2021年11月1日
「平和のためなら 何でもやる」① ――西部本社報道部OB・大賀和男さん「私の生き方」
新型コロナの感染が少し落ち着いてきたとはいえ、私たちの生活がいろいろ制約される中、ОBの皆さんも何かとご苦労が多いかと思います。今年5月、75歳になり後期高齢者の仲間入りした私も外出を極力控えています。困っているのは所属する平和関係団体や肝臓病患者団体の活動が軒並み休止状態に追い込まれていることです。
そんな中、西部本社の後輩から突然、連絡がありました。
「大賀さんの生き方はすごい。ぜひ、毎友会の『元気で~す』の欄に投稿してみんなを元気づけてください」
2つ年下の後輩は、5年前に長崎の新聞、テレビ局ОBを中心に結成された「言論の自由と知る権利を守る長崎市民の会」の会員(私も)で、今は京都に住んでいます。在職中も卒業後も志を同じくする同志です。
34年間の記者生活を卒業後、「平和のためなら何でもやる!」とさまざまな平和団体に身を置き活動を続けてきました。「書いてもいいけど面はゆいなぁ」などと迷ったものの、後輩が京都で平和・市民運動に参加し頑張っていることを知っているだけに断るわけにもいかず、勇気を振り絞って、リポートすることにしました。
これを読まれたОBの何人かでもいいので「自分も負けておれないぞ!」と、元気を出していただけたら救われます。
2005年3月末に記者生活を卒業して16年が過ぎました。現役時代のさまざまな情景が今も鮮明に蘇ってきます。まずは、その中から、私の生き方に影響を与えた取材体験を紹介します。
長崎――故本島等市長と出会う

1981年2月1日付で長崎支局に転勤。長崎大学を出た私にとって長崎は福岡に次ぐ第二のふるさと。入社10年目にして念願の「原爆」「被爆者」「核廃絶運動」「平和運動」などを取材する長崎市政担当になり、市長だった本島等氏(14年10月、92歳で永眠)と出会いました。本島市長は「被爆者を含め日本国民は戦争被害者と同時にアジア各国に被害をもたらした加害者でもある。これを忘れてはならない」──などと戦争加害や植民地政策の戦後責任などを指摘していました。後年、右翼の銃撃テロで重傷を負うことになります。
83年2月、長崎平和推進協会が設立されました。設立者は長崎市ですが「官民一体となって悲願の核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を目指す」というのが目的です。理事長には爆心地近くの聖フランシスコ病院で多くの被爆者の治療に当たった被爆医師・秋月辰一郎院長(故人)が就任しました。秋月理事長は長崎の核廃絶運動の中心的存在で82年の国連軍縮特別総会に日本代表として出席しています。
私は個人的に親しくしていた本島市長から「記者さんたちも広報面で助けてくれんかね」と依頼を受けました。そこで市政記者たちに呼びかけると、長崎新聞、西日本新聞、テレビ長崎、長崎放送の若手記者が応じてくれました。推進協には国際交流部会、継承部会、広報部会の3部会が置かれ、広報部会は部長の私と5人の記者たちが担いました。競争関係にある記者が協力したのは偉いですね。主な仕事は広報誌「へいわ」の発行。84年2月に「会設立1周年」として本島市長、秋月理事長、3部会の代表が出席し新春座談会を開きました。
沖縄――米兵による女児暴行事件
93年4月、念願かなって沖縄勤務が始まりました。那覇支局は朝日や読売と違い1人支局です。シャカリキに走り回らなければなりません。沖縄には「米軍基地」「沖縄戦」「観光」の三つの顔があります。私は沖縄戦と基地取材に力を注ぎました。戦後50年企画、日米20万人以上の死没者名を刻んだ「平和の礎」建設、米兵による女児暴行事件と県民ぐるみの基地撤去運動など、息つく間もありませんでした。

大田昌秀知事(故人)は会見の途中、いらだつような口調で「本土のマスコミの皆さんはもっと沖縄のことを書いてくださいよ」と、私たちヤマトの記者たちに向かって言ったことがあります。
