2021年6月1日
フクロウの森から <前略。このほど、毎日新聞社を退社しました>と 萩尾信也さんの挨拶状

<最後まで記者を続けることが出来たのは、おおらかな社風と個性豊かな先輩と、多彩な同僚諸氏、取材を通して知己を得た方々のおかげです。この場を借りて、御礼申し上げます。
思い起こせば、入社試験の面接で「取り組みたいテーマはありますか?」と問われ、臆面もなく「人という存在と、心という迷宮を探検したい」と答えました。
42年間の記者生活を経て、いまだ迷路にはまり込んだままです。探求の旅は、いのちの際まで続けたいと思います。
やりたい事、行きたい所、会いたい人は、数え切れません。身の丈に合わせて、ぼちぼち歩いて行くつもりです。どこかで姿を見かけたら、声を掛けてください>
退職の挨拶状を方々にお送りしたら、社会部の先輩から「毎友会のホームページに載せてもいいかな。加筆してくれる?」と電話がありました。
この期に及んで、私事をさらすことに躊躇しましたが、お世話になった方々の顔を浮かべながら、パソコンに向かいました。御笑読いただければ、幸いです。
* * *
入社したのは、高度経済成長とバブル期の谷間にある1980年の春でした。同期は40人ほどいたでしょうか。
経済白書が「戦後の終焉」を告げた時代に生まれ、空き地でチャンバラや三角ベースボールに興じ、テレビが我が家に来た日のことを、子ども心に記憶する「三丁目の夕日」の世代です。
記者になった年の夏には、ソ連のアフガン侵攻に抗議して日米を含む67カ国がモスクワ五輪をボイコットし、年の瀬にはジョン・レノンが凶弾に倒れました。
その3年前には、経営が破綻した毎日新聞は、「新旧分離」で存続を図っています。記者の募集要項から「大卒以上」の条件を外し、「学歴不問」としたのも、再建への様々な試みのひとつでした。
結果、同期には高卒や大学中退者が並び、「学力不問の80組」と呼ばれました。大学在籍中に計2年に渡って南米やアフリカを放浪していた私も、紛れ込むことが出来ました。
当時の早稲田は、代返やレポートで単位をもらえる寛容な空気に満ちていました。その恩恵で、私は世界に飛び出し、多様な文化や価値観に接することが出来ました。
履歴書の書き方も知らず、特技には「逃げ足が速い」、得意語学は「言葉の通じない民族との会話の仕方」と記入しました。役員面接では、ライオンやクマに遭遇した時の処し方、砂漠で暮らす裸族の娘に求愛したい一心で未知の言語に挑んだ体験を話しました。
アポなしで早稲田の総長室を訪ねたのは、一次試験(学科と作文)パスの連絡があった翌日です。当時の新聞社の入社試験は、11月でした。
「せっかくのチャンスを、ものにしたい」。思案の末に、「総長の推薦状をもらおう」と思い立ち、ダメ元でドアをノックしました。
「推薦状を書いていただけないでしょうか」「‥‥‥」「室長、前例はありますか?」「聞いたこともありません」「前例を作っていただけないでしょうか」
清水司総長や総長室長とこんなやり取りがあり、1時間後に総長直筆の推薦状を手に、竹橋の本社の人事部を訪ねました。
そして、さらに1時間後。私は、推薦状を持ったまま、総長室で頭を下げていました。「申し訳ありません。社長の名前を間違えてしまいました」
毎日は、平岡敏男社長でした。「としおのとしは、どっちかな」「俊敏の俊です」。総長の質問に、答えたのは私です。
「君、記者に向いていませんね。でも、このままにしておくのは、平岡さんに失礼だしな‥‥」。総長は頭を振って、もう一度筆を手にし、私は書き直して頂いた推薦状を持って、いま一度、人事部を訪ねました。
余談ですが、社会部の先輩の佐藤健さんの「生きる者の記録」が、2003年の早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した際に、私は故人の名代で授賞式に臨みました。
授賞式の後に、肩をたたかれて振り向くと総長室長の顔があり、こんな言葉が続きました。「字は間違えたけど、毎日が採用したのは間違ってなかったようだね」
初任地は、群馬県の前橋支局でした。大学の後輩が調達してきた軽トラの荷台に布団袋と着替えや洗面道具を詰め込んだリュックを積み、支局の3階にある支局長宅の空き部屋に荷を解きました。
「親と上司は選べない」。支局の先輩に教わった教訓です。当時の湯沢支局長と寺田デスクは、今でも同人に語り継がれる名コンビで、支局は活気に満ちていました。
支局長の手料理に、バス・トイレ付。快適さにそのまま居ついてしまい、先輩たちに「アパートを探せ」とせかされるまで、2カ月近くお世話になりました。
支局には、通信部やパンチャーさんや運転手さんを加えて、20人近くが在籍していました。新旧分離に伴う人事の滞留で7年生もおり、地元紙とも渡りあえる顔ぶれでした。
通信部は、土地に根付いたベテラン揃いで、事あるたびに通信部に泊まり込んで、取材のいろはを教わりました。奥さんの手料理は、遠慮なくおかわりしました。
沼田通信部の佐藤和昭さんは顔が広く、尾瀬や谷川岳の連載記事では、山の人脈をつないで頂きました。山岳遭難が発生すると、東京本社の屋上にあった鳩小屋から、「鳩係」が伝書鳩を運んできた時代の証人でもありました。
