2020年11月27日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑥ ある新聞記者の歩み 5
元経済部長、佐々木宏人さんのインタビュー「新聞記者の歩み」5回目です。
経済部時代(3) エネルギー問題が大きな柱に
長文なので、冒頭のみ掲載します。全文は下記URをクリックしてお読みください。
https://note.com/smenjo/n/n29ad13427a32
(インタビューは校條 諭さん)
目次
◆三島事件の現場の近くにいながら 松下二重価格問題余話
◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!
◆エネルギー問題にどっぷりの始まり
◆電力会社などの広報担当と銀座を飲み歩く
◆ガレージの門に松葉をはさんでおくと
◆右翼の巨頭・田中清玄にかわいがられる
◆フィクサー児玉誉士夫の影
◆ブルネイへの視察旅行-初のLNG輸入
◆シンガポールで石油公団総裁から特ダネ
◆三島事件の現場の近くにいながら 松下二重価格問題余話
Q.前回、松下電器の二重価格問題で大スクープを放ったというお話をお聞きしたのですが、そのテーマの取材が続く中で、印象深く残っているできごとがあるそうですね。
「松下と地婦連の対決が続いている時期、確か当時の家電商品安売りで名をはせていた城南電気に取材に行って、その帰りに取材用のハイヤーの中で、カーラジオで三島由紀夫の自決事件が起きたことを聞いたんです。昭和45(1975)年の11月25日ですね。あれから50年たつんですね。ビックリです。三島は昭和元年生まれですから当時45才。」
「ぼくは高校生、大学生の頃、三島はかなりたくさん読んでいてわりと好きでした。初版本も結構集めていました。10年位前かな、阿佐ヶ谷の自宅を整理した時、段ボールに入った当時の本が出てきて、文学書の初版本などを扱っている荻窪の古本屋に持ってい行ったら、5万円くらいで売れて驚きました。
高校時代から三島の作品を読んでいました。麻布高校時代、数人しかいない「文芸部」に所属していた“文弱の徒”でしたから。三島の作品では『鏡子の家』(昭和34年刊)という、評論家からは失敗作というのが定評の長編作品が好きでした。その都会的ロマンチシズムにあこがれていました。
ただ終戦時の天皇の人間宣言を呪詛する『英霊の聲』(昭和41年刊)くらいからは熱心に読まなくなっていましたけどね。とてもその天皇への憧憬にはついていけなくなりました。でも新刊が出れば大体目を通していましたよ。最後の事件直前に完結した『豊穣の海』四部作は現実感が乏しくついていけなかったなー。その最終巻発刊直後の事件だっただけに驚きました。」
「いまだに後悔しているんですが、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の現場に寄ればよかったなと。野次馬だけど、現代史の現場ですし、社旗を立てたハイヤーで回っているわけだから、ある程度近くまで行けたと思うんですよ。 もちろん社会部とか学芸部の記者が行っているはずだし、記事も彼らが書くわけで、経済部のぼくが行ったからといって記事を書くわけではありません。今でもそうだけど、とにかく現場に行きたかったということでしょう。そういう意味では社会部の方が向いていたかも(笑)・・・。でも下手に現場に行って「経済部が何しに来た!」と言われて編集局で問題になったかもしれないですね(笑い)。」
「考えてみると水戸支局を経て新聞記者になって5年目、三島のロマンチシズムとは距離感が出てきたんでしょうね。物見遊山で現場に行くものではないという、職業意識が確立してきていたのかもしれませんね。そういうわけで、自分の中ではカラーテレビの二重価格問題と三島事件とはオーバーラップしていますね。両者は直接関係ないんですが、カラーテレビの普及というのは、三島が危惧していた「空虚で空っぽな」大衆消費社会への入口でもあって、つながっている面もあったかなという気がしています。」
◆「ソニー」と「リコー」 大?誤報事件!
Q.経済部の方から聞いたのですが「佐々木さんといえば“ソニー”と、“リコー”問題だよ」と聞いたんですが、どういう事ですが?家電担当の頃のことでしょう?
「まいったな。そんなことまで知っているの?今だに当時の仲間と飲んだりすると冷やかされる“わが記者人生最大?の失敗”です。
当時、各企業が出す新製品のプリント二、三枚、写真付きのニュースリリースが経団連記者クラブの各社ボックスに投げ込まれていました。その中で面白そうな新商品をピックアップして、活字も小ぶりで10行位の原稿にする「ビジネス情報」というコーナーがありました。一日10本程度は載せていたでしょうか。各社の広報にしてみれば、正式な記事として経済面に無料で掲載されるんですから「『ビジ情』でいいから載せてください」と頼まれたもんです。」
「ある時、ソニーが確かトリニトロンテレビの16インチテレビの新製品のニュースリーリスを持て来たんです。それまでにも何回か型の違う製品の発表があったので、「これはビジネス情報でいいですね」とキャップの図師さんに伝えて10行位のビジ情にまとめました。「ソニーは新しい高精細のトリニトロンテレビの16インチの新製品を出した」という感じですね。
ところが降版が過ぎて、もう訂正の効かない夜中の12時過ぎに赤い顔をして編集局に上がって紙面を見るとなんと!「ソニー」が事務機メーカーの「リコー」になっているではありませんか。ビックリ仰天!担当の当番デスクのYさんに「これ違いますよ!ソニーですよ!」。「もう輪転機回っているよ」
デスクの手元に残された原稿を見ると「ソニー」と書いたところが、「リコー」と赤ペンで補正されているではありませんか。デスク「君がそう書いたんだよ」。下手な字で書きなぐった当方の原稿は、確かに見方によっては「リコー」と読めないことはない。当時から「経済部三悪筆?」と言われ、原稿を読んで写植する活版部には「佐々木の原稿が来ると、原稿が読める担当者が打つことになっている」というウワサが出るほどでした。」
「当時、三島と並ぶ花形作家の石原慎太郎も悪筆で有名で、その原稿を読める専門家が新潮社や文藝春秋社などにはいるという話を聞いて、「おれも慎太郎並なみだ!」とえばっていたんですからどうしようもないですね(笑)」
「でもおかしいのは翌日、紙面化された記事を見て「ソニー」、からも「リコー」からもクレームはなし。そのためか訂正記事もなし。今から考えれば信じられませんね。今だったら炎上騒ぎでしょうね。残ったのは「リコーにテレビを出させたササキ」という伝説、いや実話。」
「「リコーがテレビなんて出すはずないじゃないの」という批判があるかと思います。担当デスクだったYさんのために弁明しておくと、Yさんは当時、経済企画庁担当の長老記者だったと思います。正式な役職上のデスク(副部長職)ではなく、キャリアの長い記者が経験を買われて臨時に民間経済面のデスクに入っていました。アップツーデートな民間経済情報には疎かったと思います。
Yさんは某製紙会社の社長の御曹司で慶大卒。戦時中、海軍の短現(短期現役主計士官)に行かれてすぐ終戦になり、実戦経験はゼロ。それだけに海軍への思い入れは強く、酔うと必ず〽さらばラバウル、また来る日まで―という「ラバウル小唄」を腕を振りまして、歌われました。我々もそれに合わせて大声で歌ったものです。本当に憎めない面白い人でした。
でも同じ職場の身近に戦争帰りの人がいたんです。そういう時代だったんです。」
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