元気で〜す

2021年12月20日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑱ ある新聞記者の歩み17 誰も首相になると思ってなかった中曽根康弘の実像(上)抜粋

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
 全文はMENJO,Satoshi

1面トップの特ダネが政治資金を動かした?!

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 政治部生活の続きとして中曽根康弘さんについて上下2回に分けてお届けします。

目次
◇中曽根担当になるのを喜べなかった背景にトラウマ
◇石油ショックで電力会社が窮地に
◇中曽根通産相からつかんだ特ダネが大きな金を動かした?!
◇グスタフレーションとは? 中曾根派担当の奇人
◇政治家にとって大きい秘書の役割
◇新聞社の社長になるのは政治部出身者向き?

◇中曽根担当になるのを喜べなかった背景にトラウマ

Q.佐々木さんは政治部で1979(昭和54)年に中曽根派の担当になるんですが、その前の経済部で通産省担当の頃、通産大臣は中曽根さんでした。そして、第一次石油ショックの頃、イラン、イラク、サウジアラビア、クエートなどに同行されていますね。その縁もあって担当になったんですか?

 いやあ、実はあまり気乗りがしなかったですね。通産省担当時代の“中曽根通産大臣”へのトラウマがありましたから・・・。

Q.それはどういう意味ですか?

 この連載の第一次石油ショックの時にはしゃべっていないんですが(第6回「降ってきた石油危機 しんどいながらも記者として得た幸運」参照)、中曽根さんへの不信感があったんですね。

 その内容は20年経って経済部長時代のことですが、当時のことを頼まれて電気新聞に連載した「証言第一次石油危機」の中で「石油危機よありがとう」というタイトルの文章の中で書いています(「証言第一次石油危機」として1991年日本電気協会新聞部より刊行)。この本の原稿の中にもチラリと触れましたが、たんまり政治資金を電力業界から集めるのに、僕の書いた原稿をダシに使った形跡があるんです。はっきりと証拠があるわけではないので、電気新聞の連載原稿でも“政治資金”の話はぼやかされてしまいました。

Q.それはまた“物騒な”話ですね(笑)。半世紀近い昔の話ですし、中曽根さんも一昨年(2019年)、101歳で大往生されておられますから、解禁してもいいのではないですか?

 そうね。ただ2年前だったか、関西電力が原子力発電所を立地している福井県高浜町の助役(故人)が、関電のトップ役員らに高額の付け届けをしていたり、助役の在職中に億単位の金額を払っていたのが明らかにされましたよね。あの話を聞いて、電力業界の体質に変化ないなと思うと同時に、中曽根さんの顔を思い出しましたよ。

◇石油ショックで電力会社が窮地に

Q.じらさないで教えてください(笑)。どういう話ですか?

 1973(昭和48)年10月6日、アラブとイスラエルの第4次中東戦争が勃発しました。それで石油価格を戦争前の1バーレル3ドルから、4倍の12ドル近くまでにするという値上げを発表したんですよ。加えて石油輸出量を月ごとに削減して、イスラエル支持国へ石油を輸出しないというのです。11月から25%の削減、イスラエルへの支持をやめなければ、それ以降毎月5%のプラス削減を行う、日本もそれに含まれるというんですから日本中がパニック状態になりました。

 とにかくアラブの立場を理解する日本の立場を説明して、日本への石油禁輸措置だけは解除してもらおうというわけで中曽根さんは中東訪問をするんです。その影響をまともに受けたのが電力会社でした。火力発電が主力で、その頃はCO2問題などありませんでしたから、石油を使い放題で発電していたわけですから、石油輸入価格が上がります。公益事業ですから、価格は政府(通産省)認可で据え置きのまま。「このままでは倒産する」、「電力会社は日銀特融を申請するかもしれない」というような発言が東京電力首脳や、電気事業連合会会長からかポンポン飛び出すほど、経営的にひっ迫するんですね。とにかく一日当たり億単位の赤字経営となると主張していました。

 確か関西電力と四国電力がその年の石油ショック前の6月に10年ぶりの料金値上げ申請を行って、石油輸入価格の動向がはっきりしない11月に20%強の認可が下りたばかりでした。残りの7電力は石油危機の影響を真正面から受けたわけです。

