡してくれた」。さらに「ばあさんが高齢のため店を閉めることになり、私が幹事役になりお餞別を募ると、全国に散らばった元支局員、外国特派員までがその趣旨に賛同してくれた」と、「水戸のお母さん」がいかに記者たちに慕われていたかを証言している。

     さて、柿崎さんの追悼文——。

     《おばさん、毎日新聞水戸支局時代は、本当にありがとうございました。

     サツ回りの厳しさに耐えかねて今風に言えば軽い「鬱状態」に陥っていた私が何とか乗り切れたのはおばさんのお蔭でした。

     まず記事が書けない、情報がとれない、他社に抜かれる、恐ろしい先輩に怒られる、自信喪失と緊張感でさらに仕事がうまくいかない…という若い記者が陥る悪循環。

     同じような若い記者を何人も見てきたからでしょう、何にも言わなくても、先輩方の昔話を交えてさらりと励ましてくれました。

     分かっているのに余計なことは言わない。達観しつつも思いやりのある絶妙な対応に何度も救われました。

     にもかかわらず、私はその後、転職、転勤や仕事の忙しさにかまけて、何もご恩返しをしないまま20年以上、過してしまいました。

     また、今回、おばさんがどんな人生を歩まれたのか全く知らなかったことにも我ながら驚きました。

     私は様々なことに相談に乗ってもらっていたにもかかわらず。

     「親孝行したいときに親はなし」を実の父母に続いておばさんでも実感しています。

     おばさん、本当にごめんなさい》

     そのおばさん、居酒屋「葵」の女将・石井洸子さんが、柿崎さんの首相補佐官就任を一番喜んでいると思う。

    (堤  哲)

    2020年12月6日

    100回を迎えた高校ラグビー全国大会が27日開幕

     朝日新聞が1面をつぶして第100回全国高校ラグビーの特集を組んだ。毎日新聞の主催行事なのにと、ちょっとびっくりした。

    朝日新聞12月5日付

     大会の始まりがキチンと書かれている。《元慶大主将で関西ラグビー協会初代会長の杉本貞一が、大阪毎日新聞社に「大会を開きたい」と相談をもちかけ、1918(大正7)年、サッカーとあわせて旧制中学の生徒らによる第1回大会が開催された》

     杉本は、ラグビーのルーツ校・慶應義塾蹴球部の1913(大正2)年度のキャプテン。ラグビーも底辺を広げるために中学校の全国大会を開けないか、大阪毎日新聞社(現毎日新聞)の運動課長・西尾守一に相談した。西尾は社内一の実力者・当時の社会部長奥村信太郎(慶應義塾卒、のち社長)に持ちあげた。スポーツ好きの奥村は大賛成で「カネのことなら心配するな」と答えた。

     杉本はこう書き残している。《だからラグビーは毎日(新聞)なんだよ》《もっとも当時ラグビーをやっている学校は少なかったので、サッカーと一緒にやったらどうかとなった》

     正月の国立競技場で決勝が行わる全国高校サッカー選手権大会のルーツは、1918年に始まったこの大会なのである。

    読売新聞12月6日付

     運動課長西尾は、飛田穂州が早稲田大学野球部のキャプテンだったときのマネジャー。1910(明治43)年、早大はシカゴ大学を招いて日米野球を行ったが、東京での日程終了後、大阪毎日新聞社が両チームを関西に招いて3試合を行った。香櫨園遊園地の広場を野球場に仕立て、関西初の野球試合と銘打った。

     早大は東京の3試合を合わせ6連敗と全敗。飛田キャプテンは責任をとって退部する。マネジャー西尾は翌年大毎に入社、スポーツ記者第1号となった。

     花園ラグビー場は、ラグビーの聖地・英国のトゥイッケナム・スタジアムを参考に1929(昭和4)年につくられた天然芝のグラウンド。この大会の会場になったのは1963(昭和38)年の第42回大会からだ。

     さて、節目の記念大会には例年より12校多い史上最多の63校が出場。8校(目黒学院・桐蔭学園・京都成章・東海大大阪仰星・大阪朝鮮・関西学院・御所実・東福岡)がシードされ、3回戦、ベスト8進出までの組み合わせ以下である。決勝は2021年1月9日だ。

    (堤  哲)

    2020年11月30日

    池澤夏樹・評 『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』 (米本浩二・著)

    毎日新聞11月28日付朝刊「今週の本棚」から。

    苦海を生きる作家と編集者

    毎日新聞11月28日付朝刊

     今の時代に魂という言葉を本気で使う人がいるだろうか?

     魂は心ではない。心は人の中にあってその時々の思いを映すスクリーンである。しかし魂の現象はもっとゆっくりと推移する。そして、何よりも、魂は身体を離れることができる。

     心と心の出会いで魅せられれば性急に恋にもなるだろう。しかしそれが魂同士の邂逅(かいこう)ならば恋よりもずっと静かな、永続的なものになるはずだ。世俗的な理由から二人の心と心がぶつかる時でも、身体を離れた魂たちは穏やかに寄り添っている。

     始まりの時、石牟礼道子はものを書く主婦であり、渡辺京二は小さな雑誌を主宰する編集者だった。二人は互いを必要としていることに気づいた。

     道子が書こうとしていたのは水俣で発生した奇病のこと。患者たちの惨状のこと。それを活字にするのを京二は使命と思った。

     この本の著者である米本浩二は既に『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』を書いているが、そこに書き切れないものがあった。京二との仲である。これが世間一般の女と男の間柄を大きく踏み越えるもので理解が難しい。そこで改めて本書が書かれた。補いではなく、延長でもなく、ことの経緯を魂の観点から見直すことを目指す。
    道子は生まれて間もない頃、おそろしく泣く赤ん坊だった。それを京二は「この世はいやーっ、人間はいやーって泣いている」と説明する。魂のつながりがなければわかることではない。

     二つの魂がそれぞれの身体を出て、つかず離れず「苦海」であるこの世をさまよう。

     この二人と言えば当然のように水俣病闘争の話になるが、それについては前著の方が詳しい。『魂の邂逅』で興味深いのは京二が初めは消極的だったことだ。

     「自分はこの問題にあまり深入りしたくない」と言っていたのが、半年後には仲間を集めてチッソの前で坐(すわ)り込みを敢行している。この豹変(ひょうへん)について後に聞かれた彼は「まあ、結局彼女との関わりが決定的だったと思います」と答えた。
     その半年の間に二人の本当の「魂の邂逅」があったのではないか。後に京二は『苦海浄土』の解説にこう書く――

     「石牟礼氏が患者とその家族たちとともに立っている場所は、この世の生存の構造とどうしても適合することのできなくなった人間、いわば人外の境に追放された人間の領域であり、一度そういう位相に置かれた人間は幻想の小島にむけてあてどない船出を試みるしか、ほかにすることもないといってよい」

     伝記である以上、著者はその対象である人物から一定の距離を置いて客観的を心掛けなければならない。しかしこれは二人の「仲」の伝記である。そこに関わる著者は自分の魂も参加させざるを得なくなったらしい。事態に対して大胆な解釈をどんどん投入する。

     本書の終わりで道子・京二が「曽根崎心中」のお初・徳兵衛になぞらえられる。五十年に亘(わた)る道行き。

     言わば著者は自ら義太夫語りとなって、顔を紅潮させ見台(けんだい)から身を乗り出し汗を散らしながら一代記を熱弁している。伴奏の太棹(ふとざお)として石牟礼道子と渡辺京二の厖大(ぼうだい)な著作が傍らにある。

     読んでいて陶酔に誘われるのは当然だろう。(作家)

    2020年11月24日

    元中部本社代表、佐々木宏人さんの大阪講演『封印された殉教』 ―― 同期の藤田修二さんがレポート

     毎日新聞社同期(1965年)入社の佐々木さんが11月21日、コロナ渦中に東京からわざわざ大阪に来て講演するというので、これは逃せないと聴きに出かけた。講演タイトルは「封印された殉教-『国家による弾圧』と『宗教団体の戦争協力』-を考える」。場所は大阪市北区のカトリック大阪梅田教会サクラファミリア聖堂。カトリック大阪教区・部落差別と人権を考える「信徒の会」11月の学習会として催された。広い聖堂には間合いを取って座った聴衆が約50人。私を除いて他全員がキリスト者だったと思われる。

     佐々木さんは講演タイトルと同名の取材10年余に及ぶ労作『封印された殉教』上下2巻を1昨年刊行した。敗戦直後の1945年8月18日、横浜のカトリック保土ヶ谷教会で横浜教区長の戸田帯刀神父が射殺体で発見された事件を克明に追ったドキュメントだ。事件は、ほとんど知られることなくなぜか封印され、犯人憲兵説があるが今もって明らかでない。10年後に東京の教会に「私が犯人。憲兵だった。謝罪したい」と男が名乗り出てきたが、東京大司教区は男に会いもせず許しを与えた。

     佐々木さんは事件の真相を追及する一方、戦前の国家による宗教弾圧にもこの本の多くのページを割いている。リベラルな戸田神父は1941年札幌教区長時代にも軍刑法違反容疑で逮捕されている。キリスト教で言えばカトリック、プロテスタント問わず、多くの聖職者が過酷な拷問を受け、獄中死した。

     佐々木さんはそこにとどまらず、宗教側の自己保身、国家への忖度、すり寄りに厳しく言及している。その体質は戦後まで及ぶという。自身クリスチャン(退職後の2006年受洗)として身を置いた世界で何があったのか明らかにしたいという欲求は、やはりジャーナリストとしての矜持がもたらせた本能だったと思われる。

     講演で彼が強調したのは事件の今日的意味だった。

     学術会議問題で政府によって任命拒否された1人、芦名定道・京大教授はキリスト教神学の研究者。キリスト教研究は危ないという恐れが訳もなく広まる恐れがあると。同様に拒否された加藤陽子・東大教授は中道的な近現代史の研究者で上皇・上皇后の講師役。リベラル皇室への当てつけ、圧力かと。つまり戦前侵された信教・学問の自由、民主主義の1丁目1番地が今問われている、と。私は恥ずかしながら加藤さんが皇室の講師役の1人とは知らなかった。ちなみに佐々木さんの従妹末盛千枝子さんは著名な絵本編集者で美智子上皇后の友人だ。

     最後にナチスドイツの強制収容所に収容されたプロテスタント神学者、マルティン・ニーメラーのよく知られた言葉を紹介して講演は終えられた。

    「ナチスが最初共産産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

    社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。

    彼らが労働組合員を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員でなかったから。

    彼らがユダヤ人を連れて行ったとき、私は声をあげなかった。私はユダヤ人などではなかったから。

    そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。

     佐々木さんは四肢の先端の筋肉神経線維が徐々に委縮していく難病、遠位性ミオパチーの診断を2006年に受けた。全国で患者数400人という極めて珍しい病気だ。現在は歩行が困難で手先が不自由だ。それでも呼ばれれば大阪にも来る。先年は岡山まで出かけたという。頭と声はしっかりしている、性格は明るい。先に挙げたジャーナリスト、信仰者としての信念がそれを支える。

     私は傘寿に手が届いたか届こうとしている多くの同期生の中で、彼が今最も輝いている一人ではないかと思っている。信仰者の先達で介助者でもある彰子夫人が確かな灯芯になっているに違いない。夫人に初めてお目にかかってそんな感じがした。

    (大阪毎友会会員 藤田 修二)

    2020年11月22日

    三島事件から50年、「最後の手紙」 を受け取った徳岡孝夫さん

     11月25日は、三島由紀夫事件から半世紀である。NHKの特集番組で毎日新聞OBの徳岡孝夫さん(90歳)がインタビューを受けていた。三島にノーベル文学賞を受賞した時の原稿を書いて欲しいと頼んで断られたという話だった。

    徳岡孝夫さん、NHKのテレビ画面から(11月21日)

     以下は三島事件を報じる毎日新聞の記事である。

    毎日新聞1970 年11月25日付夕刊
    11月26日付社会面の徳岡原稿

     徳岡さんは、作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で自衛隊員に決起を促す演説をしたあと自決した事件(1970年11月25日)の際、「最後の手紙」を受け取り、翌26日朝刊社会面トップで署名記事を書いている。

     《バルコニーの上と下、5メートルをへだてて、私は叫び続ける三島由紀夫と対していた》《その朝、楯の会の1人から三島の最後の手紙を渡された私は、今バルコニーに突っ立っているその手紙の差出人が、死を決意していることを知っていた》

     《三島から〝決行〟を予告されたのは前日24日午後だった。…「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものであることを御理解いただきたく」と手紙にあった

     演説が終われば、三島はどうやって死ぬのだろう。古式にのっとって自分の腹に日本刀を突き立てる――自作を映画化した「憂国」で、彼がやってみせた方法以外には考えられなかった》

     この事件報道では、朝日新聞が夕刊1面で「楯の会」隊員が乱入した総監室の現場写真を載せた。その写真には、切り落とされた2人の首が写っていた。

     徳岡さんがどれほど三島と親しかったのか。ドナルド・キーンさんとの共著『三島由紀夫を巡る旅』(新潮文庫)によると、徳岡さんが最初にインタビューをしたのは、三島が密かに自衛隊に体験入隊した情報をつかんで。1967年5月、サンデー毎日の記者だった。

     2度目は、徳岡さんがバンコク特派員になって、2か月後の同年10月。「ノーベル文学賞の発表がある」と本社からの手配だった。

     三島はインドからの帰り、バンコクに寄った。「明らかに日本のジャーナリズムを避けるためと思われた」と綴っているが、その中にホテルに滞在している三島に《私の蔵書から『和漢朗詠集』を貸した》。

     《「助かった。愛読しましたよ」と三島》

     さすが京都大学文学部卒である。『和漢朗詠集』を携えて海外特派員に出る記者が他にいるだろうか。

     この時の対談は、2回に分けて新聞に載った、ともある。

     3度目は海外勤務から帰国してまもない70年5月。そのあと《私たちはさらに2度会い》事件当日の「最後の手紙」となる。

    (堤  哲)

    2020年11月21日

    スペイン風邪から100年⑩ 歴史を軽視する政治の怖さを見る

    (中安 宏規)

    2020年11月16日

    「早スポ」 も 「ケイスポ」 も東日印刷でつくっています!

    早スポ優勝号外
    両紙の早慶戦特集号

     秋の東京六大学野球リーグ戦で早大は慶大に連勝して5年ぶり46回目の優勝を飾り、学生新聞「早稲田スポーツ」(早スポ)は優勝号外を発行した。

     実は、「早スポ」も「ケイスポ」(慶應スポーツ)も、ともに東日印刷で制作・印刷している。野球の早慶戦の前に、スポニチ本社もある東日印刷ビル(江東区越中島)でひと足早く、学生記者たちの早慶戦が展開されているのだ。

     この優勝号外も東日印刷の輪転機でカラー印刷したもの。東日印刷は、毎日新聞グループの中核企業の一つで、毎日新聞やスポーツニッポン新聞の印刷がメーンである。

     よく見ると、紙面の左端に東日印刷の突き出し広告が載っている。「コロナ禍で広告の出稿が減って、学生さんたちは苦戦しているようです。企業等のご紹介をよろしくお願いします」と営業担当社員からのメッセージが付いていた。

     野球の早慶戦特集号は、いつもは神宮球場周辺で1部100円で販売。早スポ、ケイスポにとって貴重な財源だった。ところが今季はコロナ禍で販売活動が中止となり、新聞は入口の通路に置いて無料配布となった。

     60年前、創刊2年目の早スポは、早慶6連戦の新聞販売で赤字を解消した経緯があった。創刊メンバーで2代目編集長西川昌衛(81歳、元日本信販、現ニコスカード専務)は「6連戦は救いの神だった。あの時、赤字倒産していたら今の早スポの隆盛はなかった」と述懐する。私(堤)は、当時早スポの1年生記者で、慶大担当として日吉のグランドで前田監督、渡海主将らにインタビューしている。西川のあとの3代目編集長となった。

     そして2021年、第62代編集長に初めて女性が就く。

     今秋の早慶戦は、60年前の早慶6連戦と奇妙に重なっていた。天皇杯に一番近くにいたのが慶大だった。コロナ禍の影響で、リーグ戦は2試合制。1回戦で勝てば優勝、9回引き分けなら2回戦引き分けでも優勝。1回戦で負けても2回戦で勝てば優勝だった。

     60年前は、早慶戦前のリーグ戦順位が①慶大8勝2敗、勝点4②早大7勝3敗、勝点3。で、慶大は勝点をあげれば優勝。早大は2連勝で優勝、2勝1敗なら慶大と同率となって優勝決定戦――。

     そのうえ6連戦を戦った早大石井連蔵、慶大前田祐吉両監督(ともに故人)がことし1月にそろって野球殿堂入り。早大小宮山悟(55歳)と堀井哲也(58歳)両監督は、2人の教え子でもあった。

     一球入魂の精神野球か、エンジョイベースボールか。60年前のうっぷん晴らしか、返り討ちか?

     観客はネット裏から内野席までで、応援も拍手だけの制限がついた。

     空っぽの外野席はライト後方に早大応援部、レフトに慶大応援指導部。60年前、慶大の応援席には初めて女性バトントワラーが登場したが、今回、慶大のリーダーはポニーテールの女性だった。男性部員の不祥事でリーダー部は解散処分を受けていたのだ。

     ▽1回戦
      慶 大000 000 100 ┃ 1
      早 大000 001 20Ⅹ ┃ 3

     早大はキャプテン早川、慶大は木澤と両エース対決。7回裏、8番蛭間が木澤投手から左翼席に2ランホーマーを浴びせた。早川は15三振を奪う好投だった。

     ▽2回戦
      早 大001 000 002 ┃ 3
      慶 大001 100 000 ┃ 2

     1点を追いかける早大は、9回2死走者なし。マウンドは7人目のエース木澤。7番1年生の熊田が安打で出塁。打者蛭間。慶大堀井監督は即動いた。投手を抑えの切り札左腕生井に代えた。その1球目、蛭間の打球はセンターバックスクリーンへ一直線。劇的な逆転劇だった。最後は、早大のエース早川がピシャリと抑えた。

     早大小宮山監督は「野球人生で一番感動した試合」と声を詰まらせた。そして「石井さんの墓前にいい報告ができます」。

     『早慶戦全記録』(啓文社書房刊、@1800円+税)という本を昨秋出版しました。「三田評論」2020年2月号に三田体育会副会長・對馬好一氏が書評を書いてくれました。

     https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/202002-1.html

     早慶戦のすべてが分かります。是非ご一読ください。

    (堤  哲)

    2020年10月31日

    スペイン風邪から100年⑨ 安倍首相の退陣考察

    (中安 宏規)

    2020年10月29日

    元出版写真部・平嶋彰彦さんの写真展 11月6日から

     元出版写真部、平嶋彰彦さんの写真展「東京ラビリンス」(予約制・WEB展)が、今年25周年を迎える駒込のギャラリー「ときの忘れもの」で11月6日から開かれます。

     以下は「ときのわすれもの」ホームページに掲載された案内です。

    会期=2020年11月6日[金]—11月28日[土] 11:00-19:00※日・月・祝日休廊
    ※アポイント制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日11:00~19:00となります。
    ※観覧をご希望の方は事前にメールまたは電話にてご予約ください。

    会場の画廊「ときの忘れもの」オーナーの綿貫不二夫さん(75歳)と平嶋彰彦さん(74歳)=右。綿貫さんは元毎日新聞販売局。平嶋さんと入社同期(1969年入社)=堤哲さん撮影

     ときの忘れものから、写真家・平嶋彰彦さんのポートフォリオ『東京ラビリンス』を刊行いたします。ポートフォリオ『東京ラビリンス』は、『昭和二十年東京地図』(写真・平嶋彰彦、文・西井一夫、1986、筑摩書房)の写真の中から、監修の大竹昭子さんが写真を選出し、ニュープリントしたモノクローム写真15点が収録されています。

      『昭和二十年東京地図』は、平嶋さんが当時手にした復刻版『戦災焼失区域表示 コンサイス東京都35区区分地図帖』(東京空襲を記録する会、日地出版、1985)を西井一夫さんに見せたところ興味を示し、『毎日グラフ』での連載企画がスタートしました。平嶋さんと西井さんは、1985年9月~11月にかけて(1986年1月~2月に撮り直しあり)、東京の街を取材して歩き、それが書籍化されました。

     今回、平嶋彰彦ポートフォリオ刊行に伴い、写真展を開催します。

     作家在廊日時:(いずれも12:00~17:00 変更になる場合もございます)
     11/06(金)07(土)13(金)14(土)20(金)21(土)27(金)28(土)

     平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』概要
     オリジナルプリント15点組 各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
     撮影:1985年9月~1986年2月 制作:2020年 限定10部
     2020年10月30日 「ときの忘れもの」発行

    日頃ぼくが好んで口走るフレーズに“過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい”というのがあるが、平嶋さんの15点の写真はまさにこのフレーズにぴたっとくるのである。つまり、古今東西、世界中の写真家たちが写し撮った夥しい写真も、世界史の、人類史の貴重な記録ではあるが、一人の人間が押したシャッターの内実には、更に抜きさしならない何かに支えられているからである。
    森山大道(平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』パンフレットより抜粋)

    ときの忘れもの/(有)ワタヌキ
    〒113-0021 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASAS
    TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
    Mail    URL http://www.tokinowasuremono.com

    2020年10月28日

    「別世界に来てしまった」 ― 毎日新聞記者がヤフーで体験したニュースプラットフォームの“裏側”

    【毎日新聞→Yahoo!ニュース個人編集部・出向社員コラム】
    ※こんな新しい働き方も、メディアの今後の在り方を考えるうえでも、OB、OGの皆様の参考になるのでは、と紹介します。 (Yahoo!News HACKから転載)

     Yahoo!ニュースではこれまで、新聞社から記者やカメラマンがYahoo!ニュース トピックス編集部などに出向してきました(詳しくはページ下部の関連記事をどうぞ)。

     今回は、昨年10月から1年間、Yahoo!ニュース個人編集部に出向した毎日新聞の記者・待鳥航志さんにこの1年間を振り返ってもらいます。

     新聞の部数減が止まらない今、新聞社の活路はどこにあるのか。記事はどうすればより読まれ、買われるのか……。新聞社が直面する課題に対処するための手がかりを得ることをミッションにヤフーで働き始め、新聞社とヤフー、それぞれのコンテンツ制作に対する姿勢の違いから、多くの学びがあったと話す待鳥さん。「編成視点の強さを感じた」というヤフーでの経験のどんなところに、答えを探るためのヒントがあったのでしょうか。

    においが違う、職場環境が違う…ヤフー訪問時の最初の衝撃

     「なんかミントの香り、しない?」。2019年10月から1年間の出向のため、事前のあいさつでヤフーのオフィスに訪れたとき、毎日新聞の上司と驚いたのはヤフー社内のにおいでした。新聞社の紙やインク、エアコンのカビっぽいにおいに慣れた鼻に、ヤフーの来客用フロアを包む清涼系の香りは鮮烈でした。においだけでなく、新聞社とIT企業の職場環境はまるで違います。ゲラや取材ノート、ファクスで送られてくるプレスリリース、書籍など、紙だらけの職場の風景が当たり前だったのに、ヤフーのオフィスに並ぶのは画面ばかりで紙がない。別世界に来てしまった。私の1年間のヤフー出向は、職場環境のギャップに対する驚きから始まりました

     前置きが長くなりましたが、毎日新聞で記者をしている待鳥航志(まちどり・かずし)と申します。2015年に入社し、高松(香川県)、姫路(兵庫県)の2支局を経て2019年春から東京本社の「統合デジタル取材センター」に所属しています。紙面ではなくデジタル向けの記事を書くためのこの部署で、一番若手だった私が、プラットフォームメディアで編集や編成のノウハウを学ぶために出向することになったわけです。

     ヤフーは小学生の時に初めて触れて以来、なじんできたメディアです。出向が始まる間近の9月下旬、配属の部署が言い渡されました。「Yahoo!ニュース個人編集部」(以下、ニュース個人編集部)。ヤフーと言えば「ヤフトピ」(Yahoo!ニュース トピックス)の編集部(以下、トピ編)と思っていたけど、ニュース個人とはどんな部署なのか、ピンと来ませんでした。

    650人の執筆陣が書くプラットフォーム 「記事は事後チェック」に違和感も

     ニュース個人とは、個人の書き手(オーサー)が専門性に基づいて自主的にニュース記事を執筆し、発信するプラットフォームです。そのオーサーの数、約650人。編集部では約25人のメンバーが、オーサーの執筆サポートや、プラットフォームの運営などをしています。

    出向中の待鳥さん

     出向から時間がたってヤフーの環境になじむにつれ、ニュース個人の編集者が、新聞社の編集者(デスク)とは仕事内容が大きく異なる部分があることが分かってきました。

     新聞社ではデスクが記事出稿の司令塔となり、記者の原稿を必ずみて、分かりやすさやニュース価値を考慮して修正し、出稿するかどうかや掲載時期も決めます。掲載時には締め切り直前まで、記者やデスク、校閲記者が一字の間違いも出さないようにチェックします。

     その新聞社からニュース個人に来て驚いたのは、記事のチェックが基本的には公開後に行われる、ということです。ニュース個人はオーサーごとに合意した執筆範囲やガイドラインに沿う限りで、公開時期や書きぶりはオーサー自身で決めることができます。実際にオーサーの方々からは「好きなタイミングで公開できるのが良い」との声を多く聞きました。ただ、出向当初は原稿の事後チェックに対する違和感になかなか慣れませんでした。

    蚊はコロナを媒介する? 日常の素朴な疑問を専門知に結び付ける

     具体的に、ニュース個人の編集者はどんな業務にあたっているのか。記事のチェックの他に、中心的な業務が2つあります。

    忽那さんの記事

     一つはオーサーへの執筆の「提案」です。時勢に合わせ、「今どんな記事が必要とされているか」を考え、その記事を書ける専門のオーサーに執筆を提案する業務です。たとえばコロナ禍では注意喚起や対策などについて提案し、(もちろん提案ではないものも含め)多くの医療オーサーが専門性に基づいた記事を多数発信しました。中でも印象的だったのが、感染症専門医のオーサー忽那賢志さんが執筆した「蚊は新型コロナを媒介するのか?」です。

     夏が近づいていた時期で、編集部メンバー(私ではないです)の素朴な疑問が提案につながりました。記事にもあるように、専門家からすれば蚊がコロナを「媒介するわけない」。けれどもイチ生活者としては気になる話です。このように日常生活に寄り添った疑問と専門知を結び付ける視点を、ヤフーの編集者はさまざまな場面で持っていました。

     それは本来、新聞記者が持つべき視点でもあるはずなのですが、新聞記事は生活目線の疑問にどれだけ答えられているだろうかと、反省させられました。すぐに思い出されるのは事件記者だった時。捜査状況を伝える記事を書くために私も警察幹部への「夜討ち朝駆け」取材に駆け回っていましたが、同業他社が何を書いているかばかりを気にして、読者がどんな点に関心や疑問を持っているかに対してほとんど注意を払っていませんでした。

    多くの切り口の記事を集め、良質記事を選んで目立たせる…プラットフォームの編集業

     もう一つの主な業務は「出稿連絡」です。ニュース個人には1日50本前後の記事が投稿されますが、この中からトピックス掲載にふさわしい記事を編集部内で検討して選び、トピ編宛てに連絡します。今必要とされている記事、ユーザーの関心に刺さりそうな記事が、その対象になります。トピ編側では1日約6000本配信されるほかの媒体社の記事と同様に何をトピックスに取り上げるかを精査しています。ニュース個人編集部が出稿連絡をしなくとも、トピ編側で記事をキャッチアップし、掲載されることもあります。この連絡業務で印象的だったのが、北朝鮮や中国を専門とするオーサー西岡省二さんの記事「文政権に強い心理的打撃を与えた金与正氏――「爆破指揮」で強面に脱皮した北朝鮮王女」です。

    西岡さんの記事

     6月16日午後4時ごろに「北朝鮮が開城の南北共同連絡事務所を爆破した」と報道された後、すぐに西岡さんと連絡を取り合いました。午後7時前に解説記事を公開いただけて、部内で検討してトピ編に出稿連絡しました。記事は同日午後8時ごろからトピックスのトップに掲載。関心が高いタイミングで深掘りされた記事をスピーディーに執筆いただけたことで、非常に多くのユーザーに閲覧されました。さらにこの件を巡っては、在米オーサーや韓国情勢を専門とするオーサーも次々と記事を公開しました。ニュースの速報性や記事の完成度の高さは新聞社の強みだと思いますが、解説記事の視点の多様さやスピード感において、ニュース個人も決して引けを取らないと感じました。

     以上の2つが主な業務です。ニュース個人の編集者の仕事は、より多くの切り口の記事がプラットフォームに集まるよう促すとともに、その中からより良質の記事を選び取って目立たせること、と要約できるかもしれません。

    コロナ対応で生かされた「ユーザー目線」のページづくり

     出稿連絡はニュース個人からトピ編へのコミュニケーションですが、逆にトピ編など編成側から記事テーマのリクエストを受けてオーサーに執筆提案することもあり、双方向での連携があります。出向期間中、すぐ思い出せるだけでも、台風被害、コロナ禍、九州豪雨災害、安倍首相の辞意表明――など数多くの大きなニュースがありましたが、こうした際にも編成と編集が連携して対応してきました。

     中でもヤフーの強みを感じたのが、新型コロナウイルスの対応です。ヤフーでは2月ごろ、新型コロナに関する情報をまとめる特設ページをリリース。私は4月半ばから約1カ月半、このページの編成チームに加わりました。編成チームではコロナに関する新たな情報をつぶさに収集し、その都度、特設ページを更新するかどうかを検討します。更新する場合、Q&A形式で疑問を設定し、それに対する回答を政府の公式サイトや専門家の意見で引用して提示します。

    ヤフーの特設ページから、コロナに関するQ&A

     Qを設定する際に重視されるのは、「生活者にとって必要な情報とは何か」という視点でした。「布マスクの正しい洗い方とは」「10万円給付はどうすれば受け取れるか」「コロナの影響で家賃が払えなくなったら」など、それらは漠然としていたり細かかったり、けれどもコロナ禍の生活に身近で重要な内容です。Qへの回答となるAを、政府の公式サイトで確認できる場合はそこから引用します。政府の情報で捕捉できなければ、疑問への回答となる記事をオーサーに提案して執筆してもらい、特設ページに盛り込みます。

