随筆集

2021年5月12日

「ラグビーは毎日なんだよ」…同志社、早大、東京芸大ラグビー部のこと

 日曜日の朝刊(5月9日付)に、同志社大ラグビー部を1面丸ごと特集していた。同志社大ラグビー部は、毎日新聞とも結構深い関係があるので、いくつか補足をしてみたい。

 まず同志社ラグビー部の歴史。元毎日新聞のラグビー記者・池口康雄(東大ラグビー部OB)はこう書いている。

 「慶応義塾がラグビーを導入したのが明治32(1899)年。この12年後にようやく旧制三高、同志社、京都一中と、東海道をひと飛びして京都にラグビーの芽がふき出した。関東以北では慶応の努力にもかかわらず一向に根づかず、二番目の早稲田まで実に19年という歳月を要した」(『早稲田ラグビー』朝日文庫1987年刊)

 同志社は、慶應義塾、三高に次いで日本で3番目に創部した。

 慶應義塾vs同志社。対校戦では最も長い歴史を持つ。ファーストマッチは、創部翌年の1912(明治45)年1月9日。京都の三高校庭で、だった。

第1回慶同戦出場の選手たち(「D」のマークが同志社) =1912年(明治45年)1月8日京都・三高グランド

 「スコアは忘れたが、大敗した」と、同志社のフルバックで出場した鈴木三郎が『同志社ラグビー蹴球部創立25周年記念誌』(1935年刊)に書き残している。

 鈴木は、卒業して大阪毎日新聞(大毎)の記者となり、外信畑を歩んだ。1941~44年ブエノスアイレス特派員という記録が残っている。

 「大毎ラグビー部」は、「関西における実業団チームの第1号」(『関西ラグビーフットボール協会史』)で、1926(大正15)年1月結成。そのファーストマッチ北野中学校戦に、鈴木はHBで出場している。

 その試合のメンバーがスゴイ。FWに松岡正男(慶應義塾蹴球部〈ラグビー部〉の草創期の中心選手。当時経済部長。羽仁もと子の実弟)、久富達夫(東大ラグビー部第2代キャプテン)、「大毎野球団」から野球殿堂入りの小野三千麿(慶大)、高須一雄(慶大、のち南海ホークス初代監督)、井川完(同志社大)と、SOで川越朝太郎(旧姓棚橋、京都一商)の4人。TBに中村元一(第1回早慶ラグビー戦の時の早大マネジャー。晴れの特異日11月23日に試合日を決めた。元仙台支局長)。

 「ラグビーは毎日(新聞)なんだよ」。これは現在、花園で行われている全国高校ラグビー大会生みの親杉本貞一(慶應義塾1913年度キャプテン)の言葉である。1918(大正7)年1月の第1回大会の優勝は全同志社で、その後も同志社中学が第3回大会から5連覇、1年置いて3連覇している。

 杉本は、第1回慶同戦に出場した。

 早大ラグビー部の創部は、同じ1918(大正7)年11月7日。創設者で、初代キャプテンの井上成意が書き残したものを日比野弘早大名誉教授が自著『早稲田ラグビー史の研究』(早稲田大学出版部1997年刊)で紹介している。

 井上成意は1916(大正5)年3月に同志社中学を卒業して、早大商科予科に入学した。「ラグビーが発達するためには、野球のように早慶戦が必要」と述べたうえで、「いやしくも私大の雄早稲田にラグビーの如き勇壮なる競技の存在せざることを遺憾として、幼年より親しめる楕円球を初めて戸塚球場に持ち来たり、同志と共に、蹴球せるが早大ラグビーの涵養である」。

 野球の早慶戦は、1903(明治36)年に始まったが、両校応援団の過熱から06(明治39)年秋の第3戦から中止となったままだった。

 ラグビーの早慶戦は、1922(大正11)年11月23日に始まった。その3年後1925(大正15)年に、野球の早慶戦が復活したのである。19年ぶりだった。

 井上成意は、卒業してカルピスに就職した。「初恋の味」でカルピスが大ヒットした時の宣伝部長である。1956(昭和31)年没、58歳。

 さて、井上成意の父親井上権之助(1869~1938)も同志社OBだ。同志社ラグビー部史に、1889(明治22)年神学部バートレット教授がサッカーボールを持ち込んだことに始まるとある。権之助がバートレット教授と蹴球を楽しんだ様を同僚が書き残している。

 「当時御苑内の芝生の一部が、母校の運動場として使用の許可を得ていたので、学生の所望で創められた兵式体操も、ハルツレット先生(バートレット教授)から初めて蹴球を教わったのもそこであったが、君はそれ等の運動には熱心の参加者であった。脚が短くてかなり矮小な君が、あの長身な先生の肩へ飛び着いて、頸ッたまへ獅咬み着いた珍妙な姿は、今もありありと眼の前に見えて、50年も前の事とはどうしても思われない」