捜索隊に同行して現場に向かい、小さな字で原稿をつづった紙片を鳩の脚管に入れて、放ったそうです。「東京の本社の屋上に鳩小屋があってね。うちの鳩は、他社の鳩を引き連れて帰ってくるのさ。だから、一報は毎日の圧勝だ。降版した後に、『おたくの鳩が来ていますよ』って電話したよ」
佐藤さんは2年前に亡くなり、沼田の家に焼香にうかがいました。
5年間の支局暮らしを経て、東京社会部に異動になりました。サツ回りで下町を担当し、月に3度は泊まりで社に上がりました。
最終版が降版すると、テーブルを囲んで深夜の酒盛の開宴です。そのうち、政治部や外信部や運動部の猛者が顔を出し、口角泡を飛ばして論争が始まりました。
記事の扱いから世界情勢や社会風俗に至るまで話題は尽きず、明け方まで続くこともありました。個性的なメンツがそろい、風通しのよい社風を肌で感じました。
日航ジャンボ機墜落事故が起きたのは、その夏です。リュックに登山道具を入れて社に上がり、遊軍長に「上野村は、私のショバです」と現場取材を志願しました。ホバリングするヘリから現場の尾根に飛び降り、野宿をしながら取材を続けました。
乗客のご家族たちとは、今でもお付き合いを頂いており、多くの学びや気づきを得ました。日航機事故に限らず、取材先で出会った方々に結んでいただいた縁は、記者人生の最大の財産となりました。
バンコク支局で過ごした3年と、甲府のデスクを務めた1年半、サンデー毎日で副編集長を務めた1年半を除き、東京本社の社会部で記者を続けました。「本籍は」と問われれば、迷うことなく「東京社会部」と答えます。
先輩諸氏から授かった「記者の流儀」も数え切れません。
「群れるな。君は、かもめのジョナサンになれ」。入社に際して、社会部OBの山崎宗次さんから頂いた言葉です。
群れを離れて、飛ぶことを探求した孤高のカモメの寓話でした。山崎さんには、入社試験の前に2カ月ほど作文の指導を受けました。
「警視庁をやってみるかい」。サツ回りの終盤に、山本祐司部長から打診を受けました。
「クエスチョンマーク付きですか」「そうだね」「ノーで、お願いできますか」。この顛末が部内に伝わり、顰蹙を買いましたが、部長は遊軍の一員に加えてくれました。
「まずは1年、やってみることだ。チャンスを生かすも殺すも、自分次第だよ。自由にさせてもらうというのは、そういう事だよ」。牛のようなその風貌とともに、忘れがたい言葉です。
「記者の醍醐味は、異なる文化や物差しに遭遇することかな。自分の価値観が崩れるのはショックだけど、新しい風景が見えてくるこがある。その感受性を失ったら、脳みそが固くなった時だよ。潔く一線から退いて、後進を育てた方がいい」
バンコク支局とプノンペン支局でお世話になった草野靖夫支局長からは、こんな薫陶を受けました。インドシナ紛争の残り火がくすぶる時代に、御一緒した3年間は、熱く、刺激的な毎日でした。
「クサノさ~ん」。蒸したての中華饅頭のような顔を見つけると、屋台のおばさんやゴーゴーバーのお姉さんから、政財界の顔役や東南アジア各国のジャーナリストに至るまで、親しげに声を掛けてきました。退社後、インドネシアで邦字紙の編集長を務められ、その門下生が毎日を含む多くの新聞社で活躍しています。
「一緒に三途の川を渡ろう」「いいえ、途中までは同行しますが、僕は途中で帰ります」。遊軍記者の大先輩である佐藤健さんとは、「生きる者の記録」の連載を始める前に、こんな会話がありました。
「人間ってやつは実におもしろい。人の数だけ生老病死の物語がある」。自らの死出の軌跡もルポする「生涯一記者」の先達でした。
「最期まで、目をそらすなよ」「望むところです」。意識を失われた後、聴診器で心音を聞き、瞳孔を見続けました。気が付けば、とうに健さんの享年を超えてしまいました。
「お前は、会社に足を向けて寝られないな」。同期入社の仲間に繰り返し言われた言葉です。自由に飛び回ることが出来たのは、社の経営や後進の育成に携わって頂いた先輩や同僚諸氏のおかげです。
最後の取材現場は、東日本大震災から10年を迎えた東北の沿岸部となりました。
震災の年に、1年間に渡って被災地から記事を送り続けた私は、再訪の地で、地元の方々に固有名詞で記憶されている毎日の記者がたくさんいることを知り、誇らしく思いました。
記者と取材対象という関係を超えて、家に泊まり込み、胸襟を開いて、絆を育み続ける後輩たちです。その数は、朝日やNHKや共同を凌駕していました。
そんな現役諸氏のさらなる健闘を祈念しつつ、老兵は去り時を自覚しました。
寂しさとは無縁の、清々しい思いです。社を去っても、「記者」という生き方は骨の髄まで染みついています。
お世話になりました。今後も、末永いお付き合いを頂ければ、幸いです。
<略歴>1980年春、毎日新聞入社。前橋支局、東京社会部、バンコク支局兼プノンペン支局。外信部副部長、サンデー毎日副編集長、東京社会部編集委員などを経て、2015年6月~21年3月末まで東京社会部専門編集委員。現・毎日新聞客員編集委員。
【退任挨拶状には、次のくだりも】これから夏場は、少年時代を過ごした岩手県釜石市で、友人が経営するシーカヤックの店「MESA」のツアーを手伝いながら、イワナ釣りや山登りを満喫するつもりです。地元の仲間たちと、忘れ去られつつある三陸の人々の営みや文化風俗の掘り起こしもしたいと思います。MESAは、海辺にあるこじゃれた店です。震災で流され、昨春、再建されました。2段ベッドに宿泊も出来ます。遊びに来てください。