随筆集

2025年12月19日

「戦後80年に想う」⑭
戦後40年企画で出会ったテーマで調査・著作に専念した戦後80年(大野俊72歳)

1.はじめに

 「戦後」という言葉に、私は敏感に反応する方だと思います。毎日新聞記者時代、戦後40周年と戦後50周年の連載企画を担当させてもらったのが大きな理由です。その延長で、新聞社を早めに退職して大学教員をしていた戦後60周年と70周年にはその記念の国際シンポジウム開催に関わりました。戦後80周年の今年は、ほぼフリーの研究者兼もの書きとして、アジア太平洋戦争に関わるテーマで新聞連載や単著2冊の執筆などの活動に専念しました。その原点は、新聞記者時代の取材です。

2.大阪社会部で担当した戦後40年企画がライフワークを見つける契機に

 毎日新聞大阪本社社会部の記者をしていた1985年の夏、戦後40年企画として同本社社会面で「いくさ果てず-「終戦40年」の傷痕」というタイトルの連載記事を担当させてもらいました。

 連載の担当デスクは荒武一彦さん(故人)。幼児に戦争を体験した荒武さんは「日本を再び戦争に加担させない」との強い信念を持ち、戦争の後遺症などの問題に強い関心を持っていました。当時、強面(失礼!)の社会部デスクが目立つなか、荒武さんは口数少なく温和な性格。でも、私が企画案を出すと、「話が平板で、何が言いたいのかわからない」などと、耳に痛いことを言われた記憶が今も鮮明です。いま思えば、荒武さんは新聞連載でも、研究論文では必須の「論点」の提示が必要なことを諭してくれたように思います。

 私以外の連載担当記者は、社会部の先輩の岡本嗣郎さん(故人)と石原進さん。岡本さんはその後、毎日を早期退職して話題になるノンフィクション作品を次々に世に出した名文家。石原さんはその時までに『古代近江の朝鮮』という奥深い書を著した知性派。私は社会部の中で最若手の若輩者。学生時代、探検部活動の一環で住民宅に居候したミクロネシアの島々(旧南洋群島)で高齢の住民から日本軍占領期の苦難の体験を聞き、記者になってからそれを記事にしたこともあったので、この企画チームに選んでもらったように思います。

 上記の優れた先輩記者たちと意見交換し、指導を得ながら、戦後40年の企画連載に携われたことは本当に幸いでした。結局、現地取材を踏まえて3本の企画記事を書きました。一つは、沖縄のひめゆり部隊の生き残りの方々の戦後の歩み。二つ目は、インドネシア残留日本兵の現状と課題。三つ目は、日本軍占領時代のフィリピン人傭兵部隊「マカピリ」の戦中・戦後体験です。

 この3本目の記事は、毎日新聞OBでバンコク特派員や外信部副部長も務めた鈴木静夫さん(故人)との面談がきっかけで生まれました。鈴木さんは当時、京都大学東南アジア研究所の助教授をしていました。まだ実態がよくわかっていなかったマカピリの実態解明に取り組み、その生存者からの聴き取り調査をするというので、マニラなどに同行取材をさせてもらいました。私にとって初のフィリピン取材でしたが、日本と近隣アジア間の歴史や現在の問題を考えるうえで多くの興味深い素材を提供してくれる国であることが確信できました。

 フィリピンでの戦後未処理問題を探るうち、戦後、抗日ゲリラの「私刑」の対象になるなど敵視され続けたマカピリのほか、彼ら同様、日本軍に協力したために「民族の裏切者」の汚名を着せられた残留日系二世の問題にも関心を持ちました。とはいえ、彼らの集住地域はミンダナオ島ダバオ市などフィリピンの辺境。時間と労力をかなり費やさないと取材は難しいことがわかり、戦後40年企画では取り上げるに至りませんでした。

 残留二世の問題は、その翌年、会社が1年間、認めてくださったフィリピン大学(略称・UP)アジアセンターに留学時にMA(修士)論文のテーマに選びました。その後、40年間も続く私のライフワークの題材になっています。

