2020年9月30日
上州暮らし50年 ― 83歳いまも現役

滝野隆浩専門編集委員の「掃苔記」(8月30日付け)に「寺じまい」が報告された元前橋支局長、曽我祥雄さん(83)から近況が寄せられた。「掃苔記」と合わせて、お読みください。
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群馬県に住み始めてから48年、いまやすっかり上州人になった。
生まれ育ちは静岡県で、1972年、30歳過ぎに転勤で初めて名古屋から群馬に来るまでは、それこそ縁もゆかりも無い土地だった。上越線新前橋駅前に下り立った時は「野に新しき停車場は建てられたり/便所の扉風にふかれ/……いづこに氷を喰まむとして賣る店を見ず/ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり」と、まさに私の群馬についての唯一の知識である萩原朔太郎の詩「新前橋驛」を思い起こさせるものだった。ただ、私はもともと田舎町出身、むしろ安どする気持ちがあった。
会社の転勤で来ただけの私が上州に居ついてしまった理由はいくつか挙げられる。カラッとした気候風土や開放的な人柄、東京への手ごろな距離感などは、誰もが指摘するこの地の住み心地の良さだ。こんなにも長くなったのには、もっと身近な生活上の現実的ないくつかの理由があった。一つは家であり、一つは仕事、さらにもう一つは人との出会いである。
家、つまりマイホーム。1973年ごろ、県が高崎市の郊外に大きな住宅団地の建設計画を立てた。列島改造論で東京―新潟間に関越高速道路、上越新幹線の建設が進んでいたころである。県庁の記者クラブで広報を見た先輩から「高崎は便利になるし、応募してみようよ」と誘われた。当然、借家暮らしでマイホームのあてなどない。どうせ当たりはしないと思って、土地付き建売分譲の最もよさそうな区画を選んで応募した。ところがそれが当たったのである。33倍の競争率だったそうだ。
冷やかし半分の応募だったし、購入資金など持ち合わせていない。自宅に帰ってその日の「珍しい出来事」を妻に報告すると、応募したこと自体知らなかった妻は、即座に「絶対、買おう」と真顔になった。それから、四方八方、頭を下げて資金を借り集め、75年、高崎にマイホームを持つことになった。まだ30代の記者がいつまでも同じところに住めるわけでもない。現に、その後、東京、川崎、長野などと転勤を繰り返したが、いつも単身赴任。妻は当然のように高崎の家に残った。妻にも縁のない土地ではあったが、もともと貧乏育ちで思わぬ幸運を一時でも手放したくない様子だった。
単身で前橋を離れた後も、再び転勤時期が来ると私は「できれば群馬」を希望した。そして、その通りに支局次長として戻り、最後は支局長として前橋に赴任することになった。全国紙の記者が郷里でもない同じ地に支局員、次長、支局長と、三度も赴任するような例は稀有ではなかろうか。もちろん、私の個人的事情を察し、わがままを許してくれた毎日新聞ならではの配慮だと思っている。同時に、私自身も学生時代の経験とか自身の能力に対する自覚、人生観みたいなものがあって、東京本社へ「上がりたい」などという希望など全く持っていなかった。大都市より地方の方がいいとずっと思っていた。
上州暮らしを支えたのは、当然のことながら、そこでの働き場が得られたことにもよる。満54歳で選択定年退職すると、一日休んだだけで、翌日から「ぐんま経済新聞」という地元の新聞社で働き始めた。新聞社と言っても、記者は5、6人、週刊の発行部数が数千部というまさにミニコミ紙だ。それでも、何とか生活できる賃金は保証されたし、いつ天井が落ちて来るかもしれない経営不安の小企業で、地元の若い人たちと地域のために働くことにためらいはなかった。
小寺弘之氏という人物との出会いも大きかった。自治省(現総務省)出身の官僚で、私が群馬に来る数年前に、やはり名古屋(愛知県庁)から県医務課長に転任してきた。当時28歳、まさに「天下り」人事だが、群馬が気に入って自ら自治省人事を離れ、県職員として数々の職場を上りつめ1991年に知事の座に就いた。
