2021年6月24日
僕はケンちゃんと危険な取材もした写真機、ニコンF

僕は中島健一郎が1968年4月、毎日新聞社に入った時に写真部の斡旋でケンちゃん(中島の愛称)が買った写真機だ。ニコンFは名機と言われたカメラで、とても頑丈。ミノルタの方が安かったがケンちゃんは、ぶつけてもびくともしない僕を選んだ。それ以来、僕はケンちゃんが取材に行くときはいつも一緒だった。
初任地の長野支局に信越線に乗って向かった。上野駅から列車がゴトゴトと動き出した。都会っ子のケンちゃんは都落ちみたいに感じてしんみりした。県知事公舎近くの支局は木造の古い建物。「まるで東京日々新聞時代のままのようだな」と、靴のまま上がろうとしたケンちゃんは「スリッパを履けよ」と早速、注意された。
宿直室の二段ベッドの上の方に半月ほど寝泊りさせられた。松代群発地震の頃で、なぜか朝方に発生する地震で宿直記者が飛び起きると、ケンちゃんも枕元に置いた僕を掴んで梯子を降りる。昔は最低でも1カ月は宿直室泊まり。便所掃除が新人記者の務めというしきたりは、もうなくなっており、日曜日は棟続きの支局長住宅に奥さんが呼んでくれ美味しい朝食をご馳走になった。
長野日赤病院の資格を取れたばかりの看護婦さんの戴帽式の記事と写真が小さく長野版に載った。ケンちゃんが僕で撮った写真で紙面化された最初の作品だ。支局ではフィルムは自前。その代り紙面に写真が掲載されると、確か顔写真が1つ150円、カット写真が300円もらえた。暗室で倹約のため撮影した分のフィルムを引き出して現像する。焼き付けも自分で行い、定着させて乾燥させたら電送機で送信する。ケンちゃんは僕で写真を撮るのが好きで1カ月に6千円も写真代を稼いだことがある。各社の中で一番良かった毎日新聞の初任給が2万8千円だったから僕は随分、ケンちゃんの懐に貢献したんだ。
支局で2年先輩の長崎和夫さんは「1枚の写真は千行の記事に勝ることがある」が口癖で写真の大事さをケンちゃんに指導した。ところが松代群発地震の被害の取材に現地に行っている時に地震が発生、揺れ動いている地面を撮って来たのは良いが写っていたのはただの地面。「やあ、参ったよ」と、こんな笑えるエピソードを語る長崎さんは1967年8月1日に西穂高岳で下山中の松本深志高校生を落雷が襲った事件で写真を入手した記者だった。死者11人、重軽傷者13人がバタバタと倒れている凄惨な現場を撮ったフィルムを入手して山道を駆け下りた。一面に大きく載った写真はそれこそ千行の記事に勝った。ちなみに1面の大見出しは「水平雷撃」。落雷は上から落ちるものだが、高い山の尾根では水平に感じられたのを表現した名見出しだった。

浅間山荘事件(1972年2月)でもケンちゃんは僕をいつも肩にぶら下げて取材していた。一瞬のシャッターチャンスを逃すわけにはいかないことを長崎記者らに叩き込まれていたからだ。連合赤軍と警察の攻防には写真部が山荘の周囲でカメラを構えた。土嚢の後ろに隠れる警官達。そこから20メートルほどの所に停めた毎日新聞の車両の中でケンちゃんと写真部員は見守っていた。突然、警視庁特科車両隊中隊長、高見繁光警部が立ちあがった。伏せている部下を見て指揮棒を振った時、銃声。高見警部の眉間から血が噴き出した。「中隊長!中隊長!」と叫びながら盾の上に高見警部を乗せて走る隊員達。ケンちゃんは車から飛び出した。みるみるうちに血が盾に溜まる。この時ばかりはケンちゃんは写真を撮れずにぼう然としていた。
