随筆集

2021年11月15日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その17 サトイモの花(前編)(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新

全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454523.html

 8月最後の日曜日、畑で刈り取った木の枝や雑草を燃やしていると、草取りをしていた妻が、サトイモの花が咲いているという。また何かの勘違いだろうと思ったが、そうではなかった。行ってみると、紛れもなく、サトイモが花を咲かせていた。花の形はミズバショウによく似ているが、色は白ではなく、鮮やかな黄色である。

 サトイモの栽培を始めてかれこれ10年になる。花が咲くのは見たことも、聞いたこともなかった。うっかりしていて、気がつかなかった可能性もないわけでもない。

 狐につままれたような感じなので、とりあえず、写真に撮っておくことにした。自宅に買ったその日の夜、インターネットで調べると、いくつも報告事例が投稿されていた。サトイモの花が日本で見られるのは、たいへん珍しいことらしい。

サトイモの花。仏炎苞に覆われた肉穂花。2021.08.29

 そこで手元の『広辞苑』でサトイモを引いてみると、こう書かれている。

 サトイモ科の多年草。原産は熱帯アジアで、世界の温帯・熱帯で広く栽培される。(中略)稀に夏、黄白色の長い仏焰苞(ぶつえんほう)をもつ、奇異な形の肉穂花序(にくすいかじょ)をつけることがある。雌雄同株。地下茎は多肉で塊茎、葉柄ともに食用とし、品種が多い。

 ふだん使っているもう一冊の『新潮国語辞典―現代語・古語―』をみても、サトイモの花はとりあげられている。国語辞典は私たち日本人の知識の在りようを示す指標の1つである。花が咲くのが珍しい現象であること自体は、かなり昔から知られていたのではないだろうか。「仏焔苞」の「苞」は、花(「肉穂花序」)のつけ根にでる葉で、花を保護するため、これを覆うのだという。「仏焔」はよく分からないが、なんとなく仏像の光背が思い浮かぶ。「焔」は炎のことだから、無量光の慈悲を意味するかもしれない。

 サトイモは房総半島ならどこでも見られる畑の作物である。私が畑を引き継ぐようになって、それまで栽培していたセレベスから土垂(どだれ)という品種に換えた。というのも、サトイモはタネイモの周りにコイモがたくさんできるのだが、スーパーのものと比べ、どうしてこんなに粒が小さいのか、と妻がくりかえし不平を漏らすからである。

 ところが、品種を換えてみたものの、彼女を納得させることにならなかった。原因は別にあったのである。野菜作りの手引書を改めて読んでみると、サトイモは連作障害があるので、休耕期間を何年かおく必要があるらしい。マメ類の連作障害は知っていたが、なんということか、私の栽培する野菜の半数以上に連作障害があると書かれていた。

 わが国で歴史的に最も重要視されてきた栽培作物はイネである。イネは毎年々々同じ水田で栽培しても、連作障害は発生しない。しかし、畑の作物栽培にはその常識が通用しないというのである。そこで、手引書を参考にしながら、いわゆる輪作の栽培方法をとり入れることにした。畑を何カ所かに区分し、連作障害のある種類は、空白期間を3年とか4年とか設けて、周期的に作付けするようにしたのである。

 作物栽培の歴史は途方もなく古い。焼畑での耕作がその原初的な形態だろうと思われるが、畑作に連作障害のあることは、そのころから分かっていたのではないだろうか。福井県と岐阜県の境にある白山麓では、近代になっても焼畑による耕作がまだ続けられていた。宮本常一は1937(昭和12)年と1942年に現地を訪れ、聞き取り調査を行っているが、『越前石徹白民俗誌』のなかで、こんなふうに報告している。

 先ず前年の土曜に芝や草を刈って、10日ほどそのまま日にかわかして火入れをする。その翌春、もえさしの木など二か所にあつめて焼く。また前年刈っておいたカヤをその上にまいてやく。こうして一年目ヒエ、第二年アワ、第三年ヒエ、第四年目マメをつくってゆく。(中略)このようにして長く作る所で七、八年、早ければ三年もつくり、その後二十年なり三十年なり山にしておいて、再び焼畑にするのである。

 焼畑では肥料は使わない。何年か耕作を続ければ、土地はやせていく。そうなったら、耕作を放棄して、自然にもどす。30年もすれば、自然はもとの姿に復活する。

 見落とせないのは、焼畑での耕作期間中は1年毎に作物の種類を替えていることである。その理由の1つは連作障害を避けるためではなかっただろうか。宮本常一の報告のなかに、サトイモは見あたらないが、佐々木高明の『縄文文化と日本人—日本基層文化の形成と継承』には、焼畑の代表的な作物としてサトイモが取りあげられ、かつ連作障害の回避策としての輪作への言及がなされている。

 焼畑で伝統的に栽培されてきたおもな作物は、アワを筆頭にヒエ・ソバ・シコクビエなどの雑穀類、ダイズ・アズキなどの豆類のほか、サトイモ(タロイモの一種)やムギなどがあげられるが、これらの作物は伝統的な焼畑の輪作体系の中に組み入れられ、典型的な《雑穀・根菜型》の作物構成を有していた点に大きな特徴があった。

 サトイモは古くから日本の各地で栽培されてきたとされる。では、それがいつごろかとなると必ずしも明確になっていない。しかし、サトイモが焼畑の典型的な栽培作物の一つで、その輪作体系のなかに組み入れられていたというのであれば、渡来の時期はサツマモ やジャガイモよりも桁違いに古く、あるいは稲作以前までに遡るのかもしれない。

収穫した夏野菜。2021.07.18

2021年10月28日

スワローズ優勝を支えた野村語録!?

 スワローズ優勝、おめでとう!

 『国鉄スワローズ 1950-1964』(交通新聞社新書)の著者としてお祝いを申し上げます。

 監督2年目、高津臣吾監督(52歳)は、昨年の最下位から一気にセ・リーグ制覇だ。恩師・野村克也さん(2020年2月11日没84歳)について聞かれ「褒めてはくれないでしょうね。ようやったな、ぐらいは言ってくれるかもしれないけど。ふんって、笑っているんじゃないですか」と答えた。

左から高津臣吾、野村克也、衣笠剛球団社長(2020年1月20日撮影)

 ノムさんが急逝される22日前の写真だ。明治記念館で開かれたスワローズOB会に車イスで現れたノムさん。愛弟子の監督就任がうれしかったのか。私(堤)がスワローズOB会にお邪魔するようになった2011年以降、ノムさんの姿は初めてだった。

 前年2019年は小川淳司監督で最下位。「高津新監督で来シーズン優勝の可能性は」と司会者の質問に、ノムさんは「今のセ・リーグなら監督が頭を使えば優勝できますよ」と答えた。

 高津監督1年目の2020年は最下位。ことしは「頭」を使った成果が出たのか。ナインを支えた「絶対大丈夫」が決め手だったのか。

毎日新聞の「ひと」欄。

 《野村監督時代は毎日、試合前に1時間のミーティングがあった。監督の言葉を必死にメモしたノートは、ボロボロになった今でも自宅のすぐ手の届くところに置いてある。今年は、就任1年目よりも「ヒントはないか」とめくる機会が増えた》

読売新聞掲載の高津監督の手記。

 《ベンチにマイクが置いてあったら面白かったと思う。気の利く一言や時には笑わせる一言が飛び交っている。みんなで一生懸命戦うという空気が充満している》

 《9月の阪神戦前のミーティングで「絶対大丈夫」と繰り返した。負けが込み、ちょっと重い雰囲気になっていたから》

 《10月23日に巨人に負けた後には「腹くくっていったれぃ!!」と記した紙をみんなの目につく所に貼った》

 《優勝で僕なりの答えは出したが、野村監督の採点は50点かな。「一回勝ったくらいで……」。そんな声が聞こえる》

 朝日新聞の記事に、高津投手の戦績があった。《広島市出身。広島工高3年時に春夏の甲子園に出場したが、2番手投手だったから登板はなかった。亜大でもエースの陰に隠れる存在だった。そんな経験も、選手への接し方に生きている。

 現役時代はヤクルトの抑え投手としてリーグ優勝5度、日本一に4度輝いた。遅いシンカーをひっさげ、35歳で大リーグに挑戦。日米通算313セーブを記録した》 野村チルドレン、苦労人監督のセ・リーグ制覇だった。

 野村克也監督の偲ぶ会が12月11日に神宮球場で行われる。ノムさんが在籍したヤクルト、楽天、阪神、ソフトバンク、西武、ロッテの6球団が共同発起人で、午後2時から同3時30分までは一般にも公開される、と発表があった。

(堤  哲)

2021年10月21日

女優倍賞千恵子さんを記者クラブに呼んできた瀬下恵介記者。マスコミ寺子屋塾創設など果敢に挑戦――元朝日新聞平和担当記者が綴った思い出

 10月2日の夜のことだ。テレビのチャンネルをひねっていたら、画面に俳優の倍賞千恵子さんが登場していた。「豪華!寅さん祭りスペシャル[山田洋次監督厳選!感動名場面]」という番組だったが、そこで語り出した彼女を見た瞬間、私の脳裏に浮かび上がってきた顔があった。それは、元毎日新聞記者・瀬下恵介さんの顔だった。なぜなら、私は57年前に図らずも新聞記者として倍賞さんに直接会う機会に恵まれたが、それは、瀬下さんの突拍子もない挑戦のおかけで実現したものだったからである。しかも、私は、この番組の数日前に瀬下さんの訃報に接したばかりだったから。

 倍賞さんを記者クラブに呼んできた瀬下記者

 私が瀬下さんに出会ったのは57年前のことだ。

 朝日新聞東京本社社会部の記者だった私は東京五輪が開かれた1964年の2月から10月まで、東京・両国の本所警察署内にあった「墨東記者クラブ」(下町記者クラブともいった)に配属された。ここは、警視庁第七方面本部管内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の5区)の事件・事故を取材するための拠点で、新聞各社やNHKから記者やカメラマンが派遣されていた。そこで、私は毎日新聞社会部の瀬下記者と知り合いになった。

 当時、警視庁第七方面本部管内では事件・事故が多かった。このため、墨東記者クラブに詰めていた記者はとても忙しかった。それでも、たまに事件・事故のない日があり、まして雨の日などは、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほかなかった。クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者と麻雀卓を囲んだりしたが、それでも、そうやって午前10時から夜10時までをクラブで過ごすのは退屈極まりなかった。

 9月に入ったばかりのころだった。その日も事件・事故がなく、クラブ員は暇を持て余していた。すると、瀬下記者が突然、声を張り上げた。「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」

 倍賞さんは当時、新進の若手俳優で、歌手でもあった。歌『下町の太陽』が大ヒットし、彼女主演で映画化された(監督は山田洋次)ばかり。今風に言えば、人気急上昇中のアイドル。「下町を大いに宣伝してくれた彼女に、下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」との瀬下記者の提案にクラブ員は皆仰天した。が、「こんなむさ苦しいところに来てくれるわけがない」とだれも相手にしなかった。

 でも、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を投げ入れながら、どこかへ電話をかけ続けた。随分長い時間が過ぎ去った後、瀬下記者が突然叫んだ。「おーい、みんな、倍賞千恵子さんがくるぞ」

 瀬下記者によれば、電話をかけた先は松竹本社。倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだところ、先方は難色を示したが、どうしてもと粘ったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれた、とのことだった。

 10月1日、彼女は一人で本所署にやってきた。私たちは署長室を借り、そこへ彼女を案内し、コーヒーとケーキで彼女と懇談した。そして、彼女に「あなたは『下町の太陽』で、東京・下町の良さを全国に知らしめた」などと書いた感謝状と、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。当時、彼女は23歳。「きれいだな」。クラブ員から、そんな声がもれた。

 彼女自身、大変驚いたようだった。後になって漏れ聞いたところでは、「わたし何も悪いことをしていないのに、どうして警察にゆかなくてはならないのかしら」と周囲に漏らしていたそうだ。

本所署記者クラブ員と懇談する倍賞千恵子さん(その右は筆者)=1964年10月1日、東京・本所署署長室で

 これには、後日談がある。9年後、私たちは倍賞さんと再会することになる。

 すでに墨東記者クラブから去っていた、私たち旧クラブ員から「また、倍賞さんに会いたい」との声が上がり、私たち旧クラブ員が、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じた倍賞さんを招いたからである。

 私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清さんも一緒に招いた。1973年12月16日。銀座のレストランで私たちは3人と昼食を共にしたが、倍賞さんは大スターに変身していた。が、本所警察署長室での初対面の時に感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。

 この3人との交渉を担当したのはまたしても瀬下記者だった。

 ところで、墨東記者クラブが倍賞さんをクラブに招いたことは、明らかにマスコミ界では珍事と言えた。だから、この話題は、すぐ他の警察記者クラブに伝わった。「おれたちは、吉永小百合さんを招くぞ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女性の俳優を招くことができた警察記者クラブは他には1つもなかった。そこで、私はこう思うようになった。「瀬下記者が着想し、実現させたことはまことにユニークな試みで、マスコミ界では画期的なことだったんだな」と。

 マスコミ寺子屋を創設し、マスコミ人の育成へ

 墨東記者クラブを去った瀬下さんは、その後、東京本社社会部、西部本社報道部、「サンデー毎日」編集部などに勤務した後、東京本社社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長兼別冊編集長などを経てTBSブリタニカに移籍、「ニューズウィーク日本版」の創刊に関わり、同誌の初代発行人を務めた。その後、同社取締役を経て、1995年に同社を退社する。

 退職した瀬下さんは、同年、マスコミ寺子屋「ペンの森」を創設した。要するに、新聞記者、編集者などを養成するマスコミ塾である。

 またしても、私は驚いた。瀬下さんが倍賞千恵子さんを本所署の記者クラブに呼んできたときには、その突拍子もない着想に驚かされたが、彼が今度はマスコミ塾を開設したと聞いて、私は同じ感慨に襲われたのである。なぜなら、そのころも、新聞記者OBがマスコミ塾を始めるケースがあったが、長続きしなかったからだ。マスコミ人を育てる事業は極めて意義のある仕事だが、これを継続的に続けるためには資金と人材が必要で、始めるにはなかなか勇気のいる事業だったのだ。

 それだけに、「瀬下君がマスコミ塾を」と驚いたのだ。私には、「瀬下君はまたしても突拍子もないことに挑むつもりなんだ」と映った。

 塾開設直後に、私は東京・神田にあった「ペンの森」を訪ね、久しぶりに会った瀬下さんに「なんでマスコミ塾を始めたの」と尋ねた。が、彼はおちょぼ口をして「ふっ、ふっ、ふ」と満面笑みをたたえるばかりだった。これは、彼が得意なときにみせる動作だった。

 今年9月末に届いた「ペンの森」卒業生の集まり「瀬下塾・ペンの森OB会」の会報を見ていたら、瀬下さんが8月9日に老衰のため亡くなった、とあった。82歳。

 関係者によれば、「ペンの森」がこれまでに送り出したマスコミ人(新聞記者、編集者など)は、500人以上にのぼるという。大手の新聞社や出版社で活躍している人も少なくないそうだ。

 瀬下さんがこれまでに果たしたマスコミ界への貢献は多大なものだったと言っていいだろう。が、彼の死去を報じたのは毎日新聞だけだった。マスコミ界は報道を通じて彼の貢献を讃えるべきだったのではないか。

 ジャーナリストとしての生き方を学ぶ

 私は、彼の生涯から1つのことを学んだ。ジャーナリストは、時には突拍子もないことを考えてみるべきだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたことに、失敗を恐れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない――瀬下さんの生き方はそう言っているように感じる。

 謹んで瀬下恵介さんのご冥福を祈る。

(ジャーナリスト 岩垂 弘)

※ブログ「リベラル21」より許可を得て転載「リベラル21」は、岩垂弘さんら「護憲」に共鳴する元新聞記者や大学教員らが集まり、2007年3月15日に発足した護憲・軍縮・共生をキーワードとするリベラルな社会有志グループ。岩垂さんは1935年、長野県岡谷市生まれ。1958年早稲田大学卒業後、朝日新聞入社。平和運動や協同組合運動を取材。平和・協同ジャーナリスト寄金代表運営委委員。

2021年10月19日

「番記者」が綴る毎日新聞OB、大島理森衆議院議長引退

10月14日の衆院本会議場で解散詔書を読み上げる大島理森衆院議長=西夏生記者撮影

 帝国議会を含め、歴代最長の6年半にわたり衆院議長を務めた大島理森氏(75)が衆院解散に合わせて政界を引退しました。担当記者として大島さんの記憶を綴りたいと思います。

 「明日から朝5時半に赤坂宿舎に行け」

 支局から本社に上がった2008年春、政治部の歓迎会の席で上司からそう言われた。

 翌朝、日の出から間もなくすると、自民党の大島理森国対委員長が宿舎前の坂をのそりと下りてきた。紺のブルゾンジャケットを羽織り、野球帽で寝癖を隠している。スーツ姿の私を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らし、そのまま通り過ぎた。追いすがって何度か話しかけたが返答はなく、あとはただ黙って、後ろを付いて歩いた。人気の少ない早朝の赤坂を30分歩いて宿舎に戻っていく時、大島さんが振り返って言った。

 「取材ならこんな時間に来るな。散歩に付き合うなら本気で散歩しに来い」

 翌日からジャージーと運動靴に着替えて宿舎に通った。

 当時は、前年の参院選で自民党が敗北し衆参両院の多数派が異なる「ねじれ国会」だった。与野党攻防の取材に多くの人を割くとの政治部の方針で、着任したばかりの私が国対番を命じられた。

 法案の早期成立を目論む政府と阻止しようとする野党との間に立ち、審議の順番やスケジュールを差配する司令塔役が与党の国対委員長。その動向を取材するのが国対番だが、総理番を経験していない私は、国会運営どころか永田町のイロハも分からない。国会内では「吊るし」「荷崩れ」など耳慣れない用語が飛び交っていた。審議の見通しを大島さんに尋ねても、「明日は曇りのようだな」「政治は一歩一歩じゃ」といった禅問答のような発言ばかり。最初は途方に暮れた。

 朝から晩まで委員長を追いかける日々を重ねるうち、ごくたまに酒席に呼ばれるようになった。だが、その日の記事に必要なファクトは教えてもらえず。代わりに何度も聞かされたのが「政治は人だ」「49%は相手に譲り、51%を目指すのが与党だ」といった言葉だった。

 長年、議運・国対畑を歩き、与野党折衝に政治エネルギーの多くを割いてきた大島さんの至言を、当時の私が咀嚼する余裕は正直、なかった。国会運営に関するネタは、いつも野党・民主党や連立を組む公明党を担当する先輩たちが取ってきて、焦りは募るばかり。大島さんには「お前は目先のことばかりで政治の全体が見えていない。もっと大きな絵を自分で描いてから質問しろ」と叱られた。

 正式な議事の前に法案成立可否の方向性まで調整してしまう「国対」は談合を生み、世論の政治不信の一因になっているのではないか。なぜ「政策」でなく「日程」ばかりに焦点が当たるのか。ネタをもらえないことに内心ふてくされ、大島さんにこのような疑問をぶつけたことがある。多数決が基本の議会制民主主義でありながら、少数派の野党との交渉を重視する大島さんの手法には、政府与党内から「弱腰」との批判がたびたび上がっていることについても何度か尋ねた。

 大島さんはそのたび鼻で笑い、「国会は合意形成の場であると同時に、究極の権力闘争の場でもある」と言った。国会が持つ矛盾する二つの機能のバランスを追求するのが自分の役割との信念を持っていたのだと思う。大島さんはこうも繰り返していた。「権力は、畏れて使うものだ」

 強く印象に残る光景がある。09年3月4日の衆院本会議だ。第2次補正予算関連法案の採決が行われた会議中、私は議場2階にせり出す傍聴席から、採決に反対する自民党の「造反議員」を確認するため目をこらしていた。内閣支持率が急降下する中、乾坤一擲の解散・総選挙のタイミングを逃し続けた麻生太郎政権は追い込まれていた。総額2兆円の定額給付金も世論の支持を得られず、関連法案は野党が多数を占める参院で否決。政府・与党はこの日の衆院本会議で再可決を余儀なくされていた。

 与野党が動議を応酬し、採決は起立と記名の計3回行われた。与党から16人が反対に回れば法案は成立しない。採決のたびカメラのフラッシュが一斉にたかれた。与党席後方に陣取る閣僚や党幹部は、腰を浮かせ議場をキョロキョロと見回していた。

 大島さんは違った。自席で腕を組み微動だにせず、ただ正面をにらむように見据えていた。党の国会運営責任者として同僚議員に全幅の信頼を置き、また投票行動を把握していたのだろう。政治家・大島理森の胆力と矜持を見た気がした。造反は本会議を欠席した元首相と、その側近議員の2人にとどまった。だが、散会後、安堵の表情で言葉を交わす与党議員の中で大島さんの顔に笑みはなかった。「麻生政権を最後まで支え、麻生政権と心中する」と私に語ったのはこの頃だったと記憶している。

 同年夏の衆院選で野党に転落後、大島さんは自民党の幹事長と副総裁を歴任。選挙区を行脚し、地方組織の結束に腐心した。青森県八戸市出身の大島さんは酔うと南部弁が出るが、地元の支持者の前であっても演説ではあまり方言を使わず、意識して共通語で語る。不思議に思い尋ねると、「自分は大学から東京に行かせてもらった。地元の人たちから見れば、特権階級の人間、故郷を捨てた人間と見られているかも知れない」とつぶやいた。大島さんは繊細で、過剰に周囲を気遣う人だ。幹事長時代はストレスから顔面神経麻痺になったと聞く。

 2012年に自民党が政権に復帰すると、党の復興加速化本部長に就任。「東北の復興に命を懸ける」と宣言した。13年10月、東京電力福島第1原発事故を巡り、「避難住民の全員帰還」や事故処理費用を東電が一手に担う「汚染者負担」の原則を転換する提言をまとめた。提言はその後の政府対応の基礎となった。提言の策定後、東電の社長が大島さんに「おかげさまで、ありがとうございました」と電話してきた。大島さんは「君たちのためにやっているわけではない。お礼を言われる筋合いはまったくない」と一喝した。だが、電話を切ると、「原発政策を進めてきた責任は、政治にもあるんだ」と低い声で言った。

 その翌朝の散歩。港区の檜町公園の芝生を歩いていた大島さんが突然立ち止まり、黙り込んでしまった。しばらく六本木の高層ビル群を見上げていた大島さんは、「わしとお前はこんな何不自由ない都会の真ん中にいて、被災者の人たちはあんなプレハブ小屋にいる………あの仮設住宅で何年も暮らすことを想像してみろ」と言った後、また絶句した。

 大島さんは15年に衆院議長に就任。与野党を超え「立法府」としての立場を意識した発言が以前にも増して多くなった。「国会には行政監視の重要な機能がある」と語り、行政府との緊張関係を求めた。18年7月、森友学園を巡る財務省の決裁文書改ざんなど、政府による相次ぐ公文書隠蔽や誤りの事案を受けて、「民主主義の根幹を揺るがす問題」と非難する議長所感を発表する。「間違った情報を国会に提出することは国民を欺く行為だ」と憤った。政府の拙速をたびたび戒めた大島さんだったが、議長時代は、幹事長や副総裁として党を率いた際に「自らも政策実現を急ぎ『熟議』を軽んじることがあったのではないか」と省みる時間だった。

 議長時代の成果を聞くと必ず、衆院の1票の格差を是正する選挙制度改革(16年)と、衆参両院の全会派による会議を主導した天皇退位の特例法整備(17年)を挙げる。いずれも「政争の具にせず」「速やかに」合意を得ることが求められ、40年近くにわたり与野党に人脈を築いた議員人生のすべてを注いだという。皇室への尊崇の念を隠さず、退位が実現し上皇陛下からねぎらいの言葉をかけられたときは涙を流した。陛下の言葉で最も深く胸に刻んでいるのは「戦争を知る人がだいぶ少なくなりましたね」という一言だという。宮中に行った日の夜はよく、赤坂のとびきり安いチェーン店の居酒屋に記者を誘った。そして「下界のお前たちの話を聞こうと思ってな」と悪ぶった。三権の長になっても地に足をつけ続けるための儀式のように見えた。

 私は大島さんから大きな特ダネをもらうことはついぞなかった。だが、国会内外で丸い背中を追いかけ回す日々が1年近く経った09年初めのある日、衆議院2階の廊下で「お前は最初、右も左も分かっていなかったが、最近は生意気にわしの悪口を書くようになったな」と言われたことがある。そして大島さんは近くの議員を呼び止め、私を指さし「こいつ、わしの番記者だ」と言った。そのとき胸に抱いた感情を私は一生忘れないと思う。

 衆院が解散された10月14日が、大島さんが衆院に登院する最後の日だった。議員は解散と同時にそれぞれの選挙区に走り、午後5時過ぎに大島さんが議長室を出てきたとき院内に残っている者はいなかった。代わりに多くの衆院職員と国会衛視が玄関に集まり、拍手と敬礼で議長を見送った。「大島委員長」や「大島議長」を院内で取材していた時はいつも、大島さんの前に立ちはだかり私たち記者の「敵」だった衛視さんたちがこの日は、「もっと近くに行けよ」と言うようにカメラを構える私の背中をぐっと押した。そのとき、大島さんが国会からいなくなるのだなと感じ、たまらなく寂しくなった。

(政治部 高本 耕太)

大島理森さんは衆議院議長当時の2017年11月、毎友会総会に出席、「天皇退位特例法成立過程から考える立法府の現状」のテーマで講演。大島さんは広告局で3年間、勤務した後、青森県議を経て衆議院議員12期。社会人の第一歩を踏み出した当時の思い出話をまじえ、立法府が国民の総意をとりまとめる役割を果たした経過を説明した。

2021年10月18日

映画「典子は、今」のサリドマイド障害児典子さんは、本山彦一翁ゆかりの小学校卒業

 西部毎友会は毎年9月に総会を開催し、旧交を温め、親睦を図ってきました。しかし、昨年に続き本年度も「完全に安全であるという確証がない段階での開催は避けるべきだ」と判断し、中止しました。

 そこで本年度も、会員の近況を伝える「冊子」を作成し、全会員の手元に届けることで交流を深めることにいたしました。142名のOB・OGが近況を報告しています。

 西部本社代表だった牧内節男さん(96才)にお送りしたところ、牧内さんがネット上で主宰する「銀座一丁目新聞」に西部本社当時の思い出を綴っていただきました。

 一部を引用すると――

 《私が西部本社の代表であったのは昭和56年6月から昭和61年6月までである。後1年半は西部毎日会館の社長であった。西部本社の守備範囲は山口県から九州、沖縄まである。社員は830人ぐらい居た》

 《西部本社6年半の在任中は楽しかった。代表としては稀有の長さである。思い出はたくさんある。日米野球大会を西部本社が自前で開催して大きな利益を上げた。会場の整理・警備など社員たちが積極的にやってくれた。やる気のある社員たちであった。また鹿児島で開かれた初めての販売店の会合では陸士の先輩のモットーを拝借して「私のモットーは敬神努力浮気楽天です」と挨拶。「浮気をすすめる代表は面白い」と大歓迎を受け、飲めない酒を飲まされた。沖縄には何度も機会を見て訪れ、そのたびに必ず摩文仁の丘を訪れ牛島満大将・長勇中将を偲び、ひめゆりの塔で彼女たちの死を傷んだ。》

 さらに牧内さんは、サリドマイドの女性を採用したことに触れています。

 《赴任して間もない頃、サリドマイドの女性を採用して話題を呼んだ。その朝の市内版のトップに「サリドマイドの少女が電話交換手の仕事を探している」という記事が載った。即座に総務部長に「この娘さんを我が社で採用しろ」と命じた。ところが電話交換室の女性たちが私の所まで来て反対した。そこで上京した際にたまたま見た映画「典子は、今」を見よと勧めた。「其れでも反対と言うなら納得する」と言った。この映画は両腕のないサリドマイド障害児・典子のドキュメンタリーであった。数日後、彼女たちは「わかりました」と返事をした。その後、電話交換業務はデジタルに変わり廃止になり、彼女は総務部に移ったが庶務を器用にこなした。当時、RKBがニュースとして取り上げたり身体障害者団体が毎日新聞をとってくれたり影響が大きかった。》

 映画「典子は今」の辻典子さんは、熊本市碩台小学校の出身です。

熊本版「支局長からの手紙」(大久保資宏支局長=当時)

 熊本市碩台小学校は、毎日新聞第5代社長の本山彦一翁が生家の土地を熊本市に寄贈して建てられた小学校です。碩台小学校には「栄光の部屋」(顕彰ルーム)があり、本山社長や典子さんの記念品が閲覧できます。

 毎日新聞創刊135年の2007年2月21日、西部本社幹部と西部懇話会幹部(主要販売店)が碩台小学校を表敬訪問し、小学校の一角にある本山彦一翁の「顕彰碑」(高さ約4メートル)に参拝し、遺徳を偲びました。徳富蘇峰が揮毫し、なかなか立派なものです。

 本山元社長は1853年、現在の熊本市で生まれ、時事新報記者、大阪製糖取締役などを経て、明治22(1989)年に大阪毎日新聞の相談役に就任。1903年に社長に就任し、毎日新聞の基礎を作った。「点字毎日」の創刊など業績を広げ、1930年に貴族院議員。1932年逝去。

 「銀座一丁目新聞」を拝読して、「本山彦一翁」の人柄や思い出を毎友会員に紹介したいと、ご報告する次第です。

 牧内さんは「毎日新聞西部本社の同人たち」と題するコラムを

 《『書くことは考えること、生きることと平成9年に始めたネット新聞「銀座一丁目新聞」を今なお続けております。ブログの閲覧数から推定すると確実な読者は多く見て500人ぐらいと思います。私は1人でもいれば続けるつもりです。100歳まであと4年、ネタ探しに苦労する日々で、これも楽しみの一つです。「けふを打つネット新聞秋の暮」悠々》と結んでいます。

(西部毎友会 淵上 忠之)

創刊135周年の2007年2月、西部本社と西部懇話会幹部が本山彦一翁の顕彰碑に参拝。前列中央が渕上会長(当時、代表)。当時の武田芳明代表室長、加藤信夫編集局長、宋弥治郎販売局長や西部懇話会の久野健治最高顧問、日高忠衛会長らの顔が見える。

2021年10月18日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑩
連載「東京二十四時間」 下

 「求める心」は何処へ
    本はなし、先生も教え方に戸惑う
       親は募る生活苦の悩み

(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の昭和20年の記事から)

 灰塵の本所、深川の一帯―赤茶っぽく焼けたトタンの残骸の間に、煙突だけがようやく昔の名残を止めている。記者がこの地を訪れた時は、うす寒い冬空がどんよりと曇って、灰色の雨が敗戦者のバラックの上に、街路に淋しげに降り注いでいた。その中を傘もない、合羽も持たない可憐な子供たちが、ちびた下駄をぬかるみに、びちつかせながら三々五々打ち連れて緑国民学校の門をくぐる。どの顔を見ても明るく敗戦国の国民の暗さがない。

☆ ★ ☆

 緑国民学校は、最も犠牲者が多かったといわれる本所区内で、焼け残った唯二つの国民学校の一つである。現在この学校には緑、江東、日進、二葉、本所、茅場、本所高専の七校が一緒になっているほか、関東配電、両国貸家組合、城東女子商業などが同居している。三月九日の大空襲で本所区は被害の中心であったため、開校は五月十三日、震災記念堂近くの慈光院で寺子屋式の学校を開いたが、その時参加した児童は僅かに八名であった。それが七月九日に、とも角焼け残った緑国民学校に移り、学校らしい学校教育が空襲下であったが始まった。その時の在籍数はたった十九名。焼けた他校の生徒も一緒で十月末には緑二十九名、江東四十三名、茅場三名、本所二名、二葉十七名、日進一名、本所高専など二十七名で計九十五名だった。

 その後、疎開児童の復帰もあって、現在は百七十八名になったので一二三、四五六という複式教室も十一月十五日から改めて、一学園一学級を組織した。戦前本所、深川では国民学校が二十校あり、緑国民学校だけでも今年の三月の卒業生の数は二千五十二名。それに比べて七校併せて百七十八名とは、何という淋しさだろう。

☆ ★ ☆

 ちょうど一年生の教室では綴り方の時間で、先生は軍国主義の標本のように言われている桃太郎を教えている。生徒は声を張り上げて「オニハ門ノ戸ヲオサエテイマス」と読んでいる。黒板にはここで新しく習う漢字の門、中、刀と書いているが、一年生のなかには十月になってやっと入学した生徒もいて、カタカナさえ満足に知らない者もある始末。先生にどういう気持ちでこの桃太郎の話を扱っているかと聞くと「まあ、おとぎ話のような気持ちで教えている」と言う。刀というものさえ、民間ではこれから見られなくなろうというのに――。話は桃太郎ばかりではない。修身、国語、地理、歴史など本当に教えにくいと言う。もっと突っ込んで言うならば、民主主義教育というものを、この幼い子に対してどういう風に施して行くか、先生自身も自信がないと言っている。

☆ ★ ☆

 五、六年で教える算数に、三角定規や分度器がある。これも持たない児童が多い。そのため宿題を出すことが出来ない。三角定規や分度器ばかりではない。教科書すら手に入らぬ児童がいる。教科書も前期用はとも角として、後期用のものは何処にも売っていない。兄姉でもいて教科書が焼けない限り、手に入らぬという現状である。それなのに児童の求知心は強い。みな長い間、空襲などでろくに学校で勉強できなかったからだ。今は勉強が出来る、唱歌も歌える、体操も出来る喜びに輝いている。ちょうど海綿のように子供の心は吸収する知識を求めて一ぱいなのだ。だのにここにも与えるべき先生に、家庭の父母に、何の準備もないという悲しむべき実情がある。

☆ ★ ☆

 遊びの時間。児童たちは電線などの散らかった校庭で、相撲取りの名前を書いた紙切れでメンコ遊びをやっている。ここは相撲取りや行司の子供も多い所から、国技館の始まる前後は相撲遊びが大流行、本式に取っ組み合う子供相撲の光景も賑やかであったが、いまはこれが紙切れのやり取りに変わっている。

 ここにも食糧の影響が見え五、六年生でも大半は家庭に食べに帰るという。その家庭が両親とも失業苦と食糧難に追われて、普通なら今ごろは入学試験の問題と、進むべき上級学校の問題で両親は頭を悩ます時期なのに、子供も親も五里霧中なのだ。終戦以来、新聞やラジオや人々の口から漏れる数々の言葉の片鱗から、「子供は陸軍大将になろうという夢からは全く覚めてしまった。どういう人間を民主主義国家では必要とするかは、誰も子供に教えてくれない」。遊び道具も勉強道具も本もない子、そして知識欲に燃えている子、平和新日本を背負うべき子、その子供が五里霧中のまま、家庭においても放り出されたままでいる。

 夕暮れ近くになれば、子供はおなかをすかして食事を待ちかねる。――そして子供同士空腹を抱えてこんな会話を取り交わしている。

 「明後日は買い出しに行くんだね」「ああ、休みはいつも買い出しだよ。お芋のね」「うん、うちも行くさ」「買い出しはいいね」「うん、その時はお腹一ぱいに食べさせてくれるもの」 夜ともなれば少い夜具を引っ張り合って子どもは寝につく。母親は子供の寝顔を見て、子供の将来というより迫り来る冬の寒さに備える衣類や寝具をどうするという悩みが尽きない。子供たちは、果たして何を夢見るだろうか。(十一月二十日付二面)

(「つれづれ抄」おわり)

2021年10月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その16 第2回目ワクチン接種の一日(後編)(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454522.html

 「門よりふねにのりて」とあるが、門とは芭蕉庵の門こと。深川の芭蕉庵は、芭蕉が1680(延宝8)年に日本橋小田原町から移り住み、1691(元禄七)年に大阪で客死するまで仮寓した住まいで、現在の芭蕉稲荷神社(江東区常盤1-3)のあたりにあったとされる。

 『江戸切絵図』「本所深川絵図」をみると、隅田川から分岐し、西から東へ向かってまっすぐ延びる水路がある。これが小名木川で、行徳の塩を江戸に運ぶ水路である。その西端に架かるのが「万年ハシ」(万年橋)。この橋の北側に「松平遠江守」の下屋敷があり、「芭蕉庵の古跡庭中ニ有」と記されている。

 芭蕉庵の東側をみると、やはり水路になっていて、こちらは六間堀と呼ばれ、竪川と小名木川を南北に結んでいた。門は六間堀に沿ってあったらしく、芭蕉一行は、そこから舟に乗り、小名木川に出たところで、方向を南から東へ転じ、行徳方面に向かった。

 行徳までの航路は『鹿島紀行』に記されていないが、小名木川を4.6キロ航行すると中川に出る。それより新川に入り、これを3.7キロ進むと、こんどは江戸川に行き会う。それより3キロ余りさかのぼり、本行徳の河岸に至ったものと思われる。新川というのは、徳川家康が行徳の塩を運ぶため、小名木川と同時並行して開削させた水路である。

 もう一つ、家康が同時期に開削を命じた水路がある。それが道三堀で、江戸城和田倉門(皇居外苑1-1)のそばにあった辰口と日本橋川の一石橋付近を結んでいた。1909(明治42)年に埋め立てられ、現存しないが、この水路の目的は江戸城建設の物資補給にあった。行徳の塩も、道三堀から江戸城内へ供給されたものとみられる。

 芭蕉は行徳よりは陸路で、「やはた」(市川市八幡)・「かまがいの原」(鎌ケ谷市)というから、現在の県道59号市川印西線、木下(きおろし)街道を歩き、深川を出発したその日の夕刻に、利根川のほとり「ふさ」(我孫子市布佐)に着いた。「なまぐさし」漁師の宿でいったん休憩したあと、夜舟をさして利根川を下り、鹿島に到った。ということは、仏頂和尚が寺領回復の訴訟で、江戸の奉行所に通った100キロ前後の道筋を逆方向に、片道1泊2日、しかも舟中仮泊の強行軍でたどった ことになる。

 布佐の利根川を隔てた対岸が布川(茨城県利根町)である。その河畔で少年時代の柳田國男が間引き絵馬をみたことは、連載その15で書いた。布佐は手賀沼が利根川に流れこむ北側に開かれた町で、それにたいして、南側に開かれたのが木下である。どちら町も明治時代に成田線ができるまで、銚子など利根川下流域や常陸方面からの物資を江戸に運ぶ中継点として発達してきた。布川からは、松戸街道を陸路で松戸に出て、それより江戸川を下って行徳に着いた。木下からは、先に述べたように、木下街道を経由して、やはり行徳に着いた。

 ところで、鹿島に到着したその日は、あいにく昼間から本格的な雨で、月見どころではなかった。だが、翌日のあかつき、すっかり寝入っているところを、仏頂和尚に起こされた。思いがけないことに、雲の間から月が姿を現したのである。

 そのときに芭蕉の詠んだ2句。

  月はやし梢は雨を持ちながら
  寺に寝てまこと顔なる月見かな

 「梢は雨を持ちながら」と「寺に寝てまこと顔なる」の言い回しは、非僧非俗の蝙蝠のような存在である芭蕉自身の心象風景であったかもしれない。

江戸川河畔の常夜灯。1812(文化9)年の建立。関ヶ島1-9。2021.07.23

 2回目のワクチン接種を受けた日は、太陽が容赦なく照りつける猛暑だった。接種会場の大手町合同庁舎は皇居大手濠のすぐ傍にある。お濠を見わたすと水草がはびこり、暑さのせいだと思うが、枯れるか腐るかして褐色になっていた。

 このあたりは、連載その14でも書いたが、太田道灌が江戸城を築いたころは、日比谷入江の最奥部だったところで、神田川の前身である平川の河口があった。合同庁舎から二重橋方向へ400メートルほど歩くと和田倉門がある。その傍から日本橋川との間に道三堀が通じていた。それより先には、塩の道とも呼ぶべき水路が開かれていて、行徳は江戸城と繋がっていたのである。

 東西線の妙典駅で途中下車し、市川市の「回遊マップ」を片手に、寺町通りから行徳通りに出て、常夜灯の付近まで歩いた。

 常夜灯は1812(文化9年)に、江戸日本橋の成田山参詣の講中が建立したものである。行徳と江戸(日本橋小網町)とを往還する舟便の営業を始めたのは1632(寛永9)年である。その後、この航路は房総や常陸からの物資運搬のみならず、成田山や鹿島神宮・香取神宮などの参詣路に利用されたということである。したがって、常夜灯は芭蕉の『鹿島紀行』のころにはなかったわけだが、河岸場の位置についても、1690(元禄3)年までは、現在常夜灯のある場所よりも、もうすこし上流にあったということである。=以下略

2021年10月11日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑨

 連載「東京二十四時間」 中

 丑三つ時・犇(ひし)めく行列
    浮浪者と雑魚寝の旅行者
     上野駅・地下道は棲家

(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の記事から)

 大東京の丑三(うしみつ)時、人という人が、ことごとく寝静まっているというのに、ここだけは何万というおびただしい人々の群が激烈な奔流をつくり、嘆き押し合い、戦い続ける。

 上野駅―濛々と立ちこめる塵埃のなかに、天井の電気時計が午前零時を告げている。夜中から夜明けにかけて、ここを発車する汽車に乗ろうとする人々がもう五列にも、七列にも幅の広い帯をつくって、駅の構内を縦断しているのは、この駅を基点として常磐線、東北線、信越線、上越線、その他無数の支線が放射線に走っているからである。人々はそれぞれの運命に従い、それぞれの切実な用務をもち、それぞれの重そうな荷物を背負い、目ざす汽車に乗れるか乗れないかの瀬戸際に身を曝して必死に嘆き続ける。それは大抵自分の位置よりも前にある人々の後姿に向かって吐き出される――

 「そこの横に立っている奴は何だ。まごまごして列に入りやがったら承知しねえぞ」

 「俺なんか昨夜徹夜で切符を買い、今夜も徹夜で乗ろうってんだ。いい加減な野郎とごちゃまぜにされてたまるもんか」

 今朝はひどい霜だったが、今夜の底冷えからすれば、明日も真っ白な霜だろう。晩秋の霜夜だというのに上野の山と下谷国民学校では、それぞれ何千の人々が切符を狙って待ちくたびれているはずである。

☆ ★ ☆

 人混みに揉まれながら駅長室へ行くと、扉の入口に長い行列が出来ている。何の列ですか、と聞くと、どうしても乗せて貰うために駅長さんに話をする者の列だという。入口の所で揉めごとが始まっている。列内の革のジャンパーを着た青年と、列外のリュックを背負った人物とである。ジャンパー氏が言う。

 「これだけ大勢の人間がちゃんと順序をつくってるんですよ。それを無視していきなり入ろうというのは、ちょっと違いませんか」

 「違わない、私には特別な理由があるのだ」

 「特別の理由なんか問題ではない。列へ入れ」

 「入らん。私は何処へ行っても列になんか入ったことがない」

 なかなかの心臓である。

 この時、列の中から「やれやれ」と声が掛る。さすがの心臓氏もへこたれたものと見え

 「俺は帰る」

 と捨て台詞を残して立ち去る。

☆ ★ ☆

 戻ってそこから地下鉄に向かう。地下道に入ろうとすると、この中にも歩行困難の雑踏である。雑踏だが、それが今までと違うのは、この駅の雑踏に格別の異色を添えている、いわゆる「浮浪者」諸君もいることである。冷たいコンクリートの上に貨物のように横たわっている者もいれば、留置場の人々のように膝を抱え、その膝の中に顔を埋めている者もいる。人というものはすでに敗北を意識した時には、大抵このような座り方をするものであるらしい。新聞紙を四枚広げたささやかな座敷に、親子四人家庭を営んでいる人もある。乳飲み子とその上の女の子が痛々しいほど痩せている―と思った瞬間、おかみさんが矢庭に頭を揚げてハッタとこちらを睨みつけ「何をじろじろ見てるんだ。見世もんじゃないんだよ」と一喝するのだが、その形相の物凄さ、これは堪らぬと踵を返そうとすると、その隣に端座していたおかみさんが「あたしャア、ちっともお腹なんて空いちゃいないんだよ。そこらのルンペンと一緒にされちゃ困るよ」とまたも手痛い一言を浴びせられた。

☆ ★ ☆

 ここの地下道に踏み込んだ時、便所の臭いが鼻に来たのは、もう動く気力も失せた人々が、傍らの溝で用を足すからだというのが、しばらく歩いているうちに判って来た。ここを棲家としてから長い日々が経ったのと、ここへ来たばかりの人は身体の汚れ方や身装で、一目でそれと判る。それからまた単に家がないばかりに、ここを臥所(ふしど)として昼間は外で働いて来る人たちもいるらしい。白い半襟に紺の上下のモンペを着けた端麗な女性が、冷たいコンクリートに寄りかかって「Holly Bible」と標題のある本を膝に置いてあるのを発見した時は、むしろ茫然とせざるを得なかった。しかもその白足袋の足元には十六、七歳の少女が、いぎたなく眠りこけていたのである。

☆ ★ ☆

 世の人々は「上野の浮浪者」と一言にいうのだが、それが如何にさまざまな異なる人々の集まりであるかは、結局一人々々の運命を深く優しく凝視したうえでなければ判るまい。

 この「上野の浮浪者」に対して、お上がとった手段は何だったか。それは巡査が来て検束して行くことに過ぎなかった。浮浪者は後から後から上野へ上野へと集まる……

 そんなことを考えながら地下道を抜けると、寒い風の中に素足の男の子が、一人汚れた手で蜜柑を剝いている。

 「おいしいかい」

 「あ、おいしいよ、二つ貰ったんだ」 

 「それァよかったな。お腹空いてんのかい」

 「お腹? お腹なんて年中空いてらァ」

 「そうか、そいつァ困ったな。お父さんも、お母さんもいないのかい」 

 「うん、みんな死んじゃったよ」

 外へ出ると廃墟の街は深々と眠っている。 (十一月十七日付二面)

2021年10月11日

日米開戦スクープの後藤基治さんは戦後5人目の社会部長

 昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃・日米開戦をスクープした後藤基治著『開戦と新聞』(毎日ワンズ2021年刊)を読んだ。肩書は「元毎日放送副社長」となっているが、社会部旧友である。 戦後5人目の東京本社社会部長。森正蔵(このHP随筆欄連載筆者・森桂さんの父親)→江口栄治→一色直文→黒崎貞治郎につぎ、1949(昭和24)年11月から51(昭和26)年5月まで1年7か月務めた。

  戦後18代目の社会部長・牧内節男さん(96歳)が「銀座一丁目新聞」に書いている。《後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった》

 後藤の生家は、大阪ミナミ法善寺横丁にある関東煮「正弁丹吾亭」である。法善寺横丁を歩いたことのある人なら誰でも知っている有名な店である。

後藤基治1901~1973
昭和16(1941)年12月8付東京日日新聞1面

 早大独文科卒、1930(昭和5)年大阪毎日新聞(大毎)入社、社会部。《当時の大阪では、大毎のバッジならモテモテだった。どこの飲み屋もツケがきいた。「朝日に負けるな!」で本山彦一社長時代の「勇往邁進」の気風が生きていて、職場には活気があふれていた》

 釣りが趣味で、「釣り欄」を新設したと書いているが、社会部長徳光伊助(衣城)は、生きのよい社会面をつくった。「精悍な隼の眼」と大阪社会部100年史『記者たちの森』(2002年刊)に紹介されている。大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。33(昭和8)年10月、お家騒動で徳光とともに社会部記者47人が一斉に辞めた。徳光は敗戦まで北京で「東亜新報」社長を務めたが、同紙の編集局長佐々木金之助(のち読売巨人軍代表)、論説委員高木健夫(元読売新聞「編集手帳」筆者)らは大毎社会部の人材だった。

 後藤は、40年東京本社政治部へ異動、海軍省クラブ「黒潮会」に所属した。41年10月陸軍大将東条英機が総理大臣に就任する際、「東条首班に決定」の号外をいち早く発行した。次いで12月8日の日米開戦スクープ。米内光政海軍大将邸に夜討ち朝駆け。かすかなヒントを特ダネに結びつけた。

 43年10月、フィリピンが日本の軍政から独立すると、後藤は、海軍から「現地報道部長に」と依頼され、1年期限で、毎日新聞に在籍のままマニラ日本大使館の海軍報道部長(中佐待遇)として赴任する。マニラの陸軍報道部には元大毎経済部長・桐原真二中尉(慶大野球部キャプテン→大毎野球団、野球殿堂入り)、現地の「マニラ新聞」は毎日新聞の経営で、200人近い社員が出向していたという。「竹槍では間に合はぬ」の記事で陸軍から懲罰召集された新名丈夫記者を海軍報道班員としてマニラに呼んだこともあった。

 マニラが米軍機の空襲に襲われた最初は44年9月21日。戦況は日増しに悪化、抗日ゲリラも出没するようになった。

 首都マニラのあるルソン島に米軍が上陸したのが45年1月9日。後藤はその直前の44年12月26日、海軍機でマニラを離れた。毎日新聞から出向のマニラ新聞の南条真一編集局長(東京日日社会部長)に「内地に逃げ帰るなど、君は皇国臣民としての自覚が足らん」と怒られたという。

 毎日新聞社も社機でマニラとの社員輸送をしていたが、戦況の悪化で社機の飛来ができなくなった。後藤は社員7人を便乗で帰国させてくれるよう頼まれる。7人は現地応召で陸軍に籍がある。正規の搭乗は後藤1人で、あとの7人は「携行貨物」扱いで、台湾の高雄、台北、福岡の雁ノ巣飛行場経由で羽田空港に着いた。「携行貨物」の1人が西谷市次記者だった。西谷は1955年11月の保守合同で、民主党総務会長の三木武吉と自由党総務会長の大野伴睦秘密会談のきっかけを政治部の西山柳造とともにつくった(『「毎日」の3世紀』)。

 ルソン島の悲劇は伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』に詳しい。「マニラ新聞」は45年1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。伊藤記者の曾祖父の弟、「マニラ新聞」取材部長・伊藤清六記者は、陣中新聞をガリ版刷で発行していたが、45年6月30日ルソン島のヤシ林で餓死した。38歳だった。

 南條真一編集局長、陸軍報道班員の桐原真二らフィリピンで殉職した毎日関係者は計56人に上った、と同書にある。

 毎日新聞に復帰した後藤も慌ただしい。履歴をたどると、1945(昭和20)年1月に東京本社南方新聞局事務部長→同年6月南方部長→敗戦後の9月大阪本社に転勤となって、体育部長(運動部の前身)→翌46(昭和21)年2月4日創刊「夕刊新大阪」編集総務兼報道部長。

 「夕刊新大阪」は、編集局長黒崎貞治郎。後藤が引継ぎを受けた東京本社社会部長である。のち「毎日オリオンズ」球団代表。梅木三郎名で「長崎物語」「空の神兵」「戦陣訓の歌」を作詞した。

 整理兼企画部長小谷正一は、井上靖の小説「闘牛」のモデル。整理部長木本正次は映画で大ヒットした「黒部の太陽」の作者。新人記者足立巻一は、「新大阪新聞」をモデルに『夕刊流星号 ある新聞の生涯』(新潮社1981年刊)を書いた。

 後藤は1948(昭和23)年7月西部本社福岡総局長→49年11月東京本社社会部長。そのあと現在の毎日放送(MBS)の立ち上げに携わり、副社長で退任。73(昭和48)年7月逝去、71歳。

 「神風特別攻撃隊」は海軍の大西瀧治郎中将が始め、大西は敗戦の翌日に自決しているが、後藤は出撃の模様をフィリピン・マバラカット飛行場で目撃している。昭和19(1944)年10月24日と書いている。

 《まづ大西さんが悲壮な激励演説をして、そのあと、オンボロの戦闘機5機に大量の爆弾とガソリンを積んで、関(行男)大尉を先頭に、いづれも22、3歳の眉目秀麗な、惜しいような青年ばかりが乗り組んで、飛び立っていった。多量のガソリンは基地へ帰るためでなない、敵艦に体当たりして燃やすためのものである》

 《「大西さん、あんなオンボロ飛行機で若い連中を出して、どうなるんです」

 「なんにもならん、屁の突っ張りにもならない」

 「ぢゃ、なぜ……」

 「さあ、そこだよ。若い連中がどうしてもやらしてくれといふから、己むを得ず俺は取り上げた。この責任はもちろん俺が負ふ。後藤君、日本は滅びるよ……》=月刊「文藝春秋」1958年8月。

 関大尉は新婚で、出陣を前に妻らに遺書を書いている。「若い連中がどうしてもやらしてくれ」はあり得ないことだと思うのだが。=敬称略。

(堤  哲)

※『開戦と新聞』は、毎友会ホームページ2021年8月8日新刊紹介で取り上げられています。

2021年10月5日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑧

 連載「東京二十四時間」 上

 もうすぐ開戦80周年を迎える、数週間前にNHKから電話があって、父(森正蔵)の日記を取り上げてくれるという。日記はすでに戦中と敗戦直後の部分が2冊の本になって上梓されている。「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房刊)と「挙国の体当たり」(毎日ワンズ刊)である。僕が今、ぜひとも活字に遺しておきたいのは、モスクワ特派員時代に東洋人でただ一人、傍聴したスターリンの粛清裁判のくだりである。

 生涯一記者を志していた父は、戦後初の社会部長になって、多くの企画を考え実行に移した。そのなかで、いまでも読者の胸を打つのは昭和二十年十一月に掲載された連載「東京二十四時間」である。三編を採録する。

――「このままでは負けてしまう」みんなが秘かにそう思っていた。そしてその通り負けてしまった。

 世界史の奇蹟といわれる見事な混乱なき終戦ぶりであったが、今日このごろの食糧危機、住宅払底、大量の失業、「闇」の公然化などなど、国の崩壊作用がやたらに起きている。「このままでは亡びてしまう」そう思う今ではなかろうか。焼け跡にキャバレーが出来てジャズの騒音が流れ出したり、ブタ箱と一言にいわれる警察の拘置所が、日当たりの良いところに移されて人権が「尊重」されたり、商店街復興の槌音も高々と響いているが、そこに流れる深刻さ、民主主義日本への歩みの困難さは蔽うべくもないのだ。帝都の夜明け、昼、夜の明暗を探訪して、敗れた日本から新生日本への縮図を描いてみる。

 脂粉・生活苦の狂躁(きょうそう) 
  銀座松坂屋地階・進駐軍専用の舞踏場
    切符売り上げ日に二万円

 掻きむしるようなサキソフォンの響き、蒸せるような脂粉の香り。ジャズの合間に何を囁(ささや)くのか片言英語……国際歓楽場と銘をうち、去る十一月三日から開場したキャバレー・オアシス・オブ・ギンザ(銀座松坂屋百貨店地下二階)の開場時間午後一時である。開場間際ともなれば、進駐軍の伊達者は早くもネクタイのゆがみを直しながら、キャバレーの入口に殺到する。歓楽境の朝から夜までを探訪しようという記者は、開場と共にチケット売場の片隅にチョコナンと陣取った。「入場者はチケットをお求めください」と英文で貼り出してある。もちろん、お客は進駐軍ばかりで、日本人は一切お断りである。

 ダンサーは三百名。振り袖、ドレス、支那服、思い思いの姿で待機している。厚いドーラン化粧、瞼に塗る青いアイシャドー。そのままレビューの舞台に立てるようなのもいれば、振り袖姿でどこのお嬢さんかと思われるようなのもいる。これはまた粋一筋、衣紋をグッと抜き、夜会巻で襟足の美しいところを見せ、前身を物語るようなのもいる。

☆ ★ ☆

 定刻一時! 開場です。十円札をつかんで雪崩こんで来るアメリカ兵は一枚二円、五枚綴りとなったチケットを大きな手で握って入場する。切符売り場の札入れ箱は、たちまち十円札で一ぱいになる。飛ぶように売れるとはこのことだ! 平均一日の切符売り上げはザッと一万枚で、毎日二万円を割ったことはないという。中央の踊り場は百二、三十組が楽に踊れる広さで英米両国旗、赤青色とりどりの色提灯が天井からぶらさがっている。昼でも電灯は赤々と輝き、脂粉の香りとジャズ・バンドに合わせて、いずれも長身のアメリカ兵がかがみ込むようにして、小さなダンサーを抱いて踊る。踊らない者は一人ずつダンサーを擁して、踊り場の周囲のテーブルにつき、英単語早わかりなどを持ち出して囁きあっている。紛然! 騒然! 雑然! 雰囲気はまさに国際歓楽境である。

☆ ★ ☆

 さてこの勇敢な女性ダンサーたちは、どれくらい稼ぐのだろう、どんな気持ちで働いているのだろう。記者は読者と同じような好奇心と疑問をもち、ソロソロと探訪に取りかかった。

 一枚二円売りでダンサーの手取りは一枚につき六十銭。つまり一円四十銭は経営者の特殊慰安施設協会に流れ込む。一日二万円、チケットにして一万枚。これを三百人のダンサーで平均に稼ぎあげるとすると、一人当たり一日平均三十三枚当たりとなり、一晩の稼ぎは十九円八十銭。一ヶ月に十五日出勤するとして四百九十五円、それに一日五円の日当が出るというから締めて一ヶ月平均六百二十円の収入ということになるが、実際はそう平均には行かない。

 腕達者のダンサーとなると、一日二百枚(百二十円収入)からチケットを稼ぐ者もいるが、開店してから十日、平均に十五枚しか稼げぬというダンサーもいる。最低二十五枚、一ヶ月に十五日働くとして、日当その他を入れて最低収入者が五百円、女の稼ぎとしては全く馬鹿にならない。腕達者となると二千五、六百円から三千円の月収がある勘定となり、男子たるものもって如何となすの構えである。

☆ ★ ☆

 進駐軍は親切、チョコレートや煙草に不自由しない、収入はいい、これじゃ全く文句なしに彼女らは新流行語の「ご機嫌さ!」かと思えば、華やかな戦場の影にはやっぱり一抹の悲哀はある。「世間のそしり」と「着物の悩み」、これである。

 彼女らのほとんどが戦災者で十八歳から二十二歳くらい。八割五分は素人(事務員、挺身隊、女工)、元ダンサーが一割(うち二分が元芸者)、元カフェー、喫茶店勤務が五分、という割合で、いわゆるダンスホール向きの着物を持っていない者が多い。一週間も着れば着物の裾は切れ、背中は手の汗と脂で黒ずんでしまう。街で着物を一枚買おうとすれば、外人向け土産としては派手な着物は七百円、八百円の高値で、とても手が出ない。協会側では帯から長襦袢まで揃えて貸しているが、貸衣装代を取っても着物を返してもらう時はボロボロとなってしまうので、月賦で買い取ってもらう仕組みになっている。和服一揃え五百円くらい。これをダンサーの収入と睨み合せて二ヶ月から三ヶ月で返済してもらうというから、稼いでも稼いでも着物代に追われるのじゃないかと彼女たちは嘆いている。

☆ ★ ☆

 四時から五時までは昼の部と夜の部の切り換えで一時間の休憩だ。彼女たちはもう腹がペコペコらしい。休憩を待ちかねて食事に取りかかる。いずれも弁当持ちである。彼女らの食欲はものすごく旺盛だ。道のりにして売れない口で二里や三里、よく踊る子は十里くらいは歩いてしまう。協会でも豆餅などを時々サービスしているが、とても空腹の足しにはならない。ここにも切実な食糧難があり、踊るためには米のヤミ買いもしなければならない。記者はようやくナンバー・ワンといわれるイブニング・ドレス姿の花子さんというダンサーを捕まえた。

 「一番辛いこと…それは、ああキャバレーのダンサーかと一言に『夜の女』のように言われること…辛いですわ。私たちは生意気のようですが国民外交の一ツと思っています。彼らが私たちを通して『日本女性』とはこんなものかと感じて帰国するとすれば私たちの責任は重大です。生活のために私たちは一生懸命です、浮いた話などありませんワ…私たちに言わせれば、まちの堅気の娘さんたちのこの頃の風景の方が見るに耐えません」と、胸につけた赤い薔薇(ばら)よりまだ赤い彼女の気炎ではある。

