2021年12月23日
元社会部長、清水光雄さんが学生時代の仲間と『団塊世代の句集』を出した!
今月(2021年12月)、学生時代から付き合いのある連中を中心に27年間続けてきた温泉句会をまとめた句集『酒宴の後、句会をなす~団塊世代の「温泉と俳句の会」全句集』を(株)ウェイツ社から刊行しました。
頭割りで費用を持ち寄った自費出版です。メンバーの多くは毎日新聞と何らかの形で交差しており、句集の紹介と同時に彼らと毎日新聞とのつながりも書いてみたいと思います。

≪句会メンバーは14人≫
メンバーは故人を含め14人。栃木弁でテレビ旅番組のMCをやって有名だった作家、故立松和平さん(通称ワッペイさん)、1979年の三菱銀行人質事件を題材にした映画『TATTOO<刺青>あり』で映画界に衝撃を与え、最近では『痛くない死に方』を作った映画監督の高橋伴明さん、2007年参院選比例区で45万票と自民党内2位の票を集めたJA全中(全国農業協同組合中央会)出身の参院議員の山田俊男さん、元連合社会政策局長で、今流行の「ふるさと回帰」運動の仕掛け人、認定NPO法人ふるさと回帰支援センター理事長の高橋公さん(通称ハムちゃん)、小池知事の知恵袋として、都政改革に招請された元環境庁審議官で弁護士の小島敏郎さんら多士済々です。
中心メンバーの多くは団塊世代であり、句集には「俳句」のほか、各人のプロフィール、或いはこれまでの生き方の小文「思い出の記」も収容し、「団塊世代の句集」と名付けました。
句会の始まりは、1994年です。リーダーは映像制作会社オフィスボウ社長で、テレビ朝日のキャスターも務めた故彦由常宏さん(通称彦さん)。彼は、1963年の早稲田大学費値上げ闘争時の全学共闘会議政経学部委員長。69年の大学闘争時には早稲田大でノンセクト集団「反戦連合」を率いました。開業医の鈴木基司さん(通称基司さん)、ハムちゃん、ワッペイさん、そして私もそのころからの付き合いです。
85年に会社を設立、アフガン戦争、ベルリンの壁崩壊、核禁止運動等をディレクターとしてカメラマンと共に取材、世界を飛び回っていました。社員が育ってからは、現場取材は彼らに任せ、農業関係のイベントを手掛けたり、河合塾と提携し、オンライン講義の模索を始めました。我々は学生時代の縁で、仕事と関係なく、雑談のためにだけに彼の会社に出入りしていました。
この94年ころ、彼は「酒飲みすぎ」で体調不良に陥っていました。しかし、幼少のころから剣道で鍛えた頑健な肉体には絶対の自信を持っており、医者嫌いも重なって、健康診断さえ受け付けない状況でした。
一の子分であるハムちゃんが心配し、高崎市に病院を持つ基司さんのところで健診を受けさせるべく、皆との温泉旅行を企画したのです。
旅館は宝川沿いに延べ850㎡(プロバスケットのBリーグ、千葉ジェッツのホーム、船橋メインアリーナの3分の1個分)もの露天風呂を持つ群馬県宝川温泉汪泉閣。夕食後、ハムちゃんが「俳句でも」と言い出し、ワッペイさんが「酒宴の後、句会をなす」と筆で前口上を書き、始まりました。夕食後に出た岩魚の骨酒に感激したハムちゃんが「大杯に/岩魚寝ている/春の宵」と詠み、大賞を獲得、気を好くします。彼は温泉旅行の企画者、いわば主宰者なので、以来、温泉旅行と句会はセットになりました。
彦さんは「春の夜や/日光の坂/トロツキー」等豪快な句を詠んでいましたが、「われ大臣/天の花火の/命かな」の句を残し、97年2月に食道がんで世を去りました。彦さんの大学先輩で句会の長老、三島浩司さん(社会派で著名だった三原橋法律事務所で弁護士として活躍しました)は句集の小文で、キャスター時代の彦さんに触れています。
