2025年12月25日
「戦後80年に想う」番外・最終回
開館6年半、空襲で焼け落ちた「東日天文館」(堤哲84歳)
日本橋三越本店の地下鉄連絡の地下通路に、江戸時代の日本橋の賑わいを描いた絵巻の拡大コピーが飾られている。「熈代勝覧(きだいしょうらん)」。その先に1944(昭和19)年の日本橋周辺の航空写真があって、有楽町駅の真上、ビルの屋上にドームが写っている。

フランス文学者澁澤龍彦(1928~1987)が書いている。澁澤は、マルキ・ド・サドを日本に紹介したことで知られる。
《東京で初めて、プラネタリウムが有楽町の東日会館(かつての毎日新聞社のビル)の屋上に完成したのは昭和十三年である。これが当時の知識欲旺盛な中学生や小学生におよぼした影響は甚大で、私たちは友だちと誘い合っては、学校の休みの日、よく東日天文館へ行ったものであった》(『狐のだんぶくろ : わたしの少年時代』潮出版社1983年刊)


《そのころは有楽町の日比谷方面へ出る出口は閑散としていて、街路樹のかげに、千人針をもった女性がたたずんでいたりした》と続く。
「東日天文館」は38(昭和13)年11月3日オープンした。プラネタリウムは、前年開業の大阪市立電気科学館(現市立科学館)に次ぐ国内2番目。直径20㍍のドームに独ツァイス社製「カールツァイスⅡ型」が据えられた。
開館1年で入場者は百数十万人にのぼった。有楽町の観光名所だった。しかし、45(昭和20)年5月25日の大空襲で焼夷弾を浴びて焼失。営業は6年半で終わった。
以上は、社史などを要約したものだが、東日は開館記念の別刷り特集を発行した。


澁澤龍彦がいかに「天文少年」であったか、「東日天文館」紹介の前段でこんなことを書いている。
《「火星の衛星は?」
「フォボスとデイモス」
こんなのは、たぶん海野十三の少年科学小説『火星兵団』かなにかで、おぼえたのではなかったかと思う》
海野十三(じゅうざ)。日本のSF小説の生みの親といわれる。「火星兵団」は、「大毎小学生新聞」と「東日小学生新聞」に長期連載された。1939(昭和14)年9月24日から翌40(昭和15)年12月末まで、396回にわたった。上下2巻の単行本となった。
「全国数百万の少年読者を湧き立たせた」(江戸川乱歩=1965年没70歳)といわれ、漫画家の手塚治虫(1989年没60歳)は「ごはんを食べるのも忘れ、学校へ行くのも忘れるほど、むちゅうになってしまった。僕が空想科学漫画をかくきっかけや、アイデアをつくってくれたのは、この火星兵団のおかげである」と、『わが思い出の記』に綴っている。
「日本沈没」の作家小松左京(2011年没80歳)、作家の北杜夫(2011年没84歳)、JR東海の初代社長須田寬(2024年没93歳)さんらが「毎日、小学生新聞が届くのが待ち遠しかった」と、それぞれが話している。


毎日新聞OB・48年入社の橋本哲男さん(2015年没91歳)は、毎小創刊60年で出版した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(NTTメディアスコープ1997年1月刊)に「日本のSF小説の生みの親・海野十三」を書いている。明治大学文学部時代に海野十三に師事と履歴にある。
海野が毎小で連載したのは、「怪塔王」(1938年)「火星兵団」(39~40年)「黒人島」(42年)「火山島要塞」(43年)の4作品。
《海野の不幸は、SF作家として最も円熟した時期に苛烈な戦争に巻き込まれてしまったことにある。……海野は開戦と同時に海軍報道班員となって南方に派遣。ラバウルの火山灰を吸って持病の肺結核を悪化させ、帰国後の49(昭和24)年5月17日、52歳の若さで死去した》
『海野十三敗戦日記』(講談社71年刊)は、海野の死後、橋本が英夫人から受け取った2冊のノートを出版したものだ。「空襲都日記」43(昭和19)年12月7日~45(昭和20)年5月1日)と「降伏日記」45(昭和20)年5月2日~同年12月31日)。
橋本の解説の書き出しは「予言者海野十三」で、海野は、1938(昭和13)年に『東京空襲』という小説を書いた。
「日本の建築は紙より燃えやすいのだ。二トンか三トンの焼夷弾で、二時間以内に完全に焼け落ちてしまう。防空の点においては、南京や広東の方が数十倍上等である」
大本営海軍報道部から呼び出しを受ける。「何故、この小説がいけないのか」反論する海野に、海軍大佐は言った。
「帝都上空には、敵機は一機も入れないのだ!」
海野は、太平洋戦争前の41(昭和16)年1月に、世田谷の自宅に防空壕を掘っている。
◇
「東日天文館」が空襲で焼け落ちたのは、1945(昭和20)年5月25日夜半の空襲だった。空襲警報が出ると、防空壕に避難しなくてはならないのに、写真部だけは1000㍉の望遠レンズを持って屋上へ敵機を撮りに行く。屋上には直径3㍍ほどの土嚢の囲いが作ってあった。そこに這いつくばってカメラを構えるのである。
その4か月前、1月27日に有楽町駅空襲。B29爆撃機から500㍀(約250㌔)爆弾が次々と投下され、退避中の乗客ら70人以上が亡くなった。泰明小学校にも爆弾が落ち、4人の教師が犠牲になった、と記録に残る。
3月10日東京大空襲。
5月25日は。写真撮影どころではなかった。宿直勤務だった42年入社吉村正治(2016年没91歳)は、消火ホースを握ったと、写真部史『【激写】昭和』(毎日新聞東京本社写真部OB会編89年刊)に残している。「東日天文館」は、開館6年半で焼け落ちた。
◇
日本橋三越本店に戻って、暮れの風物詩「報道写真展」。戦後80年・昭和100年の終わりに、私の選んだ2025年の1枚。

東京写真記者協会の一般ニュース(国内)部門賞を受賞した毎日新聞写真映像報道部・後藤由耶記者撮影の「名コンビ誕生!? 日米首脳が米空母で演説」。
初の女性総理・高市早苗さんである。批判も色々あるが、ともかく支持率が高い。とりわけ若者に人気なのである。
(堤 哲)