☆ ★ ☆

 六時、七時と夜の部ともなれば、益々大入りで、ホールの空気は濁って、喉がぜいぜいして来る。八時!バンドは「蛍の光」を演奏する。終わりである。別れを惜しんで進駐軍は帰る。ダンサーたちも三々五々家路をたどる。

 東京――二十四時間の題目の使命から、ふとダンサーたちの寮、アパートまでも探訪したいのだが、記者に語ったダンサーの言葉を信じ、子供を預けるためや、病気の母を郷里に帰すために五百円、千円と前借して働いているダンサーたちの身の上を思い、記者も焼け跡を照らす三日月に送られながら「良き敗者」の一人として家路をたどった。(十一月十六日付二面)

(森 桂)

2021年9月24日

「思い出の京都支局」を、元支局長、磯貝喜兵衛さんが綴る

昭和2年12月24日「大阪毎日新聞社報」

 先日、東京本社社長室の鈴木泰広氏から、旧京都支局(中京区三条御幸町)について、問い合わ せがあり、貴重な写真や資料を参考に送ってもらいました。昭和3(1928)年に新築落成した京都支局(地上3階、地下1階)は、今もアールデコ風の「1928ビル」(京都市登録有形文化財)として市民に親しまれています。創建当時は京大教授、武田五一博士の設計で、平屋・木造の多い京都の都心に威容を誇り、1999年に京都御所近くの新支局に移るまでは、我が国最古の新聞社支局として、長い歴史を刻んできました。

 初代支局長は当時、京都の有名人でもあった岩井武俊氏(大阪毎日新聞取締役)。戦後15人目の支局長として私が在任したのは1979年秋から2 年間でした。1階は玄関、車庫、事務室、2階は編集室、3階講堂、屋上には創建当時、市民に天気予報を伝えた測候所跡まで残っていました。

2015年撮影
窓から顔を出す磯貝さん

 昭和3年は昭和天皇の即位の礼が行われた記念の年で、(添付の)新聞、社内報に残っている通り、盛大な披露の催しがあったようです。今も音楽や芝居のホールとして利用されている3階講堂にはグランドピアノがあり、私がいたころは市民コーラスの練習や講演にも利用されていました。地下には古都らしく、井戸水を汲み上げ利用していたポンプ室や、琺瑯びきの浴槽を備えた風呂場、食堂などがありました。

 五山の送り火の夜は、近所の方たちに屋上を解放し、ご馳走までふるまったというので、私も一度、復活したことがありました。仕事の方は、朝日新聞に百人一首の選者、藤原定家の「時雨亭文庫」関連の特ダネを抜かれた仕返しに、十年間続いた「東本願寺紛争・解決へ」の特報をはじめ、編集局長賞受賞7本を支局員が連発してくれた思い出も忘れられません。

                     

 数代前の支局長が改装したという屋上・測候所跡の宿泊所で、ウイークデーは私も2年間起居しました。朝早くに御所方面から来るのか、鶯の鳴き声がしたり、托鉢に町を回る雲水の読経の声が聞こえたり、古都ならではの風情も残っていました。屋上の一角には、作家、水上勉が寄贈してくれたという桜の苗木の箱植えもありましたが、近所の火事の火の粉が飛んできて焼けてしまったと聞きました。

 三条通りは、昔は京のメイン・ストリートで、日銀支店や呉服、香料、扇子などの老舗、料理屋などが並んでいました。今も祇園、錦市場などと並ぶ、京の古い顔であることには変わりありません。コロナが収まって、京都旅行の折には、ぜひ「1928ビル」をお訪ね下さい。

(磯貝 喜兵衛)

 ―――朝日新聞10月2日夕刊3面「いいね!探訪記」欄に、「『93歳』記者去っても薫る文化」と題して「1928ビル」が紹介されています。磯貝さんへの社長室からの問い合わせは、この記事の取材を受けたためでした―――

※磯貝さんは元毎日映画社代表取締役社長、元毎日新聞社編集局次長。92歳で、隅田川河口の中央区湊1丁目に住み、出身の慶応大学三田キャンパスや隅田川沿いにある勝海舟像を訪ねたり、永井荷風「断腸亭日乗」を読み返すなど元気です。磯貝さんが京都支局長だった当時、支局次長だった木戸湊さんは季刊同人誌『人生八聲』13巻(2018年1月、新年号)で当時を振り返って以下の文(抜粋)を寄せています。併せて紹介します。  

《修羅場の京都  木戸  湊》

 犯罪史上最も凶悪とされた梅川昭美の三菱銀行北畠支店襲撃事件の取材で毎日新聞の圧勝後間もなく、私は大阪府警キャップから京都支局次長に異動――その初日に、朝日新聞に京都・冷泉家秘蔵文書の全容を大スクープされるハメになった。

 その日の夕刻、私は緊急支局会を開き「夜討ち朝駆けを重ねて特ダネを書け!一か月、特ダネのない記者は内勤にするよ」とハッパをかけた。宿直メンバーたちのチェックもあって、週三回は支局で泊まることにした。

 そんな出だしの苦いつまづきを忘れさせてくれたのが、学術・文化担当の斎藤清明記者(『人生八聲』同人)だった。「次長、必ず朝日の冷泉家をしのぐスクープを書きますから!」と宣言した。約一年後、斎藤記者は後小松天皇直筆の「伊勢物語」や雪舟の掛け軸「釈迦絵」など国宝、重文級六〇点を含む京都・曼殊院の超秘蔵品を、ばっちり撮った写真とともに出稿―朝刊一、二面や社会面トップを飾る大スクープとなった。

 斎藤記者の曼殊院取材は、朝日の冷泉家スクープの直後から始まっていた。「京大文学部の某研究室をマークしてみたら」とある人からヒントを与えられたが、学者たちはひたすら沈黙。かえって〝獲物〟の大きさを感じた斎藤君は、年二回だけの秘蔵品蔵出しをじっと待って〝大魚〟を突き止め、見事に捕まえた。

 斎藤君はこのほか、フィンランド国立研究所が研究用に無料で日本に提供してくれた「ガンの夢の新薬」といわれたインターフェロン(IF)を患者七人に投与して、約三千万円を荒稼ぎしていた兵庫県宝塚市の民間病院を突き止めて大スクープ。

 「フィンランドに了解を取ってある」とシラを切る病院長に怒り心頭の斎藤君は「元特派員だから英語ができるはず。フィンランドの研究所に確認して!」と私に催促する。

 慣れない医学用語に大汗をかきながら、カンテル同研究所長と国際電話で一五分――。

 カンテル氏は「IFは無料投与で臨床例を集めるのが目的で日本にも送った。高額の報酬を受け取るなんて言語道断!臨床報告も全く届いていない」とカンカン。厚生省からも厳重注意された民間病院はノックダウン……閑古鳥が鳴いたといわれる。

◇     ◇     ◇

 真宗大谷派(東本願寺)は宗祖・親鸞の末裔の「大谷家」(同寺住職)と末寺グループで組織された「内局」が、教団運営をめぐって長らく対立していた。私の京都時代は、まさにこの対立が燃え上がる寸前だった。大谷家は国の名勝「枳殻(きこく)邸」を借金の担保に売り払おうとし、内局側は大谷家を背任罪で京都府警に告訴していた。

 宗祖以来八百年、門信徒数七百万のマンモス教団。しかも法主(大谷光暢師)の智子裏方(妻)は昭和皇后の妹だった。京都宗教記者会メンバーだった田原由紀雄記者は法主、内局双方にシンパを作って特ダネを連発、検察担当の村山治記者(後に朝日新聞に)と組んで、近づく枳殻邸捜査に備えていた。

 捜査のポイントは天皇の親戚の法主一族を起訴できるのか?事件の成り行きを聴き、天皇は激しく身震いされたという。間もなく〝天皇の勅使〟として秘かに京都へ現れたのが、元名古屋高裁長官のN弁護士だった。宿泊ホテルさえ極秘だったN弁護士が宗祖の大谷家に入って行ったのを見事に見届けたのが新人のW記者。二日前からN弁護士の顔写真を手元に車の中でひたすら張り番をしていたのだ。

 次にN弁護士は内局との会合へ――村山記者が忍び込み、無断で内局奥の間の襖を開けると、N弁護士と内局トップの宗務総長が密談中だった。「毎日です」とカメラを構えたら、宗務総長は「後で全てを話すから、待って」と懇願。

 後は田原、村山両記者による特ダネ・ラッシュ。「法主―内局が和解」「内局、告訴取り下げ」「京都地検、事件を不起訴に」……。

 天皇の意志で三〇年間の紛争に一応のピリオドが打たれた東本願寺事件だったが、深夜の支局でその第一報を書こうとした村山記者は興奮で手が震えて字が書けない。「力を抜いて」と田原記者に肩を叩かれ、私は大きな湯呑に日本酒を注いで、ぐいと飲ませた。

◇     ◇     ◇

 私の京都支局在任はわずか一年一〇か月だったが、この間、支局員らが勝ち取ったのは、社内最高の賞「編集局長賞」が六本。同賞に準ずる「編集局長之賞」が五本、通常一年一本で大騒ぎだった当時としては前代未聞の快挙―支局員の団結と親和が目に見えて高まった。

 これまで数々の記者体験や思い出を書いてきたが、京都時代は余りに忙しすぎて、スクラップの類はゼロ。支局ОB会の度に、「あの修羅場を是非書いてよ」とせがまれ、数人の仲間から当時のスクラップや本も送られてきた。

 懐かしい戦友たちよ、ありがとう!

2021年9月22日

「毎小」60年記念誌をバックアップしてくれた辻政信の二男


  読売新聞の前田啓介記者(2008年入社)が『辻政信の真実 失踪60年--伝説の作戦参謀の謎を追う』(小学館新書)を出版した。2018年、辻の地元石川県の金沢支局に転勤したのを契機に取材を始め、県版で連載。さらに取材を続け、400㌻を超える著作になった。

  読み始めてすぐ、辻政信の二男毅さん(1942年生まれだから、来年80歳)が登場する。その毅さんに、毎日新聞学生新聞本部が大変お世話になったことを思い出した。

  毎小(毎日小学生新聞)は1936(昭和11)年12月22日「大毎小学生新聞」として創刊した。東京では翌37(昭和12)年1月5日、時事新報から継承した「日本小学生新聞」を「東日小学生新聞」と改題した。

  毎小創刊60年を記念して学生新聞本部は『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』を出版した(1997年1月発行)。B5判448㌻の大部のものである。定価4,500円。

  海野十三の連載SF小説「火星兵団」が毎日待ち遠しかったと、JR東海の初代社長須田 寬さん(90歳)や「日本沈没」の作家小松左京さん(2011年没80歳)。

  「両手を大きく拡げて、一人前の格好をして読みました」と作家の田辺聖子さん(2019年没91歳)。

  子どもに人気があった。秋玲二の「勉強まんが」は1939(昭和14)年に始まった。漫画家では手塚治虫、藤子不二雄(安孫子素雄・藤本弘)、松本零士、園山俊二らがデビューをしている。

  この記念誌づくりに情熱を燃やしたのは元毎小編集長の谷僖純さん(2005年没66歳)だった。情報調査部のマイクロリーダーでバックナンバーをプリントアウト、ワープロで夜遅くまで原稿を叩いた。

  出版してくれたのは、NTTメディアスコープ(現NTTアド)。ここは当時の毎小編集長赤池幹さんが見つけてきたのか。

  そのNTTメディアスコープの社長が辻毅さんだった。「勉強まんが、懐かしいですね。私も毎小を読んで育ちました」と、記念誌出版の応援団になってくれた。「社長案件」で出版話が進んだのである。

  辻社長は、東大法卒、日本電信電話公社(現NTT)入社。テレホンカードの生みの親といわれ、日本初のテレカのデザインを岡本太郎に依頼。パンダのトントンのテレカは800万枚を売り上げ、テレカの売り上げ日本一を記録したという。

  あれから25年——。毎小は、ことし12月に創刊85年を迎える。新聞が読まれなくなっているといわれるうえに、少子化。頑張れ「毎小」と声援を送りたい。

(堤  哲)

2021年9月16日

「ペンの森」一期生が、瀬下恵介さんのお酒と議論を偲んで

石原聖さん

 瀬下先生と初めてお会いしたのは1995年の秋。先生がマスコミを目指す学生向けの作文教室「ペンの森」を創設した年のことでした。

 大学4年だった私は、いつもなら素通りする学生課の掲示板で、偶然、「ペンの森」を紹介する貼り紙を見かけました。もう毎日新聞社から内定をもらっていたので作文を習いに行く必要はないといえばなかったのですが、携帯もインターネットも普及していない時代だったので、新聞記者と会ったり話したりという機会がほとんどありませんでした。だから「これから自分が入る会社の先輩から直接話が聞ける!」と、貼り紙を拝見し、その足でアポも取らずに神保町の教室に行ってみました。

 「ふつうは就職試験の前に来るもんだけどね。面白い人だねえ」と先生には笑われましたが、作文を書き、その後は世相をつまみに、あーでもない、こーでもないと議論する酒盛り付きの授業はとても楽しく、毎週通いました。

 鳥越俊太郎さん、亡くなった久和ひとみさんらマスコミの現役OBがしょっちゅうふらりと立ち寄り、一緒に酒を飲みながら取材の裏話をしてくれたり、問わず語りの武勇伝を聞かされたりすることもしばしばでした(裏話のやり方をまねしてみましたが、うまくいった試しはほとんどなかったですが)。

 ある時、大の大人が酔っ払って、意見の違いの末に「お前な!」などと本気でけんかし出したので、「止めなくていいんですか?」と尋ねたのですが、先生は「いいよー。元気があっていいじゃない。毎日に行ったらこんな奴らばかりだぞ」。笑って放置していたのは、先生がそういう毎日新聞の社風を好きだったからなのは間違いなく、同時に、これから記者になる学生に、(けんかはともかく)真剣に議論することを大事にして欲しいと言いたかったのでしょう。実際、「15版」で似たような光景を幾度となく見かけましたが、「まあそういうもんだな」とのんびり構えていられたのは、ひとえに先生の下で耐性がついたお陰です。

 結局、作文でほめられたことは数えるほどしかなく、先生が「毎日新聞ロッキード取材全行動」をまとめたことも社会部に上がるまで知らず……と、ただ一緒に飲んでいただけで卒業したような気もするのですが、働き出してからは、記者人生の分かれ道のような節目になると、自然と「ペンの森」に足が向き、先生に相談していました。

 手痛い抜かれをした警察担当の時は、「命まで取られないから」。外信部に異動する時は「先のことなんか誰にも分からないんだから、好きなようにやったら良いんだよ」。そう声をかけてくれ、背中を押してもらいました。先生は「新聞記者は楽しいよ。生まれ変わっても、もう一度やりたい」とよく言っていたので、あちらでもペンを握って楽しくやっているのかもしれませんが、もう相談できないんだなと思うと、寂しくてなりません。

 たまたま貼り紙を見かけて「ペンの森」の1期生になってから四半世紀が過ぎ、先生の教え子は現在、マスコミに500人くらいいるそうです。毎日新聞にも毎年1~2人は入っており、「入社できました。○○支局に配属になりました」という連絡をもらうこともあります。コロナで、酒盛り付きというわけにはいきませんが、仕事の合間にはペンの森へ行き、記者志望の学生の作文を見たりして、先生のお手伝いを続けようと思います。

(1996年入社、カスタマーリレーション本部宣伝企画・プロモーショングループ長、石原聖)

※瀬下恵介さんは2021年8月9日逝去、82歳。社会部遊軍長、サンデー毎日編集次長など歴任。リタイア後、「ペンの森」を創設、2018年の引退まで多くの学生をマスコミに送り込んだ。現在は、朝日新聞出身の岩田一平さんが引き継いでいる。

2021年9月16日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その16 第2回目ワクチン接種の一日(前編)(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasu.../archives/53454521.html

 新型コロナの第1回目ワクチン接種のことは連載その14で書いた。第2回目は7月23日だった。場所は同じ大手町の合同庁舎。炎天下に街中をうろつくのもどうかと思ったが、まっすぐ帰るのもなんとなくもったいない気がした。地下鉄東西線の途中に市川市行徳がある。会社員時代に40年以上も通った路線だが、この町をゆっくり歩いたことがない。

 1992(平成4)年になるが、松尾芭蕉が『鹿島紀行』で歩いた軌跡をたどるという雑誌企画があり、行徳を訪れたことがあるのだが、江戸川河畔の常夜灯のほかはなにも覚えていない。『鹿島紀行』は目を通していたと思うが、なにも覚えていないのは、下調べもろくにしないで、編集者にいわれるまま、写真を撮っていたからに違いない。あるいは、1泊2日の取材日程だったから、時間に追われて余裕がなかったのかもしれない。 インターネットで検索すると、市川市公式Webサイトに「行徳・南行徳界隈」のページがあり、案内の記事と地図を載せている。行徳の今と昔をていねいに紹介していて、とりわけ「文化の街かど回遊マップ 行徳・妙典地区」は一目瞭然でわかりやすい。

大手濠。中世までの日比谷入江最奥部。近くに将門塚。千代田1-1

 それによると、東西線の妙典駅東口から寺町通りに出て、北西方向に400メートルほど歩くと、江戸川(旧江戸川)に突き当たる。その手前を江戸川と併行して南西から北東に通じる道路が行徳街道である。歴史的な街並みの中心はこの街道に沿った一帯で、寺町通りとの丁字路から南西方向に400メートルほど歩いた川沿い公園には、かつての繁栄を象徴する石造りの常夜灯が残されている。

 脇道に逸れても、往復2キロ前後。写真を撮りながらだと、所要時間はおよそ2時間ということになる。自宅から最寄りのJR津田沼駅までは約2キロだが、雨でなければたいていは歩く。ワクチン接種直後ではあるが、無難な街歩きの行程ではないかと思われた。

 行徳には本塩・塩焼・塩浜などの地名が残っている。東京メトロ東西線やJR京葉線、あるいは東関東自動車道から目に入るのは、大小の工場が立込んだ埋立地特有の沈んだ風景ばかりだが、かつてこのあたりは干潟の海岸線がどこまでも続き、潮の干満を利用した塩田が開かれていた。

 多少の知識はないわけでもなかったが、改めて調べてみると、1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入ると、直ちに着手したのが小名木川の開削で、家中を総動員させた1年越しの突貫工事でこの人工河川を完成させたということである。目的は行徳の塩を江戸に運ぶことにあった。その当時、行徳のあたりは関東一の製塩地帯で、塩は生活必需品であると同時に軍事的な戦略物資でもあったからである。

 先に述べたように、芭蕉の紀行文集に『鹿島紀行』がある。1687(貞享4)年、茨城県鹿島市への月見の旅を記した俳句と散文からなる短編であるが、そのなかに行徳の地名が出てくる。

 このあきかしまの山の月見んと、おもいたつ事あり。(中略)門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。(中略)日既に暮れかゝるほどに、利根川のほとり、ふさという所につく。

 「かしま」(鹿島)には、臨済宗妙心寺派の根本寺があった。この寺院の21世住職を仏頂和尚という。そのころは住職を退き、根本寺の近辺に隠居していた。芭蕉は月見の風雅を表向きの理由に、その居所を訪ねたのである。勝手な憶測だが、月は天空の月であると同時に、仏頂その人の象徴的な表現ではなかったかと思われる。旅の同行者は浪人姿の曽良と墨染の衣の宗波の2人。芭蕉は自分自身については、つぎのように書いている。

 いまひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠のあいだに名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく

 自分は僧に似せた身なりをしているが、僧侶でもなければ市井の人というわけでもない。いわば、鳥と鼠の中間の蝙蝠のような存在だといっている。「とりなきしま」は「鳥なき里の蝙蝠」のもじりで、「しま」は鹿島。鳥は本物の僧侶で、蝙蝠は偽物の僧。鼠は市井の人。本物の優れた僧侶は鹿島にいない。それをいいことに、偽物の僧である自分が出かけて、我が物顔に幅を利かせよう。という逆説的な言い回しである。ここでいう鳥とは、文脈から考えれば、鹿島根本寺の前住職であった仏頂和尚のことにほかならない。

 鳥類は、わが国の古くからの信仰では、この世とあの世を媒介する存在とみられた。神仏の意思を伝える聖なる使者ということである。神仏の託宣の多くは夜間で、多くの場合、夢の形をもって顕現した。

 それにたいして、鼠には夜行性の動物で、ひそかに悪をなすものとか、つまらない者という意味があるらしい。蝙蝠は鳥の仲間だが、鼠と同じように、夜行性である。鳥類は夜になれば眠る。神仏の夢を見るためである。蝙蝠は夜になると目を覚まし、月見に興じる。月見の風雅とは、鳥でも鼠でもない蝙蝠が隠れてする仏道修業の真似事ということになる。

 仏頂和尚は、『鹿島紀行』には言及がないが、鹿島神宮に不当な形で寺領を奪われたとして訴訟を起こした。1674(延宝2)年から9年にわたり争った結果、ついに勝訴して寺領を回復した。地方裁判所などなかった時代だから、吟味(審理)は江戸の奉行所で行われた。したがって、その度ごとに、鹿島から出府しなければならなかった。つまり、仏の道にありながら、寺領回復の俗事に、かまけざるをえなかった。そのさいに、身を寄せたのが、深川の臨川庵(後の臨川寺、江東区清澄3-4-6)だった。芭蕉は、1680(延宝8)年、この仏頂と出会い、師弟以上の親交を結んだ。芭蕉が桃青と名乗ったのも、仏頂による命名だともいわれている。

寺町通り。徳願寺。山門に祀られた大黒像。本行徳5-22

2021年9月15日

「サンデー毎日」に、東条英機の頭を叩いた大川周明の合掌写真

 今週発売の「サンデー毎日」9月26日号で「東京裁判」の写真が目についた。

 法廷で合掌する大川周明、その前に東条英機——。この写真は、東京裁判担当の毎日新聞写真部・日沢四郎さん(当時38歳、のち写真部長)の撮影である。

 ——昭和21年5月3日のことである。福湯(豊)や高松(棟一郎)が休廷時間に、ゲラゲラ笑いながらクラブに戻って来た。ずっとクラブにいた私(狩野近雄)を見るなり、

 「大川周明が東条の禿頭を叩きやがった」という。

 私は、開廷のベルがなると記者席に入ってみた。審理を再開するとすぐ、大川はまた東条の頭をたたいた。被告席は二段になっていて、東条は前列、そのすぐうしろの後列に大川はすわっているのである。手をちょっと上げて、ペタンと平手で、東条のハゲをたたいたのだ。そのときの東条が、うしろをふりむいて、そのふりむいた顔がよかった。微笑をたたえて、

 “なんだいこのイタズラ小僧が”

 といった顔なのである。人のいい東条の一面が見えた。

 シーンとした法廷のなかに、ペチャッと響く音が奇妙なおかしさだった。

 ——法廷内珍事、大川周明が東条英機の頭をペチャンとたたいたときは、二度とも各社は撮影できなかった。しかし、ヒイさん(日沢カメラマン)は、東条の頭を叩いたあと合掌する大川をとっている。

 ——ヒイさんは数多くの特ダネ写真をとった。法廷という限られた場所、固定した写真班の位置、そういう条件のもとで各社をだしぬくことは容易ではない。ヒイさんは三脚の上にカメラを

 3台とりつけてシャッターを切ると同時に3方向の写真がとれる新発明をしたりした。

 以上は、東京裁判の取材班キャップ狩野近雄(のち東京本社編集局長、スポニチ社長)著『記者とその世界』からである。 

 翌日の新聞各紙に「東条のハゲ頭をポカリ」という見出しが躍ったが写真はなかった。

 毎日新聞に載った大川が合掌する写真を見て、MPたちから「これは君が撮ったのか。是非一枚焼き付けてくれ」と頼まれた、と日沢は自著『戦犯を追って三ヵ年』(1949年刊)に書いている。

 法廷取材は、記者は7人登録できたが、カメラマンは1人だけ。日沢がA級戦犯の処刑まで3年間取材を続けたのである。ちなみにペンは高松棟一郎、福湯豊、川野啓介、鈴木二郎、新名丈夫、杉浦克己で「多士済々、当時の新聞のベストメンバー」(狩野キャップ)。

 「東京裁判」は狩野が命名者である。正式名「極東国際軍事裁判」では長過ぎるので、ニュールンベルグ裁判がその地名をとったのにならったという。

 私(堤)が入社した1964年、狩野が東京本社編集局長、日沢は写真部長だった(文中敬称略)。

(堤  哲)

2021年9月13日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑦

味のちがう国

ブダペストを流れるドナウ川に懸かる「くさり橋」

 これは、ちょっと当てが外れたかな――と思った。定年を一年残して退職し、一家三人と犬一匹とを連れて、ハンガリーの首都ブダペストへ引っ越しての感想だ。内陸国だから、新鮮な海の魚は期待しなかったが、こんなに食べ物がしつこくて、しょっぱいとは思ってもみなかったから。

 ハンガリーについては、父(森正蔵)の遺した日記を読んで、頭の片隅にあった。「丘の上の古城の壁に夕日が映え、暫くすると夕焼け雲を背負った川上の丘陵が、色と形との極美を描き出していた」。一九四〇年六月、父はモスクワ特派員勤務が解け、帰国途中に母とともにローマからブダペストに飛んだ。この月、イタリアのムッソリーニは英・仏に宣戦を布告した。母はこの演説をホテルを抜け出し聴いたが、父は灯火管制で真っ暗なローマとは違い、ドナウ河に沿って広がる美しい街をしみじみと眺めたのだろう。僕も下見に訪れ、父と同じ思いをしたのだった。

 ハンガリー人は、同じアジア系の民族である。顔立ちは全く違い欧州の体型だが、十人に一人は蒙古斑があるという。偶然だろうが、よく似た単語も多い。水はヴィーズ、白鳥はハッチュウ、帯はウーヴ、打つはウートゥ、湖はトーで、アイヌ語の湖トーと全く同じである。どれも生活に密着した言葉であることに注目したい。太古の昔に、二つの国の祖先はバイカル湖の南で一緒に暮らしていたが、その後両者は東西に移動したという説を唱える学者がいた。トート・カザールさんという老人で、「古事記」のハンガリー語訳で知られる。両国の言語を巡る学会で何回も発表することがあったが、両国民がたどった地域を実地調査していないので、学説にはならなかった。

 ブダペストをはじめ地方でも日本語熱が盛んだ。指定されている小中学校には、特別な日本語の授業が毎日あり、会話はもちろん漢字の読み書きを習っている。上級のクラスになると、今どきの日本人も使わない会話で自分を表す子供がいたりしてびっくりさせられた。中学生新聞のデスクをしている時、きれいな日本語で「お友達になりたい」とペンパルを求める手紙が学校単位で届いた。不思議に思っていたが、その疑問の答えが解った。

 話を元に戻そう。なかでも塩はハンガリー語でショー。しかも塩が足りない時は「シオタラン」と言う。大衆食堂でもホテルでも、かなりの辛さなのに、地元の人には味がさっぱりしていると感じるらしく「塩足らん」とボーイさんに注文していた。初めて聞いた時は日本語かと耳を疑った。塩はちゃんとテーブルの上にあるのに、まだ足りないらしい。ある晩、タイ料理を食べに行ったら、心配が当たって、辛い、辛い。注意すると「薄味と注文してください」と切り返されてしまった。毎週、部屋の掃除をしてくれるおばさんは、おふくろの味を僕たちにご馳走しようと、張り切って作ってくれたが、塩辛いのには参った。 さらに面白いことに、住所は都道府県から書き始めるし、姓名の呼び方や年月日の書き順も日本と同じだ。

 ハンガリー料理は、ルーマニアのトランシルバニア地方、トルコやスロバキア、オーストリアの影響を受けている。ほとんどがロールキャベツのように皮で包んだり、煮込んだりしたもので、日本料理のように蒸したり、塩焼きにしたものはほとんど見当たらない。独自の料理には、日本人にもおなじみのグヤーシュがある。もとはハンガリー西南部に広がる大平原(プスタ)の牛飼いが、塩と香辛料で味つけした骨肉をパプリカとともに、弦で下がった鍋で煮込んだもの。

 ある時、昼間のパーティーに呼ばれて驚いた。バーベーキューといううたい文句だったが、広い庭の真ん中に置いた鉄板にラードの塊を乗せ、溶けたラードを肴にワインを飲むという寸法である。口がねばねばするし、ラード独特のにおいが口の中に広がり、ついついワインを飲みすぎるので、さすがの大男たちも歌えや踊れの騒ぎになった。

牛飼い料理のグヤーシュ

 ハンガリー料理を「世界で三大料理」と、ほめそやす人たちがいる。英国に住む美食家のローナイ・エゴンは「フランス料理や中国料理とともにハンガリー料理は東西文化の接点にあり世界一」。やはり長く英国に住んでいる怪奇小説家のオルチ伯爵夫人は著書「紅はこべ」で「英国人は王様のような生活をしているが、食事は豚のようだ。ハンガリー人は豚のような生活をしているが、王様のような食事をしていることを神様はご存じだ」と。

 でも、僕は「うーん」とうなってしまうのである。(つづく)

2021年9月9日

「あなたはケチですね」宇野千代さんに叱られた吉永小百合さん

 「恋多き女」宇野千代さん(1996年没98歳)の名前に、立て続けに接した。この毎友会HP追悼録の中西浩さん(7月28日没90歳)と、5日付毎日新聞「滝野隆浩の掃苔記」。

 追悼録では、中西浩さんが宇野千代さんを撮影したときのウラ話を写真部の後輩・滝雄一さんが明かした。

 《毎日新聞日曜版で「生きて行く私」を連載し、単行本でもベストセラーになった宇野千代さん。彼女の老眼鏡はかなりきつい凸レンズで撮影の角度で目の大きさ、形が歪んで醜悪に見えてしまう。そこで、中西さんは眼鏡屋へ行って、レンズを外してもらって彼女を撮影した。とにかく撮影では妥協しないのだ》

 社会部旧友・専門編集委員の滝野隆浩さんは、お墓めぐりで。《高さ1・2㍍、幅1㍍ほどの白っぽい石。上部には丸みがある。「幸福は 幸福を 呼ぶ」と彫られ、その周りに好きだったサクラの花びらが散ったデザイン。心のおもむくままに愛し、書き続けた作家の、生き方そのままである》

 《尾崎士郎、萩原朔太郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫らとの波乱に満ちた恋愛遍歴である。毎日新聞に連載された代表作「生きて行く私」には愛の浮沈が描かれた。読むと、なぜか晴れやかな気持ちになる。たぶんそれは、相手に執着しないから。彼の心が離れたら、追いかけない。晩年、NHKのインタビュー番組で宇野さんは「それが恋愛の武士道」と語っていた》

 《あ、この人いい、と感じたら、迷わず真っすぐ一直線。後悔など一切しない。だから墓石の言葉は、宇野さんの幸福論でもある。幸不幸は「本人の気の持ち方次第」と随筆に書いた。「私が一番嫌いなのは、そう大して不幸でもないのに、自分をよっぽど不幸だと思わないと安心出来ないような人である」(「幸福を知る才能」)》

 思い出したのは、映画「女ざかり」に合わせて主演の吉永小百合さんが毎日新聞に連載した「女ざかり 男ざかり」の第1回。

 見出しは——。
  「あなたはケチですね」
  宇野先生に叱られた私

 《4回の結婚をなさって、どんな時でも惜しみなく愛のある行動をとられた先生の生き方は、とても真似できない。

 
池上彰さんと対談する吉永小百合さん(毎日新聞紙面から)

 「相手の男性が私に好意を持ってくれていることが判らなければ、自分からその男性に対して積極的になれないのですよ」と申し上げたら、「あなたはケチですね」と、叱られた》

 原稿のキャッチャー役を私(堤)が担当したからだが、この第1回は印象的だった。

(堤  哲)

2021年9月8日

瀬下先生と毎日新聞

学生新聞編集部田村彰子さん

 もうきっかけも思い出せませんが、漠然と出版社に入りたいと思っていた大学3年生の私は、神保町にある瀬下恵介先生主宰の「ペンの森」の門をたたきました。5期生だったので、1期生で新聞記者になった先輩方はまだ支局にいらっしゃり、出入りするのは岸井成格さんを中心とした先生とつながりがある毎日新聞の大先輩が多かったと思います。そのため、「新聞記者はすぐ怒鳴り合いをする」「支局でたばこを吸いながら部下の原稿を見る、よれよれの白Tシャツを着たデスクがいる」「毎日新聞の記者は、夜はだいたい酔っ払っている」といった、今から考えると半分合っていて、半分間違っている情報をたくさん植え付けられました。

 そんな先生が、ある日、「おまえは新聞記者が向いているから、新聞記者になりなさい。特に毎日新聞が良さそうだ。新聞記者は楽しいぞ」と突然言い出すではないですか。理由は今もって全くわかりません。その時は「先生のそういう勘はだいたい当たる」という都市伝説が生徒の間に広がっていて、私も「そうなのか」と特に疑問を持つこともなく、そのまま新聞記者を目指すことにしました。今から思えば突っ込みどころ満載ですが、先生のもたらした不思議なご縁に導かれたとしか思えません。

「ペンの森」を引退した2018年11月(送別会の写真も)

 そんな先生は、ずっと毎日新聞を愛していたと思います。上司に平気で文句が言えることや、酒を飲んでつばを飛ばし合いながら議論するのが当たり前の社の雰囲気をよく笑いながら話してくれました(時には岸井さんの武勇伝なども)。古い毎日新聞の本もたくさんあり、「泥と炎のインドシナ」を初めて手に取ったのは「ペン森」です。取材の前に、関連書籍をたくさん読む作業は先生から習いました。私はずっと「黄金期の新聞社社会部の遊軍長」が、先生を言い表すのに一番しっくりくると思っています。森羅万象に興味を持ち、書籍、雑誌、新聞から幅広い知識を得て、ちょっと斜めから世の中を斬る。私が社会部に上がり、夜回り前に酒の入っていない先生とさまざまな話をするようになってから、その思いは強くなるばかりでした。「白いヨレヨレTシャツのデスク」ぐらい、「ザ・新聞記者」な方だったのです。

 私が記者生活を始めてから今日まで、ずっと心がけていることは「ご縁を無駄にしない」です。どんな人がどんな縁を持って現れるのか、誰も分からない。でもそんなご縁が人生に大きな影響を及ぼすことがあると先生から学びました。毎日新聞の記者をして、夫も毎日新聞の記者で、子どもは3人いるという人生は間違いなく先生からもたらされたものです。そして、同じように「先生がいなかったら、全く違う人生だろうなあ」と思っている毎日新聞の仲間がたくさんいることでしょう。

 今回の訃報に接し、毎日新聞社内の1期から23期までの「ペン森」生に声をかけさせていただきました。だいたい一つの期に1人はいて、全国に散らばっていました。先生のまいた種は、いろいろなところでいろいろな形で今後も育っていくはずです。「師」として肉体はなくなっても存在し続ける先生ですので、なんとなく「ありがとうございました」という別れの挨拶はなじまない気がします。やっぱりこうでしょうか。

 「先生、そちらに行きましたらまた飲みましょう。お土産話をもっていきます」。

(2002年入社の学生新聞編集部、田村彰子さん)

《牧内節男さんの銀座一丁目新聞から転載》

瀬下恵介君を偲ぶ

(柳 路夫)

 毎日新聞社会部で一緒に仕事をした瀬下恵介君がなくなった(8月9日・享年82歳)。

 仲間の板垣雅夫君からメールを頂いた。それによると、13日の葬儀は家族でやりますが、供花は受け付けるそうですので、皆さんとともに、「毎日新聞社会部ロッキード事件取材班」でお花をお送りしたいと思いますが、よろしいでしょうか。ご賛成いただければ板垣が手配いたします。先ほどお宅へ電話したところ、お嬢さまが出てきて、6月に誤嚥性肺炎となり、老衰ということもあって、なかなか回復せず、9日午前3時ごろ永眠なさったと言っておられました。誠に残念です。では、以上の件、12日には手配をしたいと思います」とあった。

 瀬下君は毎日新聞社会部時代、ロッキード事件の取材仲間である。辞めたあとも良い仕事をされた。彼を有名にしたのは彼が創設した「ペンの森」マスコミ塾である。彼には人を束ねてガヤガヤ論談させて有志で事を進めてゆく才能があるようだ。私もスポニチをやめたあと5年ほど「マスコミ塾」を開いたが5年と続かなかった。あまりにも学校の教室的な授業をやりすぎた。作文に絞って生徒と一緒に話しながらやるべきであったと反省している。一時期、ニューズウィーク日本版発行人であった。彼に頼まれたニューズウィークを数年間購読した。非常に勉強になった。そのあと瀬下恵介君が1995年に「ペンの森」を創った。瀬下君や元朝日新書編集長の岩田一平さんらが熱心に指導した。

 さらに、ペンの森OBの朝日、読売、毎日、NHK、共同、日経、文春、博報堂などの現役マスコミ人が手助けをしてマスコミ界へ有為の人材を送った。毎年年末の瀬下君はハガキでペンの森から何名マスコミに入ったか細々と書いたハガキが送られてきた。手元にある資料では「ペンの森は11年目に入りました。捏造記者、放火記者は永遠に出しません」(2005年11月)「フェイスブックをはじめました73歳にして新しい知り合いの輪が広がります」(2011年11月)「ペンの森での教え子の記者、編集者は400人になります」(2013年11月)

 心からご冥福を祈る。

2021年9月7日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑥

菊池寛の眼

菊池寛

 父(森正蔵)は日記にさまざまな人との対話を記している。これは昭和十九年十一月十五日の部分である。

 夕方、築地の「楠幸」へ菊池寛と久米正雄とを招く。横光利一も招いていたのであるが、彼はひどく胃をこわしているので「残念ながら」と出席を断って来た。この催しは、本社の客員であった三人と表面上、手を切った形になるので、一応これまでの労を謝するという意味のものである。菊池寛が珍しくよく喋ったりして、今晩の会合は面白かった。そのうちの一つ―今度、創元社で「創元」という一部百円という雑誌を出す。それにのせる小林秀雄の「モッツアルト論」は、面白いと学芸部記者が切り出したことについて、小林秀雄のことに話が移る。

 菊池寛は「小林という男が、そんなに立派なものを書くのかネ」と言う。みなが「冗談ではない。小林秀雄を世に出したのは文藝春秋社ではないですか。それをあなたが知らぬという法はない」と言う。そこで菊池は語を継いで「小林の方では僕を認めているかも知れぬが、僕は小林を認めないね。小林が僕を認めているというのは、こういう訳だ。大阪へ競馬に行って小林に会った。小林は負けて負けて、からっけつになった。可哀そうになったので僕は、君この馬を買いたまえ。複ならばきっと当たるにちがいない。金なら僕がいくらでも貸してやるからと云って買わしたところが勝ったネ。あれで僕を認めぬという法はない」。

 それから文学論が出た。いろいろ珍しい話、面白い話を聞くことが出来たが、「作家の真価とその名声」というものは決して一致するものではないという話から、菊池は尾崎紅葉と泉鏡花の例を出した。作品の価値では鏡花の方が優れているのに、名声は紅葉の方が上に位しているのはおかしい事実だというのである。それに次いで「だが作品の価値とその作家の人間性というものも一致しない場合があるものだ」と言って、鏡花について次のようなことを語った。

 あれほど「恩師紅葉」などと外に対して言っていながら、紅葉の未亡人が生活に困ってある年の暮れに鏡花のところへ金を借りに行ったところ、鏡花はそれを拒絶している。

 そして金十円を包んで歳暮だと言って紅葉未亡人のところへ送ったということがある。どんないきさつがあるか知らぬが、人間的に見て面白くない。それから佐渡の小木港で紅葉の碑を建てるというので、その資金の基金に僕たちのところへも色紙を書いてくれと言って来た。僕はまずいのを二、三枚書いたが、鏡花はにべもなく断っている。色紙を書くのがいやだったら、金でもやれば良いじゃないかと思うんだがネ。この話の序に作品のなかの会話について菊池は言う。

 紅葉の作品を大したものでないと僕は言ったが、彼の作品のなかの会話は良い。現代の作品に、あのまま持って来ても立派なものです。会話のよしあしには、時代の隔りはないと言ってもよいわ。夏目漱石も菊池寛には極めてみじめな取り扱いを受けていた。「久米や芥川があんなに漱石を大家扱いにするのが僕にはおかしくて……」と言うのであった。

 題字がモノクロだったころ

  赤いりんごの露店の前で
  だまって見ている青い顔
  りんごの値段は知らないけれど
  りんごのうまさはよくわかる
  りんご高いや高いやりんご

 敗戦に打ちひしがれた国民を襲ったインフレはもの物凄かった。これは昭和二十五年秋に東京新聞に載った「りんごの唄」の替え歌である。

 戦後になると、社員の生活はますます苦しくなった。だが全国に張りめぐらした地方支局と一体となって、懸命に支え合っている姿が父の日記に浮かび上がる。

忘年会のスケッチ。右が戸川(父の日記から)

 政変(社会党・片山哲内閣成立)に社内中、ことに政治部ではおそくまで活気にあふれている。慰問のために粕取り焼酎(二十年五月三十日付)二本(一千円)を出す。四版締め切り九時。

 神田太郎が「亀甲萬(キッコーマン)の醤油を二升くれた。これはこの節、なかなか手に容れ難い貴重品である。(翌日付)

 立石隆一(学芸部)が西瓜をくれた。この間から果物屋の店頭ではちょいちょい見うけたが百六十円とか百八十円とかいう値がついていて、ちょっと手が出なかったものだ 三三会を復活させる。この会がしばらく続いてすぐお流れになってしまったのは、どういう原因であるかわからないが、今度はこの会を愉快な集まりにすることに力を注ごう。まず何か茶菓子を出す。誰かにおもしろい話を用意させておいて、それを発表させる。そして月に一度くらいは会員全部が集まって、一ぱい飲むようにする。そのために会費をとることにした。部長五十円、次長、局長百円、なお寄付金も機会あるごとに取る。

                

 敗戦は家計を苦しめるだけではなかった。GHQの新聞統制である。そのうっ憤を晴らす光景が、二十五年十二月二十四日に繰り広げられる。

 いよいよ年も押し詰まって、あちらこちらで忘年会の催しがあるが、社会部でもかねがねの懸案であったその会を、今夕芝浦の東港園で開く。このごろ、こういう催しも値が高くてやりにくい。今夜の会なんかも一人あたり百円ばかりにつくのだが、支那料理がちょっぴり出たのと、酒は生麦酒にウイスキーである。それでも四十人ばかりの参会者が、ずいぶん騒いで大成功。例によってそれぞれの隠し芸続出のなかに、今夕の白眉は何と言っても戸川の猿と塙(はなわ)の猿回し。余りのことに皆開いた口が塞がらぬという様だった。

 帰りは一同トラックに乗って社まで行き、そこで解散したが、夜更けの街を行くトラックのうえで、酔っ払いどもが思いつきの歌を合唱する様は、また一段と物凄かった。

 クリスマス・イーヴ。進駐軍の兵隊たちの天下だ。第一相互のマッカーサー司令部ではMerry Christmasのイルミネーションがまばゆく、お濠の水にうつっている。

 戸川(幸夫=写真)は社会部長を経て動物作家になり、イリオモテヤマネコの存在を世に知らせた。塙(長一郎)は社会部記者からNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラーに。記者でありながら暴力団・関東松田組の参謀格となり相談役的な役割を担った。いまでは考えられない話である。(つづく)

2021年9月3日

Stay home中に、こんな運動はいかがでしょうか?

 コロナStay homeで運動不足解消に「体を動かしましょう」の特集が各紙に載っている。「筋肉は裏切らない」の近畿大・谷本道哉准教授、フィジカルトレーナーの中野ジェームズ修一さん、大坂なおみ選手のフィジカルトレーナー中村豊さん、「きくち体操」の菊池和子さん……。

 図書館で毎日新聞のバックナンバーを検索していたら、96年前の大正14(1925)年1月20日付「大阪毎日新聞」(毎日新聞の前身)に「都会生活者の福音/疲れを忘るゝ 新しい室内運動法」が写真入りで載っていた。

 運動は全部で3つ。

 1 写真右上「からだをまげ手を足につけて」

両脚を開いて前かがみとなり、右手を左足のくるぶしに触れる。次に左手で右足のくるぶしに触れる。これを繰り返す。「疲れを覚えるまで続ける」。

 2 写真中央「両腕をのばしてからだを右へ左へ前へ」

両脚を心もち開き両手を開いたまま両腕を頭の上にまっすぐ挙げる。そしてそのまま半弦を描くつもりで上体を左に、前に、右に傾ける。

 3 写真左「威勢よく股を開いて脚をのばす」

後頭部に両手をあて、腰や背を曲げないで先ず左足を横へピンとはねだし、次に右足をはねだして、室の一隅から他の一隅へ歩くのです。

 結構キツイですよ。試して下さい!

(堤  哲)

2021年8月30日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑤

中村紘子さん

NHK交響楽団とともに初の海外ツアーに参加した1960年の和服姿

  昭和二十三年春、僕は渋谷区にある私立小学校に入学した。その年から男女共学になり、二クラスが三クラスに広がった。一貫教育の学校は、同じ敷地に中学が併設されていたが男子校だったので、物珍しさもあってお兄さんたちがのぞきに来た。

  三年経って迎えた新入生に中村紘子さんがいた。ピアノに優れた才能を示し、全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国優勝。「赤屋根」と呼ばれる木造の講堂でリサイタルを開いたのでみんな知っていた。ぽっちゃりとした顔立ちだったので、僕たちは彼女を「白ぶた」と呼び、習字の筆を洗ったバケツの黒い水を、彼女にかけたりする悪さをした。

  時は流れる。僕は入社試験に挑戦する。なにしろ受験戦争とは無縁で育っただけに、どんな準備をしていいかわからない、ただ新聞だけは隅までよく読んだ。作文は自信があった。題は「水」。前年に東京の水がめが干あがって給水制限になった。社の作文は毎年「木」とか「火」とか、誰にでも書けるテーマを題にしていたから、今年の題は「水」だろうというヤマが当たったわけだ。

  常識問題の中に「中村紘子」というのがある。社の事業の中から、一つに絞って出したのである。中村さんは、前年にポーランドのワルシャワで開かれた第七回ショパンコンクールで四位に入賞。彼女が小学生の時に学生音コンで優勝したことにちなんでの出題だった。

  中村さんのショパンコンクール入賞は大きな話題となった。友人や彼女のファンを中心に「中村紘子を励ます会」が結成された。僕もメンバーに加わった。その最初の会で、僕は「白ぶた」の話をした。「何よ、あなたたちだったの」と彼女は驚いた表情を見せたが、それをきっかけに友達になった。

  彼女は表参道のマンションに住んでいた。十畳くらいの練習室にはグランドピアノが、部屋からはみ出すように置かれていた。ピアノが弾け僕だが、クラシック音楽には中学の時から親しんでいたので話は合った。いろいろな音楽家が音合わせに来るたびに、彼女は僕を招いた。生で音楽を聴くのは、初めての経験だ。彼女は母上とおばあちゃんと住んでいたが、「今日は誰もいないんだ」という日には、渋谷の「東横のれん街」で食料を買い込んでは、彼女は手際よく料理を作ってくれた。箸休めは彼女の弾くモーツアルトやショパンだったりした。

  ところで彼女の演奏を、目と鼻の先で聴いた男が社に一人いる。宇都宮支局で後輩の平山昭男君である。彼は東大法学部の出身。司法試験を受けようとして、試験がすでに終わっていたことに自宅で気づいたそうで、代わりに社の試験を受けたというツワモノだ。久しぶりに一緒に飲んでいると、彼は「中村紘子が弾くベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』が聞きたい」と急に言い出す。電話をすると彼女は起きていて「どうぞ」と言う。驚いたのは平山君だ。夜も更けていたが彼女は、ウイスキーをごちそうしてくれた。演奏は三十分ほど続いたが、ふと平山君を見ると、すやすやと眠っている。僕は恐縮するが、中村さんは「札幌の演奏会で、最前列のお客さんがお煎餅をポリポリかじったことがあったわ」と笑っていた。

  五年前の七月二十六日、朝の五時。ラジオは中村さんの訃報を伝えた。「エッ」と思う。大腸がんだったそうだ。前の日には自宅に帰り、夫君の芥川賞作家・庄司薫さんとお祝いをしたばかりだった。追悼番組で聴く晩年の彼女の演奏は、華やかさが消え、静謐な世界をさまよう境地にあったように思える。

 (つづく)

2021年8月27日

倉嶋康さんのFacebook連載に記者たちの写真

 昭和35年4月16日静岡県稲取で発生した伊豆急トンネル落盤事故の取材スタッフ。

後列左から3人目ニノさん(二宮徳一)、一人置いて倉嶋康さん。その真ん中は井上七郎さん?
倉嶋さんの写真説明は、真ん中が丹羽郁夫とだけ。左は黒崎静夫、右は桜井邦雄さん?
社会部筆頭デスク立川熊之助(昭和38年8月異動で大阪本社社会部長)。その隣?その前佐々木叶さん?
デスクとサブデスク? それとも遊軍
左端倉嶋さん。1人置いて前田利郎さん。その右2人?
御巣鷹山日航機墜落事故(昭和60年8月12日)時の長野支局。倉嶋支局長の前に森国郎次長。
地方部取材課の記者たち。左から2人目が倉嶋さん。
石谷竜生さんと思ったけど違いますね。
有楽町駅前にあった毎日新聞東京本社。右側に「有楽町で逢いましょう」そごう百貨店(昭和32年開店)。

 どなたか、写っている人の名前が分かったら、教えてください!

(堤   哲)

2021年8月26日

同人誌『ゆうLUCKペン』第44号に原稿を! 〆切は11月11日

 1978(昭和53)年5月に『有楽ペン供養』として創刊した毎日新聞現役・OBの同人誌『ゆうLUCKペン』。来年2月発行の第44号の原稿を募集中です。

 執筆要項を添付します。テーマは「俺とスマホ 俺のスマホ」となっていますが、題材は自由、何を書いても構いません。

 締め切りは11月11日(木)。分量は400字詰め最大20枚、8千字としていますが、これより長文の力作が過去いくつも掲載されています。

 創刊号に載った発刊の趣旨を再録します。中西彦四郎さん(90年没81歳)の発案です。

 《人間、還暦を迎えるころになると過去を振り返り何か書き綴りたくなる。よく言えば還暦文学と呼ぶ。悪く言えば年寄りの懐古趣味ということになるが、生き残った私達が懐かしい思い出の一端でも綴って感慨を新たにして故人の冥福を祈りたい。……記者になって駆け出しの時代、あの時の苦労や、あの戦争の激動期の体験、思いは尽きない。これらを書いて小冊子にまとめてみたいと企図し、ここに提案する次第である。還暦文学ならぬ還暦聞学(新聞の聞)と死を共にしてきた今は亡き先輩や同僚の冥福を祈るために“有楽ペン供養”とした》=第41集(2019年2月刊)の編集後記から。

 皆さんの積極的な参加を期待します。

(堤  哲)

2021年8月26日

「帝国の墓場」ロンドン特派員だった中井良則さんの「1989年カブール取材記」

国際面に掲載されたアフガニスタン報告(1989年3月27日朝刊)

 大事件があると、マスメディアは過去の似た事件と比較します。アフガニスタンの首都カブールが2021年8月15日、タリバンの速攻により陥落した時、アメリカの新聞・テレビは一斉に1975年のサイゴン陥落の映像を流しました。大国アメリカが遠く離れたアジアの小国に介入し、引くに引けず、敗れて、混乱の中、去っていく。アメリカのメディアは46年前のベトナム戦争が同じ構図だったことを覚えていたのでしょう。

◆「カブール? まあ行っていいよ」◆

 私が思い出したのは1989年3月のカブールでした。アフガニスタンを10年間占領したソ連軍が撤退し、傀儡政権が取り残された首都に入ったのでした。当時はロンドン特派員で、在英アフガニスタン大使館で、なぜかビザが取れました。東京に出張を申請すると「カブール? まあ、行っていいよ」となり、ニューデリーで飛行機を乗り換えて標高1800メートルの高原にあるカブールに着きました。ソ連軍撤退は日本でも大きく 報道されましたが、その後は目立ったニュースもなく、アフガンは紙面から消えたころです。東京のデスクの「まあ、行っていいよ」の裏には「記事になるのかね」という疑いがひそんでいたことは、いやでも分かりました。

 日本も含め外国大使館、それに国連や国際機関の多くが軒並み撤退し、外国人はまずいません。ソ連軍が消え、国内各地でムジャヒディンと呼ばれたイスラム勢力の反政府ゲリラやら軍閥やら武装勢力が戦っていました。タリバンはまだ結成されていませんが、誰が誰と戦っているのか分からないほど混沌としています。ソ連に見放された政権が遅かれ早かれ、崩壊するのは目に見えています。かといって、きょうすぐに何か起こるわけではない。小康状態。嵐の前の静けさ。何か書くことあるのか、と東京が思うのも無理はないのです。

◆テレックスのカタカタで幸せに◆

 出張取材でまず確保するのは東京との通信手段です。当時、カブールで外国人記者が泊まれるのはコンチネンタル・ホテルだけでした。丘の上にぽつんと残るホテルに行くと、Intercontinental HotelのInterが削り取られていました。もとは有名な国際ホテルチェーンだったのが戦乱の中、ただのコンチネンタルになってしまったようです。外国人記者は6、7人いたでしょうか。日本人もいたけどA紙かY紙か、はっきり覚えていません。ニューヨークタイムズもいました。

 電話はかからない。食堂で出る食事は昼も夜もスバゲッティだけ。政府の報道担当者がいつもいるけど、何を聞いても「分からない」。そのうち、彼らは外国人記者にスパゲッティをおごってもらうのが主目的だ、と気づきました。インフレと食料不足が深刻でした。

 なぜわれわれ記者がこのおんぼろホテルに集まるのか。ロビーの隅にテレックスが1台あるからです。電話が通じないので、外への連絡手段はこのテレックスだけなのです。

 下手をすると記者たちの行列ができていて、いらいらしながら順番を待ちます。やっと自分の番になると、ローマ字で原稿を打ち、鑽孔(さんこう)テープを作る。次にカブールのどこかにある電報局をキーボードをたたいて呼びだす。東京の新聞社の番号を指定してつないでくれるよう頼む。これがなかなかつながらない。電報局の見知らぬ誰かの機嫌が悪いのか、機械の調子が悪いのか。やっとつながると、細長いテープを機械にかける。カタカタと流れていきます。このカタカタの音で幸せになれたものです。

 東京本社の受け手のテレックスで受信した同内容のテープはローマ字原稿の紙となり、円筒に入って編集局の天井をはう気送管で送られ外信部に落ちる。アルバイトがローマ字を日本語に直し(「翻訳」と呼んでいました)、デスクの手に届く、という仕組みです。まだ、テレックス回線はつながっています。

 たまにデスクが暇か、善き人であれば、「元気か」のひとことがカブールでテレックスをにらんでいる私に届く。何も言っていこないので、「外信デスクに連絡ないか聞いてくだい」とテレックスをたたくと、しばらくして「特になし」で回線が切れる。がっくりです。

 ニューヨークタイムズの記者がいたことをなぜ覚えているかというと、彼は時差の関係もあり夜遅く、長い時間、テレックスを独占する。ニューヨーク本社からは、記事の扱いだけでなく、紙面の主な見出しが送られてくるそうです。もちろん、デスクともテレックスで会話する。それに驚いたわけです。

 こちらは自分の送った記事が載ったかどうかも知らされず、闇夜に鉄砲の毎日でしたから、「やっぱりね、違うね」といじけたものです。

 外信部でもテレックスを使った最後の世代か、と思います。

◆忘れられた戦争◆

 砂かほこりかザラザラした記憶があるカブールの街を歩き、取材しました。残留した国際赤十字委員会が運営する外科病院も訪ねました。この委員会で聞いた言葉があります。「ここは忘れられた戦争になる」。2001年、アメリカで同時多発テロ事件が起こり、アフガン戦争が始まった時にワシントンにいた私は、思い返すことになります。

 ソ連が占領していた間は国際ニュースとして世界でアフガンは報道されました。ソ連が撤退し、アフガン人同士の内戦になれば関心は薄れます。「世界が忘れてしまった戦争は現に、あちこちにある。外国人はやってこないし、記事にしない。でも人々は傷つき、苦しんでいる。この国も世界から忘れられてしまう」。彼はたんたんと話していました。

 アフガンで何が起こり、だれが権力を握り、人々の暮らしがいかに変わったか、世界はソ連撤退から10年以上忘れていました。そして同時多発テロで、地球儀を見直してアフガンを思い出したわけです。

 テロとの戦いと民主化を大義名分として、アメリカやNATO諸国はアフガニスタンに兵士を送り込みました。「最も長引いた戦争」にうんざりし、ビンラディンを殺害したあとはアフガンは視界から遠ざかりました。自分たちが育てた政権と政府軍がある日、消えたと知り、もう一度、地球儀を回してアフガンがどこにあったのか探したことでしょう。

 いまの撤退に伴う混乱が収拾されると、また世界はアフガンを忘れてしまうかもしれません。

◆もうひとつ追加された「帝国の墓場」◆

 カブールで誰かから聞いたのか、何かで読んだのか、覚えている言葉があります。

 「graveyard of empires 帝国の墓場」です。アフガニスタンに侵入した大国は、この土地と人間を意のままにできるとうぬぼれるが、やがて抵抗され、力尽きて退場する。その歴史をさす言葉です。今回、調べ直しましたが、だれがいつ言い出した言葉か分からないようです。

 empiresと複数になっているのがミソです。もろもろの帝国とは?

