2025年11月4日
「「戦後80年に想う」⑫
夫の帰還を待って47年(松田幸三69歳)

戦後80年を迎えている。この秋、私はかつて取材した、いやその人生に関わった女性の生きざまを改めて考えている。
1991年夏、山口県徳山市(現周南市)に住む女性(当時68歳)に会うために山口市から車を走らせた。旧満州の大連で3カ月の新婚生活を共に過ごした夫(当時25歳)は1944年、召集され、戦後、ソ連のシベリアに抑留されて日本に戻ってこない。「必ず帰って来るよ」と女性に言い残して出征した夫を待って47年目の夏を迎えていた。
戦後、旧満州から徳山の夫の実家に戻って待ったが、いつまでたっても夫から連絡がない。そのうち夫の親は「弟と一緒になれ」と。女性はそんな気はなく、家を出て一人、夫を待ち続けた。昭和30年代に入って県から「ソ連コムソモリスク地区にいたことを証言している者がいる。体力低下に栄養失調で入院、死亡した患者がおり、本人も病院で死亡したと思われる」との死亡告知書が届いた。それでも、女性は夫の死が納得できなかった。
「私が調べてみましょう」。戦争が終わらない女性にそう言って、私は間もなくして関係先を当たることになった。まずは京都府の舞鶴港に出向き、帰国者を調べたが、手掛かりはなかった。当時の厚生省に出向き、女性の夫の情報を訪ねたところ、戦友の名前を教えてくれた。まずは岐阜県の戦友に会いに行ったが、女性の夫とあまり付き合いがなかったようで、消息は分からなかった。だが「彼ならわかるかもしれない」と栃木県の戦友の連絡先を教えてくれた。
とりあえず電話してみると、女性の夫のことを覚えていた。「コムソモリスク地区で一緒に森林伐採や穴掘りをやっていた」と戦友。「でも私が入院してしまい、彼がその後どうなったかは分からない」
私は女性に連絡し、戦友の電話番号を教えた。彼女は戦友に電話を入れて、夫の働きぶりなどを聞いた。結局、生死は確認できなかったものの、女性は吹っ切れた気持ちになったと私に話してくれた。「夫のシベリアでの生活を初めて聞けたのですから」
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手元に女性から送られてきた一枚の写真がある。ソ連のコムソモリスク・ナ・アムーレに建つシベリア抑留者の「鎮魂の碑」。その前に女性が立っている。夫の死を受け入れて、彼女は民間の墓参団に参加し、夫の最後の地を自分の目で確かめできたのだ。
「鎮魂の碑」を訪れる前にそっと口紅を引いたという。古里の水、酒、煙草を備えながら人目もはばからず泣き伏した。「必ず帰って来てね」「きっとよ」「もう泣くなよ」「きっと帰ってくるから」。満州のプラットホームで出征する夫と交わした最後の言葉がよみがえった。女性からの手紙の最後に私への感謝を書いてあり、恐縮した。女性の戦争の区切りにわずかでも役立つことができて私の心も満たされていた。
今秋、久しぶりに女性に連絡を取ろうと、山口県の遺族会に連絡したところ「既に亡くなれています」との悲しい回答だった。
「もはや戦後ではない」と経済白書に記された1956年に私は生まれた。政府や役所が「戦後は終わった」と言っても、戦争がもたらした傷の整理がついていない人は少なくない。女性は半世紀かけて戦争に心の区切りをつけた。でも、何年たっても戦争が終わらない人はいるだろう。戦争を引きずったまま鬼籍に入った人もどれほどいたことか。戦後80年。政府やメディアにとっては都合の良い言葉だろう。だが、戦争の苦しみ、悲しみにさらされた人たちは一生、そのつらさを引きずっているように思える。
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松田幸三さんは1979年12月入社。長崎支局、福岡総局、下関支局、山口支局などで取材。宮崎、佐賀、福岡総局のデスク、長崎支局長。小倉・福岡報道部記者として「写真で見る戦後 九州・山口の軌跡」を8年執筆。読者の投稿欄「はがき随筆」「女・男の気持ち」も担当。この間、北九州市にあるコミュニティーFM「Air Station Hibiki」で「松田記者の話す新聞」のパーソナリティー。