随筆集

2022年9月26日

人形浄瑠璃「文楽座」が開設してことし150年・銀座で文楽鑑賞

 人間国宝桐竹勘十郎が人形を操る「GINZA文楽」が 9 月 21 日、東京・中央区役所隣の銀座ブロッサム(中央会館)で開かれた。演目は『端模様夢路門松』(つめもようゆめじのかどまつ)。一人遣いの人形「つめ人形」の門松が、三人遣いの人形になって主役を演じる夢を見るという勘十郎が80年代に創作したちょっぴり切なく、ユーモアあふれる作品。

 門松が嘆く。「毎日~~、舞台へ出りゃ、どつかれたり蹴られたり頭にたんこぶ作らん日はないわい。みんなワイなぁ、一ぺんでもエゝ、三人遣いになってみたいんじゃ」

 解説を聞いてびっくりしたのは、ことし2022年は、文楽150年に当たるメモリアルの年であるということ。1872(明治5)年に、大阪の松島遊郭に「文楽座」が創設され、それから人形浄瑠璃が「文楽」と呼ばれるようになったのだという。

 この1872(明治5)年、「東京日日新聞」は浅草で創刊、「資生堂」は銀座で、「鉄道」は新橋—横浜間で10月14日(太陽暦)開通した。ベースボールもこの年に米国人教師から伝わったとされる。文明開化の世の中だった。

 「GINZA文楽」は、この毎友会HP編集責任者の高尾義彦さんのあっせんで、OBの磯貝喜兵衛さん(93歳)、元日本記者クラブ事務局長・中井良則さん(69歳)、編集局の事務・経理を取り仕切っていた国井道子さんと共に鑑賞したが、大阪社会部育ちの磯貝さんは「私の知っている文楽は、大阪の四ツ橋にあった」と話した。

 調べてみると、「文楽座」は、その後、御霊(ごりょう)神社(大阪市中央区淡路町5丁目)→1927(昭和2年)に「四ツ橋文楽座」がつくられている。1956(昭和31)年、四ツ橋から道頓堀(のちの「朝日座」)→84(昭和59)4月に大阪日本橋に国立文楽劇場が開場した。

人間国宝・桐竹勘十郎
「門松」が主役の「GINZA文楽」のチラシ

(堤  哲)

2022年9月20日

元西部本社編集局長、篠原治二さん(91歳)から 茫々記「吉展ちゃん事件」異聞・番外編続報

他紙との競争にとどめを刺した遺体発見のスクープ

円通寺の写真が掲載された1965(昭和40)年4月5日朝刊社会面

 もう一つ、私が放った特ダネ、吉展ちゃんの遺体発見のニュースは、一連の毎日報道の勝利に花を添えるものであった。そのことには一切触れずに、9月のはじめ私は堀越章さんに手紙を出した。

 ただ、あの頃が懐かしいとだけ、書いた。ところが、堀越さんはちゃんと覚えていてくれた。すぐに返信があった。

 「あの日、篠さんが下谷方面のお寺に片つぱしから電話をいれ、円通寺につながったとき、住職の奥さんが、『いま吉展ちゃんの遺体が、うちの墓地から見つかりました』と答えてくれた。これが大特ダネになりました」

 堀越さんの手紙は、冒頭こうであった。

 あの日とは、小原保が自供をした昭和40年7月4日である。私は、たまたま警視庁クラブで宿直をする日に当たっていた。防犯担当という地味な持ち場であり、堀越さんら捜査一課担当の若手の活躍をいつも横に眺めていた。

 遺体が出た場所を「エンツウジらしいよ」と囁いてくれたのは、防犯部の部長刑事、通称荏原の人である。スパイ合戦みたいに、そのようなコード名で呼んでいたが、警視庁のどこでひそかに会っていたのか、記憶はぼけていて思いだせない。

 急いでクラブに戻り、道村博キャップに報告すると、電話作戦が始まった。なんと、エンツウジとう名前だけで20か30カ寺あるのには驚いた。運よく10箇所もいかぬうちに、南千住の円通寺にであい、しかも住職夫人との会話は、何者かによりさえぎられた。

 きっと、捜査官が横にいて、打ち切ったのだ。

 「キャップ、間違いありません」

 堀越さんの手紙は続ける。

 「以後、同寺の電話は『話し中』となって通じなくなりなり、寺の周辺は機動隊が封鎖したため、他社は明け方、4時過ぎの発表まで手が出ない、忘れられない篠さんのホームランでした」

 私は、畏友、堀越さんに褒められたことが、この年になってもたまらなく嬉しい。

 電話で突き止めたのは、4日の夜7時ごろと記憶している。少なくとも早版だけは勝ったつもりだ。「シロ」から「クロ」へと揺れ動いた2年3ヶ月の報道をみて唸ったことは、道村キヤップの緻密さと粘っこさだった。かつて、捜査一課担当の名記者といわれた人だったが、二課をやらせても成功したであろうと思っている。

 これらの茫々の記には、いまにつづく後日談がある。若き日の堀越記者が、あるときは家の床下にまで潜りこみ、真相を追求した捜査責任者、武藤三男氏はその後、捜査一課長になり、さいごは警視庁参事官までものぼりつめ、亡くなる。

 その長女の結婚では仲人までつとめ、武藤氏が亡くなったあとまで家族ぐるみの付き合いが続いているそうだ。かつて、夜回りの記者へむけ「父を寝かせてください」と門柱に張り紙をしたあのお嬢さんたちも、孫をもつ初老の主婦になった。

 「思えば長い時間が経ちました」と、堀越さんは手紙に書いていた。

(東京社会部OB 篠原 治二)

2022年9月15日

ハワイの日本語新聞「日刊サン」のニュースコラムが50本に――元社会部司法記者の報告

 ハワイで発行されている日本語新聞「日刊サン」に3年程前から寄稿を頼まれ、毎月1本(当初は月に2回)、メールで原稿を送り、「高尾義彦のニュースコラム」として掲載され、14日で50本になった=写真。97歳になった大先輩、牧内節男さんにはとても及ばないが、「書くこと」にこだわり、発信の場に恵まれたことに感謝している。

 この企画は、定期的に赤坂で飲み会を開いてきたグループのメンバーの一人、TBSシニアコメンテーター、川戸惠子さんから持ち込まれた。当時は川戸さん自身がコラムを執筆していて、寄稿者を増やしたいとのことで、気軽に引き受けた。

 2019年6月がスタート。「宇宙かあさん」として参院選に立候補を予定していたJAXA(宇宙研究開発機構)の水野素子さんが、赤坂の飲み会に飛び入りして一緒にカラオケなど楽しむ機会があった。そこで第1回目のテーマは「参議院議員にもっと女性を」に決めて、1回2000字ほどのコラム執筆を始めることになった。水野さんは今回の参院選で立憲民主党から立候補し神奈川で当選している。

 2回目からのテーマを並べると、「蝉が鳴く頃」(2019年7月)、「大嘗祭と阿波忌部」(同)、「八月ジャーナリズム」(8月)、「緑の宝石 スダチの季節」(同)、「裁判員裁判10年経って」(9月)、「三陸鉄道に乗って」(同)、「銭湯は減る一方だけど」(10月)、「日本の童話 100年の歴史」(同)、「国家機密と新聞」(11月)、「帰ってきた寅さん 今年映画は」(同)、「連句の楽しみ 奥の細道330年」(12月)、「人間みなチョボチョボや」(同)。

 出身地の徳島に関する話題や、40年近く前の開通時に取材し東日本大震災の被害からも立ち上がった三陸鉄道、生前付き合いのあった作家、小田実さんの話など、テーマは自分が専門としてきた司法にとどまらず、あちこちに手を広げた。小学校時代の同級生二人とメールで楽しむ連句(歌仙)は212巻に達した。

 2020年に入ると、「特捜IR捜査の光と影」(2020年1月)、「東大安田講堂事件から半世紀」(同)、「日本の美術館が進化する」(2月)、「法匪!? 検事総長候補の定年延長」(同)、「ハワイにも咲く今年の桜事情」(3月)、「皇居のお濠、きれいな水に」(同)。

 黒川弘務検事総長実現のために安倍政権が法律を無視しようとした事件では、事態が動く可能性があったので掲載時期を早めてもらった。すると直後に、国家公務員法の定年延長規定を検察官にも適用する、との方針が当時の安部晋三首相から示され政治問題化し、その後は「麻雀報道」などの展開となった。ハワイの桜は、知り合いのボタニカルアーティスト、石川美枝子さんたちがハワイで開催した植物画のグループ展を取り上げた。

 ここまでは毎月2回の掲載だったが、新型ウイルスの感染拡大で経営に打撃を受けた「日刊サン」は、「紙」の新聞を週2回に減らし、デジタルに重点を移した(その後、「紙」は一時、発行休止に)。寄稿回数も月に1回となった。

 この時期のテーマは「春の四国路 お遍路さんが行く」(4月)、「香川県豊島の自然と花を見る会」(5月)、「アウンサンスーチーさん」(6月)「辺野古と沖縄の民意」(7月)、「どこへ行った?女性天皇論」(8月)、「日本の陶芸 苦境を超えて」(9月)、「田中角栄元首相と菅義偉新首相」(10月)、「リニア中央新幹線、ちょっと待って」(11月)、「タネは誰のもの? 種苗法改正、さらに議論を」(12月)。

 2021年に入って、「核兵器禁止条約発効、日本はどうする?」(1月)、「日本の裁判、IT化と課題は」(2月)、「東日本大震災から10年、いま考えること」(3月)、「本気で原発に代わる新たなエネルギー政策を」(4月)、「女性が輝く時代へ、一歩でも前へ」(5月)、大丈夫か?デジタル庁9月発足」(6月)、「沖縄戦犠牲者の遺骨と辺野古埋め立て」(7月)、「東京五輪パラリンピックから総選挙へ」(8月)、「どうなる将来のエネルギー選択」(9月)。

 この年の10月から「紙」の新聞を毎週土曜日だけ復活させ、コラムはデジタルにオンした週の土曜紙面に掲載されるようになった。

 「桜を見る会疑惑と検察審査会」(10月)、「将来のノーベル賞学者を育てるために」(11月)、「瀬戸内寂聴さん、辻元清美さん……」(12月)、「天皇制度の将来を考える年に」(2022年1月)、「ノーブレス・オブリージュを、天下分け目の関ケ原で考える」(同)、「日大事件後、どうなる私立大学のガバナンス」(2月)、「徳島・上勝町のゼロ・ウエスト運動を世界に」(3月)、「ドバイ万博から大阪・関西万博へ」(4月)、「沖縄復帰50年、本土が引き受けるべき責任は」(5月)、「IT化目指す日本の司法、現状の課題は?」(6月)、「日本の寄付文化はどう変わって行くのか」(7月)、「国交回復50周年、中国とどう付き合うのか」(8月)。

 堅苦しいテーマも、できるだけ自分の体験などを盛り込んで、取っつきやすくと心がける。検察審査会の審査員だった経験、99歳で亡くなった同郷の瀬戸内寂聴さんとは、中坊公平さんの取材に関連して、俳人鈴木真砂女さんが経営していた銀座・卯波でお酒を飲んだ話、辻元清美さんとは彼女が早稲田大学の学生で「ピースボート」を立ち上げた頃から取材した歴史。日大事件では、学生時代に初代若乃花の娘さんの家庭教師をしたこと(二子山部屋の土俵を、その後、日大相撲部が使用)……。関が原では、美術や文化の支援に力を入れる関ケ原製作所元社長、矢橋昭三郎さんの要請で、旧知の彫刻家、杉本準一郎さんとのトークイベントにも招かれた。

 今後、いつまで続けるか見通しは立たない。「日刊サン」の社長兼編集者の平山由美子さんから「今後ともよろしく」とメールをいただいている間は、あれこれネタを探して。付け加えると、これらのコラムは今春30巻でフィナーレとした季刊同人誌「人生八聲」に転載し、雑文と俳句を集めた自費出版の『無償の愛をつぶやく Ⅲ』(2020年6月刊)にも収録してきた。

 50回目のテーマは「読書の秋 どんな本を読もうか」。

 「日刊サン」https://nikkansan.net/  のページを開いて、「ニュースコラム」を検索していただければ、バックナンバーを読めます(WEB掲載スタイルは流し込み)。

(元東京社会部 高尾 義彦)

2022年9月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その21(後編) 谷中の清水と鶯の初音(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 地名は大事である。その土地の埋もれた歴史を掘り起こす糸口になる。

 私の生まれ育った集落の地名は小沼という。別称があり、シギダともいう。

 家の前から太平洋が見渡せる。海までは800メートル弱の距離。正面には伊豆大島が間近にせまり、西側には伊豆半島が横たわる。いまは耕作放棄地が歯止めもなく増えつつあるが、起伏のある斜面に拓かれた不定形な畑と棚田の景色は子供心にも美しかった。その奥に低い砂地の丘陵が続き、その丘陵のさらに奥に白い波頭が見え隠れする。

 小沼という地名は、海岸の近くに沼があったことによるらしい。そこを開墾し水田に変えたのである。別名のシギダは、念仏講の教本などでは鴫田と漢字を充てている。シギは水辺の渡り鳥である。遠浅の砂浜をハマシギが群れをなして乱舞するのをよくみかけた。海辺の田んぼでシギの仲間が遊んでいたとしてもおかしくない。田植えの時期は水辺の鳥類が渡ってくる季節とかさなる。

 海岸まで約200メールの東西の端に両墓制の埋め墓(タチューバ)と弁財天があった。そこが昔の海岸線らしい。その奥の丘陵は、いつのころなのか分からないが、大地震による隆起だといわれる。そのあたりの畑は土壌が砂地で、形が規則正しい短冊形になっている。村の言い伝えによれば、明治か大正のころ、村中総出で開墾し、それを均等に配分したとのことである。

三埼坂。明王院門前の長屋。1階を店舗に改造している。台東区谷中5-4。2022.03.30

 話をもとに戻そう。谷中には谷中清水町のほかにも、実に興味深い地名がある。その代表格が谷中初音町である。これも明治に作られた旧町名である。谷中初音町(1-4丁目)は、現在の谷中(3丁目、5-7丁目)にほぼ相当する。

 JR日暮里駅から谷中方面に向かうと、線路を超えたすぐ先が御殿坂である。この坂道を進んで行くと、道が二又に分れる。まっすぐ進むと、夕焼けだんだんの石段がある。そのすぐ先が東京下町の観光名所として人気のある谷中銀座である。 こちらの道ではなく、二又の左手にあるひっそりした坂道に入る。これが七面坂で、江戸時代からの旧道である。坂を下ると長楽寺が左手にあり、その先のT字路を左折すると、右手に宗林寺がある。それより先は緩やかな下り坂がしばらく続く。これが六阿弥陀通り(六阿弥陀道)で、およそ400メートル先の三埼坂(大円寺)で、都道452号・白山神田線(谷中道)に合流する。

 六阿弥陀通りの途中に、都立岡倉天心記念公園がある。向いの路地に谷中初四会館(谷中初四町会会館)がある。またこのあたりには、区立の公民館や図書館が置かれ、初音の森という防災広場も併設されている。谷中初四会館の初四は、この地域の旧地名である谷中初音町四丁目のことだろう。防災広場の初音もこの旧地名に因むに違いない。

 そんなことから、谷中初音町四丁目について『日本歴史地名体系13 東京都の地名』で引いてみると、思ってもみなかったことが書いてある。

 安政三(1856)年の尾張屋版切絵図では大円寺の北に「御切手同心」と明示されている。町内に鶯谷とよばれる所があり、初音町の名はその鶯の初音にちなんだといわれる。鶯谷は七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷で、この鶯谷へ下る坂を中坂といった(御府内備考)。

 そこで今度は、同書のいう「安政三(1856)年の尾張屋版切絵図」、すなわち『江戸切絵図』「根岸・谷中・日暮里・豊島辺図」を見てみる。

 絵図の東南側に「東叡山御山内」が描かれていて、その北西に「天王寺」(谷中天王寺)がある。天王寺北側の道が御殿坂である。道を隔てて「本行寺」・「経王院」(経王寺)。そして御殿坂と諏訪台通りが交差する斜向かいに七面延命院(延命院)がある。七面坂の名はこの寺院に因む。

 『御府内備考』は幕府の手になる史書で、1829(文政12)年に完成した。同書のいう中坂というのは、七面坂下の「宗林寺」・「長楽寺(長明寺)」から「御切手同心屋敷」に通じる坂で、現在の六阿弥陀通り(六阿弥陀道)のことである。「御切手同心屋敷」の「切手」は通行証のことで、江戸城の切手御門で大奥への出入を監視する下級役人の組屋敷が谷中にあったのである。

 『江戸切絵図』で六阿弥陀道をたどると、「宗林寺」と「御切手同心屋敷」の間に田地(百姓地)がある。『御府内備考』のいう「七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷」とはこの田地のことをいうのではないかと思われる。六阿弥陀通りと併行する形で、西側の低地を流れていたのが藍染川で、先にも書いたが、現在のよみせ通りがその流路跡になる。

 『谷中初四町会』のホームページによると、谷中初四会館が建っている場所は、切手同心の組屋敷跡であるという。上記のように、都立岡倉天心記念公園が六阿弥陀通りに向かいにあるが、ここは『江戸切絵図』では「酒井甚之介」と記されている。あるいは鶯谷と呼んでいた範囲にこの武家地も含まれていたのかもしれない。

 というのも、鶯谷については『江戸砂子』にも言及があり、同書は鶯谷の範囲を『御府内備考』よりもっと広く捉えているからである。

 〇鶯谷 溝口家下やしきの向。寺院七ケ所ある谷なり。いつのころにや、東叡山の宮より京の鶯数多放させたまふは此所なりとぞ。いまに至て音色すぐれたりといふ。

(以下略)

2022年9月9日

元西部本社編集局長、篠原治二さんから、茫々記「吉展ちゃん事件」異聞・番外

 吉展ちゃん事件のときの警視庁クラブのメンバーが、堀越章さんの原稿の最後にあった。当時の年齢を入れて、再掲すると——。

 ▽キャップ:道村博(当時42歳、2002年没79歳)
 ▽捜査一・三課・鑑識担当:堀越章(33歳)・小石勝俊(27歳)
 ▽捜査二課:桜井邦雄(36歳、1988年没59歳)・今吉賢一郎(28歳)
 ▽捜査四課:寸田政明(36歳、2003年没74歳)
 ▽公安・警備:森浩一(30歳)・原田三朗(30歳、2017年没82歳)
 ▽防犯:篠原治二(34歳)
 ▽交通:鳥井守幸(33歳)

 皆さん若かった! 57年前だから当然か。

 元西部本社編集局長・篠原治二さん(91歳)にメールで知らせると、以下の返信があった。

 ——RKB(元社長)の永守良孝君から小原保事件を堀越さんが書いていますよ、と電話があり、ホームページをあけてびっくりでした。さつそく、堀越君には手紙を書きました。

 森浩一さんの社会部回想記も、楽しく読ませてもらいました。

 寸ちゃん(ぼくより年上ですが、ほぼ同期入社です)は、思い出たくさんです。ネタとり名人で、おそらく日本最強の事件記者と思います。

 警視庁担当は、ぼくより1年ばかり早く、かれからマル暴取材を引継ぎました。そうした関係で、夜回りの哲学みたいなこと(寸田流は、まず夕方になると、ばりっと糊の効いたYシャツに着替えたこと。相手の刑事に最高の敬意を表した)をいろいろ教わりました。人たらしというか、警視庁の名だたる刑事からスパイもどきでマル秘文書をとってきたこともあり、だれもかなわんなぁと思ったものです。

 今吉賢一郎君も懐かしいですね。無口なのに、どうすればネタが取れるのか、警視庁クラブの七不思議。歩く姿は鉄人28号と評されました。

 ところが、数年前、「ゆうLUCKペン」誌でガード下の女について、小説仕立てで書いている文章を読んで、見事に才能を隠していたのだと一驚しました。

 今もそうかもしれませんが、僕たちのいたころの社会部同人には、優れた人たちが一杯いましたね。ぼくは多くの師匠に恵まれたことを感謝しながら、ついつい長く書いてしまいました。

 東京の毎友会ホームページは、紙の社報のころより、はるかに面白くなったと思います。最近は西部の訃報や、近況だよりに場所を貸していただき、感謝申し上げます。

 これからもどうぞよろしく。

シノハラ ハルジ

*ネットを検索すると、篠サンのこんな写真が見つかりました。大分若い感じですが、参考までにアップします。

(堤  哲)

2022年9月5日

茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(5)最終回

 素直(すなお)は美徳である。が、事件記者にそれを求めるのは、お門違いというものだ。仕事相手である捜査員の言葉を額面どおりには信じない。疑い深く裏付けをして確かめる。性格が悪いと軽蔑されることもあるが、それが事件記者の稼業なのだ。

 7月3日夜、「小原捜査」の責任者である武藤三男の言葉も、記者の「業」が信じさせない。帰宅する車の中で決めた。明朝といっても数時間後だが、もう一度、武藤を打つ。

 7月4日朝8時。武藤宅を訪ねた。夫人が出てきた。「あーら堀越さんお早いのね。主人は出掛けたのよ」「どこにですか」「実はね、つい最近なんだけど親戚に法事があったのよ。でもあの騒ぎでしょ。行けなかったのよ。今日は日曜日だし、遅れ馳せながらお線香をあげに……そのおうちは千葉なのよ」。絵にかいたような内助の功に頭を下げた。数時間前に「お互い疲れた。今夜はゆっくり寝よう」と言った本人が、寝るどころかお出掛けだ。行く先は決まっている。やっぱりそうだった。疑念は確信になった。小原が落ちた。間違いない。近くの公衆電話に走った。道村キャップは電話口で言った。「わかった。すぐに落ち合う」

 小原保に対する捜査はこの日の夕方から一変した。「捜査終了」が「続行・新展開」になった。

4日18時40分   身柄を東京拘置所から警視庁に移す。
19時35分   誘かい、恐かつ、殺人死体遺棄容疑で逮捕。

5日2時40分   自供どおり東京荒川区南千住の円通寺墓地で吉展ちゃんの遺体発見。
4時20分   遺体発見の発表(中原総監)

1965年7月5日朝刊1面左肩(トップは参院選開票結果)

 小原に変化が見え出したのは捜査一課長が取調べの打ち切りを発表した数時間後。事件とは直結しないことで小原が軽口のようにしゃべった<とても小さな事実>について「それ違うよ。こういう証拠があるんだよ」と指摘しているうちに、顔色が変わってきたという。犯行の大筋を認めた(自供)のは夜10時過ぎ。武藤が自宅応接室で受話器をとり、「いまお客さんだ」と言って切った電話は、小原自供を報告するものだった。また、4日朝、武藤夫人が台本を読むように口にした「千葉の法事」は、想像どおり武藤の振り付けだった。

 発生から解決まで2年3ヶ月の「吉展ちゃん事件」は土壇場の劇的大逆転で終る。捜査ミスの連続。公然の風説となっていた迷宮入り。あげく苦しまぎれのあがきとまで陰口された「小原捜査」が土俵ぎわの一瞬で「シロ」を「クロ」にした。

 テレビは番組を変更して小原の取調べ状況を終夜、リアルタイムで放送した。視聴率は60パーセントを超えた。長い間、警視庁捜査一課に向けられた怒号と怨嗟の声は、この夜が明けると称賛の拍手になっていた。

 この事件がいかに社会的関心を集めたか。象徴的なエピソードを紹介する。時の佐藤栄作首相は「小原捜査」に当った捜査員と刑事部幹部を官邸に招待し、「日本警察の威信を回復させた」として総理大臣表彰したあと盛大な祝賀会を開き、労をねぎらった。このような例はない。

首相官邸で佐藤栄作首相と懇談する捜査員。左から武藤三男捜査一課筆頭課長代理、槙野勇刑事部長(後の警視総監)、堀越、佐藤首相

 また毎日新聞社は狩野近雄東京本社編集局長主催で祝宴会を開き、捜査一課長ら捜査員をレストランに招待した。

 茫々のベールをはぐようにして記したこの異聞。冒頭で「老兵の自慢話にならぬように書く」としたが、自慢話とは真逆、詰めの甘い事件記者落第記になってしまった。(敬称略)
おわり

(東京社会部OB 堀越 章)

 追記

 毎日新聞社が所属する警視庁の記者クラブは「七社会」という。通称で「ななしゃ(七社)の毎日」と呼ぶ。当時のメンバーは以下のとおり(カッコ内は担当)

 (キャップ)道村博(二課)桜井邦雄・今吉賢一郎(防犯)篠原治二(四課)寸田政明(交通)鳥井守幸(公安・警備)森浩一・原田三朗(一・三・鑑識)堀越章・小石勝俊。小原捜査の担当は堀越・小石に加え森・原田を投入。当初から4人体制とした。これが効率的に機能した。

2022年9月1日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑤太平洋戦争と活版工

 一昨年秋、NHK「趣味の園芸」編集長・阿川峰哉さんが、戦時中の毎日新聞広告局にいた祖父が保管していた資料を提供したい、と明珍美紀さんに連絡があったそうです。明珍さんの要請で、共同通信OBの丸山重威さん、毎日新聞外信部OBの永井浩さん、毎日新聞労組書記OBの水久保文明さんと一緒に、その資料を見せてもらいました。

 その中に、昭和20年4月4日付の「編輯関係職員録・毎日新聞社(東京)」と、昭和20年3月1日付の「毎日新聞社工務局人名一覧表」がありました(下記写真)。この2枚の名簿をコピーさせてもらってよく見ると、編集名簿には「南方新聞局」があり、「工務局人名一覧表」には、活版部6、写真製版部1、印刷部4の11人の「南方出張」者がいます。

 太平洋戦争中、東南アジアの「占領地」で新聞を発行していたことは、派遣された活版OBから聞いたことがあります。また2020年7月から伊藤絵理子さんが毎日新聞で25回連載した「記者 清六の戦争」の第19回に「マニラ新聞」のコピーが掲載されていました(下記写真)。ではどこでどのようにして活版刷りの新聞が発行されていたんだろうかと、少し調べてみました。

東日(大毎)は「マニラ」と「セレベス」で発行

 毎日新聞百年史392㌻に「10 占領地で新聞を経営」と題して以下の記事があります。

 「昭和17年10月、陸軍では南方占領地区の文化宣伝工作のため現地新聞の経営を内地の有力新聞社に委託することになった」。そして「南方陸軍軍政地域新聞政策要領」には「現地に設立せらるべき新聞社の担当地域は左の通りである。(イ)東京日日(大阪毎日)新聞社=比島(ロ)朝日新聞社=ジャワ(ハ)読売報知新聞社=ビルマ(以下略)」とあります。

 この方針に従って毎日新聞は「東西3社の精鋭をすぐって現地に派遣し、10月12日T.V.T新聞社の委託経営に着手し……11月1日からは「マニラ新聞社」として邦字新聞のほか英語、スペイン語、タガロク語の3新聞を発行……」となりました。

 続いて12月には、海軍軍政地域でも同じような措置が取られ、毎日新聞はセレベス(現インドネシア領スラウェシのオランダ占領時代の名称)、朝日はボルネオ、読売報知はセラム地域を担当しました。

 毎日新聞はマニラとセレベスを担当したことがわかりましたが、前記工務局人名一覧表にある「南方出張」の11人はどちらに派遣されたかは不明です。わずかに活版から派遣された6人のうち、小河原道春、高尾一男、小林松雄の3氏は、定年退職にあたって社報に書いた回想記に、セレベス時代のことを書いていますが、他の3人はありません。印刷部から南方に派遣され、後に役員となった長谷川勝三郎さんや、古川恒さんが、当時の社報か新聞協会の出版物に当時のことを書いているかも知れません。

 南方に派遣された工務局員は名簿で見る限り11人しかいません。11人だけで活版制作新聞ができるわけがありませんので、現地邦字紙の活版工や印刷工を指導して新聞発行にあたったのではないかと想像します。

南方に派遣された記者たちの苦闘

 一方、新聞記者たちの行動は「清六の戦争」で経過や実態が分かってきましたが、戦後レッド・パージで毎日新聞を追われた三上正良さん追悼集によると、三上さんは、ジャワの「大毎・東日バタビア支局」に派遣されています(下記写真)。これは陸海軍の要綱に基づく派遣ではなく大毎・東日の特派員でした。三上さんは「故国の皆さんへ 兵隊さんから慰問袋 ミルク・砂糖・純綿・革類・肉罐など 忘れませんぞこの真心」(昭和17年3月27日)などの記事を送ったとあります。

 工務局人名簿には「南方出張」とありますが、「編輯関係職員録」には、記事を送った記録がある社員の三上正良さん、マニラ新聞出向の伊藤清六さんはじめ南方に派遣された記者たちの名前はありません。伊藤清六さんは6月30日に餓死し「神州毎日」を発行した毎日新聞関係者は一人も生還できなかったと「清六の戦争」にあります。

 今になって、在職中に活版で指導を受けた小河原道春、高尾一男、小林松雄さん、そして毎日新聞再建闘争時に、日本ジャーナリスト会議事務局長だった三上正良さんに、当時のことを聞いておけばよかったと後悔しています。

 軍部の要請で占領地での新聞発行に協力したことの是非を含めて「戦争と新聞」についてはまだ調べるべきことがあると思います。

(福島 清・つづく)

昭和20年4月4日付の「編輯関係職員録・毎日新聞社(東京)」と、昭和20年3月1日付の「毎日新聞社工務局人名一覧表」
「清六の戦争」第19回が紹介している昭和19年10月9日付「マニラ新聞」。活版で制作されたことが分かる
ジャワの「大毎・東日バタビア支局」前で、1942年撮影の写真。右端が三上さん)

2022年9月1日

茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(4)

 時間は容赦なく流れる。小原は落ちない。2週間と制限された取調べの期限は7月3日。その日がきた。警視庁刑事部は午前中に「小原捜査」をどうするかの会議を持った。ここで取調べの中止を決める。午後、捜査一課長が記者会見し発表した。

 ――本日をもって小原保の取調べを中止します。終了です。ただし、吉展ちゃん事件の捜査は専従班で続けます――

 小原は再び「シロ」となった。

 「取調べ中止」と課長が言った瞬間、多くの記者がボクに視線を向け、会場を出る何人もの記者が「おわった。終った」とため息のようなつぶやきを口にしていた。

 テレビ・ラジオは速報を流し、夜のニュース番組は大々的に報じた。ちなみに翌朝の各紙は社会面トップで「小原はシロ 捜査は終了」「吉展ちゃん事件は迷宮入り」といった大見出しが躍った。毎日新聞は社会面3段で「事件捜査は続行」だった。

 その夜、武藤宅を訪れた。前夜まであれほど群がった記者はいない。応接室で向い合った。ずっと引っ掛かっていることがあった。捜査が攻めていない感じがしていた。いくつもの傍証を束ねて補強した「ガチガチの事実」をふところにしていて機をみてたたみかける八兵衛流が見えない。これまで捜査側は、新事実はないと言ってきたが、あれは本音だったのか。密かな隠し玉を持たずに「火中の栗」に手を出したのか。そんなはずはない。

 武藤は「結構、きびしい調べをしたんだ。だけど結果は発表どおりだ」をくり返すばかり。押問答になった。これ以上は取材ではなくなる。帰ろうとした。その時、電話が鳴った。午後10時を回っていた。武藤が受話器をとった。「ご苦労さまでした。いまお客さんだ」。それだけで切った。「いまの電話は……」「ああ、小原を調べた部屋などの跡片付けがすべて終ったという報告だ」。そんな報告を夜中にするわけがない。「小原になにかありましたね」「取調べは記者発表と同時にやめたよ」「課長の発表は本日をもってという表現でした。まだ、その本日の時間内でしょう」「それは理屈だよ。課長が発表したとおりだよ」「小原が落ちた」「そんなうまい話はないよ」「自供でしょう」「くどいな」。会話ではなく口論のようになる。「堀越さん、あんた、この50日以上ほとんど寝てないだろう。疲れているよ。私も同じだ。とにかく小原については終ったんだ。今夜はお互いゆっくり寝よう。もういいだろう」。仕方なく立ち上がった。

 頭の中で武藤が口にした「いまお客さんだ」がぐるぐる回る。あれば<いま夜回りの記者がいる。あとでこちらから電話する>の意を込めた応答だったはずだ。このままでは帰れない。

 門を出ると砂利道である。砂利を踏みしめ、ザックザックと靴音をたてて歩いた。70㍍ほどで広い道路に出る。曲り角を折れて20㍍ほど進む。靴を脱いだ。今度は砂利のない端をゆっくり逆もどりし、いま出たばかりの門をくぐった。右側に回ると応接室の出窓があり、その下に潜り込んだ。頭上近くに電話機があるはず。20分ほどたった。近くの植木がボーと明るくなった気がした。すぐに光の輪が照度を増した。懐中電灯が出窓の下に向けられた。「そこにいるのは、どちらさんですか」。なんとも丁寧な言葉づかい。武藤が立っていた。

 「堀越さん……何度もくり返すが、取調べは終ったんだよ。拘置所の部屋をいくつか借りていたので跡片付けといっても時間がかかるんだ……その辺に車を停めてあるんだろう。そこまで送るよ」

 深夜の砂利道を異なる思惑を抱いた捜査と報道が肩を並べて歩いた。(敬称略)

(東京社会部OB 堀越 章)

小原自供であわただしい「七社の毎日」。左から時計まわりで道村博、小石勝俊、堀越、寸田政明、森浩一(7/4〜7/5)
左から時計回りに森(後ろ向き)、道村キャップ(立っているランニング姿)、寸田、篠原治二、小石(新聞を読んでいる)

2022年8月30日

「我に一斑の恩義ありー―鈴木棟一を偲ぶ」山本茂さんの思い出

 東京オリンピックがひらかれる昭和39年3月、私は残雪の札幌駅を発った。上野駅は桜だった。迷いつつやっと有楽町の東京本社にたどりついた。ほうほうのていである。初めて紺のスーツが身にしっくりしなかった。私はひとりエレベーターで最上階まで上がった。東京というところを俯瞰したかった。屋上に立つと東京が一望できた。私は片足をぐいと格子にかけて「こいつを征服してやる」と呟いた。ものを知らないにもほどがある。世に俊秀はごまんといる。おぬしごときの凡才が、花の東京を征服できるはずがない。稚戯、笑うべしである(と今ならそう言える)。

 あまたある同期生の中にひときわ目立つ偉丈夫がいた。長身、広い肩幅、褐色の肌、切れ長の目はやや吊り上がって眼光が鋭い。後頭部が絶壁なのは典型的なモンゴル種だ。元寇の役、こんな奴らが博多湾岸に攻め込んできたのだろうな、と思った。ある日、当人に言った。「おまえを見ていると、先祖が蒙古高原からやってきたことがよくわかるな」。男はいささかも動ぜず「面白いことを言うね」と破顔一笑。その笑顔が石原慎太郎みたいだった。銀の匙をくわえて育ったであろう少年を思わせた。鈴木棟一である。

 自分とまったく異なる私が“北方の珍動物”のように見えたのか、親しげに接するようになった。「おい、昼飯を食いに行こうや」などと誘う。こいつ一体、何者なのか、と訝しかった。研修期間中に父親が急死したらしいことも知った。たまたま手にしていた弔文を覗くと「御令息様」とある。からかって「おお、御令息かい」。鈴木はまたも動ぜず「そういう風に書くもんだよ」とにべもない(私は礼節もわきまえない野蛮人なのだ)。父親は読売新聞の政治記者だと言っていた。ずいぶん早く実父を失ったことになる。兄弟のことは聞いたこともないから一人っ子なのだろう。どんなに大事に育てられたことか。彼の野放図な我がままぶりもそこから来ているに違いない。しかし、父親はかなりの傑物だったらしく、棟一は幼くして漢籍を叩き込まれ、意味も分からぬまま素読をさせられたと言う。おかげで長じても漢学の知識があふれるようだった。のちのことだが、私が他人とよくぶつかり合い、喧嘩することにいささか悩んでいると知った鈴木は「英気あれば圭角あり、だよ」と言った。その一言が自己嫌悪からどれだけ救ってくれたことだろうか。

 研修期間も後半になったころ、鈴木が中心になって「箱根一泊旅行」が企画された。親しくなった6人ほどで大涌谷の本社保養所に泊り、芦ノ湖まで土・日かけての旅である。いずれも私には初体験のことばかりだった。保養所では朝方まで喧々諤々の議論となった。60年安保世代のコミュニズムの洗礼を受けた私は勇ましかったが、根っからのナショナリストの鈴木も超然として怯まなかった。対立したとはいえ、何ほどのことがあろうか。どっちにしても、へなちょこの“理論”でしかなかったからだ。

 約50日間の研修が終わると、私と武藤完は青森支局、鈴木は名古屋本社の津支局(三重県)の配属となった。人事担当は、鈴木は見るからにタフそうだから、どこへ飛ばしても平気だろうと思ったのだろう。それっきりの別れとなったが、2年目の夏休みにひょっこり青森支局へ訪ねてきた。カンカン帽をかぶって、どこのお大人かと思うような素性不明の格好だった。三重県から長旅も苦にせずに「きみに会いに来た」と嬉しいことを言うのである。こいつ、ちょっと人恋しがるところがあるのか、と思った。早く父を亡くしたせいでもあろうか。入社1年もしないで結婚した我が新婚家庭で夕飯を食った鈴木は、深夜出航の青函連絡船で北海道へ渡って行った。万事にものぐさな自分にはできない芸当だった。

 私は田舎者ゆえ、怖いもの知らずだった。他者への敬意というものが乏しい。鈴木がなにかのときに「俺はコクリツ高校だ」と言っていたが、その意味を図りかねていた。そんな高校ってあるのか。のちに東京教育大学付属高校と知ったが、「それがどうした」と思っていた。考えてみればIQの高い大変な秀才だったはずだし、暁子夫人とは同じ書道部の部員同士だった。鈴木の博識、才知、図太さ、プライドはそうした自信からきているのだろう。「俺はコンプレックスなんて感じたことがない」と嘯いたこともある。優劣いずれにしてもコンプレックスのない知識人なんているわけがないが、あえてそう言い切るところに鈴木棟一の矜持があったのだろう。

 鈴木と私とは正反対の人間だが、運命はしばしば二人を邂逅させる。

 5年間の青森暮らしで心待ちしていた辞令が、名古屋本社整理部と知ってがっかりした。名古屋駅では鈴木棟一が出迎えてくれた。彼は1年早く津支局から転属していた。原稿が書けない内勤は不満のはずだが、そんなことはおくびにも出さず泰然としている。どんな不本意な環境でも嘆かず、明朗にふるまう棟一を大した根性だと思った。

鈴木棟一(左)と山本茂

 棟一には少なからぬ恩義がある。春は蒲郡の潮干狩り、夏は福井県美浜町の海水浴に誘ってくれた。いずれも彼が勤務担当デスクに掛け合い、二人の休みを重なるように交渉している。押しの強さは天下一品だった。そのプランのままにお互い子供連れの家族旅行を楽しむことができた。棟一と暁子夫人が水着で手をつないだスナップを渡すと「どうだ、太陽の季節みたいだろう」と自慢した。青春映画のワンシーンのような若々しいカップルだった。その写真はいまも私のアルバムに残っている。

 東京整理本部、社会部を経て「サンデー毎日」へ配転になると、またも棟一が待ち受けていた。彼の左隣が私のデスクだった。不思議な縁である。鈴木は政治部に席を置いたままでシリーズ「永田町の暗闘」を執筆していた。ウイークデーはほとんど取材でおらず、締め切りの金曜日の夕、ネタをどっさり仕込んで席に帰ってくる。おもむろに靴を脱ぎ、床の新聞紙の上に足を乗っけると、猛然と書き出した。毎週、同じスタイルだった。

 たまに暇ができたときは、映画に誘われ、岩波ホールでギリシア映画『トロイの女』を観た。あまりの迫力に編集室に戻ってからも盛んに感心し合っていたら、八木亞夫編集長が「きみらは感心ばかりしてるなあ。感心屋か」と皮肉を飛ばしてきた。棟一は苦笑しながら「なぁに言ってんだ。俺たちは感受性があるから感心するんだよ」とやり返した。私も「そうだよ、感心できないやつは鈍感てことだ」と歩調を合わせると、八木さんはケタケタ笑っていた。いずれも懐かしい思い出の一齣だ。

 約10年間の九州女子大の教壇を降りて帰京すると、真っ先に歓迎の席を設けてくれたのも鈴木だった。「孟子曰く」と言い出した。「君子に三楽あり。父母ともに存し、兄弟故なきは一の楽しみなり。仰いで天に愧じず、俯して人に愧じざるは二の楽しみなり。天下の英才を得て、これを教育するは、三の楽しみなり」と流れるように言った。なるほど、しかし、俺は英才を教育できたか、いささか臆するものがあった。

 その後、何度か食事の席を設けてくれた。その理由は「われわれジャーナリストは偉そうな顔をしているが、実は近現代史について系統的に勉強していない。そこで教えてほしい」と殊勝なことを言う。ならば、と毎回、大東亜戦争に至る遠因や東京国際裁判の是非、戦争犯罪とは何か、スターリンの奸計、ルーズベルトの失政などについて語った。彼はメモしながら聞いていた。やがて何回かが終わったころ、私の過剰なばかりの太平洋戦争肯定論に辟易し始めたらしく、最後に「日本はワシントンまで攻める戦略なくして開戦すべきじゃなかった」と言い出した。それはトンチンカンな理屈なのだが、いったん言い出すと引かない男だけに放っておいた。二人の勉強会はそれで終わった。われわれは、いわば決別した。

 しかし、その後も鈴木からは律儀にも毎月、リーフレット『永田町リポート』が郵送されてくる。盆暮れには三越から中元・歳暮が届けられ、それは今夏までつづいた。友情は持続していたかのようであった。

 鈴木棟一が毀誉褒貶の多い男であることは承知している。彼の古めかしい“羽織ゴロ”的な挙措を良しとせず、権力を私用する生き方も好きではない。しかし、彼の内奥からあふれる英気がやや悲しく感じてはいた。鈴木家は旧紀州藩士であったと聞くが、むしろ雑賀衆鈴木氏の末裔の方がふさわしかろう。己れ自身ではどうにも抑制できぬ雑賀孫市の過剰な血のことである。

 鈴木は毎日新聞を最後まで愛していた。そのことを疑いはしない。そして私自身が彼には一斑の恩義がある。ゆえに追悼文を書かせてもらった。大きなやんちゃ坊主を巧みに御していた、あの利口な暁子夫人が数年前に先立たれていることを知って涙がとまらない。青春映画のヒロインのようだった。

 人生、生きていてナンボだ。死んで花実が咲くものか。棟一よ、安らかに眠れ。俺はまだまだ生きて花実を咲かせてみせる。そして、この生のつづく限り、おまえと生きた日々のことは忘れないだろう。

1964年同期入社 山本 茂(85歳)

 *鈴木棟一さんは8月11日逝去、82歳だった。

2022年8月29日

茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(3)

1965年5月15日朝刊社会面

 事件報道は捜査情報を取ることから始まる。だが、これが一筋縄では行かない。捜査側は情報を隠し、はぐらかす。ときにはウソもつく。一方の報道側は、それを承知のうえで探りを入れる。不条理を共有しながらの交流である。

 吉展ちゃん事件は発生から2年。三度目の正直という異例のかたちで「小原捜査」が始まる。といっても容疑者の小原保は服役中で対面での取調べは行なわれていない。容疑事実は過去2回の捜査で洗いつくされている。新事実の発見はない。それでも捜査一課はあえて、それをやるという。勝算はあるのか。疑問を抱きながら記者は追わざるをえない。もしこれまでの「シロ」が「クロ」になったら前代未聞のビッグニュースになるからだ。

 このような局面で「シロ」か「クロ」かに関心が集中するのは当然の成り行きだろう。だが、そこに取材の重点を置くと、どうしても、思考が過去2回のときと同じ回路をたどる。いつか来た道をまた歩く。堂々巡りで新味に遭遇せず記事にならない。捜査と報道は立場が違う。ときに視点をずらすことも必要だ。

1965年5月19日夕刊社会面

 捜査一課担当のボクと小石勝俊は初期の段階で道村博キャップと相談。当面の取材は、「シロとかクロにはこだわらない。捜査の動きだけを重点に記事にする」と決めた。平凡でありきたりだが、この合意は案外よかった。過去への回帰を封印して、いまを書けばいい。

 紙面は初報の「元時計商・小原を捜査」に続いて「捜査員を小原の故郷福島へ」「小原を前橋刑務所から東京拘置所に移管」「元愛人を事情聴取」といずれも社会面4段から6段の目立つ扱い。この段階で他紙には「小原捜査」の記事はない。この状況を週刊誌はこう書いた。

 <クロ説の毎日 他紙はシロ説>
 <第2の下山事件>

 また他紙の中には小原に対する取調べを<人権か捜査か――取調べの問題点>という記事を社会面トップで掲載した。毎日新聞東京本社社会部内でも同様の意見が出始めた。「シロ・クロにとられない」立場で書いた記事がクロ説に化ける。レッテルを貼る趣向は60年前もいまも変わらない。

 小原の対面での取調べは2週間という期限つきで行われた。取調室は東京拘置所内の部屋。この捜査が異例ずくめだという事情を考慮した条件つき取調べであった。取調べるのは平塚八兵衛である。

 小原はそれまでに2回逮捕されており、捜査側のやり方、思惑を経験知としてわかっている。しかも3回目の取調べが強制捜査ではなく任意の事情聴取だということもよく理解している。だから「ちょっと横にさせてください」といって寝転び、しばらくはそのままだったりする。季節は6月下旬。むし暑い部屋の中で平塚は小原の挑発的な嫌がらせに耐え、ひと言でも多くしゃべらせるよう仕向ける。下着やシャツだけでなく、ズボンまでが汗でびっしょりになった。

 取調べが始まると、取材はこれまで以上に過熱した。各社とも応援の記者を投入した。捜査責任者・武藤三男宅の門柱には――父を寝かせてください 姉妹一同――と書いた大きな紙が貼り出された。(敬称略)

(東京社会部OB 堀越 章)

2022年8月25日

茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(2)

1965年6月22日夕刊社会面

 吉展ちゃん事件の専従捜査班は警視庁捜査一課の片隅で資料の点検と整理が主な仕事になり、どうみても事件の幕引き役であった。

 一か月が過ぎた。4人に共通の思いが募る。小原保(当時32歳)という男である。旧捜査本部が公開捜査から1ヶ月後に別件の横領容疑で逮捕。さらに6ヶ月後に詐欺容疑で逮捕、徹底的に追及した結果、シロとした男だ。その男を「再度追及したい」というのである。

 当時、同課筆頭課長代理の武藤三男(当時警視)はこう思った。

 ➀2度も逮捕して調べシロにした者を再度追及することは捜査本部の判断を否定することだ。

 ➁当時、小原は詐欺罪で実刑判決を受け、前橋刑務所で服役中。取調べをするとしても刑務所内で任意の事情聴取しかできない。

 ➂仮に3度目の取調べをし、再びシロとしたら事件発生時に浴びせられた以上の非難を受ける。人権問題になるかもしれない。逆にクロとなったら事件は解決するが、2度もシロとした旧捜査本部員の立場はどうなる。両者の間に軋轢が生まれ、捜査一課が割れる。

 小原は火中の栗である。

 武藤は自身で資料を調べ直す。結論は「なるほど3度目をやってみる価値はあるな」。

 その場合、自分自身が捜査責任者になるしかない。進退を覚悟しなければならない。

 5月13日。捜査一課幹部会(課長・課長代理7人)は小原に対する3度目の捜査を決める。毎日新聞はこの動きを2日前につかみ、同日の夕刊最終版社会面3段で特報する。武藤が危惧した通り、旧捜査本部員が強く反発した。「2年間も同じ捜査本部で仕事をしシロにしたのに、いまになってクロだというのか」。

 周囲をはばかることなくシロの根拠が語られた。震動は刑事部を超えて伝播し、シロの大合唱となった。事態を重視した警視庁刑事部は専従捜査班と旧捜査本部員を集め、打合せ会と称し両者の融和を図ったほどである。しかし、この紛糾は収まらず続いた。

 武藤は「小原捜査」のために専従捜査班に新しいメンバーを加え13人のチームをつくり、自ら捜査責任者となる。のちに伝説的刑事となる平塚八兵衛は、この時に加えられた1人である。

 平塚は武藤から「明日は休日だが、話があるので出勤してほしい」と言われた。その休日の早朝、ボクは平塚の自宅に行った。「おはようございます」「エッ…オッ…なんだ」。「今日は休日だゾ」「でも平塚さん…出勤でしょう」「…ウム ウウ…なんで知っているんだ」

 「車でお迎えにきました。警視庁の近くまで送ります」……長い沈黙……「そんなら乗せてもらうか」。車中での会話。「平塚さん……やるんですか」「なにを…」「小原の取調べです。今日、武藤さんは平塚さんを口説くはずです」。答えない。会話はとぎれる。しばらくして「やりたくねえな。オレは吉展ちゃん事件と関係してこなかったが、みんなの話を聞くと小原はシロだろう。それに前の課長とは縁が深くてな……世話になった。そういう恩義もある。オレはやらないよ。おことわりだな」。

 その夜、再び平塚宅を訪れた。「こんばんは」「やっぱり来たか」「どんな返事をしたんですか」「うん。やるよ。やることにした」。なんともあっさりした返事だった。

 武藤は、その後、捜査一課長、浅草署長、方面本部長、警視庁参事官と昇進して退官する。ボクとの付き合いは亡くなるまで続く。ある時、こんな会話をした。「あの時、平塚さんを選んだ根拠はなんですか」。答えはこうだった。「彼の功名心の強いところを買いました」。(敬称略)

(東京社会部OB 堀越 章)

2022年8月22日

50年前「サンデー毎日」特報の久米島虐殺事件をNHKEテレが特番に

番組で紹介された「サンデー毎日」の特集記事(画面から)

 「久米島の戦争〜なぜ住民は殺されたのか〜」が8月20日午後11時からNHKEテレのETV特集で放映された。

 《太平洋戦争末期の1945年6~8月、沖縄の久米島で日本軍が住民計20人をスパイとみなして次々と殺害する事件が起きた。これまで住民の多くが事件について沈黙を守ってきたが、去年発刊された「久米島町史」には、悲劇を風化させてはいけないと重い口を開いた住民の証言が多数収録され、事件の複雑な背景が明らかになりつつある。なぜ住民は殺されたのか。米軍資料や新たに見つかった日本兵の日誌も分析、事件の深層に迫る》

 沖縄のソンミ事件——久米島島民虐殺の真相

 サンデー毎日が特ダネ報道したのは、1972年4月2日号だった。沖縄が本土復帰した50年前である。

 取材したのは、社会部からサンデー毎日編集部員となった1963年入社の大島幸夫さん(現85歳)である。

 「編集長の中村均さん(2002年没74歳)が、沖縄のソンミ事件(1968年ベトナム戦争で米軍がソンミ村の住民500人余を虐殺した)だ、と見出しを付けた」という。

 6月23日が「沖縄慰霊の日」、沖縄の終戦記念日だが、離島の久米島には6月26日、米軍が上陸した。米軍は、住民に投降を呼びかけ、島民も次第に山を下り、米軍政下に入っていったという。

 日本海軍通信隊の鹿山正兵曹長を指揮官とする鹿山隊は、山に身を隠し、島民が米軍に寝返らないよう見せしめの虐殺を繰り返した。

 鹿山隊による虐殺は、6月27日から始まり、玉音放送のあった8月15日後の8月20日まで、4度に及んだ。鹿山隊が投降したのは9月7日、米軍がこの島から撤隊したのは10月27日だった。

 続報 沖縄ソンミ事件「私の信念はお国の為にであった」鹿山兵曹長の独占手記(4月23日号)

 あの鹿山兵曹長の現地が告白する「沖縄の怨」——久米島虐事件(6月4日号)

 「サンデー毎日」には、以上のような続報があって、大島さんはこれらに加筆して、『沖縄の日本軍』(新泉社1975刊)を出版している。

 ネットで検索すると、久米島には「痛恨之碑」が1974年に建立されている。

(堤  哲)

2022年8月22日

茫々記「吉展ちゃん事件」異聞(1)

事件捜査当時の堀越章さん。右はキャップの道村博さん
1963年4月19日夕刊1面

 事件は人の仕業である。それに捜査や報道、ときには世論という仕業が絡んで、渦を巻く。渦の中で人間臭い物語がつくられる。それを劇的というなら「吉展ちゃん事件」ほど劇的な事件はない。

 60年前のことである。いま語るとすれば<この事件とは>という注釈がいる。老兵の自慢話にならぬように書く。

 1963(昭和38)年3月31日に事件は起きた。東京台東区入谷の小さな公園で遊んでいた当時4歳の男児(よしのぶちゃん)が姿を消した。自宅は公園のすぐ横だった。

 2日後、犯人から1回目の脅迫電話がかかってきた。7回目の電話は4月7日未明。「いますぐ現金50万円を持ってこい」と言い、自宅から約300m離れた場所に現金を置くよう指定した。

 捜査側の段取りとして、先ず変装した6人が現場に向い、あとから身代金を持った母親が車で出ることになっていた。ところが母親の車が先に出てしまった。6人は徒歩で追った。現金が置かれ、6人がその場に着くまで「空白の3分間」が生まれた。50万円は奪われた。母親の車の中に潜んでいた捜査員は「ただ乗っていただけ」になった。

 失態はそれだけではない。決定的ともいえるミスが重なった。

 ➀脅迫電話は1回目(4月2日)のあと翌3日、4日と続いたのに、捜査本部が置かれ、報道協定が成立したのは5日。この間、所轄署を中心に電話はいたずらではないか、迷子あるいは事故の可能性もあるなど根拠なき憶測だけの時間が空転した。初動の遅れは驚くほかない。

 ➁身代金50万円は3日前から用意されていたのに、肝心な紙幣番号を記録しておかなかった。このあまりに初歩的な大ポカ。

 身代金が奪われてから2週間後、捜査本部は公開捜査に踏み切った。失態の事実は一斉に報道され、脅迫電話の犯人の声がテレビやラジオで連日くり返し流された。

 身代金は奪われ、愛児は帰ってこない。元気なのかどうかもわからない。悲劇の家族に日本中が同情した。この不条理に対する思いは、そのまま捜査に対する非難と怒号の嵐となった。国会でも厳しい追及が行われた。明治7年、わが国で最初の警察組織として発足し、自他ともに最高の捜査力を認められていた警視庁は信頼を失い、怨嗟の中で地に堕ちた。

 時代は翌年に東京オリンピックを控えていた。無責任男が「スーダラ節」を唄うなかで地方から人の群れが奔流となって首都圏に流入していた。その労働力で「東京」は大改造され「Tokyo」に変貌した。「マイカー」という新語が生まれ、それに乗った人たちは自宅のモノクロTVをカラーに変えた。

 そういう気分のなかで「吉展ちゃん事件」は起き、捜査は汚名を着たまま2年経った。

 警視庁は1965(昭和40)年3月31日、捜査本部の大幅縮小を発表した。180人の捜査本部員はたった4人となり、「吉展ちゃん事件専従捜査班」と名称を変えた。だれもが未解決事件になると受けとめた。

(東京社会部OB 堀越 章)

2022年8月18日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(16)」(最終回)

 1977(昭和52)年4月、牧内節男社会部長が東京編集局長になり、後任に石谷龍生さんが就任した。石谷さんは司法クラブのキャップも警視庁キャップも経験している知能犯関係の事件記者である。その昔、私が警視庁捜査1課担当のころ捜査2課担当のベテランだった。石谷さんの下で私は筆頭デスクとなり、部員の勤務表の作成や取材費、旅費などにもかかわっていた。その期間が短かったことや比較的世の中が静かだったせいもあるかもしれないが、世の中に生起した事柄を不思議なほど思い出せない。

 しかし、石谷部長のもと、「ロッキードの毎日」はロ事件裁判報道に当然力を注ぎ、紙面の多くを割いた。その報道は精緻を極め、東京地裁法廷での直接取材にあたった勝又啓二郎、高尾義彦君たちの、論告や証言の一言一句を聞き漏らすまいと耳を澄まし表情を読む緊張は、この先長く続くことになる。

毎日新聞社再建へ

 経営不振に陥った会社は再建策をめぐって労組と激しくやりあっていた。社会部の大住広人君が労組の執行委員長だった。会社は、新聞を作る新会社と資産管理や資金問題を扱う旧会社に分離して再建にあたることになった。ここに至るまでの労使双方の緊張感は相当なものであった。

 1977年12月1日、新会社発足の日、大きな人事異動が発令された。その中で私は社会部長の辞令を受けた。編集局長室に呼ばれ、牧内編集局長と細島泉新編集局長からそれを申し渡されたときはギクリとし声も出なかった。牧内さんは「命令だ」、細島さんは「頼むよ」とおっしゃった。石谷社会部長は編集局次長になった。

苦しい状況の中で、みんな頑張った

 会社の状況が状況だけに苦しいスタートだった。みんな頑張った。年末の一時金は極度に抑えられた。示された取材経費の額に部長といえども息をのんだ。当然である。要員減で多くの社員が定年を待たずに退職していった。残った社員が大多数だけれど、状況はみんな理解していたと思う。

その中で新聞協会賞

 苦しいながらも、労使が合意した、編集の独立確保・編集綱領委員会設置を決めた「毎日新聞社編集綱領」に希望を見出し、取材に力を注いだ。

 社会部は1980(昭和55)年2月、早稲田大学商学部入試問題漏洩事件を朝刊でスクープ=写真。詰めかける報道陣に早大当局がすべて毎日新聞に出ているとおりだと言うほどに、完全な取材だった。以後、事件はいろいろな経過をたどった。このスクープは新聞協会賞となった。チームによる組織的な取材と高く評価された。

 それ以降、KDD政界献金事件をはじめ、1面トップで特ダネをしばしば放った。勢いに火が付いた。社会部員諸君があちこちの持ち場、担当部門で懸命に取材に心身を懸けた結果であった。新会社をつぶしてはならない、その心意気でもあった。

 1982(昭和47)年9月、私は4年10か月務めた社会部長を離れた。先輩に多く教えられ、同僚や後輩のみなさんに助けられ、感謝しかない。後任は中部報道部長の白根邦男君。

 ここまで私は、1960年、70年代の若干の時代の流れに触れながら、その時代の東京社会部の一員としての経験、体験を記してきたにすぎない。

 時代は変わる。私は好んで時に平家物語や方丈記を紐解き、また、芭蕉の「不易流行」という言葉を思う。世の中は常に変化している。しかし変わるものと変わらぬものがある。「社会部」も同じであろう。87歳、老いの繰り言と思っていただきたい。

 東京社会部はつねに噴煙をあげ、ときに大噴火する活火山のようだったという思いを抱きつつ、『毎友会HP』からの宿題を終えます。

(社会部OB 森 浩一)

2022年8月15日

森浩一・元社会部長の「東京社会部、記憶の底から(15)」

ロッキード事件、社会部総力を挙げ大奮闘

 1976(昭和51)年2月、ロキード事件が発覚した。直ちに大取材体制が敷かれた。

 その3月1日、社会部長竹内善昭さんが論説委員に、長く論説委員を務めた牧内節男さんが社会部長の人事異動があった。同日付けで私は社会部デスク兼警視庁キャップを命じられた。突然の異動で名古屋から急遽上京した。

 社会部のロッキード事件取材は、社内に事件を独自に取材する「ロキード班」、事件の本筋を捜査する東京地検特捜部を追う司法クラブ、検察捜査のワキを固める警視庁と国税庁を両クラブ担当がカバーする、そういう構図で進んだ。要人張り込みに関東地方の支局からの応援ももらった。もちろん、政治部、経済部も力投していたし、外信部もであった。

目の色が・・・

 このロキード事件では、当初私は、ここでは多くを述べる必要はないと思っていた。自分の歳も忘れて昨日のことのように思っていたことと、『毎日新聞ロキード取材全行動』(講談社)や『児玉番日記』(毎日新聞社)がすべてを語っていたからである。しかし、これらの書も店頭から消えて久しい。事件からすでに40数年という長い年月が経っている。最小限のことは記しておこうと思い直したのである。

 自らをドクヘンつまり独断と偏見という牧内社会部長のロキード事件にかける意気込みは、鍛え抜かれた往年の事件記者のそれであった。このように言うと96歳にしてお元気な牧内さんから、キミなに言ってるんだと叱られそうな気がするが。

 取材に携わる部員の目も最初から変わっていた。苦しい取材の中に、誰しも、前方に立ちはだかる深く濃い霧の中に、急峻な巨峰が隠されているに違いないと自らに言い聞かせ仲間と語り合って、取材に励んでいた。

組織挙げて

 事件取材は白木東洋さんが統括デスク。「ロッキード班」の取材全体を司法経験の愛波健君と捜査2課(汚職捜査)経験の澁澤重和君がまとめる。中島健一郎、板垣雅夫君たち多数が強力に取材を展開。事件の核心を握るとみられた児玉誉士夫のフォローに警視庁公安3課(右翼)担当だった堤哲、司法経験の才木三郎君が当たった。商社丸紅を堀一郎君がカバー。日米両国にまたがる事件なので英語にめっぽう強い中村恭一君、草野靖夫君もロッキード班に加わった。さらに米国上院外交委員会の議事録・資料の分析に吉川泰雄、寺田健一君。

 本筋を直接追う司法クラブ。山本祐司キャップ、勝又啓二郎、野村修右、高尾義彦の4君。そこへ司法経験者の橋爪順一、藤元節、大阪社会部の観堂義憲君が応援に。藤元君は渡米する検事を追ってアメリカへ。

 警視庁クラブは前田明サブキャップ、捜査2課の牧太郎、茂木和行、防犯(外国為替)の福永平和、古賀忠壱君たち。国税庁クラブは田中正延君に応援の武藤完君、鳥越俊太郎君。

 捜査とは直接関係ないが、三木内閣は不安定化し国会の動きも注目された。国会担当は加藤順一君で、応援に市倉浩二郎君。

 ロッキード報道に勢いをつけた「児玉誉士夫、臨床取り調べへ」(3月4日)の特ダネは、主治医に密着した司法クラブ経験の才木三郎君の情報が決め手だった。東京地検、警視庁、国税庁はそれぞれ連絡をとりつつ独自の捜査、調査を展開する一方、児玉の家宅捜索ほかでは3庁合同で捜査にあたった。調査報道の進展に伴い、調査報道は捜査本筋の報道としばしば融合し、毎日新聞は外部から「ロッキードの毎日」と評されるようになった。読者と直接接する販売店のみなさんからの励ましもいただいた。

セミの鳴くころ、そして「検察、重大決意へ」

 社会部は多くのすぐれた記事,特ダネを報じつつ、報道合戦は「セミの鳴くころまでには」とひそかに言われていた夏、商社丸紅や全日空の元会長、社長、専務ら多数が東京地検に逮捕され、ついにその時が来た。

 7月27日毎日新聞は朝刊で『検察、重大決意へ』と大々的に報じた。東京地検特捜部に任意出頭を求められた田中角栄前首相は午前8時50分、外為法違反容疑で逮捕された。号外が街に躍り出た。

 さらに検察は佐藤孝行、橋本登美三郎衆院議員を逮捕。秋に丸紅ルート、全日空ルートとも捜査が終了した。

 8月4日。「ロッキード事件に関する一連の報道」に対して、東京編集局一同(代表社会部長牧内節男)に編集主幹賞が贈られた。またJCJ奨励賞も受賞した。事件が一段落した後で私はデスク専任となり、警視庁キャップは堀越章さんにバトンタッチした。

 1977(昭和52)年4月、ロキード事件で剛腕をふるった牧内節男さんが東京編集局長に就任、石谷龍生さんが社会部長になった。

(社会部OB 森 浩一)

2022年8月15日

「カクヘキ(隔壁)」って? 37年前の日航ジャンボ機墜落事故を、社会部運輸省担当だった菊池卓哉さんが回想

1985年8月16日付毎日新聞朝刊1面

 あの日からもう37年の歳月が経ってしまった。早いものである。

 1985年8月12日の暑い夏の夕方、私は運輸省(現国土交通省)5階の記者クラブにいた。レク資料を整理しながら、他社の記者たちと雑談していた。

 午後6時57分ごろだったと思う。「レ-ダ-から日本航空123便の機影が消えたようだ!」。そんな情報が記者クラブに飛び込んで来た。

 「おい、本当か?」「まさか」。各社に緊張が走った。

 私は社会部デスクと遊軍長に一報を入れた。社内は色めき立った。ほどなく、日航機墜落は現実となり、ほぼすべての東京社会部記者は本社に動員された。全社挙げての取材体勢が始まった。

 私は軟派(現場雑感等)ではなく硬派(墜落原因究明)に力を注いだ。「機体や機内で一体何が起きたのだろうか」。疑問を抱きながら本当に「不眠不休」の取材が始まった。

 一切の予断を捨てた。日航ジャンボ機(ボ-イング747型機)について専門家から知識を得よう、と駆けずり回った。

 「原因原因原因…」。コクピット(操縦席)の仕組みを調べ、何人もの専門家に会い、考えた。墜落原因はいくつも想像できた。でも、原因はそのうちのひとつかふたつだろう。

 取材して耳にしたのは現役パイロットの口から出た「カクヘキ(隔壁)」の言葉だった。華やかなジャンボ機にあって、「カクヘキ」は素人には耳馴れない存在。でも、その「カクヘキ」は航空機の内圧を一定に保つため、胴体の前後に設置された頑丈な「仕切り」であると学習した。これなしには、航空機は安全に飛行できない。航空工学上、「カクヘキ」は絶対的強度を保持しているという。そのパイロットは、推論ではあるが、「カクヘキの破損も否定できないのでは」と話してくれた。そのことを東大教授(航空工学)にぶつけると、「ヒコ-キのことをもっと勉強しなさい!カクヘキ破壊なんて万が一にもないんだよ!」とけんもほろろに突き放された。

 墜落の可能性は幾つも数えられた。それを書くことは「書き得」になる。だが、自己満足でしかない。「何が事実なのか」。私はそれにこだわった。抜くか抜かれるか。焦る気持ちを抑えながら、とにかく確たる情報を探った。

 14日未明。何度も訪ねた霞ヶ関の幹部宅の夜回りで、「後部隔壁破裂」が主因との情報を得た。午前4時近くであった。それでも、デスクは14日の夜討ち朝駆けを命じた。現地(前橋支局)からの情報とすり合わせながら、16日朝刊で「最初に後部『隔壁』破裂」のスクープを打った。

 このニュースは、当時花形であったジャンボ機を使用する世界各国に速報された。事故原因取材斑はじめ、前橋支局の記者たちの総力を挙げた取材の成果であった。

 日航123便は墜落の7年前、尻もち事故を起こし、隔壁を修理ミスしたことが判明した。東大教授の「万が一にも破損はない」との説明は正しかったことになる。

 この墜落事故の2年前、私が防衛庁(現防衛省)担当時の1983年9月には、北海道宗谷海峡付近で、ソ連による大韓航空機撃墜事件が発生した。国際的な大事件と事故を体験したことは忘れられない。

 故郷の札幌に戻って10年。再会を願った幾人もの社会部の先輩、同僚諸氏が旅立たれたことは悲しい。この場を借りてご冥福を祈りたい。

(社会部旧友・菊池卓哉 75歳)

2022年8月12日

元ロンドン特派員・論説委員の福本容子さんが得度して京都で修行中(下)

 二〇一九年九月末、私は定年を待たず退職した。

 「どうして?」とよく尋ねられた。会社やメディア関係、取材先などの人の中には、仏道に入るためという理由が信じられず、悪い冗談だと思った人も少なくなかったようである。

 誰かの影響かもしれないが、男女関係の深刻なもつれ、といった深い事情を想像した人もあったようだ。自分で説明しようと簡単な文書を用意して、「拡散して欲しい」と周囲にも頼んだ。

 その文書を見た他紙の記者仲間からある日、言いにくそうな書き出しのメールが届いた。「怪文書が出回っているようだから注意した方がいい」。

 仏道と自分の日頃の言動があまりにもかけ離れていたので、信じてもらえないのも仕方がない。

 私はバブル最盛期の一九八七年四月、毎日新聞社に入り、英文毎日編集部を振り出しに、本紙外信部、経済部を経て、ロンドンの欧州総局にも四年間、勤務させてもらった。

 経済部時代は、バブル後の金融危機、銀行・証券会社の相次ぐ破綻、不祥事などを追いかけ、ロンドン時代は、現金ユーロの導入という歴史的出来事に立ち会うことができた。

 帰国後は、十年余りを論説室で過ごした。力がないにもかかわらず、貴重な経験をたっぷりさせて頂いた。本当に幸せだったと思う。文章が下手だ、下手だと言われ続けてきた自分が、コラムまで担当させてもらった。

 できる限り、ずっと続けたい。そう思う反面、もう十分ではないか、これ以上欲張ったら執着することになる。そういう気持ちが生まれていたと思う。ただこれは、後付けかもしれない。

 二〇一九年春に、きっかけとなる出来事があった。

 我が家は、祖父の時代から、本門佛立宗を信仰してきた。だから物心ついた頃から、信仰というものが身近にあった。

 実は教員をしていた祖父も、定年を待たず退職して、得度している。結果として同じ道を歩んだわけだが、後に続こうと考えたことは一度もなかった。

 私が現在所属するのは、豊島区南大塚にある遠妙寺というお寺である。そこの信徒で、フィリピン人と結婚し、マニラに住んでいる男性がいた。

 この男性信徒による布教をきっかけとして、フィリピンで入信する現地の人が相次いだ。組織的に取り組んだわけではなかったのに、数年間で二、三百人に膨れ上がったという。そこで、彼らを教導する僧侶が必要となり、現地の事情に最も詳しい、この日本人男性信徒が得度して僧侶となった。

 数年間は順調だったのだが、事情により、この僧侶と現地の家族が急にそろって日本に帰国することとなった。それが一昨年、二〇一九年の春の出来事である。

 私は、毎日新聞時代に、夏休みなどを利用して、何度かフィリピンを訪問しており、現地の信徒とも知り合いになっていた。みんな極貧だが、子どもたちも含め、とにかく笑顔が印象的な人たちばかりである。

 この先、彼らはどうなる?

 生まれた時からの信仰であるキリスト教から改宗してまで入信してくれた大勢の人たちを放っておく、という選択肢はなかった。当面は日本から僧侶が通って、サポートを続けるしかない。でも、誰が?

 信仰の教導で、言葉は不可欠である。いくら正しいことを伝えようとしても、フィリピンの人たちに日本語では話にならない。

 不思議なのだが、自然と、自分が何かさせて頂こう、という思いになった。

 新聞社勤務との両立は物理的に無理なので、やはり退職するしかない。年内か、年度内か、と考えていたところに、早期退職の募集がかかった。そういうことなのね、「今」ってことなのね。妙に納得をした。

 もちろん、経済的なことなど将来について、少し考えた。退職金と年金を合わせていくら。独身で子どもがいないし、ボケたらどうなるのだろう……。二日ほど思いを巡らせた。

 しかし、そういうことは考えて答えが出るものではない。人のために我が身を使おうと決心すれば、仏さまが必ず後押しして下さる――。常日ごろ、教わっているではないか。

 困っている人がいる現状から目を逸らし、自分のことばかり考えていては、いずれ大きな罰が当たり、後悔する。そもそも、田舎育ちの自分が英語を学ぶ環境に恵まれたのも、ここで役に立たせて頂くためだったのではないか。ならばなおさら、自分さえ良ければ、は通用しないはず。会社には恩返しができていないが、会社は人材が豊富だし、自分がいなくて困るということはまずない。

 もともと悩む性格ではないので、あっさりと結論に至った。

 会社を辞めて、信仰のために残りの人生を使わせてもらおうというところまでは決めたが、すぐ得度しようとは当初、考えていなかった。しかし、時間の問題だった。どうせ、と言っては大変失礼だが、相手が日本人であろうと、フィリピン人であろうと、信心の面でお手伝いさせて頂こうというのであれば、得度して教学的な土台と実践面での経験を備えておいた方が、より役に立たせてもらえるのではないか。そう考えた。

 それにしても面白いものである。ほんの三年数カ月前まで、自分が京都に住み、二十代の男子たちと寮生活を送りながら、試験勉強をしたり、炎天下のグラウンドでソフトボールをしたりするようなことになるなどとは、想定外も想定外だった。

 人生の中で起こる一つ一つの事柄は、独立した「点」のように見えるかもしれない。それが後から振り返って眺めると、点は全部つながっていた、とわかるのである。

 これは、米アップル社の創業者、故スティーブ・ジョブズ氏が語った言葉だ。本当にその通りだと実感している。

 例えば私は大学受験で失敗し浪人をした。その時は確かに落ち込んだが、もしあそこで合格していたら、自分は故郷の熊本で教員になっていたに違いない。毎日新聞社に入ることもなければ、外国に住むこともなかっただろう。今、こうして京都の僧侶専門学校に在籍している可能性は限りなくゼロだ。

 ただしこれは偶然ではないのである。信仰的な解釈となって恐縮だが、仏教を正しく実践していれば、必ず良い方向へと導いてもらえる、ということである。ほんの限られた経験と知識でもってしか、物事を見ることができない人間に、何が本当の「成功」や「幸せ」であり、何が「失敗」や「不幸」であるかはわからない。

 だから、仏の知恵、仏智に委ね、その教えの通りに行じていれば、たとえその時点において、難に見舞われたように感じても、何ら不安に思う必要はないのだ。

 蝉時雨の中、そのようなことを思いながら生きる還暦の夏である。

  合掌 

(福本 容子、僧名・清容)

2022年8月10日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(14)」

西独ミュンヘンオリンピックは血塗られた

ミュンヘン五輪テロ(写真は時事)

 1972(昭和47)年、東奔西走のような年だった。第11回札幌冬季オリンピックから帰京するとすぐ連合赤軍「浅間山荘事件」で軽井沢へ。ついで「沖縄 いま帰る」の企画で沖縄に行き、今度は第20回夏季オリンピック西独ミュンヘン大会の取材であった。当時のオリンピックは冬と夏が同じ年に開催されていた。

美しい古都のオリンピック

 ミュンヘン大会は8月26日開幕、9月11日閉幕のスケジュールだった。参加国、参加選手とも史上最高のオリンピックで、西ドイツは第2次世界大戦の過ちを詫び、復興し、平和な国へと生まれ変わっていることを世界に示そうとしていた。

 事前取材と企画で、開幕に先立つ1か月ほど前に、写真部の仁礼輝夫さんと2人で羽田空港をたった。フランクフルトからバイエルンの古都ミュンヘンへ。まず街の様子を探った。尖塔や丸い頭の古い教会の数々。バイエルン王の夏の離宮ニンフンブルク城。ミュンヘン・オペラハウス。マラソンコースの下見に出ると、コースは緑したたる英国風公園の中を延々と続く素晴らしいコースだ。公園には人の姿もあまり見かけず、時折リスが顔を出し、ベンチの老夫婦がサンドイッチをゆっくり口に運んでいた。街中の、分厚い木のテーブルが並ぶ大きな大きなビアホールはいつもいっぱいだった。

 東大闘争のとき農学部学生だった人がミュンヘン大学に留学していて、会って3年前を懐かしんだ。社会部からオリンピック担当の牧孝昌デスクが来て大会施設の準備状況を見て帰った。

日航に度々原稿を託す

 仁礼さんと2人で取材していた時は、原稿は全部マス目の書きゲン、写真フィルムは未現像で、両方セットにし、空港へ運んでは日航経由でハネダに届くよう頼んだ。何度ホテルと空港を往復したことか。いまのようにパソコンがあったならばと思う。このオリンピックは、いままさに50年前、半世紀前のことになった。

 開幕前、プレスセンターがオープンし、東京運動部の矢野博一、中沢潔、大阪運動部の長岡民男、写真部の鈴木久俊のみなさん、社会部の杉山康之助君、伝送課の大庭啓男さんが到着、取材送稿体制が整った。キャップは運動部の矢野さん。ボン支局から塚本哲也さん、ロンドンから小西昭之さん、モスクワから佐野真君が加わって、にぎやかになった。安心した。

 開幕を前に、ミュンヘン・オペラハウスでIOC総会。ブランデージ会長は「オリンピックはアマチュアのためにある。商業主義は許さぬ」と札幌での主張を繰り返し、長い演説をした。持参のカセットテープに録音したので、アルバイトのベルリン大学留学生に翻訳してもらい、長文の原稿にした。20年間会長の座にいたブランデージ氏はこの大会を最後に引退した。この後、オリンピックは急激に商業化して、放送権料もまさにうなぎ上りとなった(ブランデージ会長退任後にオリンピックがどのようにして商業化し今日に至ったかかについては、スポニチに移ってから頼まれて東京女子体育大学で講義したことがあった)。

アラブゲリラ、選手村を襲う

 開会式は、晴天下、華やかで楽しいものであった。日の丸を先頭に日本選手団は赤のブレザー、白のズボン、スカートで堂々とした入場だった。戦争で破壊された建物の残骸を集めて築き上げたオリンピックの丘が見えるメーンスタジアムを中心に、大会は順調に進んでいた。競技種目では、私は射撃や柔道を取材、写真も撮った。柔道の無差別級決勝でルスカ(オランダ)が優勝を決めた、その瞬間の写真がオリンピック面に載ったと連絡があったときは早く紙面を見たいと、うれしかった。

ミュンヘン五輪で犠牲になったイスラエル選手らを追悼。2021年7月23日、国立競技場で

 10日目を過ぎて9月5日未明、まだ熟睡中、東京からの電話でたたき起こされた。「選手村で事件らしいぞ!」。選手村へ走る。パレスチナゲリラ「黒い9月」がイスラエルの選手村を襲い、役員選手2人を射殺した。すぐに西ドイツ国防軍が出動、空港までの銃撃戦となり、死者17人。

 大会は中止か延期か。情報は混乱した。ブランデージ会長は一時、大会の続行は困難ともらしたが、追悼式を行い1日延期で悲しみの中に再開した。「テロに屈しない」とのブランデージ会長の決断であった。

 帰国して秋、私はサツデスクとなり、取材の第一線から遠ざかった。

(社会部OB 森 浩一)

2022年8月8日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(13)

1972、札幌・軽井沢・沖縄・西独ミュンヘン

 1972(昭和47)年の年明けとともに、2月開幕の「雪と氷の祭典」サッポロ冬季オリンピック取材で札幌に長期出張をした。社会部からは八木亜夫、杉山康之助、有馬寧雄君が一緒だった。

天皇皇后両陛下 小雪舞う中で

 当時は、開会式もスピードスケートも屋外リンク。ボブスレーやリュージュも同じであった。2月3日の開会式。天皇皇后両陛下が着ぶくれて、小雪舞う屋外リンクにお立ちになった。ボブスレーは氷が固い明け方に競技があるので、未明、弁当が凍らないようにコートの中の腰に巻きつけ、ゴール地点からスタート地点へ自分の足で登った。

 スキーのシュランツ選手(オーストリア)が商標入りのスキーを担いで乗り込んできた。IOC会長ブランデージは「オリンピックはアマチュアのためのみある」とシュランツの出場を禁じた。

 スキーの70m級ジャンプで日本選手が金、銀、銅を独占した。笠谷、今野、青地選手で、観衆は大歓喜。運動部編集委員の石川泰司さんが大声をあげて狂喜したのを覚えている。フィギュアスケートのジャネット・リン(アメリカ)が選手宿舎の壁にPeace and Loveと書いて大変な話題になった。オランダのスケート選手ケレンデール・ストラは3児の母だった。

赤軍、軽井沢浅間山荘を襲う

 群馬県の榛名山中ですさまじい事件を起こした連合赤軍の1派が猟銃店から猟銃を奪って長野県軽井沢の河合楽器保養所「浅間山荘」に逃げ込んで、管理人の女性を人質に立てこもっていた。サッポロから帰るとすぐに軽井沢へ、とデスク。長野支局、社会部から大勢行っているところへ行くことになったが、「山荘」から一番近いところへ陣取って、人質救出を取材する役割だった。

 零下20度近くまで下がる軽井沢の夜は冷たく寒い。股火鉢にと、ヒゲの前田昭君がカラの石油缶に火を入れて持ってきてくれた。長期戦になり、あらゆる戦術を用いて突入した警官隊が人質を救出、立てこもった犯人5人を逮捕したのは2月28日だった。

 目の前で警官2人がライフル銃で撃たれ死亡した。その1人は以前、警視庁公安警備を担当したときの警備2課の係長だった温厚な人で、機動隊長になって指揮を執っていた。他社の取材陣にも負傷者が出た。

今度はまた沖縄へ

 3月、東京社会部の杉山康之助、吉川泰雄、有馬寧雄、西部報道部片山健一君と本土復帰を前にした企画取材『沖縄 いま帰る』で沖縄に長期出張した。外務省機密漏洩事件が発覚したのは沖縄にいる時だった。

 4月、佐々木武惟さんが社会部長になった。5月15日、沖縄本土復帰・沖縄県発足。この日のためにまた沖縄にトンボ返りした。

西独ミュンヘン・オリンピック

 その後、写真部の仁礼輝夫さんと組んで西独ミュンヘンに渡るようにと言われた。 2人で都内外の諸競技練習場などに予備取材で足を運んだ。第20回夏季ミュンヘン・オリンピックは、第2次世界大戦で破壊しつくされたドイツの目覚ましい戦後復興と平和を目指す国家に生まれ変わっていることを世界に示す史上最高の大会になるはずだったが……血塗られた大会になってしまった。

(社会部OB 森 浩一)

2022年8月8日

元ロンドン特派員、元論説委員の福本容子さんが得度して京都で修行中(上)

 この四月、晴れて一年生になった。

 入学した先は、京都市内の専門学校だ。新米僧侶を教育するところで、本門佛立宗という仏教の宗派が運営している。

 同期生は私を含め六名。うち四名は二十歳代である。私以外は皆男性だ。学校に隣接する寮で、彼らと共同生活を送っている。

 「学生」とはいえ、坊さんなので、半分が学校での勉強、そして半分がお寺での修行だ。

 毎日新聞の連載を書くための体験入学ではない。一昨年秋(二〇二〇年十月)、私は得度をして、僧侶となった。「職業」の欄に記入する時は、もう会社員でも新聞記者でもジャーナリストでもなく、「僧侶」と書く。いまだにちょっと不思議な感覚。

 なぜ三十二年半勤めた毎日新聞社を辞め、僧侶になったかは、後ほど記すことにして、まずは現在の日常を紹介させて頂きたい。

 お寺の朝は、やはり早い。

 男子たちは坊主頭なので楽そうだが、私は有髪であるため、朝の準備はそれなりにかかる。よって四時十五分起床。身支度をして、徒歩七分の本山、宥清寺へ向かう。白衣の上に黒い衣、白足袋に雪駄。一般的な坊さんの制服姿だ。

 本山に着いたらまず本堂などのお掃除である。三六五日、必ず朝夕の一日二回、お掃除がある。今のところ春と夏しか経験していないが、真冬は水が相当冷たいに違いない。ハタキや布巾で綺麗にして、朝の勤行に備える。

 勤行は通常六時半から八時まで。その間、学生僧侶たちはそれぞれ、その日の担当任務(「お給仕」と呼ばれる)をこなす。勤行を取り仕切る筆頭の僧侶(導師)のもとへ、その日読み上げられる書類などを、順番通りに運んだり、ご信者さんが申し込まれるお塔婆を浄書したり、みんなで唱えるお題目のリズムを保ち、盛り上げるための太鼓を叩いたりする。

 とにかくやるべき項目が多い上に、短時間でテキパキとこなさなくてはならないし、道具類が大きかったり、重かったりで、小柄の高齢新人はほとんどパニックだ。ある程度、こなせるようになるまで二か月はかかった。

 勤行が終わると、後片付けをして、食堂で朝食を頂く。

 ところで、「お寺なら野菜や豆腐しか食べないのか」といった質問をよく受けるが、私の宗派に関する限り、一般の日本人の食生活と何ら変わりない。節度は大事だが、飲食上の禁止事項は特にないので、時間があるときは、夜、自室でビールも頂くし、たまに外食もする。

 朝食を慌ただしく済ませると寮に戻り、登校の支度だ。教科書や筆記用具をそろえて、いざ学校へ。

 キンコンカンコンという、あのチャイムが鳴ると朝礼だ。校歌を歌い、点呼がある。

 輪番で務める日直は、休み時間に黒板消しをきれいにしなくてはいけない。授業の最初と最後には、「起立、礼」と声をかける。「礼」の後に「合掌」が加わるところだけ、小中学校と違う。

 昼食を挟んで午後の授業が終わると、また慌てて支度をして本山へ。夕方の勤行である。その片付けが終わると残りの時間は自由だ。しかし、中には復習テストがあったり宿題が出たりする科目もあるので、寮に戻ってからも勉強、という日がある。

 十時の就寝を目指しているが、結局、十一時を過ぎることが多い。

 授業の内容はといえば、当たり前だが、ほぼ仏教一色。経文や鎌倉時代に書かれた文章を読まなくてはいけないから、漢文、古文の授業もある。同期の若者にとって学生時代はつい最近のことであるが、こちらは「レ点」とか「一、二点」とか、もう何十年も耳にしていなかった懐かしいボキャブラリーである。

 信仰の拠り所となる教義や仏教の歴史などを詳しく学ぶのは実に楽しい。何十年も〝訓練″を受けてきたので、自分で調べて、レポートを書く作業も抵抗はない。

 大変なのは体育の授業である。噂には聞いていたが、そもそも二十代の男子と一緒に山登りやソフトボールは無理筋というものだ。しかも、ジムのベンチプレスで百キロ以上を楽々持ち上げる、筋肉隆々の二十二歳や元アメフト選手といった体育会系に混じっての運動だ。周囲から何と言われようと、評価が赤点になろうと、とにかく怪我をしないことだけに集中し、遠まきに参加している。

 そして期末試験。十一科目もあり、血圧がかなり上昇したはずだ。何十年ぶりに消しゴムが友達になった。

 試験が終わると学校は九月まで休み。本山での朝夕のお勤めこそ毎日あるものの、自由時間が増えた。とはいえ、やはり学校である。宿題が出た。読書感想文まである。恐らく活字離れで、まとまった文章を書くのが苦手、という若者を意識しての課題であろう。コンテストをするらしいが、入賞を逃すと古巣の新聞社に迷惑をかけるのだろうか・・・。とりあえず頑張ろう。

(福本 容子 僧名・清容)

福本容子さんは1987年入社、2019年退社、
(下)は8月12日に掲載します。

2022年8月4日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(12)」

3回目の遊軍、「夕焼け小焼け」で成田・三里塚闘争終結

 1971(昭和46)年冬、札幌冬季プレ・オリンピックで札幌に。終わって社に帰り、4階のエレベータを降りて編集局に向うと、前方からヒゲをたくわえた大きな人が局を出てきて顔が合うと立ち止まり、いきなり「キミは森君か」。「はい」「ぼくは畑山です」。2月異動で大阪社会部長から東京社会部長になった畑山博部長だった。驚いた。

 新国際空港成田の空港反対闘争は主として三里塚を舞台にピークを迎えていた。ここは労働者・学生の闘争とともに「土地を奪われる」農民の闘争がメインに浮上していた。大学闘争とは質が違ってくる。三里塚へは何度か行ったが、いつの時点でどうだったか、よくは覚えていない。

 いくたびも多くの社会部員がナリタで取材にあたった。みんなが苦労した。

戦国映画のような砦「団結小屋」

 農民・学生は地下深く穴を掘って立てこもり、地上には戦国時代の映画で見るような砦を築いて抵抗した。これを「団結小屋」といった。第2次強制代執行のときだったと思うが、団結小屋の攻防で警官3人が死亡した。

 機動隊に攻められて最後の砦が落ちた時、抵抗者たちは穴を出て「夕焼け小焼け」の童謡を歌い、警官に連行されていった。社のヘリで現場に畑山部長が降り立った。

 12月、警視庁の土田警務部長宅に小包が届き、開けたとたん爆発、夫人が死亡、息子2人が負傷した。新宿伊勢丹前でツリー爆弾事件が起きた。東京のゴミ問題が深刻になり、美濃部都知事は「東京ゴミ戦争宣言」を出し、対策に乗り出した。ゴミも経済の高度成長の産物でもあった。

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 私はどうもあちこちに取材に回ること多く、翌1972年も同じであった。単独クラブなどを担当したたくさんの東京社会部員の中には、後々それぞれの分野で筆を立て、また学生諸君を指導してきた人たちがいる。

 1970年代、80年代は高度経済成長のヒズミが環境、公害、住宅都市問題などに顕著に現れてくる。また一方、交通が発達し、クルマ社会が広がることによって普通の人々に旅の楽しみが増えても来た。

 原 剛君は環境の専門家であり、早稲田大学の教授として、教室ばかりでなくフィールドワークで学生と接し、早稲田環境塾長を務め、活躍している。川名英之君は公害関係の著書多く、『ドキュメント 日本の公害』(全13巻)をものした。

 都市問題では、なんといっても本間義人君である。遊軍や都庁クラブで活躍。のち九州大学大学院や法政大学教授を務めた。労働関係では大橋弘君(のちに中部大学教授)。福祉・介護では坂巻熙君(のちに淑徳大学教授)や宮武剛君(埼玉県立大学教授・目白大学大学院教授)。司法の山本祐司君(社会部長)は「最高裁物語」(上下)などの司法関係で日本記者クラブ賞。

 楽しい方では国鉄ときわクラブを経た種村直樹君、堤 哲君。種村君は日本中の鉄道を乗りこなし、いまだに新聞でその手の記事を見るとき宮脇俊三氏と並んで名前が出てくる。

 まだまだ同様の元社会部員はいると思うが。

(社会部OB 森 浩一)

2022年8月1日

名物コラム「黒獅子の目」が都市対抗野球紙面から消えた!

