2021年6月15日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑬ ある新聞記者の歩み12 政治部に移って、人間くさい政治家とのつきあいを楽しむ日々 抜粋
(インタビューは校條 諭さん)
全文はこちらで https://note.com/smenjo
元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、“本拠地”経済部を離れて政治部に移ります。1977(昭和52)年、35歳の頃でした。政治の現場で政治家という人間に当たるのはむしろおもしろいと感じ、自分に合っていたと言います。昨今、記者と政治家の距離の取り方が問題視されたりしていますが、マスメディア、なかでも新聞の権威が輝いていた時代に、取材の現場はどんなだったのか、それをビビッドに率直に伝える証言は貴重です。
目次
◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”
◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍
◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」
◇35歳 最年長“番記者”になる
◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく
◇番記者は鵜飼の鵜
◇聞き終わったら「合わせ、合わせ」で各社共有
◇首相の追っかけ係は通信社
◇まんじゅう的魅力かドーナツ的人気か 深くつきあわないとわからない
◇ナベツネさんはすごい
◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”
Q.いよいよ政治部ですね。
1977(昭和52)年の1月に政治部に配属になりました。大手町の経団連会館3階の重工クラブから永田町への“転勤”でした。前年末に“保守傍流リベラル派”といわれた三木内閣が総辞職して、“保守本流”の福田赳夫内閣が成立(1976年12月24日)した直後です。個人的なことで言えばその前年の10月に結婚したばかり。女房はカトリック系の私立の中高一貫校で英語の先生をやっていて、真面目一本ヤリ、昼夜逆転生活のブンヤと結婚してビックリしたようです(笑)。マーそれでも経済部は政治部に較べて、そんなに忙しくはなかったですが、政治部は本当に“夜討ち・朝駆け”の生活でしたから、そのペースに合わせるのが大変だったようです。
なぜ政治部に行ったかということですが、当時、毎日新聞編集局には政経交流という方針がありました。「経済部は大所高所の高みの見物で、とってつけたような経済理論でバンバン書いてるけど、最終的な結論を出す政治の現場って理論で決まるような世界じゃない。政治家一人一人選挙区の事情、その集団の自民党内の派閥の力学、野党との関係、中央と地方の関係など生臭い現場の力学の中で政策が決定されている。これを知らなきゃいけないぞ」というのがひとつです。
もうひとつは、いろんなテーマで社内的な紙面調整が大切になってくるんですね。社会保障政策だとか、農業政策、特に減反政策、地方への交付税予算だとか、代議士の当落にかなり関係するわけで、結果として政府の政策が「政高官低」、つまり政治が強くなりつつある時代でした。だからどうしても政治部からの情報だとか、パイプ役というのが必要だということになってきたと思います。政治部と経済部の記者を交流させ、パイプの流れを良くしようという事だったのではないですかね。
今でも思い出すのは、政治部から帰ってきて大蔵省担当当時、いまの「マイナンバーカード」を先取りした「グリーンカード」案が大蔵省から提案され、富裕層の株式所得などを税制面で課税・総合的に捕捉しようとしたんです。法案提出寸前のいいところまで行ったんですが自民党につぶされます。当時の海軍主計学校出身、レイテ海戦生き残りのF主税局長が「本当に政治家ってしょうがないねー、将来の国のことを考えているんかなー」と唇をかんで、天を仰いでいたことを思い出します。
この辺のところを先取りしていたのは読売新聞で、経済部記者は例えば石油危機の際の電力料金の値上げの時など、自民党の政調会幹部のところに夜回りをして数字を探っていたようですね。毎日の経済部にはそういう意識はなかったな―。
◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍
ちょうどその頃、相前後して与野党逆転だとかロッキード事件だとかいろんな問題が起きて、政治が経済に介入する場面というのが多くなっていたということがあるんだと思います。また経済界も政治力を必要としていた、グローバル化する経済の中で発展途上国への経済援助など、経済界が請け負うわけですから、いわば“政官財複合体”というものが出来ていたんだと思います。
Q.政治部に行かれたのは、特に希望してではなく、指名されたということですか?
