元気で〜す

2021年11月10日

「平和のためなら 何でもやる」④ ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」

 皆さん、長崎平和公園に原爆投下時、刑務所があったことをご存知でしょうか。長崎支局勤務(81~84年)時、原爆を担当し、祈念式典や企画記事を山ほど書いたのに、恥ずかしいことに知りませんでした。実は強制連行で中国から連れて来られ、炭鉱で働かされていて投獄された中国人労働者32人が爆死しているのです。

 外務省が発表したデータでは「戦時中、全国35企業135事業所で3万8936人が働かされ6830人が死亡。長崎県では端島(軍艦島)、高島、崎戸、鹿町の4炭鉱で1042人が働かされ115人が死亡。そのうち32人は原爆による爆死」となっています。

 中国から強制連行された挙げ句、治安維持法なる悪法で監獄に入れられ爆死した32人。なんとむごい話でしょう。

 中国人原爆犠牲者追悼碑を建立

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長崎平和公園内の中国人原爆犠牲者追悼碑前で50人が参列して追悼式

 市長時代、「天皇の戦争責任」発言で右翼の銃撃テロに遭い重傷を負った本島等・元長崎市長は、「中国人の原爆犠牲者を追悼しよう」と追悼碑建立運動の先頭に立ちました。08年のことで、本島元市長が街頭に出て募金を呼び掛けているのを毎日新聞の記事で知った私はすぐに事務局に電話し、募金状況を尋ねました。すると「目標にまだ達していない」との返事。

 「じゃあ、とりあえず20万円、振り込みます」

 中国戦線に一兵卒として徴兵され、侵略戦争に加担した父を持つ私は「放っておけない」気持ちが強かったのです。送金すると後日、本島元市長から直接、電話があり「ありがとうね」の言葉をもらいました。

長崎県、長崎市、中国駐長崎総領事、被爆死犠牲者遺族らが参列して開かれた除幕式には私も参加。腰を折り杖をついて参列した当時86歳の本島元市長は、新聞、テレビ記者のインタビューで「日本人は戦争被害のことばかり言うのでなく、加害責任のことをもっと考えなければならない」と訴えていました。 

 追悼碑の除幕式後、本島元市長は中国側遺族代表からお礼に贈呈された掛け軸を「大賀さんこれ、持って帰りやい」と言って差し出されました。びっくりして「そんな大切なものを受け取れませんよ」と断ると、「なんも遠慮せんでよか。おいが死んだら値打ちもんになるとぞ」と、本島元市長のいつものジョークが飛び出し、「わかりました。ありがたくお受けします。大切にします」と受け取りました。

 縦1.8メートル、横75センチの掛け軸には「和」という1文字が大書され、右側に「本島等先生へ贈る」とあります。今、我が家の玄関に飾られ、前を通る度に「大賀さん、頼むよ」という本島元市長の声が聞こえてきます。14年、92歳で永眠されましたが、碑の建立後も活動を続けられ何年か後、私のところに「平和を 本島等」と墨書した顔写真付の色紙が送られてきました。強烈なメッセージです。色紙は私の部屋に飾り時折、対話しています。

 「歴史倫理」――心にとめて

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中国人原爆犠牲者32名の名前を書いた紙コップに水を注ぎ、生花とともに追悼碑に供える

 縁とは不思議なもので17年、本島元市長が初代代表を務めた「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」と「中国人原爆犠牲者追悼碑維持管理委員会」の代表(3代目)に私が就くことになりました。(19年3月末で退任)

 最大の任務は翌18年7月に迎える「追悼碑建立10周年記念行事」でした。遺族2人を中国から招いて記念シンポジウムを開催。7月8日、中国駐長崎領事館と長崎市の来賓を迎え約50人が参列して碑の前で追悼式を行いました。

 それにしても……。毎年、8月9日、長崎市主催で催される「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に私は憤りを抑えきれないでいます。中国人原爆犠牲者追悼碑は平和公園の東側の一角に、朝鮮人犠牲者追悼は爆心地公園のすぐ南側にありますが、市主催の祈念式典に参加する数千人の参列者は、中国・朝鮮の犠牲者には目もくれず、「悲惨な原爆」「長崎を最後の被爆地に」などと訴えるのみです。マスメディアも同じです。日本人の「貧困なる精神」の極みと言えましょう。 

