元気で〜す

2020年4月24日

早大探検部OB会・オーストラリア・タスマニア島クレイドル山山行記 ㊥

 ≪3章 探検部時代の思い出≫

 私は探検部13期(1967年入学)ではあるが、部員としては半年しかおらず、落ちこぼれメンバーである。

 入学時、探検部の存在は大学キャンパスの一角にしつらえた、どでかい「各部の入部案内」看板で知った。秋田から早稲田の政経に入ったのは一にも二にも「新聞記者志望」だったため。クラブは高校時代同様「新聞会」志望だったが、1年生の間は「他の部」で少し楽しんでよいかな、と思っていた。当時、早稲田大学新聞会は革マル派の機関紙と化していた。キャンパス内で見かけた創刊したばかりの「早稲田新聞」という新聞では、一面に当時少しは知られた存在だった長田弘の詩を掲げたり、中面も吉本隆明論など「文化的理論」が満載で同人誌のようであり「いずれ入ろう」と憧れた。(高校新聞会では高橋和己本人に寄稿を頼み、掲載したこともあった)

 探検部は、法学部の屋上屋根裏部屋に部室があった。日々の訓練と称して、大学構内の周辺をランニングしたが、受験勉強で鈍った体は全然動かず、直ぐに息が上がる。それでも当時大学のサークルではよくあった「しごき」といったものはなく、先輩に「どこか体が悪いのか」と皮肉を言われる程度だった。部室が隣だった山岳部はかなり違ったようだったが。

 当時の名簿が残っており、同期新人に「柳井正・山口県出身」の記載がある。ユニクロの彼、である。OB会の大方に記憶がないところを見ると、入部して間もなく退部したのだろう。それでも探検部出身なら一番の有名人となる。OB会50年記念誌を作る際、寄稿文を頂こうと、その役目が私に割り当てられた。ネットで調べたユニクロのメルアドに、秘書室宛てに「依頼文」を出したが、案の定、なしのつぶてだった。

 登山靴(飯田橋の手作りの店で作ってもらった)、キスリング(当時のザックは横に幅が広く、これを担いで北海道辺りを旅する学生はカニ族と呼ばれた)を揃えて、2年生をリーダーに有志で丹沢の塔ノ岳に登ったのが最初の登山だった(そのせいか、今でも山の訓練はここへ行く)。沢登りでは5~6メートルずり落ちた経験もし、以来ザイルを使った登山は体が拒否。今は船頭が操る川下りが名物になっている長瀞をゴムボートで下ったこともあった(同期が食料として「パンの耳」を沢山もってきて、聞けば名古屋出身。高校時代からパン屋に行ってはサンドウィッチ作りで余分に出るこの耳をもらい、昼食にしたという。名古屋は聞きにしに勝る、しまり屋の多い土地柄と思ったものだ)

 GWには奥秩父の甲武信岳(2475メートル)で一泊二日の新人訓練合宿が行われた。河原で石を拾い、ザックに詰め、荷物の重さを20キロ(30キロと記憶していたが、今になって確かめるとこの重さだった)にした。先輩が荷物をぶら下げる吊り秤でそれぞれ測っていたような気がする。歩くに従って、ひざはがくがくし、肩にキスリングが食い込む。へばってしまう同期が出てくると、先輩が「どうした」と励まし、場合によっては荷物を肩代わりし(無論、ザックの中の石は捨てて)たりした。「ザックは何があっても自分で運ぶ」が不文律。ダウンして、他人に荷物を持ってもらうのは屈辱以外の何物でもない。「ガンバ、ガンバ」の掛け声に、ひたすら前を歩く部員の足だけを見つめて歩を運ぶ。眠気だけが頻繁に襲う。頂上直下、「後少しだ。もう何分」。リーダーのこの声に、なぜか、緊張の糸がぷつんと切れる。私は座り込んだまま、一歩も動けなくなってしまった。

