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2022年6月13日

1950年日本ワールドシリーズを制した「毎日オリオンズ」

 1950(昭和25)年、プロ野球にセ・パ2リーグが誕生して、初の日本一に輝いた毎日オリオンズの球団結成初試合の入場券が、10日付日経新聞文化面に載っていた。

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 3月8日中日球場で行われた対米国第5空軍戦。内野席券40円。公式戦は80円だったから半額だ。ちなみに公式戦の特別席(ネット裏?)は100円、外野席は30円だった。

 毎日新聞は、この試合の結果を翌9日付で報じている。21―0の大勝である。

  毎 日 101 482 140| 21
  空 軍 000 000 000| 0

③西本幸雄(28)和歌山中→立大→別府星野組
3三宅宅三(29)玉島中→明大
⑦伊藤庄七(31)中京商→明大→愛知産業
⑧別当 薫(29)甲陽中→慶大→大阪タイガース
⑨戸倉勝城(31)豊浦中→法大→大洋漁業
②土井垣武(28)米子中→大阪タイガース
④本堂保次(31)日新商→大阪タイガース
⑥河内卓司(29)広島一中→慶大→大洋漁業
④今久留主淳(31)嘉義農林→別府星野組
①荒巻 淳(23)大分高商→別府星野組
PH小田野柏(33)岩手県福岡中→仙鉄局→阪急→豊岡物産
1野村武史(30)岐阜商→明大→全京城→セネタース→豊岡物産→大洋漁業
1上野重雄(26)九州学院→大連満倶→門鉄局
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 大差の試合になってしまったが、第五空軍は、前年に来日したサンフランシスコ・シールズに唯一勝利したチームだった。ところがこの日のメンバーでシールズ戦に出場した選手は3人だけと朝日新聞(名古屋版)は指摘し、「毎日のエース荒巻はアウト・シュートする速球と、大きく落ちるドロップを併用し、エースにはじぬ投手ぶりであった。戸倉、土井垣の各5安打をはじめ計25本の長短打はパ・リーグの第一級球団としてはずかしからぬものであった」と続けている。

 当時の新聞は、裏表2㌻が通常だった。ペラと呼ばれた。朝日新聞名古屋版は第2面に2段見出しで「オリオンズ大勝/21-0第五空軍不振」と報じた。

 毎日新聞は、この日4㌻で、3面の真ん中に写真も入れた。本文は小野三千麿(野球殿堂入り、慶大→大阪毎日新聞元体育部長=戦時中運動部は体育部と改称した)が書いている。

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1950年3月9日付毎日新聞

 毎日オリオンズは、前年都市対抗野球大会で優勝した別府星野組を中心に社会人野球チームの選手を主体に編成した。さらに関西の人気球団大阪タイガースから、この日の試合に出場した別当、土井垣、本堂の3選手の他、監督兼投手の若林忠志(42歳、ハワイ出身で法大→川崎コロンビア)と呉昌征(33歳、嘉義農林→東京巨人軍)の計5人を迎えた。

 総監督は、湯浅禎夫(47歳)。米子中→明大→大阪毎日新聞社運動部長。入社した時は、小野三千麿に代わって大毎野球団のエースだった。

 毎日オリオンズは、この年81勝34敗5分 勝率.704でパシフィック・リーグの初代優勝チームとなった。セ・リーグ優勝の松竹ロビンスとの対戦は、日本ワールドシリーズと銘打って行われた。4勝2敗でロビンスを破り、初代日本一に輝いた。

 毎日オリオンズは1957年までで、大映映画永田雅一社長の大映スターズと合併して「大毎オリオンズ」(1958~1963)と変わった。その後東京オリオンズ(1964~1968)→ロッテオリオンズ(1969~1991)→千葉ロッテマリーンズ(1992~)につながっている。

(堤  哲)