元気で〜す

2022年7月21日

退職後4年、元編集委員、小島正美さんはいまも「食の安全」チェック、そして記者生活45年を振り返って

 4年前、66歳で毎日新聞社を退職しました。その後は農林水産省の外郭団体「生研支援センター」という研究機関で非常勤の顧問(週に2~3日勤務)として広報の仕事をしています。いま脚光を浴びている「ゲノム編集技術」などで生まれた糖度の高いトマトなど、農林水産業や食品産業の先端技術の成果を「記者向けプレスリリース」としてまとめ、記者に記事を書いてもらう広報の仕事です。国の動きがよく分かるという点では大いに役立っていますが、これまで実際に記事になったヒット率は5割にも満たず、悪戦苦闘しています。

 「兼業も可」という条件で仕事をしていますので、ジャーナリストという肩書で雑誌やWEBサイト(たとえば、朝日新聞デジタルの「論座」でワクチンの記事を書くとか)に記事を書いたり、講演(1年に20回程度)をしたりしています。守備範囲は主に3つです。「食の安全や健康医療の問題」「地球温暖化やエネルギー問題」「ファクトチェックなどメディアのあり方」の3つです。

 メディアに関して言えば、任意のボランティア団体「食品安全情報ネットワーク」(約50人の専門家)の共同代表として、新聞やテレビなどのニュースをチェックして、訂正を求めたりする活動もやっています。このメディアチェック活動は記者の現役当時からやっており、すでに10年以上の実績があります。

■転機

 なぜ、こんなメディアチェック活動を始めたのか。その転機は1990年代後半でした。当時、ダイオキシンなどの化学物質が大きな健康不安を呼び、「環境ホルモン」問題として連日報道されていました。少し遅れて、「遺伝子組み換え作物」も大きな話題になり、ダイオキシンと同じように不安を煽るニュースが世間を賑わせていました。当時、私は生活家庭部(その後、生活報道部に名称が変わり、2019年に廃部)に属し、いわゆる市民派の記者として、「プラスチックのおもちゃをなめると精子が減る」とか「遺伝子組み換え作物の安全性は分かっていない」などと、その危険性を重視する記事を書いていました。

 それまで大した記事を書いたことは一度もなかったのですが、このときだけは、私の記事が大学の授業でも使われるなど相当な反響がありました。社内で「編集局長賞」といった賞をいただきましたが、賞のつく名誉はこれが最初で最後でした。

 当時は、主に市民運動の側に立ち、政府を批判する形で記事を書いていたわけですが、その背景には、もともと親父が共産党員だったため、社会主義という理想を目指して、資本主義を変革するのが記者の役目といった考えを抱いていたことが大きかったように思います。

 1991年にソ連が崩壊し、過去の凄まじい粛清や殺戮を知るに及び、ようやく目が覚めたころでしたが、それでもまだ巨大企業や工業文明への疑問のようなものが心に巣食っていました。

 ところが、2000年代に入って、私の考えが揺らぎ始めました。米国や西欧の農場へ行き、遺伝子組み換え作物の現場を取材したときのことです。どの農家も「組み換え作物は農薬を節約でき、収入も増え、良いことばかりだ」などと話したのです。そこで初めて、現場を一度も見たことがないのに、「組み換え作物を栽培しても、農薬の使用は増える」などと偏った内容の記事を発していたことに気付いたのです。

 ダイオキシンにしても同じでした。さまざまな科学者に改めて取材したところ、日本人の摂取レベルが健康被害を起こすほど高いものではないという論文がたくさんあることも分かりました。それもそのはず、ここ約20年、ダイオキシンは全く話題にも上りません。

 当時、「小島さんの記事を読み、ダイオキシンが怖いので母乳をやめました」という母親にも会いました。「母乳をやめろ、とは書いてないですよ」とその母親に説明したら、「それなら、記事の書き方を変えてください」と言われてしまったのです。

 学者にも取材すると、「危ないことだけを伝えても、解決にはならない。あるリスクを避けても、もっと大きい別のリスクが生じることは往々にしてある」と指摘され、やはり科学的思考法が必要だと悟る。

■科学に立脚

 こうしたさまざまな経験を積むに至り、科学的なエビデンスを重視する方向に変わっていったわけです。科学に立脚しない記事が目立つことに対して、専門家から「新聞はもう読むに値しない」との声を直に聞くようになったのも2000年代以降のことです。

 そんな経過から、2008年に「食品安全情報ネットワーク」を立ち上げたわけです。いまは媒体を問わず、どの記者たちに対しても、科学的な思考を重視した記事を書いてほしいという願いも込めて、記者向けセミナーなども開いています。

 最近は、「地球温暖化は本当に二酸化炭素が主原因なのか」といったテーマでも記事を書いたりしていますが、それもすべて科学的な視点を考えてのことです。

 こうした記者活動がいまなお、できているのもすべて毎日新聞の自由な気風で育ったおかげだと感謝しています。それにしても、記者時代で最も楽しかった松本支局(約10年間配属)が廃止になり、生活家庭部も廃部となったのは寂しい限りです。

 振り返れば、記者生活45年。幸い編集委員という肩書をいただいたため、千葉支局のデスク2年を除き、退職の当日まで記事を書き続けた記者生活でした。その間、約20冊の本を書きました。いま過去を振り返ると、お世話になった諸先輩の顔が次々に浮かんできます。

(小島 正美)

 小島正美(こじま・まさみ)さんは1951年生まれ。1974年入社。サンデー毎日(1年間のみ)を振り出しに長野支局、松本支局を経て、東京本社の生活家庭部へ。千葉支局次長のあと編集委員になり、2018年6月に退職。「食生活ジャーナリストの会」代表(6年間)も務めた。著書は「みんなで考えるトリチウム水問題」など多数。趣味は連凧揚げ(写真は凧80連)