浅間山荘の正面の斜面には報道陣がカメラの砲列を敷いた。撃たれた場合を考え、どの社も防弾チョッキを配った。ケンちゃんの数メートル下の斜面には信越放送のカメラマンがしゃがんでテレビカメラを構えていた。そこに銃撃。そのカメラマンはつんのめるように倒れた。しゃがんだので防弾チョッキがずり上がり、彼の睾丸が吹き飛ばされたのだ。でもその後、結婚した彼に子どもが持てたのだから片方の睾丸が無事なら大丈夫だ。
ケンちゃんは人質の泰子さんがどの部屋に監禁されているか推理するため近くの山荘の管理人に聞きまわった。訪問したことがある人は「一番立派な部屋はカエデの間かな。二段ベッドの部屋で柱にくくられている可能性が強いよ」などと語った。浅間山荘の内部を撮った写真は借りまくった。
「泰子さんはどこに」と題した記事が、内部写真と共に長野版に大きく掲載された。毎日新聞社の前線本部に届いた新聞を見た名文家で知られる社会部記者が「なんでこの記事が全国版に載らないんだ」と叫んだ。外側で発生している事象は毎日、報道されているが、山荘の中の様子は分からない。だから読者はどうなっているか知りたいからこの記事がタイムリーだというのだ。翌日の毎日新聞の全国版にケンちゃんの記事は掲載された。勿論、長野県に配達される新聞だけは二重掲載を避ける措置が取られた。「全国版から地方版に記事が落ちてくるのは当たり前だが、格上げは珍しい」と言われた。ケンちゃんは写真の大事さを教えられていたので「自分で撮れないなら、内部の写真があるか近くの山荘の管理人を当たろう」と走り回った結果、全国版に格上げされた記事が書けたのだった。
学芸部の映画担当が希望だったケンちゃんは、浅間山荘事件が契機となり社会部への異動になった。しかも1年はサツ回りをするのが当たり前なのに6方面担当のサツ回りを1ヵ月しただけで警視庁捜査1課担当になった。東京では大きな事件事故では写真部が出動するからケンちゃんが僕で写真を撮ることは減った。

「入社以来の大事なニコンFを修理した」というケンちゃんのフェースブックの投稿を見て、「カメラの話を書いてくれませんか」とメールして来た高尾義彦さんについて触れたい。彼はロッキード事件の時に司法担当記者だった。田中角栄が検察庁に出頭して来た時に車から降りてきた姿を高尾記者は自分のカメラに収めた。高尾さんも写真の大切さを分かっていた。もし彼が写さなかったら紙面ではその朝、「検察、重大決意」と大見出しで報道した毎日新聞は写真では負けるところだった。「田中が。田中が検察庁舎に入りました」という高尾記者の電話を本社の宿直室で受けたのはケンちゃん。「写真は?」と問いに高尾記者は「僕が撮りました」と答えた。ケンちゃんはその返事にホッとしたのを覚えている。
殺人事件の取材で怪しい人物にインタビューした時にケンちゃんは最後に「写真を撮らせて」と言う。無実を主張する人物が「なんで俺を撮るんだよ」と怒らない。僕、ニコンFのシャッター音は結構大きく「あんた、やったんだろう」と響く。やましいから写されるのを拒否できないと、ケンちゃんは確信する。
野方の衛生検査技師行方不明事件では広島まで出張して男を追及した。1時間ほど質問した後、同じ問いを繰り返す。初めの答えと二回目の答えが微妙に食い違っていたらその矛盾を突く。男はうつむいたまま黙り込む。そしたら写真を撮るのだ。今から思うと事件記者ケンちゃんは相当、きつい取材をしたものだが、「警視庁刑事」(鍬本實敏著、1996年10月発行、講談社)にケンちゃんと鍬本刑事が協力して事件を解決したいきさつが載っている。