 一昨年の会合で半世紀ぶりに会った同期に「(君がへばったときに)何もしてやれずにごめんな」と顔を見るなり言われた。故郷の名古屋市役所に長年勤務、今も嘱託の市職員を続ける、あの「パンの耳」男。「50数年間も同情され続けていた、とは」と心底、がっくり来た。先輩にも同じことを言われた。「あの時、ばてたお前にリンゴを与えたら、丸かじりして芯まで食ってしまった、よ、な」と。「なんで、こいつらは俺のトラウマだけをしっかり、覚えているのだ!」という気分だ。

 この年の夏休み、一か月にわたる「韓国遠征」が行われた。2年前の65年に「日韓国交回復」がなり、早稲田大学に韓国からの留学生が目立つようになっていた。約30人の部員が韓国の山々で登山や川下り、洞窟のケーヴィングを行った。韓国ほぼ全域を回ったが、合宿途上で事件が起きた。韓国学生の意識調査を女子高で行った3人が「スパイ容疑」で逮捕・拘留されたのだ。当時はベトナム戦争の真っ最中。アメリカの要請で韓国からベトナム派兵が行われ、韓国兵の勇猛果敢な戦いぶりは北ベトナム軍やべトコンに「タイガー軍団」と恐れられていた。交流した学生の中にも「ベトナム帰り」が何人もいた。アンケート調査は韓国人留学生に翻訳してもらったが、そのアドバイスで「ベトナム派兵をどう思うか」の項目があり、学校の目に留まった。学校長の通報で警察が来て、3人はスパイ容疑で逮捕、拘束、留置された。早稲田と姉妹校の漢陽大学の体育館でキャンプを張っていた我々も、荷物を全部点検され、日本語対訳付き朝鮮語会話集(当時、韓国語会話集は存在しなかった)や在日朝鮮人作家の本等が没収された。2泊3日で容疑は晴れ、全員釈放された。韓国の新聞には一面3段で「スパイ嫌疑の日本人学生強制送還」と報じられた。実際上は皆と旅を続けたのだが。

 当時、我が国では韓国の日本人による売春込みの妓生パーティーが話題になっていた。出発時、統率の幹事長が「絶対に妓生パーティーに出たり、夜の街で街娼に手を出さないこと。日韓友好にかかわる」と訓示した。このころ、ソウルは売春は合法で、繁華街、明洞地区の一角に街娼街があり、昼からそうした女性がたむろしていた。戒厳令も敷かれており、夜9時(8時だったか)には外出禁止令が出ていた。ある日、知り合いになった韓国人学生と痛飲し、禁止時刻を過ぎてしまった。郊外のキャンプ地へは帰れず、近くの高級ホテルに泊まる金もない。その学生のアイディアで、居酒屋隣の街娼街に赴き、男同士二人で貸し間で一夜まんじりともせず過ごした。無論、女性は呼ばなかった。

 登山では、韓国の最高峰、済州島の漢拏(かんな)山(1950メートル)はだらだら登りが続く山でなんなくこなしたが、北東部にある第三の山、雪岳(せつがく)山(1708メートル)は花崗岩でできた切り立った峰で、新人合宿同様、頂上直下で一度ダウン。それでも頂上は極めた。

 合宿最終日、ソウルに戻ってリーダーの幹事長が「男に戻るぞ!」と叫んで、明洞地区へ出かけた。何でも、大切にしてきた録音機を売って手にした大金を握りしめていた、という。驚くより、がっかりした。

 合宿から帰り、夏休みが終わった後、探検部を退部した。新聞会へは2年生で入会すると決めていたので、兄が地元の大学でやっていた航空部(グライダー部)に転部した。幹事長の行動に嫌悪感を覚えたこともあるが、この部にいると、4年で卒業するのは難しい、という不安が退部の一番の理由だった。実際に卒業時、同期は軒並み留年したようだった。それから10年後、探検部部長に就任した奥島先生が現役の部員に最初に与えた第一声は「君たちは4年で卒業するとは思うなよ」と聞いた。