3. マニラ特派員時代に関わった戦後50周年の連載

 戦後50周年にあたる1995年は、私が毎日新聞マニラ特派員をしている時に迎えました。当時、外信部にはバンコク特派員経験者の編集委員、永井浩さんがいました。日本・近隣アジアの問題に詳しい永井さんが中心になって、「『未来志向』とアジア」という戦後50周年企画の連載を硬派面ですることになり、私もその企画に加えて頂きました。そして、現地取材を踏まえて執筆した3本の記事を同年6・7月に朝刊3面の連載で載せてもらいました。

 テーマは、1)フィリピン人元慰安婦と彼女たちを支援するフェミニスト団体とのあつれき、2)戦時下のフィリピンで米軍の過剰爆撃が引き起こした環境破壊問題が浮上し、対米補償請求運動の開始、3)戦時下のマーシャル諸島ミリ島で起きた日本軍の住民虐殺の被害家族による対日補償要求の動き―などです。この当時はまだ、アジア太平洋地域で戦争体験の生存者は多く、彼らの生々しい体験談を新聞で伝えることが可能でした。

4. 大学教員として関わった戦後60年と戦後70年の国際シンポジウム

 戦後60周年の2005年は、中年留学したオーストラリア国立大学に、フィリピン日系3世代の市民権とアイデンティティをテーマにしたPhD(博士)論文を提出しての翌年でした。この年、国際交流基金から国立フィリピン大学に半年間、客員教授として派遣され、日本人論などの英語授業を担当しました。このころ、UPのキャンパス内で、国際交流基金などの支援を得て、戦後60周年を記念しての日比関係のシンポジウムが開催されました。私はここでフィリピン残留二世に関する報告を行い、彼らが戦中・戦後に体験した家族離散、曖昧な国籍の問題など、戦争の後遺症がまだ癒えていない実情を報告しました。

 戦後70周年にあたる2015年は、清泉女子大学文学部教授をしていたころに迎えました。日本学術振興会から科学研究費補助金を得て「アジアの中のステレオタイプ<反日>と<親日>」―対日感情差異の要因分析」というテーマでの研究に着手したばかりでした。

 この大学に赴任する前、母校の九州大学でアジア総合政策センターの教授を約4年間務めました。ここでの重要なミッションが、歴史的経緯もあって何かと関係がぎくしゃくしがちな日本・中国・韓国の多分野連携を探る共同研究と国際シンポジウムの連続開催でした。私は主に、越境するメディア文化がもたらす3か国市民の相互理解と誤解の研究セッションを担当し、その成果として3カ国研究者の共著本『メディア文化と相互イメージ形成―日中韓の新たな課題』(九州大学出版会刊)を編著で著しました。この共同プロジェクトを通じて、中国人や韓国人の有能な研究パートナーをつくることができ、清泉女子大学に移った後もその人間関係を継続しました。

 この人脈も活かし、2015年11月7日、中国、韓国、インドネシア、フィリピンの知日派の学者を品川区内の清泉女子大学に招き、「近隣アジアの市民の目に映る<ニッポン>―この70年の対日イメージの変遷」という国際シンポジウムを開催しました。「反日国家」と評されがちな中国や韓国と、「親日的」とよく言われる東南アジア諸国の市民の対日観の相違の要因を特定するのが主な狙いでした。

 このシンポではまず、自国民の対日観などで研究実績のある王偉・中国社会科学院日本研究所教授、金泳徳・韓国コンテンツ振興院海外調査チーム長、バクティアル・アラム・インドネシア大学人文学部上級講師、カール・チェンチュア・アテネオ・デ・マニラ大学日本研究学科長の4人がそれぞれ自国市民の対日観の変容などについて研究成果を発表。それに対して、東アジア・東南アジア研究に関わる、私を含む清泉女子大の教員たちがコメントをしました。そして、「反日」「親日」というステレオタイプを超える、東アジア市民間の相互理解を深める多様な方策を提案してもらいました。

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2015年11月7日、清泉女子大学(東京都品川区)の大教室で

 国際シンポジウム「近隣アジアの市民の目に映る<ニッポン>―この70年の対日イメージの変遷」で報告したアジア各国の学者たち(左端がコーディネーター役の筆者) それらの成果は、『清泉女子大学紀要』第68号(2021年刊)に掲載の拙稿「アジアの中の『反日』と『親日』再考―韓国、中国、インドネシア、フィリピン、東ティモールでのフィールドワークを踏まえて」(無料でアクセス可)など複数の論文で発表しています。