その後、調査報道や脱税担当などをした後、ケンちゃんはレーガン政権発足後の1981年2月末、ワシントン特派員になった。写真部は駐在していないから僕の出番だ。軍のグレナダ侵攻の取材で、焼け落ちた首相官邸や弾痕が残る要塞の写真も。中米紛争でコントラ(ニカラグアのサンディニスタ政権と戦う右翼ゲリラ)の野戦病院では足や腕をなくしたゲリラ兵士を撮影した。倉庫の荷箱を写した時、ゲリラの指揮官が「そこは撮るな」とわめいた。米国はイランに武器を売り、その代金でコントラに物資を流していた。後に問題になるイランコントラゲートの証拠が木箱に刻印されたナンバーを追えば可能だから指揮官は怒ったのだろう。


帰国後、1985年6月の皇太子夫妻=写真=の北欧4か国訪問取材で僕は大活躍した。日本国内では皇室の写真取材は厳しく規制されるが、海外ではかなり自由だ。僕を構えているケンちゃんの写真は他社の記者が撮ってくれたものだ。ノルウェーのベルゲンで皇太子夫妻と、留学中の英国から合流した浩宮様の記者会見があった。ケンちゃんは「ノルウェーの女性記者を浩宮様は写真に撮られましたね」と質問した。美智子様が「あの赤いコートの方ね」と述べ、クスリと笑われた。浩宮様と美智子様の間で、この女性記者は話題になっていたのだ。鼻筋の通った美人記者だった。ケンちゃんは浩宮様が「鼻が高い人が好みだ」と思った。後に皇后となられた小和田雅子さんも鼻はしっかり大きい。
その後、警視庁キャップ、社会部、外信部デスクをしたが、僕が活躍したのはソ連のトップインタビューの仕掛け時だ。ゴルバチョフソ連共産党書記長との会見を毎日新聞社長が行うための工作で、ソ連共産党中央員会イデオロギー部長の案内で真夜中、ヤコブレフ政治局員と会うためクレムリンに非常口から入った。森浩一編集局長、上西朗夫政治部長がヤコブレフに挨拶している写真を撮った。ポポフ・モスクワ市長からハズブラートフ第一副議長ら要人と軒並みインタビューを重ねたが、写真撮影はケンちゃんの担当だった。
この事前工作が功を奏して社長のゴルバチョフ会見に持ち込めたのだが、味をしめた毎日新聞社はケンちゃんにブッシュ米大統領とのインタビューのセットを指示した。だがマスメディアが発達した米国で大統領への単独インタビューは難しかった。あらゆるツテを使ってホワイトハウスに要請したが、良い返事はない。ソ連崩壊を予想して身の振り方を考えていたイデオロギー部長が日本に期待していたのを利用出来たからソ連では仕掛けが出来た。しかし米国ではそうはいかない。くたくたに疲れてワシントンのホテルのベッドの上に横たわって天井を見つめた。やっと国務省の日本部長から「ダン・クエール副大統領が会う」との返事が来た。「副大統領じゃ嫌だ」と言うと「それでも大変なことだ。感謝しろ」と怒られた。工作を始めて約2週間後、編集局長と政治部長に飛んできてもらい、インタビューは実現し、ホワイトハウス専属カメラマンが記念写真を撮ってくれたが気持ちは晴れなかった。
1991年に今度はワシントン支局長としてケンちゃんは僕を携えて赴任した。ブッシュ大統領とクリントンが戦った大統領選で、クリントン勝利を予想したケンちゃんとクリントンキャンペーンについて各州を回った。キャンペーン中は至近距離で取材しやすい。パチパチ写真が撮れる。
黒人男性への警察官の暴力が無罪になったことから、50人以上が死亡する惨事となったロサンゼルス暴動(1992年)。白人警官4人が黒人のキングさんを50回以上も警棒で殴っている様子を撮影したビデオ映像がテレビ放映され、抗議活動が盛り上がったのに警官は罪を問われなかったのだ。映像の力は時としてすごい。
