2022年6月29日
腰本寿・桐原真二・小野三千麿のサイン入りブロマイド撮影者バロン藤田の孫、その長男は元大阪社会部の事件記者
慶大三田キャンパスの慶應義塾史展示館(図書館旧館2階)で開かれている「慶應野球と近代日本」(8月13日まで)。そこに「慶應野球部の写真48枚」(福澤研究センター蔵)が展示されていた。水原茂、宮武三郎ら当時のスター選手がズラリだ。プロ野球のない時代、東京六大学、とりわけ早慶の野球選手は人気があった。

ピックアップした3人は、左から腰本寿、桐原真二、小野三千麿。いずれも元毎日新聞社社員。新聞記者の傍ら「大毎野球団」の選手として活躍し、1925(大正14)年の大毎野球団アメリカ遠征のメンバー。3人とも野球殿堂入りしている。
腰本(1894~1935、1921年入社)はアメリカ遠征時のキャプテン。早慶戦は1925(大正14)年に「復活第1戦」が行われたが、慶大は飛田穂州監督の早大に惨敗した。そこでハワイ生まれの腰本に白羽の矢が立った。「3年で復職」の約束で、翌26年慶大監督に就任、直後の春のリーグ戦で早大には敗れたものの、早速優勝した。
3年の約束は反故にされ、1934年暮れ病気で辞任するまで、9年16シーズン中、7回優勝している。慶應野球部、Enjoy Baseballのさきがけでもある。
特筆されるのは、1928(昭和3)年秋の10戦10勝、全勝優勝である。後輩のスポーツ記者小野三千麿は「日本が産みたる最も監督らしい監督」(『慶應義塾野球部史』)と絶賛している。ブルー・レッド・アンド・ブルーのストッキングに白線が入ったのはその記念だ。現在白線は2本あるが、もう1本は前田祐吉監督時代の1985(昭和60)年秋の10勝1分けである。
小野三千麿(1897~1956、1921年入社)は、「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」と野球殿堂の紹介にある。1922年11月19日三田倶楽部が米プロチームを9-3で破ったのだ。米国チームが力を抜いたとはいえ、日本の野球史に残る快挙だった。都市対抗野球大会の敢闘賞「小野賞」に名を残している。
桐原真二(1901~1945、1925年入社)は、1924年度の慶應野球部の主将で、早慶戦復活に尽力した功績が認められ野球殿堂入りした。
桐原は経済部長も務めたが、応召してフィリピンの首都マニラで陸軍報道部員だった。
「マニラ新聞」は毎日新聞の経営で、南條真一編集局長(元東京日日社会部長)をはじめ200人近い社員が出向していた。毎日新聞記者・伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』には、南條編集局長、取材部長伊藤清六ら毎日新聞関係者の戦死者は56人にのぼった、とある。しかし、桐原がいつどこで戦死したかは分かっていない。
『井上ひさし伝』(白水社2001年刊)の著者、元毎日新聞学芸部の桐原良光は息子である。
マニラには、政治部記者後藤基治も海軍報道部長として勤務していた。首都マニラのあるルソン島に米軍が上陸したのは45年1月9日。後藤は、その2週間前に海軍機でマニラを離れた。毎日新聞の社員7人を「携行貨物」扱いで許可をとり、同乗させた。その中には政治部に戻って特ダネ記者として活躍した人もあり、生死は紙一重だった。
後藤は戦後、東京本社の社会部長をつとめている。下山事件が起きた時の黒崎貞治郎社会部長の後任だった。
さて、「慶應野球部の写真48枚」は、NYに本部のあるザザビーズのオークションで競売され、福澤研究センター蔵となった。その経緯「藤田コレクションに甦る慶應野球部選手たち」を、入手のきっかけをつくった立命館大学吉田恭子教授が福沢諭吉記念慶應義塾史展示館だより「Tempus(テンプス)」第2号(2022年6月)に書いている。
早稲田の選手の写真69点も同時に出品されたが、誰が落札したか分からないという。
写真の撮影者・藤田光彦(1911~1974)は《藤田財閥創業者・藤田傳三郎の三男彦三郎の長男で、神戸在住、音楽評論家として戦後は神戸放送のラジオ番組でクラシック音楽の普及に尽力されたことがしられている》と記している。
さらに《光彦は野球ファンでもあり、学生時代(筆者注:京都大学文学部哲学科)、甲子園球場をはじめとする関西の球場に通って当時のスター選手たちを撮影し、その日のうちに現像すると、一族が経営するホテルに滞在する選手を訪れサインをもらっていたそうです》と続けている。
大阪社会部で私(堤)が一緒に仕事をした、64年入社同期の藤田昭彦(現80歳)は、写真撮影者・藤田光彦の長男である。当時藤田姓が社会部に4人いて、昭彦さんは「バロン藤田」と呼ばれていた。大阪府警捜査1課担当の事件記者だった。
父親の「藤田コレクション」の話は、今回初めて知った。
(堤 哲)