 1979年から89年までのソ連、2001年から2021年までのアメリカはすぐに思いつきます。それだけではありません。紀元前4世紀にはヨーロッパ・マケドニアからアレクサンドロス大王が、13世紀にはモンゴルからチンギス・ハンが侵攻し、引き揚げました。19世紀には、南下政策のロシアとインド帝国拡大をめざすイギリスがぶつかるグレートゲームの舞台となりました。外交権を奪い保護国としたイギリスは3次にわたるアフガン戦争で疲れ果て、1919年、独立を認めて手を引くしかありませんでした。

 2021年のカブール陥落は、アフガン史からみれば「墓場」の長いリストに、また一つアメリカという国名を追加したことになります。

◆「カブール息ひそめる日々」◆

 1989年のカブール取材は1週間ほどでビザの期限が切れて終わりました。テレックスの順番待ちでやっと送った原稿もほとんどボツの山でした。国際面のアタマでかろうじて1回だけ扱われた記事の切り抜きを見つけました。

 「カブール息ひそめる日々 第2のサイゴン …おののき」の見出しがついています。当時もベトナム戦争のアナロジー(類推)が成り立っていたのです。そしていま、タリバンに見つかることを恐れ、隠れ家に潜む人々の「息ひそめる日々」が早く終わることを願います。

 次の帝国が別の地から逃げ出す時は「第2のカブール」と呼ぶことになりそうです。

(中井良則 2021年8月25日 記)

※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職

 

2021年8月24日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」④

飯島オーナー

 夕刊社会面に「赤でんわ」というコラムがあった。朝の十時にサブデスクが「赤でんわ、ある?」と聞いてくる。このコラムは地方支局などから上がってきた、ほやほやの社会部員を警察に張りつかせ、記事の書き方のイロハを鍛える場に使われた。

 歳を取ってから社会部員になったので、僕の受け持ちは一方面。銀座、赤坂、六本木など話題の宝庫である。記者のたまり場は丸の内署だ。朝日は東大法学部卒の青年、東京は同大国文学科卒と、みな立派な経歴の持ち主だったが、いたって和気あいあいの仲良し。拘束時間が解ける午後十時を過ぎても、赤ちょうちんで下世話なおシャベリにふけっていた。

 その日は単独行動と決め込んで銀座の裏通りを歩いていた。すると女子大生と思しき集団が、アルミホイルに包んだ何かを地面に置いて回っている。「それ、ナニ」と聞くと「アジの煮つけです」と答える。近くのビルのオーナー飯島美奈子さんから頼まれたバイトなのだそうだ。早速、ソニービル近くの女性専用の喫茶店に飯島さんを訪ねる。

 銀座生まれの銀座育ち。銀座をこよなく愛している。ところが最近の銀座は、ネズミがはびこって不潔だから、のら猫に退治してもらおうと、エサをやっていたそうだ。初めは飯島さん一人で雨の日も風の日もエサやりを続けた。二十五か所のえさ場で百匹を超すのらが待っている。一匹ずつ名前をつけて話をしながら回る。

 飯島さんは言う。「三匹以上の子どもを産んだのらを見たことがありません。しかも、一匹ぐらいしか育たない。長生きしているのらで五年。たいていは一年か二年で死んでじゃいます。子どもの数も少ない。だからえさをやっても増えません」

 僕はすぐ「赤でんわ」に書いた。反響はそこそこあった。女性週刊誌も取り上げた。だが飯島さんは、ちょっと不機嫌だ。いつもアジを仕入れている魚屋さんに行ったら、「また、のらにやるんでしょ、って言われちゃった」。

 飯島さんは大金持ちだ。ビルを何軒も持ち、有名なクラブのオーナーである。アルコールは全くだめ。ウーロン茶でごまかす。

 銀座四丁目の交差点の真裏にあった会員制クラブ「百合」は、十一人が座ると満員になる。十二人目の客が来ると、一番早くから飲んでいた客が席を立つことになっている。メンバーは各界の名士が素顔で訪れる。僕は飯島さんのお蔭で入会を許してもらった。最年少ではなかったか。

 ママは坂本百合さん。群馬県高崎の産で、高校を卒業して上京、証券会社のOLになった。その間に、売れっ子の直木賞作家と恋に落ちる。銀座に小さくてもいいから店をもちたかった百合さん。作家との関係を切ろうと申し出る。すると作家は彼女に示談金を要求してきたのだ。気持ちは決まっている。すぐに飯島さんに泣きつき、大金を借りて作家に突きつけ、関係を切った。あっぱれだった。

 「百合」は、もうない。店いっぱいに広がるユリの花の残り香が、心に漂うばかりである。

 銀座が今のような外国有名ブランドの街に変わり始めた頃、飯島さんは若い人の街を目指していろいろな企画を立て、実行に移していった。毎年大みそかに行われた「大学演劇祭」もその一つ。全国から大学演劇部のメンバーを集め、日本一を競い合うという壮大なスケールの催しものである。毎年審査員は変わったが、僕はレギュラーを務めさせていただいた。まだ売り出し中の漫画家でタレントの蛭子能収(えびす・よしかず)さんの顔もあった。学生らの迷?演技に笑いこけて、話をする暇はなかったが、好感の持てる人と思った。

楠本健吉さん

 タウン雑誌の発行も思い出に残っている。バイトの学生たちが選ぶ人にインタビューするのが常だったが、僕は近代俳句の旗手・楠本健吉さんを提案した。楠本さんは灘中学で遠藤周作さんと同級だった。生家は料亭「なだ万」である。

 暑い夏の日が落ちるころ、楠本さんは現れた。汗を拭きながら楠本さんは口を開く。「新宿でパチンコをしてね、ぶらぶら歩いてたら制服の女子高生に声を掛けられた。『おじさん遊んでかない』って。赤いシャツを着てたんで目立ったんだろう。都立の高校に通ってるらしい。咄嗟なことに返す言葉がなかったけど、ここは落ち着いて、君、自分を大事にしなきゃ、と言ってパチンコで儲けた五百円を渡して別れたのさ」。

 出鼻をくじかれたが、一夜漬けで頭に入れた近代俳句までたどり着いて対談を終えた。そして雑談になり戦争の話題になる。僕が「われわれが、かろうじて戦争の記憶がある年代です」と言うと、楠本さんは「戦争に行ったか、行かなかったは大違い。行かなかった人には判らない」と即座に切り返された。そう言い切る人がまだいた時代である。

楠本さんの秀句

 汝が胸の谷間の汗や巴里祭
 郭公や過去過古過去と鳴くな私に
 失いしことば失いしまま師走

(つづく)

2021年8月20日

思い出すままにーー森桂さんの「つれづれ抄」③

コバちゃん

 何でも占領軍の払い下げの時代だった。社の車はアメ車だったし、パンツなど下着までもが当てがわれた。そんな時「三きたな」と呼ばれた三人の記者がいた。「きたな」とは汚いを指す。その一人が古波藏(こはぐら)保好さんだ。

 紙のパンツを避け、自前のパンツをはいていたのだが、周囲が不潔な生活をしている男と勝手に思い込み、不本意なあだ名がついてしまったらしい。

 名前で想像がつく通り、琉球国朝廷の末裔だ。誇りをもっていたから、昨日の敵に従いたくなかったのだろう。沖縄日報の記者から当時の大阪毎日新聞に入り、東京本社の社会部記者を経て論説委員を勤めた。福湯豊さんらと並んで名文家で知られた。敗戦の一年後には、密航船で沖縄にわたり、悲劇の島をルポしている。

 古波藏さんの身のこなしは格別だった。七二年には第一回のベストドレッサー賞(学術・文化部門)を受賞したほどである。パートナーはファッションデザイナーの鯨岡阿美子さんだから、男のおしゃれは身について当然だ。

 亡くなる一年ほど前、六本木に近いお宅を訪れた。「起きてみると、すぐ横で阿美子が息絶えているのにはびっくりした。僕も去年、吐血して死にかけたけれど、阿美子が守ってくれたんだと思うよ」と語っていた。

 一度だけ夜更けの六本木の通りを、最愛のパートナーと手を組んで散歩する古波藏さんの姿が忘れられない。

 僕がデスクをしていた「毎日中学生新聞」に連載のお願いをした、原稿が手許にあったので紹介する。

大男の強盗しきり

 「――日何時ごろ、ナニ町何番地某方に大男の強盗が押し入って「云々」という記事がよく新聞の社会面に出た」。

 

 廃墟となった街は、日が暮れると暗ヤミとなり、何が出るかわからないという気味悪さである。あちこちにションボリと街灯がついていたと覚えているが、照らす範囲はきわめて狭かった。暗くなりだすころから、人々は家路を急ぎ、あとはどこもかもシーンとなる。

 廃墟のヤミで、おそれを知らないのは、強盗くらいだったのではなかろうか。特に大男の強盗にとっては、コワイものなしだったはずだ。

 外地からやっと引揚げて、毎日新聞社の社会部記者に復帰したばかりのわたしは、「大男の強盗」という意味するものがわからず、「この二、三日しきりの大男強盗の記事が出ているが、同じヤツが荒らしているのかね」と同僚にきいたら、相手はニヤニヤと、「アタマをはたらかせろ。数知れぬ大男が今の東京にはきているんだ」と答えたのである。

 やっと察しがついて、「だとしたら、どうしてハッキリと占領軍のGIらしいと書かないんだ」といえば、「引揚げてきたばかりのお前には、まだ被占領国の弱さがわかっていないんだ」ということだった。

 民家に押し入った強盗が占領軍のGIだと明らかになっているのに、つねづね公正な報道をうたいあげている新聞が、奥歯に物の挟まったような表現をしたというのは、被占領国新聞の悲劇――ではなくて、むしろ喜劇だったとみていいだろう。

 GIとハッキリと書かないで、GIと感じさせるにはどんな言葉を使えばいいか、といろいろアタマをひねったあげくの「大男」なることばをヒネリだすまでの苦心が察しられて、なんとなくおかしくなってしまうのである。

 日本人にも大男はいるのに、こっちの迷惑は同胞のよしみで――ということだ。

ある教師のお弁当

 ある日、わたしは、取材のためだったと思う、神田の小学校へいった。職員室に通されて、椅子を与えられたのだが、ちょうど昼休みで、先生たちが弁当を食べはじめている。

 わたしの目近でも、先生のひとりがアルミニューム製の、やや大きめの弁当箱をひらいて食べはじめた。なんとなくわたしの視線がその弁当箱に向く。

 この弁当箱の中に詰められていたものを、わたしはいまもアリアリと覚えている。

 ふたを抑えつけるようにして、ギッシリと詰められているのは、青々とした菜っ葉だった。

 ご飯は、と見れば、箱の隅に、つまりはこの中を六つに仕切るとしたら、その一つに相当する量が白く輝いているに過ぎないのである。

 かつて弁当箱のフタをとれば、白いご飯が多くの面積を占め、オカズは小箱の中に――というのがふつうだった。その先生が持参している食事はアベコベだったわけだ。

 あまりにも青々としている菜っ葉は、当時軒先きに少しの土でもあれば、食べられる野菜をつくるということが習いとなっていたので、先生の弁当箱に満ちているのも、小さな菜園からの取り立てだったのであろう。

 新鮮には違いなかったが、あぶらで炒めたのではなく、サッツと茹でただけのようだということは、色の鮮やかさで感じられたのである。

 先生は青い菜っ葉をよく噛んでた。よく噛まないと、繊維だらけの菜っ葉はなかなかノドへ通るものではない。いつ食べ終わるかと気になるくらいシッカリと噛んでいる。そして白いご飯にはなかなか箸をつけなかった。

 あのころ白いご飯のことを銀メシ、あるいは銀シャリといって尊重していたのだが、弁当箱の片隅で光る白いご飯は、最後の楽しみにトッテオキということらしかったのである。

ラク町ファッション

 有楽町はラクチョウ、銀座はザギン、上野はノガミと言われるようになって、東京の由緒ある町が格落ちした。いわゆる「パンパン」やヤクザのアンちゃんたちが使う隠語を、堅気の衆までおもしろがって口にするようになったのである。食べるものをちゃんと腹に入れて、フテくさったあげくの元気いっぱいに見えるのは、彼女たちと彼らだった。

 「パンパン」とはオカネとひきかえに、からだをまかせる女性のことだったが、はじめて現れたこの言葉は、どこからきたのだろう。

 戦争の末期、台湾の海軍基地に報道班員として滞在していたころ、水兵たちの会話に「パンパン屋」という言葉が出るのを聞いた覚えがある。もちろん男たちの欲望を次々に処理する女性のいる家のことだった。しかし水兵たちがどこでこの言葉を覚えたかということになると、もうわからないのである。

 いずれにしても、「ラク町」にたむろする彼女たちは、はじめ惨めな姿だった。着古したモンペ、父親のお古とおぼしきズボン、布地の織目がゆるんだスカート、ロクに食べていない顔の色が哀れで、不敵な面構えならまだしも、つつましくマジメに戦時中を暮らしてきたのではないかと思われる若い女性もいた。

 化粧といえば、やっと手に入れたルージュを使っていると感じられるだけだったのが、みるみる真新しい花柄のワンピースを着て、カチーフで顔を包むなど、姿がキレイになり、悪びれなくなったのである。

 風呂敷くらいの大きさがあるカチーフは、花をプリントしてあったり、これを三角に折って、折り目を額の上に当て、下にさがる両端をアゴの下で結ぶというシャレッ気は、米軍基地で暮らすGIの女房たちからの見よう見まねだったのであろう。顔がカチーフで囲まれると不思議に美人らしくなるため、堅気の娘たちまでがマネをして、ファッションの第一号となった。

(つづく)

2021年8月18日

吉田ハムさんがガリ版を切った同人誌「五番線」創刊号

 経済評論家・鈴田敦之さんが連絡部時代の先輩・吉田公一さん(2021年7月12日逝去98歳)を偲んだ追悼録。同人誌「五番線」の詳細が吉田勉編著『新章九十年史』(自費出版1989年刊)にあった。

  昭和26年6月9日―電話通信課同人誌『五番線』創刊号発刊。

  「どうやら誕生のうぶ声を挙げ得たということを皆様と共に喜びたいと思います」(吉田公一)——昭和31年12月発行の第8号まで続き、社内の注目を集めた。

  創刊号はガリ版刷り。吉田ハムさん(社会部では吉田姓が他にもいたので、ハムさんと呼んでいた)がガリ版を切った、とある。

 9月18日に第2号。「よし、3号も、という気になります」とあとがきにハムさんが書いているが、12月に発行した第3号の編集責任者は坂本充郎(のち政治部、地方自治専門)鈴田敦之、青木茂の3人にバトンタッチしている。出しゃばらないハムさんらしい。

 『新章九十年史』には「五番線」全号の目次と、主だった原稿が採録されている。残念ながらハムさんの文章は載っていない。

 その代わり89年4月3日勉さんに届いた手紙が採録されている。

 ハムさんは1947(昭和22)年12月入社。61(昭和36)年4月内信部。71(昭和46)年2月社会部。77(昭和52)年新社発足に伴い退社。

 《29年11ヶ月の在社を、前中後期と分けると、前期の連絡は約13年いた。当たり前のことだが、青春時代であり、仕事も遊びも思い切ってやれた》

 《社会部時代で楽しかったのは、浅草の東支局の5年間だった。染太郎のおばちゃん、神谷バーの渋谷支配人など、下町の心のふれあいがうれしかった。あの昭和50年前後、東支局から出稿した街ダネには「また〇〇が消えていく」という歴史・人情ものが多かった》

  いつもニコニコ、温顔で怒った顔を見たことがなかった。

 『新章九十年史』を制作・発行した吉田勉さん(2003年没70歳)。1988(昭和63)年2月1日に毎日新聞社が速記を廃止した年に定年退職した速記者で、東京本社連絡部にあった昭和6年から42年までの3冊の部内連絡帳を、習い始めのワープロで打ち込み、それ以前の電話電信、速記史をまとめた。B5判、本文745㌻の大部なものだ。

 速記の廃止に伴い《さよなら「電話速記」》を「記者の目」に書いた。

 速記が新聞に導入されたのは、1899(明治32)年2月1日で、その生みの親は、当時の大阪毎日新聞社長の原敬(のち首相)だった。

 速記者の特ダネとして、1950(昭和25)年3月1日、当時の池田勇人蔵相(のち首相)が国会で「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」と発言した。それを速記録から起こして紙面に掲載、特ダネとなった。速記録が動かぬ証拠となったというのだ。もっとも池田蔵相の放言としては、その年12月の「貧乏人は麦を食え」の方が有名だが。

(堤  哲)

2021年8月17日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」②

二つの選集

前列左から2人目=重光葵大使、後列左から5人目=森正蔵氏。1939年ごろ、モスクワ大使館公邸で

 外国から帰って何回か引っ越しを重ねた。そのたびに物を整理したが、今でも手許に置いている選集がある。谷崎潤一郎と井上靖の文豪作品だ。どちらも昭和二十年も半ばの出版で、父は敗戦直後の新聞社で社会部長の職にあった。すべてがまっさらな社会。どんなことでも書ける。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の厳しい検閲が待っていたものの、輝かしい未来を予言する社会面づくりに全力を費やした。GHQで働くタイプライター嬢、上野の地下道で生活する少年たちなどを描いた連載「東京24時間」は、読みごたえがある。

 そこに昭和二十三年、思わぬ異動の話が持ち上がる。出版局長への転出である。生涯一記者を志していたので、この職には熱い意義を感じていた。部内にも残留を求める同輩が少なくなかったという。だが父は、あえて出版の道を選んだ。大学でロシア語を専攻し、ゴーリキーやトルストイなどの文学に親しみ、一時は小説家を志望したほどだから、思うところがあったのだろう。

 世の中は出版ブームにわいていた。だが紙がない。その点、新聞社は製紙会社とは縁が深い。GHQとの交渉次第で紙は、そんなに苦労しなくても手に入る。出版局にも日の目が来る時だと考えた。

 最初に思いついたのは谷崎さんへ新作を依頼することだった。谷崎さんとは京都支局時代からの知己であった。「少将滋幹(しげもと)の母」を書いてくれることとなった。これは王朝物の時代小説。戦後の谷崎文学の傑作の一つで、多くの作家や文芸評論家から賞讃された作品ある。作者自身の幼い頃の母の記と、永遠の女性像を二重写しにしている作品でもある。

 新聞連載が終わり、豪華本の型見本が出来上がった。装丁は安田靫彦(ゆきひこ)。当時としては珍しいカラー印刷だ。

 それを熱海の谷崎さんに届ける日、僕は父から「今日は偉い先生にお目にかかるのだから、大人しくしているんだよ」と諭された。会社から車が迎えに来た。連合軍から払い下げられた米国製のシボレーである。右側の助手席にはおかもちに入った新鮮な魚が飛び跳ねている。食通の谷崎さんに食べて頂こうと父が築地の河岸から取り寄せたものだ。

 伊豆山の谷崎邸に着いた。谷崎さんはにこにこと僕らを迎えてくださった。谷崎さんは「今どき上出来ですね」とご満悦だったいう。だが小学生の僕には、二人の会話はさっぱり分からない。十分もしないうちに、僕は運転手さんの元へ戻り父の戻るのを待った。父から言われた「お暇をする時は、お座布団を裏返して」という言いつけを守って…。父はその日の日記に

 「大作家に会ったことを、どれだけ覚えてくれるだろうか」と記している。

 父の命日の一月十一日は、毎年かつての同僚が夭折した父をしのんで酒を酌み交わした。その宴は三十三回忌にまで及んだ。いま、その寄せ書き帖が残っている。「森は生きている」といった揮毫のなかに「井上靖」と名前だけが、遠慮がちに記されているのが目につく。

 戦争が激しくなり情報源が東京に集中したこともあって、腕利き記者が東京に集められた。井上さんは大阪本社へ入社、学芸部に配属された。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。玉音放送の時も東京社会部にいた。 

 そして社会面を埋める原稿を書く。


 頭を挙げ得るものは一人もいない。

 正午の時報がある。ついで君が代の曲が奏でられる。敵弾に破られまさに沈み行こうとする艦の上で聞く君が代にも等しい。

 その曲が終わる。そして「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み……」拡声器から流れる玉音である。畏れおおい。無念だ。誰もの目からは降り落ちる涙、そしてやがてそこからもここからも聞こえてくる嗚咽。それがだんだんと繁く大きくなって来る。地でまろどんで慟哭したいところを一心に我慢しているのである。そして御一言も聞き漏らすまいと皆が努力している。玉音にも御うるみが拝されるではないか。ああ何たる畏れおおいことか。御放送は終わった。


 それから五年。井上さんは「闘牛」で芥川賞を受賞した。土佐(高知県)を舞台にした、闘牛の興行師と地元新聞記者の物語である。正賞はスイス製の懐中時計、副賞は五十万円だった。大学の初任給が四千二百円、ラーメンが一杯二十円の時代である。いまのように高い賞金や豪華な賞品がつく賞などなく、芥川賞は地位と名誉を象徴する存在だった。だから周囲の妬みや羨望は、考えられないほど強かった。

 井上さんも、その淵に立たされた。悩んだ末、井上さんは父に相談する。父は「次の作品ができるまで社に留まるように」と、出版局付きという席を特別に設けて、井上さんを守った。井上さんは下山事件を題材にした「黯(くろ)い潮」で、毎日の記者たちを描いているが、あくまでもノンフィクションの世界でのことだ。芥川賞を受賞したころの気持ちが残っていないのは残念だ。

 以下は、父森正蔵が出版交渉に谷崎邸を初めて訪れた時の日記である


 昭和二十五年八月二十日(日曜日)  雨  ― 熱海へ、雪後庵訪問 ―

 家を出る時には降っていなかったが途中で雨となった。東京駅の東口に自動車を降りてみると、出札口の前は一ぱいの人だかり。とても順番を待っていては切符を買うことが出来ないので、一番先頭にいる学生に頼んで、熱海までの一等の切符を一枚買って貰って、ようやく発車の間に合う。私の乗る九時五十五分発の電車はすでに大変な混雑である。こうなれば二等も三等もあったものでなく、その混雑は新橋、品川あたりからいよいよひどくなったが、藤沢を過ぎると、また幾分かやわらいだ。十二時過ぎじゃんじゃん雨の降る熱海駅に着く。そこで谷崎潤一郎氏の秘書の小滝に会う。同じ電車に乗っていたのである。

 駅前で自動車を雇う。これがまた大変である。後で谷崎氏とも話したことだが、これは観光地熱海の大きな欠点である。自動車は次ら次へと来るのだが、各旅館の客引き男に横取りされて、それぞれの旅館に泊まる客がそれに乗って先に行ってしまう。旅館につながりのないわれわれのような旅行者は待てど暮らせど、自分の乗れる自動車を掴まえることは出来ないのである。それでも半時間も待ってやっと一台を手にした。つまり旅館行きの客が一通りさばかれた後である。

 谷崎氏の新居雪後庵は仲田と言うところにある。誰かの別荘を買ったもので、「細雪」の出来た後の住居であるというのが、雪後庵の名の来るところだという。きわめて狭い玄関、靴を脱ぐと、そこに小さな卓と小倚子三、四が置いてある。同じく狭いまく雑巾がかけられて、艶の出た廊下を通って突当りを右に折れると六畳の日本間になる。そこへ通された。客間であろう。左手の上席に私が座り、谷水、小滝がこれに続く。部屋にはマホガニーの木目の美しいピアノが置いてあった。天井の低い数寄屋造りの一室である。中央にかなり大きな木の卓、水色の麻の座布団。庭も狭い。そして余り手の入った跡もない百合の花がしぼんで、降る雨に打たれていた。

 隣が茶の間らしく、昼食の後でもあろうか、食器を取り片づける音が聞こえていたが、やがてその部室のあたりから主人が現れた。薄い麻の関西ではジンベという丈の短い着物を着ている。挨拶が終わるなり「少将滋幹の母」の話に移った。小滝が今日も装幀本を五冊提げて来た。谷崎氏は非常な喜びかたで、この本の出来栄えを誉めた。戦前にもこれくらいの本は出たことがなかったと言っている。慾を言えば本文の印刷がもう少しうまく行ったら ― と思うと言った。そして函にもう少しゆとりがあった方がよかったとも言った。京都でこの本の見本刷一冊が届いた時に舟橋聖一が来ていたが、大そう驚いていた。舟橋と一緒に来ていた舟橋の娘が「お父さんの本は何だってくだらぬ装幀ものばかりなんでしょう」と言ったのに対して舟橋は、何の言葉もよう出さなかったそうである。「少将滋幹の母」は今度「東おどり」で上演されることになっていて、その脚色を舟橋が引き受けている。今晩はそれについての打合せのため舟橋に招かれているのだ ― と言っていた。それから話はいろいろのことに及ぶ。

 主人はもう一度支那に行きたいそうである。殊に北京で暫らく暮らしてみたいという。谷崎氏の作品を英訳したエリセーエフというアメリカにいる日本語学者のことにも及んだので、それは今東京のフランス大使館にいるエリセーエフの一族であろうということも話題となり、私がエリセーエフはモスクワの現在の第一ゴストロノム(註:百貨店)の前身エリセーエフ食糧品店の主人の一族であることを話すと、谷崎氏もそのことを知っていた。

 雪後庵では今、書斎の新築が進んでいる。ものを書くのに、家人との連絡を絶つが望ましいというところから、今建ちかかっている書斎は、他の部屋から直接行き来できないようになっている。一度庭下駄を履いて庭に降り、雨の降る日は傘をさして、そこへ行かねばならぬのである。

 話題はなおいくつもあった。尽きるところのない話である。主人は非常に満悦らしく実によく語り、私たちが帰るというのに、まだ帰らしたくないような様子に見えたが、二時間近くも喋ったので、自動車を呼んでもらって辞去することにした。夫人は何度も客間に出て来て茶菓を自ら接待してくれた。きれいな若い夫人だった。

(つづく)

 ※森桂さんの父、正蔵さんは明治33年7月滋賀県生まれ。大正13年大阪毎日新聞入社。ハルビン支局長、モスクワ特派員、大阪本社ロシア課長、東京本社論説委員を経て、昭和20年社会部長、編集局次長,出版局長、同26年取締役。同28年1月病没  著書『旋風二十年―解禁昭和裏面史』は昭和20年12月に発行され、満州事変など戦争中に国民に知らされていなかった事実を明らかにし、ベストセラーになった。写真は2009年に「ちくま学芸文庫」として復刻されたもの。

2021年8月16日

58年前、有楽町時代の社会部出番表があった‼

 社会部旧友・倉嶋康さん(88歳)はFacebookで、記者生活の自伝を連載している。そこに社会部の黒板の写真が載っていた。

 58年前の1963(昭和38)年5月23日(木)と24日(金)の内勤出番表である。むろん有楽町駅前に毎日新聞東京本社があった時代である。

 倉嶋さんは宿直勤務になっている。2方面(大崎警察署)のサツ回りだった。懐かしい名前ばかりなので、フルネームで再現してみる。

 まず黒板の左側から。

1963(昭和38)年5月23日(木)
デスク:夕刊=末安輝雄、朝刊=柳本見一
夜勤:藤原康彦、大澤栄作、植竹英樹
宿直:倉嶋康、大桶浩、太田稀喜
遊軍:浅野弘次、吉野正弘、吉沢敏夫、田中浩、中野謙二、丹羽郁夫、岩崎繁夫、小峰澄夫、吉岡忠雄
宿明:木下剛、中村均、近藤健
公休:浦野勝三、石谷竜生、浜田禎三

 次に右側。

5月24日(金)
デスク:夕刊=村山武次、朝刊=末安輝雄
夜勤:坂野将受、田中浩、山本祐司
宿直:吉沢敏夫、前田行男、堀井淳夫
遊軍:吉野正弘、浦野勝三、田中久生、小峰澄夫、吉岡忠雄、石谷竜生、浜田禎三、丹羽郁夫、飯泉栄次郎
宿明:倉嶋康、大桶浩、太田稀喜
公休:浅野弘次、中野謙二
備考:塚田暢利、原田三朗、堀込藤一=組合出張20~24日

 1日経つと、今度は左側に25日(土)の出番表が書き込まれる。

 私(堤)はこの年の秋に入社試験を受け、翌64年4月に入社した。初任地は長野支局だった。黒板にあるデスクの末安輝雄さん(49年入社。山内大介、渡辺襄の元社長2人、安倍晋太郎と同期)は、翌65年2月の異動で長野支局長としてやってきた。末安さんが横浜支局長になって、後任の長野支局長が村山武次さん(48年入社)、さらに一代置いて坂野将受さん(53年入社)、その後倉嶋さんも務めた。倉嶋さんは98長野冬季五輪を控え、スポニチの初代長野支局長に転進した。父親は長野市長2期、革新市長だった。

 社会部長はパリ特派員だった角田明さん。筆頭デスク立川熊之助さん。デスクは非番の佐々木武惟さんと出番表にある3人を含め計5人。

 警視庁キャップは藤野好太朗さん。実家の浅草寺仲見世・煎餅かわち屋は今も営業している。前任警視庁キャップの牧内節男さん(8月31日に96歳の誕生日を迎える。多分社会部旧友会最長老)は遊軍長だった。「大阪社会部から東西交流で来ていた立川筆頭デスクは、この年の8月に大阪本社社会部長になった。その時、白木東洋(55年入社)と2人が大阪に連れて行かれた。私は大阪社会部のデスクとなった」といっていた。

 最若手は、61年入社の山本祐司さん。当時の社会部の名簿の右隣に60年入社松尾康二さん(84歳)。エビセンと呼ばれていたが、後にカルビー会長を務めた。

 62年入社の瀬下恵介さんが八王子支局、冨田淳一郎さん(82歳)が武蔵野支局に名前がある。

 ちなみに編集局長斎藤栄一、編集局次長滝本久雄、田中菊次郎、政治部長小林幸三郎、経済部長福井信吉、学芸部長村松喬、科学部長福湯豊、運動部長仁藤正俊、地方部長若月五郎、地方取材部長土師二三生、外信部長大森実、写真部長日沢四郎、論説委員長橘善守、副委員長藤田信勝、林三郎、山本正雄の各氏だった。

(堤  哲)

2021年8月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その15 子安観音の石像と女人講(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新

全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454520.html?fbclid=IwAR2GqTEL8F5um6L4WWsXfiPEb923rakaIlpQsWAubjWzNyVFfq29-TNNg_I

 わが家のおばあさんネコの掛かりつけの病院が、船橋大神宮(意富比神社)の近くにある。名前はサリー。もうすぐ16歳になる。「猫年齢早見表」によると、人間の年齢なら80歳に相当する。ひと月ほど前のことになるが、そのおばあさんネコが食事をとらなくなり、しきりになにか吐いている。ふだんよくみる毛玉ともちがう。妻も私も心配でたまらない。居ても立ってもいられなくなり、動物病院で診てもらうことにした。

 
薬師堂に祀られた子安観音の石像。船橋市宮本6-26

 昨年来のコロナ渦のあおりで、動物病院の館内に入れる付き添いは1人に制限されていたので、私は外で待っていた。隣は瓦葺き木造平屋建ての風薬師堂に祀られた子安観音の石像。船橋市宮本6-26情のある建物がしばらく前まで残っていた。米屋だったということだが、いまは有料駐車場になっている。その角を曲がったつきあたりに瓦葺き平屋の建物があり、切妻の壁に薬師堂と書いているのが見えた。薬師如来といえば、治病や延命の仏様である。さらに乳薬師とか夜泣き薬師などと称される変種もあって、安産や子育ての仏様として庶民信仰の篤い対象になってきた。

 行ってみると、お堂は鍵が掛かり、本尊も厨子の扉が閉じられていた。お賽銭をあげて、病院に戻ろうとして、お堂の手前に幼児に乳を飲ませる不思議な石仏像が祀られているのに気づいた。地蔵菩薩が幼児を抱いた石像は、いまでもあちこちで見られるが、その意匠とも明らかに違ったものである。

 近づいてよく見ると、仏は胸をはだけて乳房を露わにし、右手で幼児を抱き、乳を飲ませている。それにたいして、幼児の方は両足をふんばって胸元にしがみつき、乳房にむしゃぶりついている。仏が左手に持つのは、とうぜん、蓮の花だろう。なんという仏か分からないが、どこにもいるありふれた俗人女性の姿に化身して現われ、献身的に安産と育児を守護してくれているのであろう。

 仏が腰をおろす台座には「女人講中」とあるが、願主の個人名はない。そのほかに刻まれた銘は「天保十二丑(1841)年三月吉日」とあるのみである。改めて仏の顔に眼をやると、人前で平気で乳房を露わにする大らかさと裏腹に、うつむきかげんに目を伏せた表情は、どことなく憂いをおびて気高く感じられる。

 石仏像はこのほかに2基ある。隣の1基は銘もなにもないが、よくある弘法大師像である。もう1基は「上丁子共(上町の子ども)」とあることから、地蔵菩薩ではないかと思われる。そのさらに1つ隣に、これは仏像ではないが、丸みを帯びた平たい自然石が置かれている。確証はないが、ひょっとすると、女性の性器に見立てた道祖神ではないかと思われる。3基の石仏像との間に境界を設けているが、明治時代初期の神仏分離までは、3基の石仏と一緒に崇められていたかもしれない。

 薬師堂から動物病院に戻るとまもなく、妻がサリーを連れて病院から出てきた。診察の結果をきくと、血液検査のデータは正常だし、いまは吐き出すべき異物も体内には見あたらないといわれたという。そこで妻が2、3日前の出来事を思い出し、トリの手羽元を盗み食いして、骨まで食べていたと話すと、トリの骨は危険だから、食べさせてはいけない、はっきりと断定はできないが、その骨が腸のどこかに突き刺さり、それを無理に吐き出そうとして内壁を傷つけた可能性がある、というのである。サリーの体調不良は原因がはっきりしないが、とりあえず治療の必要はなく、体力増強の点滴をしてもらっただけで、その日のうちにすっかり元気になった。

 薬師堂をお参りしたのは、ぐうぜんの出来心でしかないし、その場しのぎの神頼みで賽銭をあげたにすぎない。しかし、胸をはだけて幼児に乳を与える仏の姿は、私に衝撃的な印象をあたえた。わが家のおばあさんネコの一大事から1週間後、今度はカメラと三脚をもって、改めて薬師堂を訪れることにした。

 その途中、船橋大神宮のすぐそばにある東光寺に立ち寄ってみた。この寺院は『江戸名所図会』でも取りあげられていて、明治の神仏分離までは船橋大神宮と同じ境内にあり、天道念仏を執り行っていたことで知られる。天道念仏の面影を伝えるものは見当たらなかったが、代わりに思ってもいなかったものを見つけた。なんというべきか、これから行こうとする薬師堂の石仏像と同じ形式のものが、寺の一画に祀られていたのである。

 お寺に尋ねてみると、子安観音と呼ばれていて、幼くして亡くなった子どもを供養するため、若い世代の女性たちが建てたものだという。東光寺の石仏像は「天保十亥年」とあるから、薬師堂のものより2年前の建立になる。台座は二重になっていて、それぞれ「女人講中」、「深川講中」と刻んでいる。「深川」は江戸の深川かと思われる。こちらの台座は石仏像と材質が違っている。あるいは建立当初はなかったのかもしれない。

 帰りがけに船橋中央図書館で、子安観音の信仰について調べてみた。というのも、薬師堂の周りで地元の人から話を聞くつもりでいたのだが、これがとんでもない見込み違いだった。周りに住んでいる人や通りすがりの誰に尋ねても、一致して知らないという答えしか返ってこなかったのである。

 子安観音信仰の中心的な役割を担ったのは、『船橋市史』によれば、女たちだけで構成され女人講で、その前身は十九夜講とも女人念仏とも呼ばれたという。

 子安講の前身は十九夜講で毎月十九日の夜集まり念仏などを唱えており女人念仏ともいわれた。十九夜の主尊である如意輪観音を信仰していたが、近世末期に十九夜講は安産子育てを祈念する子安講に移行して、本来儀軌にない子安観音を主尊とすることが多くなり、明治から近年にかけて子供を抱いた子安観音が盛んに造立されるようになった。

 また別のところでは、こうも書かれている。

 しかし江戸時代中期の安永年間(1772-80)ころから子安信仰がひろまってきた。二世安楽を願う女人信仰から現世利益へとむかったといわれる。その結果、如意輪観音に幼児を抱かせた「子安観音」の像が創案され、十九夜講と子安講と年齢による区分を行って並立する地域も出てきた。

 同じ『船橋市史』からの引用だが、前者と後者では記述内容に矛盾がある。また事実関係の誤りもある。しかし、そうしたことを考慮に入れても、この2つの記述から子安信仰の歴史や子安観音の由緒を大雑把にうかがえるように思われる。

 江戸時代の中期か末期に、それまでの十九夜講は子安講に変容していった。それにともない、主尊として祀られてきた如意輪観音も、それまでの半跏思惟像から転じて、子どもを抱く子安像が案出された。墓地や道端で多く目にする如意輪観音像は、両足を組んで腰をおろし、右ひじをひざにつき、右手を頬にふれて思索する姿である。この如意輪観音像に、右手で子供を抱かせ、左手に蓮の花を持たせたのが子安観音像というわけである。(中略)

 私は子どもを亡くした体験がある。生まれたばかりで、まだ出生届もすませていなかった。北九州市にある毎日新聞西部本社に赴任中のことである。このとき、産院と市役所で、水子として取り扱うかどうかを問われた。生まれたばかりといっても、ごみくずといっしょくたにするわけにはいかない。無性に腹が立ち、情なかった。火葬場で骨にしてもらったあと、父親に連絡をとり、先祖代々の墓に納めるつもりだといって承知してもらった。

 五来重の『石の宗教』に「石像如意輪観音と女人講」という短い論考がある。五来重は宗教民俗学者で、専門的に取りくんだ研究対象は庶民信仰だった。1909(明治四十二)年、茨城県日立市生まれだが、この論考によれば、少年時代に如意輪観音の石仏を見る機会が多かった。しかし、その印象はまことに暗かった。というのも、この石仏は間引きされた子どもの供養のために建てられたという風評があったからだ、というのである。

 如意輪観音石像には、多く女人講中が建てた銘がある。貧困女性たちはその悩みを女性だけの女人講で語り、心の痛みをこの石仏に託したのであろうとおもう。その講世話人は宗門改めなどする菩提寺の住職ではなくて、放浪してきて村の観音堂や地蔵堂に住みこんだ道心者か六十六部であったろう。

 文中にある貧困女性たちの「その悩み」とは、いうまでもなく間引のことである。間引は貧困の女性たちのギリギリの罪業であり、一種の自己防衛であったし、間引かなければならない胎児も多数生まれた、とも五来重は述べている。

 「七歳までは神のうち」という諺がある。昔は死産が少なくなかった。医学も医療制度も未発達だったから、無事に生まれても、天然痘その他の流行病に感染すると、命を落とす危険性も高かった。もう1つは、口減らしのための間引きの問題があった。同書によれば、間引きは現在とちがって、江戸時代には刑法上の罪を問われることはなかった、ということである。どういうことかといえば、人間の誕生と育児は人知のおよばない神仏の支配する領域の出来事に見立てられていたのである。

 柳田國男の「故郷七十年」に間引絵馬のことが出てくる。13歳というから明治20(1887)年ごろ、茨城県利根町布川に住んだことがあった。この町へ移ってきて驚いたのは、どこの家でも一軒に男子と女子の2人しか子どもがいないことだった。柳田が私は兄弟が8人だと話すと、そんなにたくさんの子どもを作って、「どうするつもりだ」と町の人たちは目を丸くした、というのである。

 約二年間を過ごした利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。

 その図柄が、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている。

 それより7年前、柳田は6歳のときに、兵庫県加西市北条町で飢饉を体験している。長じて国家官僚として農政にたずさわる一方、民俗学の研究に生涯をささげたわけだが、そのきっかけは、少年時代に貧困のもたらす悲惨な情況を目の当たりにしたことにある、と同じ「故郷七十年」で回想している。

 十九夜講や子安講にまつわる『船橋市史』の記述には、間引の言葉はまったく出てこない。そうだからといって、この地域の女性たちの文化遺産ともいうべき石造子安観音像が、間引という禍々しい歴史的体験と無縁であったとは考えにくいのである。

2021年8月13日

思い出すままにーー森 桂さんの「つれづれ抄」①

 僕はいま病院にいる。狭心症の発作を起こし手術をしたが、その際に細菌が体中を巡り、四十度近い高熱に見舞われて長期の療養を強いられているのだ。いい機会だ、頭がしっかりしているうちに、めぐりあった人たちの思い出をしたためてみよう。しばらくご辛抱を――

麻子

 いまでは懐かしくなったドーナツ盤が、勇ましい軍歌を奏でていた。昭和五十年だったと思う。銀座七丁目のバー「麻」。戦後の爪痕が残ってはいないが、そんな雰囲気が漂う。小部屋のような空間には、客が訪れることは少ない。エレベーターのない寒々とした四階まで登って来る呑兵衛はめっきり少なくなっていたからだ。

安岡章太郎さん

 「異国の丘」「軍艦行進曲」「ラバウル小唄」……ドーナツ盤から勇ましい軍歌が流れる。すぐそばでママの麻子はへぼ将棋をしているのだ。お相手は作家の安岡章太郎さん。軍歌が途切れる。「ほら森、次の曲、次の曲」。聞いていないと思ったら、ちゃんと聞いている。将棋を打つ乾いた音が続く。すると今度は「先生に氷を入れて、薄く注ぎ足して」。商売も忘れていない。

 麻子は気仙沼育ち。半農半漁の家で細々と暮らしをたてていた。東京に憧れ中学を卒業してから上京。銀座の高級クラブのホステスにたどり着く。その間にどんな苦労があったか、彼女は多くを語らなかった。こちらも、何か聞いてはならない気がして聞かなかった。

 好景気に沸いていたころのクラブは、金持ちの社交場だった。客を相手にするホステスはほとんどが大金持ちになった。そこに大作家が加わった。編集者との打ち合わせはクラブが舞台となっていたから。作家もクラブで働く彼女たちの生きざまを描く。川口松太郎の小説「夜の蝶」はその代表だろうか。

 

 麻子は文学少女だった。読書量の多さが会話の中でうかがわれた。「麻」は、客が歳を取り、四階まで登って来られなくなったので、二十数年の歴史に幕を閉じた、その後、以前いたクラブの名をとって駒込に小さな店を開いた。何度か顔を出したが、往年の面影はなく客層も変わって、足は遠のいてしまった。

 十数年たって、三笠会館で開かれた「久保田万太郎さんをしのぶ会」の集まりで、安岡さんにお目にかかった時、「麻子」の話が出た。安岡さんは、つい昨日のように「懐かしいな」と目を細めておられた。しゃがれ声だった麻子。どこで余生を送っているだろうか。

「アンダンテ」

 新宿ゴールデン街のはずれにあった。馬蹄型のテーブルに、七、八人も座れば満席となる。秩父の山奥から取り寄せたという、透き通った氷がカウンター越しにみなぎっている。いつも満員で二、三十分も立ち飲みしなければ座れないことも。

佐藤陽子さん

 店の名は「アンダンテ」。ママは、なっちゃん。女子大を卒業したばかりの姿で客をあしらう。アンダンテで頭に浮かぶのはモーツアルトの、「フルートのためのアンダンテ」。なっちゃんにそのことを聞くと「私も好きよ」と認め、大いに盛り上がった。

 

 常連客は多彩だ。当時は挿絵画家で知られ、後に小説や随筆をも書くようになった司修さん。大柄の体を持て余すように、にこにこと話に耳を傾けている。ヴァイオリニストの佐藤陽子さんも名器を持って、ちょくちょく訪れた。その日も佐藤さんに「ベートーベンのヴァイオリン・ソナタのうちで何が一番好きですか」と伺うと、「七番」と即座に答え、ケースから楽器を取り出して弾こうとするので、聞きたかったけれどもご遠慮していただいた。

冨士眞奈美さん

 冨士眞奈美さんもその一人。彼女が入って来ると、その場が華やぐ。世間話に興がのったころ、なっちゃんが「冨士さん、お嬢ちゃんから電話」と伝える。冨士さんは「じゃすぐに帰るからね」と言って電話を切り、「宿題が判らないから教えて、と言っているので家に戻るけど、その話、続けておいてね」と言って姿を消した。彼女はもう夜が白みかけたころに話に加わったが、さっきの話はとっくに終わって次に移っていた。

 「アンダンテ」には、家族のような空気が流れて、時間に追われる仕事に携わっている身にとっては、ほっとする瞬間があった。いまでも、その光景を思い浮かべるのである。

 冨士さんの秀作。

  海底のやうに昏れゆき梅雨の月
  まず足の指より洗ふ長き夜

 もう、お仕舞にしようかと話し合っている時、ふらりと男性が現れた。どこかで見た人だ。「あら先生、お久しぶり」。なっちゃんが手を止めて、客を招き入れる。すぐに、その人は作家の野間宏さんだと分かった。野間さんの名は知っているけれど、代表作の一つ「真空地帯」しか読んでいない。それもかなり苦労して。人間を非人間的な兵士に変えてゆく、旧軍隊と戦争の本質を問う作品ぐらいしか知識はない。

 客は僕のほかは、一組のカップルしかいない。なっちゃんと手伝いの妹さんは明日の準備と跡かたづけで手いっぱいだ。僕は父が新聞記者だったこと、大本営は戦争犯罪を隠し通し、国民を欺いた実相を暴いた「旋風二十年」という単行本が、戦後初のベストセラーになったことなどを懸命で話した。野間さんは父の名前をご存じで、じっと前を見つめながら聞いてくださっていた。

 話が途切れた時、野間さんは「もう一軒行きましょうか」とおっしゃる。夜更けである。空いている店はあるのだろうか、心配になったが、その店は馴染みらしく照明を点けてわれわれを招じてくれた。小一時間経ってお勘定となった。野間さんはゆっくりと内ポケットに手を入れ財布を探している。そのとたん、背後で「財布を忘れた」という静かな声がした。僕はその日はちょうど給料日で、決して安くはないお勘定を支払った。

 数週間たって「アンダンテ」に立ち寄ったら、野間さんの姿があった。連日のように僕を待っておられたそうだ。(つづく) 

(森 桂)

※森 桂さんは昭和16年10月東京生まれ、41年4月、東京本社入社。横浜支局、宇都宮支局、外信部、社会部、学生新聞編集部、事業部を歴任。平成7年9月 東京本社文化報道センタ―編集委員で退職。

2021年8月10日

漫画家、サトウサンペイさんを発掘した「夕刊新大阪」小谷正一さん

 ——作家や画家などの若い頃の作品を「若書き」といい、勢いを感じさせるものが多い。サトウサンペイさんの場合、入社試験の履歴書を漫画で描いたというから、相当な大胆さである▼産声をあげた頃、そして戦中戦後の自分を絵にして、短い文も添えた。面白い奴(やつ)だという重役もいて、百貨店に採用され宣伝部で働き始めた。さらにはその話を聞きつけた夕刊紙の幹部から、うちで描かないかと誘われた▼そうやって漫画家サトウサンペイが生まれた…

 8月7日付朝日新聞朝刊1面「天声人語」である。

 サトウサンペイさん(7月31日逝去、91歳)が漫画家となるきっかけを作った「夕刊紙の幹部」とは、元毎日新聞の記者・小谷正一さん(1992年没、80歳)である。

 小谷さんのことは、この毎友会HP追悼録(2021年7月15日)で天才ヴァイオリニスト・辻久子さん(ことし7月13日没、95歳)を売り出した伝説のイベントプロデューサーとして取り上げた。

 小谷さんが亡くなって1年後に開かれた偲ぶ会には、辻久子さんも、サトウサンペイさんも参加している。

 夕刊紙とは、1946(昭和21)年2月4日に創刊した「夕刊新大阪」である。GHQ(連合国軍総司令部)が新聞用紙の割り当てを管理、毎日新聞、朝日新聞は朝刊2㌻しか発行できなかった。一方で新たに創刊する新聞には用紙を割り当てたことから、各社とも系列の夕刊紙を発行した。「夕刊新大阪」は、毎日新聞大阪本社内に編集局を置き、印刷も毎日本社で行った、と『毎日新聞百年史』にある。

 創刊当時のスタッフは、編集局長・黒崎貞治郎、編集総務兼報道部長・後藤基治、整理兼企画部長・小谷正一ら。毎日新聞から出向した。

 朝日新聞は「大阪日日新聞」、産経新聞は「大阪新聞」を系列紙とした。

 「夕刊新大阪」創刊からのことを書いたノンフィクション、足立巻一著『夕刊流星号』(新潮社1981年刊)を紹介した記事を見つけた。

1981年11月20日付毎日新聞夕刊

 1981年11月20日付毎日新聞夕刊で、筆者は、当時編集委員の四方洋さん(2016年没、80歳)である。

 記事の中に、サトウサンペイさんの漫画を連載する経緯もある。

 《小谷さんのところへ大丸(百貨店)の宣伝部員が遊びに来た。「おもろい人間おらんのかい」「リレキ書をマンガで書いた新入社員がおります」「それ、つれてきてくれ」。男がやってきた。「連載やらんか」。シリごみするのを描かせた。第一回は「飛行機から宣伝ビラをまいたら、海の中へ落ちる。デパートで大売り出しの日、やってきたのはサカナばっかりだった。小谷さんは四コママンガを見て腹をかかえて笑った》

 井上靖は小説『闘牛』で芥川賞を受賞したが、そのモデルは「夕刊新大阪」の小谷正一さんである。

 この闘牛大会は小谷さんが企画した。毎日新聞入社同期の井上靖は、このイベントに興味を持って、小谷さんから取材をした。

 毎日新聞1950年2月2日朝刊に井上靖が「『闘牛』について」を寄稿している。

1947年1月14日付「夕刊新大阪」社告

 《廿二年一月新大阪新聞社主催で闘牛大会が西宮球場で開かれた。…一日私も闘牛見物に会場に出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に祟られてその日の入場者は極めて少なかった。リングの中央で、角を突き合せたなりで微動だにせぬ二頭の牛。それを取巻くまばらな観客。垂れ下がっているのぼり。スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。その会場に立ちこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げて来た》

 《この闘牛大会は新聞社の事業としては宣伝効果からしても大きな成功をおさめ新大阪はために盛名を天下にとどろかした》

 「夕刊新大阪」は、復刻版が不二出版から刊行されている。足立巻一さんが提供して兵庫県立図書館が所蔵しているものだ。

(堤  哲)

2021年7月26日

元エコノミスト編集長、高谷尚志さんが、舟木一夫さんの「高校三年生」の想い出を――フェイスブック「もういくつ寝ると<ユルリとね>」第559話転載

 赤い夕陽が校舎を…。高校三年生・舟木一夫
 モデルの学校は私が育った地区の女子高校だった
 丘灯至夫作詞、遠藤実作曲。「高校三年生」

 数々の名曲を作詞した丘灯至夫氏、いくつかの仕事へて毎日新聞の記者。

 作詞家となった後も毎日新聞社には籍を置き続けており1972年に毎日新聞社を定年退職している。その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ出版局特別嘱託となる。 主に「毎日グラフ」の記者。 ということなので私より5歳ぐらい上の方は、「毎日グラフ」で丘灯至夫氏と一緒に仕事をしておりその思い出を、毎日新聞 OB の交流サイトに掲載しておりました。大島幸夫さん。

 丘灯至夫というペンネームは、新聞記者は「押しと顔」(オシトカオ)である。

 また毎日グラフ編集部とアサヒグラフ編集部の対抗野球大会があった時には、丘灯至夫さんの配慮で日活ロマンポルノ田中真理さんが応援に駆けつけてくれたなんていうのも紹介しておりました。なんとも羨ましい。

 「高校三年生」には実は思い出がありまして、車を運転していてカーラジオをかけておりましたが多分、丘灯至夫さんだと思うんです。作曲の遠藤実さんではないとは思うんですが、まあ丘灯至夫さんということにしましょう。

 高校3年生の思い出をラジオで語っているんですね。それが強烈な記憶になっておりましたので、この際、高校三年生、丘灯至夫のネット検索をしてみました。

 そうしますと、赤い夕陽が校舎を…のモデルになったのは「松陰学園」。思わず ワナワナと震えがきました。 ここは女子高校なんです。私の家がご近所なもので、よく知っています。丘灯至夫さんが毎日グラフの仕事で「松陰学園」を取材にあがったときの印象を歌詞にまとめたとのことです。ここは世田谷区渋谷区目黒区の三つの区が接しているところ、「松陰学園」は目黒区です。

 ♪ぼくらフォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ、黒髪が~♪

 普通、男女がフォークダンスをするというと、男女共学をイメージしますよね。しかし女子高には男子はいないことになっている???

<第560話>女子高校に男子学生がいた秘密

 松陰学園は男女共学の幼稚園を併設してました。私の同学年ぐらいの男の子も松陰幼稚園に通っているのがいました.

 目黒区世田谷区渋谷区の接点の目黒区側に位置しているわけですので、三つの区から男の子女の子が通っていました。ですのでここには男子学生というか、男の子の幼児がいたことは間違いありません。

 渋谷区側の飲食店2代目男の子、松陰幼稚園に通っていて、高校卒業後は店の後を継ぐべく修行にはげみ、松陰学園にもしばしば出前を持って行ったという体験があります。廊下で小走りの女子高校生3、4人とすれ違うと、スカートの裾から女の匂いがこぼれてくる。女子高校生の集団の中に出前を持ってったこともあって、視線がこちらにじっとそそがれると恥ずかしかったな。二代目は中高一貫の男子校に進学したもんで、女子の集団には極めてナイーブな反応を示します。

 松陰学園の中には「高校3年生」の記念石碑があるのですが、二代目はそんなのがあるの?気がつかなかったなー。校門を入ると、何本か木が植わっていたけど、あれニレって言うの? 道路拡張に伴い二代目は店を閉めて、いまは全く別なところに居住しています。松陰学園を探訪された方がネットに載せておりますので、引用させていただきますと説明板には以下のように記されていました。

 作詞家丘灯至氏は昭和37年、新聞記者として高校の文化祭の取材にあたっていた。取材先として訪れた松陰学園では、当時、定時制高校があり、文化祭のリハーサルで男女の生徒が手をつなぎ、フォークダンスを踊っていた。

 そこで最初に浮かんだのが「フォークダンスの手を取れば甘くにおうよ黒髪が……」というフレーズであり、詩が作られ、遠藤実とのコンビでこの歌が生まれるに至った。

 社会に飛び立とうとする10代後半の若い人たちが夢や心を大事に、抒情性を豊かに育んでほしいという願いが、舟木一夫氏に歌われ、瞬く間に、多くの人々の心を捉え、現在も皆が声を合わせて歌える国民的な歌となっている。

 つまり定時制高校があって、そこは男女共学。つまり幼稚園と定時制には男の子がいた。松陰学園では数少ない貴重な男の子を丘灯至夫さんは目撃したことになるんですね。

 二代目は松陰学園に定時制があった?知らなかったなー。出前があっても昼か夕方で、夜は行かない、男子学生の姿は見たことがなかったなあ。

 仕事をしながら勉学をしたいという男子学生に門戸を開いた松陰学園の経営者も立派ですが、それに応じた男子学生たちもたたえるべきでしょう。おかげで後世に残る「高校3年生」神話が学園のものになったのですから。みんなこの男子学生たちのおかげです。定時制も女子ばかりだったらあの名曲は生まれなかった?!