戦後27年間、本土から切り離されて米軍統治を受け、戦後50年(当時)を過ぎても国土面積の0.6%しかない沖縄に70%以上の在日米軍基地が集中している現状。米兵による事件、事故も多発し続けていました。大田知事は「これは沖縄差別でしょ。沖縄県民は日本人ではないのですか?」と会見で怒りを爆発させたこともあります。
沖縄勤務中、最大の事件は何と言っても95年9月4日に起きた米兵3人による小学女児暴行事件でした。一人が買い物帰りの小学6年の女児に道を尋ねるふりしていきなりみぞおちにパンチ。もう一人が後ろから羽交い絞めにし、もう一人が待っていた車の中に拉致するという、計画的犯行でした。犯行に人間味は微塵も感じられません。記者会見した県警広報室の幹部も、発表しながら怒りをこらえきれなくなったのか、「こいつら八つ裂きにしたい!」と言い放ちました。
日米安保体制の根幹を揺るがしかねない凶悪事件でしたが、日米地位協定の取り決めで3人の身柄は米軍下にあり、取り調べは3人が基地から所轄署へ通う形で行われました。「そんなバカな」と怒っても現行犯逮捕以外は手が出せない。県民の怒りが一気に高まり、10月21日、普天間基地近くの宜野湾市で「8万人抗議県民大会」が開かれました。これは自民党国会議員も参加するオール沖縄の大抗議集会となり、翌年4月の普天間基地移設・返還発表へとつながりました。
県民大会の翌日、外出中の私に、応援に来ていた東京社会部の記者から「県警刑事部長室にすぐ来て欲しいということです」との連絡がありました。「何の用事だろう」と首をひねりながら刑事部長室に入ると応接ソファに腰を下ろすように促され、1枚の用紙がポンとテーブルに置かれました。3人の名前が書いてあり、基地内に侵入した刑事特別法(刑特法)違反容疑で逮捕したというのです。
「えーっ!何ですこれは。基地に侵入したというのですか」
「この時の反応で大賀さんの嫌疑(基地侵入指示)が晴れた」(刑事部長)というのは後日談ですが、東京社会部の記者と写真部の記者が北部の基地内で地元民とともに、米軍に逮捕されたのです。2人は基地取材で知り合った地元の人に案内され、実弾演習場の写真(演習中の写真ではありません)を撮ったところで米兵に身柄を拘束されてしまいました。侵入した基地は金網が破られ地元民は時折、出入りしていたそうです。刑事部長から「今日中に釈放するので身柄を受け取りに行って欲しい」と言われました。頭が混乱する中で西部本社に連絡し、すぐに所轄の石川署にマイカーを飛ばしました。
署に入ると副署長が琉球新報と沖縄タイムスの取材に応じていました。
「今回はご迷惑をおかけしました」と、私が深々と頭を下げると、2人の記者曰く、
「これは不当逮捕ですよ。あの土地(基地)はもともと、米軍が県民の土地を強奪したもの。そこに入って何が悪い。早く釈放するべきだ!」(要旨)
驚きでした。逮捕記事をどのように毎日新聞に書こうか、と頭を悩ませていた中での沖縄記者の反応。本土の新聞はまさか、“不当逮捕”とは書けない。しかし、沖縄県民の目は違うんだと、教えられました。毎日新聞では社会面3段で事実のみを報道しました。ところが、琉球新報と沖縄タイムスは大きく扱い、逮捕そのものに批判的なトーンの記事だったと記憶しています。
驚きは続きます。取調室から出てきた2記者は憔悴した表情でした。ところが刑事課長が「ご苦労さんでした」と言って、彼らの肩を揉み始めたのです。「逮捕した被疑者の肩を揉むのはまずいのでは?」と、こちらが心配したほどでした。
沖縄県警が3人を即日釈放したことに那覇地検は激怒したようです。被疑事実を認めているので1回で済む事情聴取なのに、いやがらせのように複数回、東京から記者を呼びつけました。次席検事とは顔見知りなので面会を求め「聴取がなぜ何度も行われるのか」と質すと、押収した写真を見せながら「この写真と供述内容が一致しない」と、些細な理由を挙げて説明。「即日釈放した県警への当てつけだな」と受け止め、「ご迷惑をおかけしますが、迅速な処理をお願いします」と頭を下げました。
予想通りの略式起訴(罰金刑)で決着したのち、私は社会部記者を連れて署にあいさつに行きました。速やかに事件を処理してもらったお礼を述べるためです。
