元気で〜す

2021年4月19日

元中部本社代表・佐々木宏人さん⑪ ある新聞記者の歩み ⑩抜粋

 現在は、ネットの発達とスマホの普及のもと、新聞というメディアの退潮が目立ちます。しかし、石油危機当時は、新聞がマスメディアの王者としてニュースの供給を圧倒的に担っていました。テレビも映像の力を発揮して成長しつつありましたが、信頼度という点では新聞が常にまさっていて、ジャーナリズムの中心的担い手でした。新聞記者の“酒とバラの日々”とでもいうのでしょうか。

目次

経済部時代(6)
◆現役記者との会話から
◆隔世の感!日経の「就職企業人気ランキング」の特集記事
◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・
◆砂漠の国と新緑の日本
◆中東のオアシス レバノン
◆中曽根さんの政治家としてのカン
◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も
◆得がたい記者仲間たち
◆記者にとって麻雀とは

Q.毎日新聞社という企業体は(新旧分離という)苦難にぶつかったわけですが、メディアとしての新聞は全盛期だったわけで、その時代を経験された記者のオーラルヒストリーを記録しておくのは、時代の証言としておおいに価値があると思います。そこで少々趣向を変えて、取材にまつわるこぼれ話などいかがでしょうか?

◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・

 1974年1月7日に当時の中曽根康弘通産相がイラン、イラク、アブダビ(現アラブ首長国連邦)を訪問します。その時、同行取材をした話はすでに第6回で話しましたよね。その前年の73年10月6日に第四次中東戦争を契機として、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が消費国に供給制限をかけ、反イスラエル・パレスチナ支持を条件に、石油供給の段階的制限を打ち出します。

 石油危機の勃発です。日本経済はパニックに状態となり、“アブラ乞い外交”と揶揄されながら、12月に三木前首相がサウジアラビアなどを訪問、中曽根通産相も、1月早々に旅立つわけです。日本国内では原油を燃やす火力発電が主流だった電力供給体制でしたから、大変です。電力供給制限が発令されるなどの緊迫した状況下、三ヶ国を訪問して、日本政府がパレスチナへの理解を示していることを表明、18日に帰国しました。

 私は帰らずにテヘランからレバノンのベイルートに移り、「無資源国日本の危機」をテーマとする1面連載企画の取材のため、サウジアラビア、クエート、アブダビの現地取材に出かけました。ベイルートに拠点を置いて風呂敷一つに取材用具を入れて飛び回った記憶があります。そのときに第1回目か2回目の記事を書きました。1面の左上で連載したかなり大きい企画でした。とにかく“産業のコメ”といわれた石油が来なくなるというので、狂乱物価といわれ、物価がほぼ3倍になって日本経済を揺さぶっていました。

画像
出所)『証言第一次石油危機』(社)日本電気協会新聞、1991年

 でもサウジアラビアなどの産油国に行くと、国中のんびりした様子。石油危機とは程遠い状況。産油国と消費国というポジションを考えれば当たり前なんですが、そのギャップに驚きました。

 思い出すエピソードがあります。首都リアドで東京で紹介状をもらっていた、三菱商事、伊藤忠、丸紅などの現地駐在員に会うと、「市内でタクシーに乗る時はよく気をつけろ」と言われましたよ。運転手が、日本人男性を見ると助手席に座れと言うんだそうです。

 サウジでは結婚の際、男性が女性の家に大金を払うんだそうです。お金がないと女性と結婚することができないんです。タクシー運転手はそういう経済的余裕がないので、同性愛が多いんだというんですね。それで助手席に座るとさわられると言われました(笑)。

 「佐々木さんは色白だから気をつけた方がいいよ!」(笑)

 そんなおかしな話が交わされるほどのどかでした。被害には会いませんでしたが(笑)。

◆砂漠の国と新緑の日本

 当時、三菱商事がリアド郊外で石油化学工場の建築工事をやっていたので訪ねました。とにかく日本人男性だけで20人はいたでしょうか。酒は飲めず、女性の事務員がいるわけでもない索漠とした、周りは緑のない全くの“砂漠の飯場”だったことを憶えています。とてもここには長期滞在はできないなと思い、商社マンってえらいな!と思いましたね。

 日本に帰ってからその話を確か第5回に書いた、右翼の資源派フィクサーといわれた田中清玄さんにしたことがあります。そうしたら、田中さんが以前サウジの王族を5月の新緑の時期に、箱根に招待したことがあるんだそうです。その時、その王族がホテルの部屋から見える新緑に見惚れて立ち尽くしていたとか。「砂漠の国からきて新緑の美しさに感動していたんだね。その心中を考えると声をかけられなかった」という話を聞いたことがあります。本当に日本は四季に恵まれた“美しい国”だと思いますね。