     ではヤフーの特設ページは、新聞社のものと比べるとどうだったのか。その違いは、予防や治療法、マスクの効果など、コロナに関する知識を記載した部分において明確に表れていました。いずれのページでも、日ごとの新規感染者数や推移について、グラフを使うなど視覚的に分かりやすくする工夫がある一方、新聞社のページではコロナに関する知識をまとめた部分が、関連する記事の集積によって作られており、「記事ベース」のページといえる作り方でした。もちろん、記事を読めばコロナの予防などに関する情報は分かるのですが、新聞記事は背景や経緯などさまざまな情報が書き込まれてそれなりの分量になるため、ある疑問に対する簡潔な回答がすぐに得られるものでは必ずしもありません。

    毎日新聞の特設ページの記事集積部分

     対してヤフーの特設ページは、先述のような疑問ひとつずつに、グラフィックも交えて簡潔な回答を与える内容です。ページ編成時に記事をそのまま掲載するよりも手間をかけており、必要な回答(コンテンツ)を最低限だけ記載する「コンテンツベース」のつくりといえると思います。考えてみれば、特設ページにアクセスするユーザーにとって必要なのは「記事としての完成度」よりも、疑問に対する簡潔で確かなコンテンツです。細かな違いですが、ヤフーの「ユーザー目線」重視を改めて感じる経験でした。

     このようにヤフーがよりユーザーに近い形で特設ページを作ることができるのは、それだけ「編成」に力を入れているから、という捉え方もできると思います。他方で編成の強さには、課題もあるように感じました。記事の後編では、この「編成」に関するヤフーと新聞社の違いを考えてみたいと思います。

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    2020年10月26日

    れいわ難病議員のそばで、「改革」の現場を日々、体験 ― 新聞記者からALS議員秘書に転身した蒔田備憲さん

     2019年9月、14年半お世話になった毎日新聞社を退職しました。同年10月から、進行性の難病「ALS」(筋萎縮性側索硬化症)の参議院議員、舩後靖彦氏の公設秘書として働いています。いまも「議員秘書」である自分に戸惑いは消えませんが、憲政史上初という人工呼吸器装着のALS議員のそばで、日々「改革」の現場を目の当たりする刺激的な日々を送っています。

    舩後議員のそばでPCを操作する蒔田さん

     「舩後さんの秘書、やってみない?」。昨年8月、知人から突然、こんなメールが届きました。知人はALSの患者活動に長く携わっている人。取材をきっかけに10年近い交流がありましたが、私は舩後氏に会ったことも、取材をしたこともありません。誘いに驚いた一方、次の瞬間には「面白そう」という気持ちがわきました。やりがいのある記者という仕事を離れることは本当に悩みましたが、この「面白そう」という気持ちに押され、転職をすることになりました。

     ALSを発症すると、全身の筋肉が徐々に動かなくなります。原因は不明で、治療法もありません。人によって進行度は様々ですが、発症から数年で自力の呼吸が難しくなるといわれています。国内には約1万人の患者がおり、国の医療費助成の対象となる「指定難病」になっています。舩後氏は2000年に診断され、02年に人工呼吸器を装着しました。現在はわずかに動く顔の筋肉を使い、瞬きなどでコミュニケーションをとります。

     舩後氏自身とのかかわりはありませんでしたが、ALS患者との交流は長くありました。毎日新聞入社数年後から、障害や難病のある人が直面する生活上の困難さに関心を持ち、単発の記事を書いたり、企画をしたりしていました。佐賀支局勤務時代(2010~14年度)には1年9か月にわたり、難病患者の日常を伝える「難病カルテ 患者たちのいま」という週1回の連載を一人で担当しており、何人ものALS患者と出会いました。そうした経験を知っていた知人が、声をかけてくれたのでした。

     国会で働きはじめ、舩後氏のそばに行ってみると、ハード面でもソフト面でも、国会は「障壁」ばかりでした。参議院の玄関には昇降機もなく、正面から建物に入ることもできませんでした。本会議場で行う法案の採決などの「起立採決」も。従来の設備やルールを一から、見直していく作業が必要となりました。

    文教科学委員会で

     最もタフな交渉となったのが、委員会です。国会議員にとって一番の活躍の場である委員会質疑でも、「全身まひ」の状態である舩後氏は、資料を映し出すためのモニターやパソコン、介助者の同席が不可欠です。こうした根本的な課題から、委員会開会中に介助者が水を飲めるようにする(従前は発言者以外が水を飲むこともダメ)ところまで、いままで認められていなかった前例を一つ一つ、議員とともに交渉しながら取り組んできました。さらに、舩後氏の代わりに秘書が質問文を読み上げる「代読質問」が認められ、舩後氏の目の前に50音を印刷した透明のプラスチックシートを掲げ、舩後氏が視線と瞬きで1文字ずつ文章を作成する「文字盤」で再質問する際は、持ち時間が減らない形にもなりました。

     舩後氏というたった一人の存在が、長い歴史の積み重ねで、前例と慣習で固まった国会の場を大きく変えてしまう瞬間を見続けられるのは、本当に興味深いです。重度障害者2人を国会に送り込んだ、れいわ新選組代表の山本太郎氏は「国会にミサイルを撃ち込んだ」と表現しますが、あながち冗談でもないようにすら、感じます。

     国会に入ってつくづく感じるのは、大多数の国会議員というのは健康で、24時間でも働ける体力がある「スーパーマン/ウーマン」の集まりだということです。そうした環境だからこそ、舩後氏のような「規格外」の存在がいる価値があると思います。こうした活動は、舩後氏や同僚議員である木村英子氏のためだけのものではありません。舩後氏がほかの健康な議員と同等に活動できる環境を整えることで、障害者だけでなく、けがをした人、子育て中の方や、持病のある人も、国会で活動できるのだという土台作りになるのだと感じています。

     障害者はこれまで、「社会に迷惑な存在」という偏見・差別を向けられながらも、社会のなかで身をさらし、「当たり前に生きる」大切さを訴え、世の中を変えてきました。舩後氏の国会活動もまさに、こうした営みの延長線にあると感じています。この一歩一歩が、多様性のある国会、ひいては社会につながるはずです。

     議員秘書の仕事を始めてから常に、心がけていることがあります。公設秘書は国会議員の手足となって働く仕事ではありますが、立場としては「公務員」。ただ単に、目の前にいる議員のためだけに働くことだけではなく、議員活動のサポートを通じて社会に貢献するのが役割だと感じています。地方支局と社会部しか経験していない自分にとって、国会はほとんど未知の場で失敗ばかりですが、新聞記者時代の経験や挫折を生かし、多様性ある社会の実現に少しでも貢献したいと考えています。

    プロフィール
    蒔田備憲(まきた まさのり)さん
    1982年生まれ。神奈川県出身。筑波大学卒業後、2005年毎日新聞入社。大津支局、富山支局、佐賀支局、水戸支局、多摩総局、東京本社社会部。著書は「難病カルテ 患者たちのいま」(2014年、生活書院)。

    2020年10月23日

    阿部菜穂子さん『チェリー・イングラム』英語版が米国で優秀賞 ― フェイスブックで近況報告

     【近況報告1】拙著『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』の英語版(米国版 ‘THE SAKURA OBSESSION’)が、このほど米国に基盤を持つ国際組織、植物学評議会(CBHL)の2020年優秀賞を受賞しました。

     CBHLは植物の収集と保護を目的とし、植物・園芸分野での資料・情報の蓄積と提供を担う国際組織です。賞は毎年1回、「植物学、園芸分野の研究に重要な貢献をした書籍」の著者と出版社に与えられます。

    'THE SAKURA OBSESSION' , the American version of 'Cherry' Ingram, The Englishman Who Saved Japan's Blossoms, has been given the CBHL's 'Award of Excellence in History' as part of its 2020 annual literature awards. The Council on Botanical and Horticultural Libraries (CBHL) is a professional organization in the field of botanical and horticultural information services. The literature award is given to the author and publisher of a work that makes 'a significant contribution to the literature of botany or horticulture'.

     【近況報告2】コロナ感染の拡大を機に(?)ロンドン郊外に引っ越しました。新居の目玉はクリの樹。高さ30メートルぐらいで、幹が5本あります。地元行政区の保護樹木に指定されている古木です。英名はSweet chestnut, 和名は西洋グリです。次々にイガに包まれた実が落ちるので、拾って焼き栗に。日本の栗より小さめですが、とても美味しいです!

    We have moved a little away from London into the countryside in the midst of the pandemic. There is a magnificent 30-meter-high sweet chestnut tree in the front garden, which has 5 trunks. It is very old and. is a designated protected tree. It is producing beautiful chestnuts and we have been enjoying roasted chestnuts!

     ※阿部菜穂子さんは1981年、毎日新聞入社、京都支局、社会部、政治部、外信部に勤務。95年退社。2001年からイギリス在住。2016年、『チェリーイングラム』(岩波書店)で日本エッセイストクラブ賞。

     著書の紹介によれば「大英帝国の末期に生きた園芸家が遠路訪れた日本で目にしたのは、明治以後の急速な近代化と画一的な染井吉野の席巻で、多種多様な桜が消えようとする姿だった。『日本の大切な桜が危ない!』 意を決した彼はある行動に出た――。日本の桜の恩人であり、今につながる桜ブームをイギリスに起こしたその稀有な生涯を描く」。

    【各国での受賞歴は次の通り】◇Sunday Times: Best Gardening Books, 2019(英サンデー・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍賞)◇NPR's Science Friday: Best Science Books, 2019(米公共ラジオ放送、2019年最優秀科学書籍賞)◇Irish Times: Best Gardening Books, 2019(アイルランド・アイリッシュ・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍賞)◇PopMatters: Best Non-Fiction Books, 2019 (ポップ・マターズ――米国で人気のあるポップカルチャーに関するウェブサイト―― 2019年最優秀ノンフィクション賞)◇The Daily Mail: Best books for nature lovers this Christmas, 2019(英デイリー・メイル紙 2019年 自然愛好家のための最優秀クリスマス賞)◇Woodland Trust: Best books of the year 2019 (ウッドランド・トラスト――英国最大の環境保護団体――2019年最優秀書籍賞)

    2020年10月21日

    警視庁記者クラブ1977年の顔ぶれ ― 軍事アナリスト小川和久さんが保存

    堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章

     元中部本社代表、佐々木宏人さんのフェイスブックに、軍事アナリスト、小川和久さんが投稿しています。インタビュー「新聞記者の歩み」の感想などのコメントを添えて。小川さんが「週刊現代」の記者だった頃の一枚のようです。

     まだ若々しい皆さんの顔が懐かしく、鬼籍に入られた方々を偲びつつ。

    小川さんのコメント:こういう先輩の話が後輩のジャーナリストへの刺激になりますね。私の駆け出し時代、貴社の内藤国夫さんの「新聞記者10年」から学んだことが少なくなかったです。若い記者なのに、パレスサイドビルの建設に首を突っ込んでいたりして、とんでもないオッサンでした(笑)。1977年頃の警視庁記者クラブの毎日の部屋の写真です。内藤さんも笑っています。

    2020年10月20日

    私設防潮堤が27.8mもの津波から旅館を守った! ——20日付朝刊「東日本大震災10年へ」続沿岸南行記ルポから

    2020年10月3日撮影
    2011年3月29日撮影

     ——羅賀(らが)地区に入り、細い道を上ると「本家(ほんけ)旅館」の看板が見えてきた。「よくおいでになりました」。畠山照子さん(94)が笑顔で出迎えてくれた。

     小高い場所に建つ旅館からは、海沿いの一帯を見渡せる。震災前は住宅や商店など約80軒が並んでいたが、今は更地に。道路は整備されたが、通る車はほとんどない。「駐在所にスナックに雑貨店……。新鮮な物を食べてもらおうと、あそこにあった魚屋さんでよく買い物した。(今はどれもなくなり)寂しいね」

     1946年、漁協の事務員だった栄一さんと結婚。51年に旅館を開いた。詩人の三好達治や作家の吉村昭ら著名な文人も訪れたという。

     震災の2カ月前、栄一さんが88歳で亡くなった。失意の中で震災が起き、一時は旅館を続ける気力が衰えた。最後に客を泊めたのは2年前。今は90歳を超えての1人暮らしだが、「休んでいるだけ」と旅館の看板は下ろしていない。

     眼下の海沿いに暮らした栄一さんの先祖は、明治の三陸大津波(1896年)で犠牲になり、昭和の三陸大津波(1933年)でも営んでいた雑貨店を流された。東日本大震災で平成の大津波を経験しても「お父ちゃんがいる家を空っぽにできない」と、ここを離れる気になれないのは震災当時から変わらない。

     焼きおにぎりをごちそうになり、帰ろうとした玄関先で畠山さんから「お友達になってちょうだい」と声を掛けられた。「また来ます」。そう約束して車に乗り込み、手を振り合った。【安藤いく子】

     ◆あの頃は

     岩手県田野畑村の二つの旅館では2011年3月28、29日に当時の担当記者が取材した。

     本家旅館がある羅賀地区はがれきに覆われ、村内でも被害が深刻な地区だった。ここで津波は高さ27.8メートルまで到達したとされる。

     当時、田野畑村の人口は約3800人で、29人が犠牲になった。

     写真の畠山照子さんは、毎友会相談役・高尾義彦さんの奥さまのお母さん。亡くなった照子さんの夫栄一さんが「城壁のような石垣」を、大金をかけて築いた。お蔭で東日本大震災の被害から免れた。

     毎日新聞デジタルには動画もアップされているとのことです。

    (堤  哲)

    2020年10月19日

    ユーチューバー始めました! さなちゃん、こと真田和義です

     https://www.youtube.com/watch?v=s1OmPjcZLKo

    サムネイル画像。これがYouTubeの一覧となり視聴者を誘うので、とても重要

     来年4月に古希だというのに、この夏からユーチューブ(YouTube)を始めた。おっかなびっくりだったが、動画撮影と編集にはまって、BGMで音楽も再発見、楽しくて仕方がない。チャンネル名は「さなちゃんの人生100年ちゃんねる」。毎友会のみなさま、ぜひ登録をよろしくお願います!

     孫のような先輩ユーチューバーのサイトによると、視聴者登録1,000人、再生時間合計4,000時間の基準を超えると、広告収入で一攫千金になる。ほんとかいな。これはファクトチェック不要。夢として受け止めている。8月7日からスタートして10月18日現在、計40本を投稿。登録者数60人超、再生回数1,000回、再生時間60時間。人気俳優でもイケメンでもない69歳の高齢者の動画を見てくれる温かいファンに感謝するばかりだ。

     さて、記念すべきアップ第1回は「キャンプ・ごはん クリガニのトマトソース煮」。北海道の東、北方領土を望む尾岱沼のキャンプ場で19泊20日間、テントを張った。地元・根室でジビエ研究家としても知られる北海道報道部、本間浩昭記者の協力で、「キャンプ飯」を計8本撮影した。動画の冒頭では北方領土返還を願う自作のタップダンス「ノック」(領土返還の固いトビラを叩く趣旨)で飾った。合板ボードを持ち込んで、その上で踊ったのだ。自分でも「よく、やるよ」と思う。

     なぜ、こんなことに手を付けたのか。平均寿命が女性87.45歳、男性81.41歳の時代だ。100歳以上は8万人もいる。酒漬けの自分が、それほど長生きするとは思えないけれど、新聞記者時代に培った取材力、企画力をこれからも人生で生かすにはどうすべきか、思案した。このまま朽ちたくない(笑)。やはり、デジタルだろう。新型コロナの非常事態で世界の「絆」を強めるには益々、インターネットの技量が必要になる。かつ、社会貢献になる内容も発信して人生を楽しみたい。

     サイトには、どうやってユーチューバーになり、成功するかの「チュートリアル」、つまり基本操作教育プログラムの映像があふれている。優しい若者たちが講義してくれるのだ。

     7月に東京から札幌に引っ越し、当地のヨドバシカメラ、ビックカメラで親切な店員に撮影機材の予算を伝えて教えを請い、ソニーのハンディカム、カメラに取り付ける専用マイクロフォン、三脚の三点セット合計73,569円で購入した。のちほどにナレーション録音用の高性能マイクロフォン6,498円も必要になった。安いのはノイズが入ってダメだ。

     さて、動画編集の機材は液晶画面が壊れたノートパソコンと、ずっと以前、秋葉原で買ったモニターがあるので大丈夫だが、問題はソフトだ。無料のお試しソフトはある。メーカーのウォーターマーク(透かし)が画面に入る。ちょっと、興覚めじゃないの。購入すると、透かしはなくなるという仕掛けだ。完全無料もある。技術的に少し、難しい。

    撮影・編集機材。ノートパソコンは液晶画面が壊れている。中央は専用マイクロフォンを装着したハンディカム。下は黒い三脚、上は自撮りの顔を美しく照らす(笑)円形ライト

     しかし、ソニーは偉い。自社でPlayMemoriesという簡単ソフトがある。有料の本格ソフトに比べると、画面にアニメが飛び込んだり、文字が踊ったり、いくつもの画面が重なり合うなんてできないが、撮影した素材の切り貼り、結合、BGM挿入、変速など基本はちゃんと行える。これで動画編集はなんとかこなしている。

     さらにネタをどうするか。いろいろな画像を見ると、面白おかしく工夫する試行錯誤に満ちている。視聴率アップの奇策は、迷惑系ユーチューバーといわれる若者は食品を買い、代金を払う前に店内で食べる姿を撮影・投稿の暴挙(!)に出て、逮捕者まで生み出している。

     私には、到底、そんなことは出来ないので、日々の生活を基本的に追うことにした。ふるさと・北海道釧路市の自然や、今、住んでいる札幌の日常を紹介したりしている。「コラム ちょっと思うこと」も始めた。やはり、新聞記者の思いはささやかながら反映したい。

     チュートリアルで先輩ユーチューバーが、こう強く言っている。①プライドは捨てなさい②人の話は素直に聴きなさい③数を重ねて質を高めなさい④何があっても諦めてはいけない―とね。別な若先生は、何が何でも100本アップを目指しなさい、と。これらの話をまとめると、ユーチューバーを目指す100人のうち、100本の手前で断念する人が99人だそうだ。この99人に入るか、残りの1人になるか。そのうち、結果は出る。

     ここまで来て、分かったことの基本中の基本はひとつ。健康であることだ。早起きも必須条件。体調が良くないと好奇心がわかない。アイデアが浮かばない。外に撮影に出る気がしない。69歳のルーキーが本物になるかどうか、健康と表裏一体だ。人生100年の時代、楽しく生きよう!

    ※真田和義さんは1975年毎日新聞社入社、2001年北海道支社報道部長として「旧石器発掘ねつ造」スクープで新聞協会賞、早稲田ジャーナリズム大賞、菊池寛賞受賞(取材班代表)。2005年ノーベル平和賞受賞のワンガリ・マータイ氏を日本に招きMOTTAINAIキャンペーン事務局長、常務執行役員、顧問を経て2019年退社

    2020年10月13日

    角川春樹君のこと ー 映画「みをつくし料理帖」公開にあたって

    ゆうLUCKペン出版記念パーティーで(2020年2月26日)
    ゆうLUCKペン出版記念パーティーで(2020年2月26日)

    野島孝一(元学芸部編集委員)

     堤哲さんに頼まれて、これを書いている。最近、角川春樹君が、毎日新聞をはじめ、あちこちでインタビューに応じている。自ら製作・監督した松本穂香主演の「みをつくし料理帖」(原作・高田郁)が2020年10月16日に公開されるのに伴い、宣伝活動でしゃかりきになっているのだろう。堤さんは、私が毎日新聞OBの同人誌「ゆうLUCKペン」に書いた自分史に、國學院久我山高校で私と角川が3年間同じクラスにいたと書いたところを目ざとく見つけて、”時の人“になった角川とのことを書けと言ってきたに違いない。

     残念ながら高校のころ、角川とそれほど親しかったわけではない。私は無口だったし、彼も無口なほうで、談笑した覚えがほとんどない。ただ教室では3年間席替えがなく、彼の後方に座っていた私は短く刈り上げた彼の“絶壁後頭部”の眺めになじんでいただけだ。“絶壁頭”については、私とて彼にひけをとらなかったのだが。そのころ(1957~60)の國學院久我山高校は男子校で、程度は相当低かった。井の頭線を挟んで、線路の向こう側には天下の秀才高、都立西高校があり、女子学生もいて線路を挟んで天国と地獄の様相を帯びていた。まさかのちに学芸部で机を並べた松島利行さんが、そのころあっち側の天国(西高)にいるとは思いもよらなかった。

    製作委員会ホームページから
    製作委員会ホームページから

     なにしろこっちには、やくざの舎弟を名乗る不良もいた。授業の終了後には畑が広がる校舎の前で他校の不良がたむろしてこっちの不良が帰るのを待ち受けていたこともあった。教室内の光景は索漠としており、ボタンまで真っ黒い制服はカラスのようで味気ないことこの上もなかった。

     柔道が正課で、週1回は道場でドタバタやっていた。当時の角川は色の白いやせた男で、今から思うと美男子だったかもしれない。ある日、角川がけいれんを起こして倒れたのを覚えている。だれかのかかとが角川の頭部を直撃したようだった。そんなこともあって、彼はひ弱な印象が強かったのだが、とんでもない。彼は早稲田を振って國學院大學に入ったのだが、拳闘部で活躍し、プロボクサーのライセンスも取ったと後で聞いた。渋谷でチンピラ相手に立ち回りをしたとも。ケンカしなくてよかった――。

     高校時代、彼の父親が有名な角川源義氏だとは知っていた。家族が複雑だとも聞いた。あるとき同じクラスの数人で、角川の家で勉強をすることになった。そのとき彼が妙なことを言った。「米を1合持ってこい」。何に使うのだろうと思いながら、おふくろに頼んで袋に米を入れてもらった。杉並区の彼の家に行くと、なんと車寄せのある豪邸だ。お手伝いさんが来て米を集めた。後からそれは握り飯になって現れた。いくら食い盛りの高校生が集まっても、もはや戦後ではない時代だよ。豪邸で食う持参米のおにぎりは、複雑な味がした。

     お互いが違う大学に進み、高校時代の友人たちとも疎遠になったが、思いもよらぬ形で角川と再会した。私がロッキード事件のさ中に東京本社社会部から学芸部に移った1976年に角川が初プロデュースした「犬神家の一族」が劇場公開され、大ヒットした。いまはなき日比谷の有楽座で完成披露試写会が開かれた。玄関には白いタキシードの角川が立っていて、「おい、野島だよ」と声をかけると「久しぶりだな」と応じてくれた。それはいい。後でレセプション会場に白塗りの棺桶が運び込まれた。いきなり中から現れたのは角川だった。度肝を抜かれた。あんなにおとなしかった奴がなあ。

     そのあとの彼の活躍は目覚ましかった。彼が製作した「人間の証明」「野性の証明」「復活の日」などの大作が、テレビのCMでバンバン流れる。一種の社会現象のようにヒットする。まるで神懸かりだ。そういえば、彼はスピリチャルや俳句の世界でも寵児になった。高校時代の彼とは、まったく別人のよう。

     彼は8本の映画を監督している。多分、製作だけでは飽き足らなくなったのだろう。最初の「汚れた英雄」(83年)は、人物像にまったく深みがなく、バイクのレースシーンも1社のバイクしか走らないので、気に入らなかった。監督として角川を見直したのは、「天と地と」(90年)だ。上杉謙信役の渡辺謙さんが病気で主役を榎木孝明さんに代わるハプニングがあったが、まずまずのヒットをした。私はカナダのロケに行き、角川監督を取材した。日本映画をカナダで撮るなんて、それだけでも常人には考え及ばない。川中島の合戦シーンが、まさかカナダで撮られたなんて見破った観客はどれほどいかだろうか。私が角川監督を評価したのは、カナダ人を含む大勢の助監督たちを束ねて指揮し、黒山のような軍勢を効率よく動かして、撮影していった技量だ。まるで野外のゲームのように助監督たちに命令を出し、群衆を動かす。彼は3000人のエキストラを外国で駆使したのだ。日本映画界で黒澤明監督以外にそういうスケールの監督は思い浮かばない。

     そうしてあの事件が起きた。社員カメラマンがアメリカからコカインを日本に持ち込み、角川も1993年に逮捕された。彼は罪を認めようとはせず、実刑をくらって2001年から4年間収監された。角川が「時をかける少女」(97年)を監督して撮り直すと聞いて取材したのは、裁判の係争中だったと思う。初代の「時をかける少女」(83年)は角川がプロデュースし、大林宣彦監督で撮って大評判になった。原田知世をスターにしたのも角川の功績だ。なんで新たに監督をして撮り直すのかを聞いたのだが、答えは忘れてしまった。角川監督版「時をかける少女」はモノクロ映画だった。当時はまだフィルムで撮影していたが、モノクロ映画は絶滅しており、第一、国内ではフィルムが生産中止になっていた。確か東南アジアでフィルムを探し出したようなことを言っていた。

     「みをつくし料理帖」は「笑う警官」(09年)以来の監督作品だ。正直言って角川監督がこれだけの情緒豊かな作品を作るとは思わなかった。日本の伝統文化がしっくりとなじんでいる。女心が繊細に描かれている。彼は確か5番目のカミさんと暮らしている。

     女心もいいかげんわかりそうなものだものね。

    2020年10月12日

    大治朋子著『歪んだ正義』が読売新聞書評で紹介されました ― 都内でトークイベントも

    読売新聞10月11日付朝刊「本よみうり堂」12ページ

    調査報道、裏話楽しむ 大治記者イベントに大学生ら150人 /東京

    毎日新聞2020年10月11日 都内版

     毎日新聞の大治朋子専門記者による「歪んだ正義~『普通の人』がなぜ過激化するのか」(毎日新聞出版)の出版を記念したトークイベントが6日、オンラインで開かれた。大学生など約150人が参加し、調査報道で知られる大治記者の取材の裏話などを楽しんだ。

     大治記者は1989年入社。2002~03年の防衛庁(当時)による個人情報不正使用に関する報道で新聞協会賞を2年連続で受賞したほか、米国の対テロ戦争の実態などを追った長期連載で10年度ボーン・上田記念国際記者賞を受賞した。

     イベントは毎日新聞麻布赤坂販売所(港区麻布十番)3階イベントスペースから、ウェブ会議システム「Zoom」で中継された。大治記者は冒頭、新型コロナウイルスの流行に伴い現れた「自粛警察」を例に暴力のメカニズムを分析。「ストレスがたまると人を攻撃する癖のある人は元来いるが、理性が蓋(ふた)をしている。今回そうした行為に走った理由は、自尊心と承認欲求を満たすためと思われる」と指摘した。

     イベント後半では参加者の質問に答え、調査報道で大事にしているポリシーなどを披露。「自分がいつも大事にしているのはQOL(人生の質)を上げる報道。そのタネはどこにでも転がっている」などと話した。

    (千代崎 聖史)

    2020年10月12日

    北海道毎友会総会で、新会長に江畑洋一さん選出

     北海道毎友会の2020年度定時総会が10月8日、北海道支社で開かれ、大西康文会長(元毎日新聞社取締役)の退任を承認。新会長に江畑洋一さんを選出するなど新役員体制(第29期)を決めた。会長の交代は8年ぶり。恒例の懇親会はコロナ禍の影響で初めて中止となり、出席会員は15人にとどまったが、コロナ禍の収束を願うとともに来年の再会を誓い合った。

     顧問を代表し挨拶した末次省三支社長は社業の厳しさを報告する一方で、「コロナ禍の下で新聞社として何ができるかを考えながら飛躍を遂げたい。皆さんのお力添えをお願いしたい」と話した。

     退会者(物故者)6人の方々が紹介され、黙祷。19年度の決算報告を承認した。紙媒体としての社報が今年度限りで廃止されることが江畑新会長から報告された。今後、東京毎友会ホームページへの相乗りを検討する。

     新会長となった江畑さんは1975年毎日新聞入社後、北海道支社報道部を経て支社次長、北海道毎日サービス社長などを歴任。「紙がデジタルへと変わっても正しい情報を伝える大切さは変わらない。毎日新聞の役割は大きく、私たちに何ができるか考えていきたい」と挨拶した。

     新しい役員体制は次の通り(敬称略)。【副会長】松宮兌、山田寿彦【会計監事】木下順一【会計】小野寺義治【幹事】小原利光。総会時点での会員数は147人。

    前列中央が江畑洋一新会長、向かって左が末次支社長、右が大西前会長

    (山田 寿彦)

    2020年10月9日

    連載「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」を始めました ― 毎日新聞
    グループホールディングス顧問・小川一

     日本新聞協会発行の月刊誌「新聞研究」で、1999年1月号から2003年5月号まで続いた連載がありました。「忙中日誌」と題され、新聞社のデスクが日々の仕事や出来事を綴ったものです。その筆者である「大林三郎」は、実は私でした。今回、私が筆者であったことを明かした上で、当時の日誌を改めて読み直す連載「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」を「note」で始めました。「note」は、編集者やジャーナリストがよく使っているブログサイトです。

     「忙中日誌」は、1960年代に共同通信社会部デスクだった原寿雄さんが「小和田次郎」のペンネームで執筆した名著「デスク日記」を意識したものでした。現代版の「デスク日記」が展開できないかと考えた新聞研究編集部が、筆者に私を選んでくれました。当時の上司に相談したところ「面白い。やってみたら」。この自由さとおおらかさが毎日新聞です。まさか編集局長は私が筆者とは知らないだろうと思っていたのですが、連載が始まってしばらくした頃、「今月号は話題になっているよ。いったい誰が書いているんだろう、って」と廊下で話しかけられました。本当にいい会社です。

     「忙中日誌」の連載は、毎日新聞の小川一が書いているということを気づかれないようにするため、少し苦労しました。原さんのデスク日記を読んでいると、後輩の結婚式に出た様子などが書かれています。どうやってペンネームを維持できたのか、よほど原さんに聞いてみようかとも思ったのですが、それも失礼なので、私なりに考えて対処しました。例えば、飲み会の様子などは日付をずらしたり、他社のデスクの体験談を自分事のように書いたりもしました。総じて、事実や事態の文脈を曲げず、後世に読み返してもその検証に耐えられるものにしたつもりです。連載中、後輩や他社の記者から「大林三郎は小川さんでしょう」と聞かれたことが3度ほどありました。その時は、笑ってごまかしました。

