元気で〜す

2020年4月24日

早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊦

 ≪5章 岩が積み重なる山だった≫

 クレイドル山に戻ろう。

 2月13日朝、ダブ湖駐車場から登山路にかかった。足元は立派な木道になっている。オーストラリアの国立公園は実によく整備されており、ここでもそうだった。

 タスマニア州が国立公園の遊歩道の難易度を5つのレベルに分けている。ウィキペデイア「クレイドル国立公園」によれば、下記のようになっている。

 ①レベル1:ブッシュウォーキング(低木地帯のウォーキング)の経験不要。道は表面が平らで硬い。階段、坂はなく、補助者がいれば車椅子で行ける。
 ②レベル2:レベル1と同様だが、坂や階段はある。
 ③レベル3:ほぼ全年齢の健康者向き。ブッシュウォーキングの経験があればあった方が良い。道の表面がデコボコ。短い急坂、多数の階段のどれかがある。
 ④ブッシュウォーキングの経験は必要。歩行距離は長く、道の表面はデコボコ、傾斜きつい。案内標識は少ししかない。
 ⑤緊急処置や地形読み取りスキルを持つブッシュウォーキング経験者向き。歩行距離は長い。道の表面はデコボコ、傾斜はとてもきつい。

 私たちの登山は③~④程度から始まった。手元の山行記録をもとに再現する。

 8:10 登山開始。霧が濃い。先頭は高橋(同期)、次いで高岡女史。私は3番手。リラ湖を左手に見ながらウォンバットプール登山路を行く。

 8日に全員が合流してから、9日マウントフィールド国立公園ハイキングを3時間、10日タスマン国立公園ホーイ岬往復ハイキングを5時間(私は世界遺産のかつての囚人監獄施設・ポートアーサー見学に回った)、11日フレシネ国立公園・ワイングラスベイ展望台往復ハイキングで1・5時間~と足慣らしをしているので、皆の足取りは軽い。

 8:40 ウォンバットピーク(1105メートル)。霧が少し晴れてくるが、視界は十分とは言えない。

 ヤッケを脱ぐ。

 9:40 マリオンズ展望台。本来ならば、東側下にはダブ湖、これから辿る南側にはクレイドル山の山容が見渡せるのだが、霧のためほとんど見えない。コースタイムより20分早い着。小休止。

 9:50 出発。広々とした高原状の所を歩く。高低差はさほどなく、トレッキングの気分。

 10:20 キッチンハット着。避難小屋である。2人も入れば満杯になる広さで、屋根裏に寝床を設けている。こちらの冬の時期、7~9月には天候が荒れるから、そんな時に使うのだろう。南極から吹き付けるモーレツな大寒波があるのだろう。随分と古びて見えるのは、風の強烈さを表しているのかもしれない。すぐ近くにトイレ小屋がある。外には4,5人で抱えるような大きなタンクが転がっている。排せつ物をためるタンクのようだ。今のトイレの下にも埋設しているだろうから、計2個。満杯になれば、取り換えて設置し、満杯のものはヘリで吊り下げて麓へもっていき、中身を捨てて、また持ってくる、ということのようだ。

 トイレを済ませ、小休止する。予定では昼食時。1時間10分も早い到着で、昼食は頂上で、ということにする。復路で立ち寄って初めてわかったのだが、この地点から屏風を何枚も並べたようなクレイドル山が間近に見える場所だった。生憎というより、折よくというべきだろう。この時は霧で山容は確認できなかった。確認していれば、その、すさまじいまでの岩場の景観に、登る気が萎えていたかもしれない。台湾の玉山で、ベトナムのファンシーパンで、天山山脈で、インド・ヒマラヤで、と何度も経験したことだが、険しい山ほど登るときは霧や雨に閉ざされている方が、登りやすい。

 10:40 キッチンハット出発。

 岩場に出る。日差しが出てきて、ほとんど岩だらけの山道がはっきりと見える。屏風の直下にたどり着き、見上げると岩の積み重なりばかり。手足を総動員して、岩場にとりつく。滑り止めの軍手で岩をつかみ、体をグンと伸ばし、足を次の岩まで押し上げる。北アルプスの槍ヶ岳、頂上への登りが、連続する感じか。前を辿る人の足取りを忠実に追うより、自分で登りやすいところを探す。白のベンチマークや岩の間に突っ立てたポールが標識だが、すべてが正しいとは言えない。それにしても、この岩の重なりが、少しでも崩れると下に連なる人のケガは考えたくもないほど大きいものとなるだろう。数十分登ったところで、下を見下ろすとストーンと落ちている感じ。日差しが強烈だ。上着を腕まくりするが、風もなく暑いばかり。

