2021年11月8日
「平和のためなら 何でもやる」③ ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」
私の生き方は長崎大学で全共闘運動に加わったことが決定打になりました。セクトに属してはいませんでしたが、当時で言うノンセクト学生としてベトナム反戦運動や日米安保反対運動のためのデモ、集会に参加していました。また当時、全国展開していた「水俣病を告発する会」にも入り、患者たちの裁判闘争を支援するため熊本地裁の傍聴・集会に出かけていました。
68年1月の米空母「エンタープライズ」佐世保入港阻止闘争(通称・エンプラ闘争)、69年11月の佐藤訪米阻止闘争(東京)への参加は50年以上経た今も当時の緊迫したさまざまな情景が浮かんできます。エンプラ闘争には一昨年12月、アフガンで用水路建設を通じて砂漠を緑化し農村再建に大きく貢献しながらテロの凶弾に倒れた中村哲さんも参加していたそうです。また、最近、お互いに知ったことですが、69年11月17日の佐藤訪米を阻止するため、前日の16日に日比谷公園で開かれた全共闘主催1万人集会、翌17日、蒲田駅周辺での阻止闘争には、この原稿を書くように勧めてくれた後輩も参加していたそうです。お互い驚き合い、京都と福岡と遠くにいながら強い連帯感が湧くのを覚えました。
「大賀、お前、経済学部にいて学生運動していたら就職できんぞ」─大学前の書店でそっと近づいてきた私服刑事に脅された言葉には、自分もそう感じながら運動に参加していたので正直、動揺を隠せませんでした。しかし、その場は強がって「うるさい!」と言い返し、逃げるように下宿先へと急いだことを覚えています。
「新聞記者への道」はこうした学生運動に参加する中で必然の流れでした。入社試験のための勉強に力を入れたのは言うまでもありません。
学生運動の仲間と――長崎大アジア留学生奨学基金を設立
長崎大学アジア留学生奨学基金は15年春に設立されました。約50年前は全国の大学でベトナム反戦や大学の自治を求めて学生運動が広がっていました。何度も逮捕され退学した者もいます。卒業後、教師、医師、公務員、自営業、サラリーマンなど歩いた道はそれぞれですが、何年かに1回、大学の生協食堂を借りて同窓会を開いてきました。しかし、メンバーの高齢化が進み「14年3月開催を最後にしよう」と決まりました。
そこで、事務局を担当している元小学教師の友人に「このままサヨナラするのは寂し過ぎるのでは。もう一度、みんな力を合わせて何か社会貢献して死んでいこう。かつての中国・アジアへの侵略戦争を反省し、将来を背負うアジア諸国からの留学生を支援し平和の架け橋になってもらおう」と提案しました。行動力のあるその友人は「それはいい、すぐみんなに呼びかけよう。大学と生協にも協力をお願いしてみよう」と応じてくれました。
反響は想像以上でした。奨学生の募集をお願いすることになる大学側は「1千万円集まれば協力できます」。基金管理をお願いする大学生協は「無償で協力しましょう」との返事。全共闘仲間には予め、いくら程度寄付できるかを問い合わせると日を置かず大学側が求める「1千万円以上」の見通しがたちました。

「学生時代、少しでも戦争のない世の中にしようといって共に闘った熱い気持ちは消えていなかったんだ」と、基金提案者としての喜びは言葉で表せないほどでした。薬学部卒の元厚労省麻薬分析官(女性)は何と400万円の寄付を申し出てくれました。6桁の寄付者も数名。私も応分の負担はさせもらいました。基金設立から6年になりますが今も、1万円、2万円と毎年、寄付する仲間が数名います。今年9月末現在、49名から1900万円余が寄せられています。
学生募集は大学、基金管理は大学生協が協力。7月と10月の年2回選考・交流会、3月に研究発表・交流会を開き、これまで中国、韓国、ベトナム、タイ、台湾、バングラデシュ6カ国の留学生延べ35名に月々2万円を2年間給付。「平和の灯」を灯し続けています。
中国の高齢者施設でハーモニカ交流
12年8月、大阪と長崎の訪中グループに加わり南京を中心に日本軍の掃討作戦で被害を受けた農村部を訪問、幸存者(こうぞんしゃ=身内を日本軍に殺害された遺族や被害者)らから聴き取り調査をしました。私にとって3年ぶり6度目の南京訪問。2年前の10年9月、尖閣諸島近海で操業中の中国漁船と取り締まり中の海上保安庁の船が衝突。漁船船長が逮捕されて中国全土で反日デモが起きました。
その影響がまだ残っている中で思い立ったのが戦争被害を受けたお年寄りたちが入居している高齢者施設への寄付と趣味のハーモニカ交流でした。知人の元南京大虐殺記念館通訳・常嫦さんに相談し3施設を選んでもらいました。施設側は当初、「日本人は何か下心、他の目的があるのではないか」と疑ったそうです。