     今回、新たな連載を始めようと思いついたのは、NHK広島放送局がツイッターで展開している「ひろしまタイムライン」を知ったのがきっかけでした。原爆投下前後から敗戦直後の広島の庶民の悲惨な暮らしを、当時の人々の日記などから掘り起こし、BSの特集番組に編成するとともに、ツイッターで再現する取り組みです。一部に差別表現があり、残念な事態も招きましたが、その発想には大きな刺激を受けました。自分が過去に書いたものでも、現在にアップデートすることができると教えられました。また、インターネットの時代の今、デジタル情報としてアップしない限り、多くは死蔵してしまうという意識もありました。

     私は、2019年1月~4月に「平成の事件ジャーナリズム史」を15回、2020年1月~4月に「令和のジャーナリズム同時代史を13回にわたって毎日新聞のニュースサイトで連載しました。この時も、過去の著書や雑誌に書いたものを拾い出して再構成しました。読者の反応もよく、「平成の事件ジャーナリズム史」2回目の記事は、毎日新聞が1年間に発信する10万もの記事の中で、有料読者獲得ランキングでトップ10に入りました。連載でトップ10入りしたのは、私の記事だけでした。還暦すぎた私が、若い人たちに勝ったようでうれしかったこともあって、20年以上前の日誌を現在の連載にすることを決めました。ちょうど、取締役を退いたこともあり、実名を明かしても、会社に迷惑をかけないだろうという判断もありました。連載の舞台を「note」にしたのも、ペンネームで書いた作品を、毎日新聞の看板の下で展開するのは適切ではないと考えたためです。

     「忙中日誌」は1998年11月1日から始まります。日本の新聞の発行部数が最高を記録したのは1997年です。ちょうど部数減少が始まった頃に連載を始めたことになりますが、それでも、日誌には、まだまだ元気いっぱいの紙の新聞の姿が描かれています。「コンプライアンス」や「働き方改革」「テレワーク」などが幅をきかす今とは、白黒反転したような懐かしい風景です。連載は、そんなノスタルジーに陥ることなく、当時の熱量を今に伝導するものにしたいと考えています。

     「忙中日誌」は、私が社会部デスクから横浜支局長に転出する直前の2003年3月で終わりました。今回「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」という題名にしたのは、「忙中日誌」だけでなく、その後の出来事も盛り込むためです。社会部長や編集編成局長時代に書いた文章も拾い出して、アップデートしていくつもりです。原則として毎週日曜日に投稿し、1年間は続ける覚悟です。読んでいただければ幸いです。

     小川一さんのブログについて、堤哲さんから以下の寄稿をいただきました。

     社会部旧友・小川一さん(62歳)がインターネット上で「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」https://note.com/pinpinkiri/n/ne12393620f6cの連載を始めた。

     はじめに、にこうある。

     《ジャーナリズムの危機は、20年前にもさかんに指摘されていました。その危機は、乗り越えられないまま、インターネットの普及とソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の登場で、さらに深刻なものになりました。

     巷間にあふれるフェイクニュースや、人の命をも奪う誹謗中傷の投稿は、角度を変えてみれば、ジャーナリズムの衰退と敗北の結果とも言えます。

     一方で、全員が発信できる時代は、全員が発信者の責任を共有する時代、全員がジャーナリストになりうる時代でもあります。

     そんな時代を迎え、もう一度ジャーナリズムを多くの人と一緒に考えてみたいと思いました》

     小川さんは、社会部記者時代、月刊「新聞研究」(日本新聞協会発行)に「大林三郎」のペンネームで「忙中日誌」を連載していた。1999年1月号から2003年5月号までの4年半に及ぶ。

     筆者の新人記者時代の教科書でもあった小和田次郎著『デスク日記』(共同通信社会部デスク原寿雄著)のひそみに倣って連載を始めた、と書いている。

     20年前と今——。新聞の危機は深刻だ。

     1999年日本の新聞の発行部数は5370万部、総売上高は2兆4688億円。

     2019年の発行部数3780万部(▲1590万部)、総売上高1兆9323億円(▲5365億円)。

     2020年はコロナ禍で発行部数、総売上高とも、さらに落ち込んでいると思われる。

     20年前の日誌と比較することで《ジャーナリズムの過去と現在と読み解き、未来を展望する手がかりが得られれば、と思っています》

     さらに《この時代を報道の現場から記した日誌は、私個人の反省の記録であると同時に、ジャーナリズムとマスメディアの未来へ、反面教師という面も含めた伝言になることを願います》

     小川さんは、元社会部長→編集編成局長→取締役メディア担当

    (堤  哲)

    2020年10月2日

    我が町野鳥図鑑を作成(藤田修二)

     毎日労組OB会の会報『元気な歩み』でも少し触れましたが、私の住んでいる神戸市東灘区の人工島「六甲アイランド」でこれまでに確認された野鳥図鑑を発刊しました(写真①)。発行元は私がかかわっている六甲アイランドまちづくり協議会。

     図鑑と言っても何十頁もある大層なものではなく、B5版4つ折り、ページ数にすれば8ページのリーフレットのようなものです。91種類の野鳥とその解説を掲載しました。実は確認された野鳥は100種類余に上りますが、予算とスペースに限りがあるのと自前で撮影し、かつ図鑑として耐えられる画像に限ったので残念ながら上記の数になりました。

     撮影したのは私のほか、島内居住の花鳥風月を愛する3人。うち女性が2人です。

     私は、現役のころはただ住んでいるだけでしたが、余裕ができて島内を歩くと結構たくさんの種類の鳥がいるなあと気づきました。六甲アイランドは面積600ヘクタールありますが、全体としては自然に恵まれてはいない島です。でも公園や散歩道、池、周囲の海に、一時羽休めに寄ってくれる渡り鳥たちが多いことがわかりました。その意味では砂漠の中のオアシス的感じです。

     出来上がった図鑑を神戸市環境局の生物多様性担当職員に持っていったら、後日「人工の島にこんなにたくさんの鳥が見られるんですね。みんな驚いています」と返信がありました。

     合計8000部印刷、島内の各街区、小・中・高校、大学などに配りました。六甲アイランドまちづくり協議会のホームページにも載せましたので、関心がある方はご覧いただけたら幸いです。

     毎日新聞神戸支局の木田智佳子記者が興味を持ち、地域面で記事にしてくれました(写真②)。神戸新聞も取材してくれ、毎日新聞の後に掲載されました。

    (元社会部 藤田 修二)

    <大阪毎友会ホームページから転載しました>

    2020年9月24日

    50年前の早稲田の街の写真もあります—毎日フォトバンク

     コロナ禍で、早稲田大学は10月18日(日)に予定していたホームカミングデー・稲門祭を中止した。

     ホームカミングデーには校友のだれもが参加できるが、これまで卒業50年目、45年目、35年目、25年目、15年目の校友には招待状を送っていた。

     早大校友会が発行するコミュニケーション誌「早稲田学報」10月号には、卒業50年目の2020稲門祭実行委員長である作家の三石由起子さん(81年文学部卒)が稲門祭への思いを綴り、その先に4ページにわたって「50年ほど前の早稲田の風景」写真が8枚掲載されている。

     ホームカミングデーで母校へ行けないので、せめて当時の早稲田の風景を懐かしんでもらおうという企画であろう。

     その写真説明に、「1968年10月20日池田信撮影、毎日新聞社提供」とクレジットが入っている。

     「池田信って、写真部OB?」

     ではなかった。池田さんは元東京都庁のお役人。写真を撮ったのは都立日比谷図書館の資料課長時代。東京の姿を記録しておきたいと、カメラを肩に東京の街をさまよったという。池田さんは1987(昭和62)年に75歳で亡くなっているが、その後、写真を寄贈された毎日新聞社は、池田信写真集『1960年代の東京—路面電車が走る水の都の記憶』を2008年3月に発行している。

     編集人は出版写真部・高橋勝視、制作スタッフ・編集に出版写真部平嶋彰彦、校閲・写真部横井直樹、編集協力に編集局整理本部・松上文彦の名前がある(敬称略)。

     寄贈のきっかけは、松上さんの親友の夫人である今村裕子さんが池田さんの姪にあたったこと。子どものいなかった池田さんの死後、写真資料を引き取って10数年保管していた今村さんは、転居にあたり始末しようと考えたが、ひょっとして新聞社で使えないかと相談してきたのだ。とりあえず調査部あてに送ってもらったところ10数個の段ボール箱がどさっと届いて、あまりの分量にびっくり。

     その中には東京を写した2万数千点のネガと密着の紙焼き、そして撮影日時と撮影場所が綿密に記録されていた。寄贈を受けたその写真を調査部にいた森岡義人さんが、数年がかりでデータとして毎日フォトバンクに登録した。それを出版写真部の平嶋彰彦さんが精査し、川に沿った水辺の風景と都電の走る街並みを中心に400枚をピックアップしてまとめた。東京の街を知る資料的な価値のきわめて高い写真集で、2008年の発行以来、増し刷りを重ね、毎日新聞社から分社した毎日新聞出版からは2019年2月に新装版が発行されている。池田さんの写真は毎日ネットでも好評で、堅調なアクセス数を記録している。早稲田大学周辺で撮影した写真も、毎日フォトバンクに登録されている。

     毎日新聞の懐の広さを感じる話題ではないだろうか。

    (堤  哲、松上 文彦)

    2020年9月21日

    旧石器発掘捏造スクープを成功に導いた常識外れの決断 ― 20年後のNHK「アナザーストーリーズ」を機に取材班キャップが振り返る

    写真はNHKテレビ・アナザーストーリーズから
    写真はNHKテレビ・アナザーストーリーズから

     毎日新聞北海道報道部による旧石器発掘捏造のスクープ(2000年11月5日朝刊)から今年で20年。NHK・BSプレミアム『アナザーストーリーズ』が9月15日、スクープの顛末と、考古学界や社会に与えた衝撃を振り返る番組を放送した。私は取材班キャップとして「神の手」ことF氏に捏造映像を見せ、本人の言い分を聞く詰めの取材を担当したため、インタビューを求められた。またぞろ、美味しい所をいただいてしまったと、いささか申し訳ない気持ちでいる。

     取材班メンバーは、番組に登場した私と高橋宗男君、山本建君のほか、担当デスクの渡辺雅春さん、早川健人君、写真課員の西村剛君、第一報の「一通のメール」をもたらした本間浩昭君の計7人。私以外のメンバーがそれぞれ重要な役割を果たし、お膳立てしてくれたフルコースディナーのメインディッシュを「つまみ食いした」程度が私の役回りだ。

     スクープの成功はいくつもの奇跡が積み重なった。失敗もその一つ。北海道の発掘現場で高橋君が大失敗していなければ、山本君が宮城県・上高森の茂みに潜んでとらえた鮮明な捏造映像はなかった。しかも、「遺跡」の有名度は後者の方がけた違いである。そして何よりもの奇跡は、取材班の編成を命じた真田和義報道部長の神がかり的な直感力である。

     本間君が真田さんにメールを送ってきたのは2000年8月25日。「こんなことはあり得ない。怪しい」という内容ではあったものの、確たる証拠はなかった。真田さんはそれだけの情報で取材開始を即断即決。朝、出勤してきた私にメールを見せ、「俺は最近運がいいんだ。これで新聞協会賞を取るぞ。デスク渡辺、キャップお前。取材班を人選しろ」と命じた。「この人、何を言い出すのか」と面食らったどころではない。渡辺さんも「筋悪な話だなあ」という受け止め方であった。

     本間情報では、F氏が北海道新十津川町の発掘に数日後にやってくるという。バタバタと人選し、機材をそろえ、過去の新聞記事や資料を読み漁った程度の準備で明け方の張り込みとなった。F氏は早朝、一度だけ、無人の発掘現場に現れ、不審な行動を見せた。しかし、動画撮影はビデオカメラ担当の高橋君が操作を誤り失敗。西村君が望遠で撮影したおぼろげな写真だけが成果だった。

     発掘最終日の記者会見で、「石器が出た」と発表された。「不審な行動」との因果関係は分からなかった。北海道での発掘は、年内はそれが最後で、次の発掘現場は埼玉県。私はこの取材はこれで終わった、継続するにしても年が明けてからだろうと思った。北海道報道部の持ち場は北海道という固定観念からだ。この時点で取材費を100万円ぐらい使っていた。しかし、不審な行動を目撃した高橋君は取材続行を強く主張。渡辺さんも同調した。

     真田さんはしばらく熟考していた。「この写真でFを落とせないか」と相談された私は「否定されたら終わりです。無理でしょう」と答えた。もしこの段階で勝負をかけていたら、取材は水泡に帰していただろう。

     真田さんは取材続行を決断する。「金はいくらかかってもいい。俺が責任を取るから」と言った。ゼロか百かの大博打。『アナザーストーリーズ』風に言えば、この決断こそがまさに「運命の分岐点」となる。

     真田さんは後日、自分がなぜそんな決断ができたのかを語る。報道部長になる前に総務部長の経験があったからだという。どういうことか。当時の報道部の予算は年間800万円程度。一方で、販売部はABC部数を積み上げるための経費に毎月1億円ぐらい使っていた。支社全体の中で報道部の予算がいかに微々たるものか、という金銭感覚が総務部長の経験ゆえに持てたという。「1000万や2000万、どぶに捨てたってどうってことねえよ。失敗したら、ごめんなさいで終わりだ」。真田さんは腹をくくった時の気持ちをこんな言葉で表現した。

     過去の報道部長経験者から「自分だったら真田みたいな決断はできなかっただろうな」と言われたものだ。組織ジャーナリズムの弱点と言うべきか、その立場で可もなく不可もなく、無難に過ごすことが次のステップにつながる。どの会社にもありがちな組織文化の中で、失敗を恐れなかった真田さんの英断は奇跡だったと今も思う。

     立花隆氏をして「日本ジャーナリズム史上に残る完璧なスクープ」と言わしめた発掘捏造報道の最大の立役者は紛れもなく真田さんである。真田さんは、東京本社編集局次長(交番)を自薦するが、東京の感覚で言えば、彼はいわば外様、ノンキャリ扱い。会社は彼を編集局の中枢に置く人事を頑として認めなかった。

     社長室に異動し、「MOTTAINAIキャンペーン」や創価学会担当のスペシャリストとして、その異能ぶりを発揮する。北海道支社長を打診されても一蹴した。「支社長なんかで終わってたまるか」と。その後、執行役員として活躍したが、取締役に登用されることはなかった。

     真田和義は常人には思いつかない発想をする。新聞社経営が多難な時期こそ、型にはまらない組織論、経営論、リーダーシップ論が必要だろう。スクープの社会的意義を別として、真田さんが我が身を顧みずに下した常識外れの決断が歴史に残る大スクープを成就させた事実こそ、社内で共有され、いつまでも語り継がれてほしいと思っている。

    (北海道毎友会会員・山田寿彦)

     ※山田寿彦さんは1985年、毎日新聞社入社。北海道支社報道部副部長、東京本社代表室委員、社団法人北方圏センター出向(出版部長)を経て2011年、選択定年退職。2014年、はり・きゅう・あん摩マッサージ指圧師国家資格を取得。2015年、札幌で治療院を開業

    ※WEB上の「デイリー新潮」9月21日配信記事に、「『神の手』旧石器捏造事件から20年 今だから話せる〝世紀のスクープ〟舞台裏」が掲載されています。下記URLでご覧ください。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/3d8f4d925075be2d76b7984985051bd174faf012?fbclid=IwAR1eoBObqCRv4cDvS1H-lAbhLmo9GewTGO4jkgH_olhUW8nKPrFZRb4rG1g

    2020年9月19日

    元カメラ毎日編集部、松村明さんの『閃光の記憶 被爆75年』が朝日新聞2020年9月19日の書評欄で紹介されています

    2020年9月14日

    「もういくつ寝ると<ユルリとね> 」―元エコノミスト編集長、高谷尚志さんがFB連載250回に


    「少年時代」の舞台入善町は黒部スイカを品種改良して入善ジャンボスイカとして全国的な評価と知名度を獲得しています

     「少年時代」井上陽水、映画「少年時代」篠田正浩監督に岩下志麻(少年の母)、劇画「少年時代」藤子不二雄a、いずも有名ですよね。

     でも原作は芥川賞作家柏原兵三「長い道」。 兵三少年が母岩下志麻に連れられて、志麻の夫、兵三の父の実家のある富山湾に面した富山県入善町に縁故疎開、その時の思い出を綴った小説です。東京の柏原家は男の子が5人、全員「兵」の字の後に一、二、三、四、五をつけて名前とした。東京は子沢山だったのですが、肝心の入善町のご本家はお子さんに恵まれない。

     そこで本家のご当主に一人是非ということで、入善町のご本家に幼少から赴いたのが「五」番目の兵五。 坂東・村椿甲子園の投げ合いで全国を沸かせたあの魚津高校を卒業、東京の大学に行っている時は東京の柏原家で居住。そこは東大の近くで 東大独文に通う、兄の柏原兵三氏の 友人、仏文の大江健三郎氏も遊びに来ていて、丸いメガネで朴訥にボク大江です 何ていうところも見たという貴重な体験をしています。

     東京でビジネスマン。 東京の大学にやはり行っていた入善町近くの女性と結婚。子供3人、孫6人。

     そこに2011.3.11東日本大震災、それをきっかけに柏原総本家当主の自覚に目覚め、家屋敷、田畑、仏壇、お墓を守る、の決意で、入善町に移り住んだのですね 。その時家屋敷は空き家になっておりました。

     田畑を耕し晴耕雨読。これもいいのですが、兄兵三譲りの文才がムラムラと鎌首をもたげ、そうだブログを書こう、そこで2011年5月から延々と毎日 ブログを更新することになったのです。途中からお正月ちょっと休載、病院に入院中休載、を除けば本当に毎日更新しています。

     その数たるや。なお兵五氏とは取材先で知り合いになりました。ご興味のある方、「随筆風」と検索してください。すぐに出てきます。 ペンネーム「樫平吾」。

     前方に富山湾、後方に北アルプス、四季折々、畑ではネズミモグラナメクジとの戦い、果実を狙う野鳥、村落共同体、ユーモアたっぷりに描き出します。とりわけ都々逸とか警句をひねり出すか見つけてくるのにたけています。

     ・村落共同体
     ホトトギス 自由自在に聞く里は 酒屋へ三里 豆腐屋へ二里

     ・男女の機微
     君は吉野の千本桜 色香よけれど き(木、気)が多い
     浮気うぐいす 梅をばじらし わざと隣の桃で啼く
     老いらくの恋と知りつつ炭の宿 後は囲炉裏の 灰になるまで

     ・人生の機微
     裏を見せ表を見せて散るもみじ<良寛>
     立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半‥

     ・頂門の一針メタボ対策
     今日の我慢か明日の肥満か
     (拳拳服膺してます)

     「樫平吾」に刺激されて、足元にも及ぶものではないにせよ、私も何か、ということで Facebook に「もういくつ寝ると<ユルリとね> 」を毎日、投稿を始めました 。250 本 になるのを、毎友会編集部に気づいていただき、何か書いてみたらとの注文をいただいたような次第です。

     面白いと思ったことをその場で書けて発表の場があるというのは定年退職者にとってはありがたいことです。

     古い話でも新鮮さは失わない。例えばクイズダービー山城新伍、第三の顔とは、大橋巨泉絶句。同じクイズダービーおなじみの教授、篠沢秀夫さんのフランス文学講義録を読んでましたら、『猿の惑星』をめぐる仏文学者と英文学者の仁義なき戦い。断捨離しようと思ってパラパラと眺めた雑誌に太地喜和子さんが椎名誠さんとの対談に登場しているのでちょいと読み返してみると太地さん、自分の葬式を脳裏でシミュレートしていると言っているんですね。慌てて日付を見ると自動車海中転落事故の1年前。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

     今後、開高健VS淀川長治 裏グルメ対決、杉浦日向子 VS小泉武夫 究極の臭い対決、あの壇蜜が銚子の大学(千葉科学大学。10年ほどお世話になってました)を撹乱した話などを予定しております。

     FB は全公開ですのでお気軽に訪問いただければ。

    (高谷 尚志)

     https://www.facebook.com/profile.php?id=100005457191329

    2020年9月12日

    長田達治さんが「竹下派 命がけの権力闘争」を日本記者クラブ会報に

     政治部副部長、ソウル支局長、アジア調査会専務理事などを務めた長田達治さんが日本記者クラブ会報9月号「書いた話 書かなかった話」に、「竹下派の誕生と分裂のドラマ 七奉行が『命がけの権力闘争』」を執筆しています。クラブのホームページでも読めます。

     https://www.jnpc.or.jp/journal/bulletins
     14、15ページ

    2020年9月10日

    毎日ファッション大賞選考委員・太田伸之さんがMD実学本を出版

     2020年(第38回)「毎日ファッション大賞」(毎日新聞社主催、経済産業省後援)の受賞者が決定しましたと、9月9日付朝刊に社告があった。

     <大賞>デザイナー・熊切秀典氏(beautiful people)
     <新人賞・資生堂奨励賞>デザイナー・横澤琴葉氏(kotohayokozawa)
     <鯨岡阿美子賞>ファッション甲子園実行委員会
     <話題賞>ワークマンプラス

     毎日ファッション大賞の選考委員を務める太田伸之さん(67歳)が『売り場は明日をささやく―大変革期を生き抜くファッションMDの実学』(繊研新聞社刊、2,200円+税)を出版した。

     MD(マーチャンダイザー)とはマーチャンダイジングの頭文字からで、マーケットやトレンドを分析し、商品企画から販売計画、予算・売り上げを管理する、アパレル企業のブレーンだそうだ。

     太田さんは、この本についてこう書いている。

     《ファッションビジネスはいま赤信号状態、なので表紙は真っ赤に塗りつぶしました》
     《タイトル「売り場は明日をささやく」は、売り場を注意深く見て分析すれば明日の業界、市場が見えてくるという意味です》
     《コロナ後、同じ景色は戻ってきません。これからどういう戦略を立てるのか、ぜひ拙著を参考にしていただきたいです》
     《「もっと魅力的な商品を作ろう」、まさにクリエーションが問われるのはここからではないでしょうか》

     太田さんの三重県桑名市の実家は、テイラーだった。明治大学の学生時代からファッションのサークル活動をはじめ、大学を卒業してNYへ。百貨店、有名ブティックなどを回り、クリエーターにも会って、その現地報告を繊研新聞に送った。同時にアートとデザインの私立専門大学であるParson’s School of Designに通った。のちに同校の講師となって、授業も受け持った。

     8年のNY生活を終えて帰国、1989(平成元)年11月に東京ファッションデザイナーズ協議会(CFD)を立ち上げて、議長に就任する。

    毎日新聞社2009年刊

     日本のファッションを世界に発信!で、東京コレクッションを春秋に開くとともに、ファッションビジネス塾を開いてマーチャンダイザーの育成を始めた。

     1995(平成)年CFD議長を退任して銀座のデパート松屋営業本部顧問兼東京生活研究所所長→2000年イッセイミヤケ社長→2011年松屋常務執行役員、MD戦略室長→海外需要開拓支援機構(クールジャパン)社長→18年退任。(株)MD03設立。

     以上は、太田さんの『ファッションビジネスの魔力』(毎日新聞社2009年刊)などからの引用だが、太田さんが一番信頼していたのは毎日新聞のファッション記者市倉浩二郎(1940年入社)だった。市倉はパリコレから帰国して体調を崩し、1994年4月25日に亡くなった。53歳だった。

     太田さんは、社会部旧友大住広人さん(1961年入社)とともに市倉の葬儀すべてを仕切った。太田さんは、今でも「桜の季節は市倉を思い出すので好きでない」という。

     新宿伊勢丹本館2階の「TOKYO解放区」がある。『売り場は明日をささやく』108ページに解放区誕生の経緯が綴られている。

    1994年4月19日毎日新聞夕刊

     狙いは若手ファッションデザイナー育成、インキュベーションのための売場確保だった。

     太田さんが持ちかけたのは後に社長となる武藤信一さんであり、そのバイヤーが後にファッション業界初の参議院議員となる藤巻幸夫さん(2人とも故人)だった。

     そのオープンが1994年4月。なんとその記事を夕刊ファッション欄に私が書いているのだ。多分、市倉が体調を崩して入院、編集委員室で隣合っていた私に「穴埋め」原稿が求められ、伊勢丹で写真を撮って書いたと思われる。市倉の代打・代走だった。

     その記事で太田さんはこういっている。

     「卵がかえる機会は与える。孵らない卵は捨てる。かえったヒヨコは追い出す、ということです」

     「解放区」から何人の若手デザイナーが羽ばたいてメジャーになったのだろうか。

    (堤  哲)

    2020年9月9日

    毎日新聞記者Jr.佐藤一平さんがCFに出演

     YouTubeを見て下さい。

    https://www.youtube.com/watch?v=1fByS3tlQBg

     富士ゼロックスのCFです。

     これに出演しているのが、元銚子通信部佐藤正三さん(1983没、39歳)の長男一平さん(48歳)です。イケメンでしょう!

     身長182センチ、趣味:絵画、ギター、英会話。特技:殺陣、剣術(小野派一刀流)、乗馬というから格好いい。

     お母さんは、千葉・白扇書道会(種谷萬城会長)所属の書家佐藤星紗(和子)さん。毎日書道展会員であり、むろん「毎日賞」も受けている。千葉支局で長いこと働いていたから「あの佐藤さんの息子さん」といわれる方もあるかも知れません。

     一平さんは、俳優仲代達矢の「無名塾」へ300倍の難関を突破して入団。5年間にわたり全国行脚して舞台俳優をつとめた。その後独立して、映画、テレビ、舞台などで活躍している。

     皆さん、応援をよろしくお願い致します。

    (堤  哲)

    2020年9月7日

    「新聞もなんとかせい!」元朝日新聞販売局丸山清光さん
    ――他人事ではなく、新聞販売の現場に「喝!」

     明治大学野球部の監督を37年、東京六大学野球リーグ戦優勝15回の最多記録を持つ「御大」島岡吉郎(1911~1989)の「人間力野球」を、1975(昭和50)年度のキャプテン丸山 清光さん(67歳)が綴ったノンフィクションである。

     島岡は明大の学生時代応援団長。1952(昭和27)年監督に就任するが、明大野球部のHPに「キャプテン以下11人が退部」「この退部事件は毎日新聞のスクープで部外者の知るところとなり」とある。

     「黒雲なびく駿河台」「明大野球部瓦解の危機に瀕す」が見出しだった(同HP)。

     しかし、この素人監督は就任4シーズン目に優勝。野球殿堂入りをしている。

     筆者の丸山さんが投手でキャプテンだった1975(昭和50)年は春秋連覇した。前年秋、法大1年生の江川卓投手に連敗した。「浮き上がってくる剛球と天井から落ちてくるカーブに完璧に抑えられた」のだ。

     島岡監督は翌春ハワイ遠征をして、江川対策を練る。上背のある投手の投球に慣れることと、高目の投球には手を出さないこと。

     帰国して、合宿所内に貼り紙が出た。「打倒江川! 江川の高めの球を捨てろ」

     あげくフリーバッティングでは、ピッチャーマウンドの2メートル前から打者の胸元へ速球を投げさせ、打者はバットを振らない「見逃す打撃練習」をした。

     結果〇3-2、●2-8、〇4-2で明大が「打倒江川」を実現した。

     そして秋——。初戦の東大に連敗した。次の立大に2勝1敗。早稲田、慶應に連勝して天王山の法大戦。江川は肩を痛めて不出場。明大は連勝して、早慶戦で早大が連勝すると優勝決定戦だったが、第2戦に早大が敗れ、練習グラウンドで島岡監督の胴上げとなった。六大学野球史上、東大に連敗して優勝したケースは、このシーズン以外にない。

     江川は、翌76、77年の春秋に優勝して4連覇で卒業した。1年生の74年秋も優勝、明大が優勝した75年は春秋とも2位だった。4年間の投手成績は47勝12敗。山中正竹(法大)の48勝に次ぎ歴代第2位である。

     丸山さんは卒業して1976年(昭和51年)4月、朝日新聞に入社する。「入社31年目に関連企業に出向…社長業を2社、12年」。優秀な販売担当員だった。

     最終章の見出しは、《新聞応援歌「新聞もなんとかせい!」》。

     入社時、朝日新聞の発行部数は700万部。「昭和の終盤に800万部」だった。

     しかし、「平成に入ると販売部数の伸長が止まり次第に減少を始めた。100%前後あった対世帯到達度が低下を始め、今では実質50%を割り、エリアによっては40%を下回り、止まる気配はない」。

     「そして、実売を上回る過剰な販売部数が大きな障壁となり、販売店の経営を悪化させている」と、深刻な販売現場の衰退を嘆いている。

     丸山さんはこう訴える。

     「新聞がなくてはならない『文化的日用必需品』として、形を変えても人々に再び手に取ってもらう日が来ることを祈って止まない。御大の『なんとかせい!』の一言を贈りたい」

    (堤  哲)

     文藝春秋企画出版部発行、定価:本体1,800円+税。ISBN:978-4-16-008979-2

    2020年9月6日

    スペイン風邪から100年⑧ 75年前の日独伊米英とコロナ禍

     80歳、傘寿の誕生日を7月に迎えた中安宏規さん(1964年入社)の「濁水かわら版」102号が届きました。以下は本人のメッセージ——。

     超ご無沙汰しました。

     PCとの喧嘩で打った単語がどこかへ飛んでいく。変換がめちゃめちゃ。せっかくできた紙面が、ぐちゃぐちゃに崩れる。

     1型糖尿病は安定してA1Cが6.8 体重は≒55kg 血圧は128~70.歩くのが少々シンドイけど今日も夕方あるいてきました。

     102号はコロナの記録と検証&75年前(昭和20年)のNEWSの抱き合わせです。僕自身が初めて知ることも多々ありました。

     ご笑読下されば幸いです。

    (中安 宏規)