◆中東のオアシス レバノン

 この当時、レバノン・ベイルートは中東のオアシスでした。旧フランス植民地でイスラム教のスンニ派、シーア派が共存し、キリスト教もカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教などが共存してモザイク国家といわれていました。バランスよく政治的にも安定したいたようです。町並みはヨーロッパ風、アラブ風の衣装を着ている人も少なく、切れ長の目をした先端のパリモードを着こなした美人が多く、“中東のパリ”また“中東のオアシス”とも言われていました。地中海に面して気候も良く、食い物もおいしくて、私は海外で「また行きたいところはどこか?」と」言われれば、間違いなく「あの当時のベイルート」といいますね。

 しかし訪れた翌年の1975年には、この政治的バランスが崩れます。石油危機をきっかけとした中東紛争に巻き込まれ、内戦が始まり、見る影もなく市内は破壊されたようです。ようやく落ち着いてきたと思ったら昨年、ベイルート港で大爆発が起きて混乱が収まらないようです。日産のレバノン出身のゴーン元社長がここに逃げましたが、彼はここの生まれですから昔の思い出があるんでしょうかね。

 当時、サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦とか、厳しいイスラム教の戒律の国の金持ちは、休暇のときはレバノンに来て羽を伸ばして遊んでいたといわれていました。日本料理店も2軒くらいありました。地中海の海岸沿いのPigeon Cliff(鳩のがけ)といったかな、そこに日本料理屋と地中海料理屋があって通いました。

◆中曽根さんの政治家としてのカン

Q.中曽根さんは石油危機の前の年に中東を訪問しているのですね。

 石油危機の半年前の1973(昭和48)年5月の連休中に、イラン、イラク、サウジアラビア、アブダビ、クウエートに行ってます。全部国王などの元首に会っているんです。そのルートが、翌年行く時に生きるのです。当時、ぼくの通産省時代のキャップだった山田尚宏記者(後・経済部長)が同行したのですが、イランのパーレビ―国王に単独会見したことを覚えています。

Q.そのとき中曽根さんは“石油ショック”の到来を、察知していなかったわけですよね?

 そうです。だけど、彼の勘というのは、政治家としてやっぱりすごいですね。当時日本のエネルギーの80%は中東からの石油輸入に依存していたんです。イランからは37.3%、サウジアラビアは16.7%という具合でした。「民族の興亡は石油外交の成否に」と帰国後の「エコノミスト」誌(毎日新聞社発行)の73年6月19日号で語っています。 中曽根さんは、戦争中、海軍主計学校卒業後、海軍中尉としてインドネシアなんかに行ってるから、石油がなくて日本がたいへんだったということは身に染みて知ってるわけです。“無資源国・日本”という安全保障上の基本ポジションを押さえていたと言えます。

 わたしはその4年後の1977年に政治部に異動になり中曽根派担当になるんです。ある時、二人だけの時、中曽根さんに「あのとき中曽根さんはアラブによく行かれましたね?アメリカのキッシンジャー大統領補佐官などから日米同盟の枠の中で動けと言われていたのに、独自の対アラブ寄り外交を展開できたのですね。外務省の抵抗もすごかったと聞いています」という質問をしたことがあるんです。

 中曽根さんは「1970年代は戦後の第一ラウンドが終わって第二ラウンドが始まったところ。経済大国となった日本は、アメリカ中心という外交第一ラウンドから次の30年間を持ちこたえなくてはならない。そのため無資源国・日本が生きていく上にアラブ産油国の重要性を考えなくてはいけない。日本がこれから30年間持ちこたえるだけの外交姿勢に修正していかなくては―そう考えて取り組んだんだ」と語っていました。日本の安全保障の基点に“無資源国”というのがあるんだというわけです。その石油の替わりが原子力発電だったわけです。イヤー中々すごいなーと思いました。でもそれも限界に来ていますね。

◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も

Q.当時の取材競争の中で、他社というのはどれだけ意識していたのでしょうか?

