元気で〜す

2020年12月17日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑦ ある新聞記者の歩み 6

 元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」6回目です。

(インタビューは校條 諭さん)

 長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記をクリックしてお読みください

ある新聞記者の歩み6 降ってきた石油危機 しんどいながら記者として得た幸運

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 「新聞記者にとって事件に恵まれるほど幸運なことはない」と毎日新聞の元記者佐々木宏人さんは『証言・第一次石油危機』(1991年、電気新聞刊)に寄せた一文の冒頭に書いています。

 佐々木さんにとって石油危機に出会うのは、入社して8年、32歳という油に乗った時期のことです。佐々木さんは経済部で仕事をするようになって3年経っていました。そこで出会った大きなできごとは石油危機(オイルショック)でした。昭和48年(1973年)の10月に第4次中東戦争が起き、それがもとで原油の価格が4倍にはねあがりました。それに伴い日本国内の石油価格が暴騰し、物価が急上昇して狂乱物価と言われるようになりました。物資不足への不安から消費者は買いだめに走り、トイレットペーパーや洗剤、砂糖などがたちまち店頭から消えました。

目次
◆寝耳に水の石油危機
◆通産省を震撼 石油危機直前の汚職事件
◆書くか、書くまいか 通産次官の爆弾発言
◆押し入れいっぱいのトイレットペーパー
◆書けば何でも1面トップ 寝過ごして特落ちも
◆朝日の原稿が毎日に!?
◆初の海外同行取材でフセインに会う
◆法案を“創作”

◆寝耳に水の石油危機

 「昭和48年(1973年)10月6日第四次中東戦争が起き、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が、米国を筆頭とするイスラエルを支持する西側諸国への米国を筆頭とする西側諸国への原油供給禁止措置を発表、第1次石油危機が勃発しました。電力からトイレットペーパーの生産まで“油漬け”の日本経済でしたから、日本はパニック状態になりました。

 そのわずか2ヶ月前に、僕は通産省(現経済産業省)記者クラブに配属になりました。通称「虎クラ」、虎ノ門クラブといいました。家電業界担当、電力記者会(現エネルギー記者クラブ)担当を経て、はじめての官庁詰めでした。毎日は各社とほぼ同じ3人体制でした。」

 「このとき、経済記者としてのキャリアを積むには欠かせない官庁取材の試金石ともなる経済官庁へ移ったわけです。経済記者のキャリアパスには、大蔵省(現財務省)、通産省担当は経験しなくてはいけないポストだったように思います。その内の一つである通産省配属になったのですから、今にして思えば意気揚々と乗り込んでいきました。というのも、水戸支局から経済部に移って約3年、東京での取材にも慣れて、特に電力記者会当時は、エネルギー問題に興味を持って、シベリア、インドネシア、アブダビなどの石油資源開発問題取材に首をつっこんでいました。前回お話したように、資源派財界人の安西浩、今里広記、中山素平、右翼の巨頭・田中清玄といった方々のところに通っては、1面トップを飾るような特ダネを幾つかものにもしていました。その年の7月に通産省に資源エネルギー庁も発足したばかり、記者としての実力を買われたような気分でしたネ。」

 「ところが、石油危機という“事件”に出会ったこの時期は、長い記者生活のなかでも、最大級にしんどい経験となりました。しかし、その後なんとか新聞記者として勤め上げることができたのも、「あの時の取材に比べれば」という、この経験があったからだという気がします。今では、この“事件”に出会ったことは幸運だったと感謝しています。」

 「とにかく、石油危機などという事態と、それが戦後経済史の中で最大の影響を生み出すきっかけになると予想した人は、通産省に詰めていた記者の中にひとりとしていなかったと思いますし、通産省の幹部にもいなかったと思います。いわゆる中東問題というのは政治、外交のテーマとしては意識されていたけど、経済問題、特に石油との関連でこれを考えることはまったくといってありませんでした。経済界全体が「水と油は蛇口をひねれば出てくる」という意識ではなかったでしょうか。時あたかも田中角栄首相の「日本列島改造論」で土地高騰が起きる高度成長の時代、エクソン、モービル、シェルなどのアラブの石油を押さえている国際石油資本(メジャー)に頼めばなんとかなる、日本にとっては金さえ払えば石油はどうにでもなるという感じではなかったでしょうか。私もその一人ですが、経済問題、特に石油との関連でこれを考える思考はまったく定着してなかったといっても過言ではありません。」

 「今でも覚えていますが、電力記者会当時の話です。経済部では毎週月曜日朝10時から、民間経済担当記者がその週の取材予定、記事出稿予定、情報交換を行う民間部会をやっていました。その時、私から国際石油資本と関係の深い東亜燃料㈱の、高校の先輩でもある中原伸之社長から「佐々木君、英国のアラブ情報誌に『金本位制、ドル本位制を揺さぶる“石油本位制”の時代が来る』という記事が掲載されている。読んでみろよ」といわれ記事を渡されました。その話を民間部会で披露すると司会役の一橋大出身で後に大学教授に転身する民間担当デスクに「そんなバカなことあるわけないだろう」と一笑に付されたことを良く覚えています。石油ショック到来の半年間位前の時だったと思います。僕も「そうだよな―」と引き下がりましたけど、そんな時代でした。」

 「山形(栄治・初代資源エネルギー庁長官)さんが、大分たってから当時を回顧してこう言っていたことを記憶しています。「(石油ショックには)ぼう然自失だった。予測もしなかった」と。「メジャーにさえ頼んでおけば、石油なんてジャブジャブ入ってくるんだと、こう思っていた」と。」

 「エネルギー獲得のためには、メジャーの他にやはり自主開発原油も必要ということで、資源エネルギー庁ができたと思います。当時「和製メジャー」なんて言葉がエネルギー業界に飛び交っていました。」

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