    2020年9月4日

    「東京日日新聞」創刊の地

     9月3日付夕刊「憂楽帳」に「創刊の地を探す」とあった。

     コラムを要約すると——。

     《毎日新聞の前身、東京日日新聞が創刊した地は「浅草茅町(かやちょう)1丁目24番地」。社史によると、創業者の一人、戯作(げさく)者の条野伝平の自宅で、1872(明治5)年2月のことだ。この町名は、もう残っていないが、台東区のJR浅草橋駅や屋形船が浮かぶ神田川のすぐそばのようだ。我が家からも近い》

     で、筆者は現場を探すのだが、結論は《いつか、条野宅の跡を探し当てたい》。

     到達できなかった。

     社会部旧友今吉賢一郎さん著『毎日新聞の源流』(毎日新聞社1988年刊)に条野伝平宅の地図まで載っているのだ。

     この本のあとがきに今吉さんが書いている。

     《昭和62年8月30日付で毎日新聞(東京)は4万号を迎えた。この日を挟んで「人脈」欄に連載の機会を与えられた》

     《明治5年(2月21日)に東京日日新聞が浅草茅町1丁目、条野伝平宅で誕生したとき、そこはまさに通人たちの集中している地区だった。いちばん時代を呼吸している街だった。…もともと新聞は、地域に根をおろしたものだった。最初から漠然とした全国紙などは存在しなかった。東京日日新聞は、時代を呼吸する街に根を張る新聞として始まっていた》

     条野宅で発行していたのは20号までで、明治5年3月12日付から元大阪町新道(辻伝右衛門邸宅に移った。現在の中央区日本橋人形町1丁目)。

     辻は《銀および銀貨を管理した江戸「銀座」役人の筆頭》《資金力を背景に日報社(東京日日新聞の発行社)にかかわった》と今吉さんは説明している。

     さらに明治6年2月25日付から浅草河原町16番地に変わった。地図にある江戸通りの交差点の角地だ。

     毎日新聞は2022年2月21日に創刊150年を迎える。

    (堤  哲)

    2020年9月2日

    山崎正和氏の訃報―奥武則さんが「今週の本棚」スタートを振り返る

     山崎正和さん(下の写真)が亡くなった。訃報は各紙に大きく載り、追悼記事も各紙に出た。追悼記事で、私が読んだのは、朝日新聞の鷲田清一氏と毎日新聞の五百旗頭真氏のもの。両方とも、山崎さんが、「劇作家」や「評論家」といった肩書きに収まらない文化創造者ともいうべき存在だったことにふれている。たしかに、山崎さんのような「大知識人」は、もう出ないだろう。

     「山崎さん」と親しげに(?)に呼んでいるが、個人的に深いかかわりがあったわけではない。ただ、毎日新聞社時代、何度かお会いし、座談会にも出ていただいた。

     一つは、1995年4月から翌年3月まで週一回、一ページの紙面全部を使って連載した戦後50年の大型企画『岩波書店と文藝春秋――戦後50年 日本人は何を考えてきたのか』の締めくくりの座談会「総合雑誌を考える」である(上に紙面の写真)。

     この企画の相談相手の半藤一利さんの司会で、山崎さんと作家の丸谷才一(上の写真左)さんの三人で座談会をしてもらった。

     山崎さんと丸谷さんは多くの対談などをしていて、旧知の仲。この座談会でもお互いの発言をめぐって「論争」するといったことはなかった。だが、なんというか、名人・達人同士の「技」の見せ合いといった趣があって、同席していて、一種の緊張感があったのを覚えている。

     毎日新聞が丸谷さんを編集顧問に迎えて、書評欄を刷新した「今週の本棚」をスタートしたのは、1992年4月だった。山崎さんに客員的なかたちで書評執筆メンバーに入ってもらった。むろん、丸谷さんの提案である。

     毎年春に書評メンバーが集まって、懇親会を開く。その席で、山崎さんに会ったのが初対面だった。「あなたは本当に新聞を作るのが好きなんですね」と言われたのを覚えている。

     「今週の本棚」では、従来のように「書評委員会」を開いて書評する本を決める方式に変えて、今後の予定や新刊本のお知らせを小冊子にして毎週、メンバーに送ることにした。この冊子は、丸谷さんが「竹橋通信」と“命名”してくれた(竹橋は毎日新聞のある場所)。担当デスクとして、この「竹橋通信」を作っていたわけだが、たんなる「連絡」ではつまらないと思って、冒頭にちょっとした短文を書いた。山崎さんは、その「竹橋通信」のことを、たぶん褒めてくれたのだろう、と勝手に思っている。

     山崎さんの「世阿弥」をはじめとする劇作にはまったく接していないのだが、構想力あふれる文明批評にはいつも感銘を受けていた。

     私にとっても「巨星墜つ」という思いは強い。

     そういえば、丸谷さんもすでに2012年10月に亡くなり、「今週の本棚」の顔ともいうべきコーナーのイラストを長く描いていただいた和田誠さん(上の写真㊨)も今年10月に逝かれた(ちなみに、本ブログのプロフィールに載せた「似顔絵」は ©MAKOTO WADA である)。

     炎暑の日々だが、黄昏時にいる思いが募る。

     (奥武則さんの「新・ときたま日記」8月29日付け)

     奥武則さん=ジャーナリズム史研究者。新聞社に33年。2003年4月―2017年3月、法政大学社会学部・大学院社会学研究科教授。「ジャーナリズムの歴史と思想」などを担当。法政大学名誉教授。毎日新聞客員編集委員。

    2020年9月2日

    金大中事件がライフワークの古野喜政さん

     西のヤマソウ(山崎宗次)と呼ばれた大阪社会部のやり手記者だった古野喜政さん(84歳)。2001年8月に日本ユニセフ協会大阪支部(現大阪ユニセフ協会)を立ち上げ、副会長を務める。足掛け20年である。

     会報「ユニセフ大阪通信」第79号(2020年8月15日号)にこんな記事が載っていた。

    「ユニセフ大阪通信」第79号(2020年8月15日号)4ページ
    古野喜政氏

     大阪社会部時代、古野さんに大阪府警担当に引っ張り込まれた。

     古野キャップ以下7人。捜査二課担当が鳥越俊太郎。私がそのカバーで捜査三課・四課担当だった。サブキャップ佐藤茂(1970年植村直己らがエベレストに登頂した登山隊に同行、故人)、捜査一課藤田昭彦、神谷周孝、防犯・交通藤田健次郎。

     土曜日の午後、府警ボックスでカンテキ(七輪)を使って焼肉をよくやった。ニオイが府警中にわたって文句をいわれたこともあった。いい時代だった。

     古野さんは小倉高校から京大法学部、猪木正道ゼミだった。60年入社。大津支局から大阪社会部。口八丁手八丁の事件記者だった。

     府警キャップ時代からハングルを勉強、1973(昭和48)年3月~76(昭和51)年3月ソウル特派員。金大中事件、文世光事件などに遭遇。大阪社会部で培った事件取材をソウルでもいかんなく発揮した。

     「金大中さんに最も近かった日本人記者は僕とちゃうかな」という。

     1981年に『韓国現代史メモ:1973-76 わたしの内なる金大中事件』(幻想社)、退職後『金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府』(東方出版2007年刊)、『金大中事件最後のスクープ』(2010年05月刊)を出版した。金大中事件は、ライフワークなのである。

     大阪本社社会部長時代にはグリコ・森永事件。同本社編集局長、常務取締役西部本社代表からスポーツニッポン大阪本社専務。

    (堤  哲)

    2020年8月29日

    「記者清六の戦争」連載に関連して

    毎日新聞殉職社員追憶記『東西南北』

     伊藤絵里子記者の連載「記者清六の戦争」が8月29日付朝刊で終わった。連載は25回に及んだ。

     伊藤記者の曾祖父の弟、伊藤清六記者は、「マニラ新聞」に出向した。1945(昭和20)年1月8日、首都マニラのあるルソン島に米軍上陸。空襲も激化し、1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。

     「逃れた地で陣中新聞」をガリ版刷で発行したが、最後は「ヤシ林をさまよい餓死」する。38歳だった。

     毎日新聞社が発行した、戦争で殉職した社員追悼記『東西南北』(毎日新聞社終戦処理委員会編集・発行、1952年刊)に星安藤四郎(経済部長→監査役)が追悼文を寄せている。

     《伊藤のオッサン、農政記者伊藤を高く評価する。観念的な農政評論家では決してなかった。日本の農業に脈々として流れる、血と土の精神を把握した、わが国農業の指導者であった》

    南京攻略戦を取材した東京日日・大阪毎日新聞の記者たち(1937年12月14日撮影)

     《僕は南方からの帰途、マニラで兄に再会することを唯一の楽しみにして      
    いた。僕の搭乗機はマニラ空港に降り立った。しかしそれは給油の僅かの時間であって兄との再会は無残にはばまれた。名刺に祈御健闘と認め、これを人に託したまま空からの挨拶に心を残しつつ帰国したのであった》

     中安宏規(64年同期入社)の「濁水かわら版」に、従軍記者を調べていて『東西南北』(360頁)を古書店で入手した、という記述がある。

     表紙は餓死者が多かったルソン島山岳部の景観写真。題字は聖徳太子筆「法華経義疏(ぎそ)」(注:義疏は注釈書の注釈書)からの集字。

     敗戦時、資本金 1000 万円の毎日新聞社は、500 万円を海外で斃れた社員の状況把握、遺族への償いや生還者の給与の支払いに充てたと記している。

     中安は、毎日新聞社が満州事変以降、支那事変と太平洋戦争の戦場に派遣した社員数を『東日 70 年史』と『東西南北』から作成している。

    毎日新聞社が戦場に派遣した記者など社員数

    満州事変 錦州に 50 名余派遣 (東日 70 年史)
    支那事変~敗戦 中国戦線の従軍特派員(大阪人事部資料) 華北 213 名
    華中 307 名 華南 83 名 海軍関係 54 名、計 657 名。
    終戦直前の記録なし。(東西南北)
    1938 年度~39 年度 中国戦線38年上期のべ269名、下期のべ418名。
    39年上期同570名、下期同628名 総計1905名(東日70 年史)
    1940 年10 月~ 蒙古~タイ~仏領印度支那へ常駐特派員約 100 名、従軍特派員70 余名派遣 (東西南北)
    1941 年太平洋戦争宣戦布告直後 ホンコン 10 名 タイ 15 名 マレー方面 10 名 フィリピン15 名
    オランダ領印度支那 25 名 仏領印度支那 25 名華南 20 名 計120 名。連絡員 50 余名で総計 170 名余を戦時派遣。(東西南北)
    42/2/15 シンガポール陥落→3/10 日 昭南(シンガポール)支局開設
    支局長以下 10 余名 (東西南北)
    43/3 入退社を除く異動 138 件中、内外地間異動 77 件(58%)
    45/8 終戦時の状況 外地派遣社員 342 名(殉職を含む)。現地採用の南方新聞社員・連絡員 127 名の計 469 名に及ぶ。(東西南北)

     469人の地域別は、樺太・千島52、朝鮮312、満州211、中国華北14、華中23、華南22、台湾26、沖縄21、マレー・ビルマ252、フィリピン1,446、ジャワ・スマトラ94、その他の戦地46、欧州特派員6である(中安宏規調べ)。

     「記者清六の戦争」⑪で南京陥落から一夜明けた1937(昭和12)年1月14日に「東京日日」「大阪毎日」特派員の記念撮影(佐藤振寿写真部員撮影)が載った。冒頭に掲載した写真だが、その数の多いのに驚く。

     中安は、戦死者の数も調べた。全日本新聞連盟編『日本戦争外史・従軍記者』(1965年・新聞時代社刊)によるが、それによると太平洋戦争の死亡記者数は同盟通信56人、朝日新聞47人、毎日新聞66人、NHK39人、読売新聞38人、東京新聞4人、西日本新聞 1人で、計251人。

     『東西南北』には、76人が列記されている。清六の上司南條真一マニラ新聞編集局長は1945(昭和20)年6月15日戦病死と記録されている。

    (堤  哲)

    2020年8月25日

    『封印された殉教』の著者、佐々木宏人さんが読売新聞に

     軍国主義を批判し平和を訴えた神父が1945年8月の敗戦直後に横浜市の教会で射殺された事件を追った元経済部長、佐々木宏人さん(78)の著書『封印された殉教』が、読売新聞都内版(22日付け)に取り上げられました。取材に応じた佐々木さんは「自由に意見を言えない社会はいけない。平和のため力を尽くした神父のことを伝えていきたい」と話しています。

     佐々木さんは昨年6月、毎日新聞メディアカフェで著書の話をした際、毎友会ホームページで紹介されています。

    2020年8月24日

    戸澤正志・西部本社編集局長の命日に、追悼社報がフェイスブックに

     毎日新聞社顧問(元取締役西部本社代表)岩松城さんが、2001年8月24日に西部本社編集局長在任中に亡くなった戸澤正志さんを送る、当時の社報号外をフェイスブックにアップしている。一人の記者の逝去を、社報号外を作成して悼む。温かい社風と言うべきか。東京本社でも、戸澤さんの人柄を知る人は多いのでは。

    2020年8月24日

    さよなら「豊島園」

     地下鉄にこんな中吊り広告が出ていた。西武鉄道の車両だったのか。

     豊島園の思い出は、「くりくり」につながる。1977(昭和52)年6月に創刊したタブロイド判の週刊新聞だ。

     「くりくり」の題字の上に
        Teen‘s Space, Go Go Go!!

     若者、中高校生向けの情報紙をうたった。

     豊島園は、この情報紙に最初に反応したひとつである。早速「くりくりフェスティバル」を企画、読者参加のイベントを実施した。

     広報に荒川圭一郎さんがいた。くりくり編集部によく顔を出した。

     西武百貨店も、くりくり専用スペースをつくった。女性社員が「くりくりおねえさん」になって、来訪者のお相手をしてくれた。

     今、くりくり野球大会が西武ドーム球場(メットライフドーム)で開かれているのも、その延長線にある。

     豊島園が開園したのは、1926(大正15)年である。ことしで94年。今月いっぱい、8月31日で閉園する。閉園記念イベントが行われている。

     跡地は東京都が公園として段階的に整備する計画になっている。その計画の一環として、「ハリー・ポッター」の映画撮影で実際に使われた衣装や小道具などを展示する「スタジオツアー東京」を2023年にオープンする。広さは約3万平方メートル。ロンドンの「メイキング・オブ ハリー・ポッター」に次いで世界で2番目の施設になる。

    (堤  哲)

    2020年8月24日

    続「南海タイムス」休刊、八丈島はコロナ感染ゼロ

    毎友会HPを朝日新聞が追いかけた?

    8月22日朝日新聞夕刊社会面のトップ記事

     8月22日朝日新聞の夕刊社会面を見てびっくりした。八丈島の「南海タイムス」休刊のニュースがトップで載っていた。

     紙面を写メして(表現が古いか)八丈島に送ると、毎日新聞社会部八丈島通信員でもある菊池(苅田)まりさんから返信メールが届いた。

     《島の人からは、「タイムスがないと、さびしい」とか「特集号でもいいから出してほしい」「発行回数が少なくなってもいいから」など、あたたかい言葉をかけていただいています。「町議会を客観的に報道する新聞は必要」という声もあります》

     《八丈島は、今のところ、コロナの感染者はゼロです。3月以降、ほぼすべてのイベントが中止になりました》

     《全日空の羽田ー八丈島路線はコロナ前は1日3往復でしたが、4月半ばから1往復になり、観光業や飲食業が大きな影響を受けました。

     飛行機はガラガラで、4月の来島者は昨年の同じ月と比べて9割減少しました。

     緊急事態宣言中は、島の人は上京を控えていましたし、親の葬儀にも出られない人がけっこう多かったです(里帰りの自粛で)》

     《宿泊施設はホテルなどが営業を再開しています。今は、飛行機は1日2往復です。お土産店やレンタカー、タクシー会社などは売り上げが激減しましたから、これからが心配されます》

    (堤  哲)

    2020年8月20日

    女性報道写真家第1号の誕生に、社会部OBの誘い

    9月1日で106歳になる笹本恒子さん(読売新聞から)
    100歳を迎えた時(2014年筆者撮影)

     日本初の女性報道写真家・笹本恒子さん(105歳)が8月20日付読売新聞朝刊の「戦後75年 終わらぬ夏」番外編の1ページ特集で紹介された。

     元気である。《今、本を書きかけています。わたくし、ポンポコたたく機械は使えないので手書き。書きかけてはやめ、書きかけてはやめ……》

     2012年に毎日新聞社から自伝『お待ちになって、元帥閣下』を発刊した。

     その本の献辞に《私を写真の世界に導いてくださった林謙一さんに、この本を捧げます》。

     林謙一(1906~80)は、NHKの朝の連続テレビ小説「おはなはん」の原作者として知られる。早大理工学部建築学科を卒業して「東京日日新聞」社会部記者となった。国鉄の記者クラブの時、忠犬ハチ公を最初に紹介した、と自著に書いている。(その記事を犬研究家の社会部旧友仁科邦男が追っているが、記事の発見に至っていない)

     その後、内閣情報部に転職、1938(昭和13)年7月「写真協会」設立にかかわり、その年2月創刊の『写真週報』編集にあたった。 笹本さんは、報道写真家になったきっかけをこう話している。

     《林さんは話がお上手で、『LIFE』創刊号(1936年11月)の表紙は女性写真家マーガレット・バークホワイトの作品。ここ(写真協会)に入って報道写真家になりませんか、といわれました。報道写真家という言葉も初めて知ったのですが、林さんにあおられて、やってみたいと思います、と返事をしてしまったのです。それが写真家になるきっかけでした》=堤哲著『伝説の鉄道記者たち』。

     読売新聞の特集で紹介された笹本さんの作品は5点。「ヒットラー・ユーゲント来日」、「日独伊三国同盟夫人祝賀会(東条英機夫人が写っている)」(ともに1940年)と戦後の「銀座4丁目P.X.」「米軍専用車」(鉄道)、「マッカーサー夫人」。

     そしてこう述べている。《戦争と聞いてまず思うのは、愚かなことをしたということ。人間の命をたくさん奪い、大事なものをたくさん壊した。戦争はするものじゃない。つくづく、そう思います》

    (堤  哲)

    2020年8月17日

    9階アラスカが8月いっぱいで閉店

    このビル9階西側にレストランアラスカ(2020年8月撮影)

     毎日新聞東京本社が有楽町駅前から新築の竹橋パレスサイドビルに移転したのが1966(昭和41)年9月23日だった。その西側の最上階9階に出店したのが、レストランアラスカである。

     皇居のうっそうとした緑を眼下に眺めはバツグン。エグゼクティブが高級ワインを飲みながらという雰囲気で、安月給の身には敷居の高いレストランだった。カレーライスが確か2500円だったと思う。

     それが8月31日で閉店する、とHPにあった。オープンして55年目である。コロナ禍で客足が遠のいたのであろう。

     アラスカは、1928(昭和3)年に大阪の北浜で創業した関西初の本格的西洋レストランだという。3年後の31(昭和6)年に、朝日新聞大阪本社の新社屋が中之島に新築され、その10階に出店した。京都、神戸にも出店。谷崎潤一郎の小説「細雪」にもしばしば登場した。

     その後、有楽町の朝日新聞東京本社にも出店して東京進出。同じ大阪出身の毎日新聞東京本社ビルにも同居することになった。創業の初代社長望月豊作さんの時代である。

     現在は、内幸町の日本プレスセンタービル10階にもお店がある。

     『なぜエグゼクティブは、アラスカに集まるのか?』(幻冬社)という本も出版されているから、「アラスカ文化」が存在しているであろう。

     この情報を伝えてきた社会部旧友のメールには「5500円つまみ付き飲み放題コースも後2週間ですよ」とあった。

    (堤  哲)

    2020年8月14日

    池田澄子さんの俳句が「季語刻々」に

     「季語刻々 今昔」(8月14日付け)に、池田澄子さんの俳句が紹介されています。池田さんは、長く整理本部で活躍し中部本社編集局長などを務めた故・池田龍夫さんの夫人で、岩波書店の月刊誌『世界』の俳句欄選者など俳人として活躍しています。

     7冊目の句集『此処』(朔出版)を上梓された際、寄稿をお願いしましたが、謙虚にお断りになりました。今回は、毎日新聞紙面での紹介でもあり、出来るだけ多くの方々に読んでいただきたく、、独断で紹介させていただきます。

    2020年8月6日

    ことしも広島で慰霊をする関千枝子さん

     関千枝子さんのブログ7月下旬号——。

     ……私の著書「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」(1985年に出した本ですが、まだ現役、ちくま文庫で読めます)を朗読劇にしてやってくださるところがいっぱいあるのですが、それも今年は皆中止になってしまいました。劇場のクラスターもあり、怖いし、朗読劇などは散々です。

     それがある大阪のグループの方々の朗読劇が27日、大阪府島本町の「反核平和フェスティバル」で行う。観客は20人にしぼるがという話がありました。その後。大阪もコロナ感染者が増え、心配しておりましたが、島本町はなかなか革新的なところで大分昔ですが、女性の町会議員の数が日本一だったか、2位だったか有名になったところです。立派にフェスティバルをやり遂げ、朗読劇も20人のお客様は全員来てくださり、見事にできたようです。本当にうれしくなりました。コロナに負けず元気にやっているところはあるのですね。

     この朗読劇をやった方、8月には広島に来られます。広島も市の式典も少数で、式典のある6日の朝は平和公園にも入れないとか、大変ですが、私のクラスの眠る慰霊碑では、例年通り慰霊祭をちゃんとやるそうです、朗読劇の皆様にいろいろご案内したいと張り切っています。私も〔不急不要〕ではないと思いますので、広島に参ります。8月上旬号はそんなご報告になりそうです。

     社会部旧友の関千枝子さん(88歳)の著書『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』。

     「勤労動員にかり出された級友たちは全滅した。 当日、体調不良のため欠席して死をまぬがれた著者が、40年の後、一人一人の遺族や関係者を訪ねあるき、クラス全員の姿を確かめていった貴重な記録」と紹介にある。

     あの日、1945年8月6日。二年西組は爆心から南へ1.1キロメートルの広島市雑魚場町の市役所裏に動員され、建物疎開作業をしていた。

     動員された39人の生徒のうち38人が同年の8月6日から20日までに死亡し、一人生き残った坂本節子さんは37歳の若さで、胃がんで亡くなった。

     引率の先生3人も全員死亡。最年長の教頭先生が37歳、最も若い先生は20歳だった。

     この日の動員に欠席して生き残った生徒が7人。関さんはそのうちのひとりだった。

     関さんは、毎年原爆忌の8月6日は広島で、慰霊とともに、この悲劇を語り継ぎ、反戦平和を訴える。

     8月上旬号のブログがアップされたら、紹介します。

    (堤  哲)

    ※関千枝子さんの話は著書の紹介ととともに、6日付朝日新聞「天声人語」に取り上げられています。

    2020年8月4日

    「新聞革命」から30年経って

    新題字91年11月5日~
    78年元旦~
    それ以前(新の偏が立+未)

     毎日新聞が「新聞革命」と銘打って紙面の大改革を行ったのは1991年11月5日であった。この紙面改革を柱とするCI(コーポレート・アイデンティティ)計画の検討に、当時の経営企画室が着手したのは1990年1月だったから、それからすでに30年を越したことになる。

     そこで当時の責任者として、CI計画を実施した体制について、少し説明しておこうと思う。最近紙面に掲載された一つの死亡記事についてちょっとした波風が立ったたからである。

     社内の体制は、当時の渡辺襄社長を委員長とするCI委員会を中心にした全社運動であった。経営企画室が事務局となり、さまざまな委員会を作って、作業を行った。

     外部から支援、協力するCIパートナーとして選んだのは「PAOS」であった。企業活動に美的観点を導入して企業イメージを一変するという点で、当時最も先進的であり実績を上げていたコンサルタント会社であった。同様の仕事をしていた複数の会社からの提案を検討した上でPAOSを選んだのである。PAOSは、ケンウッド、銀座松屋、INAX、ベネッセなどのCIで大きな効果を上げ、ダイエー、マツダ、NTTなどでもCI作業を担当していた実績のある会社だった。PAOSのリーダーは中西元男さんで、たまたま1990年の毎日デザイン賞を受賞していた。

     PAOS側では、プランニング室とデザイン室があって、プランニング室で全体計画や毎日社員の意識改革問題などを担当し、デザイン室が紙面改革や販売店の店舗デザインなどを担当していた。

     私たち、CI事務局(社内的にはMAP事務局)は連日のようにPAOSと連絡、打ち合わせの会議を開いていた。いくつかの大掛かりなマーケット調査を行い、社内意識改革のための社員大会、討論会、全社の職場説明会などを展開した。それらをまとめ上げて社内検討を始めてから1年10カ月で、例のない思い切った紙面改革を外に向かって打ち出すのは、相当の力仕事であった。

     PAOSとの会議には、中西さんのほか、デザインディレクターの佐野豊さん(故人)、プランニング室長の小田島孝司さんが必ず出てきた。1991年7月にPAOSから、新聞題字、コーポレートシンボルなどのデザイン提案が役員会に提示され、11月の紙面刷新へと進んでいったのである。

     紙面刷新で大きな話題になった「腹切り」はPAOSの提案だが、PAOSにとって非常に苦心した提案だったようである。真ん中で折ることができるメリットがあっても、従来の段数を変更すると、これまでと同寸法の広告スペースが確保できるか、が大きな問題であったのではないかと思っている。このスペース調整は紙面の上の欄外を拡大することによって乗り越えた。そしてこの拡大欄外が紙面改革の一つのポイントになったのだが、PAOSは徹夜作業を繰り返して細かい計算をやったと聞いている。

     毎日社内でも、タブーを破るこの「腹切り」問題は難航したのだが、11月5日の紙面刷新の朝、多くのTV局がこの着目を誉める報道をしたことで、社内の論争は収束したと私は思っている。

     これらの作業を振り返ってみて、毎日の活字フォント見直しという作業でフォント専門のデザイナーと会議(結論として変更する必要がないことになった)をやったケースを除いて、毎日のデザインに関連して、中西さん、佐野さん以外のデザイナーとコンタクトしたことはない。あえて付け加えれば、もう一人、TV広告をお願いした仲畑貴志さんがあるだけである。

     7月31日の本紙に、グラフィックデザイナーの戸田ツトムさんの訃報が掲載され「毎日新聞が紙面を刷新した際にデザインを担当」という経歴が書かれていたことから、当時の関係者たちが首をかしげることになった。戸田さんは、書籍装丁などで有名なデザイナーであるが、毎日新聞の紙面改革にどういう関係があったのだろうか、という疑問である。

     最終的に分かったことは、戸田さんがPAOSの下請けとして関わっていた、ということである。中西さんは「戸田さんの意識の中で毎日新聞プロジェクトへの思い入れが強かったのだろうと思う。彼の仕事の中で重要なプロジェクトだったと位置づけておられたのだと想像します」と言っておられる。戸田さんの業績一覧の中に「毎日新聞の紙面デザイン刷新1991」と書かれているのである。

     同時に、元PAOSの責任あった人の側から「毎日の件で戸田氏と契約をしたことも、しかるべき支払いをしたことも記憶にない」という情報が寄せられている。

     戸田さんのような有名デザイナーが毎日の紙面改革に参加したことを大切な経験と認識され、誇りにしていただくのは、ある意味ではありがたいことである。しかし、これはあくまでPAOSと戸田さんの関わりであり、PAOS社内の問題である。私は、毎日新聞社のデザイン改革は中西さんと佐野さんの作業であると認識してきたし、今もその認識は変わらない。正確な事実が風化してばいけないと思う。

     付け加えておかなければならないが、デザイン改革はPAOSの提案ではあったが、デザインに関するすべての権利は毎日新聞社がもちろん保持している。

    (秋山 哲)

    2020年8月3日

    青野由利さん、日本記者クラブ賞受賞記念講演

     青野由利さんが2020年度の日本記者クラブ賞を受賞し、7月29日に受賞記念の講演がわれました。

     コロナ禍で聴衆は入場できず、テレワークによる講演となった。

     動画が一般公開されています。
    https://www.youtube.com/watch?v=Q5nQMrMdb9w&feature=youtu.be

    2020年7月22日

    「点字毎日」編集長を15年務めた銭本三千年さん

     「点字毎日5000号」7月22日朝刊の記事を見て、「点毎」編集長を15年務めた銭本三千年さんを思い出した。「点毎」が2018年度の日本記者クラブ賞の特別賞を受賞した際、ネットを検索していて銭本さんのブログ【吉備野庵】https://zenmz.exblog.jp/を見つけた。

     即、この毎友会HP「元気で~す」で紹介した。ところが昨年3月からブログが更新されていないのだ。掲載されている最後が「修行に似た食事療法」(3月8日)、「人生終焉への備え…黄昏に輝き始めた残照」(3月6日)。

     健康状態が心配だ。ことし7月19日に91歳の誕生日を迎えるはずである。

    お孫さんが描いた錢本さん(2008年8月)

     銭本さんは、1954(昭和29)年同志社大学法学部政治学科を卒業して毎日新聞入社。71(昭和46)年2月「点毎」編集長に就任。31年勤めた毎日新聞社を定年後、大阪千里ニュータウンから岡山・吉備高原都市へ転居した。高梁市の短大に介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をつとめ、大学・短大での教職歴は通算25年という。

     「点字毎日」の生き字引といった存在で、「点毎」の発行を促した好本督(1973年没、95歳)、初代編集長中村京太郎(1964年没、85歳)両氏にも直接会って、話を聞いている。

     1955(昭和30)年、3度目の来日をしたヘレン・ケラー女史(68年没、87歳)は、点毎を視察した。入社2年目の銭本さんが取材をした。

     「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は”点字毎日”で自らの言論を得ました」

     ヘレン・ケラー女史が、「点毎」の意義をこう述べた、とブログに綴っている

     【吉備野庵】は、英文も併記されていて、昨年3月6日の本文は《私も馬齢を重ねて89歳、残り少ない人生…》は——。

    I am 89 years old and suddenly have faced multiple health problems in a limited life left. Heart failure was developed in addition to the kidney disease that had previously been afflicted. There is no effective treatment for both. Modern medicine will only prolong deterioration. This fact urged me to prepare for the end of life that I had never been conscious of.