 今は松陰学園は男女共学、定時制は今はないようです。

 高谷さんのフェイスブック。

https://www.facebook.com/profile.php?id=100005457191329

2021年7月19日

一日駅長で展望車に乗ってしまった百閒センセイ

 酒井順子著『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』(角川書店)に、百閒センセイ(当時63歳)が東京駅の一日駅長を務めたときのことが書かれている。

 制服・制帽で東京駅へ現れ、一日名誉駅長の辞令を受けた。駅構内を視察したあと、12時30分発の第3特別急行列車「はと」が発車する際、「出発進行」の合図を出すハズだった。

 ところが百閒センセイ、発車間際に最後部展望車の展望デッキに乗ってしまったのだ。

 列車は、そのまま発車、百閒センセイは熱海まで乗車したという。

 「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」
というセンセイだけのことはある。

 同行したヒマラヤ山系こと平山三郎さん(国鉄職員)には事前にこの計画を話していたようだ。

 ネットで検索すると、新潮文庫の表紙に、そのときの写真が載っている。

 1952(昭和27)年10月15日。一日駅長は、国鉄の80周年記念イベントだった。

 東京駅は百閒センセイ、新宿駅は毎日新聞OBで当時政治評論家・阿部真之助(元大阪毎日社会部長、東京日日政治部長、学芸部長を歴任。その後NHK会長)、上野駅は元日経新聞の経済評論家・小汀利得、渋谷駅は歌手の藤山一郎、有楽町駅も歌手の越路吹雪…。

 多彩である。国鉄が黒字経営の時代だった。

 図書館で毎日新聞の紙面を検索すると、その日15日の夕刊社会面に「有名人が一日駅長」という見出しで載っていた。四ツ谷駅では荒木町花街のキレイどころ7人が改札に並び、「(切符に)ハサミを入れるかたわら、乗降客に香水をシュッシュッとふりかけるというサービスぶり」。写真付きだ。

 写真はもう1枚。有楽町駅の越路吹雪で、見出しは「訓示早々コンパクト」。コーちゃんは、遅刻したらしく、訓示の後、「早速コンパクトを取り出し、女駅長のみだしなみとばかり、軽くお化粧をして構内視察を行った」。

 今から69年前である。鉄道開通は、1872(明治5)年。毎日新聞は同じ年の2月21日創刊だから、鉄道とともに、来年150年周年を迎える。

1952(昭和27)年10月15日毎日新聞夕刊

 さて、酒井さんの著書にあるもうひとりの鉄道作家・宮脇俊三さんも、取手駅で一日駅長をしている。1985(昭和60)年、58歳の時だった。

 楽しみにしていたのは「酔いつぶれた客を揺り起こしたい」。

 「取手です。終点ですよ」。降りていく客を眺め、達成感を覚えた宮脇は「胸を張って駅長室へ引き揚げた」のだった、と酒井さんは書いている。

 「鉄道の『時刻表』にも、愛読者がいる」

 鉄道全線完乗車・宮脇俊三さんの名言である。

(堤  哲)

2021年7月19日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その14 ワクチン接種の一日(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443545.html

 先月の22日、新型コロナウィルスの第1回目のワクチン接種を受けた。

 場所は自衛隊の大規模接種センターになっている大手町合同庁舎。12時の予約だったが、40分前に会場についた。早すぎたかなと思ったが、待たされることもなく、てきぱきと案内してくれ、あれよあれよという間に接種を終えただけでなく、その場で第2回目の予約もすますことができた。接種のあと、15分ほど経過をみていたが、どうやらワクチンの副反応はなさそうだった。

 私の住んでいるのは習志野市で、ワクチン接種の予約受付は5月17日からだったが、こちらの不慣れや不手際もあり、うまくとることができなかった。予約は妻がスマートフォンを使ってとろうとしたのだが、繋がったときには、いつも予約はいっぱいになっている。一昔か二昔前に、ブルース・スプリングスティーンやローリングストーンズといったミュージシャンの公演チケットを電話予約して愕然としたことがある。発売日当日、受付開始と同時に予約を入れるのだが、よさそうな席はたいてい売り切れてしまっているのである。ワクチン接種は音楽コンサートとは違う。いい席も悪い席もない。希望する人には漏れなく接種するのが建前である。不慣れや不手際は行政の側でも同じかもしれない。そのうちになんとかなるだろうと、のんびりかまえていた。

 ところが、街歩きの仲間たちから、ワクチン接種の予約がとれたとかとれないとか、メールで報告や問合せが入ってくるようになった。街歩きの仲間は9人いて、1人を除けば、すべて60歳代後半から70歳代の高齢者である。しかも半数はガンなどの基礎疾患を持っているから、ワクチン接種は切実な関心事なのである。私の場合は高血圧と糖尿病で、一昨年の暮れには肺炎に掛かっている。感染すると重症化し、命を落とす可能性が高い。

 それに加えて、従来のものより感染力の強いアルファ型とかデルタ型とか称される変異ウィルスが発見されているのが気になった。それがいつの間にか国内に持ち込まれ、急速に感染が拡大しているということである。3密を避けるとか、マスクをする、うがいをする、手を洗うといっても、どこまですれば安全で安心なのかとなると、確かな指標と根拠が示されているわけではない。

 デルタ型の変異ウィルスについては、感染力が2倍近いといわれている。通勤電車やスーパーマーケットはうーんと思うほど混雑していても、アルコールを提供する飲食店と違って、厳しい営業規制を受けていない。ウィルスの方は日進月歩で進化し攻撃力を強めているのに、人間の方はこれまでのような感染対策で大丈夫なのだろうか、私のような医学的素人には判断がつかない。分からないから自ずと不安にもなる。自分が感染するのも嫌だが、人に感染させるのはもっと嫌である。そんなことから、ワクチン接種は早めに受ける努力をした方がいいと思うようになった。

 それから20日ほどして、習志野市のホームページを開くと高齢者のワクチン接種方法を抜本的に変更し、6月7日までに予約をすませていない人には、市役所が接種日時・場所を指定し、6月中旬から年齢別に順次、郵便で通知することになった、というのである。私と妻の場合は7月7日に発送される予定になっていて、高齢者の接種は、9月中旬までにすべて完了させる計画だというのである。

 6月14日、同居している息子が勤め先の会社から妻にメールを入れてきた。たまたま新型コロナについて調べていたら、大型接種会場の大手町合同庁舎は予約が空いている。ここは習志野からの交通の便がいいし、実施しているのは自衛隊だから仕事はきちんとしている。習志野市からの通知を待つことはやめて、こちらに予約を入れた方がいいと思う。ついでに、二人でご飯を食べてくるというのもいいかもしれない、というのである。

 ふだん息子は用事があってこちらから連絡しても返事もよこさない。滅多にないことだから、なにか思うところがあったにちがいない。考えてみれば尤も至極で、いわれる通りに予約することにしたのだが、私と妻の都合が折りあわず、接種日は一緒にならなかった。

屋上に植えられたシュロの木。神田神保町1-29。2021.06.22

 そんな次第で、大手町合同庁舎でワクチン接種をすることになった。その帰りがけのことである。会場の出入口で何人もの人たちがスマートフォンのカメラで写真を撮っていた。私も彼ら彼女たちに倣って、バックから一眼レフのカメラを取りだした。そういえば、会場内のあちこちで撮影と録音を禁止する立札を見かけた。

 私は前歴が報道カメラマンだったせいで、駄目だといわれると、隠れて撮ろうとする悪癖がいまでも抜けきらない。立札はもちろん報道メディアに向けたものではない。接種に訪れた人たちにワクチン接種の妨げになる行為は遠慮して欲しいということだろう。見方を変えれば、いまや誰もが何かあれば写真やビデオに記録する時代になったのである。

 こうした現象はスマートフォンの普及が大きく影響している。かつてのように専門的な撮影技術は重要視されなくなった。写真は目の前の事物や出来事を正確に写しとると同時に、自分がその時その場にいた、という事実の証明にもなりうる。日記をつけるのと同じように、誰もが写真を撮るようになったといってもいい。連載その12でも言及したが、ドナルド・キーンは『百代の過客 日記にみる日本人』のなかで「日記をつけるのは、歴史家にとってなんの重要性もない日々を、忘却の淵から救い上げることである」と述べている。

 私が2009年まで勤めていた毎日新聞社は合同庁舎から目と鼻の先にある。知り合いの後輩もいるから、立ち寄ってみるつもりでいたが、時計を見るとまだ12時をまわったばかりである。夕刊の校了までは1時間以上もある。それまでどこかで時間つぶしをすればいいのだが、それもなんとなくうっとうしいので、街歩きをして帰ることにした。

タンゴ喫茶のミロンガ 神田神保町1-3。2021.06.22

 合同庁舎があるのは日本橋川に架かる神田橋の皇居側である。連載エッセイその11で八百屋お七に言及しているが、事件当時に火付加役だった中山勘解由の邸宅は神田橋のすぐ外側にあった。また神田橋の近く(神田錦町2丁目)には、お七の事件から5年後になるが、それまで湯島にあった護持院(知足院)が移転してきた。多くの寺院が江戸市中の内から外へと移転させられたのと逆方向になる。護持院は将軍綱吉とその生母桂昌院が数十度も参詣し、その庇護のもとで隆盛を極めたとされる。連載その11を書いた後になってから知ったのだが、桂昌院の出自は京都堀川通西藪屋町の八百屋仁右衛門の次女ということである。それが事実だとすれば、将軍綱吉の生母はお七と同じ町人身分で、実家の生業も同じ八百屋稼業だったことになる。

 神田橋から雉子橋までの日本橋川沿いの一帯は、『江戸切絵図』をみると、火除地になっていて、護持院原と呼ばれた。護持院原の地名由来になった護持院は1717(享保2)年に焼失するが、幕府は再建を許さず、音羽の護国寺に合併された、ということである(註5)。

 神田警察通りに出て、西側を眺めると、千代田通りとの交差点の先、護持院原のすぐ北側とみられる箇所に、戦前の築造と思われる古めかしいビルが見えた。近づいてみると取り壊されると聞いていた博報堂ビルに紛れもないのだが、どこかようすがおかしい。よくみると西側の3分の1がなくなっている。建築デザイン的に特徴のある東側の塔屋と円柱の並ぶ正面中央を残すというよりも、おそらく復元する形で、テラススクエアと呼ばれる高層の複合ビルに再開発したものとみられる。

 東側は広場に整備されていて、ビルの下では若いサラリーマンの男女が1列に腰かけて、昼食の弁当を食べていた。対面の食事に比べて新型コロナの感染リスクも少ないし、目の前は木立の林になっているから、雨さえ降らなければ爽快な気分になれる。私の会社勤めをしていたころにはあまり見かけなかった風景である。コロナ渦の新しい世代が見つけた新しい生活スタイルなのかもしれない。

 テラススクエア西端を右折すると神田神保町の書店街に通じる裏通りがある。書店街は竹橋の毎日新聞社から歩いて10分もかからない距離である。仕事が忙しくないときは、職場の同僚たちとこのあたりまで出かけて、昼食をとった。そのあと、本屋めぐりをするか、喫茶店でお茶を飲むとかするのである。

 神保町は昨年の3月20日に訪れることがあった。街歩きの仲間の1人鈴木淑子さんが西村陽一郎の教えている美学校の写真工房(神田神保町2丁目)に通っていて、共同作品展の案内をもらったのである。

 この日は3連休の初日にあたっていた。都営新宿線の岩本町で下車し、写真を撮りながら神保町の美学校まで歩いたのだが、意外なことに、休日は閑散としているはずの書店街がたくさんの人で混み合っていた。靖国通りとすずらん通りの間にひっそりした路地があるのだが、そこにはミロンガ・ラドリオ・さぼうるなど知る人ぞ知るという風情の喫茶店が点在する。神保町界隈で一番なつかしいのは、この路地の佇まいである。覗いてみると、どこの喫茶店も外で空席を待つ人がならんでいた。路地裏のうらぶれたような喫茶店が、いつの間にか脇役から主役に抜擢され、観光名所として脚光を浴びているのである。

 それより1週間後の3月27日、仲間たちと大森の街歩きをする予定だった。月に1度の恒例行事で、これが100回目だった。ところが3月24日になって、東京都の新型コロナウィルスの感染者数が急増して40人に達したというニュースが流れた。その日の夜、幹事の福田和久君から連絡があり、感染が鎮静化するまで、街歩きは延期しようということになった。東京都の小池百合子知事から、新型コロナの感染拡大を防ぐため、週末の外出を自粛する要請が出されたのはその翌日である(以下略)。

2021年7月19日

三原浩良さんに原稿を真っ赤にされたノンフィクション作家

写真は、2017年4月12日に東京で開かれた「偲ぶ会」に合わせて作られた追悼集「生きて果てなん」の表紙から(奥武則さん提供)

 西部本社で報道部長をつとめ、退職後、葦書房社長、弦書房代表として良書を出版し続けた三原浩良さん(61年入社、2017年没79歳)の名前を18日付け読売新聞の読書欄で見つけた。

 ノンフィクション作家澤宮優さんが『巨人軍最強の捕手』(2003年晶文社刊、現在は『戦火に散った巨人軍最強の捕手』河出文庫)を出版するときのことだ。

 巨人軍最強の捕手とは、ビルマで戦死した吉原正喜捕手である。熊本工業では川上哲治(巨人軍監督)とバッテリーを組み、甲子園で準優勝した。のちに打撃の神様と呼ばれる川上は、吉原捕手を獲得するために、ついでに入団契約になったといわれる。

 澤宮さんは、川上さんからも取材をして、半年かけて原稿を書き上げたが、原稿を送った20社から出版を断られた。知人の紹介で葦書房にたどり着く。

 《葦書房の三原浩良社長は、すぐに原稿を読んでくださり、出版を決めてくださった。ただし何度も推敲をさせられ、目が回るほど赤字が入った。だが、そのお蔭で作品は、柔らかく練れた内容に変わった》

 《その年の秋のある日、突然段ボール箱が葦書房から送られてきた。そこには私の原稿があった。手紙には「ある事情で出版ができなくなった」という報告が書かれてあった。後日新聞記事で知ったのは、ある一件で社長、社員が退職せざるをえなくなったトラブルがあったことだった》

 「葦書房 オーナーが社長解任 全従業員も退社の異常事態」と読売新聞は報じた。

 三原さんは、1994(平成6)年に葦書房の社長になった。前社長の死去に伴うもので、8年間、黒字経営したが、2002(平成14)年にオーナーに解任される。

 「株(出資金)の買い取り価格や、私の後継社長をめぐってどうしても折りあうことができず、ついに私の解任となったのである」と三原さん。

 社員も8人全員が退社し、2002年暮れ、弦書房が船出した。

 三原さんは、こう書き残している。

 《翌年5月から新生弦書房のあたらしい本が次々に書店に並んだ。高木尚雄『地底の声』、島尾ミホ・石牟礼道子対談集『ヤポネシアの海辺から』、菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』、渡辺京二対談集『近代をどう超えるか』、中山喜一朗『仙厓の○△□』、多田茂治『夢野久作読本』『玉葱の画家』などなど、いずれも旧知の著者たちの力作ぞろいである。数えてみるとこの年は5月からの半年の間に7点も刊行している。

 その後も2004年10点、2005年9点、2006年17点、2007年16点、2008年11点と新刊を送りだしてきた。

 なかでも野見山暁治『パリ・キュリイ病院』、佐木隆三『改訂新版 復讐するは我にあり』はいずれも大手出版社が重版をしぶって絶版になっていた本の復刊で、小出版社ならではの仕事として印象に残っている。

 前者は最初に講談社、のちに筑摩書房が刊行した野見山さんの最初の著書で、野見山ファンからの復刊の要望が強いことを知り、25年ぶりに復刊した。今年になって重版したと聞いてうれしかった。既刊書が売れなくなっている出版不況のなかで、息ながく売っていくことは至難のことと言ってよい。

 後者は佐木さんの直木賞受賞作だが、これも絶版になって久しく、著者の希望であらたに手を入れて「改訂新版」として刊行、版を重ねたあといまでは講談社文庫にもはいっている。

 渡辺京二『江戸という幻景』は、葦書房時代に刊行した不朽の名著『逝きし世の面影』(いまは平凡社ライブラリー)の姉妹編とも言える著作で、向こうが来日外国人の目を通して描かれた江戸・明治の姿だとすれば、こちらは日本人の目がとらえた江戸の人々の生きいきとした諸相を活写した書きおろしで、刊行当初から増刷をつづけている。

 こうして歩みだした弦書房は創業10年を過ぎ、著者や関係者の協力をえて順調な歩みをつづけているが、2008年、後事を小野君に託して弦書房を去ることにした。

 当初から「70歳引退」と心づもりだったが、予定を一年過ぎていた。「葦書房の灯を消すな」という声に応えることができたのであろうか》

 そして2008年郷里の松江に戻った。

 出版不況といわれた時のアンケートに「私が葦書房を引き受けた時考えたことは、絶対に大きくしないということだった。どうしても必要とする人に向けて、少々高くても我慢して買ってやろうと言われるような内容を備えた本を作るしかない、と思っている」と答えている。

 良書がすべて、なのである。

 葦書房時代、石牟礼道子編著『天の病む 実録水俣病闘争』(1974年1月刊)を出版した。執筆者に、石牟礼道子・渡辺京二・江郷下一美、三原浩良、日高六郎・杉本栄子・浜本二徳・川本輝夫・田上義春・松浦豊敏・本田啓吉、富樫貞夫、宮沢信雄ほかとある。

 元ソウル支局長・論説委員の下川正晴さんは、この毎友会HP(2020年7月7日)で自著『占領と引揚げの肖像BEPPU』を紹介しているが、『忘却の引揚史―泉靖一と二日市保養所』(2017年刊)、『日本統治下の朝鮮シネマ群像~戦争と近代の同時代史』(2019年刊)といずれも「弦書房」からである。

 三原さん自身の著作は『熊本の教育』『地方記者』『噴火と闘った島原鉄道』『古志原から松江へ』。編著に『古志原郷土史談』『当世食物考』などがある。

 私は一緒に仕事をしたことはなかったが、同期入社の片山健一(故人)の前の西部本社報道部長だった。

(堤  哲)

2021年7月9日

報道レースは本社が「金」―68メキシコ五輪の社報

 この写真は、64年東京五輪の閉会式。浴衣の日本人女性の手にキスをするソンブレロを被ったメキシコ男性。68メキシコ五輪への引継ぎのつもりか。

 日本外国特派員協会(千代田区 丸の内 3-2-3「丸の内二重橋ビル」5階)で8月6日まで開かれている1964東京五輪の写真展にあった。

 断捨離中に何故か、昭和43(1968)年11月1日付社報が出てきた。

 見出しに

  メキシコ五輪、報道レースは本社が「金」
  特派員←→各本社が一体化
  みごとカラー印刷
  原稿の流れもスムースに

 特派員団は、8人。キャップは、社会部デスク牧内節男(当時43歳)。メキシコ臨時支局の支局長である。

 社会部・大桶浩(当時37歳、1994年没63歳)

 運動部・岡野栄太郎(当時38歳、2020年没90歳)▽浮田裕之(当時39歳)▽奈良井輝(大阪、当時38歳、2010年没80歳)

 写真部・阿部三郎(当時42歳、2013年没87歳)▽松野尾章(当時35歳、2008年没76歳)

 連絡部・大川延司(当時36歳、2011年没79歳)

 元気なのは、ことし96歳を迎える牧内さんと、浮田さん92歳だけか。

 牧内支局長の現地報告が載っている。

 《社員のみなさん「ポエナスタルデス」(こんにちは)——私たちの朝のあいさつは「ポエノスデイアス、コモエスタウステ(おはよう、ごきげんいかがですか)「ムイビエン・ウステ」(大変よい、あなたは?)「ムイビエン」と始まる。時差(15時間)の関係から毎晩寝るのが午前2時すぎだから「コモエスタウステ」という言葉にも実感がこもる。

 大阪外語スペイン語科を出た奈良井特派員は別として、他は日本を出るまでスペイン語は少しも知らなかったが、阿部特派員などは写真部との電話応答の中で無意識のうちに「シー・セニョール」(はい、わかりました)という言葉が飛び出るから大したものだ》

 「こんにちは」は、ブエナスタルデスと旅行書にはあるが、現地の発音は「ポエナス」なのであろう。

 「競技が終えて、余ったドルを全員に分けて、好きなところを旅行して帰国するよう、言ったんだ。名支局長だろう」と何かの折に聞いたことがある。

 毎日新聞のHPには、《第19回メキシコ大会は、112カ国と地域から約5500人の選手が参加し、1968(昭和43)年10月12日から27日まで開かれた。日本からは183人の選手が参加し、金11、銀7、銅7、計25個のメダルを獲得した。日本では大会期間中に川端康成さんのノーベル文学賞受賞が発表され、12月には東京都府中市で「3億円事件」が発生した》とあり、その脇に釜本邦茂がサッカー3位決定戦でゴールを決める写真。阿部三郎撮影とある。

(堤  哲)

2021年7月2日

レイルウェイ・ライター、種村直樹君を偲ぶーー牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」から

柳 路夫



 それは種村直樹君に呼び止められた感じであった。行きつけの古本屋の前を通ったら種村直樹著『時刻表の旅』(中公新書・定価380円)が眼にとまった。どれも100円の値段のついた新書版の本を並べている場所である。早速買った。種村君とは昭和38年8月、毎日新聞大阪社会部で知り合った。彼は府警察本部の記者クラブにいた。入社4年目の事件記者であった。

 東京社会部で筆頭デスクをしていた立川熊之助さんが大阪の社会部長になるというので私を大阪のデスクとして連れっていった。大阪にいたのは1年半であったが、実りの多い記者生活であった。大阪社会部の多くの人材を知った。後で大いに役立った。一緒にデスクになった檜垣常治君とは後にほぼ同時に役員となり、助けたり助けられたりであった。政治部にきた岩見隆夫君、サンデー毎日にきた徳岡孝夫君、八木亜夫君、武田忠治君らに知的刺激を受けた。

 種村君はもともと学生時代から汽車旅が好きで、それが鉄道記者生活を通じて助長され、「レイルウェイ・ライター」にまでになってしまった。昭和48年、毎日新聞をやめるのは当然の帰結であった。この本にも昭和48年4月武蔵野線府中本町―新松戸間開業の日以来、フリーのレイルウェイ・ライターとして、趣味と仕事の境界が判然としない日々を過ごすことになると書いている。当時私は論説委員であった。種村君が毎日新聞を去ったのを後で聞いた。

 この本は昭和54年8月25日の初版である(私の手元にある古本は昭和55年11月20日6版)。既に著書は『周遊券の旅』(ブルー・ガイドブックス)7冊も出版している。『時刻表』1本で生きた男といってよい。「数字と駅名が無数に並ぶページを捲ると、各地を走る列車の姿が目に浮かび、大きな駅のコンコースの雑踏、ひなびたローカル線を行く車両のきしみも伝わってくる」と表現する種村君である。まさに時刻表にとりつかれた男である。平成26年11月26日なくなった。享年78歳であった。

 子供の頃よく歌った歌『汽車』(作・不詳、曲。大和田愛羅)を口ずさんで彼を偲びたい。

 「今は山中 今は浜
 今は鉄橋渡るぞと
 思うまもなくトンネルの
 闇を通って広野原」

※種村直樹さんは1936年、大津市生まれ。京都大学法学部卒。毎日新聞記者を経て1973年からフリー。レイルウェイ・ライターとして鉄道と記者旅をテーマに著作を続けた。2014年、転移性肺がんにより死去、78歳。

(プロフィール写真、名刺は種村さんの公式ホームページから)

※「銀座一丁目新聞」のURLはhttp://ginnews.whoselab.com/

2021年7月2日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その10(終わり)

 追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。

「日記より」⑤昭和36年7月1日

 午後、成格(当時高校2年)が友人の吉田昌光と同道で帰ってきた。只ならぬ気配に、大きな荷物をかかえて応接に入って来た。昨夜は10時すぎにやっとスピーチコンテストの原稿が出来上った状態では、励ましのため「一位間違いない」といったものの、とうてい入賞するとは思わなかったので、何事かと瞳をこらすと、いきなり「どうです」という。「入賞か?」「しかも優勝です」「ヘエー、それは大出来だ」と答えて、じっと顔をみる。「ここ1カ月めっきりやせたと思われる顔に精悍の気をたぎらせて「まだ夢のようです」と優勝当時の状況を説明する。番外から始まった入賞発表が2位まできた時はガックリして、外に出て風にでもあたりたいと思ったトタン名前を呼ばれ、一瞬何のことかわからなかったとのこと。

昭和36年7月2日

 成格、巍次を連れて日本橋の「橋本」へうなぎを食いに行く。成格は昨日の興奮が残っているようだ。それに疲れがアリアリと顔にみられる。うなぎでも食わせて回復させるほかない。それにつけても「お祝いにビールを飲ませてほしい」というのでやむなく承知した。良くないことだが折角の勝利の日だ仕方がない。しかし、咳がひどいようだ。若い者は健康の持ち方を知らないから、コンテストに夢中になって身体中がコッたのだろう。アンマが一番良いんだが、だるくてやってやる気がしない。

昭和36年7月29日

 午後4時すぎても32度。何という暑さか。印度人が40―50度の中で暮らすというのがどうにも考えられない。人間という奴はどんな所でも食さえあれば住むものらしい。しかも人類史上、最も早く開けたのは暑い印度や、中近東にアフリカだった。やはり身に一糸もまとわない生活でなければ成立しなかった原始時代を想像すれば酷暑地帯が最初というのもうなずける。ダーウィンが人類の発生をアフリカと言い、“ミッシングリンク”を予言した事はさすがに大思想家、大研究家として観測に誤りなかったことに頭が下がる。今後、人類の古い歴史が開かれてくれば数々の面白い事実が発見せられ、また想像せられるであろう。自分存命中にはこのような興味ある書物が出るとは考えられぬが、今後の人は楽しみだ

昭和36年8月7日

 連日の降雨ですごしやすくなった。午後1時27度。今年は大変な豊作であろう。6年続きの豊作で天下は泰平。金さえあれば何でも手に入る時代が来た。世の人は血まなこになって金を追い右往左往するだろう。それも困る。成格が何か教育問題で悩んでいるようだが、近いうちに言いきかせなくてはならない。中、高校時代、誤まらずに進ませるには、親がつききりでみてやらねばならぬ。早くそういう時期が過ぎてもらいたいものだ。

昭和36年8月8日

 立秋、自唱して嬉しい。今年の暑さにはほとほと参った。これからは一日一日と涼しく美事な果実が得られる。立秋には文人の遺文が多いが、一種の喜びの中に寂しさがつきまとうのはどういうわけか。読書のシーズンであり、馬肥ゆる季節で、人もまた肥える嬉しい時期でありながら、これを賛美する喜びの文章は少なく淋しさがいつもつきまとう。草木の何となく衰えるサマが人生の終盤を想起せしめるためだろう。人間はいつまでも生きたいのが本心であってみればやむをえない。しかし、名文の書き手が若い人であったうえとは違った遺文が多くなったかもしれぬ。しみじみとする文章は若い者には書けない。(つづく)

昭和39年5月28日

 古稀の祝のことを想い出す。あれからもう2年になる。今日また73歳の誕生日のため大井クラブで例の近親の連中を集めて一席をすごすことにする。あいさつをする。

 僕の誕生祝を諸君とともにするのはこれで3回目である。あの時と今日とで満2年になるが、どんなに変化したであろうか。イヤ余り変っていない。一面から言えばみんなに大きな変動がなかった証拠である。昔は正月が全国民の誕生祝であって僕の郷里では誕生祝は生まれた翌年のその日にやるだけでやらなかった。だからバースデーというのは、どうもピンとこない。白人社会はとくにこの日を重んずるらしいので例の日本人の物真似で近頃大変盛んである。悪いことではない。祝いたく祝えるものは祝うが良い。一休禅師だと思うが、「門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んでいる

 正月が全国民のバースデーに相当(年がわりする)する慣習の中で住んだものの本当の心境であろう。若き者は喜びにあふれ、老いたるものは一里塚のいよいよ終末に近づけると思って各々異った心境で新年を迎えるであろう。小生も一里塚が73を数える。

 昨日、ネール・インド首相が突如他界した。マスコミは一斉に大騒ぎの報道である。74歳だそうだ。僕の来年だ。何ものも逃がれることのできない瞬間がきたのだ。僕にもいつそれがくるかもしれないと思うと、しみじみと「めでたくもあり、めでたくもなし」である。

 ただ今日、最も近しいみんなが、一堂に会して会食し近況を語り合うことは、誕生日であろうとなかろうと良いことに違いないとの意味で、今席の集りも意義がある。みわたす限り、みんな丈夫で結構。生活も一日一日進歩安定していく様子で結構である。

 昔、僕が新聞社にいたころ、時のトップクラスの財界人で藤原銀次郎と製紙界に覇を争うていた大川平三郎という人があって、藤原氏のむこうを張って富士製紙を持っていた。それが古稀の祝いか、還暦の祝いであったか、帝国ホテルの大部分を借り切って大盤振る舞いの大宴を催した。当時は小生も思想的にも生活的にも余リピンとこないで「バカバカしい催しだ、実業家というものは妙なところに喜びを持つものだ」と冷笑をもって列席したことがある。今から30年以上も前のことである。

 それから間もなく王子に合併せられ、製紙の天下は藤原のものとなった。爾来、製紙界といわず財界においても藤原の声望はますます上ったが、藤原氏はいつかな王子を去ろうとはしない。社内は人事の行詰りで窒息しそうな空気であった。いたずらっ子の小生が、太平洋石油株式会社を創立して藤原氏をかつぎ上げて藤原氏を王子から去らしめたものだ。当時の500円の会社で、今の金で20か30億円の会社である。僕にも創立者として中心の一人としてやってもらいたいという話であったが、関係者の大部分を役員に入れてもらうことを条件にして私は役員にはならなかった。

 話をすれば大変長くなるので略すが、それから幾変遷、王子製紙は財閥解体、独禁法のため沢山の製紙会社にわかれてしまった。とにかく変化の激しい時代に生きてきた小生のごときは語れば尽きるところのないほどの激動と興亡の試練を経てきた。その結果は碌として73歳の誕生を迎えることになった。

 先日、交詢社で久し振りに岸田幸雄氏(元兵庫県知事)に会った。色々懐旧の話の末に岸田曰く「君は我々同窓中では、最も活動的な男であったが、結局これというものを握らなかったネ」といった。これは少々小生を椰楡したものであったろう。「つかむというのは何だネ? 俺は天下をつかもうとしたができなかっただけだ。君は何かつかんだかネ」彼黙す。「参議院でもつかんだつもりか。イヤ、君は金を、それも僕がいえば小金をつかんだのだろうが、金は金でいつまでいっても金だ。大小はあってもネ。それも社会を左右するほどのものならともかく、ただ生活が派手にやれるほどのものじゃないか。五十歩百歩だよ。マァーお互いにゴールに近寄っただけのことだ」。(「日記より」おわり)

 「追悼集」には、告別式の写真をはじめ、三豊中、三高時代から成格さんのお宮参り、軽井沢時代、そして最後に一家の写真が掲載されています。その一部を紹介します。

・成格さんお宮参りの日。昭和19(1944)年の衆議院議員時代(玉川用賀自宅)
・軽井沢の鬼押し出しにて
・成格さん英語スピーチ優勝を記念して(昭和36年7月)
・大井の自宅にて

【岸井成格さんの父・寿郎さん=番外】

 長い紹介になりました。読み直しながらフェイスブックに連載して、何とも言えない爽やかな気持ちに浸っています。それはこの追悼集をいただいた30年ほど前にくらべて、世の中が殺伐としているからだと思います。とりわけ、安倍・菅二代政権の下で続く政治の現状の下で。そして人間どう生きるべきか、政治・事業はいかにあるべきか等々について、改めて目を開かせられた思いです。

 この端正な追悼集には、序文もあとがきも奥付もありません。編集・発行された方のお名前もありません。「岸井寿郎さんと家族について、最低限伝えておきたいことを記しておく。読むも自由、読まぬも自由だ」と考えたのでしょうか。

 岸井寿郎さん 1891年5月28日生、1970年10月1日没。79歳。岸井成格さん 1944年9月22日生、2018年5月15日没。73歳。

 2015年に頂いた年賀状が最後でした。2017年暮れには、弟・巍次さん(71歳)、甥・大太郎さん(62歳)永眠の喪中はがきが届きました。

 岸井成格さんは、父・寿郎さんの精神を受けついで生き抜いたのだと思います。それだけに、73歳という若さで亡くなられたことは残念でなりません。

 岸井さんを知る毎日新聞のみなさんが中心になって、岸井さん父子の生きざまを世の中に知らせる本を出版してほしいと思います。

 2018年6月3日付サンデー毎日に掲載された倉重篤郎さんと佐高信さんの岸井成格さんへの追悼文を紹介しておわります。

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは

https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年6月28日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その9

 追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。

「正力松太郎氏との秘話」⑤

 僕が東日をやめてからは、日本倶楽部に顔を出すことが多くなった。正力氏は常連で、ほとんど倶楽部を自分の別事務所のように使っていた。岩田宙造、有馬忠三郎、原邦造等も碁の好敵手で、正力氏は顔をみると何をおいても「おい、岸井君一番」と、一番どころでない数番、互いに毒舌を楽しみながら闘う仲であった。そんな中で、陸軍の横暴は次第にこうじ、僕はかつがれて東条内閣の選挙に立候補して衆議院に出た。

 それからの時代は今度は日本そのものをひっくりかえして終戦を迎えた。追放の二重パソチをうけて働らくにも働けない。これから社会をどうリードしようもない。既に50の坂を越して今さら何をかいわんや。静かに余生を送ろう。それが当時の心境だった。日本倶楽部で碁仲間と談じている時、永野護君が「一寸」といって別室に連れていった。

 「岸井君、実は正力君が戦犯容疑で入獄している。同君の仕事および留守家族の一切のことは僕が託されている。君は報知新聞の再興をやりかけたぐらいだ。読売新聞を引受けてくれないか。丁度、今読売は共産主義者に占領されている。君ならやれる。家族も困っている。百万円あれば良い」という。「正力氏は出獄したら社に復帰したいだろう。その点はどうなる」「イヤ、それはそんなことはない。一切自分に一任されているのだから絶対に心配はない」「よし考えてみよう」といって別れた。

 僕は前述のように自分の活動は一切やめる決心をしていたが、友人の楢橋渡君は、今は時めいているが、当時彼はまだ自分の足場を持たない。自分はやる気はないが彼は何とか将来の足場を保持することが必要だと思ったので彼に話した。彼も即座に承知して、百万円つくるというのでこの旨、永野君に伝えた。永野君も喜んで、「いつでもきれいに引渡す」との約束もできた。しかし、楢橋君はなかなか金ができたといってこない。

 丁度弁護士会長の選挙があって立候補していた。遂に会長は不成功に終った。彼日く「読売の方は、弁護士会長選で金を使ってしまったからダメだ」。僕は非常に困った。永野君は正力氏の家族に伝えてあるだろう。困ったけれどそのままにしておくことはできない。その旨永野氏に話して断った。

 永野氏は「残念だな。家族の人々にもいいようがない」といって真に困惑の様子であった。その後、永野氏が、一、二度こぼしたことがあったのをみるとよほど困ったことだろう。かくて読売は引渡しの相手も現われず、正力氏が出獄するまで共産主義者の溜場のような有様で過ぎた。それは結局正力氏の再起の足場となった。社内のシコリをほぐすのに数年かかったが、例のエネルギッシュな活動で再び読売を自分の手に戻した。正力氏出獄後も、僕は永野君から身売りの話があったことは、どんなことになるかもしれないので、絶対正力氏にも他人にも一切話さずにしまった。(「正力松太郎氏との秘話」おわり)(つづく)

「知友の死に思う」①

 近頃は思いがけない時に思いがけない旧友知人の訃(ふ)を知らされる。生前関係の親疎によって受ける感じは様々だが、如何にも己が老齢を自覚させられるので心境は複雑である。

 「何れは自分もまた後程」といったような生半かな割り切り方で、さも故人に日頃無沙汰のお詑びでもなし得たかの様な心境で、自分自身を誤魔化して過ごすことの多い近頃である。

 「正力松太郎氏が熱海の病院で亡くなった」との訃が伝えられたのは去る10月10日のことであった。同君の入院療養中であることは前から知っていたし、また今度はどうも病気が重い様だとは関係筋では噂(うわさ)されていたことであったが、現実に「死んだ」と聞かされてはショックを受けた。が、所が熱海であり、その後の様子はわからず、後報を待った。「遺骸は逗子の自宅に引き取られたが、家族関係や事業関係が複雑で、門外の一旧友が罷(まか)り出る場ではなかった。私は生前の自分との接触を走馬灯の様に懐想しながら、同君の冥福 (めいふく)を祈ったのであった。

 越えて23日、まだ正力氏の墓の土も乾かぬ時、TBSの鹿倉吉次君が突如他界したとのことである。これは全く唐突であった。一カ月程前に故杉山幹君の回想パーティーで 顔を合せた時には健康そのもののような顔付で面白おかしく裏話に談興湧いたばかりである。私は自分の耳を 疑うが如く直に関係筋に問合わせたが、もちろん真実であった。取る物も取り敢えず自宅に駆けつけた時に、僧侶が読経していた。

 暫らくして僧侶が別室に退いた時、やっとそのままになっていた病室に入って同君の仏顔に対面した。顔は生前の顔そのままで、少しも苦しんだ跡はなく、今にも物を言い出すかと思われる程であった。聞けば大阪旅行でサンザン、ゴルフをやり、麻雀もやり、元気一杯で帰ったばかりの夜、突如心不全で他界したとのこと。もちろん遺言もなければ病床の言葉らしい言葉一つないのであった。

 両君は現代マスコミ界の両雄であった。互に時には辛辣(しんらつ)な批判を交わし合うが、内心では畏敬しあっている好ライバルであった。正力氏は次々と新しい企画を事業上に盛り、善悪はとに角、常に斯界の尖端を突走らなくては気の済まぬ男であった。虎之門事件で官界の足を洗い、新聞界に飛込んだ経歴が示す通りの働き振り。一方、鹿倉君は新聞社時代の長い下積生活を堪え忍び、一度逆境を脱するや着々とその基盤を築き、時到るや民放に転進し、民放界の第一人者として動かざる地位を固めた。

 両氏はその人生行路でも面白いコントラストを示していた。正力君亡き後の民放の行方など、機会あれば鹿倉君に聴きたいテーマであったが、その機さえも与えず、ソソクサと彼は正力君の後を追うが如く、この世を去ってしまつた。両氏共に84歳、死因は共に心不全。何という暗合か? マスコミの一角に繰り広げられた両氏の競演も、もう見られなくなったのは淋しい。(つづく)

「知友の死に思う」②

 古来、人類は何れの民族も人間の「生と死」という解き難き謎を解かんと苦しみ悩んだ。しかしアラビアンナイトの魔神でも連れて来ないでは、一旦死んだ人間を再び戻し、死の真相を確認することは出来ない。それは科学以前の問題であり、宗教の世界である。聖人といい、誓人といい、あるいは教祖と崇(あが)められる人々が、如何にも解答らしい教理を説いても、結局は本人の信仰如何による外はなかった。だからマホメツトの様に左右の手にコーランと剣を持って民衆を引廻さねばおさまらぬお節介さえ出て来たのが人間の歴史である。

 所詮(しょせん)人間自身が解決し得るのではな<大自然の力のまにまに人間は流されて行く。ただ人間には自殺という自由が許されているが、それも煎じつめれば死に方に尽きる。だから多くの人は最後の時を予想して「自分はこうして死にたいという感懐を洩(も)らす人があるが、それもただ希望に過ぎない。身近な所を考えてみても毎日新聞の創始者の一人本山彦一氏は「自分は死ぬまで仕事をしたい。死ぬ時は仕事をしながら死ねぬものか」と洩らしていた。鹿倉君も「死ぬ時は突然コロリと死にたいものだネ」と。正力君は病 院で主治医の注射を受けると手を振って「アアもうこれで良い。これから東京へ帰るんだ」といいつつ息を引き取ったとのこと。

 現代の英雄として仰がれる英国のチャーチル氏は晩年、友人や待医から養生法などの説教を聞いていたが遂に「もう生きるのが面倒臭くなった」という言葉を残して他界した。 今私がこんなことを書いている間にも、運命に反抗し自らその生命を断っている人間が何人かいるであろう。自殺は人間の特権であろうか。後期ローマ帝国のハドリアヌス皇帝は衰頽(すいたい)したローマ帝国を再び地中海全域に君臨する大帝国に再建した賢帝として誉高い名君主であったが、晩年病気に悩まされた。帝は病苦に堪えかねて遂に自殺を決意し、側近に仕える奴隷(どれい)に殺してくれと頼んだら、奴隷は逃げて行方をくらました。

 今度は侍医に毒薬を飲ませろと迫ったら、侍医自身が自殺してしまった。帝は遂に自ら死ぬ以外に途はないと悟って、やっと短剣を見つけ出し、将(まさ)に自刃(じじん)せんとする時、側近に取押えられて短剣をもぎとられてしまった。帝嘆じて曰(いわ)く『誰でも死刑にすることが出来る自分が、自分自身の生命を断つことが出来ぬとは何事か』と悲しんだ。そして宮中を逃げ出して餓死に等しい生活でやっと自分に終止符を打ったという。自殺さえも出来ない人はハドリアヌス帝だけではあるまい。

 今は科学の時代だという。然り。これを肯定するに吝(やぶさか)ではない。しかし人間の『生と死』は科学の力を以ってしても如何ともすることの出来ない永久の謎であり、神秘である。若い時代の友人達と人生間題を口角泡(あわ)を飛ばして論議した時代は、それは一種の思想的遊戯であった様だ。近頃はそれが具体性を持って自分独りで考えるようになったのは、単に脳細胞の狂いだろうか。

 ああ、弱き者よ汝の名は人間。 

(昭和44年10月26日付。東京ポスト「山の手日記」より転載)(つづく)

「日記より」①昭和36年4月10日

 今日は婦人の日だそうだ。女の日ということだろう。男の日、女の日、一体何を意味するのか。近頃しきりに政界でも休日増加を論じている。働く者の心は彼等にはどうもわからないらしい。日本民族の将来のためスバラシイ政策を樹立する人はいないものか。思切って年500億位を投じて海外移民を促進するような政治家がほしい。
昭和36年5月18日

 梅雨近くなって毎日どんよりした天気が続くが、今日は珍しく天気が良い。5時10分に起きたら巍次が早起きして雨戸は開け放たれている。庭木を廻ってみるに梅は実がドッサり付いている。梅の下のバラが沢山蕾を持ち、7、8個咲いている。うすい赤色が目覚めるように美しい。一枝を切って鏡の前に投入れる。奇麗だ。昼食後、ベランダにいると慶子がとんできて鉢のザクロを指し、「ご覧なさい。今年は沢山花をつけますよ。小さい花の誉が小さな枝にビッシリです」「エッ?本当か」。よくよく見れば、蕾が一杯だ。僅か内径一尺立方程の鉢の木がそんなに花を咲かせるとは驚いた。今見る限りでも3,40は咲くだろう。4月初め頃から毎朝、ミルクのビン底に残ったのを集めて、薄めて君子蘭とザクロにかけていたためだろう。ミルクが肥料に良いことが証明せられた。これは面白いと思わず叫んだ。花の咲く日を待ちわびる。(つづく)

「日記より」②昭和36年5月28日①

 慶子が忙しく数日間「富士屋」へ往復してパーティーの準備を進めていたが、いよいよ当日が来た。何だか自分のことだか他人のことだかわからぬような気持ち。「和服にしますか、洋服ですか」との質問にも確答しなかったが、いよいよでかける時に社交服と決めてでかけた。

 会場は3階、全階を提供してくれたので本当の水入らずだ。生花もきれいにできてすがすがしい気持。慶子が開会の辞を述べ、岩田君が祝辞。そして僕が70歳のあいさつ。

 人間七十古来稀なり。日本人は明治に入って西欧思想が受け入れられる前は、思想といえば論語であり孟子であった。孔子の説も色々批判すべきであるが、とにかく東洋の大思想家であり、政治学者であり、倫理学者であり大したものだ。今から孔子や孟子の時代を振返って想像してみれば、当時の人が70歳まで生命を保つということがどんなにむずかしいことか。当時から人生50年といわれている。孔子も「我十有五而志学」といってから50にして天命を知ると人生の完成を50で区切っている。すなわち、50まで生きれば天寿を全うしたものであり、なすべきことは50までに仕上げなければならぬと思ったのであろう。人間完成後、なお20年生きのびるのが古稀だ。古来稀なりも無理からぬ。

 これに自分が達したことを思うと何とたわいのないことかとしみじみ感じる。ただ平々凡々と仕事をしたようにみえるが、何もしなかったといっても良い。しかし、何をして何になる。何もしなかったからといってどうということもできない。ある者は人生を虚無と断じ、ある者は人生を苦悩の世界と断じ、ある者はドラマと感じ、ある者は笑劇と断じている。しかし何者が普遍的結論を下し得たろうか。結局人生不可解と諦観に逃避するのがオチである。

 自分も心づいてから、人生問題をはじめ、各種の思想問題にひき入れられてきたが、結局、何ものにも達せず、現実の環境に迫られて馬車馬のごとく働いてきた。ある時は文学者になろうと考え、ある時は思想家を志し、ある時は政治家たらんとし、ある時は財界にも幾多の変遷をたどっている間に人生完成の50年は全く夢のごとくに過ぎ、さらに古稀を迎えるにいたった。

 静かに考えてみると、あまり経済的苦しみもなく、したいことをして晩年を迎えることは全く幸福と感ぜざるを得ない。今自分がすべて快よく感じることは他人を深刻に苦しめることなく過ぎたことである。今日の自分を仇敵視するものはまずない。また大きな財産を持たぬ身としては身辺のものから死後、相続関係から、自分の死を早かれとひそかに思っているものもないはずである。最近独立した岩田君は八面六臀というか、一人十役の活躍で、すでに困難な広告界の中堅にのしあがり活躍している。年わずか35歳である。(つづく)

「日記より」③昭和36年5月28日② 

 自分は東条時代に逮捕され、株殺されるかもしれなかった身である。敗戦後は追放されたが同僚や友人たちが、追放解除にやっきとなって運動しているのを見て「お気の毒な人たち」としてみていた。時に成格一才、巍次は生まれたばかり、もはや、政界にも志を断ったが、せめて文筆だけは捨てずに、本当の声を世に出してやろうと報知新聞再興を志し、スタートしたが、追放の追いうちでオジャンになった。

 爾来、晩年を静かに後輩および子供らのために陰のアドバイザーとして世を送る決心をした。その時の報知再興の志望の時、宅の門を叩いて秘書となったのが岩田君である。丁度16年前、君19歳の時だ。今となってはほとんど自分の分身のごとき交際が続いている。その岩田君が一城の主としてデビューするのをみたい。また、幼いといっても高校だから少年から青年の間に入ろうとする成格、巍次の社会にデビューするのもみたい。

 先日、大平官房長官の就任祝賀会があった。それまで一度もこのような選挙区関係の会合には顔を出さなかったが、もはや、選挙区の形勢も定まっている今日、今までの自分の心境の一端を発表するものも無駄であるまいと思って出席した。

 その時、宴の始まらぬ前に、世話人から「岸井先生一同を代表して祝辞を述べて下さい」との依頼があったので立った。

 「大平君が官房長官に就任したのは郷里の喜びであり誇りである。どうか今後とも研鑽して国家のために働いてもらいたい。本日一同を代表してあいさつするのは、私より他に適当な人が沢山あると思うが。世話人の指名もあるので一言お祝いを申上げるとともに私の心境をチョッと申上げたい。大平君は中学の後輩であり、世間では私が相当手を貸していると思うだろうが、私は追放以来、追放解除のためGHQに運動するのは一切やらなかった。政治には志を捨てて、静かに晩年を送るつもりでいた。選挙ごとに郷里の候補者から、助勢を頼まれた。大平君自身は頼んでこなかったが、関係者からは度々あった。しかし、私は追放をうけた身が未練がましく選挙運動に顔を出すことを嫌い、一切何者にも応援はせず、いずれは誰かが選挙区を掌握するであろう。力がないものが出てもいつかは没落する。形勢は自然に定まる。かえりみないのが人材の胎頭を促す由所と考えたからだ。だから、大平君も決して私と親密な間柄ではない。むしろ非常に疎遠な人である。しかし長いこと苦闘の甲斐あって官房長官という内閣の大番頭になったのだからめでたい。選挙区もどうやら定まったらしい。一面からいえば後輩の待ちわびた形勢である。その意味からも大いにめでたいとお祝いを申上げる。ただ一言、最近の新聞などでみると池田首相の言動に対して、大平君は神経質すぎる。政治家でもトップクラスになると公私を問わずその人の裸の姿がありのまま出てくるものだ。周囲でいくら心配してもその人の持味はまるだしになるものなので、池田首相がそのために失脚することがあっても大平君が、自分の心づくしが足らぬと考えることはない。最善を尽すのは良いが、そのために健康まで害することだろうから、ただ一言、これだけのことをお祝いの辞に添えておく」といった。(つづく)

「日記より」④昭和36年5月28日③

 その言葉は大平君のためでもあり、自分の立場を表明するためでもあった。僕が追放された時には自分のあとに推せんするだけの人物がなかった。また推せんして苦労させても受け入れ態勢ができていない人間には仇になる。少なくとも代議士として立つには相当な人間でなければならぬ。力足りぬ人を推せんすることは個人的にも社会的にも罪悪である。 孔子の「小人は養いがたし」は実に味わいのある処世哲学である。人間は良き説を聞かんをするものはまず自らの受け入れ態勢を養わねばならぬ。いかに貴重な言葉といえども受け入れ態勢のできていないものには大きな仇となる。

 ようするに善も悪も貧困も、みな自分の修養の一程度によってわかれていく。一にも修養、二にも修養である。今日の会合は自分より、後輩ばかり、しかも親子、孫程度の人ばかり。結局、今言った言葉もとりよう一つで善し悪し、正邪いずれともなるであろう。私は自分の一生をかえりみて前述のように怨恨をかまえたと思われる人もない。財産的に損害をかけたこともない。また貧困にあえいだこともない。失意に没入したこともない。良き一生を送ってきたと思う。しかも現在は最も安定した時である。

 この時、古稀を迎えるのは幸福だ。それに少し言いがたいことであるが、妻は非常に料理が上手だ。今、自分は外出して他の料理を食うよりも、自宅の料理の方が上等だ。外に出て食いたいと思うのはうなぎ、ふぐ、スッポンだけだ。この意味でもかような環境であることは晩年の自分は幸福だと感じている。あまりほめていると妻の鼻が高くなりすぎるので、この辺でよすが、ただ気がかりなのは子供がだんだん料理に敏感になることだ。料理に敏感だと、人間は憶病になることがある。またチョッとしたことのために健康を害することがある。同じ一家で暮している子供とはいえ、別料理を食わせるわけにもいかぬ。それで時々問題をおこすことがあるぐらいで、これも幸福すぎる現象である。今後、妻がさらに老人食に上達してくれると、あるいは岩田君のあいさつにあったように、ますます長命するかもしれない。あまりいっているとおのろけになってもいけない。皆さん集まってくれてありがとう。今後おたがいに幸福に暮らそう。(つづく)

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年6月21日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その8

 追悼集「岸井寿郎」には「久富氏の死」「正力松太郎氏との秘話」「知友の死に思う」「日記より」の5編の遺稿が掲載されています。この遺稿の中にも身辺のことに加えて、激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。

「久富氏の死」①

 (前略)僕が初めて久富君に会ったのは昭和6年、僕が政治部長になった時であった。いかにも威風堂々の偉丈夫が政治部にいた。それが久富君であった。仕事をしているとなかなか細かいところに気のつく男であった。それから僕は同君を注意した。満州事変から上海は事変と大変動の時代であった。新聞社、殊に政治部は毎日毎晩、一刻も息を抜くことのできない緊張の時代だった。その上僕は印刷部長兼務という全く新聞社では異例の激務であった。久富君といわず部員全員は必死の健闘を続けていた。

 時も時、僕は政治部員時代や印刷部長時代の不摂生のたたりで身体には異変があった。それは消化器の全機能が全く癒病しているというのである。

 時の胃腸病の大家、南大曹博士から、『命が惜しければ絶対禁酒と食物の摂生』とを厳命せられていた時であった。1日の睡眠3、4時間、昼食などトーストに番茶だけ。バターもジャムもつけてはいけないというのである。今思い出しても「よく持った」とため息が出る。

 やがて政治部の立て直しの時が来た。僕は久富君を副部長に抜てきしてデスクに据えた。先輩、奥村不染氏に「岸井君は乱暴な人事をやるネ」とからかわれたのもその時であった。久富君の入社年限が短かかったためであろう。しかし、その時代はそんなことに構ってはいられない激動期であった。幸にして久富君はよくその職責を全うしたのみならず、僕の病気による欠陥をカバーしてくれた。新聞は常に社会からも畏敬された。一面、社内にも本山老社長の急死から様々な異変が起った。僕は転じて営業局次長となった。その時久富君は僕の後を襲って政治部長になったのである。久富君と僕とは文字通り内外共に激動の時代を密接に協力して過ごした。外からはほとんど二人は一身同体のように見られていたようであった。

 爾来、私は吉武鶴次郎老専務の下にまた新しい仕事と取組んだ。が、社内はこの数年間に他の企業体が10年、20年にも相当する変化を経た。僕の健康は既に回復することができなかった。このまま仕事を続ければ生命も保ち難い。一方、新聞事業に対する僕の情熱もさめていた。社内外の情勢も落ち着きをみせている昭和12年、僕は意を決して新聞から身を引く決心をして辞表を出した。その足で久富君を東京会館に呼んだのである。

 やってきた同君は何か異様な空気を察知したのかも知れない。「おそくなりました。何のお話でしょう?」と沈痛な面持ちである。僕も暫く押しだまっていたが、おもむろに口を切った。

 「実は予め君達に相談するのが道だが、相談すれば僕の意思が曲げられることは必定なので独りで腹を決めてしまったのだ。僕の健康は君も知っている通り自他共に認める難症だ。また、一方、新聞事業に対する昔日の情熱も消えてしまった。今社内も何とか落着いている。この時を逸しては、このままズルズルと心にそぐわぬ仕事に余生を費やしてしまうことになる。長い間親交を続けてきた多数の諸君に対しは自責の念にたえないのだが、この際引退したいのだ。それで今、限に辞表を庶務部長に渡して来て君にここへ来てもらったのだ」と一気に心境を訴えた。(つづく)

「久富氏の死」②

 久富君は一瞬蒼白となって首を垂れていたが、
 「それは誠に困ります。ただでは済みません。社に対して不平のためではありませんか?」
 「誰でも職務についていつもフルに満足している人はあるまい。いや不平などは少しもないと白々しいことを君にいう気はないが、引退の意を決したのは、それだけではない。健康が第一だ。社の仕事に情熱を失ったのが第二だ。そこで僕はみんなに頼むのだ。この機に僕を解放してもらいたい。僕は人生をこれからやり直したいのだ。君の部員は人材揃いだ。万一、このために軽挙する人があってはその人の前途を誤る。僕は今君にいったとおり既に辞表はその部署を通して公式に大阪本社に出している。無理なことは重々承知の上で君の了解を求めるのだ。また、多数友人の説得を頼むために君に来てもらったのだ。今さらどうにも変更はできない」。 

 久富君は沈痛な面持ちで幾度か翻意を迫ったが、僕の決意の動かし難いことをみて「兎に角、私は4、5人の諸君と相談してまた、夕方ここにきますから岸井さんはここにいていただきたい」といつてトボトボと会館を出た。夕方、5、6人がやってきて色々興奮する場面もあったが、私は只々、諸君の了解を懇請した。

 「すでに庶務部を通じて辞表を出したのだから今更、何ともならない。元から印刷局の諸君、営業局の諸君にもそれぞれ了解を得なければならない。諸君の情誼は心から感謝しているが、これから他の方面の後始末をしなければならぬ。許してもらいたい。ここ暫らくは自宅では誰にも会えない。これも了解してもらいたい」といって会館を出た。

 今、久富君の計に接して生々しくその日の記憶が蘇えって離れない。僕にとって久富君は実によきパートナーであった。政治部長として良き女房役を得、良き後継者を得た。その後久富君は編集総務となり、戦時中は下村海南情報局総裁の下で次長となり、縦横に活躍したが、国の敗戦は同君を世の中から葬り去った。二重、三重のパージで蟄居の外はなかった。

 僕は衆議院議員として、また言論、出版関係出として二重の追放を喰って、同じ配所の月を眺める身となった。爾来、同君は持前の幅広い活動を開始した途端に病魔に襲われたのである。頑健そのものの体躯、それに似合わぬ細心の心遣い、厚い情誼、同君の好きな真に稀にみる持領の材であった。君を追想すれば数限りない。(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」①

 今流行の言葉でいえば情報産業の雄、正力松太郎氏が84歳を一期として今暁逝去したとNHKがニュースを報じた(注:1969年10月9日)。自分は自室でニュースを聞かなかったが、慶子が直ぐ伝えたので吃驚した。 

 一昨日、山下芳允君来訪の時、あるいは彼が正力氏の近況を知っているのかと思って聞いてみたが、「最近は大分良くなって、退院して動きまわっているよ」とのことで、自分が理解しているのとは大分違っているので「そうか」といっただけで正力氏についての話はそれだけで終ったのだが、やはり悪かったのだなと思った。

 自分と正力氏との関係は一時は非常に親しくもあり、また色々のできこともあったが自分が新聞界の足を洗ってからはだんだん疎遠になっていた。最後に会ったのは41年の秋ごろ、坂本直道君の出版記念祝賀会の時だ。当時、互になつかしい話をしたものであった。その時既に、見たところ足許が一寸頼りなかったことを思い出す。その時同君が娘婿の小林を副社長にしたことを喜び、彼は学生時代、東大きっての秀才であり、官界においても群を抜いて昇進した話をアケスケに喜んで話していたことが印象的であつた。この際、一寸、同君と自分との関係を書きとめておこう。

 正力氏は役人上りであった。山本権兵衛内閣で警視庁の刑事部長と雷名を挙げたのは衆知の通りだが、当時の大逆事件で内閣が崩壊した当時、経営不振で歴史ある読売新聞も気息エンエンたる有様であったが、彼氏どんな確信があっか、後藤新平氏に懇請して資金を得、読売新聞を買収して乗込んだ。当時新聞界に二大紙の村山、本山両鬼才が東京にまで進出、東京朝日、東京日々は隆々たる勢で拡大しつつあった。東京には、尚、国民新聞に老いたりといえども徳富蘇峰健在であり、報知新聞には三木善八郎がいた時代である。「役人上り何するものぞ」というのが新聞界の通説であった。

 事実、読売は依然として背伸びをしても思うようにならなかった。しかし、正力氏は真険に研究もし苦心もしていた。僕の日日新聞の友人に宮崎光男という男がいた。小がらで可愛いい顔の男であったが、それがどういう筋からか正力氏に引抜かれ、読売に入り編集の一部を担当していた。当時、日日新聞は旭日昇天の勢で四辺を風びする勢であったから、日々の風を読売に植付けるためであったろう。宮崎君が編集でメキメキと地歩を進め、編集の全面をやり繰りするようになっていた。しかし新聞そのものはまだ問題にならなかった。

 一日、僕に会って話した時、突如として、「岸井君、うちの正力社長が君に会いたいから橋渡しをしてくれというんだ。君、会ってくれないか」「何の用事だネ」「いやいろいろ新聞のことについて教えてもらいたいというのだ」(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」②

 当時、自分は印刷部長で盤根錯節の印刷部を2年がかりで再建してホッとしていた時である。しかも当時、各新聞の競争は血みどろの時代に、読売の社長に会い、しかも内々で会うということはどうも後暗いことだし、万一噂になればとんでもないことになりかねないので、自分はことわった。ところが、その後数日してまた、宮崎君が「君迷惑だろうが、僕を助けると思って会ってくれないか。僕は懇々と何度でも頼まれるので困っているんだ」。

 色々考えたが日日時代兄弟のようにして過した飲み友達であり、心から親愛していた宮崎のことで、これ以上ことわることができなくなったのみならず、変り種の正力という男に興味もあった。会うだけのことで何も社内の秘密を話すわけではないのだから新聞人が人に会うだけをビクビクする必要はないと思った。

 「それでは会う」といったら数日にしてまた宮崎が訪ねてきて「何月何日、山王の○○茶屋に来てくれ。ボクと小野瀬顧間(新聞界の長老)が正力社長と同道する」という。これは少し変だなと思ったがその時間に宮崎につれられて茶屋に行ったら、正力氏と小野瀬の二人がもう待っていた。

 簡単にあいさつして酒宴になってみんなが酒面になった時、正力氏は「岸井さんに迷惑なのは重々わかるのですが、一つあなたに印刷のことを教えていただきたいと思いまして」と話は核心に触れてきた。
「良いですよ」
「実は最近の日日新聞の印刷の見事なことは全く天下の見ものですが、一体どうすればあんな立派な印刷ができるのですか」

 「ハアーそれは簡単でもあれば、また複雑でもありますネ。一口にどうすれば良いかといわれてもチョッと返答ができかねますが、しかし、やり方をお教えしても宜しい。たとえば写真スクリーンの目を2割こまかく直すとか、良い機械を入れるとか、良いインキを使うとか、良い活字、良いローラー……。しかしそんなことは何でもない。いくらでもいいますが、それで実効を挙げるということとは別ですよ。あなたはそれを実施できると思いますか。実施するのは工場の幹部です。工員です。それを自由に動かし、当方のいう通りやらせることができれば良いんですよ。要するに良い印刷はその人をつかむか否かにあるんです。僕が今、細かいことをあなたに説明してもおそらく皆さんはわかりますまい。あなたはまず印刷の細部を勉強してからでなければならず、腹心の工員をつくらねばならぬ。おわかりですか」(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」③

 正力氏はしばらく沈痛な面持ちでジーッとしていたが「良いことを聞きました。わかりました。今日はどうぞ一つゆっくり召上って下さい」といって私の顔を見て笑い出しだ。一瞬、緊張した空気はほぐされた。それからは主として私は小野瀬に向って昔からの新聞の歴史などを聞き3、4時間も談笑して別れた。

 会見についてはいう者もいないし、また内容が別に社の機密を漏洩したわけでもないので自分は晴れ晴れとした気持で過した。しかし、読売新聞の印刷はなかなか良くならなかった。その後、東日から小泉某など小生の部下を迎え入れた。鋭意改革を企てたようだが、世に認められるような印刷にはならず、したがって会見が問題になることもなかった。

 当時「新聞の新聞」という内報があって、僕のところにも、東日の印刷が評判になっているものだから、年中やってきていたが、正力氏との会見後一年以上も経ったある日、突然、「岸井さん、秘中の秘を聞きこんだ。正力さんと色々話していたら“僕は東日の岸井君に新聞の大切なことを教わった”。何を教わったか聞いても答はない。“秘中の秘”だというんです。何ですか」という。「いや雑談だよ。正力君がいうのは何を意味するかしらぬが、俺は新聞に別に秘密なんかありゃしないというようなことを話しただけだ。正力君が何か 役に立つことがあったのかしらんが俺には覚えがないネ。正力さんに聞けよ」といってとりあわなかった。

 その後、同君は何年もの間、いわゆる“秘中の秘”をかぎ出そうと僕を誘ったが、とうとうそのままだった。正力氏は人心をつかまずには何もできないということが多少面恥しかったらしい。だから僕もそのことは誰にも洩らさずに今日になった。

 同氏の訃に接して今さらながら、当時の光景がマザマザと目に浮かぶ。正力氏とはその後、普通の新聞人同士の交際が続き、日本倶楽部の常連で良く議論を戦わせた。 (毎日新聞百年史=工場編=によると「政治部長から、東大出の岸井部長がきて、工員一人一人と面接、調査を進めたあと社で初の従業員就業規則をつくった。おそらく岸井部長の草案によるもの」と記されている)(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」④

 販売部の人々があわただしい動きをしている。何事かと思っていると報告が来た(営業局次長当時)。読売の正力社長が暴漢に襲われ肩を切りつけられたという。「ヘエどうしたんだ」「いやそれが本社に出入りする熱田です」「エッどうしたんだ」「わかりません」「金をゆすり損ったのかな」。その日は不思議に思いながらそれ以上はわからなかった。 私の体は、いわゆる城戸事件以来(これはまた別の機会に書きつける)弱っていた。自分の思うような結果にならなかったことが健康を害したのだ。自分はもう日日新聞の復興に熱意を失っていた。吉武氏(鶴次郎専務兼営業局長)は異状に心痛の様子だった。当時の販売部長は丸中一保君(東大出)だった。

 同君は仕事に熱心で、日常の仕事には幾分誇張らしいところがあった。ところが、〇中君が突然姿ををくらました。しばらくは極秘が保たれていたが、だんだん新聞界でも事件の片りんが伝わるようになった。同君は正力刺傷事件のチンピラ暴力団に言葉の上で引込まれ、暴力団員は裁判所で「東日の丸中部長と相談しての上でやった」といったらしく、丸中君は数回、裁判所に呼ばれたのであった。これは新聞界としては大問題だ。

 東日に対する陰の誹謗は噴々たるものであつた。城戸事件以来、東日は姿勢の建直しに躍起の際、これは被るべからざる大きな傷である。自分も一回検事局に呼ばれた。吉武氏は当の責任者として矢面に立たされた。これは社内の高石、奥村、山田など反対勢力のこの上もない吉武攻撃の口実となり、社の内外は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。

 丸中君はその責任に耐えかねて失踪したようだ。この失踪でまた、東日の示唆で正力刺傷があったということが事実となってしまい、遂に吉武氏の失脚となり、営業局長には山田潤二がなった。自分も当の責任者として冷飯の座に坐ったままとなった。丸中君はその後どうしても姿をみせず、数年後、伊豆半島の海岸の洞くつの中で自骨となって顕われた。全く気の毒であった。かくて正力氏の刺傷事件は、東日にとって、吉武、岸井退陣など土台をゆさぶる大問題の結果をもたらした。城戸事件、吉武事件、不思議なものである。何か一つの運命が連続して働いていたような感じだ。

 時々、鎌倉に出かけた汽車の中で正力氏と一緒になった。この事件については最後の出合いの時、僕から「いや熱田の事件はとんでもない濡衣でした。大変迷惑なことだが、事実、東日は何のかかわりもないことだった」。「イヤーそれは良くわかっている。マァ一つお互いに新聞界のために手を握って行きましょうや」といって両人の間では呵々大笑の話題にすぎなかった。それから後、時々汽車で会ったが熱田事件が話題になることはなかった。(つづく)

(福島 清)

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2021年6月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その13 南房総の野菜畑(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦
全文は 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443545.html

 野菜作りを始めてかれこれ10年になる。房総半島南端の館山市に実家が残っていて、目の前が畑になっている。両親は2人とも亡くなって、だれも住んでいない。私がいま住んでいるのは習志野市で、週末になると妻と2人で実家へむかう。一般道路だと距離にして110キロ余り、片道3時間半かかる。

 畑の広さは、登記台帳を見ていないが、目見当では400坪から500坪ぐらいはある。趣味の家庭菜園としては、3分の1もあれば充分である。しかし、畑を遊ばせておくのがもったいなくなり、ついつい畑いっぱいにあれもこれもと植えてしまう。

