元気で〜す

2021年11月4日

「平和のためなら 何でもやる」② ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」

 人生はつくづく筋書きのないドラマと感じています。現在、所属する団体の数を数えてみると14団体ありました。このうち4団体は会費を納入するだけの維持会員ですが、残る10団体は濃淡あっても活動を伴う所属団体です。世に言う「リタイア後は晴耕雨読の生活」とは無縁の老後となっています。

 コロナで動けなかった昨年は春に「九州肝臓友の会」の会報最終号、6~12月の半年間は福岡県日中友好協会創立70周年記念誌、年末は福岡市日中友好協会の会報と休む間もなく編集作業に追われる日々でした。いつも「仕事」に追われている私を見かねた妻からは「あなたこのごろ、記者時代より忙しいんじゃない。自分の年齢考えてくださいね」と真顔で言われました。

 05年に退職して16年。「残り少なくなったこれからの人生をどう生きるかが勝負だぞ」と自問しながら『今を生きて』います。

入社早々にB型肝炎発症――完全復帰まで7年の闘病

 1971年4月、念願の新聞記者になり、苦しくも楽しく鹿児島県志布志通信部で警察署への夜回りを続けている最中、西部本社の産業医から「秋の定期検診の結果、肝臓機能が悪いので治療しなさい」との通知がありました。71年11月13日のこと。6日前の11月7日、その日の飛行機で鹿児島から福岡に飛び、新婚旅行抜きの日帰り結婚式を挙げて通信部に戻り「さあ、これから」と夢を膨らませていた矢先。「天国から地獄へ」そのものでした。

 志布志湾埋め立て反対運動の先頭に立っていた知り合いの内科医に相談しました。「私のところに通院して注射を打ったらどうか」と言われ、会社に連絡すると「それでよし」との返事。今でいう「B型肝炎」。50年前の当時は治療法やウイルス検出も明快ではない時代でした。「注射すれば治る」と信じて通院するも回復せず、遂に翌年3月に産業医の指示で入院。先行きの見えない地獄の闘病生活が始まりました。

 3カ月間、連日、点滴治療を受けるも回復せず、出身地・福岡にある九州大学附属病院に転院。12月末まで延べ9カ月間入院しました。退院と言っても完治したわけでなく「比較的症状が安定」した状態のことです。すぐに職場復帰することはかなわず、不安な中で自宅療養に入りました。

 退院した翌年(73年)2月には藁にもすがる思いで、宮崎県延岡市に霊験あらたかな拝み屋さんがいると紹介されて水を浴びる苦行に参加しました。市内で祭壇に謝金を供えてお祈りすると夜、何キロも離れた山奥の神社に車で連れて行かれました。そこには池があり、洗面器を手にした大勢の信者が下着姿で集まっていました。私も準備を促され下着姿になり、ドンドンドンと打ち鳴らされる太鼓の合図で一斉に池の中へ入りました。そして洗面器で水をすくい全身に浴びるのです。

 山道には残雪があるほど極寒の日でしたが、集団心理とは恐ろしいもので、寒さは感じませんでした。池から上がると暗闇の中で着替えて全員、拝殿へ。そこでポリ容器に入れられた「御利益あらたかな御霊水」と言われる山水を「お神さあ」から一人ひとり拝受するのです。

 「大賀さんには2つ準備しました」と言われ、喜びつつも、「ほんとに効くのか」との疑問を抱きながら帰宅。毎日、少しずつ「どうか治りますように」と奇跡が起きるのを祈りながら2カ月ほど飲み続けましたが、肝機能の改善にはつながりませんでした。このほかにも高額漢方薬、針治療、温冷灸治療などさまざまな民間療法を試みましたが効果はありませんでした。しかし、自宅療養と職場復帰を2年間繰り返す中で症状は徐々に安定していきました。こうした闘病生活を書き綴ると際限がありません。

 職場復帰は5時間の制限勤務から始まり、6時間、7時間、8時間と増やしていきましたが、夜勤勤務の許可が出るまで実に7年を要しました。

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九州肝臓友の会の仲間と福岡市舞鶴公園で桜見会(16年4月)

 病状が落ち着いたため80年1月、福岡県肝臓友の会(後に「九州肝臓友の会」に改称)を設立し初代会長に就任。転勤で福岡県外勤務の時も役員を続け、退職後の06年から今年春まで15年間、会長(3度目)を務めました。会は会員の減少と役員の高齢化が進んで運営が困難になり今年3月末で解散しましたが、全国組織の日本肝臓病患者団体協議会(日肝協)常任幹事と福岡県肝炎対策協議会委員は現在も続けています。福岡県難病団体連絡会の創設にも加わり、昨年3月まで約20年間、副会長や福岡県難病医療連絡協議会委員を務めました。

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日本肝臓病患者団体協議会で田村厚労相=中央=に陳情(14年5月)

 国の肝炎対策は患者団体の長年にわたる陳情活動を受けて肝炎対策基本法(09年)が成立。検査や治療費の一部助成など支援制度が作られました。私もコロナ以前は年に数度、上京し、日肝協の厚労省や議員への陳情活動に参加してきました。