 そして4月に関電、四国電も含めて9電力平均62%アップという、とてつもない一斉値上げ申請を行います。最終的には5月末に平均56%の値上げで決着するんですが、ホントこの取材は大変でした。ちなみにこの時の値上げ申請・認可を担当したのが、今の岸田文雄首相の父上の岸田文武さん、退官後、衆院議員になられます。当時は電力・ガス事業などを担当するエネ庁の公益事業部長です。毎朝、毎晩、原宿の岸田邸には夜討ち朝駆けしました。でも口は堅かったですね。密かに“ブリキのパンツ”というあだ名をつけたほどです。その頃、息子の文雄さん(現首相)さんは開成高校に通っているという話を聞いたことがあります。

 この時、値上げ認可は、先に料金値上げを認められている関電と四国電を含めて一斉認可するのか、2社は遅らせるのか大問題でした。

◇中曽根通産相からつかんだ特ダネが大きな金を動かした?!

Q.それが中曽根さんとどう関係するのですか?

 確か5月の連休中の休みの日だったと思いますが、当時、目白にあった中曽根邸に夜回りをしたんです。偶然僕1人と中曽根さんのいわゆるサシ(2人だけ)で、応接間で向かい合いました。中曽根さんのソファーの後ろの壁には、有名な版画家・棟方志功の大きな雄渾な字と絵が書かれた掛け軸がかかっていたことを覚えています。

 その時、中曽根さんに「電力料金の値上げは、関電と四国電は遅れて認可、残りの7電力を先行認可する2段階方式で行うか、9電力一斉に行うのか?」聞いたんです。そしたらかなり明確に「それは2段階だよ」といったんです。「これは1面トップ頂き!」とはやる心を押さえて経済部に電話し、会社に上がって原稿を書きました。「通産省首脳によると、電力料金の値上げは2段階で行うことを明らかにした。」見事に翌日の紙面の1面トップになりました。

 ところがその3週間後、発表されたのは9電力一斉認可でした。当方の特ダネは完全な誤報だったわけです。「こん畜生!」と思ったんですけど、途中経過だし、通産大臣の発言なんだからしょうがないかと納得していたんです。ところがその年の暮れの頃か、親しかった関西電力の“政治部長”といわれたある役員と会うことがありました。だいぶ石油ショックの騒ぎも落ち着いたころでした。

 彼が言うには「佐々木さんの二段階認可の原稿、あれは高くついたんですよ」
 「どういうこと?」
 「とにかく一月でも認可が遅れればこちらは数十億円の赤字、必死でしたよ。」
 「中曽根さんにかなりのことをしたわけですか?」
 「うん、まあ、そういうことですかね」
 「やられた!」という感じでしたね。僕が書いた記事をめぐって巨額な政治資金のやり取りがあったことを示唆されたわけですから、ショックでしたね。新聞記者、その書く記事はすごい影響力があるんだ、また、はやる若い記者の特ダネ意識をくすぐって書かせた記事が、政治資金のネタになるんだ。ホント目からウロコでしたね。新聞記者って本当に怖い仕事だって思いましたね。政治家が大臣を目指すはずだと納得しました。

Q.その話は中曽根派担当になって、中曽根さん本人にしたことあるんですか。さきほどトラウマだといわれましたが、担当はイヤではなかったんですか。

 まさか、それほど度胸ありませんよ(笑)。担当した直後の挨拶で「通産省担当の頃、石油ショックの際、一緒に中東に同行させてもらいました。」くらいの話はしました。中曽根さんもさるもので「そうだったかなあ」ととぼけていましたけどね。

 でも担当中、中曽根さん本人とはよく遊説に同行したり、その際の演説を聞いたりしました。二人きりでよく話もしましたよ。FEN(駐留軍放送)の外国語放送を一生懸命聞いたりしてましたし、勉強家で世論の動向、人の意見をよく聞くなど政治家として優れた人物と思いました。あの当時、中選挙区で選挙は派閥応援の選挙でしたから、金はかかるわけで、その中である意味で役職を利用したぶきっちょな金の集め方をしていたんではないですかね。中曽根さんというと、若い時の“政界の青年将校”、“政界の風見鶏”などといわれ、金銭面での話は、土地ころがしで巨額な政治資金をひねり出す田中角栄さんの陰で聞こえませんしたけど、数十人の代議士を抱えての政治資金を書き集めるには、それなりの苦労があったと思います。その一面をぼくが垣間見たという事かもしれませんね。