 そうしたくなる理由はほかにもある。実家のあるあたりは、房総半島でもとくに暖かく、霜の降りることは何年かに1度しかない。ナバナ(菜花)は9月に種をまくと、11月半ばにはつぼみをつける。サニーレタスは1月でも2月でも、種を蒔けば芽が出る。春夏秋冬を問わず、その気になれば、多彩な野菜作りのできる恵まれた自然環境といえる。そんなこともあり、畑にはいつも10数種類の野菜を併行して作っている。

 商品作物を生産しているのではなく、あくまでも自家消費が目的の家庭菜園にすぎない。たくさん作ったところで、親戚や知り合いに配るだけで、一円の収入にもならない。にもかかわらず、年がら年じゅう時間に追われ、のんびりしている暇がない。毎週1泊2日で、実働1日という日程にも無理があるのだが、とりわけ、4月下旬から6月初旬までと、9月から10月中旬までは忙しい。

 今年は4月下旬からの1ヶ月間に、ソラマメ・ジャガイモ・タマネギ・ニンニク・ラッキョーを収穫し、そのあとにスイカ・ナス・サツマイモ・トマト・キューリ・ゴーヤ・オクラの苗の植えつけや種まきをしている。この時期に夏秋の作物冬春の作物を交換させる。早いはなしが、畑の衣替えをするわけだが、作物の出来具合や天候の成り行きを見極めるのが難しい。そのため、収穫と植えつけの進行が混乱して、いつもきりきり舞いになる。 田舎の朝は早い。夏の季節なら4時すぎには目が覚める。起きたらすぐに畑にでる。夜間にたっぷり水分を補給した野菜が瑞々しい。ぼんやりと眺めているだけでなんとなく気分が高揚する。1日のうちで私の大好きな時間である。陽が昇るのと前後して、あちこちの農道を軽トラックが行き交う。農家の人たちが特産の花卉を栽培するビニールハウスを見てまわっているのである。ハウス内の温度と換気の調整をするのだが、一番の目的が何かといえば、花卉の育ちぐあいの観察と健康状態の診断にあるのだという。

 農家の人たちほとんどは幼なじみである。顔を合わせれば、声をかけあう。あれこれ立ち話をしているうちに、作物の育ち具合や病虫害・鳥獣被害などの最新情報が得られる。彼らは自分の畑だけでなく、よその畑にも目配りを利かせている。私の家のような野菜畑のようすまでよく分かっている。

 同じ種類の野菜を同じように作っても、豊作の年もあれば不作の年もある。一番大きい要因は、なんといっても天候ということになるが、もちろんそればかりではない。今年はソラマメ=写真・下=が私の家のあたりでは不作だった。私の場合は4合の種から90キロ余りを収穫しているから、それほど悪い成績でもなかったが、栽培農家のなかには収穫する前に後片づけをすませてしまったところもあったという。

 ソラマメは連作障害が厳しい。その対策として土壌消毒剤や土壌改良剤を用いるのだが、それも効果がなかったということかもしれない。私も連作障害に悩まされ、栽培方法を変えてみたり、土壌改良剤を試みたりしたが、うまくいかなかった。いまは土壌改良剤も使っているが、少なくとも2年の空白期間を設けるとともに、ソラマメ以外のマメ類も作らないようにしている。ところが、今年の場合も、収穫前に樹が枯れてしまうとか、しっかり実をつけていない箇所がそこかしこにみられた。原因は連作障害のせいだという意見が多いが、春先の低温のせいだという人もいて、確かなことは分からない。

 病虫害と鳥獣被害も野菜の栽培を難しくしている。

 ソラマメでいうと、アブラムシがつきやすい。1つの株から何本もの幹が伸び、春先に花が咲くのだが、ちょうど実をつけ終るころになると、決まったように、一番上のやわらかい芽の部分に、アブラムシが発生する。アブラムシを見つけたら、その樹だけでなく、畑全体のソラマメの芽を摘んでしまう。すると、それ以上は広がらない。

 ところが、今年にかぎっては、早くからアブラムシがついた。まだ満足に実がついていないから、芽を摘むわけにはいかなかった。消毒することも考えたが、妻がそんなことをしたら人にあげられない、といって反対するので、それもできなかった。仕方がないので、ソラマメの1本々々を見てまわり、アブラムシを払い落していった。

 翌週に行ってみると、払い落としたはずのアブラムシがむしろ勢いを増している。こんなことをしても埒が明かないと思ったが、2人で何時間もかけて払い落としていった。3週間目になって、我慢もこれまでと思って芽を摘むことにしたのだが、そのときには、アブラムシは幹の下まで広がっていた。このままだと全滅しそうな気がするし、そうならなくとも、まともなものが収穫できるとはとうてい思えなかった。ところが、次の週になって妻と2人して驚いた、というよりも、目を疑った。アブラムシは1匹も残らず、まるで何ごともなかったように、ソラマメ畑から姿を消していたからである。

スイカ

(途中略)

宮本常一の名言がある。

 自然はさびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。

 このあとに「そのあたたかなものを求めてあるいてみよう」と続く。1960年代のTV番組『日本の詩情』(日経映画社)のナレーションである。

 耕作を放棄した田畑は、たちまちに草茫々の荒地に姿を変える。自然に回帰しようとするのである。自然とは人間の力の及ばない領域の総称といっていいかもしれない。私たちは人の気配の消えた風景に心を癒されることはない。まして、そこで生まれ育った人なら、なおさらのことである。

 だが、物事には始めがあれば終わりもある。

 これから5年もすれば、否も応もなく、私は80歳になる。常識的に考えれば、畑仕事はなんとかこなせる。とはいっても、車を運転して習志野と館山を往復するのは、体力的に難しくなるばかりでなく、はた迷惑な行為として嫌われるのはいうまでもない気がする。

2021年6月15日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その7

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36㌻にものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」から、抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」⑪

 昭和20年8月15日、どこかで用意されていた“平和”という言葉で終戦を迎えたのは、それから間もなくのことでした。その後暫くして、古閑少佐と特高の一人は自決をして果てたということを聞きました。

 終戦を迎えながら、自ら命を断たなければならなかった人達が余りにも痛ましく、しかも別荘に関わりのあったことがいつまでも痛く心に残りました。もう一人の特高は、夫に就職の依頼にきました。あの誇らしさは一朝にして失われ、見るかげもなくうらぶれ果てた憔悴の姿でした。しかし生きていてくれたことが、あんなにうれしく私の心をゆさぶったことはありませんでした。夫のいう一人一人に与えられた大切な命なのです。

 終戦と共に軽井沢へも政界、財界の人々が次々に集まり、私の家への出入りも多くなってきました。しかし避暑地の冬は余りにも早く、10月6日に四男の巍次が誕生しましてからは日増しに寒さが身に浸むようになりました。夫は大森の山王にあった関係会社の寮をあけさせて、ひとまず単身上京し、総ての準備を整えてくれました。普通の邸を寮に使用していたものですし、留守居の母娘がその儘残って手伝ってくれることになりましたので、夫の生活に支障はありませんでした。

 私は寒さの中で産後の体の回復を待ち、11月に入ってからはじめて東京の土を踏みました。軽井沢で会合を続けていた方々も次々に上京し、軽井沢構想は漸時具体化して行き、日本自由党の結党式をあげる運びとなりました。自由党の名付親は夫で、世界の自由党でなければならないから日本はいらないという意見でもあったのだということを聞きました。しかし夫は間もなく追放を受けました。選挙区の方々が心配して次々に上京し、慌ただしい毎日が続きました。

 その後、名門報知新聞の復刊の企画に加わり、社長に就任し、昭和21年末に復刊第一号を出しましたが、そのとたんにまたまた追放の追い打ちをかけられました。被追放者は新聞、雑誌、ラジオ、映画等広報関係に従事してはいけないということなのです。「政界を急に追放せられた以上、新聞に籠って言論で思う存分やっみるのはむしろ私の本命の仕事」と申していた矢先の出来事でした。

 「まあ、仕方あるまい。戦時中責任の地位にあったことに間違いはないのだから。政治を続けてやれば、俺の体そう長くは持つまいと思っていた。長生きをして若い人達を指導してやろう。また子供で俺に似たのがいたら志を継いでやることになるさ。それで良い」
と私に申しておりました。ある雑誌の寄稿文の一部に当時の心境を次のように記しております。

 『孔子は「五十にして天命を知る」といった。少しはわかるような気がした。孔子程の聖哲も時到らねば志を得ず、退いて後輩を教えて晩年を送った。もし若くして志を得ていたら、不朽の聖哲に達することはできなかったかも知れない。「人間万事塞翁が馬」。それから私の家には平和な日常が続くようになりました』と。(つづく)

「夫を偲んで」⑫

 確かにその通りの生涯に入って行きました。若い政治家や財界人の指導に当たり、表面には出ません。でも夫の意見がその儘政府の見解として大きく各紙面を賑わしたこともしばしばありました。結局は政治に関与していたことになるわけで、当時の日本には夫は大事な人であったと思います。政治関係の方の出入りの他に、戦前やっておりました日本橋の会社と同じ光景も展開されました。就職、金策、食糧その他諸々の用件をたずさえて入れかわり、立ちかわり多くの人々が夫を頼って訪ねて来ました。

 夫は誰がどんな用件で訪ねて来ても大変うれしそうでした。それはお互に心の通じ合う人々であったからなのです。話がはずんでいつしか用件が時局談に移り、時のたつのも忘れている様子でした。

 「良い人間程困っている」、戦後の混乱時にはなお一層その傾向が強くなりました。戦争を大いにあおった人達こそ、恥も外聞も忘れてGHQに取り入っての追放解除の暗躍に躍起となっていました。善悪、清濁が自ずと表われ出る皮肉な時代でもあったのです。

 こうした中で夫は政界から身を引く決心を致しました。そのため、追放解除後はせっかくの選挙区の方々の熱望にも応えられず、厚意を無にしなければなりませんでした。夫もそのことが一番心残りであったようでした。その後は文字通り悠々自適の生活に入りました。毎年軽井沢で7、8、9の3カ月を過ごしました。政界の方々の他に石坂泰三氏、原国造氏など財界人もしばしば訪ねて来られ、碁に興じておられました。

 石坂氏は、東京帝大の4、5年先輩でいらっしゃいます。戦時中と違いまして夫の周囲に機密の会合がなくなり、食事をしながらの氏と夫とのさわやかな政談に心引かれて、つい座を立つのを忘れることもありました。客を迎えることは主婦にとっては生きた学問をさせて頂ける絶好のチャンスでもありました。夫の友人はどなたも非常に家庭を大事にされていたように思いました。決して甘やかすという意味ではなくて、しっかりそこに根をおろしているという感じでした。家庭の重要な意味と、妻や子供にも大いに責任のあることを痛感せられました。(つづく)

「夫を偲んで」⑬

 石坂氏が病身の夫人を非常に労わっておられたことも雑談の中にしばしば出て参りました。また学生であった令息の友人達が毛布一枚かついでぞろぞろと別荘に押しかけて来たので、逃げて来ましたと愉快そうにその様子を話しておられたことなど、人間石坂氏の一面を見せられることも多くございました。

 石坂氏の食事のなさり方、好物など人柄そのままに豪放で大変ほほえましいものがありました。また永野護氏が軽井沢の拙宅に泊られたときのことでした。茶室で一人で庭を眺めておられましたので、お茶をたてて差しあげようと思って参りますと、「世間では僕のことを机竜之助などといっていますが、如何がでしょう。ご主人を大変適確に評価されるそうですが是非聞かせて下さい」とのことに全く赤面致しました。夫のことを勝手に評価して「見損うな」などと叱られている私なのです。

 永野氏は戦時中、玉川へもたびたび来られ、国事に奔走していられた様子も存じておりますし、また前日は大勢の兄弟を親がわりに育てられたという昔語りも聞かせて頂き、私の考えていた永野氏の口から語られるのに相応しい話と、尊敬の念を深めていたところでした。「どうも陰険だということらしいのですがね」と、大変真面目なお話のようでした。

 夫が参りますと氏はまた同じことをいわれました。

 「そういう誤解を受け易いところは多分にあるよ、君」
 「そうかな、気を付けないかんな」
 「上に立つものは警戒心を持たれると真実が耳に入らんようになるからな」
 「そうだな、注意しよう」

 最初は単に笑い話で済む問題かと思っていましたが、噂も疎かにせずに、まず受け入れて考える、その会話が二人の間でさらりと進められて行きました。

 津島寿一氏は、夫の出身地香川県の先輩で、気に入った別荘が見つかるまでと軽井沢の拙宅でしばらく一緒に暮したことがありました。夫人も静かな方でしたが、氏も永らくイギリスに滞在しておられたせいか典型的な英国風の紳士でしたので、あくまでも礼儀正しく、端麗で、人間津島氏の一面を見せるということはありませんでした。夫と時の経つのも忘れて碁に興じたり、経済談義に花を咲かせたりしておられました。

 ある日、二人が碁盤を囲んでいた時、夫人が「その場で勝敗のきまる勝負の世界なんて、厭、厭」と肩をすくめて見せたのが、如何にも優しい夫人らしくて印象的でした。

 料理に凝っていらした氏は、コックを抱えておりましたが、夫人があるとき女中の切り残した細い沢庵のしっぽをつまみ上げて、

 「私は小さい頃、沢庵のしっぽというニックネームでしたの。一番末っ子のせいもありましたけど、実はしなしなしたしっぽが好きでしたので」。

 人間そのものが通の域に達していたのでしょうか、さり気ない話し方をされる方でした。(つづく)

「夫を偲んで」⑭

 私は夫の傍に生き、多くの方々に接することが出来て本当に仕合わせであったと思っております。夫はこうした生活の間に、山歩きも致しました。澄んだ空を眺めながら、「またそろそろ地球を料理するか」、ということで技師を伴ない、別荘番に弁当などを持たせて戦後間もなく鉱山や温泉の探索をはじめました。

 鉱山は東大の石和田章三先生、温泉技師は三雲康臣氏でした。夫は工学、化学共に豊富な専門知識を持っており、また地質学にも勝れた見識を持っていましたので、石和田氏、三雲氏共に夫の意見を尊重して調査を進めておりました。

 いつの頃からか、私は単に出歩きのお伴のつもりでしたのに、すっかり地球の内臓を探る仕事の虜になってしまいました。

 政界に入る前に新聞界から初めて事業界に入ったばかりの頃は、夫も最初から大鉱山に取り組んで大変苦労もし、勉強もし、また大きく儲けもしたようですが、その頃は主に非金属の鉱山を見て廻り、長硅石の鉱山を買い取り、他にまだ海のものとも山のものとも解らない鉱石の開発にも興味を持っておりました。

 「きっとこの白さが役に立つ」といった具合に簡単に鉱山を買い取り、それから分析や、化学試験などをさせてその結果を楽しみにしておりました。それをアート紙、農薬その他に使用可能なものにして業界に送り出しました。

 これより先にも硝子、陶器に同じ苦心の末世に出したものが既に20数年老舗のブランドを誇っています。不思議な才能の持主でした。これだけ投資したらこれだけ儲かるなどということは余り念頭にはおいていなかったようです。もちろん良い悪いは別として金儲けが主でなかったことはたしかで、大事業を引き受けてもらいたいという申し出でには応ぜずに、若く有為な人材を推薦する努力をしておりました。

 一生の仕事として選んだものは儲ける儲けないの問題ではなくて、やはり政治、新聞であったようです。鉱山、温泉の仕事は地球に穴をあけて、無から有を生じて世の中を潤したいということでしたので、様々な試験の失敗を繰り返して成功を見た時の嬉しそうな顔には温かい人間味が溢れておりました。「金は勝手にうしろからついて来よった」と申しておりましたが、全くその通りでした。自由に勝手に生活をしておりましたのに、不思議に経済的には大変恵まれておりました。(つづく)

「夫を偲んで」⑮

 温泉調査もまた楽しいものでした。夫は地質学者の異端者的な存在であった三雲氏の調査技術に惚れ込んで、夏はいつも氏と私、それに別荘番、ある時は写真技師まで伴って浅間周辺と申しましても何十キロも離れたあたりまでですが、隈なく調査して廻りました。地質学的に種々難しい原理はあるのですが、兎に角それらの上に機械で実際にキャッチした地下の脈の形態が合致して行く面白さは、夫ならずとも魅せられてしまいます。

 爆烈口と称する地下深くひそむ小噴火口を探り当てた時は、三雲氏は子供のように嬉しそうでした。勝れた温泉脈の元となるものでした。その近くは崩れ易いので掘るわけには行きません。その上火山の近くを掘ったときと同じように湯がなく、ガスが噴出するということで爆烈口から走り出ている温泉脈を地質、地形などを見ながら適当な場所を何キロ、あるいは10何キロも離れたあたりまで探索します。

 5万分の地図の上に、実際にキャッチした点を記し、その2カ所を結んで延長すると、先に記しておいた爆烈口あるいは火山に間違いなく走って入ります。あるいは反対に探索した脈の線が放射状に走って一点で結ばれ、そこを訪ねてみますと、古い噴火口であったり爆烈口が発見されたりもします。

 大断層の上に建築物がある場合には三雲氏のいっていた通りに大変腐蝕や崩壊が早く、また神経痛その他の長患いの人が住んでいることも信じ難い程適確に立証されてゆきました。強烈な放射能のせいでした。山津波のあったあたりには大断層がありました。

 三雲氏はドイツで地質学、温泉、水源、石油等の調査の修業をされ、ドイツ人の恩師から譲り受けた機械で調査していました。放射能を捉える時、自分自身の体がアースの役をするらしく、食事をすると嘔吐を催しますので梅千を食べながらの作業でした。

 機械の正体は決してみせませんでしたが、現代のものから見てあるいは原始的であったのかも知れません。原始的であったからこそ人間の知恵が徒らに加味されずに宇宙の法則とぴったり合致するということにもなるのでしょう。

 氏は全国に大きな数多い実績をもっておりました。自分の学説を何ものにも侵されまいとする態度はかたくなにさえ思える程でしたが、夫は20数年来彼にのみ任せ、その技量を高く評価しておりました。何万年、何10万年前の地質の成り立ちや法則との関係などから解き明かして行く温泉脈の原理の面白さは、いつしか引き入れられて納得が出来てゆきました。

 山野の下草の枯れているときが一番調査し易いわけですが、夫は体力づくりや山歩きの楽しみを兼ねてのことですので季節を問いません。大体気候の良い時期に出かけますので、三雲氏も大変であったろうと思います。美しい自然の中で、私は夫と同じ目的に深い興味を持ち、瞼しい山道を手をさしのべ合いながら汗し、そして語り合いました。

 火山の周辺に身を置くとき、いつも二人で見に行きました大遺跡展、古代美術展のポンペイ、メソポタミアツタンカーメン、ヴェルサイユ展などの興奮を新たに覚え、溶岩、地層断層、焼石の考察がいつしかそれら古代人の生活様式、美術品の持つ神秘さに話が移って行きました。自然と融和して生き続けた人間を、いとおしむ心に相応しい雰囲気の中に二人はいたのです。それは甘く、はかなく、もの悲しいものでした。その中にとらわれたときいつしか二人の間にも美しい神秘の恋が芽生えていたのかも知れません。今、鮮烈な思い出となって蘇って参ります。

 夫は温泉調査の足跡を各地に残し貢献致しました。20数年行動を共にした三雲氏も夫より一足先に旅立たれました。(つづく)

「夫を偲んで」⑯

 政治、新聞、鉱山、温泉のすべてが夫の人間愛から出たものでした。

 「おとう様は人一人が一生、かかっても難しい仕事を180度の転換をしながらいくつもやり遂げ、何人分もの人生を送られたのですね」。

 巍次がはじめて社会人になったとき改めて驚嘆していました。夫は政治、経済はもちろんすべての新しい知識も絶えず吸収し、世界の情勢に目を向けて的確な判断を下し、後に続く一人一人を大切に指導し続けておりました。夫に接した方々は夫の精神からきっと何かを受けて下さったものと信じています。

 成格は父親のすべてを大変尊敬していたようです。自然を愛した夫は人間そのものをも非常に愛していました。だからその本質や生き方に深く目を注ぎ人間追究の手を最後まで緩めることなく「ジュラント」の世界の歴史6、700頁の本を1日100頁程の早さで読み進み、月1回の配本を待ちかねておりました。核心に触れるところには栞を挟んでおき、私に後でゆっくり読むように、そして時間ができたら一巻から丁寧に読むが良いと申しておりました。

 奇しくも全32巻を読み終えて間もなく、私に「あの本はもういいんだよ」と申し最後まで確かな思考力を持ったまま、それらの過去の人々の中に融け込んで行ってしまいました。

 「ジュラント」のほかに、伊藤清の明治精神に生きる、富永健一の社会変動の理論、L・エルコーザーの知識人と社会、永井陽之助の柔構造社会と暴力、マーシャル・マクルーハンの人間拡張の原理=メディアの理解などをつぎつぎにひもといて、読書三味の明け暮れでした。

 これより先、亡くなる4カ月程前のある日夫は私の手を握りながら突然「お前は俺の手で作りあげた立派な財産だ、これをおいて死ねますか」と申しました。その時は、本人もそうであったでしょうが、私も別れるなどとは夢にも思っていませんでしたから「お前をおいて死ねますか」といった愛の極限のような言義だけが大きく私の心を震わせました。思わず涙ぐみながら、恥かしさも手伝って堅くなって俯いてしまいました。仕合わせ過ぎるような気もしましたが、夫の口からぎりぎりの愛の言義などを聞くと痛々しい気も致しました。

 そんなことをとつおいつ考えているうちに、私を財産などといった言義が少々心に掛りはじめました。

 「財産って……」

 思い切って、私は小さな声で聞いてみました。私は夫の心の疲労を極力防ぎたい気持から年毎に会話は手短かになって行きましたが、かえってお互の心の触れ合いは深さを増していました。

 「宝ものでもええ」

 おおむ返しにいつものほほえましい素直な返事がはね返ってきました。

 「俺のやってきたことはすべて俺の心だ。そのことはお前も十分に知っていたはずだな。小笠原の会社、土地もそうだ。ぜひ金にしたいという人に頼まれて援助のつもりで買って上げたものだ。戦時中は食糧難に苦しんでいた東京の人々を救ってやりたいと思い、肉、野菜、果物、乳製品、砂糖等当時手に入らなかった品々を船で運んで無償で配給してあげた。それはお前も知っての通りだ。戦争が激しくなり船が行けなくなってしまい、一部にしか行き渡らなくて残念であったが、つまり俺が財産といった意味の中には物とか金とかの観念はない。心あるいは命といってもええ。解ったかい?」

 私は黙って聞きながらひたすら夫に長生をしてもらいたいと念じていました。80歳といえば既に天寿を全うしたと考えられる年令には違いありませんが、全く持病というものがなく、したがって夫も私ももう20年共に元気で暮したいと願い、お互いにあらゆる努力を払ってまいりました。そしていつしかそれが確かなもののように思いはじめていたのです。(つづく)

「夫を偲んで」⑰

 そんなことをあれこれ思いめぐらしていた私に夫はさらに尻上りの優しい声で「解らんかい?」と問いかけてきました。「解りました」と答えた時私の日からは既に涙が流れ出していました。

 「小笠原に老人の楽園をつくりましょう」と私が提案すると、夫は「うん……。」と答えて目をとじ、それから「あの人も、この人も連れて行ってあげよう」と早速人選に取りかかり、楽しく話し合いました。

 その人はもう逝ってしまったのです。「そのうちに私達も小笠原のお月様を眺めて暮しましょう」と毎日のように語り合っていましたのに。

 「病気だ」とは決して申しませんでした。中央広告通信、東京ポスト社長岩田富美氏を夫は20数年来わが子以上に可愛いがっておりました。氏は夫の体を案じて大きな病院に優秀な医師団を構え、いざという時に備えてくれました。また成格も慶応その他の病院の院長、副院長と懇談を重ねて備えを固めておりました。しかし遂に夫の翻意を促がすことはできず、最後に静かに近距離の病院に入院致しました。院長が立派な方で夫の意を尊重して扱って下さいましたことを心から感謝しています。治療は受けたくないという夫の意になるべく添うようにはかって下さいました。

 急であったにも拘わらず、設備の整ったドックの部屋を二つ提供して下さり、万全を期して下さいましたが、夫は静かに自分自身の心で命を見詰めながら最後まで死を意識することなく、明日を信じて永遠の眠りにつきました。私には生命に対していざという時死を覚悟しての強さがありました。夫には生きている限り死を認めない強さがありました。私も夫にならって、弱い体で医薬から離れて20数年になります。その強さの相違をはっきりと知らされた瞬間でした。

 アメリカ在勤の巍次も入院と同時に帰国し、最後の孝養を尽し得たことは何よりでした。夫は亡くなります5カ月程前から巍次に会って話したいと申しておりましたから。

 夫は成格(毎日新聞政治部記者)、巍次(伊藤忠商章ニューヨーク駐在、26才)、それに孫の大太郎(東大教養学部在学、18才)、雄作(慶応義塾高校在学、16才)、美恵子(同中等部在学、12才)たちをはじめ、甥姪の子供達や、岩田氏の長男の健作ちゃん、長女の典子ちゃん、など夫を尊敬し慕っていた多数の良い後継者に恵まれております。夫の心が永遠に引継がれて参りますことを願ってやみません。

 夫の人生をより有意義なものにし、常に見守って下さいました多くの皆様に心から感謝申しあげます。(「夫を偲んで」おわり)

(つづく)
(福島 清)

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2021年6月8日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その6

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」は、激動の時代に寿郎さんがどのように生き抜いたかを詳細に書いています。抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」⑤

 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲攻撃の戦果に酔いしれたのも束の間、昭和17年4月にはB25の陸爆機により東京および名古屋は初空襲を受け、更にその年の6月5、6日にはミッドウエー島沖の日米の海戦で日本軍は壊滅的な打撃を受けました。その後は坂を転げ落ちるような敗戦の一途を辿っていたのですが、大本営は相変らず目覚しい戦果の発表をし続けておりました。事実とは全く相違していましたが、そのことはいち早く夫の耳には入っていた様子で、
 「大本営の発表をメモしておけ、事実との相違を調べるから」
といっておりました。夫の和平工作は同志の方々と共に進められていたようでした。

 昭和19年1月には次男が学徒出陣で沖縄に向かい、6月には夫の身を案じ続けていた姑を亡くし、7月には長男を司政官としてビルマに送り、9月には三男の成格が誕生しました。孫の出産を楽しみにしていた姑を失ったことは夫と共に大きな痛手でございました。戦時中で思うように孝養の尽せなかったことも心残りでした。

 夫は香川県の古い藍問屋に生まれましたが、父を早く亡しく、母の手一つで育てられました。姑の言葉のうちで特に私の心に残ったものを拾ってみることに致しました。間に合わぬ使用人をよく労わり他の者に、「足らぬ者(能力のないもの)には足してやるより仕方がないではありませんか」といい、またいつも口先ばかりの人には、「心で思うて頂くことも有難いことですが、本当にして頂く方がもっと有難いことです」と一寸苦言も呈しました。

 子供の教育については一見識を持っておりました。「不道徳の芽だけをつみ取ってあげれば良いのですよ。良いことは誉めておあげなさい、心の栄養ですからね。善悪のけじめは一番難しいことですね。言い聞かすより前にまず親が自分の心にしっかりと問うて見て、あやふやなうちは決して口にしてはなりません。間違うたことを押しつけることになりますからね。これは一難かしい……」 自分に言い聞かすように話しておりました。(つづく)

「夫を偲んで」⑥

 熱海といえば、古い友人の川島正二郎氏とは同じホテルでしたのでしばしば落ち合い、時には成格、巍次も交えて時局談にひとときを過ごすこともありました。昭和19年末から20年にかけて、夫は母を亡くした悲しみに浸る間もなく、国の将来を案じて東奔西走し、夜帰宅してから原書で英米の空軍の実態などを調べ、それを翻訳して私に清書をさせていました。国会演説で軍の拙劣さを追究するための資料の一つでした。

 その日も使用人達が寝静まってから、広い邸の離れの一室で、その上尚且つひそひそとあたりを憚って話し合いながら明け方まで続けられました。

 「勝てるのでしょうか」
 「敗けるさ、最初から勝味などはない」
 「敗けるって……。それは大変なことではありませんか」
 「大変なことだよ」
 「敵が上陸して来るようなことになったら、私達は皆殺しにされてしまうのでしょうね」
 「手むかうから殺される。アメリカ人は降伏した相手を皆殺しにする程野蛮じゃない。今より良くなるよ」
 「降伏……」

 私は夫の顔に目をとめました。

 たった今重大なことを目にした人とは思えない静かな表情でした。しじまの音のみの静寂の中で夫のページをくる、かすかな音だけが息ずいていました。

 「だからこれ以上無駄に国民の命を失わせてはならんのだ」

 夫がぽつりと重く口を切りました。

 続けて何かを話していなければやりきれない気持なのに、もう話すことはなくなってしまいました。犬の遠吠えでも良いから何か大きな声で、今のこの静寂を自由に勝手に思いきり破ってほしいと思いました。

 日頃の夫の言動から、勝つと思っていたわけではありませんでした。軍の独走の中で、和平に導く時期と方法が問題だと漏らしていたことがありました。停戦協定の時期はもう失してしまったようです。既に昭和19年7月にはサイパソ島玉砕により、マリアナ基地を失ってしまった責を問われて東条内閣は総辞職をし、小磯内閣の時代に移っておりました。

 降伏をしても今よりは良くなるといった夫の言葉は、軍の横暴によって自滅の道を辿っていた日本が兎に角新しく生まれ変わるということのようでした。目かしくをはずして国民の一人一人がそれをはっきりと認識しなければならない最後の時期に来ていたのです。

 「だから……」と夫は言葉をきり、「これ以上無駄に国民の生命を失わせてはならんのだよ」とまた同じ言葉を繰り返しました。(つづく)

「夫を偲んで」⑦

 戦時中の激しい生活の中で夫がほっと一息つくのは、生まれて間もない成格のお守りをする時でした。大きな椅子の上にあぐらをかき、その中に赤ん坊を入れて、丁度巣の中の小鳥を覗き込むような格好で「良い子じゃ、良い子じゃ」と飽かず眺めていました。

 成格に対する父の愛情は生涯を通して変わることなく続き、成格もまた大変父を尊敬しておりました。高校生の頃からは、父子というより恩師と愛弟子のような話し合いが多かったように思われました。

 玉川用賀は当時大変不便な所で、その上ガソリンは次第に入手が困難になり、運転手も出征や徴用で取られてしまいましたので、夫が毎日出て歩きますのもなかなか容易なことではありませんでした。

 しかしそうした所にも拘らず、多くの方々がよく訪ねて下さいました。当時衆議院議員であった永野護氏、楢橋渡氏、日本出版会々長の久富達夫氏、河出書房社長の河出孝雄氏などはしばしばお出でになり、殊に永野氏はいつも庭の木の間を夫と密議をこらしながら歩きまわり、その儘風のように去って行かれる忙しさでした。

 昭和20年の5月中旬であったと思います。小磯内閣の時行なった夫の国会演説の原稿は一室に缶詰にされた上、激論の末に当時の陸軍次官の手でその3分の2を抹消されてしまったと聞きました。しかしその重要な部分の一部を敢えて発言し、翌日の朝日新聞の朝刊であったと思いますが、一面の真中に囲みの記事で掲載されました。それから間もなく軍を批判したということで憲兵隊に逮捕の指令が出されたのです。

 楢橋氏が事前に知って早速知らせに駆けつけて下さいました。氏は急ぎの用事があるからと、すぐ帰って行かれました。夫は私を伴って自室に入り、暫らく黙って座っておりました。そのさり気なく寛いた姿勢から、むしろこうした場合の夫の強さを感じました。

 「あいつらに俺がくくれてたまるか」と一人言のように申し、「俺に一つのチャンスを与えることになるだけだよ」と今度は私に話しかけました。逮捕されるかも知れないということは、既に二人共感じていたことでした。

 しかし夫の言葉は何らかの成算があってのことに違いありません。一年程前にスパイの嫌疑で軍法会議にまわされ、死刑の判決を受けた青年の無実を立証して連れて帰ったことがありました。

 「軍の首脳部だろうとアメリカ人だろうと、全部が全部敵味方に分かれてしまっているわけじゃない。止むなく立たされてしまった異なった立場で、実は同じことを考え合っている。誰も彼もがそう馬鹿になれるもんじゃないよ。一部の奴らを除けば通じ合うものは今も昔も少しも変ってはいない。話せばわかるもんだよ。だがしかし、このことにも限度はある。あくまでも詔勅による聖戦ということになっているからだ」。

 いいたいこと、やりたいことがどこかで止められる。通らないのです。でも通さねばならなかったのです。決して油断はなりませんでした。首相の小磯国昭氏は古くから夫とは懇意な間柄でそんな乱暴をするはずはないと申しておりましたし、軍の首脳部にも記者時代から親交のあった方々も多かったのですが、既に下剋上が横行している軍の内部では、上司の知らぬ間に何をしでかすかわからないということでした。

 殊に憲兵隊はなお東条の勢力下にあったのです。逮捕令は決して軽視出来ませんでした。当時陸軍は戦況の不利で焦躁しており、邪魔気のものは暗黙の中に取り除く位のことは平気でした。しかしその後間もなく玉川の家は戦災を受け、その翌日には逮捕状のあった渋谷の憲兵隊は跡形もなく焼け落ちてしまいました。邸の片隅に焼け残った倉庫を住まいにして、私達は戦災で失った女児の野辺の送りを済ませました。(つづく)

「夫を偲んで」⑧

 その後軽井沢の別荘に落ちのびました。玉川の家より広大な建物の中には前々からの布団、衣類、食器など2、3家族分位はありましたので不自由なく暮すことが出来ました。

 楢橋渡氏一家は横浜で戦災を受け、私達より一足先にこの別荘を仮住いにされて暮らしていました。国際地区軽井沢には敵機も近寄らず、東京で受けた空襲は一夜の悪夢ではなかったろうかと錯覚する程の静かさでした。

 しかし夫の身辺は東京以上に慌しさを増して参りました。鳩山一郎氏、石橋正二郎氏、坂本直道氏、本野大使など軽井沢におられた方々と往来して語り合い、また私宅その他でしばしばその会合も持たれるようになりました。外国関係者も在日者は殆んど軽井沢に集まっており、スイス大使は隣りに住んでいました。夫の仲間はいろいろのルートから大戦の真相や世界の情報をいち早く入手していました。日本の破局はその頃既に時間の問題でした。会合のときの論議は、如何にして徹底的敗戦を食いとめるか、また一方、万一の場合の後始末と再興の策如何、などでした。

 しかし軽井沢でも特高警察が常に夫達につきまとっていましたので、油断は出来ませんでした。東京でも同じような会合が持たれていました。ある日、鳩山氏が軽井沢の拙宅に来られた時、あいにく私は疲れのため伏せっておりました。

 別荘には1000坪程の見事な苔庭がありまして、氏はそれをめでつつ庭から入って来られ、客間を通り抜けながら、「いま葱の土寄せを済ませて来たところです。奥さんはお料理が上手なそうで、今日は楽しみにして来たのですが残念でした」といわれ、夫と共に応接間の方に去って行かれました。夫は、現在疵を負っていない、つまり国民の納得の出来る人は鳩山氏位のものだと申して、氏の今後に期待を寄せておりました。その後私は身重の体に大きな打撃が重なり、床につく日が多くなりました。

 昭和20年7月のある日、突然表玄関から大広間にかけて慌ただしい足音と大きな話し声がし、まどろみかけていた私は驚いて飛び起きました。楢橋氏一家は既に浅間温泉に移られ、夫は軽井沢と東京とを行ったり来たりの生活が続いておりました。

 あいにくその日は上京中で、家に別荘番一家と、夫が私の体を案じて東京から連れて来てくれた年老いたばあやだけでした。慌てて駆けつけて来たばあやは、「軍人さんが」と言ったきり驚いて口もきけません。やがてどたどたと無遠慮に日本間の方まで入って来た彼等は土足のままです。(つづく)

「夫を偲んで」⑨

 「ご主人は?」

 逮捕に来たのかも知れない……。

 さっと血の気が引き、体の氷る思いで私はじっと苦しさに絶えていました。

 「今おりません、旅行中です」

 「ああそぅですか」

 4、5人の将校達はどやどやと客間の前を通り過ぎ、中庭をまわって浴室の方へ行つてしまいました。

 「広い浴槽ですな、これなら一どきに5人や10人は大文夫でしょぅ」

 大声で話し合いながら浴室から調理室にまわり、それから二階、階下の各室を検分してまた広間に戻ってきました。逮捕に来たのではないことを知ると私は急に強くなり、彼らについて大広間に入りました。彼らは大きな丸テーブルの上に地図を広げる真似をして、「この部屋を会議室に使えますな」などとあれこれ勝手に相談をし合った後、

「この先の近藤別荘に近々皇太后陛下がご疎開遊ばされるご予定です。ここを参謀本部に使用することになるでしょう。ご主人に伝えておいて下さい。また明日来ます」といい残して、さっさと引き上げてしまいました。

 ちなみに昔三井の建てたこの別荘は、帝国ホテルを設計したライト氏が設計に3年を費やしたということで、その後も日本館、洋館共に、くるみ、糠、あるいは牛乳などで磨きあげられたもので、土足で入るようなものではありませんでした。一体私達をどこへ追い立てるつもりなのだろうと暗胆とした気持になり、また急に疲れが出てそのまま大広間の椅子に倒れてしまいました。くやしさと逮捕に来たのではなかったという安堵の気持とが交互にこみあげて参りました。電話で知らせを受けた夫は、その日のうちに帰って参りました。

 そして私の報告を黙って聞いただけでした。翌朝早く起きた夫は、「運動せんと難産になるぞ」と私を伴ってゆっくりと庭を散歩し、昨日のことはあまり気にもしていない様子でした。

 「今日は何時頃来るといっとったかい」 「うっかり致しました。聞きもらしました」 「そうか、あんな頭で国を台なしにしてしまいよる。無作法は奴らじゃ」 「……」 「あいつらに会ったらまたすぐ東京へ行くよ。せんならんことがたくさんあるからな。体に気を付けないかんよ」 「はい。でもお留守中に入り込んで来るようなことがありましたら……」 「今日きっぱり話をつけておく、そんなことはさせんよ」

 逮捕命令の出ている今、余りきついことをいって火に油を注ぐようなことになってはと、心配でもありましたが、また一方ではいつもの夫らしい大局をふまえてのものの考え方と対処の仕方があるのであろうと思う気持もありました。(つづく)

「夫を偲んで」⑩

 昼頃軍人たちが門からなだらかな坂道を玄関に向かってやって来るのを、大広間で見ていた夫はやおら立ちあがり、一足先に玄関に出て何の気負いもなく彼らを待ちました。

「昨日伝えておきましたが」
「俺はこの家の主人の岸井だ。名前をいい給え」
「古閑です」
「東条のむこだね」
「は」
「東条が取れというたか」
「いや」
「帰ってそういい給え。軍は勝手に国の資材を使うてたちどころに勝手なものを建てよる。俺は東京の本宅を焼かれた。その上別荘までよこせとは何事だとな。君らの理由は勝手に何とでもつく立場だ。しかし俺はそうはさせんよ。解ったら帰り給え」

 夫の今の心情その儘の静かな叱るというよりは諭すようないい方でした。息を呑んで直立不動の姿勢を取っていた彼らに表情の変化さえ与えませんでした。彼らはその儘敬礼をして帰って行きました。

 「もう来ることはない」

 翌日夫はそういって東京へ発ちました。ところがその翌日から私服の二人の男が無断で庭の中をウロウロと歩きまわりはじめました。「一人は軽井沢の人間で、特高警察の人です」という別荘番の言葉に、いよいよやって来たなと思い、夫に連絡をしようと思いましたが、よくよく考えてみますと、夫は上京中ですし、家を取りに来た様子でもありません。

 逮捕命令の出た時でさえ「逃げもかくれもせんよ、そんな必要もないし、第一仕事にならん」と申して軍部との折衝も続けていたようですから、こちらに逮捕に向かってしかも無駄な時間をひねもすウロウロしている必要もないわけでした。何のことやらわけが解りません。仕方がありませんのでこちらも遠くから彼らを観察することにきめました。彼らは周囲より少し高台になっている邸の中から一日中外を眺めています。

 別荘番にそれとなく話しかけさせて見ましたが職務上何もいいません。無断で入って来て我がもの顔に居座っています。こちらとしては全く妙なお荷物を抱えて暮しているような気持でした。

 一週間程たって夫が帰ってきました。空襲、逮捕の危険の中を歩いている夫です。帰るたびにひそかに夫の無事を心から神に感謝しました。夫は彼らの側に行き、何やら四方山話でもしている様子で、ニコニコと話し合っていました。そして別荘番にいい付けて二脚の椅子を彼らのために用意させました。私の家の近くにはアルゼンチン、スイスなどの大公使の別荘がありました。彼らはそこへ出入りするスパイの容疑者をチェックしていたということでした。もちろん夫の身辺と、出入りの人々を見張っていたことも確かでした。 「もうその必要はなくなる。古閑達もそうだが気の毒な奴らよな―」と夫は嘆息を漏らしておりました。

 夫から見て気の毒な人々は敵味方の区別なく、そこら中に充満していました。敗戦も未だ知らず、明日の命もわからずに何かを信じて職責を守っている若い彼らの顔を、夫は見るに忍びなかったようです。(つづく)

(福島 清)

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2021年6月2日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その5

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて以下、紹介します。

<麻生久氏と自由党>

 岸井さんは、戦時中郷里香川県から衆議院議員に当選した。政治には興味はあったが、政治的野心はなかったと思う。社会運動の中心人物であった麻生久氏とは、三高時代から刎頚の友であった。しかし前述したように、ソ連の実情を視察して帰国した岸井氏は、盟友麻生に「社会主義は官僚制度の幣害がひどくなるのでダメだ」と批判していた。

 その後、近衛第一次内閣の末期、38名の社会大衆党を擁した麻生氏は、亀井貫一郎や橋本欣五郎陸軍大佐(のちに赤誠会長)らと組んで、「近衛公によって日本に国家社会主義を実現する」という計画を抱いた。そして連日のように岸井氏に協力を熱心に頼んだ。

 岸井氏は「近衛などはアテにならぬから止せ」とはげしく反対したが、自分の自動車を一台麻生に提供して、「君は自分の好きなようにやれ」といっていた。がついに麻生氏は「もうすでに新内閣の大蔵大臣に岸井寿郎をするよう、近衛と約束してある。どうしても自分を助けて欲しい」と膝詰談判にまで及んだ。

 岸井氏もさすがに断りかねたのか「君とは切っても切れぬ友情で今日まできた。自分は反対だが、ヨシッ、それでは君と心中しよう」と快話して、鉱山その他岸井氏の財産を処分して、政治資金までつくった。その翌朝、かんじんの麻生久氏は心臓病で急死してしまい、岸井氏は茫然自失した。 これが氏にとって、城戸事件とともに一生の痛恨事であった。

 岸井氏は、こんな大きな二つの挫折感を乗切って80歳の天寿まで生きつづけたのであって、その剛毅と純情さは他人のまねができないことであった。岸井氏の用賀の家の前に、東条英機大将の家があった。東条がある日、自分で、改良式の七輪(しちりん)と金具のない木の鍬を岸井邸に持ってきた。岸井氏は仕方なく無言で受けとったが、奥さんがあとで東条邸に礼に行ったといって、大変怒ったそうだ。

 衆議院書記官長大木操氏の「大木日記」に、岸井代議士の名が幾度か出て来るが、その内容は少しも書かれていない。恐らく、当時軍部を憚かるような発言だったので、故意に省略されたのではないかと推測される。終戦前、用賀の自邸を空襲で焼失されたので、岸井氏は軽井沢へ閉じこもった。

 ここで坂本直道氏(元満鉄パリー事務所長)の紹介で鳩山一郎氏と懇意になり、終戦とともに、馳せ参じた芦田均、林嚢二などと、新政党樹立の計画に参画したことはあまり知られてない。その後坂本直道氏と上京して、石橋正二郎邸の一隅で、新党計画をつづけたが、いよいよ旗上げの前夜、交詢社で最後の準備会をしたとき「党名を何とするか」が議題に上った際、岸井氏は真っさきに発言して「自由党とすべきだ」といった。「日本自由党」というものもあったが、「日本は不要だ」と岸井氏は強く主張した。「世界の自由党」を意図したのではないかと思う。何れにしても、現在の自由党の命名者は岸井氏だったのである。

 晩年「雀百まで踊る」と称して、日曜夕刊「東京ポスト」を創刊して、無料配布という破天荒の新しい新聞を企画したのは、いかにも新聞人、岸井氏らしい貴重な置き土産であろう。(つづく)

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」は、激動の時代に寿郎さんがどのように生き抜いたかを詳細に書いています。抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」①

 夫のことを書こうと思いましても、こみあげるものに遮られて遅々として進みません。でも与えられた命を謙虚に享受し毎日を大切に生き抜いた夫の一面を思い出しますままに綴ってみることに致しました。

 結婚当時、夫がこんなことを申したことがありました。

 「叩かれて潰れてしまう様ではいかん。叩かれても蹴られてもゴムまりのように跳ね返ってついて来い」。

 当時は戦争も末期の大変な時代でしたから、夫の帰宅はいつも遅くて、午前2時3時ということも珍らしくはありませんでした。夜中に二重まわしの衿元を少しはだけて、ゆっ<りと車から降り立つ姿からは、思わず胸の引き締まるような気魄が感じられました。私は夫の任務の重要さも、言葉一つに命の懸っていた当時の立場も、十分に心得ていたつもりでしたので、必死について行こうと懸命でした。

 ところが毎日よく叱られるのです。といいますよりは、何もしないうちに先に叱られてしまうといった方が当たっているのかも知れません。その上、力のこもった大きな声ですので、ひどく叱られているような気持になってしまいます。

 「もんぺなどはくな、世の中が汚のうなってかなわん。格好など好きにしとればよろしい。それよりも女はどんな時も女でなければいかんよ。夫と子供の大事さ、可愛いさを見失ってしもうては何もかもがわやじや(駄目になってしまう)」。

 前日の昼下りに庭で夫と共につい耳にしてしまった塀越しの立話を、その時ふっと思い出しました。息子を叱叱激励して特攻隊を志願させたと二人の母親が話し合っていたことでした。「女は愚かなもんよな― 。姿を構えさせておだてればいつしか心までも鬼になってしまいよる」。その時夫は憮然とした面持で私を見詰めました。しかし戦時下に夫の意の儘にしたがうことは大変難かしいことでもありました。当時の常識と既成観念も無視してかからなければならない場合も出て参ります。

 昭和18年の冬近い頃であったと思いますが、玉川用賀の拙宅の近くに住む東条英機氏(当時の首相兼陸相)が訪ねて参りました。その前にも二、三度来られましたが、夫は何時も中に招じ入れようとはせずに、表玄関のドアーの外に立たせたまま話しておりました。その日は秘書に粘上のコンロと木製の鍬とを持たせて、「私の手製ですが大変具合が良いので使ってみて下さい」ということでした。

 「それは有難う」

 素気ない返事で、相変らず内と外とで暫らく話を交わし、やがて氏は帰って行かれました。両肩を落とし、背を丸くして俯き勝ちに歩いて行く氏の後姿は大変佗びしいものでしたが、何か深く考え込んでいる様子がひどく心に掛りました。

 私は東条氏に会ったのはこの時が最後でした。丁度その頃近所の家に親戚の者だという老人がしばしば訪ねて参り、その都度私宅へも立寄りました。時局に関する話をぜひ伺わせて頂きたいということでした。(つづく)

「夫を偲んで」②

 「あの老人は東条の親戚だそうじゃ。今日軍の主脳部の人間が注意してくれた」。
東条氏の来られた数日前に夫が申していたばかりでした。兎に角うっかり心の許せない夫の身辺でした。

 2、3日後に私は田舎から送られて来た「あんぽ柿」をたずさえて東条家を訪ねました。鍬とコンロのお礼のつもりでした。が、ただそれだけであったといっては、心の隅に少しうしろめたさが残ります。何ともいいようのない不安がつい東条家に足を運ばせてしまったのです。夫には内証で出かけましたのもそのためでした。

 軍行動を批判した場合には、統師権の干犯という言葉があって軍の一部の者の独断専行ではありましたが、一国の宰相であろうと、国会がそれを取り上げようとした場合であろうと、軍部は天皇の御名において統師権の干犯は許さぬと強く反発したようですし、またことと次第によっては命にかかわることにもなりかねなかったのです。

 東条家から帰ったとたんに激しい夫の怒りに震え上がりました。

 「旦那様はご存知かと思いましたので」と女中がオロオロしておりました。迂闊なことをしてしまったという悔恨と、夫の立場を傷つけてしまったのではないだろうかという不安に一層かり立てられる結果になってしまいました。

 夫には押しても突いてもどうにもならないと感じさせる強さがありました。黙ってじっと座っている姿から殊に強くそれを感じました。強さというよりは、偉さというものなのかも知れませんが、実はその言葉でさえ満足の出来ない、もっと大きな何かが心に迫まって来るのです。信念などという生やさしいものではなくて、まるで宇宙の法則のような安定感がありました。あるいはそれは夫の本質というものであったのかも知れません。人間本来の姿がそこにあるといった感じなのです。衒いも、翳りもなくて、そのために人間の弱さによって怯むということがないせいでしょうか。微動だにしないような強靭さがあって、それが夫の風格となっていたように思われました。(つづく)

「夫を偲んで」③

 話は前後致しますが、昭和の初期に高等女学校に在学していた私は、当時の逼迫していた日、英、米の国交問題とか、除々に戦争に追い込まれて行く八方塞がりの日本の国情とか、あるいは不況を背景にしてのサンガー夫人の産児制限のこととか、兎に角、暗い講演ばかりをよ<聞かされて、多感な少女時代を過ごしましたので、「聖戦」ということも仕方がないのだと是認する気持が強かったのです。

 そうしたある日、遇然私は岸井寿郎という人にめぐり逢いました。永らく病床にあった最初の妻をつとに亡くし、その後子供達のためにやもめ暮しを余儀なくされておりましたが、彼等も成人し、再婚をしたばかりという時でした。昭和16年の5月頃であったと思います。

 私はその時、幼時にきめられていた縁談を断り、そのために起きた様々な経緯からのがれて家を出、当時牛込に住んでいた叔父の軍令部出仕の海軍中佐の家に身を寄せて、ある学校に在職していまました。私にとっては大変有意義な毎日でしたし、また華々しい戦果にまだまだ国全体が酔いしれていた時でもありました。私は彼の会社の応接間で彼から思いがけないことを聞かされました。

 「聖戦などというのは誤魔化しですよ。無謀な一部の軍人達の思い上った出世慾と陸海軍の勢力争いとに、この戦争は端を発しているのです」

 『叔父に聞かせたい言葉なのだろうか、いや違う』と、私は自問自答しながら彼の鋭い眼差しを真直ぐに見返しました。口に出すのを憚からねばならない言葉でした。私の動揺を見て、彼は優しく言葉を続けました。

 「ものを教えている貴女がこんなことを口にしてはえらいことになる。時期が来るまで心に収めておかれた方がよいでしょう」。

 彼は客を待たせてあるからと、さっさと部屋を出て行ってしまいました。会社には連日大勢の人々が様々な用件や相談を持って詰めかけておりました。鉱山会社と土木会社を経営していたのですが、私は最初、彼は何をしている人なのだろうかと不思議に思ったくらいでした。

 「こんな世の中になると、良い人間程困っている。面倒見てやらんならん人がたくさんいるのでね」といっておりました。今考えてみますと、各界の上層部にひろがる深く広い交際範囲と、彼自身の力とが相俟って多くの人々を援助する手だてとなっていたように思われます。大変因縁めく話になりますが、会ったばかりの私に戦争の真実の姿を知らせておきたかったことについて、結婚後次のように話しておりました。

 「初めて会った時、これは結婚することになる人だと思った。再婚したばかりの俺が何故そう感じたのか未だに解らない」。

 だから真実を知らせたかったのだということなのですが、真偽の程は解りません。が、嘘だとも思えないのです。どういう力がそうさせますものか……。はっきり解かることではありませんが、心からきれいに消し去ことも出来ません。(つづく)

「夫を偲んで」④

 近衛の新体制構想によって生まれた大政翼賛会は政心一新、時局収拾のためのものでした。しかし、結局は麻生久氏が落胆の余り病を重くしてしまわれた程のものに作り変えられてしまい、好戦的な革新右翼の温床となり、あるいは一部の内務官僚に利用されるだけのものという結果になってしまっていたのです。そのためにかえって彼は渦中に飛び込む決心をしたのだと思います。彼が当選して間もなく、私は招かれて玉川の邸を訪ね、はじめて彼の母に会いました。彼が最も敬愛し、畏れてもいた人でした。私達は翌18年4月に結婚致しました.