前橋支局では私は県政を6年間担当、次長、支局長として戻ってきたときも、県庁や県議会には出入りしていた。小寺氏とは年齢も近く、名古屋から来て住みついたという経緯も同じ。親しみやすさと同時に思慮深い人柄に魅かれた。初任地の愛知県庁では武村正義氏(滋賀県知事から国政に進出、新党さきがけ代表や細川内閣の官房長官を務めた)と机を並べ、この先輩を生涯の師としていた。そんな「思想傾向」もあり、4人の総理を生んだ自民党王国の政治風土の重苦しさを語り合うことも多い間柄だった。
知事としての小寺氏は、独自のセンスで特に文化・教育に力を入れ、数々の施策は県内外から注目された。県人口200万記念事業として小栗康平監督の映画「眠る男」を県費で製作したのは代表例だ。「次代を担う子供たちのために」と、県立の昆虫の森や天文台を新設、矢島稔(元多摩動物園長)古在吉秀(元国立天文台初代台長)といった専門家を招いて内容・質の面でも一流を目指した。
私も、再就職した「ぐんま経済新聞」は企業情報専門紙だったのにもかかわらず、知事の言動、県政施策を積極的に紙面に取り上げ応援した。個人的にも地方労働委員会や審議会など、様々な形で県行政に参加する機会を得た。交流は2007年、小寺氏が5期目を目指した知事選で、当時は真っ向から対立していた自民党の公認候補に敗れて落選するまで35年に及んだ。県政トップと1県民という一線は常にあったが、小寺氏との交流は私にとって、上州暮らしを支える大きな柱であった。
残念ながら小寺氏は、再起をかけた参院選に民主党から出馬して落選、2010年、失意のうちに亡くなった。私は小寺氏の知事落選と同時にミニコミ紙を引退した。しかし83歳になった今も、前橋にある地方公務員志望の学生を集めた専門学校の非常勤講師として働き、「時事問題」を解説、上州で生きる若者たちの発奮を促している。
毎日新聞を退職してから28年、すでに在職期間とほぼ同じ年数が過ぎた。この間「元毎日」を自ら名乗ることはほとんどなかったが、その経歴や肩書が背中の方で力になってくれたのは確かだと思っている。
(元前橋支局長、曽我祥雄)
「掃苔記(そうたいき)」8月30日付
「実家の寺を解散しました」。群馬県高崎市に住む曽我祥雄さん(83)から、少々長めの寒中見舞いが届いたのは昨年2月のこと。静岡県掛川市にあった実家の了源寺を2018年12月8日に解散し、最後の法要と「お別れの会」を開いたという。
曽我さんは会社の先輩。後輩記者の気安さから思い立って話を聞いた。「寺じまい」する気持ちを聞ける機会はあまりない。400年という歴史を閉じるとは、いったいどういう心持ちなのか。
解散にあたり、曽我さんは寺の歴史を「想い出の了源寺 掛川」という冊子にまとめた。掛川藩の「掛川誌稿」などの資料を調べ、歴代住職の名前を載せた。教育者であった13代の祐章が曽我さんの実父。1964年の没後、寺は「無住」となり、区画整理に伴う移設もあった。その後は檀家(だんか)の手で維持されてきたが、高齢化で「力尽きる形」になり同じ宗派の寺が吸収合併。127区画の檀家の墓は、移設したまま市営霊園に残ることが決まった。
男ばかり5人兄弟の三男。兄たちに寺を継ぐ意思はなく、曽我さんも高校卒業後、地元に戻らなかった。後輩の気軽さで、聞きにくいことを聞いてしまう。ご自身は継ぐ気持ちはなかったのですか? 「何度も考えました」。先輩は思いを巡らす。高校時代の同級生が妻を亡くしたあと僧籍を取得した話など、ぽつりぽつりと。「妻は『あなたがやればいい』と言ってくれたんだけどね……」
寺の子に生まれた親しい坊さんに聞くと、みんな一度は悩み、でも最後は「運命」を受け入れる。だけどこれからは僧侶という職業に魅力がなければ、後継は途絶え寺は姿を消していく。
一昨年の「お別れの会」のあと、曽我さんは実家の寺のあった場所を久しぶりに訪ねた。きれいな児童公園になっていた。大きなマツの木、墓地や山門の近くで遊びまわった日々を思い出す。朝鮮半島出身の子や障害を持った子もいた。年齢もバラバラで、いまなら言えない差別用語も口にしたけど、翌日はまた、くったくなく笑い合った。寺という空間の持つ、自由で、多様で、濃密な雰囲気が、いとおしい。自分はもう、菩提(ぼだい)寺は持たないという。(専門編集委員)