           

 今年はコロナ感染拡大で控えましたが、祈念式典への抗議の意も込めて毎年、マイカーに供花と掃除道具を積み込み妻と2人、福岡を早朝に出発。式典が始まる前に碑の周囲を除草、碑を清拭し、32人の犠牲者の名前を書いた紙コップに水を注いで花と一緒に碑の前に供え、午前11時02分の投下時刻に黙とうしています。その後、朝鮮人犠牲者追悼碑にも足を運び、黙とうしています。

 元長崎大学名誉教授で長崎の中国人強制連行裁判を支援する会、中国人原爆犠牲者追悼碑維持管理委員会の2代目代表、岡まさはる記念長崎平和資料館理事長などを歴任し、日本の『戦争加害』を追及し続けた髙實康稔氏(17年、77歳で永眠)は生前、講演会などで『歴史倫理』という言葉を使い「我々日本人は中国、アジア諸国への侵略戦争、朝鮮への植民地政策など加害の歴史に人間的倫理感でもって真摯に向き合っていくことが求められている」と訴えました。

 私はこの『歴史倫理』という言葉を大事にしています。

マスコミの戦争責任を考える

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1937年12月12日付け東京日日新聞

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日比谷公会堂で開かれた東京日日新聞主催の南京陥落祝賀集会の社告

 私は88年8月に福岡県教職員有志の『中国平和の旅』に同行し南京大虐殺記念館を訪問した時、初めて戦時下の報道記事を目にしました。一方的で手前勝手な内容を恥ずかしく思い、また、そのような戦時報道について何の知識も持たなかったことを恥じました。

 これをきっかけに帰国後、西部本社の調査室を訪ね、中国侵略のスタートとなった31年9月18日の柳条湖事件(満州事変)や中国全土への侵略戦争へのきっかけとなった37年7月7日の盧溝橋事件(日華事変)、同年12月の南京占領と翌年にかけて行われた大虐殺事件などを東京日日新聞(毎日新聞)がどう報道したのか調べました。また、朝日、読売の記事については東京の国会図書館に足を運び調べました。

 3紙とも華々しい戦果、兵士の武勇伝などを大げさに書きたて、部数拡張競争を展開していたのが実情です。戦後マスコミはあたかも軍部の報道統制の犠牲者ヅラをしてきましたが、実際は率先して政府や軍部発表のネタを脚色しながら垂れ流ししていたのです。毎日新聞もそうですが、戦時中の記事がいかなるものであったか、各社とも若手記者に教えてきませんでした。先の戦争を「被害の視点」でしかとらえることが出来ず、「加害の視点」での報道はほとんど見られません。教育現場でも「戦争加害」を教えません。その結果として被害国、中国と韓国の間で国民感情のずれが生じ、悲しいことに隣国でありながら友好関係を築けないでいます。不幸の原因をつくっているのはまぎれもなく「歴史を正視しない」日本側にある──というのが私の見解です。こういう発言をすると『反日』として批判される時代になりました。これまた悲しいことです。

 当時の新聞記事に、じっくりと目を通していただきたいと切に願います。新聞報道がどのように国民を「戦争へ戦争へ」と煽っていったか理解出来るかと思います。

 貪欲で愚かな人間は何千年もの間、今日まで戦争を続けてきました。そんな中で私たちは「戦争したがり屋の側」で生きるのか、「戦争をやめさせる側」で生きるのかが問われていると考えています。2歳、6歳、8歳の3男児を家に残し中国への侵略戦争に徴兵された亡父は戦後、日本軍の残虐行為がトラウマになりアルコール依存症で精神病院に何度か入院しました。両親は敗戦翌年に生まれた私に平和を願い「和男」と名付けました。名に恥じないよう「平和のためなら何でもやる」覚悟でいます。

(了)