ワシントン支局長から東京本社の社会部長になったケンちゃんは僕を片手に取材に出ることはあまりなかった。しかし阪神大震災(1995年1月17日発生)で神戸支局に差し入れを持っていった時のことだ。山口組がボランティア活動をしているというので本家を見に行った。大きな屋敷の玄関前にテントを張って援助物資が並べてある。組員にいろいろ質問していると「あんた、誰や」と聞かれた。毎日新聞の社会部長だと答えると、「もうすぐ広報担当が帰ってくる」という。間もなく帰って来た広報担当は面白い男だった。「5代目組長が全国の山口組の組長に役立つ物を持ってこい、と命令したんや。洋品店などに“神戸の人たちのため何か出さんかい”と言うと沢山の品が集まる。それをトラックに積んですっ飛ばす。お巡りに捕まったら“ウルセイ。被災地を助けに行くんだ”と怒鳴ればオーケー。渋滞したら裏街道を走る。お手の物や」。ヤクザにも広報担当がいるのに感心していると、屋敷の庭にはもっと多くのテントがあるという。300坪ほどの舗装された敷地に張られた4つのテントには毛布やコメ袋などが山積み。そこに1台のトラックが到着し、家から走り出て来た男達が荷降ろし。それを指揮する男がいた。「5代目組長だ」と広報担当が紹介してくれた。「わいらは神戸の皆さんにはお世話になっている。震災の時に恩返しするのは当然だ」という5代目と一緒の写真を撮った。
首都の地下鉄にサリンが1995年3月20日に撒かれて、大騒ぎになったオウム真理教事件。山梨県の上九一色村にあったサティアン(オウム真理教の拠点)の張り番をしている記者の激励に5月2日に行ったケンちゃんは富士山の写真を撮った。この写真はなんと1面に掲載された。余録(1面のコラム)に経緯が紹介された。
以下は余録のさわり。
本紙に連載中の「1989年秋 そして今」(牧太郎編集委員)の第1回目に、山梨県上九一色村から見た富士山の幻想的な写真が載っていた▲深い淵のような藍色の空に、紅の瑞雲がたなびいている。山肌にも紅の筋が何条か浮かんでいる。撮ったのは中島健一郎・東京本社社会部長。上九一色村で「ほら、ご覧なさい」と地元の人に促され、シャッターを切ったという▲普段、濃い霧に閉ざされている富士山が全容を現した瞬間の光景だ。
余録の後半は端折るが牧太郎さんはサンデー毎日編集長として6年前にオウム真理教と対峙したジャーナリスト。その狂信と闘ったペンの記録の連載のカット写真にケンちゃんの富士山の写真が「富士山の美しさは6年前も今も変わらない」として採用されたことを余録は取り上げたのだった。TBSラジオの森本毅郎スタンバイにコメンテーターとして出演した時、「今朝の毎日新聞の富士山の写真は中島さんが撮ったんですよね」と紹介された。写真の反響は大きい。

その後、ケンちゃんは編集局次長、英文毎日局長、事業本部長と管理的な仕事に移り、僕は仕舞い込まれることが多くなった。2006年に毎日新聞社を退社してからケンちゃんは携帯やスマートホンで写真を撮るようになった。その僕を今年(2021年)に倉庫から取り出したケンちゃんはカビが生えているのにビックリした。同じタイミングで長女が「6月1日は写真の日だけど、ぶつけて角がへこんだお父さんの黒い写真機は今どこにあるの?」と聞いてきた。小学生だったのに写真機の傷まで覚えていたのだ。「ほったらかしにしてごめんね」と謝って、ケンちゃんは僕を分解掃除に出した。新品くらいに綺麗になった僕を見たケンちゃんは嬉しくなってフェースブックに投稿した。それで高尾さんが「中島さん、写真機の話を書いてくれませんか」と連絡して来たのだ。愛機ニコンFを撫で擦っていると、いろんな写真取材を思い出す。写真の持つ訴える力や記録性を改めて感じた。それでついついだらだらと書いてしまったが、きっかけをくれた高尾さんに感謝したい。
(中島 健一郎、77歳)