 でもちょうど、次男が生まれた時で新宿・落合の聖母病院に入院中の女房に大きく名前を書いた胡蝶蘭が届けられたのは、ここまで気を使うのかと、ビックリしたなー。看護婦さんも驚いていたようです(笑)。

◇グスタフレーションとは? 中曾根派担当の奇人

Q.中曽根担当はほかにもいっしょに担当されていた人がいたのですか?

 1970年代の終わり頃のことですが、中田章さんと言って、大阪の社会部出身だった人です。僕より2年先輩かな。後で地方部長、編集局次長などを歴任します。彼が中曽根派のキャップで、僕と三年後輩の中曽根さんと同郷で、群馬県高崎市出身の、後に特別編集委員になる松田喬和君と3人で持ってました。

 あと鈴木棟一(とういち)さんという僕より2年先輩の、早稲田出の体の大きな人も遊軍で担当していました。鈴木さんは退職後、政治評論家として活躍、サンデー毎日、週刊ダイヤモンドなどに政局の連載を持って「永田町の暗闘」というシリーズ本を確か8冊も書かれています。(中略)

 中田さんと、僕は政治部のいわば外様で、ほかの福田派とか大平派、田中派なんてのは5人くらいで持っていて、他の福田派、田中派、大平派は支局から直接政治部にきた生きのいい記者がほとんど。キャップもそれぞれ政治部のエース、政治部長候補という感じでしたね。 こういう人事配置を見ても、当時の自民党内での中曽根派のポジションが想像できると思います。当時サラリーマン社会では、55才定年間際のおっさん社員を“窓際族”と呼ぶことが流行っていました。密かに僕は、中曽根派なんてのは“窓際派閥”だなんて言ってました。田中派の重鎮の金丸信さんなんて「オレの目の黒いうちは、あんなキザナ奴は総理として官邸入りさせない」と公言していたほどですからね。だから、喜んで担当する記者はいなかったんじゃないかなあ。若い頃の中曽根さんに深く食い込んでいたのは、読売のナベツネさん(渡辺恒雄氏)と一緒に担当していた、後に毎日の政治部長、社長になる小池唯夫さん位しかいなかったかもしれません。朝日新聞ではテレビ朝日の専務になる三浦甲子二さんでしたかね。小池さんが中曽根派の毎日新聞での窓口だったように思います。

◇新聞社の社長になるのは政治部出身者向き?

Q.その政治部と経済部の違いについて、もう少し説明していただけませんか?

 とにかく政治部は取材先の政治家との人間関係を重視して、そのフトコロに入って行けばいずれ政局で内閣の替わる時などに役に立つという感じですね。担当の政治家が偉くなればなるほど、それがまた政治部内での自分のポジションをアップするのに役立つという感じかな。政策論の取材もその裏にあるんですけど、それも政治家対政治家の派閥の論理という“色メガネ”を通して見る、むしろそちらの方を中心にしているんで、政策の本当の意義というのはあまり重要視していなかった感じがします。でも官庁、特に外務省担当などは、純粋に日本の安全保障をどう保つか、という真っ当な観点で取材をしていたと思います。

 以前、東京の中央区長を通算8期(1987~2020年)やって引退した共同通信政治部出身で官邸キャップまでやられた矢田美英さん(81)と飲んだ時、「新聞社の社長には政治部出身者が向いている」と言われたことがあります。つまり僕なりに解釈すると、経済部みたいにキチンとした理詰めの原稿を書くより、政治部のように人間関係を重視して付き合いを深めて政策を理解していく方が、経営をやっていく上で社長などには向いていると言いたかったんだと思います。自分の33年間の区長としての区政運営の体験を踏まえて言われたんでしょうね。(下に続く)