随筆集

2025年7月30日

近刊『よみうり抄』に初代・2代目の大毎社会部長

菊池幽芳
角田浩々歌客
『読売新聞よみうり抄 大正篇第1巻』

 図書館で新刊『読売新聞よみうり抄』大正篇第1巻(文化資源社刊、定価16,000円+税)を読んでいて、大阪毎日新聞が1901(明治34)年に創設した「社会部」の初代・2代目部長の名前を見つけた。

 菊池幽芳(清、1947年没76歳)と角田浩々歌客(勤一郎、1916年没46歳)である。

 「よみうり抄」は、読売新聞が1898(明治31)年10月6日から掲載を始めた。芸術家(作家・画家・演劇家)や学者などあらゆる文化人の短信・消息・ゴシツプを取り上げた小欄。この小欄の集積が、今となっては客観的な記録・情報となり、文化人がいつどこに出かけ、誰に会い、何をしたかという膨大な情報群となっているが、従来、この欄を通覧することが難しかったものを、全5冊に翻刻、と出版した文化資源社のHPにある。

 「よみうり抄」1912(大正元)年3月7日(木)

    ▲菊池幽芳氏 旧臘来の病未だ癒えず今猶大阪病院に入院中の由
      1912(大正元)年5月5日(日)
    ▲菊池幽芳氏 「家なき児」の後篇を近々春陽堂より出版すべしと

 菊池は1891(明治24)年、満20歳で大毎入社。2か月後に濃尾大地震が起きて、地震学者にインタビューして記事をまとめ、好評だった、と自叙伝に書いている。

 小説を書いたのは、翌92(明治25)年2月~4月連載の「光子の秘密」が初めて。大毎社長渡辺台水(治、1894年没29歳)から「西洋小説Bertha’s Secret」を渡され、「一々翻訳していては駄目だ。つまらないところは遠慮なく切り捨て、付け加えるところは付け加えて行く……つまり一種の創作である」といわれる。

 その後、毎年数本の小説を大毎紙上で連載しているが、大ヒットしたのは「己が罪」。99年8月から10月まで連載をしたのち、翌00年元日から5月まで後編の連載を続けている。この小説で「毎日数十人ずつ購読の申し込みがあった」(『記者たちの森 大毎社会部100年史』)。

 社会部発足が01(明治34)年2月。菊池は08(明治41)年12月からフランスへ留学、社会部長を角田に譲るが、帰国後の1911(明治44)年4月に再度社会部長、翌12年7月19日編集副主幹兼学芸部長。明治天皇崩御を前に、生粋の社会部記者奥村信太郎(のち社長)が社会部長に就いている。

 角田浩々歌客(勤一郎)は、1905(明治38)年大阪朝日新聞(大朝)から入社。大毎が1911(明治44)年3月1日に東京日日新聞(東日)を吸収合併したことに伴い、翌12(大正元)年7月東日学芸部長となった。

 「よみうり抄」1912(大正元)年8月25日(日)
    ▲角田浩々氏 本郷区駒込西片町11番地に卜居せりと
      1912(大正元)年11月15日(金)
    ▲浩々氏歓迎会 13日築地精養軒にてもようされたりと

 59入社諸岡達一は、整理部で父親の新平と一緒に仕事をしたことがあり、「大モロ」「小モロ」と呼ばれていた。母親が角田の二女。叔母さんにあたる長女小枝子は人事部に勤め、定年後毎友会の事務局を仕切っていた。

 モロさんは、毎日一家の三代目なのである。

薄田泣菫

 16(大正5)年3月16日、東日学芸部長・角田が亡くなり、翌17日東日・大毎に掲載された葬儀の告知広告である。

 大毎学芸部長菊池幽芳と、学芸部記者の薄田泣菫(淳介)は、大阪で文楽を見ていて訃報を知った。年譜によると、泣菫は角田の8歳下で、コラム「茶話」は、この年の4月連載開始とある。

 「交友17年。君は酒好きだったが、量は大して飲むほどでなく、ちびりちびり盃を嘗めてさへ居ればよい気持でゐられるらしかった」(薄田泣菫全集第8巻)。

 泣菫は、19(大正8)年に菊池のあとの大毎学芸部長になった。45年没68歳。

 大阪社会部は、2026年2月、創部125年を迎える。

=敬称略 (堤  哲)