 その頃麻生久夫人が度々玉川へ訪ねて来られ、無産運動に生涯をかけていた若き日の氏と夫との姿を、巧みな話し方で彷彿とさせて下さいました。

 当時令息の良方氏はまだ18、9の弱々しい文学青年でいらしたらしく、母上から伺った話は、夫人との恋愛問題とその結婚へのいきさつ等で、その後話題の美しい夫人を伴って来られたこともありました。今の良方氏を拝見し、偉大なお父上の政治家としての素質を受け継がれたばかりではなく、文、画才と様々な特質に恵まれていられることに驚かされます。

 かつて夫は、革命10年祭のロシアを訪ね、その破廉恥犯の数の多さと、日本の国土の狭さ資源の乏しさに、適応し難い共産国家の現状を目のあたりにみて、その後は自由主義者としての道を歩んでおりましたが、主義を異にしてからむしろ麻生氏との人間的な繋がりは深さを増していったようでした。

 河野密氏、片山哲氏、河上丈太郎氏、浅沼稲次郎氏、水谷長三郎氏、西尾末広氏、三輪寿荘氏、棚橋小虎氏(夫の姪の主人)、野坂参三氏等、革新政党の多数の方々とも永い間深い交わりを持っておりました。浅沼氏が亡くなります少し前、会の帰りに大井の宅まで夫を送って来て下さったことがありました。夫を最長老としていつも厚く遇し、革新政党への夫の苦言もよろこんで受け入れていられたと聞いておりました。

 昭和19年の夏頃であったと思いますが、政治犯として10年余り獄中生活を送っていた佐野学氏が釈放になり、玉川の家に来られました。軍の圧制で総ての実行を封じられた氏は、「差し当たってどうしたら良いものか」と大変憔悴しておられましたが、出るために節を曲げざるを得なかったことに対して夫は、「命を落としては何もならんよ」と申し、
「体調を整えながら、このざまをしっかりと見届けておくことが今は一番必要だ、自由に動ける時がもうすぐ来るよ、君」
と、氏の肩を抱くようにして励ましておりました。しかし、氏は良い時代にもう一度活躍の機を持つことなく、亡くなり、あの時の顔を思い出しますたびにお気の毒でなりません。(つづく)

(福島 清)

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2021年5月28日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その4

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて興味津々の内容です。以下、紹介します。

<城戸事件の真相❷>

 また編集の城戸、営業の吉武という鉄壁の陣は、朝日新聞その他の競争紙に、つけこむスキもない完璧のものであった。ところが、城戸氏が本山社長亡きあと(昭和7年12月)会長となった後、ある日吉武氏に呼ばれこういわれた。〝城戸氏に対して君も知っているように、今日まで誠心誠意協力援助してきたのに、いまになって私を首切るというのだ。全く『狡兎死して走狗烹らる』のたとえの通りで、私としては売られたケンカは買わぎるを得ない。いま社内は城戸派と反城戸派と対立して混乱しているが、君はどちらにもつかず、じっとしていくれ〟といわれ、ほんとうにびっくりした。私は実際、こういう血と血で争う醜い状態にがっかりして、もう新聞はやめようと心の底深く決意した。

 私が反城戸派と目されているのも心外だが、城戸氏が大阪に行ってから私を相談相手にしなくなったのも事実だ。私は、いずれ首切られるものとマナイタの鯉のごとくじっとしていようと決意していた。ところが向う(城戸派)の方が倒れてしまったので、あっけにとられてしまった。しかし、今にして考えると毎日新間が城戸氏を失ったことは、返す返すも残念でたまらない。

 当時私は胃潰瘍で心身衰弱しており、家内も重病で瀕死の床にあった。それでも何とかもう一度、城戸、吉武両氏が提携して毎日新聞を完璧の域に置こうと、最後の勇気をふるい起こして、再三城戸氏に面会を求めたが、城戸氏は東京にきても私には会おうとは絶対にしない。仕方なく大阪までも行ったが、新屋茂樹が代理で会うというので、新屋ではどうにもならない。

 私の腹案は、吉武氏は城戸氏より10歳も老年である(岸井氏は城戸氏より10歳若い)。そこで、今すぐではないが、私が吉武氏を口説いて、円満にやめさせるから、ケンカはやめてもらいたいと城戸氏にいうつもりだった。そのころ、城戸会長のほか、欠員になっていた社長に吉武氏という噂があったことも事実だ。私があのころ体力が充実していたら、もっと勇気を出せたであろうし、出すべきであった。

 城戸事件こそ私にとって終世の恨事だった。城戸氏を批判するつもりはないが、いま考えると、10年、時代がちがうということはバカにならない。城戸氏でも吉武氏でも何といっても封建時代の空気に育っていて、いいにしても悪いにしても私のような民主主義の教育を受けていないことが根本原因だと思う。時代の思想というものは恐ろしい。重役ともなると、何でも自分の思う通りになると信ずる傾向は封建主義の名残りではないか」。

 城戸事件当時、私も岸井政治部長の下にあったし、いろいろ見聞することもあったが、私は派閥の争いなどには興味もなく、岸井氏の述懐についてコメントを加える必要もないが、岸井氏にとって一生の悲劇であったことだけは確かであったと信ずる。(つづく)

<正力松太郎傷害事件>

 城戸事件の直後、岸井氏は政治部長から吉武営業局長の下に営業次長となり、東北の大冷害問題について、東北6県の救済運動のため奔走した。これは東日の東北に対する大キャンペーンであった。ところへ突如として昭和10年10月、読売新聞社長正力松太郎氏が暴力団員に傷害を受けるという事件が起こった。

 当日、東日販売部長で岸井氏の輩下であった丸中一保が東日に出入りしていた熱田佐に、正力刺傷を示唆し、熱田の乾分・長崎勝助が正力社長を襲った事件である。岸井氏は丸中を再三取調べ、そんなことはなかったことを確めていたので、熱田が岸井氏に面談したときも「丸中も相当教養ある者だから、さようなバカ気た依頼をするはずもないし、必要もない。東日とすれば読売の進出など眼中にない」といい切っている。

 しかし事件は営業局長吉武氏にも波及してきたので、岸井氏は吉武氏に、「この事件は私が全部かぶって責任を負う」といったが、実はその前日に岸井氏は検事局の取調べのさい、熱田に答えたと同じく「そんなバカなことはない」といっているので、事件の泥をかぶることもできなかった。結局、丸中は伊豆で自殺し、吉武氏の退社となって、岸井氏は吉武氏の慰留で社に残ってしまった。昭和12年1月、岸井氏は当時の東日編集総務久富達夫氏(岸井氏の後任として政治部長になった)を東京会館に招き、東日退社の決意を明らかにした。

 「僕の健康は難症だ。それに僕の信頼していた先輩たちは次々に社を去っている。一方僕は新聞というものに昔日のような情熱を失ってしまった。これ以上在社しても僕にとって人生の浪費だ」と悲痛な告白をしている。僕の信頼していた先輩たちとは、恐らく城戸氏と吉武氏だったのではないか。(つづく)

<大平洋石油会社創立す>

 それからの岸井氏は実業界の人となったが、私は岸井氏はあくまで新聞人だったと思うし、実業界の氏のことはよく知らない。ただ一つ、メキシコの油田を開発しようとしたことだけは記録しておきたい。

 昭和11年ごろ、斉藤実(海軍大将、首相内大臣)の密令を帯びて池田佐忠という人が、メキシコの石油開発権を獲得して帰朝したが、船中で2.26事件のため斉藤内府が殺されたことを知って絶望した。メキシコ在留日本人会長都留氏とともに、東京で奔走中、たまたま岸井氏の事務所を訪れた。岸井氏は石油資源をもたない日本の窮状をかねて憂慮していたので、王子製紙社長藤原銀次郎氏を口説いて、その斡旋方を依頼した。

 「藤原さん、あなたはもう一会社の社長におさまっている場合ではない。国家のため、財界全体のために働くべきだ」と熱心に勧告したので、藤原氏も心を動かし、ついに王子製紙をやめた後、資本金500万円の大平洋石油会社を創立して社長となった。その副産物として、藤原氏が長年社長に居座っていたため人事が停滞していた王子製紙も、高島菊次郎氏が社長となり、足立正氏が専務になるというように、人事が刷新された。このさい、岸井氏は新会社の重役にもならず、一株の功労株も受けとらなかった。これは財界の美談として伝わっている。(つづく)

(福島 清)

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2021年5月26日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その3

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて興味津々の内容です。以下、紹介します。

<東京日日新聞入社事情>

 私は、戦後岸井さんを自宅に度々訪ね、主として時局に関して、氏の犀利な批判をきくこととしていたが、時には、氏の半生の生きた記録をきくこともあった。氏は自慢話など大きらいだったので、大部分こちらから質問したのに渋々答えてくれたのだが、晩年はいくらか好々爺になって、笑いながら、「こんなこともあったさ」という調子で話してくれた。

 ある時、「こんなつまらない話でも、君が勝手に書いておいてもいいよ」といったことがある。 馬場剛著「明治、大正、昭和の日本」という本にこんな一節があったので、氏に問いただしたことがあった。

 「桂(太郎)内間は2月11日(大正3年)に総辞職したが、大阪、神戸、広島に騒擾事件が起こり、17日から3日間、京都の事件は激烈を極めた)。その前夜三高の弁論大会がYMCAで開かれたが、今は名士である岸田幸雄氏や岸井寿郎氏が熱弁をふるい、しばしば臨席警官の中止をくい、はては演壇で学生と警官が組打ちをやる光景もあった。その翌日の夜、同じ会場で犬養木堂(毅、当時国民党々首、後政友会総裁。昭和7年首相として5.15事件で兇弾に倒る)の演説会があり、その群衆が円山公園へ行き、それから市内交番の焼打ちをやったのである」。

 これが大正2年の第一次憲政擁護運動であった。三高学生岸井氏は血の気の多い青年であったことがわかる。
「私はそれから、犬養木堂について各地を回わり、憲政擁護演説会でしゃべっていた。それで木堂の知過を得た。大学を出たとき木堂を訪ねて、〝私はケンカ早く、どこに就職しても永続きにないと思うが、どうしたらいいか〟と相談したところ、木堂は〝それなら司法官になればいい。判事でも、検事でも、身分は一生保障されているから首になる心配はないよ〟と答えたので、私は検事になった。ところがやはリケンカばかりしていて、自分ながら困っていた。これをきいて当時東京日日新聞にいた、三高時代からの盟友、麻生久君(岸井氏とともに東大新人会を創立し、のち社会大衆党書記長となる)から〝では新聞記者になれよ。ここなら、いくらケンカしても大文夫だ〟といわれて、東京日日新聞社に入社したわけだ」。

 狙介な犬養木堂と横紙破りの岸井氏は肌があったのだろうと思うが、これから氏の東日時代がはじまったわけである。官僚、軍閥と終生戦いぬいた犬養木堂と、東大新人会の思想的支柱であった吉野作造のリベラリズムは岸井氏の骨の髄まで透徹していたことがはっきりする。

 ここで忘れないうちに書き足しておくが、ある日氏はこう語った。「戦後、あるアメリカ人が自分を訪ねて来て、大正デモクラシーから大正マルクシズムに転換して行った時分の人で、今日残っているものは貴君だけだから、その転換期の話をききたいというので、話してやったことがあった」と。そのアメリカ人の名も、その話の内容も聞きもらしたが、氏の社会主義批判は後述しよう。

 岸井氏と犬養木堂の奇縁は、いつか氏が財界の大御所故官島清次郎氏(元日清紡績社長)に知遇を受けたという話にも関連していると思う。宮島翁は戦後、吉田茂、池田勇人、両内閣の陰然たる相談役であった。なぜなら、犬養と官島は切っても切れない関係であり、恐らく、岸井氏はかなり昔犬養の紹介で官島氏に会ったものと想像される。(つづく)

<山本(権兵衛)内閣成立のスクープ>

 岸井氏は大正13年(私が東日に入社)ごろは整理部におり、当時酒豪ぞろいの東日編集局にあって負けず劣らずの酔虎の一人で、それが氏の痼疾であった胃潰瘍の原因となった。

 その後政治部に入り文部省担当、東日紙上に「教育論」を連載したが、大正12年9月1日の関東大震災の瞬間、氏は山本権兵衛海軍大将が三度目に大命を拝して組閣中の築地海軍水交社の中庭にいた。水交社二階で山本伯と平沼騏一郎(当時検事総長)と司法大臣就任の交渉が行われていた。この司法大臣の椅子がきまれば、第二次山本内閣は成立するという瀬戸際に、大地震が襲来したのであった。他社の記者はみんなバラバラに逃げてしまったが、岸井記者はブルブル震動していた一本の立木にしがみついていた。そして、山本、平沼の交渉成立を確認するまでふみとどまった。その上、自動車を返さないで止めておいたので、すぐさまこれに飛び乗って社に戻り、山本内閣組閣完了を告げた。

 このスクープは地球を一回りして、また東京に返電され、他社の知るところとなった。こういう際の氏のガン張りぶりは日に見えるようである。

<外紙を排して国産品主義をとる>

 正力氏と岸井氏とのつながりは、もう一つあった。昭和9年1月岸井氏は本山社長の密命を帯びて、米国とカナグに新聞用紙の調査に行った。このことを探知した正力氏は、野沢商会の店主を岸井氏と同船させ、ロスアンゼルスで岸井氏に協力を依頼させるという強引さであった。

 氏はカナダの各製紙会社を歴訪し調査をまとめてロスアンゼルスに帰ってくると、その野沢商会店主なるものは、その間2ヵ月、ロスアンゼルスのホテルで岸井氏の帰りを忍耐強く待っていたという。どこまでも、くいついて行けという正力氏の執拗さに氏も感心したという。氏の調査では、外紙は連(4頁新聞1000部)3円ぐらいで国産新聞用紙よりも連50銭安かった。

 しかし、岸井氏が本山社長に提出した報告書の結論は「外紙はなるほど国産品より安く、外紙を使用した方が有利であるが、一旦緩急あった場合、外紙依存は危険であるばかりでなく、国産新聞用紙も漸く改善されようとしているし、将来新聞用紙の国内自給を確立することが、重大意義を有する」といって外紙購入方針を否定した。もともと熱烈な愛国主義者であった本山老社長も岸井氏の明決なる正論を欣受して、由来、毎日新聞は外紙を一度も使用しなかったし、王子製紙はこの毎日の膨大な新聞用紙需要によって、その後着々発展の途をとり、わが国の製紙界の進歩に寄与するところ人であった。王子製紙その他、ひそかに岸井氏の炯眼と決断を徳とした。

 一方、ロスアンゼルスでは野沢商会店主の熱意にほだされて、岸井氏は快よくある有力なカナダ製紙会社社長に紹介状を書いてやったので、彼は、正力氏の念願に応えて安い外紙を手に入れることができた。当時読売新聞は販売部数が急激にふえる上り坂にあって、用紙購入に困惑していたので、一息ついたわけである。新聞社では上り坂の時の方が財政上苦しいのであって、この外紙問題でも正力氏は岸井氏の恩恵を受けたわけである。戦後、正力氏も岸井氏も追放の憂き目をみて、毎日、岸井氏は淡々として日本倶楽部で正力氏と碁を囲んでいたが、「正力の碁は、いつも相手の石を大きくとりかこむ一方だが、一つ破れ目が出ると総崩れになる面白い碁だった」と笑っていた。(つづく)

<国際連盟脱退論>

 岸井氏が政治部長に就任したのは、満州事変勃発直後で、いまの若い人は理解し難いが、その頃の軍部はいまいわれているのと大ちがいで、政治的に極めて弱体であった。満州事変などは、軍として精一杯の窮余行動で、せっばつまった自衛策にとゞまっていたし、国内世論はその実態を認識していなかった。帝国主義とか、侵略主義とかいう景気のいいものではなく、国内も極度に経済的不況であり、日本としてどこかに脱出路を見出すほかなく、一方満州における日本の条約上の正当な権利は、張学良排日政権のため侵害され、全く追い詰められた状勢にあった。

 ワシントン会議で成立した九カ国条約には、中国が国際条約を守るべきだという条項はなく、片手落ちのものだった。その上国内世論は不統一で、この際日本の新聞の言論は、浅薄な大正デモクラシーと大正マルクス主義に支配され、日本の現実について全く認識不足であった。このとき、岸井氏が大毎、東日に連載した「満州のわが移民村」と、「国際連盟脱退すべし」(何れも昭和8年)の二論文は最も特異なもので、一般言論界が満州事変に対して、暗にこれを非難するだけで、その実態を分析せず、国論を指導する気追と英知を欠いていたのに対し、積極的かつ建設的な主張であった。また、岸井氏独得の思想と勇気のある言説であった。昭和8年10月、関東軍以外の何人も行かなかった、北満の永豊鎮(のちに弥栄村)第一次開拓移民地に、岸井氏ははじめて乗込んで、現地を視察したのである。昭和9年1月に、氏は「満州移民と国策」という一篇を追加して、単行本として出版した。その内容について詳細に書く余裕はないが、この本は、氏のものの考え方を如実にあらわしているだけでなく、今日でもなお含味すべき思想を示している。

 一言にしていえば、大正デモクラシーの基となっている自由主義には幾多の複雑な要素があったので、リベラリズムとして正当なる評価をされていなかったことがつくづく感ぜられる。氏のリベラリズムには濃厚な現実主義が基底となっていた。自由とは、外物にとらわれず、事実をありのまゝに見てこれを自由にとらえることだということが、今日の評論家、政治家の多くはわかっていない。ややともすると、リベラリズムを理想主義的にのみ空想して、現実の分析を忘れ、軽挙妄動する傾向が今日でも多い。

 これは自由主義の本質ではないと思う。岸井氏の満州移民に対する批判には、軍部のやり方をはじめ、満州という環境に適応しない方策を指摘しながら、満州移民の絶対必要性を主張し、かつ、その可能性をこまごまと論じている。こういう実際的な評論家は、今日でも絶無ではないかと思う。

 国際連盟脱退論でも、岸井氏のは連盟が満州国承認に反対するのがけしからんというような書生論ではなく、国際連盟そのものが不合理なやり方をしていることを、具体的に沢山の実例をあげて指摘している。こんな連盟にいつまでもかかずらっていることは、日本の国際的地位をかえって危うくするから、早く脱退した方がいいという実際的な考え方であった。

 岸井政治部長は、東日紙上に堂々署名して連盟脱退論を連載していたが、当時の外務大臣幣原喜重郎氏を3回も訪問して会談している。官僚的秘密主義の幣原はついに岸井氏に胸襟を開かなかったらしい。当時、陸軍省担当であった私に「陸軍で話のわかるャツを紹介しろというので、私は荒木陸相の懐刀といわれた小畑敏四郎少将(当時参謀本部第三部長)に岸井氏を紹介した。氏は小畑と会談後「軍人としては、よく話がわかっている」と一言洩らしていた。話は連盟脱退の件であったらしいが、幣原がわからないので、やむを得ず軍部と話をしてみたのだと思う。

 戦後、幣原の手記が公表されて、幣原の連盟論が全く岸井氏の説と同じだったのをみて笑っていた。自由主義というものが、あくまで現実主義でなければならぬという岸井哲学は今日こそ、もっと徹底して理解されるべきだと痛感する。(つづく)

<城戸事件の真相❶>

 昭和41年10月28日、元毎日新聞会長城戸元亮氏は85蔵の高齢で道山に還った。私はすぐ岸井氏に電話で訃報を伝えた。電話の声で、氏が万感交々至るといったような沈痛な表情であったことが看取された。

 前述したこともあるが、東日主幹城戸氏は岸井氏の最も敬慕する新聞人であり、城戸氏からいっても岸井氏は最も信頼する部下であった。当時城戸氏幕下として「東に岸井あり、西(大阪本社)に新屋(茂樹)あり」といわれたくらい城戸、岸井というラインは緊密なものがあった。それが昭和8年城戸氏が衆望を負って大毎会長となるに及んで、世にいう「城戸事件」という新聞界稀にみるお家騒動が起り、心ならずも岸井氏は城戸氏と訣別し、それだけでなく城戸派から岸井氏を目して城戸氏を裏切ったものと今日でも非難している悲劇となってしまった。

 右の電話で、岸井氏は「城戸さんの葬儀はいつか、是非行くよ」と悲痛な声でいったのを今でも覚えている。一体城戸事件の真相はどうたったのが、岸井氏は果して城戸氏を裏切ったのか、私もそれまで、一度も氏にたずねたことはなかった。

 城戸氏の葬儀の日、岸井氏は毎日新間に入社したばかりの三男成格君を同伴して、告別式に参列した。かつての城戸派の人々とも氏は久闊を叙していた。その翌日、岸井氏から電話がかかって「一寸来てくれ」というので岸井邸に行った。氏は一寸改まった口調で次のような「城戸事件の真相」を語った。私は、そのときの言葉をそのままに記録しておく。

 城戸事件についてはいままでどんな懇意な友人にも、まして家族などにも一言も話したことはない。いろいろな人に迷惑をかけてはいけないし、ことに城戸さんにどんな経路で耳に入ることがあるといけないと思って今日まで固く沈黙を守ってきた。いま城戸さんも亡くなられ、君は城戸さんともよかったので、真相を話しておく。私は城戸さんを尊敬し、ずいぶん世話にもなり、新聞人、ことに編集陣の人として、えらい人と今でも信じている。君も知っているように、大正天皇がなくなって年号が大正から昭和に変ったとき、毎日新聞が、新しい年号は「光文」であると誤報した「光文事件」というのがあった。

 皇室中心主義の本山彦一社長は激怒して東日主幹であった城戸さんを首切り、外遊させてしまった。私は営業局理事吉武鶴次郎氏を訪ね、〝社長はあまりに横暴ではないか、城戸氏というあれだけの人物を首切るとは何事か。私は体を張っても、この乱暴なやり方に反対して、あばれてみせる〟と厳談した(本山、城戸、吉武三人は何れも熊本出身)。

 すると吉武氏は〝いま君にあばれられては困る。城戸氏は必らず私が本山社長を口説いて社に復帰するようにするから、君はじつとしていてくれ〟というので、私は城戸氏復帰運動を一切中止することにした。城戸氏はすでに外遊していた。ところが私にも外遊の社命が下った。そして古武氏が私を招いて〝城戸氏復帰のことは本山社長の内諾を得た。だから君はすぐ出発していまロンドンにいる城戸氏に会って、その旨を報告し、決して軽挙妄動しないように言伝えてくれ〟といった。私もこれで一安心して横浜を立った。

 おどろいたことに、本山社長が横浜埠頭に重役でもない私をわざわざ見送ってくれた。これは全く異例のことなので、城戸氏復活のことはウソではないと思った。そしてロンドンで城戸氏に会い、あなたの社復帰は決定したと告げると、城戸氏も喜んで、〝それでは君はすぐ日本に帰って、私の復帰後の準備工作をしてくれ〟といった。私は〝イヤ、私もはじめての洋行だし、2年ぐらいヨーロッパで遊んでいたい〟と断った。城戸氏は私より先に帰国すると、果して大阪毎日主幹として立派に復活していた。

 私はソ連を回ってゆっくり帰国した。ソ連では監獄まで視察したが、収容されている囚人の大部分が経済事犯なのを知って、私は統制経済ないし社会主義は汚職と、官僚腐敗を伴うものでダメであると思った。これが盟友麻生久氏と意見の一致しなかったところで、私の自由主義は、右のファッショも、左の共産主義も不自然な統制主義であると否定する。私も、他人事でなく城戸氏には画したつもりだった。(つづく)

(福島 清)

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2021年5月24日

1964年東京五輪を取材した磯貝喜兵衛さん(92)の連載一部〝復刻版〟『日本のスポーツ 発展の歴史』―フェイスブックから転載

 アジアで初の東京オリンピックが開かれた昭和39(1964)年。開会直前の毎日新聞夕刊で、12回連載の『日本のスポーツ・・・発展の歴史』を当時、オリンピック報道本部にいた私が一人で書きました。引っ越し荷物の中から見つけたその切り抜きから、④回目の「古代からの人気種目・相撲」(昭和39年5月1日夕刊)を、よろしければご覧ください。

日本のスポーツ  発展の歴史④  古代からの人気種目・相撲

開会式当日、代々木の選手村で

〇・・・無類の相撲好きだった作家の尾崎士郎は、随筆「相撲を見る目」でこう述べている。

 「相撲に親しむ気持は東洋人にとって先天的なものなのであろうか。幼童の遊びを見ていると、すぐ相撲がはじまる。だれが教えたわけでもない。四つに組んで投げ打つというのは、必ずしも勝負の観念に立脚した技法ではなくて、自然の動作のようにも思われる。」

 相撲が古代から日本人の間でごく自然に発生し、親しまれたことは古事記や日本書紀の伝説が裏書し、埴輪や須恵器に残された相撲人形をみても明らかである。建御雷命(タケミカズチノミコト)と建御名方神(タケミナカタノカミ)とが出雲で力くらべをし、国ゆずりの決着をつけた話や、野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(タイマノケハヤ)の相撲伝説は、日本人の相撲好きをよく物語っている。

〇・・・相撲の語源は「すまひ」(素舞・相舞)からきている。折口信夫の「日本芸能史ノート」によると、「相撲は神と精霊との争いを表象した演劇的な要素が強かったが、力くらべがみんなの興味を集めたことからスポーツ的な面に拡大されていった。」という。国と国との領分を決めたり、農村と農村とが互いの豊凶を占うのに相撲が盛んに用いられた。奈良時代聖武天皇の天平六年(734年)から平安時代、高倉天皇の承安四年(1174年)まで毎年宮廷で行われた相撲節会(せちえ)は一種の「年占い」だった。全国から力自慢の相撲人を集め、国を二つに分けて団体戦をやらせ、これを天皇や貴族が鑑賞した。このころは土俵がなく、投げたり、引き倒したりして、手や膝が土につくと負けになった。

〇・・・貴族階級の節会相撲に対して、地方の民間でうけつがれてきた野相撲、宮相撲は鎌倉時代に入ると武士のスポーツとしてクローズアップされてくる。体力をきたえ、戦場で敵と一騎打ちに勝つためにも相撲は大いに役立つとあって、武士の間で流行した。源頼朝は陣中で武将たちによく相撲を取らせて楽しんだ。伊豆で相模と伊豆の武士たちが余興に相撲を取ったとき、俣野五郎が21人を勝ち抜いた。これに挑戦した河津三郎が俣野の連勝を破ったが、物言いがついて喧嘩沙汰まで起きる騒ぎ。これがもとで河津は俣野方の工藤祐経の家来に遠矢で殺され、曽我兄弟の仇討ち物語がはじまる。この事件で当時の武士たちが、相撲にどれほどエキサイトしたかを知ることができる。

〇・・・織田信長も相撲が好きで、天下を取って近江の安土城に落ち着くと、全国から千五百人の相撲人を集めて相撲の会を催した。土俵が出来たのも戦国時代の末期である。相撲を取り組む力士のまわりには、見物人が自然に輪をつくる。「人方屋(ひとがたや)」と呼ばれる円型が土俵を生んだわけで、土俵が設定されることによって、相撲は単なる力くらべから、技巧の競技になり、スポーツとしてのルールも整ってきた。

〇・・・有力な領主や富豪がなかば職業的な力士をかかえるようになると同時に、神社仏閣の建立や修理をする資金作りの名目で「勧進相撲」があちこちで催された。江戸時代になると、職業力士の勧進相撲はますます盛んになり、興行化してくる。元禄年間は京都、大阪が中心で、大関・両国梶之助などが活躍。つづいて江戸相撲が繁栄し、横綱・谷風、小野川を中心にした寛政の黄金時代を迎える。

〇・・・明治維新は相撲の世界にも革命をもたらした。大名に抱えられていた力士たちは封建制度の崩壊でよりどころを失ったが、文明開化が進むにつれて近代化され、明治5年、それまで女性の見物が許されなかったのが、11月場所から2日目以降は女性も見物してよいことになり、明治10年からは初日を含んでまったく自由となった。明治、大正時代は華族、実業家、軍人などの支援を得、昭和に入ると大衆の人気を集めて大相撲が安定した時代を迎える。

〇・・・一方では高校相撲、大学相撲がアマチュア・スポーツの伝統を守り、地方によっては神事相撲の歴史を偲ばせる村相撲や少年相撲も盛んだ。たとえば長野県小諸の八幡神社で八朔(はっさく)相撲の少年力士が町内を練り歩く行事など、相撲が庶民の間で古くから愛されてきたなごりを見せている。

〇・・・日本のスポーツのなかで、相撲だけは古代から現代まで一貫した人気をもち続けてきた。東京教育大の和歌森太郎教授はその理由をこう語る。

 『日本人の民族性は淡泊というか、単純というか、非常にさっぱりしている。相撲の勝負も土俵という限られた空間のなかで短時間に終わってしまう。しかし、単純ななかに集中力をもりあげ、ものすごく充実した力と力、技と技がぶつかり合う。見物する方でも、そこに相撲の醍醐味を感じるのだ。同じ格闘技でも、たとえばボクシングのように、何回も殴り合いを続けるのと違って、しごくあっさりしている。日本人の気性にピッタリ合ったスポーツである点が、相撲という日本独特の競技を生み、育てたのだと思う。』

〇・・・雲をつくような大男を、小柄の力士が投げ飛ばすというのも、相撲独特のおもしろさだ。日本人の器用さが高度に発揮されるスポーツ・・柔道、レスリング、体操といった種目がオリンピックで有望なのも、相撲の歴史と考え合わせると興味深い。

磯貝喜兵衛さんのフェイスブック
https://www.facebook.com/kihei.isogai

2021年5月24日

社会部旧友、宗岡秀樹さん(73)の「弟の孤独死」が、滝野隆浩・専門編集委員の連載『掃苔記』に

 『掃苔記』(2021年5月23日付け)に登場する「退職した先輩記者のМさん」は、航空部長などを務めた社会部旧友、宗岡秀樹さん(73)です。毎日新聞リタイア組を中心メンバーとする季刊同人誌『人生八聲』春季号(26巻)に掲載された体験記を基に、滝野編集委員が取材しました。宗岡さんの同人誌原稿を転載します。

緊急事態宣言下の最悪事態~たった一人の弟の孤独死  宗岡 秀樹

 新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が出されていたさ中、独り暮らしをしていた9歳下の弟が自宅マンションで寂しく逝った。生涯独身。誰にも看取られず、たった一人の肉親である私にさえ、親しく付き合っていた友人たちにも別れを告げることもなく63年の生涯を終えた。自らが意図しないままの姿で見つかった時には約1カ月が過ぎていた。若い時から年2回は海外でスキーを楽しみ、仲間とお酒を酌み交わすことが大きな喜びだった。3年前にリタイアしてからはその度合いはさらに高くなったようだ。だが、昨春来の不要不急の外出自粛、長い巣ごもりでそれがかなわなくなった。ストレスをため込み、孤立し、命を縮めることになったのではないか。ある意味、コロナ禍の犠牲者だ。「もっと連絡を密にしていれば…」「苦しんだだろうに。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか」。自問自答し、悔やんでも悔やみきれない思いが駆け巡っている。

 弟の様子がおかしいと気付かされたのは、2月のある日の夜、よく一緒に酒を飲みに行ったというサラリーマン時代からつながる仲間からの電話だった。 2週間ほど前から電話しても出ず、LINEでメールを送っても「既読」がつかない。その後も何回か連絡を取ろうとしたが同じ結果だった。前日にも若い仲間がマンションまで行って、インタホンを押しても応答はなかったという。「私たちではもうどうしようもありません。心配なのでお兄さんに確認してもらえませんか」というものだった。

 直ぐに携帯、固定電話で連絡を取ろうと試みた。しかし、留守番録音に切り替わってしまい話は出来なかった。

 弟は会社を定年退職してからは再就職せず、〝隠居生活〟を送っていた。時には慕ってくれた飲み友達たちと、時には一人でお酒を飲む暮らしを続けていたようだ。飲んでいて夜と昼が逆転したことが結構あった、と私に話していたのを思い出した。これまでも電話しても出ないことがままあった。つながらなくても「また酔っぱらって寝ているのだろう」。若干の胸騒ぎはしたものの私自身を慰めその日は寝た

 翌朝、やや陰鬱な思いを抱きながら弟のマンションに行った。オートロックのドアの前でインタホンを押した。が、やはり応答はない。鍵を預かっていないので管理人に事情を話して開けてもらえないか頼んだ。管理人も鍵を持っておらず「開けるには『カギの百十番』という鍵開け業者に頼むしかありませんが、お金がかかりますよ」という。もどかしい気持ちを抑え、直ぐに電話するようお願いをした。しかし、警察官の立ち会いがないと開けられない、とのことだった。

 そこで今度は私が最寄りの警察署に電話した。

 それまでの状況を詳しく説明すると、相手は私を落ち着かせようと、丁寧な口調で「安否確認ですね。こちらもいろいろ準備が必要なので少々時間がかかりますが待っていてください」との返事だ。「早く会いたいのに」。心急くばかりの中、小一時間経ってやっと屈強そうな警察官一人がやってきた。新型コロナだけでなくその他の感染症を含めての対策や部屋の中に賊が潜んでいる可能性も考えてのことか、かなりの重装備だった。

 屈強そうな警察官、管理人、管理人が呼んでくれた管理組合の役員、そして私が見守る中、鍵開け業者の作業員が開扉に取りかかった。てっきり鍵穴からピンセットのような小さい器具を使って開けるのかと思ったがそうではなかった。ドアスコープのレンズを外し、その穴からL字型に曲がった鉄棒を差し込んで操作した。ドアノブのサムターンを内側から動かそうと何回か試みた後、カチッという音とともにロックが外れた。ノブを回してドアが開いたかと思ったら、ドアチェーンがかかっていた。この時点で弟は中にいる可能性が高いと悟った。「部屋で寝ていて、何事もなかったかのように出てきてくれ」「弱っていて動けないのか」。「それともまさか?」……。期待と不安が錯綜した。

 ドアチェーンに挑んだ作業員は「これは厄介なんだ」と言いながらテグスのような細い糸を引っ掛けて外そうとしたが、難儀しているようだった。繰り返し、繰り返し試行した後、チェーンが外れてドアが開いた。

 すぐに入って弟に会いたかったが、警察官に制止された。私たちは何も触らないよう注意を受け、ドアの外で待機させられた。警察官は一人で中に入り、ゆっくりと部屋の点検を始めた。隠れているかもしれない不審者に襲われないよう警戒しているのか、慎重な足取りで奥へと進んでいった。

 警察官が再び姿を現した時には相当な時間が経過したように思われた。そして重苦しそうな口調で「奥の寝室のベッドの脇で仰向けに倒れられていました。ちょっと日数が…」と話した。

 覚悟をしていたとはいえ、危惧していたことが現実になってしまった。最悪の事態を知らされた時、幼い頃に一緒に遊んだこと、いつもニコニコしていた様子などがにじんだ風景の奥に思い出され、悔しさと悲しさが一挙にこみあげてきた。

 弟は昨年1月にイタリア北部ドロミテ・バルガルディナで、3月にはオーストリア・チロルのサンアントンでスキーを堪能していた。少なくとも昨春までは並大抵の体力ではないほど元気だったはずだ。それが長い巣ごもり生活で酒量が増え急激に老け込んで消耗したに違いない。「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる気がする。そして希望を見い出せなくなったら生きる気力を失う」――の言葉が痛く感じられた。

 警察官は直ぐに救急隊と刑事課に連絡した。先に駆けつけた救急隊員3人が室内に入ったあと刑事一課、鑑識課の計3人の警察官が到着した。刑事一課の警察官はしばらくして出てきた救急隊員に質問していた。そのやり取りが聞こえた。

「中でどんな処置をしたのですか?」
「はい、心肺蘇生を試みました」
「で?」
「蘇生しませんでした」
「AEDは使わなかったのですか」
「信号が出なかったので使いませんでした」。救急隊員は持ってきた担架を広げることなく縦にしたまま引き上げていった。

 代わって警察官たちが中に入り部屋の中の検証を始めた。鑑識課員の検証が続く中、私は玄関先で刑事一課の警察官から「遺体には外傷や争った形跡もなく、密室だったので事件性は薄いと思われます」と告げられた。そばに解熱剤が見つからなかったことなどから新型コロナ感染症でもないという。

 その警察官は「ご遺族と関係者の方へ」と題した見開き1枚のパンフレットを渡し、私の事情聴取を始めた。

 パンフレットの表紙には「法律に基づいて警察が行う手続きや埋葬の手続きを説明し、ご理解をいただくために作成したものです。」などと記されていた。

 中面左には「遺体発見から火葬・埋葬までの手続き」として事件性が疑われる場合とない場合の流れ図が示されていた。右面は「なぜ、警察がご遺体を調べるのですか」「なぜ、家の中を調べたり、写真撮影をするのですか」「なぜ、病歴や生命保険の加入状況などを聞くのですか」「なぜ解剖するのですか」という4項目の質問にその答えが書かれていた。

 パンフレットの内容に沿って説明を受けたあと、弟の部屋を訪ねることになったいきさつや生活ぶりのほか、「最後に会ったのは? 話をしたのは?」「兄弟の仲は?」「生命保険はどうでしたか」などと細かく聞かれた。

 2、3時間が経過しただろうか、やっと中に入れてもらった。初めて踏み入れた弟の部屋はタバコの臭いがきつかった。少し散らかってはいたが、生ごみも残っておらず、〝男やもめ〟の部屋のわりには思っていたほど汚れてはいなかった。

 寝室に案内され、ベッドの脇でパジャマをはだけさせて変わり果てた姿で横たわっていた弟を目にした時、頭が真っ白になった。声も出なかった。以前の面影は全くなく、目がくぼんだ顔をまともに見ることができなかった。ただ、真冬だったせいか想像していたほどには傷んでおらず異臭もそれほどではなかった。

 私が放心しているように見えたのか、「もう一度しっかり顔を見て身元確認をして下さい」と警察官に促された。ミステリードラマじゃあるまいし、別人が代わって倒れていたとは考えられない。発見された状況から見て弟に間違いないと思ったが、実は顔を見ただけでは確信が持てなかった。返事をためらっていると「身体的特徴は?」と聞かれた。「確か左手の甲に黒子が…」と答えると、警察官は弟の手を取り黒子を見せながら「それで間違いありませんね」と言って確認は終了した。

 検証が済むと警察官は部屋に残されていたという鍵の束、マイナンバーカード、キャッシュカード、預金通帳などの〝貴重品〟とともに「テーブルの上に置いてありました」と現金数十万円を手渡してくれた。

 ただ、死因と死亡日時はまだわからない。これを解明するため警察官は「医師の判断で解剖になる」と説明しながら、一応私に「解剖承諾」にサインをするよう求めた。弟の遺体は事件性が認められないため翌日、行政解剖に付されることになった。ちなみに事件性の疑いがある司法解剖の場合は解剖の費用は公費負担、遺体の搬送や保管、修復に伴う費用の一部も公費で賄われるが、行政解剖の場合は検案・解剖、遺体の搬送、保管の費用すべてが遺族の負担になるという。

 その日は暗く沈んだ重苦しい気持ちで帰宅した。弟と同じ酒好きで独り暮らしをしている息子への電話と妻からのやさしい慰めの言葉以外、老夫婦間の必要以上の会話はなかった。

 翌朝、警察署から電話があった。解剖の結果が出たのだという。検証で部屋から近くのコンビニのレシートが見つかり、買ったものが冷蔵庫内に残っていた。死亡日はそのレシートの日付の翌日だと推定された。弟は突然死でもあったのだ。

 そして死因を聞いて驚いた。

 「アスベスト肺、肺気腫による呼吸不全」

 後で渡された死体検案書の解剖主要所見の欄には「両肺癒着及び肺気腫。胸膜側にプラークを形成する。左右心室拡張……」などと記されていた。

 自分の健康管理には無頓着で毎日のように酒を飲んでいたというので、てっきり肝臓障害の類かと思っていたがそうではなかった。確かに空調設備の会社に勤務し、設計とともに現場管理に従事していたことはあったものの、これまで咳き込んだことや息苦しそうにする姿などは見たことはなかった。まして標高1000~3000メートル級のスキー場まで行き滑走しても何の問題もなかったのだから肺が石綿で蝕まれていたとは予想だにしなかった。

 知人から聞いた話だが、アスベストによる疾患は潜伏期間が長く、ばく露してから数十年経って発症、死亡することがあるという。国の補償もあるという。この点については別の機会に取り上げることになるかも知れない。

 死亡日と死因が分かり、死体検案書が作成されたことで弟の死に関しては警察の手から離れ、葬儀への流れに移った。

 弟の遺体は警察署から紹介された葬儀屋が引き取り、翌日、手厚い化粧を施し、髪の毛や口・あごひげを整えてくれた。棺に入った弟の顔は元気な時とはほど遠く、顔色も良くないが眠っているように繕ってもらっていた。弟がベッドの脇で横たわっている姿を目にした時には、最初は、こんな哀れな弟を私の家族だけでなく他人にも見せたくはなかった。寂しいけれど極々近しい者だけで供養してあげよう、親しかった仲間には遠くから拝んでもらえればいい、との思いが強かった

 しかし、化粧をしてもらった弟の顔を見て考え直した。「寂しく息を引き取ったのだから、最後は大好きだった多くの人たちに囲まれて見送ってもらう方が弟も喜ぶだろう」と。自粛ムードのご時世であってもささやかながら敢えて通夜も葬儀も行う一般葬で弔うことにした。

 というのも、弟の様子を心配して電話をかけてきてくれた仲間に最悪の事態を伝えたところ「そばでお別れをしたいという仲間がいっぱいます。彼の人気は高く、慕っていた部下も沢山います」「お酒を御馳走してもらった人も多いと思います。弟さんを囲む会、もあるくらいですから」と聞かされたからだ。本来であれば通夜の席で弟の仲間の人達とお酒を交えて話をしたかった。ただ、夜の飲食自粛要請が出ていることもあり、お斎(とき)は控えさせてもらった。

 十分なソーシャルディスタンスを取って行った通夜・葬儀には弟が勤めていた会社関係の仲間を中心に、私が予想していた数の倍近い人たちが足を運んでくれた。涙を流しながら手を合わせてくれた女性もいた。「会社を去って3年にもなるのに、こんな時期にこんなに多くの人が……」と正直、驚くとともに、胸が詰まった。

 後日、弟のマンションを訪ねると、玄関ドアの前に白いユリの花束が置かれていた。

 悔しさ、無念さは尽きないが、生涯独身で通しても弟は寂しくはなかったんだと、今は勝手に自分自身に言い聞かせ元気づけている。

×    ×    ×

 孤独死。年間約3万人が一人寂しく生涯のピリオドを打っているという。高齢化社会の進展とともに人間関係が希薄になっていく中で社会問題化して久しい。国、自治体のほか郵便局や多くの団体が独り暮らしのお年寄りを対象に「みまもり」活動などの対策を取ってきてはいる。だが、昨春来の新型コロナウイルス禍でさらに深刻化しているという。政府は2月19日、内閣官房に孤独・孤立問題の対策室を設けたほどだ。

 周りを見回すと独り暮らししている知り合いは何人かいる。しかも大酒家。でも、まさか自分の身内から孤独死者を出すなんて思ってもみなかった。

 実をいうと、正直なところ私と弟は成人してからはそれほど連絡を密にとっていたわけではなかった。一緒にお酒を酌み交わしたこともそれほど多くはない。歳が離れていたせいもあるが、お互いの生活を尊重した形で「便りの無いのは良い便り」とばかり不要不急のコンタクトもあまりしてこなかった。

 しかし、新型コロナウイルス感染症の拡大で巣ごもりの生活が一年近く続く中で、緊急事態は〝異常事態〟であることの認識が私には不足していたのではないか。弟にはこれまでと同じ係わり方で過ごしてきて良かったのか、兄としてもっとしてあげられることがあったのではないか、と自責の念に駆られている。今となってはもう遅いが、この時期、離れていた家族に連絡をこまめにすることの大切さを痛感させられた。三密を避けるのはもちろんだが、不用不急でも〝密コール〟〝密メール〟を心掛けるべきだった、と自省する毎日だ。

 孤独死については様々な観点から取り上げた記事や書物も少なくない。私も取材したことがあるが、多くは遺族や周辺からの取材で社会に投げかけている。慚愧の念が大きいからか、周りの人達に思わぬ影響を及ぼす恐れがありそれをおもんばかってか、身内側からの記録はどちらかと言えば少なめだ。

 少し長くなったが、忸怩たる思いの中で自らのショッキングな体験を敢えて細かく記させてもらった。

2021年5月21日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その2

 岸井寿郎さんの6歳上の友人・山下芳允さん(報知新聞記者)の「畏友、岸井君との半世紀」から、の続きです。

 <ハシゴ酒>

 書かずのブンヤ、青年記者岸井君は文字通り夜を日についでのハシゴ酒。そんなわけですからいつも給料袋に入っているのは、前借金の紙キレばかりです。それも毎月、毎月。たまにお金を拝めても、10円そこそこ。これで生活のできるはずがありません。岸井君の妻君は偉かったのですねェ。金ならぬ前借金の書付の束をポイと渡されて、どうやって生活を工面していたんでしょうか。

 あるとき、いつものように月給袋を渡すと、珍らしく前借伝票の中に12円。そこで妻君「これっぽっちでどうしようもありませんネ」「オオ、それなら芝居見に行こう!」とあり金はたいて本郷座に出かけ、それでチョン。

 岸井君は家のことなどおかまいなしに、バー「ライオン」や「マンハッタン」、台湾喫茶店とでもいうのか「ウーロンチー」などで、小さな身体に酒を注込む毎日でした。私はこれまた反対に、酒がまったくイケず、夜、岸井君とつき合うことはまれでした。が、あるときなど岸井君は、結婚して目も浅い私の家を夜中の1時、2時に襲い、玄関の戸をドンドンたたいて起こします。酔っている彼は、大声で叫ぶは、友人が子供の土産に持ってきたヨコブエいたずらしてビーピー吹くはで、近所迷惑もはなはだしく、アルコール類を一滴も置いていない私の家では、家内もずい分面喰ったようです。

 また、大臣以下、役所の幹部と記者団とが会合したある有名な料亭では、相当高価な柴檀の茶ぶだいの上に乗り、はねるやらとぶやら、果ては鞍馬式に仲間とともに騒ぐやらで、とうとう茶ぶだいをこわしてしまいました。数日たって、私は、そこの女将と文部大臣室の前でバッタリ会いました。女将が何をしにきたかは、いうまでもありません。以来、岸井君の奇行(?)はちょっと減ったようです。しかし奇行は減ってもハシゴ酒だけは延々と続いていました。後に胃腸をこわす大病をしましたが、下地は充分すぎるほどできていたわけです。

 岸井君のハシゴ酒についていける生身の人間は、新聞社に酒豪多しといえども、そういませんでした。このことだけでも、岸井君の飲みっぷりがうかがえます。毎日新聞の記者に、イトキンなどという豪の者が多くいて、岸井君のフトコロ目当てによく飲み歩いていたらしいのですが、あるときはさすがの岸井君も、もうこれ以上つき合いきれない、とみるや、次の飲屋に行こうと誘うイトキンを振りきるために、走り出そうとする市電に駆け寄って一人だけ飛び乗ってしまいました。当時の市電にはドアがなく、柱がついているだけでしたので、柱につかまって逃げ去る岸井君めがけて、イトキンは「スリだァ。スリだァ。今その電車にスリが乗ったぞォ!」と、どなったというのです。電車に乗った岸井君は車内の人にジロジロにらまれ、大弱りした、と翌日記者クラブで話していました。最近会ったときにもその話が出て、私は「それはキミ、嘘じゃない。キミの名は寿郎、すろうだから」と大笑いしたものです。(つづく)

 <日本一キレイな紙面と首切>

 当時の新聞の刷りは全国的にみてキタなく、東京日日新聞はもとより関東大震災の影響もありましたが、震災にあわない新聞社の新聞も例外ではありませんでした。これは大きな問題で、岸井君はその仕事におおいに生きがいを感じ、男として取組みました。とはいえ、岸井君にしてみれば、華やかな記者生活から、むしろ地味な印刷の仕事であり、法律こそ勉強したが印刷はまったく未知の世界。しかもきわめて難問題をかかえている時期に、彼一流の“強気”で工務部長として乗込みました。

 例のごとく、当座はほとんどこれといった仕事もせず、3月、半年と、酒にあけて酒に暮れるという毎日だったようです。ところが実は彼の偉いところなのですが、毎夜印刷、工務部の上級幹部一人一人をつれては銀座で飲み歩き、ドジョウすくいを踊ってはいても、決して酒にのまれることなく、それらの人々から印刷技術の数々、仕事に対する態度、働き振りをつかんで、改善の急所を学び、研究していたのです。

 そしてその間、改革についての腹をきめ、これを実行に移し、まず、古い幹部をスパッとやめさせてしまいました。随分思いきったやり方です。しかし、岸井君の考えでは、能率が上がらず、紙面の刷新がなされないままでいるのは、それまでのやり方が悪く、幹部の責任でもある。彼等に代えて若い人をドシドシ登用する。幹部に支払っていた給料との差額がだいぶ出る。これをすべて若い人にまわす。それで仕事もバリバリやらせる。毎日何もしていないようにみえた岸井君は、毎日新聞の工務部、というより、日本の新聞のキレイな紙面づくりのために案を練り、腹を固めていたのです。活字、インク、用紙、輪転機、ありとあらゆる点について納得ゆくまで研究し、それも机上のプランではなく、自分の目で確めて実行したのです。ボタン一つで色々な工程が流れる作業をする機械もアメリカからイチ早く購入し、われわれの目を見張らせました。岸井君の研究は工務だけにとどまらず、販売、その他にまで及んでいます。今でも、毎日新聞の紙面はいちばんキレイだと思います。新聞全体では、また逆もどりの傾向にあるのは、残念です。

 ともかく、岸井君は、当時日本一キレイな新聞、という偉業を打ちたてたのであり、本山彦一社長はいたくその功績をたたえ、社員一同の前で金一封(中味は彼の前借伝票で棒引)と記念品の金時計を贈った、とのことです。

 戦後は新聞界から去り、鉱山事業を手がけました。もちろん、金など身についてはいません。とくに山形の硫黄の山を引受けたときなども、きわめて平気な態度であっさりといったものです。「オイ、オレの香典と思って5万円出せ」。当時同期の友人はそれぞれ相当の地位についている年輩でもあり、そうした友人をまわり歩いて金を集めました。後にヤマを松尾鉱山に手放すことになったとき、岸井君は借りた金を3倍から5倍にして、キレイに返しました。金に執着しない岸井君らしいやり方です。

 その岸井君にも、ひとつの大きな夢がありました。岸井君らしい大きな夢です。家に来ないかと電話があって出かけると、きまって小笠原の地図を広げていました。2年前の夏、元気に小笠原に出かけて行ったほどです。

 「海は澄んでいるし、魚はうまいし、気候はよし、空気もキレイだ。オイ、お前も行ってあそこに保養所を建てよう!」などと、島の話をするときは、童子のように顔をほころばせていました。

 尊敬する友人を持った私は幸せでした。それだけに、いまの寂しさはひとしお身にこたえます。(つづく)

*岸井印刷部長のことは、元東京日日新聞政治部員・岡田益吉さんも書いています。
岡田益吉さんの回想

 <印刷部の根本改正>

 昭和6(1931)年9月、満州事変勃発とともに、岸井氏は政治部長となった。恐らく氏の親分であった城戸元亮主幹(昭和3年主幹となる)の抜櫂によるものと思う。氏はこのことと関係はないが、「城戸さんは面白い人事をやる人だ」といったことがある。氏を政治部長とした城戸氏に知己を感ずるとともに、「自分のような八方破れのものをよく政治部長にしたものだ」という含みの意味もあったようにきこえた。

 岸井政治部長はあの満州事変の激動期に印刷部長を兼務していた。政治部副部長には柔軟性のある久富達夫を抜櫂し、この剛の岸井部長と柔の久富副部長ぐらい名コンビはなかった。当時の東日政治部は、「猛将の下に弱卒なし」で、手のつけられぬサムライ記者が雲集しており、何れもよく働いた。政治部のことは後回しとして、岸井印刷部長は、多年禍根となっていた印刷部の根本的改革に氏特有の蛮力をふるった。

 第一に印刷部の資材のヤミ横流しなどをビシビシやっつけた。ひどいときは名うての乱暴職工を工場のコンクリートの柱に縛りつけるという思い切ったこともやった。こういう強圧も加えたが、 一方能率を上げた職工20数名に懐中時計を身銭を切って与えたりした。ガンコおやじ然とした氏の半面に涙もろい温情主義がかくされていた事実は、親近した若い連中はよく知っている。氏はこういう温情なり憐憫の心を表面にあらわすのを絶対に好まなかった。いつも自分の愛情をそっと示すやり方をし、しかも、その方法は行届いた適切なものであった。

 この印刷部の改革は、東京日日新聞(当時は大阪が毎日新聞本社で、東日は東京支社となっていた)に月々5万円(時価で5億円)の黒字をもたらし、従来、大阪本社から補填されていた赤字を解消してしまった。かくして、東日ははじめて大阪本社から経済的に独立したのである。主幹の城戸元亮氏も営業局理事の吉武鶴次郎氏も手を打って心から喜んだ。本山彦一社長は岸井氏に金時計を贈ってその労をねぎらい、大阪印刷部の改革も依頼したが、これだけは岸井氏は最後まで断っていた。

 この印刷部改革は、岸井氏の社内における確固たる地位を築き上げ、本山社長をはじめ、城戸、吉武両重鎮の信頼を、一身に担ったと思われる。そればかりでなく、東日の印刷面のいちじるしい刷新は他社の注目するところとなった。社内的に財政上の赤字を克服しただけでなく、紙面の鮮明さは格段で、当時新興の気運に乗っていた読売新聞社長正力松太郎氏も、これに着目して、大胆にもライバルである東日印刷部長岸井氏に強引に会談を申込んだ。

 ここに斯界の両鬼才である正力氏と岸井氏との出会いが行なわれたのである。正力氏は顧間の小野瀬不二人氏とたった二人で、丁重に岸井氏を迎えて、印刷面の改革方法について教えを乞うた。岸井氏はただこう答えた。「印刷工場に金を注込んで設備をよくするだけではタメです。要は人にある。正力さん、貴方が直接工場に乗込んでやらなければ、決してよくはならない」と。

 それから精力的な正力氏は陣頭指揮で工場に臨んだ。社長が大組みまで立会うほどの熱意であった。読売の紙面はみるみるうちに進歩した。なお岸井氏は停年になった束日の優秀な印刷工員を推薦して読売の工場に送込んで、正力氏を援助している。「要は人である」というのが氏の人生哲学だ。

※岸井成格さんは、この2編を読ませたかったのでしょう。当時、毎日新聞東京本社は活版からCTSに完全移行しました。制作方法が変わっても、「『要は人である』ことを貫け」と言いたかったのだと思います。「印刷部改革」のことは「毎日新聞百年史」(1972年刊)「技術編」には見当たりません。それだけに貴重な証言です。

余談。「活版は昭和とともに去りぬ」でした。「昭和」は1989年1月に終りました。活版制作の毎日新聞は、昭和が終わった年の12月11日付の群馬版、栃木版が最後でした。この日は、私の51歳誕生日でした。当時、CTS移行の活版側責任者でしたので、最後にCTSに移行する面の日程について、この日にすることを主張したところ、あっさり決まりました。本当は私の出身地である長野版にしたかったのですが、それは編集局側の事項ですのでダメでした。毎日新聞の活版制作の最終日が私の誕生日であったことは、誰も知りません。私だけの活版惜別記念日です。

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年5月20日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(後編)

 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(後編)=註と記事、写真の一部略 文・写真 平嶋彰彦
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53460857.html

 染井の長池から発した谷戸川は、巣鴨や西ヶ原からの湧水や下水(したみず)を併せつつ、染井通りを遠巻きにする形で、北から東へ向きを変えながら、現在の染井銀座から霜降銀座を流れた。霜降橋交差点は本郷通りが谷戸川を渡るところで、かつては霜降橋が架かっていた。その先が谷田川通りで、東南に流れて、中里から田端にいたる。さらに日暮里付近で向きを南に転じ、谷中(台東区)と千駄木・根津(文京区)との境になっているよみせ通りやへび道などの道筋を流れたあと、上野の不忍池に注ぎこんでいた。川の名前は上流の駒込付近では谷戸川または境川、中流の田端付近では谷田川、下流の谷中・千駄木・根津付近では藍染川と呼ばれていた。

 現在、谷戸川は源流の長池から不忍池にいたる流路のすべてが暗渠になっている。

 この川は水はけが悪かった。そのため、大雨が降ると、下流の谷中・千駄木・根津付近では、しょっちゅう氾濫し、町中が水浸しになった。

 タウン誌『谷中・根津・千駄木』は第3号で、暗渠化する前の藍染川(谷戸川)について、古老からの聞書きと地元で集めた史料により特集を組んでいる。下記の引用は、そのうちの1つである。

 明治末まではあさりやしじみが採れ、小魚が釣れた。子供は泳いだり水浴びをした。…大正5年8月、大雨が4、5日降り続いたが、川沿いに二階家が少なく、天井裏に寝起きしたり素人作りの筏まで出た。そこで地元の衆議院議員秋虎太郎氏を動かして官庁に町ぐるみの請願を行ない、大正7年から排水工事を始めて、千駄木地区は9年10月に暗渠化された(野口福治さん(故人)「ふるさと千駄木」より、明41年生、茶舗野口園)。

 いい方を変えれば、明治から大正になると、あさりやしじみは採れなくなり、小魚も釣れなくなった。明治末というのは、染井霊園の周りの寺院が東京の市中から移ってきた時期にあたる。おそらく谷戸川に沿ったあちこちで、それまでの田園地帯から市街地への転換が急速に進んでいたものと思われる。千駄木では、1918(大正7)年から谷戸川の排水工事がはじまり、2年後に暗渠化されたのは、筆者が書いているように、町ぐるみの請願が功を奏したのかもしれない。しかし、この地域の水害対策は昨日今日のことではなく、かなり以前からの懸案事項であったようにみられる。

 というのも、その洪水より3年前になる1913年、東京市は藍染川(谷戸川)による谷中・千駄木・根津一帯の水害対策として、「藍染川上流より谷中初音町四丁目を経て荒川にいたる排水路」という工事計画を立案しているからである。

 この計画書を読むと、以前からこの川はしばしば氾濫をくりかえしていたことが分かるのだが、同書では氾濫の原因をこんなふうに説明している。

 藍染川は染井・西ヶ原両高地に発し、流域は甚だ広大であるが、市内谷中・根津の地に入ると、その水路は流量に比べて甚だ狭小であるのみならず、構造が極めて粗悪であることから、一朝大雨に際会すると、雨水を排除することができない。その結果、沿川の谷中・根津一帯に氾濫をもたらし、その被害面積を測定すると約7万1千坪にもおよぶ。

 では、水害を防ぐ具体策はなにかというと、氾濫の常襲地域の手前に分水装置を設け、それまで不忍池に注いでいた流路を変更し、荒川区内を経由させ荒川(現在の隅田川)に放流しようというのである。河口の三河島には、この計画書の立案された同じ年に、汚水処分場(現在の水再生センター)が完成する予定だった。そこで、流路を変更した谷戸川の水を、この処分場で浄化してから放流することを考えたのである。

 故ニ本計画ニ於テハ下谷区初音町4丁目ニ分水装置ヲ施シ、新ニ府下三河島ニ至リテ荒川ニ合流スル延長1千658間余ノ大排水路ヲ設ケ、一朝豪雨到ラバ上流全部ノ雨水ヲ之ニ導キテ荒川ニ放流し、分岐点以下ノ水路ハ単ニ本郷台及び上野台並ニ沿岸ヨリスル雨水並ニ汚水ヲ収容排セシムルコトトセリ。

 下谷区谷中初音町4丁目は、現在の台東区谷中3丁目である。ここは道灌山の南東にある低地で、道灌山を越えた北側にJR西日暮里駅がある。計画書でいう分水装置とは、道灌山から西日暮里駅の地下に通じる「藍染川トンネル」のことである。

 この「排水路」計画の考え方に疑問がないわけでもない。というのも、川の流量に比べ川幅が狭いというなら、川幅を広げるとか、川底を浚うなどの改修工事をすればいいからである。しかし、そうはならなかった。土地買収の経費や下水管敷設の工事費が莫大になるのみならず、工事そのものの困難さが予想されたからだというのである。

 在来水路を取拡ケントセバ勢沿岸ハ多大ノ土地ヲ買収セザルベカラザルノミナラズ、下流吐口神田川ニ達スル迄長距離ニ亘リテ広大ナル下水管ノ築造ヲ必要トシ其工事費莫大ニシテ工事亦甚ダ困難ナルヲ免レズ。

 谷中から三河島にいたる新たな水路は、京成電鉄本線に沿って開削され、上記のように、排水は三河島の汚水処理場で浄化し、荒川に放流された。この計画の実施により、文京区・台東区側の千駄木・谷中から不忍池までの流路は暗渠化され、沿川一帯の人々は水害の危険から解放されることになった。

 そのいっぽう、新たな問題も生じた。どうしてかといえば、そのころには京成沿線の荒川区内でもやはり市街地化が進んでいた。西日暮里から三河島の汚水処理場までの水路は、行政的には下水道である。にもかかわらず、沿川住民の生活感情をないがしろにし、蓋をかぶせない状態のまま、長年にわたって放置していたからである。

 谷戸川の上流にあたる駒込や染井の一帯では、1931(昭和6)年に埋立工事がはじまり、1940年までには暗渠化された。現在の霜降銀座と染井銀座は、その流路跡につくられた商店街である(ph12~20)。川添登は小学校1年のとき、駒込から西巣鴨へ引っ越した。その1年後に谷戸川の埋立工事がはじまったことになる。(註20)。

 駄菓子屋の前の道をさらにすすむと谷戸川にぶつかり、川に沿って下ると霜降橋へでるが、その途中に活動写真館があったり、サーカスが小屋掛けする場所があったりで、いわば場末の繁華街になっていた。谷戸川は、川とはいえ、角材と板材とで土留めされた底を、雨でも降らない限り、わずかな水がちょろちょろ流れるだけのものになっていて、私たちはドブ川とよんでいたが、たまにはオタマジャクシが泳いでいて、それをとったりもしたのである。

 駄菓子屋の前の道というのは、本郷台地の上にある染井通りから谷戸川へくだる染井坂通りのことである。川添登の一家がこの坂道の中腹に引っ越してきたのは、連載その10で書いたように、関東大震災の直後であった。それまでは、谷戸川に沿って田んぼが続いていたが、川添が子どものころには、すでに民家で埋まっていた。とくに染井坂の下には、長屋が建ちならんでいて、それをバラック呼んでいたともいうことである。

 現在の霜降銀座と染井銀座になっている一帯は、おそらく関東大震災のあと、東京市中からの人口の流出現象にともない、本格的に市街地化したものと思われる。

 『コンサイス東京都35区区分地図帖』は、戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図である。連載その1で書いたように、『東京ラビリンス』のもとになった『昭和二十一年東京地図』の取材では、いつもこの地図を持ち歩いた。

 この『地図帖』をあらためて見てみると、1945(昭和20)年の米軍による空襲で、川添登が記憶する谷戸川沿いにつくられた「場末の繁華街」をはじめ、駒込・巣鴨一帯のあらかたの地域が赤く塗りつぶされている。罹災を免れた箇所は、染井霊園とその南東側に隣接する高級住宅地、伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺と染井稲荷神社の境内など、ごくわずかしか確認することができない。

 終戦後の1951年、朝鮮戦争が勃発した翌年になるが、商店街の店主を中心に霜降銀座栄会が設立されている。染井銀座をふくめ、戦災で壊滅した「場末の繁華街」が、現在のような家族連れでにぎわう商店街へ再生する足がかりをつくったのも、そのころではなかったかと思われる。

 それ以上の詳しいことはわからないが、都心の繁華街に眼を向けると、この年の12月、銀座界隈の露店が取り払われ、その替りに三十間堀埋立地の露天デパートに移転することが決まっている。都内にはそれまで7000余りの露天商がいたとのことだが、そのうちの約4500がすでに「自発」的に廃業し、新宿・上野ではすでに協同組合のデパートに移転したともいう。それより4ヶ月前の8月、東京都は御茶ノ水駅下の谷間・上野寛永寺の墓地(「葵町」)・浅草の隅田公園(「アリの町」)などにあったバラック建築を年内に撤去することを決めている。朝鮮戦争による特需景気を契機にして、終戦直後のいわゆる闇市時代は終わりをむかえつつあったのである(以下略)。

染井商店街。昔ながらの魚屋二木商店。駒込3-29。2012.12.08

2021年5月19日

「畏友、岸井成格君との半世紀」を福島清さんがFBに連載

写真は2015年12月24日、毎日ホールでのつどいに出席した岸井さん

 5月15日。89年前のこの日、犬養毅首相が暗殺された。乱入した海軍軍人は「話を聞こう」という犬養に「問答無用」と言って射殺した。49年前のこの日、沖縄は日本に復帰した。だが依然として米軍基地が「問答無用」とばかりに居座っている。2015年、沖縄の苦難の歴史と基地被害を渾身の思いで訴えた翁長雄志・知事に対して、当時の菅官房長官は「戦後生まれなので、沖縄の歴史はなかなかわからない」と言って、辺野古基地建設を強要した。

 そして3年前のこの日、毎日新聞OBでTBSニュースキャスターだったジャーナリスト・岸井成格さんが亡くなった。2015年、当時の安倍首相に忖度した連中が岸井批判の全面広告を出して攻撃した。だが岸井さんは断固として対決しひるみませんでした。

 岸井さんは、1976~1977年にかけて毎日新聞労組が再建闘争に取り組んだ時、「開かれた新聞」として再建することを目指した「編集綱領制定委員会」の組合側メンバーの一員でした。2015年に発行した「夢を追いかけた男たち―毎日新聞再建闘争から40年」で、岸井さんは「最近の『安保法制』その他の安倍晋三内閣の強引な政治運営、『小選挙区制』導入以降、目に見える形で進行する政治の劣化、そして何よりも政権のメディアへの干渉、介入、これに対する主としてテレビ・メディア側の萎縮ぶりは危機的な状況が続いている」と強く警鐘を鳴らしました。

 これより前の2007年、岸井さんは毎日新聞の広告企画特集で、小宮山洋子さん(元厚生労働大臣、衆議院議員)、山野正義・学校法人山野学苑理事長と鼎談しました。美容と福祉の融合を目指すという山野学苑の方針に、岸井さんは「生きがいの原点に」と評価していました。

 菅政権の暴走が続く今、岸井さんはどんな思いでいるでしょうか。

【岸井成格さんの父・寿郎さん①】

故 岸井寿郎氏

 1990年頃、岸井成格さんが私の職場にきて「親父は昔、東京日日新聞の印刷部長だった。参考になるかも知れないから」と言って、追悼集「岸井寿郎」(きしい・としろう)をくださいました。友人たち13人の追悼の言葉に加えて、慶子夫人の36ページもの「夫を偲んで」、そして遺稿4編などが掲載されています。

 読み返してみました。大正から昭和の激動の時代に立ち向かった寿郎さんの姿勢は、岸井成格さんに受け継がれていると同時に今の社会に対する警鐘のよう思いますので、いくつか紹介します。略歴は、遺稿集に年譜がありませんので、追悼文に書かれていることなどからまとめてみました。

