2019年11月13日
19年間で9冊の著作、今吉賢一郎さんの執念

飛田八郎さんから最近刊『異界九夜』(藍書房刊、2200円+税)が送られて来た。
内容を紹介するペーパーに、こうあった。
戦に命 奪われて
闇を漂う 私らは
地上に生きる 人々に
いまはっきりと 申したい
地上に執着 なさりませ
地上の命 大事にし
無駄に失い 給うなよ
一回限りの ものだから
もしも戦を 無くすなら
地上に勝る 楽土など
どこにも無いと 思われよ
命きらめく 至上界
巻末に飛田八郎著作目録がある。
『カッパが見える日』短編集2000年10月
『少年の四季』2001年12月
『自然歩道で 』上・下巻 2003年5月
『隅田川』2005年10月
『黒いプカプカ』2007年2月
『影絵―続・隅田川』2010年1月
『三百六十六日の自然』2012年7月
2000年から19年間で9冊著している。大変な書き手である。
飛田八郎は誰か、と謎めかして書こうとしたら、牧内節男さんが自身発行のインターネット上の「銀座一丁目新聞」ブログ「銀座展望台」に《毎日新聞時代の友人今吉賢一郎君から『異界九夜』(ペンネーム飛田八郎。出版社藍書房)が送られてきた》(10月15日)と書いている。
今吉賢一郎、ことし82歳。
残念ながら一緒に仕事をしたことはない。東大文学部卒、61年入社。社会部、サンデー毎日編集部、毎日グラフ・サンデー毎日各編集長、編集委員。
毎日新聞4万号(1987(昭和62)年8月30日)をきっかけにした連載記事が『毎日新聞の源流』—江戸から明治 情報革命を読む―という単行本になっている(毎日新聞社1988年刊)。
毎日新聞の源流「東京日日新聞」は1872(明治5)年2月21日(旧暦)に創刊するが、「出板願」を当時の大蔵省に提出したのは戯作者粂野伝平(1832~1902)、貸本屋の番頭西田伝助(1838~1910)、浮世絵師落合幾次郎(1833~1904)の3人。1,2か月後に出版人の広岡幸助(1829~1918)が加わった、とある。
「この4人が250円ずつ出し、千円で始まった」と、広岡の証言を紹介している。
とにかくよく調べていて、人物も当時の世相もやたらと詳しい。
2022年、毎日新聞は創刊150年を迎える。それに向けての準備は始まっていると思われるが、担当者は、まずこの本を読んでもらいたい。
今吉さんの父親顕一さんも毎日新聞の記者だった。大阪本社の地方部長から応召、1944(昭和19)年7月9日、中国戦線で米軍の空襲を受けて戦死した。享年42。
社報に追悼文が載っているが「軟派ものを書かせては当時東京社会部随一といはれた」とある。親子2代のナンパの書き手だった。 父親のことは『黒いプカプカ』に詳しいが、《父は空襲の際患者の退避が終わってから最後に経理室に駆け戻り、重要書類と金庫とを運び出そうとした。そのとき直撃弾を受けた。病院への投下爆弾は37に及んだという。父の身体は粉々になり、瞬時に異郷の土と化したはずである》。
今吉さんは父親の戦死の模様をニューヨークタイムスにあたる。1944年7月10日付紙面に「重慶9日発AP」は「米空軍は作戦上の重要基地を攻撃した」とあり、翌11日付には「重慶発10日発UP」で「米空軍の爆撃機、戦闘機は衡陽北方で洞庭湖南東岸にある新市の日本軍補給基地を攻撃し、輸送車、燃料、弾薬を爆破炎上させた」。
ペンネーム飛田八郎について、ある先輩記者はこう解説してくれた。「トンダヤロウと読める。数え8歳、国民学校1年生の時、父親が戦死した。新刊書の帯にある『どうか地上から戦争が無くなるように』は今吉さんの心からの願いだ」
(堤 哲)