2021年3月2日
永井荷風の「断腸亭日乗」を読みながら ― 92歳の磯貝 喜兵衛さんが大川端を歩く

昨秋、横浜から東京・鉄砲洲に引っ越してから半年近く。コロナ禍を横目に、隅田川をマンションのベランダから眺め、日々を過ごしております。好天の日は大川端(遊歩道)を歩いて、深川や柳橋、両国、浅草などへ足を伸ばすと、思いがけない史跡や記念碑に出くわし、往時を偲んでいます。
例えば寛永元年(1624年)、江戸歌舞伎の創始者、中村勘三郎が櫓(やぐら)をあげた「江戸歌舞伎発祥の地」(京橋)や、小山内薫らが大正3年に建てた「築地小劇場跡」(築地)など、芝居・演劇好きの私には印象深いスポットがいくつもありました。
そう言えば私の好きな永井荷風は実によく歩いていますね。関東大震災前の東京市中はもちろん、名作「濹東綺譚」などを生むきっかけとなった墨田、江東・下町への散歩は、実に念の入ったものです。その詳細は、荷風の膨大な日記を集めた「断腸亭日乗」にも明らかです。引っ越しの際、大量の本や雑誌を売却・処分した中に、うっかり愛読書の「断腸亭日乗」(岩波書店)を入れてしまったらしく、丸善で岩波文庫(上下)を買い直し、今、読み返しているところです。
日記は大正6(1917)年9月(39歳)から始まっていますが、荷風は翌7年12月に、わが家から近い築地本願寺わきに引っ越しています。
◇十二月二十二日 築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して、家具書篋を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に往き、家具を排置す。日暮れて後桜木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に帰る。この妓無毛無開、閨中欷歔(ききょ)すること頗(すこぶる)妙。(「四畳半襖の下張」的、エッチな表現ですが、ご容赦を)◇
荷風は1年余りで、築地本願寺近くの築地の家から、麻布市兵衛町に引っ越すことになるのですが、その間の翌年五月二十五日の記述に、「新聞紙連日支那人排日運動のことを報ず。要するにわが政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害かへって国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくするに至らずむば幸いなり。」と書いているのは、その後の日本の歴史と考え合わせ、印象的です。
荷風の反軍、反国家主義的思考は昭和に入ってさらに強くなっていくようで、昭和7(1932)年4月9日の日記には次の記述があります。
◇余つらつら往時を追憶するに、日清戦争以来大抵十年ごとに戦争あり。即明治三十三年の義和団事変、明治三十七、八年の征露戦争、大正九年の尼港事変の後はこの度の満 州、上海の戦争なり。

しかしてこの度の戦争の人気を呼び集めたることは征露の役よりもかへって盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑わいに異ならず。今や日本全国挙って戦捷の光栄に酔へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は満州より進んで蒙古までをわが物となし露西亜を威圧する計略なりといふ。武力を張りてその極度に達したる暁独逸帝国の覆轍を践まざれば幸なるべし。百戦百勝は善の善なる者に非ず、戦ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。◇
そして、この日記の1か月後に起きた5・15事件で犬養毅首相が射殺され、さらに4年後の昭和11(1936)年に2・26事件が勃発。今から85年前。その日の「断腸亭日乗は以下の通りです。
◇二月廿六日 朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来たり見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、軍人、警視庁を襲ひ同時に朝日新聞社、日日新聞社等を襲撃したり。各省大臣官房及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞こゆるのみ。市中騒擾の光景を見に行きたく思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田齋藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪止む。◇
淡々たる記述ですが、荷風の思想からすれば、その衝撃の大きさは想像に難くありません。
この時代の荷風は頻繁に銀座で飲食を繰り返していますが、戦後は浅草の踊り子たちとの交友を楽しみ、昭和34(1959)年4月30日、千葉県市川市の自宅で79歳の生涯を閉じることになります。
日記の最後は死の前日。『四月廿九日。祭日。陰。』で終わっています。
(磯貝 喜兵衛)
※磯貝さんは 元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長、三田マスコミ塾代表、慶應義塾大学新聞研究所OB