 1891年5月28日香川県豊田郡常盤村(現・観音寺市)生まれ。香川県立三豊中、第三高等学校を経て、1917年東京帝国大学法学部卒、司法官試補を経て、1919年大阪毎日新聞社入社、1930年政治部長兼印刷部長、1937年退社。実業界へ。1942年香川2区から衆議院議員、1945年12月まで1期。以後再び実業界へ。1970年10月1日、79歳で死去。

 最初に6歳上の友人・山下芳允さんの「畏友、岸井君との半世紀」からです。

 <温情検事> 岸井君は帝大出の法学士ですが学校にはほとんど行かなかったので、独学でモノにした、といった方がふさわしいでしょう。卒業したといっても、免状も取りに行かずのままで、戦災で焼けていなければ、いまでも東大に残っているはずです。当時東大の卒業証書といえば、それだけで後光のさす自慢のタネになるのですが、目に見える証として、ふつうの人間なら後世大事にする証状とか勲章とかには、一向関心がありませんでした。

 学校などへは真面目に出ていなくても、岸井君の頭の良さは誰もが認めるところです。郷里の三豊中時代には、むずかしい函数の問題を見事に解き、それを完壁に解説したのは開校以来、岸井君が唯一人、と教師を驚嘆させ、いまだに語り草になっている、ということです。

 帝大卒業後はしばらくウロウロしていたようですが、地方裁判所の検事になりました。しかし岸井検事の成績はさっぱりあがりません。というのは、できるだけ前科者にさせたくない、という信念から、初犯者には彼独特のあの厳しい説教をして、ドンドン釈放してしまうからです。若冠20数才ですから、どんな説教をしていたんでしょうか……。
結局検察当局としては、成績があがらないということになり、そうした岸井君のやり方について、“びっこの鬼検事”として有名を馳せた秋山検事ともよくやり合い、喧嘩して遂に検事をやめてしまいました。その頃から岸井君は、強きには強く、弱きには弱く、というやり方を通し、自分の信ずるところを曲げませんでした。(つづく)

【岸井成格さんの父・寿郎さん②】

 <ケンカ寿郎> 喧嘩をしてやめてしまった検事の職から、一転して東京日日に入社。まず内務省づめになりました。時の内大臣は、地方官出身で勤厳真面目な男爵・湯浅倉平でしたが、向かうところ恐れるものなく、ポンポン歯に衣着せずモノをいう岸井君は、ここでも大臣と喧嘩してしまいました。そのために文部省にまわされたのですが、その頃私も報知の記者として文部省を担当しており、「一橋会」という記者クラブをやっていたため、岸井君とはよく顔を合わせていました。

 岸井君は、何も仕事をしない。夜は2時、3時までも銀座を飲み歩き、ほとんど発表原稿など書きません。それで私が原稿をカーボンで書き、控として一枚は手許に残し、上の一枚を彼が書いたようにして送る、というようなこともやりました。しかし、表面では何もしないかのようにみえて、こまかなことにもよく気づき、ものごとを大づかみに、大局から見ていました。やることすべて大ざっばな岸井君と、正反対に私はコツコツとやる方なので、われわれ二人は気が合ったのでしょう。

 大臣であろうが誰であろうが人見知りせず、相手が強ければ強いほど闘志をムキ出しにするので、ケンカが絶えません。ケンカ、といっても、もちろん信念を押しての口論、激論です.それでも文部大臣の中橋徳五郎(大阪財界の大御所で、大阪商船社長)には可愛がられ、仕事はせずに、よく碁を打ちに遊びに行っていました。岸井君の碁は、正式に教わったり、定石を鵜呑みに憶えるのではなく、自分の頭で考え、組立ててゆく、ケンカ碁の典型だったようです。

 当時、私がおりました報知は、部数70万を誇り、講談社の野間清治氏から三本武吉氏に移っていました。

 岸井君も東京日日の政治部でしたから、書かずのブンヤ岸井君との政治談義には熱が入り、相手が私でない普通の人だったら喧嘩にもなっただろうと思われる場面がいくらもありました。(つづく)

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102

2021年5月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(前編)

私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(前編)=註と写真の一部略 文・写真 平嶋彰彦

全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53443544.html

 染井通りは、連載その10で書いたように、江戸時代につくられた由緒のある通りで、六義園の北側で本郷通りから分岐し、北西方向に真っすぐ伸びている。

 『江戸切絵図』「染井・王子・巣鴨辺絵図」とGoogle地図を重ね合わせると、染井通りの南側には、六義園すなわち大和郡山藩松平(柳沢)家の下屋敷に隣接して、伊勢津藩藤堂家の下屋敷があった。さらに進むと播磨林田藩建部家の下屋敷につきあたる。そこが現在の染井霊園である。それにたいして、染井通りの北側はどうかというと、植木屋の店舗が軒をつらねていた。通りから奥へむかって、なだらかなくだり斜面がひろがり、植木屋たちはそこを開発して花園をつくり、浮世絵にも描かれたような江戸名所の1つに発展させていた。

 染井霊園をはじめて訪れたのは2012(平成24)年の暮れだった。園内には冬空を仰ぐように枯れ枝をのばすソメイヨシノ(染井吉野)の古木が立ちならんでいた。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

 なんとなく梶井基次郎の『桜の樹の下には』の冒頭が思い浮かんだ。

染井霊園。車いすで花見に訪れた高齢の女性。2013.3.22

 そういえば、西行にもサクラの花を死と結びつけた有名な歌がある。

  ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃

 染井霊園に咲くソメイヨシノを眺めてみたくなり、翌年の春にもう一度訪れることにした。出かけてみると、サクラは花の盛りだったが、死者たちに遠慮があるのかどうか、墓参りの人をのぞけば、一般の花見客は数えるほどしかいなかった。

 全国各地の公園・街路・川堤・学校などに植えられている花樹の多くはサクラだが、サクラといっても、その筆頭はソメイヨシノである。ソメイヨシノの特徴は、接ぎ木で容易に増やすことができ、幼木のうちから花を咲かせることにある。それも葉の出る前にたくさんのみごとな花をいっせいに咲かせる。オオシマザクラとエドヒガンザクラの交配種だとされるが、自然によるものか人工によるものか、またその現場がどこかもはっきりしない。しかし、これを日本中にひろめたのは染井の植木屋の功績だということである。

 染井の植木屋たちがソメイヨシノを売りだし始めたのは幕末のころらしい。徳川幕府がたおれ、明治維新になると、新政府は近代国家に見合う社会的環境を全国に整備していった。そのときに、公共の場所にふさわしい花樹として選ばれたのがサクラだった。そのなかでもとりわけソメイヨシノが好まれ、それも1本とか2本ではなく、たいがいは相当数を集合させる形で植えられた。

 ソメイヨシノが出はじめたころの呼び名はヨシノ(吉野)だった。ヨシノは地名と同時にサクラの総称だった。奈良吉野はサクラの名所として知られる。古典文芸に出てくる吉野山のサクラはヤマザクラだそうである。ヨシノのままだと奈良吉野のサクラと紛らわしい。そこで、頭に産地のソメイ(染井)をかぶせ、ソメイヨシノと呼ぶことにしたのだという。

 駒込の染井はソメイヨシノの故郷である。電車に乗って駒込へやってくる人に、薦めてみたくなるサクラの名所はどこかとなると、染井霊園のほかに思いつかない。かつて植木屋が軒を連ねた染井通りにソメイヨシノの大木は見あたらない。江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺門前の染井よしの桜の里公園とか、染井坂通りの門と蔵のある広場の周りには、ソメイヨシノの大木がないことはないが、周りにならび立つビルの現代的な景観に埋没してしまっている。これはなんとなくさびしい気がする。

 染井霊園は、東京の市街地の周縁につくられた共同墓地の1つである。1874(明治7)年、青山霊園(現港区)・雑司ヶ谷霊園(豊島区)・谷中霊園(台東区)とともに開設された。園内には二葉亭四迷・山田美妙・岡倉天心・高村光雲と高村光太郎智恵子夫妻などの墓がある(ph4、註7)。染井霊園の周りには慈眼寺・泰宗寺・専修院・蓮華寺・勝林寺・本妙寺などの寺院と境内墓地が建ちならび、一大埋葬地としての景観を呈している。いずれの寺院も染井霊園が開設されてから約30年後の明治時代の終わりごろに、東京の市街地から移転してきている(註8)。そのうちの泰宗寺・専修院の墓地およびその隣の天理教の墓地などがある場所は、植木屋伊藤伊兵衛の屋敷地だったところだともいわれている。

 「江戸切絵図」をみると、染井通りを遠巻きにするように、西から北へさらに東へと向かって、川が流れている。川の名前は書いていないが、川を挟んで右側には「此辺染井村植木屋多シ」とあり、左側には「此辺西箇原(西ヶ原)村」とある。

 これが谷戸川である。

 谷戸川ついて、『新編武蔵風土記稿』は「上駒込村」のなかで、源流は染井の長池から発していると書いている。

 谷戸川 北境西ヶ原村の接地に流る、或は境川とも呼ふ。染井の内長池と云池より西ヶ原村へ沃(そそ)く。

 駒込は上駒込村と下駒込村に分かれていて、染井は上駒込村の枝村である。だが、染井だけではちょっとつかみどころがない。谷戸川の源流とその川筋については、『御府内備考』の「千駄木坂下町」に、より具体的な説明がなされている。

 一 堀 幅九尺程

 右は字谷戸川と唱澁江長伯様御預り、巣鴨御薬園ゟ出、田端村新堀村下駒込村と町内東の方谷中感応寺古門前町と当町の間を相流、谷中駒込の堺に御座候。

 一 石橋 長さ弐間、幅八尺

 右は谷戸川へ掛り候て合染橋と唱候者も有之由

 千駄木坂下町は現在の文京区千駄木2、3丁目のことである。千駄木坂は、団子坂の別名で、その坂下に開かれた町ということから千駄木坂下町と称した。そこを幅9尺(約2.7m)ほどの川が流れていて、合染橋という名の石橋が架かっていた。これが世にいう谷戸川で、その水源は巣鴨にある澁江長伯預りの御薬園である、というのである。

 そうすると、『風土記稿』のいう染井の長池は、『御府内備考』のいう巣鴨御薬園のなかにあったようにみられる。では、それは現在のどこらへんにあたるのだろうか。

 『江戸切絵図』で谷戸川の上流方向をたどってみると、建部家の下屋敷(染井霊園)の西側をさかのぼったその先で、藤堂家の下屋敷と巣鴨御薬園の境にたどりつく。どちらも武家地である。屋敷内のようすを知りたくとも、邸主の名前のほかはなにも書いてない。しかしながら、それより先に川らしきものは見あたらない。だとすれば、このなかに水源があったと考えてよさそうである。

 『御府内備考』のいう御薬園があったのは、現在の中央卸売市場豊島市場のあたりとされている。これと隣接するのが藤堂家の下屋敷だが、その西側の端が薬園との境で、現在の岩崎弥太郎墓地のあたりとみられる。したがって『風土記稿』と『御府内備考』の記述を『江戸切絵図』に照らし合わせると、中央卸売市場豊島市場と岩崎家の墓地があるあたり、すなわち、染井霊園の南側かその周辺のどこかにあった、という推定が成り立つ。

 ところが、長池があった場所は、染井霊園の南側ではなく、北側であったともいわれている。たとえば、江戸・東京の歴史研究で知られる鈴木理生は「現在の豊島区巣鴨五丁目(駒込5丁目の誤り)の染井霊園の北側にあった長池を水源とし」と『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』に書いている。

 また文京区教育委員会は藍染川と枇杷橋(合染橋)の現地案内板で、「長池(現在の都営染井霊園の北側低地)」としている。あるいは、豊島区HPの「桜・ツツジの花香る町散策コース(駒込方面)」には、「(染井霊園は)元は建部内匠頭下屋敷跡で、西側には谷戸川源泉の長池があったそうです」とある。

 どれも専門家の記述だから、それなりの根拠があるにちがいなく、無視できないのだが、筆者の力不足もあり、該当する史料を見つけだせないままでいる。

 それはさておき、川添登は『東京の原風景』のなかで、「オタマジャクシといえば、なんといっても染井通りにいまもある天理教の教会の庭の池であった」という少年時代の思い出に続けて、この長池について、次のように回想している。

 染井の墓地にいくと、コジュケイが行列をつくって歩いていた。墓地のはずれには池があり、終戦直後までは釣り堀として残っていた。これがかつての谷戸川の水源地、長池だったのではないだろうか。

 染井霊園を見わたすと、東側は台地の上で、西側は台地の下という地形である。それにたいして、染井霊園の西側にも、向かい合うように、やはり台地がある。つまり、霊園の西側の端は、2つの台地から斜面が落ちこむ谷間の底、いわゆる谷戸の地形になっていて、それが南北を線状に貫いているのである。したがって、川添登の引用文にある「墓地のはずれ」とは、そのどちらかの端ということになる。

 染井通りからの染井霊園の入口は、方角的には霊園の北東の外れになる。園内を西側にまっすぐ歩いて、斜面を下りきったその向かいが、慈眼寺とその境内墓地である。ここが「墓地のはずれ」の候補地の1つになる。鈴木理生や文京区あるいは豊島区のいう染井霊園の北側とは、このあたりをさすものとみられる。

 染井霊園と慈眼寺墓地の境は、駒込5丁目と巣鴨5丁目の境でもあり、それに沿って人と自転車だけが通れる生活道路がつくられている。慈眼寺の墓地は、南北に細長い短冊形になっていて、道路を南に向かって歩いていくと、墓地がつきたところで、中央卸売市場豊島市場の塀が右側にあらわれる。それにたいして、左側は染井霊園の南側の端にあたるところで、谷戸のつきあたりといった感じの窪地になっている。

 「墓地のはずれ」に該当するもう1つの候補地は、おそらくこのあたりのことだと思われる。終戦直後までそこに残っていた釣り堀が長池ではなかったか、と川添登は推測しているが、この場所は『江戸切絵図』に描かれた谷戸川の川筋ともおおむね合致する。もしそうだったとすれば、暗渠化するまでの谷戸川は、染井霊園と慈眼寺墓地の境になっている生活道路に沿って流れていた可能性が高いと考えられる。

(以上、前半)

2021年5月12日

「ラグビーは毎日なんだよ」…同志社、早大、東京芸大ラグビー部のこと

 日曜日の朝刊(5月9日付)に、同志社大ラグビー部を1面丸ごと特集していた。同志社大ラグビー部は、毎日新聞とも結構深い関係があるので、いくつか補足をしてみたい。

 まず同志社ラグビー部の歴史。元毎日新聞のラグビー記者・池口康雄(東大ラグビー部OB)はこう書いている。

 「慶応義塾がラグビーを導入したのが明治32(1899)年。この12年後にようやく旧制三高、同志社、京都一中と、東海道をひと飛びして京都にラグビーの芽がふき出した。関東以北では慶応の努力にもかかわらず一向に根づかず、二番目の早稲田まで実に19年という歳月を要した」(『早稲田ラグビー』朝日文庫1987年刊)

 同志社は、慶應義塾、三高に次いで日本で3番目に創部した。

 慶應義塾vs同志社。対校戦では最も長い歴史を持つ。ファーストマッチは、創部翌年の1912(明治45)年1月9日。京都の三高校庭で、だった。

第1回慶同戦出場の選手たち(「D」のマークが同志社) =1912年(明治45年)1月8日京都・三高グランド

 「スコアは忘れたが、大敗した」と、同志社のフルバックで出場した鈴木三郎が『同志社ラグビー蹴球部創立25周年記念誌』(1935年刊)に書き残している。

 鈴木は、卒業して大阪毎日新聞(大毎)の記者となり、外信畑を歩んだ。1941~44年ブエノスアイレス特派員という記録が残っている。

 「大毎ラグビー部」は、「関西における実業団チームの第1号」(『関西ラグビーフットボール協会史』)で、1926(大正15)年1月結成。そのファーストマッチ北野中学校戦に、鈴木はHBで出場している。

 その試合のメンバーがスゴイ。FWに松岡正男(慶應義塾蹴球部〈ラグビー部〉の草創期の中心選手。当時経済部長。羽仁もと子の実弟)、久富達夫(東大ラグビー部第2代キャプテン)、「大毎野球団」から野球殿堂入りの小野三千麿(慶大)、高須一雄(慶大、のち南海ホークス初代監督)、井川完(同志社大)と、SOで川越朝太郎(旧姓棚橋、京都一商)の4人。TBに中村元一(第1回早慶ラグビー戦の時の早大マネジャー。晴れの特異日11月23日に試合日を決めた。元仙台支局長)。

 「ラグビーは毎日(新聞)なんだよ」。これは現在、花園で行われている全国高校ラグビー大会生みの親杉本貞一(慶應義塾1913年度キャプテン)の言葉である。1918(大正7)年1月の第1回大会の優勝は全同志社で、その後も同志社中学が第3回大会から5連覇、1年置いて3連覇している。

 杉本は、第1回慶同戦に出場した。

 早大ラグビー部の創部は、同じ1918(大正7)年11月7日。創設者で、初代キャプテンの井上成意が書き残したものを日比野弘早大名誉教授が自著『早稲田ラグビー史の研究』(早稲田大学出版部1997年刊)で紹介している。

 井上成意は1916(大正5)年3月に同志社中学を卒業して、早大商科予科に入学した。「ラグビーが発達するためには、野球のように早慶戦が必要」と述べたうえで、「いやしくも私大の雄早稲田にラグビーの如き勇壮なる競技の存在せざることを遺憾として、幼年より親しめる楕円球を初めて戸塚球場に持ち来たり、同志と共に、蹴球せるが早大ラグビーの涵養である」。

 野球の早慶戦は、1903(明治36)年に始まったが、両校応援団の過熱から06(明治39)年秋の第3戦から中止となったままだった。

 ラグビーの早慶戦は、1922(大正11)年11月23日に始まった。その3年後1925(大正15)年に、野球の早慶戦が復活したのである。19年ぶりだった。

 井上成意は、卒業してカルピスに就職した。「初恋の味」でカルピスが大ヒットした時の宣伝部長である。1956(昭和31)年没、58歳。

 さて、井上成意の父親井上権之助(1869~1938)も同志社OBだ。同志社ラグビー部史に、1889(明治22)年神学部バートレット教授がサッカーボールを持ち込んだことに始まるとある。権之助がバートレット教授と蹴球を楽しんだ様を同僚が書き残している。

 「当時御苑内の芝生の一部が、母校の運動場として使用の許可を得ていたので、学生の所望で創められた兵式体操も、ハルツレット先生(バートレット教授)から初めて蹴球を教わったのもそこであったが、君はそれ等の運動には熱心の参加者であった。脚が短くてかなり矮小な君が、あの長身な先生の肩へ飛び着いて、頸ッたまへ獅咬み着いた珍妙な姿は、今もありありと眼の前に見えて、50年も前の事とはどうしても思われない」

 産業人名事典によると、権之助は1890(明治23)年に同志社を卒業して第一銀行に入行。安田銀行本郷支店長、九十八銀行支配人、横浜市復興信用組合常務理事などを歴任している。  7男1女に恵まれ、成意は2男。12歳下の6男、彫刻家の信道は、東京美術学校(美校、現東京芸術大学)が1929(昭和4)年にラグビー部が創部したときのメンバーで、第3代キャプテンだった。

  兄弟で大学ラグビー部を創部しているのだ。

 美校ラグビーの始めは、山岳画家でのちにアンデスで遭難死した山川勇一郎(1934年油画科卒)。神戸一中のラガーマンだった。

前列右端・井上権之助、後列右端井上成意、左端井上信道(家族の記念写真から)

 1929(昭和4)年の入学早々、「山川がラグビーのボールを持って立っているではないか。私は思わず駆け寄ってラグビー部発足の相談をした」と、信道は『上野の杜のラグビー部1929-1992』(1993年発行)に思い出を寄せている。

 仲間に加わったのは、同級生の真木小太郎(油画科、マイク真木の父親)、川端実(油画科)ら。キャプテンは2年上の菅沼五郎(塑造科)。菅沼は、信道がキャプテンを務めた1931(昭和6)年を除いて34(昭和9)年まで5年間もキャプテンを続けた。

 「まずジャージーを作らなければならない。旧食堂でメリヤスシャツをバケツに入れ、黒く染めたのも思い出だ」と信道。オールブラックスである。部史に「井上の発案」とあるが、「試合のたびに、汗で体が真っ黒になった」とも語っている。

 兄成意に頼まれたのか、1927(昭和2)年の早大豪州遠征に参加した現役選手助川貞次(39年戦死)が指導に来たことがあった。練習後銭湯に行って「助川さんの体躯は、石膏のヘラクレスのよう。私たちの体躯と差があるので驚いた」と記している。

 毎日新聞の美術担当記者だった安井収蔵(2017年没、90歳)が「ああ、東京芸大ラグビー部」というエッセーを残している。こんな芸術家もラグビーをやっていたんだ、という参考に、すでに紹介したラガーマンを除いて安井が取り上げたOBを列挙してみる。

 柳原義達(36年塑造科卒)、舟越保武(39年塑造科卒)、版画家清宮質文(42年油画科卒)、彫刻家大國丈夫(45年鋳金科、52塑造科、56年彫刻科卒)、深沢幸雄(48年彫金科卒)、桐野江節雄(49年油画科修士)、元東京芸大教授・彼末宏(52年油画科卒)、画家宮田重雄の長男晨哉(52年油画科卒)、保田春彦(52年塑造科卒)、高塚省吾、彫刻家飯田善国(ともに53年油画科卒)、吾妻兼治郎(53年彫刻科卒)、新妻実(55年彫刻科卒)、藤田吉香(55年芸術学科卒)、インダストリアル・デザイナー栄久庵憲司(55年図案科卒)、アバンギャルド作家篠原有司男(56年油画科修士)、福本章一(56年油画科卒)、工藤哲己(58年油画科卒)。

 大國は1941~56年、「戦争による4年間のブランクを除き15年間の学生生活」をラグビー部とともにした。2014年に90歳で亡くなったが、法名は「楕円」の2文字である。 もうひとつ、洋画家で女子美大名誉教授入江観(86歳、56年度キャプテン、57年芸術学科卒)が日経新聞文化欄で「上野の杜ラグビー90年」(2019年10月13日付)を書いている。安井が紹介しなかった芸大ラグビー部OBを挙げる。

 漆芸家高橋節郎(38年漆工芸科卒)、インダストリアルデザイナー柳宗理(40年油画科卒)、建築家清家清(美校→43年東京工大卒)、ガラス工芸家岩田久利(51年図案科卒)、画家赤堀尚(54年油画科卒)、画家福本章(56年油画科卒)。

 アートディレクター河北秀也(71年ビジュアル・デザイン卒)、彫刻家舟越桂(東京造形大→77年大学院彫刻修了)、木彫の三沢厚彦(87年彫刻科卒、89年大学院彫刻修了)。

 「世界のオザワ」小澤征爾(86歳)は、第1回東京都新制中学校ラグビー・フットボール大会で優勝した成城学園のウイングだった。SHに後のロック歌手故小坂一也。1951(昭和26)1月の大会だから70年前である。

 小澤の右手人差し指は曲がっている。ラグビーで骨折したのだ。ピアニストの夢は破れ、指揮者に転向した。だから「ラグビーがなかったら『世界のオザワ』は生まれなかったかも知れない」といわれるのだ。

 彫刻家井上信道は、2008年に亡くなった。99歳だった。横浜駅西口にブロンズ裸像「ファンタジー」、神奈川非核宣言県記念碑の母子像などが横浜市内に飾られている。

 妻の画家井上寛子さんは、早大ラグビーが創部した1918年生まれで、ことし103歳の誕生日を迎えるが、4月に都内で個展を開いた。娘の現代アート作家大野静子さんも、5月12日まで横浜三渓園で開かれた「アートの庭―北欧と日本の作家によるコンテンポラリーアート展」で作品を展観した。

 芸術一家である。

(堤  哲)

2021年5月11日

「ミルクワンタン」ついに閉店。有楽町編集局……「すし横」時代の喜怒楽々 喧嘩。ノミシロ。ツケ。給料袋。しょんべん。増ページ。

 有楽町時代の編集局入口は「飲み屋」の女将がわんさわんさと押し掛けた。毎月5日・25日、毎日新聞社給料日恒例の騒動が一日中見られる。ツケで飲み食いしたノミシロ(飲み代)をいただきに来ているのだ。出入りする編集局員……主に部長・副部長・古参記者連が女将に“逮捕”されては「払いなさいね!」と言われて渋々、給料袋から直接ナン千円かを渡さざるを得ない。ナン万円も溜まった大先輩も大勢いた。「こん次にしてくれんかなっ……」と泣き言で勘弁してもらったり……。

 基準外手当の入った毎月5日の給料袋を袋ごとそっくり女将に渡した大先輩と出会い二人で呵々放笑した。隣接の「丸の内名画座」(映画館)へ逃げ込んで難を逃れた部長もいた。輪転機のある地下を通って狭い階段を上がると映画館の裏に行けた(知る人ぞ知るルート)。ついでにタダで映画1本見ちゃう図々しサ。

 借金とり女将はほとんどが「すし屋横丁」の店である。「すし屋横丁(すし横)」は昭和20年終戦と同時に生まれた露天、バラック、1杯飲み屋(違法な400店近く)が整理統合を繰り返し、昭和23年(1948)誕生した。正しい名称は「有楽町商業協同組合」。抽選で選ばれた飲食店106軒。ずっと以前だが「思い出のすし屋横丁地図」をモロ(筆者)が作成して関係者に配ったこともあったくらい毎日新聞社には懐かしい“遊園地”(今で言えばテーマパーク)である。界隈は小便臭いのだ。ほとんどの客は店を出た所で立ちしょんべんをしていた。それがまた、いかにも毎日新聞社の会議室であり厚生施設のようでもあり……。

 「すし屋横丁」と言っても電気屋があったし、ホルモン屋、バー、洋食、すき焼き、喫茶店、雀荘……みんな知っているのが「吉田」「三友」「花柳寿司」「赤星」「照寿司」「げんぱち」「ミルクワンタン(鳥藤)」「フライパン」「地球」「だるま鮨」「有楽苑」「山楽」「ひろしまや」「珍萬」「宝来」「来々」「アキラ」「板門店」「ぽんぽん亭」「エーワン」「お喜代」・・。

 日劇側出入口近くにはマムシの生き血を飲ませるヘビ屋もあった。「げんぱち」なんぞは竹橋移転に合わせて九段に越してきた。「珍萬」をやっていたオヤジが涙を見せながら懐かし噺……「でっかい声で議論するブン屋さんの噺は面白かったア。焼き飯や中華そば、毎日新聞社へ連日出前したよ。食わねえまんまゴキブリ漬けになっていたメシ皿もあったなあ。ウチに来た記者なんかも傍若無人でねエ。俺がいちばんエライみたいな……ニュースでは聞けない秘密も聴いたさあ。いまだから言うけんどよ、あれは、よそで喋って、情報通だなんていわれちゃって……はっはっは」(昭和55年取材時)。テレビも普及していない時代の新聞記者は世間の花形だった。(上の写真=昭和30年代の「有楽町すし屋横丁」のメインストリート)

 有楽町駅前の「すし横」跡地に出来た「東京交通会館」には「すし横」にあった店が14~15軒もあったが、だんだん消えた。美味・加茂鶴を飲ませる「ひろしまや」は女将さん(故人)の娘が引き継いで今もやっていてモロもときどき飲みに行く(「ゆうLUCKペン」の有楽町特集号が置いてあるよ)。

 ついこの前閉じた飲み屋「吉田」はスシ横時代、中通りを北に行って右手にあった。毎日新聞の幹部が連日のように訪れた店で、最近も那須良輔画伯の貴重な直筆絵がたくさん飾ってあった。「隊長」と仇名のあった主人はときどき顔を見せていたが、もしかして逝ったかも? あの絵は相当の高値が付いたろうな。

 記者同士の新聞つくりに関わる議論・論争・喧嘩はいつものコト。どんなに喧嘩しても飲み代は先輩もちなのはアタボーよ、の世界。我々下っ端記者は飲み代を払った試しがない。そも、すし屋横丁へ同僚と行くなんてことはナイ。デスクや部長や1つ2つ3つ上の先輩と飲る。割り勘なんて言おうものなら張り倒されるから言わない。だからモロも昭和30年代、飲みに行って支払いをしたことはゼロ回。さんざん先輩を「アホかっ、考えが甘いっ」と批判しても、お開きになる際は先輩が女将の目を見て店を出ればおしまい。

 飲み屋の女将側も承知の沙汰。目配り一つ、このグループだとこの人、この仲間ならこの人、という具合にツケる人間が判っていた。店を出る際に「お金がひらひら」するお勘定シーンなど見たことがナイ。

 新聞も朝刊が16ページになり、夕刊が4ページになり……増頁増頁、編集局各部の記者も増員増員。ゆけゆけどんどんが先行、給料も少しづつでも確実に増額増額して、人間的にもマイナス風は吹かなかった。

 ミルクワンタンで有名な「鳥藤」が2021年4月23日を最後に「閉店」した(新聞報道で知る)。

 飲み屋の閉店がニュースになるのだから社会的価値が高い。敗戦直後の屋台から72年もつづいたんだからエライもんである。「鳥藤」はすし屋横丁の北側の端、入口から入って右側3軒目にあった(今で言えば有楽町駅京橋口の前)。

 その頃のミルクワンタンは細かく刻んだ鶏モツ煮を牛乳で煮込み、ワンタンを浮かした汁丼。これが酒飲みには美味しかった。栄養満点。二日酔いのモロなんぞは毎日食べて胃がすっきり。面白い紙面を作るぞ!という戦闘気分に燃えて編集局に出社した。現在は汁の出汁も多少違い、鶏モモ肉やらいろいろ上等の具も入っているようだが、昭和24(1949)年当時はそうはいかない。ワンタン以外は何も入っていなかったんじゃないか。あのころは1杯20円……昭和30年ころから30円? 40円だったか。ミルク(もしかして当時は脱脂粉乳?)の分少し高かった。この辺り、取材しないで書いているから間違いかも知れぬ(鳥藤さんごめんなさい)。閉店時は700円?

 初代と、それを継いだ息子さんも故人となり、息子さんの奥さんが最後まで取り仕切っていたと聞く。

 「鳥藤」は飲み屋というよりは、今で言うラーメン屋。当時はラーメンという言葉もなく「中華そば」(町に来る屋台は「チャルメラ」)。ここではツケというのはなく現金払い。モロも「鳥藤」ではカネを払った。だいたいに於いてこの店のナマエを「鳥藤」だと知っている人は少なく、誰もが「ミルクワンタン」と呼称していた。すし屋横丁は東海道新幹線開通時に取り壊され(最終的には昭和42年)、「鳥藤」をはじめ幾つかの店は東京駅よりのガード下(今の場所=有楽町高架下センター商店会)へ移転、「玉菊」「楽々」「末廣」「山楽」などと一緒にアーチ式看板には「鳥藤」ではなく「ミルクワンタン」と記されている(現在も)。

 うーん、ざんねん、最期の「ミルクワンタン」食いたかったなあ。現在のガード下も「すし横」に景色が似ているもんなあ。お店の壁にはモロ製作の「すし横地図」が極最近も貼ってあった。なんたって清酒はヤカン?から注ぎ、焼酎は一升瓶から減った分で支払い計算などなど、やることが粋なんだよな。

 有楽町編集局の頃、朝刊13版●●、最終版を降版すると午前4時半にもなっていた。それから出来上がり紙面をワシ掴みにして、すし屋横丁へ連れ立って出陣したのである。紙面の議論をしたあげくにミルクワンタンを食って電車に乗り帰宅した。ちょうど出勤ラッシュだったが反対方向なので座れた。いいあんばいに眠ってしまい、終点の浅川駅(今は高尾駅)まで行き、また東京駅に戻ってしまった「終点完全往復輩」もいた。

 すし屋横丁の店は縄張りがあり、毎日の店、朝日の店……が存在し「読売は外堀川を越えられぬ?」「産経新聞は中央通りを越えられぬ?」との噂が飛ばされていた。すし屋横丁はほゞ毎日と朝日が占拠している風だった。入社当時、先輩に「あそこの店は朝日だから行かないほうがいいぞ」と釘を刺されたものだ。

 ぐでんぐでんに酔っ払ったあげく読売の宿直室に泊まり込んだ先輩もいた。廊下で近藤日出造(政治漫画家)に出会って「オスっ」と挨拶したゾと自慢していた。毎日新聞のヤツは外堀川を越えて向こう側まで行きやがるん……。

 その頃の飲み屋の感じは店に入るとオヤジも女将も、客にまでジロっと見られて入りにくいんである。まだまだ「一言さんお断り」の習慣は当然あちこちに残っていた。馴染みの店だと扉を開けたとたん、店じゅうに笑顔が舞い、「らっしゃーーい!」大歓迎されるといった具合。ま、素性の判らぬヤツは入れてくれない。“一応”高級寿司屋を名乗っていた「花柳」などは部長以上しか入れなかった(デスク級も部長と連れ立って行ったものだ)。

 昭和30年代までだろう、自宅近所の魚屋も八百屋も酒屋も「ツケで買う」のがキマリになっていて月末集金というのが習慣。買い物は「ご用聞き」に注文したのであった。知らない家には売らない。知らない人は知らない……よく知ってる家には売る……飲み屋も同じである。

 それが「ミルクワンタン」は朝日も毎日も一緒に食った。カウンターに隣合わせに座って食った。馴染みの客の「紹介状」がなくてもミルクワンタンは通りがかりの人が自由に食えた。みんな黙して食っていたからかも知れぬ。

 ある夕方、編集局次長・高原四郎に「鳥藤」で偶然にも隣合わせしたことがある。高原さんも「ミルクワンタン」を食っていた。25歳も年上の大先輩だろうが、誰であろうが、気楽に冗談を言い合い、大笑い会話を交わす自由が有楽町編集局にはあった。

 高原四郎と隣合わせたモロが切り出して、石川達三の連載新聞小説“成瀬南平の行状”が掲載禁止になったトキの噺を伺った。この小説は昭和20(1945)年7月14日から1面で連載開始されたが、15回で休載となり、終戦(8月15日)の翌々日(8月17日)紙面に「都合により続稿を打切ります」と掲載されたのみ。休載の理由は判らず仕舞い。熱狂的人気を浴びた新連載モノだったから突然の休載に読者は驚いた。

 その後、小説の中身が「官僚・官界を批判」しているとして内閣直属の情報局の検閲に引っ掛かった「事件」だと知った。連載開始直後から「警告」「意図変更」の強い要求を毎日新聞は無視して連載を続けたのが内閣情報局の怒りを買った。何度も何度も呼び出しを食い連日情報局に足を運んだのが高原四郎。学芸部記者?高原四郎が石川達三担当で連載開始の当事者だったからである?(詳しいことは忘れた)。「事件」の委細は書くのが面倒なので省略するが、なんせ高原四郎の噺の経緯は面白かった。敗戦がらみもあって高原四郎は当局の拷問は避けられたとか。

 「モロオカ君っ、もう一杯食うか」。二人で二杯目のミルクワンタンをすすった。

 達三の小説中に「国民には我慢を強いていながら、軍人・役人は旨いもんを食っている」特別配偶が描かれており、高原四郎は新聞記者も多少なりとも様々優遇を受けている事象を挙げて苦悶していた。戦況を軍部の言う通りに報道していたコトと関係あり? 終戦後も編集局では闇ルートで届いたビールがじゃばじゃば飲めていたのはモロも知っている。
庶民の旨いもんミルクワンタンと石川達三と高原四郎は今も頭の中でくっついている。計4杯のミルクワンタン代は高原四郎が払った。

(諸岡 達一、文中・敬称略)

2021年5月11日

堤哲さんが「ミルクワンタン最期の夜」撮影 社会部記者魂+写真部魂! ジャーナルが宿る身体

 「モロさん、撮って来たよ。ミルクワンタン最期の夜……」。

 飛び込んで来たのは<堤哲さん(79歳)からの欣喜雀躍>メール。

「鳥藤」のカウンター。最期の夜4月23日は午後8時まで営業。終日満員だった

 「えーっ。そりゃあ素晴らしい。感謝感謝」とモロ。堤哲さんのメールはさらに「満員で座るところがなかった」など現場報告が続いていた。2021年4月23日、「最期のミルクワンタン」の写真を撮り何枚か送って来た。ここに掲載しましょう。その夜、ちゃんと現場に行き雰囲気を味わってくるという社会部記者魂と元写真部長魂が合体した身軽さに感動してしまう。

ふと見たら朝日新聞の轡田隆史さんがミルクワンタンを食っていた。やっぱり流石! うしろ、マスク姿で顔をだしているのが藤波須磨子さん(86歳)

 「鳥藤」にミルクワンタンを食いに行くと、昔から不思議と朝日新聞の記者と出くわす。夕刊降版後のことが多いのは時間帯が同じだったから“だけ”だろうか……。毎日記者と朝日記者の「ブン友」を察しないわけにはいかない。

 最期の夜、ミルクワンタンを食っていた轡田隆史さんは「私はね、サツ回りがマルケイ(丸の内警察署)で、ここは縄張りなのよ……」と笑っていたという。堤哲さんは「さいたま市の自宅からわざわざ閉店を見届けに来るなん、ヤジ馬の極みではある……いや、社会部記者の鏡であるね」と感じたそうだ。堤哲さん自分も、まさに「そうじゃんか。鏡でもあるし社会部記者の原点だね」とモロ。こうして毎友会HPに写真入りで報告できるのもジャーナルな心がトシに関係なく生き続けているからだ(身体=駄洒落)。

「鳥藤」の玄関前。ここは住所で言うと東京都千代田区丸の内3の7の9

 貴重なおまけは【堤哲さんの独り言】

 『轡田さんは名文記者として知られる。朝日新聞夕刊1面<素粒子>を長いこと担当した。毎日新聞の吉野正弘さん(56歳)が暴走族に暴行を受けて亡くなったとき、こう書いた。《毎日新聞夕刊「近事片々」記者の死に絶句す。筆端、光を吐き、筆頭、花を生じていた人よ。》1989年4月18日夕刊「素粒子」。轡田さんは朝日新聞退職後、テレビ朝日『ニュースステーション』のコメンテーターを務めるなど活躍された。

(以上・ミルクワンタン総まとめ  諸岡達一 85歳)
以上

2021年4月23日

白川義員写真展「天地創造」が東京都写真美術館で5月9日まで

 これは、米ユタ州とアリゾナ州にあるバーミリオン・クリフ国立公園の北西端にある岩山の風景である。今、恵比寿の東京都写真美術館で開かれている白川義員写真展「天地創造」(5月9日まで)の入口に飾られた巨大な写真をシャメした。

 「ザ・ウェーブ」。①~⑤、5点が展観されている。

 《巨大な岩がまるで波が押し寄せるような形で固定されている。このような豪快な岩を手でさわりながら実際に見た事はかつてなかった。このウェーブ周辺は見渡す限り赤と白の岩でおおわれている》

 《ウェーブに行くことが出来るのは1日20人。20人に手渡されるのが行き帰り6枚の風景写真が印刷された1枚のパンフである。最初の6枚はウェーブに向かって歩く方向の風景写真で、後の6枚はウェーブから帰る方向の写真。この風景に向かって歩きなさいと指示している》

 《実際に現場に行くにはユタ州側の北方5kmあたりから徒歩で南下し、州境を越えてアリゾナ州側を約1km南に歩くと、このウェーブに至る》

 英文のタイトルは「The Earth」。地球が持つ美や神秘、荘厳さ。前人未踏の領域に挑戦し続けた写真家白川議員さん(86歳)の集大成の写真展である。前期展「永遠の日本」(Eternal Japan)を見て、「絶景」の数々に感動、後期展「天地創造」に足を運んだのだ。

 毎友会HPに紹介するのには、それなりの訳がある。入ってすぐに山岳写真家、白川議員さんの真骨頂、エベレストやアルプスなど世界中の山の偉容が並ぶが、その中に世界8位の高峰、標高8,163m「マナスル東壁」。日の出の太陽を受けてオレンジ色に輝いている。

 その先の説明にこうある。《この山は日本人が初登頂をしたのである》

 初登頂は1956年5月9日午後0時30分。第3次マナスル登山隊(槇有恒隊長)の今西壽雄さん(京都大学山岳部OB)とギャルツェン・ ノルブ氏(ネパール人隊員)の2人。

 巨峰マナスル登頂ついに成功
 世界登山史に輝く金字塔
 5年間の苦労実を結ぶ

 これは毎日新聞1956(昭和31)年5月18日朝刊1面トップの見出しだ。マナスル登山隊の第1、第2次登山隊員だった運動部長・竹節作太が書いた。

 《敗戦後10年。第1報が日本に届いたのは5月18日。「祝マナスル登頂」のアドバルーンが16個も上がった》

 《登山隊が帰国した6月22日、歓迎の人波は羽田空港どころか蒲田の駅まで人で埋まったそうである》

 マナスル登山隊は、1954年の第1次から毎日新聞が全面的に応援して行われ、56 年の第3次登山隊の最年少メンバー日下田実(早大山岳部キャプテン、のち毎日新聞記者)も5 月 11 日に加藤喜一郎氏(慶応大学山岳部OB)と共に頂上に立った。

 記録映画「マナスルに立つ」は、登山隊に同行した毎日新聞写真部員、依田孝喜が撮影したもので、依田は1957年、第5回菊池寛賞を受賞した。

(堤  哲)

2021年4月23日

元新潟・長岡支局長、池田友好さん(86)が『ぶらっとヒマラヤ』読後コラム
―新潟支局当時の丸山昌宏社長、広田勝己取締役も登場

 池田友好さんが長岡支局長当時、支局員だった浜名純さんから、旬間の「十日町タイムス」に掲載されたコラム2本が転送されてきた。タイトルにある単行本『ぶらっとヒマラヤ』の著者、藤原章生さんは北大山岳部出身。浜名さんは山岳部で藤原さんの先輩に当たり、毎日新聞退社後に編集・出版関係の仕事に携わり、開高健ノンフィクション賞受賞の『絵はがきにされた少年』出版に尽力、2月には柏艪舎から新版が発行された。

 池田さんが長岡支局長当時、私はロッキード一審判決直後の1983年12月に田中角栄元首相と作家、野坂昭如さんが対決した選挙を約1か月にわたって取材し、日々、池田支局長、浜名記者に世話になった。

 丸山社長は、池田さんが新潟支局デスクだった当時、新入社員として新潟支局に赴任。池田さんは「奥さんも長岡市出身で、2人の交際時から結納まで手助けした間柄」。日本新聞協会会長就任決定に、お祝いのメールを送ったという。

 池田さんは長岡支局長から新潟支局長を歴任。牧内節男社長当時のスポーツニッポン新聞社が初めて新潟支局を開設し、販売店主らの要請で初代支局長に就任するため繰り上げ定年退職した。スポニチ支局長退職後は日本報道写真連盟新潟県本部の運営に関わり、今年3月末の解散時は顧問だった。

(高尾義彦)

2021年4月20日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11(後編)

 写真が多いので、冒頭のみ掲載します。全文は下記のURLで検索を
 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 文・写真 平嶋彰彦

 先に述べたように、1682(天和2)年12月28日の大火は「駒込」より出火したあと、「本郷森川宿東側」から「松平加賀守上屋敷」(現在の東京大学)に燃え広がった、と戸田茂睡は書いている。

 ところで本郷森川宿とは、なんなのだろうか。宿といっても、旅行者を泊める宿場ではなさそうである。それもそうだが、現在のどのあたりをいうのだろうか。

 手持ちの資料をしらべると、もともとは1598(慶長3)年に没した森川金右衛門氏俊に与えられた与力・同心の大繩屋敷(集団知行地)だった。つまり、ここでいう宿というのは、居住地の意味である。与力は氏俊の親族ばかりで、全員が森川姓を名乗っていたことから、また中山道に面していたこともあって、森川宿の俗称がつけられた。

 ところが延宝年間(1673~81)になって、その大半が陸奥福島藩主本多家(のち岡崎藩主)の下屋敷として召し上げられ、それ以外が先手鉄砲組の組屋敷として残された。というのである。

無量寺。「足止め不動」で知られる。江戸六阿弥陀詣の3番目。西ヶ原1-34。2012.12.10
旧古河庭園。洋館はジョサイア・コンドルの設計。西ヶ原1-27。2012.12.10

2021年4月15日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11

この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

全文は下記のURLで検索を(後編は19日)
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

その11 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編) 文・写真 平嶋彰彦

 本郷追分は、中山道と日光御成道の分岐点になる。日本橋から1里の距離にあたり、1766(明和3)年に焼失するまでは、そこに一里塚があった。日光御成道は現在の本郷通りで、岩槻街道ともよばれた。本郷追分を越えると駒込で、次の一里塚は西ヶ原にあった。「ときの忘れもの」の所在地は、本郷追分と西ヶ原一里塚のちょうど中間点になる。

 2年前の6月になるが、大学写真部の旧友たちと白山と駒込の街歩きをした。このときの探索地に八百屋お七にゆかりがあるとされる円乗寺(白山1-34-6)、大円寺(向丘1-11-3)吉祥寺(本駒込3-19)が入っていた。

 八百屋お七の代表作とされる『天和笑委集』、『好色五人女』、『近世江都著聞集』、『八百屋お七恋緋桜』、『古今名婦伝』に目をとおすと、物語の概略は次のようになっている。

 八百屋の娘お七は、1682(天和2)年12月28日の大火で焼けだされ、一家とともに檀那寺に避難したとき、その寺の寺小姓と恋仲となった。年が明けて、実家にもどるが、恋慕のあまりその寺小姓との再会を願って放火、召捕られて、火あぶりの刑に処された。

八百屋お七の墓。円乗寺。白山1-34。右の石塔は岩井半四郎の建立。2018.05.23

 円乗寺は、『近世江都著聞集』や『古今名婦伝』では、お七が避難した檀那寺とされる。境内にお七の墓がある。墓石は三基あり、中央の首がもげた仏像形の石塔は寺の住職が、右側の石塔はお七を演じて好評をとった岩井半四郎が寛政年間(1789~1801)に、左側の石塔は近辺の人たちが270回忌に建立したという。

 大円寺は、『天和笑委集』によると、天和2年12月の大火の火元とされる。山門を入ったところにほうろく地蔵がある。これはお七の供養ために、享保4年(1719)に渡辺九兵衛という人物が寄進したという。ほうろく地蔵のかたわらに庚申塔がたつ。こちらは本郷追分の一里塚にあったものを移したものだそうである。

 吉祥寺は駒沢大学の前身である栴檀林のあった曹洞宗の名刹である。『好色五人女』や『八百屋お七恋緋桜』では、ここもお七が避難した檀那寺とされていて、境内にはお七・吉三郎の比翼塚が1966(昭和41)年に建立されている(ph9、ph10)。

 大円寺から吉祥寺にむかう途中、本郷通りに面した天栄寺(本駒込1-6-16)の門前に、「駒込土物店」の石碑がたっているのが。なんとなく目に入った(ph7)。「土物店」というのは青物市場のことである。

駒込土物店跡記念碑。天栄寺門前。本駒込1-6。2018.05.23

 あとで調べると天栄寺のあるところは、もとは麟祥院領駒込村の百姓地で、そこにさいかちの大木があったことから「一本さいかち之辻」と呼ばれた。近隣の農民たちが野菜を担いで江戸に向かう途中、その木の下で毎朝一休みするのが慣習となり、やがて付近の人たちがそこで野菜を買い求めるようになった。それが青物市場の始まりだいう。

 1660(万治3)年、その場所に天栄寺が本郷菊坂から移転してきた。本郷通りを隔てた東側が駒込浅嘉町・同高林寺門前であるが、そこにも土物店ができたことから、街道の両側一帯を駒込土物店と総称するようになった。やがて、町屋が許されるようになり、1745(延享2)年になると、それまでの領主支配から人別が江戸町奉行支配に変わった。駒込の青物市場は、かつては神田市場(現在の多町)を脅かすほど盛んだったということだが、1937(昭和12)年に巣鴨に移転した。

 前回にも書いたが、1854(嘉永7)年の『江戸切絵図』(尾張屋版)をみると、日本橋から本郷までの街道筋は市街地化されている。駒込まできてようやく農地や自然地の土地区分をしめす緑色があらわれ、随所に「植木屋多シ」の書込みがある。

 しかしおなじ駒込といっても、本郷追分から土物店のあった天栄寺の近辺までは、四方をびっしり家屋敷が立込んでいて、田畑や自然を確認することができない。駒込は江戸という都市空間が田園地帯と接触するいわゆる郊外の地であった。そして駒込という郊外を代表的な商売が植木屋であり、もう一つが八百屋だったことになる。

 八百屋お七の事件には異説が多い。異説が多いということは、事件の真相が分かりにくいことでもある。異説が多い原因として、江戸幕府の刑事判例集である『御仕置裁許帳』に記載がないことにくわえ、信頼にたる記録史料が見当たらないことがある。そうしたなかで、ただ一つ確からしくと思われるのが、戸田茂睡の『御当代記』である。

 この書には、1682(天和2)年の大火とその後の出来事については詳しい記述があり、翌年春のお七の事件についても、30文字たらずの短文であるが、次のような言及がある。

 「駒込のお七付火之事、此三月之事ニて廿日時分よりさらされし也」

 駒込の住人にお七という女性がいて放火の罪で召捕られた。事件はこの3月のことで、20日ごろ火刑に処され、遺骸はさらしになった。この箇所は追筆であるとされる。後日に噂話を耳にしたのだろうが、思うところがあり、書き留めたものとみられる。

 『御当代記』は5代将軍綱吉時代の様々な事件や世相をつづった見聞記で、1680(延宝8)年5月から筆をおこし、1702(元禄15)年4月で終わっている。その当時を知るうえで貴重な史料と思われるが、戸田茂睡の存命中に公開されることはなかった。

 当公方様ハ…天下を治めさせ給ふべき御器量なし、此君天下のあるじとならせタマハヾ諸人困窮仕悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし。

 家綱から綱吉への世継ぎを評した一文だが、思想表現の自由が許されなかった時代のことである。存命中の公刊など、思いもよらなかったにちがいない。茂睡の没後、自筆原稿は子孫の家に秘蔵され、1913(大正2)年になってから、佐佐木信綱がその存在を世に知らしめ、それより2年後、飯島保作による全文翻刻が『戸田茂睡全集』の一部として、国書刊行会から刊行された。

 『御当代記』にしたがえば、天和2年には2つの大火があった。1つ目は霜月28日、牛込川田が窪(現市ヶ谷柳町)より出火、四谷・赤坂・青山・麻布などの大名屋敷を次々と焼き払い、火の手は三田までおよんだ。

 物語や芝居で語り伝える八百屋お七の放火事件の発端となったとされる大火は、それよりちょうど1ヶ月後に発生した。こちらの火事は、

 極月二十八日、駒込より火出、本郷森川宿東がハ、それより本郷へ出、

 松平加賀守の本郷の上屋敷(現在の東京大学)を焼き払った、と戸田茂睡は書いている。さらに火の手は湯島をへて池之端、寛永寺黒門前から下谷へ延焼。そのいっぽう、南東方面にむかった火の手は、神田川の筋違橋、和泉殿橋、あたらし橋(美倉橋)、浅草橋を焼き落し、さらに、日本橋川の常盤橋前の町屋を焼いたあと、日本橋と江戸橋を焼き落した。それにとどまらず、飛び火して隅田川の対岸までおよび、両国の無縁寺(回向院)や深川の永代島八幡(富岡八幡)まで焼き払った、ということである。

 見逃せないのは、そのあとに掲げられた次の一文である。

 今年町同心八十人御ふちをはなたれ、あたけ丸のかこ丗人、この外方々の鳥見同心御ふちをはなれ候て、渇命いたし、火を付るとの沙汰なり。

 町同心は江戸町奉行所に所属する同心のことである。あたけ丸(安宅丸)は、この年に解体された全長30尋(57m)櫓100挺という幕府の巨大な軍船で、扶持を失った水夫(かこ)は、武士の身分であったとみられる。鳥見同心は、御鷹場で鶴・鴈・鴨などを飼育するのが役目で、かたわら町同心同様に隠密を兼ねたとされる。

お七吉三郎比翼塚。吉祥寺。本駒込3-1。2018.05.23

 いずれも下級職といっても、江戸市中やその海辺を警護・防衛する幕府の正式な役人である。その百数十人が、身に落度がないにもかかわらず、とつぜん扶持を放たれ、路頭に迷うはめになった。その腹いせに放火におよんだというのである。あくまでも噂であるといっても、どうみても尋常な社会的情勢とはいえない。

 そのような不穏な噂を裏づけるかのように、年が明けても火事は続いた。しかもどれもこれもすべて放火であった。

 去年霜月廿八日・極月廿八日両日の大火事より正月ニ至二月迄毎日之火事、昼夜ニ五六度八九度之時も有、是皆附火也。

 そこで町々に命じて、1つの町に火の見櫓を2基ずつ揚げさせ、その上に町内の大家役の者を登らせ、火の用心の監視を申しつけた。しかし、なおも放火は治まらなかった。

 それと併行して、中山勘解由直守を火付改加役に任命し、配下の与力・同心とともに、横行する放火を取り締まらせることになった。火付改加役は、後の火付盗賊改のことであるが、その捜査の仕方を戸田茂睡は次のように書いている。

 中山勘解由父子三人組与力同心ともに、火付見出し候やうに被仰付候ニ付、様々姿をかへ江戸中へ入はまり、火付を見あらはさんと仕候

 さまざまに姿を変えて江戸中に潜入したというのは、とかく弊害の多いとされる目明しを使ったにちがいない。目明しは、与力・同心の手先で、多くは犯罪者を放免し、その代償として他の犯罪者を探索させたといわれる。

 お七が処刑された2ヶ月後の5月、戸田茂睡は火付改加役の中山勘解由の捜査と取調べの方法を改めて問題視している。これもやはり噂だろうが、誤って捕らえられる人が夥しかった。くわえて、容疑者の取調べには、ためらうことなく拷問が用いられた。とうぜんの結果、身に覚えがない自白を強いられた犠牲者が夥しい数におよんだ、というのである。

 火事場ニてうろん成ものをとらへさせらるゝに、あやまりでとらるゝもの夥敷事也。問諍つよくいわざるうちハ死ぬるまでせむるゆへ、とても死するものゆへ火付ニなりても苦をのがれんと思ひ、火付ならぬものも火付と云、科人ならぬものも科といふゆへ、科人多く人の損ずる事夥敷事也。

 火付盗賊改役が設置された当初、火付盗賊改は、容疑者を召捕ると、一通りの取り調べを行い、町奉行所に引き渡すことになっていた。火付盗賊改はいわば予審裁判所で、町奉行所は本裁判所の感があった、と法制史学者の瀧川政次郎は『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』でのべている。

 そうであったとすれば、お七の事件の場合も、裁判を正式に執り行ったのは町奉行所と思われるが、その前段の捜査と取り調べは、火付改加役の手になるものだったにちがいない。それが自白偏重主義に凝り固まっていて、かつ拷問を常套手段にしていたのであれば、お七が犯人とされた放火事件も、火付改加役とその配下の与力・同心・目明しが結託して捏造した冤罪であった、という可能性もないとはいえないのである。(以上、前半)

2021年4月12日

英国フィリップ殿下の小さな思い出=元ジャカルタ特派員、秋山哲さん

ロンドン五輪開会式出席のエリザベス女王(中央)と殿下(右)=毎日新聞紙面から

 4月9日に99歳で死去されたイギリスのエディンバラ公フィリップ殿下には小さな思い出がある。

 1975年だからもう半世紀近くになる大昔の話である。当時、私はジャカルタ特派員だったが、エリザベス女王がインドネシアに非公式で寄港された。オーストラリアからの帰途だったと思うが、王室ヨットで女王一行は到着した。

 どういうわけか、女王はインドネシア駐在の外国特派員だけを招いて茶会を開いたのである。みんないそいそと出かけた。部屋の入り口で女王が記者たちを迎え、握手を頂戴した。

 女王は部屋の中を巡って、一人一人に声をかける。難しことを聞かれたら乏しい英語力で対応できるか、と不安だったのだが、「あなたはいつからインドネシアにいるのですか」と、こちらの対応力を見抜いてか、単純な質問であった。

 一安心して、ソビエトのタス通信の特派員とグラス片手に話しているところへ、スラリと長身のフィリップ殿下が、にこやかにやってきた。こちら二人がそれぞれ名乗りをすると、彼は質問したのである。

 「インドネシアで、日本の記者とソビエトの記者が何語で話しているのか」

 この人、ウイットの利いた話をするといわれているが、正にそうであった。

 私が答えたのだが、後で考えても、うまい答えをしたのである。

 「残念ながら英語で話しています」

 その後、殿下は近々、日本を訪問する、という話をしてくれた。1975年5月に女王夫妻は日本を公式訪問しているが、その話である。

 そして、女王の日本訪問は初めてだが、自分にとっては日本は2回目だという説明であった。1回目はいつだったのかと聞いた。その答え。

 「海軍に勤務していてミズーリ号に乗っていた。日本の降伏文書署名式を見ていた」

 1945年9月2日、東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板で、マッカーサー元帥や重光外相らが署名するのを、女王と結婚する前のイギリス海軍士官フィリップは見ていたのである。この場面は映像でよく見るが、甲板の上には、白い軍装の人たちが歩き回ったり、式典を覗き見たりしている。その中にこの人はいたのである。

 これは、あまり知られていないことではないだろうか。フィリップ殿下の訃報を見て、書き残しておこうと思ったのである。

(秋山 哲)

2021年4月3日

国会福島原発事故調から見えたメディアも「規制の虜」? 事故調事務局経験から牧野義司さんが指摘

 東京電力柏崎原子力発電所(原発)で2020年3月以降、不正侵入検知の設備10か所に故障があったことが判明し、原子力規制委員会はテロ対策の不備だと問題視、1年後の今年3月24日、東電に対し核燃料搬入を禁止するなどの是正措置を出した。ニュースで大きく報じられたので、ご存知の方が多いだろう。それにしても原発の危機管理という点で、東電は何ともお粗末だ。

 東電の原発危機管理がルーズ、という点で言えば、私にとって特別な思いがある。実は、私自身が2011年3月に起きた東電福島第1原発事故の真相究明調査を行う国会事故調査委員会の事務局に1年近くメディア向け情報発信の担当者としてかかわった。事故調査を通じて見えた東電という企業の現実は、かつて毎日新聞経済部記者時代に、東電を取材した時とは全く別の顔を持っており、巨大組織病の数々だった。

 福島第1原発の事故調査に関しては当時、国会事故調以外に政府事故調、当事者の東電事故調、それに民間事故調がそれぞれ独自の立場で原因究明調査にあたった。この4機関のうち、政府事故調と東電事故調は事実上の「内部調査」で、仮に国に重大責任が及んだ場合、しっかりとした責任追及にまで踏み込めない弱みを抱えていた。これに対し、国会事故調は、超党派の立場で立法府が行政府を監視チェックし事故原因の究明も行う前例のない形の調査機関であること、特定の権益、利害にいっさい与さない、とくに政府から独立した機関として法的権限も与えられ厳しく真相究明にあたったことーーなどの特性を持っていた。このため、日本のみならず世界中が関心を持つ原発事故の調査を客観的に行える唯一の機関と言っていいのでないか、と私はかかわった当時、思った。

 現に、国会事故調報告書は、事故原因について、人災がもたらした事故とはっきり断定した。直接的には地震、そして津波によるとはいえ、土木学会評価を上回る津波が到来した場合に海水ポンプが機能不全を起こし原発サイトの全電源喪失、炉心損傷に至るというリスクがあること、その対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局、東電経営陣が問題を先送り、楽観的な見通し判断によって安全対策投資をとらなかったことが響いた。人災と言わざるを得ない、というものだ。また、監視規制する側の官僚が人事異動で十分な現場経験、政策ノウハウの蓄積がないまま、専門特化する監視対象の東電側に政策の方向付けをされるなど、結果的に「規制の虜(とりこ)」現象が起きている、といった問題を厳しく指摘したのも国会事故調だった。