 2022年の第93回都市対抗野球大会の優勝戦は、ENEOS大久保秀昭監督(53歳)と東京ガス山口太輔監督(45歳)の前田チルドレン対決だった。

 2020年に野球殿堂入りした慶応義塾大学野球部の元監督前田祐吉さん(2016年没85歳)は、93年まで2度にわたり18年間36シーズンつとめた。エンジョイ・ベースボールでリーグ戦優勝8回。全勝優勝(引分け1)してストッキングに2本目の白線を入れた。

 大久保監督は91年度、山口監督は99年度のキャプテンだ。山口キャプテンのときは後藤寿彦監督(第50回大会で三菱重工業広島の補強選手として優勝。現朝日大学野球部総監督)だったが、後藤さんは前田監督葬儀の弔辞で「ノーアウトで走者がでるとすぐバント。それが3回続いたとき、こんな試合は見てられないと神宮球場をあとにしました」と話した。前田イズムを伝承したはずだ。

 そういえば今回の優勝戦でバントは一度もなかった。

7月30日付朝刊「ひと」

 結果は、ENEOSが5-4で連覇を狙った東京ガスに逆転勝ち、史上最多の優勝回数を12に延ばした。日本石油時代から優勝戦では負けたことがない「不敗神話」を誇る。

 大久保監督は翌日の毎日新聞「ひと」で取り上げられた。小野賞も受けたのだ。

 ここからはちょっと因縁話になるが、「小野賞」創設は、小野三千麿さん(元毎日新聞記者)が58歳で亡くなった、1956(昭和31)年の第27回大会だった。その年、日本石油が藤田元司投手の活躍で初優勝した。ともに慶大野球部OBで、野球殿堂入りしている。

 日本石油は、2年後の29回大会で2回目の黒獅子旗を手にした。優勝監督増山桂一郎さん(慶大OB)に「小野賞」が贈られている。

 ことしの都市対抗野球大会紙面で残念なことがある。名物コラム「黒獅子の目」が消えたことである。

 2017年に野球殿堂入りした鈴木美嶺さん(1991年没70歳)が始めたコラムで、「黒獅子の目」のカットがついた第1回は1961(昭和36)年7月30日の運動面だった。

 美嶺さんが書き残している。《大会の報道は試合を正面から取り組むのが本筋だが、都市対抗野球のもうひとつの顔を試合にからませて書けないものか——大会がここまで発展するまでの波乱曲折、あるチームが、ある都市が全盛を迎えるまでの先駆者たちの情熱と努力、野球人たちの興奮や感傷の交錯するグラウンド裏の人間模様などなど、あれこれ織り込んで歴史を伝えて行きたいものだが——と考えたのがはじまりであった》=「私と都市対抗野球」(『都市対抗野球大会60年史』)。

 そして定年を迎える最後の「黒獅子の目」1977(昭和52)年8月3日付をこう綴った。

 《いつもそうだが、決勝は別れの日だ。生い立ち、境遇、年齢、人生観。それぞれ違うひとたちが、都市のため、チームのため、自分のため、白球を追って、くる夏もくる夏も全精魂を傾ける。それだけになお決勝は残酷だ。

  年行き星は移りなば
  若き血潮はもえざらん
  この世の春はかえるとも
  我が青春をいつか見ん
  ああ高殿に友と来て
  今宵は別れの宴なり
  面は笑みて歌えども
  心に泣ける我を見よ》

 結びは、美嶺さんが学んだ旧制八高で別れに歌う寮歌「春は日影」から2番を引用した。「ひどく感傷的だった」と結んでいる。

 昨年の92回大会は、東京オリンピック開催の関係もあって、12月に東京ドームで開催された。「準決勝戦2試合が行われた12月8日は、80年前に太平洋戦争が始まった日だ」と、翌9日付「黒獅子の目」にあった。

(堤  哲)

2022年8月1日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ④南信日日新聞と父

 余談になります。活版工として先輩の父のことを書きます、父・瑛(てる)は、1909(明治42)年7月17日、長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町)で父・茂十、母・よしの次男として生まれましたが、7歳の時母が病死し、9歳の時父も亡くなりました。親類衆が相談の結果、尋常小学校3年までは親類が面倒を見て、4年になったらどこかに住み込みで引き取ってもらおうとあちこち相談した結果、上諏訪町で当時、南信日日新聞を経営していた三澤慶十さんが住み込みの小僧として面倒をみてくれることになりました。

両親と死に別れ住み込みの小僧に

 10歳の4月、世話人に連れられて三澤さん宅に行ったところ、初対面の奥さまが「これは小さいなあ」と驚いていましたが、義務教育修了と徴兵検査までの約束で小僧生活が始まりました。1週間ほどは泣いてばかりいましたが、同じように年季奉公していた先輩に励まされて何とか続けることにしました。

 1922(大正11)年、高島尋常小学校を卒業すると朝から南信日日新聞の工場に入り、先輩から「解版、文選、大組」を教えてもらい活版工となりました。昭和に入ると南信日日新聞社は末広町に新社屋を建設。三澤さんも諏訪湖に近い湖柳町に新居を建設したので、そこから同じ住み込みの小僧たちと一緒に末広町に出勤しました。

諏訪に帰省した時の小尾乕雄さん(右)と父。
晩年に書いた自分史「往時茫々」。発行を手伝った

 その後、上諏訪町の至誠堂新聞販売店の息子で東京高師在学中、帰郷の際は新聞販売を手伝っていた、小尾乕雄さん(後年、東京都教育長となった)と知り合い、「トラオさ」「テルさ」と呼び合って交流を深めました。また三澤慶十さんの孫で後年、毎日新聞整理部副部長から発送本部長になった三澤祥貞さんが父のことをよく覚えていました。祥貞さんから父宛の手紙には「テルさは家族として私を大変可愛がってくれました」「私の母が『テルさは努力家で勉強者でねえ、よく役人になるための試験を受けていたよ。漢字をよく知っていて、新聞社一番だったんじゃないかね』と言っていました」とありました。

 有楽町時代、私が活版に入ったことを知った祥貞さんが職場に来て「テルさの息子か?」と言って、八王子の自宅に呼んでくれて、したたか飲まされました。

徴兵検査後、体調悪化で退職したが再就職

 1929(昭和4)年、適齢となったので、伊那富村で徴兵検査をうけ、丙種合格。翌1930年1月、晴れて年季が明け、三澤さんから報奨金500円と紋付袴をもらい、今度は月給50円で社員となりました。しかしこの年の12月、体調を壊して諏訪日赤病院に入院。肺結核初期と診断されたため南信日日新聞を退職。貯金で翌年から転地療養をしながら役人になるべく勉強し試験を受けましたがいずれも失敗。そこで1932年から再び南信日日新聞の活版工として働くことになりました。

内務省普通文官試験に合格、念願叶って役人に

 1938年、周囲からすすめられて中谷つきゑと結婚。同年12月に長男(清)が生まれましたが、役人の夢を忘れられず挑戦を続け、1941年ようやく内務省普通文官試験に合格しました。全国からの受験者2000余人のうち合格者は180人。長野県では27人受験して合格者は3人。「心中喜びを隠すことができなかった」と書いています。

 南信日日新聞を退職し、11月26日付で長野県庁へ赴任し「学務部社寺兵事課勤務・雇を命ず」。月給は45円。長女が生まれていて4人家族でした。

 こうして念願の役人となり、以降、1942年上伊那地方事務所、1944年諏訪地方事務所、1945年2月1日赤紙召集。8月25日諏訪地方事務所復帰、1948年同事務所厚生課長、1950年長野県庁児童課、1951年上伊那地方事務所、1952年諏訪児童相談所・児童福祉司、1967年退職、岡谷市つつじが丘学園就職、1978年同学園退職。2003年11月30日、94歳で死去しました。

 父の活版工時代はやむなく就いた仕事で、役人になることを目的に刻苦勉励したのだと思います。同じ活版工だったと言っても、父の努力と生き方には遥かに及ばないと思っています。

(福島 清)

三澤慶十さんの胸像除幕式。上諏訪町末広町の南信日日新聞社前。1940年ころ

2022年8月1日

元東京代表、秋山哲さんが、生まれた町の200年ぶりの祇園祭を楽しんで



 7月23日と24日、私は大興奮であった。

 私の生まれ育った町に祇園祭の曳山(ひきやま)が復活した。それも196年ぶりの復興である。23日の宵山、そして24日の巡行。暑い中を歳も顧みず、胸躍らせて町を歩きまわった。

 京都の祇園祭には少し説明がいる。この祭りは八坂神社の祭りである。7月17日、神輿渡御の神幸祭に合わせて23基の山鉾が巡行する前祭(さきの祭り)が有名だが、還幸祭の24日にも別の山鉾10基が巡行する後祭(あとの祭り)がある。

 巡行するのを山鉾と呼ぶのだが、鉾は車があって曳いて行く。山は原則、人が担いでいく。この山が大型になって発展したのが曳山である。曳山と鉾は見かけは同じである。違いは、屋根を突き抜ける真柱の上に長刀のような金属製の飾り物を付けるのが鉾で、真柱の先が松の若木というのが曳山である。

 私の生まれた町は三条通の衣棚町(ころものたなちょう)というが、ここは後祭の区域で、衣棚町には「鷹山」という大きな曳山が応仁の乱以前から存在した。江戸時代の196年前、巡行中に嵐があって部分的に破損して巡行できなくなっていた。その上に、幕末の蛤御門の変(1864年)で京都市内が丸焼けになり、鷹山の骨組みや懸装品なども焼失してしまった。

 子どものころ、祇園祭の時期が近づくと、近辺のあちこちの町で祇園囃子の練習が始まる。その音が衣棚町にも届く。羨ましかった。どうしてわが町に鉾がないのか。

 それが復興したのである。10年ほど前から町内の動きが高まり、京都市なども支援した。2億円ほどかけて、ようやく初巡行の日を迎えたのである。

 23日の宵山には鷹山の前後にたくさんの提灯をぶら下げて飾る。大勢の見物人で鷹山が大人気であった。24日の巡行日は、鷹山が動きだす午前8時まえから、この町にたくさんの人が押しかけ、人並みをわけて歩くのが難しいほどであった。動きだすと人々は拍手を送る。衣棚町の西の端、三条通新町の狭い四つ角で、鷹山は45度方向転換する辻回しである。大きな車の下に割った青竹を敷き詰め、水を撒いて滑りやすくして、無理やりに横に引く。「鷹山」はぐらぐらと揺れる。初めての辻回しを見物人一同、息を詰めて見守る。少しずつ方向が変わり、30分もかけて辻回りが成功した。町中から拍手が沸き起こった。こちらも胸を突き上げる何かを感じたのである。

  絶え耐えて 二百年 今鉾囃子
  鷹山のよみがえりての 夏日照り

(秋山 哲)

御池通を行く鷹山の後ろ姿

2022年8月1日

森浩一・元社会部長の「東京社会部:記憶の底から(11)」

国会担当、そして沖縄の国政参加選挙へ

 1970(昭和45)年は安保条約改定の年。遊軍として大学問題に取り組んだあと、『回転――安保60~70』の連載を書いたが、天野勝文君の後を受けて国会担当となった。

 さいわいにも国会内外に『60年』のようなことはなく、いくつかのデモも平穏に経過した。70年問題よりも「プロ野球の黒い霧」が衆院法務委員会で大きく取り上げられた。また、日航機「よど号」ハイジャック事件が起き、山村新治郎運輸政務次官が身代わりになった問題や青年法律家協会にからむ裁判官訴追委員会がクローズアップされた。

 11月。沖縄の本土復帰を2年後に控え、それに先立って沖縄で国政参加選挙(衆院5、参院2議員)が行われた。10月、那覇支局の応援に三十尾清写真部員と沖縄に派遣された。

パスポートとドル札持って沖縄へ

 沖縄はアメリカの施政権下にあり、政府発行のパスポートとドル札を持っての出張だった。機内で隣の席に座った人と言葉を交わしているうち、偶然にも衆院(自)の候補者と分かり、取材は機内から始まった。那覇空港上空では写真撮影禁止の放送。空港から米軍の戦闘機がスクランブルしていく、迷彩色の輸送機が駐機、ヴェトナムの戦場から運ばれてきた壊れたトラックのおびただしい量。これが今の沖縄だと気を引き締めた。長期取材だったので記すときりがない。2、3のことにとどめる。

 本島の南から北、宮古島、石垣島のどこで話を聞いても本土復帰を喜ばない人はなかった。わずかに那覇の国際通りの電柱に選挙粉砕ビラを見たに過ぎない。ただし、選挙で衆と参の2票を入れるのはなぜか、よく理解できていない人があちこちにいた。無理ないことである。

 宮古島へYS11で渡る。サトウキビ畑の中の滑走路という感じであった。機には候補者が保革まさに呉越同舟。機を降りると候補者はシンパに取り囲まれ、もみくちゃだった。

 宮古島を回った候補者はそこからさらに離島の伊良部島へ定期船で渡る。船には穀類、お茶の葉、雑貨類が無造作に積まれ、そこへ選挙の七つ道具を持った候補者、運動員が乗り込んだ。伊良部島で運動をした候補者はチャーターした小舟で東シナ海を池間島へ。

「本当の日本人になったような」

 11月15日投票日。雨。米軍の基地そのものの嘉手納村の投票所で投票を済ませた米軍雇用労務者が「これで本当の日本人になったような気がした」。涙が出た。80年、90年と生きたおばあさんが杖をつき、娘に手を引かれて投票所に来た。悪天候にもかかわらず投票率は87%を超えた。

 11月24日。私は国会玄関わきにいた。天皇陛下をお迎えするときか、特別な行事の日以外開かない国会中央玄関の扉が開かれた。沖縄選出7人の国会議員が赤じゅうたんを踏みしめた(25日、三島由紀夫が自衛隊東部方面総監室で割腹自殺)。11月27日、上原康助氏(社)が沖縄選出議員として戦前戦後を通じて初めて衆院本会議で代表質問をした。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月28日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(10)」

大学闘争拡大 東大闘争

左は写真部加藤敬さん、中が森さん、右は鍛冶壮一さん

 1968(昭和43)年夏、東京大学で、反日共系学生が安田講堂を占拠した。あちこちの大学に学部校舎のバリケード封鎖、占拠が広がった。東大では全学共闘会議(全共闘)が結成された。東大と日大の闘争が最も注目された。このころ社会部長は谷畑良三さん。社会部に東大取材グループができた。キャップ高井磊壮、吉野正弘、森浩一、清水洋一、原田三朗、松尾康二、内藤国夫の7人で、うち5人は東大出身。東大・本郷の三四郎池から上ったところにある山上会議所が取材者のたまり場になり、やがて各社専用電話を引いて取材拠点とした。以後、半年以上にわたって東大通いが続いた。

 経過を追っていけば際限なくなる。医学部に端を発した東大闘争は、全学共闘会議結成、安田講堂封鎖、医学部本館占拠・封鎖、全学部無期限スト、林健太郎文学部長(のち学長)軟禁など全学に広がった。大学当局も教授会内で対立があり、学長の辞任やら加藤一郎学長代行(のちに学長)の選出。大学当局と学生の七学部集会、大衆団交。ヘルメットにゲバ棒、投石、火炎ビンの登場。闘争学生の派閥分裂、乱闘。何でもありの状態。

写真裏に「東大時計台上 44年1月19日」のペン書き

背中のいちょうが泣いている

 それでも「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」などという看板が出たり、軟禁された文学部長の夫人が着物姿で現れるという思いもしないことがあった。看板のコピーを書いたのは文学部学生で、のちに小説家、評論家として著名の橋本治だったという。大学闘争当時、かなりの学生たちが漫画雑誌「ガロ」を愛読し、白戸三平の「忍者武芸帳」「カムイ伝」等を好んでいた。

ついに安田城落城

 年が明けて1969(昭和44)年1月、学長代行は警視庁に機動隊出動を要請。1月18日朝、6000人近い機動隊が東大に入り、火炎ビンと投石で抵抗する学生を次々排除。最後はガス弾と放水を浴びせかけ、ヘリコプターに縄梯子。地上から空からと攻め上げた。攻防は日をまたぎ、19日になってようやく安田講堂が陥落した。機動隊の精鋭が講堂最上階の学長室に駆け上がる。機動隊の後を追って、鍛冶壮一さんと私が、トランシーバーを持ち、ヘルメット、マスク、防水のコート、長靴姿で階段を上った。書くのもはばかられるひどい現場だった。

 東京大学と東京教育大学の入学試験は中止と決まった。

 東大が一段落すると、京都大学でも入試中止になるかどうかが焦点になってきた。デスクから「京大に行ってくれ」と言われ、松尾君と京都に向かった。大阪本社の地方部、社会部、京都支局の取材陣に交じって仕事をするのには気を使った。京都では、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士とも親しい社会部の編集委員(科学)河合武さんがヒョイと現れて慰労してくれた。

 社会部員の多くが日大はじめ東教大ほか都内の多くの大学で総力取材だった。全国の大学闘争は、「大学臨時立法」が制定され、以後、次第に沈静化。

 2月25日、社会部長谷畑良三、副部長竹内善昭、警視庁キャップ佐々木叶、部員高井磊壮、二宮徳一、白木東洋、大橋久利、吉野正弘、牧野賢治、森浩一、清水洋一、松尾康二、内藤国夫、野口元、前田明、編集専門委員河合武の16名に編集局長賞。「新しい形式の軟派記事を産み出しオピニオンリーダーにふさわしい方向を切り出した」と表彰状に。

 その後、東大取材グループは『総討論 大学とは何か』の連載企画を始めた。1、2、3部構成の81回に及ぶ長期連載。これに対し11月26日、社会部副部長竹内善昭、部員高井磊壮、吉野正弘、森浩一、原田三朗、松尾康二、内藤国夫の7名に編集局長賞。「本社のイメージアップに資するところ大」と表彰状。

 高井さんと私などはこの後、来るべき70年安保に備えて「回転――安保60~70」の連載企画を始めた。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月26日

京都大学野球部OB、大阪社会部旧友・津田康さんとのコト

 京大「旋風」で終わらせない 野球部元プロの近田監督

 24日日曜日の1面トップ記事「迫る」は、京都大学野球部を大躍進させた近田怜王監督(32歳)のドキュメントだった。3面もつぶし、全文5404文字の長文だった。

 《就任1年目の近田監督率いる京大は今春、旋風を巻き起こした。昨秋に優勝した関西大、2位の立命館大から2戦先勝で得られる勝ち点を挙げ、「定位置」だった最下位を2年半ぶりに脱した。最終的に5位だったが、シーズン5勝は4位だった2019年秋と並んで現行リーグで最多、ベストナインにも過去最多の3人が選ばれた》

 《09年春から12年春には60連敗(1分けを挟む)を記録している》

 関西六大学野球リーグ戦のお荷物チームが、変貌したのである。

津田康さん(『陽は舞いおどる甲子園』から)

 京大野球部OBで思い出すのは、大阪社会部旧友の津田康さん(ことし86歳)である。

 「村山実(関大→阪神タイガース、野球殿堂入り)と投げ合ったんだ」とよく言っていた。

 津田さんは、自著『陽は舞いおどる甲子園—高校野球青春論』(サイマル出版会1977年刊)に自らの球歴を披露している。

 中学時代、大阪府下の700余校の頂点に立った。サウスポー。8試合のうち7試合をシャットアウト。

 《新聞は「超高校級」と書いた》とある。

 ——“甲子園の星”になりたい。
 ——プロ野球に入ってお金をどっさりもらおう!

 大阪府立今宮高校に進学したが、甲子園出場の夢は果たせなかった。
 1956(昭和31)年、1浪して京都大学法学部に入学した。

 《入学した年から主戦投手だった。神戸大に2勝、京大は5年ぶりに5位になった》

 《村山実—上田利治(のち阪急ブレーブス監督。野球殿堂入り)バッテリーの関大とも2度に1度は互角の戦いをした》

 《京大4年間で5勝。負けは数えられない》

 1960(昭和35)年に卒業して神戸・川崎重工に就職。都市対抗野球大会にも出場し、2回戦日本ビール戦に先発、《2回を0点に抑え、その後四球を連発して1-9で敗れた。『先発津田はスピードもなければ、コントロールもない』と書かれた》と自嘲気味に書いている。

 そして翌61(昭和36)年に毎日新聞大阪本社に記者として入社した。

 津田さんと一緒に仕事をしたのは50年前のセンバツである。大会前日の開会式のリハーサルのあとの人文字は、第44回大会の「44」と、毎日新聞創刊100年の「100」を描き出した。

毎日新聞1972年3月27日付朝刊1面

 大会期間中、阪神電鉄甲子園駅前にあった旅館「清翠荘」に泊まり込んだ。キャップ津田康、サブが私(堤)だった。担当デスクは、新任デスクが定まりで、事件記者の寸田政明(2003年没74歳)だった。

 私は、前年の8月に東京社会部から転勤となり、街頭班(サツ回り)だった。

 開会式で優勝旗を返還したのが日大三高のキャプテン吉沢俊幸(早大→阪急ブレーブス→南海ホークス)、選手宣誓は日大桜丘のキャプテン常田昭夫。

 そして優勝戦は、2連覇を狙う日大三高と日大桜丘の対戦となり、ジャンボ仲根正広(のち近鉄バファローズ、1995年没40歳)—常田昭夫バッテリーの日大桜丘が初優勝した。「優勝戦は神宮球場でやったら」と皮肉をいわれた大会だった。

 津田さんは、当時遊軍だったか。クルマ社会を告発する「くるまろじい」という続き物を社会面で展開していた。のちに『くるまろじい—自動車と人間の狂葬曲』(六月社書房1972年刊)として出版、第3回「新評賞」を受賞した。

 いつもボサボサ頭で、身なりは全く構わなかった。添付の写真は、受賞式のために正装していたと思う。

 このセンバツのあと、津田さんは高校野球取材を続け、『陽は舞いおどる甲子園』、さらに74年「さわやかイレブン」で準優勝の池田高校の蔦文也監督を取材して『池田高校野球部監督蔦文也の旅—やまびこが甲子園に響いた』(たる出版1983年刊)をものにしている。

 大阪社会部OB会の集まりで何度か顔を合わせたが、最近はご無沙汰している。

(堤  哲)

2022年7月25日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(9)」

有楽町旧社屋の思い出を少々

 1966年9月、東京本社新社屋が竹橋に完成、有楽町の社屋から移転した。皇居のお堀際に建ったパレスサイドビルは眩しい美しさで、ビルの東西に立つ円形の塔は何だろうと思った。

 ここで黙って有楽町の貫禄あるビルを去るわけにはいかない。

 旧社屋。編集局は4階だったと思う(老いた頭の中は、有楽町の社屋構造と竹橋に移ってからのそれがごちゃごちゃになって現れるので始末が悪い)。社会部は富士アイスなどが見える窓側ではなく編集局に入っていって右側ではなかったか。机の表面にインキのシミや煙草の焼け跡。木製の鉛筆立てが並ぶ机の随所に置かれ、3Bの鉛筆が立っていた。4Bもあったような記憶がある。鉛筆は黒塗りで「毎日新聞」の金色の文字が入っていた。1辺が軽く糊付けされた矩形のザラ紙の雑用紙がこれも随所に積んであった。その1枚に当時の新聞の1行15字分が収まるぐらいの目安で、大きな字で原稿を書いた。時には青色のカーボン紙がを挟んであった。「青」は西三本社送り用に連絡部に渡った。鉛筆を削ったりカーボン紙を挟んだりするのはアルバイト学生。用事があると「おーい、ぼうや!」。

 デスクの机には浅い木箱に朱色のスミ壺と筆が2、3本入っていた。デスクが原稿を直したり削ったりするのを「赤を入れる」といった。これは間もなくボールペンに変わった。


現在の社屋には6羽の伝書鳩のレプリカがある。毎日ビル・福田裕一朗さん撮影

 部長席の後ろの小部屋に桜木谷範秀さんがいて、給料の受け渡し、出張旅費や取材費の精算に携わっていた。給料の一部前借りの相談に乗ってもらう人もいた(桜木谷さんのあとは、新社屋になって内藤寅一さん)。

 昼夜仕事の編集局。有楽町の社屋は、夏は暑く、天井に羽の長い大きな扇風機がゆっくりと回り、盛夏には社会部の机にも四角の大きな氷柱が立った。

鳩よ さようなら

 宿直室は5階だったか、朝、外のコンクリート製の、いくつも蛇口が並ぶ洗面所で顔を洗っていると、鳩舎から遊びに出た鳩と顔を合わせることがあった。連絡部の鳩係が100羽を超える鳩の面倒を見ていた。社屋移転のとき、鳩係は廃止となり、鳩たちはあちこちにもらわれていったようだ。ときどき有楽町に舞い戻ってくる鳩もいたという。

忙中閑あり 社会部が社内野球で優勝!

 会社の厚生部は春秋の年2回、社内野球を開催した。と言っても早朝野球である。どの部局と当たるかは抽選ではなかったか。私が社会部に来た頃は会社のグラウンドが巣鴨の駅近くにあって、そこで試合が行われた記憶がある。警視庁七社会にいたほぼ5年間のうちに試合会場は神宮外苑軟式野球場に変わっていた。

 新社屋に移った後の1969(昭和44)年秋、われらが社会部チームは第48回社内野球Bで優勝した。社報に『個人表彰で最高殊勲選手大島幸夫(投手)優秀選手賞野口元(三塁手)』と載っている。捕手はたいてい田中正延君で、時に根上磐君。この大会ですごいことがあった。準決勝で勝又啓二郎君が満塁ホームランを打ち、決勝戦でまたまた満塁ホームラン。まさに奇跡というほかない。野球通の堤哲君によれば、監督が中村侔さん、主将は森、優勝旗は田中浩さんが受け取ったという。絶対に塁を離れない不動の1塁手原田三朗君、出ればのらりくらりの投手土屋省三さん。出場選手みなさんの名前を挙げていきたいところだが、優秀なプレイヤーでも仕事があれば出られない。臨機応変。かわるがわるのチーム編成であった。

 優勝チームはその日、夕刊の仕事が始まったばかりの編集局に優勝旗を先頭に入っていきナニゴトカと驚かれるやら拍手を受けるやら。社内野球のとき、ベンチ兼簡易スタンドには常連の堀井淳夫さん、岩崎繁夫さんや米山貢司さんたち。非番のデスクも応援に現れることもあった。

(社会部OB 森 浩一) 

≪社内野球優勝記念写真≫(敬称略)

 1969(昭和44)年秋、社会部はBクラスで優勝した。その表彰式の写真を当時監督の中村侔(92歳)が保管していた。

 記念写真に写っているのは、前列左からMVPの投手・大島幸夫(当時32歳)=5方面(池袋警察署)サツ回り▽勝又啓二郎(29歳)=7方面(本所警察署)▽優秀選手賞の三塁手・野口元(31歳、93年没55歳)=遊軍▽キャプテン森浩一(34歳)=元社会部長、スポニチ社長▽社会部長・谷畑良三(43歳、00年没73歳)▽監督・中村侔(39歳)=東京東支局デスク▽原田三朗(34歳、2018年没82歳)=元論説委員▽堤哲(27歳)=3方面(渋谷警察署)▽松尾康二(32歳)=元カルビー会長▽その隣の優勝旗・田中浩(38歳、2022年没91歳))=元毎日映画社社長▽そのうしろ・荒井義行(32歳)=74W杯(西独)から現地取材しているサッカー記者。

 中腰の中列▽澤畠毅(30歳、2021年没81歳)=警視庁担当、▽滝本道生(28歳、04年没62歳)=2方面(大崎警察署)▽土屋省三(43歳、09年没81歳)=武蔵野駐在▽横山裕道(25)=八王子支局▽根上磐(34歳、2015年没80歳)=警視庁捜査一課担当、

 後列▽河合武(43歳、99年没63歳)=科学記者▽筆頭デスク・桜川三郎(48歳、86年没64歳)▽岩崎繁夫(43歳、03年没76歳)=東京東支局長▽竹内善昭(40歳)=元社会部長▽吉川泰雄(30歳)=東京西支局▽米山貢司(40歳、12年没83歳)▽岩間一郎(45歳、87年没63歳)▽杉山康之助(33歳、79年没42歳)=東京東支局

2022年7月21日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(8)」

黒い霧を払え。次いで初の革新東京都知事

 航空機の大事故が続いた1966年の年末に衆議院の「黒い霧解散」があった。政界は多くの濁りを抱えていた。田中彰治衆院議員の逮捕をきっかけに「黒い霧」事件のキャンペーンが始まった。私も取材の一員となり政治という世界の闇の一端を知った。社会面連載企画「この霧を払え」の第1回は私が書いた『この顔4000万円なり』。総前文を吉野正弘さんが「背徳の風に乗って乱れ飛ぶ札束」と書いて、私はウーン、ウマイモンダナアと感心した。担当デスクは牧内節男さんだった。麹町寮にこもって原稿を書き続けた。

 12月27日衆院解散。翌年1月27日の衆院選で多党化が顕著となった。一連の「黒い霧キャンペーン」に対し、森丘秀雄社会部長・細川隆一郎政治部長に社長賞、そして新聞協会賞を受賞。

 1967(昭和42)年春、社会部平野勇夫筆頭デスクに呼ばれ、4月の都知事選では革新陣営に注目していく必要があるようだ、革新側の動きを水面下で探ってくれ、と言われた。取材を進めるうち、やはり大変なことになりそうだとわかってきた。結論を急ごう。

 日本社会党(佐々木更三委員長)、日本共産党(野坂参三議長)、総評などが組み、大内兵衛ら東京大学経済学部出身の錚々たる学者グループが協力して東京教育大学の美濃部亮吉教授(経済学)を革新統一候補に担ぎ出す。これが明確になった時点で私は美濃部候補担当となった。自民、民社両党は松下正寿立教大学総長を候補に立て、たしか都庁クラブの永井康雄さんが担当した。

団地の主婦たち、そして銀座のビルからハンカチが

 選挙戦は中盤から美濃部有利が見えてきた。郊外の団地に選挙カーが入って美濃部候補が降り立つと周りは主婦たちでいっぱいになった。銀座通りを走って美濃部候補が手を振ればビルの窓が開いて(当時のビルは窓が開いた)身を乗り出した人たちがハンカチを振る。こうして東京都に初の革新知事が誕生した。私は都庁クラブのメンバーとなり、知事部局を担当した。知事の特別秘書には社会党などからのほかに岩波書店の『世界』編集部員の安江良介さんが就任した。安江さんとは同じ歳で、彼が『世界』の編集長を経て岩波の社長になってからも付き合いは続いた。囲碁が強い人だった。当時の東京都企画調整局長はその後作家として名をはせた童門冬二である。都庁クラブには1年いて、また遊軍となった。世情騒然としてきた。

 1968(昭和43)年6月。米軍ジェット機燃料輸送反対闘争で新宿駅は大混乱。電車が再三ストップ。10月の国際反戦デーでは線路上で火をたかれ、信号機が勝手に操作され、ついに騒乱罪が適用された。身の危険をひしひしと感じる現場取材で、多くの社会部員がどれほど危ない目にあったか計り知れない。

 全国の50以上の大学が、学費値上げ、学生処分、米軍の研究資金受け入れ、大学移転と様々な問題で紛争が激化。学生たちは外では成田・三里塚、東京王子の野戦病院、首相の東南アジア訪問阻止(羽田)闘争と勢いを増すばかり。医学部に端を発した東大闘争が深刻化、日大闘争がクローズアップされてきた。年末、東京・府中で3億円強奪事件。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月19日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(7)」

大学・成田空港・4件連続の航空機墜落事故

 遊軍兼気象庁担当としての気象関係は前回記した。この時の遊軍としてかかわったのは年間連載企画「人間形成 ある仲間」(週1回1頁、黒崎静夫さんと一緒の担当で、私は山形・最上川近くの農村青年たちの音楽グループ、築地魚河岸の早大出の仲買グループ「魚河岸稲門会」などを取材した)。さらに早大授業料値上げ反対闘争、初期のナリタ国際空港反対闘争(三里塚)そして連続して起きた航空機の大事故取材であった。

 1966(昭和41)年2月4日、札幌雪祭りの団体客を乗せた全日空B727型機が羽田空港に着陸寸前、墜落した。閉鎖されて薄暗い空港内を息切らせて現場に走った。遺体の捜索が続いた。もちろん大勢の社会部員が随所で取材にあたった。乗客乗員133人全員死亡。

 この事故からちょうど1か月後の3月4日、カナダ太平洋航空(CPAL)のDC8型機が着陸に失敗、防潮堤に激突、76人中64人が死亡。

 その取材で羽田空港で夜を明かした翌3月5日、空港を離陸した英国航空(BOAC)のB707型機が富士山付近で墜落したとの情報が入った。デスクから写真部とともに社機で富士山付近の上空に飛び、現場を確認せよとの命令。『金星号』で出ようとすると、いや、待て、東京湾との説もある、とデスク。情報の混乱は無理もない、CPALの捜索に当たっていた海上保安庁の大型ヘリが墜落したのである。再度の出動命令。『金星号』には機長操縦士、整備士、写真部員と私の4人。窓外に目を凝らし富士山に向かった。

 富士の頂上あたりから旋回し下方に機首を向け煙らしきものを発見したとたん、『金星号』はグラッと揺れ、ドアがわずかに開いた。乱気流に巻き込まれたのである。死ぬ、と思った。ドア側の席にいた私が機内の太い針金だったかを体に巻き付け、写真部員がそれを引っ張る。凍傷を防ぐためレインコートを手に巻き付け隙間からドアを引っ張ったが、隙間は縮まらない。(ねじれていたのである。)

 「金星号」=写真=は両翼を揺らし、機首をアップダウンさせながら、それでもなお飛行を続けている。首筋に冷や汗を垂らして操縦士も整備士も一言も発しない。海の方に向かっているように思えた。最終場面を海上にしようとしているのだろうか、海なら助かるのか。やがて東京が見え、後楽園の緑が見え、羽田空港が視界に入った。よくは覚えていないが、空港では一時、空港閉鎖し、着陸許可を出したようである。恐ろしい経験だった。操縦士の冷静沈着に感謝しかなかった。乱気流に巻き込まれた際、機体各所のネジがゆるみ修理には相当時間がかかったという。

 英国航空機はやはり富士山ろくに墜落していて、乗客乗員124人全員死亡。富士山特有の乱気流が原因と推定された。海上保安庁機は2人死亡1人行方不明(その時点)。

多くの取材者全員が身の危険に

 私は自分が危ない目にあったことを体験として長々と記したが、この連続航空機事故の取材は社会部員、写真部員、千葉や横浜、川崎支局員にとって、やはり身の危険を顧みずの取材であったことを強調しておきたい。

 社会部や支局は東京湾岸の釣り船を借りて海上捜索の取材をした。時に北西の風が強まる2月、3月初め、寒さと白波の立つ荒波のなかである。私たちの取材は危険と背中合わせのことがしばしばあった。のちの大学闘争、新宿の騒乱罪適用事件など都心でも激しい投石、ゲバ棒、火炎ビンの中での取材となった。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その21(前編) 谷中の清水と鶯の初音(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 上野動物園西側の崖下に沿って都立上野高校に通じる急坂がある。これを清水坂という。現地説明板にはこう書かれている。

 「坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。」

 『江戸切絵図』「東都下谷絵図」(尾張屋板、1851・嘉永4年)をみると、寛永寺の清水門は、清水坂上にある護国院(上野公園10-18)の北側に記されている。その西側は「松平伊豆守」(三河吉田藩下屋敷)になっているが、上記の説明によれば、この下屋敷の護国院に近い一画が谷中の清水谷と呼ばれていたことになる。

 『江戸名所記』は、この清水谷にあった清水の井戸の由来をこう伝えている。

 むかし、弘法大師が廻国修行の途中、谷中通りに差しかかると、一人の嫗に行き合った。嫗は水おけを頭にいただき、遠くから水を汲んで運んでいるところだった。大師がその水を乞うと、嫗はいたわしく思い、水を分け与えた。

 嫗がいうには、このところには水がない。自分は年をとり、遠くまで水汲みに出かけるのはたいへん苦しい。また年ごろ病を患い臥せっている子どもがいる。嫗が養っているが、暮らしはともしい。

 そこで、大師が独鈷で地を掘ると、たちまちに清水が湧き出た。その味わいは甘露のごとく、夏は冷ややかで冬は温かく、いかなる炎天にも枯れることがなかった。そして大師は自ら稲荷明神を勧請された。

 嫗の子どもをこの水で洗うと、病は速やかに癒えた。それ以来、この水で洗えば諸々の病も癒えずということがなかった。後に人家が建ちならぶようになると、この一帯を清水町と呼びようになった、というのである。

 1680(延宝8)年の『江戸方角安見図鑑』「丗一 東叡山寛永寺」をみると、上野寛永寺から谷中感応寺に通じる「谷中みち」(谷中道)がある。これが『江戸名所記』のいう谷中通りとみられる。

 この絵図を現在地図に重ね合わせると、谷中道は上野公園(旧寛永寺)西側の縁に沿って、谷中天王寺に至る都道452号(神田白山線)にほぼ該当することが分かる。

 清水坂を上ると護国院で、隣接して東京芸術大学がある。そこに都道452号との交差点がある。これを左折し北側に歩いて行くと、言問通りに行き当たる。交差点の右側に旧吉田屋酒店(上野桜木2丁目)がある。さらにまっすぐ歩くと谷中墓地入口に至る。ここで道は分岐する。右側は天王寺(感応寺)の参道である。左側が都道452号で、これをそのままたどると、三崎坂をへて、千駄木の団子坂に出る。

 この「谷中みち」を逆に南側へ向かうと、上野山内と「松平イヅ」(三河吉田藩下屋敷)の間に、「志ミづ丁ノあと」(清水町の跡)と記された「あき地」(明地)がある。そのすぐ傍に「イナリ」がある。これが清水稲荷明神で、弘法大師にちなむ清水の井戸はそこにあったとみられる。

 この清水町がなくなったのは、1661(寛文元)年に、この場所が上野東照宮の火除地となり、本所(現墨田区石原4丁目・亀沢4丁目付近)に町ぐるみ移転させられたからである。『江戸方角安見図鑑』に記された「志ミづ丁ノあと」の「あき地」というのは、この上野東照宮の火除地を指すものとみられる。

 三河吉田藩下屋敷は明治維新に新政府に収公されたあと、1872(明治5)年、その跡地一帯に谷中清水町が起立された。町名は弘法大師の清水の井戸に因むとされるが、町域はかつての清水町よりもはるかに広く、現在の池之端3、4丁目にほぼ相当する。(略)

 谷中清水町(旧三河吉田藩下屋敷)は上野山内から西側に下る傾斜地になっていて、その西端の低地を北西から南西へ藍染川が流れて不忍池に注いでいた。(略)根津にもやはり清水谷があった。根津の清水谷が向丘の崖下であるのにたいして、谷中の清水谷は忍が丘(上野)の崖下ということになる。

護国院。谷中七福神の一つ。境内に祀られた大黒天像。上野公園10-18。2022.03.30

 三遊亭円朝の『牡丹灯籠』では、根津の清水谷を上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」というふうに描写しているが、このせせらぎは藍染川に通じていた。それと同じように、谷中にあった弘法大師の井戸からあふれた水も、周りの湧き水や下水(したみず)を集めながら、藍染川に合流していたに違いないと想像される。

 折口信夫(釈迢空)は近代を代表する歌人の一人で、柳田国男とならぶ民俗学の先駆者であるが、関東大震災(1923・大正12年)のころ、谷中清水町に住んでいたことがあった。その折口の「東京詠物集」(『春のことぶれ』所収)に、次のような「根津」と題した短歌がある。

 道なかに、瀬をなし流れ行く水の
  さゝ波清き
 砂のうへかも

 「東京詠物集」は、大震災で壊滅的な災害を被った東京が、未だ復興の道なかばで苦悶する姿を点描した短歌集で、初出は、1926(大正15)6月から翌1927(昭和2)年6月までの『日光』(短歌雑誌)である。

 根津のあたりで「瀬をなし流れ行く水」といえば藍染川の外に考えられない。字面をそのままなぞると、うっかり見逃しかねないところだが、この歌を詠んだころに、藍染川がさゝ波立て、清く流れていたとは考えにくい。

 藍染川の暗渠化については、連載その12でも取り上げている。東京市が谷中・根津・千駄木地区の藍染川を暗渠化する工事計画を立てたのは1913(大正2)年である。工事の目的の一つは、藍染川による氾濫対策だった。

 タウン誌『谷中・根津・千駄木』第3号は「藍染川すとりーと・らいふ」と題して、藍染川の特集を組んでいるが、そのなかで、官庁に町ぐるみの請願を行ない、1918(大正7)年から排水工事を始めて、千駄木地区は1920年10月に暗渠化された、という住民の証言を載せている。

 それにたいして、『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(編著・鈴木理生)は、藍染川(谷田川)は関東大震災後に暗渠化されたとも、不忍池に注いでいた流れを変更し、荒川に放水する下水道が昭和初期には開削されたとも書いている。

 埋立工事の完了年次について、双方の記述に4年か5年の差があるのが気にならないわけではない。しかし、仮に後者の鈴木理生説に従うにしても、折口信夫が「根津」の歌を詠んだ大正末から昭和初年には、藍染川が「さゝ波清き」状態で流れる景観はとっくに消失していたか、そうでなくとも風前の灯の状態になっていたのではないだろうか。

 最初の「道なかに」の後に読点がある。歌に句読点を用いるのは折口独特の表記法である。歌の流れに転調があることを読点で喚起しているのである。どういうことかといえば、「道なかに」は眼の前にある実景である。しかし、読点以下は、折口の心に浮かんだ過去の幻影に違いないのである。折口の脳裏に刻まれた忘れがたい憧憬といってもいいかも知れない。末尾の「かも」が詠嘆であるのはいうまでもない。埋め立てられ道路に変貌した藍染川をみて、折口は嘆き愁いているのである。この歌は失われた藍染川を追悼する挽歌ということになる。

 同じ「東京詠物集」に「増上寺山門」と題した二首がある。

 仰ぎつゝ
 都ほろびし年を 思ふ。
  このしき石に、涙おとしつ
 国びとの
 心さぶる世に値ひしより、
  顔よき子らも、
 頼まずなりぬ

 「都ほろびし」というのは1923(大正12)年の関東大震災のことである。それより3年か4年後に、折口は増上寺を訪れることがあった。山門を仰ぎながら、そのときの禍々しい出来事を思い出したのである。

 大震災の翌々日の9月3日、折口は1921(大正10)年に次ぐ沖縄および先島諸島への民俗探訪の旅行を終え、船で横浜港に着いた。その翌日、歩いて谷中清水町の自宅に帰るのだが、その途中、増上寺の山門あたりで、刀を抜きそばめた自警団にとり囲まれた。不逞朝鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・強姦をするという流言が広まっていた。

 折口は40日あまりの長旅のくたびれた風体から朝鮮人と疑われたのである。「心(ウラ)さぶる世に値(ア)ひし」とはその出来事を指す。折口は『自歌自註』(1953年)のなかで、こう書いている。「(自警団の)その表情を忘れない」、「平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があるとあんなにすさみ切つてしまふ」。

 それよりこのかた、「顔よき子らも、頼まずなりぬ」というのである。頼むとは、信頼するの意味である。同じことを『自歌自註』では、「此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた」とも書いている。

 谷中清水町の地名由来となる弘法清水の伝承については、これとよく似た説話が各地に散在する。もちろん作り話に違いない。この伝承で重要であると思われるのは、嫗が廻国の修行僧を最初から弘法大師と見抜いていたわけでない点にある。嫗は他国からたまたま訪れた正体不明のみすぼらしい僧侶を下にも置かないもてなしをしている。そこには旅する者は神や仏の身をやつした姿であるとする古代から連綿と続く庶民信仰の伝統が息づいていたように思われる。(以下略)

2022年7月14日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(6)」

 1965年2月、日韓基本条約仮調印、6月本調印。ヴェトナムに沖縄から爆撃機B52発進。これに反対する激しいデモ取材に明け暮れしたあとに、5年ほど住みついた?警視庁担当から遊軍に移った。

 それ以前のことになるが、63年に大阪社会部長の稲野治兵衛さんが東京社会部長になって、稲野部長は大阪社会部から寸田政明さんを東京社会部に呼んだ。寸田さんは警視庁七社会に在籍し捜査4課(暴力団ウオッチ)を担当した。暴力団にめっぽう詳しい記者で、私はたくさんの関西暴力団の写真を見せてもらい驚いた。酒が強く、コップ酒をぐいっとあおって警視庁食堂から取り寄せた夕飯を食べ、夜回りに出て行った。

*社会部は取材チームを組んで「組織暴力の実態」を連載。反響大きく、稲野部長、佐々木武惟副部長、道村博、寸田政明、吉野正弘、山崎宗次の6人に社長賞、そして新聞協会賞を受賞した。

遊軍兼気象庁担当・台風と噴火の恐怖と地震と

 1965(昭和40)年後半、遊軍兼気象庁担当になった。お天気相談所であれこれ気象の話を聞くのは楽しかった。気象関係の書物を繰り返し読んだ。当時のことを記しておきたい。

 予報官も台風の進路予想を出すのはなかなか困難な作業で担当記者まで心を悩ました。大きな台風が接近しそうだと社会部と地方部、写真部は1日ぐらい前から、上陸が予想される地点、例えば伊豆半島とか房総半島のしかるべき地点に取材者を派遣し、待機した。今日ほど予報官から発表などない。まして、いまTVで見るようなコンピューター予報などは。だから、社に上陸地点の予想を伝えるのには神経を使った。房総の突端に配置したのに進路がずっと南や北だと、まるで自分の責任のような気がした。

 1965年11月、東京から南へ600キロ、鳥島が爆発噴火の恐れが出た。沖縄も小笠原もアメリカの施政権下だったから、鳥島は日本の最南端。島には気象庁気象観測員と避難小屋建設の作業員あわせて52人が滞在していた。この人たちを救わねばならない。横浜から島に向かう海上保安庁の「のじま」に乗船せよとのデスクの命令。急遽、写真部とハンディトーキーを持って横浜港に行き乗船。出港に間に合った社の記者たちも一緒である。記者のほとんどはひどく船酔いしたが、朝日の写真部員と私はそれほどでもなかった。暗くなり始めたころ、「のじま」は島から500メートルほどのところに停船した。

 乗船していた気象庁の諏訪彰火山課長が状況説明。「これ以上、船を島に近づけることはできない。暗い海に艀は出せない。もし島が爆発噴火すればこの船はやられてしまう。しかし、これ以上島から離れることはできない。離れたら島にいる観測員たちが自分たちは見捨てられたという不安と恐怖にさいなまれるだろう。みなさんも覚悟してもらいたい」。島の海岸線に信号の焚火がかすかに見えた。記憶の底にこびりついている一昼夜である。

鳥島(2002年)

 まんじりともせず夜が明けると気象庁の観測船「凌風丸」が到着し「のじま」に接近、記者たちは縄梯子を伝って「凌風丸」に乗り移った。艀が何度も往復して52人を救出した。

 帰りはかなりの雨。船のマストにアンテナを縛り付け、ハンディトーキーで原稿を送ろうとするが、なかなかうまくいかない。船のファクスを借りての簡単なプール原稿だけ。船を降りても会社に帰りたくない気分で、自分への責めが残った。島は爆発を免れた。一連のこの動きは、やがて新田次郎が小説『火の島』にした。

支局にどんと大型編集車

 1966(昭和41)年春、長野県松代(現長野市)群発地震の応援取材で米山貢司さんと長野支局へ。ドーンと下から突き上げる気持ちの悪い地震だった。写真部員は風呂に入る時もカメラを出入り口に置いて瞬時に備えていた。社会部デスクだった末安輝雄さんが支局長で、支局にはやがて社会部員となる越後喜一郎、大島幸夫、堀一郎、堤哲、長崎和夫(のち政治部)君がいた。長崎君は市街地外れの皆神山のだったか、地震の地滑りに乗り、そのルポが社会面トップに。

 気象庁は大型地震になる心配をしていた。それに備え東京から大型編集車が来て支局に横づけした。さいわい地震はその後、沈静化した。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月11日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(5)」

国鉄大事故続き、そして東京オリンピック

右下のベッドに横たわる写真が大島さん

 警視庁捜査1課担当当時、1962(昭和37)年5月3日夜、国鉄常磐線の東京三河島で列車事故、死者160人。夜回りの途中、現場に向かった。真っ暗な中に死体、死体。この事故に警視庁は捜査本部を設置、1課第2係が捜査にあたった。原因究明には時間がかかった。夜回りの取材には列車のブレーキの構造、運転台のことなどを知らなければ話が聞けず、勉強に苦労した。

 この大事故で重傷を負った乗客に大島幸夫という青年がいて、病床で毎日新聞社会部記者の取材を受ける。大島青年は大会社に就職していたが、この取材がきっかけで毎日新聞入社試験を受けて合格。長野支局から社会部へ。大島君への取材者は中野謙二さんだったという。中野さんはのち外信部へ。

三河島列車事故現場

 翌1963年11月9日真昼、国鉄東海道線・川崎の鶴見でまた大列車事故。死者161人。私はそのとき、右翼の大物田中清玄が東京会館正面でピストル3発撃たれて重傷を負った現場にいたが、デスクの指示で直ちに鶴見に向かった。見分けがつかぬ血塗られた死者のかたまり。すさまじい現場だった。(この夜、九州の三池炭鉱で爆発、死者458人)

航空機事故そして伊豆大島大火

 同年8月17日、伊豆諸島の八丈島空港を発った藤田航空4発プロペラ機(乗員3、乗客16人)が消息を絶ち、21日、八丈富士の中腹に墜落が判明。写真部員と社機で八丈島へ。

 1965年1月11日、伊豆大島の中心地、元町で火災発生。警視庁で泊り明けだったが、警視庁にはだれか出すからすぐに羽田にとのデスクの命令。藤野好太朗キャップや写真部員と社機で大島空港に向かった。567戸を焼いた「大島大火」である。

東京オリンピックと亡命

 1964(昭和39)年10月10日朝。前夜の激しい雨がぴたりとやんで快晴。私は警視庁公安部、警備部担当だった。世界は東西対立、自由圏と共産圏の対立が際立っていた時代だったから、オリンピックを機に選手役員、観客からの亡命者が出ると警戒、公安部は神経をとがらせていた。昼は警備、交通、夜は亡命警戒の夜回りの日々である。

 朝日新聞に抜かれた。何とか抜き返そうと懸命だった。警視庁に保護を願い出た外国人がいることをキャッチ、しかもアジアの選手らしい。調べつくし、夜遅く、外事2課の幹部宅に確認に行ったが、黙したまま。もう寝るという。首の動き、表情を読んで大丈夫だと判断、原稿を送った。1面左に大きく載って選手の亡命を抜き返すことができた。亡命事件は全部で7件も起きた。

日本共産党の分裂

 警視庁公安部公安1課は日本共産党の動向をマークしている(当時。現在は公安総務課)。日共の党本部は、部分核停条約の評価をめぐり、国会で条約に賛成した志賀義雄(衆)鈴木市蔵(参)を除名、さらに神山茂夫、中野重治、佐多稲子らを除名。党書記長宮本顕治らとの対立が激しくなった。ソ連共産党と中国共産党の対立、日共の中共批判公然化。共産主義は国際的に多様な局面にあった。

 日本共産党は一層分裂を重ね始めた。日曜日の朝、谷畑良三デスクから電話があった。あの件もう少し掘ってみてくれという。家に社の車が来た。新しい主張をしようとしている人たちを訪ね歩いた。共産党を除名された内藤知周のところで長時間話しているうち、自分たちの主張、方針などをまとめた文書を見せてくれた。夕方、社会部に電話、谷畑デスクに取材結果を報告すると、それで十分だ、上がって原稿に、という。

 原稿を書き始めると、12版から入れようとしたのだろう、谷畑デスクは本番デスクの了解をとって、1枚ずつひったくるようにして目を通し、整理部に渡していった。前日午後からのデスク勤務だったのに1日中待って原稿を見てくれたのであった。谷畑デスクはモスクワ特派員から社会部デスクになった人だから、共産党の国内外の事情に関し第一人者である。翌日、公安1課を回っていたら、「きのうはご苦労さんだったねえ」 ? みんな見張られていたのであろう。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月7日

森浩一・元社会部長の「東京社会部、記憶の底から(4)」

警視庁「七社会」へ、捜査1課担当

吉展ちゃん事件解決の立役者・刑事平塚八兵衛さん

 サツ回りの1年が過ぎて私は1961年(昭和36)年、遊軍となった。ほどなくして部長に呼ばれた。「警視庁に応援に行ってくれ」。捜査1課担当の山崎宗次さんが短期間入院するためで、すぐ遊軍に戻るのだと思っていた。山崎さんは元気で退院したが、キャップからは一言もない。ついに警視庁に居ついて約5年、牧内節男、藤野好太朗、道村博の3代のキャップの下で鍛えられた。当初のメンバーは記憶の底にこびりついている。

 キャップ牧内さん。刑事部捜査1、3課、鑑識課担当が道村博、山崎、森。2、4課担当は石谷龍生,新実慎八。公安、警備両部が高井磊壮、白木東洋。防犯部が開眞。交通部は高橋正賢。すごい先輩ばかり。多くを教わった。開さんと白木さんは紛らわしいのでオープンさん、ホワイトさんとも呼ばれていた。

 捜査1課の第1係(殺人捜査)は1号から6号までの6班が小部屋(捜査員の部屋、デカ部屋)に分かれ、1部屋に10人ぐらいの刑事がいた。事件発生に待機している部屋もあれば、捜査終了後の諸整理をしている部屋もあった。はじめのうち、このデカ部屋に入るのには相当な勇気が要った。腹を決めて、恐る恐る入った。顔と名前を覚えてもらわないことには、こっちは仕事にならない。

鑑識の神様からの教訓

 それに比べると鑑識課は大きな部屋で、あまり抵抗感なく出入りできた。鑑識課は現場から得た資料の分析等捜査の基本となる事項を扱うから面白いところでもあった。

 鑑識課に岩田政義さんという係長がいて、のちに鑑識課長になり、鑑識の神様と言われた人である。岩田さんの席に行っても何も言わない。1か月以上たっていたろうか。「もういいだろう。アッハッハア……」と高笑いした。解禁というわけだ。どうも、牧内キャップと岩田さんが組んで私を鍛えたらしい。夜回りでお宅にも行ったが、岩田さんはある時「現場百ペン意おのずから通ず」とおっしゃった。またある時、「モノからモノを聞け」とも。事件取材ばかりではない、以後に生きる言葉を私はもらったのである。自分の手帳に「鉄の忍耐、石の頑張り」(ゲーテ)を記していた私は、岩田さんの言葉を書き加えた。

忘れられぬ事件次々

 1、3課担当として取り組んだ事件は、捜査本部事件だけでも相当な数になる。時代の諸相を浮かび上がらせるような主な事件3件だけをしるす。

*吉展ちゃん身代金要求誘拐殺人事件。1963年3月、東京・入谷で村越吉展ちゃん(4)が自宅近くで誘拐され、身代金が要求された(5月、東京に隣接の埼玉・狭山で女高生誘拐殺人事件が起きた)。吉展ちゃん事件は2年余経って容疑者が逮捕され、入谷の墓地で吉展ちゃんは白骨体で発見された。参院選開票が始まっている中で早版から突っ込んだ。犯人逮捕までわたしたち捜査1課担当者も代替わりするほど捜査は長引き、厳しい取材だった。65年7月、取材担当6人(道村、山崎、堀越章、森、原田三朗、小石勝俊)に編集主幹賞が出た。「第一報から終始他紙を圧倒、事件急転解決に際しては速報、内容ともに輝かしい成果を挙げ」と表彰状に。

*ニセ千円札「チー37号」事件(1962年)。「チ」は千円札の千、37は昭和37年の37。偽札製造は国家に対する反逆罪。日銀秋田支店で発見され、以来関東を中心に280枚見つかった。米山貢司さんと取材にあたったが、米山さんの取材にかける執念に頭がさがった。取材は捜査3課や鑑識課と神経戦の様相。1973(昭和48)年11月、犯人未検挙のまま時効成立。

*爆発狂「草加次郎」事件(1963年)。上野署に「草加次郎」名で手製のピストル弾が郵送され、島倉千代子、吉永小百合、東横百貨店などに脅迫状が送られた。地下鉄銀座線電車内では爆発し10人重軽傷。騒ぎが拡大。未解決。

(社会部OB 森 浩一)

2022年7月4日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ③活版配属後の日々

 1957年4月に毎日新聞に入社した直後の5月25日、すぐ前に読売会館が完成して、大阪のデパート「そごう」が開店しました。入口のエアカーテンとかX字状に交差する上り下りのエスカレーターなどが話題に。この年、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が大ヒットしました。

 ネットで「有楽町すし屋横丁」と検索したら「三友」が写っている写真が出てきました。当時の給料日は10日と25日。10日は基準外賃金のみ。給料日の夕方になると、3階の活版場入口には、つけ取りのねえちゃんやおばちゃんがウロウロしていました。

「週6日・10時間労働」でも楽しかった

 活版の新米の仕事は小刷から始まります。文選やモノタイプからくる1段組の小ゲラや、植字からくるハコ組などを印刷して原稿と一緒に校閲へ気送管で送り、ゲラは政治面、社会面、地方版などの大組台まで配達するのが仕事。大刷は組版途中でぬれ紙をとったり、組みあがった1ページの紙面を大刷機で印刷する仕事。

 表は、入社約2年後、58年入社の坂戸悦偉君らが来て、私たち6人は1年先輩の滝沢直幸、林武雄さんの2人の8人で大刷担当となった時の勤務表です。何と毎日2時間の残業が組み込まれた10時間労働で6日勤務。休日はずれているので、みんなが一斉に休めるのは休刊日(元旦と春秋彼岸の年3日)だけでした。それでも、今振り返ってみて、仕事が辛くて辞めようなんて考えたことはなかったように思います。

 当時の雇用関係は、現在のような非正規社員(いやな言葉です。人間に正規・非正規なんてあるんでしょうか)はいませんでした。養成員として定期採用された私たちも、途中入社の人もユニオンショップですので、みんな社員=組合員となり、健康保険・厚生年金・雇用保険とも法律通りの運用がされていました。いつクビを切られるかという不安はありませんでした。

 小刷、大刷を経て、組版課・植字に配属になったのは、1959年入社組が小刷に配属された同年7月ころでした。そして1961年5月に活版選出の青年部委員になり、以後、代表委員はじめ本部役員を経験しましたが、所属はCTS制作に移行するまで、組版課・植字、つまり活版植字工でした。

 ここから先は長くなりますので、入社から小刷・大刷時代の写真を紹介します。

読売会館が見える屋上で。左から高梨、長南、大槻さん
左から長南。学生服の前田、豊島さん
屋上の毎日神社前。前列左から滝沢、高梨さん。後列左から福島、若林、林武雄さん(大志を抱いて1960年1月17日、横浜湊からブラジルへ渡った)
養成員教育修了式1958年3月24日。前列左から小木曽清実、横山進伍、松宮伸治、前田武男、金子善夫、中村守郎。後列左から大西末次印刷局副参事、三井順治、大槻進、豊島篤、福島清、高梨武夫、長南英次郎、若林健一、江守信正、池田克穂管理部長、杉本恢憲管理部副部長

(福島 清・つづく)

2022年7月4日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(3)」

マンモス交番襲撃

 池田内閣が発足し、『安保』が沈静化して世の中は普通の日常に戻り、季節は夏の盛りだった。1960(昭和35)年7月末。突然、東京浅草の山谷ドヤ街で暴動が起きた。いまはドヤ街という言葉を使うかどうか知らないが、ドヤは簡易宿泊所のことである。寝泊まりしている人は日雇い労働者が多く、手配師が仕事を割り振っていた。一種、闇の世界であった。その街に3階建てのマンモス交番ができた。交番と言っても並みの交番ではない。警察官が40人ぐらい配属されていた。

 警察官がある日、窃盗少年と酔っぱらいをマンモス交番に連行した。するとドヤの住人が騒ぎ出し、ついに不穏な群衆と化して、新設なった大交番を襲撃した。警察官多数が重軽傷。騒ぎはますます大きくなった。仕事にあぶれると昼間から酒をあおっていた者もあり、大変な事態。連日2000人以上、3000人と膨れ上がり、投石、放火である。機動隊が出動して鎮圧に努めたが、騒ぎは8月まで続いた。

昭和35年8月1日 山谷交番前に集まった群衆(山谷労働センター「30年の歩み」から)

 戦後社会が15年たち、復興期で建設業などが活発化、人手需要が増して、山谷の街にも人が集まっていた。社会の貧困層に漠然としたやり場のない不満、不安がよどみ、溜まっていたと思う。経済の高度成長への助走期に起きた社会現象ではなかったか。

 浅草山谷の簡易宿泊所はいまや外国人旅行者が利用する宿泊施設となっているという。隔世の感である。

上野動物園

 夕刊に彩が欲しいときなどデスクから「動物園に」と電話が来る。暑い夏など写真部員はペンギンにレンズを向ける。こちらは「ペンギンも暑いでしょうね」などと月並みなことを飼育係に聞くと「ペンギンに聞いてみな」。返事はそれだけである。女性の飼育係が1人いた。何を聞いても黙々と仕事をしていた。

 警察署もそうだが、動物園にもどこにもいまのような『広報』というものはなかった。それだけに、それによって取材者は個々人それぞれに鍛えられた面があったと思う。

新聞カメラマンのステータスシンボル「スピグラ」

 当時、毎日新聞は毎週1頁をさいて『日本の鉄道』を連載していた。サツ回りの私にもその出張取材が回ってきた。連載を取り仕切っていた遊軍の山口清二さんが「青梅線に行ってもらう」と。ちょっと拍子抜けした記憶がある。

 米軍横田基地を抱える立川、福生にかけては、まさにアメリカ軍の基地の町。ここでは基地の飛行場拡張測量で砂川地区の農民と応援の学生が機動隊と激しくもみあった。この砂川事件はのちに日米安保行政協定の合憲性をめぐる問題として最高裁まで争われた。

 立川駅を発った電車からは広大な基地が眺め渡せた。

 青梅駅を過ぎて電車が山間部に入る。写真は山から線路も入れて撮ることになった。写真機は大きなスピグラ。それが確か2台と脚立などの機材。それを分け持って中腹まで登った。

 当時、写真部はもっぱらスピグラ=写真・右=だった。

 大きなスピグラを持って大変だったと思うが、このカメラはもっぱら新聞カメラマンが使い、そのステータスシンボルでもあったらしい。戦後、アメリカ軍が大量に持ち込んだカメラだそうだが、東京オリンピックごろ急に使われなくなったという。事件現場の取材で、スピグラを竹竿の先に縛り付けて掲げ、非常線の外側から撮影した写真部員がいて、驚いたことがあった。取材にかける意気込みはすごかった。

 奥多摩では、蕎麦に清流に育ったワサビ。久々に奥多摩の味覚を味わった。

(社会部OB 森 浩一)

2022年6月30日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(2)」

サツ回り仕事始め 安保闘争ピークに

 秋田支局から社会部に転勤になったのが1960(昭和35)年5月1日。サツ回りで近藤健さんと私の持ち場は、上野署に取材拠点を置く警視庁第6方面本部(上野、浅草、蔵前、下谷、荒川、尾久、南千住警察署)だった。まことに風流な地域ではあるが、「花の雲鐘は上野か浅草か」(芭蕉)などと面白がっているどころではない。東京は騒然としていた。

 *雅樹ちゃん誘拐殺人事件。―――銀座の天地堂カバン店社長の長男、慶応幼稚舎2年生の雅樹ちゃんが学校に行く途中に誘拐され行方不明になって、犯人から身代金を要求されていた。
 *国会は安保阻止国民会議などの10万人デモに取り囲まれていた。
 *文京区では女子高校生が通り魔に刺殺された。新宿や板橋などあちこちで若い女性が狙われる事件が起きた。

国会へ国会へと

 サツ回りは持ち場を離れて連日のように国会周辺のデモ取材に動員された。

 国会請願のデモは全国各地からやってきていた。

 新宿から、渋谷から池袋からとデモ隊が途切れることなく国会へ国会へと向かつた。「安保 反対!」のプラカードとシュプレヒコール。国会、首相官邸、アメリカ大使館周辺はデモ隊で埋め尽くされた。学生、労働者、いわゆる文化人たち、演劇人は首にすてきなスカーフを巻いていた。学者たちの姿も目立った。1年余前まで教えを乞うていたあの物静かな教授がデモの中にいた。各大学では教授陣の安保研究集会や抗議集会がもたれ声明が出た。デモの波は国会周辺から日比谷、新橋、有楽町方面へと流れていった。銀座では道路いっぱいのフランスデモ。

 街角の赤電話を見つけてはメモ帳片手に小刻みに原稿を送った。原稿というより状況報告みたいなものだった気がする。

 国会請願のデモは6月に入ると過激化。「安保 粉砕!」。「反対」は「粉砕」に変わり、ストライキで電車は止まり、郵便や通信にも支障が出た。商店は「閉店スト」。

 6月15日、全学連が国会内に南通用門から突入した。私は国会内のその現場にはいなかったが全学連と機動隊の衝突で東大生樺美智子さん(写真・右)が死んだ。新聞は岸首相退陣を要求した。毎日新聞はじめ在京新聞七社が「暴力を排し議会主義を守れ」との共同宣言を出した。

 この連日の安保闘争を報じる毎日新聞は学生たちの間で特に注目されたとのちに聞いた。

初の女性大臣誕生

 7月に入って岸首相が右翼に尻を刺される事件まで起き、その後、岸首相が退陣。池田内閣が発足。その7月19日、私は当直で夕方から社に上がっていた。「森君、中山マサが厚生大臣で入閣するらしい、追ってくれ」とデスク。行く先々で「さっきまでおられたが……」である。やっと会えたけれど、だいぶ時間がたっている。叱られるだろうと思いつつ電話送稿。社会部に戻るとデスクがニヤリとした。『なんといっていいかうれしくて、女であることの幸福を感じています』。原稿のこの部分がデスクは気に入ったらしく、ほっとした。初の女性大臣誕生であった。

 池田首相は所得倍増計画を発表、これが経済の高度成長、人口の都市集中、その対策としての郊外巨大住宅団地の建設と、世の中は大きく舵を切ってゆく。東北各地からの中学卒の集団就職が続き、彼ら彼女らは「金の卵」と呼ばれた。「あゝ上野駅」の歌ができ、その碑が上野駅東口に立った。「配達帰りの自転車を とめて聞いてる国なまり」。故郷を懐かしみ上野駅に国訛りを聞きに行くのである。近年、映画「三丁目の夕日」「続三丁目の夕日」が、よくその時代の情景、雰囲気を伝えていた。

 7月末、持ち場の浅草・山谷で衝撃的な事件が起きた。

(社会部OB 森 浩一)

2022年6月28日

岸井成格さんの父・寿郎さんの追悼・遺稿集を小野喬啓さんがPDFに

=大阪毎友会ホームページから

※全文、PDFは大阪毎友会のホームページをご覧ください
http://maiyukai.o.oo7.jp/

 2021年、5月~7月にかけて東京毎友会のホームページで、福島清さん(元毎日新聞労組本部書記長、その後制作局次長)が随筆「岸井成格さんの父・寿郎さん」を①〜⑩回に分けて連載されていた。

 内容は30年前(1990年頃の制作局次長時代)に岸井成格さんが福島清さんの職場に来られて「親父は昔、東京日日新聞の印刷部長だった。参考になるかも知れないからと言って、追悼・遺稿集「岸井寿郎」(きしい・としろう)をくださいました。友人たち14人の追悼の言葉に加えて、慶子夫人の36ページもの「夫を偲んで」、そして遺稿4編などが掲載されていますと紹介されていた。

岸井成格さんと父・寿郎さん

 また、福島清さんの随筆によりますと「大正から昭和の激動の時代に立ち向かった寿郎さんの姿勢は、岸井成格さんに受け継がれていると同時に今の社会に対する警鐘のよう思います」とありました。

 岸井寿郎さんは私の故郷・香川県観音寺市の出身で、母校(香川県立観音寺第一高等学校、旧制三豊中学)の大先輩にあたることから、福島清さんが随筆で紹介された記事を、大いに関心をもって読ませて頂いた。

 その後、岸井寿郎さんの追悼集の話を、岸井家の子孫で故郷にある岸井家ご先祖様の墓守をしている同窓生・岸井清純君に、その追悼・遺稿集の話をしたら、その本なら我が家にもあるよとの話になった。

 そこで、その本を借りて読ませて頂きましたが、30数年前の本ですのでかなり色褪せており、縦書き活字も小さく読みづらかった。そこで、全頁をパソコンに接続しているスキャナーで画像として織り込み、OCRソフトを使って電子ファイル化しました。また、パソコンやスマホでも読み易いように横書きに変換しましたので、全頁をPDFで紹介させて頂きます。

 岸井寿郎さんの略歴は、遺稿集の末尾に簡単に記載されておりますが、追悼文に書かれていることや、地元の旧常盤村常盤誌、Web情報などによりまとめました。

 岸井寿郎(きしいとしろう。故郷では「じゅうろう」さん、と呼ばれていたようです)は1891年(明治24年)5月28日、香川県豊田郡常磐村(現観音寺市村黒町)で藍玉製造業と全国に販売をしていた豪商家に生まれ。香川県立三豊中学(現観音寺第一高等学校)、第三高等学校(京都)を経て、1917年東京帝国大学法学部英法科卒、司法官試補を経て、1919年(大正8年)11月に大阪毎日新聞に入社して、東京日日新聞社(当時大阪毎日新聞社社長・本山彦一が社長)に勤務。1930年政治部長兼印刷部長を務めた後、1937年退社して実業界へ。1942年香川2区から衆議院議員となり、1945年12月まで一期を務める。以後再び実業界へ。戦後は日本デリス社長、協和鉱業社長、中央広告通信会長を歴任。1970(昭和45年)年10月1日、79歳で永眠。

 先妻が病死後、再々婚された慶子夫人との間には成格さん(三男)と巍次さん(四男)の二人の息子さんに恵まれた。岸井成格さんは平成21年発行の観音寺第一高等学校東京支部同窓会誌「燧34号」の特別企画の鼎談に父の名代として出席されている。

 1932年(昭和7年)4月19日から5月10日かけて大阪毎日新聞と東京日日新聞に『連盟を脱退すべし』を連載し国際連盟の無益有害なることを強調し「世界は今渦の如くわき立っている、国内的に、国際的に、目まぐるしく流転を始めている日本」と二本の論文を発表されたとある。

 毎日新聞社在歴19年であったにもかかわらず、在任中に社命を受けて洋行する際、本山彦一社長自ら横浜の港まで見送りに来ていただいたことなどが記されている。また、亡くなった昭和45年には、当時の毎日新聞社の田中香苗社長が葬儀委員長となり、故人をお見送りされた他、追悼文を寄稿されるなど破格の扱いを受けていたことが記されている。

 その他、毎日新聞社社史には記述の無い事柄も沢山掲載されている。

(元大阪本社制作局 通信システム部 小野喬啓)

<参 考>

 平成24年に同窓生の岸井清純君から手紙を預かって、岸井成格さんに届けたところ、岸井成格さんから丁重な葉書を頂いた。

2022年6月27日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から (1)」

はじめに、そして1960(昭和35)年

毎日新聞旧社屋の跡地に建てられた有楽町のビルの前で撮影

 毎日新聞OB・OGの『毎友会ホームページ』制作や執筆に力を注いでいる社会部OBの天野勝文、堤 哲、高尾義彦の三君から私に東京社会部員としての個人史を書くようにとの要請が来ました。もうメモも残してないし物忘れがひどくなっています。難聴で電話での問い合わせもできません。とうてい無理なので私は固辞しました。けれども「1960年以降の社会部の生き証人だ」と言われて私は考え直しました。

 『60年安保』(1960年の日米新安全保障条約締結)は、戦後社会の変革の一大契機であり、今日まで続く政治の姿の、経済発展の、大都市とりわけ東京圏への人口集中、人々の日常生活大変化のスタート台であったと思います。

毎日新聞社の貫禄十分の社屋

 すでに私も87歳、多くは忘却の彼方ですけれど、1960年代、70年代の激しく変貌する時代の風をもろに受けながら、昭和35年以降の東京社会部在籍20年余の一記者が経験した道を思い起こし、時代と東京社会部の断面を浮かび上がらせることができれば何かのお役に立つかもしれないと思いました。当今のデジタル化時代、新聞および新聞社はこれからどこに向かうのかを思いつつ。

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 1960(昭和35)年5月1日、私は秋田支局から東京社会部へ異動。秋田駅から特急で12時間かけ上野駅に到着、山手線で有楽町駅へ。1年前、秋田に出発するころは、まだ街にフランク永井の「有楽町で逢いましょう」が流れていた。それを懐かしむ気持ちの余裕もなく駅を出て、毎日新聞社の貫禄十分の社屋(写真・上)をじっと見つめた。

 その時の社会部長は杉浦克己さん。デスクは見谷博、柳本見一、桐山眞、三木正、森丘秀雄さんの5人。警視庁キャップが佐々木武惟さん、サツデスクは牧内節男さんと清水一郎さん。桜木谷範秀さんが部長席うしろのちょっと奥まった小部屋で事務を扱っていた。この大先輩の方々のことは目に浮かぶように覚えている。

 泊りで社会部に上がった夕方、原稿を書いている女性記者がいてびっくりした。当時、女性の社会部員は古谷糸子、岡本初子、関千枝子のみなさん。在籍した増田れい子さんは「サンデー毎日」に移っていた。あの時代に、すごい会社だった。外信部にも女性記者がいるのが社会部の席から見えた。

 サツ回りは14人、社会部1、2年生が警視庁各方面本部に2人ずつ。私は近藤健さんと上野・浅草・荒川の6方面担当になった。近藤さんは間もなく遊軍に、その後外信部へ。近藤さんのあとにずっと年上の岩本實さん。この年の秋ごろからだったと思う、地方部や支局からベテラン記者の社会部への異動が始まった。ベテランといえども社会部ではまずサツ回りからだった。

 サツ回りには木曜会があって、毎週木曜日、夕刊が終わった午後3時、編集局の会議室に集まった。サツデスクからの指示などもがあったが、ざっくばらんな話をする会でもあった。お互いを知りあう良い機会だった。

 サツ回りには夕刊の小さなコラム『赤でんわ』が課せられていた。赤電話は街のどこにでも設置されていた。通信連絡には極めて重要で便利な赤電話だった。コラム『赤でんわ』とはステキな名前だと思いつつ、これは街ダネを拾えということでもあるなあ、と思った。いい原稿だと先輩から褒められた。年末には『赤でんわワイド版』を書いた。

 聞けば『赤でんわ』は1年前の1959年4月1日にスタートしたという。サツデスクが増田滋さんと牧内節男さんのときで、ネーミングはのちに防衛・航空記者になる鍛冶壮一さんだったらしい。増田さんは東京オリンピック前の60年ローマオリンピックに、そして牧内さんは東京オリンピック後の68年メキシコオリンピックに特派された。皇太子妃となる正田美智子さんの取材に深くかかわっていた清水さんが役目を終えて増田さんの後任だった。

 さて、回顧にふけっている時ではない。私が東京社会部の一員となった1960年春の………世の中は騒然としていた。東京は恐ろしいところでもあった。

(社会部OB 森 浩一)

 森 浩一さんは1959(昭和34)年4月東京本社入社、5月秋田支局 /1960(昭和35)年5月東京・社会部 (サツ回り、警視庁七社会、遊軍兼気象庁、都庁クラブ、2度目の遊軍、国会クラブ、3度目の遊軍、遊軍長、サブデスク)/1974(昭和49)年5月中部報道部副部長 /1976(昭和51)年3月東京社会部副部長兼警視庁キャップ、10月副部長専任 /1977(昭和52)年12月社会部長 /1982(昭和57)年9月学芸部長(新設の生活家庭部長兼務)のち編集局次長兼務 /1985(昭和60)年6月経営企画室長 /1988(昭和63)年6月から1991年6月まで東京・編集局長(89年6月取締役) /1991年6月出版・英文毎日・学生新聞担当/1992(平成4)年6月から1994年6月まで常務取締役 /同年6月スポーツニッポン東京本社社長 /2000(平成12)年6月スポニチ社長退任。

・森浩一さんが社会部に在籍した当時の社会部長は以下の通りです。

(頭の数字は在任順、敬称略)

26杉浦 克己 1958.8~ 27角田 明  1961.8~ 28稲野治兵衛 1963.8~
29森丘 秀雄 1966.8~ 30谷畑 良三 1968.8~ 31畑山  博 1971.2~
32佐々木武惟 1972.4~ 33竹内 善昭 1975.2~ 34牧内 節男 1976.3~
35石谷 龍生 1977.4~

※寄稿をお願いした経過を付記します。早稲田大学政治経済学術院、土屋礼子教授から昨年4月に「社会部経験者の聞き取り調査をしたい」との依頼があり、森浩一元社会部長をはじめ9人を推薦しました。その結果は今年3月に「個人史聞き取り調査」報告書として刊行され、毎友会ホームページで紹介しました。この過程で森浩一元社会部長の聞き取り調査が大学側の手違いで実現しなかったため、寄稿をお願いした次第です(事務局)。

2022年6月20日

泰さん、恒さん、三千麿さん…運動部記者と「記録の神様」山内以九士

『野球殿堂』2018(野球殿堂博物館発行)から

 《「記録の神様」山内以九士と野球の青春》(道和書院刊、定価2,000円)が出版された。著者は、孫の読売新聞記者・室靖治さん(54歳)。

 山内以九士(1902~72)は慶應義塾野球部OBで、1985(昭和60)年に野球殿堂入りしているが、この本には毎日新聞運動部の記者がいっぱい出て来る。それを紹介したい。

 「記録の神様」は、打率早見表をつくった。タイガー計算機を使って700打数300安打まで計算、351ページに、下4ケタの数字15万8500個を収めた。

 『ベースボール・レディ・レコナー』。1954(昭和29)年7月刊行。自費出版である。

 当時、ピッ・ポッ・パッで即座に打率が算出される計算機はなかった。

 「新聞社運動部では神様からの贈り物のような貴重な本だった」と石川泰司(元東京本社運動部長→編集局次長。97年没69歳)。現物は日本体育大学図書館で見られる。

 泰さんは、名文記者として知られた。英語をよくして外信部を志望していたが、初任地浦和支局から運動部へあげられた。

 外信部の脇にあった外電のチェッカーから吐き出されるsports記事は、運動部に運ばれた。それを読んで原稿にするかの判断は、運動部の記者の仕事だった。英語遣いが必要な職場だった。

 山内さんが打率早見表をつくるきっかけは、1939(昭和14)年のセンバツ(全国選抜中等学校野球大会)だった。

 この大会は、東邦商(現東邦高)が5試合、73安打、59得点、チーム打率3割6分2厘という猛打で優勝した。山内さんは、大毎本紙の大会後記の最終回に「数字が語る東邦の威力」という見出しで「山内佐助」の署名で書いた。本名は「育二」だが、島根県松江市の呉服商の「7代目佐助」を継いでいたのだ。

 その大会期間中に大毎の運動部記者から「打率早見表があったら」と持ちかけられ、「事の重大さに気づかず」膨大な作業に取り掛かかったという。

野球博物館のニュースレターから

 翌40(昭和15)年「紀元二千六百年記念」と銘打って『野球成績早見表』全127㌻を自費出版した。

 依頼したのは同志社高商を卒業して1936(昭和11)年入社の蜂須秀夫(67年没53歳)だが、《記者は喜ぶどころか、頼んだこと自体忘れていた。…「戦争、戦争で野球の記事もかけないから要らない」と言う》。

 「この打率早見表(レコナー)を大リーグに紹介したのが、鈴木三郎さんだ」と筆者の室さんは言っている。

 鈴木は同志社大学英文科→京都帝大(現京都大学)文学部を修業して1920(大正9)年に大毎に入社した。27(昭和2)年から3年余りNY特派員、その後大毎と東日で運動部長をつとめた。41(昭和16)年2月から南米ブエノスアイレス特派員。44年1月にアルゼンチンが日本との国交を断絶、本社からの送金が途絶え、生花を市場で仕入れ、それを売って生活費を稼いだ。敗戦後の47(昭和22)年に帰国。『タンゴに乗って―アルゼンチン夜話』(日本交通公社出版部、49年刊)を出版している。62年没68歳。

 日本のラグビーは慶應義塾が創始校で、同志社との定期戦は1912(大正元)年に始まったが、鈴木は、そのファーストマッチにFB(フルバック)として出場している。ラグビー早慶戦の始まる10年前である。

 山内さんは、松江中学から1920(大正9)年慶應義塾大学に入学、野球部に入部する。

 その時の慶大のメンバーが載っているが、主力選手は卒業と同時に、ちょうどその年に発足した大阪毎日新聞社の野球チーム「大毎野球団」の選手として迎えられている。

  投手・小野三千麿(野球殿堂入り)
      新田恭一(23年度主将)
  捕手・森 秀雄(20年度主将)
  遊撃・桐原真二(24年度主将、野球殿堂入り)
  右翼・高須一雄(21、22年度主将)

 この5選手は、いずれも1925(大正14)年に大毎野球団がアメリカ遠征をしたときのメンバーである。

 山内さんは、1950(昭和25)年のプロ野球セ・パ2リーグ分裂で、「太平洋野球連盟(パソフィック・リーグ)」の公式記録員となる。

 太平洋野球連盟は、発足当時、有楽町の毎日新聞東京本社内に置かれていたのだ。

 最後にもう一人、岩崎恒(2004年没79歳)。恒さんは、1943(昭和18)年入社の運動部記者。運動部デスクから青森支局長になり、72(昭和47)年2月学生新聞編集部に部長待遇で戻ったときに、山内に連載を頼んだ。

 毎日中学生新聞に連載された「プロ野球珍記録あれこれ」だ。

 野球好きには楽しい本です。《「記録の神様」山内以九士と野球の青春》、手に取ってみて下さい。野球発展に毎日新聞がどれほど寄与したかも分かります。

(堤  哲)

2022年6月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その20(後編) 道灌山の正岡子規と芥川龍之介(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 道灌山に胞衣会社が設立されたのは、『文化の瀧野川』によれば、1895(明治28)年ごろだという。敷地は5000坪。その内の3000坪に胞衣神社と運動場があり、一般に開放されていた。一時は飛鳥山公園以上の賑わいぶりだったようである。しかし、いつのころかはっきりしないが、鉄道省の手にわたり、この本の刊行された1923(大正12)年には、鉄道省の官舎が建ちならんでいた、と書かれている。

『年末の一日』の初出は、『新潮』の1926年1月号である。巻末にある「(大正一四・一二・八)」の表記は、小説を書き上げた日付の意味である。この日は漱石の命日の前日にあたる。ところが、小説でいう「年末の一日」は、漱石の9年目の命日を何日か過ぎたある日ということになっている。時間的な辻褄が合わない。しかし、こんな大事なことを編集者が見落とすはずがない。

 だとすれば、「(大正一四・一二・八)」の表記は、この小説は事実ではなく虚構だとわざわざ断っているのである。『文化の瀧野川』の上記の記述が事実だとすれば、『年末の一日』を芥川が書いたとき、実在の日本胞衣会社は移転したか倒産していた可能性がある。

 木下忠の『埋甕―古代の出産習俗』は、わが国の古代から近代まで胞衣習俗の歴史を考察した労作である。木下によれば、胞衣および産穢物についての取締規則が1887(明治20)年ごろから全国の府県でしだいに定められていった。東京の場合は、1891年3月、警察令第三号が次のような骨子で施行されたという。

 胞衣及産穢物ハ家屋ニ近接セル場所ニ埋納スヘカラス、但胞衣産穢物取扱営業者ハ東京府庁ノ許可ヲ得タル一定ノ埋納焼却場ノ他埋納又ハ焼却スルヲ得ス

 胞衣を人家に近い場所へ埋納することが出来なくなった。また胞衣の取扱営業者が東京府の許可する場所以外で埋納することも焼却をすることも禁止された。

 この警察令では胞衣は産穢物とは一応は区別されているが、取り扱い方に変わりはない。胞衣は産穢物の一つで、単なる穢(きたな)い物、非衛生な危険物と見做されたことになる。私たちの祖先が胞衣を大切に扱ってきた風習に大きな変化が生じたのである。

 道灌山に胞衣神社が建立された詳しい事情は不明だが、この取締規則に基づく措置であったことは想像するに難くない気がする。

 正岡子規に『道灌山』の紀行文がある。

 1899(明治32)年9月28日、子規が道灌山を訪れ、胞衣神社の前にあった茶店に立ち寄っている。『道灌山』の初出は、10月2日と9日の新聞『日本』である(註18)。芥川龍之介の『年末の一日』より25年前になる。

 そのころ、子規は結核の病状が悪化し、歩行が困難になっていた。そのため、人力車を頼み、根岸の自宅から田端に向かった。田端停車場が出来たのは3年前である。周りを廻ると新築の家が建ちならび、なかには料理屋の看板を掛けた家もあった。また歯磨きや煙草の広告が目ざましく聳え立っていたとも書いている。駅のあたりはすでに市街化が進んでいたことになる。

 子規は田端停車場(田端駅南口)から開削されたばかりの急峻な不動坂を上り、田端高台通りに出た。胞衣神社は停車場の真上にあった。

 胞衣神社の前の茶店に憩う。この茶屋此頃出来たる者にて田端停車場の真上にあり。固より崖に臨みたれば眺望隠す所無く足下に見ゆる筑波山青うして消えなんとす。我嘗て此処の眺望を日本第一といふ。平らに広きをいふなり。(中略)
  岡の茶屋に我喰ひのこす柿の種投げば筑波にとゞくべらなり

 この紀行文でいう道灌山は、現在の西日暮里駅から田端駅あたりまでのJR線路に沿った丘陵のことである。この丘陵は上野から赤羽まで連なり、これに併行して、北西崖下の低地にはJR線路(京浜東北線)が敷設された。

 道灌山の地名由来は、室町時代の太田道灌の斥候台があったからとも、鎌倉時代の関道閑の屋敷があったからともされる。それに加えて、道灌山がどこかとなると諸説あり、書物により一定しない。例えば『新編武蔵風土記稿』は秋田藩佐竹氏下屋敷(現在の開成中学・高等学校)東側の崖際としているが、『江戸名所図会』は、新堀(日暮里)から北は平塚(上中里)までの広範な地域だと書いている。

 確かなのはこの台地の東側は断崖が続き、眺めがよいことである。子規は「我嘗て此処の眺望を日本第一といふ」と書いているが、広々した関東平野の彼方に筑波山が望めた。武家地として奪われなかったこの自然豊かな高台は、江戸時代を通じて庶民の行楽地となった。とりわけ秋の夜長には涼を求めて集まる人たちで賑わったといい、また酔客による土器(かわらけ)投げも名物の一つだったといわれる。

 土器投げは京都の高雄山や愛宕山の花見で流行った遊びで、投げた土器が空中で舞うさまを楽しんだとされる。もとを正せば疫病退散や魔除けなどが目的の信仰習俗だったとみられるが、高雄山(神護寺)のほか、滋賀竹生島の都久夫須麻神社・宮崎青島の青島神社・神奈川大山の大山寺などに同様な趣向の行事がいまも残っている。子規は柿を好んだようだが、「我喰ひのこす柿の種投げば」の句は、この土器投げの習俗に擬えたものとみられる。

南泉寺。小祠に祀られた陰陽の石像。額に「おまねぎ」「客人祭」。荒川区西日暮里3-8-3。2012.11.18

 それより間もない10月のある日、正岡子規は道灌山の胞衣神社で石井露月を送別する『ホトトギス』同人による句会を開いている。『柚子味噌会』はこのときの模様を記した随筆で、11月発行の『ホトトギス』に掲載された。

 石井露月は子規に師事し、新聞『日本』に勤めた。子規は河東碧梧桐や高浜虚子にならぶ警抜と評した。1年前に医師試験に合格。この年は京都で6ヶ月におよぶ実地研修を受けた。いよいよ郷里の秋田に帰り、これから医師として再出発するところ。その途中、東京に立ち寄ったのである。

 東都の同人、日を卜して露月を道灌山胞衣神社の傍に送る。此日秋陰将に雨ならんとして冷気野に満つ。障子を閉じ火鉢を囲んで話す。五彩の幣帛床に揺れて静にして風無く、浅紅の茶梅階(ちゃばい きざはし)に落ちて微(かすか)に声あり。崖上に句を拾ふ者、胞衣塚に畫(え)を写す者、呼べば即ち来る。行厨を開き芳醇を汲む。虚子齎(もたら)す所の柚子味噌、是日第一の雅味と為す。

「東都の同人」は東京在住の『ホトトギス』同人。「胞衣神社の傍」は上記の茶店。「障子を閉じて」以下は、茶店内部の描写である。「五彩の幣帛」(五色の御幣)が飾られているのは、胞衣納めがお祝いの行事と考えられていたことを物語る。「浅紅の茶梅階に落ちて」の「茶梅」は山茶花のこと。後掲の子規の句では、その前に広がる芝生で子供が遊んでいた。

「崖上に句を拾ふ者、胞衣塚に畫を写す者、呼べば即ち来る」とある。道灌山の胞衣神社で行われた句会は、これが最初ではなかったように思われる。「畫を写す者」とは画家のことだろう。この句会には下村為山(牛伴)が加わっている。石井露月が『ホトトギス』の同人たちから慕われていたこともあるだろうが、道灌山と胞衣神社は彼らにとって以前から馴染み深い場所だったのである。だからこそ「呼べば即ち来る」ことになったとみられる。

『柚子味噌会』の末尾、露月を激励する子規の言葉。

 豈慚愧無からんや。得意は爾(なんじ)が長く処(を)るべき地にあらず。長く処らば即ち殆(あやふ)し。如かず疾く失意の郷に隠れ、失意の酒を飲み、失意の詩を作りて以て奥羽に呼号せんには。而して後に詩境益進まん。行け。

続けて「附記」に載る16句から。

  胞衣塚や桜落葉の吹溜   牛伴
  皆曰く是より遠し秋の風  露月
  山茶花や子供遊ばす芝の上 子規

「得意」は、胸を張って秋田に帰ることになった医学のこと。「失意」は志半ばで挫折した文学のこと。露月は文学で身を立てられず、医師への転身を図った。この句会は医師として生まれ変わる石井露月を祝福するいわば胞衣納めの行事だった。であるのに、子規は「豈慚愧無からんや」(恥ずかしくはないのか)と叱咤している。なぜか。露月の文学的才能がこのまま朽ちるのを惜しんだのである。(中略)

 子規は、先に述べたように、歩くことも難しくなっていた。結核が悪化し、脊髄を冒されていたのである。当然、死が遠くないことは覚悟していた。子規の筆名は血を吐くまで啼き続けるホトトギスの別称だということである。最後の最後まで生きる拠り所となったのは、医学ではなく、文学(言葉)だったのである。

2022年6月1日

福島清さんの「活版工時代あれこれ」②養成員教育から活版へ

 入社式翌日の1957年4月2日から3期にわたる「養成員教育」が始まりました。

【昭和32年度技能者養成教育実施計画】
◆第1期(4月1日~4月30日)

①本社職員として必要な教養知識を培養する②印刷全般の基礎知識を修得させる③各種作業の基本教育及実習により印刷工場の輪郭を把握させる。

 第1期は以上の目的に沿って、午前中は「教養講座」午後は印刷局各部の紹介を兼ねた「実習」でした。

「教養講座」のテーマと講師は以下の通り。
新聞について        印刷局長 三宅 俊夫
新聞工場の施設について   同次長 長谷川勝三郎
新聞工場の作業について   同次長  小野  勝
本社の沿革と組織機構    人事部長 名取壌之助
本社の編集方針と通信機構  編集局次長 石井貞二
本社の営業について     経理部長 梶山  仁
出版刊行物について    出版局次長 千歳 雄吉
養成員制度と任務      管理部長 池田 克穂
活版の任務         活版部長 増田  弘
写真製版の任務     写真製版部長 竹下 嘉吉
活版について      活版部副部長 古川  恒
印刷・紙型について      紙型課 上坂 幸雄
印刷・鉛板について      鉛板課 後藤 賢司
印刷・輪転について      輪転課 林   秀
写真製版について  写真製版部副部長 吉村 茂三
本社の諸規定について  管理部副部長 杉本 恢憲
安全衛生について    管理部副部長 杉本 恢憲
輪転印刷について    管理部副参事 大西 末次
インキと用紙について  同      田口  大
結核と予防について      診療所 進藤 博士

 第1期中の4月23日は、金曜社、インキ会社、十条製紙の工場見学でした。印刷関係の担当者にはまじめに教育しようという意気込みがありましたが、印刷以外のある幹部は、頼まれたから仕方なくやっている感じで、適当なことを言って、あとはバカ話で終わりでした。講師のみなさんはとっくに鬼籍に入っていますが、管理部副部長の杉本恢憲さんは、教育全体の責任者でおっかない人だったことを覚えています。

◆第2期(5月1日~7月31日)
①仮配属部の各課作業全般にわたる知識を習得させる②各課作業の完全な技能習得③作業環境、工場の気風に順応させる④各課作業が新聞製作上もつ意義と責任を認識させる。

◆第3期(8月1日~12月31日)
①仮配属部課の担当業務に習熟させる②基本教育及実習の補足を行う③仮配属部課の業態と作業規律及気風に十分順応させる。

 1年間の研修終了後、提出させられた研修報告ノートが残っています。最初に三宅俊夫・印刷局長の「新聞について」の講義があります。

 太平洋戦争を契機に日本は民主主義国家になった。その民主主義の根本は即ち真実を知ることである。国民が何も知らずに政治が行われた時に、それ、は独裁政治となり、戦前の日本が歩んだ道を再びくり返すことになるだろう。真実を知るためには言論の自由がなければならない。この言論の自由を守るものが新聞である。ここに新聞の近代民主主義国家に対する重大な意義がある。

 新聞は国民を或いは、社会を指導するものではない。各社夫々の新聞社の方針に則り、国民に示唆し、道標となるべきものである。仮に新聞に指導性を持たせたならば、その社の中心の人の主観によって左右何れか、又は単なる娯楽新聞になってしまうであろう。又新聞には権威がなければならない。そしてその権威は常に経営の安定した上に立って初めて万人の認めるその社の権威が生まれるのである。

 読み返してみて、いいこと言ってます。研修報告は、続いて「本社の沿革」「編集局の組織」「毎日新聞編集根本方針」「本社の営業について」「養成員制度について」などをまとめています。次に印刷関係です。「活版について」は、「近代印刷の祖」とされた1400年生のグーテンベルグが活字による印刷方針を確立するまでに始まり、母型、活字の基礎からモノタイプまで。続いて「印刷について」「写真製版について」「電気・ボイラーについて」をまとめています。

 第2期の仮配属は印刷部で、第3期の仮配属は活版部でした。養成員教育修了後の1958年4月から正式に「活版部配属」となり、本給が450円上がって6600円となりました。

(福島 清・つづく)

2022年6月1日

皇居周回から始まった元社会部、大島幸夫さんのランニング人生

大島幸夫さん(同誌から)

 「ランニングの世界」最新刊の第27号(2022年4月1日発行)に、社会部旧友大島幸夫さん(6月で85歳)が、ランニング学会元会長で同誌編集主幹の山西哲郎元立正大学教授(79歳)と対談、マラソン文化についてウンチクを傾けている。

 山西さんは、東京教育大学(現筑波大学)在学中に箱根駅伝に2回出場している。市民ランナーに「走る世界」の魅力を伝え続ける伝道師とも呼ばれる。『三途の川を走って渡ろう―中高年のためのランニング指南』(柏艪舎2016年刊)といった著書もある。

 大島さんがランニングに目覚めたのは、皇居の周回コースだ。40歳を過ぎて、仕事の合間に走り始め、その魅力にはまった。ボストン、NY、ロンドン、パリなど世界主要都市のマラソンを走り、都心を駆け抜ける「東京マラソン」実現のきっかけをつくった。

 フルマラソンのサブ3(2時間59分27秒)、100㌔マラソンのサブ10(9時間47分52秒)の記録を持つ。富士登山競走も完走。障がい者と走る「アキレスインターナショナルジャパン」を創設。「NPO東京夢舞いマラソン実行委員会」理事長として今も走り続ける。

 第12回ランナーズ賞、第16回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞している。

 対談でこう発言している。

 《僕が「東京夢舞いマラソン」の名前に込めた思いは、ゆ=ユニバーサルデザイン(障がい者との境目のないデザイン)め=目抜き通り、ま=祭り、い=粋、ということ。それと名前にはありませんが市民主義ということ》

 21世紀を迎えた2001年に、「都心を走ろう3万人で!」をスローガンに、「東京マラソン」実現の夢に向かってマラソン大会を企画、都心の名所を巡るコースを描き、第1回大会を開催した。

 東京都による「東京マラソン」が始まったのは、2007年2月。それに伴い翌08年から「東京夢舞いマラソン・ポタリング」として、歩道を行くフルマラソンと自転車で車道を行くポタリングに変わった。2019年は台風、20、21年はコロナ禍で3年連続大会を中止したが、2022年は、10月9日(日)開催を予定している。

 大島さんは、クライマーでもある。72歳のとき、マッターホルン(標高4478m)登頂に成功している。「真夏なのに、猛吹雪に見舞われ、両手に凍傷を負いました。幸い指を失うこともありませんでしたが」。

 著書に『信州ルポ 土と心と』『信州からの証言—地方記者ノート』(令文社)『沖縄の日本軍—久米島の虐殺』(新泉社)『人間記録・戦後民衆史』(毎日新聞社)『不屈の闘魂・張本勲』(スポーツニッポン新聞社)『ドキュメント日韓ルート』(講談社)『沖縄ヤクザ戦争』(晩聲社)『勇気に風を』(毎日新聞社)『燃えろ!快速球—小松辰雄物語』(二見書房)『地球人の伝説—もうひとつのシネマワールド』(三五館)など。沖縄・日韓から野球・映画まで幅広い。ランニング関係では『市民マラソンの輝き―ストリートパーティーに花を! 』(岩波書店)『協走する勇者(アキレス)たち―マインドは誇らしげな虹の彩り』(三五館)がある。

(堤  哲)

2022年5月24日

奥武則・元学芸部長の「沖縄と私」―「新・ときたま日記」転載

 なんだか江藤淳ふう(?)の偉そうなタイトルだが、要は沖縄についての私的体験ばなしである。

 今年は本土復帰50年ということで、5月15日の「記念日」をはさんでメディアで沖縄関連記事が膨大に流れた。それらに接して、「感情的沖縄論を排す」というまじめな論文を書きたい思いが募っているのだが、いまはその状況にない。で、軽く、昔話である。

 1970年に新聞社に入った。沖縄は復帰前だった。鹿児島支局、西部本社(北九州市)整理部を経て、報道部に異動したのは、1977年。サツ回りや司法担当をしつつ、沖縄関連取材があると手を挙げた。学生時代から沖縄には関心があった。

 そんな私にとって、1978年は「怒涛の沖縄体験」の年だった。まず、「730」(ナナサンマル)の取材。この年の7月30日午前6時を期して、米軍統治下で続いていた車の右側通行を本土と同じ左側通行に変更することになったのである。

 道路の構造はむろん、ガソリンスタンドをはじめとする道路沿いの店は車の右側通行を前提に立地していた。バスやタクシーの構造もそうだった。左側通行に合わせる交差点の工事などが「730」前から行われていたとはいえ、沖縄県民にとっては慣れ親しんだ(親しめさせられていた?)生活が一夜にして変わるのだ。

 西部本社報道部の一員として、その歴史的事態を取材した。記事はたくさん書いたが、下は当日朝刊。

 予想どおりというか、初日から大小の事故が続出した。しかし、私にとって印象的だったのは、午前6時、「右から左へ」に変わる、そのとき、歩道橋を埋めた人々の間に漂っていた、なんというか、雰囲気である。合図のサイレンが響く中、静寂が広がっていた。

 続いて12月にふたたび、少し長い沖縄出張をした。まず、沖縄知事選の取材だった。下は12月3日の朝刊記事。

 屋良朝苗氏以来の革新県政を受けつぐべく立候補した知花英夫氏に対して自民党衆議院議員を辞職した西銘順治氏の一騎打ちになった。結果、西銘氏が勝利し、「沖縄革新」の輝かしい歴史は頓挫した。まだ存命だった屋良氏を自宅に訪ねて話を聞いたりして、ストレートニュース以外に「沖縄革新の行方」(だったかな)という連載記事を書いた。

 続いて、打って変わって、イザイホーの取材に久高島(くだかじま)に行った。久高島は沖縄本島知念半島の東南約5・5キロにある小さな島である。イザイホ―は、この島で12年に一度の午年に行われる神事である。沖縄の「古事記」ともいうべき「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」によれば、沖縄の島々の創造神はニライカナイの地から久高島に降り立った。聖地・久高島では、30歳を過ぎた島の成人女性たちはすべて2人のノロ(女性司祭者)のもとでナンチュと呼ばれる神女になる。イザイホーは新しくナンチュになる女性たちの加入儀礼である。神事は5日間に及ぶ。

 5日間全部取材したわけではなかったが、私の33年間の記者生活の中でもっとも印象に残っている取材体験だった。下は、12月19日の夕刊に書いた記事である。

 このイザイホーは最後のイザイホーになった。過疎化が進む久高島では、この12年後、新しく神女になるべき成人女性がいなかったのである。

 強烈な異文化体験だった。そのあたりのことは、のちに「にっぽん一千年紀の物語」という長期連載をした際に別の形で記事にした。少し短くして引用する。

 白装束の女性たちは、ときに厳粛な表情で舞い、ときに喜びを満面に表して激しく踊った。オモロ(沖縄・奄美地方の古謡)が歌われた。冬とは思えない陽光が差したかと思うと、スコールのような雨が降った。赤い琉球瓦と白い漆喰が鋭いコントラストを作る屋根。周辺に広がるアダンやクバの林。理解不能なウチナーグチ(沖縄方言)。「異文化」を強烈に感じた取材体験だった。

 沖縄は長く琉球と呼ばれてきた。1000年前の琉球では米や麦の栽培が始まり、新しい社会体制への流動が始まっていただろう。やがて、按司(あじ)と呼ばれる首長が各地に登場し、抗争を展開する。14世紀になると、沖縄本島を中心に三山と呼ばれる小国家にまとまる。北部には北帰仁(なきじん)城を拠点とする山北(さんぼく)、中部は浦添城(後に首里城)に拠った中山、さらに南部では山南(さんなん)王を名乗る勢力が島尻大里城などを拠点にした。

 1372年、中国・明の使節が琉球にやって来た。4年前に建国したばかりだった。「大明帝国」の一員となって朝貢することを求めてきたのだ。中山王・察度は、これを受け入れ、明に使節を送った。中山は1416年に山北を滅ぼし、1429年には山南も降し、琉球の統一を実現する。ここに明の冊封(さくほう)体制下の一国として琉球王国が誕生した。

 冊封体制は中華帝国と周辺国家との間のゆるやかな服属関係といえるだろう。周辺国家は中国皇帝に入貢する。中国皇帝は入貢してきた者を皇帝の名においてその国の国王に任じる。中華帝国を頂点にした冊封体制には、朝鮮はもとより、東南アジア諸国、中央アジアのオアシス国家までが含まれていた。

 琉球の人々は福建省の福州(初期は泉州)を拠点に東南アジア諸地域で活発な貿易を展開した。大交易時代と呼ばれる時期である。だが、さまざまな交流はあったものの、この時期の琉球王国は日本にとって、まだ「異国」だった。

 1609年、薩摩藩が3000の兵で奄美と琉球を軍事占領する。奄美は薩摩の直轄となり、琉球も政治・経済的に完全に薩摩に従属することになった。東アジアの秩序を担っていた明の力が衰えてきたことがこの時期の混乱に拍車をかける。国際関係の中で翻弄(ほんろう)される琉球(沖縄)の苦悩の歴史は、ここに始まった。

 幕府・薩摩藩は琉球を実質的に支配しながら、明の冊封体制下にあることは維持させた。幕藩体制下の「異国」として、琉球国王の代替わりには謝恩使が、将軍の代替わりには慶賀使が、京都・江戸に送られた。江戸時代を通じて、この琉球使節は18回に及んだ。

 琉球使節によって、薩摩藩は「異国」を支配する大名であることを誇示できた。幕府にとっても、それは将軍の「ご威光」を示すものだった。後には、琉球使節は中国(清)の官名・風俗を強制される。清に朝貢している国からの外交使節であることが強調されたのである。

 近代になって、この「作られた異国」は今度は日本への同化を強いられる。1879年、琉球王国は廃止され、沖縄県が設置された。琉球処分である。

 太平洋戦争での沖縄戦の悲劇を経て、沖縄は米軍支配というかたちでふたたび長い「異国」経験を強いられた。そして復帰した後も日本の米軍基地の7割以上をかかえるという意味で、沖縄は日本の中の「異域」であり続けている。

 久高島のイザイホーは1990年の午年には行われなかった。人口流出が進み、新たにナンチュになる女性が一人もいなかったのである。78年、思えば私は久高島で一つの「異文化」の終焉(しゅうえん)に立ち会っていたのだった。