ところが署に着くと、思わぬことが待っていました。署長室に入ると、何とテーブルにご馳走が並んでいたのです。詳細なやりとりは記憶が薄れていますが、「遠い東京から沖縄にやって来て基地問題を書いてくれていることに沖縄県民として感謝している。是非、今後とも基地の現状を書いて欲しい」といった言葉で、逮捕された労苦を労われました。
また、副署長は別の日、この記者を自宅に招き、酒食の“慰労”で「落ち込まず今後も積極的取材活動を」と激励してくれました。その後、同記者は希望して東京本社から西部本社に転勤し、沖縄取材に当たりました。感動物語です。
逮捕した人物を警察が激励する──。これが公になったら、署長も副署長も刑事課長も責任を問われかねない話です。しかし、“沖縄の声”がなかなか本土に届かない中で、東京の人間(記者)には過重な基地負担に泣く沖縄の現実を是非、報道して欲しい──という強い気持ちがあったからに違いありません。普天間基地の辺野古への移転工事が県民の反対を無視して続くなど基地差別に泣き続ける沖縄県民の心を私たちヤマトンチュはもっと理解しなければならないでしょう。
加害実態を知る――「中国平和の旅」

福岡県政のキャップをしていた88年8月、県内在住の教職員有志90人で計画された「中国平和の旅」を同行取材しました。私の父親は盧溝橋事件(37年7月7日)の1カ月後に徴兵されて2年8カ月間、徐州会戦や武漢攻略戦など日中戦史に残る戦いに参加しています。捕虜の斬首や新兵の度胸づけのために行った捕虜への銃剣刺突訓練など日本軍が犯した残虐行為を幼い時から聞かされていたので「いつか戦地巡りをしたい」と考えていました。
真夏の過酷な12日間の旅。私を含め多くがお腹の調子を悪くしましたが、肉体的な面もさることながら想像以上にひどかった「加害の実態」を知り、精神的ショックは計り知れないものがありました。中国側の特別配慮で南京大虐殺記念館(南京市)、関東軍第731部隊資料館(ハルビン市)、平頂山殉難同胞遺骨館(撫順市)などでは館内撮影が許可され、その数は数百点にのぼりました。
「記者として、中国での日本軍の罪業を知った者として、持ち帰った写真・資料を手元で眠ったまま放っておくのは許されない」──。帰国後、そう思った私は、関東軍第731部隊の戦争犯罪を『悪魔の飽食』という著書で暴いた森村誠一氏に写真、資料の一部を送り評価を仰ぎました。何の面識もない一記者からの突然の手紙だったにもかかわらず、「貴重な資料だから世に出すべきだ」といった趣旨の手紙が届きました。
森村氏と奥田八二知事(当時)から原稿料なしで推薦文をいただき、写真集『日本軍は中国で何をしたのか』のタイトルで89年7月、自費出版にこぎつけました。写真集は「平和の旅」に参加した90人の先生たちが広めてくださり、また、新聞でも紹介されて全国に広まり、今日まで4刷9,200部印刷しています。

特筆すべきは、毎日新聞社内の温かい反応でした。多忙な県政キャップのポストにいたので「そんな暇があるのか」と、批判されるのではと心配でした。原稿書きは自宅でいつも深夜に行い、夜を明かすこともありました。デスクに「出版できました」と報告すると、「毎日新聞で紹介するから原稿を出せ」との指示。本紙で扱われたのをきっかけに「赤旗」「社会新報」の全国版で紹介され、全国から注文が寄せられました。編集局長からは「大賀君、頑張ったな。おめでとう」と言って金一封を手渡されました。妻共々、涙するほどの感激でした。妻に「自宅周辺で尾行がないか気をつけて」と注意されるなど、右翼からの攻撃を心配しピリピリした生活が続いていたのです。
益金は全額、「中国基金」としてプールし、戦後50年の95年8月15日、妻と2人、南京大虐殺記念館を訪問した際に、私の中国講演謝金を加えて200万円を寄付しました。記念館の空調設備や展示コーナーの改修に役立てられたそうです。
「中国平和の旅」の同行取材、写真集の自費出版などの経験が退職後に始めた日中友好協会の活動につながっていきました。