 腰を下ろせる岩場に我々と同じくらいの高齢の夫婦が座っている。聞けば、尼崎に17年暮らしていた、といい、日本語も達者だった。一行の中の大阪人が、がぜん元気づき、熱心に会話を交わす。メンバーの一人、大阪人女性はこれだけきつい岩場になるとさすが寡黙になるが、普段の山登りでは良く喋る。時にはうるさいと思うこともあるほどだが、山登りの本に「適度の会話は呼吸が自然にできるから、望ましい」と書いてあるのを見つけ、なるほどと思ったものだ。夫婦は「頂上まで行きますか」という我々の問いに「体調次第」と答えていた。岩場の復路で遭遇しなかったところを見ると、山頂を踏むことはあきらめたのかもしれない。

 一つのピーク、稜線に出て、頂上かな、と思ったら、然(さ)に非(あら)ず。屏風の裏側に出ただけで、「ニセ頂上」と有名なところらしい。ここから下りになって、地底まで下りるような感じで下り、そこから、また岩場登りが連続する。手の肘を岩に乗せたり、足の膝を使ったりで「オー、しんど」。やがて隊列が崩れて、トップがいつの間にか、高橋氏に代わって、一期上の矢作、石田氏になっている。この辺がOB会登山の面白いというか、稚気あふれるというか、頂上近くになると決められた順番が崩れて、いつか体力自慢のこの二人がトップをとる。

 12:10 山頂(1545メートル)へ。かなり広い平坦な場所である。天候はすっかり良くなり、360度の展望が利く。岩場の連なりのその先には、クレイドル山を超す山が見え、周囲の湖は遥か下界にかすんで見える。一番心配された最高齢者も無事、登頂を果たし、一行9人が全員、山頂を踏んだ。時計を見れば、キッチンハットからわずか1時間半。このきつい登りでは、気分的には3~4時間は登った感じである。それでも予定タイムより1時間50分も早い到着。オーストラリア人向けのコースガイドよりも早く、一同、大いに満足したものだ。

画像
クレイドル山の頂上で。左端が筆者

 車座になって昼食となる。金沢の名店・田中屋の「きんつばや」甲府の「クルミ餅」など名産を持ってきた人がいて、差し入れを頂く。山では甘いものが美味しい。昼食のバスケットはホテルが作ったサンドウィッチとフルーツでリンゴ2個。水はペットボトルで1リットル分を飲んでしまい、ポリタンク状の水筒の1リットルも、もうさみしくなっていた。両足がちょっと吊り気味。メンバーに気づかれないように、自分で揉んで直す。両手もややしびれ気味だ。

 12:40 下山開始

 岩場の下りは結構、きつい。足場の岩の具合を一つ一つ確かめながら降りる。1時間以上は費やしただろうか、やっと岩場は終わり、平坦なところへ出る。

 14:00 下り終えた満足感でルンルン気分。鼻歌交じりでキッチンハットに向かう。と、その時、後ろの矢作さんから声がかかる。「靴底がはがれていないか?」。一旦、止まって右足の登山靴を見る。底がはがれて、足を上げてみると、ぶらぶらしている状態。かつて何度か、他人の靴底剥がれを見ているが、私は初体験。「(靴を縛る)ガムテープ、あるよ」と言ってくれた人から、テープを借りて、靴と靴底をぐるぐる巻きにする。テープの色が白のせいで、まるで足に包帯を巻いた傷痍軍人のよう。「大抵、両足をやられるからもう片方も見ておいた方が良いよ」と矢作さん。さすがベテランは言うことが違う。しかし、左足は無事だった。

 14:05 キッチンハット着。降りてきた方を眺めると、屏風状のクレイドル山がくっきり見える。写真を何枚も撮るが、よくもまあ、あんなところを登ったものだ、という感慨に浸る。

