2022年7月4日
元スポニチ社長、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」~四半世紀発行達成、25年間書き続けて
≪書くということの意味≫
=2022年7月1日発行の『銀座一丁目新聞』900号から転載
信濃 太郎

「酒は涙かため息か、心の憂さの捨てどころ」という歌があった(作詞・高橋掬太郎・作曲古賀政男))。私の「書く作業」にはそのような所がある。「昔の事件振り返り夢に出てくる友の顔」。昭和23年6月、社会部に採用された8人の友人たち、その前後に入社の同僚もすでに全員があの世に行ってしまった。今は孤独をしみじみと噛み締めている。その味のなんと苦く渋い。
艦爆乗り海軍中尉であった高橋久勝君は「練習機(赤とんぼ)肩で押し出す寒さかな」の句を残す。「下山事件」で下山国鉄総裁の自殺の決め手となる現場近くの旅館に休憩した事実を取材報道した。安永道義君はがんに侵されながら死ぬまで下野新聞のコラムを書き続けた。晩年は整理部で腕をふるった吉田錠二君は公私ともにお世話になった。文京区根津の社員寮に住んでいた昭和27年1月、女房が産気づき近くの東大病院に入院した。会社に連絡しても、今殺人事件の取材に行って連絡が取れないというので察デスクが上野署にいた吉田君を私の代わりに東大病院に差し向けてくれた。お陰で大いに助かった。
桑原隆次郎君は忘れがたい。桑原君が亡くなった(平成20年4月15日・享年84歳)と聞いて、東京・文京区駒込3丁目の「駒込吉祥寺」に赴き、彼の遺骨が納められてある「大慈塔」(一重の仏舎利・永代供養塔)に線香を供え、冥福を祈った。いろいろお世話になった。妻との結婚には一役買ってくれ、ささやかな結婚式に友人として出席してくれた。人つき合いの悪い桑原君としては珍しいことであった。クラシック音楽が好きで週に一度の察回りの会合「木曜会」のあと、喫茶店でショスタコヴッチの「革命」を聞いた。私のクラッシクが好きになるきっかけを作ってくれた。
また編集局長となり、新旧分離の際、旧会社の役員となった平野勇夫君とは察廻り記者当時から仲が良かった。ロッキード事件が起きた際、編集局長の彼から請われて論説委員から社会部長となったのもこのためであった。まさに激動の半年であったが、成果を上げることができたと自負する。その後、私が歩んだ道が西部本社代表6年余、スポーツニッポン新聞東京本社社社長6年。ともに自由に自分の仕事ができた。
「銀座一丁目新聞」をネットで開設したのは平成9年4月からである。最初は原稿料を払って作成していたが、財政が立ち行かなくなり全て自分で書くようになった。自ずと今の形となった。書くことが自分の喜びとなり生きがいともなった。ネットで新聞を出したのは日本では私が第1号である。これは記録を見ればわかる。 友人に恵まれたというべきであろう。大いに感謝する。
≪創刊号≫1997年4月

発行所 東京都中央区銀座一丁目5-13仰秀ビル6F
(株)一ツ橋アーツ

編集方針 卓見、異見を吐き、面白く、 耳よりの話を伝え、実用的なトークなどを発信、ホームページを通じて、平和と民主主義社会の発展に微力をつくすものとする。
日本アカデミー賞で初の主演女優賞に輝いた草刈民代は大胆なスリットの入ったドレスで視線をクギ付けにした(スポニチ3月30日付 スポーツニッポン新聞社提供)
※創刊号には、佐々木叶さんの「茶説」、大竹洋子さんの映画紹介、新山恭子さんの「ドリームトーク」などが掲載され、「付録」として「頑張れ阪神タイガース新聞」(阿久悠さんの「我ら猛虎党」など)。
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