 というわけで、探検部在籍はわずか半年。それでもOB会へ出るようになったのは、同期で戦場ジャーナリストから北朝鮮評論家になった惠谷君のお陰である。

 ≪4章 私のOB会山行≫

 社会部記者時代に、仕事が近いこともあって、彼とは時折、顔を合わせる機会があった。一度は正月特集紙面(毎年元旦に発行する90P~100Pにも及ぶ分厚い紙面。各紙、その厚さを競争しあったものだが、今は広告事情からだろう、30~40P程度になっている)で、私のアマゾン紀行や関野吉晴さんのグレートジャーニー行を特集し、「冒険」を巡る座談会で同様、部の先輩の西木正明さんとともにパネリストとして加わってもらったこともあった。(ちなみに関野さんの「人類誕生の足跡を自分の足で辿る」グレートジャーニーは、社会部先輩、吉田俊平さんがほれ込み、出版局に移ってから関野さんの原稿と写真で飾る豪華本に近い「グレートジャーニー~人類400万年の旅」を8巻まで出版している)。

 そんな縁から、惠谷君は「韓国合宿まで行った奴はOB会に出る資格があるよ」と誘ってくれ、2か月に一回開かれる「例会」に時に顔を出すようになり、数十年ぶりに探検部の先輩や同期と再会したのである。OB会山行が始まった2003年、私はまだ毎日新聞在職中で、長い休みは取れなかった。スポーツニッポン新聞に移り、役職も取締役からヒマな監査役に変わったころ、またも恵谷君が「たまにはみんなと一緒に山に登らんか」と誘ってくれた。

 学生時代、探検部をやめた後も「ばてた経験」を克服したい、と国内の山行は単独行で続けた。明治大山岳部の新人訓練合宿で、ばてた体験をばねに、当代随一の探検家になった植村直己さんに比すのは恐れ多いが、気分としては、ちょっとは似たところがあった。毎日に入社してからは、名古屋時代は“家族登山”、東京社会部に来てからは、丹沢・塔の岳に登る程度だった。

 私にとって初めてのOB会山行は2011年9月、北海道の利尻岳(1719メートル)登山。隣の礼文島観光を含めて3泊4日。この山は大学の卒業旅行で、北海道が郷里の母親孝行を兼ねて、一緒に道内一周したときに稚内から眺めた山であった。海から屹立した姿は山岳人ならずとも惚れ惚れする。OB会で登った日は快晴。朝から晴れ。未明から登り始め、頂上直下からが険しい行程だった。40人近い参加者で、奥島先生も登頂。降りてきてからの旅館での打ち上げは「都の西北」の大合唱で締めた。翌12年5月にはGWを利用しての台湾・雪山(3886メートル)登山。4泊5日で登山は1泊2日だった。天候は最悪。霧と雨が終日続き、海外登山ビギナーの私は、ザックカバーを忘れ、中の着替えなど装備までぐしょ濡れ。重量がぐんと増し、後輩に「荷物、少し持ちましょうか」と同情される始末。山頂では何も見えないまま、折からの雷に追い立てられるようにして下山。雪山山頂の標識だけは確認したが、どんな形状の山か、さえ分からないままの登山だった。台湾第2位の高峰で、途中の山小屋の登山道脇に「昭和天皇が皇太子のころ、登った」とする碑があった。

 台湾の日本統治は、日清戦争の後、当時の清朝から日本に割譲された1895年(明治28年)に始まる。最高峰の玉山(ぎょくざん、3952メートル)は富士山(3776メートル)より高いところから、明治天皇が「新高山(にいたかやま)」と命名した。1941年(昭和16年)12月2日に発令された日米開戦の日時を告げる、海軍の暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」は、この山の名前に由来する。

 同年10月には5泊6日でベトナム行。目指す山はマレーシア半島で一番高い山、ファンシーパン(3143メートル)。ハノイから夜行列車(この寝台車がソ連製の年代物で、寝床は固く、部屋は狭くるしかった。しかし、相部屋の恵谷君の「イランでは「おしん」が人気で、田中裕子のブロマイドで税関はフリーパスだった」「アフガンでは~」等戦場話を夜を徹して語ってくれ、面白かった)で10時間。中国との国境の街、ラオカイに着き、一泊。ガイドの解説によれば、ここは1979年の中越紛争の激戦地で、中国に端を発しこの町を通り、ハノイまで流れる紅河(ホン河)は中国人兵士の血で一層赤みを増し、川底には今でも無数の白骨があるのだという。中国軍6万人、ベトナム軍2万人の戦死者を出したと聞くと、満更「白髪三千条」の話でもなさそうだ。