    (堤  哲)

    2020年7月9日

    休刊の「南海タイムス」菊池まりさんからの便り

     八丈島の地元新聞「南海タイムス」の休刊は、7月8日付毎日新聞夕刊で報じられた。

     同社のHPには、休刊の挨拶があった。メールで連絡すると、菊池まりさんが休刊までの経緯を書いてくれた。

     まりさんは、毎日新聞社会部八丈島通信部でもある。父親菊池正則さんからで、まりさんの記事が何本も毎日新聞に掲載されている。

     社告——。

     1931年 ~ 2020年 ありがとうございました

     南海タイムスは今号(6月26日発行)をもちまして休刊いたします。

     1931(昭和6)年の創刊から、およそ90年間にわたって八丈島のみなさまに支えられ、今日まで発行を続けられましたことを感謝申し上げます。

     長い間、ほんとうにありがとうございました。

    休刊号6月26日付第3752号
    社長の苅田義之さん(右)と妻の菊池まりさん

     父が経営するローカル紙「南海タイムス」の発行と印刷の仕事に携わるようになったのは、1976(昭和51)年。オイルショックの2年後でした。昭和30年から勤めていた高齢の記者がひとり、という小さな新聞社でしたが、私が入って記者はふたりになりました。

     2年後には、活版印刷からオフセット印刷へ転換し、紙面をタブロイド判からブランケット判に大きくしました。記者も3人体制になり、写真の掲載は容易になったのですが、写真植字による編集作業は過酷でした。新聞は週刊でしたが、取材、原稿書きより、印画紙の切り貼り、フィルム原板の修正など、紙面作りの方に時間が割かれ、印刷前日の作業は深夜までかかっていました。

     小さな地域では、新聞は、政治新聞とか、行政の広報紙になりがち、と聞きます。記者は、中立の立場を守れるよう、「不即不離」で、みんなから離れないようにしつつ、深すぎない関係を保つことが大切では、と思います。画家の故・堀文子さんの信条「群れない、慣れない、頼らない」にも近い関係かもしれません。

     ここ35年ほどは主に夫・苅田義之とふたりで作ってきました。その間、スタッフをはじめ、多くの人に助けられました。大きく変わったのはデジタル化に移行した1994年からです。楽に紙面の編集ができるようになり、1999年からは版下データを送信して印刷を外注。配達も郵送に切り換えました。こうして省力化できたことは、その後、長く発行を続けられる要因になったと思います。ただ、最近は郵送料や振込手数料の値上げが経営に大きく響くようになっていました。

     私たちは高齢化し、人口減が続く中、若い人に託すには将来が見通せないため、徐々に事業を縮小してきました。コロナに押される形で休刊に踏み切りましたが、予想外に多くの方が復刊を望んでいることを知りました。体力が残っていれば、なにか新しい形で情報発信をしていけたら、と思っています。

     私にとって、新聞の仕事を通して得られた最大のものが、眠っている古書との出会いでした。それらの古書を引用したのが、流人・近藤富蔵の編著書「八丈実記」(都指定有形文化財)ですが、この「八丈実記」と古書を読み比べると、富蔵は史料をいろいろ書き換えていることがわかりました。彼は、三度の自宅の火事で、原本を焼いたと伝えられていますが、それらの写本が国会図書館や大学の図書館などに残っており、確認することができました。「明治維新前後は偽文書が多い」といわれていますが、興味は尽きません。

     いま伝えられている八丈島の歴史の多くが、その「八丈実記」を典拠としています。文化庁の元文化財調査官に寄稿を依頼し、南海タイムス最終号の前の号で、歴史解釈の誤りを指摘していただきました。これからも、まだ埋もれている史料を紹介していきたいと思っています。

     南海タイムスは、東京日日新聞の八丈島通信員でもあった作家の小栗又一氏が1931(昭和6)年に創刊しました。その頃、たまたま島を訪れた私の祖父・吉田貫三が、行政職にあった人から、島には印刷所がないから機械ごと移住してもらえないか、と請われ、岐阜県大垣市で大正12年に創業した吉田印刷部は、昭和7年、八丈島に移転しました。

     大垣市で受注していた印刷物(無声映画のパンフなど)のスクラップは、いまも社内に残っていますが、レトロなデザインが楽しいものばかりです。

     小栗氏は創刊から2年後に島を離れ、新聞は祖父が発行を続けることになりましたが、戦前戦中戦後の新聞経営は苦労が多かったと聞いています。自社に印刷設備がなかったら、発行はこの混乱期に終わっていたと思います。戦時中、南海タイムスはなぜか、新聞統合の対象にならず、敵国言語の「タイムス」という名称の変更もしなくて済みました。ただ、記事の検閲は受けていました。

     八丈島の人口は戦後長い間、1万人以上を維持していたのですが、現在は7300人ほどです。そんな小さな島で約90年も新聞の発行を続けられたのは、八丈島の人たちが支えてくださったからです。心から感謝しています。

    (南海タイムス社・菊池まり)

    2020年7月9日

    大阪中之島に「こども本の森」オープン
    ――朝野富三元大阪編集局長が寄稿(大阪毎友会HPから転載)

     大阪が生んだ世界的な建築家の安藤忠雄さん(78歳)がつくった「こども本の森 中之島」が、新型コロナの影響で当初より四カ月遅れで7月5日に開館しました。計画段階からかかわってきたので、今はほっと一息ついています。

     安藤さんが計画を公表したのは3年前。私に「手伝わへんか」と声がかかり、ずっとそばで彼の進め方を見てきました。施設のコンセプトづくりから運営を委託する業者選定、施設の寄贈先である大阪市との調整などにあたってきました。

     中之島公会堂近くに建った鉄筋コンクリート3階建て延べ約800平方メートルの弓なりにカーブした建物の建設費約7億円は全額、安藤さんが負担しています。年間5000万円の運営費もすべて安藤さんの呼び掛けによる寄付でまかなうことになり、すでに20年分を確保したのだから、「すごい!」の一語に尽きます。

     寄付に応じてくれた企業は610社にのぼります。しかし今の世の中、進んで寄付する企業なんかあるはずはありません。そこは、すべて安藤さんの“腕力”によるもので、近くでそれを見ていただけに、なみなみならぬ子どもへの想いと、大阪への誇りを感じました。

     安藤さんと知り合ったのは、私が社会部長の時で、阪神大震災が起き、毎日新聞大阪本社が取り組んだ震災救援事業で連携しました。今も残っている神戸市中央区のHAT神戸にあるなぎさ公園の「ゆめ・きずな」モニュメントはその一つです。

     世界子ども救援キャンペーンでネパールに子ども病院をつくることにした時には、病院の設計を無償で引き受けてくれたのも安藤さんでした。それ以外でも、さまざまなことでお世話になっています。

     『日本沈没』の作家小松左京さんと安藤さんの対談を本社で企画したことがあります。長時間の対談でしたが、謝礼もなく、紅茶とケーキを出しただけでしたが、帰りしな、安藤さんが「毎日新聞は貧乏だけど、あたたかくていい会社だよな」と私につぶやいた言葉を今も覚えています。

     本の森の開館式に私も出席しました。名誉館長はノーベル賞の山中伸弥教授で、多くのマスコミが取材に来て、早くも大阪の新しい名所になろうとしています。しばらくは、私は施設に足を運ぶことになりそうですが、子どもたちの笑顔が何よりの報酬です。蔵書は1万8000冊。みなさんにもぜひ一度、と言いたいところですが、当面は予約制ですので、ネットで予約してください。

    (元大阪本社編集局長・朝野 富三)

    山中教授(左から2人目)と安藤さん(同)3人目

    2020年7月8日

    100回を超えた「校閲至極」―サンデー毎日連載

     「サンデー毎日」連載の「校閲至極」が人気だ。今週7月19日号の第105回は、「虎〇門、霞〇関、丸〇内の〇は?」。

     住居表示と固有名詞が違うのだ。虎ノ門。地下鉄日比谷線の新駅は「虎ノ門ヒルズ」。「虎ノ門ヒルズ森タワー」「虎ノ門ヒルズビジネスタワー」。

     しかし、金毘羅神社近くで、《記事に頻出する病院は「虎の門病院」が正解》とある。

     霞が関。地下鉄の駅は「霞ヶ関」。ビル名は「霞が関ビル」。

     丸の内。地下鉄の線名は「丸ノ内線」。旧丸ビル(丸ノ内ビルディング)が2002年に建て替えられて「丸の内ビルディング」。

     といった具合に、東京本社校閲センターの渡辺靜晴さんが蘊蓄を傾けている。

     HPによると、《この連載は2018年6月10日号の毎日新聞大阪本社・林田英明記者による「河野悦子よ、なぜスルー」という見出しの回から始まりました》。

     河野悦子とは、日本テレビ系で放映された出版社の校閲部を舞台にしたドラマ「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」の主人公で、石原さとみが演じた。ヒット番組だった。

     そのドラマで「鐘乳洞」と間違った字が映し出された。「河野悦子よ、なぜスルー」と指摘したのだ。

     「鐘」はつくりが「重」の「鍾」が正しい、とあった。

     以後、東京と大阪本社の校閲記者が交代で担当。《言葉にまつわる喜怒哀楽、見逃しの悔しさ、技術革新で変わった部分と変わらない部分、そして日本語を通じて見える今の社会》を1回1,100字にまとめた。

     渡辺、林田記者のほかに、東京本社の岩佐義樹、大阪本社の水上由布記者ら、《ベテラン、若手を問わず登場しました》。

     活版時代の降版間際は、殺気立っていた。

     紙面が組み上がって、大刷りを何枚も取る。最初に校閲部(当時)に回る。校閲部では、降版までのほんのわずかな時間に、紙面をチェックして赤字を入れる。

     校閲のOKが出ないと、降版はできない。

     編集からも直しが出るから、活字を拾う人も、面の担当者も大忙しだ。何人もが同時にピンセットで活字を抜き、直しの活字をはめ込む。活版場は湯気が沸いている感じだった。

     思い出したことがある。4半世紀も前の話だが、宮尾登美子さん(2014年没、88歳)が毎日新聞に連載した小説「蔵」が映画化された。映画の封切りに合わせて、宮尾さんに生活家庭面で随筆「蔵の春秋」を週一連載してもらった。

     当時編集委員だった私が、宮尾さんの原稿を受け取る係になった。

     そして第1回。宮尾さんとはファックスのやりとりで、最終ゲラのOKをもらった。

     1995(平成7)年5月11日(木曜日)。出社するとすぐ宮尾さんから電話があった。

     「私の原稿に勝手に手を入れて、何だと思っているのですか。こんなことでは、連載を中止します」

     相当の剣幕だった。

     OKの出た最終ゲラに、校閲が毎日新聞の用字用語で直しを入れたのを知らなかった。

     どこをどう直したのか、覚えていないが、「蔵」を担当した学芸部の宮尾担当記者にお願いして、当時宮尾さんの住んでいた狛江までお詫びに行った。

     次回以降は、宮尾さんからOKの出たゲラに、校閲チェックを入れないようお願いした。

    (堤  哲)

    「校閲至極」のラインアップは以下の通りだ。

    第1回 校閲ドラマに「鐘乳洞」の誤字
    第2回 「首相夫人」か「首相の妻」か
    第3回 タイガース版辞書なのに「ミスタージャイアンツ」!
    第4回 オホークツ海
    第5回 テニススコアのミス
    第6回 鉄綿花ってどんな花?
    第7回 存在しない「津田沼市」
    第8回 ロスタイムかアディショナルタイムか
    第9回 映画「否定と肯定」が「肯定と否定」に
    第10回 広辞苑に「エロい」載る
    第11回 矢先、募金…国語辞典は?
    第12回 サヨサラ
    第13回 子ども? 子供?
    第14回 飲み会を「飲み方」という?
    第15回 板東と坂東の誤り
    第16回 大先輩に聞く校閲の心構え
    第17回 心中天綱島
    第18回 ロシアでは「昼食」も「朝食」に?
    第19回 ちょうちん行例
    第20回 ♯と# どちらがハッシュタグ?
    第21回 ごんぎつねは「子」ギツネか
    第22回 「杉田氏」が「水田氏」に
    第23回 「努力はミになる」は身か実か
    第24回 変な文語「はるけし栄華」
    第25回 留飲とは?「晴らす」ものか?
    第26回 読みにくい「はってたすき」
    第27回 多賀城市で珍字発見
    第28回 W杯の侍ジャパン、文書決済
    第29回 「・・・」は「……」に
    第30回 「新年明けまして」は間違い?
    第31回 けじめの語源は
    第32回 仁徳天皇陵か大山古墳か
    第33回 「改ざん」などの交ぜ書きは悪か
    第34回 「乞はわれ」→「云はれて」→「言はれて」
    第35回 広辞苑に見る「焼く」「炒める」の違い
    第36回 写真で見破る舞妓さんと芸妓さんの間違い
    第37回 「男はつらいよ」場面紹介の誤り
    第38回 「一片の悔いなし」は不適切か
    第39回 将棋の先手後手の誤り
    第40回 「ハーフ」と「日本人来日」
    第41回 5.18倍=518%増? 数字の落とし穴
    第42回 カルトの教組、どうするの!
    第43回 あり寄りのあり・なし
    第44回 誤字とされる「鐘乳」が辞書にあった
    第45回 野球スコアの誤りをSNS画像で発見
    第46回 佐渡港なんてなかった
    第47回 折口信夫、柳田国男の「口」「田」は清音
    第48回 銭形警部の名は誤植から
    第49回 鹿児島で珍字発見
    第50回 速読本、誤字が目に付き速読できない
    第51回 技術が進んでも「日本書記」など誤りは続く
    第52回 已己巳己
    第53回 政局に「する」
    第54回 キャンバス跡地
    第55回 国・地域より「チーム」で
    第56回 逢坂剛さんとの話で盛り上がる
    第57回 チコちゃん「ボーっと」書くんじゃねーよ
    第58回 校閲者の本の間違いで大ショック
    第59回 「荷物の絵付け」実は
    第60回 6月31日
    第61回 京アニ作品関連の誤り
    第62回 熊のごとき誤植…校閲者の短歌
    第63回 マケドニアの首都は? いや今は
    第64回 創氏改名の元の名は「氏名」か
    第65回 詫間が託間に
    第66回 字幕で「元号は令和」が「剣豪はレイバー」に
    第67回 山口県美弥市、羅患率
    第68回 ハングルは文字なのに
    第69回 昴が人名用漢字になってさあ困った
    第70回 ハロウィンではなくハロウィーン
    第71回 チリペッパーとチリパウダー
    第72回 現地識者? 「現地紙記者」と分かりスッキリ
    第73回 アイヌ語は「日本語ではない日本の言葉」
    第74回 敷居が高い=入りにくい、広辞苑も認める
    第75回 天地天命が定着? 違うでしょ
    第76回 サンデー毎日(毎日出版社)で好評連載中?
    第77回 「白系ロシア人」は「白人のロシア人」の誤り
    第78回 一人輩出は成り立たない
    第79回 「原則許しません」
    第80回 縦書きの「.」の違和感
    第81回 府中市、伊達市はどこの?
    第82回 扶持米と扶助米…映画の間違い
    第83回 いえ、大丈夫です
    第84回 読み合わせの漢字の字解き
    第85回 「露本土とクリミア結ぶ」
    第86回 きいひん、きいへん、けえへん、こおへん、きやへん、こん
    第87回 「季下に冠を正さず」とは
    第88回 2位タイが「最多タイ」に 第89回 「冥福を慎んでお祈りいたします」
    第90回 ろくろを「ひく」挿絵で納得
    第91回 カマボコを8センチ幅に切る?
    第92回 プロ野球応援の「お前」は失礼か
    第93回 「耳障りのいい政策」
    第94回 「球春」っていつ?
    第95回 「神戸のご一党さん頑張って」
    第96回 咳は常用漢字ではない
    第97回 「二足のわらじ」と「立ち上げる」
    第98回 恐竜のメッカ
    第99回 在宅勤務始まる
    第100回 残念至極な指摘
    第101回 コロナも仕事も気の緩みが大敵
    第102回 1カ所「壇ふみ」 誤植はつらいよ
    第103回 「鉄の暴風」を伝えるために
    第104回 間違いあるある コロナ関連記事
    第105回 虎〇門、霞〇関、丸〇内の〇は?

    2020年7月6日

    宝物は毎日ファッション大賞のクリスタルトロフィー

    読売新聞7月6日朝刊13面から

     ——手にするクリスタルガラス製のトロフィーは美しくきらめき、地球儀の柄が刻み込まれている。40歳だった1991年、世界的なデザイナーの登竜門「毎日ファッション大賞」を受賞した時に贈られたものだ。

     ファッションデザイナー・ドン小西さん(69歳)が「毎日ファッション大賞」のトロフィーを手にした写真が7月6日読売新聞朝刊くらし面「たからもの」にあった。

     見出しは《「俺はできる」自信くれる》。

     「毎日ファッション大賞」は、毎日新聞社が創刊110年を記念して、1983年に創設した。大賞受賞者は、第1回から川久保玲、三宅一生、高田賢三、山本耀司……。

     ドン小西さんの大賞受賞は、第9回だった。記事にこうある。

     《がむしゃらに服作りに取り組む中で受賞したのが毎日ファッション大賞だ。トロフィーに刻まれた地球儀を見ると「もっと世界に飛躍しなさい」と背中を押されているような気がして、ニューヨークやロンドン、ミラノなど世界各国でショーを開催。鮮やかな色の組み合わせ方が評判となり、「色の魔術師」の異名を取った》

     《トロフィーは、自宅アトリエのアンティークのキャビネットに飾っている。落ち込んだ時、自信をなくした時、経営面で困難に直面した時……。このトロフィーが「俺ならできる」という気持ちを奮い立たせてくれてきた》

     《秋に古希を迎えるが、服を作ったり着こなしのアドバイスをしたりと、全力で仕事に取り組む。「トロフィーが人生のモチベーションを上げてくれた。まだまだ新しいことに挑戦したい」。トロフィーの重厚なクリスタルガラスの向こうには、活力あふれる瞳が輝いていた》

     ドン小西さんは、週刊朝日でファッション・チェックを連載している。女優から政治家まで、安倍昭恵さんにも辛口の評を送った。トランプ米大統領のファッション・チェックもしたことがある。

     「ファッションにはその人の内面が現れる。僕はファッションを見れば人となりが分かるし、90%当たる」と言っている。

     ファッションデザイナーとしては、31歳で独立。《当初は資金繰りが厳しく、糸屋さんに余り物を分けてもらい、譲り受けた200色もの糸で編み込んだカラフルなセーターが「芸術作品」として話題となり、有名デザイナーに》と毎日新聞の記事にあった。

     毎日新聞は、2022年に創刊150年を迎える。従って「毎日ファッション大賞」も間もなく40年である。

    (堤  哲)

    2020年6月16日

    東京毎友会が発足してことし69年―堤哲さんの歴史発掘レポート

     このHPの主である毎日新聞東京本社のOB会「東京毎友会」は、1951(昭和26)年11月17日に発足した。69年前である。初代会長は高石真五郎元社長だった。

     東京に続いて西部本社でも設立、大阪本社「毎友会」創立は1954(昭和29)年6月19日だった。

     断捨離作業中に、社内野球史を調べたときの社報コピーで思わぬ発見となった。

     呼びかけ人は、経済記者の笹沢三善さん(1989年没、96歳)。笹沢さんは、早大政経を卒業して、1918(大正7)年に入社した。

     《毎日新聞社は僕が26歳の青年期から55歳の定年を過ぎて後も嘱託などで7年を暮らし、通算36年の生涯を送った思い出の職場である》

     笹沢さんは、1926(大正15)年に『農家の副業 : 趣味と実益』と『水産王国』を出版している。現在の農水省を担当していたのであろう。

     『水産王国』にこうある。《私は学者でもなければ、水産専門家でもなく、又、創作家でもありません。唯一介の新聞記者です。大正14年の夏中、東京日日新聞の経済欄に—恵まれたる海の幸、わが水産業—という表題で連載》した。これをまとめた。

     ◇

     設立総会の日の日記を、社報の随筆欄に残している。

     11月17日(土・晴)3時から小会議室で毎友会の設立総会。議長に推されて議事を 進める。名称を毎友会とすること、規約は発起人会の立案を議決して5時散会。皆熱心に討議されたのは、発起人としてうれしかった。

     設立総会の社報(昭和27年2月20日号)の見出しは——。

       “毎友会”生る
       停年者の互助組織

     設立発起人のひとり・細沼秀吉さん(出版局元「生活科学」編集長、1961年没、65歳)が毎友会創設の趣旨をこう記している。

     《本社に20年以上勤続し東京本社で停年となり退職したものを会員とし、会員の相互扶助を第一目的に、この結びつきを通じて第二線ジャーナリストとしての心身の切磋琢磨ならびに本社のよりよき発展に陰ながら力を尽くし、大きくは日本文化の進展にも寄与しようとするもの》

     OB人脈の活用を目的としていたのだろうか。事業に「講演、出版活動その他を行う」ともある。

     運営委員は10人。笹沢、細沼さんの他、岡野秀治、小倉承章、尾崎昇、笹井八郎、相馬基、平野杉松、藤森良信、水沢清三郎の名前が残る。

     相馬基さん(1981年没、85歳)は、元明治大学の応援団長で、「337拍子の生みの親」とNHKの「チコちゃんに叱られる」で紹介された。相撲記者だが、「編集兼印刷発行人」として題字下に名前が載っていた。1949(昭和24)年に廃止されるまで20年間もだ。

    高石真五郎氏

     「毎友会」初代会長高石真五郎さん(1967年没、88歳)のことを改めて紹介したい。

     千葉県出身。鶴舞尋常小学校を卒業、1893(明治26)年慶應義塾童子寮に入り、1901(明治34)年大学部法律科卒。大阪毎日新聞(大毎)小松原英太郎社長の私設秘書となり、社長執筆の社説の聞き書きをして、同年7月大毎入社した。

     童子寮で、福沢諭吉から「福翁百話」に「贈高石真五郎君 諭吉」と肉筆サイン本を直接もらった、と書き残している。

     慶應義塾野球部OB会「三田倶楽部」の名簿にも載っている。「もっぱら右翼手だった」と書いているから、一流選手ではなかったのだろう。

    東京五輪マラソン表彰式。アベベの前の禿げ頭が高石さん(1964年10月22日毎日新聞朝刊)

     大毎入社の1年後には英国に留学。日露戦争後に日本人で初めてロシア入り。この時、作家のトルストイにも面会している。

     ヨーロッパのいわば移動特派員として数々の特ダネを放ち、1909(明治42)年には帰国して、外国通信部デスクから部長。「外電の大毎」とうたわれるようになった。

     国際オリンピック委員会(IOC)委員になったのが1939(昭和14)年。翌40(昭和15)年の東京五輪は戦争のため中止となったが、1964(昭和39)年の東京五輪を誘致、マラソンで円谷幸吉選手が銅メダルを獲得した表彰式でメダルを授与した。

     その間、大毎同期入社で慶應義塾先輩の奥村信太郎(1951年没、75歳)のあとを継いで、戦後45(昭和20)年9月に社長に就任するが、11月に辞任。公職追放になった。

     毎友会会長になったのは、公職追放が解除された後である。

     高石さんはその後、日本自転車振興会(現JKA)の会長となるが、名前が残っているのは五輪関連である。

    有楽町駅前の毎日新聞社に掲げられた「世界は一つ」の標語(1964年4月撮影)

     64東京五輪の標語は、毎日新聞の提唱で「世界はひとつ 東京オリンピック」となったが、その最終選考会で「世界はひとつ」でどうか、と発言したのが高石さんだった、と大島鎌吉さん(毎日新聞元ベルリン特派員、64東京五輪の日本選手団長、1985年没、76歳)が書き残している。

     もうひとつ。1972年札幌冬季五輪が決まった66年4月ローマで開かれたIOC総会。高石さんは病気で出席できず、録音テープでメッセージを送った。そのメッセージが札幌開催決定の決め手になった。

     ゴルフ好きだった。始めたのは47歳、1925(大正14)年からといわれる。大毎編集局のトップ、編集主幹の時だった。「大毎」を日本の一流紙に育てた本山彦一社長に睨まれてもゴルフをやめなかった。

     1眼、2足、3胆、4力

     高石が理事長をつとめた相模原ゴルフクラブなどにその揮毫が掲額されている。

     東京本社のゴルフ会に「高石杯」がある。一番の歴史と権威を誇っている。時代が流れて今、風前の灯と聞く。しっかり受け継いでもらいたいと思う。

     ◇

     私が1997年に繰上げ定年退職した際、3万円を払って毎友会に入会、そのときもらった名簿(96年10月現在)にある会員は1,542人だった。設立総会時の会員は約40人とあるから大成長である。

     その後、名簿は作成されていないが、2020年2月現在の会員は1,385人である。

     改めて会則を読むと、目的は「会員の親睦、相互扶助、毎日新聞社の発展に寄与」と、設立時と変わっていない。会員の資格が在社20年から15年以上に短縮されている。

     石井國範会長から「毎友会発足の経過が明確になり、喜ばしい。さらに活動を充実させたい」とコメントが寄せられた。超高齢社会を迎え、このHPを通じて親睦・交流が図れればと思う。

    毎友会HP http://www.maiyukai.com/

    (堤  哲)

    2020年6月16日

    仁科邦男さんがNHK「チコちゃんに叱られる」に出演!

     『犬の伊勢参り』(平凡社新書)『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(草思社)などの著書がある元毎日映画社社長(元出版局長、社会部)、仁科邦男さんがNHK「チコちゃんに叱られる」に出演します。

     放送は19日(金)午後7時57分、再放送は20日(土)午前8時15分です。

     番組の紹介は以下の通りで、仁科さんは「テーマはポチ。NHKの台本通りしゃべりました」と。

     チコちゃんに叱られる!▽犬の名のポチとは?▽カメの甲羅▽眠いと目をこする

    (NHK総合1・東京) 6月19日(金)午後7:57~午後8:42(45分)

    (NHK総合1・東京)=再放送 6月20日(土)午前8:15~午前9:00(45分)

     ゲストは石川さゆりさんとウエンツ瑛士さん。岡村隆史さんと挑みます。ポチの疑問からは日本人と犬との奥深い歴史が、カメの甲羅からは生き物の進化の不思議が、目をこする理由からは人体の知られざるメカニズムが明らかになります。働き方改革コーナーは「長寿食」。何気なく通り過ぎているものごとに驚くべき世界が潜んでいます。あなたはボーっと生きていませんか?ご家族で楽しんでください。

    2020年6月11日

    日本記者クラブに故田中洋之助氏が絵を寄贈

    「日本記者クラブ会報」2020年6月10日第604号

    故田中洋之介会員からの贈り物

     4月7日に97歳で亡くなった田中洋之助さん(毎日新聞出身)の奥さまから、「故人の希望で絵を1枚クラブに寄贈させていただきます」という電話がありました。

     後日、大きな包みが宅急便で事務局に届きました。開けてみると、立派な額に入った爽やかな油彩画(写真)でした。作者は画家の正田徳衛さん、タイトルは「果物籠に盛られた林檎」。艶々としたリンゴから甘酸っぱい香りが漂ってくるような20号の写実画です。

     奥さまによると、田中さんは昔から絵が好きで、「たくさん集めていたわけではありませんが、時々出してきては眺めていました。中でも好きな1枚だったようで、生前からお世話になったクラブに贈るように言われていました。ずっと自宅に居ましたが最期は病院に入りました。新型コロナのために思うように面会もできませんでしたが、安らかな顔をしていました」。

     ご冥福をお祈りします。

    (河野)

    2020年6月9日

    日本記者クラブ賞に青野由利さん

     由利ちゃんのおしゃれな写真が、日本記者クラブのHPにあった。

     2020年度の日本記者クラブ賞に、科学記者青野由利さんの受賞が決まった。22日に贈賞式が行われる。

     《30年以上にわたり、科学報道の第一線で精力的に取材を続けてきた。生命科学から宇宙論まで科学の各分野をわかりやすく解説するだけではなく、「科学と社会との接点」を常に意識した姿勢も高く評価したい。特に週1回の連載コラム「土記」は、科学的視点を踏まえながら人間の喜怒哀楽が伝わってくる完成度の高い内容となっている。『ゲノム編集の光と闇』など単著7冊、共著・共訳9冊と新聞以外でも活発な執筆を続けている。新型コロナウイルス問題で科学報道の重要性が再認識されている時期でもあり、科学報道を牽引してきた業績を顕彰したい》

     63歳と、新聞各紙にあった。毎日新聞の女性記者としては、1984年度の増田れい子さん以来2人目である。

     日本記者クラブ賞は、元朝日新聞記者、東大新聞研究所教授・千葉雄次郎氏が自著『知る権利』の出版を記念した寄託金を基金として創設。第1回は1974年度で長崎新聞朝刊コラム「水と空」の松浦直治氏に贈られた。

     以下、毎日新聞関係の受賞者を振り返ると——。(肩書は当時、敬称略)

    2018年度 「点字毎日」=1922年創刊以来、戦争中も休みなく発行を続けた日本唯一の点字新聞。毎日新聞創刊150年の2022年、創刊100年を迎える。
    2014年度 山田孝男(毎日新聞社政治部特別編集委員)
    2012年度 萩尾信也(毎日新聞社会部部長委員)
    2010年度 梅津時比古(毎日新聞東京本社編集局学芸部専門編集委員)
    2001年度 鳥越俊太郎(全国朝日放送「スクープ21」キャスター)=元サンデー毎日編集長
    1999年度 黒岩 徹(毎日新聞社編集委員)
    1997年度 牧 太郎(毎日新聞社社会部編集委員)
    1995年度 山本祐司(フリーランス・元毎日新聞社会部長)
    1993年度 古森義久(産経新聞社ワシントン支局長)=元毎日新聞サイゴン特派員
    1992年度 岩見隆夫(毎日新聞社特別編集委員)
    1990年度 諏訪正人(毎日新聞社論説室顧問)
    1987年度 吉野正弘(毎日新聞社編集委員)
    1984年度 増田れい子(毎日新聞社論説室特別嘱託)
    1976年度 松岡英夫(毎日新聞社終身名誉職員)
    1975年度 古谷綱正(東京放送ニュースキャスター)=元毎日新聞「余録」担当

