随筆集

2025年9月8日

「戦後80年に想う」⑧
沖縄戦のドキュメントが教えてくれたこと(玉木研二74歳)

 今は遠のいたが、かつて毎日新聞のお家芸というべき「同時進行ドキュメント」という連載手法があった。マルチカメラのように複眼で「その日その時」の事象を織り交ぜ、臨場感を引き出しながら時代の変動を描く。1970年代の政変劇に始まり、さまざまな分野で試みられた。ジャーナリズム自体もテーマになり、例えばアメリカには、新聞社の1日を丸かじりのドキュメントにした「ニューヨーク・タイムズの一日」があった。当局情報によりかからず、ファクトに立つニュー・ジャーナリズムや調査報道が称揚された時代である。

 2005年の企画「戦後60年の原点」の一環で、沖縄戦を取り上げるヒントになったのが同時進行ドキュメントのスタイルだった。題して「沖縄1945」。この年の8月に藤原書店から出版された時は『ドキュメント沖縄1945』。

画像
第1回は2005年4月1日付け夕刊社会面のトップ記事だった

 米軍が沖縄本島に上陸した1945(昭和20)年4月1日から、組織的戦闘が終結したとされる6月23日までの日々に重ね、沖縄の戦場と東京の中枢で何があったかを夕刊対社面のハコで日録ふうに再現するのである。

 「ありったけの地獄を集めた」と表現される沖縄の戦場と、それを「捨て石」としていたずらに時間稼ぎをし、決断を先送りにする本土。破滅に向かい同時進行していく様を、当時の記事、記録、日記、証言、郷土史資料、芸能などを素材に描いた。

 例えば4月26日の項――

 <この朝、ひめゆり学徒隊に最初の犠牲者が出た。南風原(はえばる)の陸軍病院第一外科壕入り口である。師範学校予科2年、佐久川米子。急襲の戦闘機の機銃弾で重傷を負った。「長身で口数の少ない物静かな人。成績優秀で学級委員として活動していた」と、ひめゆり平和祈念資料館開設に際して編まれた証言記録にある。1月の学芸会の劇「釈迦とその弟子」で釈迦を見事に演じた姿を、同級生らは忘れない。

 壕のベッドに寝かし、大腿部を強く縛ったが、血はとめどなく流れ出た。軍医を呼びに行こうにも、機銃掃射で外に出られない。励ましの言葉に少女は「もうだめ。だめ」と繰り返し、軍医の手当ても受けぬままこときれた。夜、埋葬した。皆で土をかぶせた>

 東京。毎日新聞にこんな見出しの記事が載った。

 「特攻機の飛行便 沖縄に戦う両親へ 疎開児童が激励文」

 本土に疎開している沖縄の子供たちが、残って戦っている親に手紙を書き、特攻隊がそれを運ぶというのである。

 記事はこう結ぶ。<父たち、母たちが、いとし子の血涙の文字をしっかと握り、坊や見てくれと突撃していく勇敢な姿が目に見えるようではないか>

 同じ紙面に、豊島区のある町会が退避壕を敵前の塹壕になぞらえ、焼け跡で穴暮らしをする「集団決戦生活」を始めた、と称賛の記事を載せた。

 沖縄で現実に起きている事を本土は知らなかった。焼け跡に掘った壕が「鉄の暴風」の前に何の役に立つはずもなかった。

 沖縄と本土(東京)の実態や意識のズレ。この日の新聞記事は、あきれるというよりも、むしろ痛々しい。戦況は隠されていた。政府の要路にある人々さえ、現実に直面しようとしなかったようだ。例えば、4月5~7日のドキュメントから。

 世界に誇る最強不沈艦であるはずの戦艦大和は「沖縄特攻」の途上、鹿児島南方で米軍機の猛攻撃を受け、大噴煙とともに爆沈した。4月7日午後2時23分のことだ。

 この日、どうにか新しい内閣が成り、午後8時15分、首班の海軍大将・鈴木貫太郎が宮中に参内、名簿を奉呈した。大和が撃沈されたことは親任式の後、控え室の閣僚たちにそれとなく伝えられた。内閣書記官長だった迫水久常がそう回想している。「大和が……」と声を低めている老閣僚らの消沈ぶりが目に浮かぶ。