 登山基地のサパはさらに車で2時間、フランス統治時代を思わす小ぎれいな町だった。朝食に出るフランスパンが美味しく、一層旅情をかきたてた。山登りの日、麓は晴れていたが、やがて曇りから雨。荷物はガイドが背負ってくれる(海外の山行が好きな大きな理由の一つ)。日本では全く知られていない山で、ベトナム滞在経験の長い人でも聞いたことがない、という。

 登り始めると行きかう登山者はヨーロッパ、オーストラリアから来た人たちだった。大きな二つのこぶを持つような山容で、ゾウの岩といわれる一つ目のこぶを越して、大きく下り、もう一つのこぶの山頂を目指す山だった。登っている間中は、靄と雨でどこを登っているかさえ定かでない。降りてきて打ち上げをやったキャンプ地は地面がドロドロ。ガイドらが豚の丸焼きをご馳走してくれて、これはうまかった。ベトナムの経済成長で、今はこの山にロープウェイがかかり、我々が2日がかりで苦労して登った山頂がわずか数時間で行ける、と聞く。

 翌13年5月のGWには、有志で台湾五山の一つ、北大武山(3092メートル)へ。台北から新幹線で南の高雄へ出て、5泊6日の旅。後輩ばかりの隊だったが、登山歴に関しては私が一番の後輩。50代の彼らの背中ばかり追いかけていた。山登り後の観光で、スタジオジブリ「千と千尋の神隠し」のモデルとなったといわれる仇分(きゅうふん)の街を独り訪ねたのは思い出となった(それにしても、タスマニアの街でも「魔女の宅急便」のモデル、というホテルがあったり、海外では、ジブリ作品の舞台と称するところを用意することが、日本人観光客へのおもてなし、と考えているのかしらん)   

 同10月には、四国・松山の石鎚山(1982メートル)へ2泊3日の登山。

 14年5月のGWには、三度目の台湾挑戦。05年にOB会登山で既に登った玉山(3952メートル)へ、その時に参加できなかった連中6人で登る。5泊6日。この時もまた、雨。頂上手前で激しい雷雨に遭遇。他のパーティーが様子見をする中、我が隊だけは山頂へ。頂上に立った瞬間、私と後輩の間に、鋭い光線が走り、岩を直撃。遅れて耳をつんざくような爆音のような雷音。慌てて逃げ出したが、二人のどちらかに直撃していれば、命はなかっただろう。いつも探検部OB会のガイドを務め、この時も同行した林さん(台湾山岳会幹部)は、下山後「去年もね、2,3人落雷で死んでいるんだ」とこともなげだった。台湾の3度の登山は全てGW期間中で雨に見舞われた。台湾は台風の通り道で、天候が落ち着くのは11月~3月。その後、有志による台湾行はほぼ11月、となった。

 下山後の台湾は、街の食い物はうまいし、どこでも温泉が楽しめる。街の人は親日的(東日本大震災の際、海外からの援助は台湾が一番だった)。お勧めの観光地である。

 同14年9月にはインドネシア・ロンボク島のリンジャンニ山(3726メートル)とバリ島のバトゥール山(1717メートル)へ10日間。この年6月でスポーツニッポン新聞を退職、新聞記者・会社人生の終了で「退職記念山行」となった。

 奥島先生も参加、16人の隊だった。

 リンジャニ山は麓のコテージに着くと、きれいに晴れて、富士山を小型にした三角定規の山容が良く見えた。登山当日、朝から強い日差しとなる。広い野原を抜けて、山道の傾斜がきつくなってくると、土ぼこりがひどい。火山特有の地質で季節も乾季の真っ最中。小さな谷の橋を渡ると河は完全に干上がっている。火山のざらざらした土質に足を取られる。マスク持参を指示された意味が身に染みて理解できるほどに、ほこりがひどい。まばらに生える松に日陰を求めて休むが日差しの強烈さは避けきれない。キャンプサイトに近づくにつれて、今度は周囲に散らばった空き缶、トイレットペーパー、ビニール袋が山のようになり、ゴミロードと化す。キャンプ地は生ごみと排せつ物の臭いが充満。ガイドが作る夕食をかっ込んで、テント内のシュラフに早々と潜り込む。どんな場所でもすぐに眠れるのが私の得意技でもあるが、さすが3000メートル級の山だけあってかなり冷え込み、改めて起き上がり、上下のタイツをはく。

