随筆集

2025年8月25日

「戦後80年に想う」番外
100歳を迎えたドクヘン社会部長牧内節男さん

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牧内節男さん(2025年8月20日撮影)

 8月20日、府中市の自宅に牧内節男さんを訪ねた。100歳の誕生日まであと11日。毎友会HPに連載「戦後80年に想う」に原稿を書いていただければ、と思っての訪問だった。

 「ペラ10枚程度? もう書けないよ」

 ペラとは、200字詰めの原稿用紙をいう。

 牧内さんは、生涯ジャーナリストと称して、インターネット新聞「銀座一丁目新聞」を1997(平成9)年4月に開設、「牧念人悠々」を名乗った。

 社会部長の時は、「ドクヘン部長」といわれた。独断と偏見。つねに強気で、部員には「君は10人力」などといって弱音を吐く記者たちを鼓舞した。

 96歳さだ子夫人も元気だ。結婚75年を超えた。「暑さしのぎに、息子の運転で戸隠の山荘へ行き、しばらく滞在します」

 開口一番、「ロッキード事件、面白かったなぁ」。

 「才木(三郎)君が児玉誉士夫の主治医に食らいついて、児玉の臨床尋問を特ダネにした」

 牧内さんが社会部長に座った直後の1976(昭和51)年3月4日付け夕刊1面トップを飾った。

 「児玉、臨床尋問へ」「10億円の脱税容疑」

 張り番の写真部員は、児玉邸の通用門へ5段の階段を一気に駆け上がる2人の検事の写真を撮っている。

 しかし、東京地検は一切発表しない。他紙の夕刊は1行も載っていないのだ。

 翌日の5日付け朝刊1面トップに、検事の後ろ姿の写真が載った。怪物・児玉誉士夫にいどみかかろうとする検察の決意があふれているように見えた。

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1976年3月4日夕刊1面
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児玉邸通用門に駆け込む東京地検検事(写真部史『目撃者の記憶』から)

 「報道にたずさわるものにとって、誰の目にも、毎日の序盤勝利を確定できる特ダネだった」(毎日新聞社会部著『毎日新聞ロッキード取材全行動』講談社77年刊)

 ロッキード事件は、この年の2月5日に発覚した。児玉誉士夫がロッキード社から数百万㌦の贈賄を受けて航空機の売り込みを図ったと米上院外交委員会の多国籍企業小委公聴会で取り上げられた。

 「児玉の行方を追え」

 3方面担当のサツ回りが児玉の自宅に向かうが、「自宅にはおりません」「どこへ行かれたか分かりません」と留守番だという老人が繰り返した。

 8日目の2月12日、主治医が診察に訪れて、初めて児玉が自宅にいることが確認された。24時間張り番の「児玉番」が始まった。

 のちに『児玉番日記』(毎日新聞社76年7月刊)が緊急出版され、牧内さんがあとがきを書いている。

 「雨の朝われより辛し児玉番」悠々

 論説委員牧内節男は、編集局長平野勇夫から「3月1日付けで社会部長になって、この事件を仕切ってくれ」と内示を受ける。

 50歳6か月。三原信一の51歳10か月に次ぐ高齢社会部長の誕生だった。

 「平野勇夫は、1948(昭和23)年5月に社会部のサツ回りを始めた同期生なんだ」

 中部報道部デスクにいた59入社森浩一を警視庁キャップに呼び戻した。

 62入社愛波健に「構造汚職」の続き物をするから準備しておくように、と声をかける。

 《「構造汚職」とは何かといえば、「政治献金あるいは賄賂——その見返りとしての政策決定」をいうのである。これは、自民党が半永久政権の座を確保したため、初めて可能になった。野党が弱体のため、チェック機能が失われ、政策の決定が密室化し、「構造汚職」が容易に行われるようになった》と牧内は書いている。(毎日新聞社会部編『構造汚職―ロッキード疑惑の人間模様』国際商業出版77年刊)

 愛波は、牧内に連れられて児玉邸で児玉誉士夫をインタビューしたことがある。「まだ20代の記者だった私の目には、そのときの児玉が『秘話の宝庫』であるように映った」と書き残している。牧内はいう。「ここには様々な人から頼みごとが来る。正式のルートでは解決できないものばかりである。“特ダネの宝庫”である」と。