8月15日、訪中団約50人は南京大虐殺記念館の敷地内で追悼・平和集会を開きました。私は集会後、グループから離れ、常嫦さんの案内で3カ所の施設を巡り、合計150万円と入所者・職員全員(約130人)に持参のマフラーをプレゼントしました。訪問した時、お年寄りたちからどのような反応が返ってくるか、緊張と心配でいっぱいでしたが、温かく迎えられ、ハーモニカ演奏「北国の春」には、手拍子とともに一緒に歌ってもらうことができました。
私は3施設で、かつての侵略戦争で日本が中国に甚大な被害を与えたことを詫びたうえで、「日本では侵略戦争を心から反省し、二度と戦争をしない日本にするため大勢の人たちが努力しています。どうぞご理解ください」といった趣旨のあいさつをしました。私の話に聴き入るお年寄り、職員たちの優しい眼差しに接し、「自分の気持ちが通じてくれたかな…」と、少し安堵しました。
翌日の新聞を見て驚きました。若い記者とカメラマンが取材に来た南京最大の夕刊紙「揚子晩報」(100万部以上)は1ページぶち抜きの見出しでトップ記事でした。8月15日は中国の戦勝記念日。当然、関連記事が多い中での異例の扱いでした。
私が元新聞記者だったことに関心を示した両記者に「20年以上、記者として日中友好のため努力して来た。若いあなたたちはこれから活躍する年代。日中両国の友好促進のため力を貸して欲しい」と訴えました。
「8月15日」の関連記事の中で、朱成山・南京大虐殺記念館館長らのニュースの上に私の施設訪問を持って来たのは、同紙が日中友好を重視していることを示したものと思いました。後日、「人民日報日本語版」でも詳しく報じられました。施設訪問が少しは日中友好促進のお役に立てたのではと確信しています。
障がい者通所施設「あおぞら作業所」を開設・建設
長崎大学在学中、学生運動に参加しながら、障がい者施設を訪問するボランティアサークルに所属し、2年間、部長を務めました。後年、障がい教育の専門家として毎日新聞でも度々、紹介され、投稿もされた近藤原理先生(長崎県佐々町、故人)が顧問でした。小学教師をしながら夫婦で10数人の障がい者たちと共同生活し、農業をされていた方で、私は新聞社在職中も退職後もお付き合いをさせていただいていました。
記者時代、『医療・福祉の大賀』を自称し、障がい者に関するニュースを追い続けたのは、「障がい者と共に生きる」近藤先生夫婦の姿に大きな影響を受けていたからです。「退職後は人生最後の仕事として作業所運営を」と、妻と話し合い、自宅近くの一軒家を借りて開設したのが知的障がい者のための通所施設「あおぞら作業所」でした。定年1年前の05年、辞職願を社に提出しました。3月に卒業して即4月に開所するあわただしさでした。

作業所運営の詳細は省きます。自宅に隣接して小さな2階建て作業所を建設し、15人の仲間たちが「アルミ缶作業班」「紙漉き班」「クッキー班」の3班に分かれて楽しく元気に通っていました。しかし、法律改正で大規模化(20数人以上)が義務付けられ、基準を満たすにはさらに数百万円の資金が必要となり、「個人的運営は今後、無理」と判断し、わずか4年で閉所に追いやられました。仲間たちは全員、数カ所の大規模施設に移り元気に通所しています。「障がい者と共に歩く」という私たち夫婦の夢は露と消えたわけです。
それから11年が過ぎましたが、閉所後に仲間の保護者から「休日にすることがなくて困っている」との声が寄せられたため、月1回、日曜日に希望する5人の仲間たちが我が家にやって来て、地域60世帯や私の友人・知人提供のアルミ缶のプレス作業をしています。業者に納品して益金でファミレス昼食会を開き、年末にはボーナスも支給します。
地域の人たちは、回収に来た仲間に「頑張ってね」と声掛けしてくれたり、「昼食会の足しに」とカンパをくれたり、夏には飲み物を差し入れしてくれたり……。
人間世界は争い事が絶えませんが、福祉の世界には人間の優しさがたくさん集まってきます。この優しさの広がりを期待しながら、月1回、私の人生観や社会事象への意見などを織り込んだチラシ「アルミ缶をください」を11年間、約60世帯に配り続けています。ただ、私は75歳、妻も来年1月で75歳。「いつまで続けられるかわからないね」と話す二人ですが、仲間たちの純粋な心、優しさに教えられること多く、また地域の人たちの優しさに支えられ、もうしばらく続けたいと考えています。