 この後、連載記事の企画で、沖縄本島に北端にある奥集落の「奥共同店」に行ったこともある。山原(やんばる)の海と林を見ながら、定期バスを乗り継いで、ずいぶんかかった気がする。ちなみに、いまNHKの朝のドラマ「ちむどんどん」、山原から東京に出て料理人になる女性が主人公だ。一家の母親(仲間由紀恵)が働いているのは、「山原共同売店」である。

 「怒涛の沖縄体験」の1978年、私は記者になってまだ8年だった。当時書いた記事を読み返し、「元気だったなあ」と思うことしきりである(最後はトシヨリの繰り言)。

(奥 武則)

2022年5月23日

半世紀前の大阪本社社会部の面々

 磯貝喜兵衛さん(93歳)のFacebookに、こんな写真が載っていた。6年前、2016年7月12日の日付が入っていて、《東京都知事選に出馬した鳥越俊太郎さん》とある。

 テレビキャスターになった鳥越さんは中央の後ろ、黒っぽい上着で長髪。鳥越さんから左3人目が磯貝さんである。

 磯貝さんの説明は《写真は1973(昭和48)年ごろに撮った大阪・堂島の古い社屋での「社会部全員集合」写真で、最後列中央の<長髪・長身・黒コート>が鳥越さんで、当時は事件記者として走り回っていました》。

 ここに写っているのは34人。当時の大阪社会部は60人体制だったから、ほぼ半数である。前列中央の北爪社会部長を挟んで、藤原剛さんと松村洋さんがスーツ姿なので、2人の転勤記念だったか。

 私(堤)は、大阪社会部在籍2年9か月だったが、この写真の全員を覚えている。懐かしいので、全員を紹介したい。

 前列左から寸田政明、藤原剛、北爪忠士、松村洋。

 中列左から酒井啓輔、堤哲、藤田修二、有馬寧雄、山崎貞一、西田尚、永岡靖生、橋本博行、津田康(後)、河北明(前)、観堂義憲、近藤勝重、大須賀瑞夫、永田孝、水間典昭、岡橿夫、川村正文、藤田健次郎、浅沼進、山口安昭。

 後列左から佐竹通男、中田恭市、磯貝喜兵衛、奥村邦彦、宮本二美生。鳥越俊太郎、黒田耕太郎、亘英太郎、佐倉達三、竹内光=以上敬称略。

 ほぼ半世紀前。皆さん若い! 鬼籍に入った方が10人を超えている。

(堤  哲)

2022年5月18日

皇太子・美智子さまのツーショット写真撮影は鈴木茂雄さん

 元毎日新聞社会部の宮内庁記者、現成城大学教授、森暢平さん著『天皇家の恋愛』(中公新書)第5章「美智子さまは恋愛結婚だったか」に皇太子さま(現上皇陛下)と美智子さま(現上皇后陛下)とのツーショット写真が載っている。

 その写真説明に「ただし2人の間に男性の足が見える」とある。

 この写真を撮ったのは、東京本社写真部の鈴木茂雄カメラマン、当時31歳である。

 その間の事情を鈴木カメラマンはこう証言している。

 ——昭和33年7月27日午前8時30分ころ、場所は軽井沢のテニスコート。皇太子さまは観客席の最前列のベンチに腰をおろし、そこへ素晴しいお嬢さんが姿を現し、学友の隣の席につかれた。早速カメラを構えると、学友が体全体をそらしてくれたので、殿下とお嬢さんが並ぶ図柄になった。縦位置で2枚写し、別のカメラでカラーを写す。

 皇太子の隣に座っていたご学友が、カメラに気づいて自分が映らないように配慮したのである。特ダネ写真となった。

 この写真が陽の目を見たのは、婚約発表があった11月27日だった。撮影の4か月後である。

 お妃報道の過熱から、宮内庁から公式発表があるまでは一切報道しないことを報道各社が申し合わせていた。報道協定である。

 毎日新聞社は、これまでの取材から極秘に8ページの号外を作り、全国の販売店に配送していた。婚約発表・報道協定解除と同時に一斉に配布した。

 「朝日の2ページ号外、読売の半ページ号外に比して圧倒的な質と量の勝利であった」(『毎日新聞百年史』)

 このツーショット写真は、その1面に大々的に扱われた。

 鈴木さんは、1946(昭和21)年入社。大阪本社写真部デスクから75(昭和50)年9月東京本社写真部長。毎日グラフ編集長、昭和史事典編集長も務めた。2009年没83歳。

 本書(『天皇家の恋愛』)は、皇室の150年の近代史を「恋愛」というこれまでにない視点で切り取った、自分で言うのもなんだが、画期的な本である。

 これはこの毎友会HP新刊紹介に載った著者・森暢平さんの宣伝である。

(堤  哲)

2022年5月17日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その20(前編) 道灌山の正岡子規と芥川龍之介(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)は、球形に輝く光彩に包まれた胎児が宇宙空間から地球を見つめる幻想的な場面で終わる。

 キューブリックの前作は『博士の異常な愛情』(1964)だった。第二次世界大戦後、米ソの二大国が核爆弾の開発に狂奔する世界情勢を辛辣に風刺する不気味な喜劇である。原題はDr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb。あってはならないし、ありえないはずの核戦争が抑止管理の盲点と偶然の連鎖から勃発して、人類の破滅が警鐘される。

 『2001年宇宙の旅』の胎児は、宇宙の旅をした宇宙船ディスカバリー号のボーマン船長の生まれ変わりだが、キューブリックの意図は、類としての人間の生まれ変わり、またはその復活を希求する神話的な表現にあったように思われる。

 『日本書紀』はわが国の創世神話をつづった史書だが、天孫降臨にさいして、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は真床追衾(まどこおふすま)に包まれていたと書かれている。瓊瓊杵尊は皇祖神である天照大神の孫で、皇太子(ひつぎのみこ)である。折口信夫は『大嘗祭の本義』のなかで、瓊瓊杵尊が「物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが真床追衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである」とこの箇所を読み解いている。(中略)

 神であっても人間であっても、妊娠したらすぐに出産することにはならない。胎児は十月十日を母親の子宮で育まれ、ようやく人間として誕生を迎える資格を備えるのである。母親の子宮のなかで胎児を包んでいる膜や胎盤などは胞衣(えな)と総称された。胞衣は胎児のあとに娩出されることから後産とも呼ばれたという。

 『2001年宇宙の旅』の最後の場面で胎児を包んでいた球形の光彩も、『日本書紀』で天孫降臨する瓊瓊杵尊を包んだ真床追衾も、この胞衣を擬えた形象で、その背景には畏怖と崇敬の重なり合う太古からの生命観があったように思われる。

 根津神社境内に六代将軍徳川家宣の胞衣塚が築かれている。根津神社はもと家宣の父徳川綱重の山手屋敷(別邸)で、家宣はこの邸内で生まれた。胞衣塚の傍らに、文京区教育委員会による説明版があり、胞衣納めの習俗について、こう書いている。

 われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。

 1935(昭和10)年、柳田國男などの指導で「妊娠出産育児に関する民俗調査」が全国規模で実施された。それをまとめた『日本産育習俗資料集成』を読むと、胞衣を埋納する方法は必ずしも一定していないが、上記の解説にもあるように、場所については家屋敷やその近くが選ばれることが少なくなかった。(中略)

東覚寺門前の赤紙仁王。疾患の部位に赤紙を貼り願掛けすれば治癒するという。田端2-7-3。2010.01.05

 芥川龍之介に『年末の一日』という短編小説がある。この小説の最後に胞衣を運ぶ箱車のことが出てくる。

 夏目漱石は1916(大正5)年12月9日に死去した。その命日より何日か過ぎて、年の暮れも押し迫ったある日、芥川は奉天特派員から本社勤めになったという新聞記者のK君を案内して、漱石の墓参りをした。墓は雑司が谷霊園にあり、芥川はこれまで何度か墓参りに訪れたことがあった。

 ところが、いざ行ってみると、なんとしたことか、漱石の墓の在り場所をすっかり忘れてしまっていた。江戸時代には幕府のお鷹部屋になっていた広大な園内を散々さまよい、とうとう墓地掃除の女性に道を教えてもらう羽目になった。ようやく墓の前にたどりついてみると、漱石の墓は「この前に見た時よりもずっと古びを加え」、「おまけにお墓のまわりの土もずっと霜に荒されていた」というのである。

 雑司が谷霊園は染井霊園や谷中霊園と同じように、明治につくられた共同墓地である。寺院の境内墓地とは規模がまるでちがう。迷うのが当たり前なのに、それを過剰に気に病んでいる。漱石は文学の恩師であり、人生の羅針盤でもあったからである。

 この日の明け方、芥川は雑誌3社から頼まれた新年号の原稿の最後を書き上げた。しかし「三篇とも僕には不満足だった」と思わせぶりな書き方をしている。漱石が亡くなって、9年が過ぎていた。文学・芸術をとりまく環境はすっかり変貌し、自分は道に迷いかけている。曖昧な描写の点と点を繋いでみれば、そんなふうに読めなくもない。

 墓参りの帰り、芥川は護国寺前から上野公園前行きの市電に乗り、富士前(上富士前町駅)で途中下車した。そこで同行したK君と別れ、「東洋文庫にいる或友だちを尋ねた」。「私の駒込名所図会 総集編その2」にも書いたが、東洋文庫は中国の文物を中心に集めた東洋学の研究図書館で、開館したのは1年前である。

 いっぽう、芥川は2カ月前に『支那游記』(改造社)を出版したばかりだった。この作品は、大阪毎日新聞の特派員として、1921年に中国を訪れたときの見聞記で、『毎日新聞』に連載した「上海游記」(1921)・「江南游記」(1922)を中心に、雑誌『女性』・『改造』に掲載した記事も加えた構成になっていた。

 1921年7月、中国共産党の第一回大会が上海で開かれた。その会場となったのが、中国共産党の指導者の一人李人傑(李漢俊)の自宅であった。その3ヶ月前、芥川龍之介は李人傑の自宅を訪れ、中国の政治社会と芸術の未来図について聞き書きを取り、「上海游記」の一章としている。

 芥川はそのなかで、李の政治思想を「信条よりすれば社会主義者、上海に於ける『若き支那』を代表すべき一人」と高く評価し、「予は李氏に同情したり」とも書いている。言いかえれば、中国共産党の革命思想と反日抗争に共感を抱いたのである。

 しかし、芥川は小説家である。必然的に話題は文学と芸術に波及せざるをえない。そこで芥川は李に向かい、「プロパガンダの手段以外に、芸術を顧慮する余裕ありや」と問いかける。それにたいする李人傑の答えは「無きに近し」だった。芸術は政治的な宣伝手段に過ぎないとする中国共産党の芸術観に芥川が納得できたとは思えない。「私の手控えはこれだけである」と書くに止め、「同情したり」の言葉はない。(中略)

 東洋文庫で用事をすますと、芥川は再び上野公園行の市電に乗った。「富士前」の市電停車場は、現在の上富士前交差点にあった。本郷通りと不忍通りの行き交うところで、「ときの忘れもの」のすぐ近くである。

田端の切通し。鉄骨の橋は童橋。この橋を渡った奥に芥川龍之介の旧居跡。田端1-20。2021.11.24

 市電が不忍通りを走り、自宅の最寄駅である「動坂」(駒込動坂町駅)に着いたときは、すでに夕闇が迫っていた。

 墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、楫棒に手をかけて休んでいた。箱車はちょっと眺めた所、肉屋の車に近いものだった。が、側へ寄って見ると、横に広いあと口に東京胞衣会社と書いたものだった。僕は後から声をかけた後、ぐんぐんその車を押してやった。それは多少押してやるのに穢い気もしたのに違ひなかった。しかし力を出すだけでも助かる気もしたのに違いなかった。

 (中略)僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。

 八幡坂は東覚寺坂のことで、田端八幡神社東側の坂道。動坂からJR田端駅に至る切通し(都道458号白山・小台線)に併行する急こう配の旧道である。墓地は赤紙仁王で知られる東覚寺の境内墓地。現在は高い塀に遮られて、この坂道からは見えなくなっている。東覚寺は明治維新までは八幡神社の別当寺で、そのころは寺と神社は同じ境内にあった。

 八幡坂を上ると台地の頂上で田端高台通りと交差する。その途中に童橋という鉄骨の橋がある。芥川の住んでいた家は、この橋を渡った東側の高台にあった。近藤富枝の『田端文士村』によれば、切通しと童橋の出来たのは、1930(昭和5)年かその翌年だという。

 歩いてみれば、この切通しに沿った街並みは激しく変貌しているのが分かる。そこかしこに田畑や森林が見られたという田端文士村の出来たころの景色は想像しにくい。(以下略)

2022年4月27日

没後40年『柳田國男先生随行記』復刊の今野圓助さん

復刻版『柳田國男先生随行記』
初版『柳田國男随行記』

 論説OBの天野勝文さん(88歳=4月28日米寿)からメールが入った。

 《4月23日付毎日新聞読書面に今野圓輔著『柳田國男先生随行記』の紹介が載っています。ご存知かと思いますが、今野さんは毎日同人で、柳田門下の民俗学者です。今野さんのあれこれを掘り起こして、異色の毎日人を紹介する》のはどうか、という提案だった。

 この本は、1983(昭和58)年7月、秋山書店発行の『柳田國男随行記』を「著者没後40年、柳田國男没後60年記念復刊」した、と版元河出書房新社のHPにある。

初版の著者は本名の「圓助」。復刻版はペンネームの「圓輔」である。

 民俗学者柳田國男(1875~1962)が1941(昭和16)年11月13日、東京から九州へ17日間の講演旅行に出掛けた。それに隋行したのが、当時慶應義塾大学文学部国文科の学生・今野さんだった。

 今野さんは、その年12月に慶大を卒業、翌42(昭和17)年1月に毎日新聞に入社した。見習生とあるから幹部候補生だった。

 初版本の「はじめに」に興味深い記述がある。67歳の奇縁である。

 この旅行をした時、柳田國男は67歳だった。その高弟の折口信夫(1887~1953)と渋沢敬三(1896~1963)、折口の愛弟子池田彌三郎(1914~1982)が亡くなったのは、いずれも67歳。「そして今、私もその67歳になった」。

 「はじめに」の日付が昭和57年7月25日。その6日後の7月31日に、今野さんは急逝した。従ってこの『柳田國男随行記』は遺作である。

 「彼は永年愛した書斎で、白いマツゲも生きているそのままに、安らかに眠るが如く横たわっていた。心臓マヒだった」と整理部OBの西川雅敏さん(2019年没99歳)が社報の「故人をしのんで」に綴っている。

 2人は「一つ土地を分けて買い、一緒に家を建てた」仲である。今野さんは「世話好きで、話上手」。柳田國男ら民俗学者たちから「新聞記者をやめて、これ専門にやれよ」と言われていたともある。

今野圓助さん(1965年7月)

 「『柳翁随行記』これは仮題ですが、民俗学の貴重な資料です。最後の一編が未完で残念ですが、この部分なしで近く出版されます」と、直江広治筑波大名誉教授(当時)が弔辞で述べている。

 国会図書館で検索すると、「圓助」の単行本は『柳田國男随行記』1冊だけ。「圓輔」はいっぱい出てくる。

『海村生活の研究』日本民俗学会1949年
『檜枝岐民俗誌 : 福島県南会津郡檜枝岐村』刀江書院1951年
『馬娘婚姻譚―オシラ様信仰の周辺』岩崎美術社1956年
『怪談―民俗学の立場から』社会思想社1957年
『現代の迷信』 社会思想社1961年
『日本の行事と風俗』偕成社1963年
『日本怪談集』幽霊篇 社会思想社1969年。妖怪篇 1981年
『幽霊のはなし』ポプラ社1972年

などなど、怪談・幽霊・迷信・風俗・魔女・鬼婆……。子どもたち用児童図書も少なくない。文庫本で復刊されものもいくつもある。共著も『日本民俗学のために : 柳田国男先生古稀記念文集』第1-9輯(民間伝承の会1947~48)など多数だ。

左から柳田國男、池田彌三郎、今野圓助(国 府津で1953年頃)=『柳田國男随行記』初版

 では、毎日新聞記者としてどんな記事を書いたのか。戦前の文化部時代、毎日新聞社発行の『時局情報』に、「戦ふ科学兵器」(1943年9月)「防空兵器:照空燈と高射砲」(1945年2月)を書いていることが判明した。

 戦後は東京本社社会部→文化部→出版局→社会部→学生新聞部→調査部。調査部に10年余、図書主任を務め、54歳で繰上げ定年退職をしている。

 『柳田國男随行記』の著者略歴に民俗学研究理事、日本民族学会評議員、東京教育大講師、八戸・女子聖学院短大教授を歴任とある。

 新聞記者として記事を書くより、民俗学会の活動の方が忙しかったようだ。

(堤  哲)

2022年4月26日

森林再生の宮脇昭さんと毎日新聞―偲ぶ会と記念刊行『九千年の森をつくろう!』を機に、135年記念事業「My Mai Tree」元事務局長、恩田重男さんが振り返る

 熱帯林など森林再生の第一人者で、毎日新聞創刊135年記念事業の植樹キャンペーン「My Mai Tree」(2006~08年度)の植樹指導に力を尽くしてくれた宮脇昭横浜国立大学名誉教授を偲ぶ会が、4月24日、神奈川県厚木市のホテルで開かれた。

 宮脇さんは、1970年代から、世界の三大熱帯林をはじめ日本の製鉄、電力、自動車、商事、鉄道、不動産、養蜂、大規模小売店など主要な企業の工場敷地や店舗周縁地、各自治体の公共用地、学校、寺社、大地震被災地などで、環境保全林としての常緑広葉樹の再生植樹指導を展開し、集計分だけで、世界19カ国164カ所で532万5522本、国内2773カ所で3397万7409本、合計3930万2931本の「地球の緑」再生実績を残し、昨年7月16日、93歳で亡くなった。

 偲ぶ会は、新型コロナの感染拡大の影響により1月開催の予定を延期していた。会場には、宮脇方式(メソッド)の植樹事業を実施した主要な企業や官公庁・自治体関係者、植物生態学の研究者、NPOなど環境団体関係者、植樹祭への常連参加者ら約160人が参加した。

 会場中央に飾られた宮脇さんの遺影は、十数本の常緑広葉樹の幼苗に囲まれ、植樹現場でお馴染みだった麦わら帽子姿。参会者の黙祷で開式し、主催者代表挨拶で、藤原一繪同大学名誉教授は、宮脇先生が特に3・11東日本大震災などの被災地の復興に心を砕かれていたことに触れながら、「ロシアの侵攻を受けているウクライナの惨状を見たら宮脇先生は何と言われたか。きっと復興の先頭に立たれたと思います」などと話した。

 来賓挨拶では、ケニアの熱帯林植樹を支援した日置電機(長野県上田市)、中国やネパールで植樹支援を継続している山田養蜂場(岡山県鏡野町)などの代表者が、宮脇方式の植樹事業を後世に引き継ぐ決意を表明し、ドイツ留学時代以来の交友というイタリア植物学会元会長らからのビデオメッセージが披露された。

 昼食は弁当の「黙食」、参会者の歓談はマスク越しで行われ、歌手の雨谷麻世さんが、「My Mai Tree」で歌詞原案を募集した森づくり讃歌「僕にできること」(荒木とよひさ作詞、宮川彬良作曲)などを披露した。

 この偲ぶ会で、宮脇先生の偉業を讃えて記念刊行された『九千年の森をつくろう! 日本から世界へ』(藤原書店)が紹介された。全710頁の大作(6200円税別)。国際環境賞「プループラネット賞」(旭硝子財団主宰)を日本人で初めて受賞した時の記念講演録(2006年)や、宮脇方式の森づくり哲学と理論と手法、国内と世界で行われた植樹活動の報告、実践記録のデーターベース、先生の語録など7部構成。実践記録のデータは、1970~2020年の51年分の、施設・事業名、場所、事業者、植栽時期、植栽面積、植樹本数を列記。前半の1970~2004年分は、『あすを植える』(宮脇昭・毎日新聞「あしたの森」取材班共著、毎日新聞社刊)への掲載用にJISE(現IGES-JISE)国際生態学センターが集計したもの。

 植樹活動報告には、「My Mai Tree」の3年間の実践が「市民参加で植えた一九万三○○○本」として(報告者・恩田重男)、その後2017年10月まで50万5925本を植えた植樹事業「つながる森プロジェクト」が「宮脇植樹が問いかけるもの」として(同・山本悟)、それぞれ4頁に所載されている。

 宮脇先生との出会いは、横浜支局長一年生の2001年10月。神奈川県内の異業種交流フォーラムで長年の業績を顕彰することになり、横浜市内のJISE国際生態学センターを訪ねた。当時はCOP3(気候変動枠組条約第3回締約国会議・京都会議、1997年12月)の京都議定書採択により、締約国がそれぞれ目標値を設定し国際社会が協力して地球温暖化対策に第一歩を踏み出した頃。先生提唱の「ふるさとの木によるふるさとの森づくり」も温暖化の主因とされるCO2の吸収削減策として注目され始めていた。

 初対面から折に触れ、「新聞社も温暖化に本気なら、森づくりを」と、植樹事業への新聞社としての参画を促されて、創刊135年記念事業企画案募集に読者参加型の植樹キャンペーン事業として提案、採用された。06年1月に記念事業がスタートし事務局長3年、その後は08年9月に設立したNPO法人国際ふるさとの森づくり協会(レナフォ)の理事として、15年1月の先生の入院・療養後も20年10月まで特別顧問をお願いした。

 20年余のご交誼でいただいた数多い薫陶を思い起こし、その人となりを敢えて表現させていただくなら、「限りない人間愛、地球愛」を見事に体現された生涯であったと思う。

 事業企画には、協賛広告等収益の裏付けが要るが、この記念事業には苗木購入資金を読者からの募金や企業の協力金で調達しようという算段もあって、成否のハードルは低くなかった。この点、先生は先刻承知で、惜しみないご協力をいただいた。支援協力を引き出すために、企業トップの懐に積極的に入り込み、「次の氷河期まで9000年残る森」づくりを、と訴える各界識者との対談企画にも意欲的に時間を割いていただいた。

 先生と毎日新聞のコラボで醸成された主な事業成果を当時の資料でみると、一般読者からの苗木募金3年余りで1,068件2,960余万円 ▽企業や団体からの協賛金など11件1,056万余円 ▽企画特集広告売上(グロス)延べ39件31,142万円 ▽緑の募金(植樹事業へ直接入金)12件2,300万円 ▽森づくり讃歌「僕にできること」は09年度小学校高学年用の音楽副教材(教材集)に採用 ▽出版物2件~宮脇式植樹の実績と講演、対談集『あすを植える―地球にいのちの森を』(2004年、毎日新聞社)~霞が関ビル設計者池田武邦氏との対談『次世代への伝言 自然の本質と人間の生き方を語る』(2011年、地湧社)

 宮脇先生は、言葉や文化の異なる人々に対して全く同じように接した。自らが確立された哲学と理論の実践に揺るぎない自信を深めていたのだと思う。例えばドイツの都市再生林、中国・内モンゴル自治区の郊外林地、ケニア・ナイロビの環境保全林などで、現地の研究者や協力スタッフに、指示し、励まし、説得する。国内でも北は札幌市で、南は沖縄の本島南端の久高島まで30カ所近い場所で植樹祭指導の現場にお供したが、いつ、どこででも、先生の人との接し方にブレや違いは見られなかった。いつも前向きに、時に厳しく、しかし誠実に――。誠に逞しい「人間力」を見せていただいたと、感じている。

(恩田 重男)

2022年4月22日

100回を迎えた「毎トー」生みの親は、運動記者の弓館小鰐

 毎トー(毎日テニス選手権)がことし100回の記念大会を迎え、まずベテラン大会(男75歳以上、女65歳以上)が5月30日~6月10日、昭和の森テニスセンター(東京都昭島市)で開かれる。

1919(大正8)年9月1日付東京日日新聞

 この大会は「日本最古・最大級の公認テニストーナメント」をうたう。その始まりは、1919(大正8)年8月のO・B(オールドボーイズ)庭球大会である。「東京日日新聞」記者弓館小鰐(本名芳夫)が提唱したといわれる。

 写真右端が画家の小杉未醒(放菴)。のちに都市対抗野球大会の優勝旗黒獅子旗をデザインする。この大会にも橋戸頑鐵とペアを組んで出場したが初戦で敗れた。その左が優勝カップを持つ針重敬喜と1人置いて山崎喜作組だ。

 小杉放菴記念日光美術館のHPに、「小杉や針重らが弓館に勧めて実現した大会」とあった。小杉らが1911(明治44)年5月、東京田端につくった芸術家の社交クラブ・ポプラ倶楽部にテニスコートを2面つくった。野球・相撲・漕艇・柔道などスポーツ好きの仲間の集まり天狗倶楽部の連中も、このコートでテニスを楽しんだという。

 弓館はナンパの新聞記者だった。振り出しは、黒岩涙香の「萬朝報」。1905(明治38)年に早大を卒業、野球部長安部磯雄の口利きで入社したという。

 自慢は「早慶戦はすべて見ている」だった。野球の早慶戦が1903(明治36)年に始まった時、早大のキャプテンが橋戸頑鐵で、弓館はマネジャーだった。

正装の弓館小鰐

 早慶戦は1906(明治39)年11月、1勝1敗で迎えた第3戦が応援団の過熱で中止となった。第10戦は、1925(大正14)年10月19日早大戸塚球場。19年ぶりの再開だった。

 弓館は「野球専門記者の元祖」(木村毅『都の西北―早慶野球戦を中心に』)といわれた。「萬朝報」から「東京日日新聞」に転社したのが1918(大正7)年1月。社会部に配属され、スポーツ記者として活躍した。2年後の1920(大正9)年2月、新設された社会部運動課の初代課長となった。運動課は5年後の1925(大正14)年1月に社会部を離れて独立課となり、1933(昭和8年)10月に運動部となるが、弓館は校正部に転出して校正部長→写真部長を歴任。運動部長は、写真部長と兼務で1年間ほど務めた。

 1938(昭和13)年、55歳定年となったが、運動部顧問の肩書は1958(昭和33)年8月1日75歳で亡くなるまで外れなかった。

 弓館は、運動課長時代の1926(大正15)年1月26日から5月26日まで東京日日新聞夕刊に小説「西遊記」を105回にわたって連載した。その挿絵を描いたのが小杉未醒である。

 挿絵は猪八戒だが、猪八戒をブタと書いたのは、小鰐が初めてという。

 作家の筒井康隆は、子どもの頃に小鰐の『西遊記』を読んで「実に面白かった。とんでもないギャクがあり、講談調、落語調、漫才調と自由自在のくだけた文章に、ぼくはすっかり魅了された」と激賞している(2009年4月19日朝日新聞朝刊読書面)。

(堤  哲)

2022年4月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその19 千駄木薮下通りの光と影(後編)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 団子坂で見落とせないと思うのが、歌川広重の『名所江戸百景』「千駄木団子坂花屋敷」の錦絵である。この「千駄木団子坂花屋敷」に描かれているのは、『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」で「四季花屋敷紫泉亭、眺望ヨシ」と記される花屋敷に他ならない。場所は森鴎外記念館(観潮楼跡)の薮下通りを隔てたすぐ真向かいになる。求めるさいに、広重の「千駄木団子坂花屋敷」を知らなかったとは考えにくい。

 勝手な思い込みに過ぎないが、観潮楼という一種新奇な建築物には、前代の町人文化の典型ともいえる紫泉亭を本歌取りした和洋折衷の意匠があったような気がする。薮下通りの「余り綺麗でない別荘らしい家」の一軒に、鴎外自身の観潮楼も含まれていたのではないだろうか。「植木屋のような家」というのは、紫泉亭をはじめとする千駄木の植木屋たちが衰退していく眼前の事実であったように思われる。

須藤公園。らせん状の石段と楠の大木。千駄木3-4-16。2021.11.11

 広重の錦絵は、1856(安政3)年の制作である。花屋敷の庭内には、池が設けられ、周りには満開のサクラを楽しむ見物客が描かれている。画面の正面奥には断崖がそびえ立ち、爪先上がりの石段が通じている。崖の頂上に建つのが「紫泉亭」である。2階と3階が桟敷席になっている。持ち主は植木屋の楠田宇平次だという。花園の見事さばかりでなく、高所からの「眺望ヨシ」を謳い文句にしていたのである。

 眺望の良さという点では、紫泉亭と観潮楼に大差はなかったはずである。紫泉亭の2階と3階の桟敷席からも、観潮楼の望楼と同じように、遠く品川沖が眺望できたに違いない。というよりも、事の順序は逆で、観潮楼が建てられたのは、江戸が東京になってからである。永井荷風にいわせれば、鴎外は当代の碩学だった。

 永井荷風の『日和下駄』に「崖」と題した一章があり、そこに薮下通りが出てくる。

 根津の低地から弥生ケ丘と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂へ通じる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味あるところはないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。

須藤公園。崖下の池に祀られる弁財天社。千駄木3-4-16。2021.11.11

 『日和下駄』の初出は『三田文学』で、1914(大正3)年8月から翌年6月までの連載である。ここでいう「弥生ケ丘と千駄木の高地」とは、忍が丘にたいする向丘のことで、薮下通りはその断崖の縁に沿った道筋である。「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」とあるのは100年前のことで、いまではすき間もないくらい家が建て込み、道幅を広げて自動車も通るようになっている。とはいっても、人影はまばらで、車の往来も少なく、ひっそりしたというか、落ちついたというか、都心には珍しい雰囲気を漂わせている(略)。

 藪下通りの道筋を『新板江戸外絵図』でたどってみると、出発点(終着点)は、本郷通り(日光御成道)の「一里塚」(本郷追分)で、終着点(出発点)もやはり本郷通りの「富士権現」(富士神社入口)である。富士神社は「ときの忘れもの」のすぐ近くにある。ギャラリーの3階テラスから神社の森が望める。この道筋は、簡単にいうなら、駒込(江戸時代の駒込村)を半円形に廻る本郷通りの脇道なのである。

 『新板江戸外絵図』を見ていただきたい。『青年』の主人公純一が本郷追分から歩いたのは、この脇道であることが分かる。水戸家と小笠原家の屋敷(現東大農学部)沿いにしばらく進むと「大ヲンジ」(大恩寺)がある。その跡地に建っていたのが東京聖テモテ教会である。純一はここを右折し、根津新坂に出たのだが、この絵図ではその先に「甲府宰相殿」の屋敷地(現在の根津神社)があり、道はその手前で途切れている。「甲府宰相」は六代将軍徳川家宣の父綱重である。家宣はこの屋敷地で生まれた。根津神社には家斉の産湯の井戸と胞衣塚が残されている。

 大恩寺前で右折せず、道なりに歩いていくと、やがて「甲府宰相殿」の屋敷地の北側に出る。ここで道は直角に左折する。そこから先が薮下通りである。

 薮下通り西側の台地上は「太田摂津」(太田摂津守屋敷地)と「千駄木林」(寛永寺の御用林)が占めている。その一方、東側の低地は農地で、「田」と「畠」と記されている。

 薮下通りは団子坂までだが、道はその先まで続いている。

 団子坂との交差点の北西側に「子ズノゴンゲン」(根津の権現)とある。ここが根津神社の旧社地で、後に元根津と呼ばれるようになった。さらにまっすぐ進むと、動坂に至る。そこで田端からの道に合流し、北西から南西に方向を変えつつ進むと、「神明社」(駒込天祖神社)の北側をへて、終着点の「富士権現」にたどり着き、そこで本郷通りと合流する。

 団子坂から動坂までは、大給坂(おぎゅうざか)・狸坂・きつね坂・むじな坂と坂が続く。いずれも進行方向にたいし直角に右折する下り坂である。ということは、薮下通りと同じように、この道も向丘から続く台地の縁に沿って拓かれていることになる。

 千駄木の動坂は駿河台付近から南北に連なる台地(本郷台地)の北の端になる。そこで忍が丘から赤羽まで続く台地(上野台地)に、行く手を阻まれるような恰好で突きあたる。

 この脇道に併行するように、根津と千駄木の低地に拓かれたのが不忍通りである。不忍通りは『新板江戸外絵図』にも『江戸切絵図』にも見当たらない。近代になってから作られた道路である。さらにその外側を藍染川(谷戸川)が流れていた。その流路跡を道路に整備したのが、現在の谷田川通り・よみせ通り・へび道ということになる。

 永井荷風が『日和下駄』に書いた「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」という景観を彷彿させる崖が、薮下道から入った路地の奥に残っている。雑木や雑草が伸びるに任せて繁茂しているが、文京区の管理する緑地である。もと太田摂津守の下屋敷の一画で、現在は千駄木ふれあいの杜の名前がついている。

 私は田舎育ちのせいか、なんとなく草刈り機やノコギリを持ち出したくなる。しかし、考えてみれば、これはこれで一見の価値がある気がしないでもない。住まいも田畑も、人の手が入らなくなると、たちまちに雑草がはびこり、そのうちに樹木が芽生える。やがて30年もすれば、もとの自然に回帰し、すっかり「樹と竹藪に蔽われて」しまう。それを見るだけでも学ぶことは少なくない。

 千駄木ふれあいの杜のほかに、昔ながらの崖の面影を残して興味深いのが須藤公園である。ここは江戸時代に松平家(越前大聖寺藩)下屋敷のあった一画である。南側は根津神社の旧社地や植木屋六三郎の店舗があった元根津である。公園のある場所は、明治時代に入ると、政治家の邸宅になっていたが、その後、実業家の須藤吉左エ門の手にわたった。1933(昭和8)年、その須藤家から園用地として東京市に寄付され、さらにその後、文京区に移管されたとのことである(以下略)。

2022年4月11日

福島清さんの「活版工時代あれこれ」①高卒で毎日新聞に入社するまで

 毎日新聞社印刷局養成員として入社したのは1957年。最後の活版制作紙面は、昭和から平成に代わった1989年暮の12月11日付の栃木版と群馬版。この日は私の53歳誕生日でした。なぜこの日になったのかは、いずれ説明します。

 父は長野県諏訪市にある「南信日日新聞」(現在は長野日報)の文選工でしたので親子2代の活版工です。「活版」「活字」という言葉は実にいい語感で、スマホやパソコンなんかと違って堂々とした日本語です。今でも好きです。私の人生をつくった活版のあれこれを書いてみます。ひまつぶしに読んでみてください。

 子どものころから勉強大嫌いでした。母親から「長男のくせに、ずくなし(なまけもの)で飽きっぽい」とよく𠮟られました。優秀な製糸女工だった母親には、目障りだったに違いありません。それでも中学を卒業したら農業か工員になりたいと思っていました。

 進学先を決める頃になって、教師と高等小学校しか出ていない父が「高校に行け」というので、妥協して行きました。高校は進学校で250人中、就職組は1割程度でした。進学する気は全くありませんでした。

 3年の秋、高校推薦で上京して2カ所ばかり受けたのですが不採用。最後に受けたのが毎日新聞で、受験番号は150番台でした。同期入社は14人ですから結構倍率は高く、就職難の時代でした。ちなみに読売新聞社には3人が入社しました。

 3次もの採用試験の結果、1957年3月6日付で合格・採用通知が届きました。4月1日の入社式には、戸籍謄本、卒業証明書のほかに「作業衣上下(色はなるべく紺系統、新品でなくてよろしい)、履物(古革靴又は運動靴)、石鹸、タオル」とありました。敗戦後12年、まだ作業服支給なんてなかったんです。

 1957年4月1日、入社式。南信日日新聞時代に「東日の活版に入るのは大変だ」と聞かされていたという父は「東日」を見たかったのでしょう。一緒に出席しました。同期入社は以下の14人でした。(配布資料順)

 江守信正(東京・都立江北高校)大槻進(東京・都立本所工業高校)小木曽清実(長野・県立飯田工業高校)金子善夫(千葉・県立木更津第一高校)高梨武夫(山梨・県立甲府工業高校)長南英次郎(東京・都立第三商業高校)豊島篤(埼玉・県立大宮工業高校)中村守郎(千葉・県立安房第一高校)福島清(長野・県立諏訪清陵高校)前田武男(鳥取・県立倉吉東高校)松宮伸治(神奈川・横浜市立鶴見工業高校)三井順治(長野・県立長野工業高校)横山進伍(静岡・県立御殿場高校)若林健一(長野・県立長野北高校)

 何と長野県が4人もいたのです。戦後の東京本社印刷局では、局長、管理部長が長野県出身で、積極的に長野県人を採用したようです。活版に配属された後、出身地を聞かれて「長野です」と言うと「また長野か」とあきれられたものでした。

 余談です。

 作家の新田次郎(本名・藤原寛人、諏訪市角間新田出身)は諏訪中学出身ですので私の先輩です。その新田次郎が『小説に書けなかった自伝』(新潮社、1976年刊)の「故郷を書く」で次のように書いています。

 『霧の子孫たち』は昭和45年11月単行本として発売された。諏訪の友人たちがぜひとも出版記念会を諏訪でやりたいから出て来てくれと云って来た。行きたくはなかった。今さら出版記念会もおかしいし、こういう行事をやれば、必ず、呼ばれた、呼ばれなかったで、後になって苦情がでる。宴席で頭を低くしておし通せればいいが、少しでも相手に気にさわるようなことがあれば、酒の勢いをかりてきさま生意気だと難題をふっかけて来る者も出て来るであろう。諏訪というところはそういうところであった。(この続きも面白いですが省略)

 諏訪の人間は狷介だということは、振り返ると思い当たります。戦後、諏訪地方事務所の厚生課長をした父は「諏訪(の地方行政)を治められりゃあ長野県の役人として一人前だと言われたもんだ」と言っていました。自慢だが自嘲だかわかりませんが、そんな風潮はいまどうなっているでしょうか。

(福島 清)

 福島清さんは1957年毎日新聞東京本社印刷局養成員として入社、活版部配属。1974~1978毎日新聞労組本部書記長、1993年10月制作局次長、1995年12月定年退職。

2022年3月31日

堤哲さんが記事にした「白い本」 発刊から半世紀、ロングセラー本になっている!

 作家檀一雄著『火宅の人』。そのモデルである民芸俳優、入江杏子さんの『檀一雄の光と影』(文藝春秋)を読んでいたら、「中央公論」「婦人公論」元編集長八木岡英治さんの名前が出てきた。

 入江さんは《「いい文章というものは、うまく炊けた御飯のように飯粒が立って、自然に眼の中に飛び込んでくるものです」

 私は今回この一文を書きながら、八木岡さんの言葉を思い出し、〈ああ、これでは駄目だなあ〉と何度も筆がとまりました》と綴っている。

 八木岡さんの名前に記憶があった。図書館で毎日新聞の記事・紙面検索「毎索」にあたると、51年前に書いた記事がヒットした。

 「アレッ、この本何も書いていない」――。

 真っ白の紙を束ねてハードカバーをつけた「白い本」。1冊380円だった。

 社会部3年生、遊軍の末席にいたときの原稿である。

 ネットで検索すると、「白い本」はロングセラー本になっていた。ISBNも付けてA5判美装箱入り1,000円+税、文庫判上製550円+税で販売されている。版元は二見書房である。

 国会図書館の蔵書にもなっていて、「Y88-1046」で請求すると、閲覧可能だ。

1971年10月9日付朝日新聞「ひと」

 ついでに朝日新聞の聞蔵を検索すると、毎日新聞の記事の4か月後、10月9日付で八木岡さんが「ひと」で紹介されていた。

 〈何が書かれているかわからない。その恐ろしさがネライで〉

 八木岡さんは、当時59歳とあるから、とっくに亡くなっていると思う。

 この記事は、今回初めて読んだ。というのは、その年の8月異動で私(堤)は大阪本社社会部に転勤となり、街頭班と呼ばれるサツ回りをしていた。事件・事故に追い回され、大阪の朝日新聞紙面に載ったのかどうかも知らない。

 『檀一雄の光と影』の書き出しに、著者入江杏子さんの父、入江邦太郎は大阪毎日新聞(大毎)の記者だった、とある。1958年没74歳。人事部に問い合わせると、人事記録がない、という返事だった。

(堤  哲)

2022年3月22日

モロさん(諸岡達一さん)の祖父・父・伯母、3代4人が毎日新聞一家

 かつて毎友会のお世話をしていただいた角田小枝子さんをご存知ですか。

 東京毎友会の会員名簿には、明治39(1906)年9月30日生まれ、昭和36(1961)年9月、人事部で定年退職とある。平成11(1999)年92歳で亡くなった。

 「モガだったですね。おかっぱ頭、服装がカラフルで芸術家風だった。スカート姿は見たことがなかった。いつもパンツ。小柄だが、何でもはっきりものを言ってね。怖いおばさんでもあった」と、人事部の後輩、立木鉄太郎さん(82歳)が思い出を語る。

 立木さんは62年入社だから、小枝子さんとは入れ違いだが「角田さんは嘱託で1年残られたので、全舷でも一緒だった。でも、ほとんど口をきいたことはありません」と言う。

 小枝子さんの父親は、角田浩々歌客(かくだ・こうこうかきゃく、本名:勤一郎)。整理本部の鬼才・諸岡達一さん(1959年入社、85歳)の祖父であることを、つい最近知った。そこで諸さんに尋ねると、メールで以下の返信があった。

 《堤ちゃん、はーいはい。
 ・角田勤一郎の次女と諸岡新平と結婚。長男がモロ。
 ・角田勤一郎の長女は「角田小枝子」。
 ・角田小枝子は「知らない社員はいない」と言われた人事部の女ボス。
 ・角田小枝子は定年後・毎友会事務局でボス続行。あの彼女です》

角田浩々歌客

 モロさん親子は、東京本社整理部に一緒にいて「大モロ」「小モロ」と呼ばれていた。「大モロ」諸岡新平さんは、79年逝去、77歳。

 小枝子さんは、モロさんの伯母さんである。親子3代、一族4人が毎日新聞旧友なのだ。

 さて、浩々歌客である。

 この写真が掲載された『慶応義塾出身名流列伝』(1909年発行)によると、1869(明治2)年静岡県の現富士宮市生まれ。沼津中学から86(明治19)年、慶應義塾に入り、90(明治23)年、新設した大学部文学科に入学したが、間もなく中退。郷里に戻って養鶏をする傍ら漢文、和歌、俳句などを勉強。97(明治30)年1月、国民新聞、99(明治32)年2月、大阪朝日新聞で記者生活のあと、1905(明治38)年8月、大阪毎日新聞(大毎)に入社した。

 08(明治41)年12月から菊池幽芳をついで大毎第2代社会部長。翌年6月学芸部長。11(明治44)年2月第3代社会部長福良虎雄が東京転出に伴い、第4代社会部長を兼務した。

 大毎は1911(明治44)年3月1日に東京日日新聞(東日)を吸収合併する。で、浩々歌客は翌12(大正元)年7月東日学芸部長となった。東京へ転勤である。

 浩々歌客の名前が残っているのは、1904(明治37)年3月に制定した慶應義塾の塾歌作詞者として。この年4月21日に行われた慶應義塾創立50年記念式典で歌われた。鎌田栄吉塾長らに作詞を頼まれたという。

  天にあふるる文明の
  潮東瀛(とうえい)に寄する時
  血雨腥風(けつうせいふう)雲くらく
  国民の夢迷う世に
  平和の光まばゆしと
  呼ぶや真理の朝ぼらけ
  新日本の建設に
  人材植えし人や誰(たれ)

 野球の早慶戦は、その前年の1903(明治36)年に始まった。応援に歌うカレッジソングが必要だったのかも知れない。「見よ風に鳴るわが旗を…」の現在の塾歌は1941(昭和16)年1月10日に発表されている。

 「漫遊人国記」は、大毎で好評連載。出版の際、坪内逍遥は序文で「この漫遊人国記は、一種の日本文明史論」と褒めたたえた。

 また北欧文学者でもあり、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を日本に紹介した。

東日学芸部長で逝去した浩々歌客の葬儀告知広告(17日付東日・大毎)

 浩々歌客は東日学芸部長在籍中の1916(大正5)年3月16日に亡くなった。48歳だった。

 本郷駒込の浄心寺で行われた葬儀には、坪内逍遥、与謝野鉄幹、高浜虚子ら文壇・知名人らが多数詰めかけ、大毎・東日の社員を代表して菊池幽芳大毎学芸部長が「君と机を同じゅうすること11年」「今君を失うは文壇の損失」と弔辞を述べた。

 コラム「茶話」の筆者で8歳下の薄田泣菫は、菊池幽芳と2人で文楽を見ている時、訃報を知らされた。「交友17年。君は酒好きだったが、量は大して飲むほどでなく、ちびりちびり盃を嘗めてさへ居ればよい気持でゐられるらしかった」と悼んだ(薄田泣菫全集第8巻)。

 泣菫は、菊池幽芳のあとの大毎学芸部長である。

 モロさんのオヤジ「大モロ」さんも机の下に一升瓶を置いて仕事をしていたといわれ、「小モロ」さんも、パレスサイドビル地下の蕎麦屋でいつもチビリチビリ飲っていましたね。

 ただ、小枝子さんは下戸だったとか。

 葬儀広告にある中村春二は、浩々歌客の従弟で、成蹊学園創立者。諸岡さん、安倍晋三元首相は、成蹊大学の卒業生である。

追記:毎日新聞のOB同人誌「有楽ペン供養」(改題して「ゆうLUCKペン」)のバックナンバーを見ていたら、角田小枝子さんが1回だけだが、寄稿していた。1985(昭和60)年11月発行の第8集、満79歳だった。

 毎友会の部屋で、ここに顔を出すOBたちの思い出話を聞くのを楽しみにしていた、と語り《私も新聞記者の子なので、男の子だったら一生平記者でもよいからと思ってもみた》。

 《むかし大正元年9月のある暁方、人力車で帰宅した父が、昂奮ぎみに乃木大将の殉死を母や祖母に語っているのを聞いた時、まだ小学校にゆかなかった私は「新聞記者っていいなあ」と思った。

 何がいいかわからなかったが、興味があったことはたしかだ。しかし明治生まれの女の子にはすべてむり、出るものはみんな打たれて女の子、女の子である。

 身にしみた教育勅語はそうかんたんに忘れられない。「ケセラセラ」とすでに一生も終わろうとしている。みなさんの想出記を読ませて頂くのをひとつのたのしみに》

(堤  哲)

2022年3月16日

57年ぶりに蘇った堀一郎さんのスクープ

松代地震の発光現象を伝える毎日新聞1965年12月29日付朝刊

『徹底図解 メガ地震がやってくる!』60p

 「こんな珍しい写真を入手しました」

 長野支局3年生、堀一郎さん(2019年没78歳)が興奮して支局に戻って来たことを憶えている。松代地震の発光現象を地元の歯科医・栗林亨さん(当時62歳)が写真撮影に成功したというのだ。

 特ダネ写真として、1965(昭和40)年12月29日付社会面トップで掲載された。

 それが何故、今、蘇ったのか。

 地震の発生は、従来プレートテクトニクス説で説明されていたが、最近発刊された『徹底図解 メガ地震がやってくる!』(ビジネス社)は「地震は熱エネルギーマグマの移動で連鎖・発生する」と説く。「国民の生命と財産を守るため、あえて世に問う“仮説の卵”」とうたい、松代地震の発光現象も図解で紹介している。

 地震地質学者の角田史雄埼玉大学工学部名誉教授と、経産省現役官僚・藤和彦さんの共著。

 この2人を結び付けて、この本をプロデュースしたのが、元東大全共闘の前田和男さん(74歳)。『続・全共闘白書』(情況出版)の編纂者の1人として2020年3月19日付毎日新聞「ひと」欄で紹介された。

 その前田さんは「本書の最大の売りは、アメリカの地質調査所とスミソニアン博物館の地震データベースにアクセスして読者自身が予知作業をできることです。私もはまってしまい、週に1回はアクセスして巨大地震発生の可否を確認しています」と言っている。

 詳しくは、『徹底図解 メガ地震がやってくる!』を読んでください。

 松代地震の発光現象は、栗林亨さんが1966年2月12日04時17分、同年9月26日03時25分にも撮影に成功。松代地震観測所松代地震センター「松代群発地震50年特設サイト」に掲載されている。

 《松代群発地震は1965(昭和40)年8月3日に3回の体に感じない地震から始まりました。地震活動は次第に活発になり、翌年の1966年(昭和41年)4月17日には震度1以上の地震が1日に585回(うち震度4と震度5が各3回)観測されました。松代群発地震の最大マグニチュードは5.4、最大震度は5でした。一連の群発地震により、地すべり、地割れ、家屋の倒壊・損壊、湧水による農業被害などがありました。死者は出ませんでしたが、度重なる地震により住民に多大な心理的不安をあたえました。松代群発地震は1966年をピークに地震活動は次第に沈静化していきますが、地震活動は現在でも続いています》

 以上は、同サイトの解説である。

(堤  哲)

2022年3月15日

40数年ぶりの天文回帰 コロナ禍がくれた空白の時間 河野俊史・前スポニチ社長が「上を向いて、望遠鏡を」

M31(アンドロメダ銀河)=南房総市千倉で

 その昔、天文少年でした。中学、高校、大学と、山に登り、島に渡っては時間が経つのも忘れて星空を見上げていました。アポロ宇宙船が月に到達し、日本初の人工衛星も打ち上げられた、そんな時代が影響したのかもしれません。

 それでも次第に興味と関心が地上に向いてきて、新聞社に入ってからはひたすら地べたを這いずり回るような日々でした。ワシントン特派員時代に米航空宇宙局(NASA)の取材を担当し、スペースシャトルや火星探査機の記事を書いていた以外は、星空のことなどすっかり頭から消えていました。

 40数年を経て、思わぬことが天文回帰のきっかけになりました。新型コロナウイルスの感染拡大です。それまでほぼ毎晩だった会食や会合がことごとく中止になり、ぽっかりと夜の時間ができたのです。ちょうど、仕事をリタイアする時期とも重なりました。

 本当に久しぶりに夜空を見上げました。光害のど真ん中の東京・中野の拙宅から見える星はせいぜい2等星止まり。半世紀近いブランクで星座や1等星の名前も忘れかけていました。それでも深夜の静寂の中で、雑念を遮断できる時間は心地よく、何より懐かしいものでした。

 ニコンを退職した友人の勧めでZ50という小型軽量のミラーレスカメラを購入し、天文ショップの新春福袋セールで中国製の安価な屈折望遠鏡(口径80mm)を入手して、星空の写真を撮り始めました。新しい望遠鏡を買ったのは、コツコツ蓄えた貯金をはたいた中学3年のとき以来です。驚いたのは、アナログからデジタルへと時代が移り変わる中で、カメラや望遠鏡の性能が格段に進化していたことでした。

 天体写真は一般の写真と違って、星からの淡い光を長時間露出で捉えなければなりません。しかし、その間に星たちは日周運動で動いてしまうので、点像にするためには赤道儀などの架台を使って追尾するのです。フィルムカメラだった学生時代は、コダック社のトライXという高感度の白黒フィルム(新聞社でも昔、長巻を使っていましたね)を増感現像して、微かな星の光をあぶり出したものです。写っているかどうかは現像してみるまで分かりません。星の動きを追いかける赤道儀は手動で操作していました。

 それがデジタルカメラになって一変していました。一枚一枚のカットはその都度、結果が確認できるだけでなく、パソコンで複数枚の写真を合成するコンポジットという方法で淡い光をさらに浮き上がらせたり、ノイズを減らしたりする処理が可能になったのです。望遠鏡や赤道儀もWi-Fiで接続したスマホの操作で目的の星雲や星団を自動的に導入し、その動きに合わせて自動追尾してくれる時代です。

M45(プレアデス星団・すばる)=南房総市千倉で

 さらに隔世の感があるのは、街路灯などの光害をカットし、星からの光の帯域だけを透過するBP(バンドパス)フィルターという特殊なフィルターを使うことで、都会の街中でもそこそこの写真が撮れるようになったことです。中野の我が家は木造3階建ての狭小住宅ですが、周囲に張りめぐらされた電線越しにベランダから星雲や星団の写真が撮れたときは、ちょっとした感激でした。何しろ、ほんの数キロ先は不夜城の光害地・新宿なのですから。天体写真の世界は昔とは様変わりしていました。

 とはいえ、暗い空に勝るものはありません。昨夏以降、時間に少し余裕ができたこともあって、時々、遠征に出ています。月明かりの影響を受けない新月の時期、目的地は千葉県南房総市や館山市です。自宅から車を2時間余り走らせると、今でも肉眼で天の川が見える空が広がっています。

M42(オリオン大星雲)=南房総市千倉で
いっかくじゅう座のバラ星雲=同

 望遠鏡を使った星雲や星団の写真だけでなく、カメラ用の広角レンズや魚眼レンズを使った星景写真も最近の流行りです。ヤフオクで格安の中古レンズの掘り出し物を探す楽しみも増えました。行った先で同じような天文マニアに出会うことも少なくありません。定年後、数十年ぶりに天文復帰したという同世代の人たちが目立ちます。

 話題のタネに、撮った写真を何枚か元写真部長の佐藤泰則さんに見せたら「この写真、アーカイブに下さい!」と声を掛けてもらいました。この世界の専門家から見れば足元にも及ばないレベルですが、何かの資料としてお役に立つことがあればと数枚を毎日フォトバンクに登録していただきました。天文少年、転じて天文老人の仲間入りをして1年目。思わぬ励みになりました。

(河野 俊史)

 河野俊史さんは1978年入社。仙台支局、東京社会部を経てワシントン、ニューヨーク支局。東京社会部と外信部の各デスク、北米総局長、社会部長、東京編集局長、大阪本社代表などを務め、2015年からスポーツニッポン新聞社社長。21年6月退任。

オリオン座の馬頭星雲=南房総市千倉で
ケンタウルス座のオメガ星団=館山市伊戸で
M27(こぎつね座の亜鈴状星雲)=東京都中野区の自宅で
M1(おうし座のかに星雲)=東京都中野区の自宅で

2022年3月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその19 千駄木薮下通りの光と影(前編)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 連載その18(前編)では、森鴎外の『青年』を取りあげた。今回はその続きになる。主人公純一は、根津神社に参拝しないまま、裏門から出ると、それより薮下の狭い道に入り、爪先上がりの坂をたどって、団子坂に向かって歩いていった。

 藪下の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌っている小さな家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まわれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間というのがこれだなと思って通り過ぎる。(中略)それから先は余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。(中略)爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、また右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鴎村の家だなと思って、一寸立って駒寄の中を覗いて見た。

 「毛利某」こと「鴎村」が鴎外自身であるのは、いうまでもない気がする。次いで、その作風を、「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と評し、「純一は身震いして門前を立去った」と続けている。「竿と紐尺とを持って」という自嘲的な物言いの真意は、伊能忠敬が正確無比な日本地図を制作したように、ということだろう。世間が「身震い」しようとしまいと、筆を曲げるつもりはなかったと思われる。

 「薮下の狭い道」は薮下通りのことだが、鴎外の旧居があったのは、薮下通りが団子坂に突きあたるすぐ手前で、現在は文京区立森鴎外記念館(千駄木1丁目23-4番地)になっている。団子坂は、『御府内備考』によると、千駄木坂とも汐見坂とも呼ばれていた。

 汐見坂というからには、そこから海が見えたのである。鴎外は団子坂の邸宅を観潮楼と名づけ、「わたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆」が見えると書いている。記念館の目の前がしろへび坂である。実感的には断崖というのがぴったりするその坂の上に立つと、いまや品川沖は望むべくもないが、南東方向に目をやると、ビルとビルの間に、押上の東京スカイツリーが見晴るかせる。

 藪下通りの景観描写に、「九尺二間」が出てくる。これは間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)のことで、粗末なむさくるしい住居や裏長屋の代名詞だとされる。それが無住になったまま放置されているのは、町が寂れていることをうかがわせる。

 その先には「別荘らしい家と植木屋のような家」が続いていたとある。『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」をみると、薮下通り西側の高台は太田摂津守の下屋敷で、東側の低地は町人地(千駄木町)と百姓地になっている。明治維新で大名屋敷はなくなるが、やがてその跡地は市街化され、新興の有産階級が好んで住むようになった。そうした街並みのなかに「別荘らしい家」もあったのである。鴎外が団子坂に転居したのは1892(明治25)年である。観潮楼のあった場所は、太田摂津守の下屋敷北側に隣接する世尊院門前町か、そうなければ世尊院境内の一画だったようにみられる。

 文中の「植木屋らしい家」とは、地方から上京したばかりの主人公の純一の目には、そう映ったということである。作者の鴎外は、団子坂に移ってかれこれ18年になる。土地勘は十二分にあったわけで、植木屋以外の何ものにも見えなかったはずである。千駄木の台地上に別荘が建つのは、江戸が東京になってからである。それにたいして植木屋という稼業は、江戸開府以来の伝統的な文化である。

 「別荘」と「植木屋」を対照的に扱っているわけだが、この箇所には少しこだわってみたい気がする。というのも、明治時代に団子坂といえば、菊人形の見世物が有名だったからである。これを主宰したのは、もちろん、植木屋である。

 この催しが執り行われたのは、神嘗祭と天長節を挟んだ10月初めから11月半ばまでの1か月余りだという。主人公の純一が団子坂を訪れたのは「十月二十何日」となっている。菊人形展の真っ最中のはずだが、それについては一言も触れていない。

 夏目漱石の『三四郎』に、団子坂の菊人形のにぎわいぶりが、生きいきと描かれている。『三四郎』の初出は『朝日新聞』の連載小説で、1908年9月1日からその年の12月29までの掲載である。

 右にも左にも、大きな葦簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れている。

 連載その18(前編)でも書いたが、鴎外の『青年』はそれより2年後、1910年3月から『スバル』に連載された。ところが、その中間にあたる1909年の秋、団子坂の菊人形展に一大異変が生じた。

 この年、名古屋の黄花園と菊世界という2軒の植木屋が、それぞれ両国の国技館と浅草公園の常盤座で大規模な菊人形展を開催した。それにとどまらなかった。東京の植木屋のなかからも、名古屋の植木屋たちに追随する形で、浅草の柴崎町や浅草公園に進出する業者が続出した。その結果、それまで菊人形の業界を独占状態にしてきた団子坂は大打撃を蒙り、没落の坂道を転がり落ちることになったというのである。

 詳しいことは分からないが、『青年』の連載を始める前年の団子坂の菊人形展は、おそらく、火の消えたように寂しいものだったに違いない。「竿と紐尺とを持って」という筆致だから、うっかり見落としかねないが、前回に書いた子守の少女と同じように、団子坂の植木屋たちもまた、時代の過酷さに体を竦め、心をS字型に屈曲させていたのである。

薮下通り。玉石を積んだ石垣。千駄木1-9。2009.12.14

 3年後の1912年、全盛期には30軒あまりの植木屋が集った団子坂の菊人形展は、最後まで残った1軒である巣鴨の種半まで撤退してしまい、完全に消滅した、ということである。

 薮下通りは、冒頭で述べたように、根津神社の裏門と団子坂の坂上を結んでいる。

 『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」をみると、薮下通りから団子坂にかけての道筋に、「コノスヘセンタキ下丁」(この末、千駄木[坂]下町)、「シオミサカ、ダンゴサカト云」(汐見坂、団子坂と云う)とあり、また団子坂の中腹には「谷中ミチ」(谷中道)とも記されている。森鴎外の観潮楼跡(現在の森鴎外記念館)があったのは、この『切絵図』でいえば、「世尊院門前」(世尊院門前町)のあたりとみられる。

 その団子坂を隔てた斜向かいに、「権現山、御立山、元根津ト云、植木屋多シ」と記される町人地がある。

 「権現」は根津権現の略称。「御立山」は狩猟や伐採を禁じる山のことらしい。元根津の地名は、根津権現の旧社地だったことに由来する。「植木屋多シ」とあるが、この『切絵図』の制作された1854(嘉永7)年のころは、植木屋が軒を連ねていたとみられる(以下略)。

・おまけ

 27日、館山へ日帰りで行ってきました。この日は西高東低の荒れた天候で、畑へ行くと、ソラマメが強風に煽られて、身を竦めていました。

 しかし、もうそろそろ冬も終ります。その近くでは、育て損なったハクサイが、葉を丸めないまま、花を咲かせていました。

2022年2月28日

『野球博覧』モロさんのシールズ軍来日全記録

 「シールズ軍来る!」

 思わぬところで、このポスターに出くわした。カレッタ汐留B2にある電通の「アドミュージアム東京」の常設展「ニッポン広告史」に展示されていた。

 サンフランシスコ・シールズで知る本物野球
 無届けスコアシートから全6試合を詳細に検証

 『野球博覧』Baseball Tencyclopedia(大東京竹橋野球団編2014年刊)354ページから390ページまで37ページに亘って、シールズ来日全試合の記録が詳述されている。

 本の大きさはA5判だが、横組みで小さい活字がぎっしり詰まっている。1ページ48行×46字、2,208字、400字原稿用紙で5・5枚、200枚に及ぶ大原稿である。

 筆者は、1959年入社、整理本部の鬼才・野球オタクの諸岡達一さん(85歳)である。「野球文化學會」(https://baseballogy.jp/ )生みの親でもある。

 《10月15日(土曜日)朝6時半、僕は本郷区丸山新町の家を出た。後楽園の開門は午前8時。焦土の東京は雨。走るように歩いて35分。巣鴨にある私立・本郷中学1年生である》

 サンフランシスコ・シールズ対巨人、初戦のプレーボールは午後2時5分だった。中学1年生の諸岡少年は、試合開始7時間半も前に家を出て、後楽園球場に向かった。

 諸岡少年の興奮ぶりが分かる。初戦は学校が休みだったが、他の試合は、学校をサボって観戦、それが出来ない時はラジオにかじりついてスコアブックをつけた。

 全6戦のスコアは以下の通りだが、ポスターの日程とは違っている。16日の対極東空軍は戦災孤児デーをうたい、新聞は「秋晴れの下、孤児達に最良の和やかな日曜」と報じた。

 ① シールズ13-4巨人(10月15日後楽園球場)
 ② シールズ 4-0東軍(10月17日神宮球場)
 ③ シールズ 3-1西軍(10月21日西宮球場)
 ④ シールズ 2-1全日本(10月23日甲子園球場)
 ⑤ シールズ13-4全日本(10月27日中日スタジアム)
 ⑥ シールズ 1-0全日本(10月29日神宮球場)

 10月30日の日曜日は「オドールデー」と15歳以下の子ども4万人を後楽園球場に招待して、東京六大学野球の選抜チームと対戦した。

 この試合、都内の小学校5年生以上と中学生が1校20~25人割り当てられたそうだが、当時小学校2年生だった私(堤)は、資格外で観戦することが出来ず、残念に思った記憶がある。諸さんや大島幸夫さん(84歳)は後楽園球場で観戦しているのだ。

 日米野球の違い。カルチャーショックを諸さんが書いている。

 《それは「昭和24年」……。目の前で、野球の認識の違いが展開する。驚異と畏敬と屈辱と憧憬。野球が違う。これこそが真の野球か。いまのいままで後楽園球場で見ていた日本野球連盟の職業野球は、あれは「野球にほど遠いのではないか」。日本野球選手たちの惨めな姿が衝撃的に過去となる。以下は、野球とは何かを斬新に認識した少年Mの昭和24年晩冬の覚書》

大東京竹橋野球団発行『野球博覧』の表紙

 『野球博覧』Baseball Tencyclopedia は、2014年に大東京竹橋野球団S・ライターズが創設30周年記念で発行した。団員が高齢化、もはや野球の試合が出来なくなって、解散記念でもあった。

 Tencyclopediaは「天才」と「百科事典」の造語。米野球史家ジョン・ソーン氏『Baseball in the Garden』から「誰が野球を創ったか」を松崎仁紀さん(75歳)、川上・大下・長嶋ら「人物野球伝」、毎日新聞の野球に対する取組み、社内野球史など本文415ページ。

 非売品としましたが、多少残部があります。送料とも@1,180円でお分けします。申し込みは へ。

(堤  哲)

2022年2月15日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その18 根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠(後編)(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53477870.html

 根津権現の周りでは、明治維新を迎える段階で、およそ30軒の遊女屋が営業を続けていたとのことだが、東京府のお墨付きを得たことで、新吉原と同様の営業が大っぴらに出来るようになった。しかし、順風満帆とみえた色町の繫盛は長くは続かなかった。『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、その後の顛末が次のように書かれている。

 同12[明治12・1880(ママ)]年には妓楼の数は90軒に増加し、遊女の数も128人から574人に急増した。(中略)しかし、同年、東京大学の開校の件が伝えられ、にわかに遊郭移転問題が浮上した。その結果、同21年、花街は深川区洲崎弁天町(現江東区)に移転した。

 「東京大学の開校」が具体的に何を指すのか分かりにくいが、この「東京大学」というのは、先に述べた『青年』の冒頭に出てくる高等学校(東京第一高等学校)のことではないかと思われる。現在は駒場にある東京大学教養学部がその後身である。

 東京第一高等学校は東京第一高等中学校の改称で、1889(明治22)年、この高等中学校が向ヶ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)に移転してくることになった。

 ここは明治維新までは水戸藩邸と小笠原信濃守の下屋敷があったところだが、台地を下りた目と鼻の先に根津遊郭という江戸時代からの悪所があった。それが問題視された。その結果、1888年に根津遊郭は洲崎弁天町(江東区東陽1丁目)に移転することを余儀なくされたのである。

 『青年』の純一は、本郷追分から高等学校の塀に沿って歩いたことになっているが、高等中学校が高等学校に改称されるのは1894年である。東京第一高等学校の塀のつきたところに、根津権現の表坂、すなわち根津新坂があり、純一はその坂の上から「人家の群れ」を俯瞰している。坂を下りた左手に根津神社の大鳥居があった。それより先が根津八重垣町(根津門前町)で、そこにかつて色街があった。

 八重垣町では、遊郭営業の公許を得ると、新吉原(台東区千束4丁目)にならって、道の両側(現在の不忍通り)に200本あまりの桜を植込み、ぼんぼりを灯して、遊客を誘ったという(註14)。根津権現は、明治時代になると、ことの是非はともかく、神仏分離の廃仏毀釈と、門前の遊郭移転という二つの災厄に見舞われた。『青年』の主人公純一が根津を訪れたのは、根津遊郭が洲崎弁天町に移転して22年後ということになる。

 三遊亭円朝の『牡丹燈籠』に根津の清水谷がでてくる。

 『牡丹燈籠』の初出は、1884(明治17)年、若林玵蔵・境登造による速記本である。作品自体は文久年間(1861~1863)の成立とされる。

お化け階段。弥生2-18。2021.04.15

 根津の清水谷に萩原新三郎という浪人が住んでいた。生まれつきの美男で、年は21歳になるが、まだ妻を娶っていない。田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていたという。そんな新三郎の根津清水谷の住まいに、谷中新幡随院の墓地から抜け出した旗本の娘お露と下女お米の亡霊が、夜な夜な、牡丹燈籠を下げてやってくる。

 上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え、山に当たる秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変わらず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロンカランコロン、(中略)駒下駄の音が生垣の元でぴったり止みました。(中略)いつもの通り牡丹の花の燈籠を下げて、

 先にも書いたように、忍が丘は上野の別称。向丘は忍が丘の向かいにある丘。池は不忍池。夜の八つ時(午前2時)を知らせるのは寛永寺の時の鐘。

 それでは、根津の清水谷とは根津のどのあたりのことをいうのだろうか。

 手元の資料やインターネットで調べてみたが、なぜか、根津清水谷という地名は探しだせない。しかし、ふだん街歩きの資料に使っている『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、明治時代の旧地名として、根津清水町(現在の根津1丁目)があり、西側に隣接して、向ケ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)があると書かれている。台地の下が根津清水町で、台地の上が向ケ丘弥生町である。二つの町の間に断崖または急峻な傾斜地があり、それが町域の境界になっている。

 根津の清水谷では「向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」と『牡丹燈籠』は書いている。現在はマンションや学校などが建ちならぶ住宅地になっているが、かつて向丘の崖下には、樹木や下草の繁った間のそこかしこからから清水が湧き、それが小さな流れを造っていたのではないだろうか。根津の清水谷というのは、特定の一箇所というよりも、向丘の崖下一帯の総称だったかもしれない。さらに憶測を重ねれば、この小さな流れは藍染川(谷戸川)に合流し、上野不忍池に注いでいたのである。

 『江戸切絵図』をみると、「水戸殿」(水戸藩邸)の東側に「小役人」と記した武家地がある。ここが明治時代の根津清水町であるが、江戸時代には清水横町と呼ばれていたという。『牡丹燈籠』の萩原新三郎は浪人といっても、田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていた。であるとすれば、この清水横町の住人であったと考えても、おかしくない気がする。

根津神社表参道の武田表具店。根津1-14。2021.04.15

 森鴎外が「溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある」と『青年』に書いたその小高い丘の上に、『江戸切絵図』は清水観音の御堂を描いている。

 『江戸名所図会』にも、神仏分離で失われたこの清水観音が取り上げられている。観音堂は京都清水寺と同じ懸崖造りの伽藍様式に描かれていて、本文には次のような解説がつけられている。

 観音堂 (本社の左、岡のうへにあり。洛陽清水寺の模(うつ)しにして、本尊千手観音の像は慈覚大師の作といへり)。

 だとすれば、京都清水寺の崖下に音羽の滝があったように、根津権現の観音堂の崖下にも音羽の滝があったのではないだろうか。三遊亭円朝が『牡丹燈籠』を構想した幕末のころには、そこでも、耳をすませば、「清水の流れる音がそよそよと」聞こえていたように思われてならない。

2022年2月4日

元中部本社代表、佐々木宏人さんがオヤジさんの旧著『ブンヤ酔虎伝』紹介

 先日、SNSのfacebookに竹橋の国立近代美術館で開かれていた、毎日新聞社も主催者に名を連ねる「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」を見に行ったことをアップした。

 この中でこの展覧会を見に行ったワケを、当方のオヤジ〈佐々木芳人、1938(昭和13)年毎日新聞入社、社会部などを経て1967(昭和42)年出版局次長で定年退社〉が、民藝の骨とう品が好きで、柳宗悦さんの創立した日本民藝協会のメンバーだったことを記した。それが機縁で親父の本「ブンヤ酔虎伝 エンピツ・酒・古道具少し」(昭和42刊)を久しぶりに書庫から出して目を通し、柳さんが亡くなったその日の朝〈1971(昭和36)年5月3日〉に、京王井の頭線駒場東大前駅近くにある日本民芸館を偶然訪れたことがあるのを知ったと書いた。

 この記事を目ざとく見つけた当欄の管理人?高尾義彦さん(元監査役)が、「オヤジさんの本のことを書いて下さい。旧刊紹介で---。」

 「旧刊紹介、そんなのあり?」と思ったが、数十年ぶりでこの本を全部、読み返してみた。ところがセガレがいうのもなんだけど、べらぼうに面白い。本のほとんどが親父30年勤めて出会った戦前・戦後の社会部、政治部、運動部、外信部などの記者たちの酒にからんだ“奇岩怪石”の武勇伝ばかり。アマゾンで探したが売っていないようだ。

 ほとんどがローマ字のイニシアルで書いてあるので、今となっては誰とわからない記者がほとんど。でも蕎麦屋で三人前を頼んでペロリと平らげるKさんは、大食漢で文化人まで広い人脈を持って“食の本”を何冊も出した東京編集局長、常務をやった狩野近雄さんだろう。

 おかしいのは戦前の政治部記者のAさん、彼が貴族院と衆議院どちらの担当になるか議員の注目の的だったという。最前列の記者席で手鼻をかみ、そのネバッコイものが下の議員席に飛んでくるのだという。この人、酒を飲むと時間の概念がなくなり夜中の2時でも3時でも平気で政治家や仲間の記者の家の玄関をたたいたという。

 戦後の有楽町時代の毎日新聞で社会部記者二人が、血だらけで上がって来てソファーに寝込んだのはいいが、翌朝起こされて、なんで血だらけなのか覚えていない。夕方、飲み屋の女将さんが会社に心配して電話をかけてきた。二人が激論を交わして殴り合いを始めて血だらけになりながら、会社に上がったのだという。

 こういう武勇伝がゴロゴロ。

 だけどそれだけではない。親父が静岡支局長だった当時、東海道線で事故の原稿を通信部主任の若い奥さんが、赤ちゃんを背負い、支局に届けた。その第一声が「締め切りに間に合うでしょうか?」。家族ぐるみの通信部記者の哀歓を書き記している。

 自分の体験で新婚時代、台風の来襲で駆け出し時代、社会部警視庁クラブで被害状況を本社に送っていて、大森の川沿いの貸家に帰れず、ようやく翌日の夕刻、自宅に帰ってみたら「畳を上げた部屋の片隅に、たった一人、女房はぐったり、しょんぼり座っていた」。母にこの話を聞いたことがある。

 女性記者の話には笑った。世間的に名の知れた美人の記者の結婚話。彼女にウインクを送る同僚記者が多数いる中で、ある記者が電撃的に彼女を喫茶店に呼び出しポケットから小瓶を見せ「これは青酸カリです。あなたにプロポーズします。断られたらこれを飲みます」。彼女はOKを出すが、実は小瓶の中身はコーヒーの粉だった―という。二人の顔が何となくわかる。プロポーズしたと思われる相手の顔を思い出すと可笑しい。

 携帯電話もなく、電話も数軒に一台の時代。まだまだ新聞が情報源のNO1の時代。戦中・戦後の苦難の時代はあったが、良き仲間、良き社風の中で、オヤジたちは良き時代を過ごしたな―、としみじみ思う。

 この本の中でオヤジは「一枚の名刺で、下町のおっさんであれ、政財界の大御所であれ、『やあ・やあ』『ようよう』とこころよく会ってもらえるのも、その記者自身の力ではなく、記者の背後にある、何百万の読者をもつ、毎日新聞の力なのである」と、会社の定年後のさびしそうな仲間の姿を見て記している。当方も何回か聞かされた。

 今の時代、この言葉が無力ではないことを信じたい。

(佐々木 宏人)

※「ブンヤ酔虎伝 エンピツ・酒・古道具少し」は昭和42年6月5日刊・鶴書房、と牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」。2016年1月20日号に掲載された鯨岡阿美子さんの追悼録によると――

 「昭和18年から昭和21年の初めに毎日新聞に一人の女性記者がいた。その名を鯨岡阿美子という。社会部先輩の佐々木芳人さんはその著書『エンピツ・酒・古道具少し』でこう表現する。「今は独立してフアッション界で仕事をしているが、かつてNTVでプロデユーサーとして名のあった鯨岡阿美子さんは、政治部に居た。しばらくして、女性タイムスか女性新聞か、名前は失念したが編集責任者となり活躍していた。当時からキリキリシャンとした美しさとキリキリシャンとした仕事ぶりが強く印象に残っている」

 佐々木さんとは昭和23年12月23日夜、巣鴨刑務所に張りこみ、東条英機元首相ら7人が処刑される模様を塀の外から取材したことがある。私が入社した時はすでに鯨岡さんは退社されていたが鯨岡さんの印象は佐々木さんと同じく”キリキリシャン“とした女性であった。後に知ったことだが、ご亭主が社内でも有名な名文家の古波蔵保好さん(社会部・論説委員)と聞いて変に納得したのを覚えている。

2022年2月2日

元校閲部副部長、赤川博敏さん(85)が、歴史探偵、半藤一利さんとの近所づき合いの想い出を綴る

 「大の男が、テレビ(カメラの前)で泣くなんて、みっともないですよね」。我が家のお向かいの作家で歴史探偵の半藤一利さんが亡くなって1年になる。

 21年1月12日午後、外出先から帰宅すると、商店街の外れ、自宅に曲がる路地の角に救急車が止まってる。もしや? と、思いながら帰ると、玄関に救急隊員、お巡りさんらが、あゝやっぱり。「一応伺ったけど取り込んでいるので……」と妻。救急隊員に確認したが「プライバシーなので」と。当たり前のことだが、当方もかなり狼狽していた。

 20数年にわたる半藤さんとのお付き合いの思い出が走馬灯のように駆け巡った。25、6年前になるか、以前は一軒家だったがその前半分の土地(40坪くらいか?)で工事が始まった。先ず地下工事が、大工さんに聞くと「何でも有名な作家で、地階全体を書庫に」と、大変な蔵書だなと驚かされた。まもなく瀟洒な家が完成した。

 知り合いのきっかけは今でも記憶がない。というより日常生活の中で自然にお付き合いが始まった。多分、夏目漱石のお孫さんの末利子夫人との何気ない日常の会話が、きっかけだったと思う。ご夫婦ともとても気さくな人というのが第一印象だった。

世田谷区にある半藤一利さんの自宅

 さて冒頭の言葉だが。2001年10、11月NHK教育TV(Eテレ)「人間講座」で半藤さんの「清張さんと司馬さん」という8回連続講座があった。その最終講、松本清張の話の最中、突然絶句、目を真っ赤にして涙が。その翌朝、「講座終わりましたね」と夫人との会話のなかでの言葉である。みっともないは、ひょっとしたら「情けないですよね」だったかも(意外に言葉は結構きつい)。「ただね、主人は清張さんには特別の思い入れがあったようですよ」とも。

 講座のなかで、半藤さんはカナダ、アメリカへの取材旅行のことに触れている。旅に出て参るのは、(清張さんが)酒を飲まないこと。夕食のとき、(こっちが)楽しみにしているビールを1杯か2杯あけないうちに、さっさと食事をすませ、「さあ、今日の取材について、部屋で大いに語り合おう」とくる。いじきたない呑兵衛は閉口する。3、4日して堪忍袋の緒が切れて「清張さん!たまにはゆっくりとビールを飲ましてくれ」と。翌日カナダからアメリカに飛ぶ空港で清張さんがソフトクリームを両手に、「これでも食べて機嫌を直して……」と。

 そして最終回で1992(平成4)年4月20日、松本邸に取材に行き、翌21日3時の取材を約束した。その夜脳出血で倒れ、入院。取材は叶わなかった。清張さんのスケジュール表に「21日3時、文春」と書かれている。その話の時に、絶句となった。日頃の半藤さんは長身で度の強いメガネをかけ、いかつい感じであったが、顔を合わすと、にこやかな表情で対応してくれた。ときに、文春文士劇の半纏を着て下駄履きで、近所の古本屋に立ち寄ったりしていた。

 末利子夫人とは羨ましいほど仲がよかった。「一生幸せにするから、結婚して欲しい」と口説かれた、と夫人は述懐している。自宅の隣に5坪くらいの洋風サロンができた。半藤さん「女房の希望なのでね」とポツリ。ここは編集者との打ち合わせに使われていた。

 よく夫婦連れ立って食事にも。駅近くの居酒屋「K庵」(今はない)、蕎麦屋、創業50年近いP喫茶店(よく編集者との打ち合わせに利用していた=下写真)、下北沢の寿司屋など。時に出会う場合もあった。

 ある時寿司屋でばったり。挨拶したら夫人が「あなた、あの本を差し上げたら」と。翌朝、早速、サイン入りの著書「幕末史」(2008年刊)をいただいた。夫人のメモで「いつもご迷惑おかけして、相手が野良ですから、また迷惑を……」と。実は当時付近に野良猫がかなり多く、夫人が野良猫数匹に時折餌をやっていて、いついてしまった。

 さすが「吾輩は猫である」のお孫さんだな、と変な感心をした。ある深夜、ブザーがなった。こんな夜更けに、と出るとご夫妻が心配顔で。「実は猫がいなくなって」と半藤さん。もしやガレージかも、と開けると猫が飛び出した。その時の半藤さんのホッとした表情は忘れられない。

 半藤さんの著書に初めて接したのは「日本のいちばん長い日」。半藤さんからは著書を何冊かいただいた。末利子夫人からも最初の著書「夏目家の糠みそ」(2000年)をはじめ、出版ごとにいただいている。「糠みそ」にはわれわれ夫婦が2度取り上げられている。

 半藤さんは2019年8月、某新聞社での対談後食事をして帰宅途中自宅近くで転倒、大腿骨骨折した。それ以後亡くなるまで入退院とリハビリを繰り返した。20年9月、国勢調査の用紙を届けた時会ったのが最後になった。あの転倒はハイヤーで送ってもらったのに家まで乗りつけるのが憚られて途中で歩いての転倒。やはり半藤さんはシャイだったのだ。

 末利子夫人は「酒好きで意地汚く呑んで事故を再三起こしたのですよ。今後一切呑ませません」と。身に覚えのある私にとっては耳の痛い話だった。そんなことで、あるとき、「赤川さん、お酒いただいたけど、主人には飲ませないのでお酒もらってくれない?」と声をかけられた。お宅に行くと「宅急便の箱開けて、どうぞ」と。開けると八海山の純米酒。

 どうやら醸造元の広報誌への原稿の謝礼のようだった。半藤さんの歴史探偵の原点は45年3月10日の東京大空襲で九死に一生を得たことだと思う(「15歳の東京大空襲」筑摩書房)。そして8月15日を境に「『絶対』という言葉は絶対に使わない」きめた。あの戦争で日本国民は悲惨な体験をさせられたからである。死の前夜、半藤さんは夫人に「起きている?」と声をかけ、「日本人は悪くないんだよ」「墨子を読みなさい。2500年前の時代に戦争をしてはいけないん、と言っているんだよ。偉いだろう」(「墨子よみがえる」平凡社=右)と。これが「遺言」だったのでは、と思う。

 そして遺作ともいうべき『戦争というもの』(PHP21年5月25日刊)が出た。これは孫の北村淳子さんが初めて編集を手がけたものである。骨折で入院中に半藤さん自身が企画したもので、「太平洋戦争 記憶してほしい名言37」あるいは「孫に知ってほしい太平洋戦争の名言37」彼女が編集することが条件だった。病院のベッドで企画の主旨を滔滔と伝えた。最終的には14項目しか書かれなかった。この遺作の末尾に『戦争は、国家を豹変させる、歴史を学ぶ意味はそこにある。半藤一利』と力強い筆致で書かれている。

 今、安倍、菅、岸田と続く自公政権は戦争への道を再び歩もうとしている。多少なりともあの戦争の悲惨さを経験した者として、決して許す訳にはいかない。半藤さんの願いも含めて、もうひと踏ん張りしなければ、と思う。

 最後に「サンデー毎日」2月6日号に末利子夫人の特別寄稿が載っている。それによると夫婦で熱烈なヤクルトフアンで、ヤクルトの優勝を見せてあげたかった、と。つい先日、夫人に12月にわれわれ仲間で優勝祝賀会をやったんですよ、と話すとうれしそうな笑顔を見せられた。

 半藤一利さん没後の2021年5月10日に刊行された「墨子よみがえる」(平凡社ライブラリー)で、半藤さんは「いまの日本にいる“墨子”」について、次のように書いています。

 ここでまた余分なことながら書いておきたいことがまたまた思いつかれた。中村哲さんのことである。このあいだ、編集者のおろくにせっつかれて、現代日本でただ一人の仙人たる安野光雅画伯と、在野にありながら司馬遷の『史記』に関しては他の追随を許さない学識をもつ中村憠(すなお)さんとの座談をまとめた「『史記』と日本人」(平凡社)を上梓した。

 そのとき安野さんも中村さんも異口同音に「現代日本に墨子が存在するとすれば、それは中村哲さんをおいて他にいない」と推輓した。その中村哲さんである。まったく一面識もない人であるが、書物やテレビで知るかぎり、まさに世のため人のために奮闘努力し、われら現代人の手本ともしたい人で、わたくしもお二人の言に心から同感した。

(赤川 博敏)

・赤川博敏さんは1962年、大阪本社入社。大阪販売局(当時営業局)販売部(販売担当員)、77年編集局校閲部に異動、副部長。91年調査審議室編集委員。92年退社。
※福島清さん編集の機関紙「KOMOK会報第71号」から転載

2022年1月27日

企業人大学は千葉ニューパークホテルアネックスで始まった

新城洋一さん(『ちば人国記』毎日新聞社刊)から)

 1月27日付毎日新聞千葉版に掲載された訃報である。

 現在の毎日新聞千葉支局のひとつ前は、新城さんが経営する千葉ニューパークホテルのアネックス1階にあった。JR京葉線千葉みなと駅前だった。

 千葉ニューパークホテルは、1970(昭和45)年11月に開業した、千葉で最初のシティーホテルだった。新城さんは千葉の老舗旅館「篠原旅館」の跡取りで、明治大学を卒業して「これからはホテルの時代」と、千葉みなとの埋立地5千㎡を確保して、シティーホテルを建設した。36歳だった。

 ホテルは大繁盛。73年の千葉国体(若潮国体)では皇太子ご夫妻(現在の上皇、上皇后両陛下)がお泊りになられた。

 ホテルの隣接地は、毎日新聞社が新支局建設のために確保していた土地だった。新城さんは、その土地に目を付けた。

 瑠璃夫人が言う。「支局に菊池哲郎さん(のち主筆、2016年没68歳)がおられ、お話したら不動産の担当は元千葉支局長で総務の林道彦さん(2009年没84歳)。菊池さんの結婚式で仲人をされたということで、話はトントン拍子で進みました」

 毎日新聞千葉支局を1階、宴会場を2階にして、1976(昭和51)年8月アネックスがオープンした。建物の正式な名称は「新毎日会館」だった。

 当時の桜井邦雄支局長(1988年没、59歳)=写真右・倉嶋康さんのFacebookから=が、2階で講演会ができないかと企画、「毎日新聞千葉企業人大学」は翌77(昭和52)年から始まった。

 昔からある千葉の企業と、京葉工業地帯に新たに進出してきた企業を結びつけようとしたのが、発想の原点だったようだ。桜井支局長は、市原通信部の両川邦男さん(2019年没91歳)と湾岸の進出企業をひとつずつ回って、会員になってもらったという。

 私(堤)は87年12月から90年3月まで千葉支局長をつとめたが、当時の手帳に会員企業は107社とある。89年9月が第150回の講演会で、講師は俳優の池部良と、作家の桐島洋子を招いている。それから30年余経っているから、企業人大学の講演会は500回を超えていると思う。

 そして幕張新都心の建設が始まり、新城さんはホテル「ザ・マンハッタン」をオープンする。1991(平成3)年7月だった。

 新城さん夫妻は世界中のホテルを見て回り、「旅先のわが家」をコンセプトにした。巨大ホテルの時代は終わった。だからチェックインのときも、椅子に座って手続きをする。客室へのエレベーターは、カギを持っていないと乗れない。全130室オールスイーツ……。

 1993年7月の東京サミットでは、期間中、このホテルでシェルパ会議が開かれた。サミットの宣言は各国首脳の側近たちによって起草されるが、シェルパとはヒマラヤ登山のガイド、つまり首脳たちをサミット(山頂)に導くという意味で名づけられているという。

 現在の天皇陛下も皇太子時代にお泊りになられている。

 しかし、ちょっと早かった。時代が追いついてこなかった。融資先の銀行から売却を迫られ、手放さざるを得なかった。

 今「ザ・マンハッタン」の公式HPを見ると、ラグジュアリーホテルをうたい、「アメリカの旧き良き大邸宅を彷彿させるエントランスとアールデコ調に統一されたインテリア。優雅なひとときのはじまりです」「ビバリーヒルズの邸宅の居室をイメージした客室は、淡い色合いで統一した上質の空間。大きな窓からは自然光をたくさん取り入れます。総大理石のバスルームでは、ゆったりと一日の疲れを癒してください」……。

 だから訃報の肩書は「ホテル ザ・マンハッタン創業者」なのである。

(堤  哲)

2022年1月26日

社会部記者はすごい――『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠』を読み、小畑和彦さんを偲ぶ

 私はこの本の筆者の5年先輩の67年入学の早稲田生でした。

 2~3年生の時、「早稲田新聞」というサークルで、この本にも登場するノンセクト集団「反戦連合」に参加しました。「反戦連合」は大学改革を求めて、学内を占拠し、大学執行部と渡り合いました。学内制圧を目論む文学部の革マル派が、「反戦連合」を敵対視し(我々も反革マルを標榜していましたが)、大学占拠から数か月たって、「反戦連合」を襲い、本部内に残っていた7人を拉致。数十時間に及んで殴るけるの暴行を加え、息も絶え絶えになった彼らを、あろうことか、埼玉県の山中に遺棄したのです。

 幸いにも、この7人は頑健な人物ばかりで、死者こそ出さなかったものの、彼らが健康体に復帰するまで数か月~半年を要しました。

 川口君事件に先立つ、同派の「内ゲバ・暴力体質」を如実に示した事件だったのです。

 小畑さんが川口事件からその後の学内の動きを取材していたことはこの本で初めて知りました。彼は、社会部の先輩で長く付き合ったのですが、この件は知りませんでした。しかし、この時の学内の動きを伝える彼の記事を読んで、本当に誇らしい気持ちになりました。「やはり、毎日新聞は、社会部記者はすごい!」と。

 私が毎日新聞を受験した理由の一つに、当時、学生運動についての社会面の記事の書き方にもありました。朝日新聞はいつも“上から目線”の記事ばかり、その点、毎日新聞は現場に目を据えて、体制側、学生側のどちらにも偏らない事実を書こうとしているように見えました。(実は、学生側の意気に感じた記者たちの手によるものだった、とは社会部に来てから、初めて知りましたが)

 何度読んでも許せないのは、本の最終に出てくる当時の文学部自治会の副委員長だった「大岩」なる人物です。今は巧みに名前を変えて「辻信一」と名乗り、大学教授にもなったといい、筆者の樋田毅さん(69歳)のインタビューに、当時のことについて「反省」の一言もありません。自分も中核派から暴力を受けたとして、多かれ少なかれ、当時はみんなそうだった、と話しています。

 事実は違います。当時の我々は「堅気さんには迷惑をかけない」、つまり、一般学生には手を出さない、という矜持はありました。それが無かったのが、革マル派です。「大岩」氏は、“反革マル”の一般学生を手始めに、手あたり次第の暴力をふるっていたのです。川口事件の責任を取って、表舞台から消えていき、その後の人生で、栄達を求めず故郷で逼塞し、亡くなった田中委員長を「彼は逃げた人間」と言い放つ、この神経。この落とし前は、彼自ら、死ぬ前にきっちりとつけてほしいものです。

 もう一点、誇らしかったのは、最終的に革マル派を学内から追い出した奥島孝康先生です。私は早稲田大学探検部OB会に所属しており、先生はかつては探検部の部長でいまはOB会の名誉会長です。革マル派の資金源になっていた早稲田祭の廃止にまで踏み切って、彼らを追い出したのですが、そこに至るまでの彼らの嫌がらせはすさまじいものがありました。学内で先生に付きまとい、色々と脅すのです。我々の学生時代から続いた、革マル派と大学当局との癒着は全てこの“脅し”の手法でした。総長選で彼らの力を借りた人物までいた、と噂されていました。

 先生も学内を歩くたびに“革マル派”に付きまとわれ、最後には、自宅に忍び込まれ、書類などを盗まれた、と言います。そうした、圧力に抗した、彼の精神、これまた“早稲田”らしいとも、思います。

 樋田さんは朝日新聞の記者だったそうですが、いわゆる“朝日らしくない”良い記者だったことと思います。本当に良い本を書かれた、と感謝します。

《追記》

 革マル派に襲撃され、重傷を負った高橋公(ひろし)さん(通称ハムちゃん)=現認定NPO法人「ふるさと回帰支援センター」理事長=の著書の写真です。この本には革マル派からの襲撃を受けた当時の様子を詳細につづられています。彼はその中で「私は学生運動にはリンチや個人テロは必要ないと考えていた。20歳そこそこの学生が同世代の学生にリンチを加えるなど、思想的に耐えられないと思った。まだ親の脛を齧っているような学生が、一体どうやってその責任を取るというのか。もし、こうしたセクトや団体が政権を取ったら、一体どのような社会が作られるのだろうか。究極の恐怖政治が行われることになるに違いない」と綴っている。

(元社会部長・清水 光雄)

2022年1月24日

新婚旅行を中止してリンチ殺人事件の取材にあたった小畑和彦さん~『彼は早稲田で死んだ』著者・元朝日新聞記者との交流~

1972年11月29日毎日新聞朝刊社会面
小畑和彦さん

 50年前の1972(昭和47)年11月8日夜、早稲田大学文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生の川口大三郎さん(20歳)が、「革マル派」学生たちのリンチにより殺され、遺体が東大病院の前に遺棄されるという事件があった。当時第一文学部1年生だった元朝日新聞記者・樋田毅さん(69歳)が『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社2021年刊)を出版した。

 この事件が発生した時、4方面新宿署担当の小畑和彦さん(当時28歳)は新婚旅行中だった。事件前日の11月7日、高校時代に知り合った女性と母校早大の大隈会館で結婚式をあげ、2泊3日の予定で信州・木曽路へ新婚旅行に出掛けた。

 朝、温泉宿のテレビで事件を知った。《電話に出たデスクは「いいよ。新婚旅行を続けろよ」と言った。しかし、私はいても立ってもいられなかった。女房に有無を言わさず新婚旅行を切り上げ、国鉄中央線(当時)の新宿駅に着くと女房と別れ、すぐに早大の取材現場に駆け付けた。新居に落ち着く間もなく、結婚早々から激しい取材が始まり、記者クラブや本社に止まり込むのは当たり前、帰宅できても午前様の日々が始まった》と、現在もインターネット上に残る「新聞記者になりたい人のための入門講座」にこうある。

 小畑さんは、第一文学部の学生大会で革マル執行部をリコールして新自治会臨時執行部の委員長(その後、正式に委員長)になった樋田さんを紹介する記事を書いている。

  純粋な行動こそ
    “20日間”が彼を強くした
      ―ある学生の軌跡―

 《H君(20)、文学部一年生。暫定自治会規約などの議案書作成者の一人だ。小柄だが特徴のある長髪、あごヒゲをふりかざし、千人を超す学生を前に熱弁をふるった。しかし川口君が殺される前まではコンパ(飲み会)を愛し、酒に酔っては友と肩を組む学生だった。彼を知る友人は「ヤツはこの20日間で本当に変わった」》

 《だが、問題解決はこれからだ。「どのセクトにも支配されず全学生の総意を反映する自治会を作りたい」と断言するH君。本当の戦いはこれから始まる》

 樋田さんは、「H君は変わった」の見出しを付けて著書に取り込んだ。

 《記事は「愛知県の田舎町」から出てきた青年が、早稲田での学生運動で様々な経験をして、成長していくという物語に仕立てられていた。
気恥ずかしくもあったが、それまで意識したことのなかった自分に、その記事を通して出会えたようで新鮮だった。「事件を伝えるだけではなく、無名の人にも光を当てる記者の仕事は面白い」と素直に思えた。この体験は、私が新聞記者を志すきっかけとなった》

 その後、樋田さんも10人前後の革マル派に鉄パイプで襲撃され、救急車で病院に搬送された。1カ月は自力で歩けないほどの重傷だった。

 《数年後、私が大阪本社に転勤していたとき、彼から「朝日新聞記者として入社が決まった」と連絡があった。大阪に行く用があるとのことで、一晩、千里ニュータウンのわが家に招き、合格のお祝いをすることになった》

 《大学4年生のときと次の年、私がいた毎日新聞を受験しようとしたが、経営難で採用中止のためチャンスがなかった。このため朝日新聞を受験し、合格したのだという。面接では本来、毎日新聞希望だったことなどを包み隠さず打ち明け、私から取材された経験なども話したという。そこまで聞いて私は胸がいっぱいになり、言葉が出なくなった記憶がある》

 《彼とはその後も交流が続き、結婚する女性を紹介されたり、小料理屋で楽しく酒を酌み交わしたりしてきた。彼も私と同様に社会部を中心に記者生活を送り、大事件の渦中にいたこともある。…(高知)支局長として地方に赴いたときには「遊びに来ませんか」と定年後の私に書いてきたこともあった。その彼も今年(2012年)定年を迎える。いったん小休止し、再び意義ある定年後ライフを送ってほしい》=「新聞記者になりたい人のための入門講座」

 68入社の小畑和彦さんとは、水戸支局で一緒となり、65入社佐々木宏人さんと64入社の小生の3人で同じ下宿にいた。小畑さんが体調を崩して入院した際、言われた言葉がまだ耳に残っている。「ツーさんに酒を教わらなければよかった」と。

 2012年4月1日逝去、67歳だった。

(堤  哲)

2022年1月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その18 (抜粋)根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454526.html

 根津神社南側の大鳥居のあたりから西方に向かう急こう配の坂道がある。本郷通りと根津谷をむすぶ新しい坂なので、新坂と呼ばれている、と現地説明板には書かれている。「江戸切絵図」には見あたらないから、明治時代になって造られたのである。

 この坂を上りきる手前に、大正末か昭和初期に建てられたと思われる西洋風の木造住宅が何年か前まで残っていた。街歩きの通りすがりにたまたま見つけたのだが、塀も門もないこの家のひっそりした佇まいに、言葉にならない懐かしさを覚えた。半世紀以上も前に、郷里の館山でみた街並みをふと思い出したのである。

 森鴎外の『青年』にこの坂が出てくるという。鴎外は『山椒大夫』と『鈴木藤吉郎』しか読んだことがない。まさかと思ったが、不肖の息子の本棚を見ると、文庫本の鴎外全集がならんでいた。

根津新坂。西洋建築風の住宅。現存しない。根津1丁目。2009.12.14

 主人公の純一は、本郷三丁目で電車を降りると、本郷通りを歩き、追分から高等学校(東大教養学部の前身)に沿って右に曲がり、訪問先の根津権現の表坂上にある下宿屋の前にたどり着いた。そこが訪問先である。すぐそばがT字路になっていて、右折すると、左手に出来たばかりの会堂(東京聖テモテ教会)があった。約束の時間にまだ早すぎた。そこで純一は今坂すなわち根津権現の表坂の方にむかって歩き、坂の上にでた。

 割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。

 灰色の薄雲をしている空の下では、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群れが見える。

 『青年』は鴎外の49歳のときの執筆で、1910(明治43)年3月から雑誌『スバル』に連載された。日露戦争の終結から5年後である。この年には大逆事件が起きている。

 作品名の『青年』は小説家を志望する地方出身の青年純一のことだが、鴎外自身の青年時代をコラージュ風に点描するだけでなく、急激な西欧化と富国強兵に悲鳴をあげる近代日本の姿を折り重ねた印象がある。「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲」した坂とは、鴎外自身の半生であると同時に、明治という時代の血の轍であっかもしれない。

 「上野の山」は忍が丘と呼ばれた。「向うが丘」(向丘)は忍が丘の向かいにある丘の意味で、現在の本郷から駒込一帯の総称である。この二つの丘陵の間には、連載その12 で書いた藍染川(谷戸川)が、そのころはまだ、北から南に流れ、不忍池に注いでいた。

 「上野の山」では1877(明治10)年から殖産興業政策として内国博覧会が開催され、第三回の1890年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)が開校した。東京大学の創設は第一回内国博覧会と同じ1877年である。当初、「向うが丘」(旧金沢藩上屋敷)に置かれたのは4学部のうち医学部だけだったが、1884年と85年に、それまで神田錦町にあった法学部・文学部と理学部が移転してきた。

 新坂の上からは、上野と向丘の間に「人家の群れ」が見わたせた。藍染川の流れを境に手前が根津で、その向うが谷中である。坂を下りたところに根津権現の大鳥居があった。

 境内に入ると、社殿の縁には、ねんねこ袢纏(ばんてん)の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻きをした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦(すく)めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。

 「溝のような池」とその「向うの小高い処」いうのは、現在のつつじ苑のあたりのことである。続けて、鴎外は「濁ってきたない池の所々には泡の浮いている」と書いている。小説のなかの情景描写といってしまえばそれまでだが、『青年』を執筆した1910(明治43)年のころ、根津神社の境内は、見事に整えられた現在の景観とちがって、かなり荒廃していたことがうかがわれる(以下略)。

根津神社。観光客でにぎわうつつじ苑。根津1-28-9。2021.04.15

2022年1月11日

寺井宏君(元西部本社制作局長)を偲ぶ

《元スポーツニッポン新聞社社長、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」から転載》

 毎日新聞で一緒の仕事をした寺井宏君がなくなった(昨年12月10日・享年85歳)。私は弔電と花輪を送った。夫人谷子さんが主宰する俳誌「自鳴鐘」1月号によれば「俳句結社を主宰するという仕事と主婦、妻、母と努めてこられたのも共通する価値観と包容力のおかげである」述べている。当日式場の模様を当時西部本社整理部にいた早原順一君が毎友会の追悼録で書いている。

 <式場より> 小倉北区北部の文教地区にある葬儀場は、寺井さんの自宅と、岳父の故・横山白虹氏の自宅近く。棺の中の寺井さんは、穏やかで、昇華したような姿に思えた。両脇には牧内節男氏、2人のご子息の勤務先会社、谷子夫人が主宰する俳誌「自鳴鐘」の同人から寄せられた供花。受付横には、社の同僚たちと語り飲む姿、お孫さんと遊ぶ生前の写真が飾られ、その下に数冊の文庫本、開いたままのページは読みかけだったのか…。

 私が西部本社代表のときは私の部屋に来るのはもっぱら編集局長で、編集局次長だった寺井君とはそう頻繁に顔を合わせたわけではない。だが俳人、医者であり北九州市の著名人であった横山白虹が義父だからそれなりの親交はあった。その寺井君を心配させる出来事があった。平成13年、私はネット上で「銀座俳句道場」を設立、選者は寺井谷子さん。当時谷子さんはNHKの俳句の選者をしておられた。その縁でその俳句の番組に出演した。寺井さんが私の「ひまわりの先に1945年の恋」の句を認めていただいたのがきっかけであった。平成13年8月18日放映のNHKテレビ「NHK俳壇」にゲスト出演した。当時を思い返してみると冷や汗が出る。寺井君は終始ハラハラ・ドキドキして見ていたと後で聞いた。

 司会は好本恵さん。寺井さんは「銀座俳句道場」の選者。その人の「出よ」の指示をむげにことわるわけにもいかず、恥を忍んだ。「ひまわり」の句は平成13年8月の兼題のひとつ。昭和20年の夏、私は陸軍士官学校の最上級生で、長期演習の名目で長野県北佐久郡の協和村の小学校で寝起きして訓練に励んだ。演習の合間にふと見かけた可憐な乙女へあわい恋心を抱いた。声をかけたことも話し掛けたこともない。19歳の若者はたわいもなく心をときめかした。それが思いもかけず句になった。この句を寺井さんが激賞した。この一句を、私は胸中の平和句集に「記憶」するとまで言ってくれた。

 好本さんの巧みな司会と歯切れのよい寺井さんの解説、鮮やかな添削で30分はあっという間に過ぎた。視聴者からの投稿句を6句もコメントする機会を与えられた。自分自身が試されていると感じた。季語がすっかり溶け込んでいる句があり、感心した。これまで季語の座りごこちが悪い句ばかりしか出来なったので、目が開かれる思いがした。

 寺井君よ。ありがとう。ご冥福を心からお祈りする。

2022年1月5日

2022年、毎日新聞創刊150年 サンデー毎日・英文毎日・点字毎日、創刊100年

 謹賀新年

 毎日新聞創刊100年は、1972(昭和47)年だった。

富士山頂の初日の出(テレビ画面から)

 記念事業と銘打った「ゴヤ展」。京都市美で初日雑観要員として前泊。「裸のマハ」と「着衣のマハ」を大阪学芸部美術担当の解説で鑑賞したことを思い出します。

 社史『毎日新聞百年史』も出ました。

 150周年記念事業の目玉は、何なんでしょうか?