 産業人名事典によると、権之助は1890(明治23)年に同志社を卒業して第一銀行に入行。安田銀行本郷支店長、九十八銀行支配人、横浜市復興信用組合常務理事などを歴任している。  7男1女に恵まれ、成意は2男。12歳下の6男、彫刻家の信道は、東京美術学校(美校、現東京芸術大学)が1929(昭和4)年にラグビー部が創部したときのメンバーで、第3代キャプテンだった。

  兄弟で大学ラグビー部を創部しているのだ。

 美校ラグビーの始めは、山岳画家でのちにアンデスで遭難死した山川勇一郎(1934年油画科卒)。神戸一中のラガーマンだった。

前列右端・井上権之助、後列右端井上成意、左端井上信道(家族の記念写真から)

 1929(昭和4)年の入学早々、「山川がラグビーのボールを持って立っているではないか。私は思わず駆け寄ってラグビー部発足の相談をした」と、信道は『上野の杜のラグビー部1929-1992』(1993年発行)に思い出を寄せている。

 仲間に加わったのは、同級生の真木小太郎(油画科、マイク真木の父親)、川端実(油画科)ら。キャプテンは2年上の菅沼五郎(塑造科)。菅沼は、信道がキャプテンを務めた1931(昭和6)年を除いて34(昭和9)年まで5年間もキャプテンを続けた。

 「まずジャージーを作らなければならない。旧食堂でメリヤスシャツをバケツに入れ、黒く染めたのも思い出だ」と信道。オールブラックスである。部史に「井上の発案」とあるが、「試合のたびに、汗で体が真っ黒になった」とも語っている。

 兄成意に頼まれたのか、1927(昭和2)年の早大豪州遠征に参加した現役選手助川貞次(39年戦死)が指導に来たことがあった。練習後銭湯に行って「助川さんの体躯は、石膏のヘラクレスのよう。私たちの体躯と差があるので驚いた」と記している。

 毎日新聞の美術担当記者だった安井収蔵(2017年没、90歳)が「ああ、東京芸大ラグビー部」というエッセーを残している。こんな芸術家もラグビーをやっていたんだ、という参考に、すでに紹介したラガーマンを除いて安井が取り上げたOBを列挙してみる。

 柳原義達(36年塑造科卒)、舟越保武(39年塑造科卒)、版画家清宮質文(42年油画科卒)、彫刻家大國丈夫(45年鋳金科、52塑造科、56年彫刻科卒)、深沢幸雄(48年彫金科卒)、桐野江節雄(49年油画科修士)、元東京芸大教授・彼末宏(52年油画科卒)、画家宮田重雄の長男晨哉(52年油画科卒)、保田春彦(52年塑造科卒)、高塚省吾、彫刻家飯田善国(ともに53年油画科卒)、吾妻兼治郎(53年彫刻科卒)、新妻実(55年彫刻科卒)、藤田吉香(55年芸術学科卒)、インダストリアル・デザイナー栄久庵憲司(55年図案科卒)、アバンギャルド作家篠原有司男(56年油画科修士)、福本章一(56年油画科卒)、工藤哲己(58年油画科卒)。

 大國は1941~56年、「戦争による4年間のブランクを除き15年間の学生生活」をラグビー部とともにした。2014年に90歳で亡くなったが、法名は「楕円」の2文字である。 もうひとつ、洋画家で女子美大名誉教授入江観(86歳、56年度キャプテン、57年芸術学科卒)が日経新聞文化欄で「上野の杜ラグビー90年」(2019年10月13日付)を書いている。安井が紹介しなかった芸大ラグビー部OBを挙げる。

 漆芸家高橋節郎(38年漆工芸科卒)、インダストリアルデザイナー柳宗理(40年油画科卒)、建築家清家清(美校→43年東京工大卒)、ガラス工芸家岩田久利(51年図案科卒)、画家赤堀尚(54年油画科卒)、画家福本章(56年油画科卒)。

 アートディレクター河北秀也(71年ビジュアル・デザイン卒)、彫刻家舟越桂(東京造形大→77年大学院彫刻修了)、木彫の三沢厚彦(87年彫刻科卒、89年大学院彫刻修了)。

 「世界のオザワ」小澤征爾(86歳)は、第1回東京都新制中学校ラグビー・フットボール大会で優勝した成城学園のウイングだった。SHに後のロック歌手故小坂一也。1951(昭和26)1月の大会だから70年前である。

 小澤の右手人差し指は曲がっている。ラグビーで骨折したのだ。ピアニストの夢は破れ、指揮者に転向した。だから「ラグビーがなかったら『世界のオザワ』は生まれなかったかも知れない」といわれるのだ。

 彫刻家井上信道は、2008年に亡くなった。99歳だった。横浜駅西口にブロンズ裸像「ファンタジー」、神奈川非核宣言県記念碑の母子像などが横浜市内に飾られている。

 妻の画家井上寛子さんは、早大ラグビーが創部した1918年生まれで、ことし103歳の誕生日を迎えるが、4月に都内で個展を開いた。娘の現代アート作家大野静子さんも、5月12日まで横浜三渓園で開かれた「アートの庭―北欧と日本の作家によるコンテンポラリーアート展」で作品を展観した。

 芸術一家である。

(堤  哲)