 14:15 キッチンハット出発。

 15:00 マリオンズ展望台。ここからの下りは、往路の経験からすると、木道が続く高低差の少ない楽勝コースのはず。ところが、木々が密生した急傾斜の下りになる。トップが間違えて急斜面のマリオンズ展望台登山路へ入ってしまったのだ。「オイ、やめてくれ。俺の靴底が悲鳴を上げているぜ」と叫びたかったが、引き返すには急登になるので余計に厄介だ。

 15:50マリオンズ展望台登山路の下りが終わる。

 降り切って、トップの言うことが憎たらしい。「清水の靴のこともあって、時間短縮になると思って」だと。「間違えただけだろう」と突っ込みを入れたかったが、疲れで声も出ない。

 16:10 ダブ湖の北周辺を回り込んで、駐車場に出る。リーダーが携帯でチャーターバスを呼び、ほどなくバスが来る。すぐに乗り込むが、両足の吊りがぶり返す。今度はきつい。揉んでも容易には治らない。ホテルのベッドで手足を伸ばしたい。

 バスはハイキング組が合流しても、直ぐに出発しない。ホテル群から往復している無料のシャトルバス優先の決まりがあって、シャトルバスの到着を待っているという。チャーターバスの運転手が時間つぶしに気を利かせてか、すぐそばの散策路に「ウオンバットが顔を出しているよ」と案内。皆、バスを降りてカメラ片手に撮影に行く。足の痛さが増している私は座席から立ち上がるのも億劫だ。「ビール、ビール」と呪文のように繰り返す。駐車場の売り場にはビールは置いていなかった。ホテルまで戻らないと、下山の最高の味、ビールにありつけない。

 16:40 やっとバス出発。

 17:00 ホテル着

 ホバートからはるばる運び込んでいた缶ビール半ダースが我が部屋の冷蔵庫に冷えている。ここは一つ、チャリティー精神を発揮して、皆に呼びかける。夫婦と女性が遠慮して丁度6人分のビール。我が部屋で「カンパ~イ」の声が響き、わずか350ミリリットルの缶ビールのなんと貴重で、美味だったことか。

 ≪6章 山から下りて≫

 その日の夕食は盛大な打ち上げになり、ビール、ワインを何本も明けてもまだ足りず、2次会は暖炉のあるホテルロビーで行なった。

 翌14日はダブ湖周辺のサーキットが予定されていた。「誰が行くもんですか!」ホテルごもりを決め込んで、読書など。皆でランチを取った後、荷物をまとめてロンセストンへ移動。全員での夕食はこの日が最後になるので、こじゃれたレストランに乗り込んで、タスマニア最後の夜として、ビーフステーキを堪能する。 隊長の奥島先生の締めの言葉は、井伏鱒二の「勧酒」の名訳「サヨナラだけが人生だ」。

 「この杯を受けてくれ/どうぞなみなみ注がしておくれ/花に嵐のたとえもあるぞ/「サヨナラ」だけが人生だ」

 この言葉でタスマニアのOB会山行は終わりを告げた。

 この後、私は先輩・同期5人とメルボルンへ出て、やっと終わりかけていた豪州の山火事跡や世界一の海沿いロードといわれるグレートオーシャンロードのドライブなど旅を重ねるのだが、その話は機会があればいずれ、また。

 ≪終章 毎日の探検部人脈≫

 毎日人に探検部OBは多い(はずだ)。先輩にはいないが、後輩はかなりの数に上るようだ。OB会で良く名前が出たのは、社会部の萩尾信也君。学生時代は幹事長を務めていたとか。社会部の大川勇君の名前も何人からか聞いた。両人とも探検部を全うし、“難しい入社試験のある”毎日新聞に受かったことが、後輩から評価されているようだ。

 社会部から外信部へ行った福井聡君も探検部のはず。父親が愛知県警幹部で、私は探検部先輩の“名前”をフルに活用。県警の夜回りではいつも最終地点と決め、お酒を随分と飲ませてもらった。ネタもいくつも教えてくれたのだが、私自身、酒の酔いで、社へ上がってからメモ帳の字が判読できず、特ダネを逃したものだ。東京社会部に来てからは、そんな僥倖はなかった。

 社会部でデスクになってから随分と年の離れた連中で、「探検部OBのようだ」と名前を聞いたのが他部も含め、何人もいた。いまだ確認するところまでいっていないが。

(終わり)
(元社会部 清水 光雄)