2022年8月23日
107歳で逝った写真家、笹本恒子さんの売り出しを手助けした毎日新聞記者2人

107歳、日本初の女性報道写真家・笹本恒子さん逝去が23日朝刊各紙で報じられた。
笹本さんが写真家になるきっかけは、毎日新聞の前身「東京日日新聞」社会部記者だった林謙一(NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」の原作者、1980年没73歳)による。
「林さんは話がお上手で、『LIFE』創刊号(1936年11月)の表紙は女性写真家マーガレット・バークホワイトの作品。ここに入って報道写真家になりませんか、といわれました。報道写真家という言葉も初めて知ったのですが、林さんにあおられて、やってみたいと思います、と返事をしてしまったのです。それが写真家になるきっかけでした」
ここに入って、というのは、1940年に創設された「写真協会」のことで、林さんは新聞記者からトラバーユしていた。

笹本さんの自伝『お待ちになって、元帥閣下』(毎日新聞社2012年刊)の巻頭に「わたしを写真の世界に導いてくださった林謙一さんに、この本を捧げます」と献辞を書いている。
毎日新聞記者にもうひとり、小坂新夫(1984年没91歳)さん。小坂さんは、駆け出し記者のころ、笹本家の貸家に住んでいた。「東京日日新聞」社会部長を1936年4月から40年9月まで、4年余つとめた。笹本さんは女学校を卒業して、絵の勉強をしていて、ある日、笹本さんのスケッチブックを見た小坂社会部長は「ウチの社会面のカットを描くと良いよ。『雑記帳』のカットは毎日替わるんだ。2、30枚描いて会社に持って来なさいよ」といわれた。
そのカットが紙面化された。
以来、連日日替わりで笹本さんのカットが「雑記帳」に使われたが、ある時から版画家棟方志功の作品に変わった、と笹本さんは書いている。棟方は1936(昭和11)年国画展に出品した「大和し美し」が出世作となった、とウキペディアにある。のちに毎日芸術賞(1969年)も受賞している。
今、雑記帳は社会面から消えている。
自伝によると、小坂社会部長から転職した林謙一さんを紹介されたのが、1939(昭和14)年春。そこで冒頭のやり取りになるのだ。


私(堤)は、林謙一さんの取材で100歳の笹本さんを訪ね、話を聞き、写真を撮った。
明るい方で、「東京駅、宝塚、森永キャラメルと同い年に生まれました」と言われたのが印象に残っている。1914(大正13)年である。ご冥福をお祈りします。
(堤 哲)