2022年7月4日
続藤田コレクション:藤田組支配人・本山彦一(のち毎日新聞社長)



写真は、左から藤田コレクション「慶應野球部の写真48枚」の撮影者藤田光彦(1911~1974)、その祖父で藤田財閥の創始者、男爵藤田傳三郎(1841~1912)、藤田組支配人から毎日新聞を全国紙に発展させた元社長の本山彦一(1853~1932)である(敬称略)。
本山は、1886(明治19)年7月に藤田組支配人となった。そのきっかけは福澤諭吉(1835~1901)の関西旅行に同行して、紹介者を介して傳三郎と面会したことだった。
本山は、諭吉がその4年前の1882(明治15)年に創刊した「時事新報」の会計を担当していた。会計の前は、編集で、「本山は編集室の真ん中に陣取り、集まった原稿を片っ端から読み上げた」と、高橋義雄(箒庵1861~1937)が書き残している。高橋は「時事新報」新卒入社第1号。同じ慶應義塾卒で同時入社の渡辺治(1864~93)は、大阪毎日新聞社の初代社長になった。
本山の「時事新報」退社は、周囲から反対された。本山も断り状を紹介者に出したが、最終的に月給100円で藤田組の社員となった。
支配人本山は、児島湾の干拓事業を進め、山陽鉄道の建設に乗り出し、1889(明治22)年には大阪毎日新聞の相談役となった。その後、原敬社長を継いで1903(明治36)年に社長就任。朝日新聞に追いつけ追い越せで、06(明治39)年、東京進出を図って、「毎日電報」を発刊、さらに11(明治44)年「東京日日新聞」を吸収合併して全国紙体制を確立した。
本山彦一が藤田傳三郎と出会ったことが、今の「毎日新聞」につながっているわけだ。
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「藤田コレクション」藤田光彦の長男「バロン」昭彦さん(80歳)=元大阪本社社会部=から、この毎友会HP(6月29日トピックス)を読んだ感想がメールで届いた。
「来年50回忌を迎えるオヤジのことを思い出す機会ができました。葬儀は狭い自宅でささやかに営み、屋内は6畳の部屋に身内が座るだけで、会葬者は道路での参列でした。大阪府警を一緒に回ったトリちゃん鳥越俊太郎氏が社会部木曜会幹事で来てくれました」
「実はその日は休みで京都競馬のメーンでひいきの馬2頭が1枠に入り、1-1のゾロ目を買う予定だったのですがオジャンになり、結果はきっちり1-1で涙!! 以後、馬から見放されっぱなしです」
「野球資料は私の弟に譲ったため、写真に記憶はないなあ。写真を撮るだけでなく、スコアブックも自分で書き込んでいて、『これを見たらゲーム展開が目に見える』と言ってました。スコアブックも一緒にサザビーに行ったはずですが……」
「光彦の趣味は音楽と野球と落語でした」
「不思議がられたのは、オヤジは終生丸刈りでした。身長が低いこと(徴兵検査で不合格)と合わせてどこでも目立ちました。長髪だと整髪にポマードを使い、それがレコードにつくといけないからとの理由でした」
――藤田光彦先生の名声を確立したのは、蛾をたべること、と立命館大学吉田恭子教授が『慶應義塾図書館の蔵書』(慶應義塾大学出版会2009年刊)に書いていますが……。
「蛾の話はエピソードで必ず持ち出されるのですが、まるで常食にしている風に伝えられ、家族としては迷惑この上なし。一度はテレビ局が『蛾を食べるシーン』を撮影したいと言ってきたのに応じて、捕まえた蛾をスープに浮かべて食べて見せました。当時は家の裏に山があり、指の先ほどの小型の蛾がいくらでも家の中に飛び込んできていました。最初は子供のころにたまたま口の中に蛾が飛び込んで来たのをそのまま噛んだら『ヌガーのような味』でおいしかった、というのがきっかけだそうです」
「世界的人口増で食糧難の将来に備えて『昆虫食』が脚光を浴びています。泉下で先見の明だと威張っているオヤジの顔が目に浮かびます」
(堤 哲)