 翌日は早朝2時に起床。ヘッドランプをつけての行軍だったが、夜が明けるころにはきつい登りになって、しかも火山特有のざらざら道。少し立ち止まるとずるずると後退する。富士山の砂走は下りにしか使ったことはないが、あそこを登りに使うとこんな感じになるのでは、と思った。山頂に着くと展望を楽しむ間もなく、早々に下りにかかる面々が多かった。この山、それから2年後の16年から噴火を繰り返して、今は近づきがたい山となっている。

 インドネシア行後半はロンボク島からバリ島に飛ぶ。奥島先生はここからの参加だった。バトゥール山は同島内の最高峰、アグン山(3031メートル)に比べ、はるかに低いが手軽に登れる山として人気は高い。日帰り登山で、下りてきてから山麓にある温泉「バトゥール・ナチュラル・ホットスプリング」に入ったが、ここは良かった。水着で入る温泉で、露天のプール群がいくつか並び、それぞれ泳げるほどに広々している。湯温も適度。温泉につかりながらのビールは旨かった。

 翌15年8月には2週間にわたるキルギス・ウズベキスタン旅行。天山山脈の西のはずれ、キルギスのアルアラチャ山塊への挑戦である。日本では知る人もない山塊だ。キルギスは周囲の国と違って、地下資源ゼロ。目立った産業もなく、観光資源を生かそうとして、この年の数年前、キルギス山岳協会会長が来日してPRに当たった。同国にいた海外青年援助隊の人脈からOB会メンバーに情報が入り、縁がつながった。

 目標のウティーチェリ峰は標高4527メートル。私にとっては初めての4000メートルを超す山だ。冬山未経験者の私は、訓練でこの年3月、先輩たちの冬山合宿に合流する予定にした。ピッケル、冬山用の登山靴も備えた。ところが合宿直前、那須岳で栃木県の高校生が8人死亡、40人負傷する雪崩事故が起きた。これには完全にビビり、合宿参加を断念した。キルギス行も諦めなければ、と考えた時に、嬉しいことに「8月は真夏なので、山はアイゼン、ピッケルなしで登れる」という知らせがもたらされた。幹事に何度も念を押して、確認。同行することが出来た。

 OB会9人に他の山岳クラブ3人の12人の構成。ウズベキスタン航空で同国のタシケントを経由して、キルギスのビシュケクに入った。

 ビシュケクから麓のホテルまで車で行き、翌日、登山基地へ。いつもの荷物担ぎのガイドはいないため、重いザックを担ぎ、3000メートル近い標高の登山基地にたどり着くまで5~6時間の登山は、かなり高低差があり、いつになく消耗した。翌日は高山病に備えて、体を高所に慣らす日に当てられた。旧ソ連領のせいか、食事を提供するロッジの女性職員は不愛想で、飯もお世辞にも美味しいとは言えない。登山を引っ張る女性ガイドもどこか高圧的雰囲気。2泊目の夜はぐっと冷え込んだ。この時期としては「異常」という。

 翌未明、目覚めると、ロッジ周辺は真っ白。この高地でも極めて早い初雪、という。

 「登らずに済みそう!」と口には出さなかったが、快哉を叫んだ。キルギスまで来て、情けない感じだが、ともかく嬉しい。ところが、リーダーの矢作さんが「日が昇ると雪は次第に消えるかもしれない。ともかく登ろう」とのご託宣。一人留守番、という選択はない。一行についていく事を決める。