『テレビ画面に映し出された君。顔は引きつり、声は上ずり、身体全体は強張って、まるで「失語症」に陥ったような君がそこにはいた。あのような「業界」で人を押しのけて生き抜いていくには、自らを「商品」として平然と売り込み、泳ぎ渡っていく相当の覚悟が要求されたことだろう。元来、剣一筋に生きてきた剣士としての君は(中略)内面は著しく傷つけられ、やがて棲みついたがん細胞は、酒を栄養分にして、増殖する事になった』と書いています。
彦さんの逝去時、私は千葉支局長で夕刊コラム「憂楽帳」を担当していました。「さらば彦さん」のタイトルでその死を取り上げ、「幽明境を異にしても、友は愛した者たちの心の中に生きる」と結びました。
彦さんは元来新聞記者志望で、早稲田にも彼の受験時には、まだあった政経学部新聞学科に入学しています。学生運動のリーダーだった責任を取って大学を中退した後も、新聞の役割には関心を示し、オフィスボウ時代、戦時に戦争をあおり、当局の報道統制に従った新聞を批判したテレビドラマ『新聞が死んだ日』にプロデューサーの一人として加わったこともありました。
キャスターの彦さん像を取り上げた三島さんもまた、がん手術で胃を全摘しています。「斗酒なお辞せず」派だったのに、句会では「酔生夢死」状態。しかし、酔うまでは中国古典に支えられた該博な知識を披露し、学ぶことが多いのです。酒を控えると「われもまだ/熟す間も無き/寒卵」「今朝もまた/生きながらえて/年の暮れ」等名句を連発します。
私が社会部長時代、彼がオウム裁判の弁護団に加わったことがありました。担当記者を紹介し、記者は三島宅を夜討ち朝駆けの結果、いくつかの特ダネをものにしました。後で経過を聞くと、三島さんはヒントをくれるだけで、担当記者が当局に裏どりして書いたものでした。弁護士としての守秘義務の矜持を見た思いでした。
彦さんの死後も句会は続きました。ワッペイさんはNHKの俳句番組にレギュラー出演するようになっていました。この句会でも大いなる自負はあったようですが、選句となると得票は余り伸びないことがよくありました。その模様を伴明さんは句集に『(彼は)文学者の割には打率が低かった。俳句と小説は別物という割り切りもあろうかと思うが、それにしてもということが多かった。「お前ら、文学が全然わかっていないんだよ!」。引き攣った顔でふてくされた顔を思い出すたび笑えて来る』と活写しています。
ただ、今になって句集を読み返してみると「山燃えて/ひとつひとつの/もみじかな」「山門を/くぐってそこに/柿ひとつ」「短夜を/沈めて青し/オホーツク」等、作家らしく豊富なボキャブラリーを駆使し、風景を切り取っています。
その彼もまた、2010年に逝去。皆には秘していましたが、長く心臓を患っていたようです。最初に手術した年の句会の発句「命あり/今年の桜/身に染みて」(2004年の句)が印象的です。
ワッペイさんは毎日新聞やサンデー毎日の連載などで我が社に貢献してくれました。私も社会部デスク時代の1993年、東京の「今」を文と写真で綴る連載を企画し、彼に執筆を依頼しました。この頃、彼はテレビに度々登場し、“時代の寵児”の趣があり、忙しい日々を送っていたのに、「清水の頼みなら」と二つ返事で引きうけてくれました。『東京楽苦園生活』のタイトルも彼が付けました。初回は『夕焼けとんび』など三橋美智也の望郷の歌の歌詞をいくつかひき、東京が持つ磁場の強さが地方を衰退に追い込んでいる悲しみを書き、「地方の良いものはすべて東京に吸収されてしまった」としました。地方から東京の大学に出て、なおも東京で働く多くの団塊世代の胸にキュンとくる話で滑り出し、連載は好調に進みました。
その93年の秋、ワッペイさんが雑誌『すばる』(集英社)に連載していた『光の雨』について、坂口弘死刑囚の手記を断りなく引用した「作品盗用疑惑事件」が降りかかりました。(NHKが裏どり取材もせずに報じた問題ですが、経緯の詳細は句集に譲ります)。
