2021年8月30日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑮ ある新聞記者の歩み 14抜粋
激動の日々の記憶に残る政治家群像
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんが政治部に配属となった年に、毎日新聞社は新旧分離という“離れ業”で、社の事業を継続。佐々木さんは、会社経営の大波をかぶることなく、政治部の現場で新聞記者としての仕事本位の日々を送ることができました。
目次
◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間
◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ
◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!
◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評
◇派閥懇親会で「ササキのこわいろ」が大ウケ
◇記憶に残る政治家群像
◇図抜けた迫力のハマコー
◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間

(出所)「金丸信語録 行き過ぎれば差し違える」末木幸一郎編、1985年、ユニバース出版刊
Q.政治部時代は振り返ってみると、どういう時代と位置づけますか?
政治部にいた4年半の時代(1977(昭和52)年1月~81(同56)年7月)、総理大臣が三人代わり(福田赳夫→大平正芳→鈴木善幸)、史上初の衆参ダブル選挙を含めた国政選挙が3回ありました。その後の、村山首相を生んだ1994年の自民党と社会党の事実上の連立政権、さらにそのあとの1999年の自民党・公明党の連立政権、2009年の民主党政権の成立などを生むきっかけともなった時代だったともいえるんではないかなあ。
自民党中曽根派、自治省、外務省担当などを通じて、総理大臣のポストを巡る権力闘争、国政選挙結果の与える影響、日本の地方自治・中央と地方の関係、日米安保条約をめぐる問題、日本と韓国の問題などなど―未だに日本の政治テーマとして解決できていないというか、永遠のテーマを取材できたことは、新聞記者として本当に幸運だった。 経済的な面から見れば、1950年代初期から約20数年間続いた年率10%近い高度経済成長の時代が第一次石油ショックの到来を経て終わりをつげ、農業などの一次産業中心の国から、大都市集中のサラリーマンが国の中心となるように“国のかたち”が完全に変って、“一億総中流”の時代に入っていました。それだけに選挙民の要望も社会保障の充実や、高速道路、新幹線などの国土インフラの充実を求める時代に変ってきていました。
◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ
自民党はどちらかといえば、農山村に軸足を置いた政策を看板に掲げていました。対する社会党も米ソ冷戦を背景としたイデオロギー的な労働組合をバックにした“平和憲法を守れ”-という運動中心でしたが、それだけでは“一億総中流時代”のサラリーマン組合員に対応しきれなくなってきていました。そういう両者の体制を支えていたのが、衆院の中選挙区制度だった言えます。しかし政治も時代の変化に対応せざるを得ない時期に入っていたんだと思いますね。
政治部は経済部と違って、国政選挙の結果と、総理大臣の交替が究極的には取材の最終テーマですから、それに合わせて全部員の配置を考えていたと思います。例えば外務省(霞クラブ)、自治省(内政クラブ)などを担当させられていても、必ず担当派閥を兼務していて自民党の平河クラブに名前を登録しておくシステムになっていました。ですから他のクラブを担当しても、自分が割り振られている派閥の動向、その親分(派閥の領袖)の記者会見、オフレコ懇談会、盆暮れの懇親会などには必ず顔を出すのが当然でした。ぼくは官庁担当の時でも中曽根派担当でしたからそういう会合には必ず行きましたね。
特に衆院総選挙は当時まだ中選挙区制で、一選挙区で4人も5人も当選するというシステムでした。小選挙区制が導入されるのは1994(平成6)年。それまでは各派閥が競って中選挙区に候補者を立候補させるわけです。そうなると選挙資金がかかりますね。派閥の親分の集金力が問われるので当選するには1億円、2億円もかかるといわれる金権派閥選挙になるわけです。政治部としては突然の解散がいつあってもいいように、各派閥からの選挙区ごとの候補者の把握、その選挙区の情勢分析などを頭に入れておかなくてはなりません。ですから派閥の事務所にはヒマがあると顔を出していました。
派閥担当というのは、国会からすぐの自民党本部ビル内にある平河クラブに所属しています。国会開会中は平河クラブは国会内に移ります。ほとんどの新聞、放送、通信社、地方紙などが加入していたと思います。今はどうか知りませんが、基本的には常駐している新聞社がデカイ面(笑)していたと思いますね。
◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!