 高度を稼いでいくにしたがって、狭い登山路こそ雪が溶けだしていたが、その周りはかなりの積雪。少しでも足を踏み外すと、雪道に突っ込んでしまいそうだ。慎重に登山路を踏みしめて行くこと、何時間かかったろうか。やっと頂上に達する。日に照らされた頂上周辺はもう数メートルの積雪。360度見渡される山塊は全て白い雪で覆われていた。4500メートル地点で照らされる日の光はサングラスをかけていても目が痛むほどにまぶしい。早稲田の旗を用意してきた人がいて、それぞれ旗を手に記念写真を撮る。

 山を下りれば、ロマンあふれるウズベキスタンへシルクロードの旅が待っているのだ。

 この登頂で人生最高峰に達したので、後は国内回帰、と思っていた。しかし、2年後の17年には、インド・ヒマラヤへ3週間の山行の話が出て、乗ってしまった。社会部先輩の名物記者、佐藤健さん(2002年没、60歳)が1979年に訪ねたインド・ラダックの旅と重なるコースだったから。

 79年当時、入社8年生の私は中部本社報道部にいた。9~10月と2か月にわたって、アマゾンの自然破壊とそれに追われ種の絶滅に瀕する南米の新世界ザルをテーマに取材旅行を敢行していた。翌80年の正月紙面を飾るためであった。取材から帰ってきて、原稿出稿を終えた12月半ば、編集局長に呼ばれた。「正月特集の一面を君の原稿にするか、東京社会部の原稿にするか、論議になっている。東京へ行って話をしてきてくれないか」という。オイオイ、それを決めるのは編集局幹部のアンタじゃないの、という愚痴を飲み込んで東京へ。東京の担当局次長は幸い、社会部教育取材班へ一年間長期出張した折り、デスクとして教えを受けた浅野弘次さん(1986年没、61歳)だった。東京社会部の名文「三野(さんのう)」男の一人として名を馳せたこの人、無類の酒好き。局次長になってからもウィスキーの瓶を引き出しに忍ばせて、交番会議が終われば、一人ちびちびとやっていた、という。編集局の真ん中にあるソファでちょっと酒の匂いがする浅野さんと話し合ったが、私への説得のようなものだった。「社会部のサトケンが、よ、インドのラダックへ行って、(渾身の)一文を書いてきた。こちらが一面だよな」。健さんはこのころすでに「現代に宗教を問う」の「坊主になってみた」企画で、毎日のスター記者だった。名古屋のぽっと出がかなうはずもない。当時カラー化が始まったばかりの頃で、健さんの1部特集に続いて、2部に回る私の原稿・写真をカラー化することで、納得して名古屋へ帰った。健さんにしたって、自分の原稿が1部から外れることはない、と踏んでいたに違いない、と思い込んでいた。ところが、後年、社会部にきて話をしてみたら「イヤー、あの時は随分心配したんだ」という。新聞記者って原稿の前では先輩、後輩もなく平等なんだ、と改めて思った次第。

 インド・ヒマラヤの旅は登山というより、健さんが行ったラダックからさらにザンスカールを回る、登山というよりは高所トレッキング。3週間、歩き詰めだったが、荷物は例によってシェルパ持ち、食事も彼らが作ってくれる。矢作さんら屈強な人たちは、未踏峰の山(インド・ヒマラヤは未踏峰の山がまだいくつかある。登頂に成功後、インド政府に定額金を納めて申請すれば、証明書を発行してくれるという)の偵察行を行った。ちょっと”弱い“私を含めた3人はキャンプサイトで留守番役。後輩が「偵察部隊の動きを見に行きましょう」というので、仕方なくキャンプサイトから少し登って見物に行く以外は、テントに寝っ転がり、当時芥川賞を取って有名になったお笑い芸人、又吉直樹の「火花」を読んでいた。

 この旅で面白かったのは、最高高度5000メートルの峰まで登るとき、OB会メンバーではない他クラブのリーダーが、勢いに任せ、隊列からはるかに離れ、先を急ぎ、目的地点に我々より30分以上も早く到着した。ところが、そこでダウン。高山病を起こしたのだ。ヨーロッパアルプスやチベットヒマラヤもこなしてきた人だったが、75歳という高齢では”無理“は厳禁、ということのようだ。

(元社会部 清水 光雄)