 元英文毎日半田一麿さんの1月1日配信のブログから。

 ベルギーの首都ブリュッセルに本部を置く国際ジャーナリスト連盟(IFJ)は2021年12月31日、21年中に世界で殺害された記者は計45人だったと発表しま した。過去の記録と比べ「最も少ない年の一つ」になったということです。

 同連盟は声明で「減少は歓迎するが、記者への暴力は続いており、小さな癒やしだ」と指摘しました。犠牲者はアフガニスタンで最も多く9人が亡くな りました。Aljazeera紙はMedia watchdog says 45journalists killed in 2021→「国際ジャーナリスト連盟(IFJ)」は2021年中に世界で殺害されたジャーナリストは合計45人に達したと発表」と報じました。

 地域別の死者ではアフガンを含むアジア太平洋が20人、南北米大陸10人、アフリカ8人、欧州6人、中東は1人でした。もっともイランでは「重大な事故」で2人が死亡したと注意を促しました。IFJは、現場で取材できる記者が減り「武力紛争に絡む危険は減った」と分析しました。一方で「メキシコの貧困地区から、ギリシャやオランダの路上まで、犯罪組織や麻薬カルテルの脅威が高まり続けている」と警告しました。

 喜寿を超えた毎日新聞OBの年賀状から――。

 歴代首相で傘寿を超えたのは16人。戦後では東久邇稔彦102、中曽根康弘101、片山哲90、岸信介90、吉田茂89、石橋湛山88、宮沢喜一87歳。

 他に佐藤栄作74、田中角栄75、橋本龍太郎68、大平正芳70歳。

 「目下終活の真っ最中で手間は本棚の整理。捨てるに捨てられず、上記はその作業の副産物」とあった。

(堤  哲)

2021年12月27日

山内以九士氏の打率早見表があった50年前の運動部——元バイト学生・広島経済大渡辺勇一教授の思い出

 毎日新聞OBの諸岡達一さんらが1999年に立ち上げた「野球文化學會」。その第5回研究大会が12月19日「野球と記録」をテーマに、オンラインで開かれた。「記録の神様」野球殿堂入りの山内以九士さん(1902~72,慶大卒)について孫の読売新聞記者・室靖治さん(54歳)が講演した。その中で山内さんが作って自費出版した、打率早見表「ベースボール・レディ・レコナー」の誕生秘話が面白かった。今では電卓でピッポッパだが、山内さんはタイガー計算機を使って700打数300安打まで計算、350ページに、下4ケタの数字15万8500個を収めた。両リーグの勝敗表の勝率やベスト10の打率算出には必需品だった。防御率の一覧表もあった気がする。

「ベースボール・レディ・レコナー」
『野球殿堂』2018(野球殿堂博物館発行)から

 山内さんは1939(昭和14)年のセンバツ(当時は中等学校野球大会)を記者席で取材、大毎の記者から「打率早見表があったら」と言われたのがヒントになって、膨大な作業に取り掛かかったという。

 「レコナー」を実際に使うのは、運動部の内勤、アルバイトの学生がもっぱらだった。その1人、元中国新聞運動部長、広島経済大学教授で野球文化學會会員でもある渡辺勇一さん(70歳)に《「レコナー」の記憶》を尋ねたら、以下の原稿が届いた。1971~74年の東京本社運動部が浮き彫りされている。

(堤 哲)

末安運動部長、美嶺さん、池さん、泰さん、栄太郎さん、呉さん……

 ご質問の小生の毎日運動部アルバイト時代の「レコーナー」(注:運動部ではレコナーでなく「レコーナー」と呼んでいた)の件ですが、ちょうど50年前のことであり、主な記憶は途切れてしまっています。おぼろげながら、当時の運動部の雰囲気をお伝えします。

 「レコーナー」は「ベースボール・レディー・レコーナー」が正式な書名かと思います。ちょうど、国語辞典や英語辞書のような感じで、相当使い込まれていたようで、一部擦り切れそうになっていました。歴代、丁寧に使い続かれていたようでした。

 私は國學院大学2年の1971年春、竹橋の毎日東京本社運動部でプロ野球キャップだった丸谷亘記者(元毎日書道会専務理事、2009年没76歳)に身の振り方を相談していました。今でいう仮面浪人で、2度目の早稲田挑戦に失敗したのです。丸谷さんは母親の遠縁にあたります。新聞記者志望であること、それも運動記者を目指していることなどを話すと、運動部のアルバイトを勧めてくれました。すぐに、デスクの内海邦夫さんに引き合わせ即決でした。

 運動部アルバイトは内勤と外勤に分かれ、外勤はプロ野球の球場記者席でスコアを付けて「ボックススコア」を電話送稿します。たまたま野球のスコアがつけられた私は、外勤バイトからのスタートでした。とはいえ、すべての球場に派遣するわけではなく、3人いたバイト生がシフト勤務で後楽園、神宮、川﨑、東京スタジアムへ記者と同行していました。

 器用に立ち回る私は、外回りの無い日は「坊や」と呼ばれる内勤のバイト補助も担当しました。原稿を整理部やラ・テ部に運んだり、スクラップしたりする役目でした。そんな時「レコーナー」と出会いました。打率計算に用いる便利な小冊子でした。まだ電卓は普及しておらず、計算はもっぱら筆算でした。野球のまとめモノの記事や大学野球出稿の際などに求められることがありました。

 数学が苦手で往生している時、魔法の冊子を手渡してくれたのは古武士然とした鈴木美嶺さんでした。しばらくして野球規則委員や東大野球部OBと知り、驚いたものでした。「これを使ってみれば、計算が早いよ」と教えていただき小躍りしたものでした。縦に打数、横に安打数が並び、交わるところに打率が出てきた記憶があります。「レコーナー」はその後も重宝しました。同時に、美嶺さんの笑顔を思い出します。当時は、共同や時事からの記録配信はなく、自前で計算していたように思います。

 貧乏学生はシーズン中、竹橋の社員食堂で夕食や夜食をとるのが常。ナイターのバイト後、厚かましく風呂に入ったこともありました。政治部・西山太吉さんの沖縄密約事件の頃でした。

 アルバイトは1973年、4年の秋まで続けました。外勤、内勤とも楽しく、何より新聞社編集局のにおいが好きでした。時には出先の記者からの電話送稿をバイト学生が受けることもありました。単行本大(B6判)のザラ紙を横にして、3枚ずつカーボン用紙を入れて待機します。電話が鳴るとおもむろに原稿を受けるのです。「松杉の松」「山冠に…」など随分、字の解釈を覚えさせてもらいました。1972年ミュンヘン・オリンピックでは西独からの国際電話を受けこともありました。

 当時の毎日運動部は多士済々でした。今でも即座にお名前が出てきます。

 覚えているだけで部長の末安輝雄さん、部長待遇の池口康雄さん、鈴木美嶺さん、副部長(デスク)は内海邦夫さん、石川泰司さん、岡野栄太郎さん、浮田裕之さん、呉政男さん、松尾俊治さん、中村尚喜さん、部員では相沢裕文さん、丸谷亘さん、堀浩さん、矢野博一さん、戸田駿さん、荒井義行さん、西川治一さん、中沢潔さん、須田泰明さん、伊東春雄さん、六車護さん、鈴木志津子さんが浮かんできます。もう一人、全く運動部員らしくない異色の記者だったのが、増田滋さんでした。

 上記の皆さんには大変よくしていただきました。相撲や水泳担当の中沢さんはご夫婦そろって母校、広島国泰寺高校の先輩でした。早大野球部出身の最年少、六車さんにはお酒の手ほどきをしてもらいました。岡野さんが元陸上五輪選手だったとは知らず、紅一点の鈴木お志津さんは横綱柏戸のファンでした。真夏の都市対抗野球では、お弁当をいただきに後楽園球場へ日参したものでした。

 アルバイトの合間にマスコミ採用採用試験の勉強にも取り組んでいました。生きた教材は目の前にごろごろいます。とりわけ、作文指導をしていただいたのが隣の社会部デスクの前田利郎さん(1992年没63歳)でした。激務の合間に作文のテーマを出題し、添削してくれました。「結論をアタマに出せ」「自分のエピソードを盛りこめ」の教えを叩き込まれました。隣席の石谷竜生デスク(2007年没79歳)は國學院の先輩でした。記者の心構えを説いてくれました。おかげで、地元の中国新聞社と神戸新聞社(デイリースポーツ)から内定を得て、中国を選びました。後年、甲子園の高校野球取材に出向いた際、梅田の毎日大阪本社を訪ねて挨拶に伺いました。編集局長の前田さんが歓待してくれたのは言うまでもありません。

 毎日東京運動部で育てていただいた私は1974年、中国新聞社に入社し81年から長く運動部に所属しました。ミュンヘンから電話で原稿を受けた大阪運動部の長岡民男さんには、陸上取材でお世話になったものです。1990年から4年間、東京支社編集部のスポーツ担当として東京でも勤務しました。パレスサイドビルの「オリオンズ」で懐かしさに浸ったものでした。

 運動部長などを経て、60歳で中国新聞社を定年退職した後、広島経済大学にスポーツ経営学科教授として招かれました。スポーツジャーナリズムなどを講じてきました。それも2022年春、終えるつもりです。堤さんからの「レコーナー」の問い合わせを機に、ちょうど半世紀前を思い出すことができました。今日があるのは、毎日東京運動部のお陰と感謝しています。

 毎日運動部のアルバイトはその後、早大アナウンス研究会の学生たちに引き継がれたようです。私の5代後のバイト生に同じ広島出身の岡畠鉄也君がいました。中沢先輩から「広島の学生が、中国の入社試験を受ける。協力してやってよ」と電話をいただき、尽力したことは言うまでもありません。岡畠君は現在、中国新聞社社長に昇進しています。余談ですが。

(広島経済大学教授・渡辺勇一)

 名前が出た当時の運動部員を背番号順に整理すると――。43呉政男、45増田滋・中村尚喜、48池口康雄・堀浩、49末安輝雄・鈴木美嶺、50松尾俊治・内海邦夫、52石川泰司・矢野博一・伊東春雄、53岡野栄太郎、54浮田裕之、55丸谷亘、59相沢裕文・59戸田駿、60中沢潔、61荒井義行、62西川治一、65須田泰明、68鈴木志津子、70六車護。多士済々である。

 健在は浮田さん(92歳)、中沢さん(87歳)、荒井さん(84歳)……。

2021年12月15日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その17(後編)(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新

 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454525.html

 サトイモの花をきっかけに読み直したもう一冊が、坪井洋文の『イモと日本人—民俗文化論の課題』である。ここでいうイモとはサトイモのことである。日本の正月を祝う儀礼食がどのように変遷したかをたどり、イネの文化とは別に、イモに象徴される畑作の文化ともいうべき価値体系があることを立証しようとした異色の論考として知られる。そのなかに次のような思いがけない記述があるのをみつけた。

 千葉県安房郡冨崎村では、不幸のあった年には里芋だけは種子を切るといって、自分の家の里芋はすべて他家へ貰ってもらい、種子を絶やしてしまってから他から貰って植えるといっている。

 この民俗事例を分析して、坪井洋文は「里芋に対してある種の霊的感覚とでもいうべき霊質の存在を認めた一つの証拠となるだろう」と論じている。思いがけない記述というのは、この冨崎村は現在の館山市布良付近のことで、私の実家はそれより西側になるのだが、わずか6キロほどしか離れていないからである。私が生まれ育った集落には冨崎やその近くから嫁いだ人もいるが、サトイモを特別視するそうした風習については耳にしたことがない。

ニラの花。アリが蜜を吸っている。2021.08.29

 サトイモはタネイモの周りにたくさんのコイモやマゴイモをつけることから、子孫繁盛の象徴とされた。それにとどまらず、作柄の良し悪しにより、その家の吉凶を占うようなこともあった、ということかもかもしれない。冨崎村では、悪いことの続くのを避けるため、サトイモの「種子を切る」とか「種子を絶やす」とかした。とはいっても、実際は廃棄も焼却もしないで、よその家に譲っている。どういうわけか。サトイモは植えつける畑を換えれば、衰えようとする生命力を復活させると考えていたのではないだろうか。

 サトイモが特別視された作物であることについては、思いあたることがないわけでもない。子どものころ、正月の雑煮やお節料理の煮しめには、かならずサトイモが入っていた。というよりも、正月の料理というと、餅の次に思い浮かぶのはサトイモなのである。雑煮も煮しめもハレの日の特別な御馳走だった。まず仏さまと神さまにお供えをし、その前で家族そろって食事をとった。

 村ではほとんどの家がサトイモを栽培していた。しかし、作付け量は、どこの家もごくわずかだった。サトイモは日常的に大事な食料というよりも、ハレの日に欠かせない食料だったように思われる。さらにいうなら、サトイモを畑作栽培の代表的作物とする忘れられた集合意識が働いていたような気がしないでもない。

 サトイモは正月のみならず、盂蘭盆の行事にも欠かせなかった。お盆には盆棚を作る。私の家では、仏壇の前に棚を設けて、コメと水にミソハギの枝、スイカなどの果物のほか、サトイモの葉を供え皿にして、その上にナスとキューリを飾っていた。

 母親の話では、キューリは馬、ナスは牛の見立てだという。祖先の霊は馬に乗るか牛(車)に乗るかして、あの世とこの世を行き来すると想像していたのである。8月13日と16日の夕方に盆の迎え火と送り火を焚く。その炎のなかに、ミソハギの枝で水を掛けながら、コメ粒を撒き、「ショウロゥ(精霊)さま、ショウロゥさま、ヤンゴメ(焼米)食いくい、ミズ(水)飲みのみ、来さっしぇ、来さっしぇ(帰らっしぇ、帰らっしぇ)」と唱えるのである。

 私の家では、サトイモの葉を供え皿にしていたが、地方によってはハスの葉を用いていたようである。サトイモの葉はハスの葉の代用で、蓮華の台のつもりではなかっただろうか。蓮華の台に坐すのは、馬に乗るか牛(車)に乗るかした先祖の霊、ほかならぬ神さま仏さまということにならないだろうか。

2021年11月15日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その17 サトイモの花(前編)(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新

全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454523.html

 8月最後の日曜日、畑で刈り取った木の枝や雑草を燃やしていると、草取りをしていた妻が、サトイモの花が咲いているという。また何かの勘違いだろうと思ったが、そうではなかった。行ってみると、紛れもなく、サトイモが花を咲かせていた。花の形はミズバショウによく似ているが、色は白ではなく、鮮やかな黄色である。

 サトイモの栽培を始めてかれこれ10年になる。花が咲くのは見たことも、聞いたこともなかった。うっかりしていて、気がつかなかった可能性もないわけでもない。

 狐につままれたような感じなので、とりあえず、写真に撮っておくことにした。自宅に買ったその日の夜、インターネットで調べると、いくつも報告事例が投稿されていた。サトイモの花が日本で見られるのは、たいへん珍しいことらしい。

サトイモの花。仏炎苞に覆われた肉穂花。2021.08.29

 そこで手元の『広辞苑』でサトイモを引いてみると、こう書かれている。

 サトイモ科の多年草。原産は熱帯アジアで、世界の温帯・熱帯で広く栽培される。(中略)稀に夏、黄白色の長い仏焰苞(ぶつえんほう)をもつ、奇異な形の肉穂花序(にくすいかじょ)をつけることがある。雌雄同株。地下茎は多肉で塊茎、葉柄ともに食用とし、品種が多い。

 ふだん使っているもう一冊の『新潮国語辞典―現代語・古語―』をみても、サトイモの花はとりあげられている。国語辞典は私たち日本人の知識の在りようを示す指標の1つである。花が咲くのが珍しい現象であること自体は、かなり昔から知られていたのではないだろうか。「仏焔苞」の「苞」は、花(「肉穂花序」)のつけ根にでる葉で、花を保護するため、これを覆うのだという。「仏焔」はよく分からないが、なんとなく仏像の光背が思い浮かぶ。「焔」は炎のことだから、無量光の慈悲を意味するかもしれない。

 サトイモは房総半島ならどこでも見られる畑の作物である。私が畑を引き継ぐようになって、それまで栽培していたセレベスから土垂(どだれ)という品種に換えた。というのも、サトイモはタネイモの周りにコイモがたくさんできるのだが、スーパーのものと比べ、どうしてこんなに粒が小さいのか、と妻がくりかえし不平を漏らすからである。

 ところが、品種を換えてみたものの、彼女を納得させることにならなかった。原因は別にあったのである。野菜作りの手引書を改めて読んでみると、サトイモは連作障害があるので、休耕期間を何年かおく必要があるらしい。マメ類の連作障害は知っていたが、なんということか、私の栽培する野菜の半数以上に連作障害があると書かれていた。

 わが国で歴史的に最も重要視されてきた栽培作物はイネである。イネは毎年々々同じ水田で栽培しても、連作障害は発生しない。しかし、畑の作物栽培にはその常識が通用しないというのである。そこで、手引書を参考にしながら、いわゆる輪作の栽培方法をとり入れることにした。畑を何カ所かに区分し、連作障害のある種類は、空白期間を3年とか4年とか設けて、周期的に作付けするようにしたのである。

 作物栽培の歴史は途方もなく古い。焼畑での耕作がその原初的な形態だろうと思われるが、畑作に連作障害のあることは、そのころから分かっていたのではないだろうか。福井県と岐阜県の境にある白山麓では、近代になっても焼畑による耕作がまだ続けられていた。宮本常一は1937(昭和12)年と1942年に現地を訪れ、聞き取り調査を行っているが、『越前石徹白民俗誌』のなかで、こんなふうに報告している。

 先ず前年の土曜に芝や草を刈って、10日ほどそのまま日にかわかして火入れをする。その翌春、もえさしの木など二か所にあつめて焼く。また前年刈っておいたカヤをその上にまいてやく。こうして一年目ヒエ、第二年アワ、第三年ヒエ、第四年目マメをつくってゆく。(中略)このようにして長く作る所で七、八年、早ければ三年もつくり、その後二十年なり三十年なり山にしておいて、再び焼畑にするのである。

 焼畑では肥料は使わない。何年か耕作を続ければ、土地はやせていく。そうなったら、耕作を放棄して、自然にもどす。30年もすれば、自然はもとの姿に復活する。

 見落とせないのは、焼畑での耕作期間中は1年毎に作物の種類を替えていることである。その理由の1つは連作障害を避けるためではなかっただろうか。宮本常一の報告のなかに、サトイモは見あたらないが、佐々木高明の『縄文文化と日本人—日本基層文化の形成と継承』には、焼畑の代表的な作物としてサトイモが取りあげられ、かつ連作障害の回避策としての輪作への言及がなされている。

 焼畑で伝統的に栽培されてきたおもな作物は、アワを筆頭にヒエ・ソバ・シコクビエなどの雑穀類、ダイズ・アズキなどの豆類のほか、サトイモ(タロイモの一種)やムギなどがあげられるが、これらの作物は伝統的な焼畑の輪作体系の中に組み入れられ、典型的な《雑穀・根菜型》の作物構成を有していた点に大きな特徴があった。

 サトイモは古くから日本の各地で栽培されてきたとされる。では、それがいつごろかとなると必ずしも明確になっていない。しかし、サトイモが焼畑の典型的な栽培作物の一つで、その輪作体系のなかに組み入れられていたというのであれば、渡来の時期はサツマモ やジャガイモよりも桁違いに古く、あるいは稲作以前までに遡るのかもしれない。

収穫した夏野菜。2021.07.18

2021年10月28日

スワローズ優勝を支えた野村語録!?

 スワローズ優勝、おめでとう!

 『国鉄スワローズ 1950-1964』(交通新聞社新書)の著者としてお祝いを申し上げます。

 監督2年目、高津臣吾監督(52歳)は、昨年の最下位から一気にセ・リーグ制覇だ。恩師・野村克也さん(2020年2月11日没84歳)について聞かれ「褒めてはくれないでしょうね。ようやったな、ぐらいは言ってくれるかもしれないけど。ふんって、笑っているんじゃないですか」と答えた。

左から高津臣吾、野村克也、衣笠剛球団社長(2020年1月20日撮影)

 ノムさんが急逝される22日前の写真だ。明治記念館で開かれたスワローズOB会に車イスで現れたノムさん。愛弟子の監督就任がうれしかったのか。私(堤)がスワローズOB会にお邪魔するようになった2011年以降、ノムさんの姿は初めてだった。

 前年2019年は小川淳司監督で最下位。「高津新監督で来シーズン優勝の可能性は」と司会者の質問に、ノムさんは「今のセ・リーグなら監督が頭を使えば優勝できますよ」と答えた。

 高津監督1年目の2020年は最下位。ことしは「頭」を使った成果が出たのか。ナインを支えた「絶対大丈夫」が決め手だったのか。

毎日新聞の「ひと」欄。

 《野村監督時代は毎日、試合前に1時間のミーティングがあった。監督の言葉を必死にメモしたノートは、ボロボロになった今でも自宅のすぐ手の届くところに置いてある。今年は、就任1年目よりも「ヒントはないか」とめくる機会が増えた》

読売新聞掲載の高津監督の手記。

 《ベンチにマイクが置いてあったら面白かったと思う。気の利く一言や時には笑わせる一言が飛び交っている。みんなで一生懸命戦うという空気が充満している》

 《9月の阪神戦前のミーティングで「絶対大丈夫」と繰り返した。負けが込み、ちょっと重い雰囲気になっていたから》

 《10月23日に巨人に負けた後には「腹くくっていったれぃ!!」と記した紙をみんなの目につく所に貼った》

 《優勝で僕なりの答えは出したが、野村監督の採点は50点かな。「一回勝ったくらいで……」。そんな声が聞こえる》

 朝日新聞の記事に、高津投手の戦績があった。《広島市出身。広島工高3年時に春夏の甲子園に出場したが、2番手投手だったから登板はなかった。亜大でもエースの陰に隠れる存在だった。そんな経験も、選手への接し方に生きている。

 現役時代はヤクルトの抑え投手としてリーグ優勝5度、日本一に4度輝いた。遅いシンカーをひっさげ、35歳で大リーグに挑戦。日米通算313セーブを記録した》 野村チルドレン、苦労人監督のセ・リーグ制覇だった。

 野村克也監督の偲ぶ会が12月11日に神宮球場で行われる。ノムさんが在籍したヤクルト、楽天、阪神、ソフトバンク、西武、ロッテの6球団が共同発起人で、午後2時から同3時30分までは一般にも公開される、と発表があった。

(堤  哲)

2021年10月21日

女優倍賞千恵子さんを記者クラブに呼んできた瀬下恵介記者。マスコミ寺子屋塾創設など果敢に挑戦――元朝日新聞平和担当記者が綴った思い出

 10月2日の夜のことだ。テレビのチャンネルをひねっていたら、画面に俳優の倍賞千恵子さんが登場していた。「豪華!寅さん祭りスペシャル[山田洋次監督厳選!感動名場面]」という番組だったが、そこで語り出した彼女を見た瞬間、私の脳裏に浮かび上がってきた顔があった。それは、元毎日新聞記者・瀬下恵介さんの顔だった。なぜなら、私は57年前に図らずも新聞記者として倍賞さんに直接会う機会に恵まれたが、それは、瀬下さんの突拍子もない挑戦のおかけで実現したものだったからである。しかも、私は、この番組の数日前に瀬下さんの訃報に接したばかりだったから。

 倍賞さんを記者クラブに呼んできた瀬下記者

 私が瀬下さんに出会ったのは57年前のことだ。

 朝日新聞東京本社社会部の記者だった私は東京五輪が開かれた1964年の2月から10月まで、東京・両国の本所警察署内にあった「墨東記者クラブ」(下町記者クラブともいった)に配属された。ここは、警視庁第七方面本部管内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の5区)の事件・事故を取材するための拠点で、新聞各社やNHKから記者やカメラマンが派遣されていた。そこで、私は毎日新聞社会部の瀬下記者と知り合いになった。

 当時、警視庁第七方面本部管内では事件・事故が多かった。このため、墨東記者クラブに詰めていた記者はとても忙しかった。それでも、たまに事件・事故のない日があり、まして雨の日などは、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほかなかった。クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者と麻雀卓を囲んだりしたが、それでも、そうやって午前10時から夜10時までをクラブで過ごすのは退屈極まりなかった。

 9月に入ったばかりのころだった。その日も事件・事故がなく、クラブ員は暇を持て余していた。すると、瀬下記者が突然、声を張り上げた。「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」

 倍賞さんは当時、新進の若手俳優で、歌手でもあった。歌『下町の太陽』が大ヒットし、彼女主演で映画化された(監督は山田洋次)ばかり。今風に言えば、人気急上昇中のアイドル。「下町を大いに宣伝してくれた彼女に、下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」との瀬下記者の提案にクラブ員は皆仰天した。が、「こんなむさ苦しいところに来てくれるわけがない」とだれも相手にしなかった。

 でも、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を投げ入れながら、どこかへ電話をかけ続けた。随分長い時間が過ぎ去った後、瀬下記者が突然叫んだ。「おーい、みんな、倍賞千恵子さんがくるぞ」

 瀬下記者によれば、電話をかけた先は松竹本社。倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだところ、先方は難色を示したが、どうしてもと粘ったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれた、とのことだった。

 10月1日、彼女は一人で本所署にやってきた。私たちは署長室を借り、そこへ彼女を案内し、コーヒーとケーキで彼女と懇談した。そして、彼女に「あなたは『下町の太陽』で、東京・下町の良さを全国に知らしめた」などと書いた感謝状と、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。当時、彼女は23歳。「きれいだな」。クラブ員から、そんな声がもれた。

 彼女自身、大変驚いたようだった。後になって漏れ聞いたところでは、「わたし何も悪いことをしていないのに、どうして警察にゆかなくてはならないのかしら」と周囲に漏らしていたそうだ。

本所署記者クラブ員と懇談する倍賞千恵子さん(その右は筆者)=1964年10月1日、東京・本所署署長室で

 これには、後日談がある。9年後、私たちは倍賞さんと再会することになる。

 すでに墨東記者クラブから去っていた、私たち旧クラブ員から「また、倍賞さんに会いたい」との声が上がり、私たち旧クラブ員が、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じた倍賞さんを招いたからである。

 私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清さんも一緒に招いた。1973年12月16日。銀座のレストランで私たちは3人と昼食を共にしたが、倍賞さんは大スターに変身していた。が、本所警察署長室での初対面の時に感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。

 この3人との交渉を担当したのはまたしても瀬下記者だった。

 ところで、墨東記者クラブが倍賞さんをクラブに招いたことは、明らかにマスコミ界では珍事と言えた。だから、この話題は、すぐ他の警察記者クラブに伝わった。「おれたちは、吉永小百合さんを招くぞ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女性の俳優を招くことができた警察記者クラブは他には1つもなかった。そこで、私はこう思うようになった。「瀬下記者が着想し、実現させたことはまことにユニークな試みで、マスコミ界では画期的なことだったんだな」と。

 マスコミ寺子屋を創設し、マスコミ人の育成へ

 墨東記者クラブを去った瀬下さんは、その後、東京本社社会部、西部本社報道部、「サンデー毎日」編集部などに勤務した後、東京本社社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長兼別冊編集長などを経てTBSブリタニカに移籍、「ニューズウィーク日本版」の創刊に関わり、同誌の初代発行人を務めた。その後、同社取締役を経て、1995年に同社を退社する。

 退職した瀬下さんは、同年、マスコミ寺子屋「ペンの森」を創設した。要するに、新聞記者、編集者などを養成するマスコミ塾である。

 またしても、私は驚いた。瀬下さんが倍賞千恵子さんを本所署の記者クラブに呼んできたときには、その突拍子もない着想に驚かされたが、彼が今度はマスコミ塾を開設したと聞いて、私は同じ感慨に襲われたのである。なぜなら、そのころも、新聞記者OBがマスコミ塾を始めるケースがあったが、長続きしなかったからだ。マスコミ人を育てる事業は極めて意義のある仕事だが、これを継続的に続けるためには資金と人材が必要で、始めるにはなかなか勇気のいる事業だったのだ。

 それだけに、「瀬下君がマスコミ塾を」と驚いたのだ。私には、「瀬下君はまたしても突拍子もないことに挑むつもりなんだ」と映った。

 塾開設直後に、私は東京・神田にあった「ペンの森」を訪ね、久しぶりに会った瀬下さんに「なんでマスコミ塾を始めたの」と尋ねた。が、彼はおちょぼ口をして「ふっ、ふっ、ふ」と満面笑みをたたえるばかりだった。これは、彼が得意なときにみせる動作だった。

 今年9月末に届いた「ペンの森」卒業生の集まり「瀬下塾・ペンの森OB会」の会報を見ていたら、瀬下さんが8月9日に老衰のため亡くなった、とあった。82歳。

 関係者によれば、「ペンの森」がこれまでに送り出したマスコミ人(新聞記者、編集者など)は、500人以上にのぼるという。大手の新聞社や出版社で活躍している人も少なくないそうだ。

 瀬下さんがこれまでに果たしたマスコミ界への貢献は多大なものだったと言っていいだろう。が、彼の死去を報じたのは毎日新聞だけだった。マスコミ界は報道を通じて彼の貢献を讃えるべきだったのではないか。

 ジャーナリストとしての生き方を学ぶ

 私は、彼の生涯から1つのことを学んだ。ジャーナリストは、時には突拍子もないことを考えてみるべきだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたことに、失敗を恐れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない――瀬下さんの生き方はそう言っているように感じる。

 謹んで瀬下恵介さんのご冥福を祈る。

(ジャーナリスト 岩垂 弘)

※ブログ「リベラル21」より許可を得て転載「リベラル21」は、岩垂弘さんら「護憲」に共鳴する元新聞記者や大学教員らが集まり、2007年3月15日に発足した護憲・軍縮・共生をキーワードとするリベラルな社会有志グループ。岩垂さんは1935年、長野県岡谷市生まれ。1958年早稲田大学卒業後、朝日新聞入社。平和運動や協同組合運動を取材。平和・協同ジャーナリスト寄金代表運営委委員。

2021年10月19日

「番記者」が綴る毎日新聞OB、大島理森衆議院議長引退

10月14日の衆院本会議場で解散詔書を読み上げる大島理森衆院議長=西夏生記者撮影

 帝国議会を含め、歴代最長の6年半にわたり衆院議長を務めた大島理森氏(75)が衆院解散に合わせて政界を引退しました。担当記者として大島さんの記憶を綴りたいと思います。

 「明日から朝5時半に赤坂宿舎に行け」

 支局から本社に上がった2008年春、政治部の歓迎会の席で上司からそう言われた。

 翌朝、日の出から間もなくすると、自民党の大島理森国対委員長が宿舎前の坂をのそりと下りてきた。紺のブルゾンジャケットを羽織り、野球帽で寝癖を隠している。スーツ姿の私を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らし、そのまま通り過ぎた。追いすがって何度か話しかけたが返答はなく、あとはただ黙って、後ろを付いて歩いた。人気の少ない早朝の赤坂を30分歩いて宿舎に戻っていく時、大島さんが振り返って言った。

 「取材ならこんな時間に来るな。散歩に付き合うなら本気で散歩しに来い」

 翌日からジャージーと運動靴に着替えて宿舎に通った。

 当時は、前年の参院選で自民党が敗北し衆参両院の多数派が異なる「ねじれ国会」だった。与野党攻防の取材に多くの人を割くとの政治部の方針で、着任したばかりの私が国対番を命じられた。

 法案の早期成立を目論む政府と阻止しようとする野党との間に立ち、審議の順番やスケジュールを差配する司令塔役が与党の国対委員長。その動向を取材するのが国対番だが、総理番を経験していない私は、国会運営どころか永田町のイロハも分からない。国会内では「吊るし」「荷崩れ」など耳慣れない用語が飛び交っていた。審議の見通しを大島さんに尋ねても、「明日は曇りのようだな」「政治は一歩一歩じゃ」といった禅問答のような発言ばかり。最初は途方に暮れた。

 朝から晩まで委員長を追いかける日々を重ねるうち、ごくたまに酒席に呼ばれるようになった。だが、その日の記事に必要なファクトは教えてもらえず。代わりに何度も聞かされたのが「政治は人だ」「49%は相手に譲り、51%を目指すのが与党だ」といった言葉だった。

 長年、議運・国対畑を歩き、与野党折衝に政治エネルギーの多くを割いてきた大島さんの至言を、当時の私が咀嚼する余裕は正直、なかった。国会運営に関するネタは、いつも野党・民主党や連立を組む公明党を担当する先輩たちが取ってきて、焦りは募るばかり。大島さんには「お前は目先のことばかりで政治の全体が見えていない。もっと大きな絵を自分で描いてから質問しろ」と叱られた。

 正式な議事の前に法案成立可否の方向性まで調整してしまう「国対」は談合を生み、世論の政治不信の一因になっているのではないか。なぜ「政策」でなく「日程」ばかりに焦点が当たるのか。ネタをもらえないことに内心ふてくされ、大島さんにこのような疑問をぶつけたことがある。多数決が基本の議会制民主主義でありながら、少数派の野党との交渉を重視する大島さんの手法には、政府与党内から「弱腰」との批判がたびたび上がっていることについても何度か尋ねた。

 大島さんはそのたび鼻で笑い、「国会は合意形成の場であると同時に、究極の権力闘争の場でもある」と言った。国会が持つ矛盾する二つの機能のバランスを追求するのが自分の役割との信念を持っていたのだと思う。大島さんはこうも繰り返していた。「権力は、畏れて使うものだ」

 強く印象に残る光景がある。09年3月4日の衆院本会議だ。第2次補正予算関連法案の採決が行われた会議中、私は議場2階にせり出す傍聴席から、採決に反対する自民党の「造反議員」を確認するため目をこらしていた。内閣支持率が急降下する中、乾坤一擲の解散・総選挙のタイミングを逃し続けた麻生太郎政権は追い込まれていた。総額2兆円の定額給付金も世論の支持を得られず、関連法案は野党が多数を占める参院で否決。政府・与党はこの日の衆院本会議で再可決を余儀なくされていた。

 与野党が動議を応酬し、採決は起立と記名の計3回行われた。与党から16人が反対に回れば法案は成立しない。採決のたびカメラのフラッシュが一斉にたかれた。与党席後方に陣取る閣僚や党幹部は、腰を浮かせ議場をキョロキョロと見回していた。

 大島さんは違った。自席で腕を組み微動だにせず、ただ正面をにらむように見据えていた。党の国会運営責任者として同僚議員に全幅の信頼を置き、また投票行動を把握していたのだろう。政治家・大島理森の胆力と矜持を見た気がした。造反は本会議を欠席した元首相と、その側近議員の2人にとどまった。だが、散会後、安堵の表情で言葉を交わす与党議員の中で大島さんの顔に笑みはなかった。「麻生政権を最後まで支え、麻生政権と心中する」と私に語ったのはこの頃だったと記憶している。

 同年夏の衆院選で野党に転落後、大島さんは自民党の幹事長と副総裁を歴任。選挙区を行脚し、地方組織の結束に腐心した。青森県八戸市出身の大島さんは酔うと南部弁が出るが、地元の支持者の前であっても演説ではあまり方言を使わず、意識して共通語で語る。不思議に思い尋ねると、「自分は大学から東京に行かせてもらった。地元の人たちから見れば、特権階級の人間、故郷を捨てた人間と見られているかも知れない」とつぶやいた。大島さんは繊細で、過剰に周囲を気遣う人だ。幹事長時代はストレスから顔面神経麻痺になったと聞く。

 2012年に自民党が政権に復帰すると、党の復興加速化本部長に就任。「東北の復興に命を懸ける」と宣言した。13年10月、東京電力福島第1原発事故を巡り、「避難住民の全員帰還」や事故処理費用を東電が一手に担う「汚染者負担」の原則を転換する提言をまとめた。提言はその後の政府対応の基礎となった。提言の策定後、東電の社長が大島さんに「おかげさまで、ありがとうございました」と電話してきた。大島さんは「君たちのためにやっているわけではない。お礼を言われる筋合いはまったくない」と一喝した。だが、電話を切ると、「原発政策を進めてきた責任は、政治にもあるんだ」と低い声で言った。

 その翌朝の散歩。港区の檜町公園の芝生を歩いていた大島さんが突然立ち止まり、黙り込んでしまった。しばらく六本木の高層ビル群を見上げていた大島さんは、「わしとお前はこんな何不自由ない都会の真ん中にいて、被災者の人たちはあんなプレハブ小屋にいる………あの仮設住宅で何年も暮らすことを想像してみろ」と言った後、また絶句した。

 大島さんは15年に衆院議長に就任。与野党を超え「立法府」としての立場を意識した発言が以前にも増して多くなった。「国会には行政監視の重要な機能がある」と語り、行政府との緊張関係を求めた。18年7月、森友学園を巡る財務省の決裁文書改ざんなど、政府による相次ぐ公文書隠蔽や誤りの事案を受けて、「民主主義の根幹を揺るがす問題」と非難する議長所感を発表する。「間違った情報を国会に提出することは国民を欺く行為だ」と憤った。政府の拙速をたびたび戒めた大島さんだったが、議長時代は、幹事長や副総裁として党を率いた際に「自らも政策実現を急ぎ『熟議』を軽んじることがあったのではないか」と省みる時間だった。

 議長時代の成果を聞くと必ず、衆院の1票の格差を是正する選挙制度改革(16年)と、衆参両院の全会派による会議を主導した天皇退位の特例法整備(17年)を挙げる。いずれも「政争の具にせず」「速やかに」合意を得ることが求められ、40年近くにわたり与野党に人脈を築いた議員人生のすべてを注いだという。皇室への尊崇の念を隠さず、退位が実現し上皇陛下からねぎらいの言葉をかけられたときは涙を流した。陛下の言葉で最も深く胸に刻んでいるのは「戦争を知る人がだいぶ少なくなりましたね」という一言だという。宮中に行った日の夜はよく、赤坂のとびきり安いチェーン店の居酒屋に記者を誘った。そして「下界のお前たちの話を聞こうと思ってな」と悪ぶった。三権の長になっても地に足をつけ続けるための儀式のように見えた。

 私は大島さんから大きな特ダネをもらうことはついぞなかった。だが、国会内外で丸い背中を追いかけ回す日々が1年近く経った09年初めのある日、衆議院2階の廊下で「お前は最初、右も左も分かっていなかったが、最近は生意気にわしの悪口を書くようになったな」と言われたことがある。そして大島さんは近くの議員を呼び止め、私を指さし「こいつ、わしの番記者だ」と言った。そのとき胸に抱いた感情を私は一生忘れないと思う。

 衆院が解散された10月14日が、大島さんが衆院に登院する最後の日だった。議員は解散と同時にそれぞれの選挙区に走り、午後5時過ぎに大島さんが議長室を出てきたとき院内に残っている者はいなかった。代わりに多くの衆院職員と国会衛視が玄関に集まり、拍手と敬礼で議長を見送った。「大島委員長」や「大島議長」を院内で取材していた時はいつも、大島さんの前に立ちはだかり私たち記者の「敵」だった衛視さんたちがこの日は、「もっと近くに行けよ」と言うようにカメラを構える私の背中をぐっと押した。そのとき、大島さんが国会からいなくなるのだなと感じ、たまらなく寂しくなった。

(政治部 高本 耕太)

大島理森さんは衆議院議長当時の2017年11月、毎友会総会に出席、「天皇退位特例法成立過程から考える立法府の現状」のテーマで講演。大島さんは広告局で3年間、勤務した後、青森県議を経て衆議院議員12期。社会人の第一歩を踏み出した当時の思い出話をまじえ、立法府が国民の総意をとりまとめる役割を果たした経過を説明した。

2021年10月18日

映画「典子は、今」のサリドマイド障害児典子さんは、本山彦一翁ゆかりの小学校卒業

 西部毎友会は毎年9月に総会を開催し、旧交を温め、親睦を図ってきました。しかし、昨年に続き本年度も「完全に安全であるという確証がない段階での開催は避けるべきだ」と判断し、中止しました。

 そこで本年度も、会員の近況を伝える「冊子」を作成し、全会員の手元に届けることで交流を深めることにいたしました。142名のOB・OGが近況を報告しています。

 西部本社代表だった牧内節男さん(96才)にお送りしたところ、牧内さんがネット上で主宰する「銀座一丁目新聞」に西部本社当時の思い出を綴っていただきました。

 一部を引用すると――

 《私が西部本社の代表であったのは昭和56年6月から昭和61年6月までである。後1年半は西部毎日会館の社長であった。西部本社の守備範囲は山口県から九州、沖縄まである。社員は830人ぐらい居た》

 《西部本社6年半の在任中は楽しかった。代表としては稀有の長さである。思い出はたくさんある。日米野球大会を西部本社が自前で開催して大きな利益を上げた。会場の整理・警備など社員たちが積極的にやってくれた。やる気のある社員たちであった。また鹿児島で開かれた初めての販売店の会合では陸士の先輩のモットーを拝借して「私のモットーは敬神努力浮気楽天です」と挨拶。「浮気をすすめる代表は面白い」と大歓迎を受け、飲めない酒を飲まされた。沖縄には何度も機会を見て訪れ、そのたびに必ず摩文仁の丘を訪れ牛島満大将・長勇中将を偲び、ひめゆりの塔で彼女たちの死を傷んだ。》

 さらに牧内さんは、サリドマイドの女性を採用したことに触れています。

 《赴任して間もない頃、サリドマイドの女性を採用して話題を呼んだ。その朝の市内版のトップに「サリドマイドの少女が電話交換手の仕事を探している」という記事が載った。即座に総務部長に「この娘さんを我が社で採用しろ」と命じた。ところが電話交換室の女性たちが私の所まで来て反対した。そこで上京した際にたまたま見た映画「典子は、今」を見よと勧めた。「其れでも反対と言うなら納得する」と言った。この映画は両腕のないサリドマイド障害児・典子のドキュメンタリーであった。数日後、彼女たちは「わかりました」と返事をした。その後、電話交換業務はデジタルに変わり廃止になり、彼女は総務部に移ったが庶務を器用にこなした。当時、RKBがニュースとして取り上げたり身体障害者団体が毎日新聞をとってくれたり影響が大きかった。》

 映画「典子は今」の辻典子さんは、熊本市碩台小学校の出身です。

熊本版「支局長からの手紙」(大久保資宏支局長=当時)

 熊本市碩台小学校は、毎日新聞第5代社長の本山彦一翁が生家の土地を熊本市に寄贈して建てられた小学校です。碩台小学校には「栄光の部屋」(顕彰ルーム)があり、本山社長や典子さんの記念品が閲覧できます。

 毎日新聞創刊135年の2007年2月21日、西部本社幹部と西部懇話会幹部(主要販売店)が碩台小学校を表敬訪問し、小学校の一角にある本山彦一翁の「顕彰碑」(高さ約4メートル)に参拝し、遺徳を偲びました。徳富蘇峰が揮毫し、なかなか立派なものです。

 本山元社長は1853年、現在の熊本市で生まれ、時事新報記者、大阪製糖取締役などを経て、明治22(1989)年に大阪毎日新聞の相談役に就任。1903年に社長に就任し、毎日新聞の基礎を作った。「点字毎日」の創刊など業績を広げ、1930年に貴族院議員。1932年逝去。

 「銀座一丁目新聞」を拝読して、「本山彦一翁」の人柄や思い出を毎友会員に紹介したいと、ご報告する次第です。

 牧内さんは「毎日新聞西部本社の同人たち」と題するコラムを

 《『書くことは考えること、生きることと平成9年に始めたネット新聞「銀座一丁目新聞」を今なお続けております。ブログの閲覧数から推定すると確実な読者は多く見て500人ぐらいと思います。私は1人でもいれば続けるつもりです。100歳まであと4年、ネタ探しに苦労する日々で、これも楽しみの一つです。「けふを打つネット新聞秋の暮」悠々》と結んでいます。

(西部毎友会 淵上 忠之)

創刊135周年の2007年2月、西部本社と西部懇話会幹部が本山彦一翁の顕彰碑に参拝。前列中央が渕上会長(当時、代表)。当時の武田芳明代表室長、加藤信夫編集局長、宋弥治郎販売局長や西部懇話会の久野健治最高顧問、日高忠衛会長らの顔が見える。

2021年10月18日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑩
連載「東京二十四時間」 下

 「求める心」は何処へ
    本はなし、先生も教え方に戸惑う
       親は募る生活苦の悩み

(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の昭和20年の記事から)

 灰塵の本所、深川の一帯―赤茶っぽく焼けたトタンの残骸の間に、煙突だけがようやく昔の名残を止めている。記者がこの地を訪れた時は、うす寒い冬空がどんよりと曇って、灰色の雨が敗戦者のバラックの上に、街路に淋しげに降り注いでいた。その中を傘もない、合羽も持たない可憐な子供たちが、ちびた下駄をぬかるみに、びちつかせながら三々五々打ち連れて緑国民学校の門をくぐる。どの顔を見ても明るく敗戦国の国民の暗さがない。

☆ ★ ☆

 緑国民学校は、最も犠牲者が多かったといわれる本所区内で、焼け残った唯二つの国民学校の一つである。現在この学校には緑、江東、日進、二葉、本所、茅場、本所高専の七校が一緒になっているほか、関東配電、両国貸家組合、城東女子商業などが同居している。三月九日の大空襲で本所区は被害の中心であったため、開校は五月十三日、震災記念堂近くの慈光院で寺子屋式の学校を開いたが、その時参加した児童は僅かに八名であった。それが七月九日に、とも角焼け残った緑国民学校に移り、学校らしい学校教育が空襲下であったが始まった。その時の在籍数はたった十九名。焼けた他校の生徒も一緒で十月末には緑二十九名、江東四十三名、茅場三名、本所二名、二葉十七名、日進一名、本所高専など二十七名で計九十五名だった。

 その後、疎開児童の復帰もあって、現在は百七十八名になったので一二三、四五六という複式教室も十一月十五日から改めて、一学園一学級を組織した。戦前本所、深川では国民学校が二十校あり、緑国民学校だけでも今年の三月の卒業生の数は二千五十二名。それに比べて七校併せて百七十八名とは、何という淋しさだろう。

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 ちょうど一年生の教室では綴り方の時間で、先生は軍国主義の標本のように言われている桃太郎を教えている。生徒は声を張り上げて「オニハ門ノ戸ヲオサエテイマス」と読んでいる。黒板にはここで新しく習う漢字の門、中、刀と書いているが、一年生のなかには十月になってやっと入学した生徒もいて、カタカナさえ満足に知らない者もある始末。先生にどういう気持ちでこの桃太郎の話を扱っているかと聞くと「まあ、おとぎ話のような気持ちで教えている」と言う。刀というものさえ、民間ではこれから見られなくなろうというのに――。話は桃太郎ばかりではない。修身、国語、地理、歴史など本当に教えにくいと言う。もっと突っ込んで言うならば、民主主義教育というものを、この幼い子に対してどういう風に施して行くか、先生自身も自信がないと言っている。

☆ ★ ☆

 五、六年で教える算数に、三角定規や分度器がある。これも持たない児童が多い。そのため宿題を出すことが出来ない。三角定規や分度器ばかりではない。教科書すら手に入らぬ児童がいる。教科書も前期用はとも角として、後期用のものは何処にも売っていない。兄姉でもいて教科書が焼けない限り、手に入らぬという現状である。それなのに児童の求知心は強い。みな長い間、空襲などでろくに学校で勉強できなかったからだ。今は勉強が出来る、唱歌も歌える、体操も出来る喜びに輝いている。ちょうど海綿のように子供の心は吸収する知識を求めて一ぱいなのだ。だのにここにも与えるべき先生に、家庭の父母に、何の準備もないという悲しむべき実情がある。

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 遊びの時間。児童たちは電線などの散らかった校庭で、相撲取りの名前を書いた紙切れでメンコ遊びをやっている。ここは相撲取りや行司の子供も多い所から、国技館の始まる前後は相撲遊びが大流行、本式に取っ組み合う子供相撲の光景も賑やかであったが、いまはこれが紙切れのやり取りに変わっている。

 ここにも食糧の影響が見え五、六年生でも大半は家庭に食べに帰るという。その家庭が両親とも失業苦と食糧難に追われて、普通なら今ごろは入学試験の問題と、進むべき上級学校の問題で両親は頭を悩ます時期なのに、子供も親も五里霧中なのだ。終戦以来、新聞やラジオや人々の口から漏れる数々の言葉の片鱗から、「子供は陸軍大将になろうという夢からは全く覚めてしまった。どういう人間を民主主義国家では必要とするかは、誰も子供に教えてくれない」。遊び道具も勉強道具も本もない子、そして知識欲に燃えている子、平和新日本を背負うべき子、その子供が五里霧中のまま、家庭においても放り出されたままでいる。

 夕暮れ近くになれば、子供はおなかをすかして食事を待ちかねる。――そして子供同士空腹を抱えてこんな会話を取り交わしている。

 「明後日は買い出しに行くんだね」「ああ、休みはいつも買い出しだよ。お芋のね」「うん、うちも行くさ」「買い出しはいいね」「うん、その時はお腹一ぱいに食べさせてくれるもの」 夜ともなれば少い夜具を引っ張り合って子どもは寝につく。母親は子供の寝顔を見て、子供の将来というより迫り来る冬の寒さに備える衣類や寝具をどうするという悩みが尽きない。子供たちは、果たして何を夢見るだろうか。(十一月二十日付二面)

(「つれづれ抄」おわり)

2021年10月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その16 第2回目ワクチン接種の一日(後編)(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454522.html

 「門よりふねにのりて」とあるが、門とは芭蕉庵の門こと。深川の芭蕉庵は、芭蕉が1680(延宝8)年に日本橋小田原町から移り住み、1691(元禄七)年に大阪で客死するまで仮寓した住まいで、現在の芭蕉稲荷神社(江東区常盤1-3)のあたりにあったとされる。

 『江戸切絵図』「本所深川絵図」をみると、隅田川から分岐し、西から東へ向かってまっすぐ延びる水路がある。これが小名木川で、行徳の塩を江戸に運ぶ水路である。その西端に架かるのが「万年ハシ」(万年橋)。この橋の北側に「松平遠江守」の下屋敷があり、「芭蕉庵の古跡庭中ニ有」と記されている。

 芭蕉庵の東側をみると、やはり水路になっていて、こちらは六間堀と呼ばれ、竪川と小名木川を南北に結んでいた。門は六間堀に沿ってあったらしく、芭蕉一行は、そこから舟に乗り、小名木川に出たところで、方向を南から東へ転じ、行徳方面に向かった。

 行徳までの航路は『鹿島紀行』に記されていないが、小名木川を4.6キロ航行すると中川に出る。それより新川に入り、これを3.7キロ進むと、こんどは江戸川に行き会う。それより3キロ余りさかのぼり、本行徳の河岸に至ったものと思われる。新川というのは、徳川家康が行徳の塩を運ぶため、小名木川と同時並行して開削させた水路である。

 もう一つ、家康が同時期に開削を命じた水路がある。それが道三堀で、江戸城和田倉門(皇居外苑1-1)のそばにあった辰口と日本橋川の一石橋付近を結んでいた。1909(明治42)年に埋め立てられ、現存しないが、この水路の目的は江戸城建設の物資補給にあった。行徳の塩も、道三堀から江戸城内へ供給されたものとみられる。

 芭蕉は行徳よりは陸路で、「やはた」(市川市八幡)・「かまがいの原」(鎌ケ谷市)というから、現在の県道59号市川印西線、木下(きおろし)街道を歩き、深川を出発したその日の夕刻に、利根川のほとり「ふさ」(我孫子市布佐)に着いた。「なまぐさし」漁師の宿でいったん休憩したあと、夜舟をさして利根川を下り、鹿島に到った。ということは、仏頂和尚が寺領回復の訴訟で、江戸の奉行所に通った100キロ前後の道筋を逆方向に、片道1泊2日、しかも舟中仮泊の強行軍でたどった ことになる。

 布佐の利根川を隔てた対岸が布川(茨城県利根町)である。その河畔で少年時代の柳田國男が間引き絵馬をみたことは、連載その15で書いた。布佐は手賀沼が利根川に流れこむ北側に開かれた町で、それにたいして、南側に開かれたのが木下である。どちら町も明治時代に成田線ができるまで、銚子など利根川下流域や常陸方面からの物資を江戸に運ぶ中継点として発達してきた。布川からは、松戸街道を陸路で松戸に出て、それより江戸川を下って行徳に着いた。木下からは、先に述べたように、木下街道を経由して、やはり行徳に着いた。

 ところで、鹿島に到着したその日は、あいにく昼間から本格的な雨で、月見どころではなかった。だが、翌日のあかつき、すっかり寝入っているところを、仏頂和尚に起こされた。思いがけないことに、雲の間から月が姿を現したのである。

 そのときに芭蕉の詠んだ2句。

  月はやし梢は雨を持ちながら
  寺に寝てまこと顔なる月見かな

 「梢は雨を持ちながら」と「寺に寝てまこと顔なる」の言い回しは、非僧非俗の蝙蝠のような存在である芭蕉自身の心象風景であったかもしれない。

江戸川河畔の常夜灯。1812(文化9)年の建立。関ヶ島1-9。2021.07.23

 2回目のワクチン接種を受けた日は、太陽が容赦なく照りつける猛暑だった。接種会場の大手町合同庁舎は皇居大手濠のすぐ傍にある。お濠を見わたすと水草がはびこり、暑さのせいだと思うが、枯れるか腐るかして褐色になっていた。

 このあたりは、連載その14でも書いたが、太田道灌が江戸城を築いたころは、日比谷入江の最奥部だったところで、神田川の前身である平川の河口があった。合同庁舎から二重橋方向へ400メートルほど歩くと和田倉門がある。その傍から日本橋川との間に道三堀が通じていた。それより先には、塩の道とも呼ぶべき水路が開かれていて、行徳は江戸城と繋がっていたのである。

 東西線の妙典駅で途中下車し、市川市の「回遊マップ」を片手に、寺町通りから行徳通りに出て、常夜灯の付近まで歩いた。

 常夜灯は1812(文化9年)に、江戸日本橋の成田山参詣の講中が建立したものである。行徳と江戸(日本橋小網町)とを往還する舟便の営業を始めたのは1632(寛永9)年である。その後、この航路は房総や常陸からの物資運搬のみならず、成田山や鹿島神宮・香取神宮などの参詣路に利用されたということである。したがって、常夜灯は芭蕉の『鹿島紀行』のころにはなかったわけだが、河岸場の位置についても、1690(元禄3)年までは、現在常夜灯のある場所よりも、もうすこし上流にあったということである。=以下略

2021年10月11日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑨

 連載「東京二十四時間」 中

 丑三つ時・犇(ひし)めく行列
    浮浪者と雑魚寝の旅行者
     上野駅・地下道は棲家

(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の記事から)

 大東京の丑三(うしみつ)時、人という人が、ことごとく寝静まっているというのに、ここだけは何万というおびただしい人々の群が激烈な奔流をつくり、嘆き押し合い、戦い続ける。

 上野駅―濛々と立ちこめる塵埃のなかに、天井の電気時計が午前零時を告げている。夜中から夜明けにかけて、ここを発車する汽車に乗ろうとする人々がもう五列にも、七列にも幅の広い帯をつくって、駅の構内を縦断しているのは、この駅を基点として常磐線、東北線、信越線、上越線、その他無数の支線が放射線に走っているからである。人々はそれぞれの運命に従い、それぞれの切実な用務をもち、それぞれの重そうな荷物を背負い、目ざす汽車に乗れるか乗れないかの瀬戸際に身を曝して必死に嘆き続ける。それは大抵自分の位置よりも前にある人々の後姿に向かって吐き出される――

 「そこの横に立っている奴は何だ。まごまごして列に入りやがったら承知しねえぞ」

 「俺なんか昨夜徹夜で切符を買い、今夜も徹夜で乗ろうってんだ。いい加減な野郎とごちゃまぜにされてたまるもんか」

 今朝はひどい霜だったが、今夜の底冷えからすれば、明日も真っ白な霜だろう。晩秋の霜夜だというのに上野の山と下谷国民学校では、それぞれ何千の人々が切符を狙って待ちくたびれているはずである。

☆ ★ ☆

 人混みに揉まれながら駅長室へ行くと、扉の入口に長い行列が出来ている。何の列ですか、と聞くと、どうしても乗せて貰うために駅長さんに話をする者の列だという。入口の所で揉めごとが始まっている。列内の革のジャンパーを着た青年と、列外のリュックを背負った人物とである。ジャンパー氏が言う。

 「これだけ大勢の人間がちゃんと順序をつくってるんですよ。それを無視していきなり入ろうというのは、ちょっと違いませんか」

 「違わない、私には特別な理由があるのだ」

 「特別の理由なんか問題ではない。列へ入れ」

 「入らん。私は何処へ行っても列になんか入ったことがない」

 なかなかの心臓である。

 この時、列の中から「やれやれ」と声が掛る。さすがの心臓氏もへこたれたものと見え

 「俺は帰る」

 と捨て台詞を残して立ち去る。

☆ ★ ☆

 戻ってそこから地下鉄に向かう。地下道に入ろうとすると、この中にも歩行困難の雑踏である。雑踏だが、それが今までと違うのは、この駅の雑踏に格別の異色を添えている、いわゆる「浮浪者」諸君もいることである。冷たいコンクリートの上に貨物のように横たわっている者もいれば、留置場の人々のように膝を抱え、その膝の中に顔を埋めている者もいる。人というものはすでに敗北を意識した時には、大抵このような座り方をするものであるらしい。新聞紙を四枚広げたささやかな座敷に、親子四人家庭を営んでいる人もある。乳飲み子とその上の女の子が痛々しいほど痩せている―と思った瞬間、おかみさんが矢庭に頭を揚げてハッタとこちらを睨みつけ「何をじろじろ見てるんだ。見世もんじゃないんだよ」と一喝するのだが、その形相の物凄さ、これは堪らぬと踵を返そうとすると、その隣に端座していたおかみさんが「あたしャア、ちっともお腹なんて空いちゃいないんだよ。そこらのルンペンと一緒にされちゃ困るよ」とまたも手痛い一言を浴びせられた。

☆ ★ ☆

 ここの地下道に踏み込んだ時、便所の臭いが鼻に来たのは、もう動く気力も失せた人々が、傍らの溝で用を足すからだというのが、しばらく歩いているうちに判って来た。ここを棲家としてから長い日々が経ったのと、ここへ来たばかりの人は身体の汚れ方や身装で、一目でそれと判る。それからまた単に家がないばかりに、ここを臥所(ふしど)として昼間は外で働いて来る人たちもいるらしい。白い半襟に紺の上下のモンペを着けた端麗な女性が、冷たいコンクリートに寄りかかって「Holly Bible」と標題のある本を膝に置いてあるのを発見した時は、むしろ茫然とせざるを得なかった。しかもその白足袋の足元には十六、七歳の少女が、いぎたなく眠りこけていたのである。

☆ ★ ☆

 世の人々は「上野の浮浪者」と一言にいうのだが、それが如何にさまざまな異なる人々の集まりであるかは、結局一人々々の運命を深く優しく凝視したうえでなければ判るまい。

 この「上野の浮浪者」に対して、お上がとった手段は何だったか。それは巡査が来て検束して行くことに過ぎなかった。浮浪者は後から後から上野へ上野へと集まる……

 そんなことを考えながら地下道を抜けると、寒い風の中に素足の男の子が、一人汚れた手で蜜柑を剝いている。

 「おいしいかい」

 「あ、おいしいよ、二つ貰ったんだ」 

 「それァよかったな。お腹空いてんのかい」

 「お腹? お腹なんて年中空いてらァ」

 「そうか、そいつァ困ったな。お父さんも、お母さんもいないのかい」 

 「うん、みんな死んじゃったよ」

 外へ出ると廃墟の街は深々と眠っている。 (十一月十七日付二面)

2021年10月11日

日米開戦スクープの後藤基治さんは戦後5人目の社会部長

 昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃・日米開戦をスクープした後藤基治著『開戦と新聞』(毎日ワンズ2021年刊)を読んだ。肩書は「元毎日放送副社長」となっているが、社会部旧友である。 戦後5人目の東京本社社会部長。森正蔵(このHP随筆欄連載筆者・森桂さんの父親)→江口栄治→一色直文→黒崎貞治郎につぎ、1949(昭和24)年11月から51(昭和26)年5月まで1年7か月務めた。

  戦後18代目の社会部長・牧内節男さん(96歳)が「銀座一丁目新聞」に書いている。《後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった》

 後藤の生家は、大阪ミナミ法善寺横丁にある関東煮「正弁丹吾亭」である。法善寺横丁を歩いたことのある人なら誰でも知っている有名な店である。

後藤基治1901~1973
昭和16(1941)年12月8付東京日日新聞1面

 早大独文科卒、1930(昭和5)年大阪毎日新聞(大毎)入社、社会部。《当時の大阪では、大毎のバッジならモテモテだった。どこの飲み屋もツケがきいた。「朝日に負けるな!」で本山彦一社長時代の「勇往邁進」の気風が生きていて、職場には活気があふれていた》

 釣りが趣味で、「釣り欄」を新設したと書いているが、社会部長徳光伊助(衣城)は、生きのよい社会面をつくった。「精悍な隼の眼」と大阪社会部100年史『記者たちの森』(2002年刊)に紹介されている。大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。33(昭和8)年10月、お家騒動で徳光とともに社会部記者47人が一斉に辞めた。徳光は敗戦まで北京で「東亜新報」社長を務めたが、同紙の編集局長佐々木金之助(のち読売巨人軍代表)、論説委員高木健夫(元読売新聞「編集手帳」筆者)らは大毎社会部の人材だった。

 後藤は、40年東京本社政治部へ異動、海軍省クラブ「黒潮会」に所属した。41年10月陸軍大将東条英機が総理大臣に就任する際、「東条首班に決定」の号外をいち早く発行した。次いで12月8日の日米開戦スクープ。米内光政海軍大将邸に夜討ち朝駆け。かすかなヒントを特ダネに結びつけた。

 43年10月、フィリピンが日本の軍政から独立すると、後藤は、海軍から「現地報道部長に」と依頼され、1年期限で、毎日新聞に在籍のままマニラ日本大使館の海軍報道部長(中佐待遇)として赴任する。マニラの陸軍報道部には元大毎経済部長・桐原真二中尉(慶大野球部キャプテン→大毎野球団、野球殿堂入り)、現地の「マニラ新聞」は毎日新聞の経営で、200人近い社員が出向していたという。「竹槍では間に合はぬ」の記事で陸軍から懲罰召集された新名丈夫記者を海軍報道班員としてマニラに呼んだこともあった。

 マニラが米軍機の空襲に襲われた最初は44年9月21日。戦況は日増しに悪化、抗日ゲリラも出没するようになった。

 首都マニラのあるルソン島に米軍が上陸したのが45年1月9日。後藤はその直前の44年12月26日、海軍機でマニラを離れた。毎日新聞から出向のマニラ新聞の南条真一編集局長(東京日日社会部長)に「内地に逃げ帰るなど、君は皇国臣民としての自覚が足らん」と怒られたという。

 毎日新聞社も社機でマニラとの社員輸送をしていたが、戦況の悪化で社機の飛来ができなくなった。後藤は社員7人を便乗で帰国させてくれるよう頼まれる。7人は現地応召で陸軍に籍がある。正規の搭乗は後藤1人で、あとの7人は「携行貨物」扱いで、台湾の高雄、台北、福岡の雁ノ巣飛行場経由で羽田空港に着いた。「携行貨物」の1人が西谷市次記者だった。西谷は1955年11月の保守合同で、民主党総務会長の三木武吉と自由党総務会長の大野伴睦秘密会談のきっかけを政治部の西山柳造とともにつくった(『「毎日」の3世紀』)。

 ルソン島の悲劇は伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』に詳しい。「マニラ新聞」は45年1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。伊藤記者の曾祖父の弟、「マニラ新聞」取材部長・伊藤清六記者は、陣中新聞をガリ版刷で発行していたが、45年6月30日ルソン島のヤシ林で餓死した。38歳だった。

 南條真一編集局長、陸軍報道班員の桐原真二らフィリピンで殉職した毎日関係者は計56人に上った、と同書にある。

 毎日新聞に復帰した後藤も慌ただしい。履歴をたどると、1945(昭和20)年1月に東京本社南方新聞局事務部長→同年6月南方部長→敗戦後の9月大阪本社に転勤となって、体育部長(運動部の前身)→翌46(昭和21)年2月4日創刊「夕刊新大阪」編集総務兼報道部長。

 「夕刊新大阪」は、編集局長黒崎貞治郎。後藤が引継ぎを受けた東京本社社会部長である。のち「毎日オリオンズ」球団代表。梅木三郎名で「長崎物語」「空の神兵」「戦陣訓の歌」を作詞した。

 整理兼企画部長小谷正一は、井上靖の小説「闘牛」のモデル。整理部長木本正次は映画で大ヒットした「黒部の太陽」の作者。新人記者足立巻一は、「新大阪新聞」をモデルに『夕刊流星号 ある新聞の生涯』(新潮社1981年刊)を書いた。

 後藤は1948(昭和23)年7月西部本社福岡総局長→49年11月東京本社社会部長。そのあと現在の毎日放送(MBS)の立ち上げに携わり、副社長で退任。73(昭和48)年7月逝去、71歳。

 「神風特別攻撃隊」は海軍の大西瀧治郎中将が始め、大西は敗戦の翌日に自決しているが、後藤は出撃の模様をフィリピン・マバラカット飛行場で目撃している。昭和19(1944)年10月24日と書いている。

 《まづ大西さんが悲壮な激励演説をして、そのあと、オンボロの戦闘機5機に大量の爆弾とガソリンを積んで、関(行男)大尉を先頭に、いづれも22、3歳の眉目秀麗な、惜しいような青年ばかりが乗り組んで、飛び立っていった。多量のガソリンは基地へ帰るためでなない、敵艦に体当たりして燃やすためのものである》

 《「大西さん、あんなオンボロ飛行機で若い連中を出して、どうなるんです」

 「なんにもならん、屁の突っ張りにもならない」

 「ぢゃ、なぜ……」

 「さあ、そこだよ。若い連中がどうしてもやらしてくれといふから、己むを得ず俺は取り上げた。この責任はもちろん俺が負ふ。後藤君、日本は滅びるよ……》=月刊「文藝春秋」1958年8月。

 関大尉は新婚で、出陣を前に妻らに遺書を書いている。「若い連中がどうしてもやらしてくれ」はあり得ないことだと思うのだが。=敬称略。

(堤  哲)

※『開戦と新聞』は、毎友会ホームページ2021年8月8日新刊紹介で取り上げられています。

2021年10月5日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑧

 連載「東京二十四時間」 上

 もうすぐ開戦80周年を迎える、数週間前にNHKから電話があって、父(森正蔵)の日記を取り上げてくれるという。日記はすでに戦中と敗戦直後の部分が2冊の本になって上梓されている。「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房刊)と「挙国の体当たり」(毎日ワンズ刊)である。僕が今、ぜひとも活字に遺しておきたいのは、モスクワ特派員時代に東洋人でただ一人、傍聴したスターリンの粛清裁判のくだりである。

 生涯一記者を志していた父は、戦後初の社会部長になって、多くの企画を考え実行に移した。そのなかで、いまでも読者の胸を打つのは昭和二十年十一月に掲載された連載「東京二十四時間」である。三編を採録する。

――「このままでは負けてしまう」みんなが秘かにそう思っていた。そしてその通り負けてしまった。

 世界史の奇蹟といわれる見事な混乱なき終戦ぶりであったが、今日このごろの食糧危機、住宅払底、大量の失業、「闇」の公然化などなど、国の崩壊作用がやたらに起きている。「このままでは亡びてしまう」そう思う今ではなかろうか。焼け跡にキャバレーが出来てジャズの騒音が流れ出したり、ブタ箱と一言にいわれる警察の拘置所が、日当たりの良いところに移されて人権が「尊重」されたり、商店街復興の槌音も高々と響いているが、そこに流れる深刻さ、民主主義日本への歩みの困難さは蔽うべくもないのだ。帝都の夜明け、昼、夜の明暗を探訪して、敗れた日本から新生日本への縮図を描いてみる。

 脂粉・生活苦の狂躁(きょうそう) 
  銀座松坂屋地階・進駐軍専用の舞踏場
    切符売り上げ日に二万円

 掻きむしるようなサキソフォンの響き、蒸せるような脂粉の香り。ジャズの合間に何を囁(ささや)くのか片言英語……国際歓楽場と銘をうち、去る十一月三日から開場したキャバレー・オアシス・オブ・ギンザ(銀座松坂屋百貨店地下二階)の開場時間午後一時である。開場間際ともなれば、進駐軍の伊達者は早くもネクタイのゆがみを直しながら、キャバレーの入口に殺到する。歓楽境の朝から夜までを探訪しようという記者は、開場と共にチケット売場の片隅にチョコナンと陣取った。「入場者はチケットをお求めください」と英文で貼り出してある。もちろん、お客は進駐軍ばかりで、日本人は一切お断りである。

 ダンサーは三百名。振り袖、ドレス、支那服、思い思いの姿で待機している。厚いドーラン化粧、瞼に塗る青いアイシャドー。そのままレビューの舞台に立てるようなのもいれば、振り袖姿でどこのお嬢さんかと思われるようなのもいる。これはまた粋一筋、衣紋をグッと抜き、夜会巻で襟足の美しいところを見せ、前身を物語るようなのもいる。

☆ ★ ☆

 定刻一時! 開場です。十円札をつかんで雪崩こんで来るアメリカ兵は一枚二円、五枚綴りとなったチケットを大きな手で握って入場する。切符売り場の札入れ箱は、たちまち十円札で一ぱいになる。飛ぶように売れるとはこのことだ! 平均一日の切符売り上げはザッと一万枚で、毎日二万円を割ったことはないという。中央の踊り場は百二、三十組が楽に踊れる広さで英米両国旗、赤青色とりどりの色提灯が天井からぶらさがっている。昼でも電灯は赤々と輝き、脂粉の香りとジャズ・バンドに合わせて、いずれも長身のアメリカ兵がかがみ込むようにして、小さなダンサーを抱いて踊る。踊らない者は一人ずつダンサーを擁して、踊り場の周囲のテーブルにつき、英単語早わかりなどを持ち出して囁きあっている。紛然! 騒然! 雑然! 雰囲気はまさに国際歓楽境である。

☆ ★ ☆

 さてこの勇敢な女性ダンサーたちは、どれくらい稼ぐのだろう、どんな気持ちで働いているのだろう。記者は読者と同じような好奇心と疑問をもち、ソロソロと探訪に取りかかった。

 一枚二円売りでダンサーの手取りは一枚につき六十銭。つまり一円四十銭は経営者の特殊慰安施設協会に流れ込む。一日二万円、チケットにして一万枚。これを三百人のダンサーで平均に稼ぎあげるとすると、一人当たり一日平均三十三枚当たりとなり、一晩の稼ぎは十九円八十銭。一ヶ月に十五日出勤するとして四百九十五円、それに一日五円の日当が出るというから締めて一ヶ月平均六百二十円の収入ということになるが、実際はそう平均には行かない。

 腕達者のダンサーとなると、一日二百枚(百二十円収入)からチケットを稼ぐ者もいるが、開店してから十日、平均に十五枚しか稼げぬというダンサーもいる。最低二十五枚、一ヶ月に十五日働くとして、日当その他を入れて最低収入者が五百円、女の稼ぎとしては全く馬鹿にならない。腕達者となると二千五、六百円から三千円の月収がある勘定となり、男子たるものもって如何となすの構えである。

☆ ★ ☆

 進駐軍は親切、チョコレートや煙草に不自由しない、収入はいい、これじゃ全く文句なしに彼女らは新流行語の「ご機嫌さ!」かと思えば、華やかな戦場の影にはやっぱり一抹の悲哀はある。「世間のそしり」と「着物の悩み」、これである。

 彼女らのほとんどが戦災者で十八歳から二十二歳くらい。八割五分は素人(事務員、挺身隊、女工)、元ダンサーが一割(うち二分が元芸者)、元カフェー、喫茶店勤務が五分、という割合で、いわゆるダンスホール向きの着物を持っていない者が多い。一週間も着れば着物の裾は切れ、背中は手の汗と脂で黒ずんでしまう。街で着物を一枚買おうとすれば、外人向け土産としては派手な着物は七百円、八百円の高値で、とても手が出ない。協会側では帯から長襦袢まで揃えて貸しているが、貸衣装代を取っても着物を返してもらう時はボロボロとなってしまうので、月賦で買い取ってもらう仕組みになっている。和服一揃え五百円くらい。これをダンサーの収入と睨み合せて二ヶ月から三ヶ月で返済してもらうというから、稼いでも稼いでも着物代に追われるのじゃないかと彼女たちは嘆いている。

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 四時から五時までは昼の部と夜の部の切り換えで一時間の休憩だ。彼女たちはもう腹がペコペコらしい。休憩を待ちかねて食事に取りかかる。いずれも弁当持ちである。彼女らの食欲はものすごく旺盛だ。道のりにして売れない口で二里や三里、よく踊る子は十里くらいは歩いてしまう。協会でも豆餅などを時々サービスしているが、とても空腹の足しにはならない。ここにも切実な食糧難があり、踊るためには米のヤミ買いもしなければならない。記者はようやくナンバー・ワンといわれるイブニング・ドレス姿の花子さんというダンサーを捕まえた。

 「一番辛いこと…それは、ああキャバレーのダンサーかと一言に『夜の女』のように言われること…辛いですわ。私たちは生意気のようですが国民外交の一ツと思っています。彼らが私たちを通して『日本女性』とはこんなものかと感じて帰国するとすれば私たちの責任は重大です。生活のために私たちは一生懸命です、浮いた話などありませんワ…私たちに言わせれば、まちの堅気の娘さんたちのこの頃の風景の方が見るに耐えません」と、胸につけた赤い薔薇(ばら)よりまだ赤い彼女の気炎ではある。

☆ ★ ☆

 六時、七時と夜の部ともなれば、益々大入りで、ホールの空気は濁って、喉がぜいぜいして来る。八時!バンドは「蛍の光」を演奏する。終わりである。別れを惜しんで進駐軍は帰る。ダンサーたちも三々五々家路をたどる。

 東京――二十四時間の題目の使命から、ふとダンサーたちの寮、アパートまでも探訪したいのだが、記者に語ったダンサーの言葉を信じ、子供を預けるためや、病気の母を郷里に帰すために五百円、千円と前借して働いているダンサーたちの身の上を思い、記者も焼け跡を照らす三日月に送られながら「良き敗者」の一人として家路をたどった。(十一月十六日付二面)

(森 桂)

2021年9月24日

「思い出の京都支局」を、元支局長、磯貝喜兵衛さんが綴る

昭和2年12月24日「大阪毎日新聞社報」

 先日、東京本社社長室の鈴木泰広氏から、旧京都支局(中京区三条御幸町)について、問い合わ せがあり、貴重な写真や資料を参考に送ってもらいました。昭和3(1928)年に新築落成した京都支局(地上3階、地下1階)は、今もアールデコ風の「1928ビル」(京都市登録有形文化財)として市民に親しまれています。創建当時は京大教授、武田五一博士の設計で、平屋・木造の多い京都の都心に威容を誇り、1999年に京都御所近くの新支局に移るまでは、我が国最古の新聞社支局として、長い歴史を刻んできました。

 初代支局長は当時、京都の有名人でもあった岩井武俊氏(大阪毎日新聞取締役)。戦後15人目の支局長として私が在任したのは1979年秋から2 年間でした。1階は玄関、車庫、事務室、2階は編集室、3階講堂、屋上には創建当時、市民に天気予報を伝えた測候所跡まで残っていました。

2015年撮影
窓から顔を出す磯貝さん

 昭和3年は昭和天皇の即位の礼が行われた記念の年で、(添付の)新聞、社内報に残っている通り、盛大な披露の催しがあったようです。今も音楽や芝居のホールとして利用されている3階講堂にはグランドピアノがあり、私がいたころは市民コーラスの練習や講演にも利用されていました。地下には古都らしく、井戸水を汲み上げ利用していたポンプ室や、琺瑯びきの浴槽を備えた風呂場、食堂などがありました。

 五山の送り火の夜は、近所の方たちに屋上を解放し、ご馳走までふるまったというので、私も一度、復活したことがありました。仕事の方は、朝日新聞に百人一首の選者、藤原定家の「時雨亭文庫」関連の特ダネを抜かれた仕返しに、十年間続いた「東本願寺紛争・解決へ」の特報をはじめ、編集局長賞受賞7本を支局員が連発してくれた思い出も忘れられません。

                     

 数代前の支局長が改装したという屋上・測候所跡の宿泊所で、ウイークデーは私も2年間起居しました。朝早くに御所方面から来るのか、鶯の鳴き声がしたり、托鉢に町を回る雲水の読経の声が聞こえたり、古都ならではの風情も残っていました。屋上の一角には、作家、水上勉が寄贈してくれたという桜の苗木の箱植えもありましたが、近所の火事の火の粉が飛んできて焼けてしまったと聞きました。

 三条通りは、昔は京のメイン・ストリートで、日銀支店や呉服、香料、扇子などの老舗、料理屋などが並んでいました。今も祇園、錦市場などと並ぶ、京の古い顔であることには変わりありません。コロナが収まって、京都旅行の折には、ぜひ「1928ビル」をお訪ね下さい。

(磯貝 喜兵衛)

 ―――朝日新聞10月2日夕刊3面「いいね!探訪記」欄に、「『93歳』記者去っても薫る文化」と題して「1928ビル」が紹介されています。磯貝さんへの社長室からの問い合わせは、この記事の取材を受けたためでした―――

※磯貝さんは元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長。92歳で、隅田川河口の中央区湊1丁目に住み、出身の慶応大学三田キャンパスや隅田川沿いにある勝海舟像を訪ねたり、永井荷風「断腸亭日乗」を読み返すなど元気です。磯貝さんが京都支局長だった当時、支局次長だった木戸湊さんは季刊同人誌『人生八聲』13巻(2018年1月、新年号)で当時を振り返って以下の文(抜粋)を寄せています。併せて紹介します。  

《修羅場の京都  木戸  湊》

 犯罪史上最も凶悪とされた梅川昭美の三菱銀行北畠支店襲撃事件の取材で毎日新聞の圧勝後間もなく、私は大阪府警キャップから京都支局次長に異動――その初日に、朝日新聞に京都・冷泉家秘蔵文書の全容を大スクープされるハメになった。

 その日の夕刻、私は緊急支局会を開き「夜討ち朝駆けを重ねて特ダネを書け!一か月、特ダネのない記者は内勤にするよ」とハッパをかけた。宿直メンバーたちのチェックもあって、週三回は支局で泊まることにした。

 そんな出だしの苦いつまづきを忘れさせてくれたのが、学術・文化担当の斎藤清明記者(『人生八聲』同人)だった。「次長、必ず朝日の冷泉家をしのぐスクープを書きますから!」と宣言した。約一年後、斎藤記者は後小松天皇直筆の「伊勢物語」や雪舟の掛け軸「釈迦絵」など国宝、重文級六〇点を含む京都・曼殊院の超秘蔵品を、ばっちり撮った写真とともに出稿―朝刊一、二面や社会面トップを飾る大スクープとなった。

 斎藤記者の曼殊院取材は、朝日の冷泉家スクープの直後から始まっていた。「京大文学部の某研究室をマークしてみたら」とある人からヒントを与えられたが、学者たちはひたすら沈黙。かえって〝獲物〟の大きさを感じた斎藤君は、年二回だけの秘蔵品蔵出しをじっと待って〝大魚〟を突き止め、見事に捕まえた。

 斎藤君はこのほか、フィンランド国立研究所が研究用に無料で日本に提供してくれた「ガンの夢の新薬」といわれたインターフェロン(IF)を患者七人に投与して、約三千万円を荒稼ぎしていた兵庫県宝塚市の民間病院を突き止めて大スクープ。

 「フィンランドに了解を取ってある」とシラを切る病院長に怒り心頭の斎藤君は「元特派員だから英語ができるはず。フィンランドの研究所に確認して!」と私に催促する。

 慣れない医学用語に大汗をかきながら、カンテル同研究所長と国際電話で一五分――。

 カンテル氏は「IFは無料投与で臨床例を集めるのが目的で日本にも送った。高額の報酬を受け取るなんて言語道断!臨床報告も全く届いていない」とカンカン。厚生省からも厳重注意された民間病院はノックダウン……閑古鳥が鳴いたといわれる。

◇     ◇     ◇

 真宗大谷派(東本願寺)は宗祖・親鸞の末裔の「大谷家」(同寺住職)と末寺グループで組織された「内局」が、教団運営をめぐって長らく対立していた。私の京都時代は、まさにこの対立が燃え上がる寸前だった。大谷家は国の名勝「枳殻(きこく)邸」を借金の担保に売り払おうとし、内局側は大谷家を背任罪で京都府警に告訴していた。

 宗祖以来八百年、門信徒数七百万のマンモス教団。しかも法主(大谷光暢師)の智子裏方(妻)は昭和皇后の妹だった。京都宗教記者会メンバーだった田原由紀雄記者は法主、内局双方にシンパを作って特ダネを連発、検察担当の村山治記者(後に朝日新聞に)と組んで、近づく枳殻邸捜査に備えていた。

 捜査のポイントは天皇の親戚の法主一族を起訴できるのか?事件の成り行きを聴き、天皇は激しく身震いされたという。間もなく〝天皇の勅使〟として秘かに京都へ現れたのが、元名古屋高裁長官のN弁護士だった。宿泊ホテルさえ極秘だったN弁護士が宗祖の大谷家に入って行ったのを見事に見届けたのが新人のW記者。二日前からN弁護士の顔写真を手元に車の中でひたすら張り番をしていたのだ。

 次にN弁護士は内局との会合へ――村山記者が忍び込み、無断で内局奥の間の襖を開けると、N弁護士と内局トップの宗務総長が密談中だった。「毎日です」とカメラを構えたら、宗務総長は「後で全てを話すから、待って」と懇願。

 後は田原、村山両記者による特ダネ・ラッシュ。「法主―内局が和解」「内局、告訴取り下げ」「京都地検、事件を不起訴に」……。

 天皇の意志で三〇年間の紛争に一応のピリオドが打たれた東本願寺事件だったが、深夜の支局でその第一報を書こうとした村山記者は興奮で手が震えて字が書けない。「力を抜いて」と田原記者に肩を叩かれ、私は大きな湯呑に日本酒を注いで、ぐいと飲ませた。

◇     ◇     ◇

 私の京都支局在任はわずか一年一〇か月だったが、この間、支局員らが勝ち取ったのは、社内最高の賞「編集局長賞」が六本。同賞に準ずる「編集局長之賞」が五本、通常一年一本で大騒ぎだった当時としては前代未聞の快挙―支局員の団結と親和が目に見えて高まった。

 これまで数々の記者体験や思い出を書いてきたが、京都時代は余りに忙しすぎて、スクラップの類はゼロ。支局ОB会の度に、「あの修羅場を是非書いてよ」とせがまれ、数人の仲間から当時のスクラップや本も送られてきた。

 懐かしい戦友たちよ、ありがとう!