 大和が沖縄に突入して無敵の砲台になるなどという作戦が、成功すると考えた夢想者はおそらくいない。栄光の連合艦隊は壊滅し、この世紀の巨艦は大洋を縦横に活躍する機会もなく、最後は「一億総特攻のさきがけ」という名分で錨を揚げた。その直前、若い候補生は「将来がある」と艦を降ろされている。冷静な将官らはこの作戦の無茶ぶりも、破綻必至も百も承知だったはずである。抗しきれない「空気」のようなものが作用したに違いない。今の企業でもしばしば漂う空気である。

 4月9日の沖縄。守備軍内に通達が出た。

 「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜とみなし処分す」

 冷静を失いつつある守備軍の焦燥を反映している。東京の大本営は沖縄戦線の積極的な反転攻勢をせかすが、現地の兵力状況では持久戦法しかない。しかし、軍人たちは中央に臆病視されるのをひどく恐れた。無理に総攻撃も企てたが、失敗した。現代社会の組織病理にも通じる。中国戦線でも同じ失敗を繰り返した。

 沖縄には特攻機が絶えず飛来した。5月11日。鹿児島の海軍鹿屋基地から出撃した石丸進一は22歳。プロ野球名古屋軍(現中日)のエース級投手だった。1942年に17勝、43年は20勝。戦時中最後のノーヒット・ノーランもやってのけた。防御率1点台というから本物だ。日大夜間部の学生でもあったことから学徒出陣組に入った。

 その彼が出撃前、飛行予備学生の同期に声をかけ、基地外の国民学校校庭で投球を始めた。入魂の10球。すべてストライクだったという。

 「よーし。これで思い残すことはない」と彼は飛行場へ駆けた。

 この光景を目撃した報道班員の作家、山岡荘八がこれを書留めなかったら、後世に伝わらなかったもしれない。ボールを受けた同期生も3日後出撃した。

 「正史」には残りにくいエピソードだが、感情のひだに触れてリアルである。

 5月17日。沖縄では首里攻防戦が最終段階に入った。東京の日比谷公会堂では、高峰秀子、山根寿子、豊島珠江、コメディアン古川緑波(ろっぱ)らの出演で「映画主題歌大会」を開催。豊島珠江の背を大きく出した衣装に、軍需工場などの若き「産業戦士」たちが声を上げて喜んだ。警視庁が注意したらしい。緑波は日記に書いた。「公会堂に行くと、大変な人だかり。こういうものに、飢えているのだ」

 翌5月18日朝。首里の要衝・安里の丘を米軍が多大な犠牲を払って制圧した。激闘で岩が白い粉を噴き、米兵はその丘を「シュガーローフ」(砂糖パン)と呼んだ。

 一方、東京の朝刊には鎌倉・腰越海岸の住宅地を分譲する広告が載った。この辺り、相模湾は本土決戦時には米軍上陸地点になる候補の一つと考えられていた。あるいは受験誌の広告。こんな時に、と驚くが、それはどんな事態も乗り越えていく、人間のたくましさを表わしているのかもしれない。

 その時、沖縄では県民を巻き込む「鉄の暴風」のさなかにあった。この大きくズレた感覚、いや現実は、今なお沖縄と本土の間に続いている。

 例えば、本土復帰前の1970年12月に起きた「コザ騒動」は、米兵たちのふるまいや治外法権的な地位協定に対する怒りからだけではなく、その基層にかつての誇り高い島の王国を外国の基地とした本土への深い、鬱積した思いがあるのではないか。

 さる沖縄の放送局の記者がこう言ったものだ。

 「沖縄と本土の真ん中をとった報道を、という人がいる。そんなかけ離れたものの両方に足をかけようとしたら、海に落ちるしかない。私は沖縄に立つ」

 かけ離れた、とはもちろん地理的距離のことではない。

 2005年に夕刊に連載したこのドキュメントは、奥深いテーマの表面にそっと触った程度のことだ。戦後60年だから、戦後80年だから、という節目感が企画のモチーフとなることを否定しない。

 しかし、本来、1年であれ、10年であれ、いつでも記録・継承すべきものはしておくべきだったのだ。首を垂れるしかないが、限られた時間と機会を(今さらながら)私にできることに傾けたいと思う。

 玉木研二さんは、1975年入社。大分支局(サツ回り)、臼杵駐在、西部報道部(サツ回り)、筑紫駐在、福岡総局(遊軍、サツ回り)、東京地方部(内政取材班)、社会部(八王子支局長、教育取材班)、西部報道部長、東京社会部長、論説委員、専門編集委員をへて現在客員編集委員。