2021年2月5日
北大山岳部と毎日新聞 ― 山岳部OB記者だった浜名純さんの回顧といま(その1)

1970年春。私は積丹半島にある積丹岳の稜線直下の雪穴の中でじっとしていた。有り体に言えば遭難したのである。メンバーは北大山岳部の4人。私がリーダーだった。明日は下山という夜に天候が急変した。天気が悪くなるのは分かっていたが、明日早朝一気に里に駆け下りれば大丈夫だという読みだった。甘かった。
大型で強い低気圧はその夜、テントを直撃した。テントは破壊され、我々は真っ暗な雪稜を数時間さまよった。やっと一カ所雪庇(せっぴ)の下の急斜面に風の当たらない場所を見つけ、雪洞を掘って潜り込んだ。
それが一週間前であった。食糧と燃料を節約して生き延びていた。携帯ラジオからは当初、「北大パーティー遭難」というニュースが流れていたが、それが「北大パーティー絶望か」というトーンに変わっていた。「バカヤロー、こんなに元気で雪洞の中で暮らしているぞ」と怒鳴っても、その声はどこにも届かない。携帯電話など皆無の時代である。今なら携帯で「雪洞を掘ってビバークしている。無事で元気だ。天候が回復したら下山する」と連絡できただろうが……。札幌でも4月としては何十年振りという大雪で、小学校が休校となった。東京の私立大学生だった妹は、ゼミの旅行中だったが、NHKのニュースを聴いて一人、家に戻ったと後から知った。
やがて天気が回復した。一気に下った。とはいえ深い雪のラッセルの連続で里に近づく頃には陽もとっぷりくれていた。だいぶ下ってきた時、潮の香が風に乗って鼻をくすぐった。海が近い。助かった、と確信した。
とぼとぼと海沿いの道を歩き、一軒の漁師の家に飛び込んだ。「電話を貸してください」。札幌の山岳部に下山の報告をした。「おい、今テレビで放送しているのがあんたらか」と漁師。「そうです」と答えると大喜びだ。「俺のうちに遭難した奴らが来ている」。知り合いに軒並み電話し、たっぷりと夕ご飯をご馳走してくれた。そのうち、最寄りの警察署に前戦基地を置いていた報道各社が駆けつけ、ごった返した。私たちが予想外に元気だったので、テレビ局の放送記者が「捜索隊の人の肩につかまって歩いてカメラに向かって歩いてください」と言った。拒否した。俗にいうやらせではないか。バカヤロー。
場所を警察署に移して記者会見が開かれた。だんだん腹が立ってきた。山の知識がない新聞記者に登山の専門用語を解説しながら話さなくてはならないのだ。そのうち朝日新聞の記者がこう言った。「これだけ世間を騒がせ、迷惑をかけたことに対して一言お願いします」。私は怒った。「なぜ、あなたにそんなことを言われなくてはいけないのだ。捜索に当たってくれた山岳関係者、北海道警察のみなさん、捜索の後方支援をしてくれた人たち、心配しくれた方々には本当にお礼を言い、頭を下げます。でも、なんで世間に謝らなくてはいけないんだ。何で新聞記者に言われなきゃならないんだ。騒いでいるのはお前ら新聞記者だろう。遭難がなければ取材もしなくてよかったというなら、しなければいいだろう」と言ってやったのだ。バッキャロー。20歳をほんの少し越えただけの若造の私に怒鳴られ、朝日の記者は静かになった。
今はテレビで定番になった企業の謝罪会見。社長以下役員が横並びになって一斉に深々と頭を下げる。その瞬間カメラの放列……。そんなふうに私も頭を下げればよかったのかもしれない。若気の至りだろうか。翌日の朝日新聞地方版には「またも人騒がせな北大山岳部」という大きな見出しが躍っていた。
◇
やがて卒業した私は、札幌の繁華街ススキノやもう一つの繁華街「狸小路」で、ギョウザの店を切り盛りするようになった。進学塾の先生やバーテンなどもやった。そして数年後、新聞記者をやってみるか、と思い立ち、札幌で毎日新聞の試験を受けた。面接官が並んだ最終面接。その中の一人が「君のことは知っているよ。あの遭難の時、私が総指揮を取っていたんだ」と言い、皆がどっと笑った。あっ、これは受かった、とその時思った。

浜名さんは、最前列で座っている隊員の後方に立っている。日焼けした顔。
遭難現場で体験したような記者にはならないぞ、とうそぶきつつ、入社後はそれなりに記者生活を楽しんだ。10数年勤めた後に退社したが、その間、休職もさせてくれた。それも3回だ。2回は北大ネパール・ヒマラヤ遠征隊であり、1回は日本山岳会の中国登山隊である。普通の企業ならこうはいかないだろう。退職をしていくしかない。その点、毎日新聞は実にいい会社であった。条件は帰国したら連載を書けばいいという。写真部の先輩は、ごっそりとフィルムをくれた(もちろん当時はデジカメなどはない)。
もっとも2回目に関してはさすがにすんなりとはいかなかった。何しろ、1年間休職して、帰国して1年ちょっと勤め、その後また1年間休職するというのである。しかし、日本山岳会の会長が毎日新聞社長に直接手紙を書いてくれたら一発でオーケーとなった。
1985年夏、日航機の御巣鷹山墜落事故の時は、中国の青海省で山登りをしていた。「山の経験のある奴に現場に行かせろ。浜名はどうした」という話になったらしいが、長期休暇を取ったことがばれた。
◇
私が毎日新聞を辞めてしばらくして、フリーライターと編集者の仕事を始めた1989年、北大山岳部の後輩、藤原章生君が毎日新聞に入社した。言うまでもなく皆さんご存じの今が旬の花型記者である。2005年に『絵はがきにされた少年』で開高健ノンフィクション賞を受賞。昨年それを改訂した『新版 絵はがきにされた少年』を柏艪舎から刊行した(ぜひお読みください。まだの方はぜひ購入のほどお願いします。とても良い本です。*どういうわけか、ここだけはなぜか「ですます調」)。
2月24日19時からは、「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達アフリカ 『新版 ダウラギリ1峰ベースキャンプで(冬季8000メートル以上峰世界初登頂=1982年)。絵はがきにされた少年』」と題するオンライン対談が開かれる。対談者は藤原と私・浜名である。それらについては、次回(その2)で詳細を報告したいと思う。
(浜名 純)
※浜名さんは1975年、毎日新聞入社。北海道支社報道部から、東京本社地方部内政取材班、静岡支局、御殿場通信部、長岡支局、東京本社編集局整理本部、中部本社編集局整理部に勤務し、1987年退社。