5.フィリピン残留日本人問題の調査・講演・執筆に明け暮れた戦後80年目

 2023年度末で清泉女子大学は定年になりました。大学ではグローバリゼーション論、調査・研究方法論、国内外でのフィールドワーク等、実に多くの科目を担当し、研究や執筆にあてる時間は制限されました。2020年度には教育業務から解放され、1年間研究に専念できるサバティカルを頂きました。ですが、運悪く新型コロナ・ウィルスが世界中に拡がる時期と重なりました。国内外でのフィールドワークは極めて限られ、未達成感満載のサバティカル・イヤーになってしまいました。

 このため、大学を退職したばかりの2024年度は「コロナ・リベンジの1年」と位置づけ、大学教員時代にやり残した対面調査を徹底的にすると心に決めました。そこで思い立ったテーマが、毎日の戦後40年周年企画ではやり残したフィリピン残留二世の問題です。この問題は、大阪社会部、東京社会部、外信部、マニラ特派員時代を通じて取材を続け、日本国籍を求めての集団的一時帰国など、動きがあるたびに報道してきたテーマです。大学教員になって以降は散発的に現地調査を続けてきましたが、マニラ特派員時代の1991年に著した『ハポンーフィリピン日系人の長い戦後』(第三書館刊)以来、このテーマで単著の和書を世に出せていませんでした。

 私が大阪社会部時代に調査に着手した当時、残留二世の多くは親の戸籍謄本を持っていなくて、無国籍者も多くて国籍が曖昧な状態でした。しかし、その後、日本の支援団体の調査で親の戸籍への登載が判明したり、「就籍」という日本国籍取得手段を用いて日本国籍を回復した二世が増えました。終戦直後は四千人ぐらいいたと見られる残留二世の4割強が日本国籍になり、日本のメディアの呼称も「フィリピン残留日本人」に変わってきました。戦前・戦中生まれの二世はその大半がすでに鬼籍に入り、健在な方は二百人もいません。彼ら彼女らは80~90歳代になり、日を追って亡くなっていくような状態でした。

 日本国籍を得る中で二世やその子孫の人生はどう変わったのか。二世からの本格的な聴き取りは最後の機会だと思い、これまで会ったことがない二世も追い求め、フィリピン最西端のパラワン島やその北方に伸びるカラミアン諸島、ミンダナオ島南ダバオ州の山間地、ネグロス島南部の農村部など、かなりの辺境にも足を伸ばして面談調査を続けました。

 結局、定年退職してから今日までフィリピンには計7回出張し、30数名の残留二世ほか関係者多数に面談しました。その成果として、フィリピンで発行の日刊邦字紙「日刊まにら新聞」紙上で、今年4月半ばから8月下旬まで週1回のペースで「忘れ去られた日本人―フィリピン残留二世たちが生きた戦後80年」というタイトル連載をしました。連載は21回で、異例のロングラン連載でした。

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2025年8月23日、イロイロ州マアシン町で

 この最後の記事では、その直前にフィリピン中部パナイ島の日系人会やNGOなどに呼びかけて、同島の山中にある戦時下の邦人集団自決事件の犠牲者数十名の死を悼む慰霊をした私の経験も記しました。その現場で奇跡的に生き残った日本人残留孤児たちが中心になって1980年に建てたモニュメントがそこにあります。地元住民の話では、ここを訪問して慰霊した日本人は今年に入って我々の訪問以前にはたった4人。より豊かな生活を求めて移住したパナイ島で戦争に巻き込まれ、敵軍に囲まれるなか、「生きて虜囚の辱めを受けず」と手りゅう弾などで自ら命を絶った民間人たち。戦後80年を経て、彼らはまさに「忘れ去られた日本人」になっていることを実感しました。

 戦争末期に在留邦人の集団自決事件が起きたパナイ島山中の現場には、犠牲者の慰霊モニュメントが建つ。今夏、地元の日系人会スタッフ、NGOで研修中の日本人学生らと一緒に現場を訪れ、慰霊の花束を捧げた。