2021年9月22日

「毎小」60年記念誌をバックアップしてくれた辻政信の二男


  読売新聞の前田啓介記者(2008年入社)が『辻政信の真実 失踪60年--伝説の作戦参謀の謎を追う』(小学館新書)を出版した。2018年、辻の地元石川県の金沢支局に転勤したのを契機に取材を始め、県版で連載。さらに取材を続け、400ページを超える著作になった。

  読み始めてすぐ、辻政信の二男毅さん(1942年生まれだから、来年80歳)が登場する。その毅さんに、毎日新聞学生新聞本部が大変お世話になったことを思い出した。

  毎小(毎日小学生新聞)は1936(昭和11)年12月22日「大毎小学生新聞」として創刊した。東京では翌37(昭和12)年1月5日、時事新報から継承した「日本小学生新聞」を「東日小学生新聞」と改題した。

  毎小創刊60年を記念して学生新聞本部は『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』を出版した(1997年1月発行)。B5判448ページの大部のものである。定価4,500円。

  海野十三の連載SF小説「火星兵団」が毎日待ち遠しかったと、JR東海の初代社長須田 寬さん(90歳)や「日本沈没」の作家小松左京さん(2011年没80歳)。

  「両手を大きく拡げて、一人前の格好をして読みました」と作家の田辺聖子さん(2019年没91歳)。

  子どもに人気があった。秋玲二の「勉強まんが」は1939(昭和14)年に始まった。漫画家では手塚治虫、藤子不二雄(安孫子素雄・藤本弘)、松本零士、園山俊二らがデビューをしている。

  この記念誌づくりに情熱を燃やしたのは元毎小編集長の谷僖純さん(2005年没66歳)だった。情報調査部のマイクロリーダーでバックナンバーをプリントアウト、ワープロで夜遅くまで原稿を叩いた。

  出版してくれたのは、NTTメディアスコープ(現NTTアド)。ここは当時の毎小編集長赤池幹さんが見つけてきたのか。

  そのNTTメディアスコープの社長が辻毅さんだった。「勉強まんが、懐かしいですね。私も毎小を読んで育ちました」と、記念誌出版の応援団になってくれた。「社長案件」で出版話が進んだのである。

  辻社長は、東大法卒、日本電信電話公社(現NTT)入社。テレホンカードの生みの親といわれ、日本初のテレカのデザインを岡本太郎に依頼。パンダのトントンのテレカは800万枚を売り上げ、テレカの売り上げ日本一を記録したという。

  あれから25年——。毎小は、ことし12月に創刊85年を迎える。新聞が読まれなくなっているといわれるうえに、少子化。頑張れ「毎小」と声援を送りたい。

(堤  哲)

2021年9月16日

「ペンの森」一期生が、瀬下恵介さんのお酒と議論を偲んで

石原聖さん

 瀬下先生と初めてお会いしたのは1995年の秋。先生がマスコミを目指す学生向けの作文教室「ペンの森」を創設した年のことでした。

 大学4年だった私は、いつもなら素通りする学生課の掲示板で、偶然、「ペンの森」を紹介する貼り紙を見かけました。もう毎日新聞社から内定をもらっていたので作文を習いに行く必要はないといえばなかったのですが、携帯もインターネットも普及していない時代だったので、新聞記者と会ったり話したりという機会がほとんどありませんでした。だから「これから自分が入る会社の先輩から直接話が聞ける!」と、貼り紙を拝見し、その足でアポも取らずに神保町の教室に行ってみました。

 「ふつうは就職試験の前に来るもんだけどね。面白い人だねえ」と先生には笑われましたが、作文を書き、その後は世相をつまみに、あーでもない、こーでもないと議論する酒盛り付きの授業はとても楽しく、毎週通いました。

 鳥越俊太郎さん、亡くなった久和ひとみさんらマスコミの現役OBがしょっちゅうふらりと立ち寄り、一緒に酒を飲みながら取材の裏話をしてくれたり、問わず語りの武勇伝を聞かされたりすることもしばしばでした(裏話のやり方をまねしてみましたが、うまくいった試しはほとんどなかったですが)。

 ある時、大の大人が酔っ払って、意見の違いの末に「お前な!」などと本気でけんかし出したので、「止めなくていいんですか?」と尋ねたのですが、先生は「いいよー。元気があっていいじゃない。毎日に行ったらこんな奴らばかりだぞ」。笑って放置していたのは、先生がそういう毎日新聞の社風を好きだったからなのは間違いなく、同時に、これから記者になる学生に、(けんかはともかく)真剣に議論することを大事にして欲しいと言いたかったのでしょう。実際、「15版」で似たような光景を幾度となく見かけましたが、「まあそういうもんだな」とのんびり構えていられたのは、ひとえに先生の下で耐性がついたお陰です。

 結局、作文でほめられたことは数えるほどしかなく、先生が「毎日新聞ロッキード取材全行動」をまとめたことも社会部に上がるまで知らず……と、ただ一緒に飲んでいただけで卒業したような気もするのですが、働き出してからは、記者人生の分かれ道のような節目になると、自然と「ペンの森」に足が向き、先生に相談していました。

 手痛い抜かれをした警察担当の時は、「命まで取られないから」。外信部に異動する時は「先のことなんか誰にも分からないんだから、好きなようにやったら良いんだよ」。そう声をかけてくれ、背中を押してもらいました。先生は「新聞記者は楽しいよ。生まれ変わっても、もう一度やりたい」とよく言っていたので、あちらでもペンを握って楽しくやっているのかもしれませんが、もう相談できないんだなと思うと、寂しくてなりません。

 たまたま貼り紙を見かけて「ペンの森」の1期生になってから四半世紀が過ぎ、先生の教え子は現在、マスコミに500人くらいいるそうです。毎日新聞にも毎年1~2人は入っており、「入社できました。○○支局に配属になりました」という連絡をもらうこともあります。コロナで、酒盛り付きというわけにはいきませんが、仕事の合間にはペンの森へ行き、記者志望の学生の作文を見たりして、先生のお手伝いを続けようと思います。

(1996年入社、カスタマーリレーション本部宣伝企画・プロモーショングループ長、石原聖)

※瀬下恵介さんは2021年8月9日逝去、82歳。社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長など歴任。リタイア後、「ペンの森」を創設、2018年の引退まで多くの学生をマスコミに送り込んだ。現在は、朝日新聞出身の岩田一平さんが引き継いでいる。

2021年9月16日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その16 第2回目ワクチン接種の一日(前編)(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasu.../archives/53454521.html

 新型コロナの第1回目ワクチン接種のことは連載その14で書いた。第2回目は7月23日だった。場所は同じ大手町の合同庁舎。炎天下に街中をうろつくのもどうかと思ったが、まっすぐ帰るのもなんとなくもったいない気がした。地下鉄東西線の途中に市川市行徳がある。会社員時代に40年以上も通った路線だが、この町をゆっくり歩いたことがない。

 1992(平成4)年になるが、松尾芭蕉が『鹿島紀行』で歩いた軌跡をたどるという雑誌企画があり、行徳を訪れたことがあるのだが、江戸川河畔の常夜灯のほかはなにも覚えていない。『鹿島紀行』は目を通していたと思うが、なにも覚えていないのは、下調べもろくにしないで、編集者にいわれるまま、写真を撮っていたからに違いない。あるいは、1泊2日の取材日程だったから、時間に追われて余裕がなかったのかもしれない。 インターネットで検索すると、市川市公式Webサイトに「行徳・南行徳界隈」のページがあり、案内の記事と地図を載せている。行徳の今と昔をていねいに紹介していて、とりわけ「文化の街かど回遊マップ 行徳・妙典地区」は一目瞭然でわかりやすい。

大手濠。中世までの日比谷入江最奥部。近くに将門塚。千代田1-1

 それによると、東西線の妙典駅東口から寺町通りに出て、北西方向に400メートルほど歩くと、江戸川(旧江戸川)に突き当たる。その手前を江戸川と併行して南西から北東に通じる道路が行徳街道である。歴史的な街並みの中心はこの街道に沿った一帯で、寺町通りとの丁字路から南西方向に400メートルほど歩いた川沿い公園には、かつての繁栄を象徴する石造りの常夜灯が残されている。

 脇道に逸れても、往復2キロ前後。写真を撮りながらだと、所要時間はおよそ2時間ということになる。自宅から最寄りのJR津田沼駅までは約2キロだが、雨でなければたいていは歩く。ワクチン接種直後ではあるが、無難な街歩きの行程ではないかと思われた。

 行徳には本塩・塩焼・塩浜などの地名が残っている。東京メトロ東西線やJR京葉線、あるいは東関東自動車道から目に入るのは、大小の工場が立込んだ埋立地特有の沈んだ風景ばかりだが、かつてこのあたりは干潟の海岸線がどこまでも続き、潮の干満を利用した塩田が開かれていた。

 多少の知識はないわけでもなかったが、改めて調べてみると、1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入ると、直ちに着手したのが小名木川の開削で、家中を総動員させた1年越しの突貫工事でこの人工河川を完成させたということである。目的は行徳の塩を江戸に運ぶことにあった。その当時、行徳のあたりは関東一の製塩地帯で、塩は生活必需品であると同時に軍事的な戦略物資でもあったからである。

 先に述べたように、芭蕉の紀行文集に『鹿島紀行』がある。1687(貞享4)年、茨城県鹿島市への月見の旅を記した俳句と散文からなる短編であるが、そのなかに行徳の地名が出てくる。

 このあきかしまの山の月見んと、おもいたつ事あり。(中略)門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。(中略)日既に暮れかゝるほどに、利根川のほとり、ふさという所につく。

 「かしま」(鹿島)には、臨済宗妙心寺派の根本寺があった。この寺院の21世住職を仏頂和尚という。そのころは住職を退き、根本寺の近辺に隠居していた。芭蕉は月見の風雅を表向きの理由に、その居所を訪ねたのである。勝手な憶測だが、月は天空の月であると同時に、仏頂その人の象徴的な表現ではなかったかと思われる。旅の同行者は浪人姿の曽良と墨染の衣の宗波の2人。芭蕉は自分自身については、つぎのように書いている。

 いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠のあいだに名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく

 自分は僧に似せた身なりをしているが、僧侶でもなければ市井の人というわけでもない。いわば、鳥と鼠の中間の蝙蝠のような存在だといっている。「とりなきしま」は「鳥なき里の蝙蝠」のもじりで、「しま」は鹿島。鳥は本物の僧侶で、蝙蝠は偽物の僧。鼠は市井の人。本物の優れた僧侶は鹿島にいない。それをいいことに、偽物の僧である自分が出かけて、我が物顔に幅を利かせよう。という逆説的な言い回しである。ここでいう鳥とは、文脈から考えれば、鹿島根本寺の前住職であった仏頂和尚のことにほかならない。

 鳥類は、わが国の古くからの信仰では、この世とあの世を媒介する存在とみられた。神仏の意思を伝える聖なる使者ということである。神仏の託宣の多くは夜間で、多くの場合、夢の形をもって顕現した。

 それにたいして、鼠には夜行性の動物で、ひそかに悪をなすものとか、つまらない者という意味があるらしい。蝙蝠は鳥の仲間だが、鼠と同じように、夜行性である。鳥類は夜になれば眠る。神仏の夢を見るためである。蝙蝠は夜になると目を覚まし、月見に興じる。月見の風雅とは、鳥でも鼠でもない蝙蝠が隠れてする仏道修業の真似事ということになる。

 仏頂和尚は、『鹿島紀行』には言及がないが、鹿島神宮に不当な形で寺領を奪われたとして訴訟を起こした。1674(延宝2)年から9年にわたり争った結果、ついに勝訴して寺領を回復した。地方裁判所などなかった時代だから、吟味(審理)は江戸の奉行所で行われた。したがって、その度ごとに、鹿島から出府しなければならなかった。つまり、仏の道にありながら、寺領回復の俗事に、かまけざるをえなかった。そのさいに、身を寄せたのが、深川の臨川庵(後の臨川寺、江東区清澄3-4-6)だった。芭蕉は、1680(延宝8)年、この仏頂と出会い、師弟以上の親交を結んだ。芭蕉が桃青と名乗ったのも、仏頂による命名だともいわれている。

寺町通り。徳願寺。山門に祀られた大黒像。本行徳5-22

2021年9月15日

「サンデー毎日」に、東条英機の頭を叩いた大川周明の合掌写真

 今週発売の「サンデー毎日」9月26日号で「東京裁判」の写真が目についた。

 法廷で合掌する大川周明、その前に東条英機——。この写真は、東京裁判担当の毎日新聞写真部・日沢四郎さん(当時38歳、のち写真部長)の撮影である。

 ——昭和21年5月3日のことである。福湯(豊)や高松(棟一郎)が休廷時間に、ゲラゲラ笑いながらクラブに戻って来た。ずっとクラブにいた私(狩野近雄)を見るなり、

 「大川周明が東条の禿頭を叩きやがった」という。

 私は、開廷のベルがなると記者席に入ってみた。審理を再開するとすぐ、大川はまた東条の頭をたたいた。被告席は二段になっていて、東条は前列、そのすぐうしろの後列に大川はすわっているのである。手をちょっと上げて、ペタンと平手で、東条のハゲをたたいたのだ。そのときの東条が、うしろをふりむいて、そのふりむいた顔がよかった。微笑をたたえて、

 “なんだいこのイタズラ小僧が”

 といった顔なのである。人のいい東条の一面が見えた。

 シーンとした法廷のなかに、ペチャッと響く音が奇妙なおかしさだった。

 ——法廷内珍事、大川周明が東条英機の頭をペチャンとたたいたときは、二度とも各社は撮影できなかった。しかし、ヒイさん(日沢カメラマン)は、東条の頭を叩いたあと合掌する大川をとっている。

 ——ヒイさんは数多くの特ダネ写真をとった。法廷という限られた場所、固定した写真班の位置、そういう条件のもとで各社をだしぬくことは容易ではない。ヒイさんは三脚の上にカメラを

 3台とりつけてシャッターを切ると同時に3方向の写真がとれる新発明をしたりした。

 以上は、東京裁判の取材班キャップ狩野近雄(のち東京本社編集局長、スポニチ社長)著『記者とその世界』からである。 

 翌日の新聞各紙に「東条のハゲ頭をポカリ」という見出しが躍ったが写真はなかった。

 毎日新聞に載った大川が合掌する写真を見て、MPたちから「これは君が撮ったのか。是非一枚焼き付けてくれ」と頼まれた、と日沢は自著『戦犯を追って三ヵ年』(1949年刊)に書いている。

 法廷取材は、記者は7人登録できたが、カメラマンは1人だけ。日沢がA級戦犯の処刑まで3年間取材を続けたのである。ちなみにペンは高松棟一郎、福湯豊、川野啓介、鈴木二郎、新名丈夫、杉浦克己で「多士済々、当時の新聞のベストメンバー」(狩野キャップ)。

 「東京裁判」は狩野が命名者である。正式名「極東国際軍事裁判」では長過ぎるので、ニュールンベルグ裁判がその地名をとったのにならったという。

 私(堤)が入社した1964年、狩野が東京本社編集局長、日沢は写真部長だった(文中敬称略)。

(堤  哲)

2021年9月13日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑦

味のちがう国

ブダペストを流れるドナウ川に懸かる「くさり橋」

 これは、ちょっと当てが外れたかな――と思った。定年を一年残して退職し、一家三人と犬一匹とを連れて、ハンガリーの首都ブダペストへ引っ越しての感想だ。内陸国だから、新鮮な海の魚は期待しなかったが、こんなに食べ物がしつこくて、しょっぱいとは思ってもみなかったから。

 ハンガリーについては、父(森正蔵)の遺した日記を読んで、頭の片隅にあった。「丘の上の古城の壁に夕日が映え、暫くすると夕焼け雲を背負った川上の丘陵が、色と形との極美を描き出していた」。一九四〇年六月、父はモスクワ特派員勤務が解け、帰国途中に母とともにローマからブダペストに飛んだ。この月、イタリアのムッソリーニは英・仏に宣戦を布告した。母はこの演説をホテルを抜け出し聴いたが、父は灯火管制で真っ暗なローマとは違い、ドナウ河に沿って広がる美しい街をしみじみと眺めたのだろう。僕も下見に訪れ、父と同じ思いをしたのだった。

 ハンガリー人は、同じアジア系の民族である。顔立ちは全く違い欧州の体型だが、十人に一人は蒙古斑があるという。偶然だろうが、よく似た単語も多い。水はヴィーズ、白鳥はハッチュウ、帯はウーヴ、打つはウートゥ、湖はトーで、アイヌ語の湖トーと全く同じである。どれも生活に密着した言葉であることに注目したい。太古の昔に、二つの国の祖先はバイカル湖の南で一緒に暮らしていたが、その後両者は東西に移動したという説を唱える学者がいた。トート・カザールさんという老人で、「古事記」のハンガリー語訳で知られる。両国の言語を巡る学会で何回も発表することがあったが、両国民がたどった地域を実地調査していないので、学説にはならなかった。

 ブダペストをはじめ地方でも日本語熱が盛んだ。指定されている小中学校には、特別な日本語の授業が毎日あり、会話はもちろん漢字の読み書きを習っている。上級のクラスになると、今どきの日本人も使わない会話で自分を表す子供がいたりしてびっくりさせられた。中学生新聞のデスクをしている時、きれいな日本語で「お友達になりたい」とペンパルを求める手紙が学校単位で届いた。不思議に思っていたが、その疑問の答えが解った。

 話を元に戻そう。なかでも塩はハンガリー語でショー。しかも塩が足りない時は「シオタラン」と言う。大衆食堂でもホテルでも、かなりの辛さなのに、地元の人には味がさっぱりしていると感じるらしく「塩足らん」とボーイさんに注文していた。初めて聞いた時は日本語かと耳を疑った。塩はちゃんとテーブルの上にあるのに、まだ足りないらしい。ある晩、タイ料理を食べに行ったら、心配が当たって、辛い、辛い。注意すると「薄味と注文してください」と切り返されてしまった。毎週、部屋の掃除をしてくれるおばさんは、おふくろの味を僕たちにご馳走しようと、張り切って作ってくれたが、塩辛いのには参った。 さらに面白いことに、住所は都道府県から書き始めるし、姓名の呼び方や年月日の書き順も日本と同じだ。

 ハンガリー料理は、ルーマニアのトランシルバニア地方、トルコやスロバキア、オーストリアの影響を受けている。ほとんどがロールキャベツのように皮で包んだり、煮込んだりしたもので、日本料理のように蒸したり、塩焼きにしたものはほとんど見当たらない。独自の料理には、日本人にもおなじみのグヤーシュがある。もとはハンガリー西南部に広がる大平原(プスタ)の牛飼いが、塩と香辛料で味つけした骨肉をパプリカとともに、弦で下がった鍋で煮込んだもの。

 ある時、昼間のパーティーに呼ばれて驚いた。バーベーキューといううたい文句だったが、広い庭の真ん中に置いた鉄板にラードの塊を乗せ、溶けたラードを肴にワインを飲むという寸法である。口がねばねばするし、ラード独特のにおいが口の中に広がり、ついついワインを飲みすぎるので、さすがの大男たちも歌えや踊れの騒ぎになった。

牛飼い料理のグヤーシュ

 ハンガリー料理を「世界で三大料理」と、ほめそやす人たちがいる。英国に住む美食家のローナイ・エゴンは「フランス料理や中国料理とともにハンガリー料理は東西文化の接点にあり世界一」。やはり長く英国に住んでいる怪奇小説家のオルチ伯爵夫人は著書「紅はこべ」で「英国人は王様のような生活をしているが、食事は豚のようだ。ハンガリー人は豚のような生活をしているが、王様のような食事をしていることを神様はご存じだ」と。

 でも、僕は「うーん」とうなってしまうのである。(つづく)

2021年9月9日

「あなたはケチですね」宇野千代さんに叱られた吉永小百合さん

 「恋多き女」宇野千代さん(1996年没98歳)の名前に、立て続けに接した。この毎友会HP追悼録の中西浩さん(7月28日没90歳)と、5日付毎日新聞「滝野隆浩の掃苔記」。

 追悼録では、中西浩さんが宇野千代さんを撮影したときのウラ話を写真部の後輩・滝雄一さんが明かした。

 《毎日新聞日曜版で「生きて行く私」を連載し、単行本でもベストセラーになった宇野千代さん。彼女の老眼鏡はかなりきつい凸レンズで撮影の角度で目の大きさ、形が歪んで醜悪に見えてしまう。そこで、中西さんは眼鏡屋へ行って、レンズを外してもらって彼女を撮影した。とにかく撮影では妥協しないのだ》

 社会部旧友・専門編集委員の滝野隆浩さんは、お墓めぐりで。《高さ1・2㍍、幅1㍍ほどの白っぽい石。上部には丸みがある。「幸福は 幸福を 呼ぶ」と彫られ、その周りに好きだったサクラの花びらが散ったデザイン。心のおもむくままに愛し、書き続けた作家の、生き方そのままである》

 《尾崎士郎、萩原朔太郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫らとの波乱に満ちた恋愛遍歴である。毎日新聞に連載された代表作「生きて行く私」には愛の浮沈が描かれた。読むと、なぜか晴れやかな気持ちになる。たぶんそれは、相手に執着しないから。彼の心が離れたら、追いかけない。晩年、NHKのインタビュー番組で宇野さんは「それが恋愛の武士道」と語っていた》

 《あ、この人いい、と感じたら、迷わず真っすぐ一直線。後悔など一切しない。だから墓石の言葉は、宇野さんの幸福論でもある。幸不幸は「本人の気の持ち方次第」と随筆に書いた。「私が一番嫌いなのは、そう大して不幸でもないのに、自分をよっぽど不幸だと思わないと安心出来ないような人である」(「幸福を知る才能」)》

 思い出したのは、映画「女ざかり」に合わせて主演の吉永小百合さんが毎日新聞に連載した「女ざかり 男ざかり」の第1回。

 見出しは——。
  「あなたはケチですね」
  宇野先生に叱られた私

 《4回の結婚をなさって、どんな時でも惜しみなく愛のある行動をとられた先生の生き方は、とても真似できない。

 
池上彰さんと対談する吉永小百合さん(毎日新聞紙面から)

 「相手の男性が私に好意を持ってくれていることが判らなければ、自分からその男性に対して積極的になれないのですよ」と申し上げたら、「あなたはケチですね」と、叱られた》

 原稿のキャッチャー役を私(堤)が担当したからだが、この第1回は印象的だった。

(堤  哲)

2021年9月8日

瀬下先生と毎日新聞

学生新聞編集部田村彰子さん

 もうきっかけも思い出せませんが、漠然と出版社に入りたいと思っていた大学3年生の私は、神保町にある瀬下恵介先生主宰の「ペンの森」の門をたたきました。5期生だったので、1期生で新聞記者になった先輩方はまだ支局にいらっしゃり、出入りするのは岸井成格さんを中心とした先生とつながりがある毎日新聞の大先輩が多かったと思います。そのため、「新聞記者はすぐ怒鳴り合いをする」「支局でたばこを吸いながら部下の原稿を見る、よれよれの白Tシャツを着たデスクがいる」「毎日新聞の記者は、夜はだいたい酔っ払っている」といった、今から考えると半分合っていて、半分間違っている情報をたくさん植え付けられました。

 そんな先生が、ある日、「おまえは新聞記者が向いているから、新聞記者になりなさい。特に毎日新聞が良さそうだ。新聞記者は楽しいぞ」と突然言い出すではないですか。理由は今もって全くわかりません。その時は「先生のそういう勘はだいたい当たる」という都市伝説が生徒の間に広がっていて、私も「そうなのか」と特に疑問を持つこともなく、そのまま新聞記者を目指すことにしました。今から思えば突っ込みどころ満載ですが、先生のもたらした不思議なご縁に導かれたとしか思えません。

「ペンの森」を引退した2018年11月(送別会の写真も)

 そんな先生は、ずっと毎日新聞を愛していたと思います。上司に平気で文句が言えることや、酒を飲んでつばを飛ばし合いながら議論するのが当たり前の社の雰囲気をよく笑いながら話してくれました(時には岸井さんの武勇伝なども)。古い毎日新聞の本もたくさんあり、「泥と炎のインドシナ」を初めて手に取ったのは「ペン森」です。取材の前に、関連書籍をたくさん読む作業は先生から習いました。私はずっと「黄金期の新聞社社会部の遊軍長」が、先生を言い表すのに一番しっくりくると思っています。森羅万象に興味を持ち、書籍、雑誌、新聞から幅広い知識を得て、ちょっと斜めから世の中を斬る。私が社会部に上がり、夜回り前に酒の入っていない先生とさまざまな話をするようになってから、その思いは強くなるばかりでした。「白いヨレヨレTシャツのデスク」ぐらい、「ザ・新聞記者」な方だったのです。

 私が記者生活を始めてから今日まで、ずっと心がけていることは「ご縁を無駄にしない」です。どんな人がどんな縁を持って現れるのか、誰も分からない。でもそんなご縁が人生に大きな影響を及ぼすことがあると先生から学びました。毎日新聞の記者をして、夫も毎日新聞の記者で、子どもは3人いるという人生は間違いなく先生からもたらされたものです。そして、同じように「先生がいなかったら、全く違う人生だろうなあ」と思っている毎日新聞の仲間がたくさんいることでしょう。

 今回の訃報に接し、毎日新聞社内の1期から23期までの「ペン森」生に声をかけさせていただきました。だいたい一つの期に1人はいて、全国に散らばっていました。先生のまいた種は、いろいろなところでいろいろな形で今後も育っていくはずです。「師」として肉体はなくなっても存在し続ける先生ですので、なんとなく「ありがとうございました」という別れの挨拶はなじまない気がします。やっぱりこうでしょうか。

 「先生、そちらに行きましたらまた飲みましょう。お土産話をもっていきます」。

(2002年入社の学生新聞編集部、田村彰子さん)

《牧内節男さんの銀座一丁目新聞から転載》

瀬下恵介君を偲ぶ

(柳 路夫)

 毎日新聞社会部で一緒に仕事をした瀬下恵介君がなくなった(8月9日・享年82歳)。

 仲間の板垣雅夫君からメールを頂いた。それによると、13日の葬儀は家族でやりますが、供花は受け付けるそうですので、皆さんとともに、「毎日新聞社会部ロッキード事件取材班」でお花をお送りしたいと思いますが、よろしいでしょうか。ご賛成いただければ板垣が手配いたします。先ほどお宅へ電話したところ、お嬢さまが出てきて、6月に誤嚥性肺炎となり、老衰ということもあって、なかなか回復せず、9日午前3時ごろ永眠なさったと言っておられました。誠に残念です。では、以上の件、12日には手配をしたいと思います」とあった。

 瀬下君は毎日新聞社会部時代、ロッキード事件の取材仲間である。辞めたあとも良い仕事をされた。彼を有名にしたのは彼が創設した「ペンの森」マスコミ塾である。彼には人を束ねてガヤガヤ論談させて有志で事を進めてゆく才能があるようだ。私もスポニチをやめたあと5年ほど「マスコミ塾」を開いたが5年と続かなかった。あまりにも学校の教室的な授業をやりすぎた。作文に絞って生徒と一緒に話しながらやるべきであったと反省している。一時期、ニューズウィーク日本版発行人であった。彼に頼まれたニューズウィークを数年間購読した。非常に勉強になった。そのあと瀬下恵介君が1995年に「ペンの森」を創った。瀬下君や元朝日新書編集長の岩田一平さんらが熱心に指導した。

 さらに、ペンの森OBの朝日、読売、毎日、NHK、共同、日経、文春、博報堂などの現役マスコミ人が手助けをしてマスコミ界へ有為の人材を送った。毎年年末の瀬下君はハガキでペンの森から何名マスコミに入ったか細々と書いたハガキが送られてきた。手元にある資料では「ペンの森は11年目に入りました。捏造記者、放火記者は永遠に出しません」(2005年11月)「フェイスブックをはじめました73歳にして新しい知り合いの輪が広がります」(2011年11月)「ペンの森での教え子の記者、編集者は400人になります」(2013年11月)

 心からご冥福を祈る。

2021年9月7日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑥

菊池寛の眼

菊池寛

 父(森正蔵)は日記にさまざまな人との対話を記している。これは昭和十九年十一月十五日の部分である。

 夕方、築地の「楠幸」へ菊池寛と久米正雄とを招く。横光利一も招いていたのであるが、彼はひどく胃をこわしているので「残念ながら」と出席を断って来た。この催しは、本社の客員であった三人と表面上、手を切った形になるので、一応これまでの労を謝するという意味のものである。菊池寛が珍しくよく喋ったりして、今晩の会合は面白かった。そのうちの一つ―今度、創元社で「創元」という一部百円という雑誌を出す。それにのせる小林秀雄の「モッツアルト論」は、面白いと学芸部記者が切り出したことについて、小林秀雄のことに話が移る。

 菊池寛は「小林という男が、そんなに立派なものを書くのかネ」と言う。みなが「冗談ではない。小林秀雄を世に出したのは文藝春秋社ではないですか。それをあなたが知らぬという法はない」と言う。そこで菊池は語を継いで「小林の方では僕を認めているかも知れぬが、僕は小林を認めないね。小林が僕を認めているというのは、こういう訳だ。大阪へ競馬に行って小林に会った。小林は負けて負けて、からっけつになった。可哀そうになったので僕は、君この馬を買いたまえ。複ならばきっと当たるにちがいない。金なら僕がいくらでも貸してやるからと云って買わしたところが勝ったネ。あれで僕を認めぬという法はない」。

 それから文学論が出た。いろいろ珍しい話、面白い話を聞くことが出来たが、「作家の真価とその名声」というものは決して一致するものではないという話から、菊池は尾崎紅葉と泉鏡花の例を出した。作品の価値では鏡花の方が優れているのに、名声は紅葉の方が上に位しているのはおかしい事実だというのである。それに次いで「だが作品の価値とその作家の人間性というものも一致しない場合があるものだ」と言って、鏡花について次のようなことを語った。

 あれほど「恩師紅葉」などと外に対して言っていながら、紅葉の未亡人が生活に困ってある年の暮れに鏡花のところへ金を借りに行ったところ、鏡花はそれを拒絶している。

 そして金十円を包んで歳暮だと言って紅葉未亡人のところへ送ったということがある。どんないきさつがあるか知らぬが、人間的に見て面白くない。それから佐渡の小木港で紅葉の碑を建てるというので、その資金の基金に僕たちのところへも色紙を書いてくれと言って来た。僕はまずいのを二、三枚書いたが、鏡花はにべもなく断っている。色紙を書くのがいやだったら、金でもやれば良いじゃないかと思うんだがネ。この話の序に作品のなかの会話について菊池は言う。

 紅葉の作品を大したものでないと僕は言ったが、彼の作品のなかの会話は良い。現代の作品に、あのまま持って来ても立派なものです。会話のよしあしには、時代の隔りはないと言ってもよいわ。夏目漱石も菊池寛には極めてみじめな取り扱いを受けていた。「久米や芥川があんなに漱石を大家扱いにするのが僕にはおかしくて……」と言うのであった。

 題字がモノクロだったころ

  赤いりんごの露店の前で
  だまって見ている青い顔
  りんごの値段は知らないけれど
  りんごのうまさはよくわかる
  りんご高いや高いやりんご

 敗戦に打ちひしがれた国民を襲ったインフレはもの物凄かった。これは昭和二十五年秋に東京新聞に載った「りんごの唄」の替え歌である。

 戦後になると、社員の生活はますます苦しくなった。だが全国に張りめぐらした地方支局と一体となって、懸命に支え合っている姿が父の日記に浮かび上がる。

忘年会のスケッチ。右が戸川(父の日記から)

 政変(社会党・片山哲内閣成立)に社内中、ことに政治部ではおそくまで活気にあふれている。慰問のために粕取り焼酎(二十年五月三十日付)二本(一千円)を出す。四版締め切り九時。

 神田太郎が「亀甲萬(キッコーマン)の醤油を二升くれた。これはこの節、なかなか手に容れ難い貴重品である。(翌日付)

 立石隆一(学芸部)が西瓜をくれた。この間から果物屋の店頭ではちょいちょい見うけたが百六十円とか百八十円とかいう値がついていて、ちょっと手が出なかったものだ 三三会を復活させる。この会がしばらく続いてすぐお流れになってしまったのは、どういう原因であるかわからないが、今度はこの会を愉快な集まりにすることに力を注ごう。まず何か茶菓子を出す。誰かにおもしろい話を用意させておいて、それを発表させる。そして月に一度くらいは会員全部が集まって、一ぱい飲むようにする。そのために会費をとることにした。部長五十円、次長、局長百円、なお寄付金も機会あるごとに取る。

                

 敗戦は家計を苦しめるだけではなかった。GHQの新聞統制である。そのうっ憤を晴らす光景が、二十五年十二月二十四日に繰り広げられる。

 いよいよ年も押し詰まって、あちらこちらで忘年会の催しがあるが、社会部でもかねがねの懸案であったその会を、今夕芝浦の東港園で開く。このごろ、こういう催しも値が高くてやりにくい。今夜の会なんかも一人あたり百円ばかりにつくのだが、支那料理がちょっぴり出たのと、酒は生麦酒にウイスキーである。それでも四十人ばかりの参会者が、ずいぶん騒いで大成功。例によってそれぞれの隠し芸続出のなかに、今夕の白眉は何と言っても戸川の猿と塙(はなわ)の猿回し。余りのことに皆開いた口が塞がらぬという様だった。

 帰りは一同トラックに乗って社まで行き、そこで解散したが、夜更けの街を行くトラックのうえで、酔っ払いどもが思いつきの歌を合唱する様は、また一段と物凄かった。

 クリスマス・イーヴ。進駐軍の兵隊たちの天下だ。第一相互のマッカーサー司令部ではMerry Christmasのイルミネーションがまばゆく、お濠の水にうつっている。

 戸川(幸夫=写真)は社会部長を経て動物作家になり、イリオモテヤマネコの存在を世に知らせた。塙(長一郎)は社会部記者からNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラーに。記者でありながら暴力団・関東松田組の参謀格となり相談役的な役割を担った。いまでは考えられない話である。(つづく)

2021年9月3日

Stay home中に、こんな運動はいかがでしょうか?

 コロナStay homeで運動不足解消に「体を動かしましょう」の特集が各紙に載っている。「筋肉は裏切らない」の近畿大・谷本道哉准教授、フィジカルトレーナーの中野ジェームズ修一さん、大坂なおみ選手のフィジカルトレーナー中村豊さん、「きくち体操」の菊池和子さん……。

 図書館で毎日新聞のバックナンバーを検索していたら、96年前の大正14(1925)年1月20日付「大阪毎日新聞」(毎日新聞の前身)に「都会生活者の福音/疲れを忘るゝ 新しい室内運動法」が写真入りで載っていた。

 運動は全部で3つ。

 1 写真右上「からだをまげ手を足につけて」

両脚を開いて前かがみとなり、右手を左足のくるぶしに触れる。次に左手で右足のくるぶしに触れる。これを繰り返す。「疲れを覚えるまで続ける」。

 2 写真中央「両腕をのばしてからだを右へ左へ前へ」

両脚を心もち開き両手を開いたまま両腕を頭の上にまっすぐ挙げる。そしてそのまま半弦を描くつもりで上体を左に、前に、右に傾ける。

 3 写真左「威勢よく股を開いて脚をのばす」

後頭部に両手をあて、腰や背を曲げないで先ず左足を横へピンとはねだし、次に右足をはねだして、室の一隅から他の一隅へ歩くのです。

 結構キツイですよ。試して下さい!

(堤  哲)

2021年8月30日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑤

中村紘子さん

NHK交響楽団とともに初の海外ツアーに参加した1960年の和服姿

  昭和二十三年春、僕は渋谷区にある私立小学校に入学した。その年から男女共学になり、二クラスが三クラスに広がった。一貫教育の学校は、同じ敷地に中学が併設されていたが男子校だったので、物珍しさもあってお兄さんたちがのぞきに来た。

  三年経って迎えた新入生に中村紘子さんがいた。ピアノに優れた才能を示し、全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国優勝。「赤屋根」と呼ばれる木造の講堂でリサイタルを開いたのでみんな知っていた。ぽっちゃりとした顔立ちだったので、僕たちは彼女を「白ぶた」と呼び、習字の筆を洗ったバケツの黒い水を、彼女にかけたりする悪さをした。

  時は流れる。僕は入社試験に挑戦する。なにしろ受験戦争とは無縁で育っただけに、どんな準備をしていいかわからない、ただ新聞だけは隅までよく読んだ。作文は自信があった。題は「水」。前年に東京の水がめが干あがって給水制限になった。社の作文は毎年「木」とか「火」とか、誰にでも書けるテーマを題にしていたから、今年の題は「水」だろうというヤマが当たったわけだ。

  常識問題の中に「中村紘子」というのがある。社の事業の中から、一つに絞って出したのである。中村さんは、前年にポーランドのワルシャワで開かれた第七回ショパンコンクールで四位に入賞。彼女が小学生の時に学生音コンで優勝したことにちなんでの出題だった。

  中村さんのショパンコンクール入賞は大きな話題となった。友人や彼女のファンを中心に「中村紘子を励ます会」が結成された。僕もメンバーに加わった。その最初の会で、僕は「白ぶた」の話をした。「何よ、あなたたちだったの」と彼女は驚いた表情を見せたが、それをきっかけに友達になった。

  彼女は表参道のマンションに住んでいた。十畳くらいの練習室にはグランドピアノが、部屋からはみ出すように置かれていた。ピアノが弾け僕だが、クラシック音楽には中学の時から親しんでいたので話は合った。いろいろな音楽家が音合わせに来るたびに、彼女は僕を招いた。生で音楽を聴くのは、初めての経験だ。彼女は母上とおばあちゃんと住んでいたが、「今日は誰もいないんだ」という日には、渋谷の「東横のれん街」で食料を買い込んでは、彼女は手際よく料理を作ってくれた。箸休めは彼女の弾くモーツアルトやショパンだったりした。

  ところで彼女の演奏を、目と鼻の先で聴いた男が社に一人いる。宇都宮支局で後輩の平山昭男君である。彼は東大法学部の出身。司法試験を受けようとして、試験がすでに終わっていたことに自宅で気づいたそうで、代わりに社の試験を受けたというツワモノだ。久しぶりに一緒に飲んでいると、彼は「中村紘子が弾くベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』が聞きたい」と急に言い出す。電話をすると彼女は起きていて「どうぞ」と言う。驚いたのは平山君だ。夜も更けていたが彼女は、ウイスキーをごちそうしてくれた。演奏は三十分ほど続いたが、ふと平山君を見ると、すやすやと眠っている。僕は恐縮するが、中村さんは「札幌の演奏会で、最前列のお客さんがお煎餅をポリポリかじったことがあったわ」と笑っていた。

  五年前の七月二十六日、朝の五時。ラジオは中村さんの訃報を伝えた。「エッ」と思う。大腸がんだったそうだ。前の日には自宅に帰り、夫君の芥川賞作家・庄司薫さんとお祝いをしたばかりだった。追悼番組で聴く晩年の彼女の演奏は、華やかさが消え、静謐な世界をさまよう境地にあったように思える。

 (つづく)

2021年8月27日

倉嶋康さんのFacebook連載に記者たちの写真

 昭和35年4月16日静岡県稲取で発生した伊豆急トンネル落盤事故の取材スタッフ。

後列左から3人目ニノさん(二宮徳一)、一人置いて倉嶋康さん。その真ん中は井上七郎さん?
倉嶋さんの写真説明は、真ん中が丹羽郁夫とだけ。左は黒崎静夫、右は桜井邦雄さん?
社会部筆頭デスク立川熊之助(昭和38年8月異動で大阪本社社会部長)。その隣?その前佐々木叶さん?
デスクとサブデスク? それとも遊軍
左端倉嶋さん。1人置いて前田利郎さん。その右2人?
御巣鷹山日航機墜落事故(昭和60年8月12日)時の長野支局。倉嶋支局長の前に森国郎次長。
地方部取材課の記者たち。左から2人目が倉嶋さん。
石谷竜生さんと思ったけど違いますね。
有楽町駅前にあった毎日新聞東京本社。右側に「有楽町で逢いましょう」そごう百貨店(昭和32年開店)。

 どなたか、写っている人の名前が分かったら、教えてください!

(堤   哲)

2021年8月26日

同人誌『ゆうLUCKペン』第44号に原稿を! 〆切は11月11日

 1978(昭和53)年5月に『有楽ペン供養』として創刊した毎日新聞現役・OBの同人誌『ゆうLUCKペン』。来年2月発行の第44号の原稿を募集中です。

 執筆要項を添付します。テーマは「俺とスマホ 俺のスマホ」となっていますが、題材は自由、何を書いても構いません。

 締め切りは11月11日(木)。分量は400字詰め最大20枚、8千字としていますが、これより長文の力作が過去いくつも掲載されています。

 創刊号に載った発刊の趣旨を再録します。中西彦四郎さん(90年没81歳)の発案です。

 《人間、還暦を迎えるころになると過去を振り返り何か書き綴りたくなる。よく言えば還暦文学と呼ぶ。悪く言えば年寄りの懐古趣味ということになるが、生き残った私達が懐かしい思い出の一端でも綴って感慨を新たにして故人の冥福を祈りたい。……記者になって駆け出しの時代、あの時の苦労や、あの戦争の激動期の体験、思いは尽きない。これらを書いて小冊子にまとめてみたいと企図し、ここに提案する次第である。還暦文学ならぬ還暦聞学(新聞の聞)と死を共にしてきた今は亡き先輩や同僚の冥福を祈るために“有楽ペン供養”とした》=第41集(2019年2月刊)の編集後記から。

 皆さんの積極的な参加を期待します。

(堤  哲)

2021年8月26日

「帝国の墓場」ロンドン特派員だった中井良則さんの「1989年カブール取材記」

国際面に掲載されたアフガニスタン報告(1989年3月27日朝刊)

 大事件があると、マスメディアは過去の似た事件と比較します。アフガニスタンの首都カブールが2021年8月15日、タリバンの速攻により陥落した時、アメリカの新聞・テレビは一斉に1975年のサイゴン陥落の映像を流しました。大国アメリカが遠く離れたアジアの小国に介入し、引くに引けず、敗れて、混乱の中、去っていく。アメリカのメディアは46年前のベトナム戦争が同じ構図だったことを覚えていたのでしょう。

◆「カブール? まあ行っていいよ」◆

 私が思い出したのは1989年3月のカブールでした。アフガニスタンを10年間占領したソ連軍が撤退し、傀儡政権が取り残された首都に入ったのでした。当時はロンドン特派員で、在英アフガニスタン大使館で、なぜかビザが取れました。東京に出張を申請すると「カブール? まあ、行っていいよ」となり、ニューデリーで飛行機を乗り換えて標高1800メートルの高原にあるカブールに着きました。ソ連軍撤退は日本でも大きく 報道されましたが、その後は目立ったニュースもなく、アフガンは紙面から消えたころです。東京のデスクの「まあ、行っていいよ」の裏には「記事になるのかね」という疑いがひそんでいたことは、いやでも分かりました。

 日本も含め外国大使館、それに国連や国際機関の多くが軒並み撤退し、外国人はまずいません。ソ連軍が消え、国内各地でムジャヒディンと呼ばれたイスラム勢力の反政府ゲリラやら軍閥やら武装勢力が戦っていました。タリバンはまだ結成されていませんが、誰が誰と戦っているのか分からないほど混沌としています。ソ連に見放された政権が遅かれ早かれ、崩壊するのは目に見えています。かといって、きょうすぐに何か起こるわけではない。小康状態。嵐の前の静けさ。何か書くことあるのか、と東京が思うのも無理はないのです。

◆テレックスのカタカタで幸せに◆

 出張取材でまず確保するのは東京との通信手段です。当時、カブールで外国人記者が泊まれるのはコンチネンタル・ホテルだけでした。丘の上にぽつんと残るホテルに行くと、Intercontinental HotelのInterが削り取られていました。もとは有名な国際ホテルチェーンだったのが戦乱の中、ただのコンチネンタルになってしまったようです。外国人記者は6、7人いたでしょうか。日本人もいたけどA紙かY紙か、はっきり覚えていません。ニューヨークタイムズもいました。

 電話はかからない。食堂で出る食事は昼も夜もスバゲッティだけ。政府の報道担当者がいつもいるけど、何を聞いても「分からない」。そのうち、彼らは外国人記者にスパゲッティをおごってもらうのが主目的だ、と気づきました。インフレと食料不足が深刻でした。

 なぜわれわれ記者がこのおんぼろホテルに集まるのか。ロビーの隅にテレックスが1台あるからです。電話が通じないので、外への連絡手段はこのテレックスだけなのです。

 下手をすると記者たちの行列ができていて、いらいらしながら順番を待ちます。やっと自分の番になると、ローマ字で原稿を打ち、鑽孔(さんこう)テープを作る。次にカブールのどこかにある電報局をキーボードをたたいて呼びだす。東京の新聞社の番号を指定してつないでくれるよう頼む。これがなかなかつながらない。電報局の見知らぬ誰かの機嫌が悪いのか、機械の調子が悪いのか。やっとつながると、細長いテープを機械にかける。カタカタと流れていきます。このカタカタの音で幸せになれたものです。

 東京本社の受け手のテレックスで受信した同内容のテープはローマ字原稿の紙となり、円筒に入って編集局の天井をはう気送管で送られ外信部に落ちる。アルバイトがローマ字を日本語に直し(「翻訳」と呼んでいました)、デスクの手に届く、という仕組みです。まだ、テレックス回線はつながっています。

 たまにデスクが暇か、善き人であれば、「元気か」のひとことがカブールでテレックスをにらんでいる私に届く。何も言っていこないので、「外信デスクに連絡ないか聞いてくだい」とテレックスをたたくと、しばらくして「特になし」で回線が切れる。がっくりです。

 ニューヨークタイムズの記者がいたことをなぜ覚えているかというと、彼は時差の関係もあり夜遅く、長い時間、テレックスを独占する。ニューヨーク本社からは、記事の扱いだけでなく、紙面の主な見出しが送られてくるそうです。もちろん、デスクともテレックスで会話する。それに驚いたわけです。

 こちらは自分の送った記事が載ったかどうかも知らされず、闇夜に鉄砲の毎日でしたから、「やっぱりね、違うね」といじけたものです。

 外信部でもテレックスを使った最後の世代か、と思います。

◆忘れられた戦争◆

 砂かほこりかザラザラした記憶があるカブールの街を歩き、取材しました。残留した国際赤十字委員会が運営する外科病院も訪ねました。この委員会で聞いた言葉があります。「ここは忘れられた戦争になる」。2001年、アメリカで同時多発テロ事件が起こり、アフガン戦争が始まった時にワシントンにいた私は、思い返すことになります。

 ソ連が占領していた間は国際ニュースとして世界でアフガンは報道されました。ソ連が撤退し、アフガン人同士の内戦になれば関心は薄れます。「世界が忘れてしまった戦争は現に、あちこちにある。外国人はやってこないし、記事にしない。でも人々は傷つき、苦しんでいる。この国も世界から忘れられてしまう」。彼はたんたんと話していました。

 アフガンで何が起こり、だれが権力を握り、人々の暮らしがいかに変わったか、世界はソ連撤退から10年以上忘れていました。そして同時多発テロで、地球儀を見直してアフガンを思い出したわけです。

 テロとの戦いと民主化を大義名分として、アメリカやNATO諸国はアフガニスタンに兵士を送り込みました。「最も長引いた戦争」にうんざりし、ビンラディンを殺害したあとはアフガンは視界から遠ざかりました。自分たちが育てた政権と政府軍がある日、消えたと知り、もう一度、地球儀を回してアフガンがどこにあったのか探したことでしょう。

 いまの撤退に伴う混乱が収拾されると、また世界はアフガンを忘れてしまうかもしれません。

◆もうひとつ追加された「帝国の墓場」◆

 カブールで誰かから聞いたのか、何かで読んだのか、覚えている言葉があります。

 「graveyard of empires 帝国の墓場」です。アフガニスタンに侵入した大国は、この土地と人間を意のままにできるとうぬぼれるが、やがて抵抗され、力尽きて退場する。その歴史をさす言葉です。今回、調べ直しましたが、だれがいつ言い出した言葉か分からないようです。

 empiresと複数になっているのがミソです。もろもろの帝国とは?

 1979年から89年までのソ連、2001年から2021年までのアメリカはすぐに思いつきます。それだけではありません。紀元前4世紀にはヨーロッパ・マケドニアからアレクサンドロス大王が、13世紀にはモンゴルからチンギス・ハンが侵攻し、引き揚げました。19世紀には、南下政策のロシアとインド帝国拡大をめざすイギリスがぶつかるグレートゲームの舞台となりました。外交権を奪い保護国としたイギリスは3次にわたるアフガン戦争で疲れ果て、1919年、独立を認めて手を引くしかありませんでした。

 2021年のカブール陥落は、アフガン史からみれば「墓場」の長いリストに、また一つアメリカという国名を追加したことになります。

◆「カブール息ひそめる日々」◆

 1989年のカブール取材は1週間ほどでビザの期限が切れて終わりました。テレックスの順番待ちでやっと送った原稿もほとんどボツの山でした。国際面のアタマでかろうじて1回だけ扱われた記事の切り抜きを見つけました。

 「カブール息ひそめる日々 第2のサイゴン …おののき」の見出しがついています。当時もベトナム戦争のアナロジー(類推)が成り立っていたのです。そしていま、タリバンに見つかることを恐れ、隠れ家に潜む人々の「息ひそめる日々」が早く終わることを願います。

 次の帝国が別の地から逃げ出す時は「第2のカブール」と呼ぶことになりそうです。

(中井良則 2021年8月25日 記)

※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職

 

2021年8月24日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」④

飯島オーナー

 夕刊社会面に「赤でんわ」というコラムがあった。朝の十時にサブデスクが「赤でんわ、ある?」と聞いてくる。このコラムは地方支局などから上がってきた、ほやほやの社会部員を警察に張りつかせ、記事の書き方のイロハを鍛える場に使われた。

 歳を取ってから社会部員になったので、僕の受け持ちは一方面。銀座、赤坂、六本木など話題の宝庫である。記者のたまり場は丸の内署だ。朝日は東大法学部卒の青年、東京は同大国文学科卒と、みな立派な経歴の持ち主だったが、いたって和気あいあいの仲良し。拘束時間が解ける午後十時を過ぎても、赤ちょうちんで下世話なおシャベリにふけっていた。

 その日は単独行動と決め込んで銀座の裏通りを歩いていた。すると女子大生と思しき集団が、アルミホイルに包んだ何かを地面に置いて回っている。「それ、ナニ」と聞くと「アジの煮つけです」と答える。近くのビルのオーナー飯島美奈子さんから頼まれたバイトなのだそうだ。早速、ソニービル近くの女性専用の喫茶店に飯島さんを訪ねる。

 銀座生まれの銀座育ち。銀座をこよなく愛している。ところが最近の銀座は、ネズミがはびこって不潔だから、のら猫に退治してもらおうと、エサをやっていたそうだ。初めは飯島さん一人で雨の日も風の日もエサやりを続けた。二十五か所のえさ場で百匹を超すのらが待っている。一匹ずつ名前をつけて話をしながら回る。

 飯島さんは言う。「三匹以上の子どもを産んだのらを見たことがありません。しかも、一匹ぐらいしか育たない。長生きしているのらで五年。たいていは一年か二年で死んでじゃいます。子どもの数も少ない。だからえさをやっても増えません」

 僕はすぐ「赤でんわ」に書いた。反響はそこそこあった。女性週刊誌も取り上げた。だが飯島さんは、ちょっと不機嫌だ。いつもアジを仕入れている魚屋さんに行ったら、「また、のらにやるんでしょ、って言われちゃった」。

 飯島さんは大金持ちだ。ビルを何軒も持ち、有名なクラブのオーナーである。アルコールは全くだめ。ウーロン茶でごまかす。

 銀座四丁目の交差点の真裏にあった会員制クラブ「百合」は、十一人が座ると満員になる。十二人目の客が来ると、一番早くから飲んでいた客が席を立つことになっている。メンバーは各界の名士が素顔で訪れる。僕は飯島さんのお蔭で入会を許してもらった。最年少ではなかったか。

 ママは坂本百合さん。群馬県高崎の産で、高校を卒業して上京、証券会社のOLになった。その間に、売れっ子の直木賞作家と恋に落ちる。銀座に小さくてもいいから店をもちたかった百合さん。作家との関係を切ろうと申し出る。すると作家は彼女に示談金を要求してきたのだ。気持ちは決まっている。すぐに飯島さんに泣きつき、大金を借りて作家に突きつけ、関係を切った。あっぱれだった。

 「百合」は、もうない。店いっぱいに広がるユリの花の残り香が、心に漂うばかりである。

 銀座が今のような外国有名ブランドの街に変わり始めた頃、飯島さんは若い人の街を目指していろいろな企画を立て、実行に移していった。毎年大みそかに行われた「大学演劇祭」もその一つ。全国から大学演劇部のメンバーを集め、日本一を競い合うという壮大なスケールの催しものである。毎年審査員は変わったが、僕はレギュラーを務めさせていただいた。まだ売り出し中の漫画家でタレントの蛭子能収(えびす・よしかず)さんの顔もあった。学生らの迷?演技に笑いこけて、話をする暇はなかったが、好感の持てる人と思った。

楠本健吉さん

 タウン雑誌の発行も思い出に残っている。バイトの学生たちが選ぶ人にインタビューするのが常だったが、僕は近代俳句の旗手・楠本健吉さんを提案した。楠本さんは灘中学で遠藤周作さんと同級だった。生家は料亭「なだ万」である。

 暑い夏の日が落ちるころ、楠本さんは現れた。汗を拭きながら楠本さんは口を開く。「新宿でパチンコをしてね、ぶらぶら歩いてたら制服の女子高生に声を掛けられた。『おじさん遊んでかない』って。赤いシャツを着てたんで目立ったんだろう。都立の高校に通ってるらしい。咄嗟なことに返す言葉がなかったけど、ここは落ち着いて、君、自分を大事にしなきゃ、と言ってパチンコで儲けた五百円を渡して別れたのさ」。

 出鼻をくじかれたが、一夜漬けで頭に入れた近代俳句までたどり着いて対談を終えた。そして雑談になり戦争の話題になる。僕が「われわれが、かろうじて戦争の記憶がある年代です」と言うと、楠本さんは「戦争に行ったか、行かなかったは大違い。行かなかった人には判らない」と即座に切り返された。そう言い切る人がまだいた時代である。

楠本さんの秀句

 汝が胸の谷間の汗や巴里祭
 郭公や過去過古過去と鳴くな私に
 失いしことば失いしまま師走

(つづく)

2021年8月20日

思い出すままにーー森桂さんの「つれづれ抄」③

コバちゃん

 何でも占領軍の払い下げの時代だった。社の車はアメ車だったし、パンツなど下着までもが当てがわれた。そんな時「三きたな」と呼ばれた三人の記者がいた。「きたな」とは汚いを指す。その一人が古波藏(こはぐら)保好さんだ。

 紙のパンツを避け、自前のパンツをはいていたのだが、周囲が不潔な生活をしている男と勝手に思い込み、不本意なあだ名がついてしまったらしい。

 名前で想像がつく通り、琉球国朝廷の末裔だ。誇りをもっていたから、昨日の敵に従いたくなかったのだろう。沖縄日報の記者から当時の大阪毎日新聞に入り、東京本社の社会部記者を経て論説委員を勤めた。福湯豊さんらと並んで名文家で知られた。敗戦の一年後には、密航船で沖縄にわたり、悲劇の島をルポしている。

 古波藏さんの身のこなしは格別だった。七二年には第一回のベストドレッサー賞(学術・文化部門)を受賞したほどである。パートナーはファッションデザイナーの鯨岡阿美子さんだから、男のおしゃれは身について当然だ。

 亡くなる一年ほど前、六本木に近いお宅を訪れた。「起きてみると、すぐ横で阿美子が息絶えているのにはびっくりした。僕も去年、吐血して死にかけたけれど、阿美子が守ってくれたんだと思うよ」と語っていた。

 一度だけ夜更けの六本木の通りを、最愛のパートナーと手を組んで散歩する古波藏さんの姿が忘れられない。

 僕がデスクをしていた「毎日中学生新聞」に連載のお願いをした、原稿が手許にあったので紹介する。

大男の強盗しきり

 「――日何時ごろ、ナニ町何番地某方に大男の強盗が押し入って「云々」という記事がよく新聞の社会面に出た」。

 

 廃墟となった街は、日が暮れると暗ヤミとなり、何が出るかわからないという気味悪さである。あちこちにションボリと街灯がついていたと覚えているが、照らす範囲はきわめて狭かった。暗くなりだすころから、人々は家路を急ぎ、あとはどこもかもシーンとなる。

 廃墟のヤミで、おそれを知らないのは、強盗くらいだったのではなかろうか。特に大男の強盗にとっては、コワイものなしだったはずだ。

 外地からやっと引揚げて、毎日新聞社の社会部記者に復帰したばかりのわたしは、「大男の強盗」という意味するものがわからず、「この二、三日しきりの大男強盗の記事が出ているが、同じヤツが荒らしているのかね」と同僚にきいたら、相手はニヤニヤと、「アタマをはたらかせろ。数知れぬ大男が今の東京にはきているんだ」と答えたのである。

 やっと察しがついて、「だとしたら、どうしてハッキリと占領軍のGIらしいと書かないんだ」といえば、「引揚げてきたばかりのお前には、まだ被占領国の弱さがわかっていないんだ」ということだった。

 民家に押し入った強盗が占領軍のGIだと明らかになっているのに、つねづね公正な報道をうたいあげている新聞が、奥歯に物の挟まったような表現をしたというのは、被占領国新聞の悲劇――ではなくて、むしろ喜劇だったとみていいだろう。

 GIとハッキリと書かないで、GIと感じさせるにはどんな言葉を使えばいいか、といろいろアタマをひねったあげくの「大男」なることばをヒネリだすまでの苦心が察しられて、なんとなくおかしくなってしまうのである。

 日本人にも大男はいるのに、こっちの迷惑は同胞のよしみで――ということだ。

ある教師のお弁当

 ある日、わたしは、取材のためだったと思う、神田の小学校へいった。職員室に通されて、椅子を与えられたのだが、ちょうど昼休みで、先生たちが弁当を食べはじめている。

 わたしの目近でも、先生のひとりがアルミニューム製の、やや大きめの弁当箱をひらいて食べはじめた。なんとなくわたしの視線がその弁当箱に向く。

 この弁当箱の中に詰められていたものを、わたしはいまもアリアリと覚えている。

 ふたを抑えつけるようにして、ギッシリと詰められているのは、青々とした菜っ葉だった。

 ご飯は、と見れば、箱の隅に、つまりはこの中を六つに仕切るとしたら、その一つに相当する量が白く輝いているに過ぎないのである。

 かつて弁当箱のフタをとれば、白いご飯が多くの面積を占め、オカズは小箱の中に――というのがふつうだった。その先生が持参している食事はアベコベだったわけだ。

 あまりにも青々としている菜っ葉は、当時軒先きに少しの土でもあれば、食べられる野菜をつくるということが習いとなっていたので、先生の弁当箱に満ちているのも、小さな菜園からの取り立てだったのであろう。

 新鮮には違いなかったが、あぶらで炒めたのではなく、サッツと茹でただけのようだということは、色の鮮やかさで感じられたのである。

 先生は青い菜っ葉をよく噛んでた。よく噛まないと、繊維だらけの菜っ葉はなかなかノドへ通るものではない。いつ食べ終わるかと気になるくらいシッカリと噛んでいる。そして白いご飯にはなかなか箸をつけなかった。

 あのころ白いご飯のことを銀メシ、あるいは銀シャリといって尊重していたのだが、弁当箱の片隅で光る白いご飯は、最後の楽しみにトッテオキということらしかったのである。

ラク町ファッション

 有楽町はラクチョウ、銀座はザギン、上野はノガミと言われるようになって、東京の由緒ある町が格落ちした。いわゆる「パンパン」やヤクザのアンちゃんたちが使う隠語を、堅気の衆までおもしろがって口にするようになったのである。食べるものをちゃんと腹に入れて、フテくさったあげくの元気いっぱいに見えるのは、彼女たちと彼らだった。

 「パンパン」とはオカネとひきかえに、からだをまかせる女性のことだったが、はじめて現れたこの言葉は、どこからきたのだろう。

 戦争の末期、台湾の海軍基地に報道班員として滞在していたころ、水兵たちの会話に「パンパン屋」という言葉が出るのを聞いた覚えがある。もちろん男たちの欲望を次々に処理する女性のいる家のことだった。しかし水兵たちがどこでこの言葉を覚えたかということになると、もうわからないのである。

 いずれにしても、「ラク町」にたむろする彼女たちは、はじめ惨めな姿だった。着古したモンペ、父親のお古とおぼしきズボン、布地の織目がゆるんだスカート、ロクに食べていない顔の色が哀れで、不敵な面構えならまだしも、つつましくマジメに戦時中を暮らしてきたのではないかと思われる若い女性もいた。

 化粧といえば、やっと手に入れたルージュを使っていると感じられるだけだったのが、みるみる真新しい花柄のワンピースを着て、カチーフで顔を包むなど、姿がキレイになり、悪びれなくなったのである。

 風呂敷くらいの大きさがあるカチーフは、花をプリントしてあったり、これを三角に折って、折り目を額の上に当て、下にさがる両端をアゴの下で結ぶというシャレッ気は、米軍基地で暮らすGIの女房たちからの見よう見まねだったのであろう。顔がカチーフで囲まれると不思議に美人らしくなるため、堅気の娘たちまでがマネをして、ファッションの第一号となった。

(つづく)

2021年8月18日

吉田ハムさんがガリ版を切った同人誌「五番線」創刊号

 経済評論家・鈴田敦之さんが連絡部時代の先輩・吉田公一さん(2021年7月12日逝去98歳)を偲んだ追悼録。同人誌「五番線」の詳細が吉田勉編著『新章九十年史』(自費出版1989年刊)にあった。

  昭和26年6月9日―電話通信課同人誌『五番線』創刊号発刊。

  「どうやら誕生のうぶ声を挙げ得たということを皆様と共に喜びたいと思います」(吉田公一)——昭和31年12月発行の第8号まで続き、社内の注目を集めた。

  創刊号はガリ版刷り。吉田ハムさん(社会部では吉田姓が他にもいたので、ハムさんと呼んでいた)がガリ版を切った、とある。

 9月18日に第2号。「よし、3号も、という気になります」とあとがきにハムさんが書いているが、12月に発行した第3号の編集責任者は坂本充郎(のち政治部、地方自治専門)鈴田敦之、青木茂の3人にバトンタッチしている。出しゃばらないハムさんらしい。

 『新章九十年史』には「五番線」全号の目次と、主だった原稿が採録されている。残念ながらハムさんの文章は載っていない。

 その代わり89年4月3日勉さんに届いた手紙が採録されている。

 ハムさんは1947(昭和22)年12月入社。61(昭和36)年4月内信部。71(昭和46)年2月社会部。77(昭和52)年新社発足に伴い退社。

 《29年11ヶ月の在社を、前中後期と分けると、前期の連絡は約13年いた。当たり前のことだが、青春時代であり、仕事も遊びも思い切ってやれた》

 《社会部時代で楽しかったのは、浅草の東支局の5年間だった。染太郎のおばちゃん、神谷バーの渋谷支配人など、下町の心のふれあいがうれしかった。あの昭和50年前後、東支局から出稿した街ダネには「また〇〇が消えていく」という歴史・人情ものが多かった》

  いつもニコニコ、温顔で怒った顔を見たことがなかった。

 『新章九十年史』を制作・発行した吉田勉さん(2003年没70歳)。1988(昭和63)年2月1日に毎日新聞社が速記を廃止した年に定年退職した速記者で、東京本社連絡部にあった昭和6年から42年までの3冊の部内連絡帳を、習い始めのワープロで打ち込み、それ以前の電話電信、速記史をまとめた。B5判、本文745ページの大部なものだ。

 速記の廃止に伴い《さよなら「電話速記」》を「記者の目」に書いた。

 速記が新聞に導入されたのは、1899(明治32)年2月1日で、その生みの親は、当時の大阪毎日新聞社長の原敬(のち首相)だった。

 速記者の特ダネとして、1950(昭和25)年3月1日、当時の池田勇人蔵相(のち首相)が国会で「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」と発言した。それを速記録から起こして紙面に掲載、特ダネとなった。速記録が動かぬ証拠となったというのだ。もっとも池田蔵相の放言としては、その年12月の「貧乏人は麦を食え」の方が有名だが。

(堤  哲)

2021年8月17日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」②

二つの選集

前列左から2人目=重光葵大使、後列左から5人目=森正蔵氏。1939年ごろ、モスクワ大使館公邸で

 外国から帰って何回か引っ越しを重ねた。そのたびに物を整理したが、今でも手許に置いている選集がある。谷崎潤一郎と井上靖の文豪作品だ。どちらも昭和二十年も半ばの出版で、父は敗戦直後の新聞社で社会部長の職にあった。すべてがまっさらな社会。どんなことでも書ける。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の厳しい検閲が待っていたものの、輝かしい未来を予言する社会面づくりに全力を費やした。GHQで働くタイプライター嬢、上野の地下道で生活する少年たちなどを描いた連載「東京24時間」は、読みごたえがある。

 そこに昭和二十三年、思わぬ異動の話が持ち上がる。出版局長への転出である。生涯一記者を志していたので、この職には熱い意義を感じていた。部内にも残留を求める同輩が少なくなかったという。だが父は、あえて出版の道を選んだ。大学でロシア語を専攻し、ゴーリキーやトルストイなどの文学に親しみ、一時は小説家を志望したほどだから、思うところがあったのだろう。

 世の中は出版ブームにわいていた。だが紙がない。その点、新聞社は製紙会社とは縁が深い。GHQとの交渉次第で紙は、そんなに苦労しなくても手に入る。出版局にも日の目が来る時だと考えた。

 最初に思いついたのは谷崎さんへ新作を依頼することだった。谷崎さんとは京都支局時代からの知己であった。「少将滋幹(しげもと)の母」を書いてくれることとなった。これは王朝物の時代小説。戦後の谷崎文学の傑作の一つで、多くの作家や文芸評論家から賞讃された作品ある。作者自身の幼い頃の母の記と、永遠の女性像を二重写しにしている作品でもある。

 新聞連載が終わり、豪華本の型見本が出来上がった。装丁は安田靫彦(ゆきひこ)。当時としては珍しいカラー印刷だ。

 それを熱海の谷崎さんに届ける日、僕は父から「今日は偉い先生にお目にかかるのだから、大人しくしているんだよ」と諭された。会社から車が迎えに来た。連合軍から払い下げられた米国製のシボレーである。右側の助手席にはおかもちに入った新鮮な魚が飛び跳ねている。食通の谷崎さんに食べて頂こうと父が築地の河岸から取り寄せたものだ。

 伊豆山の谷崎邸に着いた。谷崎さんはにこにこと僕らを迎えてくださった。谷崎さんは「今どき上出来ですね」とご満悦だったいう。だが小学生の僕には、二人の会話はさっぱり分からない。十分もしないうちに、僕は運転手さんの元へ戻り父の戻るのを待った。父から言われた「お暇をする時は、お座布団を裏返して」という言いつけを守って…。父はその日の日記に

 「大作家に会ったことを、どれだけ覚えてくれるだろうか」と記している。

 父の命日の一月十一日は、毎年かつての同僚が夭折した父をしのんで酒を酌み交わした。その宴は三十三回忌にまで及んだ。いま、その寄せ書き帖が残っている。「森は生きている」といった揮毫のなかに「井上靖」と名前だけが、遠慮がちに記されているのが目につく。

 戦争が激しくなり情報源が東京に集中したこともあって、腕利き記者が東京に集められた。井上さんは大阪本社へ入社、学芸部に配属された。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。玉音放送の時も東京社会部にいた。 

 そして社会面を埋める原稿を書く。


 頭を挙げ得るものは一人もいない。

 正午の時報がある。ついで君が代の曲が奏でられる。敵弾に破られまさに沈み行こうとする艦の上で聞く君が代にも等しい。

 その曲が終わる。そして「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み……」拡声器から流れる玉音である。畏れおおい。無念だ。誰もの目からは降り落ちる涙、そしてやがてそこからもここからも聞こえてくる嗚咽。それがだんだんと繁く大きくなって来る。地でまろどんで慟哭したいところを一心に我慢しているのである。そして御一言も聞き漏らすまいと皆が努力している。玉音にも御うるみが拝されるではないか。ああ何たる畏れおおいことか。御放送は終わった。


 それから五年。井上さんは「闘牛」で芥川賞を受賞した。土佐(高知県)を舞台にした、闘牛の興行師と地元新聞記者の物語である。正賞はスイス製の懐中時計、副賞は五十万円だった。大学の初任給が四千二百円、ラーメンが一杯二十円の時代である。いまのように高い賞金や豪華な賞品がつく賞などなく、芥川賞は地位と名誉を象徴する存在だった。だから周囲の妬みや羨望は、考えられないほど強かった。

 井上さんも、その淵に立たされた。悩んだ末、井上さんは父に相談する。父は「次の作品ができるまで社に留まるように」と、出版局付きという席を特別に設けて、井上さんを守った。井上さんは下山事件を題材にした「黯(くろ)い潮」で、毎日の記者たちを描いているが、あくまでもノンフィクションの世界でのことだ。芥川賞を受賞したころの気持ちが残っていないのは残念だ。

 以下は、父森正蔵が出版交渉に谷崎邸を初めて訪れた時の日記である


 昭和二十五年八月二十日(日曜日)  雨  ― 熱海へ、雪後庵訪問 ―

 家を出る時には降っていなかったが途中で雨となった。東京駅の東口に自動車を降りてみると、出札口の前は一ぱいの人だかり。とても順番を待っていては切符を買うことが出来ないので、一番先頭にいる学生に頼んで、熱海までの一等の切符を一枚買って貰って、ようやく発車の間に合う。私の乗る九時五十五分発の電車はすでに大変な混雑である。こうなれば二等も三等もあったものでなく、その混雑は新橋、品川あたりからいよいよひどくなったが、藤沢を過ぎると、また幾分かやわらいだ。十二時過ぎじゃんじゃん雨の降る熱海駅に着く。そこで谷崎潤一郎氏の秘書の小滝に会う。同じ電車に乗っていたのである。

 駅前で自動車を雇う。これがまた大変である。後で谷崎氏とも話したことだが、これは観光地熱海の大きな欠点である。自動車は次ら次へと来るのだが、各旅館の客引き男に横取りされて、それぞれの旅館に泊まる客がそれに乗って先に行ってしまう。旅館につながりのないわれわれのような旅行者は待てど暮らせど、自分の乗れる自動車を掴まえることは出来ないのである。それでも半時間も待ってやっと一台を手にした。つまり旅館行きの客が一通りさばかれた後である。

 谷崎氏の新居雪後庵は仲田と言うところにある。誰かの別荘を買ったもので、「細雪」の出来た後の住居であるというのが、雪後庵の名の来るところだという。きわめて狭い玄関、靴を脱ぐと、そこに小さな卓と小倚子三、四が置いてある。同じく狭いまく雑巾がかけられて、艶の出た廊下を通って突当りを右に折れると六畳の日本間になる。そこへ通された。客間であろう。左手の上席に私が座り、谷水、小滝がこれに続く。部屋にはマホガニーの木目の美しいピアノが置いてあった。天井の低い数寄屋造りの一室である。中央にかなり大きな木の卓、水色の麻の座布団。庭も狭い。そして余り手の入った跡もない百合の花がしぼんで、降る雨に打たれていた。

 隣が茶の間らしく、昼食の後でもあろうか、食器を取り片づける音が聞こえていたが、やがてその部室のあたりから主人が現れた。薄い麻の関西ではジンベという丈の短い着物を着ている。挨拶が終わるなり「少将滋幹の母」の話に移った。小滝が今日も装幀本を五冊提げて来た。谷崎氏は非常な喜びかたで、この本の出来栄えを誉めた。戦前にもこれくらいの本は出たことがなかったと言っている。慾を言えば本文の印刷がもう少しうまく行ったら ― と思うと言った。そして函にもう少しゆとりがあった方がよかったとも言った。京都でこの本の見本刷一冊が届いた時に舟橋聖一が来ていたが、大そう驚いていた。舟橋と一緒に来ていた舟橋の娘が「お父さんの本は何だってくだらぬ装幀ものばかりなんでしょう」と言ったのに対して舟橋は、何の言葉もよう出さなかったそうである。「少将滋幹の母」は今度「東おどり」で上演されることになっていて、その脚色を舟橋が引き受けている。今晩はそれについての打合せのため舟橋に招かれているのだ ― と言っていた。それから話はいろいろのことに及ぶ。

 主人はもう一度支那に行きたいそうである。殊に北京で暫らく暮らしてみたいという。谷崎氏の作品を英訳したエリセーエフというアメリカにいる日本語学者のことにも及んだので、それは今東京のフランス大使館にいるエリセーエフの一族であろうということも話題となり、私がエリセーエフはモスクワの現在の第一ゴストロノム(註:百貨店)の前身エリセーエフ食糧品店の主人の一族であることを話すと、谷崎氏もそのことを知っていた。

 雪後庵では今、書斎の新築が進んでいる。ものを書くのに、家人との連絡を絶つが望ましいというところから、今建ちかかっている書斎は、他の部屋から直接行き来できないようになっている。一度庭下駄を履いて庭に降り、雨の降る日は傘をさして、そこへ行かねばならぬのである。

 話題はなおいくつもあった。尽きるところのない話である。主人は非常に満悦らしく実によく語り、私たちが帰るというのに、まだ帰らしたくないような様子に見えたが、二時間近くも喋ったので、自動車を呼んでもらって辞去することにした。夫人は何度も客間に出て来て茶菓を自ら接待してくれた。きれいな若い夫人だった。

(つづく)

 ※森桂さんの父、正蔵さんは明治33年7月滋賀県生まれ。大正13年大阪毎日新聞入社。ハルビン支局長、モスクワ特派員、大阪本社ロシア課長、東京本社論説委員を経て、昭和20年社会部長、編集局次長,出版局長、同26年取締役。同28年1月病没  著書『旋風二十年―解禁昭和裏面史』は昭和20年12月に発行され、満州事変など戦争中に国民に知らされていなかった事実を明らかにし、ベストセラーになった。写真は2009年に「ちくま学芸文庫」として復刻されたもの。

2021年8月16日

58年前、有楽町時代の社会部出番表があった‼

 社会部旧友・倉嶋康さん(88歳)はFacebookで、記者生活の自伝を連載している。そこに社会部の黒板の写真が載っていた。

 58年前の1963(昭和38)年5月23日(木)と24日(金)の内勤出番表である。むろん有楽町駅前に毎日新聞東京本社があった時代である。

 倉嶋さんは宿直勤務になっている。2方面(大崎警察署)のサツ回りだった。懐かしい名前ばかりなので、フルネームで再現してみる。

 まず黒板の左側から。

1963(昭和38)年5月23日(木)
デスク:夕刊=末安輝雄、朝刊=柳本見一
夜勤:藤原康彦、大澤栄作、植竹英樹
宿直:倉嶋康、大桶浩、太田稀喜
遊軍:浅野弘次、吉野正弘、吉沢敏夫、田中浩、中野謙二、丹羽郁夫、岩崎繁夫、小峰澄夫、吉岡忠雄
宿明:木下剛、中村均、近藤健
公休:浦野勝三、石谷竜生、浜田禎三

 次に右側。

5月24日(金)
デスク:夕刊=村山武次、朝刊=末安輝雄
夜勤:坂野将受、田中浩、山本祐司
宿直:吉沢敏夫、前田行男、堀井淳夫
遊軍:吉野正弘、浦野勝三、田中久生、小峰澄夫、吉岡忠雄、石谷竜生、浜田禎三、丹羽郁夫、飯泉栄次郎
宿明:倉嶋康、大桶浩、太田稀喜
公休:浅野弘次、中野謙二
備考:塚田暢利、原田三朗、堀込藤一=組合出張20~24日

 1日経つと、今度は左側に25日(土)の出番表が書き込まれる。

 私(堤)はこの年の秋に入社試験を受け、翌64年4月に入社した。初任地は長野支局だった。黒板にあるデスクの末安輝雄さん(49年入社。山内大介、渡辺襄の元社長2人、安倍晋太郎と同期)は、翌65年2月の異動で長野支局長としてやってきた。末安さんが横浜支局長になって、後任の長野支局長が村山武次さん(48年入社)、さらに一代置いて坂野将受さん(53年入社)、その後倉嶋さんも務めた。倉嶋さんは98長野冬季五輪を控え、スポニチの初代長野支局長に転進した。父親は長野市長2期、革新市長だった。

 社会部長はパリ特派員だった角田明さん。筆頭デスク立川熊之助さん。デスクは非番の佐々木武惟さんと出番表にある3人を含め計5人。

 警視庁キャップは藤野好太朗さん。実家の浅草寺仲見世・煎餅かわち屋は今も営業している。前任警視庁キャップの牧内節男さん(8月31日に96歳の誕生日を迎える。多分社会部旧友会最長老)は遊軍長だった。「大阪社会部から東西交流で来ていた立川筆頭デスクは、この年の8月に大阪本社社会部長になった。その時、白木東洋(55年入社)と2人が大阪に連れて行かれた。私は大阪社会部のデスクとなった」といっていた。

 最若手は、61年入社の山本祐司さん。当時の社会部の名簿の右隣に60年入社松尾康二さん(84歳)。エビセンと呼ばれていたが、後にカルビー会長を務めた。

 62年入社の瀬下恵介さんが八王子支局、冨田淳一郎さん(82歳)が武蔵野支局に名前がある。

 ちなみに編集局長斎藤栄一、編集局次長滝本久雄、田中菊次郎、政治部長小林幸三郎、経済部長福井信吉、学芸部長村松喬、科学部長福湯豊、運動部長仁藤正俊、地方部長若月五郎、地方取材部長土師二三生、外信部長大森実、写真部長日沢四郎、論説委員長橘善守、副委員長藤田信勝、林三郎、山本正雄の各氏だった。

(堤  哲)

2021年8月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その15 子安観音の石像と女人講(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新

全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454520.html?fbclid=IwAR2GqTEL8F5um6L4WWsXfiPEb923rakaIlpQsWAubjWzNyVFfq29-TNNg_I

 わが家のおばあさんネコの掛かりつけの病院が、船橋大神宮(意富比神社)の近くにある。名前はサリー。もうすぐ16歳になる。「猫年齢早見表」によると、人間の年齢なら80歳に相当する。ひと月ほど前のことになるが、そのおばあさんネコが食事をとらなくなり、しきりになにか吐いている。ふだんよくみる毛玉ともちがう。妻も私も心配でたまらない。居ても立ってもいられなくなり、動物病院で診てもらうことにした。

 
薬師堂に祀られた子安観音の石像。船橋市宮本6-26

 昨年来のコロナ渦のあおりで、動物病院の館内に入れる付き添いは1人に制限されていたので、私は外で待っていた。隣は瓦葺き木造平屋建ての風薬師堂に祀られた子安観音の石像。船橋市宮本6-26情のある建物がしばらく前まで残っていた。米屋だったということだが、いまは有料駐車場になっている。その角を曲がったつきあたりに瓦葺き平屋の建物があり、切妻の壁に薬師堂と書いているのが見えた。薬師如来といえば、治病や延命の仏様である。さらに乳薬師とか夜泣き薬師などと称される変種もあって、安産や子育ての仏様として庶民信仰の篤い対象になってきた。

 行ってみると、お堂は鍵が掛かり、本尊も厨子の扉が閉じられていた。お賽銭をあげて、病院に戻ろうとして、お堂の手前に幼児に乳を飲ませる不思議な石仏像が祀られているのに気づいた。地蔵菩薩が幼児を抱いた石像は、いまでもあちこちで見られるが、その意匠とも明らかに違ったものである。

 近づいてよく見ると、仏は胸をはだけて乳房を露わにし、右手で幼児を抱き、乳を飲ませている。それにたいして、幼児の方は両足をふんばって胸元にしがみつき、乳房にむしゃぶりついている。仏が左手に持つのは、とうぜん、蓮の花だろう。なんという仏か分からないが、どこにもいるありふれた俗人女性の姿に化身して現われ、献身的に安産と育児を守護してくれているのであろう。

 仏が腰をおろす台座には「女人講中」とあるが、願主の個人名はない。そのほかに刻まれた銘は「天保十二丑(1841)年三月吉日」とあるのみである。改めて仏の顔に眼をやると、人前で平気で乳房を露わにする大らかさと裏腹に、うつむきかげんに目を伏せた表情は、どことなく憂いをおびて気高く感じられる。

 石仏像はこのほかに2基ある。隣の1基は銘もなにもないが、よくある弘法大師像である。もう1基は「上丁子共(上町の子ども)」とあることから、地蔵菩薩ではないかと思われる。そのさらに1つ隣に、これは仏像ではないが、丸みを帯びた平たい自然石が置かれている。確証はないが、ひょっとすると、女性の性器に見立てた道祖神ではないかと思われる。3基の石仏像との間に境界を設けているが、明治時代初期の神仏分離までは、3基の石仏と一緒に崇められていたかもしれない。

 薬師堂から動物病院に戻るとまもなく、妻がサリーを連れて病院から出てきた。診察の結果をきくと、血液検査のデータは正常だし、いまは吐き出すべき異物も体内には見あたらないといわれたという。そこで妻が2、3日前の出来事を思い出し、トリの手羽元を盗み食いして、骨まで食べていたと話すと、トリの骨は危険だから、食べさせてはいけない、はっきりと断定はできないが、その骨が腸のどこかに突き刺さり、それを無理に吐き出そうとして内壁を傷つけた可能性がある、というのである。サリーの体調不良は原因がはっきりしないが、とりあえず治療の必要はなく、体力増強の点滴をしてもらっただけで、その日のうちにすっかり元気になった。

 薬師堂をお参りしたのは、ぐうぜんの出来心でしかないし、その場しのぎの神頼みで賽銭をあげたにすぎない。しかし、胸をはだけて幼児に乳を与える仏の姿は、私に衝撃的な印象をあたえた。わが家のおばあさんネコの一大事から1週間後、今度はカメラと三脚をもって、改めて薬師堂を訪れることにした。

 その途中、船橋大神宮のすぐそばにある東光寺に立ち寄ってみた。この寺院は『江戸名所図会』でも取りあげられていて、明治の神仏分離までは船橋大神宮と同じ境内にあり、天道念仏を執り行っていたことで知られる。天道念仏の面影を伝えるものは見当たらなかったが、代わりに思ってもいなかったものを見つけた。なんというべきか、これから行こうとする薬師堂の石仏像と同じ形式のものが、寺の一画に祀られていたのである。

 お寺に尋ねてみると、子安観音と呼ばれていて、幼くして亡くなった子どもを供養するため、若い世代の女性たちが建てたものだという。東光寺の石仏像は「天保十亥年」とあるから、薬師堂のものより2年前の建立になる。台座は二重になっていて、それぞれ「女人講中」、「深川講中」と刻んでいる。「深川」は江戸の深川かと思われる。こちらの台座は石仏像と材質が違っている。あるいは建立当初はなかったのかもしれない。

 帰りがけに船橋中央図書館で、子安観音の信仰について調べてみた。というのも、薬師堂の周りで地元の人から話を聞くつもりでいたのだが、これがとんでもない見込み違いだった。周りに住んでいる人や通りすがりの誰に尋ねても、一致して知らないという答えしか返ってこなかったのである。

 子安観音信仰の中心的な役割を担ったのは、『船橋市史』によれば、女たちだけで構成され女人講で、その前身は十九夜講とも女人念仏とも呼ばれたという。

 子安講の前身は十九夜講で毎月十九日の夜集まり念仏などを唱えており女人念仏ともいわれた。十九夜の主尊である如意輪観音を信仰していたが、近世末期に十九夜講は安産子育てを祈念する子安講に移行して、本来儀軌にない子安観音を主尊とすることが多くなり、明治から近年にかけて子供を抱いた子安観音が盛んに造立されるようになった。

 また別のところでは、こうも書かれている。

 しかし江戸時代中期の安永年間(1772-80)ころから子安信仰がひろまってきた。二世安楽を願う女人信仰から現世利益へとむかったといわれる。その結果、如意輪観音に幼児を抱かせた「子安観音」の像が創案され、十九夜講と子安講と年齢による区分を行って並立する地域も出てきた。

 同じ『船橋市史』からの引用だが、前者と後者では記述内容に矛盾がある。また事実関係の誤りもある。しかし、そうしたことを考慮に入れても、この2つの記述から子安信仰の歴史や子安観音の由緒を大雑把にうかがえるように思われる。

 江戸時代の中期か末期に、それまでの十九夜講は子安講に変容していった。それにともない、主尊として祀られてきた如意輪観音も、それまでの半跏思惟像から転じて、子どもを抱く子安像が案出された。墓地や道端で多く目にする如意輪観音像は、両足を組んで腰をおろし、右ひじをひざにつき、右手を頬にふれて思索する姿である。この如意輪観音像に、右手で子供を抱かせ、左手に蓮の花を持たせたのが子安観音像というわけである。(中略)

 私は子どもを亡くした体験がある。生まれたばかりで、まだ出生届もすませていなかった。北九州市にある毎日新聞西部本社に赴任中のことである。このとき、産院と市役所で、水子として取り扱うかどうかを問われた。生まれたばかりといっても、ごみくずといっしょくたにするわけにはいかない。無性に腹が立ち、情なかった。火葬場で骨にしてもらったあと、父親に連絡をとり、先祖代々の墓に納めるつもりだといって承知してもらった。

 五来重の『石の宗教』に「石像如意輪観音と女人講」という短い論考がある。五来重は宗教民俗学者で、専門的に取りくんだ研究対象は庶民信仰だった。1909(明治四十二)年、茨城県日立市生まれだが、この論考によれば、少年時代に如意輪観音の石仏を見る機会が多かった。しかし、その印象はまことに暗かった。というのも、この石仏は間引きされた子どもの供養のために建てられたという風評があったからだ、というのである。

 如意輪観音石像には、多く女人講中が建てた銘がある。貧困女性たちはその悩みを女性だけの女人講で語り、心の痛みをこの石仏に託したのであろうとおもう。その講世話人は宗門改めなどする菩提寺の住職ではなくて、放浪してきて村の観音堂や地蔵堂に住みこんだ道心者か六十六部であったろう。

 文中にある貧困女性たちの「その悩み」とは、いうまでもなく間引のことである。間引は貧困の女性たちのギリギリの罪業であり、一種の自己防衛であったし、間引かなければならない胎児も多数生まれた、とも五来重は述べている。

 「七歳までは神のうち」という諺がある。昔は死産が少なくなかった。医学も医療制度も未発達だったから、無事に生まれても、天然痘その他の流行病に感染すると、命を落とす危険性も高かった。もう1つは、口減らしのための間引きの問題があった。同書によれば、間引きは現在とちがって、江戸時代には刑法上の罪を問われることはなかった、ということである。どういうことかといえば、人間の誕生と育児は人知のおよばない神仏の支配する領域の出来事に見立てられていたのである。

 柳田國男の「故郷七十年」に間引絵馬のことが出てくる。13歳というから明治20(1887)年ごろ、茨城県利根町布川に住んだことがあった。この町へ移ってきて驚いたのは、どこの家でも一軒に男子と女子の2人しか子どもがいないことだった。柳田が私は兄弟が8人だと話すと、そんなにたくさんの子どもを作って、「どうするつもりだ」と町の人たちは目を丸くした、というのである。

 約二年間を過ごした利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。

 その図柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている。

 それより7年前、柳田は6歳のときに、兵庫県加西市北条町で飢饉を体験している。長じて国家官僚として農政にたずさわる一方、民俗学の研究に生涯をささげたわけだが、そのきっかけは、少年時代に貧困のもたらす悲惨な情況を目の当たりにしたことにある、と同じ「故郷七十年」で回想している。

 十九夜講や子安講にまつわる『船橋市史』の記述には、間引の言葉はまったく出てこない。そうだからといって、この地域の女性たちの文化遺産ともいうべき石造子安観音像が、間引という禍々しい歴史的体験と無縁であったとは考えにくいのである。

2021年8月13日

思い出すままにーー森 桂さんの「つれづれ抄」①

 僕はいま病院にいる。狭心症の発作を起こし手術をしたが、その際に細菌が体中を巡り、四十度近い高熱に見舞われて長期の療養を強いられているのだ。いい機会だ、頭がしっかりしているうちに、めぐりあった人たちの思い出をしたためてみよう。しばらくご辛抱を――

麻子

 いまでは懐かしくなったドーナツ盤が、勇ましい軍歌を奏でていた。昭和五十年だったと思う。銀座七丁目のバー「麻」。戦後の爪痕が残ってはいないが、そんな雰囲気が漂う。小部屋のような空間には、客が訪れることは少ない。エレベーターのない寒々とした四階まで登って来る呑兵衛はめっきり少なくなっていたからだ。

安岡章太郎さん

 「異国の丘」「軍艦行進曲」「ラバウル小唄」……ドーナツ盤から勇ましい軍歌が流れる。すぐそばでママの麻子はへぼ将棋をしているのだ。お相手は作家の安岡章太郎さん。軍歌が途切れる。「ほら森、次の曲、次の曲」。聞いていないと思ったら、ちゃんと聞いている。将棋を打つ乾いた音が続く。すると今度は「先生に氷を入れて、薄く注ぎ足して」。商売も忘れていない。

 麻子は気仙沼育ち。半農半漁の家で細々と暮らしをたてていた。東京に憧れ中学を卒業してから上京。銀座の高級クラブのホステスにたどり着く。その間にどんな苦労があったか、彼女は多くを語らなかった。こちらも、何か聞いてはならない気がして聞かなかった。

 好景気に沸いていたころのクラブは、金持ちの社交場だった。客を相手にするホステスはほとんどが大金持ちになった。そこに大作家が加わった。編集者との打ち合わせはクラブが舞台となっていたから。作家もクラブで働く彼女たちの生きざまを描く。川口松太郎の小説「夜の蝶」はその代表だろうか。

 

 麻子は文学少女だった。読書量の多さが会話の中でうかがわれた。「麻」は、客が歳を取り、四階まで登って来られなくなったので、二十数年の歴史に幕を閉じた、その後、以前いたクラブの名をとって駒込に小さな店を開いた。何度か顔を出したが、往年の面影はなく客層も変わって、足は遠のいてしまった。

 十数年たって、三笠会館で開かれた「久保田万太郎さんをしのぶ会」の集まりで、安岡さんにお目にかかった時、「麻子」の話が出た。安岡さんは、つい昨日のように「懐かしいな」と目を細めておられた。しゃがれ声だった麻子。どこで余生を送っているだろうか。

「アンダンテ」

 新宿ゴールデン街のはずれにあった。馬蹄型のテーブルに、七、八人も座れば満席となる。秩父の山奥から取り寄せたという、透き通った氷がカウンター越しにみなぎっている。いつも満員で二、三十分も立ち飲みしなければ座れないことも。

佐藤陽子さん

 店の名は「アンダンテ」。ママは、なっちゃん。女子大を卒業したばかりの姿で客をあしらう。アンダンテで頭に浮かぶのはモーツアルトの、「フルートのためのアンダンテ」。なっちゃんにそのことを聞くと「私も好きよ」と認め、大いに盛り上がった。

 

 常連客は多彩だ。当時は挿絵画家で知られ、後に小説や随筆をも書くようになった司修さん。大柄の体を持て余すように、にこにこと話に耳を傾けている。ヴァイオリニストの佐藤陽子さんも名器を持って、ちょくちょく訪れた。その日も佐藤さんに「ベートーベンのヴァイオリン・ソナタのうちで何が一番好きですか」と伺うと、「七番」と即座に答え、ケースから楽器を取り出して弾こうとするので、聞きたかったけれどもご遠慮していただいた。

冨士眞奈美さん

 冨士眞奈美さんもその一人。彼女が入って来ると、その場が華やぐ。世間話に興がのったころ、なっちゃんが「冨士さん、お嬢ちゃんから電話」と伝える。冨士さんは「じゃすぐに帰るからね」と言って電話を切り、「宿題が判らないから教えて、と言っているので家に戻るけど、その話、続けておいてね」と言って姿を消した。彼女はもう夜が白みかけたころに話に加わったが、さっきの話はとっくに終わって次に移っていた。

 「アンダンテ」には、家族のような空気が流れて、時間に追われる仕事に携わっている身にとっては、ほっとする瞬間があった。いまでも、その光景を思い浮かべるのである。

 冨士さんの秀作。

  海底のやうに昏れゆき梅雨の月
  まず足の指より洗ふ長き夜

 もう、お仕舞にしようかと話し合っている時、ふらりと男性が現れた。どこかで見た人だ。「あら先生、お久しぶり」。なっちゃんが手を止めて、客を招き入れる。すぐに、その人は作家の野間宏さんだと分かった。野間さんの名は知っているけれど、代表作の一つ「真空地帯」しか読んでいない。それもかなり苦労して。人間を非人間的な兵士に変えてゆく、旧軍隊と戦争の本質を問う作品ぐらいしか知識はない。

 客は僕のほかは、一組のカップルしかいない。なっちゃんと手伝いの妹さんは明日の準備と跡かたづけで手いっぱいだ。僕は父が新聞記者だったこと、大本営は戦争犯罪を隠し通し、国民を欺いた実相を暴いた「旋風二十年」という単行本が、戦後初のベストセラーになったことなどを懸命で話した。野間さんは父の名前をご存じで、じっと前を見つめながら聞いてくださっていた。

 話が途切れた時、野間さんは「もう一軒行きましょうか」とおっしゃる。夜更けである。空いている店はあるのだろうか、心配になったが、その店は馴染みらしく照明を点けてわれわれを招じてくれた。小一時間経ってお勘定となった。野間さんはゆっくりと内ポケットに手を入れ財布を探している。そのとたん、背後で「財布を忘れた」という静かな声がした。僕はその日はちょうど給料日で、決して安くはないお勘定を支払った。

 数週間たって「アンダンテ」に立ち寄ったら、野間さんの姿があった。連日のように僕を待っておられたそうだ。(つづく) 

(森 桂)

※森 桂さんは昭和16年10月東京生まれ、41年4月、東京本社入社。横浜支局、宇都宮支局、外信部、社会部、学生新聞編集部、事業部を歴任。平成7年9月 東京本社文化報道センタ―編集委員で退職。

2021年8月10日

漫画家、サトウサンペイさんを発掘した「夕刊新大阪」小谷正一さん

 ——作家や画家などの若い頃の作品を「若書き」といい、勢いを感じさせるものが多い。サトウサンペイさんの場合、入社試験の履歴書を漫画で描いたというから、相当な大胆さである▼産声をあげた頃、そして戦中戦後の自分を絵にして、短い文も添えた。面白い奴(やつ)だという重役もいて、百貨店に採用され宣伝部で働き始めた。さらにはその話を聞きつけた夕刊紙の幹部から、うちで描かないかと誘われた▼そうやって漫画家サトウサンペイが生まれた…

 8月7日付朝日新聞朝刊1面「天声人語」である。

 サトウサンペイさん(7月31日逝去、91歳)が漫画家となるきっかけを作った「夕刊紙の幹部」とは、元毎日新聞の記者・小谷正一さん(1992年没、80歳)である。

 小谷さんのことは、この毎友会HP追悼録(2021年7月15日)で天才ヴァイオリニスト・辻久子さん(ことし7月13日没、95歳)を売り出した伝説のイベントプロデューサーとして取り上げた。

 小谷さんが亡くなって1年後に開かれた偲ぶ会には、辻久子さんも、サトウサンペイさんも参加している。

 夕刊紙とは、1946(昭和21)年2月4日に創刊した「夕刊新大阪」である。GHQ(連合国軍総司令部)が新聞用紙の割り当てを管理、毎日新聞、朝日新聞は朝刊2ページしか発行できなかった。一方で新たに創刊する新聞には用紙を割り当てたことから、各社とも系列の夕刊紙を発行した。「夕刊新大阪」は、毎日新聞大阪本社内に編集局を置き、印刷も毎日本社で行った、と『毎日新聞百年史』にある。

 創刊当時のスタッフは、編集局長・黒崎貞治郎、編集総務兼報道部長・後藤基治、整理兼企画部長・小谷正一ら。毎日新聞から出向した。

 朝日新聞は「大阪日日新聞」、産経新聞は「大阪新聞」を系列紙とした。

 「夕刊新大阪」創刊からのことを書いたノンフィクション、足立巻一著『夕刊流星号』(新潮社1981年刊)を紹介した記事を見つけた。

1981年11月20日付毎日新聞夕刊

 1981年11月20日付毎日新聞夕刊で、筆者は、当時編集委員の四方洋さん(2016年没、80歳)である。

 記事の中に、サトウサンペイさんの漫画を連載する経緯もある。

 《小谷さんのところへ大丸(百貨店)の宣伝部員が遊びに来た。「おもろい人間おらんのかい」「リレキ書をマンガで書いた新入社員がおります」「それ、つれてきてくれ」。男がやってきた。「連載やらんか」。シリごみするのを描かせた。第一回は「飛行機から宣伝ビラをまいたら、海の中へ落ちる。デパートで大売り出しの日、やってきたのはサカナばっかりだった。小谷さんは四コママンガを見て腹をかかえて笑った》

 井上靖は小説『闘牛』で芥川賞を受賞したが、そのモデルは「夕刊新大阪」の小谷正一さんである。

 この闘牛大会は小谷さんが企画した。毎日新聞入社同期の井上靖は、このイベントに興味を持って、小谷さんから取材をした。

 毎日新聞1950年2月2日朝刊に井上靖が「『闘牛』について」を寄稿している。

1947年1月14日付「夕刊新大阪」社告

 《廿二年一月新大阪新聞社主催で闘牛大会が西宮球場で開かれた。…一日私も闘牛見物に会場に出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に祟られてその日の入場者は極めて少なかった。リングの中央で、角を突き合せたなりで微動だにせぬ二頭の牛。それを取巻くまばらな観客。垂れ下がっているのぼり。スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。その会場に立ちこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げて来た》

 《この闘牛大会は新聞社の事業としては宣伝効果からしても大きな成功をおさめ新大阪はために盛名を天下にとどろかした》

 「夕刊新大阪」は、復刻版が不二出版から刊行されている。足立巻一さんが提供して兵庫県立図書館が所蔵しているものだ。

(堤  哲)

2021年7月26日

元エコノミスト編集長、高谷尚志さんが、舟木一夫さんの「高校三年生」の想い出を――フェイスブック「もういくつ寝ると<ユルリとね>」第559話転載

 赤い夕陽が校舎を…。高校三年生・舟木一夫
 モデルの学校は私が育った地区の女子高校だった
 丘灯至夫作詞、遠藤実作曲。「高校三年生」

 数々の名曲を作詞した丘灯至夫氏、いくつかの仕事へて毎日新聞の記者。

 作詞家となった後も毎日新聞社には籍を置き続けており1972年に毎日新聞社を定年退職している。その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ出版局特別嘱託となる。 主に「毎日グラフ」の記者。 ということなので私より5歳ぐらい上の方は、「毎日グラフ」で丘灯至夫氏と一緒に仕事をしておりその思い出を、毎日新聞 OB の交流サイトに掲載しておりました。大島幸夫さん。

 丘灯至夫というペンネームは、新聞記者は「押しと顔」(オシトカオ)である。

 また毎日グラフ編集部とアサヒグラフ編集部の対抗野球大会があった時には、丘灯至夫さんの配慮で日活ロマンポルノ田中真理さんが応援に駆けつけてくれたなんていうのも紹介しておりました。なんとも羨ましい。

 「高校三年生」には実は思い出がありまして、車を運転していてカーラジオをかけておりましたが多分、丘灯至夫さんだと思うんです。作曲の遠藤実さんではないとは思うんですが、まあ丘灯至夫さんということにしましょう。

 高校3年生の思い出をラジオで語っているんですね。それが強烈な記憶になっておりましたので、この際、高校三年生、丘灯至夫のネット検索をしてみました。

 そうしますと、赤い夕陽が校舎を…のモデルになったのは「松陰学園」。思わず ワナワナと震えがきました。 ここは女子高校なんです。私の家がご近所なもので、よく知っています。丘灯至夫さんが毎日グラフの仕事で「松陰学園」を取材にあがったときの印象を歌詞にまとめたとのことです。ここは世田谷区渋谷区目黒区の三つの区が接しているところ、「松陰学園」は目黒区です。

 ♪ぼくらフォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ、黒髪が~♪

 普通、男女がフォークダンスをするというと、男女共学をイメージしますよね。しかし女子高には男子はいないことになっている???

<第560話>女子高校に男子学生がいた秘密

 松陰学園は男女共学の幼稚園を併設してました。私の同学年ぐらいの男の子も松陰幼稚園に通っているのがいました.

 目黒区世田谷区渋谷区の接点の目黒区側に位置しているわけですので、三つの区から男の子女の子が通っていました。ですのでここには男子学生というか、男の子の幼児がいたことは間違いありません。

 渋谷区側の飲食店2代目男の子、松陰幼稚園に通っていて、高校卒業後は店の後を継ぐべく修行にはげみ、松陰学園にもしばしば出前を持って行ったという体験があります。廊下で小走りの女子高校生3、4人とすれ違うと、スカートの裾から女の匂いがこぼれてくる。女子高校生の集団の中に出前を持ってったこともあって、視線がこちらにじっとそそがれると恥ずかしかったな。二代目は中高一貫の男子校に進学したもんで、女子の集団には極めてナイーブな反応を示します。

 松陰学園の中には「高校3年生」の記念石碑があるのですが、二代目はそんなのがあるの?気がつかなかったなー。校門を入ると、何本か木が植わっていたけど、あれニレって言うの? 道路拡張に伴い二代目は店を閉めて、いまは全く別なところに居住しています。松陰学園を探訪された方がネットに載せておりますので、引用させていただきますと説明板には以下のように記されていました。

 作詞家丘灯至氏は昭和37年、新聞記者として高校の文化祭の取材にあたっていた。取材先として訪れた松陰学園では、当時、定時制高校があり、文化祭のリハーサルで男女の生徒が手をつなぎ、フォークダンスを踊っていた。

 そこで最初に浮かんだのが「フォークダンスの手を取れば甘くにおうよ黒髪が……」というフレーズであり、詩が作られ、遠藤実とのコンビでこの歌が生まれるに至った。

 社会に飛び立とうとする10代後半の若い人たちが夢や心を大事に、抒情性を豊かに育んでほしいという願いが、舟木一夫氏に歌われ、瞬く間に、多くの人々の心を捉え、現在も皆が声を合わせて歌える国民的な歌となっている。

 つまり定時制高校があって、そこは男女共学。つまり幼稚園と定時制には男の子がいた。松陰学園では数少ない貴重な男の子を丘灯至夫さんは目撃したことになるんですね。

 二代目は松陰学園に定時制があった?知らなかったなー。出前があっても昼か夕方で、夜は行かない、男子学生の姿は見たことがなかったなあ。

 仕事をしながら勉学をしたいという男子学生に門戸を開いた松陰学園の経営者も立派ですが、それに応じた男子学生たちもたたえるべきでしょう。おかげで後世に残る「高校3年生」神話が学園のものになったのですから。みんなこの男子学生たちのおかげです。定時制も女子ばかりだったらあの名曲は生まれなかった?!

