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2022年4月11日

日本初・藤本英雄投手の完全試合のゲーム写真はないのだが…

 ロッテ佐々木朗希投手(20歳)が4月10日のバッファローズ戦で史上16人目の完全試合を達成した。槙原寛己(巨人)以来28年ぶり。投球数は105球。三振19、内野ゴロ5、ファウルフライ1、外野フライ2だった。

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毎日新聞1950年6月29日付朝刊

 11日は新聞休刊日だったが、スポーツ紙各紙は佐々木投手の快挙を1面トップで扱った。ところが、72年前藤本英雄投手(巨人)が日本プロ野球史上初の完全試合を達成した時のゲーム写真が1枚もない、というのである。

 青森市営野球場には北海道遠征に帯同した記者たちがネット裏の記者席にいた。しかし、写真部のカメラマンは各社ともひと足先に帰京してしまったのだという。

 毎日新聞運動部・堀浩記者(2003年没83歳)の署名入り記事はたった8行である。外野飛球6、内野飛球3、ゴロ11、三振7、投球数は92球とある。

 完全試合という日本語訳がなかったのか、見出しも本文もパーフェクト・ゲームだ。

 「パーフェクト・ゲームは本場アメリカの大リーグでも1922年4月30日ホワイトソックスのロバートソン投手が記録しただけ」と解説しているが、それ以前にも完全試合は4試合あり、ロバートソン投手は史上5人目である。

 スポニチはどう扱ったか。

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スポーツニッポン1950年6月29日付1面

 この紙面は『スポーツニッポン新聞50年史』からだが、《同行の本紙・杉山修八記者がこの快挙を取材、毎日青森支局の電話を利用して送稿。カメラマンはいないので、仕方なく写真は毎日から資料を借りて頭を作った。野球ファンも初体験の「パーフェクト」に、紙面には“9回を通じて1人の走者も塁に出さなかった試合”の説明つき》とある。

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日刊スポーツ1950年6月29日付

 終戦の翌1946(昭和21)年3月6日創刊したスポーツ紙の魁「日刊スポーツ」。その50年史にも「大偉業にも生写真がない!」と取り上げている。

 野球文化學會生みの親、整理部OBの諸岡達一さんは、『野球博覧Baseball Tencyclopedia』 (大東京竹橋野球団編)にこの試合のことを書いているが、現場にいた記者は、毎日堀浩、スポニチ杉山修八のほか、朝日出野久満治、読売宇野庄治記者らがいた。「記者も写真くらい撮りゃいいのに撮っていないマヌケさ。なまじカメラマンがいたから写真機なんぞは扱わない偉い記者さん」と皮肉っている。

 余談だが、堀浩さんは早大スキー部の複合競技の選手で、学生チャンピオンになっている。

 創刊時の日刊スポーツに入社、その後毎日新聞運動部にスカウトされた。猪谷千春が回転で銀メダルを獲得した1956(昭和31)年の第7回冬季五輪コルティナダンペッツォ(イタリア)に毎日新聞社から特派され、猪谷の写真を撮っている(1957年全日本スキー連盟発行の『スキー年鑑』第24号)。

 さて、「完全試合当日に藤本英雄の記念写真がありますよ」と言って、『野球博覧』出版記念パーティーを兼ねた「大東京竹橋野球団S・ライターズ創設30周年」が2014年2月3日パレスサイドビルB1毎日ホールで開かれた時に、特ダネ号外を持ち込んだのは元サンデー毎日編集長の小川悟さん(84歳)だった。

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 写真前列中央の少女が、のちの小川夫人晃子さん。その右に藤本投手、その左が父親でこの試合の青森開催を招聘した地元水産業者の佐藤幸治郎さん。左に川上哲治、青田昇。

 小川悟さんの義父にあたる幸治郎さん(1969年没)は「昭和25年という年は日本中がなんとかやる気になった時期ですよ。職業野球の世界も2リーグ制や地方遠征に乗り出したのをうれしく聞いてね、自分の本業はまだこれからというのに、応援させてもらいましたよ。そうしたら藤本さんのあの快投でしょう。痛快でしたなあ」と語っていたという。

 ネットで検索したらこの試合、当時中学生だった寺山修司が外野席で観戦、作詞家のなかにし礼は、この試合のバットボーイを務めたと語っています、という情報があった。

(堤  哲)