小説『光の雨』は1971年~72年に起きた連合赤軍事件、その中でも山岳ベースで「自己総括」の名のもとに同志12人を粛清したリンチ事件について、彼は「自分たち世代の責任として、文学にしたい」と取り組んだものでした。事件は彼が一切弁解をせず、雑誌に謝罪文を載せ連載を打ち切ることで告発側と和解しました。身近で見ていた我々は、この疑惑発覚で彼に仕事を依頼していた人間が次々と去っていくのを見せつけられました。テレビ朝日は早々と旅番組から彼を下すことを決め、出版社の集英社は初めから逃げ腰でした。“時代の寵児”を引きずり下ろすべく、世間から浴びせられる非難の嵐もまたすさまじいものがありました。
そしてわが毎日新聞。事件発覚翌日、私は社会部の朝刊番デスク、『東京楽苦園生活』の組み日でもありました。交番会議の席上、私に向かって「(疑惑問題は)大丈夫だよな」と担当交番が言いました。その一言で、掲載継続が決まりました。我が社の度量の広さを再認識しました。
その5年後の98年、ワッペイさんは稿を全く新たにした『光の雨』を完成させ、落とし前を付けました。その陰には事件当時、非難の嵐の中、「本当にお前が書きたいのなら、世間から何と言われようと、とにかく命がけで書くべきではないか」と励ました雑誌『新潮』編集長、坂本忠雄さんがいました。98年、原稿が出来上がり、3か月間の短期集中連載時には、校了直前の深夜まで表現をめぐって、ワッペイさん、担当編集者、坂本さんの3人が徹底的にやり合ったのだそうです。坂本さんは、ワッペイさんの追想集に「私は(彼を批判する)マスコミの風潮に単に反発したのではなく、作家は生涯に一度書き残しておかなければならない作品がある。連合赤軍事件の首謀者たちと同世代の彼にはこれを完成させる責務があるという一念から(執筆を)迫っただけである」と書いています。同じ活字文化の担い手として、誇るべき人もいるのだな、と思わされました。
さらに、それから3年後の2001年、今度は伴明さんが小説の映画化を実現してくれました。句会仲間の連帯感に私は胸を熱くしたものでした。
伴明さんの奥さんは、今なお美貌を誇る高橋惠子さんです。都内で開かれる句会には“サプライズ”で伴ってくることがあり、美人さんに出会える唯一の機会とメンバーの楽しみです。監督の句、「肩を抱き/銭湯帰りの/時雨道」は若き日の奥さんとの思い出か、はたまた…。東日本大震災後の句会では「五月雨の/瓦礫平野に/赤い傘」と映像作家としての鮮やかさを見せています。
≪農業・農政関係者も合流≫
メンバーには農業・農政関係者もいます。一人は有機野菜の産地直送の「大地を守る会」(現オイシックス・ラ・大地株式会社)の創設者で同社会長の藤田和芳さん(通称藤田大兄)。上智大新聞会で全共闘運動を闘い、青春の彷徨時代、サンデー毎日で有機農業を知り、その野菜を集めては団地で売り歩き、この道に入った人です。「大地を守る会」は元学生運動家で、加藤登紀子さんの主人だった藤本敏夫さんが会長を務め、有名でしたが、その下で藤田大兄は実務を支えていたのです。以来、今日まで50年間近く、この道一筋、今も現役で代表取締役会長です。我が秋田のお隣の県、岩手県水沢市出身。その持続性には同じ東北人として誇らしいものがあります。
連合の社会政策局長だったハムちゃんと「給食改善」政策会合で知り合い、我々との付き合いが始まり、句会の設立メンバーの一人でもあります。
「湯の谷で/鴨がつがいで/シャルウィダンス」「冬陽さす/隣の時計/二時を打つ」「花曇り/寝返り打てば/消える夢」等々句会の度に最優秀句&総合優勝者に選ばれています。ワッペイさんを送る句「またひとり/友乗せ逝きし/花いかだ」も忘れ難いものです。
もう一系統はJA全中出身の二人。一人は参院議員の山田さん。もう一人は全中時代、彼の部下で、今は遺跡の発掘というセカンドキャリアを生き、温泉旅行企画と句会の記録を一手に引き受ける森澤重雄さん。