ぼく自身は政治部でやってみたいと思ってましたよ。ぼくで2代目だったか3代目だったか・・・。ぼくの前は一年先輩の小邦宏治さんという記者が行ってたんですよ。経済部から行くのはだいたい2年契約なんです。契約と言ってますが正確には慣習ですが。ぼくの場合は4年いました。その後ないんじゃないかなー。これはかなり異例なことなんですね。ぼくわりと調子がいいから、政治家とつき合うのはきらいじゃなかったんです。一橋とか東大出た経済部の真面目な記者は、官僚と一緒になって、政治家なんか政策を曲げてけしからんとか言ってバカにしてるわけです。こっちはそんなこと気にしないから、おもしろがってつき合うという気持ちがありました。でも逆に考えてみれば経済部では、あまり必要とされていなかったのかも(笑)
◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」

最後の四年目の頃は、「おまえ政治部に残るのか、経済部にもどるのか、どうするんだ?」と当時の経済部長から呼び出されたことがありました。ぼくは残ってもいいかなあ―と一瞬思ってました。ところが、政治部は僕と同期の40年入社(昭和40年、1965年)の人が6,7人いました。のちに政治部長から社長になった、横綱審議会の会長にもなった北村正任君、RKB毎日放送の社長になった石上大和君とか、間違いなく政治部長になれる人が3人くらいいたんです。だから、ぼくが残ったとしてもとてもじゃないけど政治部長なんかなれないなと思いました。
当時、(経済部の時の上司の)歌川令三さんに相談したことがありました。そうしたら「帰ってこい、政治部にいても(部長になれる)目は無いぞ」と言われました。不思議なことに経済部は昭和40年入社(1965年)がぼく以外誰もいなかったのです。入社試験の時は東京オリンピックの時で、百人近く採用したんですね。支局から本社に上がる際、優秀なやつはみんな政治部、社会部などに取られちゃったんですね。それはやっぱり、経済部と政治部の社内的な政治力の違いなんだな。人材については水面下の争奪戦ですから。経済部はあまり社内政治力が無いですからねえ。
その時、歌川さんが言ったのは「40年組はオマエひとりなんだから、黙って坐ってれば部長になるぞ」って(笑)まあ、そのとおりになりましたが(笑)・・・。めぐりあわせです。でもこんな事、話すと出世主義者のガリガリと思われていやだな―(笑)
Q.では、政治部に配属された頃まで時間を巻き戻して、政治部でのお仕事を具体的に伺います。
◇35歳 最年長“番記者”になる
政治部の時代というのはすごくおもしろかったです。とにかく、政治部っていうのは一種の徒弟制度のようなところです。スタートは番記者です。支局から上がってきた各社の政治部の若い記者が、だれでも最初に通るポジションです。少なくとも日本の政治、経済、外交あらゆる問題が、最終的には総理官邸に集中するわけで、本当に勉強になります。そこで1年程度やって各クラブに行くわけです。政治記者の登竜門といってもよかったですね。
ぼくは当時35歳位でしたから、各社の中で最年長でした。特に、日経は、以前“少年探偵団”と呼ばれていたなんて話をしたように、支局まわりがなくて入社後、直接政治部に配属になるので、いちばん若かったですね。安全保障担当していた伊奈さんなんて、大学を出たばかりで一回り違いました。
Q.伊奈さんというのは伊奈久喜さんのことですね?2016年に胃がんのためなんと62歳で亡くなったのですね。何か印象に残っていますか?