 今は松陰学園は男女共学、定時制は今はないようです。

 高谷さんのフェイスブック。

https://www.facebook.com/profile.php?id=100005457191329

2021年7月19日

一日駅長で展望車に乗ってしまった百閒センセイ

 酒井順子著『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』(角川書店)に、百閒センセイ(当時63歳)が東京駅の一日駅長を務めたときのことが書かれている。

 制服・制帽で東京駅へ現れ、一日名誉駅長の辞令を受けた。駅構内を視察したあと、12時30分発の第3特別急行列車「はと」が発車する際、「出発進行」の合図を出すハズだった。

 ところが百閒センセイ、発車間際に最後部展望車の展望デッキに乗ってしまったのだ。

 列車は、そのまま発車、百閒センセイは熱海まで乗車したという。

 「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」
というセンセイだけのことはある。

 同行したヒマラヤ山系こと平山三郎さん(国鉄職員)には事前にこの計画を話していたようだ。

 ネットで検索すると、新潮文庫の表紙に、そのときの写真が載っている。

 1952(昭和27)年10月15日。一日駅長は、国鉄の80周年記念イベントだった。

 東京駅は百閒センセイ、新宿駅は毎日新聞OBで当時政治評論家・阿部真之助(元大阪毎日社会部長、東京日日政治部長、学芸部長を歴任。その後NHK会長)、上野駅は元日経新聞の経済評論家・小汀利得、渋谷駅は歌手の藤山一郎、有楽町駅も歌手の越路吹雪…。

 多彩である。国鉄が黒字経営の時代だった。

 図書館で毎日新聞の紙面を検索すると、その日15日の夕刊社会面に「有名人が一日駅長」という見出しで載っていた。四ツ谷駅では荒木町花街のキレイどころ7人が改札に並び、「(切符に)ハサミを入れるかたわら、乗降客に香水をシュッシュッとふりかけるというサービスぶり」。写真付きだ。

 写真はもう1枚。有楽町駅の越路吹雪で、見出しは「訓示早々コンパクト」。コーちゃんは、遅刻したらしく、訓示の後、「早速コンパクトを取り出し、女駅長のみだしなみとばかり、軽くお化粧をして構内視察を行った」。

 今から69年前である。鉄道開通は、1872(明治5)年。毎日新聞は同じ年の2月21日創刊だから、鉄道とともに、来年150年周年を迎える。

1952(昭和27)年10月15日毎日新聞夕刊

 さて、酒井さんの著書にあるもうひとりの鉄道作家・宮脇俊三さんも、取手駅で一日駅長をしている。1985(昭和60)年、58歳の時だった。

 楽しみにしていたのは「酔いつぶれた客を揺り起こしたい」。

 「取手です。終点ですよ」。降りていく客を眺め、達成感を覚えた宮脇は「胸を張って駅長室へ引き揚げた」のだった、と酒井さんは書いている。

 「鉄道の『時刻表』にも、愛読者がいる」

 鉄道全線完乗車・宮脇俊三さんの名言である。

(堤  哲)

2021年7月19日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その14 ワクチン接種の一日(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443545.html

 先月の22日、新型コロナウィルスの第1回目のワクチン接種を受けた。

 場所は自衛隊の大規模接種センターになっている大手町合同庁舎。12時の予約だったが、40分前に会場についた。早すぎたかなと思ったが、待たされることもなく、てきぱきと案内してくれ、あれよあれよという間に接種を終えただけでなく、その場で第2回目の予約もすますことができた。接種のあと、15分ほど経過をみていたが、どうやらワクチンの副反応はなさそうだった。

 私の住んでいるのは習志野市で、ワクチン接種の予約受付は5月17日からだったが、こちらの不慣れや不手際もあり、うまくとることができなかった。予約は妻がスマートフォンを使ってとろうとしたのだが、繋がったときには、いつも予約はいっぱいになっている。一昔か二昔前に、ブルース・スプリングスティーンやローリングストーンズといったミュージシャンの公演チケットを電話予約して愕然としたことがある。発売日当日、受付開始と同時に予約を入れるのだが、よさそうな席はたいてい売り切れてしまっているのである。ワクチン接種は音楽コンサートとは違う。いい席も悪い席もない。希望する人には漏れなく接種するのが建前である。不慣れや不手際は行政の側でも同じかもしれない。そのうちになんとかなるだろうと、のんびりかまえていた。

 ところが、街歩きの仲間たちから、ワクチン接種の予約がとれたとかとれないとか、メールで報告や問合せが入ってくるようになった。街歩きの仲間は9人いて、1人を除けば、すべて60歳代後半から70歳代の高齢者である。しかも半数はガンなどの基礎疾患を持っているから、ワクチン接種は切実な関心事なのである。私の場合は高血圧と糖尿病で、一昨年の暮れには肺炎に掛かっている。感染すると重症化し、命を落とす可能性が高い。

 それに加えて、従来のものより感染力の強いアルファ型とかデルタ型とか称される変異ウィルスが発見されているのが気になった。それがいつの間にか国内に持ち込まれ、急速に感染が拡大しているということである。3密を避けるとか、マスクをする、うがいをする、手を洗うといっても、どこまですれば安全で安心なのかとなると、確かな指標と根拠が示されているわけではない。

 デルタ型の変異ウィルスについては、感染力が2倍近いといわれている。通勤電車やスーパーマーケットはうーんと思うほど混雑していても、アルコールを提供する飲食店と違って、厳しい営業規制を受けていない。ウィルスの方は日進月歩で進化し攻撃力を強めているのに、人間の方はこれまでのような感染対策で大丈夫なのだろうか、私のような医学的素人には判断がつかない。分からないから自ずと不安にもなる。自分が感染するのも嫌だが、人に感染させるのはもっと嫌である。そんなことから、ワクチン接種は早めに受ける努力をした方がいいと思うようになった。

 それから20日ほどして、習志野市のホームページを開くと高齢者のワクチン接種方法を抜本的に変更し、6月7日までに予約をすませていない人には、市役所が接種日時・場所を指定し、6月中旬から年齢別に順次、郵便で通知することになった、というのである。私と妻の場合は7月7日に発送される予定になっていて、高齢者の接種は、9月中旬までにすべて完了させる計画だというのである。

 6月14日、同居している息子が勤め先の会社から妻にメールを入れてきた。たまたま新型コロナについて調べていたら、大型接種会場の大手町合同庁舎は予約が空いている。ここは習志野からの交通の便がいいし、実施しているのは自衛隊だから仕事はきちんとしている。習志野市からの通知を待つことはやめて、こちらに予約を入れた方がいいと思う。ついでに、二人でご飯を食べてくるというのもいいかもしれない、というのである。

 ふだん息子は用事があってこちらから連絡しても返事もよこさない。滅多にないことだから、なにか思うところがあったにちがいない。考えてみれば尤も至極で、いわれる通りに予約することにしたのだが、私と妻の都合が折りあわず、接種日は一緒にならなかった。

屋上に植えられたシュロの木。神田神保町1-29。2021.06.22

 そんな次第で、大手町合同庁舎でワクチン接種をすることになった。その帰りがけのことである。会場の出入口で何人もの人たちがスマートフォンのカメラで写真を撮っていた。私も彼ら彼女たちに倣って、バックから一眼レフのカメラを取りだした。そういえば、会場内のあちこちで撮影と録音を禁止する立札を見かけた。

 私は前歴が報道カメラマンだったせいで、駄目だといわれると、隠れて撮ろうとする悪癖がいまでも抜けきらない。立札はもちろん報道メディアに向けたものではない。接種に訪れた人たちにワクチン接種の妨げになる行為は遠慮して欲しいということだろう。見方を変えれば、いまや誰もが何かあれば写真やビデオに記録する時代になったのである。

 こうした現象はスマートフォンの普及が大きく影響している。かつてのように専門的な撮影技術は重要視されなくなった。写真は目の前の事物や出来事を正確に写しとると同時に、自分がその時その場にいた、という事実の証明にもなりうる。日記をつけるのと同じように、誰もが写真を撮るようになったといってもいい。連載その12でも言及したが、ドナルド・キーンは『百代の過客 日記にみる日本人』のなかで「日記をつけるのは、歴史家にとってなんの重要性もない日々を、忘却の淵から救い上げることである」と述べている。

 私が2009年まで勤めていた毎日新聞社は合同庁舎から目と鼻の先にある。知り合いの後輩もいるから、立ち寄ってみるつもりでいたが、時計を見るとまだ12時をまわったばかりである。夕刊の校了までは1時間以上もある。それまでどこかで時間つぶしをすればいいのだが、それもなんとなくうっとうしいので、街歩きをして帰ることにした。

タンゴ喫茶のミロンガ 神田神保町1-3。2021.06.22

 合同庁舎があるのは日本橋川に架かる神田橋の皇居側である。連載エッセイその11で八百屋お七に言及しているが、事件当時に火付加役だった中山勘解由の邸宅は神田橋のすぐ外側にあった。また神田橋の近く(神田錦町2丁目)には、お七の事件から5年後になるが、それまで湯島にあった護持院(知足院)が移転してきた。多くの寺院が江戸市中の内から外へと移転させられたのと逆方向になる。護持院は将軍綱吉とその生母桂昌院が数十度も参詣し、その庇護のもとで隆盛を極めたとされる。連載その11を書いた後になってから知ったのだが、桂昌院の出自は京都堀川通西藪屋町の八百屋仁右衛門の次女ということである。それが事実だとすれば、将軍綱吉の生母はお七と同じ町人身分で、実家の生業も同じ八百屋稼業だったことになる。

 神田橋から雉子橋までの日本橋川沿いの一帯は、『江戸切絵図』をみると、火除地になっていて、護持院原と呼ばれた。護持院原の地名由来になった護持院は1717(享保2)年に焼失するが、幕府は再建を許さず、音羽の護国寺に合併された、ということである(註5)。

 神田警察通りに出て、西側を眺めると、千代田通りとの交差点の先、護持院原のすぐ北側とみられる箇所に、戦前の築造と思われる古めかしいビルが見えた。近づいてみると取り壊されると聞いていた博報堂ビルに紛れもないのだが、どこかようすがおかしい。よくみると西側の3分の1がなくなっている。建築デザイン的に特徴のある東側の塔屋と円柱の並ぶ正面中央を残すというよりも、おそらく復元する形で、テラススクエアと呼ばれる高層の複合ビルに再開発したものとみられる。

 東側は広場に整備されていて、ビルの下では若いサラリーマンの男女が1列に腰かけて、昼食の弁当を食べていた。対面の食事に比べて新型コロナの感染リスクも少ないし、目の前は木立の林になっているから、雨さえ降らなければ爽快な気分になれる。私の会社勤めをしていたころにはあまり見かけなかった風景である。コロナ渦の新しい世代が見つけた新しい生活スタイルなのかもしれない。

 テラススクエア西端を右折すると神田神保町の書店街に通じる裏通りがある。書店街は竹橋の毎日新聞社から歩いて10分もかからない距離である。仕事が忙しくないときは、職場の同僚たちとこのあたりまで出かけて、昼食をとった。そのあと、本屋めぐりをするか、喫茶店でお茶を飲むとかするのである。

 神保町は昨年の3月20日に訪れることがあった。街歩きの仲間の1人鈴木淑子さんが西村陽一郎の教えている美学校の写真工房(神田神保町2丁目)に通っていて、共同作品展の案内をもらったのである。

 この日は3連休の初日にあたっていた。都営新宿線の岩本町で下車し、写真を撮りながら神保町の美学校まで歩いたのだが、意外なことに、休日は閑散としているはずの書店街がたくさんの人で混み合っていた。靖国通りとすずらん通りの間にひっそりした路地があるのだが、そこにはミロンガ・ラドリオ・さぼうるなど知る人ぞ知るという風情の喫茶店が点在する。神保町界隈で一番なつかしいのは、この路地の佇まいである。覗いてみると、どこの喫茶店も外で空席を待つ人がならんでいた。路地裏のうらぶれたような喫茶店が、いつの間にか脇役から主役に抜擢され、観光名所として脚光を浴びているのである。

 それより1週間後の3月27日、仲間たちと大森の街歩きをする予定だった。月に1度の恒例行事で、これが100回目だった。ところが3月24日になって、東京都の新型コロナウィルスの感染者数が急増して40人に達したというニュースが流れた。その日の夜、幹事の福田和久君から連絡があり、感染が鎮静化するまで、街歩きは延期しようということになった。東京都の小池百合子知事から、新型コロナの感染拡大を防ぐため、週末の外出を自粛する要請が出されたのはその翌日である(以下略)。

2021年7月19日

三原浩良さんに原稿を真っ赤にされたノンフィクション作家

写真は、2017年4月12日に東京で開かれた「偲ぶ会」に合わせて作られた追悼集「生きて果てなん」の表紙から(奥武則さん提供)

 西部本社で報道部長をつとめ、退職後、葦書房社長、弦書房代表として良書を出版し続けた三原浩良さん(61年入社、2017年没79歳)の名前を18日付け読売新聞の読書欄で見つけた。

 ノンフィクション作家澤宮優さんが『巨人軍最強の捕手』(2003年晶文社刊、現在は『戦火に散った巨人軍最強の捕手』河出文庫)を出版するときのことだ。

 巨人軍最強の捕手とは、ビルマで戦死した吉原正喜捕手である。熊本工業では川上哲治(巨人軍監督)とバッテリーを組み、甲子園で準優勝した。のちに打撃の神様と呼ばれる川上は、吉原捕手を獲得するために、ついでに入団契約になったといわれる。

 澤宮さんは、川上さんからも取材をして、半年かけて原稿を書き上げたが、原稿を送った20社から出版を断られた。知人の紹介で葦書房にたどり着く。

 《葦書房の三原浩良社長は、すぐに原稿を読んでくださり、出版を決めてくださった。ただし何度も推敲をさせられ、目が回るほど赤字が入った。だが、そのお蔭で作品は、柔らかく練れた内容に変わった》

 《その年の秋のある日、突然段ボール箱が葦書房から送られてきた。そこには私の原稿があった。手紙には「ある事情で出版ができなくなった」という報告が書かれてあった。後日新聞記事で知ったのは、ある一件で社長、社員が退職せざるをえなくなったトラブルがあったことだった》

 「葦書房 オーナーが社長解任 全従業員も退社の異常事態」と読売新聞は報じた。

 三原さんは、1994(平成6)年に葦書房の社長になった。前社長の死去に伴うもので、8年間、黒字経営したが、2002(平成14)年にオーナーに解任される。

 「株(出資金)の買い取り価格や、私の後継社長をめぐってどうしても折りあうことができず、ついに私の解任となったのである」と三原さん。

 社員も8人全員が退社し、2002年暮れ、弦書房が船出した。

 三原さんは、こう書き残している。

 《翌年5月から新生弦書房のあたらしい本が次々に書店に並んだ。高木尚雄『地底の声』、島尾ミホ・石牟礼道子対談集『ヤポネシアの海辺から』、菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』、渡辺京二対談集『近代をどう超えるか』、中山喜一朗『仙厓の○△□』、多田茂治『夢野久作読本』『玉葱の画家』などなど、いずれも旧知の著者たちの力作ぞろいである。数えてみるとこの年は5月からの半年の間に7点も刊行している。

 その後も2004年10点、2005年9点、2006年17点、2007年16点、2008年11点と新刊を送りだしてきた。

 なかでも野見山暁治『パリ・キュリイ病院』、佐木隆三『改訂新版 復讐するは我にあり』はいずれも大手出版社が重版をしぶって絶版になっていた本の復刊で、小出版社ならではの仕事として印象に残っている。

 前者は最初に講談社、のちに筑摩書房が刊行した野見山さんの最初の著書で、野見山ファンからの復刊の要望が強いことを知り、25年ぶりに復刊した。今年になって重版したと聞いてうれしかった。既刊書が売れなくなっている出版不況のなかで、息ながく売っていくことは至難のことと言ってよい。

 後者は佐木さんの直木賞受賞作だが、これも絶版になって久しく、著者の希望であらたに手を入れて「改訂新版」として刊行、版を重ねたあといまでは講談社文庫にもはいっている。

 渡辺京二『江戸という幻景』は、葦書房時代に刊行した不朽の名著『逝きし世の面影』(いまは平凡社ライブラリー)の姉妹編とも言える著作で、向こうが来日外国人の目を通して描かれた江戸・明治の姿だとすれば、こちらは日本人の目がとらえた江戸の人々の生きいきとした諸相を活写した書きおろしで、刊行当初から増刷をつづけている。

 こうして歩みだした弦書房は創業10年を過ぎ、著者や関係者の協力をえて順調な歩みをつづけているが、2008年、後事を小野君に託して弦書房を去ることにした。

 当初から「70歳引退」と心づもりだったが、予定を一年過ぎていた。「葦書房の灯を消すな」という声に応えることができたのであろうか》

 そして2008年郷里の松江に戻った。

 出版不況といわれた時のアンケートに「私が葦書房を引き受けた時考えたことは、絶対に大きくしないということだった。どうしても必要とする人に向けて、少々高くても我慢して買ってやろうと言われるような内容を備えた本を作るしかない、と思っている」と答えている。

 良書がすべて、なのである。

 葦書房時代、石牟礼道子編著『天の病む 実録水俣病闘争』(1974年1月刊)を出版した。執筆者に、石牟礼道子・渡辺京二・江郷下一美、三原浩良、日高六郎・杉本栄子・浜本二徳・川本輝夫・田上義春・松浦豊敏・本田啓吉、富樫貞夫、宮沢信雄ほかとある。

 元ソウル支局長・論説委員の下川正晴さんは、この毎友会HP(2020年7月7日)で自著『占領と引揚げの肖像BEPPU』を紹介しているが、『忘却の引揚史―泉靖一と二日市保養所』(2017年刊)、『日本統治下の朝鮮シネマ群像~戦争と近代の同時代史』(2019年刊)といずれも「弦書房」からである。

 三原さん自身の著作は『熊本の教育』『地方記者』『噴火と闘った島原鉄道』『古志原から松江へ』。編著に『古志原郷土史談』『当世食物考』などがある。

 私は一緒に仕事をしたことはなかったが、同期入社の片山健一(故人)の前の西部本社報道部長だった。

(堤  哲)

2021年7月9日

報道レースは本社が「金」―68メキシコ五輪の社報

 この写真は、64年東京五輪の閉会式。浴衣の日本人女性の手にキスをするソンブレロを被ったメキシコ男性。68メキシコ五輪への引継ぎのつもりか。

 日本外国特派員協会(千代田区 丸の内 3-2-3「丸の内二重橋ビル」5階)で8月6日まで開かれている1964東京五輪の写真展にあった。

 断捨離中に何故か、昭和43(1968)年11月1日付社報が出てきた。

 見出しに

  メキシコ五輪、報道レースは本社が「金」
  特派員←→各本社が一体化
  みごとカラー印刷
  原稿の流れもスムースに

 特派員団は、8人。キャップは、社会部デスク牧内節男(当時43歳)。メキシコ臨時支局の支局長である。

 社会部・大桶浩(当時37歳、1994年没63歳)

 運動部・岡野栄太郎(当時38歳、2020年没90歳)▽浮田裕之(当時39歳)▽奈良井輝(大阪、当時38歳、2010年没80歳)

 写真部・阿部三郎(当時42歳、2013年没87歳)▽松野尾章(当時35歳、2008年没76歳)

 連絡部・大川延司(当時36歳、2011年没79歳)

 元気なのは、ことし96歳を迎える牧内さんと、浮田さん92歳だけか。

 牧内支局長の現地報告が載っている。

 《社員のみなさん「ポエナスタルデス」(こんにちは)——私たちの朝のあいさつは「ポエノスデイアス、コモエスタウステ(おはよう、ごきげんいかがですか)「ムイビエン・ウステ」(大変よい、あなたは?)「ムイビエン」と始まる。時差(15時間)の関係から毎晩寝るのが午前2時すぎだから「コモエスタウステ」という言葉にも実感がこもる。

 大阪外語スペイン語科を出た奈良井特派員は別として、他は日本を出るまでスペイン語は少しも知らなかったが、阿部特派員などは写真部との電話応答の中で無意識のうちに「シー・セニョール」(はい、わかりました)という言葉が飛び出るから大したものだ》

 「こんにちは」は、ブエナスタルデスと旅行書にはあるが、現地の発音は「ポエナス」なのであろう。

 「競技が終えて、余ったドルを全員に分けて、好きなところを旅行して帰国するよう、言ったんだ。名支局長だろう」と何かの折に聞いたことがある。

 毎日新聞のHPには、《第19回メキシコ大会は、112カ国と地域から約5500人の選手が参加し、1968(昭和43)年10月12日から27日まで開かれた。日本からは183人の選手が参加し、金11、銀7、銅7、計25個のメダルを獲得した。日本では大会期間中に川端康成さんのノーベル文学賞受賞が発表され、12月には東京都府中市で「3億円事件」が発生した》とあり、その脇に釜本邦茂がサッカー3位決定戦でゴールを決める写真。阿部三郎撮影とある。

(堤  哲)

2021年7月2日

レイルウェイ・ライター、種村直樹君を偲ぶーー牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」から

柳 路夫



 それは種村直樹君に呼び止められた感じであった。行きつけの古本屋の前を通ったら種村直樹著『時刻表の旅』(中公新書・定価380円)が眼にとまった。どれも100円の値段のついた新書版の本を並べている場所である。早速買った。種村君とは昭和38年8月、毎日新聞大阪社会部で知り合った。彼は府警察本部の記者クラブにいた。入社4年目の事件記者であった。

 東京社会部で筆頭デスクをしていた立川熊之助さんが大阪の社会部長になるというので私を大阪のデスクとして連れっていった。大阪にいたのは1年半であったが、実りの多い記者生活であった。大阪社会部の多くの人材を知った。後で大いに役立った。一緒にデスクになった檜垣常治君とは後にほぼ同時に役員となり、助けたり助けられたりであった。政治部にきた岩見隆夫君、サンデー毎日にきた徳岡孝夫君、八木亜夫君、武田忠治君らに知的刺激を受けた。

 種村君はもともと学生時代から汽車旅が好きで、それが鉄道記者生活を通じて助長され、「レイルウェイ・ライター」にまでになってしまった。昭和48年、毎日新聞をやめるのは当然の帰結であった。この本にも昭和48年4月武蔵野線府中本町―新松戸間開業の日以来、フリーのレイルウェイ・ライターとして、趣味と仕事の境界が判然としない日々を過ごすことになると書いている。当時私は論説委員であった。種村君が毎日新聞を去ったのを後で聞いた。

 この本は昭和54年8月25日の初版である(私の手元にある古本は昭和55年11月20日6版)。既に著書は『周遊券の旅』(ブルー・ガイドブックス)7冊も出版している。『時刻表』1本で生きた男といってよい。「数字と駅名が無数に並ぶページを捲ると、各地を走る列車の姿が目に浮かび、大きな駅のコンコースの雑踏、ひなびたローカル線を行く車両のきしみも伝わってくる」と表現する種村君である。まさに時刻表にとりつかれた男である。平成26年11月26日なくなった。享年78歳であった。

 子供の頃よく歌った歌『汽車』(作・不詳、曲。大和田愛羅)を口ずさんで彼を偲びたい。

 「今は山中 今は浜
 今は鉄橋渡るぞと
 思うまもなくトンネルの
 闇を通って広野原」

※種村直樹さんは1936年、大津市生まれ。京都大学法学部卒。毎日新聞記者を経て1973年からフリー。レイルウェイ・ライターとして鉄道と記者旅をテーマに著作を続けた。2014年、転移性肺がんにより死去、78歳。

(プロフィール写真、名刺は種村さんの公式ホームページから)

※「銀座一丁目新聞」のURLはhttp://ginnews.whoselab.com/

2021年7月2日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その10(終わり)

 追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。

「日記より」⑤昭和36年7月1日

 午後、成格(当時高校2年)が友人の吉田昌光と同道で帰ってきた。只ならぬ気配に、大きな荷物をかかえて応接に入って来た。昨夜は10時すぎにやっとスピーチコンテストの原稿が出来上った状態では、励ましのため「一位間違いない」といったものの、とうてい入賞するとは思わなかったので、何事かと瞳をこらすと、いきなり「どうです」という。「入賞か?」「しかも優勝です」「ヘエー、それは大出来だ」と答えて、じっと顔をみる。「ここ1カ月めっきりやせたと思われる顔に精悍の気をたぎらせて「まだ夢のようです」と優勝当時の状況を説明する。番外から始まった入賞発表が2位まできた時はガックリして、外に出て風にでもあたりたいと思ったトタン名前を呼ばれ、一瞬何のことかわからなかったとのこと。

昭和36年7月2日

 成格、巍次を連れて日本橋の「橋本」へうなぎを食いに行く。成格は昨日の興奮が残っているようだ。それに疲れがアリアリと顔にみられる。うなぎでも食わせて回復させるほかない。それにつけても「お祝いにビールを飲ませてほしい」というのでやむなく承知した。良くないことだが折角の勝利の日だ仕方がない。しかし、咳がひどいようだ。若い者は健康の持ち方を知らないから、コンテストに夢中になって身体中がコッたのだろう。アンマが一番良いんだが、だるくてやってやる気がしない。

昭和36年7月29日

 午後4時すぎても32度。何という暑さか。印度人が40―50度の中で暮らすというのがどうにも考えられない。人間という奴はどんな所でも食さえあれば住むものらしい。しかも人類史上、最も早く開けたのは暑い印度や、中近東にアフリカだった。やはり身に一糸もまとわない生活でなければ成立しなかった原始時代を想像すれば酷暑地帯が最初というのもうなずける。ダーウィンが人類の発生をアフリカと言い、“ミッシングリンク”を予言した事はさすがに大思想家、大研究家として観測に誤りなかったことに頭が下がる。今後、人類の古い歴史が開かれてくれば数々の面白い事実が発見せられ、また想像せられるであろう。自分存命中にはこのような興味ある書物が出るとは考えられぬが、今後の人は楽しみだ

昭和36年8月7日

 連日の降雨ですごしやすくなった。午後1時27度。今年は大変な豊作であろう。6年続きの豊作で天下は泰平。金さえあれば何でも手に入る時代が来た。世の人は血まなこになって金を追い右往左往するだろう。それも困る。成格が何か教育問題で悩んでいるようだが、近いうちに言いきかせなくてはならない。中、高校時代、誤まらずに進ませるには、親がつききりでみてやらねばならぬ。早くそういう時期が過ぎてもらいたいものだ。

昭和36年8月8日

 立秋、自唱して嬉しい。今年の暑さにはほとほと参った。これからは一日一日と涼しく美事な果実が得られる。立秋には文人の遺文が多いが、一種の喜びの中に寂しさがつきまとうのはどういうわけか。読書のシーズンであり、馬肥ゆる季節で、人もまた肥える嬉しい時期でありながら、これを賛美する喜びの文章は少なく淋しさがいつもつきまとう。草木の何となく衰えるサマが人生の終盤を想起せしめるためだろう。人間はいつまでも生きたいのが本心であってみればやむをえない。しかし、名文の書き手が若い人であったうえとは違った遺文が多くなったかもしれぬ。しみじみとする文章は若い者には書けない。(つづく)

昭和39年5月28日

 古稀の祝のことを想い出す。あれからもう2年になる。今日また73歳の誕生日のため大井クラブで例の近親の連中を集めて一席をすごすことにする。あいさつをする。

 僕の誕生祝を諸君とともにするのはこれで3回目である。あの時と今日とで満2年になるが、どんなに変化したであろうか。イヤ余り変っていない。一面から言えばみんなに大きな変動がなかった証拠である。昔は正月が全国民の誕生祝であって僕の郷里では誕生祝は生まれた翌年のその日にやるだけでやらなかった。だからバースデーというのは、どうもピンとこない。白人社会はとくにこの日を重んずるらしいので例の日本人の物真似で近頃大変盛んである。悪いことではない。祝いたく祝えるものは祝うが良い。一休禅師だと思うが、「門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んでいる

 正月が全国民のバースデーに相当(年がわりする)する慣習の中で住んだものの本当の心境であろう。若き者は喜びにあふれ、老いたるものは一里塚のいよいよ終末に近づけると思って各々異った心境で新年を迎えるであろう。小生も一里塚が73を数える。

 昨日、ネール・インド首相が突如他界した。マスコミは一斉に大騒ぎの報道である。74歳だそうだ。僕の来年だ。何ものも逃がれることのできない瞬間がきたのだ。僕にもいつそれがくるかもしれないと思うと、しみじみと「めでたくもあり、めでたくもなし」である。

 ただ今日、最も近しいみんなが、一堂に会して会食し近況を語り合うことは、誕生日であろうとなかろうと良いことに違いないとの意味で、今席の集りも意義がある。みわたす限り、みんな丈夫で結構。生活も一日一日進歩安定していく様子で結構である。

 昔、僕が新聞社にいたころ、時のトップクラスの財界人で藤原銀次郎と製紙界に覇を争うていた大川平三郎という人があって、藤原氏のむこうを張って富士製紙を持っていた。それが古稀の祝いか、還暦の祝いであったか、帝国ホテルの大部分を借り切って大盤振る舞いの大宴を催した。当時は小生も思想的にも生活的にも余リピンとこないで「バカバカしい催しだ、実業家というものは妙なところに喜びを持つものだ」と冷笑をもって列席したことがある。今から30年以上も前のことである。

 それから間もなく王子に合併せられ、製紙の天下は藤原のものとなった。爾来、製紙界といわず財界においても藤原の声望はますます上ったが、藤原氏はいつかな王子を去ろうとはしない。社内は人事の行詰りで窒息しそうな空気であった。いたずらっ子の小生が、太平洋石油株式会社を創立して藤原氏をかつぎ上げて藤原氏を王子から去らしめたものだ。当時の500円の会社で、今の金で20か30億円の会社である。僕にも創立者として中心の一人としてやってもらいたいという話であったが、関係者の大部分を役員に入れてもらうことを条件にして私は役員にはならなかった。

 話をすれば大変長くなるので略すが、それから幾変遷、王子製紙は財閥解体、独禁法のため沢山の製紙会社にわかれてしまった。とにかく変化の激しい時代に生きてきた小生のごときは語れば尽きるところのないほどの激動と興亡の試練を経てきた。その結果は碌として73歳の誕生を迎えることになった。

 先日、交詢社で久し振りに岸田幸雄氏(元兵庫県知事)に会った。色々懐旧の話の末に岸田曰く「君は我々同窓中では、最も活動的な男であったが、結局これというものを握らなかったネ」といった。これは少々小生を椰楡したものであったろう。「つかむというのは何だネ? 俺は天下をつかもうとしたができなかっただけだ。君は何かつかんだかネ」彼黙す。「参議院でもつかんだつもりか。イヤ、君は金を、それも僕がいえば小金をつかんだのだろうが、金は金でいつまでいっても金だ。大小はあってもネ。それも社会を左右するほどのものならともかく、ただ生活が派手にやれるほどのものじゃないか。五十歩百歩だよ。マァーお互いにゴールに近寄っただけのことだ」。(「日記より」おわり)

 「追悼集」には、告別式の写真をはじめ、三豊中、三高時代から成格さんのお宮参り、軽井沢時代、そして最後に一家の写真が掲載されています。その一部を紹介します。

・成格さんお宮参りの日。昭和19(1944)年の衆議院議員時代(玉川用賀自宅)
・軽井沢の鬼押し出しにて
・成格さん英語スピーチ優勝を記念して(昭和36年7月)
・大井の自宅にて

【岸井成格さんの父・寿郎さん=番外】

 長い紹介になりました。読み直しながらフェイスブックに連載して、何とも言えない爽やかな気持ちに浸っています。それはこの追悼集をいただいた30年ほど前にくらべて、世の中が殺伐としているからだと思います。とりわけ、安倍・菅二代政権の下で続く政治の現状の下で。そして人間どう生きるべきか、政治・事業はいかにあるべきか等々について、改めて目を開かせられた思いです。

 この端正な追悼集には、序文もあとがきも奥付もありません。編集・発行された方のお名前もありません。「岸井寿郎さんと家族について、最低限伝えておきたいことを記しておく。読むも自由、読まぬも自由だ」と考えたのでしょうか。

 岸井寿郎さん 1891年5月28日生、1970年10月1日没。79歳。岸井成格さん 1944年9月22日生、2018年5月15日没。73歳。

 2015年に頂いた年賀状が最後でした。2017年暮れには、弟・巍次さん(71歳)、甥・大太郎さん(62歳)永眠の喪中はがきが届きました。

 岸井成格さんは、父・寿郎さんの精神を受けついで生き抜いたのだと思います。それだけに、73歳という若さで亡くなられたことは残念でなりません。

 岸井さんを知る毎日新聞のみなさんが中心になって、岸井さん父子の生きざまを世の中に知らせる本を出版してほしいと思います。

 2018年6月3日付サンデー毎日に掲載された倉重篤郎さんと佐高信さんの岸井成格さんへの追悼文を紹介しておわります。

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは

https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年6月28日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その9

 追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。

「正力松太郎氏との秘話」⑤

 僕が東日をやめてからは、日本倶楽部に顔を出すことが多くなった。正力氏は常連で、ほとんど倶楽部を自分の別事務所のように使っていた。岩田宙造、有馬忠三郎、原邦造等も碁の好敵手で、正力氏は顔をみると何をおいても「おい、岸井君一番」と、一番どころでない数番、互いに毒舌を楽しみながら闘う仲であった。そんな中で、陸軍の横暴は次第にこうじ、僕はかつがれて東条内閣の選挙に立候補して衆議院に出た。

 それからの時代は今度は日本そのものをひっくりかえして終戦を迎えた。追放の二重パソチをうけて働らくにも働けない。これから社会をどうリードしようもない。既に50の坂を越して今さら何をかいわんや。静かに余生を送ろう。それが当時の心境だった。日本倶楽部で碁仲間と談じている時、永野護君が「一寸」といって別室に連れていった。

 「岸井君、実は正力君が戦犯容疑で入獄している。同君の仕事および留守家族の一切のことは僕が託されている。君は報知新聞の再興をやりかけたぐらいだ。読売新聞を引受けてくれないか。丁度、今読売は共産主義者に占領されている。君ならやれる。家族も困っている。百万円あれば良い」という。「正力氏は出獄したら社に復帰したいだろう。その点はどうなる」「イヤ、それはそんなことはない。一切自分に一任されているのだから絶対に心配はない」「よし考えてみよう」といって別れた。

 僕は前述のように自分の活動は一切やめる決心をしていたが、友人の楢橋渡君は、今は時めいているが、当時彼はまだ自分の足場を持たない。自分はやる気はないが彼は何とか将来の足場を保持することが必要だと思ったので彼に話した。彼も即座に承知して、百万円つくるというのでこの旨、永野君に伝えた。永野君も喜んで、「いつでもきれいに引渡す」との約束もできた。しかし、楢橋君はなかなか金ができたといってこない。

 丁度弁護士会長の選挙があって立候補していた。遂に会長は不成功に終った。彼日く「読売の方は、弁護士会長選で金を使ってしまったからダメだ」。僕は非常に困った。永野君は正力氏の家族に伝えてあるだろう。困ったけれどそのままにしておくことはできない。その旨永野氏に話して断った。

 永野氏は「残念だな。家族の人々にもいいようがない」といって真に困惑の様子であった。その後、永野氏が、一、二度こぼしたことがあったのをみるとよほど困ったことだろう。かくて読売は引渡しの相手も現われず、正力氏が出獄するまで共産主義者の溜場のような有様で過ぎた。それは結局正力氏の再起の足場となった。社内のシコリをほぐすのに数年かかったが、例のエネルギッシュな活動で再び読売を自分の手に戻した。正力氏出獄後も、僕は永野君から身売りの話があったことは、どんなことになるかもしれないので、絶対正力氏にも他人にも一切話さずにしまった。(「正力松太郎氏との秘話」おわり)(つづく)

「知友の死に思う」①

 近頃は思いがけない時に思いがけない旧友知人の訃(ふ)を知らされる。生前関係の親疎によって受ける感じは様々だが、如何にも己が老齢を自覚させられるので心境は複雑である。

 「何れは自分もまた後程」といったような生半かな割り切り方で、さも故人に日頃無沙汰のお詑びでもなし得たかの様な心境で、自分自身を誤魔化して過ごすことの多い近頃である。

 「正力松太郎氏が熱海の病院で亡くなった」との訃が伝えられたのは去る10月10日のことであった。同君の入院療養中であることは前から知っていたし、また今度はどうも病気が重い様だとは関係筋では噂(うわさ)されていたことであったが、現実に「死んだ」と聞かされてはショックを受けた。が、所が熱海であり、その後の様子はわからず、後報を待った。「遺骸は逗子の自宅に引き取られたが、家族関係や事業関係が複雑で、門外の一旧友が罷(まか)り出る場ではなかった。私は生前の自分との接触を走馬灯の様に懐想しながら、同君の冥福 (めいふく)を祈ったのであった。

 越えて23日、まだ正力氏の墓の土も乾かぬ時、TBSの鹿倉吉次君が突如他界したとのことである。これは全く唐突であった。一カ月程前に故杉山幹君の回想パーティーで 顔を合せた時には健康そのもののような顔付で面白おかしく裏話に談興湧いたばかりである。私は自分の耳を 疑うが如く直に関係筋に問合わせたが、もちろん真実であった。取る物も取り敢えず自宅に駆けつけた時に、僧侶が読経していた。

 暫らくして僧侶が別室に退いた時、やっとそのままになっていた病室に入って同君の仏顔に対面した。顔は生前の顔そのままで、少しも苦しんだ跡はなく、今にも物を言い出すかと思われる程であった。聞けば大阪旅行でサンザン、ゴルフをやり、麻雀もやり、元気一杯で帰ったばかりの夜、突如心不全で他界したとのこと。もちろん遺言もなければ病床の言葉らしい言葉一つないのであった。

 両君は現代マスコミ界の両雄であった。互に時には辛辣(しんらつ)な批判を交わし合うが、内心では畏敬しあっている好ライバルであった。正力氏は次々と新しい企画を事業上に盛り、善悪はとに角、常に斯界の尖端を突走らなくては気の済まぬ男であった。虎之門事件で官界の足を洗い、新聞界に飛込んだ経歴が示す通りの働き振り。一方、鹿倉君は新聞社時代の長い下積生活を堪え忍び、一度逆境を脱するや着々とその基盤を築き、時到るや民放に転進し、民放界の第一人者として動かざる地位を固めた。

 両氏はその人生行路でも面白いコントラストを示していた。正力君亡き後の民放の行方など、機会あれば鹿倉君に聴きたいテーマであったが、その機さえも与えず、ソソクサと彼は正力君の後を追うが如く、この世を去ってしまつた。両氏共に84歳、死因は共に心不全。何という暗合か? マスコミの一角に繰り広げられた両氏の競演も、もう見られなくなったのは淋しい。(つづく)

「知友の死に思う」②

 古来、人類は何れの民族も人間の「生と死」という解き難き謎を解かんと苦しみ悩んだ。しかしアラビアンナイトの魔神でも連れて来ないでは、一旦死んだ人間を再び戻し、死の真相を確認することは出来ない。それは科学以前の問題であり、宗教の世界である。聖人といい、誓人といい、あるいは教祖と崇(あが)められる人々が、如何にも解答らしい教理を説いても、結局は本人の信仰如何による外はなかった。だからマホメツトの様に左右の手にコーランと剣を持って民衆を引廻さねばおさまらぬお節介さえ出て来たのが人間の歴史である。

 所詮(しょせん)人間自身が解決し得るのではな<大自然の力のまにまに人間は流されて行く。ただ人間には自殺という自由が許されているが、それも煎じつめれば死に方に尽きる。だから多くの人は最後の時を予想して「自分はこうして死にたいという感懐を洩(も)らす人があるが、それもただ希望に過ぎない。身近な所を考えてみても毎日新聞の創始者の一人本山彦一氏は「自分は死ぬまで仕事をしたい。死ぬ時は仕事をしながら死ねぬものか」と洩らしていた。鹿倉君も「死ぬ時は突然コロリと死にたいものだネ」と。正力君は病 院で主治医の注射を受けると手を振って「アアもうこれで良い。これから東京へ帰るんだ」といいつつ息を引き取ったとのこと。

 現代の英雄として仰がれる英国のチャーチル氏は晩年、友人や待医から養生法などの説教を聞いていたが遂に「もう生きるのが面倒臭くなった」という言葉を残して他界した。 今私がこんなことを書いている間にも、運命に反抗し自らその生命を断っている人間が何人かいるであろう。自殺は人間の特権であろうか。後期ローマ帝国のハドリアヌス皇帝は衰頽(すいたい)したローマ帝国を再び地中海全域に君臨する大帝国に再建した賢帝として誉高い名君主であったが、晩年病気に悩まされた。帝は病苦に堪えかねて遂に自殺を決意し、側近に仕える奴隷(どれい)に殺してくれと頼んだら、奴隷は逃げて行方をくらました。

 今度は侍医に毒薬を飲ませろと迫ったら、侍医自身が自殺してしまった。帝は遂に自ら死ぬ以外に途はないと悟って、やっと短剣を見つけ出し、将(まさ)に自刃(じじん)せんとする時、側近に取押えられて短剣をもぎとられてしまった。帝嘆じて曰(いわ)く『誰でも死刑にすることが出来る自分が、自分自身の生命を断つことが出来ぬとは何事か』と悲しんだ。そして宮中を逃げ出して餓死に等しい生活でやっと自分に終止符を打ったという。自殺さえも出来ない人はハドリアヌス帝だけではあるまい。

 今は科学の時代だという。然り。これを肯定するに吝(やぶさか)ではない。しかし人間の『生と死』は科学の力を以ってしても如何ともすることの出来ない永久の謎であり、神秘である。若い時代の友人達と人生間題を口角泡(あわ)を飛ばして論議した時代は、それは一種の思想的遊戯であった様だ。近頃はそれが具体性を持って自分独りで考えるようになったのは、単に脳細胞の狂いだろうか。

 ああ、弱き者よ汝の名は人間。 

(昭和44年10月26日付。東京ポスト「山の手日記」より転載)(つづく)

「日記より」①昭和36年4月10日

 今日は婦人の日だそうだ。女の日ということだろう。男の日、女の日、一体何を意味するのか。近頃しきりに政界でも休日増加を論じている。働く者の心は彼等にはどうもわからないらしい。日本民族の将来のためスバラシイ政策を樹立する人はいないものか。思切って年500億位を投じて海外移民を促進するような政治家がほしい。
昭和36年5月18日

 梅雨近くなって毎日どんよりした天気が続くが、今日は珍しく天気が良い。5時10分に起きたら巍次が早起きして雨戸は開け放たれている。庭木を廻ってみるに梅は実がドッサり付いている。梅の下のバラが沢山蕾を持ち、7、8個咲いている。うすい赤色が目覚めるように美しい。一枝を切って鏡の前に投入れる。奇麗だ。昼食後、ベランダにいると慶子がとんできて鉢のザクロを指し、「ご覧なさい。今年は沢山花をつけますよ。小さい花の誉が小さな枝にビッシリです」「エッ?本当か」。よくよく見れば、蕾が一杯だ。僅か内径一尺立方程の鉢の木がそんなに花を咲かせるとは驚いた。今見る限りでも3,40は咲くだろう。4月初め頃から毎朝、ミルクのビン底に残ったのを集めて、薄めて君子蘭とザクロにかけていたためだろう。ミルクが肥料に良いことが証明せられた。これは面白いと思わず叫んだ。花の咲く日を待ちわびる。(つづく)

「日記より」②昭和36年5月28日①

 慶子が忙しく数日間「富士屋」へ往復してパーティーの準備を進めていたが、いよいよ当日が来た。何だか自分のことだか他人のことだかわからぬような気持ち。「和服にしますか、洋服ですか」との質問にも確答しなかったが、いよいよでかける時に社交服と決めてでかけた。

 会場は3階、全階を提供してくれたので本当の水入らずだ。生花もきれいにできてすがすがしい気持。慶子が開会の辞を述べ、岩田君が祝辞。そして僕が70歳のあいさつ。

 人間七十古来稀なり。日本人は明治に入って西欧思想が受け入れられる前は、思想といえば論語であり孟子であった。孔子の説も色々批判すべきであるが、とにかく東洋の大思想家であり、政治学者であり、倫理学者であり大したものだ。今から孔子や孟子の時代を振返って想像してみれば、当時の人が70歳まで生命を保つということがどんなにむずかしいことか。当時から人生50年といわれている。孔子も「我十有五而志学」といってから50にして天命を知ると人生の完成を50で区切っている。すなわち、50まで生きれば天寿を全うしたものであり、なすべきことは50までに仕上げなければならぬと思ったのであろう。人間完成後、なお20年生きのびるのが古稀だ。古来稀なりも無理からぬ。

 これに自分が達したことを思うと何とたわいのないことかとしみじみ感じる。ただ平々凡々と仕事をしたようにみえるが、何もしなかったといっても良い。しかし、何をして何になる。何もしなかったからといってどうということもできない。ある者は人生を虚無と断じ、ある者は人生を苦悩の世界と断じ、ある者はドラマと感じ、ある者は笑劇と断じている。しかし何者が普遍的結論を下し得たろうか。結局人生不可解と諦観に逃避するのがオチである。

 自分も心づいてから、人生問題をはじめ、各種の思想問題にひき入れられてきたが、結局、何ものにも達せず、現実の環境に迫られて馬車馬のごとく働いてきた。ある時は文学者になろうと考え、ある時は思想家を志し、ある時は政治家たらんとし、ある時は財界にも幾多の変遷をたどっている間に人生完成の50年は全く夢のごとくに過ぎ、さらに古稀を迎えるにいたった。

 静かに考えてみると、あまり経済的苦しみもなく、したいことをして晩年を迎えることは全く幸福と感ぜざるを得ない。今自分がすべて快よく感じることは他人を深刻に苦しめることなく過ぎたことである。今日の自分を仇敵視するものはまずない。また大きな財産を持たぬ身としては身辺のものから死後、相続関係から、自分の死を早かれとひそかに思っているものもないはずである。最近独立した岩田君は八面六臀というか、一人十役の活躍で、すでに困難な広告界の中堅にのしあがり活躍している。年わずか35歳である。(つづく)

「日記より」③昭和36年5月28日② 

 自分は東条時代に逮捕され、株殺されるかもしれなかった身である。敗戦後は追放されたが同僚や友人たちが、追放解除にやっきとなって運動しているのを見て「お気の毒な人たち」としてみていた。時に成格一才、巍次は生まれたばかり、もはや、政界にも志を断ったが、せめて文筆だけは捨てずに、本当の声を世に出してやろうと報知新聞再興を志し、スタートしたが、追放の追いうちでオジャンになった。

 爾来、晩年を静かに後輩および子供らのために陰のアドバイザーとして世を送る決心をした。その時の報知再興の志望の時、宅の門を叩いて秘書となったのが岩田君である。丁度16年前、君19歳の時だ。今となってはほとんど自分の分身のごとき交際が続いている。その岩田君が一城の主としてデビューするのをみたい。また、幼いといっても高校だから少年から青年の間に入ろうとする成格、巍次の社会にデビューするのもみたい。

 先日、大平官房長官の就任祝賀会があった。それまで一度もこのような選挙区関係の会合には顔を出さなかったが、もはや、選挙区の形勢も定まっている今日、今までの自分の心境の一端を発表するものも無駄であるまいと思って出席した。

 その時、宴の始まらぬ前に、世話人から「岸井先生一同を代表して祝辞を述べて下さい」との依頼があったので立った。

 「大平君が官房長官に就任したのは郷里の喜びであり誇りである。どうか今後とも研鑽して国家のために働いてもらいたい。本日一同を代表してあいさつするのは、私より他に適当な人が沢山あると思うが。世話人の指名もあるので一言お祝いを申上げるとともに私の心境をチョッと申上げたい。大平君は中学の後輩であり、世間では私が相当手を貸していると思うだろうが、私は追放以来、追放解除のためGHQに運動するのは一切やらなかった。政治には志を捨てて、静かに晩年を送るつもりでいた。選挙ごとに郷里の候補者から、助勢を頼まれた。大平君自身は頼んでこなかったが、関係者からは度々あった。しかし、私は追放をうけた身が未練がましく選挙運動に顔を出すことを嫌い、一切何者にも応援はせず、いずれは誰かが選挙区を掌握するであろう。力がないものが出てもいつかは没落する。形勢は自然に定まる。かえりみないのが人材の胎頭を促す由所と考えたからだ。だから、大平君も決して私と親密な間柄ではない。むしろ非常に疎遠な人である。しかし長いこと苦闘の甲斐あって官房長官という内閣の大番頭になったのだからめでたい。選挙区もどうやら定まったらしい。一面からいえば後輩の待ちわびた形勢である。その意味からも大いにめでたいとお祝いを申上げる。ただ一言、最近の新聞などでみると池田首相の言動に対して、大平君は神経質すぎる。政治家でもトップクラスになると公私を問わずその人の裸の姿がありのまま出てくるものだ。周囲でいくら心配してもその人の持味はまるだしになるものなので、池田首相がそのために失脚することがあっても大平君が、自分の心づくしが足らぬと考えることはない。最善を尽すのは良いが、そのために健康まで害することだろうから、ただ一言、これだけのことをお祝いの辞に添えておく」といった。(つづく)

「日記より」④昭和36年5月28日③

 その言葉は大平君のためでもあり、自分の立場を表明するためでもあった。僕が追放された時には自分のあとに推せんするだけの人物がなかった。また推せんして苦労させても受け入れ態勢ができていない人間には仇になる。少なくとも代議士として立つには相当な人間でなければならぬ。力足りぬ人を推せんすることは個人的にも社会的にも罪悪である。 孔子の「小人は養いがたし」は実に味わいのある処世哲学である。人間は良き説を聞かんをするものはまず自らの受け入れ態勢を養わねばならぬ。いかに貴重な言葉といえども受け入れ態勢のできていないものには大きな仇となる。

 ようするに善も悪も貧困も、みな自分の修養の一程度によってわかれていく。一にも修養、二にも修養である。今日の会合は自分より、後輩ばかり、しかも親子、孫程度の人ばかり。結局、今言った言葉もとりよう一つで善し悪し、正邪いずれともなるであろう。私は自分の一生をかえりみて前述のように怨恨をかまえたと思われる人もない。財産的に損害をかけたこともない。また貧困にあえいだこともない。失意に没入したこともない。良き一生を送ってきたと思う。しかも現在は最も安定した時である。

 この時、古稀を迎えるのは幸福だ。それに少し言いがたいことであるが、妻は非常に料理が上手だ。今、自分は外出して他の料理を食うよりも、自宅の料理の方が上等だ。外に出て食いたいと思うのはうなぎ、ふぐ、スッポンだけだ。この意味でもかような環境であることは晩年の自分は幸福だと感じている。あまりほめていると妻の鼻が高くなりすぎるので、この辺でよすが、ただ気がかりなのは子供がだんだん料理に敏感になることだ。料理に敏感だと、人間は憶病になることがある。またチョッとしたことのために健康を害することがある。同じ一家で暮している子供とはいえ、別料理を食わせるわけにもいかぬ。それで時々問題をおこすことがあるぐらいで、これも幸福すぎる現象である。今後、妻がさらに老人食に上達してくれると、あるいは岩田君のあいさつにあったように、ますます長命するかもしれない。あまりいっているとおのろけになってもいけない。皆さん集まってくれてありがとう。今後おたがいに幸福に暮らそう。(つづく)

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年6月21日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その8

 追悼集「岸井寿郎」には「久富氏の死」「正力松太郎氏との秘話」「知友の死に思う」「日記より」の5編の遺稿が掲載されています。この遺稿の中にも身辺のことに加えて、激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。

「久富氏の死」①

 (前略)僕が初めて久富君に会ったのは昭和6年、僕が政治部長になった時であった。いかにも威風堂々の偉丈夫が政治部にいた。それが久富君であった。仕事をしているとなかなか細かいところに気のつく男であった。それから僕は同君を注意した。満州事変から上海は事変と大変動の時代であった。新聞社、殊に政治部は毎日毎晩、一刻も息を抜くことのできない緊張の時代だった。その上僕は印刷部長兼務という全く新聞社では異例の激務であった。久富君といわず部員全員は必死の健闘を続けていた。

 時も時、僕は政治部員時代や印刷部長時代の不摂生のたたりで身体には異変があった。それは消化器の全機能が全く癒病しているというのである。

 時の胃腸病の大家、南大曹博士から、『命が惜しければ絶対禁酒と食物の摂生』とを厳命せられていた時であった。1日の睡眠3、4時間、昼食などトーストに番茶だけ。バターもジャムもつけてはいけないというのである。今思い出しても「よく持った」とため息が出る。

 やがて政治部の立て直しの時が来た。僕は久富君を副部長に抜てきしてデスクに据えた。先輩、奥村不染氏に「岸井君は乱暴な人事をやるネ」とからかわれたのもその時であった。久富君の入社年限が短かかったためであろう。しかし、その時代はそんなことに構ってはいられない激動期であった。幸にして久富君はよくその職責を全うしたのみならず、僕の病気による欠陥をカバーしてくれた。新聞は常に社会からも畏敬された。一面、社内にも本山老社長の急死から様々な異変が起った。僕は転じて営業局次長となった。その時久富君は僕の後を襲って政治部長になったのである。久富君と僕とは文字通り内外共に激動の時代を密接に協力して過ごした。外からはほとんど二人は一身同体のように見られていたようであった。

 爾来、私は吉武鶴次郎老専務の下にまた新しい仕事と取組んだ。が、社内はこの数年間に他の企業体が10年、20年にも相当する変化を経た。僕の健康は既に回復することができなかった。このまま仕事を続ければ生命も保ち難い。一方、新聞事業に対する僕の情熱もさめていた。社内外の情勢も落ち着きをみせている昭和12年、僕は意を決して新聞から身を引く決心をして辞表を出した。その足で久富君を東京会館に呼んだのである。

 やってきた同君は何か異様な空気を察知したのかも知れない。「おそくなりました。何のお話でしょう?」と沈痛な面持ちである。僕も暫く押しだまっていたが、おもむろに口を切った。

 「実は予め君達に相談するのが道だが、相談すれば僕の意思が曲げられることは必定なので独りで腹を決めてしまったのだ。僕の健康は君も知っている通り自他共に認める難症だ。また、一方、新聞事業に対する昔日の情熱も消えてしまった。今社内も何とか落着いている。この時を逸しては、このままズルズルと心にそぐわぬ仕事に余生を費やしてしまうことになる。長い間親交を続けてきた多数の諸君に対しは自責の念にたえないのだが、この際引退したいのだ。それで今、限に辞表を庶務部長に渡して来て君にここへ来てもらったのだ」と一気に心境を訴えた。(つづく)

「久富氏の死」②

 久富君は一瞬蒼白となって首を垂れていたが、
 「それは誠に困ります。ただでは済みません。社に対して不平のためではありませんか?」
 「誰でも職務についていつもフルに満足している人はあるまい。いや不平などは少しもないと白々しいことを君にいう気はないが、引退の意を決したのは、それだけではない。健康が第一だ。社の仕事に情熱を失ったのが第二だ。そこで僕はみんなに頼むのだ。この機に僕を解放してもらいたい。僕は人生をこれからやり直したいのだ。君の部員は人材揃いだ。万一、このために軽挙する人があってはその人の前途を誤る。僕は今君にいったとおり既に辞表はその部署を通して公式に大阪本社に出している。無理なことは重々承知の上で君の了解を求めるのだ。また、多数友人の説得を頼むために君に来てもらったのだ。今さらどうにも変更はできない」。 

 久富君は沈痛な面持ちで幾度か翻意を迫ったが、僕の決意の動かし難いことをみて「兎に角、私は4、5人の諸君と相談してまた、夕方ここにきますから岸井さんはここにいていただきたい」といつてトボトボと会館を出た。夕方、5、6人がやってきて色々興奮する場面もあったが、私は只々、諸君の了解を懇請した。

 「すでに庶務部を通じて辞表を出したのだから今更、何ともならない。元から印刷局の諸君、営業局の諸君にもそれぞれ了解を得なければならない。諸君の情誼は心から感謝しているが、これから他の方面の後始末をしなければならぬ。許してもらいたい。ここ暫らくは自宅では誰にも会えない。これも了解してもらいたい」といって会館を出た。

 今、久富君の計に接して生々しくその日の記憶が蘇えって離れない。僕にとって久富君は実によきパートナーであった。政治部長として良き女房役を得、良き後継者を得た。その後久富君は編集総務となり、戦時中は下村海南情報局総裁の下で次長となり、縦横に活躍したが、国の敗戦は同君を世の中から葬り去った。二重、三重のパージで蟄居の外はなかった。

 僕は衆議院議員として、また言論、出版関係出として二重の追放を喰って、同じ配所の月を眺める身となった。爾来、同君は持前の幅広い活動を開始した途端に病魔に襲われたのである。頑健そのものの体躯、それに似合わぬ細心の心遣い、厚い情誼、同君の好きな真に稀にみる持領の材であった。君を追想すれば数限りない。(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」①

 今流行の言葉でいえば情報産業の雄、正力松太郎氏が84歳を一期として今暁逝去したとNHKがニュースを報じた(注:1969年10月9日)。自分は自室でニュースを聞かなかったが、慶子が直ぐ伝えたので吃驚した。 

 一昨日、山下芳允君来訪の時、あるいは彼が正力氏の近況を知っているのかと思って聞いてみたが、「最近は大分良くなって、退院して動きまわっているよ」とのことで、自分が理解しているのとは大分違っているので「そうか」といっただけで正力氏についての話はそれだけで終ったのだが、やはり悪かったのだなと思った。

 自分と正力氏との関係は一時は非常に親しくもあり、また色々のできこともあったが自分が新聞界の足を洗ってからはだんだん疎遠になっていた。最後に会ったのは41年の秋ごろ、坂本直道君の出版記念祝賀会の時だ。当時、互になつかしい話をしたものであった。その時既に、見たところ足許が一寸頼りなかったことを思い出す。その時同君が娘婿の小林を副社長にしたことを喜び、彼は学生時代、東大きっての秀才であり、官界においても群を抜いて昇進した話をアケスケに喜んで話していたことが印象的であつた。この際、一寸、同君と自分との関係を書きとめておこう。

 正力氏は役人上りであった。山本権兵衛内閣で警視庁の刑事部長と雷名を挙げたのは衆知の通りだが、当時の大逆事件で内閣が崩壊した当時、経営不振で歴史ある読売新聞も気息エンエンたる有様であったが、彼氏どんな確信があっか、後藤新平氏に懇請して資金を得、読売新聞を買収して乗込んだ。当時新聞界に二大紙の村山、本山両鬼才が東京にまで進出、東京朝日、東京日々は隆々たる勢で拡大しつつあった。東京には、尚、国民新聞に老いたりといえども徳富蘇峰健在であり、報知新聞には三木善八郎がいた時代である。「役人上り何するものぞ」というのが新聞界の通説であった。

 事実、読売は依然として背伸びをしても思うようにならなかった。しかし、正力氏は真険に研究もし苦心もしていた。僕の日日新聞の友人に宮崎光男という男がいた。小がらで可愛いい顔の男であったが、それがどういう筋からか正力氏に引抜かれ、読売に入り編集の一部を担当していた。当時、日日新聞は旭日昇天の勢で四辺を風びする勢であったから、日々の風を読売に植付けるためであったろう。宮崎君が編集でメキメキと地歩を進め、編集の全面をやり繰りするようになっていた。しかし新聞そのものはまだ問題にならなかった。

 一日、僕に会って話した時、突如として、「岸井君、うちの正力社長が君に会いたいから橋渡しをしてくれというんだ。君、会ってくれないか」「何の用事だネ」「いやいろいろ新聞のことについて教えてもらいたいというのだ」(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」②

 当時、自分は印刷部長で盤根錯節の印刷部を2年がかりで再建してホッとしていた時である。しかも当時、各新聞の競争は血みどろの時代に、読売の社長に会い、しかも内々で会うということはどうも後暗いことだし、万一噂になればとんでもないことになりかねないので、自分はことわった。ところが、その後数日してまた、宮崎君が「君迷惑だろうが、僕を助けると思って会ってくれないか。僕は懇々と何度でも頼まれるので困っているんだ」。

 色々考えたが日日時代兄弟のようにして過した飲み友達であり、心から親愛していた宮崎のことで、これ以上ことわることができなくなったのみならず、変り種の正力という男に興味もあった。会うだけのことで何も社内の秘密を話すわけではないのだから新聞人が人に会うだけをビクビクする必要はないと思った。

 「それでは会う」といったら数日にしてまた宮崎が訪ねてきて「何月何日、山王の○○茶屋に来てくれ。ボクと小野瀬顧間(新聞界の長老)が正力社長と同道する」という。これは少し変だなと思ったがその時間に宮崎につれられて茶屋に行ったら、正力氏と小野瀬の二人がもう待っていた。

 簡単にあいさつして酒宴になってみんなが酒面になった時、正力氏は「岸井さんに迷惑なのは重々わかるのですが、一つあなたに印刷のことを教えていただきたいと思いまして」と話は核心に触れてきた。
「良いですよ」
「実は最近の日日新聞の印刷の見事なことは全く天下の見ものですが、一体どうすればあんな立派な印刷ができるのですか」

 「ハアーそれは簡単でもあれば、また複雑でもありますネ。一口にどうすれば良いかといわれてもチョッと返答ができかねますが、しかし、やり方をお教えしても宜しい。たとえば写真スクリーンの目を2割こまかく直すとか、良い機械を入れるとか、良いインキを使うとか、良い活字、良いローラー……。しかしそんなことは何でもない。いくらでもいいますが、それで実効を挙げるということとは別ですよ。あなたはそれを実施できると思いますか。実施するのは工場の幹部です。工員です。それを自由に動かし、当方のいう通りやらせることができれば良いんですよ。要するに良い印刷はその人をつかむか否かにあるんです。僕が今、細かいことをあなたに説明してもおそらく皆さんはわかりますまい。あなたはまず印刷の細部を勉強してからでなければならず、腹心の工員をつくらねばならぬ。おわかりですか」(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」③

 正力氏はしばらく沈痛な面持ちでジーッとしていたが「良いことを聞きました。わかりました。今日はどうぞ一つゆっくり召上って下さい」といって私の顔を見て笑い出しだ。一瞬、緊張した空気はほぐされた。それからは主として私は小野瀬に向って昔からの新聞の歴史などを聞き3、4時間も談笑して別れた。

 会見についてはいう者もいないし、また内容が別に社の機密を漏洩したわけでもないので自分は晴れ晴れとした気持で過した。しかし、読売新聞の印刷はなかなか良くならなかった。その後、東日から小泉某など小生の部下を迎え入れた。鋭意改革を企てたようだが、世に認められるような印刷にはならず、したがって会見が問題になることもなかった。

 当時「新聞の新聞」という内報があって、僕のところにも、東日の印刷が評判になっているものだから、年中やってきていたが、正力氏との会見後一年以上も経ったある日、突然、「岸井さん、秘中の秘を聞きこんだ。正力さんと色々話していたら“僕は東日の岸井君に新聞の大切なことを教わった”。何を教わったか聞いても答はない。“秘中の秘”だというんです。何ですか」という。「いや雑談だよ。正力君がいうのは何を意味するかしらぬが、俺は新聞に別に秘密なんかありゃしないというようなことを話しただけだ。正力君が何か 役に立つことがあったのかしらんが俺には覚えがないネ。正力さんに聞けよ」といってとりあわなかった。

 その後、同君は何年もの間、いわゆる“秘中の秘”をかぎ出そうと僕を誘ったが、とうとうそのままだった。正力氏は人心をつかまずには何もできないということが多少面恥しかったらしい。だから僕もそのことは誰にも洩らさずに今日になった。

 同氏の訃に接して今さらながら、当時の光景がマザマザと目に浮かぶ。正力氏とはその後、普通の新聞人同士の交際が続き、日本倶楽部の常連で良く議論を戦わせた。 (毎日新聞百年史=工場編=によると「政治部長から、東大出の岸井部長がきて、工員一人一人と面接、調査を進めたあと社で初の従業員就業規則をつくった。おそらく岸井部長の草案によるもの」と記されている)(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」④

 販売部の人々があわただしい動きをしている。何事かと思っていると報告が来た(営業局次長当時)。読売の正力社長が暴漢に襲われ肩を切りつけられたという。「ヘエどうしたんだ」「いやそれが本社に出入りする熱田です」「エッどうしたんだ」「わかりません」「金をゆすり損ったのかな」。その日は不思議に思いながらそれ以上はわからなかった。 私の体は、いわゆる城戸事件以来(これはまた別の機会に書きつける)弱っていた。自分の思うような結果にならなかったことが健康を害したのだ。自分はもう日日新聞の復興に熱意を失っていた。吉武氏(鶴次郎専務兼営業局長)は異状に心痛の様子だった。当時の販売部長は丸中一保君(東大出)だった。

 同君は仕事に熱心で、日常の仕事には幾分誇張らしいところがあった。ところが、〇中君が突然姿ををくらました。しばらくは極秘が保たれていたが、だんだん新聞界でも事件の片りんが伝わるようになった。同君は正力刺傷事件のチンピラ暴力団に言葉の上で引込まれ、暴力団員は裁判所で「東日の丸中部長と相談しての上でやった」といったらしく、丸中君は数回、裁判所に呼ばれたのであった。これは新聞界としては大問題だ。

 東日に対する陰の誹謗は噴々たるものであつた。城戸事件以来、東日は姿勢の建直しに躍起の際、これは被るべからざる大きな傷である。自分も一回検事局に呼ばれた。吉武氏は当の責任者として矢面に立たされた。これは社内の高石、奥村、山田など反対勢力のこの上もない吉武攻撃の口実となり、社の内外は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。

 丸中君はその責任に耐えかねて失踪したようだ。この失踪でまた、東日の示唆で正力刺傷があったということが事実となってしまい、遂に吉武氏の失脚となり、営業局長には山田潤二がなった。自分も当の責任者として冷飯の座に坐ったままとなった。丸中君はその後どうしても姿をみせず、数年後、伊豆半島の海岸の洞くつの中で自骨となって顕われた。全く気の毒であった。かくて正力氏の刺傷事件は、東日にとって、吉武、岸井退陣など土台をゆさぶる大問題の結果をもたらした。城戸事件、吉武事件、不思議なものである。何か一つの運命が連続して働いていたような感じだ。

 時々、鎌倉に出かけた汽車の中で正力氏と一緒になった。この事件については最後の出合いの時、僕から「いや熱田の事件はとんでもない濡衣でした。大変迷惑なことだが、事実、東日は何のかかわりもないことだった」。「イヤーそれは良くわかっている。マァ一つお互いに新聞界のために手を握って行きましょうや」といって両人の間では呵々大笑の話題にすぎなかった。それから後、時々汽車で会ったが熱田事件が話題になることはなかった。(つづく)

(福島 清)

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2021年6月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その13 南房総の野菜畑(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦
全文は 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443545.html

 野菜作りを始めてかれこれ10年になる。房総半島南端の館山市に実家が残っていて、目の前が畑になっている。両親は2人とも亡くなって、だれも住んでいない。私がいま住んでいるのは習志野市で、週末になると妻と2人で実家へむかう。一般道路だと距離にして110キロ余り、片道3時間半かかる。

 畑の広さは、登記台帳を見ていないが、目見当では400坪から500坪ぐらいはある。趣味の家庭菜園としては、3分の1もあれば充分である。しかし、畑を遊ばせておくのがもったいなくなり、ついつい畑いっぱいにあれもこれもと植えてしまう。

 そうしたくなる理由はほかにもある。実家のあるあたりは、房総半島でもとくに暖かく、霜の降りることは何年かに1度しかない。ナバナ(菜花)は9月に種をまくと、11月半ばにはつぼみをつける。サニーレタスは1月でも2月でも、種を蒔けば芽が出る。春夏秋冬を問わず、その気になれば、多彩な野菜作りのできる恵まれた自然環境といえる。そんなこともあり、畑にはいつも10数種類の野菜を併行して作っている。

 商品作物を生産しているのではなく、あくまでも自家消費が目的の家庭菜園にすぎない。たくさん作ったところで、親戚や知り合いに配るだけで、一円の収入にもならない。にもかかわらず、年がら年じゅう時間に追われ、のんびりしている暇がない。毎週1泊2日で、実働1日という日程にも無理があるのだが、とりわけ、4月下旬から6月初旬までと、9月から10月中旬までは忙しい。

 今年は4月下旬からの1ヶ月間に、ソラマメ・ジャガイモ・タマネギ・ニンニク・ラッキョーを収穫し、そのあとにスイカ・ナス・サツマイモ・トマト・キューリ・ゴーヤ・オクラの苗の植えつけや種まきをしている。この時期に夏秋の作物冬春の作物を交換させる。早いはなしが、畑の衣替えをするわけだが、作物の出来具合や天候の成り行きを見極めるのが難しい。そのため、収穫と植えつけの進行が混乱して、いつもきりきり舞いになる。 田舎の朝は早い。夏の季節なら4時すぎには目が覚める。起きたらすぐに畑にでる。夜間にたっぷり水分を補給した野菜が瑞々しい。ぼんやりと眺めているだけでなんとなく気分が高揚する。1日のうちで私の大好きな時間である。陽が昇るのと前後して、あちこちの農道を軽トラックが行き交う。農家の人たちが特産の花卉を栽培するビニールハウスを見てまわっているのである。ハウス内の温度と換気の調整をするのだが、一番の目的が何かといえば、花卉の育ちぐあいの観察と健康状態の診断にあるのだという。

 農家の人たちほとんどは幼なじみである。顔を合わせれば、声をかけあう。あれこれ立ち話をしているうちに、作物の育ち具合や病虫害・鳥獣被害などの最新情報が得られる。彼らは自分の畑だけでなく、よその畑にも目配りを利かせている。私の家のような野菜畑のようすまでよく分かっている。

 同じ種類の野菜を同じように作っても、豊作の年もあれば不作の年もある。一番大きい要因は、なんといっても天候ということになるが、もちろんそればかりではない。今年はソラマメ=写真・下=が私の家のあたりでは不作だった。私の場合は4合の種から90キロ余りを収穫しているから、それほど悪い成績でもなかったが、栽培農家のなかには収穫する前に後片づけをすませてしまったところもあったという。

 ソラマメは連作障害が厳しい。その対策として土壌消毒剤や土壌改良剤を用いるのだが、それも効果がなかったということかもしれない。私も連作障害に悩まされ、栽培方法を変えてみたり、土壌改良剤を試みたりしたが、うまくいかなかった。いまは土壌改良剤も使っているが、少なくとも2年の空白期間を設けるとともに、ソラマメ以外のマメ類も作らないようにしている。ところが、今年の場合も、収穫前に樹が枯れてしまうとか、しっかり実をつけていない箇所がそこかしこにみられた。原因は連作障害のせいだという意見が多いが、春先の低温のせいだという人もいて、確かなことは分からない。

 病虫害と鳥獣被害も野菜の栽培を難しくしている。

 ソラマメでいうと、アブラムシがつきやすい。1つの株から何本もの幹が伸び、春先に花が咲くのだが、ちょうど実をつけ終るころになると、決まったように、一番上のやわらかい芽の部分に、アブラムシが発生する。アブラムシを見つけたら、その樹だけでなく、畑全体のソラマメの芽を摘んでしまう。すると、それ以上は広がらない。

 ところが、今年にかぎっては、早くからアブラムシがついた。まだ満足に実がついていないから、芽を摘むわけにはいかなかった。消毒することも考えたが、妻がそんなことをしたら人にあげられない、といって反対するので、それもできなかった。仕方がないので、ソラマメの1本々々を見てまわり、アブラムシを払い落していった。

 翌週に行ってみると、払い落としたはずのアブラムシがむしろ勢いを増している。こんなことをしても埒が明かないと思ったが、2人で何時間もかけて払い落としていった。3週間目になって、我慢もこれまでと思って芽を摘むことにしたのだが、そのときには、アブラムシは幹の下まで広がっていた。このままだと全滅しそうな気がするし、そうならなくとも、まともなものが収穫できるとはとうてい思えなかった。ところが、次の週になって妻と2人して驚いた、というよりも、目を疑った。アブラムシは1匹も残らず、まるで何ごともなかったように、ソラマメ畑から姿を消していたからである。

スイカ

(途中略)

宮本常一の名言がある。

 自然はさびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。

 このあとに「そのあたたかなものを求めてあるいてみよう」と続く。1960年代のTV番組『日本の詩情』(日経映画社)のナレーションである。

 耕作を放棄した田畑は、たちまちに草茫々の荒地に姿を変える。自然に回帰しようとするのである。自然とは人間の力の及ばない領域の総称といっていいかもしれない。私たちは人の気配の消えた風景に心を癒されることはない。まして、そこで生まれ育った人なら、なおさらのことである。

 だが、物事には始めがあれば終わりもある。

 これから5年もすれば、否も応もなく、私は80歳になる。常識的に考えれば、畑仕事はなんとかこなせる。とはいっても、車を運転して習志野と館山を往復するのは、体力的に難しくなるばかりでなく、はた迷惑な行為として嫌われるのはいうまでもない気がする。

2021年6月15日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その7

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」から、抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」⑪

 昭和20年8月15日、どこかで用意されていた“平和”という言葉で終戦を迎えたのは、それから間もなくのことでした。その後暫くして、古閑少佐と特高の一人は自決をして果てたということを聞きました。

 終戦を迎えながら、自ら命を断たなければならなかった人達が余りにも痛ましく、しかも別荘に関わりのあったことがいつまでも痛く心に残りました。もう一人の特高は、夫に就職の依頼にきました。あの誇らしさは一朝にして失われ、見るかげもなくうらぶれ果てた憔悴の姿でした。しかし生きていてくれたことが、あんなにうれしく私の心をゆさぶったことはありませんでした。夫のいう一人一人に与えられた大切な命なのです。

 終戦と共に軽井沢へも政界、財界の人々が次々に集まり、私の家への出入りも多くなってきました。しかし避暑地の冬は余りにも早く、10月6日に四男の巍次が誕生しましてからは日増しに寒さが身に浸むようになりました。夫は大森の山王にあった関係会社の寮をあけさせて、ひとまず単身上京し、総ての準備を整えてくれました。普通の邸を寮に使用していたものですし、留守居の母娘がその儘残って手伝ってくれることになりましたので、夫の生活に支障はありませんでした。

 私は寒さの中で産後の体の回復を待ち、11月に入ってからはじめて東京の土を踏みました。軽井沢で会合を続けていた方々も次々に上京し、軽井沢構想は漸時具体化して行き、日本自由党の結党式をあげる運びとなりました。自由党の名付親は夫で、世界の自由党でなければならないから日本はいらないという意見でもあったのだということを聞きました。しかし夫は間もなく追放を受けました。選挙区の方々が心配して次々に上京し、慌ただしい毎日が続きました。

 その後、名門報知新聞の復刊の企画に加わり、社長に就任し、昭和21年末に復刊第一号を出しましたが、そのとたんにまたまた追放の追い打ちをかけられました。被追放者は新聞、雑誌、ラジオ、映画等広報関係に従事してはいけないということなのです。「政界を急に追放せられた以上、新聞に籠って言論で思う存分やっみるのはむしろ私の本命の仕事」と申していた矢先の出来事でした。

 「まあ、仕方あるまい。戦時中責任の地位にあったことに間違いはないのだから。政治を続けてやれば、俺の体そう長くは持つまいと思っていた。長生きをして若い人達を指導してやろう。また子供で俺に似たのがいたら志を継いでやることになるさ。それで良い」
と私に申しておりました。ある雑誌の寄稿文の一部に当時の心境を次のように記しております。

 『孔子は「五十にして天命を知る」といった。少しはわかるような気がした。孔子程の聖哲も時到らねば志を得ず、退いて後輩を教えて晩年を送った。もし若くして志を得ていたら、不朽の聖哲に達することはできなかったかも知れない。「人間万事塞翁が馬」。それから私の家には平和な日常が続くようになりました』と。(つづく)

「夫を偲んで」⑫

 確かにその通りの生涯に入って行きました。若い政治家や財界人の指導に当たり、表面には出ません。でも夫の意見がその儘政府の見解として大きく各紙面を賑わしたこともしばしばありました。結局は政治に関与していたことになるわけで、当時の日本には夫は大事な人であったと思います。政治関係の方の出入りの他に、戦前やっておりました日本橋の会社と同じ光景も展開されました。就職、金策、食糧その他諸々の用件をたずさえて入れかわり、立ちかわり多くの人々が夫を頼って訪ねて来ました。

 夫は誰がどんな用件で訪ねて来ても大変うれしそうでした。それはお互に心の通じ合う人々であったからなのです。話がはずんでいつしか用件が時局談に移り、時のたつのも忘れている様子でした。

 「良い人間程困っている」、戦後の混乱時にはなお一層その傾向が強くなりました。戦争を大いにあおった人達こそ、恥も外聞も忘れてGHQに取り入っての追放解除の暗躍に躍起となっていました。善悪、清濁が自ずと表われ出る皮肉な時代でもあったのです。

 こうした中で夫は政界から身を引く決心を致しました。そのため、追放解除後はせっかくの選挙区の方々の熱望にも応えられず、厚意を無にしなければなりませんでした。夫もそのことが一番心残りであったようでした。その後は文字通り悠々自適の生活に入りました。毎年軽井沢で7、8、9の3カ月を過ごしました。政界の方々の他に石坂泰三氏、原国造氏など財界人もしばしば訪ねて来られ、碁に興じておられました。

 石坂氏は、東京帝大の4、5年先輩でいらっしゃいます。戦時中と違いまして夫の周囲に機密の会合がなくなり、食事をしながらの氏と夫とのさわやかな政談に心引かれて、つい座を立つのを忘れることもありました。客を迎えることは主婦にとっては生きた学問をさせて頂ける絶好のチャンスでもありました。夫の友人はどなたも非常に家庭を大事にされていたように思いました。決して甘やかすという意味ではなくて、しっかりそこに根をおろしているという感じでした。家庭の重要な意味と、妻や子供にも大いに責任のあることを痛感せられました。(つづく)

「夫を偲んで」⑬

 石坂氏が病身の夫人を非常に労わっておられたことも雑談の中にしばしば出て参りました。また学生であった令息の友人達が毛布一枚かついでぞろぞろと別荘に押しかけて来たので、逃げて来ましたと愉快そうにその様子を話しておられたことなど、人間石坂氏の一面を見せられることも多くございました。

 石坂氏の食事のなさり方、好物など人柄そのままに豪放で大変ほほえましいものがありました。また永野護氏が軽井沢の拙宅に泊られたときのことでした。茶室で一人で庭を眺めておられましたので、お茶をたてて差しあげようと思って参りますと、「世間では僕のことを机竜之助などといっていますが、如何がでしょう。ご主人を大変適確に評価されるそうですが是非聞かせて下さい」とのことに全く赤面致しました。夫のことを勝手に評価して「見損うな」などと叱られている私なのです。

 永野氏は戦時中、玉川へもたびたび来られ、国事に奔走していられた様子も存じておりますし、また前日は大勢の兄弟を親がわりに育てられたという昔語りも聞かせて頂き、私の考えていた永野氏の口から語られるのに相応しい話と、尊敬の念を深めていたところでした。「どうも陰険だということらしいのですがね」と、大変真面目なお話のようでした。

 夫が参りますと氏はまた同じことをいわれました。

 「そういう誤解を受け易いところは多分にあるよ、君」
 「そうかな、気を付けないかんな」
 「上に立つものは警戒心を持たれると真実が耳に入らんようになるからな」
 「そうだな、注意しよう」

 最初は単に笑い話で済む問題かと思っていましたが、噂も疎かにせずに、まず受け入れて考える、その会話が二人の間でさらりと進められて行きました。

 津島寿一氏は、夫の出身地香川県の先輩で、気に入った別荘が見つかるまでと軽井沢の拙宅でしばらく一緒に暮したことがありました。夫人も静かな方でしたが、氏も永らくイギリスに滞在しておられたせいか典型的な英国風の紳士でしたので、あくまでも礼儀正しく、端麗で、人間津島氏の一面を見せるということはありませんでした。夫と時の経つのも忘れて碁に興じたり、経済談義に花を咲かせたりしておられました。

 ある日、二人が碁盤を囲んでいた時、夫人が「その場で勝敗のきまる勝負の世界なんて、厭、厭」と肩をすくめて見せたのが、如何にも優しい夫人らしくて印象的でした。

 料理に凝っていらした氏は、コックを抱えておりましたが、夫人があるとき女中の切り残した細い沢庵のしっぽをつまみ上げて、

 「私は小さい頃、沢庵のしっぽというニックネームでしたの。一番末っ子のせいもありましたけど、実はしなしなしたしっぽが好きでしたので」。

 人間そのものが通の域に達していたのでしょうか、さり気ない話し方をされる方でした。(つづく)

「夫を偲んで」⑭

 私は夫の傍に生き、多くの方々に接することが出来て本当に仕合わせであったと思っております。夫はこうした生活の間に、山歩きも致しました。澄んだ空を眺めながら、「またそろそろ地球を料理するか」、ということで技師を伴ない、別荘番に弁当などを持たせて戦後間もなく鉱山や温泉の探索をはじめました。

 鉱山は東大の石和田章三先生、温泉技師は三雲康臣氏でした。夫は工学、化学共に豊富な専門知識を持っており、また地質学にも勝れた見識を持っていましたので、石和田氏、三雲氏共に夫の意見を尊重して調査を進めておりました。

 いつの頃からか、私は単に出歩きのお伴のつもりでしたのに、すっかり地球の内臓を探る仕事の虜になってしまいました。

 政界に入る前に新聞界から初めて事業界に入ったばかりの頃は、夫も最初から大鉱山に取り組んで大変苦労もし、勉強もし、また大きく儲けもしたようですが、その頃は主に非金属の鉱山を見て廻り、長硅石の鉱山を買い取り、他にまだ海のものとも山のものとも解らない鉱石の開発にも興味を持っておりました。

 「きっとこの白さが役に立つ」といった具合に簡単に鉱山を買い取り、それから分析や、化学試験などをさせてその結果を楽しみにしておりました。それをアート紙、農薬その他に使用可能なものにして業界に送り出しました。

 これより先にも硝子、陶器に同じ苦心の末世に出したものが既に20数年老舗のブランドを誇っています。不思議な才能の持主でした。これだけ投資したらこれだけ儲かるなどということは余り念頭にはおいていなかったようです。もちろん良い悪いは別として金儲けが主でなかったことはたしかで、大事業を引き受けてもらいたいという申し出でには応ぜずに、若く有為な人材を推薦する努力をしておりました。

 一生の仕事として選んだものは儲ける儲けないの問題ではなくて、やはり政治、新聞であったようです。鉱山、温泉の仕事は地球に穴をあけて、無から有を生じて世の中を潤したいということでしたので、様々な試験の失敗を繰り返して成功を見た時の嬉しそうな顔には温かい人間味が溢れておりました。「金は勝手にうしろからついて来よった」と申しておりましたが、全くその通りでした。自由に勝手に生活をしておりましたのに、不思議に経済的には大変恵まれておりました。(つづく)

「夫を偲んで」⑮

 温泉調査もまた楽しいものでした。夫は地質学者の異端者的な存在であった三雲氏の調査技術に惚れ込んで、夏はいつも氏と私、それに別荘番、ある時は写真技師まで伴って浅間周辺と申しましても何十キロも離れたあたりまでですが、隈なく調査して廻りました。地質学的に種々難しい原理はあるのですが、兎に角それらの上に機械で実際にキャッチした地下の脈の形態が合致して行く面白さは、夫ならずとも魅せられてしまいます。

 爆烈口と称する地下深くひそむ小噴火口を探り当てた時は、三雲氏は子供のように嬉しそうでした。勝れた温泉脈の元となるものでした。その近くは崩れ易いので掘るわけには行きません。その上火山の近くを掘ったときと同じように湯がなく、ガスが噴出するということで爆烈口から走り出ている温泉脈を地質、地形などを見ながら適当な場所を何キロ、あるいは10何キロも離れたあたりまで探索します。

 5万分の地図の上に、実際にキャッチした点を記し、その2カ所を結んで延長すると、先に記しておいた爆烈口あるいは火山に間違いなく走って入ります。あるいは反対に探索した脈の線が放射状に走って一点で結ばれ、そこを訪ねてみますと、古い噴火口であったり爆烈口が発見されたりもします。

 大断層の上に建築物がある場合には三雲氏のいっていた通りに大変腐蝕や崩壊が早く、また神経痛その他の長患いの人が住んでいることも信じ難い程適確に立証されてゆきました。強烈な放射能のせいでした。山津波のあったあたりには大断層がありました。

 三雲氏はドイツで地質学、温泉、水源、石油等の調査の修業をされ、ドイツ人の恩師から譲り受けた機械で調査していました。放射能を捉える時、自分自身の体がアースの役をするらしく、食事をすると嘔吐を催しますので梅千を食べながらの作業でした。

 機械の正体は決してみせませんでしたが、現代のものから見てあるいは原始的であったのかも知れません。原始的であったからこそ人間の知恵が徒らに加味されずに宇宙の法則とぴったり合致するということにもなるのでしょう。

 氏は全国に大きな数多い実績をもっておりました。自分の学説を何ものにも侵されまいとする態度はかたくなにさえ思える程でしたが、夫は20数年来彼にのみ任せ、その技量を高く評価しておりました。何万年、何10万年前の地質の成り立ちや法則との関係などから解き明かして行く温泉脈の原理の面白さは、いつしか引き入れられて納得が出来てゆきました。

 山野の下草の枯れているときが一番調査し易いわけですが、夫は体力づくりや山歩きの楽しみを兼ねてのことですので季節を問いません。大体気候の良い時期に出かけますので、三雲氏も大変であったろうと思います。美しい自然の中で、私は夫と同じ目的に深い興味を持ち、瞼しい山道を手をさしのべ合いながら汗し、そして語り合いました。

 火山の周辺に身を置くとき、いつも二人で見に行きました大遺跡展、古代美術展のポンペイ、メソポタミアツタンカーメン、ヴェルサイユ展などの興奮を新たに覚え、溶岩、地層断層、焼石の考察がいつしかそれら古代人の生活様式、美術品の持つ神秘さに話が移って行きました。自然と融和して生き続けた人間を、いとおしむ心に相応しい雰囲気の中に二人はいたのです。それは甘く、はかなく、もの悲しいものでした。その中にとらわれたときいつしか二人の間にも美しい神秘の恋が芽生えていたのかも知れません。今、鮮烈な思い出となって蘇って参ります。

 夫は温泉調査の足跡を各地に残し貢献致しました。20数年行動を共にした三雲氏も夫より一足先に旅立たれました。(つづく)

「夫を偲んで」⑯

 政治、新聞、鉱山、温泉のすべてが夫の人間愛から出たものでした。

 「おとう様は人一人が一生、かかっても難しい仕事を180度の転換をしながらいくつもやり遂げ、何人分もの人生を送られたのですね」。

 巍次がはじめて社会人になったとき改めて驚嘆していました。夫は政治、経済はもちろんすべての新しい知識も絶えず吸収し、世界の情勢に目を向けて的確な判断を下し、後に続く一人一人を大切に指導し続けておりました。夫に接した方々は夫の精神からきっと何かを受けて下さったものと信じています。

 成格は父親のすべてを大変尊敬していたようです。自然を愛した夫は人間そのものをも非常に愛していました。だからその本質や生き方に深く目を注ぎ人間追究の手を最後まで緩めることなく「ジュラント」の世界の歴史6、700頁の本を1日100頁程の早さで読み進み、月1回の配本を待ちかねておりました。核心に触れるところには栞を挟んでおき、私に後でゆっくり読むように、そして時間ができたら一巻から丁寧に読むが良いと申しておりました。

 奇しくも全32巻を読み終えて間もなく、私に「あの本はもういいんだよ」と申し最後まで確かな思考力を持ったまま、それらの過去の人々の中に融け込んで行ってしまいました。

 「ジュラント」のほかに、伊藤清の明治精神に生きる、富永健一の社会変動の理論、L・エルコーザーの知識人と社会、永井陽之助の柔構造社会と暴力、マーシャル・マクルーハンの人間拡張の原理=メディアの理解などをつぎつぎにひもといて、読書三味の明け暮れでした。

 これより先、亡くなる4カ月程前のある日夫は私の手を握りながら突然「お前は俺の手で作りあげた立派な財産だ、これをおいて死ねますか」と申しました。その時は、本人もそうであったでしょうが、私も別れるなどとは夢にも思っていませんでしたから「お前をおいて死ねますか」といった愛の極限のような言義だけが大きく私の心を震わせました。思わず涙ぐみながら、恥かしさも手伝って堅くなって俯いてしまいました。仕合わせ過ぎるような気もしましたが、夫の口からぎりぎりの愛の言義などを聞くと痛々しい気も致しました。

 そんなことをとつおいつ考えているうちに、私を財産などといった言義が少々心に掛りはじめました。

 「財産って……」

 思い切って、私は小さな声で聞いてみました。私は夫の心の疲労を極力防ぎたい気持から年毎に会話は手短かになって行きましたが、かえってお互の心の触れ合いは深さを増していました。

 「宝ものでもええ」

 おおむ返しにいつものほほえましい素直な返事がはね返ってきました。

 「俺のやってきたことはすべて俺の心だ。そのことはお前も十分に知っていたはずだな。小笠原の会社、土地もそうだ。ぜひ金にしたいという人に頼まれて援助のつもりで買って上げたものだ。戦時中は食糧難に苦しんでいた東京の人々を救ってやりたいと思い、肉、野菜、果物、乳製品、砂糖等当時手に入らなかった品々を船で運んで無償で配給してあげた。それはお前も知っての通りだ。戦争が激しくなり船が行けなくなってしまい、一部にしか行き渡らなくて残念であったが、つまり俺が財産といった意味の中には物とか金とかの観念はない。心あるいは命といってもええ。解ったかい?」

 私は黙って聞きながらひたすら夫に長生をしてもらいたいと念じていました。80歳といえば既に天寿を全うしたと考えられる年令には違いありませんが、全く持病というものがなく、したがって夫も私ももう20年共に元気で暮したいと願い、お互いにあらゆる努力を払ってまいりました。そしていつしかそれが確かなもののように思いはじめていたのです。(つづく)

「夫を偲んで」⑰

 そんなことをあれこれ思いめぐらしていた私に夫はさらに尻上りの優しい声で「解らんかい?」と問いかけてきました。「解りました」と答えた時私の日からは既に涙が流れ出していました。

 「小笠原に老人の楽園をつくりましょう」と私が提案すると、夫は「うん……。」と答えて目をとじ、それから「あの人も、この人も連れて行ってあげよう」と早速人選に取りかかり、楽しく話し合いました。

 その人はもう逝ってしまったのです。「そのうちに私達も小笠原のお月様を眺めて暮しましょう」と毎日のように語り合っていましたのに。

 「病気だ」とは決して申しませんでした。中央広告通信、東京ポスト社長岩田富美氏を夫は20数年来わが子以上に可愛いがっておりました。氏は夫の体を案じて大きな病院に優秀な医師団を構え、いざという時に備えてくれました。また成格も慶応その他の病院の院長、副院長と懇談を重ねて備えを固めておりました。しかし遂に夫の翻意を促がすことはできず、最後に静かに近距離の病院に入院致しました。院長が立派な方で夫の意を尊重して扱って下さいましたことを心から感謝しています。治療は受けたくないという夫の意になるべく添うようにはかって下さいました。

 急であったにも拘わらず、設備の整ったドックの部屋を二つ提供して下さり、万全を期して下さいましたが、夫は静かに自分自身の心で命を見詰めながら最後まで死を意識することなく、明日を信じて永遠の眠りにつきました。私には生命に対していざという時死を覚悟しての強さがありました。夫には生きている限り死を認めない強さがありました。私も夫にならって、弱い体で医薬から離れて20数年になります。その強さの相違をはっきりと知らされた瞬間でした。

 アメリカ在勤の巍次も入院と同時に帰国し、最後の孝養を尽し得たことは何よりでした。夫は亡くなります5カ月程前から巍次に会って話したいと申しておりましたから。

 夫は成格(毎日新聞政治部記者)、巍次(伊藤忠商章ニューヨーク駐在、26才)、それに孫の大太郎(東大教養学部在学、18才)、雄作(慶応義塾高校在学、16才)、美恵子(同中等部在学、12才)たちをはじめ、甥姪の子供達や、岩田氏の長男の健作ちゃん、長女の典子ちゃん、など夫を尊敬し慕っていた多数の良い後継者に恵まれております。夫の心が永遠に引継がれて参りますことを願ってやみません。

 夫の人生をより有意義なものにし、常に見守って下さいました多くの皆様に心から感謝申しあげます。(「夫を偲んで」おわり)

(つづく)
(福島 清)

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2021年6月8日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その6

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」は、激動の時代に寿郎さんがどのように生き抜いたかを詳細に書いています。抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」⑤

 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲攻撃の戦果に酔いしれたのも束の間、昭和17年4月にはB25の陸爆機により東京および名古屋は初空襲を受け、更にその年の6月5、6日にはミッドウエー島沖の日米の海戦で日本軍は壊滅的な打撃を受けました。その後は坂を転げ落ちるような敗戦の一途を辿っていたのですが、大本営は相変らず目覚しい戦果の発表をし続けておりました。事実とは全く相違していましたが、そのことはいち早く夫の耳には入っていた様子で、
 「大本営の発表をメモしておけ、事実との相違を調べるから」
といっておりました。夫の和平工作は同志の方々と共に進められていたようでした。

 昭和19年1月には次男が学徒出陣で沖縄に向かい、6月には夫の身を案じ続けていた姑を亡くし、7月には長男を司政官としてビルマに送り、9月には三男の成格が誕生しました。孫の出産を楽しみにしていた姑を失ったことは夫と共に大きな痛手でございました。戦時中で思うように孝養の尽せなかったことも心残りでした。

 夫は香川県の古い藍問屋に生まれましたが、父を早く亡しく、母の手一つで育てられました。姑の言葉のうちで特に私の心に残ったものを拾ってみることに致しました。間に合わぬ使用人をよく労わり他の者に、「足らぬ者(能力のないもの)には足してやるより仕方がないではありませんか」といい、またいつも口先ばかりの人には、「心で思うて頂くことも有難いことですが、本当にして頂く方がもっと有難いことです」と一寸苦言も呈しました。

 子供の教育については一見識を持っておりました。「不道徳の芽だけをつみ取ってあげれば良いのですよ。良いことは誉めておあげなさい、心の栄養ですからね。善悪のけじめは一番難しいことですね。言い聞かすより前にまず親が自分の心にしっかりと問うて見て、あやふやなうちは決して口にしてはなりません。間違うたことを押しつけることになりますからね。これは一難かしい……」 自分に言い聞かすように話しておりました。(つづく)

「夫を偲んで」⑥

 熱海といえば、古い友人の川島正二郎氏とは同じホテルでしたのでしばしば落ち合い、時には成格、巍次も交えて時局談にひとときを過ごすこともありました。昭和19年末から20年にかけて、夫は母を亡くした悲しみに浸る間もなく、国の将来を案じて東奔西走し、夜帰宅してから原書で英米の空軍の実態などを調べ、それを翻訳して私に清書をさせていました。国会演説で軍の拙劣さを追究するための資料の一つでした。

 その日も使用人達が寝静まってから、広い邸の離れの一室で、その上尚且つひそひそとあたりを憚って話し合いながら明け方まで続けられました。

 「勝てるのでしょうか」
 「敗けるさ、最初から勝味などはない」
 「敗けるって……。それは大変なことではありませんか」
 「大変なことだよ」
 「敵が上陸して来るようなことになったら、私達は皆殺しにされてしまうのでしょうね」
 「手むかうから殺される。アメリカ人は降伏した相手を皆殺しにする程野蛮じゃない。今より良くなるよ」
 「降伏……」

 私は夫の顔に目をとめました。

 たった今重大なことを目にした人とは思えない静かな表情でした。しじまの音のみの静寂の中で夫のページをくる、かすかな音だけが息ずいていました。

 「だからこれ以上無駄に国民の命を失わせてはならんのだ」

 夫がぽつりと重く口を切りました。

 続けて何かを話していなければやりきれない気持なのに、もう話すことはなくなってしまいました。犬の遠吠えでも良いから何か大きな声で、今のこの静寂を自由に勝手に思いきり破ってほしいと思いました。

 日頃の夫の言動から、勝つと思っていたわけではありませんでした。軍の独走の中で、和平に導く時期と方法が問題だと漏らしていたことがありました。停戦協定の時期はもう失してしまったようです。既に昭和19年7月にはサイパソ島玉砕により、マリアナ基地を失ってしまった責を問われて東条内閣は総辞職をし、小磯内閣の時代に移っておりました。

 降伏をしても今よりは良くなるといった夫の言葉は、軍の横暴によって自滅の道を辿っていた日本が兎に角新しく生まれ変わるということのようでした。目かしくをはずして国民の一人一人がそれをはっきりと認識しなければならない最後の時期に来ていたのです。

 「だから……」と夫は言葉をきり、「これ以上無駄に国民の生命を失わせてはならんのだよ」とまた同じ言葉を繰り返しました。(つづく)

「夫を偲んで」⑦

 戦時中の激しい生活の中で夫がほっと一息つくのは、生まれて間もない成格のお守りをする時でした。大きな椅子の上にあぐらをかき、その中に赤ん坊を入れて、丁度巣の中の小鳥を覗き込むような格好で「良い子じゃ、良い子じゃ」と飽かず眺めていました。

 成格に対する父の愛情は生涯を通して変わることなく続き、成格もまた大変父を尊敬しておりました。高校生の頃からは、父子というより恩師と愛弟子のような話し合いが多かったように思われました。

 玉川用賀は当時大変不便な所で、その上ガソリンは次第に入手が困難になり、運転手も出征や徴用で取られてしまいましたので、夫が毎日出て歩きますのもなかなか容易なことではありませんでした。

 しかしそうした所にも拘らず、多くの方々がよく訪ねて下さいました。当時衆議院議員であった永野護氏、楢橋渡氏、日本出版会々長の久富達夫氏、河出書房社長の河出孝雄氏などはしばしばお出でになり、殊に永野氏はいつも庭の木の間を夫と密議をこらしながら歩きまわり、その儘風のように去って行かれる忙しさでした。

 昭和20年の5月中旬であったと思います。小磯内閣の時行なった夫の国会演説の原稿は一室に缶詰にされた上、激論の末に当時の陸軍次官の手でその3分の2を抹消されてしまったと聞きました。しかしその重要な部分の一部を敢えて発言し、翌日の朝日新聞の朝刊であったと思いますが、一面の真中に囲みの記事で掲載されました。それから間もなく軍を批判したということで憲兵隊に逮捕の指令が出されたのです。

 楢橋氏が事前に知って早速知らせに駆けつけて下さいました。氏は急ぎの用事があるからと、すぐ帰って行かれました。夫は私を伴って自室に入り、暫らく黙って座っておりました。そのさり気なく寛いた姿勢から、むしろこうした場合の夫の強さを感じました。

 「あいつらに俺がくくれてたまるか」と一人言のように申し、「俺に一つのチャンスを与えることになるだけだよ」と今度は私に話しかけました。逮捕されるかも知れないということは、既に二人共感じていたことでした。

 しかし夫の言葉は何らかの成算があってのことに違いありません。一年程前にスパイの嫌疑で軍法会議にまわされ、死刑の判決を受けた青年の無実を立証して連れて帰ったことがありました。

 「軍の首脳部だろうとアメリカ人だろうと、全部が全部敵味方に分かれてしまっているわけじゃない。止むなく立たされてしまった異なった立場で、実は同じことを考え合っている。誰も彼もがそう馬鹿になれるもんじゃないよ。一部の奴らを除けば通じ合うものは今も昔も少しも変ってはいない。話せばわかるもんだよ。だがしかし、このことにも限度はある。あくまでも詔勅による聖戦ということになっているからだ」。

 いいたいこと、やりたいことがどこかで止められる。通らないのです。でも通さねばならなかったのです。決して油断はなりませんでした。首相の小磯国昭氏は古くから夫とは懇意な間柄でそんな乱暴をするはずはないと申しておりましたし、軍の首脳部にも記者時代から親交のあった方々も多かったのですが、既に下剋上が横行している軍の内部では、上司の知らぬ間に何をしでかすかわからないということでした。

 殊に憲兵隊はなお東条の勢力下にあったのです。逮捕令は決して軽視出来ませんでした。当時陸軍は戦況の不利で焦躁しており、邪魔気のものは暗黙の中に取り除く位のことは平気でした。しかしその後間もなく玉川の家は戦災を受け、その翌日には逮捕状のあった渋谷の憲兵隊は跡形もなく焼け落ちてしまいました。邸の片隅に焼け残った倉庫を住まいにして、私達は戦災で失った女児の野辺の送りを済ませました。(つづく)

