新刊紹介

2022年12月5日

「竹槍事件」の新名丈夫記者編『海軍戦争検討会議記録』復刊

 ——副題は「太平洋戦争開戦の経緯」。敗戦後間もない1945年12月から46年1月にかけて、海軍首脳ら29人が参加して計4回開かれた座談会の記録だ。首相や海軍大臣などを歴任した米内光政の指示により、非公開で行われたものだった。座談会の記録を託された毎日新聞記者、新名丈夫の編纂により76年に刊行され、今回新書化された。

 参加者は、永野修身(おさみ)に及川古志郎、井上成美(しげよし)に吉田善吾ら。軍令部総長に海軍大臣、軍務局長や連合艦隊司令長官などの要職を務めた面々が名を連ねる。対米戦となれば海軍の役割が非常に大きい。しかしアメリカを屈服させられないことは分かっていた。軍部をコントロールできる政治家はいなかった。新聞をはじめとする言論も機能していなかった。避戦のかぎは海軍が握っていたのだ。率直に「戦えない」と表明していれば、戦争はできなかった(陸軍の一部には、対米開戦を避けるために海軍にそう表明してほしかった者もいた)。

 ではなぜ開戦に同意してしまったのか。どうすれば避けられたのか。海軍の戦争責任を懸賞する上で、貴重な資料だ。

 12月3日付け毎日新聞読書面「今週の本棚」の紹介記事である。編者新名丈夫(1906~ 1981)が書いた記事が以下の紙面だ。

1944年2月23日付毎日新聞朝刊1面

 この紙面に、東条英機首相は激怒、陸軍省に乗り込み「今朝の毎日を見たか。見たならなぜ、処分せぬか!」「毎日を廃刊にしろ」と叫んだという。

 37歳の新名は、丸亀連隊に懲罰召集された。新名は海軍省記者クラブ「黒潮会」に属していた。海軍がこの召集に抗議すると、陸軍は、新名同様大正時代に徴兵検査を受けた者から250人を丸亀連隊に召集して辻褄を合わせた。

 新名は3か月後、召集解除されたが、巻き添え召集の250人は後に硫黄島に送られ玉砕した。

 新名は、その後、海軍報道班員となり、敗戦を迎えた。

(堤  哲)