元気で〜す

2021年9月24日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑯ ある新聞記者の歩み 15抜粋

若くしてひとり地方に降り立ち、もまれて育つキャリア官僚

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

全文はこちらで https://note.com/smenjo

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 今回は、官僚の世界です。佐々木さんは政治部時代、自治省と外務省を担当され、今回は自治省、次回は外務省担当当時のことをお聞きします。

目次
◇大蔵省より人気だったエリート官庁
◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア
◇知事をめざす自治省エリート
◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問
◇記者会見今昔 昨今の会見を見て
◇ニュースがない自治省の最大のニュースは?
  ◇ニュースがない職場で読書と論文執筆

◇大蔵省より人気だったエリート官庁

Q.福田番を終えた後、1979(昭和54)年の春、中曽根派担当を兼ねながら、自治省の担当になっておられますね。

 自治省という役所を担当して初めてとは言い過ぎかもしれませんが、ぼくは明治以来の「日本国」の統治機能の形がハッキリとわかったような感じがしました(中略)。

◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア

 自治省を担当して日本の役所っていうのは、自治省と大蔵省とで持っているという感を強く持ちました。自治省の役人は、包丁一本さらしに巻いてじゃないけど、若い官僚が自治省に入って数年で各県の自治体の総務課長とか、企画課長、財政課長とか主要ポストに単身で天下りというか出向するわけですよ。最高ポストは副知事ですが、そうすると、当時の県庁、市役所、町村役場などの地方自治体の職員を組合員とする自治労(全日本自治団体職員労働組合)はまだ力があって「天下り反対!」なんて、赴任先の県庁所在地の駅に着いたときからプラカード立てて赴任させまいとするんです。そういう中で、霞が関から落下傘で一人で降りるわけです。でも最近では小さな村役場や、離島、豪雪地帯などにも派遣して日本国土の多様性を勉強させているようですね。地方の問題を中央の政策にフィードバックさせようというねらいもあると思います。そこでどうやってそこの自治体の部下となる人材を“手なづけて”、中央の方針をその地の政策に反映させるか。ということを学ぶわけです(中略)。こういう環境の中でもまれて役人生活を送ってきたわけですから、この人たちは懐が深く、付き合っておもしろい人が多かったな。

◇知事をめざす自治省エリート

 いまでも自治省出身の知事がずいぶんいますね。数えたら47都道府県のうち13人もいます。兵庫県のように現在まで4代59年にわたって自治省出身者というところもあります。現在は総務省ということで、戦前は逓信省だった旧郵政省と一緒になって変な役所になってるからわからないですが、当時の自治省の役人は自治省自体でエラくなりたくはない、最終的には知事になりたいということでした。いまでも覚えているけど、行政局長の土屋佳照さんの部屋に行くと、堂々と壁に鹿児島の桜島の大きな写真が飾ってあるんです。それは彼が鹿児島出身だからです。しかも知事になりたいという意思表示なんですね。その後、1989(平成元)年から2期知事になり、見事に実現させましたね。鹿児島県というのは、戦後65年間、ずっと内務省、自治省出身の知事でした。でも最近は鹿児島県もですが、経済産業省出身の知事も増えていますね。調べたら全国で6人でした。

Q.赴任先の現地では床の間背に坐る立場ですよね?

 当時の自治省というのはなかなかの官庁だったと思いますよ。人間的にもすぐれた役人が多かったと思いますね。中曽根内閣当時、官房長官を務めそのタカ派路線をいさめた後藤田正晴さんなんかもそうですし、自治省事務次官を務めた石原信雄さんも竹下内閣から8年間、7代の首相の官房副長官を務め、昭和から平成の改元時期を乗り切って、未だにその行政手腕、調整能力は評価されていますよね。やはり国の行政のツボを押さえている経験と、その練られた人間力が特徴ですよね。他にも政治家として日中国交回復に努力した自民党の厚相も経験した終戦時の内務次官・古井喜美、警視総監の町村金吾、自治相にもなったタカ派で有名だった奥野誠亮、東京都知事になって美濃部都政時代の赤字を一掃した鈴木俊一などを輩出していますね。やはり行政面ではやり手の印象が強いですね。

 でも終戦時、戦犯を出すことを恐れて全国の市町村に戦争体制遂行の公文書の焼却を命じたのは、奥野誠亮、のち読売新聞会長になった小林与三次、若手内務官僚だった原文兵衛らだったと伝えられているようで、後世の歴史に公文書を残すなんていう感覚は皆無だったことは確かですよね。戦前の“天皇の官僚”としての限界はあったかもしれませんね。

◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問

 自治省担当の時、第二次大平内閣の時で、後藤田さんが自治大臣だったですね。なんか“風圧”がありましたね。この人はすごい人だなあと思いましたよ。当時の自治省のドンのような感じだったな。自治省の官房長、税務局長、警察庁の警備局長、長官という経歴で、うかつなこと聞くと怒られそうで----。政治部の人っていうのは、公式の記者会見で質問というのはしない風潮があるんですね。サシ(一対一)で話すのが政治記者だ―みたいなところがあるんですね。ぼくは経済部出身だったから、夜回りなんかもするけど記者会見が真剣勝負、本命という意識があって、いろいろ聞くのが記者会見だと思っていたんです。内政クラブ(自治省の記者クラブ)の記者は、ほとんど質問しないんですよ。ぼくは後藤田さんにいろいろ質問したことを思い出します(中略)。

◇記者会見今昔 昨今の会見を見て

Q.昨今、首相などの記者会見で、突っ込みが足りないといった批判が。

 当時と違うのは、各新聞のスタンスが“リベラルと保守”という今みたいに明確ではなかったですよね。読売や産経がやや政権に好意的という“感じがありましたが、“安倍政権支持”というように明確ではなかったですね。それに“金権政治”ということで、政治スキャンダルは田中金脈事件、ロッキード事件、ハマコーさんのラスベガスの一晩で450万㌦、4億6千万円をすってしまうという事件など、有権者の生活感覚とかけ離れた、政治と金に絡む事件で各社とも足並みそろえて批判が出来ました。それと自民党の派閥抗争も“我田引水”の自派の勢力の拡大、自派の閣僚ポストの獲得-という分かりやすい権力闘争で、各社とも足並み揃えて批判しやすかったと思います(中略)。

 国のあり方を巡って新聞社間でスタンスが違うので、どうしても政権側は自分に有利な方のQ&Aでしのごうという気分が強いんじゃないでしょか。記者側も下手な質問をして官邸ににらまれたくない、ネット世界で炎上したくないというような忖度もあるんじゃないかな。当事者に食い込んでいる記者ほど、自分の持っているネタをもとに質問して他社に知られるようなことはしたくない、ということもある。政治記者のサガとして、どうしても政治家と一対一のサシで当事者本人と話をしたいという気分があると思います。

 それと記者側も反対論調側との記者同士の対立を避けたい、記者クラブの“調和の世界”を崩したくないという記者クラブ内の同調圧力という感じがあるのかもしれませんね。また我々の時と違うのは、外国人記者クラブ、社会部の記者、ネット関係の記者、フリーランスの記者の参加もあるようで、記者の数は増えているのに会見の質の向上と活性化が出来ていない感じがします。

 ただ記者側を責めるのは酷な面もあると思います。やはり会見の当事者側の腹がすわっていないかというか、語るべき自分の言葉を持って対応していないと思います。語るべき自分の世界観、国家像、政策の基本方針というものがカラッポという感じがしてしょうがないですね。特に安倍政権、コロナ禍の下の菅政権を見ているとその感を深くしますね。ですからなるべく早めに切り上げて、やめにしたいという感じが見え見えですね(中略)。

◇ニュースがない職場で読書と論文執筆

Q.物理的には、自治省のクラブにおられたのでしょうか?

 そうです。あのときは、はっきり言って、そうとうにヒマでしたね(笑)。(中略)でも遊んでいたばかりじゃありません。この時期(1979(昭和54)年)の専門誌「法学セミナー」の総合特集シリーズ増刊号10月号「日本の公務員」特集に「“天下り”公務員・その構造と実態」という論文を寄稿したりしています。原稿用紙で30枚程度ですが、その頃批判のやり玉に挙がっていた高級公務員の天下りについて分析したものです。西尾勝東大教授、松下圭一法政大教授といった当時売れっ子の学者の論文と並んで、自分の原稿が載るのもいい気分でしたネ(笑)。自分で言うのもなんですが、よくできた論文と思います(笑)。後年「エコノミスト」の編集長になる、当時編集部におられた駆け出し記者時代世話になった図師三郎記者がこの論文を読んで、「佐々木君もこういう原稿が書けるようになったんだ」とほめられ、うれしかったことを思い出します。(了)