二人は1987年に全中改革運動として、鉢巻き姿で拳を突き上げ、政府に米価のアップを迫るそれまでの「米価闘争」を「国民に理解される運動」にしようと画策しました。彦さんの会社がイベントを引き受け、「全都道府県の特産農産物を両国国技館の土俵に捧げる儀式とシンポジウム」を企画、「いのちの祭り」と命名し、準備に入りました。キャッチコピーは毎日新聞の名物「仲畑流万能川柳」の中畑貴志さん制作。そのコピー、「人間はアブナイものを作りすぎた。今 農業」は今も(今こそ)光り、覚えておられる方が多いかもしれません。
準備段階で、句会メンバーも“野次馬”として、議論に参加したものでした。イベント当日、全国から6~7千人が参加し、新聞・テレビにも多く取り上げられ(毎日新聞は社会面トップでした)、成功しました。全中という超保守団体が、国民の中に飛び込むという離れ業をやった訳です。
山田さんには毎日新聞はJA全中の広告出稿などで大いに世話になりました。
我々、編集局では海外取材は経費面でかなり厳しく制限されます。但し、スポンサーを見つけてきて、広告企画として紙面展開すれば、経費は瞬く間に出てきます。社会部の名物記者、佐藤健さん譲りの手法です。JA全農が卓球のスポンサーになって、石川佳純さんに賞品の米などを出して、ブランドイメージを高めるアレの、新聞バージョンです。私の専門分野の一つ、アマゾン等の南米企画で部下を出張させるのに、山田さんにお願いしたのは一度や二度ではありませんでした。
山田さんは参院選初出馬の折り、遊説中に飛び込みで句会に参加。「決意して/我も芽吹かん/この想い」と詠んだり、森澤さんは「人の世の/痛みも知らず/桜咲く」と減反政策廃止をチクリと刺したりしています。
≪句会の進行は、有名句会並みにオーソドックスに≫
句会は当初、思いつくままに詠み、皆で選句する、という単純なものでしたが、基司さんと群馬県前橋市の高校時代からの盟友、建設会社勤務の小峰昇さんが加わってから、句会の進行は様変わりしました。他の有名句会の常連でもあった彼が句会のオーソドックスな進行形態を持ち込んだのです。
まず、句会冒頭に彼が季題を出します(席題)。メンバーは短冊に発句した3~5句を書き提出します。その短冊を2~3人で手分けし、誰が作った俳句かわからないようにするために、「転記用紙」に書き写します。10人が参加し各自3句発句の場合、30枚の短冊が集まってくるので、転記用紙1枚に6句書き写すと5枚の転記用紙が出来上がります。この転記用紙を順繰りにメンバーに回覧し、優れていると思う句を「選句表」に書き留めます。そして、「選句表」を集計し、選ばれた句を「最優秀句」、総点数の最も高い人を「優勝」とします。
その彼。仕事で苦境にあった時には「身の軋む/こと多かりし/桜散る」と詠み、リタイア後の中東旅行では「時雨きて/シリア逃れる/母娘」とグローバル感を出しています。
学生時代の寿司店のアルバイト経験から、寿司の握りが特技です。市場で魚を仕入れ、マイ包丁で捌き、ヒラメ類白身は昆布締めにし、マグロは程よい大きさにカットし、自ら炊き上げたすし飯で、握るのです。銀座・久兵衛に負けないほどです(行ったことはないけど)。句集作りの過程で、基司さんの別荘で、私と彼、森澤さんの4人の編集委員が、2度にわたって一泊二日の合宿を行いましたが、夕食は無論、彼が握る寿司でした。それも一人当たり20~30貫も。22年1月の打ち上げ合宿では、私が我が郷土料理、きりたんぽ鍋を振る舞う予定です。
≪医学部のない早稲田出身者が多いのに、医師二人がメンバーに≫
いうまでもなく大学闘争でドロップアウト(中退)後、医学部に入り直して、医師になった人たちです。
基司さんは、そもそも早大反戦連合のトップに彦さんを据え、社会科学部自治会幹部で別組織にいたハムちゃんを引き抜いた人で、いわばこのグループの生みの親とも言えます。
