元気で〜す

2018年5月22日

元運動部・スポーツ事業部長、江成康明さん

画像
憩いの宿「夢見る森」HPから

 長野県白馬村でペンションを経営する傍ら松本大学非常勤講師もつとめている江成康明さんから、「若者のためのエナジー通信」第27号(2018年5月20日) が届いた。

♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜

 きょう、68歳の誕生日を無事に迎えることができた。
 体のどこにも異常なく、ここまで何事もなく生きてこられたのは、両親が健康に生んでくれたから、と改めて感謝した。盲腸以外に入院したことはないし、病院通いも全くない。ちょっと血圧が高いぐらいで、体調不良で生活に支障があったこともない。何より、骨太に生んでくれたことがうれしい。いろいろなスポーツをしてきたが、骨折は一度もなく、腰痛もなかった。何と幸せなのか。仏壇に線香をあげ、ひとり手を合わせた。
 そして、楽しい人生の糧となっている家族と孫のありがたさ、なんでも言い合えた仕事仲間、道で会って笑いながら会話ができる地元の人たち、祖父のような年齢の私の話を真剣に聞いてくれる学生たち…。付き合いのあったひとたちみんなに「ありがとう」と心で言った。
 (略)
 自由気ままに生きている、とわが身を思う反面、最近相次いだ訃報に「人間は生かされている」ことを実感した。時代の象徴だったアイドル歌手の西城秀樹さんが亡くなり、若大将シリーズで女性のしとやかさと華やかさを教えてくれた星百合子さんも他界した。頭には、ほとばしる汗も気にせず全身で歌っていた西城さん、素敵なお姉さんとそっと恋心を抱いたこともある星さんの姿しか残っていないのに、ともにそれなりの年になり、寿命に屈した。「生かされている」生命は必然的に終焉を迎え、私の中の「昭和」もひとつずつ消えていく。
 身近な人の死はさらに空しい。若いころの憧れであり、多くのことを教えてくれた会社の先輩が2人、続くようにあの世へ旅立った。
 学生時代に毎日新聞社の政治部で原稿取りのアルバイトしていた時、2人は同じころ支局から政治部へ上がってきた。橋本達明さんと岸井成格さん。私より5歳ほど年長で、新聞記者を目指していた私にとってはまさに生きた教科書だった。ベテラン記者が多い中で、ともに若さをそのまま押し出すような歯に衣着せぬ発言と行動力があった。
 とくに沖縄返還密約事件に端を発した西山事件のころは、毎晩のように社へ上がってきて、紙面の内容に対して上司にかみついていた。「この見出しはおかしい」「社としてどう考えているんだ!」。その声は編集局中に響き渡った。活気があった。新聞記者への憧れはさらに増した。
 2人は仲が良く、酒も好きだった。アルバイトごときの私を「飲みに行こう」と誘ってくれた。まだ付き合い始めたばかりの私の妻も一緒だった。酒が苦手な私をこのころからかわいがってくれた。
 私が記者になってからも、橋本さんはいつも気にかけてくれ、相談に乗ってくれた。岸井さんは廊下ですれ違うたびに声をかけてくれた。社の幹部になっても、出来の悪い後輩への接し方は全く変わらなかった。
 橋本さんが4月14日に胆管がんで亡くなった、と紙面で知った。体調が良くないとは聞いていたが、こんなに早く、とショックを受けた。会いに行けなかったことを後悔した。奥様に手紙を送り、私の中ではまだ生きている橋本さん宛の「礼状」もしたためた。
 それから1か月後の5月15日、岸井さんの訃報をテレビで知った。がんとの闘病で入院している時、「タツ(橋本さん)はどうしてる」と夫人に聞いたという。弱っていた岸井さんに、橋本さんの死を告げられなかった、と夫人は橋本さんの奥様に語ったそうだ。
 同じころ入社し、同じように政治部記者として活躍し、同じように社の屋台骨になり、同じ時期に天国行の列車に乗った2人に、「どこまで仲がいいんだ!」と胸の中で叫んだ。横で、妻も涙ぐんでいた。
(略)
 政界には相変わらずウソがはびこり、大学アメフト界でもとんでもないことが起きた。日本人の根底にあったフェアプレー精神と潔さはどこへ行ってしまったのだろう。
 いつも今の政治や社会を憂いていた橋本さんと岸井さんに話を聞いてみたい。何というのだろうか。

 江成さんは、運動部デスク、長野支局長から事業本部スポーツ事業部長をつとめた。退職して白馬のペンション「夢見る森」オーナーだ。

(堤 哲)