    【追伸】
     牧内節男さんの銀座一丁目新聞「銀座展望台」に、日本記者クラブ賞を受賞した毎日新聞論説室専門編集委員の青野由利記者について、《青野記者が毎日新聞の採用試験の際、私は立ち会った、「東大薬学部の学生が記者になるとは面白い」と思ったことを思い出す》

     さらに《彼女のコラム「土記」(6月6日)には武漢ウイルス研究所の主任研究員石正麗さんを紹介、彼女が「わかっているウイルスは氷山の一角。新たなウイルスの流行はいつでも起こりうる」という警告を載せている。

     この「土記」の結論は「次のパンデミックはコロナとは限らない。国同士が対立している場合ではない」である。日本の政治家でこれほどの見識を持つ者が何人居るであろうか…》

     青野さんは80年入社。東大薬学部を卒業した後、東大大学院総合文化研究科修士課程修了。1988~1989年フルブライト客員研究員としてマサチューセッツ工科大学に在籍している。

    (堤  哲)

    2020年6月9日

    濁水かわら版 101号 ニコルさんと子供たち

    (中安 宏規)

    2020年6月8日

    「三密」を避けましょうという時代に……

     この写真は、写真部OB二村次郎さん(1994年没、80歳)の作品である。雑誌のコピーが断捨離作業中に見つかった。

     二村さんは1938(昭和13)年に報知新聞から東京日日新聞(毎日新聞)に入社した。

     ポン焚き(フラッシュのマグネシウムを焚くカメラマン助手)から始めて、カメラマンになった職人時代の写真部員である。

    二村次郎さん

     毎日新聞のHPを検索すると、1960(昭和35)年のローマ五輪に派遣され、水泳の山中毅選手、鉄棒の小野喬選手などの競技写真の他、ボート競技を観戦するモナコのグレース・ケリー王妃とか、採火式の会場で毎日新聞OBの作家井上靖さんを撮っている。

     毎日新聞東京本社写真部OB会編『【激写】昭和』(1989年刊平河出版社)に、こんな思い出話を書いている。

     《熱帯魚にも夢中になった。その当時の王様はエンゼルフィッシュであり、その産卵状況を撮りたいと、熱帯魚業者に頼み込んだが、どこも許してくれなかった。それならば、自分で飼育して撮ろうと、3年間飼い続けて、見事に念願を果たして、業者をアッと言わせた》この写真は、その余禄に違いない。

     思い出話の前段で《ニュース写真のかたわら、あらゆるものにレンズを向けた》とあり、「蚊のオシッコ」や「ノミの飛翔」の撮影に成功したと綴っている。

     作家の戸川幸夫さんは「サン写真新聞」の編集部に在籍したことがあり、カメラマンを題材にした作品も書いている。「ノミの飛翔」撮影に苦闘する写真部員の話を読んだ気がする。

     ネット上にこんな話が載っていた。井上靖さんが1973年にアフガニスタン、イラン、トルコを巡る旅で写真を撮影した際、二村さんの助言に従って「距離は無限大、絞りは日中11、夕方8に固定。あとは機械に任せました」。雲の写真が残っている。5年後に敦煌を初めて訪れた時も、雲を撮影したという。

    (堤  哲)

    2020年6月2日

    「アサヒカメラ」に掲載された写真

     日本最古のカメラ誌「アサヒカメラ」が創刊94年で休刊——2日付各紙朝刊が報じた。

     版元の朝日新聞出版は、2020年7月号(6月19日発売)をもって休刊を発表し、休刊の理由に「コロナ禍による広告費の激減」をあげ、「これ以上維持していくことが困難となり ました」と説明している。

     広告収入の激減の前に、販売部数の落ち込みがあった。2006年4万0482部、10年3万1346部、14年2万1159部、18年1万6573部(日本ABC協会調べ)とここ10年余で半減して いる。

     「アサヒカメラ」は、1926(大正15)年4月創刊。日本最古の総合カメラ誌を看板にしていた。

     木村伊兵衛写真賞は引き続き、朝日新聞社及び朝日新聞出版が共催する。土門拳賞が「カメラ毎日」が1985年4月号で休刊したあとも継続されているように。

    毎日新聞1969年10月14日夕刊対社面

     「アサヒカメラ」に、私が撮影した写真が掲載された。原稿料として1万円もらったことを憶えている。

     国会図書館のデータベースで調べると、1969年12月号の「写真批評・話題の写真をめぐって」。その248ページに「わずか二人の教室も/堤哲」とある。

     これがその写真である。

     70年安保の前年。東大や日大で始まった学園紛争は高校に波及して、東京都立青山高校で全共闘の生徒たちが学園封鎖ロックアウトをした。

     青山高校の所在地は渋谷区。渋谷警察署の管内で、3方面記者クラブの担当だった。クラブ員は、連日「あおこう」に通った。

     写真は、1カ月ぶりに授業が再開された日の3年5組の教室。授業を受ける生徒は2人。ガランとした教室。机やイスは封鎖のために運び出されているのだ。

     この報道写真を「話題の写真」として審査員が取り上げてくれた。感謝!である。

    (堤  哲)

    2020年5月27日

    スペイン風邪から100年⑦ 江戸ッ子のわらんじを履くらんがしさ

    1964年入社・中安宏規さん(79歳)制作の「濁水かわら版」が100号を迎えました。
    スペイン風邪から100年の第7回。
    何故岩手県は感染者ゼロを続けているか。食べ物も関係ある?
    盛岡市民は、ヨーグルト、りんご、ワカメ、サンマの購入額が全国の県庁所在地の中で第1位なのだ。
    「コロナ甲子園で 1 位」は、そのお蔭?
    中安さんは盛岡支局で勤務したことがあり、多少鼻高なのである。
    力作です。読んでください。

    (堤  哲)

    (中安 宏規)

    2020年5月18日

    「不要不急」の検察庁法改正案、安倍首相が採決断念

     検察庁法改正法案に抗議する国民的な怒りのうねりを追いかけるように、特捜部経験者の反対意見が続いた。松尾邦弘検事総長ら14人に続いて、熊崎勝彦元特捜部長ら38人が18日、森まさこ法相に意見書を提出した。

     こうした動きに、安倍首相は18日、二階自民党幹事長らと協議し、「国民の声に耳を傾け、国民の理解なしには前に進めることは出来ない」と今国会での採決を断念した。

     熊崎意見書の全文と名前を連ねた検事名は以下の通り。

    法務大臣森まさこ殿

    検察庁法改正案の御再考を求める意見書

     私たちは、贈収賄事件等の捜査•訴追を重要な任務の一つとする東京地検特捜部で仕事をした検事として、この度の検察庁法改正案(国家公務員法等の一部を改正する法律案中、検察庁法改正に係る部分)の性急な審議により、検察の独立性•政治的中立性と検察に対する国民の信頼が損なわれかねないと、深く憂慮しています。

     独立検察官等の制度がない我が国において、準司法機関である検察がよく機能するためには、民主的統制の下で独立性•政治的中立性を確保し、厳正公平•不偏不党の検察権行使によって、国民の信頼を維持することが極めて重要です。

     検察官は、内閣又は法務大臣により任命されますが、任命に当たって検察の意見を尊重する人事惯行と任命後の法的な身分保障により、これまで長年にわたって民主的統制の下で、その独立性•政治的中立性が確保されてきました。国民や政治からの御批判に対して謙虚に耳を傾けることは当然ですが、厳正公平-不偏不党の検察権行使に対しては、これまで皆様方から御理解と御支持をいただいてきたものと受けとめています。

     ところが、現在国会で審議中の検察庁法改正案のうち幹部検察官の定年及び役職定年の延長規定は、これまで任命時に限られていた政治の関与を任期終了時にまで拡大するものです。その程度も、検事総長を例にとると、1年以内のサイクルで定年延長の要否を判断し、最長3年までの延長を可能とするもので、通例2年程度の任期が5年程度になり得る大幅な制度変更といえます。これは、民主的統制と検察の独立性•政治的中立性確保のバランスを大きく変動させかねないものであり、検察権行使に政治的な影響が及ぶことが強く懸念されます。

     もっとも、検察官にも定年延長に関する国家公務員法の現行規定が適用されるとの政府の新解釈によれば、検察庁法改正を待たずにそのような問題が生ずることになりますが、この解釈の正当性には議論があります。検察庁法の改正に当たっては、慎重かつ十分な吟味が不可欠であり、再考していただきたく存じます。

     そもそも、これまで多種多様な事件処理等の過程で、幹部検察官の定年延長の具体的必要性が顕在化した例は一度もありません。先週の衆院内閣委員会での御審議も含め、これまで国会でも具体的な法改正の必要性は明らかにされていません。今、これを性急に法制化する必要は全く見当たらず、今回の法改正は、失礼ながら、不要不急のものといわざるを得ないのではないでしょうか。法制化は、何とぞ考え直していただきたく存じます。

     さらに、先般の東京高検検事長の定年延長によって、幹部検察官任命に当たり、政府が検察の意向を尊重してきた人事慣行が今後どうなっていくのか、検察現場に無用な萎縮を招き、検察権行使に政治的影響が及ぶのではないか等、検察の独立性•政治的中立性に係る国民の疑念が高まっています。

     このような中、今回の法改正を急ぐことは、検察に対する国民の信頼をも損ないかねないと案じています。

     検察は、現場を中心とする組織であり、法と証拠に基づき堅実に職務を遂行する有為の人材に支えられています。万一、幹部検察官人事に政治関与が強まったとしても、少々のことで検察権行使に大きく影響することはないと、私たちは後輩を信じています。しかしながら、事柄の重要性に思いを致すとき、将来に禍根を残しかねない今回の改正を看過できないと考え、私たち有志は、あえて声を上げることとしました。

     私たちの心中を何とぞ御理解いただければ幸甚です。

     縷々申し述べましたように、この度の検察庁法改正案は、その内容においても審議のタイミングにおいても、検察の独立性.政治的中立性と検察に対する国民の信頼を損ないかねないものです。

     法務大臣はじめ関係諸賢におかれては、私たちの意見をお聴きとどけいただき、周辺諸状況が沈静化し落ち着いた環境の下、国民主権に基づく民主的統制と検察の独立性•政治的中立性確保との適切な均衡という視座から、改めて吟味、再考いただくことを切に要望いたします。

    元•特捜検事有志
    熊崎勝彦(司法修習第24期)
    中井憲治(同上)
    横田尤孝(同上)
    加藤康榮(司法修習第25期)
    神垣清水(同上)
    栃木庄太郎(同上)
    有田知徳(司法修習第26期)
    千葉倬男(同上)
    小高雅夫(同上)
    小西敏美(司法修習第27期)
    坂井靖(同上〉
    三浦正晴(同上)
    足立敏彦(同上)
    山本修三(司法修習第28期)
    鈴木和宏(同上)
    北田幹直(同上)
    長井博美(司法修習第29期)
    梶木 壽(同上)
    井内顕策(司法修習第30期)
    内尾武博(同上)
    勝丸充啓(同上)
    松島道博(同上)
    吉田統宏(司法修習第31期)
    中村 明(同上)
    大鶴基成(司法修習第32期)
    松井 巖(同上)
    八木宏幸(司法修習第33期)
    佐久間達哉(司法修習第35期)
    稲川龍也(同上)
    若狭 勝(同上)
    平尾雅世(同上)
    米村俊郎(司法修習第36期)
    山田賀規(同上)
    奥村淳一(同上)
    小尾 仁(司法修習第37期)
    中村周司(司法修習第39期)
    千葉雄一郎(同上)
    中村信雄(司法修習第45期)
    以上3 8名
    (世話人)
    熊崎勝彦
    中井憲治
    山本修三

    2020年5月18日

    ロッキード世代の元検事が検察庁法改定に反対の意見書を提出

     元社会部の板垣雅夫さん(77歳)から「15日、松尾邦弘元検事総長(77歳)ら14人の元検事が法務大臣に提出した検察庁法改定に関する『意見書』の全文をお読みすることをお勧めいたします」というメールが元社会部のロッキード取材班の仲間たちに届いた。

     「前半は、新聞ではよく分からなかったこの法案の意味がよく分かります。後半は、『ロッキード世代』などという言葉が出てきて、ロッキード事件発覚時の若い検事たち(当時)の反応が生き生きと書かれています。要するに、今度の意見書提出は、検事のロッキード世代が中心になったようです。興味深いです」

     記者会見した松尾邦弘元検事総長は、1968年検事任官で、ロッキード事件では逮捕した丸紅前専務の伊藤宏(49歳)から田中角栄元首相へ5億円を贈った供述を引き出した。当時33歳の若手検事だった。

     一緒に記者会見した元最高検検事の清水勇男さん(85歳)は、64年検事任官。東京地検特捜部にロ事件捜査本部が設置された最初からのメンバーで、主に全日空の捜査にあたった。

     14人のひとり、堀田力元検事(86歳)は、朝日新聞で「稲田伸夫検事総長も、黒川弘務東京高検検事長も辞職せよ」という強烈な意見を述べている。

     元検事総長が法案に反対を表明するのは、全く異例のことだが、松尾さんは「検察幹部の定年延長が政権の意向で左右することになることは、政権のおぼえがめでたい特定の検察官が重用されるなど検察の人事に強い影響を与えることになり、これまで公平、公正な準司法機関としてその人事構想を政権は尊重してきた慣行が崩される危惧が強くあります。ねばり強く意見を言っていこうと思っています」と語っている。

    (堤  哲)

     意見書の全文は以下の通り。

     東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書

     [1]東京高検検事長黒川弘務氏は、本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の1月31日、その定年を8月7日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。
     検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年4月20日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議(コングレス)で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。
     いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

     [2]一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)4月28日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。
     検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。
     こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

     [3]本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
     時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
     ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。
     加えて人事院規則11―8第7条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、①職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、②勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、③業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。
     これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。
     現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出される(会社法違反などの罪で起訴された日産自動車前会長の)ゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

     [4]4月16日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。
     この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認めるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。
     難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。
     注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。
     今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

     [5]かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。
     振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。
     当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても(1954年に犬養健法相が指揮権を発動し、与党幹事長だった佐藤栄作氏の逮捕中止を検事総長に指示した)造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。
     事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。
     この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶(やすよし)氏(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。
     特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。
     国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。
     しかし検察の歴史には、(大阪地検特捜部の)捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。
     しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。
     正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。
     黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

     【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。

     令和2年5月15日
     元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき)
     元法務省官房長・堀田力
     元東京高検検事長・村山弘義
     元大阪高検検事長・杉原弘泰
     元最高検検事・土屋守
     同・清水勇男
     同・久保裕
     同・五十嵐紀男
     元検事総長・松尾邦弘
     元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし)
     元最高検検事・町田幸雄
     同・池田茂穂
     同・加藤康栄
     同・吉田博視
     (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男

     法務大臣 森まさこ殿

    2020年5月15日

    「♯検察庁法改正案に抗議します」に共鳴(高尾義彦)

    ハワイの日本語新聞「日刊サン」のコラム

     検察首脳の定年を内閣の恣意的判断で延長することを可能とする検察庁法改正案に、国民の怒りのうねりが広がっている。毎友会ホームページで、この問題について論評することは自制してきたが、憤りを共有する石井國範会長の同意をいただき、一石を投じたい。

     強引に定年延長を推し進める安倍晋三首相の父、安倍晋太郎氏は元毎日新聞記者であり、天上から民主主義、三権分立のルールを息子に教示していただきたい、との思いも込めて。

     今回の定年延長は、2つの問題が重なり合って、国民には分かりにくいものとなっていた。それが、コロナ対策を進める政治に関心が高まるにつれて、この問題に国民が強い意志を表明する事態になった。ツィッターでの抗議に400万件もの賛同ツィートが寄せられ、「火事場泥棒」「どさくさまぎれに」と、一気に世論が高まってきた。

     2つの問題点のうちの一つは、黒川東京高検検事長の定年延長で、1月31日の閣議で突然、決定された。この時点で下記のコラムをハワイ・ホノルルで発行されている日本語新聞「日刊サン」に執筆した。掲載は12日付だが、締め切りはほぼ1週間前なので、かなり早い段階で問題提起したつもりだ。検察庁法には定年延長の規定がなく、安倍首相が法律解釈を変えた、と表明したのが13日だが、その後の国会審議などで「解釈変更」が正当な手続きを経ておらず、法務省などにその議事録が存在しないことが、情報公開法に基づく毎日新聞の取材で明らかになり、極めて不透明で勝手気ままな法解釈の変更であることが裏付けられた。

     ハワイのコラムをまず読んでいただければ、安倍首相の解釈変更が、いかに法を曲げるものかはご理解いただけると思うので、その後に第2の論点を考えたい。

    法匪!? 検事総長候補の定年延長

     現場を離れた後も、司法記者の端くれを自任する筆者にとって、黒川弘務東京高検検事長の定年を延長した安倍内閣の閣議決定ほど、まがまがしく感じた司法界の事件はない。国家公務員法と検察庁法を、政権に都合のいいように捻じ曲げた解釈で、違法と指摘する意見に賛同し、警告したい。
     決定は唐突だった。2月8日に63歳の誕生日を迎える黒川検事長の定年を半年延長する閣議は、その一週間前の1月31日だった。森雅子法相は「検察庁の業務遂行上の必要性に基づき、引き続き勤務させる」と説明したが、検察史に前例のない決定に、納得した国民は少なかったのではないか。
     検察庁法22条は、「検事総長は、年齢が65年に達した時に、その他の検察官は年齢が63年に達した時に退官する」と定める。検事長も検察官の一人として63歳が定年となる。この規定については、検察庁法32条の2に「国家公務員法附則第13条により、検察官の職務と責任の特殊性に基づいて、同法の特例を定めたものとする」とされ、検察官の定年は国家公務員の中でも特に厳しく守られなければならないと解釈すべきだ。国家公務員法に一般の公務員に対する定年延長の規定があっても、この規定は検察官には適用されないと解釈するのが妥当な判断だ。
     検察庁法にこの規定が設けられているのは、刑事事件処理に当たって、国民から絶大な権力を負託された検察官を厳しく律して、権力の乱用を防ぐためだ。それが「検察官の職務と責任の特殊性」だ。
     異様な決定がなぜ強行されたか。開会中の国会でも論議が集中し、クローズアップされたのが、次期検事総長人事だった。
     現在の稲田伸夫検事総長が65歳の定年まで務めるのではなく、慣例に従い在任2年となる8月を目途に退官するとの観測がある。だとすれば7月には検事総長交代の時期を迎える。その場合、黒川検事長の同期、林真琴名古屋高検検事長が7月の63歳の誕生日前に検事総長の座を引き継ぐのが自然な流れとみられていた。
     法務・検察部内では、司法修習35期の中で、林、黒川両氏のどちらかが将来の検察トップとの見方が早くからあった。林氏は2002年の名古屋刑務所虐待事件を受けて矯正局で監獄法改正の実績を挙げ、黒川氏は官房長など政界との折衝を担当して実力を発揮したが、ある時期までは林氏が一歩、先んじると評価されていた。
     ここで注目したいのは、今回の異常な閣議決定は、2016年9月の法務省人事に伏線があったという解説である。検事総長交代を中心とした4年前の人事で、黒川官房長が法務事務次官に昇格し、その後、共謀罪の成立などで安倍政権を支えてきた。
     法務・検察首脳は当時、次官には林刑事局長を昇格させ、黒川氏は地方の高検検事長に転出させる案を描いていた。ところが官邸側が黒川氏の次官昇任を要請したことから原案を変更、林氏は刑事局長に留任となった。黒川氏の次官起用は菅義偉官房長官の意向と受け止められた、と当時、朝日新聞編集委員だった村山治記者は解説している。村山記者はかつて毎日新聞に在籍、筆者は司法記者クラブで一緒に仕事をした。朝日新聞に移ってからも、司法記者一筋の経歴で、その解説は信用度が高い。
     官邸サイドが法務・検察のトップ人事に介入したとの懸念が指摘され、政界からの「独立」を掲げてきた検察の歴史に、崩壊の兆しが見えたともいえる人事だった。今回の閣議決定は、官邸介入の構造をさらに露骨に示した。
     検察は戦後、政治からの独立を最優先課題として組織を運営してきた。歴史は、造船疑獄(1954年)で佐藤栄作自由党幹事長を収賄容疑で逮捕する方針を固めていた検察に、犬養毅法相が検察庁法14条による指揮権を発動した前例に遡る。以来、検察は疑獄捜査などで政治の側からの圧力に神経をとがらせ、政治の側もある種の自制をしてきた。
     田中元首相を逮捕したロッキード事件(1976年)では、布施健検事総長が「全責任は自分が負う」と検察首脳会議で明言した。1992年に起きた東京佐川急便事件では、金丸信元自民党副総裁の5億円脱税を略式起訴した検察に不信感が広がり、立て直しのためロッキード事件主任検事だった吉永祐介氏が総長に抜擢された。
     当時、吉永氏は大阪高検検事長で定年とみられていて、筆者が大阪の官舎に訪ねた際には、淡々と定年を迎えるという心境がうかがわれた。ところがカミソリと言われた後藤田正晴法相が就任直後に、「吉永君はどこにいる」と名前を挙げて指名したと伝えられる。今回の定年延長とは逆に、検事総長に最適の人物を、政治の側が選択した。
     「法匪(ほうひ)」という言葉がある。法律を詭弁的に解釈し自分の都合のいい結果を得ようとする者、という意味で、筆者はこの言葉を伊藤榮樹検事総長から聞いた。
     果たしてこの夏に黒川検事総長が誕生するのかどうか、そのプロセスに関わる閣僚や法務・検察首脳が、「法匪」と呼ばれることのないよう良識を期待したい。

     第2の論点は、その後に政府が国家公務員法と抱き合わせで検察庁法の定年延長案を国会に提出した問題だ。これは黒川検事長の定年延長を後付けで正当化するもの、と野党が批判してきた。事実、昨年10月段階で国家公務員法の定年延長が政府内で議論された際、検察庁については「必要がない」との判断だったといわれる。国公法案と「束ねて」、一体のものとして国会に提案された手続きにも問題があるが、それ以上にこの規定が検察の独立・中立性を根本的に崩壊させる危険性をはらんでおり、高まる世論の批判もこの点に焦点が合わされている。

     改正案は、一般の検察官の定年を現行の63歳から65歳に引き上げるとしているが、問題となっている条文は、最高検次長検事、高検検事長、検事正らに63歳の役職定年を設定(検事総長の定年は現行の65歳のまま)、総長も含めこれら検察首脳については、「内閣が定める事由があると認めるときは」最高3年まで定年を延長できるという規定だ。内閣の判断で定年を延長したりしなかったり、内閣が検察首脳人事に介入できることになるが、その基準は明確にされていない。

     安倍首相は記者会見などで「恣意的な人事は行わない」と言明しているものの、その根拠は明らかでなく、定年延長基準の具体的説明もない。これでは内閣が変わった場合、恣意的な判断が入り込む余地が十分にある。内閣お気に入りの検察首脳が長くその地位にとどまれる規定で、現在は検事総長は2年程度で勇退する慣行だが、2022年4月の施行後は、5年間もその地位にとどまる検事総長が生まれる可能性も指摘されている。

     こうした事態に、ロッキード事件捜査を担当した松尾邦弘元検事総長、堀田力元官房長ら検察OBが改正案に反対する意見書を法務省に提出。表立った発言が出来ない現職検察官に代わって、検察の受け止め方を意思表示した形になった。

     国会審議は大詰めの15日、それまで自民党が拒否していた森法相が内閣委員会に出席し、審議が行われた。野党委員の追及に対して、森法相は定年延長を認める場合の具体的な基準を明示できず、野党委員を納得させることは出来なかった。

     野党は、それ以前に答弁していた武田良太行政改革担当相の不信任案を提出して対抗。この日、延長法案の採決を予定していた与党は、来週以降の委員会に審議を持ち越すことになり、取り合えず強行突破は回避された。

    検事総長 粘って夏を 超えるべし

     これは河彦の名前で日々、つぶやいているツィッター俳句(12日)。安倍政権の愚行を阻止する手段としては、稲田検事総長が2年で辞任しないで来年の定年まで勤めれば、黒川検事総長は実現しない。国民は検察をめぐる政治の動きを、自分たちの権利が侵害され、自らの自由や民主主義、三権分立が絵に画いた餅になりかねない事態であると受け止めて声を上げていることを、安倍首相はじめ政治家たちは重く受け止めるべきだろう。

    (高尾 義彦)

    2020年5月2日

    米ツイッター利用者が前年比24%増と過去最高の伸び

     元英文毎日・社会部、半田一麿さん(84歳)から毎朝午前4時過ぎに送られるブログ「 today's joke 」。世界中のニュースから拾ったその時々の話題と、コピーライターの仲畑貴志さんが選句する毎日新聞万能川柳から1句、さらに英文ジョークの3本立て。英語の勉強にもなります。

     5月2日(土)早朝に届いたのは、新型コロナウイルスによるパンデミックでアメリカのツイッター利用者が前年より24%増と過去最高の伸びだったというニュースだった。

     以下に引用します。

     today's joke (the shark):
     Twitter sees record user growth, thanks to COVID-19.

     インターネット短文投稿サイトを運営する米ツイッター(Twitter)は30日、2020年1~3月期の1日当たりの平均利用者数が前年同期比24%増の1億6600万人と、過去最高の伸び率になったと発表しました。

     新型コロナウイルス関連の投稿が増えたことが寄与したものと受け取られています。

     Engadget NewsはTwittersees record user growth, thanks to COVID-19→「新型コロナウイルスの影響でツイッター、記録的な成長率を示す」と報じました。

     同社の1~3月期の売上高は前年同期比2.6%増の8億800万ドル(約860億円)と、市場予想を大きく上回った結果となりました。ただ、純損益は800万ドルの赤字に転落しました。新型コロナの影響が世界中で深刻化した3月11~31日の広告収入が、前年同期比で約27%減少したのでした。同社は、→「ユーザーは落ち着きを取り戻しつつあることは間違いない。新型コロナの情報を求めより多くのユーザーがツイッターを利用したことが大きい」と分析しています。

     ★「霊園に格差社会の縮図見る」…万能川柳

     ・a man eating shark(サメを食べる男)をman-eating shark(人食いザメ)に引っ掛けている。

     ・The Shark

     Lou: A man fell overboard from a ship. A shark came up, looked over her and swam away.

     Bud: Why did the shark do that?

     Lou: Because it was a man eating shark.

     【試訳】

     ・サメ

     ルー:男が船から落ちたんだよ。そこにサメがやってきて男を見て、またどこかに行っちゃったんだよ。

     バッド:どうしてサメはそんなことをしたんだろうな?

     ルー:サメを食べる男だったからさ。

     以上

    (堤  哲)

    2020年4月30日

    スペイン風邪から100年⑥ 27年間の医学部入学定員削減のツケ

    (中安 宏規)

    2020年4月26日

    新型コロナウイルスNOW!