 「取材班のキャップ、澁澤重和(63入社)もよくやったね」

 『毎日新聞ロッキード取材全行動』は、澁澤キャップがロ事件取材に関わった全員にマス目原稿に書いて出すよう指令、アンカーに遊軍の書き手62入社瀬下恵介を起用した。

 NTVがこの本を基に、ドラマを制作した。スーパーテレビ特別版「戦後最大の疑獄事件 ロッキード事件〜その真実とは〜」。2003年12月29日(月)放映と発表され、スポニチなどが紙面化したが、直前になって放映中止になった。津川雅彦、長門裕之、阿部寛、長嶋一茂らが出演、アメリカロケも行われた。

 「オレの役は誰だったか。渋い俳優の気がしたが」と牧内。

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1976年7月27日付朝刊1面トップ
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同日付け「田中前首相を逮捕」号外

 「検察、重大決意へ」「高官逮捕は目前/五億円の流れ突きとめる」

 7月27日朝刊の1面トップである。司法記者クラブの検察担当、高尾義彦(69入社)が書いた。

 「上中里の元秘書に気をつけなさい」。前夜遅く、社会部にタレ込み電話があった。上中里は、田中角栄の元秘書榎本敏夫の自宅があるところだ。

 「午前6時27分、地検の係官が入りました」と、上中里を張ったサツ回りの飯島一孝(71入社)。次いで地検担当高尾義彦から「角栄が地検に入った」。

 地検前は写真部が間に合わず、高尾が元首相田中角栄の出頭写真を撮影した。

 その写真は、号外に掲載された。

 「田中前首相を逮捕」「検察捜査、一気に頂点へ/丸紅の五億円受取る」

 記事の下に全3段の広告が入っている。牧内のアイデアで、「広告入り号外は新聞史上初めて」「自慢ではありませんが、高官逮捕時は広告付きの号外を出す、と事前に準備していた」と牧内はうれしそうに話した。

 「銀座一丁目新聞」などから牧内さんの人生をたどると——。

 陸士59期。敗戦は西富士演習場で迎えた。58期生までが戦後公職追放された。59期生は卒業前であったので追放を免れた。

 1945(昭和20)年8月31日復員、ハタチの誕生日だった。母親の実家のある愛知県岡崎市へ。翌46年1月地元東海新聞に入社して記者となる。「食うために選んだ」

 毎日新聞社会部が記者を募集していると兄から聞いて、試験を受け48年6月採用され、池袋署を中心として練馬・大塚・巣鴨・板橋・志村各署を担当した。

 下山事件、三鷹事件、造船疑獄などの事件でもまれ、三原信一社会部長が受賞した第1回新聞協会賞「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」の企画を担当。「三原さんから新聞づくりのノウハウをすべて教えていただいた」と書いている。

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後任社長森浩一さんのサインが中央上部に

 そして三原部長時代に編成された「皇太子妃取材班」のメンバーになった。

 警視庁キャップを務めた後、63年大阪社会部長に就任した立川熊之助に連れられて大阪社会部デスク→サンデー毎日デスク→東京社会部デスク。68年メキシコ五輪の取材班キャップ→69年8月論説委員という道を歩んだ。

 東京本社編集局長のあとは、編集総務→取締役出版担当→西部本社代表。そして88年12月スポニチ社長・会長。書斎に会長を退任した際の寄書きが額に入れて飾ってあった。

 書斎にもう一枚。昨年10月26日、日本記者クラブで開いた東京社会部旧友会の記念写真が飾ってあった。牧内さんの99歳、白寿を祝う会でもあった。参加80人。

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中央花束を持っているのが牧内節男さん。その左森浩一さん、右は愛波健さん(2024年10月26日日本記者クラブ)

 牧内さんの述懐——。

 私は思想的には「右翼」である。憲法改正論者である。とりわけ自衛隊を国軍にせよと主張する。武士道を尊重する男である。昔は左翼だと思っていたが、いつの間にか右寄りになってしまった。

 『衣替え年号令和身に合わず』悠々

 もう一句。

 『秋深し南無阿弥陀仏われひとり』悠々

 最後に私事ですが、牧内さんとの出会い——。

 私(堤)は、初任地の長野支局でサツ回りをしている時に、善光寺の前の本屋で、牧内節男・山崎宗次著『犯罪捜査法』(桜桃社1959年刊)と出会った。警視庁捜査一課担当の事件記者が書いた、サツ回りのノウハウ本だった。隣に佐々木叶・石谷龍生著『汚職:手口と捜査法』(桜桃社1962刊)が並んでいた。むろん2冊とも購入した。

 牧内さんは大正14年生まれ、私は昭和16年だから、トシが16歳違う。私が社会部にあがった69(昭和44)年4月、牧内さんは社会部筆頭デスクだったか。サツ回りにとっては雲の上の存在で、全く認識がなかった。

=敬称略(堤  哲)