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2024年2月21日

3月に101歳、元日本新聞インキ社長、阿久津宏さん

 「ゆうLUCKペン」同人名簿の先頭に「阿久津宏」。毎友会の名簿(2001年発行)に1923(大正12)年3月22日生まれ、元役員、76(昭和51)年2月退職とある。

 「何回か電話したが、通じないんだよね。もう亡くなっているかも」と、事務局長中谷範行さん(2022年没82歳)が言っていた。

 「ゆうLUCKペン」第46集発行の機会に自宅に電話してみた。お嬢さんと連絡がついて「3月に101歳の誕生日を迎えます。週一でデイサービスに行っていますが、元気です」。

 改めて人事興信録にあたると、1948年9月東大法学部卒、49年4月入社。社会部→整理部→58~59年毎日労組本部書記長。その後、西部本社活版部長、東京に戻って活版部長→印刷局次長・局長から74年取締役。退任後は日本新聞インキ社長・会長を務めた(96年まで)。

 「7年前に母が85歳で亡くなり、私が実家に戻って2人暮らし」と長女淳子さん。

 早速、「ゆうLUCKペン」編集幹事に伝えると、諸岡達一さん(59入社、87歳)から返信があった。

(堤 哲)

 阿久津さんは有楽町編集局では名物整理記者でした。昭和25年~30年代……帝国大学卒の風を吹かせることは絶対にせず……知識が豊富で何でも詳しく知っていた。すっごくあったまいいんだね。部長陣も一目置いていて阿久津の津が「ッ」になり、若手までもが「阿久っちゃん」「阿久っちゃん」と呼んでいた。

 そもそも阿久っちゃんは「整理部が大好き」だった。紙面を操るがごとき新聞編集は妙を得ていた。編集局全体を1人でまとめあげているような味があり、その政治力?はなかなかのものだった。若手は見習ったものだ。

 阿久っちゃんが労組本部書記長に選出された時も全社的な期待を背負っている風だった。確かに当時は給料も急ピッチで上がる時勢で労組の威勢もすさまじいものがあった。そういうこともあり、まもなく阿久っちゃんは印刷局活版部副部長に就任した。

 時に整理部×活版部は「全自動モノタイプ」「送稿一元化」など新聞印刷技術の大変革期が襲っていた。故障や不具合などから文字化けが多発し、整理記者が「ボロタイプは駄目!手拾いでやってくれっ」と原稿に書いて活版に注文を付けたほど。気分的にも「敵対心」が上向いてきた。

 そこへ新活版部副部長登壇。細かい事前連絡をして仕事がスムーズに進むように相互理解を深める“共同声明”となった。それからか? 活版の大組者と整理部員がガード下で呑み歩いた。細かい事前連絡が出来たのだろうか……部長連も参集して活版対整理の野球試合もあった(石神井公園球場)。阿久っちゃんは活版部長(西部→東京)も歴任した。

 ホットからコールドへ……阿久っちゃんはつくづく語っている。「新聞製作の機械化・システム化のために整理部と印刷各部とを一体化をさせる・・私はその先兵なのだ」と。その後生まれた編集・製作部門共同の「工程委員会」は阿久っちゃんが作ったと言っていい。

 定年後……阿久っちゃんは整理部OB会欠席なし。整理部OB仲間とともに大毎五代社長・毎日新聞初代社長、本山彦一翁の墓(高野山奥の院)まで行って“中興の祖”に感謝の祈りを捧げてもいる(2002年5月)。彦一翁はなんせ勲一等瑞宝章だんな。

 毎月開催される整理部OBの集まり「三金会」(すでに350回もつづく)も初期からの常連、ついこの前(とは言え7、8年前か)まで毎回参加していた。三金会が箱根強羅へ旅した折も未明まで酒が止まらなかった。年はとってもお喋りは健在。「昔の全舷を思い出してシアワセシアワセ」とのハガキを戴いた。

 88歳の時は「まだまだゴルフやってるよ……来週行くよオ」と快適な笑顔だった。

 101歳! すっげええっ阿久っちゃん・おめでとうございます!

(モロ)

左から町田和男・大モロ(諸岡新平)・阿久っちゃん・三室恒彦=有楽町の安い食堂にて
左から阿久津宏、名木田一夫(敬称略)

町田和男さん(2021年没97歳)=https://www.maiyukai.com/memorial/20220105.php

毎友会追悼録
諸岡新平さん(79年没77歳)=https://www.maiyukai.com/essay/20220322.php

毎友会随筆集
三室恒彦さん(86年没61歳)元東京本社整理本部長、大阪本社印刷局長。「新聞研究」1968年2月号に「毎日新聞社整理本部について」。
名木田一夫さん(62年没45歳)元西部本社整理部長→東京本社第三整理部長。=https://ginnews.whoselab.com/070320/tsuido.htm 牧内節男「銀座一丁目新聞」追悼録「名整理部長、名木田一夫さんをしのぶ」