元気で〜す

2021年11月5日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑰ ある新聞記者の歩み 16抜粋

外交のおもしろさ実感 カップ麺で空腹しのいで原稿打電もよき思い出

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
 全文はMENJO,Satoshi
 今回は政治部生活の終盤、外務省担当になった短い期間の体験談であり、外交のなまなましい現場を見た貴重な証言を話していただきました。

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目次
◇第2次石油ショックの記憶無し
◇大平・福田決選投票で解散へ
◇首相秘書官の涙、新聞記者の高揚感
◇誰が日本の外交のウォッチするのか?!
◇伊東外相を辞任に追い込んだものは?
◇難民センターで切実に訴えるおばあさん
◇「どん兵衛」で空腹をしのぎながら原稿打電
◇拉致された金大中が大統領に!
◇日本の外相を30分待たせた“アジアのあんちゃん”
◇小和田雅子さんが活躍していた北米二課

◇大平・福田決選投票で解散へ

Q.政治部で出会ったドラマをさらに伺います。

 その年(1979年)の10月の総選挙で自民党が過半数割れとなって、福田さんが大平首相の責任追及をして、いわゆる “40日抗争”が起きるんですね。大平・福田が衆参両院で同じ自民党同士で決選投票やるんですが、まさに大福戦争、そのときぼくは議場の記者席にいて現場を見てるんです。しかし福田さんが負けました。

 かれは前からこの間、“天の声”という言葉を使って記者を煙に巻いていたんです。その敗北会見でガックリ肩を落として「天の声もときには変な声もある」と言いました。それは自民党本部での記者会見のことで、それにもぼくは出ていました。政権奪取抗争の凄まじさを実感しましたね。

 そのあと5月に、内閣不信任案が大平さんに出されて、自民党の福田派を中心に主流派が欠席しました。衆議院のホールというのがあるんですが、主流派百何十人かがそこにとどまったまま議場に行かなかったのです。それで結局不信任案が通っちゃうんです。結果として、6月末に戦後初の衆参ダブル選挙になりました。その前年の10月総選挙をやったばかり、わずか8ヶ月に満たないで選挙、いかに政局が激動の中にあったかが分かると思います。こっちはそれで「解散!選挙だ!」と高揚してしまいました。

◇首相秘書官の涙、新聞記者の高揚感

 その解散決定、総選挙というとき、福川伸次さんと偶然衆院の車寄せで出会いました。福川さんはぼくが経済部で第一次石油ショックの時の通産省担当時代に“通産省の知恵袋”といわれた官房企画室長当時から、親しくさせてもらった人で、後に通産次官になる人です。

 福川さんはその時、大平首相秘書官で、安倍首相当時の今井秘書官のような立場だったと思います。今井さんのようにアクの強い人ではなく、誠実な知識人というタイプでしたね。不信任案が成立して大平首相を首相官邸まで帰る車を送っているところでした。秘書官だった福川さんに「いよいよ解散ですね」と当方が嬉しそうに言ったら、福川さんがなんと目を真っ赤にして泣いているんです。なるほど現場にいて首相を支えて苦悩する首相の姿を目にしている人と、われわれ野次馬・ジャーナリストとは違うもんだなあと、感じたものです。当事者と、われわれとの距離というものをしみじみ感じました。その後、経済部に戻ってから福川さんに会合で会って、「あの時、福川さんは泣いていましたよね」といったら「そうだったかな」とトボケられましたけどね(笑)。

 大平さんは本当に福川さんを信頼していたんですね。ぼくは大平さんというのは、読書量もすごく抱負で経綸の才があり、戦後の歴代の首相の中でも立派な人だったと思います。そういう人が政争の中で引きずり下ろされるというのは、福川さんにとって、日本のためにはどうなるんだろうという感じがあったのでしょうね。

 結果として一月後、大平首相はこの選挙中に突然死するんですね。スゴイ心労だったんでしょうね。われわれは「政治家はタフだな―」の一言でかたづけていましが⋯⋯。本当に命がけの抗争なんですよね。

◇誰が日本の外交のウォッチするのか?!