Q.40日抗争”の頃の平河クラブは大変だったのでしょうね。
今でも思い出すのですが、79(昭和54)年10月の総選挙で自民党が過半数割れの事態となり、大平首相と福田前首相が敗北責任と後継首相を巡って対立します。大平派と田中派が組んで大平首相継続を打ち出し、一方「大平首相」の辞任を求める福田派、中曽根派、三木派の連合が自民党をまっ二つに割る、いわゆる“40日抗争”が起きます。当初はキャップやデスクに「こういう自民党の騒動は1週間で収まるよ、まあ夜討ち朝駆け頑張って!」なんて言われて・・・。
中曽根さんの目白の家への朝駆け、ほとんど連日、朝日新聞政治部の中曾根派担当の山下靖典記者と一緒になりました。交互に中曽根さんの車に“箱乗り”して一問一答をするのですが、やはり主役の派閥にいるわけではないので情報は薄いんですね。中曽根派の事務所のある砂防会館まで30分程度同乗して、車を降りて、中曽根さんを見送り、その会館の一階で、中曽根さんとのやり取りを山下君にも披露して、キャップに上げるメモを作るんです。翌日は僕が砂防会館に待っていて、山下君の箱乗り情報を聞くんです。二人でよく「政権からは遠い“窓際派閥”の中曽根派情報はどうせ使われないよなあ」と愚痴をこぼしあったことを記憶しています。
夜は渡辺美智雄、藤波孝生、宇野宗祐、原健三郎、武藤嘉文などの中曽根派幹部の家や、九段にある議員宿舎の夜回りをやるわけです。もちろん一人ではなく同じ中曽根派担当の中曽根派キャップの中田章記者(後地方部長)、入社年次では後輩の中曽根さんと同じ高崎出身の松田喬和記者(後編集委員)などと手分けしてやるんです。夜回りを終えて、本社に上がり、そのやり取りのメモをキャップに提出、それから平河のキャップや担当デスクなどと翌日の打ち合わせ。家に帰るのは1時、2時。帰ると朝6時半には朝駆けの迎えのハイヤーが来ているというわけです。
でも1週間たっても2週間たっても抗争は終わらず、ますますヒートアップ。「話が違うじゃない」とブツブツいいながら、昼間は疲れて記者クラブのソファーを各社で奪い合い、仮眠です。ソファーが取れないときは休憩室にある麻雀卓を囲みます。それも疲れてやってられないとなると、給湯室のどんぶりを出してその中にサイコロを振って出た目で勝敗を決めるチンチロリンか、トランプや花札でオイチョカブ。まったくヤクザの賭場か、ダム工事の労務者の飯場のすさんだ感じ(笑)。本当にあの4週間疲れたな―、政治のこと以外他のことへの思考能力がなくなるんだなあ。平河クラブというとあの時のことを思い出します。政治家はタフと思いましたが、その半年後の総選挙の最中に主役だった大平首相は亡くなりました。その疲労があったと思いますよ。(中略)
◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評
Q.当時、政治の世界では中曽根さんの存在は、田中派、大平派、福田派などの存在に較べて素人目にも存在感は薄かったような記憶がありますが。
三角大福中の中で中曽根が総理大臣になるなんて誰も思っておらず、政治の主流は田中角栄の田中派、大平正芳の大平派、福田赳夫の福田派が握っているわけです。この角大福派閥間で首相の座を回すというのが暗黙の了解で、政治部でもこの派閥を担当しているのが、政治部記者のエリートコースという感じだったと思いましたね。
三木派担当というのは、自民党の良心という感じのリベラル派の三木武夫さん自身が、大所高所の正論を述べる人でした。ここを担当する記者は“足して二で割る”いわゆる自民党的ではなく、論理的な正論派が多く、将来の論説委員候補という感じでしたね。もちろん例外はいましたがねえ(笑)。後に毎日の社長(2004年)になる同期の北村正任君も三木派担当でした。温厚かつ落ち着いた切れ味鋭い原稿を書く記者でしたね。東大法学部卒、公務員試験で大蔵省にも受かり、それを振って毎日新聞に入ったという伝説を聞いたことがあります、父親は当時の青森県知事・北村正哉でした。「大蔵省に入っていたら後継知事になれたのに・・・。」と冷やしたことがありましたが、苦笑いしていましたね(笑)。
その北村君が当時のキャップに40日抗争の終了後の総括の記事を書け―といわれて、「頭を冷やして、少し考えてきます」といって、クラブを出て黄色のイチョウの並木の国会周辺を散歩してきて、やおら原稿を書き始めたことを記憶しています。ぼくなんか書きながら考えるタイプの記者でしたから、こういう落ち着いた記者がいるのかとビックリした記憶があります。彼が社長になった時、真っ先にこのことを思い出しました。(以下略)