2021年10月4日
元制作局、長友伸吾さんの「パキスタン共和国の思い出」
毎日新聞社を退職後、JICA「海外青年協力隊」のボランティア活動に興味が湧き、受験して合格。国から決められた派遣国がパキスタン共和国でした。1995年7月10日、3年間の予定で、成田空港から出発しました。20年以上前の経験ですが、パキスタン理解の一助にと考え、報告します。
『パキスタン』というと、2011年にはイスラム国のオサマ・ビンラディン氏が殺害された国として報道され、最近はアフガニスタン問題で再浮上してきたタリバンの関連で、テロリズムに関係する国と思われる方が多いのではないでしょうか。確かにその側面があることは事実です。でも多くの現地人は普通の国民であり、国旗に示されている緑色がイスラム教を象徴し、白色は他教の国民を表し、イスラム教徒だけではなく、他教も受け入れる共和国という意味があります。心優しく、誇り高く、外国人を家族と同じように受け入れてくれる寛大な包容力のある国民で成り立っている大陸に存在する国家です。忘れてはいけないのは、同じアジア人であり親日家であることです。
パキスタンの首都郊外にあるイスラマバード空港に到着した日は、シャルワールカミーズ(現地の人の普段着で、オウム真理教徒が纏っていた衣装に類似している弥生時代の貫頭衣のような衣装)をまとった人々が空港に密集していて、真夏だったこともあり、現地の方々が男性ばかりで口髭・顎鬚を生やした彫りの深い顔をされていて、少し恐怖を感じました。

赴任先は首都イスラマバードのF―6という地区にある国立障害者職業訓練センターでした。現地では、報酬のない準公務員という扱いです。言語は、地方の方言を除き、国語がウルドゥー語、公用語は、英国の植民地であったため英語でした。自分の言葉で伝え、信頼関係を築いていきたいと目標を持ってウルドゥー語の辞書・メモ帳をいつも身に着けて現地のスタッフと会話しました。
私の職種は竹工芸でした。籠作りがメインでしたが、現地には籠作りに適した竹が生息しておらず、センターでは籐籠つくりをメインに、知的障がい者に教えていました。日本人でも竹工芸は、刃物を用い、細かな作業のため、知的障がい者に仕事を伝えていくためには興味をよほど持ち、発達障がい者のように一芸に秀でているような方でないと1年間でやっと健常者の1日で覚えられる許容量だと思いました。
まずは生徒達の体力作りから始めました。昼食は生徒たちの弁当の他、私のボランティア活動の現地支給費で、肉のたくさん入ったナンやサモサ(日本の揚げ餃子のようなもの)などを買ってきて、一緒に食事を摂りました。時には自宅で日本食(豚肉・酒類はイスラム教で禁止されているので、それを避けたもの)を作って生徒や同僚などに振舞いました。しかし、基本的に自力で収入を得る力を身に着けさせることがボランティア活動の基本と学んでいたので、食事に重点を置きました。
次に運動でした。日本のラジオ体操をウルドゥー語に訳してカセットテープに吹き込み、朝・昼休憩後にラジオ体操、そしてストレッチ運動(真向法)を日本人会の図書館で見付けて、それを取り入れました。
生徒たちは衣食住が整った事、体力がついてきたことで、やる気が出てきました。ここまで1年近くかかりました。私もパキスタン人の同僚・友人などのお陰で現地語は新聞が読めるまでに上達しました。
それから生徒達の能力に合わせて簡単な作業で編めるような機材を手作りし、同僚の自宅の空き畑に竹を植えさせていただいたりして材料費をセンター(国)に負担させないために自給自足的な活動も始めました。

残念ながら籐はパキスタンの気候に合わないため、隣街のラワルピンディーに赴き、直接、業者から安く購入しました。パキスタンは日本の関西圏の文化に近く、言い値を負けてもらう交渉の文化が通常なので、2000ルピー(当時1ルピーが日本円で3円位の価値)が、200ルピーになったり、買い出しも楽しみの一つでした。
また当時は日本人でボランティアをしているのが珍しい事、パキスタンにメヘマーン(お客様)へのおもてなしの文化があり、チャエーやナンなどをご馳走してくれることは日常茶飯事でした。ご馳走になるチャエーも通常のナンも一杯・一枚が1ルピーなので互いに気を遣わせない国民食でした。
一年半が過ぎた頃、センターでチャリティーバザールをしようという事になり、それぞれのクラスでバザーへ出す作品作りをする事になりました。私の竹工芸クラスは、私と同僚が現地の節高の加工しにくい竹を使った籠、生徒たちが作った籐籠(瓶などに四ツ目編みから立ち上げゴザ網を瓶の周りに編み込んで仕上げた花瓶)をメインに製作しました。
バザール当日、日本人会の方々・専門家・現地の人々が多く訪れて下さり大盛況でした。私のクラスは、籐が現地では高価だったので値段も現地の方の収入からは高い方になるのですが、完売しました。日本人の方々の協力もあったおかげもありますが、初めて開催した国立障害者職業訓練校センターのバザールで売り上げトップとなり、所長に売上金をお渡ししたのですが受け取らず、竹工芸クラスの生徒たちへの報酬に使ってほしいとのことで生徒達に均等に売上金を渡した所、生徒達は「偉大な神様、有難うございます。先生、有難うございます。やったぜ、みんな友達、最高に幸せだぜー」と自然と発声しました。
周りの人達も生徒達に祝福の拍手を送ってくれていました。知的障がい者は家の厄介者と思っていた家族、思わされていた生徒達もみんなが心一つになり、誰でも努力をすれば可能性を持っていると思うことが出来た一日だったのでしょうか。生徒達の笑顔が今でも目に焼き付いています。私の厳しかった指導に耐えながら努力をしてきた生徒達が主人公、そこにはたくさんのスタッフや家族などの支えがあってからこその達成感と結果が残せたと思います。青春の良き思い出の一ページです。今も心の宝です。
(長友 伸吾)


※長友伸吾さんは1986年に毎日新聞東京本社制作局に入社。パキスタンには1995年7月から98年10月まで滞在し活動しました。54歳、岡山市に住み、福島清さん達が発行する会報「KOMOK」に10月から当時の話を連載していますので、要約を転載しました。