「夫を偲んで」⑧

 その後軽井沢の別荘に落ちのびました。玉川の家より広大な建物の中には前々からの布団、衣類、食器など2、3家族分位はありましたので不自由なく暮すことが出来ました。

 楢橋渡氏一家は横浜で戦災を受け、私達より一足先にこの別荘を仮住いにされて暮らしていました。国際地区軽井沢には敵機も近寄らず、東京で受けた空襲は一夜の悪夢ではなかったろうかと錯覚する程の静かさでした。

 しかし夫の身辺は東京以上に慌しさを増して参りました。鳩山一郎氏、石橋正二郎氏、坂本直道氏、本野大使など軽井沢におられた方々と往来して語り合い、また私宅その他でしばしばその会合も持たれるようになりました。外国関係者も在日者は殆んど軽井沢に集まっており、スイス大使は隣りに住んでいました。夫の仲間はいろいろのルートから大戦の真相や世界の情報をいち早く入手していました。日本の破局はその頃既に時間の問題でした。会合のときの論議は、如何にして徹底的敗戦を食いとめるか、また一方、万一の場合の後始末と再興の策如何、などでした。

 しかし軽井沢でも特高警察が常に夫達につきまとっていましたので、油断は出来ませんでした。東京でも同じような会合が持たれていました。ある日、鳩山氏が軽井沢の拙宅に来られた時、あいにく私は疲れのため伏せっておりました。

 別荘には1000坪程の見事な苔庭がありまして、氏はそれをめでつつ庭から入って来られ、客間を通り抜けながら、「いま葱の土寄せを済ませて来たところです。奥さんはお料理が上手なそうで、今日は楽しみにして来たのですが残念でした」といわれ、夫と共に応接間の方に去って行かれました。夫は、現在疵を負っていない、つまり国民の納得の出来る人は鳩山氏位のものだと申して、氏の今後に期待を寄せておりました。その後私は身重の体に大きな打撃が重なり、床につく日が多くなりました。

 昭和20年7月のある日、突然表玄関から大広間にかけて慌ただしい足音と大きな話し声がし、まどろみかけていた私は驚いて飛び起きました。楢橋氏一家は既に浅間温泉に移られ、夫は軽井沢と東京とを行ったり来たりの生活が続いておりました。

 あいにくその日は上京中で、家に別荘番一家と、夫が私の体を案じて東京から連れて来てくれた年老いたばあやだけでした。慌てて駆けつけて来たばあやは、「軍人さんが」と言ったきり驚いて口もきけません。やがてどたどたと無遠慮に日本間の方まで入って来た彼等は土足のままです。(つづく)

「夫を偲んで」⑨

 「ご主人は?」

 逮捕に来たのかも知れない……。

 さっと血の気が引き、体の氷る思いで私はじっと苦しさに絶えていました。

 「今おりません、旅行中です」

 「ああそぅですか」

 4、5人の将校達はどやどやと客間の前を通り過ぎ、中庭をまわって浴室の方へ行つてしまいました。

 「広い浴槽ですな、これなら一どきに5人や10人は大文夫でしょぅ」

 大声で話し合いながら浴室から調理室にまわり、それから二階、階下の各室を検分してまた広間に戻ってきました。逮捕に来たのではないことを知ると私は急に強くなり、彼らについて大広間に入りました。彼らは大きな丸テーブルの上に地図を広げる真似をして、「この部屋を会議室に使えますな」などとあれこれ勝手に相談をし合った後、

「この先の近藤別荘に近々皇太后陛下がご疎開遊ばされるご予定です。ここを参謀本部に使用することになるでしょう。ご主人に伝えておいて下さい。また明日来ます」といい残して、さっさと引き上げてしまいました。

 ちなみに昔三井の建てたこの別荘は、帝国ホテルを設計したライト氏が設計に3年を費やしたということで、その後も日本館、洋館共に、くるみ、糠、あるいは牛乳などで磨きあげられたもので、土足で入るようなものではありませんでした。一体私達をどこへ追い立てるつもりなのだろうと暗胆とした気持になり、また急に疲れが出てそのまま大広間の椅子に倒れてしまいました。くやしさと逮捕に来たのではなかったという安堵の気持とが交互にこみあげて参りました。電話で知らせを受けた夫は、その日のうちに帰って参りました。

 そして私の報告を黙って聞いただけでした。翌朝早く起きた夫は、「運動せんと難産になるぞ」と私を伴ってゆっくりと庭を散歩し、昨日のことはあまり気にもしていない様子でした。

 「今日は何時頃来るといっとったかい」 「うっかり致しました。聞きもらしました」 「そうか、あんな頭で国を台なしにしてしまいよる。無作法は奴らじゃ」 「……」 「あいつらに会ったらまたすぐ東京へ行くよ。せんならんことがたくさんあるからな。体に気を付けないかんよ」 「はい。でもお留守中に入り込んで来るようなことがありましたら……」 「今日きっぱり話をつけておく、そんなことはさせんよ」

 逮捕命令の出ている今、余りきついことをいって火に油を注ぐようなことになってはと、心配でもありましたが、また一方ではいつもの夫らしい大局をふまえてのものの考え方と対処の仕方があるのであろうと思う気持もありました。(つづく)

「夫を偲んで」⑩

 昼頃軍人たちが門からなだらかな坂道を玄関に向かってやって来るのを、大広間で見ていた夫はやおら立ちあがり、一足先に玄関に出て何の気負いもなく彼らを待ちました。

「昨日伝えておきましたが」
「俺はこの家の主人の岸井だ。名前をいい給え」
「古閑です」
「東条のむこだね」
「は」
「東条が取れというたか」
「いや」
「帰ってそういい給え。軍は勝手に国の資材を使うてたちどころに勝手なものを建てよる。俺は東京の本宅を焼かれた。その上別荘までよこせとは何事だとな。君らの理由は勝手に何とでもつく立場だ。しかし俺はそうはさせんよ。解ったら帰り給え」

 夫の今の心情その儘の静かな叱るというよりは諭すようないい方でした。息を呑んで直立不動の姿勢を取っていた彼らに表情の変化さえ与えませんでした。彼らはその儘敬礼をして帰って行きました。

 「もう来ることはない」

 翌日夫はそういって東京へ発ちました。ところがその翌日から私服の二人の男が無断で庭の中をウロウロと歩きまわりはじめました。「一人は軽井沢の人間で、特高警察の人です」という別荘番の言葉に、いよいよやって来たなと思い、夫に連絡をしようと思いましたが、よくよく考えてみますと、夫は上京中ですし、家を取りに来た様子でもありません。

 逮捕命令の出た時でさえ「逃げもかくれもせんよ、そんな必要もないし、第一仕事にならん」と申して軍部との折衝も続けていたようですから、こちらに逮捕に向かってしかも無駄な時間をひねもすウロウロしている必要もないわけでした。何のことやらわけが解りません。仕方がありませんのでこちらも遠くから彼らを観察することにきめました。彼らは周囲より少し高台になっている邸の中から一日中外を眺めています。

 別荘番にそれとなく話しかけさせて見ましたが職務上何もいいません。無断で入って来て我がもの顔に居座っています。こちらとしては全く妙なお荷物を抱えて暮しているような気持でした。

 一週間程たって夫が帰ってきました。空襲、逮捕の危険の中を歩いている夫です。帰るたびにひそかに夫の無事を心から神に感謝しました。夫は彼らの側に行き、何やら四方山話でもしている様子で、ニコニコと話し合っていました。そして別荘番にいい付けて二脚の椅子を彼らのために用意させました。私の家の近くにはアルゼンチン、スイスなどの大公使の別荘がありました。彼らはそこへ出入りするスパイの容疑者をチェックしていたということでした。もちろん夫の身辺と、出入りの人々を見張っていたことも確かでした。 「もうその必要はなくなる。古閑達もそうだが気の毒な奴らよな―」と夫は嘆息を漏らしておりました。

 夫から見て気の毒な人々は敵味方の区別なく、そこら中に充満していました。敗戦も未だ知らず、明日の命もわからずに何かを信じて職責を守っている若い彼らの顔を、夫は見るに忍びなかったようです。(つづく)

(福島 清)

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2021年6月2日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その5

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて以下、紹介します。

<麻生久氏と自由党>

 岸井さんは、戦時中郷里香川県から衆議院議員に当選した。政治には興味はあったが、政治的野心はなかったと思う。社会運動の中心人物であった麻生久氏とは、三高時代から刎頚の友であった。しかし前述したように、ソ連の実情を視察して帰国した岸井氏は、盟友麻生に「社会主義は官僚制度の幣害がひどくなるのでダメだ」と批判していた。

 その後、近衛第一次内閣の末期、38名の社会大衆党を擁した麻生氏は、亀井貫一郎や橋本欣五郎陸軍大佐(のちに赤誠会長)らと組んで、「近衛公によって日本に国家社会主義を実現する」という計画を抱いた。そして連日のように岸井氏に協力を熱心に頼んだ。

 岸井氏は「近衛などはアテにならぬから止せ」とはげしく反対したが、自分の自動車を一台麻生に提供して、「君は自分の好きなようにやれ」といっていた。がついに麻生氏は「もうすでに新内閣の大蔵大臣に岸井寿郎をするよう、近衛と約束してある。どうしても自分を助けて欲しい」と膝詰談判にまで及んだ。

 岸井氏もさすがに断りかねたのか「君とは切っても切れぬ友情で今日まできた。自分は反対だが、ヨシッ、それでは君と心中しよう」と快話して、鉱山その他岸井氏の財産を処分して、政治資金までつくった。その翌朝、かんじんの麻生久氏は心臓病で急死してしまい、岸井氏は茫然自失した。 これが氏にとって、城戸事件とともに一生の痛恨事であった。

 岸井氏は、こんな大きな二つの挫折感を乗切って80歳の天寿まで生きつづけたのであって、その剛毅と純情さは他人のまねができないことであった。岸井氏の用賀の家の前に、東条英機大将の家があった。東条がある日、自分で、改良式の七輪(しちりん)と金具のない木の鍬を岸井邸に持ってきた。岸井氏は仕方なく無言で受けとったが、奥さんがあとで東条邸に礼に行ったといって、大変怒ったそうだ。

 衆議院書記官長大木操氏の「大木日記」に、岸井代議士の名が幾度か出て来るが、その内容は少しも書かれていない。恐らく、当時軍部を憚かるような発言だったので、故意に省略されたのではないかと推測される。終戦前、用賀の自邸を空襲で焼失されたので、岸井氏は軽井沢へ閉じこもった。

 ここで坂本直道氏(元満鉄パリー事務所長)の紹介で鳩山一郎氏と懇意になり、終戦とともに、馳せ参じた芦田均、林嚢二などと、新政党樹立の計画に参画したことはあまり知られてない。その後坂本直道氏と上京して、石橋正二郎邸の一隅で、新党計画をつづけたが、いよいよ旗上げの前夜、交詢社で最後の準備会をしたとき「党名を何とするか」が議題に上った際、岸井氏は真っさきに発言して「自由党とすべきだ」といった。「日本自由党」というものもあったが、「日本は不要だ」と岸井氏は強く主張した。「世界の自由党」を意図したのではないかと思う。何れにしても、現在の自由党の命名者は岸井氏だったのである。

 晩年「雀百まで踊る」と称して、日曜夕刊「東京ポスト」を創刊して、無料配布という破天荒の新しい新聞を企画したのは、いかにも新聞人、岸井氏らしい貴重な置き土産であろう。(つづく)

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」は、激動の時代に寿郎さんがどのように生き抜いたかを詳細に書いています。抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」①

 夫のことを書こうと思いましても、こみあげるものに遮られて遅々として進みません。でも与えられた命を謙虚に享受し毎日を大切に生き抜いた夫の一面を思い出しますままに綴ってみることに致しました。

 結婚当時、夫がこんなことを申したことがありました。

 「叩かれて潰れてしまう様ではいかん。叩かれても蹴られてもゴムまりのように跳ね返ってついて来い」。

 当時は戦争も末期の大変な時代でしたから、夫の帰宅はいつも遅くて、午前2時3時ということも珍らしくはありませんでした。夜中に二重まわしの衿元を少しはだけて、ゆっ<りと車から降り立つ姿からは、思わず胸の引き締まるような気魄が感じられました。私は夫の任務の重要さも、言葉一つに命の懸っていた当時の立場も、十分に心得ていたつもりでしたので、必死について行こうと懸命でした。

 ところが毎日よく叱られるのです。といいますよりは、何もしないうちに先に叱られてしまうといった方が当たっているのかも知れません。その上、力のこもった大きな声ですので、ひどく叱られているような気持になってしまいます。

 「もんぺなどはくな、世の中が汚のうなってかなわん。格好など好きにしとればよろしい。それよりも女はどんな時も女でなければいかんよ。夫と子供の大事さ、可愛いさを見失ってしもうては何もかもがわやじや(駄目になってしまう)」。

 前日の昼下りに庭で夫と共につい耳にしてしまった塀越しの立話を、その時ふっと思い出しました。息子を叱叱激励して特攻隊を志願させたと二人の母親が話し合っていたことでした。「女は愚かなもんよな― 。姿を構えさせておだてればいつしか心までも鬼になってしまいよる」。その時夫は憮然とした面持で私を見詰めました。しかし戦時下に夫の意の儘にしたがうことは大変難かしいことでもありました。当時の常識と既成観念も無視してかからなければならない場合も出て参ります。

 昭和18年の冬近い頃であったと思いますが、玉川用賀の拙宅の近くに住む東条英機氏(当時の首相兼陸相)が訪ねて参りました。その前にも二、三度来られましたが、夫は何時も中に招じ入れようとはせずに、表玄関のドアーの外に立たせたまま話しておりました。その日は秘書に粘上のコンロと木製の鍬とを持たせて、「私の手製ですが大変具合が良いので使ってみて下さい」ということでした。

 「それは有難う」

 素気ない返事で、相変らず内と外とで暫らく話を交わし、やがて氏は帰って行かれました。両肩を落とし、背を丸くして俯き勝ちに歩いて行く氏の後姿は大変佗びしいものでしたが、何か深く考え込んでいる様子がひどく心に掛りました。

 私は東条氏に会ったのはこの時が最後でした。丁度その頃近所の家に親戚の者だという老人がしばしば訪ねて参り、その都度私宅へも立寄りました。時局に関する話をぜひ伺わせて頂きたいということでした。(つづく)

「夫を偲んで」②

 「あの老人は東条の親戚だそうじゃ。今日軍の主脳部の人間が注意してくれた」。
東条氏の来られた数日前に夫が申していたばかりでした。兎に角うっかり心の許せない夫の身辺でした。

 2、3日後に私は田舎から送られて来た「あんぽ柿」をたずさえて東条家を訪ねました。鍬とコンロのお礼のつもりでした。が、ただそれだけであったといっては、心の隅に少しうしろめたさが残ります。何ともいいようのない不安がつい東条家に足を運ばせてしまったのです。夫には内証で出かけましたのもそのためでした。

 軍行動を批判した場合には、統師権の干犯という言葉があって軍の一部の者の独断専行ではありましたが、一国の宰相であろうと、国会がそれを取り上げようとした場合であろうと、軍部は天皇の御名において統師権の干犯は許さぬと強く反発したようですし、またことと次第によっては命にかかわることにもなりかねなかったのです。

 東条家から帰ったとたんに激しい夫の怒りに震え上がりました。

 「旦那様はご存知かと思いましたので」と女中がオロオロしておりました。迂闊なことをしてしまったという悔恨と、夫の立場を傷つけてしまったのではないだろうかという不安に一層かり立てられる結果になってしまいました。

 夫には押しても突いてもどうにもならないと感じさせる強さがありました。黙ってじっと座っている姿から殊に強くそれを感じました。強さというよりは、偉さというものなのかも知れませんが、実はその言葉でさえ満足の出来ない、もっと大きな何かが心に迫まって来るのです。信念などという生やさしいものではなくて、まるで宇宙の法則のような安定感がありました。あるいはそれは夫の本質というものであったのかも知れません。人間本来の姿がそこにあるといった感じなのです。衒いも、翳りもなくて、そのために人間の弱さによって怯むということがないせいでしょうか。微動だにしないような強靭さがあって、それが夫の風格となっていたように思われました。(つづく)

「夫を偲んで」③

 話は前後致しますが、昭和の初期に高等女学校に在学していた私は、当時の逼迫していた日、英、米の国交問題とか、除々に戦争に追い込まれて行く八方塞がりの日本の国情とか、あるいは不況を背景にしてのサンガー夫人の産児制限のこととか、兎に角、暗い講演ばかりをよ<聞かされて、多感な少女時代を過ごしましたので、「聖戦」ということも仕方がないのだと是認する気持が強かったのです。

 そうしたある日、遇然私は岸井寿郎という人にめぐり逢いました。永らく病床にあった最初の妻をつとに亡くし、その後子供達のためにやもめ暮しを余儀なくされておりましたが、彼等も成人し、再婚をしたばかりという時でした。昭和16年の5月頃であったと思います。

 私はその時、幼時にきめられていた縁談を断り、そのために起きた様々な経緯からのがれて家を出、当時牛込に住んでいた叔父の軍令部出仕の海軍中佐の家に身を寄せて、ある学校に在職していまました。私にとっては大変有意義な毎日でしたし、また華々しい戦果にまだまだ国全体が酔いしれていた時でもありました。私は彼の会社の応接間で彼から思いがけないことを聞かされました。

 「聖戦などというのは誤魔化しですよ。無謀な一部の軍人達の思い上った出世慾と陸海軍の勢力争いとに、この戦争は端を発しているのです」

 『叔父に聞かせたい言葉なのだろうか、いや違う』と、私は自問自答しながら彼の鋭い眼差しを真直ぐに見返しました。口に出すのを憚からねばならない言葉でした。私の動揺を見て、彼は優しく言葉を続けました。

 「ものを教えている貴女がこんなことを口にしてはえらいことになる。時期が来るまで心に収めておかれた方がよいでしょう」。

 彼は客を待たせてあるからと、さっさと部屋を出て行ってしまいました。会社には連日大勢の人々が様々な用件や相談を持って詰めかけておりました。鉱山会社と土木会社を経営していたのですが、私は最初、彼は何をしている人なのだろうかと不思議に思ったくらいでした。

 「こんな世の中になると、良い人間程困っている。面倒見てやらんならん人がたくさんいるのでね」といっておりました。今考えてみますと、各界の上層部にひろがる深く広い交際範囲と、彼自身の力とが相俟って多くの人々を援助する手だてとなっていたように思われます。大変因縁めく話になりますが、会ったばかりの私に戦争の真実の姿を知らせておきたかったことについて、結婚後次のように話しておりました。

 「初めて会った時、これは結婚することになる人だと思った。再婚したばかりの俺が何故そう感じたのか未だに解らない」。

 だから真実を知らせたかったのだということなのですが、真偽の程は解りません。が、嘘だとも思えないのです。どういう力がそうさせますものか……。はっきり解かることではありませんが、心からきれいに消し去ことも出来ません。(つづく)

「夫を偲んで」④

 近衛の新体制構想によって生まれた大政翼賛会は政心一新、時局収拾のためのものでした。しかし、結局は麻生久氏が落胆の余り病を重くしてしまわれた程のものに作り変えられてしまい、好戦的な革新右翼の温床となり、あるいは一部の内務官僚に利用されるだけのものという結果になってしまっていたのです。そのためにかえって彼は渦中に飛び込む決心をしたのだと思います。彼が当選して間もなく、私は招かれて玉川の邸を訪ね、はじめて彼の母に会いました。彼が最も敬愛し、畏れてもいた人でした。私達は翌18年4月に結婚致しました.

 その頃麻生久夫人が度々玉川へ訪ねて来られ、無産運動に生涯をかけていた若き日の氏と夫との姿を、巧みな話し方で彷彿とさせて下さいました。

 当時令息の良方氏はまだ18、9の弱々しい文学青年でいらしたらしく、母上から伺った話は、夫人との恋愛問題とその結婚へのいきさつ等で、その後話題の美しい夫人を伴って来られたこともありました。今の良方氏を拝見し、偉大なお父上の政治家としての素質を受け継がれたばかりではなく、文、画才と様々な特質に恵まれていられることに驚かされます。

 かつて夫は、革命10年祭のロシアを訪ね、その破廉恥犯の数の多さと、日本の国土の狭さ資源の乏しさに、適応し難い共産国家の現状を目のあたりにみて、その後は自由主義者としての道を歩んでおりましたが、主義を異にしてからむしろ麻生氏との人間的な繋がりは深さを増していったようでした。

 河野密氏、片山哲氏、河上丈太郎氏、浅沼稲次郎氏、水谷長三郎氏、西尾末広氏、三輪寿荘氏、棚橋小虎氏(夫の姪の主人)、野坂参三氏等、革新政党の多数の方々とも永い間深い交わりを持っておりました。浅沼氏が亡くなります少し前、会の帰りに大井の宅まで夫を送って来て下さったことがありました。夫を最長老としていつも厚く遇し、革新政党への夫の苦言もよろこんで受け入れていられたと聞いておりました。

 昭和19年の夏頃であったと思いますが、政治犯として10年余り獄中生活を送っていた佐野学氏が釈放になり、玉川の家に来られました。軍の圧制で総ての実行を封じられた氏は、「差し当たってどうしたら良いものか」と大変憔悴しておられましたが、出るために節を曲げざるを得なかったことに対して夫は、「命を落としては何もならんよ」と申し、
「体調を整えながら、このざまをしっかりと見届けておくことが今は一番必要だ、自由に動ける時がもうすぐ来るよ、君」
と、氏の肩を抱くようにして励ましておりました。しかし、氏は良い時代にもう一度活躍の機を持つことなく、亡くなり、あの時の顔を思い出しますたびにお気の毒でなりません。(つづく)

(福島 清)

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2021年5月28日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その4

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて興味津々の内容です。以下、紹介します。

<城戸事件の真相❷>

 また編集の城戸、営業の吉武という鉄壁の陣は、朝日新聞その他の競争紙に、つけこむスキもない完璧のものであった。ところが、城戸氏が本山社長亡きあと(昭和7年12月)会長となった後、ある日吉武氏に呼ばれこういわれた。〝城戸氏に対して君も知っているように、今日まで誠心誠意協力援助してきたのに、いまになって私を首切るというのだ。全く『狡兎死して走狗烹らる』のたとえの通りで、私としては売られたケンカは買わぎるを得ない。いま社内は城戸派と反城戸派と対立して混乱しているが、君はどちらにもつかず、じっとしていくれ〟といわれ、ほんとうにびっくりした。私は実際、こういう血と血で争う醜い状態にがっかりして、もう新聞はやめようと心の底深く決意した。

 私が反城戸派と目されているのも心外だが、城戸氏が大阪に行ってから私を相談相手にしなくなったのも事実だ。私は、いずれ首切られるものとマナイタの鯉のごとくじっとしていようと決意していた。ところが向う(城戸派)の方が倒れてしまったので、あっけにとられてしまった。しかし、今にして考えると毎日新間が城戸氏を失ったことは、返す返すも残念でたまらない。

 当時私は胃潰瘍で心身衰弱しており、家内も重病で瀕死の床にあった。それでも何とかもう一度、城戸、吉武両氏が提携して毎日新聞を完璧の域に置こうと、最後の勇気をふるい起こして、再三城戸氏に面会を求めたが、城戸氏は東京にきても私には会おうとは絶対にしない。仕方なく大阪までも行ったが、新屋茂樹が代理で会うというので、新屋ではどうにもならない。

 私の腹案は、吉武氏は城戸氏より10歳も老年である(岸井氏は城戸氏より10歳若い)。そこで、今すぐではないが、私が吉武氏を口説いて、円満にやめさせるから、ケンカはやめてもらいたいと城戸氏にいうつもりだった。そのころ、城戸会長のほか、欠員になっていた社長に吉武氏という噂があったことも事実だ。私があのころ体力が充実していたら、もっと勇気を出せたであろうし、出すべきであった。

 城戸事件こそ私にとって終世の恨事だった。城戸氏を批判するつもりはないが、いま考えると、10年、時代がちがうということはバカにならない。城戸氏でも吉武氏でも何といっても封建時代の空気に育っていて、いいにしても悪いにしても私のような民主主義の教育を受けていないことが根本原因だと思う。時代の思想というものは恐ろしい。重役ともなると、何でも自分の思う通りになると信ずる傾向は封建主義の名残りではないか」。

 城戸事件当時、私も岸井政治部長の下にあったし、いろいろ見聞することもあったが、私は派閥の争いなどには興味もなく、岸井氏の述懐についてコメントを加える必要もないが、岸井氏にとって一生の悲劇であったことだけは確かであったと信ずる。(つづく)

<正力松太郎傷害事件>

 城戸事件の直後、岸井氏は政治部長から吉武営業局長の下に営業次長となり、東北の大冷害問題について、東北6県の救済運動のため奔走した。これは東日の東北に対する大キャンペーンであった。ところへ突如として昭和10年10月、読売新聞社長正力松太郎氏が暴力団員に傷害を受けるという事件が起こった。

 当日、東日販売部長で岸井氏の輩下であった丸中一保が東日に出入りしていた熱田佐に、正力刺傷を示唆し、熱田の乾分・長崎勝助が正力社長を襲った事件である。岸井氏は丸中を再三取調べ、そんなことはなかったことを確めていたので、熱田が岸井氏に面談したときも「丸中も相当教養ある者だから、さようなバカ気た依頼をするはずもないし、必要もない。東日とすれば読売の進出など眼中にない」といい切っている。

 しかし事件は営業局長吉武氏にも波及してきたので、岸井氏は吉武氏に、「この事件は私が全部かぶって責任を負う」といったが、実はその前日に岸井氏は検事局の取調べのさい、熱田に答えたと同じく「そんなバカなことはない」といっているので、事件の泥をかぶることもできなかった。結局、丸中は伊豆で自殺し、吉武氏の退社となって、岸井氏は吉武氏の慰留で社に残ってしまった。昭和12年1月、岸井氏は当時の東日編集総務久富達夫氏(岸井氏の後任として政治部長になった)を東京会館に招き、東日退社の決意を明らかにした。

 「僕の健康は難症だ。それに僕の信頼していた先輩たちは次々に社を去っている。一方僕は新聞というものに昔日のような情熱を失ってしまった。これ以上在社しても僕にとって人生の浪費だ」と悲痛な告白をしている。僕の信頼していた先輩たちとは、恐らく城戸氏と吉武氏だったのではないか。(つづく)

<大平洋石油会社創立す>

 それからの岸井氏は実業界の人となったが、私は岸井氏はあくまで新聞人だったと思うし、実業界の氏のことはよく知らない。ただ一つ、メキシコの油田を開発しようとしたことだけは記録しておきたい。

 昭和11年ごろ、斉藤実(海軍大将、首相内大臣)の密令を帯びて池田佐忠という人が、メキシコの石油開発権を獲得して帰朝したが、船中で2.26事件のため斉藤内府が殺されたことを知って絶望した。メキシコ在留日本人会長都留氏とともに、東京で奔走中、たまたま岸井氏の事務所を訪れた。岸井氏は石油資源をもたない日本の窮状をかねて憂慮していたので、王子製紙社長藤原銀次郎氏を口説いて、その斡旋方を依頼した。

 「藤原さん、あなたはもう一会社の社長におさまっている場合ではない。国家のため、財界全体のために働くべきだ」と熱心に勧告したので、藤原氏も心を動かし、ついに王子製紙をやめた後、資本金500万円の大平洋石油会社を創立して社長となった。その副産物として、藤原氏が長年社長に居座っていたため人事が停滞していた王子製紙も、高島菊次郎氏が社長となり、足立正氏が専務になるというように、人事が刷新された。このさい、岸井氏は新会社の重役にもならず、一株の功労株も受けとらなかった。これは財界の美談として伝わっている。(つづく)

(福島 清)

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2021年5月26日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その3

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて興味津々の内容です。以下、紹介します。

<東京日日新聞入社事情>

 私は、戦後岸井さんを自宅に度々訪ね、主として時局に関して、氏の犀利な批判をきくこととしていたが、時には、氏の半生の生きた記録をきくこともあった。氏は自慢話など大きらいだったので、大部分こちらから質問したのに渋々答えてくれたのだが、晩年はいくらか好々爺になって、笑いながら、「こんなこともあったさ」という調子で話してくれた。

 ある時、「こんなつまらない話でも、君が勝手に書いておいてもいいよ」といったことがある。 馬場剛著「明治、大正、昭和の日本」という本にこんな一節があったので、氏に問いただしたことがあった。

 「桂(太郎)内間は2月11日(大正3年)に総辞職したが、大阪、神戸、広島に騒擾事件が起こり、17日から3日間、京都の事件は激烈を極めた)。その前夜三高の弁論大会がYMCAで開かれたが、今は名士である岸田幸雄氏や岸井寿郎氏が熱弁をふるい、しばしば臨席警官の中止をくい、はては演壇で学生と警官が組打ちをやる光景もあった。その翌日の夜、同じ会場で犬養木堂(毅、当時国民党々首、後政友会総裁。昭和7年首相として5.15事件で兇弾に倒る)の演説会があり、その群衆が円山公園へ行き、それから市内交番の焼打ちをやったのである」。

 これが大正2年の第一次憲政擁護運動であった。三高学生岸井氏は血の気の多い青年であったことがわかる。
「私はそれから、犬養木堂について各地を回わり、憲政擁護演説会でしゃべっていた。それで木堂の知過を得た。大学を出たとき木堂を訪ねて、〝私はケンカ早く、どこに就職しても永続きにないと思うが、どうしたらいいか〟と相談したところ、木堂は〝それなら司法官になればいい。判事でも、検事でも、身分は一生保障されているから首になる心配はないよ〟と答えたので、私は検事になった。ところがやはリケンカばかりしていて、自分ながら困っていた。これをきいて当時東京日日新聞にいた、三高時代からの盟友、麻生久君(岸井氏とともに東大新人会を創立し、のち社会大衆党書記長となる)から〝では新聞記者になれよ。ここなら、いくらケンカしても大文夫だ〟といわれて、東京日日新聞社に入社したわけだ」。

 狙介な犬養木堂と横紙破りの岸井氏は肌があったのだろうと思うが、これから氏の東日時代がはじまったわけである。官僚、軍閥と終生戦いぬいた犬養木堂と、東大新人会の思想的支柱であった吉野作造のリベラリズムは岸井氏の骨の髄まで透徹していたことがはっきりする。

 ここで忘れないうちに書き足しておくが、ある日氏はこう語った。「戦後、あるアメリカ人が自分を訪ねて来て、大正デモクラシーから大正マルクシズムに転換して行った時分の人で、今日残っているものは貴君だけだから、その転換期の話をききたいというので、話してやったことがあった」と。そのアメリカ人の名も、その話の内容も聞きもらしたが、氏の社会主義批判は後述しよう。

 岸井氏と犬養木堂の奇縁は、いつか氏が財界の大御所故官島清次郎氏(元日清紡績社長)に知遇を受けたという話にも関連していると思う。宮島翁は戦後、吉田茂、池田勇人、両内閣の陰然たる相談役であった。なぜなら、犬養と官島は切っても切れない関係であり、恐らく、岸井氏はかなり昔犬養の紹介で官島氏に会ったものと想像される。(つづく)

<山本(権兵衛)内閣成立のスクープ>

 岸井氏は大正13年(私が東日に入社)ごろは整理部におり、当時酒豪ぞろいの東日編集局にあって負けず劣らずの酔虎の一人で、それが氏の痼疾であった胃潰瘍の原因となった。

 その後政治部に入り文部省担当、東日紙上に「教育論」を連載したが、大正12年9月1日の関東大震災の瞬間、氏は山本権兵衛海軍大将が三度目に大命を拝して組閣中の築地海軍水交社の中庭にいた。水交社二階で山本伯と平沼騏一郎(当時検事総長)と司法大臣就任の交渉が行われていた。この司法大臣の椅子がきまれば、第二次山本内閣は成立するという瀬戸際に、大地震が襲来したのであった。他社の記者はみんなバラバラに逃げてしまったが、岸井記者はブルブル震動していた一本の立木にしがみついていた。そして、山本、平沼の交渉成立を確認するまでふみとどまった。その上、自動車を返さないで止めておいたので、すぐさまこれに飛び乗って社に戻り、山本内閣組閣完了を告げた。

 このスクープは地球を一回りして、また東京に返電され、他社の知るところとなった。こういう際の氏のガン張りぶりは日に見えるようである。

<外紙を排して国産品主義をとる>

 正力氏と岸井氏とのつながりは、もう一つあった。昭和9年1月岸井氏は本山社長の密命を帯びて、米国とカナグに新聞用紙の調査に行った。このことを探知した正力氏は、野沢商会の店主を岸井氏と同船させ、ロスアンゼルスで岸井氏に協力を依頼させるという強引さであった。

 氏はカナダの各製紙会社を歴訪し調査をまとめてロスアンゼルスに帰ってくると、その野沢商会店主なるものは、その間2ヵ月、ロスアンゼルスのホテルで岸井氏の帰りを忍耐強く待っていたという。どこまでも、くいついて行けという正力氏の執拗さに氏も感心したという。氏の調査では、外紙は連(4頁新聞1000部)3円ぐらいで国産新聞用紙よりも連50銭安かった。

 しかし、岸井氏が本山社長に提出した報告書の結論は「外紙はなるほど国産品より安く、外紙を使用した方が有利であるが、一旦緩急あった場合、外紙依存は危険であるばかりでなく、国産新聞用紙も漸く改善されようとしているし、将来新聞用紙の国内自給を確立することが、重大意義を有する」といって外紙購入方針を否定した。もともと熱烈な愛国主義者であった本山老社長も岸井氏の明決なる正論を欣受して、由来、毎日新聞は外紙を一度も使用しなかったし、王子製紙はこの毎日の膨大な新聞用紙需要によって、その後着々発展の途をとり、わが国の製紙界の進歩に寄与するところ人であった。王子製紙その他、ひそかに岸井氏の炯眼と決断を徳とした。

 一方、ロスアンゼルスでは野沢商会店主の熱意にほだされて、岸井氏は快よくある有力なカナダ製紙会社社長に紹介状を書いてやったので、彼は、正力氏の念願に応えて安い外紙を手に入れることができた。当時読売新聞は販売部数が急激にふえる上り坂にあって、用紙購入に困惑していたので、一息ついたわけである。新聞社では上り坂の時の方が財政上苦しいのであって、この外紙問題でも正力氏は岸井氏の恩恵を受けたわけである。戦後、正力氏も岸井氏も追放の憂き目をみて、毎日、岸井氏は淡々として日本倶楽部で正力氏と碁を囲んでいたが、「正力の碁は、いつも相手の石を大きくとりかこむ一方だが、一つ破れ目が出ると総崩れになる面白い碁だった」と笑っていた。(つづく)

<国際連盟脱退論>

 岸井氏が政治部長に就任したのは、満州事変勃発直後で、いまの若い人は理解し難いが、その頃の軍部はいまいわれているのと大ちがいで、政治的に極めて弱体であった。満州事変などは、軍として精一杯の窮余行動で、せっばつまった自衛策にとゞまっていたし、国内世論はその実態を認識していなかった。帝国主義とか、侵略主義とかいう景気のいいものではなく、国内も極度に経済的不況であり、日本としてどこかに脱出路を見出すほかなく、一方満州における日本の条約上の正当な権利は、張学良排日政権のため侵害され、全く追い詰められた状勢にあった。

 ワシントン会議で成立した九カ国条約には、中国が国際条約を守るべきだという条項はなく、片手落ちのものだった。その上国内世論は不統一で、この際日本の新聞の言論は、浅薄な大正デモクラシーと大正マルクス主義に支配され、日本の現実について全く認識不足であった。このとき、岸井氏が大毎、東日に連載した「満州のわが移民村」と、「国際連盟脱退すべし」(何れも昭和8年)の二論文は最も特異なもので、一般言論界が満州事変に対して、暗にこれを非難するだけで、その実態を分析せず、国論を指導する気追と英知を欠いていたのに対し、積極的かつ建設的な主張であった。また、岸井氏独得の思想と勇気のある言説であった。昭和8年10月、関東軍以外の何人も行かなかった、北満の永豊鎮(のちに弥栄村)第一次開拓移民地に、岸井氏ははじめて乗込んで、現地を視察したのである。昭和9年1月に、氏は「満州移民と国策」という一篇を追加して、単行本として出版した。その内容について詳細に書く余裕はないが、この本は、氏のものの考え方を如実にあらわしているだけでなく、今日でもなお含味すべき思想を示している。

 一言にしていえば、大正デモクラシーの基となっている自由主義には幾多の複雑な要素があったので、リベラリズムとして正当なる評価をされていなかったことがつくづく感ぜられる。氏のリベラリズムには濃厚な現実主義が基底となっていた。自由とは、外物にとらわれず、事実をありのまゝに見てこれを自由にとらえることだということが、今日の評論家、政治家の多くはわかっていない。ややともすると、リベラリズムを理想主義的にのみ空想して、現実の分析を忘れ、軽挙妄動する傾向が今日でも多い。

 これは自由主義の本質ではないと思う。岸井氏の満州移民に対する批判には、軍部のやり方をはじめ、満州という環境に適応しない方策を指摘しながら、満州移民の絶対必要性を主張し、かつ、その可能性をこまごまと論じている。こういう実際的な評論家は、今日でも絶無ではないかと思う。

 国際連盟脱退論でも、岸井氏のは連盟が満州国承認に反対するのがけしからんというような書生論ではなく、国際連盟そのものが不合理なやり方をしていることを、具体的に沢山の実例をあげて指摘している。こんな連盟にいつまでもかかずらっていることは、日本の国際的地位をかえって危うくするから、早く脱退した方がいいという実際的な考え方であった。

 岸井政治部長は、東日紙上に堂々署名して連盟脱退論を連載していたが、当時の外務大臣幣原喜重郎氏を3回も訪問して会談している。官僚的秘密主義の幣原はついに岸井氏に胸襟を開かなかったらしい。当時、陸軍省担当であった私に「陸軍で話のわかるャツを紹介しろというので、私は荒木陸相の懐刀といわれた小畑敏四郎少将(当時参謀本部第三部長)に岸井氏を紹介した。氏は小畑と会談後「軍人としては、よく話がわかっている」と一言洩らしていた。話は連盟脱退の件であったらしいが、幣原がわからないので、やむを得ず軍部と話をしてみたのだと思う。

 戦後、幣原の手記が公表されて、幣原の連盟論が全く岸井氏の説と同じだったのをみて笑っていた。自由主義というものが、あくまで現実主義でなければならぬという岸井哲学は今日こそ、もっと徹底して理解されるべきだと痛感する。(つづく)

<城戸事件の真相❶>

 昭和41年10月28日、元毎日新聞会長城戸元亮氏は85蔵の高齢で道山に還った。私はすぐ岸井氏に電話で訃報を伝えた。電話の声で、氏が万感交々至るといったような沈痛な表情であったことが看取された。

 前述したこともあるが、東日主幹城戸氏は岸井氏の最も敬慕する新聞人であり、城戸氏からいっても岸井氏は最も信頼する部下であった。当時城戸氏幕下として「東に岸井あり、西(大阪本社)に新屋(茂樹)あり」といわれたくらい城戸、岸井というラインは緊密なものがあった。それが昭和8年城戸氏が衆望を負って大毎会長となるに及んで、世にいう「城戸事件」という新聞界稀にみるお家騒動が起り、心ならずも岸井氏は城戸氏と訣別し、それだけでなく城戸派から岸井氏を目して城戸氏を裏切ったものと今日でも非難している悲劇となってしまった。

 右の電話で、岸井氏は「城戸さんの葬儀はいつか、是非行くよ」と悲痛な声でいったのを今でも覚えている。一体城戸事件の真相はどうたったのが、岸井氏は果して城戸氏を裏切ったのか、私もそれまで、一度も氏にたずねたことはなかった。

 城戸氏の葬儀の日、岸井氏は毎日新間に入社したばかりの三男成格君を同伴して、告別式に参列した。かつての城戸派の人々とも氏は久闊を叙していた。その翌日、岸井氏から電話がかかって「一寸来てくれ」というので岸井邸に行った。氏は一寸改まった口調で次のような「城戸事件の真相」を語った。私は、そのときの言葉をそのままに記録しておく。

 城戸事件についてはいままでどんな懇意な友人にも、まして家族などにも一言も話したことはない。いろいろな人に迷惑をかけてはいけないし、ことに城戸さんにどんな経路で耳に入ることがあるといけないと思って今日まで固く沈黙を守ってきた。いま城戸さんも亡くなられ、君は城戸さんともよかったので、真相を話しておく。私は城戸さんを尊敬し、ずいぶん世話にもなり、新聞人、ことに編集陣の人として、えらい人と今でも信じている。君も知っているように、大正天皇がなくなって年号が大正から昭和に変ったとき、毎日新聞が、新しい年号は「光文」であると誤報した「光文事件」というのがあった。

 皇室中心主義の本山彦一社長は激怒して東日主幹であった城戸さんを首切り、外遊させてしまった。私は営業局理事吉武鶴次郎氏を訪ね、〝社長はあまりに横暴ではないか、城戸氏というあれだけの人物を首切るとは何事か。私は体を張っても、この乱暴なやり方に反対して、あばれてみせる〟と厳談した(本山、城戸、吉武三人は何れも熊本出身)。

 すると吉武氏は〝いま君にあばれられては困る。城戸氏は必らず私が本山社長を口説いて社に復帰するようにするから、君はじつとしていてくれ〟というので、私は城戸氏復帰運動を一切中止することにした。城戸氏はすでに外遊していた。ところが私にも外遊の社命が下った。そして古武氏が私を招いて〝城戸氏復帰のことは本山社長の内諾を得た。だから君はすぐ出発していまロンドンにいる城戸氏に会って、その旨を報告し、決して軽挙妄動しないように言伝えてくれ〟といった。私もこれで一安心して横浜を立った。

 おどろいたことに、本山社長が横浜埠頭に重役でもない私をわざわざ見送ってくれた。これは全く異例のことなので、城戸氏復活のことはウソではないと思った。そしてロンドンで城戸氏に会い、あなたの社復帰は決定したと告げると、城戸氏も喜んで、〝それでは君はすぐ日本に帰って、私の復帰後の準備工作をしてくれ〟といった。私は〝イヤ、私もはじめての洋行だし、2年ぐらいヨーロッパで遊んでいたい〟と断った。城戸氏は私より先に帰国すると、果して大阪毎日主幹として立派に復活していた。

 私はソ連を回ってゆっくり帰国した。ソ連では監獄まで視察したが、収容されている囚人の大部分が経済事犯なのを知って、私は統制経済ないし社会主義は汚職と、官僚腐敗を伴うものでダメであると思った。これが盟友麻生久氏と意見の一致しなかったところで、私の自由主義は、右のファッショも、左の共産主義も不自然な統制主義であると否定する。私も、他人事でなく城戸氏には画したつもりだった。(つづく)

(福島 清)

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2021年5月24日

1964年東京五輪を取材した磯貝喜兵衛さん(92)の連載一部〝復刻版〟『日本のスポーツ 発展の歴史』―フェイスブックから転載

 アジアで初の東京オリンピックが開かれた昭和39(1964)年。開会直前の毎日新聞夕刊で、12回連載の『日本のスポーツ・・・発展の歴史』を当時、オリンピック報道本部にいた私が一人で書きました。引っ越し荷物の中から見つけたその切り抜きから、④回目の「古代からの人気種目・相撲」(昭和39年5月1日夕刊)を、よろしければご覧ください。

日本のスポーツ  発展の歴史④  古代からの人気種目・相撲

開会式当日、代々木の選手村で

〇・・・無類の相撲好きだった作家の尾崎士郎は、随筆「相撲を見る目」でこう述べている。

 「相撲に親しむ気持は東洋人にとって先天的なものなのであろうか。幼童の遊びを見ていると、すぐ相撲がはじまる。だれが教えたわけでもない。四つに組んで投げ打つというのは、必ずしも勝負の観念に立脚した技法ではなくて、自然の動作のようにも思われる。」

 相撲が古代から日本人の間でごく自然に発生し、親しまれたことは古事記や日本書紀の伝説が裏書し、埴輪や須恵器に残された相撲人形をみても明らかである。建御雷命(タケミカズチノミコト)と建御名方神(タケミナカタノカミ)とが出雲で力くらべをし、国ゆずりの決着をつけた話や、野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(タイマノケハヤ)の相撲伝説は、日本人の相撲好きをよく物語っている。

〇・・・相撲の語源は「すまひ」(素舞・相舞)からきている。折口信夫の「日本芸能史ノート」によると、「相撲は神と精霊との争いを表象した演劇的な要素が強かったが、力くらべがみんなの興味を集めたことからスポーツ的な面に拡大されていった。」という。国と国との領分を決めたり、農村と農村とが互いの豊凶を占うのに相撲が盛んに用いられた。奈良時代聖武天皇の天平六年(734年)から平安時代、高倉天皇の承安四年(1174年)まで毎年宮廷で行われた相撲節会(せちえ)は一種の「年占い」だった。全国から力自慢の相撲人を集め、国を二つに分けて団体戦をやらせ、これを天皇や貴族が鑑賞した。このころは土俵がなく、投げたり、引き倒したりして、手や膝が土につくと負けになった。

〇・・・貴族階級の節会相撲に対して、地方の民間でうけつがれてきた野相撲、宮相撲は鎌倉時代に入ると武士のスポーツとしてクローズアップされてくる。体力をきたえ、戦場で敵と一騎打ちに勝つためにも相撲は大いに役立つとあって、武士の間で流行した。源頼朝は陣中で武将たちによく相撲を取らせて楽しんだ。伊豆で相模と伊豆の武士たちが余興に相撲を取ったとき、俣野五郎が21人を勝ち抜いた。これに挑戦した河津三郎が俣野の連勝を破ったが、物言いがついて喧嘩沙汰まで起きる騒ぎ。これがもとで河津は俣野方の工藤祐経の家来に遠矢で殺され、曽我兄弟の仇討ち物語がはじまる。この事件で当時の武士たちが、相撲にどれほどエキサイトしたかを知ることができる。

〇・・・織田信長も相撲が好きで、天下を取って近江の安土城に落ち着くと、全国から千五百人の相撲人を集めて相撲の会を催した。土俵が出来たのも戦国時代の末期である。相撲を取り組む力士のまわりには、見物人が自然に輪をつくる。「人方屋(ひとがたや)」と呼ばれる円型が土俵を生んだわけで、土俵が設定されることによって、相撲は単なる力くらべから、技巧の競技になり、スポーツとしてのルールも整ってきた。

〇・・・有力な領主や富豪がなかば職業的な力士をかかえるようになると同時に、神社仏閣の建立や修理をする資金作りの名目で「勧進相撲」があちこちで催された。江戸時代になると、職業力士の勧進相撲はますます盛んになり、興行化してくる。元禄年間は京都、大阪が中心で、大関・両国梶之助などが活躍。つづいて江戸相撲が繁栄し、横綱・谷風、小野川を中心にした寛政の黄金時代を迎える。

〇・・・明治維新は相撲の世界にも革命をもたらした。大名に抱えられていた力士たちは封建制度の崩壊でよりどころを失ったが、文明開化が進むにつれて近代化され、明治5年、それまで女性の見物が許されなかったのが、11月場所から2日目以降は女性も見物してよいことになり、明治10年からは初日を含んでまったく自由となった。明治、大正時代は華族、実業家、軍人などの支援を得、昭和に入ると大衆の人気を集めて大相撲が安定した時代を迎える。

〇・・・一方では高校相撲、大学相撲がアマチュア・スポーツの伝統を守り、地方によっては神事相撲の歴史を偲ばせる村相撲や少年相撲も盛んだ。たとえば長野県小諸の八幡神社で八朔(はっさく)相撲の少年力士が町内を練り歩く行事など、相撲が庶民の間で古くから愛されてきたなごりを見せている。

〇・・・日本のスポーツのなかで、相撲だけは古代から現代まで一貫した人気をもち続けてきた。東京教育大の和歌森太郎教授はその理由をこう語る。

 『日本人の民族性は淡泊というか、単純というか、非常にさっぱりしている。相撲の勝負も土俵という限られた空間のなかで短時間に終わってしまう。しかし、単純ななかに集中力をもりあげ、ものすごく充実した力と力、技と技がぶつかり合う。見物する方でも、そこに相撲の醍醐味を感じるのだ。同じ格闘技でも、たとえばボクシングのように、何回も殴り合いを続けるのと違って、しごくあっさりしている。日本人の気性にピッタリ合ったスポーツである点が、相撲という日本独特の競技を生み、育てたのだと思う。』

〇・・・雲をつくような大男を、小柄の力士が投げ飛ばすというのも、相撲独特のおもしろさだ。日本人の器用さが高度に発揮されるスポーツ・・柔道、レスリング、体操といった種目がオリンピックで有望なのも、相撲の歴史と考え合わせると興味深い。

磯貝喜兵衛さんのフェイスブック
https://www.facebook.com/kihei.isogai

2021年5月24日

社会部旧友、宗岡秀樹さん(73)の「弟の孤独死」が、滝野隆浩・専門編集委員の連載『掃苔記』に

 『掃苔記』(2021年5月23日付け)に登場する「退職した先輩記者のМさん」は、航空部長などを務めた社会部旧友、宗岡秀樹さん(73)です。毎日新聞リタイア組を中心メンバーとする季刊同人誌『人生八聲』春季号(26巻)に掲載された体験記を基に、滝野編集委員が取材しました。宗岡さんの同人誌原稿を転載します。

緊急事態宣言下の最悪事態~たった一人の弟の孤独死  宗岡 秀樹

 新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が出されていたさ中、独り暮らしをしていた9歳下の弟が自宅マンションで寂しく逝った。生涯独身。誰にも看取られず、たった一人の肉親である私にさえ、親しく付き合っていた友人たちにも別れを告げることもなく63年の生涯を終えた。自らが意図しないままの姿で見つかった時には約1カ月が過ぎていた。若い時から年2回は海外でスキーを楽しみ、仲間とお酒を酌み交わすことが大きな喜びだった。3年前にリタイアしてからはその度合いはさらに高くなったようだ。だが、昨春来の不要不急の外出自粛、長い巣ごもりでそれがかなわなくなった。ストレスをため込み、孤立し、命を縮めることになったのではないか。ある意味、コロナ禍の犠牲者だ。「もっと連絡を密にしていれば…」「苦しんだだろうに。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか」。自問自答し、悔やんでも悔やみきれない思いが駆け巡っている。

 弟の様子がおかしいと気付かされたのは、2月のある日の夜、よく一緒に酒を飲みに行ったというサラリーマン時代からつながる仲間からの電話だった。 2週間ほど前から電話しても出ず、LINEでメールを送っても「既読」がつかない。その後も何回か連絡を取ろうとしたが同じ結果だった。前日にも若い仲間がマンションまで行って、インタホンを押しても応答はなかったという。「私たちではもうどうしようもありません。心配なのでお兄さんに確認してもらえませんか」というものだった。

 直ぐに携帯、固定電話で連絡を取ろうと試みた。しかし、留守番録音に切り替わってしまい話は出来なかった。

 弟は会社を定年退職してからは再就職せず、〝隠居生活〟を送っていた。時には慕ってくれた飲み友達たちと、時には一人でお酒を飲む暮らしを続けていたようだ。飲んでいて夜と昼が逆転したことが結構あった、と私に話していたのを思い出した。これまでも電話しても出ないことがままあった。つながらなくても「また酔っぱらって寝ているのだろう」。若干の胸騒ぎはしたものの私自身を慰めその日は寝た

 翌朝、やや陰鬱な思いを抱きながら弟のマンションに行った。オートロックのドアの前でインタホンを押した。が、やはり応答はない。鍵を預かっていないので管理人に事情を話して開けてもらえないか頼んだ。管理人も鍵を持っておらず「開けるには『カギの百十番』という鍵開け業者に頼むしかありませんが、お金がかかりますよ」という。もどかしい気持ちを抑え、直ぐに電話するようお願いをした。しかし、警察官の立ち会いがないと開けられない、とのことだった。

 そこで今度は私が最寄りの警察署に電話した。

 それまでの状況を詳しく説明すると、相手は私を落ち着かせようと、丁寧な口調で「安否確認ですね。こちらもいろいろ準備が必要なので少々時間がかかりますが待っていてください」との返事だ。「早く会いたいのに」。心急くばかりの中、小一時間経ってやっと屈強そうな警察官一人がやってきた。新型コロナだけでなくその他の感染症を含めての対策や部屋の中に賊が潜んでいる可能性も考えてのことか、かなりの重装備だった。

 屈強そうな警察官、管理人、管理人が呼んでくれた管理組合の役員、そして私が見守る中、鍵開け業者の作業員が開扉に取りかかった。てっきり鍵穴からピンセットのような小さい器具を使って開けるのかと思ったがそうではなかった。ドアスコープのレンズを外し、その穴からL字型に曲がった鉄棒を差し込んで操作した。ドアノブのサムターンを内側から動かそうと何回か試みた後、カチッという音とともにロックが外れた。ノブを回してドアが開いたかと思ったら、ドアチェーンがかかっていた。この時点で弟は中にいる可能性が高いと悟った。「部屋で寝ていて、何事もなかったかのように出てきてくれ」「弱っていて動けないのか」。「それともまさか?」……。期待と不安が錯綜した。

 ドアチェーンに挑んだ作業員は「これは厄介なんだ」と言いながらテグスのような細い糸を引っ掛けて外そうとしたが、難儀しているようだった。繰り返し、繰り返し試行した後、チェーンが外れてドアが開いた。

 すぐに入って弟に会いたかったが、警察官に制止された。私たちは何も触らないよう注意を受け、ドアの外で待機させられた。警察官は一人で中に入り、ゆっくりと部屋の点検を始めた。隠れているかもしれない不審者に襲われないよう警戒しているのか、慎重な足取りで奥へと進んでいった。

 警察官が再び姿を現した時には相当な時間が経過したように思われた。そして重苦しそうな口調で「奥の寝室のベッドの脇で仰向けに倒れられていました。ちょっと日数が…」と話した。

 覚悟をしていたとはいえ、危惧していたことが現実になってしまった。最悪の事態を知らされた時、幼い頃に一緒に遊んだこと、いつもニコニコしていた様子などがにじんだ風景の奥に思い出され、悔しさと悲しさが一挙にこみあげてきた。

 弟は昨年1月にイタリア北部ドロミテ・バルガルディナで、3月にはオーストリア・チロルのサンアントンでスキーを堪能していた。少なくとも昨春までは並大抵の体力ではないほど元気だったはずだ。それが長い巣ごもり生活で酒量が増え急激に老け込んで消耗したに違いない。「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる気がする。そして希望を見い出せなくなったら生きる気力を失う」――の言葉が痛く感じられた。

 警察官は直ぐに救急隊と刑事課に連絡した。先に駆けつけた救急隊員3人が室内に入ったあと刑事一課、鑑識課の計3人の警察官が到着した。刑事一課の警察官はしばらくして出てきた救急隊員に質問していた。そのやり取りが聞こえた。

「中でどんな処置をしたのですか?」
「はい、心肺蘇生を試みました」
「で?」
「蘇生しませんでした」
「AEDは使わなかったのですか」
「信号が出なかったので使いませんでした」。救急隊員は持ってきた担架を広げることなく縦にしたまま引き上げていった。

 代わって警察官たちが中に入り部屋の中の検証を始めた。鑑識課員の検証が続く中、私は玄関先で刑事一課の警察官から「遺体には外傷や争った形跡もなく、密室だったので事件性は薄いと思われます」と告げられた。そばに解熱剤が見つからなかったことなどから新型コロナ感染症でもないという。

 その警察官は「ご遺族と関係者の方へ」と題した見開き1枚のパンフレットを渡し、私の事情聴取を始めた。

 パンフレットの表紙には「法律に基づいて警察が行う手続きや埋葬の手続きを説明し、ご理解をいただくために作成したものです。」などと記されていた。

 中面左には「遺体発見から火葬・埋葬までの手続き」として事件性が疑われる場合とない場合の流れ図が示されていた。右面は「なぜ、警察がご遺体を調べるのですか」「なぜ、家の中を調べたり、写真撮影をするのですか」「なぜ、病歴や生命保険の加入状況などを聞くのですか」「なぜ解剖するのですか」という4項目の質問にその答えが書かれていた。

 パンフレットの内容に沿って説明を受けたあと、弟の部屋を訪ねることになったいきさつや生活ぶりのほか、「最後に会ったのは? 話をしたのは?」「兄弟の仲は?」「生命保険はどうでしたか」などと細かく聞かれた。

 2、3時間が経過しただろうか、やっと中に入れてもらった。初めて踏み入れた弟の部屋はタバコの臭いがきつかった。少し散らかってはいたが、生ごみも残っておらず、〝男やもめ〟の部屋のわりには思っていたほど汚れてはいなかった。

 寝室に案内され、ベッドの脇でパジャマをはだけさせて変わり果てた姿で横たわっていた弟を目にした時、頭が真っ白になった。声も出なかった。以前の面影は全くなく、目がくぼんだ顔をまともに見ることができなかった。ただ、真冬だったせいか想像していたほどには傷んでおらず異臭もそれほどではなかった。

 私が放心しているように見えたのか、「もう一度しっかり顔を見て身元確認をして下さい」と警察官に促された。ミステリードラマじゃあるまいし、別人が代わって倒れていたとは考えられない。発見された状況から見て弟に間違いないと思ったが、実は顔を見ただけでは確信が持てなかった。返事をためらっていると「身体的特徴は?」と聞かれた。「確か左手の甲に黒子が…」と答えると、警察官は弟の手を取り黒子を見せながら「それで間違いありませんね」と言って確認は終了した。

 検証が済むと警察官は部屋に残されていたという鍵の束、マイナンバーカード、キャッシュカード、預金通帳などの〝貴重品〟とともに「テーブルの上に置いてありました」と現金数十万円を手渡してくれた。

 ただ、死因と死亡日時はまだわからない。これを解明するため警察官は「医師の判断で解剖になる」と説明しながら、一応私に「解剖承諾」にサインをするよう求めた。弟の遺体は事件性が認められないため翌日、行政解剖に付されることになった。ちなみに事件性の疑いがある司法解剖の場合は解剖の費用は公費負担、遺体の搬送や保管、修復に伴う費用の一部も公費で賄われるが、行政解剖の場合は検案・解剖、遺体の搬送、保管の費用すべてが遺族の負担になるという。

 その日は暗く沈んだ重苦しい気持ちで帰宅した。弟と同じ酒好きで独り暮らしをしている息子への電話と妻からのやさしい慰めの言葉以外、老夫婦間の必要以上の会話はなかった。

 翌朝、警察署から電話があった。解剖の結果が出たのだという。検証で部屋から近くのコンビニのレシートが見つかり、買ったものが冷蔵庫内に残っていた。死亡日はそのレシートの日付の翌日だと推定された。弟は突然死でもあったのだ。

 そして死因を聞いて驚いた。

 「アスベスト肺、肺気腫による呼吸不全」

 後で渡された死体検案書の解剖主要所見の欄には「両肺癒着及び肺気腫。胸膜側にプラークを形成する。左右心室拡張……」などと記されていた。

 自分の健康管理には無頓着で毎日のように酒を飲んでいたというので、てっきり肝臓障害の類かと思っていたがそうではなかった。確かに空調設備の会社に勤務し、設計とともに現場管理に従事していたことはあったものの、これまで咳き込んだことや息苦しそうにする姿などは見たことはなかった。まして標高1000~3000メートル級のスキー場まで行き滑走しても何の問題もなかったのだから肺が石綿で蝕まれていたとは予想だにしなかった。

 知人から聞いた話だが、アスベストによる疾患は潜伏期間が長く、ばく露してから数十年経って発症、死亡することがあるという。国の補償もあるという。この点については別の機会に取り上げることになるかも知れない。

 死亡日と死因が分かり、死体検案書が作成されたことで弟の死に関しては警察の手から離れ、葬儀への流れに移った。

 弟の遺体は警察署から紹介された葬儀屋が引き取り、翌日、手厚い化粧を施し、髪の毛や口・あごひげを整えてくれた。棺に入った弟の顔は元気な時とはほど遠く、顔色も良くないが眠っているように繕ってもらっていた。弟がベッドの脇で横たわっている姿を目にした時には、最初は、こんな哀れな弟を私の家族だけでなく他人にも見せたくはなかった。寂しいけれど極々近しい者だけで供養してあげよう、親しかった仲間には遠くから拝んでもらえればいい、との思いが強かった

 しかし、化粧をしてもらった弟の顔を見て考え直した。「寂しく息を引き取ったのだから、最後は大好きだった多くの人たちに囲まれて見送ってもらう方が弟も喜ぶだろう」と。自粛ムードのご時世であってもささやかながら敢えて通夜も葬儀も行う一般葬で弔うことにした。

 というのも、弟の様子を心配して電話をかけてきてくれた仲間に最悪の事態を伝えたところ「そばでお別れをしたいという仲間がいっぱいます。彼の人気は高く、慕っていた部下も沢山います」「お酒を御馳走してもらった人も多いと思います。弟さんを囲む会、もあるくらいですから」と聞かされたからだ。本来であれば通夜の席で弟の仲間の人達とお酒を交えて話をしたかった。ただ、夜の飲食自粛要請が出ていることもあり、お斎(とき)は控えさせてもらった。

 十分なソーシャルディスタンスを取って行った通夜・葬儀には弟が勤めていた会社関係の仲間を中心に、私が予想していた数の倍近い人たちが足を運んでくれた。涙を流しながら手を合わせてくれた女性もいた。「会社を去って3年にもなるのに、こんな時期にこんなに多くの人が……」と正直、驚くとともに、胸が詰まった。

 後日、弟のマンションを訪ねると、玄関ドアの前に白いユリの花束が置かれていた。

 悔しさ、無念さは尽きないが、生涯独身で通しても弟は寂しくはなかったんだと、今は勝手に自分自身に言い聞かせ元気づけている。

×    ×    ×

 孤独死。年間約3万人が一人寂しく生涯のピリオドを打っているという。高齢化社会の進展とともに人間関係が希薄になっていく中で社会問題化して久しい。国、自治体のほか郵便局や多くの団体が独り暮らしのお年寄りを対象に「みまもり」活動などの対策を取ってきてはいる。だが、昨春来の新型コロナウイルス禍でさらに深刻化しているという。政府は2月19日、内閣官房に孤独・孤立問題の対策室を設けたほどだ。

 周りを見回すと独り暮らししている知り合いは何人かいる。しかも大酒家。でも、まさか自分の身内から孤独死者を出すなんて思ってもみなかった。

 実をいうと、正直なところ私と弟は成人してからはそれほど連絡を密にとっていたわけではなかった。一緒にお酒を酌み交わしたこともそれほど多くはない。歳が離れていたせいもあるが、お互いの生活を尊重した形で「便りの無いのは良い便り」とばかり不要不急のコンタクトもあまりしてこなかった。

 しかし、新型コロナウイルス感染症の拡大で巣ごもりの生活が一年近く続く中で、緊急事態は〝異常事態〟であることの認識が私には不足していたのではないか。弟にはこれまでと同じ係わり方で過ごしてきて良かったのか、兄としてもっとしてあげられることがあったのではないか、と自責の念に駆られている。今となってはもう遅いが、この時期、離れていた家族に連絡をこまめにすることの大切さを痛感させられた。三密を避けるのはもちろんだが、不用不急でも〝密コール〟〝密メール〟を心掛けるべきだった、と自省する毎日だ。

 孤独死については様々な観点から取り上げた記事や書物も少なくない。私も取材したことがあるが、多くは遺族や周辺からの取材で社会に投げかけている。慚愧の念が大きいからか、周りの人達に思わぬ影響を及ぼす恐れがありそれをおもんばかってか、身内側からの記録はどちらかと言えば少なめだ。

 少し長くなったが、忸怩たる思いの中で自らのショッキングな体験を敢えて細かく記させてもらった。

2021年5月21日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その2

 岸井寿郎さんの6歳上の友人・山下芳允さん(報知新聞記者)の「畏友、岸井君との半世紀」から、の続きです。

 <ハシゴ酒>

 書かずのブンヤ、青年記者岸井君は文字通り夜を日についでのハシゴ酒。そんなわけですからいつも給料袋に入っているのは、前借金の紙キレばかりです。それも毎月、毎月。たまにお金を拝めても、10円そこそこ。これで生活のできるはずがありません。岸井君の妻君は偉かったのですねェ。金ならぬ前借金の書付の束をポイと渡されて、どうやって生活を工面していたんでしょうか。

 あるとき、いつものように月給袋を渡すと、珍らしく前借伝票の中に12円。そこで妻君「これっぽっちでどうしようもありませんネ」「オオ、それなら芝居見に行こう!」とあり金はたいて本郷座に出かけ、それでチョン。

 岸井君は家のことなどおかまいなしに、バー「ライオン」や「マンハッタン」、台湾喫茶店とでもいうのか「ウーロンチー」などで、小さな身体に酒を注込む毎日でした。私はこれまた反対に、酒がまったくイケず、夜、岸井君とつき合うことはまれでした。が、あるときなど岸井君は、結婚して目も浅い私の家を夜中の1時、2時に襲い、玄関の戸をドンドンたたいて起こします。酔っている彼は、大声で叫ぶは、友人が子供の土産に持ってきたヨコブエいたずらしてビーピー吹くはで、近所迷惑もはなはだしく、アルコール類を一滴も置いていない私の家では、家内もずい分面喰ったようです。

 また、大臣以下、役所の幹部と記者団とが会合したある有名な料亭では、相当高価な柴檀の茶ぶだいの上に乗り、はねるやらとぶやら、果ては鞍馬式に仲間とともに騒ぐやらで、とうとう茶ぶだいをこわしてしまいました。数日たって、私は、そこの女将と文部大臣室の前でバッタリ会いました。女将が何をしにきたかは、いうまでもありません。以来、岸井君の奇行(?)はちょっと減ったようです。しかし奇行は減ってもハシゴ酒だけは延々と続いていました。後に胃腸をこわす大病をしましたが、下地は充分すぎるほどできていたわけです。

 岸井君のハシゴ酒についていける生身の人間は、新聞社に酒豪多しといえども、そういませんでした。このことだけでも、岸井君の飲みっぷりがうかがえます。毎日新聞の記者に、イトキンなどという豪の者が多くいて、岸井君のフトコロ目当てによく飲み歩いていたらしいのですが、あるときはさすがの岸井君も、もうこれ以上つき合いきれない、とみるや、次の飲屋に行こうと誘うイトキンを振りきるために、走り出そうとする市電に駆け寄って一人だけ飛び乗ってしまいました。当時の市電にはドアがなく、柱がついているだけでしたので、柱につかまって逃げ去る岸井君めがけて、イトキンは「スリだァ。スリだァ。今その電車にスリが乗ったぞォ!」と、どなったというのです。電車に乗った岸井君は車内の人にジロジロにらまれ、大弱りした、と翌日記者クラブで話していました。最近会ったときにもその話が出て、私は「それはキミ、嘘じゃない。キミの名は寿郎、すろうだから」と大笑いしたものです。(つづく)

 <日本一キレイな紙面と首切>

 当時の新聞の刷りは全国的にみてキタなく、東京日日新聞はもとより関東大震災の影響もありましたが、震災にあわない新聞社の新聞も例外ではありませんでした。これは大きな問題で、岸井君はその仕事におおいに生きがいを感じ、男として取組みました。とはいえ、岸井君にしてみれば、華やかな記者生活から、むしろ地味な印刷の仕事であり、法律こそ勉強したが印刷はまったく未知の世界。しかもきわめて難問題をかかえている時期に、彼一流の“強気”で工務部長として乗込みました。

 例のごとく、当座はほとんどこれといった仕事もせず、3月、半年と、酒にあけて酒に暮れるという毎日だったようです。ところが実は彼の偉いところなのですが、毎夜印刷、工務部の上級幹部一人一人をつれては銀座で飲み歩き、ドジョウすくいを踊ってはいても、決して酒にのまれることなく、それらの人々から印刷技術の数々、仕事に対する態度、働き振りをつかんで、改善の急所を学び、研究していたのです。

 そしてその間、改革についての腹をきめ、これを実行に移し、まず、古い幹部をスパッとやめさせてしまいました。随分思いきったやり方です。しかし、岸井君の考えでは、能率が上がらず、紙面の刷新がなされないままでいるのは、それまでのやり方が悪く、幹部の責任でもある。彼等に代えて若い人をドシドシ登用する。幹部に支払っていた給料との差額がだいぶ出る。これをすべて若い人にまわす。それで仕事もバリバリやらせる。毎日何もしていないようにみえた岸井君は、毎日新聞の工務部、というより、日本の新聞のキレイな紙面づくりのために案を練り、腹を固めていたのです。活字、インク、用紙、輪転機、ありとあらゆる点について納得ゆくまで研究し、それも机上のプランではなく、自分の目で確めて実行したのです。ボタン一つで色々な工程が流れる作業をする機械もアメリカからイチ早く購入し、われわれの目を見張らせました。岸井君の研究は工務だけにとどまらず、販売、その他にまで及んでいます。今でも、毎日新聞の紙面はいちばんキレイだと思います。新聞全体では、また逆もどりの傾向にあるのは、残念です。

 ともかく、岸井君は、当時日本一キレイな新聞、という偉業を打ちたてたのであり、本山彦一社長はいたくその功績をたたえ、社員一同の前で金一封(中味は彼の前借伝票で棒引)と記念品の金時計を贈った、とのことです。

 戦後は新聞界から去り、鉱山事業を手がけました。もちろん、金など身についてはいません。とくに山形の硫黄の山を引受けたときなども、きわめて平気な態度であっさりといったものです。「オイ、オレの香典と思って5万円出せ」。当時同期の友人はそれぞれ相当の地位についている年輩でもあり、そうした友人をまわり歩いて金を集めました。後にヤマを松尾鉱山に手放すことになったとき、岸井君は借りた金を3倍から5倍にして、キレイに返しました。金に執着しない岸井君らしいやり方です。

 その岸井君にも、ひとつの大きな夢がありました。岸井君らしい大きな夢です。家に来ないかと電話があって出かけると、きまって小笠原の地図を広げていました。2年前の夏、元気に小笠原に出かけて行ったほどです。

 「海は澄んでいるし、魚はうまいし、気候はよし、空気もキレイだ。オイ、お前も行ってあそこに保養所を建てよう!」などと、島の話をするときは、童子のように顔をほころばせていました。

 尊敬する友人を持った私は幸せでした。それだけに、いまの寂しさはひとしお身にこたえます。(つづく)

*岸井印刷部長のことは、元東京日日新聞政治部員・岡田益吉さんも書いています。
岡田益吉さんの回想

 <印刷部の根本改正>

 昭和6(1931)年9月、満州事変勃発とともに、岸井氏は政治部長となった。恐らく氏の親分であった城戸元亮主幹(昭和3年主幹となる)の抜櫂によるものと思う。氏はこのことと関係はないが、「城戸さんは面白い人事をやる人だ」といったことがある。氏を政治部長とした城戸氏に知己を感ずるとともに、「自分のような八方破れのものをよく政治部長にしたものだ」という含みの意味もあったようにきこえた。

 岸井政治部長はあの満州事変の激動期に印刷部長を兼務していた。政治部副部長には柔軟性のある久富達夫を抜櫂し、この剛の岸井部長と柔の久富副部長ぐらい名コンビはなかった。当時の東日政治部は、「猛将の下に弱卒なし」で、手のつけられぬサムライ記者が雲集しており、何れもよく働いた。政治部のことは後回しとして、岸井印刷部長は、多年禍根となっていた印刷部の根本的改革に氏特有の蛮力をふるった。

 第一に印刷部の資材のヤミ横流しなどをビシビシやっつけた。ひどいときは名うての乱暴職工を工場のコンクリートの柱に縛りつけるという思い切ったこともやった。こういう強圧も加えたが、 一方能率を上げた職工20数名に懐中時計を身銭を切って与えたりした。ガンコおやじ然とした氏の半面に涙もろい温情主義がかくされていた事実は、親近した若い連中はよく知っている。氏はこういう温情なり憐憫の心を表面にあらわすのを絶対に好まなかった。いつも自分の愛情をそっと示すやり方をし、しかも、その方法は行届いた適切なものであった。

 この印刷部の改革は、東京日日新聞(当時は大阪が毎日新聞本社で、東日は東京支社となっていた)に月々5万円(時価で5億円)の黒字をもたらし、従来、大阪本社から補填されていた赤字を解消してしまった。かくして、東日ははじめて大阪本社から経済的に独立したのである。主幹の城戸元亮氏も営業局理事の吉武鶴次郎氏も手を打って心から喜んだ。本山彦一社長は岸井氏に金時計を贈ってその労をねぎらい、大阪印刷部の改革も依頼したが、これだけは岸井氏は最後まで断っていた。

 この印刷部改革は、岸井氏の社内における確固たる地位を築き上げ、本山社長をはじめ、城戸、吉武両重鎮の信頼を、一身に担ったと思われる。そればかりでなく、東日の印刷面のいちじるしい刷新は他社の注目するところとなった。社内的に財政上の赤字を克服しただけでなく、紙面の鮮明さは格段で、当時新興の気運に乗っていた読売新聞社長正力松太郎氏も、これに着目して、大胆にもライバルである東日印刷部長岸井氏に強引に会談を申込んだ。

 ここに斯界の両鬼才である正力氏と岸井氏との出会いが行なわれたのである。正力氏は顧間の小野瀬不二人氏とたった二人で、丁重に岸井氏を迎えて、印刷面の改革方法について教えを乞うた。岸井氏はただこう答えた。「印刷工場に金を注込んで設備をよくするだけではタメです。要は人にある。正力さん、貴方が直接工場に乗込んでやらなければ、決してよくはならない」と。

 それから精力的な正力氏は陣頭指揮で工場に臨んだ。社長が大組みまで立会うほどの熱意であった。読売の紙面はみるみるうちに進歩した。なお岸井氏は停年になった束日の優秀な印刷工員を推薦して読売の工場に送込んで、正力氏を援助している。「要は人である」というのが氏の人生哲学だ。

※岸井成格さんは、この2編を読ませたかったのでしょう。当時、毎日新聞東京本社は活版からCTSに完全移行しました。制作方法が変わっても、「『要は人である』ことを貫け」と言いたかったのだと思います。「印刷部改革」のことは「毎日新聞百年史」(1972年刊)「技術編」には見当たりません。それだけに貴重な証言です。

余談。「活版は昭和とともに去りぬ」でした。「昭和」は1989年1月に終りました。活版制作の毎日新聞は、昭和が終わった年の12月11日付の群馬版、栃木版が最後でした。この日は、私の51歳誕生日でした。当時、CTS移行の活版側責任者でしたので、最後にCTSに移行する面の日程について、この日にすることを主張したところ、あっさり決まりました。本当は私の出身地である長野版にしたかったのですが、それは編集局側の事項ですのでダメでした。毎日新聞の活版制作の最終日が私の誕生日であったことは、誰も知りません。私だけの活版惜別記念日です。

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年5月20日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(後編)

 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(後編)=註と記事、写真の一部略 文・写真 平嶋彰彦
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53460857.html

 染井の長池から発した谷戸川は、巣鴨や西ヶ原からの湧水や下水(したみず)を併せつつ、染井通りを遠巻きにする形で、北から東へ向きを変えながら、現在の染井銀座から霜降銀座を流れた。霜降橋交差点は本郷通りが谷戸川を渡るところで、かつては霜降橋が架かっていた。その先が谷田川通りで、東南に流れて、中里から田端にいたる。さらに日暮里付近で向きを南に転じ、谷中(台東区)と千駄木・根津(文京区)との境になっているよみせ通りやへび道などの道筋を流れたあと、上野の不忍池に注ぎこんでいた。川の名前は上流の駒込付近では谷戸川または境川、中流の田端付近では谷田川、下流の谷中・千駄木・根津付近では藍染川と呼ばれていた。

 現在、谷戸川は源流の長池から不忍池にいたる流路のすべてが暗渠になっている。

 この川は水はけが悪かった。そのため、大雨が降ると、下流の谷中・千駄木・根津付近では、しょっちゅう氾濫し、町中が水浸しになった。

 タウン誌『谷中・根津・千駄木』は第3号で、暗渠化する前の藍染川(谷戸川)について、古老からの聞書きと地元で集めた史料により特集を組んでいる。下記の引用は、そのうちの1つである。

 明治末まではあさりやしじみが採れ、小魚が釣れた。子供は泳いだり水浴びをした。…大正5年8月、大雨が4、5日降り続いたが、川沿いに二階家が少なく、天井裏に寝起きしたり素人作りの筏まで出た。そこで地元の衆議院議員秋虎太郎氏を動かして官庁に町ぐるみの請願を行ない、大正7年から排水工事を始めて、千駄木地区は9年10月に暗渠化された(野口福治さん(故人)「ふるさと千駄木」より、明41年生、茶舗野口園)。

 いい方を変えれば、明治から大正になると、あさりやしじみは採れなくなり、小魚も釣れなくなった。明治末というのは、染井霊園の周りの寺院が東京の市中から移ってきた時期にあたる。おそらく谷戸川に沿ったあちこちで、それまでの田園地帯から市街地への転換が急速に進んでいたものと思われる。千駄木では、1918(大正7)年から谷戸川の排水工事がはじまり、2年後に暗渠化されたのは、筆者が書いているように、町ぐるみの請願が功を奏したのかもしれない。しかし、この地域の水害対策は昨日今日のことではなく、かなり以前からの懸案事項であったようにみられる。

 というのも、その洪水より3年前になる1913年、東京市は藍染川(谷戸川)による谷中・千駄木・根津一帯の水害対策として、「藍染川上流より谷中初音町四丁目を経て荒川にいたる排水路」という工事計画を立案しているからである。

 この計画書を読むと、以前からこの川はしばしば氾濫をくりかえしていたことが分かるのだが、同書では氾濫の原因をこんなふうに説明している。

 藍染川は染井・西ヶ原両高地に発し、流域は甚だ広大であるが、市内谷中・根津の地に入ると、その水路は流量に比べて甚だ狭小であるのみならず、構造が極めて粗悪であることから、一朝大雨に際会すると、雨水を排除することができない。その結果、沿川の谷中・根津一帯に氾濫をもたらし、その被害面積を測定すると約7万1千坪にもおよぶ。

 では、水害を防ぐ具体策はなにかというと、氾濫の常襲地域の手前に分水装置を設け、それまで不忍池に注いでいた流路を変更し、荒川区内を経由させ荒川(現在の隅田川)に放流しようというのである。河口の三河島には、この計画書の立案された同じ年に、汚水処分場(現在の水再生センター)が完成する予定だった。そこで、流路を変更した谷戸川の水を、この処分場で浄化してから放流することを考えたのである。

 故ニ本計画ニ於テハ下谷区初音町4丁目ニ分水装置ヲ施シ、新ニ府下三河島ニ至リテ荒川ニ合流スル延長1千658間余ノ大排水路ヲ設ケ、一朝豪雨到ラバ上流全部ノ雨水ヲ之ニ導キテ荒川ニ放流し、分岐点以下ノ水路ハ単ニ本郷台及び上野台並ニ沿岸ヨリスル雨水並ニ汚水ヲ収容排セシムルコトトセリ。

 下谷区谷中初音町4丁目は、現在の台東区谷中3丁目である。ここは道灌山の南東にある低地で、道灌山を越えた北側にJR西日暮里駅がある。計画書でいう分水装置とは、道灌山から西日暮里駅の地下に通じる「藍染川トンネル」のことである。

 この「排水路」計画の考え方に疑問がないわけでもない。というのも、川の流量に比べ川幅が狭いというなら、川幅を広げるとか、川底を浚うなどの改修工事をすればいいからである。しかし、そうはならなかった。土地買収の経費や下水管敷設の工事費が莫大になるのみならず、工事そのものの困難さが予想されたからだというのである。

 在来水路を取拡ケントセバ勢沿岸ハ多大ノ土地ヲ買収セザルベカラザルノミナラズ、下流吐口神田川ニ達スル迄長距離ニ亘リテ広大ナル下水管ノ築造ヲ必要トシ其工事費莫大ニシテ工事亦甚ダ困難ナルヲ免レズ。

 谷中から三河島にいたる新たな水路は、京成電鉄本線に沿って開削され、上記のように、排水は三河島の汚水処理場で浄化し、荒川に放流された。この計画の実施により、文京区・台東区側の千駄木・谷中から不忍池までの流路は暗渠化され、沿川一帯の人々は水害の危険から解放されることになった。

 そのいっぽう、新たな問題も生じた。どうしてかといえば、そのころには京成沿線の荒川区内でもやはり市街地化が進んでいた。西日暮里から三河島の汚水処理場までの水路は、行政的には下水道である。にもかかわらず、沿川住民の生活感情をないがしろにし、蓋をかぶせない状態のまま、長年にわたって放置していたからである。

 谷戸川の上流にあたる駒込や染井の一帯では、1931(昭和6)年に埋立工事がはじまり、1940年までには暗渠化された。現在の霜降銀座と染井銀座は、その流路跡につくられた商店街である(ph12~20)。川添登は小学校1年のとき、駒込から西巣鴨へ引っ越した。その1年後に谷戸川の埋立工事がはじまったことになる。(註20)。

 駄菓子屋の前の道をさらにすすむと谷戸川にぶつかり、川に沿って下ると霜降橋へでるが、その途中に活動写真館があったり、サーカスが小屋掛けする場所があったりで、いわば場末の繁華街になっていた。谷戸川は、川とはいえ、角材と板材とで土留めされた底を、雨でも降らない限り、わずかな水がちょろちょろ流れるだけのものになっていて、私たちはドブ川とよんでいたが、たまにはオタマジャクシが泳いでいて、それをとったりもしたのである。

 駄菓子屋の前の道というのは、本郷台地の上にある染井通りから谷戸川へくだる染井坂通りのことである。川添登の一家がこの坂道の中腹に引っ越してきたのは、連載その10で書いたように、関東大震災の直後であった。それまでは、谷戸川に沿って田んぼが続いていたが、川添が子どものころには、すでに民家で埋まっていた。とくに染井坂の下には、長屋が建ちならんでいて、それをバラック呼んでいたともいうことである。

 現在の霜降銀座と染井銀座になっている一帯は、おそらく関東大震災のあと、東京市中からの人口の流出現象にともない、本格的に市街地化したものと思われる。

 『コンサイス東京都35区区分地図帖』は、戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図である。連載その1で書いたように、『東京ラビリンス』のもとになった『昭和二十一年東京地図』の取材では、いつもこの地図を持ち歩いた。

 この『地図帖』をあらためて見てみると、1945(昭和20)年の米軍による空襲で、川添登が記憶する谷戸川沿いにつくられた「場末の繁華街」をはじめ、駒込・巣鴨一帯のあらかたの地域が赤く塗りつぶされている。罹災を免れた箇所は、染井霊園とその南東側に隣接する高級住宅地、伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺と染井稲荷神社の境内など、ごくわずかしか確認することができない。

 終戦後の1951年、朝鮮戦争が勃発した翌年になるが、商店街の店主を中心に霜降銀座栄会が設立されている。染井銀座をふくめ、戦災で壊滅した「場末の繁華街」が、現在のような家族連れでにぎわう商店街へ再生する足がかりをつくったのも、そのころではなかったかと思われる。

 それ以上の詳しいことはわからないが、都心の繁華街に眼を向けると、この年の12月、銀座界隈の露店が取り払われ、その替りに三十間堀埋立地の露天デパートに移転することが決まっている。都内にはそれまで7000余りの露天商がいたとのことだが、そのうちの約4500がすでに「自発」的に廃業し、新宿・上野ではすでに協同組合のデパートに移転したともいう。それより4ヶ月前の8月、東京都は御茶ノ水駅下の谷間・上野寛永寺の墓地(「葵町」)・浅草の隅田公園(「アリの町」)などにあったバラック建築を年内に撤去することを決めている。朝鮮戦争による特需景気を契機にして、終戦直後のいわゆる闇市時代は終わりをむかえつつあったのである(以下略)。

染井商店街。昔ながらの魚屋二木商店。駒込3-29。2012.12.08

2021年5月19日

「畏友、岸井成格君との半世紀」を福島清さんがFBに連載

写真は2015年12月24日、毎日ホールでのつどいに出席した岸井さん

 5月15日。89年前のこの日、犬養毅首相が暗殺された。乱入した海軍軍人は「話を聞こう」という犬養に「問答無用」と言って射殺した。49年前のこの日、沖縄は日本に復帰した。だが依然として米軍基地が「問答無用」とばかりに居座っている。2015年、沖縄の苦難の歴史と基地被害を渾身の思いで訴えた翁長雄志・知事に対して、当時の菅官房長官は「戦後生まれなので、沖縄の歴史はなかなかわからない」と言って、辺野古基地建設を強要した。

 そして3年前のこの日、毎日新聞OBでTBSニュースキャスターだったジャーナリスト・岸井成格さんが亡くなった。2015年、当時の安倍首相に忖度した連中が岸井批判の全面広告を出して攻撃した。だが岸井さんは断固として対決しひるみませんでした。

 岸井さんは、1976~1977年にかけて毎日新聞労組が再建闘争に取り組んだ時、「開かれた新聞」として再建することを目指した「編集綱領制定委員会」の組合側メンバーの一員でした。2015年に発行した「夢を追いかけた男たち―毎日新聞再建闘争から40年」で、岸井さんは「最近の『安保法制』その他の安倍晋三内閣の強引な政治運営、『小選挙区制』導入以降、目に見える形で進行する政治の劣化、そして何よりも政権のメディアへの干渉、介入、これに対する主としてテレビ・メディア側の萎縮ぶりは危機的な状況が続いている」と強く警鐘を鳴らしました。

 これより前の2007年、岸井さんは毎日新聞の広告企画特集で、小宮山洋子さん(元厚生労働大臣、衆議院議員)、山野正義・学校法人山野学苑理事長と鼎談しました。美容と福祉の融合を目指すという山野学苑の方針に、岸井さんは「生きがいの原点に」と評価していました。

 菅政権の暴走が続く今、岸井さんはどんな思いでいるでしょうか。

【岸井成格さんの父・寿郎さん①】

故 岸井寿郎氏

 1990年頃、岸井成格さんが私の職場にきて「親父は昔、東京日日新聞の印刷部長だった。参考になるかも知れないから」と言って、追悼集「岸井寿郎」(きしい・としろう)をくださいました。友人たち13人の追悼の言葉に加えて、慶子夫人の36ページもの「夫を偲んで」、そして遺稿4編などが掲載されています。

 読み返してみました。大正から昭和の激動の時代に立ち向かった寿郎さんの姿勢は、岸井成格さんに受け継がれていると同時に今の社会に対する警鐘のよう思いますので、いくつか紹介します。略歴は、遺稿集に年譜がありませんので、追悼文に書かれていることなどからまとめてみました。

 1891年5月28日香川県豊田郡常盤村(現・観音寺市)生まれ。香川県立三豊中、第三高等学校を経て、1917年東京帝国大学法学部卒、司法官試補を経て、1919年大阪毎日新聞社入社、1930年政治部長兼印刷部長、1937年退社。実業界へ。1942年香川2区から衆議院議員、1945年12月まで1期。以後再び実業界へ。1970年10月1日、79歳で死去。

 最初に6歳上の友人・山下芳允さんの「畏友、岸井君との半世紀」からです。

 <温情検事> 岸井君は帝大出の法学士ですが学校にはほとんど行かなかったので、独学でモノにした、といった方がふさわしいでしょう。卒業したといっても、免状も取りに行かずのままで、戦災で焼けていなければ、いまでも東大に残っているはずです。当時東大の卒業証書といえば、それだけで後光のさす自慢のタネになるのですが、目に見える証として、ふつうの人間なら後世大事にする証状とか勲章とかには、一向関心がありませんでした。

 学校などへは真面目に出ていなくても、岸井君の頭の良さは誰もが認めるところです。郷里の三豊中時代には、むずかしい函数の問題を見事に解き、それを完壁に解説したのは開校以来、岸井君が唯一人、と教師を驚嘆させ、いまだに語り草になっている、ということです。

 帝大卒業後はしばらくウロウロしていたようですが、地方裁判所の検事になりました。しかし岸井検事の成績はさっぱりあがりません。というのは、できるだけ前科者にさせたくない、という信念から、初犯者には彼独特のあの厳しい説教をして、ドンドン釈放してしまうからです。若冠20数才ですから、どんな説教をしていたんでしょうか……。
結局検察当局としては、成績があがらないということになり、そうした岸井君のやり方について、“びっこの鬼検事”として有名を馳せた秋山検事ともよくやり合い、喧嘩して遂に検事をやめてしまいました。その頃から岸井君は、強きには強く、弱きには弱く、というやり方を通し、自分の信ずるところを曲げませんでした。(つづく)

【岸井成格さんの父・寿郎さん②】

 <ケンカ寿郎> 喧嘩をしてやめてしまった検事の職から、一転して東京日日に入社。まず内務省づめになりました。時の内大臣は、地方官出身で勤厳真面目な男爵・湯浅倉平でしたが、向かうところ恐れるものなく、ポンポン歯に衣着せずモノをいう岸井君は、ここでも大臣と喧嘩してしまいました。そのために文部省にまわされたのですが、その頃私も報知の記者として文部省を担当しており、「一橋会」という記者クラブをやっていたため、岸井君とはよく顔を合わせていました。

 岸井君は、何も仕事をしない。夜は2時、3時までも銀座を飲み歩き、ほとんど発表原稿など書きません。それで私が原稿をカーボンで書き、控として一枚は手許に残し、上の一枚を彼が書いたようにして送る、というようなこともやりました。しかし、表面では何もしないかのようにみえて、こまかなことにもよく気づき、ものごとを大づかみに、大局から見ていました。やることすべて大ざっばな岸井君と、正反対に私はコツコツとやる方なので、われわれ二人は気が合ったのでしょう。

 大臣であろうが誰であろうが人見知りせず、相手が強ければ強いほど闘志をムキ出しにするので、ケンカが絶えません。ケンカ、といっても、もちろん信念を押しての口論、激論です.それでも文部大臣の中橋徳五郎(大阪財界の大御所で、大阪商船社長)には可愛がられ、仕事はせずに、よく碁を打ちに遊びに行っていました。岸井君の碁は、正式に教わったり、定石を鵜呑みに憶えるのではなく、自分の頭で考え、組立ててゆく、ケンカ碁の典型だったようです。

 当時、私がおりました報知は、部数70万を誇り、講談社の野間清治氏から三本武吉氏に移っていました。

 岸井君も東京日日の政治部でしたから、書かずのブンヤ岸井君との政治談義には熱が入り、相手が私でない普通の人だったら喧嘩にもなっただろうと思われる場面がいくらもありました。(つづく)

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年5月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(前編)

私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(前編)=註と写真の一部略 文・写真 平嶋彰彦

全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443544.html

 染井通りは、連載その10で書いたように、江戸時代につくられた由緒のある通りで、六義園の北側で本郷通りから分岐し、北西方向に真っすぐ伸びている。

 『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨辺絵図」とGoogle地図を重ね合わせると、染井通りの南側には、六義園すなわち大和郡山藩松平(柳沢)家の下屋敷に隣接して、伊勢津藩藤堂家の下屋敷があった。さらに進むと播磨林田藩建部家の下屋敷につきあたる。そこが現在の染井霊園である。それにたいして、染井通りの北側はどうかというと、植木屋の店舗が軒をつらねていた。通りから奥へむかって、なだらかなくだり斜面がひろがり、植木屋たちはそこを開発して花園をつくり、浮世絵にも描かれたような江戸名所の1つに発展させていた。

 染井霊園をはじめて訪れたのは2012(平成24)年の暮れだった。園内には冬空を仰ぐように枯れ枝をのばすソメイヨシノ(染井吉野)の古木が立ちならんでいた。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

 なんとなく梶井基次郎の『桜の樹の下には』の冒頭が思い浮かんだ。

染井霊園。車いすで花見に訪れた高齢の女性。2013.3.22

 そういえば、西行にもサクラの花を死と結びつけた有名な歌がある。

  ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃

 染井霊園に咲くソメイヨシノを眺めてみたくなり、翌年の春にもう一度訪れることにした。出かけてみると、サクラは花の盛りだったが、死者たちに遠慮があるのかどうか、墓参りの人をのぞけば、一般の花見客は数えるほどしかいなかった。

 全国各地の公園・街路・川堤・学校などに植えられている花樹の多くはサクラだが、サクラといっても、その筆頭はソメイヨシノである。ソメイヨシノの特徴は、接ぎ木で容易に増やすことができ、幼木のうちから花を咲かせることにある。それも葉の出る前にたくさんのみごとな花をいっせいに咲かせる。オオシマザクラとエドヒガンザクラの交配種だとされるが、自然によるものか人工によるものか、またその現場がどこかもはっきりしない。しかし、これを日本中にひろめたのは染井の植木屋の功績だということである。

 染井の植木屋たちがソメイヨシノを売りだし始めたのは幕末のころらしい。徳川幕府がたおれ、明治維新になると、新政府は近代国家に見合う社会的環境を全国に整備していった。そのときに、公共の場所にふさわしい花樹として選ばれたのがサクラだった。そのなかでもとりわけソメイヨシノが好まれ、それも1本とか2本ではなく、たいがいは相当数を集合させる形で植えられた。

 ソメイヨシノが出はじめたころの呼び名はヨシノ(吉野)だった。ヨシノは地名と同時にサクラの総称だった。奈良吉野はサクラの名所として知られる。古典文芸に出てくる吉野山のサクラはヤマザクラだそうである。ヨシノのままだと奈良吉野のサクラと紛らわしい。そこで、頭に産地のソメイ(染井)をかぶせ、ソメイヨシノと呼ぶことにしたのだという。

 駒込の染井はソメイヨシノの故郷である。電車に乗って駒込へやってくる人に、薦めてみたくなるサクラの名所はどこかとなると、染井霊園のほかに思いつかない。かつて植木屋が軒を連ねた染井通りにソメイヨシノの大木は見あたらない。江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺門前の染井よしの桜の里公園とか、染井坂通りの門と蔵のある広場の周りには、ソメイヨシノの大木がないことはないが、周りにならび立つビルの現代的な景観に埋没してしまっている。これはなんとなくさびしい気がする。

 染井霊園は、東京の市街地の周縁につくられた共同墓地の1つである。1874(明治7)年、青山霊園(現港区)・雑司ヶ谷霊園(豊島区)・谷中霊園(台東区)とともに開設された。園内には二葉亭四迷・山田美妙・岡倉天心・高村光雲と高村光太郎智恵子夫妻などの墓がある(ph4、註7)。染井霊園の周りには慈眼寺・泰宗寺・専修院・蓮華寺・勝林寺・本妙寺などの寺院と境内墓地が建ちならび、一大埋葬地としての景観を呈している。いずれの寺院も染井霊園が開設されてから約30年後の明治時代の終わりごろに、東京の市街地から移転してきている(註8)。そのうちの泰宗寺・専修院の墓地およびその隣の天理教の墓地などがある場所は、植木屋伊藤伊兵衛の屋敷地だったところだともいわれている。

 「江戸切絵図」をみると、染井通りを遠巻きにするように、西から北へさらに東へと向かって、川が流れている。川の名前は書いていないが、川を挟んで右側には「此辺染井村植木屋多シ」とあり、左側には「此辺西箇原(西ヶ原)村」とある。

 これが谷戸川である。

 谷戸川ついて、『新編武蔵風土記稿』は「上駒込村」のなかで、源流は染井の長池から発していると書いている。

 谷戸川 北境西ヶ原村の接地に流る、或は境川とも呼ふ。染井の内長池と云池より西ヶ原村へ沃(そそ)く。

 駒込は上駒込村と下駒込村に分かれていて、染井は上駒込村の枝村である。だが、染井だけではちょっとつかみどころがない。谷戸川の源流とその川筋については、『御府内備考』の「千駄木坂下町」に、より具体的な説明がなされている。

 一 堀 幅九尺程

 右は字谷戸川と唱澁江長伯様御預り、巣鴨御薬園ゟ出、田端村新堀村下駒込村と町内東の方谷中感応寺古門前町と当町の間を相流、谷中駒込の堺に御座候。

 一 石橋 長さ弐間、幅八尺

 右は谷戸川へ掛り候て合染橋と唱候者も有之由

 千駄木坂下町は現在の文京区千駄木2、3丁目のことである。千駄木坂は、団子坂の別名で、その坂下に開かれた町ということから千駄木坂下町と称した。そこを幅9尺(約2.7m)ほどの川が流れていて、合染橋という名の石橋が架かっていた。これが世にいう谷戸川で、その水源は巣鴨にある澁江長伯預りの御薬園である、というのである。

 そうすると、『風土記稿』のいう染井の長池は、『御府内備考』のいう巣鴨御薬園のなかにあったようにみられる。では、それは現在のどこらへんにあたるのだろうか。

 『江戸切絵図』で谷戸川の上流方向をたどってみると、建部家の下屋敷(染井霊園)の西側をさかのぼったその先で、藤堂家の下屋敷と巣鴨御薬園の境にたどりつく。どちらも武家地である。屋敷内のようすを知りたくとも、邸主の名前のほかはなにも書いてない。しかしながら、それより先に川らしきものは見あたらない。だとすれば、このなかに水源があったと考えてよさそうである。