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2025年10月15日、マニラ首都圏マカティ市の比日友好財団で

 日刊まにら新聞連載のエッセンスはフィリピン人にも還元したいとの思いもあったところ、地元の日比関連団体から講演の要望が届きました。で、今年10月に訪比の際、マニラ首都圏とミンダナオ島ダバオ市の2カ所で「<忘れられた日本人>から<橋渡し人材へ>」とのタイトルで英語講演を行いました。

 マニラの会場には、フィリピン日系ディアスポラのアイデンティティなどを卒業論文のテーマにしているファー・イースタン大学国際学部の女子学生6人も参席していて、的を得た質問を多々頂きました。彼女たちは、私が10年前にこの国で刊行した英文の学術書、Transforming Nikkeijin Identity and Citizenship: Untold Life Histories of Japanese Migrants and Their Descendants in the Philippines,1903-2013 (アテネオ・デ・マニラ大学出版会刊)にも目を通していて、その本を会場に持参して来た学生もいました。

 フィリピン日系人問題を卒業論文のテーマにしているファー・イースタン大学の学生たちと。1人の女子学生が手にしているのは、大野の英文書籍。

6. ライフワークのテーマで単著2冊を刊行、戦後90年に向けて

 日刊まにら新聞の連載で取り上げた内容を大幅に拡充した新刊の単著がやっと仕上がりました。つい先日、東京毎友会の新刊紹介のコーナーで取り上げて頂いた『忘れられていた日本人―フィリピン残留二世の終わらぬ戦後』(高文研刊)です。この本では、新聞連載で扱えなかった残留二世を含めて相当数の日系人の半生を、ノンフィクション的な体裁で取り上げました。面談に応じてくれた二世の中には、それから2カ月もたたないうちに病状悪化で亡くなった方もいます。この方は亡くなる1年前に日本国籍を回復できましたが、日本のどこかにいるはずの親族との再会も果たせず、無国籍状態のまま鬼籍に入った二世もいます。この本は、長年の希望を果たせないまま亡くなったり、亡くなっていく残留二世たちに向けた、私なりの「挽歌」でもあります。

 実は今年度中にもう1冊、関連するテーマで単著を刊行します。タイトルは『変容するアイデンティと市民権―語られてこなかったフィリピン日系三世代のライフヒストリー』。日本学術振興会から出版助成を得て、京都大学学術出版会からの刊行が決まっている学術書です。この本の骨子は、先にタイトルを紹介した英文書籍の内容です。戦前期にフィリピンに渡った日本人移民一世から、近年、日本への逆流現象が起きている三世まで、日系3世代のアイデンティティと市民権の変化に光を当てた内容で、分量は約25万字。英文書籍刊行後に得たデータも多々盛り込み、アップデートを図りました。

 今年度に発表のこの2冊が、この問題における私の「着地点」になるかどうか。それは、問題の今後の進展次第かなと思っています。

 今年は戦後80周年を常に意識して動き続けた1年でした。では、戦後90周年はどうか。その年は2035年で、私がまだ生きていれば82歳です。この年齢でまだアクティブに活動できるのかどうか、今は自分でもわかりません。

 一つはっきり言えるのは、残された人生も、日本を含むアジア太平洋地域の国家と市民に巨大な禍根を残したアジア太平洋戦争にはこだわりたい。そして、著作・講演などの活動にそれを反映していきたい。いまはそう思っています。

 大野俊さんは1978年に毎日新聞社入社。長野支局、大阪本社社会部、東京本社社会部、外信部、マニラ支局、大阪本社経済部(編集委員・副部長=外信部記者兼務)で勤務。2000年に早期退職後、オーストラリア国立大学に留学し、PhD(博士号=東アジア・東南アジア地域研究)取得。その後、フィリピン大学国際研究センター客員教授、九州大学アジア総合政策センター教授・同センター長、京都大学東南アジア研究所特任教授、清泉女子大学文学部教授・同大学人文科学研究所長などを歴任。昨年に定年退官後は京都大学東南アジア地域研究研究所連携教授、清泉女子大学人文科学研究所客員所員などの肩書で活動を続けている。