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2024年5月27日

一番しんどい仕事を引き受けてきた元ソウル支局長、中島哲夫さんをしのぶ会に70人超

 ソウル支局長、論説副委員長などを歴任し、2023年12月に亡くなった中島哲夫さん(享年66)をしのぶ会が5月12日、東京・大手町のカフェで開かれた。故人の妻・美恵子さんはじめ、九州、関西から駆け付けた同人も含む毎日新聞の現役・OB・OG、生前の中島さんと縁のあった社外の知人など70人を超える方々がつどい、中島さんの思い出を語り合った。

 「中島君」「哲(てつ)」「てっちゃん」「中島さん」、そしてハングル読みの「哲(チョル)さん」…。

 中島哲夫という人物を語る時、その呼称はさまざまだった。上司や先輩、1980年入社の同期(出版社から転職した中島さんの社員番号は79年)、それに私のように慕い、目標にした後輩たち。中島さんとのかかわりは年齢や年次、それに職場によって違いはあるものの、出席者の口々から出た人物評には共通点があった。

 取材力・執筆力といった「中島哲夫記者」「中島哲夫特派員」の卓越した能力なんて、だれも改めて紹介しない。「一番しんどい、イヤなことを引き受ける」「誰よりも早く出社して誰よりも遅くまでパソコンに向かっていた」「自己犠牲の仕事人間」「一人、責任を背負い込むリーダーシップ」…。

 働き方改革が叫ばれる今日では、ここに並べるのもはばかられる。上司は無理を言い、後輩は無理を願った。そんな男に誰もが信頼を寄せた。だれからも愛された男は、あの少しかすれた声で、いつも二つ返事で引き受けてくれた。

 昔からの仲間たちが次々とマイクを握る。原稿に表れた社会弱者への接し方、世の理不尽への向き合い方から、中島さんを生んだ愛知県・渥美半島にある故郷、育てたご両親にまで話題が及んだ。

 ソウル支局に約40年間勤務し、二度にわたって「中島支局長」を支えた金宣希さん=写真・右=は、この日のためにわざわざ訪日してくれた。「中島さんと共に過ごしたすべての時間と時代がとても懐かしいです。中島さんが亡くなったと聞いてショックと悲しみで、大泣きしました。中島さん、会いたいです!」と語った。

 中島さんも愛飲した韓国焼酎(ソジュ)で献杯後、用意されたビールやワイン、それに料理を楽しみながら、しのぶ会は進む。これも中島さんの人柄によるものなのだろう。湿っぽさはまったくない。会場中央にはプロジェクターで、生前の中島さんが大きく映し出されていた。ソウル支局内でのワンショットだそうだ。写真の笑顔のように、目の前に並ぶ私たちを、天国から微笑んで見てくれていたような気がする。

 中島さんが世を去り、半年が経過しようとしていた。ご遺族の意向で葬儀は家族葬で行われたため、誰も別れを告げていない。この間、「しのぶ会を」という声はあちこちから上がった。中島さんの毎日新聞37年間のうち、多くを過ごした東京本社外信部だけではなく、在籍経験のある大阪、西部両本社からも上がった。竹橋に限っても、部局を越えて、永守良孝さん、伊藤芳明さんに寄せられた。

 呼びかけ人は、永守さん、伊藤さんに私を加えた3人だが、しのぶ会開催を願った一人ひとりが本当の意味での呼びかけ人なのだろう。

 事前の準備から当日に至るまで裏方を務めてくれたのは、外信部の「朝鮮族」、ソウル勤務を経験した後輩たちだ。会場で配布された、中島さんの足跡をたどる冊子(32ページ)は、中島さんが執筆した「余録」「記者の目」、国内外発の企画記事やストレートニュース記事、スナップ写真などが掲載されている。このほか、毎日新聞と提携関係にある韓国・朝鮮日報の幹部2人がしのぶ会にメッセージを寄せてくれた。日本語への翻訳作業も「朝鮮族」の面々による。よき先輩への感謝の気持ちがこもる編集だった。

 縁ある同人らが語るエピソードは尽きない。中島さんの思いがけない横顔を、出席者全員で共有できる場であるとともに、仲間が久しぶりに集まり、近況を伝え合う機会にもなった。これも中島さんがセットしてくれたのだろう。

 だれもがそんな中島哲夫さんに感謝し、いいヤツばかりの毎日新聞社に在籍する(した)幸せを感じながら、帰路に就いたはずだ。

【飯田 和郎】

【中島哲夫さん略歴】

1957年2月 愛知県田原町(現・田原市)生まれ。

1980年2月、毎日新聞社入社。大阪社会部~福岡総局~西部報道部~東京外信部~ソウル支局~外信部副部長~北米総局(ワシントン)~外信部編集委員~ソウル支局長~論説委員~論説副委員長~専門編集委員など。2017年2月、定年退職。

2023年12月2日死去。