背の低い、小太りで色の白い、でも福田赳夫首相に臆せず質問をしていましたね。ぼくが経済部から頼まれて、税制の問題かなんかで総理に質問すると「佐々木さん、今の総理の発言、解説してよ、経済問題は佐々木さん専門でしょ」なんて調子のいいこと言いながら、メモ帳を出していたことを思い出します。後年、安全保障問題について署名入りで格調高い記事を書いているのを見て、いい記者になったな、あの伊奈ちゃんが―、と思いました。残念だな―。
それと今テレビで売れっ子のコメンテーター田崎史郎さんも時事通信で、一時期、福田番をしていたと思いますよ。ウイキペディアで見ると大平番となっているけど、一緒にいたように思うな。彼は学生時代、成田空港建設反対闘争、いわゆる三里塚闘争で逮捕され13日間も拘留されていたんですよね、そういう人が権力のトップの間近かにいたんだから----。公安も困っただろうな―。でもその彼が今や政権寄りのコメンテーターとして有名で、安倍政権時代は首相と一緒に寿司会食をしたというんで“スシロー”なんてネットで冷やかされていたんだから面白いよねー(笑)。
そうか思い出しました。当時番記者仲間だった共同通信の福山正喜さんはその後、社長(2013~18年)になりましたね。産経は後に社長(2011~17年)になる熊坂隆光記者がいましたね。その後、中曽根派担当で一緒で仲良くしました。
政治部の記者はその後、社内でトップに上り詰める人が多いですね、各社とも。やはり菅総理ではないですが「総合的・俯瞰的」にモノを見る目が自然と養われ、社内の派閥抗争も自民党のそれに比べれば赤子の手をひねるようなもんだったかもしれません(笑)。
◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく
ぼくといっしょに番記者をしていた毎日の記者は、支局から上がってきた若いⅠ記者と、後にセブン&アイ・ホールディングスの常務になる稲岡稔さんの3人だったように思います。3人でローテーション組んでいたように思います。
昔の官邸の入口のすぐ脇に、通称番小屋というのがありました。10畳もないくらいの広さの部屋でソファーが2つくらい置いてありました。そこに各社のみんなが詰めているわけです。担当ではないときには、番記者が持つことになっている内閣府、官房副長官などのところに行くわけです。時間があれば首相官邸前にある「国会記者会館」の毎日新聞の部屋に行って先輩記者の話を聞いたりしていました。思い出しましたがその一階に喫茶店があって、そこに当時はやりのコンピューター・ゲームの走りの“インベーダーゲーム”機があってよく遊びましたね(笑)。
番記者は官邸記者クラブに属しているわけですが、このクラブには官邸キャップの下に名簿上は数十人いたと思います。総理会見には経済、社会部などからも出ることがありますから、そのくらいの数になりますね。常駐記者は10人くらいはいたんではないでしょうか。官邸内にチョットした学校の体育館並のデカいスペースの「官邸記者クラブ」の看板を掲げた部屋がありました。
このほかに自民党担当の「平河クラブ」、野党担当の「野党クラブ」があって、これに外務省担当の「霞クラブ」というのが、さしずめ四大クラブという感じでした。他には厚生省、労働省、自治省などのクラブが政治部の担当でした。ただ政治部の主流はこの四大クラブで、ここのキャップを幾つかやっていなくては部長にはなれない、という暗黙の了解があったように思います。「平河クラブ」には、党内の各派閥、当時は福田派、大平派、田中派、中曽根派、三木派などの各派閥担当がいました。いわゆる派閥記者ですね。やはり福田、大平、田中派担当が幅をきかせていましたね。
番記者を上がると、こういったクラブに所属するわけです。
番記者というのは番小屋に詰めてて、黒板にその日の総理の概略の日程が張り出されのを見て、朝8時頃に総理が車から降りて官邸入りすれば、二階の執務室の前まで付いて行くわけです。テレビ各社も入れて十数人で取り囲んで、組閣の時、新内閣の閣僚がひな壇のように並んで写真を撮る、議員あこがれの階段を上がるわけです。なにせ数分、二三分位だったでしょうから、質問内容を事前に各社で打ち合わせていたと思いますが、「今日のご日程に〇〇さんに会われるというのが入っていますが何のお話するのですか?」とかいうように質問したりします。あるいは他社の特ダネ「今朝の〇〇新聞の記事はどうなんですか?」なんて聞くわけです。(以下略)