 こういう政局を背景に1980(昭和55)年春ころだと思いますが、外務省担当になっていたのです。政治部の官庁担当というのはあいまいなところがあって、解散になると役所を引き上げて本社の選挙班に入っちゃったり、元々の派閥の担当にもどり国会にかけつけるとかという感じになってしまいます。この辺は経済部と違いますね。

 各社の霞クラブ(外務省)へ政治部デスクから「平河クラブ(自民党担当)に集まれ、内閣不信任案が通過、解散だ“選挙体制”に入る」と電話がかかってきて、みんな手伝いに来いって言われます。すると、ハーメルンの笛吹き男じゃないけど、他社の政治部記者もみんな一斉に飛び出て行っちゃいます。政治記者としては血湧き肉躍るという感じです。それで残るは外務省担当の経済部記者だけになってしまいうわけです。霞クラブはガランとします。

 当時、外務省には外務報道官の下に国内報道を担当する、「報道課」というのがありました。阿南惟茂(あなみこれしげ)さんが主席事務官だった思います。終戦直後に陸軍大臣として自刃した有名な阿南惟機(これちか)大将の五男。いわゆるチャイナスクール(中国語担当)出身で、その後2001~6年まで中国大使になられました。余談ですが、息子さん(注:阿南友亮(ゆうすけ))は東北大の教授で「中国はなぜ軍拡を続けるのか」という本を数年前に新潮選書から出した若手の中国政治研究者です。

 その阿南さんが、多くの記者が出ていって、ガランとなりつつある霞クラブの様子を見ながら、「誰が日本の外交のウォッチングをするんですか?!」と叫んでいたのを思い出します。引き上げる記者のだれかが、「そんなのおまえら勝手にやれ!」と。

 でも確かに外務省は、僕はよく言うのですが、“マスコミ依存官庁”で、自分たちの活動の外交的成果が新聞などで報じられなければ、国民に浸透していきませんよね。外交機密にはものすごく口は堅いですが、マスコミを大切にする官庁と思います。その意味で、まだ財政的な裏付けのない経済政策をアドバルーン的に流す当時の通産省と似ていますよね。一方、大蔵省は自分のところで国の財布をにぎっているんですから、マスコミにことさら気遣いをする必要がないですよね。

Q.そのころの日韓関係は今と大分違うんでしょうね?

 今自民党は嫌韓派が幅を利かせ、SNSの世界でも、韓国へのヘイトスピーチが飛び交っているじゃないですか、当時の自民党の長老の正統派はみんな親韓派でした。戦前の日本統治時代の贖罪意識に加え、戦後の日本経済を考えれば朝鮮戦争当時の朝鮮特需の恩恵、高度成長時代の一端を支えた韓国の存在の大きさが分かっていたと思いますよ。一衣帯水の国と歴史を踏まえて仲良くできないのは、大人の国としての外交ではないと思いますね。今でもぼく個人としては韓国問題には関心を持ち、この年になっても話題となっている韓国映画を見るようにしています。

◇日本の外相を30分待たせた“アジアのあんちゃん”

 安保条約は軍事同盟ではないという発言をした鈴木善幸首相と対立する形となった伊東正義さんが外務大臣を辞任しました。そのあと、2年前福田内閣の外相として日中平和友好平和条約を締結した園田直さんが外務大臣になります。ぼくは同行取材でいっしょにASEANを回りました。

 園田さんは、戦後すぐの選挙で当選、妻子ある身で、当時、初の女性議員の松谷天光光(てんこうこう)と“白亜の恋”と騒がれて結婚しというエピソードを持った人で、福田内閣の官房長官もやっていました。スーツの裏地が真っ赤で度肝を抜かれまことを記憶しています。アッ思い出した。その時の毎日新聞の園田官房長官番をやっていたのが、後に転職してイトーヨーカ堂の常務になる稲岡稔さんでした。

 この時の同行取材で忘れられないのは“そのちょくさん”(園田さんのことをそう呼んでました)がマニラの大統領公邸で、マルコス大統領と会うことになっていたのです。ところがマルコスが会談に遅れて30分くらい待たされました。

 これはかなり異例なことです。日本から巨額なODA(政府開発援助)を受けているわけで、その担当の外務大臣が来ているのに、会談の時間を守るのは外交儀礼として当然ですよね。われわれ同行記者団も二人の会談の写真を撮ろうと、待っているわけです。“そのちょくさん”はものすごくイライラして、「あいつはアジアのあんちゃんみたいなもんだからなあ」と言ったことを覚えています。(以下略)