     元英文毎日・社会部記者の半田一麿さん(84歳)から「是非、ご一読」と「新型コロナウイルスNOW!」が送られて来た。公立陶生病院(愛知県瀬戸市)感染症内科主任部長・武藤義和さんが作成したものが転送されたのだ。参考までに転載したい。

    【PDFを開くのに、少し時間がかかります】

    2020年4月23日

    美智子さまから手紙をもらった清水一郎お妃記者

     長谷川町子さんの「意地悪ばあさん」(毎友会HP随筆集2020年4月9日)を調べていて月刊「文藝春秋」1990年2月号「昭和を熱くした女性50人」に行き当たった。50人の中に「皇太子妃美智子」(上皇后陛下)があった。ライターは社会部の先輩・清水一郎さん(2012年没、85歳)だった。

     

     清水さんは、皇太子殿下(上皇陛下)の婚約発表前、池田山の正田邸で美智子さまと2人だけになられる機会があった。当時宮内庁担当で、社会部「皇太子妃取材班」。美智子さまの母親富美子さんに信用されていた。

     《たまたま正田家におりましたら、どこかの報道機関が押しかけ、私は鉢合わせになるとまずいので、茶の間にいることにしました。そこに美智子さんが入ってこられ、お話を伺うことになったのです。二人の話が隣の居間に聞こえるとまずいだろうということで、美智子さんがテレビのボリュームをあげたりしました。ところが隣から富美子さんが来て、小さくされてしまうのです。美智子さんは「子の心、親知らずだわ」とにが笑いされていました。

     そこでサンルームのようなところに場所を移して、話を続けました》

     婚約発表があったのは、1958(昭和33)年11月27日午前11時半。

    1958(昭和33)年11月27日付特別夕刊 1958(昭和33)年11月27日付夕刊1面

     毎日新聞は、すでに用意していた8ページの特別夕刊を全国で一斉に配布した。1面トップの凸版見出しはカラー印刷した。画期的なことだった。

     お妃報道の過熱から宮内庁の要請で報道協定が結ばれた。特別夕刊は密かに制作された。『毎日新聞百年史』にこうある。

     《11月16日には緊急支局長会議が開かれ、〝発表と同時に配布する。それまでは1部でも外部に出さないように〟と厳命があったものである。前夜、支局長らは「特夕」の梱包を抱いて眠った》

     さらに《朝日の2ページ号外、読売の半ページ号外に比して圧倒的な質と量の勝利であった》と続けている。

     清水さんは夕刊1面で署名記事をものにしている。

     「こんどのことは、大変大きな出来事には違いありませんが、普通の結婚と変わりはございません」

     書き出しは、あの時、美智子さまが漏らされた言葉である。

     夕刊の中面に「お妃記者座談会」が載っているが、大森実ニューヨーク支局長(のちワシントン支局長→外信部長)の囲み記事がある。美智子さまは10月に

     極秘で欧米旅行。帰国する同じ飛行機にワシントン特派員の内田源三記者が飛び乗るまでの経緯を書いている。

     機内の日本人は美智子さまと内田記者の2人だけ。その模様は社会面に載っているが、雨の羽田空港で出迎えたのは毎日新聞の記者だけで、他社は気づいていなかった、という。

     そして翌59(昭和34)年4月10日にご結婚される。

     清水さんは、1面トップで再度スクープを放つ。

    1959(昭和34)年4月10日毎日新聞朝刊1面

     嫁ぎゆく心境、本社に寄せる
    《ご婚約の後、お手紙をいただきました。その一部を特別に許可をいただいて…掲載させていただきました。結果的にご成婚に関して、私の二大スクープになりました》

     美智子さまから届いた便せん3枚の手紙。自分のペースで堅実に歩んでいくこと、婚約期間中、皇太子さまに励まされたことのうれしさを伝えていた。

     清水さんは、編集局長賞を受けた。

     それは8年にわたる「皇太子妃取材班」の努力の成果でもあった、と、取材班のメンバーだった牧内節男さんが「銀座一丁目新聞」に書いている=2012(平成24)年4月1日号「追悼録」清水一郎君逝く。

     《取材班のメンバーは杉浦克己社会部長、藤樫準二編集局嘱託(宮内庁記者60年)、柳本見一デスク、桐山真、清水一郎、牧内節男、藤野好太朗、古谷糸子、関千枝子、小峰澄夫の10名であった。現在生きているのは牧内と関の2人だけである》

     《皇太子妃として正田美智子さんの線をつかんだのは毎日新聞が一番早かった。情報は複数の筋からもたらされた。正田美智子担当になったのは宮内庁クラブの清水一郎記者であった。正式発表までに清水記者は何度も池田山にあった正田邸を訪れて美智子さんと会っている。清水君は記者としてよりも人間として信用されたのだと思う。美智子さまは民間から皇室に嫁ぐ悩みを清水記者に相談したこともあったと聞く。清水記者は慎重居士で粘り強くコツコツ仕事をするタイプであった。その性格を見抜いて当時、社会部デスクであった福湯豊デスク(故人)が警視庁捜査2課担当から宮内庁記者クラブに配置換えした。名文家・藤野好太朗記者を入れたのも福湯デスクであった。仕事がうまくいくかどうかは人事の妙が大きく影響する。

     (2012年)3月23日小雨降る中、西立川で開かれた告別式で喪主を務める長男の保彦さんが「小学校の5,6年生のころ牧内家で手造りのアイスクリームを頂いたがあの味が忘れません」と話した。そんなことすっかり忘れてしまった。あのころは寝食を忘れて仕事に励んだ。それから50年。戦友たちが相次いであの世に逝く……》

     牧内さんはことし8月の誕生日で95歳。関千枝子さん(88歳)は『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』(筑摩書房1985刊)の著者。広島の原爆忌に毎年足を運び、原爆の悲劇を語り継いでいる。

     清水さんは、私がサツ回りをしていた時、八王子支局長だった。その後、世論調査部長をつとめた。髪の毛をいつもいじっている、クセの記憶しかないが、退職後、1度だけ自宅に電話したことがある。クラシック音楽を聴いていた。防音が完璧なのであろう。かなりの音量だった。

    (堤  哲)

    2020年4月20日

    医療崩壊は間の抜けた医療行政のツケ

     中安「濁水かわら版」の医師不足の指摘を、4月20日夕刊コラム「見上げてごらん」で永山悦子記者が「医療崩壊、本当の心配」と杞憂している。

     コラムを引用する。

     《日本の医師数は、経済協力開発機構(OECD)の平均より13万人も少ない。1982年に「将来は医師過剰時代になる」として医学部の入学定員を抑制する閣議決定がされ、定員削減が2008年まで続いたことが背景にある》

     中安さんが訴えた「失われた27年」である。その間ひたすら医学部入学定員を減らしてきた。医療現場はどうなっているのか。

     《日本の病院で働く勤務医たちの働き方は過酷だ。全国の勤務医の4割(8万人)が過労死ラインとされる年960時間(月80時間)以上残業し、そのうち2万人は年1940時間以上も残業している》

     《そこへ降りかかってきた新型コロナウイルス》

     永山記者は、こう訴える。

     《今、あらゆる病を持つ人の医療が危機にさらされている。医療機関への人・モノ・カネという具体的な支援が急務だ。そして、この感染禍を乗り切ったあかつきには、医師不足の解消を「一丁目一番地」の課題としてほしい。気合で危機を乗り切るような綱渡りの医療は続けるべきではない》

     中安さんは「臨床医減少のツケが病院と高齢者施設へ」しわ寄せされていることを指摘している。さらなる続編に期待したい。

    (堤  哲)

    2020年4月17日

    スペイン風邪から100年⑤ 緊急事態宣言を発令 ドイツに遅れる日本の医療

    (中安 宏規)

    2020年4月16日

    それでも桜は咲きました【15日ロンドン発 阿部菜穂子】

     桜関係の行事はすべて中止になりました。

     桜の行事だけではなく、欧州各国の日常すべてが「停止」状態です。本当にあっという間にコロナウィルス感染が拡大し、イギリスでも大変な被害が出ています。これまでに1万2千人以上が亡くなりました。国が対策に乗り出すのが少し遅れたとはいえ、日本に比べてなぜ欧州の死者数がこんなに爆発的に多いのか、よくわかりません。

     イギリスは「全土封鎖(ロックダウン)」状態になって4週目です。学校、大学のほかレストランやパブ、スーパーと薬局以外の全店舗は閉鎖されたままで、住民には一日1回の屋外での「運動」が許されているのみです。外出時は家族以外の他人との距離を2メートル以上あけることが鉄則です。同居していない家族に会いに行くこともできません。

     それでも桜は咲きました。今朝のタイムズ紙1面に、北部ノーサンバランド州の「アニックガーデン」の「太白」桜園の様子が載っていました。

     今が満開のようです。この桜は、日本で絶滅してしまったのを「チェリー・イングラム」ことコリングウッド・イングラムが1932年に日本に里帰りさせたものです。アニックガーデンには350本の太白が植えられています。

     桜の行事は中止になってしまいましたが、その代わりにオンラインで「チェリー・イングラム」各国語版の販促活動が行われています。たとえばイタリア語版の出版社ボラッティ・ボリギエリ社から本について小ビデオを作成してほしい、と要請があり、送ったところ、同社のフェイスブックサイトにビデオが掲載されました。
    https://www.facebook.com/watch/?v=529316437766724

     また、オランダ語版(下の写真)用には、オランダの主要3紙からスカイプによる取材を受けました。

     記者たちは本をよく読んでくれていて、なかなか内容のある取材でした。(桜のシンボリズム、ことに明治維新後の日本で桜が国家統一のシンボルとして使われ、それが20世紀の軍国イデオロギーにつながっていった経過に興味を示され、かなり突っ込んだ質問を受けました。)

     イギリスでは今、すべてがオンラインで行われています。会社の会議も「zoom」等を利用したビデオ会議で行われています。

     最近、平凡社の雑誌「こころ」に添付の記事を書きました(2020年4月発行、第54号エッセイ「奇矯なジェントルマン」)。

    画像をクリックするとPDFで見ることができます

     これがロックダウン状態になる前に行った、最後の桜の仕事でした。詳しくはhttp://naokoabe.com/index.php/ja/ を見ていただければ幸いです。

    クランブルック伯爵と長男ゲイソン氏(左)

     「チェリー・イングラム」本の反響がイギリスの貴族にまで及んだのにはびっくりしましたが、クランブルック伯爵家での夕食会や邸宅での植樹式で伯爵家の人々と歓談したことは、大変楽しい経験でした。

     伯爵の長男ゲイソン氏(将来の第6代伯爵)は桜の愛好家で、すでに50本もの桜を庭園に植えています。多様な品種の桜です。ここに今回、「太白」や「ホクサイ」、チェリー・イングラムの創った「クルサル」が加わりました。もっとたくさんの桜を植えたいと情熱的に話しておられたので、私はひそかに「2代目チェリー・イングラム」になってもらいたい、と思いました。こうやって桜の伝統がイギリスで続いていくのはとてもうれしいです。

    (阿部 菜穂子)

    2020年4月11日

    大林宣彦監督の訃報で、映画「女ざかり」を思い出した!

     4月10日亡くなった映画監督の大林宣彦さん、82歳。

     毎日新聞HPには、この写真が載っていた。説明は――。

     映画「女ざかり」の撮影が行なわれた毎日新聞東京本社編集局内で、撮影の合間、大林宣彦監督と談笑する主演の吉永小百合さん =東京都千代田区の毎日新聞東京本社で1993年12月14日、木村滋撮影

     で、松竹映画「女ざかり」のことを一気に思い出した。

     この映画は、翌94年6月18日に封切られた。原作は丸谷才一のベストセラー小説『女ざかり』(文藝春秋刊)。主演の吉永小百合は、新聞社の女性論説委員。相手役の三國連太郎は、事件記者あがりの「書けない論説委員」という設定。

     公開初日の舞台挨拶で、大林監督は主演の吉永小百合さんに「あなたのシワを撮りたい、と言ったんですよね」。

     撮影は、16mmカメラ3台を同時に回して行われた。普通、映画の撮影は35mmのカメラ1台だ。カット数3400。1時間58分の映画だから、単純計算で1カット2・08秒。ちゃかちゃかとやたら画面が変わる。「ドキュメンタリータッチの不思議で素敵な映画となった」と小百合さんは感想を述べた。

     ヨドチョウさん、映画評論家の淀川長治は「この映画の印象は小百合がメシを口にかきこむこと、かきこむこと、口にメシをほおばって、口の中にメシを押しつぶしているところの吉永小百合。それと頭はいいが文体がまずい、同じく記者の三國連太郎の目の下の深いシワ」と、産経新聞の映画評に書いている。

     この映画のロケが毎日新聞社内で行われたことから、松竹と毎日新聞、それに電通の3社でキャンペーンのアイデアが練られ、小百合さんにエッセーを週一で連載してもらうことになった。「男ざかり女ざかり」。その原稿のキャッチャー役が、ヒマな編集委員だった私に回ってきたのである。

     ワープロが出始めのころ。小百合さんは手書きの原稿をファックスで送ってきた。

     第1回は作家の宇野千代。見出しは「あなたはケチですね」。

     男性に積極的になれない臆病な小百合さんが、結婚歴4回、90歳を超えた恋多き女流作家に「あなたはケチですね」と叱られたというのだ。

     第4回に三國連太郎さん。その書き出しは「書けない新聞記者がいることを『女ざかり』を読んで知った」。

     書けない新聞記者、なんて言われるとギクリとする。

     連載は4か月余、17回で終わった。小百合さんが〆切に遅れることは1度もなかった。

     一番の思い出は、テレビ番組撮影のロケ現場ニューヨークに着いて行ったこと。映画「女ざかり」で共演したNY在住の松坂慶子を訪ねるという設定で、「連載の原稿はNY渡しと言っています」と編集局長に申し出たら、出張旅費を出してくれたのだ。いい時代だった。

     ちなみに他に誰を取り上げたか。女性は、岡本綾子、竹宇治聡子(旧姓・田中)、ジェシカ・タンディ、小川誠子(囲碁)、松坂慶子、高樹のぶ子、土井たか子、杉村春子。

     男性は、清原和博、小澤征爾、片岡孝夫、篠山紀信、三宅一生、丸谷才一、和田誠。

     候補者リストには、高倉健らもあったが、残念ながら…。

    (堤  哲)

    2020年4月3日

    スペイン風邪から100年④ メルケル首相の“コロナ”演説全文

    (中安 宏規)

    2020年4月1日

    キャリアスタッフ、OBアルバイト、ご苦労様でした

     東京本社管内では「キャリアスタッフ」(60~65歳)の橋口正さん(松戸通信部)、渡辺洋子さん(千葉支局)、上遠野健一さん(木更津通信部)がこの3月末で卒業されました。

     また、3月末で卒業された「OBアルバイト」(65歳以上。2019年度をもって制度廃止)は中島章隆さん(館山通信部)をはじめ、以下の方々になります。

     ・塚本弘毅さん(八戸通信部) ・鬼山親芳さん(宮古通信部)
     ・田村彦志さん(能代通信部) ・増田勝彦さん(高崎通信部)=前橋支局通信員
     ・畑広志さん(沼田通信部)  ・柴田光二さん(大田原通信部)
     ・松山彦蔵さん(秩父通信部) ・舟津進さん(掛川通信部)
     ・高橋和夫さん(相模原通信部) ・澤晴夫さん(小田原通信部)=昨年12月末で退職
     ・小田切敏雄さん(富士吉田通信部)=昨年9月末で退職
    (通信員は4月からスタートした制度で、各支局が管内に住むOBと契約し、自主的に投稿する原稿を買い取る)

     このうち地方版などから5人のメッセージを紹介します。

    中島章隆さん(元運動部)
    今日で卒業します /千葉
    2020年3月31日 地方版

     森田健作知事が武将に扮(ふん)した第30回南総里見まつりは2011年9月30日。私が館山通信部に着任する前日でしたが、引っ越し荷物と一緒に館山に着いた私は早速、写真と原稿を千葉支局に送り、翌10月1日付紙面に署名入りで記事が掲載されました。

     これが私の「千葉版デビュー」です。知事が扮(ふん)した里見の殿様の名前を間違え、翌日の千葉版で訂正記事を出すおまけがつきます。

     それ以来、8年半。本日をもって46年務めた毎日新聞の記者を卒業します。

     新人として最初に赴任した青森支局の6年を除けば、31年半は東京本社勤務。館山では久々に読者の皆さんと肌で接しながらの毎日でした。

     「今朝の記事読んだよ」「写真はもう少し工夫したら」などなど、直接声をかけていただいたのは、本社では経験できないことばかり。本当に記者冥利に尽きます。

     新型コロナウイルスが猛威を振るう中、新聞社を去るのは心苦しいのですが、後輩にバトンを託して記者生活にピリオドを打ち、筆をおきます。今は筆ではなく、パソコンですが。

    柴田光二さん
    県北取材20年余に別れ /栃木
    2020年3月28日 地方版

     この3月で退職することになりました。大田原通信部に着任以来、20年余にわたり大田原市を中心とする県北地区を取材しました。担当は着任当初は7市町村でしたが、平成の大合併などもあり最後は矢板を含めた4市町でした。

     振り返ると、自然災害の恐ろしさを思い知らされた1998年の那須水害、県北地域が候補地になった首都機能移転、地域の形が変わった市町村合併、2018年の那須野が原開拓の日本遺産認定などが印象に残っています。忘れられないのが、17年の雪崩事故です。大田原高校山岳部の生徒ら8人もの尊い命が失われたことが、今も悔やまれます。

     フレッシュなところでは、那須塩原市の渡辺美知太郎市長の誕生でしょうか。36歳での初当選で、県内最年少の市長になりました。JR那須塩原駅の近くにある工場跡地の活用について、津久井富雄・大田原市長と共に事業者への要望活動をしています。両市長は、県北地域に人口20万から30万の都市を作る構想も共有しています。跡地の活用も含め、今後の行方が気になっています。

     退職後は、出身地の福島県から県北地域の繁栄を願っています。お世話になりました。

    松山彦蔵さん(元出版局)
    秩父よ、逆襲を /埼玉
    2020年3月30日 地方版

     秩父市は2018年、人口1000人当たりの転入率が19・68人で全国815市区中783位。民間サイト「生活ガイド.com」が算出した全国ランキングにベテランの市職員は目を疑った。

     「こんなに下位なのか」

     人口減少の続く市は移住施策に力を入れ、相談センターやお試し住宅を設け、転出超過をここ数年、300人台前半に抑えていた。手応えを感じた直後の、この順位だった。

     そこで移住加速に向け提言したい。都民に週末や夏冬などに秩父で田舎暮らしをしてもらう「2地域居住」に、首都直下地震をにらんだ避難場所の提供もセールスポイントにしたら、と。地震の揺れに強いとされる秩父で避難民を受け入れるため、空き家・空き地を都会の力を借りて整備するのだ。保険会社ではないけれど、有事に備え地方もしたたかにしぶとく、生き残り戦略を練る時機だと思う。

     3月末で毎日新聞社を退職し秩父を離れるが、ぜひ秩父の逆襲を見守りたい。

    上遠野健一さん(元社会部)
    望郷と感謝の土地 /千葉
    2020年3月24日 地方版

     新聞記者生活を送る最後の場所と決め、木更津に赴任した。約2年分の記事のスクラップブックを見返している。最初のページには、2機目の米軍輸送機オスプレイの陸上自衛隊木更津駐屯地への到着を予告する記事が貼ってある。カッターナイフで自身の記事を切り取り、貼り付ける。この作業を一日の締めくくりとする日課が好きだった。貼る記事がなく、空白日が続くと、己の怠慢を反省した。

     東京湾に面した富津、君津、木更津、袖ケ浦、市原は歴史と文化、人と自然に恵まれ、記事の宝庫だった、とスクラップした記事が教えてくれる。記者駆け出しのころ、初任地は、生まれ故郷と同様に忘れ難く「第二の古里」になる、と先輩諸氏から励まされ、取材に奔走した。

     記者最後の土地は何か、多くの記者が私に語らなかった。今、記事化した課題の決着を見届けることなく、この地を去る未練が残る「望郷の地」か、と思う。半面、多くの人に支えられ、新聞記者で終われる「感謝の地」と強く思う。送別に贈られたフキノトウの味はほろ苦く、口になじんだ。

    橋口正さん(元写真部)=フェイスブックから

     39年11ヶ月のエンプロイヤー人生が今日で終わります…。
     まあ、(松戸通信部では)3年も勤まればいいと思っていたのですが…。
     みなさまの温かい懐のお陰で、ここまでこれたのかな…。
     さて、新しい人生を寿ぐように、娘の「愛児」が家族に加わってくれました。とても高価な「ペット用落花生」を手に…。可愛いですねぇ~…。

    2020年3月30日

    スペイン風邪から100年③

    (中安 宏規)

    2020年3月27日

    エージシュート達成記

     大阪毎友会HP、2020.03.24 閑・感・観~寄稿コーナー~ に、とんでもないゴルフ記事が載っていた。参考までに転載したい。

     後期高齢者のゴルファーの目標は健康で楽しくプレーすることが一番で、加えて夢は「エージシュート」を達成することです。

     そのエージシュートは、18ホールを回る1ラウンド(パー72)で、満年齢か、それ以下のスコアでプレーすること。アマチュアでは75歳前後からやっとチャンスが巡ってくるが、なかなか難しい。

     それが、2018年(75歳)と19年(76歳)に2回達成できた。今回は感激も大きかった18年のラウンドを紹介します。

     8月27日晴。場所は山陽自動車道岡山ICに近い自宅から15分の岡山北ゴルフ俱楽部(パー72、5394y)。スポーツジム仲間3人(いずれも75歳前後)と「レディース&シニア友の会月例杯」に参加。朝から気温が上がり最高気温は35・2度。スタート前から暑さにバテ気味で、「エージシュート」なんて全く意識なし。

     1、2番は無難にパーオンして連続パーセーブ。3番は右ドッグレッグで前下がりの左ラフからの2打を7Iで奥4・5mにパーオンし、下りパットを決め、バーディー。4番パー3でもパーセーブし、「今日は調子がいいなぁ」と思っていたら、5番、6番で1m弱のパットを外し、連続ボギー。しかし、気を取り直した7、8番はパーセーブでまとめた。ロングホールの9番は3打を右ガードバンカーにいれ、ボギー。前半は2オーバー「38」で、私にとっては上出来だ。

     後半、同伴者からは「村田さんがエージシュートしたらお祝いをしてあげる」とプレシャーをかけられる。池絡みの難ホールが多いので、「有り得ない」と軽く流す。10番は16・5mにパーオンしたが、3パットが出易い長い距離。不安がよぎるが、なんとか2パットで凌ぐ。

     11番、12番をパーセーブした後の13番(パー5)がエージシュート達成のキーホールになった。打ち下ろしの右ドッグレッグで、1打が右に飛び出し、高さ約20メートルの斜面を越え、OBゾーンの木の中に飛び込んだように見えた。念のため尾根沿いを歩いていくと、斜面下にボールがあり、確認するとマイボールだった。木か何かに当たり、落ちたのだろう。「ラッキー」と喜ぶ。パーオンは出来なかったが、2・3mを沈めパーセーブ。「OBがパーセーブになった。ツキがある」と確信。

     でも、これからが正念場。14番をパーセーブした後は15番はハンディキャップ2の難ホール。2打の距離が170y残り、これまでパーオンの回数が少ない。7番ウッドでカラーまで運び2・3mを寄せワンで決め、ピンチをかわす。

     16番、17番はいずれもパーセーブした後の18番は池越えのホール。これまでここで池に入れ、エージシュートを逃したことがあり、緊張感が漲る。まずユーティリティでフェアウエーをキープ。池越えの2打は残り距離が150y。「奥のガードバンカーOK」で大きめの6Iで狙うと、奥カラーで止まり、得意のPWで1・5mに寄せワンパーセーブ。後半「36」のパープレーで乗り切った。

     最後の1パットを決めた瞬間、「とうとうやり遂げた」と感無量。同伴者の祝福も受けた。前後半のグロスは「74」。75歳6カ月より1打少ない。

     【エージシュート・データ】バーディー1▽パーセーブ14▽ボギー3▽フェアウエーキープ11▽パーリカバリー6▽パット31(1パット6、2パット11、3パット1)

     ちなみに2回目は2019年7月8日、毎日新聞中四国印刷のOBらで楽しんでいる「GG会」で達成。コースは1回目と同じ岡山北ゴルフ俱楽部でスコアは「76」。年齢は76歳5カ月だった。

     ゴルフ辞典によると、60歳を超えるゴルファーは国内に267万人(2015年)いると言われ、エージシューターは1,500人と推定されている。ちなみに、日本人アマチュアでは95歳の男性が1572回(19年1月)の最多記録がある。

     私には、まだまだこれからだが、今後も健康を維持して、1打1打を大切にプレーして行きたいと思う。

    (元姫路支局長・村田 征生)

    2020年3月26日

    ハプニングの健ちゃんって?

     大学の美術サークルOBらが半世紀にわたって作り続けてきた手作りアートカレンダーを並べた展覧会が、中央区銀座7の「Gallery Tanaka」で開催されている。28日まで。

     メンバーは、東京大に1964年度に入学し、美術サークルに所属していた同期が中心。毎年、特にテーマは決めず、各自の自由な発想で版画や写真を提出し、カレンダーの挿絵に取り込んでいる。

     在学中はサークルの運営資金を確保するために販売していたが、卒業後は趣味のカレンダーとして親しい人たちに配っている。一時は作品提出者が1人だけという継続の「危機」もあったが、どうにか作り続け、来年度分で55点目となる。

     会場には、前衛的な技術などを用いた彩り豊かな作品の数々が並ぶ。今は弁護士や企業幹部などとして各界で活躍している仲間たちが、職業を超えて交流を続けている。

     メンバーの一人で元毎日新聞常務の中島健一郎さん(75)は「展覧会を見ていただいた方が、高齢社会をハッピーに生きるヒントを得てもらえたらうれしい。それぞれの年の主な出来事も記し添えてあるので、半世紀の時代の変化も感じてもらえたら」と来場を呼びかけている。

     開場時間は正午~午後7時。問い合わせは同ギャラリー(03・3289・2495)。

     ――これは25日付毎日新聞東京版の記事だが、写真をよく見てください。前列右から2番目が健ちゃん、いや元常務の中島健一郎さん(75歳)。左端に弘中惇一郎弁護士。そうゴーンさんの元弁護士だ。

     それはさておき、アーチスト中島健一郎さんの作品を見てみたい。

     大学2,3年のころ、ハタチ前後の作品だ。

     もうひとつ、会場に貼られていた写真。

     よく見ると左側でスプレーを噴出させているのが健ちゃんだ。

     説明に《美術界の潮流『ハプニング』を新宿で遂行》とある。

     ハプニングの健ちゃんは、このあと新宿の街を素っ裸で駆け抜ける「ストーリーキング」も演じた。

     1968(昭和43)年毎日新聞入社。駆け出しの長野支局ではあさま山荘事件で特ダネを放ち、社会部では警視庁の1課担当記者として、さらにロッキード事件でも数々の特ダネをものにした。伝説の事件記者である。

     そしてワシントン特派員、社会部長、事業本部長などを歴任、常務取締役で退職。現在は千葉県市原市で、自然と調和した持続可能なコミュニティー「土太郎(どたろう)村」づくりに全精力を傾けている。

     この試みは、朝日新聞千葉県版2017年1月1日付で《20XX年「土太郎村」独立》の見出しで報じられた。未来の村のモデルとして、全面を埋めて紹介されたのだ。

     いつまでも夢を追う健ちゃんである。

    (堤  哲)

    2020年3月16日

    続 「スペイン風邪から100年」

     1964年入社、元社会部中安宏規さんから「濁水かわら版」95号が届いた。

     100年前のスペイン風邪で、日本の感染者 は2380余万人、死亡38万8千余人にのぼった、と報告する内務省資料を見つけた。その詳報である。

    (堤  哲)

    2020年3月14日

    東日本大震災から9年、朝日新聞「ひと」欄紹介の元毎日新聞記者

     手塚さや香さん(40歳)。2001年入社、初任地が盛岡支局だった。《4年間、事件や行政から酪農まで、何でも取材。明るい性格で周囲に支えられた》

     その後、東京、大阪両本社で学芸部記者として活躍した。《大阪にいた時に震災が発生。希望して再び岩手に赴任したが、現地で痛感したのは深刻な人手不足だった。報道だけでは、すぐに解決できない。ならば「自ら復興の担い手になろう」と2014年に退社し、釜石に移住した》

     3月12日付朝日新聞「ひと」欄は、こう紹介している。

     釜石では復興支援員組織「釜援隊」の一員になった。鵜住居(うのすまい)地区にある「釜石地方森林組合」に派遣された。

     鵜住居といえば、ラグビーW杯の会場となった「釜石鵜住居復興スタジアム」が有名だが、手塚さんが震災の1か月半後に鵜住居を訪れた時は、壁に赤いスプレーで「○」「×」と描かれた廃墟のような建物が並んでいたという。

     肩書は「岩手移住計画」代表。HPによると、岩手移住計画は、岩手にUターン・Iターンした人たちの暮らしをもっと楽しくするお手伝いをし、定住につなげていくために活動している任意団体とある。

     ことし2月には釜石市から「移住コーディネーター」に委嘱された。

     さいたま市出身で、2年前、同じく移住してきた男性と結婚した。

     「ひと」欄は、最後にこうまとめている。《震災から9年。復興関連の工事は終わりに近づき、岩手を離れるボランティアも少なくない。「だからこそ、地域の農林水産業を今後どう盛り上げるかが大事。そのためにも生産者の思いを発信し、首都圏の消費者とつないでいきたい」。記者として育ててもらった岩手の地から、これからも発信を続けていく》

     手塚さんは、何故13年余で毎日新聞の記者を辞めて、被災地に移住したのか。

     手塚さんの5年後輩で、毎日新聞記者を10年余で辞め、現在ノンフィクションライターとして活躍している石戸諭さん(35歳)が雑誌「群像」2020年4月号に書いている。

     《違和感――。震災以降、新聞で物事を伝えていくということにつきまとう、どうしようもない「他人事」感に嫌気がさしてしまったのだ》

     《違和感ばかりが強まっていった私は、より自由に伝えられるニュース文体を求めてインターネットメディアに移籍し――それでも飽き足らなくなり、今に至る――、手塚は手塚でより現場に接近する場を求めていった。私も彼女も震災が人生の分岐点になったわけだが、そんな人は決して珍しくはないだろう》

     石戸さんは2006年入社、岡山支局、大阪社会部、デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍した。2018年からノンフィクションライター。ニューズウィーク日本版に「百田尚樹現象」を書いたことはこの毎友会HPでも紹介した。

     インキュベーター(孵卵器)を思い浮かべる。毎日新聞に入社して、新聞記者の訓練を受け、独立して巣立っていく。「ヤメ毎」が増殖している。

    (堤  哲)

    2020年3月4日

    歴史は繰り返えされる スペイン風邪から100年

     東京オリンピックの1964年入社、元社会部中安宏規さんが「濁水かわら版」94号で100年前のスペイン風邪を特集している。
     博学中安さんの警句を聞いて下さい。

    (堤  哲)

    2020年3月1日

    世界を巡る阿部菜穂子「サクラ大使」

    イタリア語版
    ドイツ語版
    アメリカ・ペーパーバック版
    イギリス・ペーパーバック版
    イギリス版
    日本語版(2016年3月岩波書店刊)

     ロンドン在住の元毎日新聞記者阿部菜穂子さん(81年入社、社会部、政治部、外信部に在籍)著『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』(2016年3月岩波書店刊)が英米に続いてことし3月にイタリア、ドイツ、オランダで次々に出版される。スペイン語とポーランド語が今秋、さらに中国語への翻訳も進行中だ。

     阿部さん、というより菜穂子さんは、イタリア語版の出版に合わせて、フィレンツェで開かれるブックフェアで講演会を開く予定だったが、北イタリアでのコロナウィルスの感染騒動で延期された。

     しかし、オランダ語版の宣伝イベントは予定通りで、3月下旬にアムステルダムへ。そのあと米国ワシントンへ飛ぶ。4月12日まで開催のポトマック河畔「桜祭り」に参加する。

     「各州の桜女王が集まったパーティだとかパレード、和太鼓などの野外演奏などが大々的に行われるのですが、オープニングでスピ―チを頼まれています」

     さらに「英国でも3-5月は桜フェスティバルや桜の植樹セレモニーなどが多数あり、いくつか呼ばれています。なんだか本の反響が予想以上に大きくて、まるで「チェリー・ブロッサム大使」にでもなったかのようで、びっくりしています。桜の季節が終われば落ち着くと思うのですが……」とメールで伝えてきた。

     『チェリー・イングラム』は、2016年の第64回日本エッセイストクラブ賞に選ばれた。菜穂子さんは、英国版の出版に3年掛けて再取材して、全面的に書き直した。

     桜の本家・日本では江戸時代には250種もの栽培品種が生まれたが、明治維新で荒廃。もっぱらソメイヨシノが植樹された。

     《大戦中に「散る桜」が軍部によって強調され、神風特攻隊員らが側面に桜の花の描かれた特攻機で「桜のように散る」ことを強要された事実は、西欧社会ではまったく知られておらず、特別に興味を持たれた》と菜穂子さんはいう。(日本英語交流連盟のサイトhttps://www.esuj.gr.jp/jitow/586_index_detail.php#japaneseより)

     「日本の桜を救ったイギリス人」コリングウッド・イングラム(1880-1981)は、訪日した際に多種多様な桜を持ち帰った。英国ケント州・ベネンドン村のイングラム邸の庭園では130種類もの桜が咲き誇る。

     このイングラムの桜園から、日本で絶滅した白い大輪の花をつける「太白」(たいはく)が、里帰りしている。

     《1920年代後半の日本に、「多様性を大切に」と警告を出したイングラム。100年近くも前のそのメッセージは、現代でも十分に重みをもつ。多様な桜を大切にする社会は、住人たちの異なるものの見方も尊重するであろう。社会がいつの間にか偏狭なナショナリズムに覆われてしまわないように、イングラムのメッセージをもう一度、しっかりと受け止める必要があるように思う》と、菜穂子さんは訴えている(同上の日本英語交流連盟サイトより)。

     菜穂子さんのHPは www.naokoabe.com

    (堤  哲)

    2020年2月25日

    大流行する「不都合な真実」

    (中安 宏規)

    2020年2月8日

    オレは金メダリスト?