 日経はなんとなく違う感じでしたね。通産省の記者クラブにも、5人か6人くらい配属されていたんじゃないかなあ。だいたいほかの社は2~3人なんですが。日経は「日経少年探偵団」なんて言われていました。我々は入社後、4,5年地方支局に行って本社に上がってきているんです。日経の場合、そもそも支局は一人支局で、新人の支局勤務がないんです。入社直後の学生気分が抜けていない、われわれの立場からいえば、彼らにとって通産省が記者として最初の“サツ回り”の感じではなかったかなー。我々の仲間よりも5歳から10歳の下の記者が多かった。

 だから彼らを率いるキャップも、新人教育が大変で他社の記者と付き合う暇がない様な感じでしたね。日経は若い記者が通産省の中の各局を分担していたんじゃないかな―。記者クラブでは、キャップの指揮下になんとなく固まって動いていたのに対して、我々はいい大人の気分で、一人一人それぞれという感じが強かったと思います。

 ただ当時の日経のキャップは後に経済部長、編集局長、副社長になる新井淳一さん。僕と同年代ですが、後年、財界人との勉強会などで一緒になり親しくさせていただきました。でも通産省記者クラブでは、こちらはヒラで新井さんはキャップ。もっぱら当社のキャップの山田さんが「新井ちゃん」という感じで、親しくしていたと思います。ちょう・まい・よみ(朝日、毎日、読売)と産経、共同、時事の記者は、年齢的に近いということもあって、割と仲がよかったです。とはいえ、競争は競争として当然ありました。

◆得がたい記者仲間たち

 他社の記者で思い出すのは、やっぱり今や評論家としても著名な朝日の船橋洋一さん(後同社主筆、現アジアパシフィック・イニシアティブ理事長)、読売の中村仁さん(後・経済部長、読売新聞大阪本社社長)、産経新聞の美濃武正さん、共同通信の米倉久邦さん(後・経済部長、論説委員長)、NHKの中村侃さん(後・報道局総務部長、アナウンス室長)だとかについては、何を取材してるのかなとか意識していたですね。このメンバーとは通産省クラブを出てからも、定期的に当時の通産省幹部と“割り勘”での定期会合をやってました。幹部の方が亡くなって自然消滅しましたけど懐かしいですね。

 記者仲間では、特に朝日の船橋君は、かれはそう思っていなかったかもしれませんが当方は一番のライバルと思っていました。本当にコマ鼠のようによく省内を回って特ダネを書いていました。石油危機の時も「後楽園(現東京ドーム)のナイターの火が消える」とか、「自衛隊の空の演習中止」など一面ものの特ダネをよく抜かれました。彼は、熊本支局で、毎日の政治部出身で後年、TBSのニュースキャスターとして有名になる故・岸井成格君と一緒でした。そこでアメリカ人の奥さんをもらうのです。

 おかしいのは朝日のクラブのデスクは毎日と隣り合わせなんです。他社の電話には出ないのがマナーなんですが、ある時、あんまりうるさいんで出たら英語なまりの日本語で「ヨウイチはヨマワリですか?」「そうです」と答えてガチャンと切ったことありました(笑)。 でも彼は仁義に厚い男で、後年サントリー学芸賞を受賞した「内部」、吉野作造賞の「通貨烈烈」などの本を出すたびに自宅に送ってくれました。ぼくが、終戦3日後に射殺死体で見つかったカトリック神父・戸田帯刀師のことを書いたノンフィクション『封印された殉教』を出した時、「英語に訳してバチカンに送れ」という手紙をくれました。嬉しかったですね。

 共同通信の米倉久邦さんは、一橋大学名誉教授の米倉誠一郎さんとは親族。数年前、日大のアメフットボールの不祥事で記者会見の司会を日大広報部長としてやり、詰めかけた報道陣とケンカになり袋叩きになりました。記者時代と同じ態度でおかしかった。でも彼はナチュラリストで、自然を愛して森のこと、山のこと、本を何冊も出しています。素敵なロマンティストなんですよ。

 読売の中村仁さんは僕の高校の後輩なんですが、思い切りのいい、スパっとして切れのいい原稿を書いていましたね。今でもニュース解説的なブログをずっと書いているんです。先日「格安スマホ加入でドコモに怒り」というNTTドコモの格安スマホ「アハモ」の加入についての体験記を書いたところ、「年寄りがシステムを知らずに書くな」と大炎上。ネットで話題になりました。でも全然へこたれないで書き続けています。偉いと思います。 みんな年とっても頑張っています。

 産経の美濃さんはこういう仲間と、通産省の幹部との会合のセット役をやってくれていて本当に有難かったですね。確か東北の石巻の出身で3.11の時にお兄さんが亡くなられたという事で、当時の仲間に呼びかけて見舞金を送ったこともあります。ここ2,3年、携帯での連絡がつかなくなったんですね。どうされているか。