 「自分は幸運にも治癒し新聞社を無事卒業できた。同じ病気に苦しむ人たちの手助けをしなければ」との思いでいます。この活動は今後も続けます。

日中友好――大切な民間交流

 私が所属する九州沖縄平和教育研究所(福岡市)主催の南京大虐殺証言集会で「戦争加害」をテーマに講演したのをきっかけに14年4月、要請されて「福岡市日中友好協会」の理事に就任。同月、松本龍団長(福岡県日中友好協会会長)の「九州地区日中友好協会訪中団」に同行して北京、南京を訪問しました。19年から福岡市日中友好協会理事長、福岡県日中友好協会理事として活動しています。

 松本会長は元衆院議員(福岡1区)・元環境大臣で、90年2月の衆院選に初出馬・当選した時、福岡県政担当として取材していたので旧知の仲。17年に67歳の若さで急逝しましたが、14年の北京訪問時に「お久しぶりです」と挨拶すると「大賀さんが友好協会に入ってくれたことは聞いていました。これから力を貸してください」と返されました。

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唐家璇・中日友好協会会長と握手(14年4月)

 日中関係は12年に日本政府が民有地だった尖閣諸島を買い取って国有化したことから中国全土で反日デモが起き、日系企業工場や商店が略奪・破壊の被害を受け最悪状態になりました。九州地区の日中友好協会と九州地区を統括する中国駐福岡総領事館は何とかこの関係を改善したいと、13年から5年間、連続して福岡市内のホテルで九州日中友好交流大会を開催しました。

 14年から5年間毎年、九州地区の日中友好協会で訪中団を編成し、北京の中日友好協会を訪問して唐家璇・中日友好協会会長らと意見交換しました。「将来を担う若者に日中友好の重要性を伝えたい」と中国人民大学日本語学科の学生たちと交流会も開きました。また「真の日中友好関係を築くためには日本の戦争加害の歴史を知る必要がある」として戦後70年の15年には南京大虐殺記念館を訪問し追悼集会を開きました。

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福岡県日中友好協会創立70周年記念誌

 私が理事長を務める福岡市日中友好協会は9月に「日本の若手教師と中国人留学生の交流会」、12月に中国駐福岡総領事館で総領事館職員・家族、中国人留学生、友好協会会員が一緒に餃子を作って食べる「餃子交流会」、1月に糸島市の牡蠣小屋で「日本の食の風物詩・牡蠣を味わう交流会」を恒例行事として開いてきました。残念ながらコロナで昨年から休止状態に追い込まれています。

 昨年は福岡県日中友好協会の創立70周年を迎えたので、記念誌を発行しました。日中友好協会(東京)の初代会長は福岡出身の松本治一郎・元衆院副議長で、福岡県日中友好協会の設立は全国で最も早いものでした。記念誌は唐家璇・中日友好協会会長、丹羽宇一郎・日中友好協会会長、律桂軍・中国駐福岡総領事、柏蘇寧・江蘇省人民対外友好協会会長、九州各県日中友好協会会長ら両国のリーダーからメッセージをもらうことになり、編集は大変な作業でした。北京の中日友好協会とは直接、メールでやりとりをしました。見出しの付け方、写真の張り付け方や修正、字体の選定、縦書き、横書きなどパソコンに詳しい甥の指導を受けながら半年がかりで「A4判141頁カラー刷りの記念誌」を仕上げ、12月に発行することができました。

 中国駐福岡総領事館を直接訪問して律総領事に手渡すと後日、「すばらしい記念誌です。職員の勉強のため20部買い取りたい」との注文が来ました。「原価の500円で」と返事すると「とんでもない。2000円出してもいい」と高く評価していただき、結局、1000円で商談が成立。編集者として救われました。私の編集で16年に始めた福岡市日中友好協会の会報『友好』はこれまで11号を数えています。

 日中関係は12年に尖閣諸島問題で急激に悪化した後、安倍晋三首相と習近平国家主席との首脳会談で一時、雪解けムードが出てきました。しかし、香港やウイグル自治区の人権問題、軍事強国への動きなどが障害となり、改善する兆しが見えません。日中友好協会の活動も正直なところやりにくくなっています。そんな中で「大賀はなぜ日中友好活動を続けるのか」と思われるかも知れません。

 それは簡単です。朝起きて隣に住む人と顔を合わせた時、「おはようございます」と気持ちよくあいさつし合える関係を望みませんか。会っても顔を背け合い、警戒し合う関係を不幸と思いませんか。

 「あいつ、何考えているかわからん」「うちに火をつけるかも知れない」「包丁か木刀を準備しておかないと危ない」

 国家間がこんな関係だと、国は引っ越しが出来ないので、そこに住む国民は永遠に角突き合わせ、お互いに恐怖感を抱きながら生きていかなければなりません。

 50年10月に設立された日中友好協会は、日本政府が中国を「中共」と呼んで国として承認していなかった時代から民間交流を続け、72年9月の田中角栄首相の北京訪問・国交正常化の実現に大きく貢献しました。そのことは「多難な中でも民間外交を続けることの重要性」を物語っています。

 来年は国交正常化50周年です。九州地区の日中友好協会は北京訪問や中国駐福岡総領事館との共催で記念事業を計画しています。コロナで先行き不透明ではありますが、私なりに小さな推進役の歯車になって活動を続けるつもりです。