     渋谷区役所15階で開かれている東京オリンピック・パラリンピック展会場に、毎日新聞の特別号外パネルがあった。

     真ん中がくり抜かれていて、そこから体を出して、ガッツポーズ!

     「オレは金メダリスト」の記念撮影が出来る仕掛けである。

     写真は、たまたま見物に訪れたサラリーマンにモデルをお願いした。HPにアップすることも了承してくれた。

     「世界は一つ 東京オリンピック」は、56年前の1964年に毎日新聞社が募集して採用したキャッチフレーズだが、今回も使用されるのか。

     会場では、毎日新聞主催で「東京1964パラリンピック写真展」(2月28日まで)も行われている。

     ぜひ足を運んでください!

    (堤  哲)

    写真展から

    選手と握手をする皇太子殿下と美智子妃殿下(現上皇・上皇后両陛下)
    選手宣誓をする青野繁夫選手
    パラリンピック開幕を伝える毎日新聞1964年11月8日(日曜日)付夕刊
    (日曜日に夕刊を発行していたのだ!)
     

    2020年2月7日

    黒岩涙香と「早慶戦全記録」

     慶應義塾が発行する「三田評論」2月号に、拙著『早慶戦全記録』の書評が載った。筆者は三田体育会副会長、柔道部OBの對馬好一氏。元産経新聞の記者である。

     「とにかくすごい本だ」「学生スポーツ史の貴重な資料といえる」などと褒めていただいたのだが、巻頭随筆「丘の上」に、同期入社で初任地長野支局に一緒に赴任した黒岩徹氏の二男亜純クン(TBSモスクワ支局長)が書いているではないか。

     「新聞界の風雲児 曾祖父、黒岩涙香」

     こんな偶然があるのか。読んでみてください。

    (堤  哲)

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    2020年2月6日

    幻の名著『野球博覧』に光!

     整理の鬼才諸岡達一氏らが精魂を込めて2014年に自費出版した『Baseball Tencyclopedia野球博覧』(A5判、本文415ページ)が、5日付け東京スポーツ紙で紹介された。

     元NTVアナウンサー越智正典さん(91歳)の連載コラム「ネット裏」。山口俊投手がブルージェイズ、筒香嘉智外野手がレイズ、秋山翔吾外野手がレッズへと大リーグに移籍したが、越智さんはその3球団の紹介を「野球博覧」の「大リーグのニックネーム その由来の考察」松崎仁紀(03年紙面審査副委員長で退職→東日印刷)から引用、同時に『野球博覧』を紹介している。

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     越智さんといえば読売ジャイアンツ。1974(昭和48)年10月14日の長嶋茂雄の現役引退試合(対中日戦、後楽園球場)では、試合後の共同記者会見を担当した。運動部長を最後に1975年退社。その後、野球評論家・スポーツライターとして、今なお活躍中だ。

     経歴を調べたら早大政経学部を卒業して、1951(昭和26)年NHKへ入局。NTV開局に伴い54年に移籍、以来スポーツ中継の実況アナウンサー、とりわけジャイアンツの中継で名高い。

        ◇

     ここで『野球博覧』をもう少し宣伝したい。毎日新聞の野球好きの論説委員・編集委員らが結成した草野球チームが「大東京竹橋野球団」。1983(昭和58)年創設で、結成30年を迎え、選手も高齢化したことから記念誌を発行して解散を決議した。

     で、「野球文化學會」を創設した諸岡達一さんが実質的な編集委員長となって、2014年2月3日に発行、同日、毎日新聞社内の毎日ホールで「創設30周年」の記念パーティーを開いた。

     今その記念写真を見ると、慶應義塾大学名誉教授の池井優、同野球部63(昭和38)年度キャプテンの西岡浩史、松竹ロビンスオーナー家の三代目田村駒治郎らの来賓、元スポニチ社長・会長の牧内節男、同森浩一さんら、往年の名?迷プレーヤーが笑顔で収まっている。

     鬼籍に入った人も少なくなく堀井淳夫、四方洋、「不動の一塁手」原田三朗、球団歌を作詞した尾崎三千生、影山信輝、主務を長く務めた堀一郎。

     パーティーの最後まで残った68人が写っているが、サントリー、東京ガス、損保ジャパン(旧安田火災)とお相手をしてくれたチームの選手らもいる。

     『Baseball Tencyclopedia 野球博覧』は、非売品としていたが、実際は頒価@1千円で希望者にお分けした。その後、残部を野球ブックフェアにも出品した。

     その際の内容紹介は以下だ。

     ①謎多きベースボールの起源をまったく新たに解明した米書(Baseball in the Gardenof Eden=2011年刊行)を本邦初翻訳して9人9イニング90フィートに至る細部経緯を分析した。

     ②明治20年代における本格野球報道の嚆矢とした新聞紙面の筆者と記事詳解。

     ③大正9年~昭和4年、日本中はおろか渡米して野球を探求・実施してファンを沸かせた「大毎野球団」はプロ同然だった真実。

     ④日本職業野球揺籃期から戦後にかけて球趣を躍動させた数奇な人物伝。

     ⑤セ・パ2リーグ制を確立させた昭和24年野球界の仔細なインサイドストーリー。

     ⑥終戦直後の野球少年民主主義社会において、焼跡三角ベースで育った熟年草野球メンバーが独断と偏見に満ち満ちて身勝手に綴った利己主義的……近代文化史に通じる野球書。

     ごく僅かですが残部があります。希望者に@1.000円でお譲りします。

     申し込みは堤哲まで。tsukiisland@gmail.com

    (堤  哲)

    2020年1月8日

    種村直樹コレクションが鉄道工学ギャラリーに誕生

     東京豊洲の芝浦工大附属中学高等学校にある「しばうら鉄道工学ギャラリー」に、レイルウェイ・ライター故種村直樹さん(2014年11月6日没、78歳)のコレクションコーナーが新設され、2020年1月7日にオープンした。

     種さんは、1959(昭和34)年入社。高松支局→大阪本社社会部→中部本社報道部。ここで国鉄名古屋鉄道管理局の記者クラブに配属になったのが鉄道記者の始めだった。その後、東京本社社会部で国鉄本社の「ときわクラブ」担当となり、72(昭和47)年の国鉄100年のときは、1人で特集記事を書いた。

     社会部内の配置替えで国鉄ときわクラブを外されると、会社の無定見な人事異動に怒って退社、レイルウェイ・ライターとして独立した。73(昭和48)年だった。

     種村コレクションの同ギャラリーHPにある紹介文——鉄道旅行のノウハウをまとめた「鉄道旅行術」をはじめ、気が向くままに汽車旅を楽しむ「気まぐれ列車」シリーズ、日本の沿岸を反時計周りに旅する「日本列車外周の旅」シリーズ、また東京駅と共に歩んだ80年を鉄道史の観点から描いた「東京ステーションホテル物語」などの著作がある。主な所蔵品として、事務所デスク周辺の執筆アイテム、赤字で修正コメントの入った自著などがある。

     右下の写真は郵便貯金通帳である。『旅のついでに3334局 日本縦断「郵便貯金」の旅』(徳間書店1995年刊)、『ただいま3877局 気まぐれ郵便貯金の旅』(自由国民社1997年刊)の著作もある。

     旅先の郵便局に寄って「貯金の旅」も楽しんでいたのだ。

     「しばうら鉄道工学ギャラリー」は、芝浦工大附属中学高等学校が2017年4月に豊洲に校舎が新築されたのに伴い、校舎内に設置された。

     同校の前身は、1922(大正11)年に丸の内に開校した「東京鉄道中学」。その年は日本に鉄道が開通して50年。それを記念して貧乏で中学校へ行けなかった鉄道職員に「中学程度の基礎教育を」という考えで生まれた。

     発案者は、当時鉄道省経理局会計課長だった十河信二だ。のちの国鉄総裁、東海道新幹線の生みの親である。全国各地に「鉄道中学」を設置する計画だったが、実現したのは東京だけだった。

     鉄道50年記念事業で鉄道博物館(のちの交通博物館)も新設されたが、余談ながらこの50周年記念式典の10日後に第1回全国鉄野球大会が芝浦で開かれている。札幌、仙台、東京、名古屋、神戸、門司の6鉄道局チームで争い、門鉄が優勝した。都市対抗野球大会が始まったのは、1927(昭和2)年だから、国鉄大会は5年も早い。

     ギャラリーには、同校の鉄道研究部が製作したジオラマが設置されている。模型を持参すれば、走らせることもできるという。

     窓際には、列車の座席が5列ほど。脇のレールにはターンテーブル。書架の向きを簡単に変えられるのだという。

     個人のコレクションでは、元国鉄マンの星晃、関長臣、元交通博物館の岸由一郎、鉄道切符コレクターの築島裕など。

     入場無料。開館は火曜日~土曜日の10時~12時半、13時半~16時。

     有楽町線豊洲駅から徒歩7分、ゆりかもめ新豊洲駅から徒歩1分。

     江東区豊洲6-2-7 ☏03・3520・8516

    (堤 哲)

    2020年1月1日

    台風15・19号の置手紙 じゃくきょうより生ず ハギビスの旅

    (中安 宏規)

    2019年12月23日

    報道写真展24日まで、三越日本橋本店です

     暮れ恒例の報道写真展が日本橋の三越本店で開かれている。

     まず新聞協会賞の大阪本社写真部、幾島健太郎記者の「台風21号 関空大打撃」(2枚組み写真)。

     天災もので10月12日、「台風19号が接近中に竜巻」。東京本社写真部手塚耕一郎記者の写真も迫力がある。

     4月19日東京池袋で当時87歳の運転者による暴走で母子らが死傷した事故現場写真。母子の乗った自転車が真っ二つだ。東京本社写真部・宮間俊樹記者の撮影。

     他にも「ブータンで笑顔の秋篠宮ご夫妻と悠仁さま」(小川昌宏)、「升席ソファで大相撲観戦」(手塚耕一郎)、「炉端焼きを楽しむ日米首脳」(藤井達也)、「日本競歩 世界の頂点に」(久保玲一)など毎日新聞写真部員の力作が展示されている。

    (堤  哲)

    2019年12月23日

    27日開幕、花園の高校ラグビーに注目!

     ラグビーW杯の影響か、27日から大阪・東大阪市花園ラグビー場で始まる「第99回全国高校ラグビー大会」のチケットの売れ行きが好調なのだという。

     この大会の主催者は毎日新聞社なのに、12月20日付朝日新聞夕刊に報じられた。

     その記事によると、12月1日に販売を始めた前売り券の売上枚数は、2週間で約3600枚。売り上げが過去最高だった前回大会の同時期に比べて約2倍増。チケットは全席自由席で一般1200円(高校生300円)。当日券も価格は同じで事前に買う「お得感」はないが、関西ラグビー協会の担当者は「W杯のチケットが買えない人が多かったこともあり、早めにチケットを確保しておこうという心理が働いているのではないか」とみている。

     そして《前回大会の総売上枚数は1万300枚ほど。今大会は2万枚は見込めそうだという。W杯でラグビーに興味を持った「にわかファン」が、例年以上の盛り上げにひと役買っている》と書いている。

     この大会の始まりは、1918(大正7)年。ラグビーのルーツ校慶応義塾の13(大正2)年度キャプテン杉本貞一氏(1892~1956)が、慶応の先輩で当時大阪毎日新聞社会部長だった奥村信太郎(のち社長、1875~1951)に大会開催を持ち掛けたところ、「費用は一切面倒をみるから」と奥村が答え、実現した。

     戦中・戦後3年間中断しているので、ことしが第99回。全国の予選を勝ち抜いた51校が「高校ラグビー日本一」を目指し、熱戦を繰り広げる。 組み合わせは、別表の通り。

     日程は、27日(金)午前10時半から開会式、正午から1回戦▽28日(土)1回戦▽30日(月)2回戦▽1月1日(水・祝)3回戦▽3日(金)準々決勝▽5日(日)準決勝。 優勝戦は、7日(火)午後2時キックオフだ。

    (堤 哲)

    2019年12月2日

    「縦横無尽」、朝日新聞の読書面

     11月30日の朝日新聞読書面を開いて、アッと驚いた。

     見開きページの右端、「ピカソの私生活 創作の秘密」(オリヴィエ・ヴィドマイエール・ピカソ著、岡村多佳夫訳、西村書店 4180円)の書評だけ横組みなのである。

     書評の書き出しにこうある。

     ——本書は作品や写真が多数掲載されているせいか本文は横組み。その延長で書評も横組み。ピカソのキュビズムは縦横斜め回転。女性遍歴もその作品も20世紀の様式をひとりで駆け抜けた。91年の生涯を万華鏡的様式とその変化に寄り添った7人の女性とピカソの物語。

     評者の横尾忠則氏の名前だけは、タテ書きだ。

     活版時代では、ちょっと考えられない試み。コンピューター編集は何でもありと思った。

    (堤 哲)

    2019年11月30日

    若者のための エナジー通信 追伸
    by Yasuaki Enari
    Vol.37 -2

     11月29日、元首相の中曽根康弘さんがお亡くなりになりました。101歳。大往生です。 戦後政治の総決算をスローガンに、国のリーダーとして様々な策を打ち出し実行してきました。国鉄、日本電信電話公社、日本専売公社を民営化させたことも大英断で、レーガン大統領との親密な日米外交も記憶に残っています。骨のある政治家でした。

     

     目の前で初めて中曽根さんを見たのは、1970年代後半だったと思います。群馬3区から立候補していた中曽根さんは地元・高崎市へ戻って選挙演説をしていました。駆け出し記者の私には名の通った人の演説が高尚に聞こえました。とにかく弁舌さわやかで、高所大所から政治を語り、幅広い見識を感じさせてくれました。当時は若手のホープでもあり、同じ選挙区だった福田赳夫・元首相とは一味違った魅力もありました。まだ、政治の奥深さもわからない私には中曽根さんの語る政策のことを理解するのは大変なことでしたが、言葉を大切に演説していたことだけは印象に残っています。

     

     演説後に歩きながら語った「政治家というのはね、国と国民のことを第一に考えて行動しなければいけない」ともらした一言も忘れられません。

     

     1982年に総理になってからは、自らの信念に基づいて政権を築いてきましたが、後藤田正晴氏を官房長官に据えたことも強みになりました。イラン・イラク戦争の時に、中曽根さんは海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣するつもりでした。ところが後藤田官房長官が反対し、「閣議でサインしない。辞任は覚悟している」とまで言い切りました。日米関係重視の中曽根さんにしてみれば耳の痛い話だったはずです。最終的には後藤田官房長官の圧力に押されて、掃海艇の派遣を断念したのです。いいブレーンを持てたことも、中曽根政権の信頼につながっていました。

     

    ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

     

     それに比べて…に再び戻ってしまいました。信念もなく、実直さが物足りない安倍政権にはやはり、政治家としての「美」が感じられないのです。官房長官の真剣さのないまやかし的な発言も、イエスマンならではの内容です。

     

     かつてのような派閥がなくなり、与党内にも論客がいなくなりました。今の政治は、権力のある総理の思いのままです。空しさばかりが去来しています。

     中曽根さんの訃報を聞きながら、そんなことを考えさせられました。

     

    2019/11/30 江成康明

          

    (堤 哲)

     

    2019年11月5日

    台風15・19号の置手紙 天災は常時やってくる

     1964年東京五輪の年に入社、オリンピックではドイツ語の通訳として活躍した中安宏規さん(79歳)の「濁水かわら版」第91号。

     巻末に「3Pal」(良きにし悪しきにしろ3友人)のコラム。

     「3Pal」とは、左目緑内障・脊柱管狭窄症・ 1型糖尿病だ。「 3Pal=3 病息災の生活」を送りながらコラムを書き続けている現況だそうです。

    (堤  哲)

    2019年10月2日

    アスナビ・走り高跳び佐藤凌選手世界選手権出場

     東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

     と、この毎友会HPで訴えたのは、2019年6月27日だった。

     その佐藤選手がカタールのドーハで開かれている世界陸上選手権に出場していた。残念ながら2メートル26をクリア出来ずに予選落ちした。しかし、こえにめげずに「東京五輪を目指す」と決意を述べた、と10月2日付け毎日新聞夕刊に載っていた。

    男子走り高跳び予選で2メートル22をクリアする佐藤凌=カタール・ドーハで2019年10月1日、久保玲撮影

    以下、夕刊の記事を紹介したい。

     世界選手権に初めて挑んだ男子走り高跳びの佐藤凌(25)。日本オリンピック委員会(JOC)が実施している選手支援制度「アスナビ」で東日印刷(東京都江東区)に就職し、支援を受けながら、競技生活を続けている。今回は予選で敗退したが、来夏の東京五輪を見据え、「大舞台の雰囲気を確かめることができた」と充実の表情を浮かべた。

     佐藤は高揚感から助走のリズムが狂った。予選で最初の2メートル17は3回目でようやくクリア。次の2メートル22は2回目に跳んだが、2メートル26は3回とも失敗して全体22位で決勝進出を逃す。「楽しかった半面、悔しさがあった」と言う。

     新潟県長岡市出身。小学6年の時、地元クラブで陸上を始め、3カ月後に全国大会の走り高跳びで優勝を飾った。高校、大学でも全国大会で常にトップの座にいた。しかし、東海大4年だった2016年、リオデジャネイロ五輪に出場できず、競技を継続できる就職先を探すため、アスナビを利用することを決めた。

     アスナビは10年からスタートした制度で、就職を希望する選手と企業を仲介し、これまでに297人が職に就いた。佐藤も数社の中から、遠征費を全額補助するなど支援が手厚い東日印刷を選んだ。同社は1952年創業で初のスポーツ選手の採用ではあったが、佐藤裕正・人事部長(47)は「目力の強さを感じた。話も上手で引退後も会社の中枢になってくれる」と正社員での受け入れを決定した。

     17年春の入社直後、佐藤は海外遠征で踏み切り足の左足首を疲労骨折。大会では結果を残せず、週1回の出勤時に気まずさを感じていた。ところが、同僚から「無理しなくていい。本番は東京五輪」と言われ、気まずさは消えた。焦らずにリハビリにも取り組むことができた。故障が癒えた18年から調子を上げ、今年7月の大会で3年ぶりに自己ベストを更新する2メートル27をマーク。世界選手権の代表入りを果たした。

     シーズンオフには会社の近隣の学校での講演などを行うほか、出社の際は来客の対応もして「人生経験でプラスになっている」と感謝する佐藤。「(東京五輪に出場すれば)いろいろな方が応援しに来てくれる。いい結果を報告できるように頑張りたい」と誓った。

    (小林悠太)

    2019年9月17日

    濁水かわら版 90号:日本の戦争 25 中庵少尉の2つの戦争 完結編

    (中安 宏規)

    2019年9月9日

    1922(大正11)年「大毎」「東日」で松方コレクション展開催

     涼しくなってからと先週末、人気の松方コレクション展に行った。展示品に1922(大正11)年10月15~20日、大阪毎日新聞社の堂島新社屋3階で開かれた「松方幸次郎氏所蔵泰西名画展覧会」図録があった。

     97年前である。図録といっても、現在の色彩豊かなものにはほど遠いが、展示作品の作家は、ルノアール、ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、ミレー、レンブラント、ドラクロア、ドーミエ、クールベ、シスレー、ムンク……。松方がパリで購入した作品が神戸港に着き、その作品を展観したのだ。

     写真が、大毎の堂島新社屋。地下1階、地上5階、のべ12,200㎡。御影石を外壁に使った重厚な建物で、この3階が会場となった。

     この新社屋は、その年の3月に完成して、数々の落成事業を行った。サンデー毎日、英文毎日、点字毎日が創刊された。「泰西名画展」もそのひとつだったのであろう。

     社史を調べると、同じ3月に「社規として記者は和服を禁止し、洋服、社員章をつけさせる」とある。まだ和服が一般的で、洋服はハイカラだった時代である。

     11月には東京日日新聞の新館が完成、その記念事業として「泰西名画展」が開かれている。大阪から東京へ、松方コレクションが運ばれた。

     大毎はその11月に、「松方氏浮世絵版画展」を開いている。「泰西名画展」の第2弾である。

     さて、上野の西洋美術館で開かれている「松方コレクション展」(今月23日まで)。松方幸次郎(1866~1950)がヨーロッパで蒐集した作品約160点を展観している。

     HPによると、今回の見どころは——。
     ①オルセー美術館の至宝・ゴッホ《アルルの寝室》をはじめ、世界各地に散逸した松方旧蔵の名作が集結します。
     ②2016年にパリ・ルーヴル美術館で発見され、国立西洋美術館に寄贈されたことで大きな話題となったモネ《睡蓮、柳の反映》が現存部分の修復を経て、初めて公開されます。
     ③ロンドン、パリでの松方の蒐集の足取りをたどりつつ、散逸、焼失、接収…と苦難の歴史を歩んだコレクションの数奇な運命を明らかにします。

     入口のフロアに、モネ《睡蓮、柳の反映》の修復後が飾られ、会場の最後に上半分が失われた実際の作品が飾られている。

     是非、会場へ足を運んでください。

    (堤 哲)

    2019年9月1日

    生粋の銀座っ子・岸田劉生と毎日新聞の前身「東京日日新聞」

    麗子、麗子、麗子……

     没後90年記念「岸田劉生展」が東京駅丸の内北口にある東京ステーションギャラリーで開かれている(10月20日まで)。 「これまで数多くの岸田劉生展が開催されましたが、本展は初期から最晩年までの名品ばかりを厳選する、今後しばらく出会えないような、珠玉の劉生展を目指しました」とうたう。重要文化財《道路と土手と塀(切通之写生)》はむろん、名品の数々が展観され、麗子像だけでも30点近い。

     劉生は、岸田吟香(当時58歳)の第9子、4男として1891(明治24)年6月23日、東京・銀座で生まれた。銀座通りに面した目薬「精錡水」の「楽善堂薬房」で生まれ育った。

     生粋の銀座っ子である。

     1927(昭和2)年5月には、「東京日日新聞」夕刊1面に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題し、関東大震災から復興した「大東京繁昌記」を連載している。

    1927(昭和2)年5月24日「東京日日新聞」夕刊1面の連載第1回。絵は劉生の実家「薬善堂」

     銀座は1972(明治5)年の大火で灰燼に帰した。不燃都市を目指し、銀座通りの両側に赤レンガの洋風建築が軒を連ねた。銀座通りの幅15間(27・3m)は、その時の都市計画による。

     「薬善堂」の隣には、浅草から引っ越してきた「東京日日新聞」日報社があった。銀座2丁目、現在名鉄メルサのあるところだ。

     吟香は、その「東京日日新聞」の初代主筆。福地桜痴が1874(明治7)年秋に入社して、主筆を譲り、編集長となった。

     吟香は1905(明治38)年に亡くなる。72歳だった。

     劉生は東京高等師範学校付属中学の3年生、14歳の誕生日を迎える直前だった。

     吟香の葬儀をきっかけに、劉生は数寄屋橋教会に通うようになり、洗礼を受ける。独学で水彩画を制作するなかで、画家への歩みを始める。

     あとは、展覧会会場で鑑賞してください。

     11月2日から山口県立美術館(~12月22日)、来年1月8日から名古屋市美術館(~3月1日)に巡回する。

     

    (堤   哲)

    2019年8月30日

    濁水かわら版 89号:日本の戦争 24 中庵少尉の太平洋戦争(下)

    (中安 宏規)

    2019年8月26日

    毎日新聞出版が分社4年で黒字化!

     ネットを検索していて、思わぬ情報に出くわした。

     これはマスコミ専門紙「文化通信」の7月22日号の1面である。

     黒川社長は、大阪社会部の出身だ。京大法卒、85年入社。私も出席した大阪社会部100年のパーティー(2001年11月8日)のときはデスクだった。

     12年大阪本社編集局次長から東京に異動して出版局長。出版局が毎日新聞出版社に分社化された15年4月1日に社長となった。

     その時の宣言文が残っている。少し長いけど引用したい。

     ――戦後70年の節目にあたる2015年4月、毎日新聞出版は誕生しました。

     創刊143年を迎え、我が国でもっとも伝統のある毎日新聞社の出版局が独立し、新生の出版社が船出したのです。

     私たちが掲げる理念は「100歳までの幸福の追求」です。
     「世界一の長寿国」に暮らす私たちは、もっと幸せになれるはずです。
     幸福を享受する権利を有しているはずです。
     ところが現実はどうでしょう。胸痛むニュースが世の中を覆っています。
     100年 幸せに生きよう
     100年 未来を楽しもう
     そのためのエネルギーを詰め込んだ1冊の書籍や雑誌。
     私たちが全身全霊を打ち込んで世に問うのは、このような出版物です。
     読むたびに 心豊かに
     読むたびに 精気満ちあふれ
     読むたびに 知恵湧き出づる
     生涯にわたって真の友となるような、そんな出版物を1冊でも多く、読者の皆さまにお届けしたい。
     出版界はいま、かつてない激動の時代を迎えています。
     きのうまでの常識は、未来には通用しません。
     時代の風を敏感に嗅ぎ取り、出版社自らが変化する。
     送り手目線ではなく、受け手である読者が真に求める価値を提供する。
     そこに私たち毎日新聞出版が存立する基盤があると確信します。
     旧来の陋(ろう)習を破り、大胆なイノベーションを通じて、新たなる出版文化の創造に挑戦することを、ここに宣言します。

     2015年4月1日

    代表取締役社長 黒川昭良

     出版文化の可能性を信じたい。

    (堤  哲)

    2019年8月22日

    濁水かわら版 88号:日本の戦争 23 中庵少尉の太平洋戦争

    46.2歳で応召入隊した中安宏規の父親

    (中安 宏規)

    2019年8月5日

    クリッピングサービスの「内外切抜通信社」が元気だ

     元社会部の近藤義昭社長(77歳)によると、世界で最初の新聞切抜会社がパリで生まれたのが、今からちょうと140年前。1879年(明治12年)のことだ。

     日本では、それから11年後の1890年(明治23年)3月1日に「日本諸新聞切抜通信」が発足した。

     「一に時勢を知り二に自己の名誉信用を維持する、此社会に業を営む人々の須更も怠る可からざる所ならん、時勢を知ると信用を維持するの機関、即ち新聞紙にして一日新聞紙を讀ざれば一日の時勢に後れ、又一たび新聞紙に我名誉を損するの記事を載らるれば直に夫だけの信用を失ふ、故に新聞紙を閲読するは何人も必要とする所なり。(中略)切抜の通信に拠りて必要の事件を知り、時勢に遅れざるを得、又自己の信用を維持するを得る」

     これが設立趣意書である。近藤社長は、この3月1日を「切抜の日」と制定して、クリッピングサービスの重要性をPRしている。

     内外切抜通信社(本社:新宿区大久保、毎日新聞社早稲田別館)の創業は、80年前の1939(昭和14)年。周年事業の一環として、毎日新聞WEB版に企業紹介の記事広告を掲載している。

     人間国宝に内定した講談の神田松鯉師匠が見学する設定だ。https://mainichi.jp/sp/shori-kirinuki/report_01.html

     内外切抜通信社は、毎日新聞グループ会社のひとつである。

    (堤  哲)

    2019年7月20日

    濁水かわら版 87号:第25回(19年)参院選挙

    (中安 宏規)

    2019年7月25日

    「くりくり」シンボルマーク

     くりくり少年野球の開会式の写真を見て、びっくりだ。

     赤塚不二夫さんがつくったシンボルマークが、大会旗になって、入場行進に使われていたからだ。

    7月22日メットライフドームで

     毎日新聞が「くりくり」が創刊したのは、1977(昭和52)年5月28日。タブロイド判、16p。題字のうえにTeen’s Space, Go Go Go!!とうたい、左わきにタテに太字で「創刊号だッ」

     整理の鬼才諸岡達一(現在83歳、元気だ!)のレイアウトである。

     紙面の真ん中に、天才バガボンのパパが「赤塚不二夫がシンボルマークは作りますのだ!!」のイラストメッセージ。

     それからしばらくして完成したのが、上の写真にあるデカメである。お尻からガスが出ている。色はついていなかった。のちの編集部で彩色したのであろう。

    「くりくり」創刊号(1977年5月28日付)

     編集後記に編集部員のひとことが載っている。掲載順に安藤守人、有馬寧雄、河内孝、堤哲、三井順治、岩崎守男、前田佳一、小邦宏治、降幡金三郎、杉川誠一、諸岡達一。編集長・堀井敦夫。

     今から42年前です。

     シンボルマークの制作者・赤塚不二夫先生も喜んでおられると思います。

     そういえば私の結婚披露の会費制パーティーの写真に、くりくりTシャツを着て、参会者にお礼の挨拶をしている写真があったなぁ。

    (堤  哲)

    2019年7月23日

    京アニ事件の世界的反響を取り上げた半田コラム

     元英文毎日、元社会部記者の半田一麿さん(この27日で84歳)は、毎日時事コラム『today's joke』を仲間にメール送りしている。届くのは毎朝午前5時前。もう何年も続けている。ボケ防止のためという。

     以下は、半田コラムである。

    (堤  哲)

    7月21日 日曜日の『today's joke』——。

    京都アニメーションスタジオ放火事件に
          哀悼の意を表明する動きが世界的に広がる

    'Too painful': Kyoto anime fans join prime ministers in...

    京都アニメーションのスタジオ火災をめぐり、カナダのジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相(47)は19日、自身のツイッター上に、→「カナダ国民は、京都の放火事件の犠牲者の遺族に最も深い哀悼の意を表する」と書き込みました。日本国民に向けても「私たちはあなた方とともに、このような痛ましい犠牲について悲しんでいます」とのメッセー