随筆集

2020年9月1日

東大新聞創刊100年、毎日新聞で活躍したOBたち

 東大新聞をウィキペディア(Wikipedia)で見ると——。

 1920(大正9)年12月「帝国大学新聞」創刊。
 1944年京都帝国大学新聞と合併して「大学新聞」と改題。
 戦後1946(昭和21)年4月「学園新聞」(京都大学新聞の前身)を分離。5月「帝国大学新聞」。
 1947年10月「東京大学新聞」。
 1948年末休刊。
 1949年「東京大学学生新聞」創刊。
 1957(昭和52)年「東京大学新聞」と改題。

 東大新聞は、ことし創刊100年を迎える。「暮しの手帖」花森安治、作家の田宮虎彦、杉浦明平、「週刊朝日」の名編集長扇谷正造らを生んだが、毎日新聞にも何人もOBがいる。

 卒業年

 久富達夫(1925)政治部長。東大ラグビー部第2代キャプテン。「創刊に関わった」
 水野可寛(1925)南方新聞部長。スポーツ毎日編集長。水野順右(58年入社)の父。
 大塚虎雄(1926)ベルリン特派員。新聞連載『学界新風景』『学界異聞』を出版。
 野沢隆一(1927)「帝国大学新聞」社長と呼ばれた。共同テレビニュース社長。
 宮崎健蔵(1929)校閲部長。上智大学教授。
 松浦年三郎(1931)札幌支局、学芸部、政治部、整理部。
 平岡敏男(1932)経済部長。ロンドン支局長。毎日新聞社長。
 高原四郎(1933)学芸部長。サンデー毎日編集長。西部本社編集局長。監査役。
 高松棟一郎(1934)NY特派員。サンデー毎日編集長。東大新聞研究所教授。
 沢開 進(1939)編集委員。「ときの人」欄担当。
 莇 仁蔵(1940)エコノミスト編集長。経済部長。東京本社編集局長。
 柳原義次(1952)ソウル特派員。東欧特派員・ボン支局長。論説委員。
 天野勝文(1957)論説委員。筑波大教授。日大教授。
 高木暢之(1960)シンガポール・ジャカルタ支局長。論説委員。日大教授。
 橋本光司(1966)大阪本社編集局長。西部本社代表。
 潮田道夫(1974)ワシントン特派員。経済部長。論説委員長。帝京大教授。
 瀬川至朗(1977)ワシントン特派員。科学環境部長。早大政経学術院教授。

 高原四郎の「回想の東大新聞」(月刊「文藝春秋」1956年12月号)、元共同通信・東大新聞研究所所長・殿木圭一「帝国大學新聞のころ」(日本記者クラブ会報1979年1月10日号)などから毎日新聞に入社してトロッコから記者になった人達のエピソードを拾うと——。

 久富(旧姓:郷)は工学部造兵科と法学部の2学部を卒業している。一高時代に柔道部、水泳部に入り活躍、ボートも漕いだ。東大ラグビー部は、1921(大正10)年11月香山蕃が三高のラグビー部員ら31人で創部したが、そのメンバーに久富は入っている。

 久富は、香山のあとの第2代キャプテン。大阪毎日新聞に入社して、ラグビー部をつくり、選手としても東西対抗に出場している。

 《この人はあけっぴろげの明るい性格で、学生たちによく酒をのませた。会えば必ず家にのみにこいというので、本郷金助町という地の利もあってときどき大挙して久富家へ押しかけていった。学生たちは久富氏に「親分」の愛称を捧げていた》

 久富家には4斗樽が置かれ、政治部の記者やラグビー仲間、東大の学生らでいつも大宴会だったという。

 関東大震災では、罹災した避難民3千人が東大構内につめかけた。久富は先頭に立って避難民の救護にあたった。

 東大セツルメントは関東大震災で生まれるが、社会部旧友水野順右の父親水野可寛の名前がある。可寛は「セレベス新聞」にも派遣された。

 高原が「帝大新聞」の「社長」だったと書いている野沢隆一(1902~1991)。東京日日新聞での実績は分からないが、人事録には戦後信越放送社長、フジテレビ取締役、共同テレビニュース社社長・会長などとある。

 《帝大新聞のボロ社屋に平岡氏を始終訪ねてくる顔色の悪い学生がいて、その名前を津島といった。これが後年の太宰治であった》

 旧制弘前高で太宰と一緒だった平岡敏男。毎日新聞社が経営危機にあったとき、新社を設立して、社長に就任した。その後、旧社に残した負債を返済して、新旧合併して今の毎日新聞社がある。1986(昭和61)年の広島原爆忌に亡くなった。77歳だった。

 柳原義次。写真家・沢田教一がピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。写真に写った家族を探し出して記事にしたのが柳原だった。

 ここまでは実際に話したこともない大先輩。「東大新聞」OBといえば、社会部旧友天野勝文だ。1957(昭和32)年東大文学部社会学科卒で、毎日新聞入社が2年後の59(昭和34)年。この2年間、経営破綻した「東大学生新聞会」が「財団法人・東京大学新聞社」として新発足し、その専従職員だった。

 リクルート創業者である江副浩正(1936~2013)が自伝『かもめが翔んだ日』に、天野との出会いを書いている。《「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」といわれたと》

 「新聞は下から読め」「広告もニュースだ」から、東大新聞に大手企業の求人広告が続々掲載されるようになった。江副は、そのノウハウを持って「東大新聞」をおさらばする。

 東大新聞の復刻版が発行されている。関東大震災で東大の図書館も焼けた。収められているのは、1923(大正12)年11月以降。第1号~第56号(大正9年12月25日の創刊号から大正12年10月)までを版元の不二出版も探している。

 なお、日本で最初の学生新聞は慶應義塾大学の「三田新聞」で1917(大正6)年5月創刊した。「東洋創始」をうたった。1971(昭和46)年に休刊したままである。

(敬称略)

(堤  哲)