2020年10月1日
新婚旅行の写真もアップしています — クラさんのFaceBook
社会部旧友倉嶋康さん(87歳)、クラさんが元気だ。FaceBookに連日記事を書き続けている。「飛天隊」という凧揚げグループの隊長としてゴビ砂漠や標高5千メートルを超すチベット、さらには北朝鮮にまで行って、空中高く凧を揚げ、国際親善に励んでいる。これまでに30回、25ヵ国へ遠征した。
同時に1955(昭和30)年12月に福島支局で新聞記者生活をスタートさせたときの話を連載している。
クラさんといえば松川事件「諏訪メモ」のスクープで知られる。死刑4人を含む17人全員が無罪となったのである。死刑判決を受けていた佐藤一さん(2009年没、87歳)は、元社会部長山本祐司さんの出版記念パーティーに出席して、「命の恩人」倉嶋さんと固い握手を交わした。
さて、駆け出し時代のクラさんの写真に、社会部旧友堀井淳夫さん(2017年没、90歳)が写っている。

前列右端。左に茂泉繁、倉嶋康、朝井貞一郎。昭和30年代初めの福島支局メンバーだ。
《FBの連日連載はボケ防止のため昨年始めました。…堀井さんとは福島時代からの仲良しで、相手を「貴殿」と呼んで印象付ける努力をしていたのでクラブでは「キデン」があだ名でした。体格に似合わず気の弱い優しい性格でした。福島のあと地方部取材課や内信部、社会部でも一緒になり、縁の深い方でした》
キデン堀井さんは、慶應義塾陸上競技部でハイジャンプの選手だった。いい体格をしている。
クラさんは鳥打帽とシャレているが、FBにはこんな写真も載っていた。
当時流行のミルキーハットをかぶっている。

《福島に来た時に支局次長から「とにかくなんでもいいから取材先に社名と自分の名前を憶えてもらえ」と厳命されました。初対面の警察官や検事に名刺を渡しただけではなかなか憶えてくれません。意地の悪い捜査課長などは10回近くも会っているのに「わが(お前は)スンブンキジャ(新聞記者)か」と福島弁で素っとぼけます。
一計を案じて当時はやっていたミルキーハットと呼ばれた帽子を常にかぶりました。先輩記者は「チンピラみたいだ」と言いましたが、取材先を訪れる時はもちろん脱いで近くのイスに置きます。「なんがあったっだがい(なにか事件か事故がありましたか)」と福島弁も慣れてきて、何も無いと言われて部屋を出る時にわざと帽子を忘れるのです。しばらくしてとりに戻って、皆に笑われながらかぶって出ます。これを2、3回繰り返して印象を深めました》
サツ回りで最初に本紙へ特ダネを送ったときのことを詳報している。その間の事情はFBを読んでもらうことにして、《特ダネを書いた翌朝の社会部記者クラブは居心地の悪いものでした。入ると共用のテーブルに毎日新聞の私が書いた記事が拡げられている。「深夜の血清輸送 官民協力が命を救う」の見出しが目立ちます。あちこちで自社の支局からの電話に受け答えする記者、キャップに怒鳴られているサツ回り。私を見ても見ぬふりです。中には当時のラジオドラマで子供たちの人気を集めた「赤胴鈴之助」の主題歌をもじって「ペンを取ったら日本一の、バカどうスズノスケ」とあてこすりを小声で歌っているヤツもいました。
私は《特ダネとは気持ちがいいものだな》と心の底から思い、この時から『マル特病』にかかってしまいました。目立った特ダネを毎月本社で審査した上で、書いた記者に部長賞、局長賞などを金一封とともに授与しています。やはり「他紙には載らなかった」ということは宣伝材料となり発行部数を増やすのに大きく役立ったからでしょう》
「マル特病」が諏訪メモ発見につながるのだが、元朝日新聞記者上原光晴著『現代史の目撃者』(光人社NF文庫)にこう紹介されている。
《福島地検は信夫山のふもと、坂道にあり、県警記者室から3キロほども離れていた。他社の記者が毎日1回ですませるところを、倉嶋は事件の発生を警戒しながら2回、足を運んだ。検事の知的レベルの高いのが気に入り、小ダネもよく書いて、検事や記者仲間から「倉嶋検事」と呼ばれた》

地道な努力が実ったのである。
FBにこんな写真もアップされている。
《【新婚旅行はつましく志賀高原へ】60年前にこんなことがあったなんて、オレにはまったく信じられない。女房はもっとだろう》
(堤 哲)