早稲田を追われた後は、地元の群馬に帰り、群馬大医学部に入学、卒業しました。今は子供の心療内科の病院を開いています。地域医療にも熱心で2009年にはこの分野の最高賞と言われる「保険文化賞」を受賞しています。
森澤さんが加わるまでは、句会の記録を担当。溜めておいた古い資料が句集作りに役立ちました。
「さみだれて/共に向かいし/過去ありし」「雪解けの/ぬるむ野天に/身をまかす」と、若き日に夢見た“平等社会”への改革に思いを馳せる句を詠んだりしています。句会のチームドクターでもあり、私も伴侶ががんにかかった際、高崎まで通い、相談に乗ってもらったり、漢方治療を受けたりしました。
もう一人は埼玉県の勤務医の辻忠男さん。さいたま市立病院副院長を経て、現在は川口市の埼玉協同病院消化器内科に在籍。慢性膵炎・膵石の内視鏡治療数では世界のトップクラスです。基司さん、小峰さんとは高校時代からの知り合いで、早大反戦連合でも、基司さん、ハムちゃんらと最後まで闘い抜き、「栄光の中退」(本人言)後、基司さんより一足早く群大医学部に入り、医者の道へ。句会は初期のころには熱心に参加していましたが、最近はあまり顔を見かけませんでした。
それもそのはず、6年前から沖縄・辺野古闘争に参加し続けていたのです。2016年には「沖縄の闘いに連帯する関東の会」会長に就任。休日の度に沖縄通いを続け、地元では「(連帯する)ドクター」とリスペクトされています。句集には「自薦句」と「思いの出の記」に替えて、辺野古での闘いの熱い思いを綴り、本の冒頭の口絵写真には沖縄の“おばあ”に寄り添い、連帯する写真を投稿しました。
出版の打ち上げは12月中旬に行われましたが、伴明監督が「今の世の中、やはりおかしいよな。句集では辻さんの文章に感動した。私もいつの日にか、沖縄に行かなくては」と酔った勢いだけでなく、真顔で語っていました。
≪東大卒の元官僚らも≫
東大の現役時代、「国家公務員試験一けた台、司法試験二ケタ台」で合格した秀才、小島敏郎さんもメンバーです。環境庁2期生で、東大全共闘の経歴を隠さずに、審議官まで上り詰め、そのころハムちゃんと仕事で知り合い、句会に来るようになりました。リタイア後は天下りを拒否、青山学院大教授に就任。小池百合子都知事とは環境庁長官時代に仕えた縁で、知事就任時に都庁に招請され、都政改革の知恵袋を務めています。
「また一年/もう一年の/年の暮れ」と現役時代と変わらぬ忙しさを詠んだり、「満天の/空に流るる/花いかだ」と知り合いだったワッペイさんを悼む句も、ものしてます。

紅一点は電通出身で広告会社主宰のマエキタミヤコさん。50代でメンバー最年少。大学生と社会人の二人の子供の母親ながら、フェアリーの雰囲気を漂わせ、句も「考える/不在の不在/薄霞」とシュールなもので、新し物好きを自任するオジサン(オジイサン?)たちを喜ばせています。
さて、末席に控える私。2004年の中越地震後の句会で「崩れゆく/棚田に長し/秋の影」とジャーナリスト的感覚を発揮し、最優秀句に選ばれました。しかし、その後はサッパリ。「亡き人の/夢ばかり見て/秋深む」のような、亡妻を詠む句を中心に発句しますが、メンバーは口には出さないものの「情に流されすぎ」「毎度毎度の亡妻句では既視感あり」「未練がましい」「またか~」と思っているのでしょう、票が集まりません。
毎日俳壇の選者、片山由美子先生は毎日新聞夕刊の連載エッセイで、亡き妻を詠んだ投稿者とその句を取り上げ「日々、亡き妻とともに生活していることが伝わってくる。このように、詠みたいという心から発してこその俳句である」と書いていました。
私の夢は、亡妻の句で満点句を取る事です。そして、いつか、あの世で再会した時、一番褒めてほしかった人から大きな拍手を受けてみたいものです。
※尚、この句集は国立国会図書館(私の地元、船橋市東図書館にも)寄贈、年明け後には、検索をかければ、同図書館内で読むことができます。
(清水 光雄)