 『御府内備考』のいう御薬園があったのは、現在の中央卸売市場豊島市場のあたりとされている。これと隣接するのが藤堂家の下屋敷だが、その西側の端が薬園との境で、現在の岩崎弥太郎墓地のあたりとみられる。したがって『風土記稿』と『御府内備考』の記述を『江戸切絵図』に照らし合わせると、中央卸売市場豊島市場と岩崎家の墓地があるあたり、すなわち、染井霊園の南側かその周辺のどこかにあった、という推定が成り立つ。

 ところが、長池があった場所は、染井霊園の南側ではなく、北側であったともいわれている。たとえば、江戸・東京の歴史研究で知られる鈴木理生は「現在の豊島区巣鴨五丁目(駒込5丁目の誤り)の染井霊園の北側にあった長池を水源とし」と『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』に書いている。

 また文京区教育委員会は藍染川と枇杷橋(合染橋)の現地案内板で、「長池(現在の都営染井霊園の北側低地)」としている。あるいは、豊島区HPの「桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)」には、「(染井霊園は)元は建部内匠頭下屋敷跡で、西側には谷戸川源泉の長池があったそうです」とある。

 どれも専門家の記述だから、それなりの根拠があるにちがいなく、無視できないのだが、筆者の力不足もあり、該当する史料を見つけだせないままでいる。

 それはさておき、川添登は『東京の原風景』のなかで、「オタマジャクシといえば、なんといっても染井通りにいまもある天理教の教会の庭の池であった」という少年時代の思い出に続けて、この長池について、次のように回想している。

 染井の墓地にいくと、コジュケイが行列をつくって歩いていた。墓地のはずれには池があり、終戦直後までは釣り堀として残っていた。これがかつての谷戸川の水源地、長池だったのではないだろうか。

 染井霊園を見わたすと、東側は台地の上で、西側は台地の下という地形である。それにたいして、染井霊園の西側にも、向かい合うように、やはり台地がある。つまり、霊園の西側の端は、2つの台地から斜面が落ちこむ谷間の底、いわゆる谷戸の地形になっていて、それが南北を線状に貫いているのである。したがって、川添登の引用文にある「墓地のはずれ」とは、そのどちらかの端ということになる。

 染井通りからの染井霊園の入口は、方角的には霊園の北東の外れになる。園内を西側にまっすぐ歩いて、斜面を下りきったその向かいが、慈眼寺とその境内墓地である。ここが「墓地のはずれ」の候補地の1つになる。鈴木理生や文京区あるいは豊島区のいう染井霊園の北側とは、このあたりをさすものとみられる。

 染井霊園と慈眼寺墓地の境は、駒込5丁目と巣鴨5丁目の境でもあり、それに沿って人と自転車だけが通れる生活道路がつくられている。慈眼寺の墓地は、南北に細長い短冊形になっていて、道路を南に向かって歩いていくと、墓地がつきたところで、中央卸売市場豊島市場の塀が右側にあらわれる。それにたいして、左側は染井霊園の南側の端にあたるところで、谷戸のつきあたりといった感じの窪地になっている。

 「墓地のはずれ」に該当するもう1つの候補地は、おそらくこのあたりのことだと思われる。終戦直後までそこに残っていた釣り堀が長池ではなかったか、と川添登は推測しているが、この場所は『江戸切絵図』に描かれた谷戸川の川筋ともおおむね合致する。もしそうだったとすれば、暗渠化するまでの谷戸川は、染井霊園と慈眼寺墓地の境になっている生活道路に沿って流れていた可能性が高いと考えられる。

(以上、前半)

2021年5月12日

「ラグビーは毎日なんだよ」…同志社、早大、東京芸大ラグビー部のこと

 日曜日の朝刊(5月9日付)に、同志社大ラグビー部を1面丸ごと特集していた。同志社大ラグビー部は、毎日新聞とも結構深い関係があるので、いくつか補足をしてみたい。

 まず同志社ラグビー部の歴史。元毎日新聞のラグビー記者・池口康雄(東大ラグビー部OB)はこう書いている。

 「慶応義塾がラグビーを導入したのが明治32(1899)年。この12年後にようやく旧制三高、同志社、京都一中と、東海道をひと飛びして京都にラグビーの芽がふき出した。関東以北では慶応の努力にもかかわらず一向に根づかず、二番目の早稲田まで実に19年という歳月を要した」(『早稲田ラグビー』朝日文庫1987年刊)

 同志社は、慶應義塾、三高に次いで日本で3番目に創部した。

 慶應義塾vs同志社。対校戦では最も長い歴史を持つ。ファーストマッチは、創部翌年の1912(明治45)年1月9日。京都の三高校庭で、だった。

第1回慶同戦出場の選手たち(「D」のマークが同志社) =1912年(明治45年)1月8日京都・三高グランド

 「スコアは忘れたが、大敗した」と、同志社のフルバックで出場した鈴木三郎が『同志社ラグビー蹴球部創立25周年記念誌』(1935年刊)に書き残している。

 鈴木は、卒業して大阪毎日新聞(大毎)の記者となり、外信畑を歩んだ。1941~44年ブエノスアイレス特派員という記録が残っている。

 「大毎ラグビー部」は、「関西における実業団チームの第1号」(『関西ラグビーフットボール協会史』)で、1926(大正15)年1月結成。そのファーストマッチ北野中学校戦に、鈴木はHBで出場している。

 その試合のメンバーがスゴイ。FWに松岡正男(慶應義塾蹴球部〈ラグビー部〉の草創期の中心選手。当時経済部長。羽仁もと子の実弟)、久富達夫(東大ラグビー部第2代キャプテン)、「大毎野球団」から野球殿堂入りの小野三千麿(慶大)、高須一雄(慶大、のち南海ホークス初代監督)、井川完(同志社大)と、SOで川越朝太郎(旧姓棚橋、京都一商)の4人。TBに中村元一(第1回早慶ラグビー戦の時の早大マネジャー。晴れの特異日11月23日に試合日を決めた。元仙台支局長)。

 「ラグビーは毎日(新聞)なんだよ」。これは現在、花園で行われている全国高校ラグビー大会生みの親杉本貞一(慶應義塾1913年度キャプテン)の言葉である。1918(大正7)年1月の第1回大会の優勝は全同志社で、その後も同志社中学が第3回大会から5連覇、1年置いて3連覇している。

 杉本は、第1回慶同戦に出場した。

 早大ラグビー部の創部は、同じ1918(大正7)年11月7日。創設者で、初代キャプテンの井上成意が書き残したものを日比野弘早大名誉教授が自著『早稲田ラグビー史の研究』(早稲田大学出版部1997年刊)で紹介している。

 井上成意は1916(大正5)年3月に同志社中学を卒業して、早大商科予科に入学した。「ラグビーが発達するためには、野球のように早慶戦が必要」と述べたうえで、「いやしくも私大の雄早稲田にラグビーの如き勇壮なる競技の存在せざることを遺憾として、幼年より親しめる楕円球を初めて戸塚球場に持ち来たり、同志と共に、蹴球せるが早大ラグビーの涵養である」。

 野球の早慶戦は、1903(明治36)年に始まったが、両校応援団の過熱から06(明治39)年秋の第3戦から中止となったままだった。

 ラグビーの早慶戦は、1922(大正11)年11月23日に始まった。その3年後1925(大正15)年に、野球の早慶戦が復活したのである。19年ぶりだった。

 井上成意は、卒業してカルピスに就職した。「初恋の味」でカルピスが大ヒットした時の宣伝部長である。1956(昭和31)年没、58歳。

 さて、井上成意の父親井上権之助(1869~1938)も同志社OBだ。同志社ラグビー部史に、1889(明治22)年神学部バートレット教授がサッカーボールを持ち込んだことに始まるとある。権之助がバートレット教授と蹴球を楽しんだ様を同僚が書き残している。

 「当時御苑内の芝生の一部が、母校の運動場として使用の許可を得ていたので、学生の所望で創められた兵式体操も、ハルツレット先生(バートレット教授)から初めて蹴球を教わったのもそこであったが、君はそれ等の運動には熱心の参加者であった。脚が短くてかなり矮小な君が、あの長身な先生の肩へ飛び着いて、頸ッたまへ獅咬み着いた珍妙な姿は、今もありありと眼の前に見えて、50年も前の事とはどうしても思われない」

 産業人名事典によると、権之助は1890(明治23)年に同志社を卒業して第一銀行に入行。安田銀行本郷支店長、九十八銀行支配人、横浜市復興信用組合常務理事などを歴任している。  7男1女に恵まれ、成意は2男。12歳下の6男、彫刻家の信道は、東京美術学校(美校、現東京芸術大学)が1929(昭和4)年にラグビー部が創部したときのメンバーで、第3代キャプテンだった。

  兄弟で大学ラグビー部を創部しているのだ。

 美校ラグビーの始めは、山岳画家でのちにアンデスで遭難死した山川勇一郎(1934年油画科卒)。神戸一中のラガーマンだった。

前列右端・井上権之助、後列右端井上成意、左端井上信道(家族の記念写真から)

 1929(昭和4)年の入学早々、「山川がラグビーのボールを持って立っているではないか。私は思わず駆け寄ってラグビー部発足の相談をした」と、信道は『上野の杜のラグビー部1929-1992』(1993年発行)に思い出を寄せている。

 仲間に加わったのは、同級生の真木小太郎(油画科、マイク真木の父親)、川端実(油画科)ら。キャプテンは2年上の菅沼五郎(塑造科)。菅沼は、信道がキャプテンを務めた1931(昭和6)年を除いて34(昭和9)年まで5年間もキャプテンを続けた。

 「まずジャージーを作らなければならない。旧食堂でメリヤスシャツをバケツに入れ、黒く染めたのも思い出だ」と信道。オールブラックスである。部史に「井上の発案」とあるが、「試合のたびに、汗で体が真っ黒になった」とも語っている。

 兄成意に頼まれたのか、1927(昭和2)年の早大豪州遠征に参加した現役選手助川貞次(39年戦死)が指導に来たことがあった。練習後銭湯に行って「助川さんの体躯は、石膏のヘラクレスのよう。私たちの体躯と差があるので驚いた」と記している。

 毎日新聞の美術担当記者だった安井収蔵(2017年没、90歳)が「ああ、東京芸大ラグビー部」というエッセーを残している。こんな芸術家もラグビーをやっていたんだ、という参考に、すでに紹介したラガーマンを除いて安井が取り上げたOBを列挙してみる。

 柳原義達(36年塑造科卒)、舟越保武(39年塑造科卒)、版画家清宮質文(42年油画科卒)、彫刻家大國丈夫(45年鋳金科、52塑造科、56年彫刻科卒)、深沢幸雄(48年彫金科卒)、桐野江節雄(49年油画科修士)、元東京芸大教授・彼末宏(52年油画科卒)、画家宮田重雄の長男晨哉(52年油画科卒)、保田春彦(52年塑造科卒)、高塚省吾、彫刻家飯田善国(ともに53年油画科卒)、吾妻兼治郎(53年彫刻科卒)、新妻実(55年彫刻科卒)、藤田吉香(55年芸術学科卒)、インダストリアル・デザイナー栄久庵憲司(55年図案科卒)、アバンギャルド作家篠原有司男(56年油画科修士)、福本章一(56年油画科卒)、工藤哲己(58年油画科卒)。

 大國は1941~56年、「戦争による4年間のブランクを除き15年間の学生生活」をラグビー部とともにした。2014年に90歳で亡くなったが、法名は「楕円」の2文字である。 もうひとつ、洋画家で女子美大名誉教授入江観(86歳、56年度キャプテン、57年芸術学科卒)が日経新聞文化欄で「上野の杜ラグビー90年」(2019年10月13日付)を書いている。安井が紹介しなかった芸大ラグビー部OBを挙げる。

 漆芸家高橋節郎(38年漆工芸科卒)、インダストリアルデザイナー柳宗理(40年油画科卒)、建築家清家清(美校→43年東京工大卒)、ガラス工芸家岩田久利(51年図案科卒)、画家赤堀尚(54年油画科卒)、画家福本章(56年油画科卒)。

 アートディレクター河北秀也(71年ビジュアル・デザイン卒)、彫刻家舟越桂(東京造形大→77年大学院彫刻修了)、木彫の三沢厚彦(87年彫刻科卒、89年大学院彫刻修了)。

 「世界のオザワ」小澤征爾(86歳)は、第1回東京都新制中学校ラグビー・フットボール大会で優勝した成城学園のウイングだった。SHに後のロック歌手故小坂一也。1951(昭和26)1月の大会だから70年前である。

 小澤の右手人差し指は曲がっている。ラグビーで骨折したのだ。ピアニストの夢は破れ、指揮者に転向した。だから「ラグビーがなかったら『世界のオザワ』は生まれなかったかも知れない」といわれるのだ。

 彫刻家井上信道は、2008年に亡くなった。99歳だった。横浜駅西口にブロンズ裸像「ファンタジー」、神奈川非核宣言県記念碑の母子像などが横浜市内に飾られている。

 妻の画家井上寛子さんは、早大ラグビーが創部した1918年生まれで、ことし103歳の誕生日を迎えるが、4月に都内で個展を開いた。娘の現代アート作家大野静子さんも、5月12日まで横浜三渓園で開かれた「アートの庭―北欧と日本の作家によるコンテンポラリーアート展」で作品を展観した。

 芸術一家である。

(堤  哲)

2021年5月11日

「ミルクワンタン」ついに閉店。有楽町編集局……「すし横」時代の喜怒楽々 喧嘩。ノミシロ。ツケ。給料袋。しょんべん。増ページ。

 有楽町時代の編集局入口は「飲み屋」の女将がわんさわんさと押し掛けた。毎月5日・25日、毎日新聞社給料日恒例の騒動が一日中見られる。ツケで飲み食いしたノミシロ(飲み代)をいただきに来ているのだ。出入りする編集局員……主に部長・副部長・古参記者連が女将に“逮捕”されては「払いなさいね!」と言われて渋々、給料袋から直接ナン千円かを渡さざるを得ない。ナン万円も溜まった大先輩も大勢いた。「こん次にしてくれんかなっ……」と泣き言で勘弁してもらったり……。

 基準外手当の入った毎月5日の給料袋を袋ごとそっくり女将に渡した大先輩と出会い二人で呵々放笑した。隣接の「丸の内名画座」(映画館)へ逃げ込んで難を逃れた部長もいた。輪転機のある地下を通って狭い階段を上がると映画館の裏に行けた(知る人ぞ知るルート)。ついでにタダで映画1本見ちゃう図々しサ。

 借金とり女将はほとんどが「すし屋横丁」の店である。「すし屋横丁(すし横)」は昭和20年終戦と同時に生まれた露天、バラック、1杯飲み屋(違法な400店近く)が整理統合を繰り返し、昭和23年(1948)誕生した。正しい名称は「有楽町商業協同組合」。抽選で選ばれた飲食店106軒。ずっと以前だが「思い出のすし屋横丁地図」をモロ(筆者)が作成して関係者に配ったこともあったくらい毎日新聞社には懐かしい“遊園地”(今で言えばテーマパーク)である。界隈は小便臭いのだ。ほとんどの客は店を出た所で立ちしょんべんをしていた。それがまた、いかにも毎日新聞社の会議室であり厚生施設のようでもあり……。

 「すし屋横丁」と言っても電気屋があったし、ホルモン屋、バー、洋食、すき焼き、喫茶店、雀荘……みんな知っているのが「吉田」「三友」「花柳寿司」「赤星」「照寿司」「げんぱち」「ミルクワンタン(鳥藤)」「フライパン」「地球」「だるま鮨」「有楽苑」「山楽」「ひろしまや」「珍萬」「宝来」「来々」「アキラ」「板門店」「ぽんぽん亭」「エーワン」「お喜代」・・。

 日劇側出入口近くにはマムシの生き血を飲ませるヘビ屋もあった。「げんぱち」なんぞは竹橋移転に合わせて九段に越してきた。「珍萬」をやっていたオヤジが涙を見せながら懐かし噺……「でっかい声で議論するブン屋さんの噺は面白かったア。焼き飯や中華そば、毎日新聞社へ連日出前したよ。食わねえまんまゴキブリ漬けになっていたメシ皿もあったなあ。ウチに来た記者なんかも傍若無人でねエ。俺がいちばんエライみたいな……ニュースでは聞けない秘密も聴いたさあ。いまだから言うけんどよ、あれは、よそで喋って、情報通だなんていわれちゃって……はっはっは」(昭和55年取材時)。テレビも普及していない時代の新聞記者は世間の花形だった。(上の写真=昭和30年代の「有楽町すし屋横丁」のメインストリート)

 有楽町駅前の「すし横」跡地に出来た「東京交通会館」には「すし横」にあった店が14~15軒もあったが、だんだん消えた。美味・加茂鶴を飲ませる「ひろしまや」は女将さん(故人)の娘が引き継いで今もやっていてモロもときどき飲みに行く(「ゆうLUCKペン」の有楽町特集号が置いてあるよ)。

 ついこの前閉じた飲み屋「吉田」はスシ横時代、中通りを北に行って右手にあった。毎日新聞の幹部が連日のように訪れた店で、最近も那須良輔画伯の貴重な直筆絵がたくさん飾ってあった。「隊長」と仇名のあった主人はときどき顔を見せていたが、もしかして逝ったかも? あの絵は相当の高値が付いたろうな。

 記者同士の新聞つくりに関わる議論・論争・喧嘩はいつものコト。どんなに喧嘩しても飲み代は先輩もちなのはアタボーよ、の世界。我々下っ端記者は飲み代を払った試しがない。そも、すし屋横丁へ同僚と行くなんてことはナイ。デスクや部長や1つ2つ3つ上の先輩と飲る。割り勘なんて言おうものなら張り倒されるから言わない。だからモロも昭和30年代、飲みに行って支払いをしたことはゼロ回。さんざん先輩を「アホかっ、考えが甘いっ」と批判しても、お開きになる際は先輩が女将の目を見て店を出ればおしまい。

 飲み屋の女将側も承知の沙汰。目配り一つ、このグループだとこの人、この仲間ならこの人、という具合にツケる人間が判っていた。店を出る際に「お金がひらひら」するお勘定シーンなど見たことがナイ。

 新聞も朝刊が16ページになり、夕刊が4ページになり……増頁増頁、編集局各部の記者も増員増員。ゆけゆけどんどんが先行、給料も少しづつでも確実に増額増額して、人間的にもマイナス風は吹かなかった。

 ミルクワンタンで有名な「鳥藤」が2021年4月23日を最後に「閉店」した(新聞報道で知る)。

 飲み屋の閉店がニュースになるのだから社会的価値が高い。敗戦直後の屋台から72年もつづいたんだからエライもんである。「鳥藤」はすし屋横丁の北側の端、入口から入って右側3軒目にあった(今で言えば有楽町駅京橋口の前)。

 その頃のミルクワンタンは細かく刻んだ鶏モツ煮を牛乳で煮込み、ワンタンを浮かした汁丼。これが酒飲みには美味しかった。栄養満点。二日酔いのモロなんぞは毎日食べて胃がすっきり。面白い紙面を作るぞ!という戦闘気分に燃えて編集局に出社した。現在は汁の出汁も多少違い、鶏モモ肉やらいろいろ上等の具も入っているようだが、昭和24(1949)年当時はそうはいかない。ワンタン以外は何も入っていなかったんじゃないか。あのころは1杯20円……昭和30年ころから30円? 40円だったか。ミルク(もしかして当時は脱脂粉乳?)の分少し高かった。この辺り、取材しないで書いているから間違いかも知れぬ(鳥藤さんごめんなさい)。閉店時は700円?

 初代と、それを継いだ息子さんも故人となり、息子さんの奥さんが最後まで取り仕切っていたと聞く。

 「鳥藤」は飲み屋というよりは、今で言うラーメン屋。当時はラーメンという言葉もなく「中華そば」(町に来る屋台は「チャルメラ」)。ここではツケというのはなく現金払い。モロも「鳥藤」ではカネを払った。だいたいに於いてこの店のナマエを「鳥藤」だと知っている人は少なく、誰もが「ミルクワンタン」と呼称していた。すし屋横丁は東海道新幹線開通時に取り壊され(最終的には昭和42年)、「鳥藤」をはじめ幾つかの店は東京駅よりのガード下(今の場所=有楽町高架下センター商店会)へ移転、「玉菊」「楽々」「末廣」「山楽」などと一緒にアーチ式看板には「鳥藤」ではなく「ミルクワンタン」と記されている(現在も)。

 うーん、ざんねん、最期の「ミルクワンタン」食いたかったなあ。現在のガード下も「すし横」に景色が似ているもんなあ。お店の壁にはモロ製作の「すし横地図」が極最近も貼ってあった。なんたって清酒はヤカン?から注ぎ、焼酎は一升瓶から減った分で支払い計算などなど、やることが粋なんだよな。

 有楽町編集局の頃、朝刊13版●●、最終版を降版すると午前4時半にもなっていた。それから出来上がり紙面をワシ掴みにして、すし屋横丁へ連れ立って出陣したのである。紙面の議論をしたあげくにミルクワンタンを食って電車に乗り帰宅した。ちょうど出勤ラッシュだったが反対方向なので座れた。いいあんばいに眠ってしまい、終点の浅川駅(今は高尾駅)まで行き、また東京駅に戻ってしまった「終点完全往復輩」もいた。

 すし屋横丁の店は縄張りがあり、毎日の店、朝日の店……が存在し「読売は外堀川を越えられぬ?」「産経新聞は中央通りを越えられぬ?」との噂が飛ばされていた。すし屋横丁はほゞ毎日と朝日が占拠している風だった。入社当時、先輩に「あそこの店は朝日だから行かないほうがいいぞ」と釘を刺されたものだ。

 ぐでんぐでんに酔っ払ったあげく読売の宿直室に泊まり込んだ先輩もいた。廊下で近藤日出造(政治漫画家)に出会って「オスっ」と挨拶したゾと自慢していた。毎日新聞のヤツは外堀川を越えて向こう側まで行きやがるん……。

 その頃の飲み屋の感じは店に入るとオヤジも女将も、客にまでジロっと見られて入りにくいんである。まだまだ「一言さんお断り」の習慣は当然あちこちに残っていた。馴染みの店だと扉を開けたとたん、店じゅうに笑顔が舞い、「らっしゃーーい!」大歓迎されるといった具合。ま、素性の判らぬヤツは入れてくれない。“一応”高級寿司屋を名乗っていた「花柳」などは部長以上しか入れなかった(デスク級も部長と連れ立って行ったものだ)。

 昭和30年代までだろう、自宅近所の魚屋も八百屋も酒屋も「ツケで買う」のがキマリになっていて月末集金というのが習慣。買い物は「ご用聞き」に注文したのであった。知らない家には売らない。知らない人は知らない……よく知ってる家には売る……飲み屋も同じである。

 それが「ミルクワンタン」は朝日も毎日も一緒に食った。カウンターに隣合わせに座って食った。馴染みの客の「紹介状」がなくてもミルクワンタンは通りがかりの人が自由に食えた。みんな黙して食っていたからかも知れぬ。

 ある夕方、編集局次長・高原四郎に「鳥藤」で偶然にも隣合わせしたことがある。高原さんも「ミルクワンタン」を食っていた。25歳も年上の大先輩だろうが、誰であろうが、気楽に冗談を言い合い、大笑い会話を交わす自由が有楽町編集局にはあった。

 高原四郎と隣合わせたモロが切り出して、石川達三の連載新聞小説“成瀬南平の行状”が掲載禁止になったトキの噺を伺った。この小説は昭和20(1945)年7月14日から1面で連載開始されたが、15回で休載となり、終戦(8月15日)の翌々日(8月17日)紙面に「都合により続稿を打切ります」と掲載されたのみ。休載の理由は判らず仕舞い。熱狂的人気を浴びた新連載モノだったから突然の休載に読者は驚いた。

 その後、小説の中身が「官僚・官界を批判」しているとして内閣直属の情報局の検閲に引っ掛かった「事件」だと知った。連載開始直後から「警告」「意図変更」の強い要求を毎日新聞は無視して連載を続けたのが内閣情報局の怒りを買った。何度も何度も呼び出しを食い連日情報局に足を運んだのが高原四郎。学芸部記者?高原四郎が石川達三担当で連載開始の当事者だったからである?(詳しいことは忘れた)。「事件」の委細は書くのが面倒なので省略するが、なんせ高原四郎の噺の経緯は面白かった。敗戦がらみもあって高原四郎は当局の拷問は避けられたとか。

 「モロオカ君っ、もう一杯食うか」。二人で二杯目のミルクワンタンをすすった。

 達三の小説中に「国民には我慢を強いていながら、軍人・役人は旨いもんを食っている」特別配偶が描かれており、高原四郎は新聞記者も多少なりとも様々優遇を受けている事象を挙げて苦悶していた。戦況を軍部の言う通りに報道していたコトと関係あり? 終戦後も編集局では闇ルートで届いたビールがじゃばじゃば飲めていたのはモロも知っている。
庶民の旨いもんミルクワンタンと石川達三と高原四郎は今も頭の中でくっついている。計4杯のミルクワンタン代は高原四郎が払った。

(諸岡 達一、文中・敬称略)

2021年5月11日

堤哲さんが「ミルクワンタン最期の夜」撮影 社会部記者魂+写真部魂! ジャーナルが宿る身体

 「モロさん、撮って来たよ。ミルクワンタン最期の夜……」。

 飛び込んで来たのは<堤哲さん(79歳)からの欣喜雀躍>メール。

「鳥藤」のカウンター。最期の夜4月23日は午後8時まで営業。終日満員だった

 「えーっ。そりゃあ素晴らしい。感謝感謝」とモロ。堤哲さんのメールはさらに「満員で座るところがなかった」など現場報告が続いていた。2021年4月23日、「最期のミルクワンタン」の写真を撮り何枚か送って来た。ここに掲載しましょう。その夜、ちゃんと現場に行き雰囲気を味わってくるという社会部記者魂と元写真部長魂が合体した身軽さに感動してしまう。

ふと見たら朝日新聞の轡田隆史さんがミルクワンタンを食っていた。やっぱり流石! うしろ、マスク姿で顔をだしているのが藤波須磨子さん(86歳)

 「鳥藤」にミルクワンタンを食いに行くと、昔から不思議と朝日新聞の記者と出くわす。夕刊降版後のことが多いのは時間帯が同じだったから“だけ”だろうか……。毎日記者と朝日記者の「ブン友」を察しないわけにはいかない。

 最期の夜、ミルクワンタンを食っていた轡田隆史さんは「私はね、サツ回りがマルケイ(丸の内警察署)で、ここは縄張りなのよ……」と笑っていたという。堤哲さんは「さいたま市の自宅からわざわざ閉店を見届けに来るなん、ヤジ馬の極みではある……いや、社会部記者の鏡であるね」と感じたそうだ。堤哲さん自分も、まさに「そうじゃんか。鏡でもあるし社会部記者の原点だね」とモロ。こうして毎友会HPに写真入りで報告できるのもジャーナルな心がトシに関係なく生き続けているからだ(身体=駄洒落)。

「鳥藤」の玄関前。ここは住所で言うと東京都千代田区丸の内3の7の9

 貴重なおまけは【堤哲さんの独り言】

 『轡田さんは名文記者として知られる。朝日新聞夕刊1面<素粒子>を長いこと担当した。毎日新聞の吉野正弘さん(56歳)が暴走族に暴行を受けて亡くなったとき、こう書いた。《毎日新聞夕刊「近事片々」記者の死に絶句す。筆端、光を吐き、筆頭、花を生じていた人よ。》1989年4月18日夕刊「素粒子」。轡田さんは朝日新聞退職後、テレビ朝日『ニュースステーション』のコメンテーターを務めるなど活躍された。

(以上・ミルクワンタン総まとめ  諸岡達一 85歳)
以上

2021年4月23日

白川義員写真展「天地創造」が東京都写真美術館で5月9日まで

 これは、米ユタ州とアリゾナ州にあるバーミリオン・クリフ国立公園の北西端にある岩山の風景である。今、恵比寿の東京都写真美術館で開かれている白川義員写真展「天地創造」(5月9日まで)の入口に飾られた巨大な写真をシャメした。

 「ザ・ウェーブ」。①~⑤、5点が展観されている。

 《巨大な岩がまるで波が押し寄せるような形で固定されている。このような豪快な岩を手でさわりながら実際に見た事はかつてなかった。このウェーブ周辺は見渡す限り赤と白の岩でおおわれている》

 《ウェーブに行くことが出来るのは1日20人。20人に手渡されるのが行き帰り6枚の風景写真が印刷された1枚のパンフである。最初の6枚はウェーブに向かって歩く方向の風景写真で、後の6枚はウェーブから帰る方向の写真。この風景に向かって歩きなさいと指示している》

 《実際に現場に行くにはユタ州側の北方5kmあたりから徒歩で南下し、州境を越えてアリゾナ州側を約1km南に歩くと、このウェーブに至る》

 英文のタイトルは「The Earth」。地球が持つ美や神秘、荘厳さ。前人未踏の領域に挑戦し続けた写真家白川議員さん(86歳)の集大成の写真展である。前期展「永遠の日本」(Eternal Japan)を見て、「絶景」の数々に感動、後期展「天地創造」に足を運んだのだ。

 毎友会HPに紹介するのには、それなりの訳がある。入ってすぐに山岳写真家、白川議員さんの真骨頂、エベレストやアルプスなど世界中の山の偉容が並ぶが、その中に世界8位の高峰、標高8,163m「マナスル東壁」。日の出の太陽を受けてオレンジ色に輝いている。

 その先の説明にこうある。《この山は日本人が初登頂をしたのである》

 初登頂は1956年5月9日午後0時30分。第3次マナスル登山隊(槇有恒隊長)の今西壽雄さん(京都大学山岳部OB)とギャルツェン・ ノルブ氏(ネパール人隊員)の2人。

 巨峰マナスル登頂ついに成功
 世界登山史に輝く金字塔
 5年間の苦労実を結ぶ

 これは毎日新聞1956(昭和31)年5月18日朝刊1面トップの見出しだ。マナスル登山隊の第1、第2次登山隊員だった運動部長・竹節作太が書いた。

 《敗戦後10年。第1報が日本に届いたのは5月18日。「祝マナスル登頂」のアドバルーンが16個も上がった》

 《登山隊が帰国した6月22日、歓迎の人波は羽田空港どころか蒲田の駅まで人で埋まったそうである》

 マナスル登山隊は、1954年の第1次から毎日新聞が全面的に応援して行われ、56 年の第3次登山隊の最年少メンバー日下田実(早大山岳部キャプテン、のち毎日新聞記者)も5 月 11 日に加藤喜一郎氏(慶応大学山岳部OB)と共に頂上に立った。

 記録映画「マナスルに立つ」は、登山隊に同行した毎日新聞写真部員、依田孝喜が撮影したもので、依田は1957年、第5回菊池寛賞を受賞した。

(堤  哲)

2021年4月23日

元新潟・長岡支局長、池田友好さん(86)が『ぶらっとヒマラヤ』読後コラム
―新潟支局当時の丸山昌宏社長、広田勝己取締役も登場

 池田友好さんが長岡支局長当時、支局員だった浜名純さんから、旬間の「十日町タイムス」に掲載されたコラム2本が転送されてきた。タイトルにある単行本『ぶらっとヒマラヤ』の著者、藤原章生さんは北大山岳部出身。浜名さんは山岳部で藤原さんの先輩に当たり、毎日新聞退社後に編集・出版関係の仕事に携わり、開高健ノンフィクション賞受賞の『絵はがきにされた少年』出版に尽力、2月には柏艪舎から新版が発行された。

 池田さんが長岡支局長当時、私はロッキード一審判決直後の1983年12月に田中角栄元首相と作家、野坂昭如さんが対決した選挙を約1か月にわたって取材し、日々、池田支局長、浜名記者に世話になった。

 丸山社長は、池田さんが新潟支局デスクだった当時、新入社員として新潟支局に赴任。池田さんは「奥さんも長岡市出身で、2人の交際時から結納まで手助けした間柄」。日本新聞協会会長就任決定に、お祝いのメールを送ったという。

 池田さんは長岡支局長から新潟支局長を歴任。牧内節男社長当時のスポーツニッポン新聞社が初めて新潟支局を開設し、販売店主らの要請で初代支局長に就任するため繰り上げ定年退職した。スポニチ支局長退職後は日本報道写真連盟新潟県本部の運営に関わり、今年3月末の解散時は顧問だった。

(高尾義彦)

2021年4月20日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11(後編)

 写真が多いので、冒頭のみ掲載します。全文は下記のURLで検索を
 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 文・写真 平嶋彰彦

 先に述べたように、1682(天和2)年12月28日の大火は「駒込」より出火したあと、「本郷森川宿東側」から「松平加賀守上屋敷」(現在の東京大学)に燃え広がった、と戸田茂睡は書いている。

 ところで本郷森川宿とは、なんなのだろうか。宿といっても、旅行者を泊める宿場ではなさそうである。それもそうだが、現在のどのあたりをいうのだろうか。

 手持ちの資料をしらべると、もともとは1598(慶長3)年に没した森川金右衛門氏俊に与えられた与力・同心の大繩屋敷(集団知行地)だった。つまり、ここでいう宿というのは、居住地の意味である。与力は氏俊の親族ばかりで、全員が森川姓を名乗っていたことから、また中山道に面していたこともあって、森川宿の俗称がつけられた。

 ところが延宝年間(1673~81)になって、その大半が陸奥福島藩主本多家(のち岡崎藩主)の下屋敷として召し上げられ、それ以外が先手鉄砲組の組屋敷として残された。というのである。

無量寺。「足止め不動」で知られる。江戸六阿弥陀詣の3番目。西ヶ原1-34。2012.12.10
旧古河庭園。洋館はジョサイア・コンドルの設計。西ヶ原1-27。2012.12.10

2021年4月15日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11

この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

全文は下記のURLで検索を(後編は19日)
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

その11 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編) 文・写真 平嶋彰彦

 本郷追分は、中山道と日光御成道の分岐点になる。日本橋から1里の距離にあたり、1766(明和3)年に焼失するまでは、そこに一里塚があった。日光御成道は現在の本郷通りで、岩槻街道ともよばれた。本郷追分を越えると駒込で、次の一里塚は西ヶ原にあった。「ときの忘れもの」の所在地は、本郷追分と西ヶ原一里塚のちょうど中間点になる。

 2年前の6月になるが、大学写真部の旧友たちと白山と駒込の街歩きをした。このときの探索地に八百屋お七にゆかりがあるとされる円乗寺(白山1-34-6)、大円寺(向丘1-11-3)吉祥寺(本駒込3-19)が入っていた。

 八百屋お七の代表作とされる『天和笑委集』、『好色五人女』、『近世江都著聞集』、『八百屋お七恋緋桜』、『古今名婦伝』に目をとおすと、物語の概略は次のようになっている。

 八百屋の娘お七は、1682(天和2)年12月28日の大火で焼けだされ、一家とともに檀那寺に避難したとき、その寺の寺小姓と恋仲となった。年が明けて、実家にもどるが、恋慕のあまりその寺小姓との再会を願って放火、召捕られて、火あぶりの刑に処された。

八百屋お七の墓。円乗寺。白山1-34。右の石塔は岩井半四郎の建立。2018.05.23

 円乗寺は、『近世江都著聞集』や『古今名婦伝』では、お七が避難した檀那寺とされる。境内にお七の墓がある。墓石は三基あり、中央の首がもげた仏像形の石塔は寺の住職が、右側の石塔はお七を演じて好評をとった岩井半四郎が寛政年間(1789~1801)に、左側の石塔は近辺の人たちが270回忌に建立したという。

 大円寺は、『天和笑委集』によると、天和2年12月の大火の火元とされる。山門を入ったところにほうろく地蔵がある。これはお七の供養ために、享保4年(1719)に渡辺九兵衛という人物が寄進したという。ほうろく地蔵のかたわらに庚申塔がたつ。こちらは本郷追分の一里塚にあったものを移したものだそうである。

 吉祥寺は駒沢大学の前身である栴檀林のあった曹洞宗の名刹である。『好色五人女』や『八百屋お七恋緋桜』では、ここもお七が避難した檀那寺とされていて、境内にはお七・吉三郎の比翼塚が1966(昭和41)年に建立されている(ph9、ph10)。

 大円寺から吉祥寺にむかう途中、本郷通りに面した天栄寺(本駒込1-6-16)の門前に、「駒込土物店」の石碑がたっているのが。なんとなく目に入った(ph7)。「土物店」というのは青物市場のことである。

駒込土物店跡記念碑。天栄寺門前。本駒込1-6。2018.05.23

 あとで調べると天栄寺のあるところは、もとは麟祥院領駒込村の百姓地で、そこにさいかちの大木があったことから「一本さいかち之辻」と呼ばれた。近隣の農民たちが野菜を担いで江戸に向かう途中、その木の下で毎朝一休みするのが慣習となり、やがて付近の人たちがそこで野菜を買い求めるようになった。それが青物市場の始まりだいう。

 1660(万治3)年、その場所に天栄寺が本郷菊坂から移転してきた。本郷通りを隔てた東側が駒込浅嘉町・同高林寺門前であるが、そこにも土物店ができたことから、街道の両側一帯を駒込土物店と総称するようになった。やがて、町屋が許されるようになり、1745(延享2)年になると、それまでの領主支配から人別が江戸町奉行支配に変わった。駒込の青物市場は、かつては神田市場(現在の多町)を脅かすほど盛んだったということだが、1937(昭和12)年に巣鴨に移転した。

 前回にも書いたが、1854(嘉永7)年の『江戸切絵図』(尾張屋版)をみると、日本橋から本郷までの街道筋は市街地化されている。駒込まできてようやく農地や自然地の土地区分をしめす緑色があらわれ、随所に「植木屋多シ」の書込みがある。

 しかしおなじ駒込といっても、本郷追分から土物店のあった天栄寺の近辺までは、四方をびっしり家屋敷が立込んでいて、田畑や自然を確認することができない。駒込は江戸という都市空間が田園地帯と接触するいわゆる郊外の地であった。そして駒込という郊外を代表的な商売が植木屋であり、もう一つが八百屋だったことになる。

 八百屋お七の事件には異説が多い。異説が多いということは、事件の真相が分かりにくいことでもある。異説が多い原因として、江戸幕府の刑事判例集である『御仕置裁許帳』に記載がないことにくわえ、信頼にたる記録史料が見当たらないことがある。そうしたなかで、ただ一つ確からしくと思われるのが、戸田茂睡の『御当代記』である。

 この書には、1682(天和2)年の大火とその後の出来事については詳しい記述があり、翌年春のお七の事件についても、30文字たらずの短文であるが、次のような言及がある。

 「駒込のお七付火之事、此三月之事ニて廿日時分よりさらされし也」

 駒込の住人にお七という女性がいて放火の罪で召捕られた。事件はこの3月のことで、20日ごろ火刑に処され、遺骸はさらしになった。この箇所は追筆であるとされる。後日に噂話を耳にしたのだろうが、思うところがあり、書き留めたものとみられる。

 『御当代記』は5代将軍綱吉時代の様々な事件や世相をつづった見聞記で、1680(延宝8)年5月から筆をおこし、1702(元禄15)年4月で終わっている。その当時を知るうえで貴重な史料と思われるが、戸田茂睡の存命中に公開されることはなかった。

 当公方様ハ…天下を治めさせ給ふべき御器量なし、此君天下のあるじとならせタマハヾ諸人困窮仕悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし。

 家綱から綱吉への世継ぎを評した一文だが、思想表現の自由が許されなかった時代のことである。存命中の公刊など、思いもよらなかったにちがいない。茂睡の没後、自筆原稿は子孫の家に秘蔵され、1913(大正2)年になってから、佐佐木信綱がその存在を世に知らしめ、それより2年後、飯島保作による全文翻刻が『戸田茂睡全集』の一部として、国書刊行会から刊行された。

 『御当代記』にしたがえば、天和2年には2つの大火があった。1つ目は霜月28日、牛込川田が窪(現市ヶ谷柳町)より出火、四谷・赤坂・青山・麻布などの大名屋敷を次々と焼き払い、火の手は三田までおよんだ。

 物語や芝居で語り伝える八百屋お七の放火事件の発端となったとされる大火は、それよりちょうど1ヶ月後に発生した。こちらの火事は、

 極月二十八日、駒込より火出、本郷森川宿東がハ、それより本郷へ出、

 松平加賀守の本郷の上屋敷(現在の東京大学)を焼き払った、と戸田茂睡は書いている。さらに火の手は湯島をへて池之端、寛永寺黒門前から下谷へ延焼。そのいっぽう、南東方面にむかった火の手は、神田川の筋違橋、和泉殿橋、あたらし橋(美倉橋)、浅草橋を焼き落し、さらに、日本橋川の常盤橋前の町屋を焼いたあと、日本橋と江戸橋を焼き落した。それにとどまらず、飛び火して隅田川の対岸までおよび、両国の無縁寺(回向院)や深川の永代島八幡(富岡八幡)まで焼き払った、ということである。

 見逃せないのは、そのあとに掲げられた次の一文である。

 今年町同心八十人御ふちをはなたれ、あたけ丸のかこ丗人、この外方々の鳥見同心御ふちをはなれ候て、渇命いたし、火を付るとの沙汰なり。

 町同心は江戸町奉行所に所属する同心のことである。あたけ丸(安宅丸)は、この年に解体された全長30尋(57m)櫓100挺という幕府の巨大な軍船で、扶持を失った水夫(かこ)は、武士の身分であったとみられる。鳥見同心は、御鷹場で鶴・鴈・鴨などを飼育するのが役目で、かたわら町同心同様に隠密を兼ねたとされる。

お七吉三郎比翼塚。吉祥寺。本駒込3-1。2018.05.23

 いずれも下級職といっても、江戸市中やその海辺を警護・防衛する幕府の正式な役人である。その百数十人が、身に落度がないにもかかわらず、とつぜん扶持を放たれ、路頭に迷うはめになった。その腹いせに放火におよんだというのである。あくまでも噂であるといっても、どうみても尋常な社会的情勢とはいえない。

 そのような不穏な噂を裏づけるかのように、年が明けても火事は続いた。しかもどれもこれもすべて放火であった。

 去年霜月廿八日・極月廿八日両日の大火事より正月ニ至二月迄毎日之火事、昼夜ニ五六度八九度之時も有、是皆附火也。

 そこで町々に命じて、1つの町に火の見櫓を2基ずつ揚げさせ、その上に町内の大家役の者を登らせ、火の用心の監視を申しつけた。しかし、なおも放火は治まらなかった。

 それと併行して、中山勘解由直守を火付改加役に任命し、配下の与力・同心とともに、横行する放火を取り締まらせることになった。火付改加役は、後の火付盗賊改のことであるが、その捜査の仕方を戸田茂睡は次のように書いている。

 中山勘解由父子三人組与力同心ともに、火付見出し候やうに被仰付候ニ付、様々姿をかへ江戸中へ入はまり、火付を見あらはさんと仕候

 さまざまに姿を変えて江戸中に潜入したというのは、とかく弊害の多いとされる目明しを使ったにちがいない。目明しは、与力・同心の手先で、多くは犯罪者を放免し、その代償として他の犯罪者を探索させたといわれる。

 お七が処刑された2ヶ月後の5月、戸田茂睡は火付改加役の中山勘解由の捜査と取調べの方法を改めて問題視している。これもやはり噂だろうが、誤って捕らえられる人が夥しかった。くわえて、容疑者の取調べには、ためらうことなく拷問が用いられた。とうぜんの結果、身に覚えがない自白を強いられた犠牲者が夥しい数におよんだ、というのである。

 火事場ニてうろん成ものをとらへさせらるゝに、あやまりでとらるゝもの夥敷事也。問諍つよくいわざるうちハ死ぬるまでせむるゆへ、とても死するものゆへ火付ニなりても苦をのがれんと思ひ、火付ならぬものも火付と云、科人ならぬものも科といふゆへ、科人多く人の損ずる事夥敷事也。

 火付盗賊改役が設置された当初、火付盗賊改は、容疑者を召捕ると、一通りの取り調べを行い、町奉行所に引き渡すことになっていた。火付盗賊改はいわば予審裁判所で、町奉行所は本裁判所の感があった、と法制史学者の瀧川政次郎は『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』でのべている。

 そうであったとすれば、お七の事件の場合も、裁判を正式に執り行ったのは町奉行所と思われるが、その前段の捜査と取り調べは、火付改加役の手になるものだったにちがいない。それが自白偏重主義に凝り固まっていて、かつ拷問を常套手段にしていたのであれば、お七が犯人とされた放火事件も、火付改加役とその配下の与力・同心・目明しが結託して捏造した冤罪であった、という可能性もないとはいえないのである。(以上、前半)

2021年4月12日

英国フィリップ殿下の小さな思い出=元ジャカルタ特派員、秋山哲さん

ロンドン五輪開会式出席のエリザベス女王(中央)と殿下(右)=毎日新聞紙面から

 4月9日に99歳で死去されたイギリスのエディンバラ公フィリップ殿下には小さな思い出がある。

 1975年だからもう半世紀近くになる大昔の話である。当時、私はジャカルタ特派員だったが、エリザベス女王がインドネシアに非公式で寄港された。オーストラリアからの帰途だったと思うが、王室ヨットで女王一行は到着した。

 どういうわけか、女王はインドネシア駐在の外国特派員だけを招いて茶会を開いたのである。みんないそいそと出かけた。部屋の入り口で女王が記者たちを迎え、握手を頂戴した。

 女王は部屋の中を巡って、一人一人に声をかける。難しことを聞かれたら乏しい英語力で対応できるか、と不安だったのだが、「あなたはいつからインドネシアにいるのですか」と、こちらの対応力を見抜いてか、単純な質問であった。

 一安心して、ソビエトのタス通信の特派員とグラス片手に話しているところへ、スラリと長身のフィリップ殿下が、にこやかにやってきた。こちら二人がそれぞれ名乗りをすると、彼は質問したのである。

 「インドネシアで、日本の記者とソビエトの記者が何語で話しているのか」

 この人、ウイットの利いた話をするといわれているが、正にそうであった。

 私が答えたのだが、後で考えても、うまい答えをしたのである。

 「残念ながら英語で話しています」

 その後、殿下は近々、日本を訪問する、という話をしてくれた。1975年5月に女王夫妻は日本を公式訪問しているが、その話である。

 そして、女王の日本訪問は初めてだが、自分にとっては日本は2回目だという説明であった。1回目はいつだったのかと聞いた。その答え。

 「海軍に勤務していてミズーリ号に乗っていた。日本の降伏文書署名式を見ていた」

 1945年9月2日、東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板で、マッカーサー元帥や重光外相らが署名するのを、女王と結婚する前のイギリス海軍士官フィリップは見ていたのである。この場面は映像でよく見るが、甲板の上には、白い軍装の人たちが歩き回ったり、式典を覗き見たりしている。その中にこの人はいたのである。

 これは、あまり知られていないことではないだろうか。フィリップ殿下の訃報を見て、書き残しておこうと思ったのである。

(秋山 哲)

2021年4月3日

国会福島原発事故調から見えたメディアも「規制の虜」? 事故調事務局経験から牧野義司さんが指摘

 東京電力柏崎原子力発電所(原発)で2020年3月以降、不正侵入検知の設備10か所に故障があったことが判明し、原子力規制委員会はテロ対策の不備だと問題視、1年後の今年3月24日、東電に対し核燃料搬入を禁止するなどの是正措置を出した。ニュースで大きく報じられたので、ご存知の方が多いだろう。それにしても原発の危機管理という点で、東電は何ともお粗末だ。

 東電の原発危機管理がルーズ、という点で言えば、私にとって特別な思いがある。実は、私自身が2011年3月に起きた東電福島第1原発事故の真相究明調査を行う国会事故調査委員会の事務局に1年近くメディア向け情報発信の担当者としてかかわった。事故調査を通じて見えた東電という企業の現実は、かつて毎日新聞経済部記者時代に、東電を取材した時とは全く別の顔を持っており、巨大組織病の数々だった。

 福島第1原発の事故調査に関しては当時、国会事故調以外に政府事故調、当事者の東電事故調、それに民間事故調がそれぞれ独自の立場で原因究明調査にあたった。この4機関のうち、政府事故調と東電事故調は事実上の「内部調査」で、仮に国に重大責任が及んだ場合、しっかりとした責任追及にまで踏み込めない弱みを抱えていた。これに対し、国会事故調は、超党派の立場で立法府が行政府を監視チェックし事故原因の究明も行う前例のない形の調査機関であること、特定の権益、利害にいっさい与さない、とくに政府から独立した機関として法的権限も与えられ厳しく真相究明にあたったことーーなどの特性を持っていた。このため、日本のみならず世界中が関心を持つ原発事故の調査を客観的に行える唯一の機関と言っていいのでないか、と私はかかわった当時、思った。

 現に、国会事故調報告書は、事故原因について、人災がもたらした事故とはっきり断定した。直接的には地震、そして津波によるとはいえ、土木学会評価を上回る津波が到来した場合に海水ポンプが機能不全を起こし原発サイトの全電源喪失、炉心損傷に至るというリスクがあること、その対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局、東電経営陣が問題を先送り、楽観的な見通し判断によって安全対策投資をとらなかったことが響いた。人災と言わざるを得ない、というものだ。また、監視規制する側の官僚が人事異動で十分な現場経験、政策ノウハウの蓄積がないまま、専門特化する監視対象の東電側に政策の方向付けをされるなど、結果的に「規制の虜(とりこ)」現象が起きている、といった問題を厳しく指摘したのも国会事故調だった。

 なぜ、私がそんなポジションにいたのか不思議に思われるだろう。実は以前から取材で面識のあった国会事故調の黒川清委員長(以下、当時の肩書)から電話があり「キミは毎日新聞とロイター通信の内外2つのメディアでの取材経験があり、今はフリーランスジャーナリストの立場だ。この調査には日本のみならず世界中が関心を持っており、情報発信が重要だ。記者クラブ制度の狭い枠組みを離れて大胆にやりたい。協力してもらえるか」という依頼だった。私が「意気に感ずです。お引き受けします」と答えたのは言うまでもない。

 黒川委員長の指摘どおり、私は毎日新聞で経済部を中心に約20年間、過ごし、45歳の時に毎日新聞を退社してロイター通信に転職し約15年、60歳過ぎからはフリーランスの経済ジャーナリストに転じ、77歳の今もその仕事を続けている。一方でフリーランスでの仕事中に、メディアで培った人脈ネットワークや経済部記者経験、それに問題意識が評価されたのか、アジア開発銀行からメディア向け情報発信でアドバイスしてほしい、との要請があった。そこで、最近の言葉でいう「両利きの経営」でいくことにした。その後、アジア開銀以外に日本政策金融公庫などいくつかでメディアコンサルティングにかかわった。

 さて、ここからが本題だ。私は、世界中を震撼させた巨大事故なので、メディアが記者クラブ制度の枠組みを離れて各社ごとに原発事故取材特別専門チームをつくり、その一環で国会事故調などを取材ターゲットするのだろうな、と期待した。外国メディアも同じ対応だと考え、情報発信の仕方にも工夫が必要だ、と思った。

 原発にからむキーパーソンの参考人聴取をすべてオープンにすれば、記者クラブ制度とは無関係に、メディアの独自の総合判断でニュースにして内外に向けて情報発信していくだろう、と私は判断した。そして国会事故調は、原発政策にかかわった政治家や経済産業省、資源エネルギー庁幹部、原子力委員会OB、東電幹部などの参考人聴取をすべて公開、かつ同時通訳を入れて即時に内外に情報発信できるような環境づくりで臨んだ。

 ところが、国会事故調問題の取材に関しては、各社とも旧態依然の横並びで、政治部の国会担当がカバーすることになった。それも原発事故をめぐる専門的な知識、問題意識の希薄な政治部の若い記者ばかり。取材を受けても、「何かありませんか」のご用聞き取材の域を出ず、問題の本質が何かをしっかりとおさえて書けるのかなと不安になるほどだった。

 黒川委員長もこのメディアの取材姿勢にいら立ちを隠せず、公開の参考人聴取後の記者会見でメディアへの不満を口にした。「参考人の考えに対する私の意見を聞くよりも、メディアが参考人聴取で明らかになった日本の構造問題を浮き彫りにし、独自取材で、その構造問題をさらに明らかにすればいい。その結果、検察が動くことになるかもしれない。それこそがメディアの役割でないのか」と。

 その黒川委員長は私に対しても不満をぶつけた。「規制の虜の問題は、メディアにも当てはまるな。本来ならばメディアは権力に対する監視機構なのに、その気概が感じられない。記者クラブは役所の広報機関、そこに属する記者、ジャーナリストは政府を代弁する御用記者になってしまっているのでないか。今回の原発事故は、そういった目線で対応すべきだ。オレが間違っているか?」と。

 私も、同じ思いだった。政府事故調が非公開・秘密主義なのに比べ、参考人聴取をオープンにする国会事故調はメディアにとって格好の取材チャンスなのに活かしきっていない。私の不満が募り現場記者にとどまらずKOL(KEY OPINION LEADER)の編集委員・論説委員クラスにも働きかけたが、なぜか反応は鈍く、正直、がっかりだった。私がさらにメディアの現場に不満だったのは、フォローアップ取材力の弱さだった。国会事故調報告をもとに検証という形で取材・報道が出来たうえに、世界各国から「真相を聞きたい」という声に対応して黒川委員長が講演行脚などを行った際、同行して世界各国の原発事故への受け止め方を報道すればいいのにと思った。しかし、これらの点に関して、どのメディアも希薄だったのはさらに残念だった。

 国会の対応もお粗末だった。国会事故調の報告書が衆参両院議長に提出された後、「立法府が行政府を監視する」と豪語?していた国会は、衆参両院に本来ならば超党派の特別委員会を立ち上げて、今後の再発防止策にとどまらず国の原発政策、エネルギー政策をどうするかを徹底議論するべきなのに、いっさいアクションを起さず、形だけの特別委員会を組織したのはずっと後だった。当初の驚きは、行政府に対して丸投げしてしまったことだ。

 国会事故調は事故調査報告に付随した提言で、1)規制当局への国会の監視、2)政府の危機管理体制の見直し、3)電気事業者の監視などに加え、国会に新たに独立の調査委員会の設置、端的には原子力事業者や行政から独立した民間中心の専門家からなる第3者機関として原子力臨時調査員会を設置すべきだ、と主張した。

 にもかかわらず、国会は、調査報告書を受け取った瞬間に、すべてが終わったような処理対応で、これら提言に対してアクションを起さなかった。それどころか、すでに申し上げたように、行政府への報告書対応の丸投げだったため、政府側は政府事故調の報告書、それに国会事故調の報告書の2つを抱え込み、対応に苦慮する始末だった。メディアがこれらの国会の対応を厳しく批判キャンペーンもしなかったのも驚きだった。

 原発事故から10年がたった今、原発問題にはまだまだ課題山積なのに、国会もメディアもまだまだ踏み込めていないのは、私の苛立ちだ。

(牧野 義司)

2021年4月2日

ラグビー日本代表・キャップ第1号、名フルバックだった寺村誠一さん



1930(昭和5)年9月3日付東京日日新聞

 まず、次の写真を見て下さい。

 「サンデー毎日」1930(昭和5)年11月2日号の表紙である。写真説明に、パント・キック【ラグビー遠征軍選手、寺村本社員】とある。

 91年前の1930(昭和5)年、ラグビーの日本代表が初の海外遠征を実施した。その代表選手に東大法学部を卒業、28(昭和3)年に入社したFB寺本誠一さんが選ばれたのである。

 もうひとり毎日新聞からFW岩下秀三郎さん(慶應義塾大学ラグビー部OB、30年入社)。2人は試合が終わると、原稿を書いて打電した。

 その第一報は、1930(昭和5)年9月3日付「東京日日新聞」にある。

 第1戦は、後半に逆転勝ちだった。「在留邦人も肩身が広くなったとで、その喜びはこの上もない」。カナダチームについては「背の高いことは勿論、体重が平均25貫以上(約94kg)、その上足が早いが、こちらが確実なタックルさえすれば、そう恐るべきものではないとの確信を得た」と書いている。

 終了後のレセプション。見出しに「番香坡で歓迎攻め/賞揚(しょうよう)されたスポーツマンシップ」。クレジットは「ヴァンクーヴァ―発」だ。

 初の海外遠征をした日本代表(香山蕃監督)の戦績は、6勝1引分けだった。10月15日、横浜港に帰国し、翌16日には神宮競技場で紅白試合、19日には花園ラグビー場で関西選抜と歓迎試合が組まれていた。花園には6000人の観客が詰めかけた、とある。

 凱旋したラグビー日本代表。「サンデー毎日」の表紙を飾ったFB寺村誠一選手は、W杯で活躍したFB五郎丸歩選手並みの人気だったのか。

 遠征中の成績は——。

① 9月1日 ○ 22-18 対バンクーバー選抜
②   6日 ○ 22-17 対バンクーバー選抜
③  10日 ○ 27-0  対メラロマ(バンクーバーのチーム)
④  17日 ○ 16-14 対ビクトリア選抜
⑤   20日 ○ 19-6  対ビクトリア選抜
⑥   24日 △ 3-3  対ブリティッシュコロンビア州代表
⑦  27日 ○ 25-3  対ブリティッシュコロンビア大

 日本代表選手の栄誉をたたえる「キャップ制度」は、1982(昭和57)年から始まったが、カナダ遠征の第6戦に出場した15+1の16人が、キャップ第1号の栄誉を与えられた。

 この試合、開始早々、⑪鳥羽善次郎(明大、のち東京鉄道局)がタックルの際、肩を脱臼して退場した。負傷交代は認められていない時代。カナダチームが選手を1人外したのに気づいた香山監督が15人に戻すよう申し入れたがカナダは聞き入れず、結局日本が鈴木秀丸を(法大)を補充。出場選手が15+1の16人になったのだ。

 その経緯は、この試合に出場した毎日新聞の2人の記者が速報した。試合は双方1トライずつだったが、日本代表の貴重なトライは、のちに毎日新聞のラグビー記者となる快足ウイング⑭北野孟郎(慶大)があげたという。当時トライは3点、だったのだ。

 ついでにトリビアをひとつ。寺村選手のジャージーの背番号は「1」だった。今なら「15」だが、当時、背番号はFBから始まっていたという。背番号「1」のジャージーは、日本ラグビーフットボール協会に保管されている。

 この毎友会HP「元気で~す」で佐々木宏人さん(79歳)の連載「ある新聞記者の歩み」第9回にある、寺村荘治さん(63入社)の父親「戦前のベルリン特派員寺村」は、上記の寺村誠一さんである。

1930年ジャパン(左)と1991年撮影(『東大ラグビー部七十年史』から)

 寺村誠一さんは東大法学部を卒業して1928(昭和3)年入社。ベルリンには1938(昭和13)年から3年間駐在、41(昭和16)年に帰国した、と書き残している。

 戦後、東京本社資料部長を3年ほど。日本新聞協会発行の「新聞研究」に「新聞切抜の実際」を書いた。「切抜きのぎっしり詰まったケースは日毎成長する生きた百科辞典ということができよう」と、切抜記事の重要性を説いている。

 その後、東京本社欧米部長、大阪本社外信部長、論説副主幹を歴任した。『暗号名イントレピッド—第二次世界大戦の陰の主役』など早川書房から何冊も翻訳本を出版している。

 2003年8月23日逝去。カナダ遠征チームで最長寿の97歳だった。

 キャップ第1号の同僚、岩下秀三郎(のち毎日広告社社長)は1987年12月27日逝去、83歳。北野孟郎(元運動部デスク)は1969年6月28日逝去、57歳だった。

(堤  哲)

2021年4月1日

「子ども大学」に託した一教育記者、矢倉久泰さんの夢

1日発行の季刊同人誌『人生八聲』26巻から転載



写真は「問いを学ぶー子ども大学かわごえ=「設立の助走」(2009年3月18日)から

 飛行機はなぜ空を飛べるのか、あんな重い物体が地上に落ちてこないのはなぜなのだろう。そんな子どもたちの素朴な疑問に答えながら、学ぶことの本当の楽しさを味わう場としてつくられたのが「こども大学」である。立ち上げ人の一人が、毎日新聞の教育記者だった矢倉久泰さんである。

 子どもは人間として成長する過程で、自然や社会についてさまざまな根源的な疑問を抱くが、現在の日本の教育は知識のつめこみ偏重になっているので、「学び」の原点を大切にしたいというのが彼の願いだった。二〇〇八年末に「子ども大学かわごえ」が埼玉県川越市に設立された。

 この構想を矢倉さんに持ちかけた元商社マンの酒井一郎さんによると、子ども大学の発祥の地はドイツである。ドイツでも子どもの学力低下への危機感から、教育改革への取り組みがなされるようになった。そのなかから、各地の大学を拠点に、大学の教員たちがそれぞれの専門研究分野に基づき高等教育のレベルの質を維持しつつ、子どもたちの知的好奇心にこたえ、かれらの探究心を養っていく構想がまとまっていく。

 二〇〇二年にチュービンゲン大学で子ども大学の第一号が誕生した。最初の講義は「なぜ恐竜は滅びたか?」。大きな反響を呼び、その後、同国の諸都市を中心にスイス、オーストリアを含め一〇〇近い子ども大学が開かれているという。

 酒井さんはドイツでのビジネスの第一線をし退いたあと、日本でも従来の教育では満たされなかった教育ニーズに応えるべく、ドイツのような試みに挑戦してみようと思い立った。日本の教育をよく知る矢倉さんと協力して、日本独自のモデルの構築に知恵をしぼり、川越の大学、行政、企業、市民、父兄などの協力を得て、日本初の「市民立大学」を誕生させた。

 カリキュラムは「はてな学」、「生き方学」、「ふるさと学」。地元の東京国際大学、東洋大学、尚美学園大学の教員のほかに外部の専門家たちを講師に、「なぜ飛行機は空を飛べるのか?」「なぜいのちを奪ってはいけないのか?」「『はやぶさ』と子どもたち」「原子力発電について考える」など、魅力的な講義が小学生の「学生」を相手に開講した。テレビをはじめ新聞、雑誌で引っ張りだこ凧のジャーナリスト池上彰さんも、客員教授を引き受けてくれた。彼の抜群のニュース解説力は、NHKの人気番組「週刊こどもニュース」でのお父さん役で磨き上げられたもので、池上さんは新大学の趣旨をよく理解してくれ、超多忙のスケジュールの合間をぬって、年1回の講義を続けた。

 私も一度、矢倉さんの推薦により講義をした。「『平和』ってなんだろう? ノーベル平和賞受賞者たちのしごと」というタイトルで、一〇〇名ほどの小学4~6年生と父兄を前に話をした。東日本大震災の翌年二〇一二年のことだ。私は当時、千葉市幕張の神田外語大学で教員をしていたが、大学生レベルのことを小学生にわかりやすく話すのは容易ではなく、いささか緊張した。

 まず、「『平和』という言葉を聞いて、どんなことを考える?」と質問すると、男の子と女の子が三、四人元気よく手をあげた。「毎日、おいしいものを食べられること」「朝起きてから普通の生活が送れること」「家族や友だちと仲良く暮らせること」という答えが返ってきた。たまたまだろうけど、「戦争のないこと」と答えたのは四人目の男の子だった。

 この反応には、やや意外な感じがした。というのは、大学生からは、平和=戦争のない世界という答えがまず返ってきて、それを受けて、現在の世界では平和とはもっと広い意味で理解されているのだという説明として、ノーベル平和賞受賞者の業績が軍縮や安全保障だけでなく、人権、民主化、環境、貧困などの問題解決への貢献を対象としている事実に言及することが多いからだ。

 でも子どもたちが真っ先にこのように答えたのは、「3・11」の衝撃の大きさによるのかもしれないと思いつつ、たとえばおいしいものを食べられるには何が必要かを子どもたちと一緒に考えていく。そこで、環境保護活動で〇四年のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんの新聞記事のコピーを読んでもらう。

 地球環境が破壊されてしまったらおいしい食べ物を作ることはできない、そこでマータイさんが世界中の人びとに広めようとしたのが日本語の「もったいない」だと書かれていることを知ると、子どもたちは感動した表情になる。日本語が世界語になることを通じて、自分たちの身の回りの平和と世界の平和がつながっていることが発見できたのだ。

 戦争と平和についても、新聞記事を教材にした。〇三年三月にイラクに対する米英の侵攻が迫っていたころ、世界の六〇カ国で、一〇〇〇万人の人びとが同じ日に「戦争反対!」の行動に立ちあがったというニュースだ。その一〇〇〇万人のなかの一人である、米国の一三歳の少女シャルロット・アルデブロンさんが地元の集会で行った反戦スピーチの記事も添付した。スピーチは日本語など9カ国語に訳されてインターネットで紹介され、彼女のもとに三〇〇〇通の反響メールが届いた。

 新聞記事は小学生にはやや難しいのではないかと思われたが、小、中学校で教科書に新聞記事が載るようになったので、あえて教材にしてみた。講義後にかわいらしい文字で書かれた「学生」たちの感想文を読ませてもらった。ややわかりにくかった点はあるものの、みんながかなりきちんと私の話を理解してくれたようだということがわかり、ホッとした。

 子どもたちがとくに感動したのは、自分たちとほとんど年齢の違わない米国の少女の勇気あるスピーチ、マータイさんの「もったいない」運動。そして、日本の憲法が「戦争の放棄」とともに、世界中の人びとが私たちとおなじ「平和」な暮らしをしていけることをめざした「平和憲法」なのだということも学べたようだ。

 「今、『なぜ』と思うものはありますか」という感想文の最後の項目に、何人かがこう書いていた。「なぜ人は戦争をするのかを知りたい」。それとともに、次のような感想もいくつかあった。「平和は簡単にはつくれるものではないけれど、平和な世界をつくるための心を(一人一人が)持つことが、一番大切だと感じました」

 もう一〇年まえの貴重な体験がいまとてもなつかしく思い出されるのは、「3・11」から一〇周年を迎えたからだけでなく、それ以前の昨年一一月に矢倉さんが鬼籍に入られてしまったからである。

 矢倉さんとの最初の出会いは、文部省担当だったこの先輩記者の応援に、同じ社会部記者だった私が行かされたときである。どんな仕事をしたのかはまったく記憶にないが、ロクに役に立たなかったことだけは間違いない。その後、矢倉さんは教育記者として活躍し、私は外信部に移って国際ニュースを追うことになったが、付き合いは続いた。東京神楽坂の「みちくさ横丁」の行きつけの居酒屋、「小江戸」と称され旧い街並みが魅力的な川越市でふらりと立ち寄った一杯飲み屋で、美味しい酒を飲みながら談論風発した。

 アルピニストで毎年の年賀状には前年の山歩きの元気な写真が添えられていたが、昨年から持病が悪化してついに帰らぬ人となった。病院に見舞いに行きたくても、コロナ禍でそれもかなわなかった。

 「子ども大学」は川越に続いて鎌倉にも開学し、同市出身の解剖学者、養老孟司」東」・大名誉教授が学長を引き受けてくれたと嬉しそうに報告してくれた、矢倉さんの笑顔を忘れない。でも私が彼との思い出のなかで一番大切にしたいのは、やはり川越での講義であろう。

 故人の真新しい墓石には、「矢倉家の墓」ではなく、「平和」の二文字が刻まれている。なぜ一教育記者がそこまで平和にこだわったのか、平和とは何かについてもっと話し合いたかったが、その機会は失われてしまった。合掌。

(永井 浩)

 季刊同人誌『人生八聲』春季号(第26巻)は4月1日に発行されました。テーマと著者を紹介します。大半が毎日新聞OBです。お読みになりたい方は、高尾義彦まで、以下のメールアドレスでご連絡ください。送料込みで1部1,000円。yytakao@nifty.com

2021年3月22日

警視庁キャップ健ちゃんが訴えた「12の訓戒」

 社会部旧友・中島健一郎さん(76歳)がFacebookに、自身のメモを公開した。1985(昭和60)年8月1日に警視庁キャップになった時、クラブ員に話したものだ。

 ②の「異心円で回れ」は、他の記者と同じように取材して駄目という意味。⑤の「怠けるために働け」は、先手を打って特ダネを書けば、しばらくは怠けていても許されるという秘訣だそうだ。

 その時のメンバーは——。サブキャップ取違孝昭(元東日印刷社長)▽捜査一・三課担当恩田重男、広瀬金四郎(故人)、齊藤善也(毎日新聞大阪本社代表)▽捜査二・四課担当武田芳明(東日印刷社長)、丸山昌宏(毎日新聞社長)、原敏郎(パレスサイドビルなどを管理する毎日ビルディング社長)▽警備・公安担当森戸幸生(元スポーツニッポン新聞社長)▽防犯・交通担当中村静雄(船橋市議、元同市議会議長)。

 《僕はその年の4月にワシントン特派員から帰国し、宮内庁を担当した後、警視庁キャップになりました。3年間の警視庁時代にサブは取違、警察庁担当から横滑りの常田照雄(元専務)、森戸と3人。1課担当は藤本敏朗、小川一、防犯・交通担当も一瀬博明、平沢忠明と引き継がれました》

 《キャップになって直ぐロサンゼルスで起きた銃殺、傷害事件で三浦和義が疑われた「ロス疑惑」の取材に追われました。また8月12日にはグリコ森永事件の犯人からの「くいもんの会社 いびるの もお やめや」という終息宣言でバタバタしていたら夕刻に日航ジャンボ機墜落事件でクラブメンバーを8人現場や日本航空に取材に行かせる修羅場となりました 。とても「怠けるために働け」どころではなかったです》

 キャップ中島健一郎(68年入社)、いや健ちゃんは、伝説の特ダネ記者である。長野支局時代の連合赤軍「あさま山荘」事件。犯人逮捕、人質の山荘管理人の妻泰子さんが救出され、軽井沢病院に収容された。精神科医や警察が泰子さんに事情聴取している一部始終を報じたのが健ちゃんだった。

 《病院の前は各社の記者・カメラマンでごった返していた。1人裏手に回ったら、病室でのやりとりが聞こえた。機動隊が警備していたが、窓際にへばりついてメモをとった》

 「異心円で回れ」の典型である。

 警視庁捜査一課担当時代も特ダネを連発した。私(堤)は防犯・交通担当として警視庁クラブに一緒にいたので、よく憶えている。警視庁キャップ内藤国夫(1999年没62歳)、サブ澤畠毅(2021年没81歳)の時代である。

 健ちゃんは、その後ロッキード事件の取材班に加わり、警視庁二課担OBの板垣雅夫さん(65入社)と「中板コンビ」で発掘取材、特ダネを連発した。その活躍ぶりは『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)に詳しい。

 写真は、英会話の先生を囲んでの記念撮影である。警視庁クラブで毎週土曜日に英会話教室を開いていたというのだ。前列左から丸山昌宏、中島キャップ、ドーリーン先生、原敏郎。後列左から武田芳明、平沢忠明、森戸幸生、吉田弘之(アジア調査会専務理事・事務局長)、恩田重男、小川一(前毎日新聞取締役)、齊藤善也。

 《ナゼ事件記者が英会話かというと、事件の国際化もありますが、英語を学ぶくらいのゆとりがあるべきとの思いからでした。それにワシントン特派員の時に「もっと語学力があったらなー」と臍を噛んだから。七社会では東京新聞がマネして英語教室を始めましたね》

 《先生のドーリーン·バーデンさんはアメリカ大使館に紹介してもらいました。会話レッスンでは事件が話題になることが多く、ドーリーンさんは「日本が良く分かる」と喜んでいました》

 もう1枚。

 前列左から安藤隆春広報課長(のち警察庁長官)、三木賢治(警察庁担当)、小川一、中島健一郎、常田照雄。後列左から2番目から一瀬博明(故人)、吉田弘之、齊藤善也、川口裕之(現監査役)恩田重男、?、原敏郎、山本隆行

 《この野球の写真は七社会の対抗戦の時です。共同通信が優勝し、毎日新聞は準優勝でした》

 あれから36年——。現在の佐々木洋警視庁キャップ(2000年入社)は、健ちゃんの32年後輩で、警視庁キャップは19代あとである。

(堤  哲)

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その10(後編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

 全文はこちら

 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)

 文・写真 平嶋彰彦

 『江戸切絵図』で、本郷通りを王子方面に向かうと、本郷追分を過ぎて、駒込の吉祥寺付近にたどりついたところで、ようやく緑色に彩色された田園風景が現われる。近世といっても幕末に近いが、駒込は江戸という都市空間の周縁であり、都市が田園と出会ういわゆる郊外だったことになる。

 駒込の田園風景を特徴づけるのは「植木屋多シ」の書き込みで、よく見れば、植木屋が軒を連ねていたのは、吉祥寺から六義園までの本郷通り東側と、それより染井霊園にいたる染井通りの北側であることがわかる。

 駒込の植木屋を考察した都市論の名作が川添登の『東京の原風景』である。

 川添登によれば、江戸時代の260余年を通じて、鑑賞用の植物としての花卉や植木の栽培技術は急速の進歩をとげた。日本の緑と花の文化が欧米に与えた影響は、浮世絵などよりはるかに大きいものがあった。そうした鑑賞用植物を栽培する最大の供給地が、桜のソメイヨシノで知られている染井を中心に、団子坂、駒込、巣鴨などの周辺地域に大きくひろがっていた、というのである。

 川添登は1926(昭和元)年生まれで、小学校1年まで駒込で育った。

 ソメイヨシノの発祥の地である染井通りから、東にやや入った個所は、『花壇地錦抄』の著者伊藤伊兵衛の菩提所西福寺と染井稲荷とが並んで建っていることは『江戸切絵図』でもみられるが、この染井稲荷の横を東へ曲がると、すぐに急な坂となる。私の生まれた家は、その中腹の左側にあった。

 文中に2カ所、方角を東とする記述があるが、これは誤りで、正しくは北または北北東。急な坂とあるのは、染井通りから染井銀座に抜ける染井坂をさすものとみられる。一家は関東大震災(1923年)の直後、染井坂の中腹にあった借家に引っ越してきたのだが、そこの大家が伊藤つつじ園の持主だった。裏木戸を開けるとつつじ園があり、あらゆる種類のツツジやサツキが植えられ、そこに自由に入って遊んだ、というのである。同書に明確な言及がないが、伊藤つつじ園の持主は、もとは藤堂家下屋敷の植木職人で、のちに江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛家の系譜に連なる人物であったとみられる。

 江戸時代には、染井の植木屋はどこも花園を持っていて、その一帯は市中からの遊覧客でにぎわう江戸名所の1つとなり、浮世絵にも取り上げられた。しかし、明治時代に入ると経営が苦しくなり、昭和の初めごろには、貸家に切り替えるところが少なくなかった。それでも、大きな屋敷もそこここにあり、そのなかには植木屋の庭園もあったという。

 染井坂通りに「門と蔵のある公園」がある。植木屋を営んでいた丹羽家の跡地を整備した公園である。門は染井通りにあった藤堂家の腕木門を移築したもの。蔵は1936(昭和11)年築で鉄筋コンクリート造りの珍しいものである。周りには歴史を感じさせる大きな邸宅があり、染井稲荷からも遠くない距離にあることから、もしかすると、川添登の記憶に残っていたのは、この丹羽家の庭園のことであったかもしれない。

染井坂通り。門と蔵のある広場。藤堂家下屋敷の腕木門。駒込3-12。2021.1.15

 川添登が回想する失われた駒込(染井)の風景を、もう少したどってみよう。

 その頃、坂の下は水田が続いていたとのことであるが、すでに民家で埋まっており、とくに坂のすぐ下は、長屋が建ちならび、バラックと呼ばれ、その子供たちとあそんではいけないよ、と母にいわれていた。また染井通りの西側は、藤堂家をはじめとする武家屋敷のあったところで、高級住宅街になっていた。いずれもコンクリートの高い塀をめぐらし、大きな屋敷や本ものの西洋館が建ちならび、昼間でも人通りがなく、人さらいが出るから染井通りから先に行ってはいけない、といわれた。つまり、親から許されていた行動範囲は、染井通から坂(傾斜地)までの間、ということになる。

染井坂通り。門と蔵のある広場。植木屋だった丹羽家の蔵。駒込3-12。2021.1.15

 坂とは、染井坂通りのこと。そのころは、坂の下の低地を西から東へ、谷戸川が流れていた。かつて水田として開かれたその沿岸は宅地化され、長屋が建ちならんでいた。それをバラックと呼んでいたとある。バラックはその場しのぎの仮屋を意味する。この言葉が一般に使われだすのは、関東大震災の直後からである。

 もしかして、駒込のバラックの居住者の多くは、関東大震災の罹災者だったのではないだろうか。川添の一家も大震災の直後に引っ越してきた。母親の言葉にある「あそこの子供たちとあそんではいけないよ」というのは、経済的および社会的な格差があったことを示唆する。それにたいして、坂の上の染井通りの南側(引用文中の西側は誤り、正しくは南)の高級住宅街というのは、先に述べた岩崎弥太郎墓地付近のことである。

 そこは坂の下とは逆に、羨望の眼差しで見られていたのである。早いはなしが、坂の上も、坂の下も馴染みのうすい別世界だったのである。しかし、子どもたちが、親のいいつけをおとなしく聞いているわけがない。とうぜん越境をする。その冒険の輝かしい体験により、川添登は自分や自分の育った駒込(染井)の素顔を知ることになったのである。

 『東京ラビリンス』展を終えて間もない12月10日、六義園(写真・下)を訪れた。40年以上も前になるが、渡り鳥が越冬する都内の名所というテーマで、この名園を撮影したことがある。時期は12月の初旬で、庭園のようすはほとんど忘れてしまったが、オナガガモやマガモが遊ぶ水辺の樹々が、秋色に染まり美しかったことだけは覚えていた。

 問い合わせると、コロナ渦だが予約すれば入園できて、いまが紅葉の見どころだという。その日は前日から雨だったが、私が入園した直後に雨はやんだ。そのためか園内は人影がまばらで、鮮やかに色づいたモミジやカエデを贅沢な気分で眺めて廻ることができた。

 帰宅してから画像を整理していると、モミジやカエデと一口でいっても、たくさんの種類が植えられていて、素人目にはどこがどう違うのか見分けのつかないことに気づいた。

 そういえば、江戸一番の植木屋と評された伊藤伊兵衛政武は楓葉軒とも号している(註11)。伊藤伊兵衛といえばツツジが有名だが、モミジやカエデも得意にしていたのである。六義園で私が見たモミジやカエデの見事な植栽の背景には、駒込(染井)の植木職人が歴史的に培ってきた造園技術が受け継がれているにちがいない。

 『新編武蔵風土記稿』に次のような逸話が載っている。

 1727(享保12)年3月、将軍吉宗が伊藤伊兵衛政武の花壇植溜を観覧し、御用木として29種の草木を命じることがあった。その翌月、政武は江戸城に呼ばれ、御納戸役の松下専助から舶来の樹を示され、それについて問われると、即座に、自分はいままで見たことがないが、これは俗にいうところの深山楓によく似ているとこたえた。

 そのあと、さらにやりとりがあり、政武はその樹を呈せよと命ぜられると、1本の深山楓を盆に移した苗木と、それとは別に深山楓の実のついた折枝をそえて献上した。すると9月になって、松下専助より将軍の内命とのことで、深山楓に舶来の楓樹を接木したものを下賜された。これはたいへん珍しいものだから、生育させその種を世上に広めよ、と仰せつけられたというのである。

 上記の将軍吉宗は誤りで、観覧したのはその子の家重だという。『風土記稿』の記述がどこまで事実かはともかく、染井の植木屋が、樹木を採集したり栽培したりするだけでなく、品種改良まで試みていたことは間違いないように思われる。さらにいうなら、伊藤伊兵衛政武は植物の種類や栽培法をまとめた『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄付録』を、先代にあたる三之丞もまた『花壇地錦抄』など、後世に名を残す書物を刊行している。伊藤家にかぎらず、染井の植木屋は、江戸時代の都市近郊における先駆的な農業技術者であるばかりでなく植物学者でもあったと考えられるのである。

 明治時代になり江戸が東京に変わると、駒込は近代都市として再編されていくが、川添登が子どもだった昭和の初めごろまでは、まだまだそこかしこに田園風景が残っていた。『東京の原風景』のなかに、川添登が師とも仰ぐ今和次郎の『日本の民家』のなかから、下記の一節が引用されている。文中の「郊外」を駒込(染井)と言い直してみれば川添登のうちなるわが街への想いのたけが、よりいっそう明確に伝わってくる。

 人の作ったものは美しい。神の作ったものはまた美しい。一方は都市で、一方は田園であるとするならば、郊外というものはこの二つの接触し合ったもの、とけ合ったものだから、郊外には二重の美しさが現われて、郊外に住家を営む人たちは幸福なわけなのだ。

 今和次郎は建築学や民俗学の研究者で、考現学や生活学を提唱した先駆者であるが、関東大震災の直後、上野公園のバラック建築を写真で記録している。『日本の民家』をみればわかるように、スケッチがたいへん上手な人だが、カメラが一般に普及する以前から、フィールドワークの記録手段として、写真を取り入れていたのである。

 今和次郎は、戦後間もないころになるが、早稲田の理工学部で教えるかたわら、学生写真部の部長を務めていたということである。情けないはなしだが、私は大学の写真部時代に、今和次郎の著作を読んだこともなければ、名前すら知らなかった。

 関東大震災のときのバラック建築の写真をふくめ、今和次郎が残した膨大な記録資料は現在、工学院大学の図書館に所蔵されている。仕事でも何でもないのにもかかわらず、その資料の所在を捜し出し、工学院大学に移管する橋わたし、さらにその整理にいたるまで、尽力を惜しまなかったのが、「ときの忘れもの」を主宰する綿貫不二夫・令子夫妻であったことは、つい最近になって知った。

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その10(前編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

 全文はこちら

 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)

 文・写真 平嶋彰彦

 「ときの忘れもの」は、JR駒込駅の南方およそ300メートル、本郷通りと不忍通りの上富士交差点をわたって左折し、1つ目の筋を右折した裏通りにある(写真・下)。上富士交差点の北西側はす向かいには六義園がある。ギャラリーの南側80メートルにみえるのが駒込富士神社の社叢である。

 初めて訪れたのは、確か、2018年の秋だった。昨年秋の『平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス』の打ち合わせのためである。それ以来、ギャラリーにはなんどか足を運ぶことになり、時間があるときはその周辺を歩いてまわることにした。

ギャラリー「ときの忘れもの」は毎日新聞販売局に在籍していた綿貫不二夫さん、令子さん夫妻が1995年に青山で創立、その後駒込に移転し、26年目を迎えました。

 展覧会を開催中の11月18日、大学写真部時代の仲間との恒例の街歩きで、染井通りをはじめて歩いた。この通りは、六義園の角からまっすぐ北西方向にのびている。しかし、マンションが林立する街並みのようすから、近年に造られた道路と誤って思い込んでいた。このときの街歩きでも昭和の面影をのこすようなものは見あたらず、駒ゴルフガーデンにそびえるレバノン杉の大木と、その近くの「花咲か七軒町植木の里」と刻む石碑をアリバイ的に撮っただけだった。

 1週間後の25日、染井通りをもう1度歩くことになった。20年来の友人である詩人の中村鐵太郎さんが『東京ラビリンス』展を観に来てくれた。そのときに、彼の住む1938(昭和13)年に作られた共同住宅を一度ご覧になってみませんか、と薦められたのである。

 昭和の文化遺産ともいうべきその共同住宅は、染井通りから南に折れてJR巣鴨駅にぬける通りの途中、岩崎弥太郎墓地と三菱重工社宅の向かい側にあった。

 施主は東京帝大機械科卒の技術者で、三井金属に入社し、同社ベルリン支店に10数年勤務した。帰国後に、自宅住居を兼ねた欧米人向けの共同住宅の建設を試みたのが、この鉄筋コンクリート3階建の共同住宅だということである。南側の隣家は、1933年築の1戸建て高級住宅で、こちらも鉄筋コンクリート2階建の見るからに立派な近代建築だった。

 1878(明治11)年、岩崎弥太郎は六義園(大和郡山藩下屋敷)を払い下げた。六義園の西側に隣接していたのが藤堂家下屋敷(伊勢津藩)で、あとでわかったことだが、この共同住宅が建っているのはその屋敷地だった。1922(大正11)年、三菱財閥三代の岩崎久彌は、わが国最初の文化村ともいうべき高級住宅地「大和郷」を構想し、六義園周辺の大名屋敷跡を住宅地として整備し、これを分譲した。図書館もその文化村構想の一つで、2年後の1924年、東洋文庫(写真・下)を六義園近くに設立した。

 そんなことから、これまでうっかり見落としてきた染井通りがにわかに気になりだし、『江戸切絵図』「染井王子巣鴨辺絵図」(尾張屋版、嘉永7・1854年)にあたってみた。Googleマップで照らし合わせると、染井通りの道筋は江戸時代の後半とほとんど変わっていない。通りの南側ほぼ全域が藤堂和泉守の下屋敷になっていて、西側のつきあたりに建部内匠頭の下屋敷がある。ここは現在の染井霊園である。

 それにたいして、通りの北側一帯は百姓地や自然地を示す緑色に彩色されている。こちらは通りの全体に樹木の図を配し、現在の駒込7丁目およびその東側の6丁目と3丁目には、それぞれ「此辺染井村植木屋多し」「同断」「同」と書き込んでいる。

 そのなかに1カ所だけ町家(町並地)を示す灰色に土地区分されたところがある。先にのべた「花咲か七軒町植木の里」の石碑のたつ3丁目8番地のあたりで、そこには「駒込七軒町」と記し、「植木屋」と添書きしている。ということは、江戸時代にはこのあたりが染井村の中心地であったと想像される。

 「花咲か」の石碑は、通りに面した小さな広場の門前に建っていた。よく見れば、新しいものである。なかに入ると、面積は広くないが、菜園風の趣に造られていて、水路やポンプ井戸があった。門には「私の庭みんなの庭」の表札がかかり、その下の案内板を読むと、この地域の人たちがボランティアで運営しているということである。

 ところで、「ときの忘れもの」のある本駒込5丁目のあたりはそのころどんなようすだったのだろうか。『江戸切絵図』をみると、現在の六義園は「松平時之助」の下屋敷になる。時之助は大和郡山藩の藩主で、六義園を造った柳沢吉保の後胤である。本郷通り(本郷筋)の六義園前に「テンチウトイウ」の書き込みがある。通り沿いは灰色の色区分で「上駒込村百姓町家上富士前町」とあるから、町屋が並んでいたとみられるが、その奥は緑色の色区分で、「此辺テンチウ」「百姓地ウヘキヤ多シ」と記している。

 「テンチウ」は「伝中」と書くのだという。5代将軍綱吉は、股肱の臣ともいうべき柳沢吉保が造ったこの庭園をたびたび訪れた。このときばかりはお伴の家来が屋敷の周りに数多く待機し、あたかも殿中のようだった。しかし、そのまま書くのは憚られるから、伝中とされた、ということである。

 「ときの忘れもの」と駒込富士神社は、この絵図では範囲外になっている。このあたりが載るのは、おなじ『江戸切絵図』の「東都駒込辺図絵」である。

 駒込富士神社はどこかというと、「駒込富士前町」の東側に鳥居と社殿の図を描き、「本郷真光寺」と記しているところがある。そこが駒込富士神社になる。真光寺はいまも本郷4丁目にある天台宗寺院で、明治の神仏分離までは、駒込富士神社の別当寺だった(註5)。

 ときの忘れものがあるのは、その北側になるわけだが、このあたりは緑色の土地区分になっていて、「此辺富士ウラト云」「百姓地」「植木屋多シ」とされている。

 1680(延宝8)年の『江戸方角安見図』「三十三・駒込一(本郷すし・ひがし方)」に富士神社がでてくる(註6)。この絵図では富士塚とその頂上に社殿を描いて「富士」と記し、その横にさらに「ふじ権現」とある。

 神社の北側は、嘉永の頃とはちがって、「堀丹波守」の大名屋敷になっている。「ときの忘れもの」がいまある場所も、その広大な屋敷地のなかに含まれるとみられる。『江戸方角安見図』には、本郷通りの西側にはなにも記されていない。柳沢吉保が将軍綱吉から拝領した土地に7年がかりで六義園を完成させたのは、1702(元禄15)年である。それまでは富士権現のほか、このあたりに見るべきものがなかった、ということかもしれない。

2021年3月11日

クマノザクラでお花見を、と元大阪社会部の斎藤清明さん

 クマノザクラを、故郷の古座川(和歌山県)流域で愛でてきましたので紹介します。

クマノザクラを愛でる斎藤さんご夫妻

 去年は3月中旬に行って少し遅かったので、今年は早目にと先週4~5日に出かけました。ちょうど満開になったところでした。

 クマノザクラは、3年前に森林総合研究所(八王子市)が新種として日本植物分類学会誌に載せたものです。日本のサクラ属の野生種としては、1915年にオオシマザクラが発見・命名されて以来、百年余ぶりのこと。

 わたしが少年のころから親しんできたのが、じつは新種だったのです。

 ふつうのヤマザクラはいつも4月に咲くのに、古座川べりでは3月に咲くのもあって、「早咲きのヤマザクラ」と呼んでいました。それを近年になって森林総研が地元の県林業試験場の協力で調べると、ヤマザクラとは別種に分類できたのです。

 春に帰郷するたびに山にいち早く咲いているのを見惚れてましたが、クマノザクラということになって、いっそう美しく、誇らしく思えてきます。

 本州の最南端の清流に映え、濃い緑の山に散りばめられ、なんともいえない風情です。

 英国の阿部菜穂子さん(「チェリー・イングラムー日本の桜を救ったイギリス人」=岩波書店=の著者)に知らせると喜んでくれ、フェイスブックで紹介してくれました。彼女が新人で京都支局に来た時以来のつき合いです。

(斎藤清明=元京都支局・大阪社会部)

2021年2月22日

「社会部」が大阪で生まれて120年

 「大阪毎日新聞」(大毎、現毎日新聞)に1901(明治34)年2月25日、社会部が誕生した。20世紀最初の年である。ことし創部120年となる。

 「はじめて社会部の名称をウッ建てたのは、東西を通じてわが社が真っ先であった」

 これは東京社会部の初代部長となった松内則信(冷洋)が「大毎50年」の本紙連載(1932年3月)に書いている。松内は社会部発足の前年、1900(明治33)年入社。東京の「萬朝報」からで、それまで東京・大阪の新聞社に「社会部」はなかったというのだ。

 日本の新聞学の開拓者で、東大新聞研究所の初代所長・小野秀雄は、松内社会部長から誘われて「東京日日新聞」社会部員となる。

 「東日」がもっぱら名論卓説をぶちあげる「木鐸記者」であったのに、事件があればとにかく現場に駆けつける「大毎」社会部記者。《「頭の記者よりも足の記者が尊い」といわれたのは、この時からである》(小野秀雄著『新聞五十年』)。

 欧米の新聞社に「社会部」はない。日本独自のネーミングだが、《「社会部」が素直に定着していったところに、その後の日本の新聞を性格づける基礎があったといえるのではないだろうか。それは同時に反骨とか、野党的とか、反体制とかの精神が新聞活動の真骨頂であると認められることとも通じると思う》と、16代大毎社会部長、のちの編集主幹斎藤栄一が記している(『社会部記者 大毎社会部70年史』)。

 「問題意識の視点から取組む」社会部の誕生は、近代ジャーナリズムの幕開けとなったのである。

 「大毎」が追いつけ追い越せとライバル視していた「大阪朝日新聞」(大朝)が編集局に「社会係」を置くのが1904(明治37)年12月、と朝日新聞社史にある。東京の朝日新聞に「社会部長渋川柳次郎(玄耳)」が生まれるのが1910(明治43)年4月である。

菊池幽芳(『「毎日」の3世紀』から)

 以下に現在までの大阪と東京の社会部長一覧を掲載する。

 初代部長・菊池清30歳。文芸部主任からで、幽芳のペンネームで「己が罪」「乳姉妹」を連載。「家庭小説」の分野を開いた。「小説だけでなく、書も、歌も、菊づくりまで楽しむ趣味人だった」と部長紹介にある。

 第2代角田勤一郎・浩々歌客は、慶應義塾創立50年(1907年)に先立ち、1904(明治37)年3月に制定した旧塾歌の作詞者。

 第3代福良虎雄・竹亭は、東西の社会部長を務めている。他には第10代平川清風、第20代稲野治兵衛、第22代ヒゲの畑山博の計4人。

 第6代奥村信太郎・不染と、東京の初代松内則信・冷洋は、日露戦争で従軍記者として活躍。2人は1905(明治38)年と翌06(明治39)年の2回、鉄道早回り競争の選手として最初は10日間でどれだけ乗れるか、翌年は5,000マイルを何日で踏破できるか競った。

 鉄道が国有化される時期で、連日紙面で大々的に扱った。2人ともスター記者だった。

 奥村は1920(大正9)年の大毎野球団結成にもかかわり、25(大正14)年のアメリカ遠征では総監督として、ホワイトハウスでカルビン・クーリッジ第30代大統領と面会している。遠征メンバーに野球殿堂入りが3人いた。キャプテン腰本寿、投手の小野三千麿、遊撃手の桐原真二である。

 奥村はのちに社長となるが、戦後パージを受け、表舞台から消えた。

 第9代阿部真之助。のちにNHKの会長になるが、社史『「毎日」の3世紀』には《反骨のペン貫いた》と、その業績に4ページも割いている。

 東京の学芸部長時代、菊池寛、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一、高田保、木村毅らを社友・顧問として迎え、学芸面の充実を図った。

 一覧表の阿部真之助の右側、東京社会部第4代島崎新太郎は、都市対抗野球大会をつくった。1925(大正14)年夏、明治神宮外苑に4万人が入る野球場を新設するので寄付の要請があった。「最高峰を行く野球大会を」と、当時の運動課長弓館小鰐(第1回早慶戦のときの早大マネジャー)と相談。大阪朝日新聞から大正日日新聞に移っていた橋戸頑鉄(第1回早慶戦のときの早大キャプテン)をスカウト、1927(昭和2)年に第1回大会を開いた。

 第11代徳光伊助・衣城は、大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。城戸元亮編集主幹にスカウトされ、聯合通信社(現在の共同通信)からいきなり社会部長となった。読売新聞社会部から「文章のうまい遊軍記者」としてスカウトしたのが、のちの読売新聞1面「編集手帳」の高木健夫だ。

 「読者の目を射すような社会面づくりだった」と紹介されている。

 高木は、徳光の俳句を紹介している。
   外套を肩に新聞記者帰る
 格好いいね、決まってる。

 32(昭和7)年12月本山彦一社長が逝去、会長となった城戸が翌33(昭和8)年10月に会長職を追われるお家騒動があり、徳光とともに「聯合艦隊」と呼ばれた記者47人が一斉に辞めてしまった。高木も一緒だった。

 第13代本田親男は、城戸時代に長崎通信部に飛ばされた。1930年の大風水害の原稿をローマ字で海底電信に載せ、長崎―上海―マニラ―小笠原―東京と渡って、惨状を伝えた。

 49歳で社長となったが、「本田天皇」と呼ばれ、社長時代の評判は必ずしもよくない。

 第14代の大阪小林信司と東京村田忠一の在任中の1943(昭和18)年1月1日、題字を「毎日新聞」に一本化した。

 大阪の第15代浅井良任と東京の第17代森正蔵から戦後だ。

 森は45(昭和20)年12月に『旋風二十年』を刊行する。戦時中の昭和裏面史を嶌信正ら7人の記者が書いたもので、発売と同時に売り切れが続出、大ベストセラーとなった。

 東京第25代三原信一。51歳での部長就任だった。《まず断行したのは「新旧交代」「信賞必罰」を旗印にした大幅な人事異動だった》《3年間で53人を入れ替え、54人目に三原さんが去ったときの社会部の平均年齢は32・1歳》。

 1957年3月第5回菊池寛賞。社会面キャンペーン「白い手・黄色い手」「官僚にっぽん」。
    10月第1回日本新聞協会賞。社会面キャンペーン「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」。

 「50歳を超えて社会部長になったのは、三原さんに続いて2人目」と東京第34代牧内節男(95歳)。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)がすべてを物語っている。

 東京第44代朝比奈豊。2008年社長、11年グループホールディングス社長。2020年にGH会長を退任するまで長期政権だった。

 最後に2017年4月に女性として初の社会部長となった磯崎由美。ことしの日本新聞協会賞「にほんでいきる」外国籍の子どもたちの学ぶ権利を問うキャンペーン報道。社会部長の時からキャンペーン報道に噛み、編集局次長として毎日新聞の編集部門受賞、32回目を達成した。=敬称略

(堤  哲)

2021年2月19日

お天気キャスターの先駆け・倉嶋厚さんのこと

 社会部の遊軍記者になって最初にやらされるのはお天気原稿だ。気象庁の天気相談所に電話して、気象概況を解説してもらい、夕刊早番から出稿する。遅くても午前10時半までにはデスクに渡さなければいけないので、結構シンドイ仕事だった。

 ことし関東地方に「春一番」が吹いたのは、2月4日だった。これまで最も早かったのが1988(昭和63)年2月5日。過去の記録を更新したのだ。これも異常気象?

 「春一番」は、お天気キャスター倉嶋厚さん(2017年没、93歳)が命名した、と社会部旧友・倉嶋康さん(88歳)がFacebookに書いている。

 [春一番] 2021年2月15日

 「春一番」は私と年の近い叔父の倉嶋厚が気象庁で予報官をしていた時に命名しました。そのころ私は竹橋の気象庁のすぐ近くにある毎日新聞東京本社の社会部にいて、時々気象庁に遊びに行っては特ダネをつかんだり、叔父がパレスサイドビルに来て地下で一杯やったりしていました。

 ある時大阪本社から同期の丹羽郁夫という記者が東京社会部に転