 なぜ、私がそんなポジションにいたのか不思議に思われるだろう。実は以前から取材で面識のあった国会事故調の黒川清委員長(以下、当時の肩書)から電話があり「キミは毎日新聞とロイター通信の内外2つのメディアでの取材経験があり、今はフリーランスジャーナリストの立場だ。この調査には日本のみならず世界中が関心を持っており、情報発信が重要だ。記者クラブ制度の狭い枠組みを離れて大胆にやりたい。協力してもらえるか」という依頼だった。私が「意気に感ずです。お引き受けします」と答えたのは言うまでもない。

 黒川委員長の指摘どおり、私は毎日新聞で経済部を中心に約20年間、過ごし、45歳の時に毎日新聞を退社してロイター通信に転職し約15年、60歳過ぎからはフリーランスの経済ジャーナリストに転じ、77歳の今もその仕事を続けている。一方でフリーランスでの仕事中に、メディアで培った人脈ネットワークや経済部記者経験、それに問題意識が評価されたのか、アジア開発銀行からメディア向け情報発信でアドバイスしてほしい、との要請があった。そこで、最近の言葉でいう「両利きの経営」でいくことにした。その後、アジア開銀以外に日本政策金融公庫などいくつかでメディアコンサルティングにかかわった。

 さて、ここからが本題だ。私は、世界中を震撼させた巨大事故なので、メディアが記者クラブ制度の枠組みを離れて各社ごとに原発事故取材特別専門チームをつくり、その一環で国会事故調などを取材ターゲットするのだろうな、と期待した。外国メディアも同じ対応だと考え、情報発信の仕方にも工夫が必要だ、と思った。

 原発にからむキーパーソンの参考人聴取をすべてオープンにすれば、記者クラブ制度とは無関係に、メディアの独自の総合判断でニュースにして内外に向けて情報発信していくだろう、と私は判断した。そして国会事故調は、原発政策にかかわった政治家や経済産業省、資源エネルギー庁幹部、原子力委員会OB、東電幹部などの参考人聴取をすべて公開、かつ同時通訳を入れて即時に内外に情報発信できるような環境づくりで臨んだ。

 ところが、国会事故調問題の取材に関しては、各社とも旧態依然の横並びで、政治部の国会担当がカバーすることになった。それも原発事故をめぐる専門的な知識、問題意識の希薄な政治部の若い記者ばかり。取材を受けても、「何かありませんか」のご用聞き取材の域を出ず、問題の本質が何かをしっかりとおさえて書けるのかなと不安になるほどだった。

 黒川委員長もこのメディアの取材姿勢にいら立ちを隠せず、公開の参考人聴取後の記者会見でメディアへの不満を口にした。「参考人の考えに対する私の意見を聞くよりも、メディアが参考人聴取で明らかになった日本の構造問題を浮き彫りにし、独自取材で、その構造問題をさらに明らかにすればいい。その結果、検察が動くことになるかもしれない。それこそがメディアの役割でないのか」と。

 その黒川委員長は私に対しても不満をぶつけた。「規制の虜の問題は、メディアにも当てはまるな。本来ならばメディアは権力に対する監視機構なのに、その気概が感じられない。記者クラブは役所の広報機関、そこに属する記者、ジャーナリストは政府を代弁する御用記者になってしまっているのでないか。今回の原発事故は、そういった目線で対応すべきだ。オレが間違っているか?」と。

 私も、同じ思いだった。政府事故調が非公開・秘密主義なのに比べ、参考人聴取をオープンにする国会事故調はメディアにとって格好の取材チャンスなのに活かしきっていない。私の不満が募り現場記者にとどまらずKOL(KEY OPINION LEADER)の編集委員・論説委員クラスにも働きかけたが、なぜか反応は鈍く、正直、がっかりだった。私がさらにメディアの現場に不満だったのは、フォローアップ取材力の弱さだった。国会事故調報告をもとに検証という形で取材・報道が出来たうえに、世界各国から「真相を聞きたい」という声に対応して黒川委員長が講演行脚などを行った際、同行して世界各国の原発事故への受け止め方を報道すればいいのにと思った。しかし、これらの点に関して、どのメディアも希薄だったのはさらに残念だった。

 国会の対応もお粗末だった。国会事故調の報告書が衆参両院議長に提出された後、「立法府が行政府を監視する」と豪語?していた国会は、衆参両院に本来ならば超党派の特別委員会を立ち上げて、今後の再発防止策にとどまらず国の原発政策、エネルギー政策をどうするかを徹底議論するべきなのに、いっさいアクションを起さず、形だけの特別委員会を組織したのはずっと後だった。当初の驚きは、行政府に対して丸投げしてしまったことだ。

 国会事故調は事故調査報告に付随した提言で、1)規制当局への国会の監視、2)政府の危機管理体制の見直し、3)電気事業者の監視などに加え、国会に新たに独立の調査委員会の設置、端的には原子力事業者や行政から独立した民間中心の専門家からなる第3者機関として原子力臨時調査員会を設置すべきだ、と主張した。

 にもかかわらず、国会は、調査報告書を受け取った瞬間に、すべてが終わったような処理対応で、これら提言に対してアクションを起さなかった。それどころか、すでに申し上げたように、行政府への報告書対応の丸投げだったため、政府側は政府事故調の報告書、それに国会事故調の報告書の2つを抱え込み、対応に苦慮する始末だった。メディアがこれらの国会の対応を厳しく批判キャンペーンもしなかったのも驚きだった。

 原発事故から10年がたった今、原発問題にはまだまだ課題山積なのに、国会もメディアもまだまだ踏み込めていないのは、私の苛立ちだ。

(牧野 義司)

2021年4月2日

ラグビー日本代表・キャップ第1号、名フルバックだった寺村誠一さん



1930(昭和5)年9月3日付東京日日新聞

 まず、次の写真を見て下さい。

 「サンデー毎日」1930(昭和5)年11月2日号の表紙である。写真説明に、パント・キック【ラグビー遠征軍選手、寺村本社員】とある。

 91年前の1930(昭和5)年、ラグビーの日本代表が初の海外遠征を実施した。その代表選手に東大法学部を卒業、28(昭和3)年に入社したFB寺本誠一さんが選ばれたのである。

 もうひとり毎日新聞からFW岩下秀三郎さん(慶應義塾大学ラグビー部OB、30年入社)。2人は試合が終わると、原稿を書いて打電した。

 その第一報は、1930(昭和5)年9月3日付「東京日日新聞」にある。

 第1戦は、後半に逆転勝ちだった。「在留邦人も肩身が広くなったとで、その喜びはこの上もない」。カナダチームについては「背の高いことは勿論、体重が平均25貫以上(約94kg)、その上足が早いが、こちらが確実なタックルさえすれば、そう恐るべきものではないとの確信を得た」と書いている。

 終了後のレセプション。見出しに「番香坡で歓迎攻め/賞揚(しょうよう)されたスポーツマンシップ」。クレジットは「ヴァンクーヴァ―発」だ。

 初の海外遠征をした日本代表(香山蕃監督)の戦績は、6勝1引分けだった。10月15日、横浜港に帰国し、翌16日には神宮競技場で紅白試合、19日には花園ラグビー場で関西選抜と歓迎試合が組まれていた。花園には6000人の観客が詰めかけた、とある。

 凱旋したラグビー日本代表。「サンデー毎日」の表紙を飾ったFB寺村誠一選手は、W杯で活躍したFB五郎丸歩選手並みの人気だったのか。

 遠征中の成績は——。

① 9月1日 ○ 22-18 対バンクーバー選抜
②   6日 ○ 22-17 対バンクーバー選抜
③  10日 ○ 27-0  対メラロマ(バンクーバーのチーム)
④  17日 ○ 16-14 対ビクトリア選抜
⑤   20日 ○ 19-6  対ビクトリア選抜
⑥   24日 △ 3-3  対ブリティッシュコロンビア州代表
⑦  27日 ○ 25-3  対ブリティッシュコロンビア大

 日本代表選手の栄誉をたたえる「キャップ制度」は、1982(昭和57)年から始まったが、カナダ遠征の第6戦に出場した15+1の16人が、キャップ第1号の栄誉を与えられた。

 この試合、開始早々、⑪鳥羽善次郎(明大、のち東京鉄道局)がタックルの際、肩を脱臼して退場した。負傷交代は認められていない時代。カナダチームが選手を1人外したのに気づいた香山監督が15人に戻すよう申し入れたがカナダは聞き入れず、結局日本が鈴木秀丸を(法大)を補充。出場選手が15+1の16人になったのだ。

 その経緯は、この試合に出場した毎日新聞の2人の記者が速報した。試合は双方1トライずつだったが、日本代表の貴重なトライは、のちに毎日新聞のラグビー記者となる快足ウイング⑭北野孟郎(慶大)があげたという。当時トライは3点、だったのだ。

 ついでにトリビアをひとつ。寺村選手のジャージーの背番号は「1」だった。今なら「15」だが、当時、背番号はFBから始まっていたという。背番号「1」のジャージーは、日本ラグビーフットボール協会に保管されている。

 この毎友会HP「元気で~す」で佐々木宏人さん(79歳)の連載「ある新聞記者の歩み」第9回にある、寺村荘治さん(63入社)の父親「戦前のベルリン特派員寺村」は、上記の寺村誠一さんである。

1930年ジャパン(左)と1991年撮影(『東大ラグビー部七十年史』から)

 寺村誠一さんは東大法学部を卒業して1928(昭和3)年入社。ベルリンには1938(昭和13)年から3年間駐在、41(昭和16)年に帰国した、と書き残している。

 戦後、東京本社資料部長を3年ほど。日本新聞協会発行の「新聞研究」に「新聞切抜の実際」を書いた。「切抜きのぎっしり詰まったケースは日毎成長する生きた百科辞典ということができよう」と、切抜記事の重要性を説いている。

 その後、東京本社欧米部長、大阪本社外信部長、論説副主幹を歴任した。『暗号名イントレピッド—第二次世界大戦の陰の主役』など早川書房から何冊も翻訳本を出版している。

 2003年8月23日逝去。カナダ遠征チームで最長寿の97歳だった。

 キャップ第1号の同僚、岩下秀三郎(のち毎日広告社社長)は1987年12月27日逝去、83歳。北野孟郎(元運動部デスク)は1969年6月28日逝去、57歳だった。

(堤  哲)

2021年4月1日

「子ども大学」に託した一教育記者、矢倉久泰さんの夢

1日発行の季刊同人誌『人生八聲』26巻から転載



写真は「問いを学ぶー子ども大学かわごえ=「設立の助走」(2009年3月18日)から

 飛行機はなぜ空を飛べるのか、あんな重い物体が地上に落ちてこないのはなぜなのだろう。そんな子どもたちの素朴な疑問に答えながら、学ぶことの本当の楽しさを味わう場としてつくられたのが「こども大学」である。立ち上げ人の一人が、毎日新聞の教育記者だった矢倉久泰さんである。

 子どもは人間として成長する過程で、自然や社会についてさまざまな根源的な疑問を抱くが、現在の日本の教育は知識のつめこみ偏重になっているので、「学び」の原点を大切にしたいというのが彼の願いだった。二〇〇八年末に「子ども大学かわごえ」が埼玉県川越市に設立された。

 この構想を矢倉さんに持ちかけた元商社マンの酒井一郎さんによると、子ども大学の発祥の地はドイツである。ドイツでも子どもの学力低下への危機感から、教育改革への取り組みがなされるようになった。そのなかから、各地の大学を拠点に、大学の教員たちがそれぞれの専門研究分野に基づき高等教育のレベルの質を維持しつつ、子どもたちの知的好奇心にこたえ、かれらの探究心を養っていく構想がまとまっていく。

 二〇〇二年にチュービンゲン大学で子ども大学の第一号が誕生した。最初の講義は「なぜ恐竜は滅びたか?」。大きな反響を呼び、その後、同国の諸都市を中心にスイス、オーストリアを含め一〇〇近い子ども大学が開かれているという。

 酒井さんはドイツでのビジネスの第一線をし退いたあと、日本でも従来の教育では満たされなかった教育ニーズに応えるべく、ドイツのような試みに挑戦してみようと思い立った。日本の教育をよく知る矢倉さんと協力して、日本独自のモデルの構築に知恵をしぼり、川越の大学、行政、企業、市民、父兄などの協力を得て、日本初の「市民立大学」を誕生させた。

 カリキュラムは「はてな学」、「生き方学」、「ふるさと学」。地元の東京国際大学、東洋大学、尚美学園大学の教員のほかに外部の専門家たちを講師に、「なぜ飛行機は空を飛べるのか?」「なぜいのちを奪ってはいけないのか?」「『はやぶさ』と子どもたち」「原子力発電について考える」など、魅力的な講義が小学生の「学生」を相手に開講した。テレビをはじめ新聞、雑誌で引っ張りだこ凧のジャーナリスト池上彰さんも、客員教授を引き受けてくれた。彼の抜群のニュース解説力は、NHKの人気番組「週刊こどもニュース」でのお父さん役で磨き上げられたもので、池上さんは新大学の趣旨をよく理解してくれ、超多忙のスケジュールの合間をぬって、年1回の講義を続けた。

 私も一度、矢倉さんの推薦により講義をした。「『平和』ってなんだろう? ノーベル平和賞受賞者たちのしごと」というタイトルで、一〇〇名ほどの小学4~6年生と父兄を前に話をした。東日本大震災の翌年二〇一二年のことだ。私は当時、千葉市幕張の神田外語大学で教員をしていたが、大学生レベルのことを小学生にわかりやすく話すのは容易ではなく、いささか緊張した。

 まず、「『平和』という言葉を聞いて、どんなことを考える?」と質問すると、男の子と女の子が三、四人元気よく手をあげた。「毎日、おいしいものを食べられること」「朝起きてから普通の生活が送れること」「家族や友だちと仲良く暮らせること」という答えが返ってきた。たまたまだろうけど、「戦争のないこと」と答えたのは四人目の男の子だった。

 この反応には、やや意外な感じがした。というのは、大学生からは、平和=戦争のない世界という答えがまず返ってきて、それを受けて、現在の世界では平和とはもっと広い意味で理解されているのだという説明として、ノーベル平和賞受賞者の業績が軍縮や安全保障だけでなく、人権、民主化、環境、貧困などの問題解決への貢献を対象としている事実に言及することが多いからだ。

 でも子どもたちが真っ先にこのように答えたのは、「3・11」の衝撃の大きさによるのかもしれないと思いつつ、たとえばおいしいものを食べられるには何が必要かを子どもたちと一緒に考えていく。そこで、環境保護活動で〇四年のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんの新聞記事のコピーを読んでもらう。

 地球環境が破壊されてしまったらおいしい食べ物を作ることはできない、そこでマータイさんが世界中の人びとに広めようとしたのが日本語の「もったいない」だと書かれていることを知ると、子どもたちは感動した表情になる。日本語が世界語になることを通じて、自分たちの身の回りの平和と世界の平和がつながっていることが発見できたのだ。

 戦争と平和についても、新聞記事を教材にした。〇三年三月にイラクに対する米英の侵攻が迫っていたころ、世界の六〇カ国で、一〇〇〇万人の人びとが同じ日に「戦争反対!」の行動に立ちあがったというニュースだ。その一〇〇〇万人のなかの一人である、米国の一三歳の少女シャルロット・アルデブロンさんが地元の集会で行った反戦スピーチの記事も添付した。スピーチは日本語など9カ国語に訳されてインターネットで紹介され、彼女のもとに三〇〇〇通の反響メールが届いた。

 新聞記事は小学生にはやや難しいのではないかと思われたが、小、中学校で教科書に新聞記事が載るようになったので、あえて教材にしてみた。講義後にかわいらしい文字で書かれた「学生」たちの感想文を読ませてもらった。ややわかりにくかった点はあるものの、みんながかなりきちんと私の話を理解してくれたようだということがわかり、ホッとした。

 子どもたちがとくに感動したのは、自分たちとほとんど年齢の違わない米国の少女の勇気あるスピーチ、マータイさんの「もったいない」運動。そして、日本の憲法が「戦争の放棄」とともに、世界中の人びとが私たちとおなじ「平和」な暮らしをしていけることをめざした「平和憲法」なのだということも学べたようだ。

 「今、『なぜ』と思うものはありますか」という感想文の最後の項目に、何人かがこう書いていた。「なぜ人は戦争をするのかを知りたい」。それとともに、次のような感想もいくつかあった。「平和は簡単にはつくれるものではないけれど、平和な世界をつくるための心を(一人一人が)持つことが、一番大切だと感じました」

 もう一〇年まえの貴重な体験がいまとてもなつかしく思い出されるのは、「3・11」から一〇周年を迎えたからだけでなく、それ以前の昨年一一月に矢倉さんが鬼籍に入られてしまったからである。

 矢倉さんとの最初の出会いは、文部省担当だったこの先輩記者の応援に、同じ社会部記者だった私が行かされたときである。どんな仕事をしたのかはまったく記憶にないが、ロクに役に立たなかったことだけは間違いない。その後、矢倉さんは教育記者として活躍し、私は外信部に移って国際ニュースを追うことになったが、付き合いは続いた。東京神楽坂の「みちくさ横丁」の行きつけの居酒屋、「小江戸」と称され旧い街並みが魅力的な川越市でふらりと立ち寄った一杯飲み屋で、美味しい酒を飲みながら談論風発した。

 アルピニストで毎年の年賀状には前年の山歩きの元気な写真が添えられていたが、昨年から持病が悪化してついに帰らぬ人となった。病院に見舞いに行きたくても、コロナ禍でそれもかなわなかった。

 「子ども大学」は川越に続いて鎌倉にも開学し、同市出身の解剖学者、養老孟司」東」・大名誉教授が学長を引き受けてくれたと嬉しそうに報告してくれた、矢倉さんの笑顔を忘れない。でも私が彼との思い出のなかで一番大切にしたいのは、やはり川越での講義であろう。

 故人の真新しい墓石には、「矢倉家の墓」ではなく、「平和」の二文字が刻まれている。なぜ一教育記者がそこまで平和にこだわったのか、平和とは何かについてもっと話し合いたかったが、その機会は失われてしまった。合掌。

(永井 浩)

 季刊同人誌『人生八聲』春季号(第26巻)は4月1日に発行されました。テーマと著者を紹介します。大半が毎日新聞OBです。お読みになりたい方は、高尾義彦まで、以下のメールアドレスでご連絡ください。送料込みで1部1,000円。yytakao@nifty.com

2021年3月22日

警視庁キャップ健ちゃんが訴えた「12の訓戒」

 社会部旧友・中島健一郎さん(76歳)がFacebookに、自身のメモを公開した。1985(昭和60)年8月1日に警視庁キャップになった時、クラブ員に話したものだ。

 ②の「異心円で回れ」は、他の記者と同じように取材して駄目という意味。⑤の「怠けるために働け」は、先手を打って特ダネを書けば、しばらくは怠けていても許されるという秘訣だそうだ。

 その時のメンバーは——。サブキャップ取違孝昭(元東日印刷社長)▽捜査一・三課担当恩田重男、広瀬金四郎(故人)、齊藤善也(毎日新聞大阪本社代表)▽捜査二・四課担当武田芳明(東日印刷社長)、丸山昌宏(毎日新聞社長)、原敏郎(パレスサイドビルなどを管理する毎日ビルディング社長)▽警備・公安担当森戸幸生(元スポーツニッポン新聞社長)▽防犯・交通担当中村静雄(船橋市議、元同市議会議長)。

 《僕はその年の4月にワシントン特派員から帰国し、宮内庁を担当した後、警視庁キャップになりました。3年間の警視庁時代にサブは取違、警察庁担当から横滑りの常田照雄(元専務)、森戸と3人。1課担当は藤本敏朗、小川一、防犯・交通担当も一瀬博明、平沢忠明と引き継がれました》

 《キャップになって直ぐロサンゼルスで起きた銃殺、傷害事件で三浦和義が疑われた「ロス疑惑」の取材に追われました。また8月12日にはグリコ森永事件の犯人からの「くいもんの会社 いびるの もお やめや」という終息宣言でバタバタしていたら夕刻に日航ジャンボ機墜落事件でクラブメンバーを8人現場や日本航空に取材に行かせる修羅場となりました 。とても「怠けるために働け」どころではなかったです》

 キャップ中島健一郎(68年入社)、いや健ちゃんは、伝説の特ダネ記者である。長野支局時代の連合赤軍「あさま山荘」事件。犯人逮捕、人質の山荘管理人の妻泰子さんが救出され、軽井沢病院に収容された。精神科医や警察が泰子さんに事情聴取している一部始終を報じたのが健ちゃんだった。

 《病院の前は各社の記者・カメラマンでごった返していた。1人裏手に回ったら、病室でのやりとりが聞こえた。機動隊が警備していたが、窓際にへばりついてメモをとった》

 「異心円で回れ」の典型である。

 警視庁捜査一課担当時代も特ダネを連発した。私(堤)は防犯・交通担当として警視庁クラブに一緒にいたので、よく憶えている。警視庁キャップ内藤国夫(1999年没62歳)、サブ澤畠毅(2021年没81歳)の時代である。

 健ちゃんは、その後ロッキード事件の取材班に加わり、警視庁二課担OBの板垣雅夫さん(65入社)と「中板コンビ」で発掘取材、特ダネを連発した。その活躍ぶりは『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)に詳しい。

 写真は、英会話の先生を囲んでの記念撮影である。警視庁クラブで毎週土曜日に英会話教室を開いていたというのだ。前列左から丸山昌宏、中島キャップ、ドーリーン先生、原敏郎。後列左から武田芳明、平沢忠明、森戸幸生、吉田弘之(アジア調査会専務理事・事務局長)、恩田重男、小川一(前毎日新聞取締役)、齊藤善也。

 《ナゼ事件記者が英会話かというと、事件の国際化もありますが、英語を学ぶくらいのゆとりがあるべきとの思いからでした。それにワシントン特派員の時に「もっと語学力があったらなー」と臍を噛んだから。七社会では東京新聞がマネして英語教室を始めましたね》

 《先生のドーリーン·バーデンさんはアメリカ大使館に紹介してもらいました。会話レッスンでは事件が話題になることが多く、ドーリーンさんは「日本が良く分かる」と喜んでいました》

 もう1枚。

 前列左から安藤隆春広報課長(のち警察庁長官)、三木賢治(警察庁担当)、小川一、中島健一郎、常田照雄。後列左から2番目から一瀬博明(故人)、吉田弘之、齊藤善也、川口裕之(現監査役)恩田重男、?、原敏郎、山本隆行

 《この野球の写真は七社会の対抗戦の時です。共同通信が優勝し、毎日新聞は準優勝でした》

 あれから36年——。現在の佐々木洋警視庁キャップ(2000年入社)は、健ちゃんの32年後輩で、警視庁キャップは19代あとである。

(堤  哲)

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その10(後編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

 全文はこちら

 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)

 文・写真 平嶋彰彦

 『江戸切絵図』で、本郷通りを王子方面に向かうと、本郷追分を過ぎて、駒込の吉祥寺付近にたどりついたところで、ようやく緑色に彩色された田園風景が現われる。近世といっても幕末に近いが、駒込は江戸という都市空間の周縁であり、都市が田園と出会ういわゆる郊外だったことになる。

 駒込の田園風景を特徴づけるのは「植木屋多シ」の書き込みで、よく見れば、植木屋が軒を連ねていたのは、吉祥寺から六義園までの本郷通り東側と、それより染井霊園にいたる染井通りの北側であることがわかる。

 駒込の植木屋を考察した都市論の名作が川添登の『東京の原風景』である。

 川添登によれば、江戸時代の260余年を通じて、鑑賞用の植物としての花卉や植木の栽培技術は急速の進歩をとげた。日本の緑と花の文化が欧米に与えた影響は、浮世絵などよりはるかに大きいものがあった。そうした鑑賞用植物を栽培する最大の供給地が、桜のソメイヨシノで知られている染井を中心に、団子坂、駒込、巣鴨などの周辺地域に大きくひろがっていた、というのである。

 川添登は1926(昭和元)年生まれで、小学校1年まで駒込で育った。

 ソメイヨシノの発祥の地である染井通りから、東にやや入った個所は、『花壇地錦抄』の著者伊藤伊兵衛の菩提所西福寺と染井稲荷とが並んで建っていることは『江戸切絵図』でもみられるが、この染井稲荷の横を東へ曲がると、すぐに急な坂となる。私の生まれた家は、その中腹の左側にあった。

 文中に2カ所、方角を東とする記述があるが、これは誤りで、正しくは北または北北東。急な坂とあるのは、染井通りから染井銀座に抜ける染井坂をさすものとみられる。一家は関東大震災(1923年)の直後、染井坂の中腹にあった借家に引っ越してきたのだが、そこの大家が伊藤つつじ園の持主だった。裏木戸を開けるとつつじ園があり、あらゆる種類のツツジやサツキが植えられ、そこに自由に入って遊んだ、というのである。同書に明確な言及がないが、伊藤つつじ園の持主は、もとは藤堂家下屋敷の植木職人で、のちに江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛家の系譜に連なる人物であったとみられる。

 江戸時代には、染井の植木屋はどこも花園を持っていて、その一帯は市中からの遊覧客でにぎわう江戸名所の1つとなり、浮世絵にも取り上げられた。しかし、明治時代に入ると経営が苦しくなり、昭和の初めごろには、貸家に切り替えるところが少なくなかった。それでも、大きな屋敷もそこここにあり、そのなかには植木屋の庭園もあったという。

 染井坂通りに「門と蔵のある公園」がある。植木屋を営んでいた丹羽家の跡地を整備した公園である。門は染井通りにあった藤堂家の腕木門を移築したもの。蔵は1936(昭和11)年築で鉄筋コンクリート造りの珍しいものである。周りには歴史を感じさせる大きな邸宅があり、染井稲荷からも遠くない距離にあることから、もしかすると、川添登の記憶に残っていたのは、この丹羽家の庭園のことであったかもしれない。

染井坂通り。門と蔵のある広場。藤堂家下屋敷の腕木門。駒込3-12。2021.1.15

 川添登が回想する失われた駒込(染井)の風景を、もう少したどってみよう。

 その頃、坂の下は水田が続いていたとのことであるが、すでに民家で埋まっており、とくに坂のすぐ下は、長屋が建ちならび、バラックと呼ばれ、その子供たちとあそんではいけないよ、と母にいわれていた。また染井通りの西側は、藤堂家をはじめとする武家屋敷のあったところで、高級住宅街になっていた。いずれもコンクリートの高い塀をめぐらし、大きな屋敷や本ものの西洋館が建ちならび、昼間でも人通りがなく、人さらいが出るから染井通りから先に行ってはいけない、といわれた。つまり、親から許されていた行動範囲は、染井通から坂(傾斜地)までの間、ということになる。

染井坂通り。門と蔵のある広場。植木屋だった丹羽家の蔵。駒込3-12。2021.1.15

 坂とは、染井坂通りのこと。そのころは、坂の下の低地を西から東へ、谷戸川が流れていた。かつて水田として開かれたその沿岸は宅地化され、長屋が建ちならんでいた。それをバラックと呼んでいたとある。バラックはその場しのぎの仮屋を意味する。この言葉が一般に使われだすのは、関東大震災の直後からである。

 もしかして、駒込のバラックの居住者の多くは、関東大震災の罹災者だったのではないだろうか。川添の一家も大震災の直後に引っ越してきた。母親の言葉にある「あそこの子供たちとあそんではいけないよ」というのは、経済的および社会的な格差があったことを示唆する。それにたいして、坂の上の染井通りの南側(引用文中の西側は誤り、正しくは南)の高級住宅街というのは、先に述べた岩崎弥太郎墓地付近のことである。

 そこは坂の下とは逆に、羨望の眼差しで見られていたのである。早いはなしが、坂の上も、坂の下も馴染みのうすい別世界だったのである。しかし、子どもたちが、親のいいつけをおとなしく聞いているわけがない。とうぜん越境をする。その冒険の輝かしい体験により、川添登は自分や自分の育った駒込(染井)の素顔を知ることになったのである。

 『東京ラビリンス』展を終えて間もない12月10日、六義園(写真・下)を訪れた。40年以上も前になるが、渡り鳥が越冬する都内の名所というテーマで、この名園を撮影したことがある。時期は12月の初旬で、庭園のようすはほとんど忘れてしまったが、オナガガモやマガモが遊ぶ水辺の樹々が、秋色に染まり美しかったことだけは覚えていた。

 問い合わせると、コロナ渦だが予約すれば入園できて、いまが紅葉の見どころだという。その日は前日から雨だったが、私が入園した直後に雨はやんだ。そのためか園内は人影がまばらで、鮮やかに色づいたモミジやカエデを贅沢な気分で眺めて廻ることができた。

 帰宅してから画像を整理していると、モミジやカエデと一口でいっても、たくさんの種類が植えられていて、素人目にはどこがどう違うのか見分けのつかないことに気づいた。

 そういえば、江戸一番の植木屋と評された伊藤伊兵衛政武は楓葉軒とも号している(註11)。伊藤伊兵衛といえばツツジが有名だが、モミジやカエデも得意にしていたのである。六義園で私が見たモミジやカエデの見事な植栽の背景には、駒込(染井)の植木職人が歴史的に培ってきた造園技術が受け継がれているにちがいない。

 『新編武蔵風土記稿』に次のような逸話が載っている。

 1727(享保12)年3月、将軍吉宗が伊藤伊兵衛政武の花壇植溜を観覧し、御用木として29種の草木を命じることがあった。その翌月、政武は江戸城に呼ばれ、御納戸役の松下専助から舶来の樹を示され、それについて問われると、即座に、自分はいままで見たことがないが、これは俗にいうところの深山楓によく似ているとこたえた。

 そのあと、さらにやりとりがあり、政武はその樹を呈せよと命ぜられると、1本の深山楓を盆に移した苗木と、それとは別に深山楓の実のついた折枝をそえて献上した。すると9月になって、松下専助より将軍の内命とのことで、深山楓に舶来の楓樹を接木したものを下賜された。これはたいへん珍しいものだから、生育させその種を世上に広めよ、と仰せつけられたというのである。

 上記の将軍吉宗は誤りで、観覧したのはその子の家重だという。『風土記稿』の記述がどこまで事実かはともかく、染井の植木屋が、樹木を採集したり栽培したりするだけでなく、品種改良まで試みていたことは間違いないように思われる。さらにいうなら、伊藤伊兵衛政武は植物の種類や栽培法をまとめた『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄付録』を、先代にあたる三之丞もまた『花壇地錦抄』など、後世に名を残す書物を刊行している。伊藤家にかぎらず、染井の植木屋は、江戸時代の都市近郊における先駆的な農業技術者であるばかりでなく植物学者でもあったと考えられるのである。

 明治時代になり江戸が東京に変わると、駒込は近代都市として再編されていくが、川添登が子どもだった昭和の初めごろまでは、まだまだそこかしこに田園風景が残っていた。『東京の原風景』のなかに、川添登が師とも仰ぐ今和次郎の『日本の民家』のなかから、下記の一節が引用されている。文中の「郊外」を駒込(染井)と言い直してみれば川添登のうちなるわが街への想いのたけが、よりいっそう明確に伝わってくる。

 人の作ったものは美しい。神の作ったものはまた美しい。一方は都市で、一方は田園であるとするならば、郊外というものはこの二つの接触し合ったもの、とけ合ったものだから、郊外には二重の美しさが現われて、郊外に住家を営む人たちは幸福なわけなのだ。

 今和次郎は建築学や民俗学の研究者で、考現学や生活学を提唱した先駆者であるが、関東大震災の直後、上野公園のバラック建築を写真で記録している。『日本の民家』をみればわかるように、スケッチがたいへん上手な人だが、カメラが一般に普及する以前から、フィールドワークの記録手段として、写真を取り入れていたのである。

 今和次郎は、戦後間もないころになるが、早稲田の理工学部で教えるかたわら、学生写真部の部長を務めていたということである。情けないはなしだが、私は大学の写真部時代に、今和次郎の著作を読んだこともなければ、名前すら知らなかった。

 関東大震災のときのバラック建築の写真をふくめ、今和次郎が残した膨大な記録資料は現在、工学院大学の図書館に所蔵されている。仕事でも何でもないのにもかかわらず、その資料の所在を捜し出し、工学院大学に移管する橋わたし、さらにその整理にいたるまで、尽力を惜しまなかったのが、「ときの忘れもの」を主宰する綿貫不二夫・令子夫妻であったことは、つい最近になって知った。

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その10(前編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

 全文はこちら

 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)

 文・写真 平嶋彰彦

 「ときの忘れもの」は、JR駒込駅の南方およそ300メートル、本郷通りと不忍通りの上富士交差点をわたって左折し、1つ目の筋を右折した裏通りにある(写真・下)。上富士交差点の北西側はす向かいには六義園がある。ギャラリーの南側80メートルにみえるのが駒込富士神社の社叢である。

 初めて訪れたのは、確か、2018年の秋だった。昨年秋の『平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス』の打ち合わせのためである。それ以来、ギャラリーにはなんどか足を運ぶことになり、時間があるときはその周辺を歩いてまわることにした。

ギャラリー「ときの忘れもの」は毎日新聞販売局に在籍していた綿貫不二夫さん、令子さん夫妻が1995年に青山で創立、その後駒込に移転し、26年目を迎えました。

 展覧会を開催中の11月18日、大学写真部時代の仲間との恒例の街歩きで、染井通りをはじめて歩いた。この通りは、六義園の角からまっすぐ北西方向にのびている。しかし、マンションが林立する街並みのようすから、近年に造られた道路と誤って思い込んでいた。このときの街歩きでも昭和の面影をのこすようなものは見あたらず、駒ゴルフガーデンにそびえるレバノン杉の大木と、その近くの「花咲か七軒町植木の里」と刻む石碑をアリバイ的に撮っただけだった。

 1週間後の25日、染井通りをもう1度歩くことになった。20年来の友人である詩人の中村鐵太郎さんが『東京ラビリンス』展を観に来てくれた。そのときに、彼の住む1938(昭和13)年に作られた共同住宅を一度ご覧になってみませんか、と薦められたのである。

 昭和の文化遺産ともいうべきその共同住宅は、染井通りから南に折れてJR巣鴨駅にぬける通りの途中、岩崎弥太郎墓地と三菱重工社宅の向かい側にあった。

 施主は東京帝大機械科卒の技術者で、三井金属に入社し、同社ベルリン支店に10数年勤務した。帰国後に、自宅住居を兼ねた欧米人向けの共同住宅の建設を試みたのが、この鉄筋コンクリート3階建の共同住宅だということである。南側の隣家は、1933年築の1戸建て高級住宅で、こちらも鉄筋コンクリート2階建の見るからに立派な近代建築だった。

 1878(明治11)年、岩崎弥太郎は六義園(大和郡山藩下屋敷)を払い下げた。六義園の西側に隣接していたのが藤堂家下屋敷(伊勢津藩)で、あとでわかったことだが、この共同住宅が建っているのはその屋敷地だった。1922(大正11)年、三菱財閥三代の岩崎久彌は、わが国最初の文化村ともいうべき高級住宅地「大和郷」を構想し、六義園周辺の大名屋敷跡を住宅地として整備し、これを分譲した。図書館もその文化村構想の一つで、2年後の1924年、東洋文庫(写真・下)を六義園近くに設立した。

 そんなことから、これまでうっかり見落としてきた染井通りがにわかに気になりだし、『江戸切絵図』「染井王子巣鴨辺絵図」(尾張屋版、嘉永7・1854年)にあたってみた。Googleマップで照らし合わせると、染井通りの道筋は江戸時代の後半とほとんど変わっていない。通りの南側ほぼ全域が藤堂和泉守の下屋敷になっていて、西側のつきあたりに建部内匠頭の下屋敷がある。ここは現在の染井霊園である。

 それにたいして、通りの北側一帯は百姓地や自然地を示す緑色に彩色されている。こちらは通りの全体に樹木の図を配し、現在の駒込7丁目およびその東側の6丁目と3丁目には、それぞれ「此辺染井村植木屋多し」「同断」「同」と書き込んでいる。

 そのなかに1カ所だけ町家(町並地)を示す灰色に土地区分されたところがある。先にのべた「花咲か七軒町植木の里」の石碑のたつ3丁目8番地のあたりで、そこには「駒込七軒町」と記し、「植木屋」と添書きしている。ということは、江戸時代にはこのあたりが染井村の中心地であったと想像される。

 「花咲か」の石碑は、通りに面した小さな広場の門前に建っていた。よく見れば、新しいものである。なかに入ると、面積は広くないが、菜園風の趣に造られていて、水路やポンプ井戸があった。門には「私の庭みんなの庭」の表札がかかり、その下の案内板を読むと、この地域の人たちがボランティアで運営しているということである。

 ところで、「ときの忘れもの」のある本駒込5丁目のあたりはそのころどんなようすだったのだろうか。『江戸切絵図』をみると、現在の六義園は「松平時之助」の下屋敷になる。時之助は大和郡山藩の藩主で、六義園を造った柳沢吉保の後胤である。本郷通り(本郷筋)の六義園前に「テンチウトイウ」の書き込みがある。通り沿いは灰色の色区分で「上駒込村百姓町家上富士前町」とあるから、町屋が並んでいたとみられるが、その奥は緑色の色区分で、「此辺テンチウ」「百姓地ウヘキヤ多シ」と記している。

 「テンチウ」は「伝中」と書くのだという。5代将軍綱吉は、股肱の臣ともいうべき柳沢吉保が造ったこの庭園をたびたび訪れた。このときばかりはお伴の家来が屋敷の周りに数多く待機し、あたかも殿中のようだった。しかし、そのまま書くのは憚られるから、伝中とされた、ということである。

 「ときの忘れもの」と駒込富士神社は、この絵図では範囲外になっている。このあたりが載るのは、おなじ『江戸切絵図』の「東都駒込辺図絵」である。

 駒込富士神社はどこかというと、「駒込富士前町」の東側に鳥居と社殿の図を描き、「本郷真光寺」と記しているところがある。そこが駒込富士神社になる。真光寺はいまも本郷4丁目にある天台宗寺院で、明治の神仏分離までは、駒込富士神社の別当寺だった(註5)。

 ときの忘れものがあるのは、その北側になるわけだが、このあたりは緑色の土地区分になっていて、「此辺富士ウラト云」「百姓地」「植木屋多シ」とされている。

 1680(延宝8)年の『江戸方角安見図』「三十三・駒込一(本郷すし・ひがし方)」に富士神社がでてくる(註6)。この絵図では富士塚とその頂上に社殿を描いて「富士」と記し、その横にさらに「ふじ権現」とある。

 神社の北側は、嘉永の頃とはちがって、「堀丹波守」の大名屋敷になっている。「ときの忘れもの」がいまある場所も、その広大な屋敷地のなかに含まれるとみられる。『江戸方角安見図』には、本郷通りの西側にはなにも記されていない。柳沢吉保が将軍綱吉から拝領した土地に7年がかりで六義園を完成させたのは、1702(元禄15)年である。それまでは富士権現のほか、このあたりに見るべきものがなかった、ということかもしれない。

2021年3月11日

クマノザクラでお花見を、と元大阪社会部の斎藤清明さん

 クマノザクラを、故郷の古座川(和歌山県)流域で愛でてきましたので紹介します。

クマノザクラを愛でる斎藤さんご夫妻

 去年は3月中旬に行って少し遅かったので、今年は早目にと先週4~5日に出かけました。ちょうど満開になったところでした。

 クマノザクラは、3年前に森林総合研究所(八王子市)が新種として日本植物分類学会誌に載せたものです。日本のサクラ属の野生種としては、1915年にオオシマザクラが発見・命名されて以来、百年余ぶりのこと。

 わたしが少年のころから親しんできたのが、じつは新種だったのです。

 ふつうのヤマザクラはいつも4月に咲くのに、古座川べりでは3月に咲くのもあって、「早咲きのヤマザクラ」と呼んでいました。それを近年になって森林総研が地元の県林業試験場の協力で調べると、ヤマザクラとは別種に分類できたのです。

 春に帰郷するたびに山にいち早く咲いているのを見惚れてましたが、クマノザクラということになって、いっそう美しく、誇らしく思えてきます。

 本州の最南端の清流に映え、濃い緑の山に散りばめられ、なんともいえない風情です。

 英国の阿部菜穂子さん(「チェリー・イングラムー日本の桜を救ったイギリス人」=岩波書店=の著者)に知らせると喜んでくれ、フェイスブックで紹介してくれました。彼女が新人で京都支局に来た時以来のつき合いです。

(斎藤清明=元京都支局・大阪社会部)

2021年2月22日

「社会部」が大阪で生まれて120年

 「大阪毎日新聞」(大毎、現毎日新聞)に1901(明治34)年2月25日、社会部が誕生した。20世紀最初の年である。ことし創部120年となる。

 「はじめて社会部の名称をウッ建てたのは、東西を通じてわが社が真っ先であった」

 これは東京社会部の初代部長となった松内則信(冷洋)が「大毎50年」の本紙連載(1932年3月)に書いている。松内は社会部発足の前年、1900(明治33)年入社。東京の「萬朝報」からで、それまで東京・大阪の新聞社に「社会部」はなかったというのだ。

 日本の新聞学の開拓者で、東大新聞研究所の初代所長・小野秀雄は、松内社会部長から誘われて「東京日日新聞」社会部員となる。

 「東日」がもっぱら名論卓説をぶちあげる「木鐸記者」であったのに、事件があればとにかく現場に駆けつける「大毎」社会部記者。《「頭の記者よりも足の記者が尊い」といわれたのは、この時からである》(小野秀雄著『新聞五十年』)。

 欧米の新聞社に「社会部」はない。日本独自のネーミングだが、《「社会部」が素直に定着していったところに、その後の日本の新聞を性格づける基礎があったといえるのではないだろうか。それは同時に反骨とか、野党的とか、反体制とかの精神が新聞活動の真骨頂であると認められることとも通じると思う》と、16代大毎社会部長、のちの編集主幹斎藤栄一が記している(『社会部記者 大毎社会部70年史』)。

 「問題意識の視点から取組む」社会部の誕生は、近代ジャーナリズムの幕開けとなったのである。

 「大毎」が追いつけ追い越せとライバル視していた「大阪朝日新聞」(大朝)が編集局に「社会係」を置くのが1904(明治37)年12月、と朝日新聞社史にある。東京の朝日新聞に「社会部長渋川柳次郎(玄耳)」が生まれるのが1910(明治43)年4月である。

菊池幽芳(『「毎日」の3世紀』から)

 以下に現在までの大阪と東京の社会部長一覧を掲載する。

 初代部長・菊池清30歳。文芸部主任からで、幽芳のペンネームで「己が罪」「乳姉妹」を連載。「家庭小説」の分野を開いた。「小説だけでなく、書も、歌も、菊づくりまで楽しむ趣味人だった」と部長紹介にある。

 第2代角田勤一郎・浩々歌客は、慶應義塾創立50年(1907年)に先立ち、1904(明治37)年3月に制定した旧塾歌の作詞者。

 第3代福良虎雄・竹亭は、東西の社会部長を務めている。他には第10代平川清風、第20代稲野治兵衛、第22代ヒゲの畑山博の計4人。

 第6代奥村信太郎・不染と、東京の初代松内則信・冷洋は、日露戦争で従軍記者として活躍。2人は1905(明治38)年と翌06(明治39)年の2回、鉄道早回り競争の選手として最初は10日間でどれだけ乗れるか、翌年は5,000マイルを何日で踏破できるか競った。

 鉄道が国有化される時期で、連日紙面で大々的に扱った。2人ともスター記者だった。

 奥村は1920(大正9)年の大毎野球団結成にもかかわり、25(大正14)年のアメリカ遠征では総監督として、ホワイトハウスでカルビン・クーリッジ第30代大統領と面会している。遠征メンバーに野球殿堂入りが3人いた。キャプテン腰本寿、投手の小野三千麿、遊撃手の桐原真二である。

 奥村はのちに社長となるが、戦後パージを受け、表舞台から消えた。

 第9代阿部真之助。のちにNHKの会長になるが、社史『「毎日」の3世紀』には《反骨のペン貫いた》と、その業績に4ページも割いている。

 東京の学芸部長時代、菊池寛、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一、高田保、木村毅らを社友・顧問として迎え、学芸面の充実を図った。

 一覧表の阿部真之助の右側、東京社会部第4代島崎新太郎は、都市対抗野球大会をつくった。1925(大正14)年夏、明治神宮外苑に4万人が入る野球場を新設するので寄付の要請があった。「最高峰を行く野球大会を」と、当時の運動課長弓館小鰐(第1回早慶戦のときの早大マネジャー)と相談。大阪朝日新聞から大正日日新聞に移っていた橋戸頑鉄(第1回早慶戦のときの早大キャプテン)をスカウト、1927(昭和2)年に第1回大会を開いた。

 第11代徳光伊助・衣城は、大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。城戸元亮編集主幹にスカウトされ、聯合通信社(現在の共同通信)からいきなり社会部長となった。読売新聞社会部から「文章のうまい遊軍記者」としてスカウトしたのが、のちの読売新聞1面「編集手帳」の高木健夫だ。

 「読者の目を射すような社会面づくりだった」と紹介されている。

 高木は、徳光の俳句を紹介している。
   外套を肩に新聞記者帰る
 格好いいね、決まってる。

 32(昭和7)年12月本山彦一社長が逝去、会長となった城戸が翌33(昭和8)年10月に会長職を追われるお家騒動があり、徳光とともに「聯合艦隊」と呼ばれた記者47人が一斉に辞めてしまった。高木も一緒だった。

 第13代本田親男は、城戸時代に長崎通信部に飛ばされた。1930年の大風水害の原稿をローマ字で海底電信に載せ、長崎―上海―マニラ―小笠原―東京と渡って、惨状を伝えた。

 49歳で社長となったが、「本田天皇」と呼ばれ、社長時代の評判は必ずしもよくない。

 第14代の大阪小林信司と東京村田忠一の在任中の1943(昭和18)年1月1日、題字を「毎日新聞」に一本化した。

 大阪の第15代浅井良任と東京の第17代森正蔵から戦後だ。

 森は45(昭和20)年12月に『旋風二十年』を刊行する。戦時中の昭和裏面史を嶌信正ら7人の記者が書いたもので、発売と同時に売り切れが続出、大ベストセラーとなった。

 東京第25代三原信一。51歳での部長就任だった。《まず断行したのは「新旧交代」「信賞必罰」を旗印にした大幅な人事異動だった》《3年間で53人を入れ替え、54人目に三原さんが去ったときの社会部の平均年齢は32・1歳》。

 1957年3月第5回菊池寛賞。社会面キャンペーン「白い手・黄色い手」「官僚にっぽん」。
    10月第1回日本新聞協会賞。社会面キャンペーン「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」。

 「50歳を超えて社会部長になったのは、三原さんに続いて2人目」と東京第34代牧内節男(95歳)。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)がすべてを物語っている。

 東京第44代朝比奈豊。2008年社長、11年グループホールディングス社長。2020年にGH会長を退任するまで長期政権だった。

 最後に2017年4月に女性として初の社会部長となった磯崎由美。ことしの日本新聞協会賞「にほんでいきる」外国籍の子どもたちの学ぶ権利を問うキャンペーン報道。社会部長の時からキャンペーン報道に噛み、編集局次長として毎日新聞の編集部門受賞、32回目を達成した。=敬称略

(堤  哲)

2021年2月19日

お天気キャスターの先駆け・倉嶋厚さんのこと

 社会部の遊軍記者になって最初にやらされるのはお天気原稿だ。気象庁の天気相談所に電話して、気象概況を解説してもらい、夕刊早番から出稿する。遅くても午前10時半までにはデスクに渡さなければいけないので、結構シンドイ仕事だった。

 ことし関東地方に「春一番」が吹いたのは、2月4日だった。これまで最も早かったのが1988(昭和63)年2月5日。過去の記録を更新したのだ。これも異常気象?

 「春一番」は、お天気キャスター倉嶋厚さん(2017年没、93歳)が命名した、と社会部旧友・倉嶋康さん(88歳)がFacebookに書いている。

 [春一番] 2021年2月15日

 「春一番」は私と年の近い叔父の倉嶋厚が気象庁で予報官をしていた時に命名しました。そのころ私は竹橋の気象庁のすぐ近くにある毎日新聞東京本社の社会部にいて、時々気象庁に遊びに行っては特ダネをつかんだり、叔父がパレスサイドビルに来て地下で一杯やったりしていました。

 ある時大阪本社から同期の丹羽郁夫という記者が東京社会部に転勤してきました。私の一番の親友となりましたが、叔父の厚のことを知って私にこうこぼしました。

 「大阪で気象台を担当していた時にオレは『大南風』って名付けて盛んに使った。でも『春一番』のソフトなタッチには負けてしまった」と。

 自分が作った言葉が後世まで使われるってうれしいことです。え、私? そうだなあ、「ニア・ミス」を「異常接近」と訳したくらいかな。

 倉嶋さんは、気象庁主任予報官→札幌管区気象台予報課長→鹿児島地方気象台長を歴任し、1984年定年退職。そのあとNHKの気象キャスターとなる。

気象解説をする倉嶋さん(ネットから)

 お天気をわかりやすい言葉で説明した。「熱帯夜」(最低気温が25度以上の日)は倉嶋さんの造語だ。

 「雨一番」も。北海道など北国でその年初めての雪が混じらない雨を呼ぶそうだ。

 「台風は大きなバケツ」「ゲリラ豪雨」「光の春」(ロシアでは光のちょっとした変化で春を感じる)。『やまない雨はない』(文藝春秋)はうつ病を克服した自身の体験記の題名だ。「日の差す方角ばかり探している人に、虹は見えない」という言葉もある。

 いま人気の気象予報士・森田正光さんが偲んでいる。

 《倉嶋さんは、よく「人文気象学」あるいは「風流気象学」といって、普通の人々の生活感覚や、季節感、自然感が大切だと、おっしゃっていました》

 《倉嶋さんは、天気解説で大事なことは「おやまあ」「そうそう」「なるほど」の三つだといいます。「おやまあ」は、びっくりするような発見や出来事、そして「そうそう」というのは、今日は風が強くて困りましたね、というような共感、さらに「なるほど」というのは、視聴者の方がその説明を聞いて納得することだそうです》

 《倉嶋さんが亡くなられた8月3日は、一年の中で一番暑い時期です。その暑さも楽しみながら、来年から私は8月3日を「熱帯夜忌」と呼ぶつもりです》

 丹羽郁夫さんは1970年没、40歳だった。

(堤  哲)

2021年2月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その9

 この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
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その9 姨捨山のつたかづら
文・写真 平嶋彰彦

 芭蕉の『更科紀行』は、1688(元禄元)年に中秋の名月を眺めるため、信濃国更級郡(長野県千曲市)の姨捨山を訪れたときの俳句と散文からなる小品である(註1)。

 姨捨山という刺激的な山名が史料に初めて登場するのは、『古今和歌集』の「雑の部」に載る「題しらず読み人しらず」の歌である(註2)。

  わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て

 『古今集』より約50年後、この姨捨山の歌は『大和物語』でも取りあげられた(註3)。同書は作者不詳の歌物語で、歌の背景には次のような出来事があったと書かれている。

 信濃国の更級に、若いときに母を亡くし、姨に育てられた男がいたが、男は妻にそそのかされ、いわれるままに、その姨を山奥に置き去りして帰った。おりしも中秋の名月で、男は月を眺めつつ、思い直して、いったんは捨てた姨を家に連れ戻した、というのである。

 ほぼ同じ内容の話は『今昔物語集』にも載っていて、そこでは舞台となった姨捨山は、千曲市南東にそびえる冠着山(「冠山」)のことだとされている(ph1、註4)。

ph1 冠着山。『今昔物語集』以来、中世にはここが姨捨山とされた。 2015.5.24

 芭蕉が訪れた姨捨山は、『今昔物語集』のいう冠着山ではなく、それよりも4キロあまり北側にある姨捨山放光院長楽寺周辺の山麓であった(ph2、3)。『更科紀行』の本文には、その所在地がどこかについて言及がなにもないが、芭蕉による別稿の「更科姨捨月之弁」には、次のように書かれている(註5)。

  山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷(すさま)じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。

 「八幡」は現在の千曲市八幡のことで、武水別神社(旧八幡宮)を中心とした地域をさす(ph4)。姨捨山すなわち長楽寺はその南西約2キロにある。武水別神社付近からは「かどかどしき岩」は見えない。しかし、長楽寺境内には姨石と称する巨大な岩がある(註6)。

ph2 姨捨山長楽寺。江戸時代の姨捨山。正面奥の巨大な岩が姨石。 2015.5.23
ph3 長楽寺の観月堂。左が姨石。周りに多くの文学碑がたつ。 2015.5.23

 芭蕉は『更科紀行』の翌年、歳旦の句の1つに、こう詠んでいる(註7)

  元日ハ田毎の日こそ恋しけれ

 「田毎の日」が田毎の月を踏まえているのは、いうまでもない気がする。田毎の月とは、長楽寺門前に広がる四十八枚田と称する棚田の1枚1枚にうつる月をいう。四十八枚田は、阿弥陀の四十八願にちなんで、歌人の西行が名づけたといわれる(註8)。棚田の中央部には、宝永3(1706)年の銘をきざむ田毎観音が祀られている(ph5)。

 現在、観光名所になっている姨捨棚田は、この四十八枚田より南側の傾斜地にある(ph6)。芭蕉の来訪から9年後になる1697(元禄10)年、聖高原の大池からの用水堰が建設され、それにともない、姨捨棚田の大規模な開発が進められたのだという(註9)。

 それより86年後の1783(天明3)年、菅江真澄がこの地を訪れている。そのときに描いた「姨捨山の月見」をみると、たくさんの人が姨石の上に群がり、千曲川をはさんだ対岸の鏡台山からのぼる中秋の名月を眺めている(註10)。それよりもさらに70年ほど後になるが、歌川広重が『六十余州名所図会』の1枚として「信濃 更科田毎月鏡台山」を描いている。この図絵では、長楽寺の奥に峨々として姨石がそびえたち、門前の四十八枚田の1枚1枚に中秋の名月が描き込まれている(註11)

 『更科紀行』の本文には、先に述べたように、姨捨山が更科のどこにあるかの言及がない。そればかりでなく、田毎の月の言い伝えとか、その夜の名月の具体的な描写はなに1つ記されていない。芭蕉がひたすら書き綴っているのは、中山道の途中で出会い、更科まで同行することになった「道心の僧」との意外とも不思議とも思われるやりとりである。

 記述にしたがえば、中秋の名月のその夜、この僧は苦吟する芭蕉をみて、「旅懐の物憂さ」に落ち込んでいるのではないかと余計な心配をし、自分が若いときに廻った土地のことや阿弥陀如来の尊い功徳のこと、あるいは自分が不思議に思った体験などを話して聞かせ、気をもんでくれた。しかし、かえってそれが「風情のさはり」となり、芭蕉はただの一句もものにすることが出来なかった。

 とかくしてとりまぎれ、気づかずにいたのだが、ふと目をやると、宿のかべの破れから木の間がくれに月影が差し込んでいて、耳をすますと、鳴子の音や、鹿笛の音があちらこちらから聞こえてきた、というのである。それに続けて、「まことにかなしき秋の心、爰に尽くせり」とは書いているのだが、だからといって、芭蕉はすぐに句作を再開したわけではない。

 どうしたかというと、芭蕉は「いでや、月のあるじに酒振まはん」と口火をきり、宿の者にさかずきを出してもらい、この僧と酒を酌み交しはじめた、というのである。「あるじ」とは「あるじもうけ」のことだそうである(註12)。芭蕉が主人となり、お客として道心の僧を迎え、ご馳走をしたことになる。

 酒を酌み交わしながら、あるいはその後で詠んだのが、次の3句である。

  あの中に蒔絵書きたし宿の月

  桟やいのちをからむつたかづら

  桟や先ずおもいいづ馬むかえ

 最初の句の「あの中」の「あの」とは、もちろん中秋の名月のことだが、道心の僧と酒を酌み交わしたさかずきには「木曽の桟(かけはし)」の蒔絵が描かれていた。そのさかずきはふつうのものよりひとまわり大きく、図柄も見るからに稚拙で、風情を欠いていた。都の人なら、手にもふれようとしないとも書いている。しかし、考えてみれば、そんな代物を中秋の名月の中に描きたいと思うはずがない。そうではなく、見かけは田舎じみて卑俗な表現であっても、うちに込められた尋常ではない心模様の気高さを発見したのである。

 木曽の桟は、古代より中山道屈指の難所にかかる橋として名高かった。端(はし)とは、ものの発端であり、末端である。橋はこちらの岸とあちらの岸をかけわたす(註13)。それを飛躍させて、この世とあの世をかけわたす橋に重ねてみたのである。

 次の句では「いのちをからむつたかづら」と詠んでいる。かけわたされるのは、この世からあの世に生まれ変わる人間の生命ということになる。

 『古事記』によれば、ヤマトタケルは東国遠征から帰還の途中、伊勢国の能煩野(三重県亀山市から鈴鹿市にわたる地域)で横死した。その葬儀に詠われた挽歌のなかに野老蔓(ところづら)が出てくる(註14)。

  なづきの田の稲幹(いながら)に 稲幹に 葡ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら)

 野老蔓は山芋の蔓草のことである。蔓草を生命に見立て、これをたぐり寄せる仕草をくりかえし、死者の魂を呼び戻そうとしたらしい。そうした古代の呪術儀礼がこの挽歌に詠み込まれているのではないか、ということである。(註15)。

 「木曽の桟のつたかずら」のデザインは、近ごろは見かけなくなった布団を包む風呂敷に描かれた唐草模様や、イギリスの童話「ジャックと豆の木」の豆の木にも通じるように思われる。植物の蔓草が絡み合いながら、どこまでも天空に伸びていく姿に、私たちは生命の不思議さを感じずにいられない、ということではないだろうか。

 3句目に「馬むかえ」とある。中古には信濃の望月の駒を朝廷に献上する習わしがあり、旧暦8月15日というから、中秋の名月の日になるが、左馬寮の使者が逢坂の関まで出向いて、その馬を迎えるのが恒例行事になっていたという(註16)。その故事を念頭に置いて詠んだわけだが、望月の駒とは反対に信濃へむかうこの旅で、芭蕉は徒歩ではなく、馬に乗っていた。それを信濃の国境のあたりで出迎えたのが、「道心の僧」ということになる。

 世阿弥作の謡曲に『姨捨』がある。中秋の名月を見るため、ある男が京都からはるばる更科まで旅をするのだが、その男を出迎えたのは、ほかならぬ捨てられた姨その人の亡霊という設定になっている(註17)。この物語で生命の象徴として登場する植物は、姨が捨てられた場所に生い茂っていた桂の木であった。桂は中国では月の中にあるという想像上の樹で、転じて月のことだとされるという(註18)。世阿弥は『姨捨』の地謡で、次のように語らせている。

  月はかの如来の右の脇侍として、有縁を殊に導き、重き罪を軽んずる、無上の力を得る故に、大勢至とは号すとか。

 かの如来とは、いわずとしれた阿弥陀如来のことで、勢至菩薩と観音菩薩を脇侍にしたがえ、一光三尊の善光寺如来として長野の善光寺に祀られている。先にも書いたように、姨捨の四十八枚田は、阿弥陀如来の四十八願にちなんだもので、歌人の西行による命名だとする伝承がある。西行はもちろん作り話に違いない。広重の「信濃 更科田毎月鏡台山」も、現実にはありえない視覚である。四十八枚田の一枚一枚に中秋の名月がうつるのは虚構であるが、阿弥陀如来の尊い功徳を求める切ない願望であったとみられる。

ph4 武水別神社。かつて別当の神宮寺があり、長楽寺はその支院だった 。 2015.9.1

 かつての馬むかえに見立てられたこの僧は、年のころ60歳ばかりで、腰のたわむまで荷物を背負い、息をせわしくさせ、足どりも覚束ないようすであらわれた、と芭蕉は書いている。それを見た越人と権七という芭蕉の従者が気の毒に思い、この僧の荷物を自分たちのものと1つにからませ、つまり一蓮托生の形に結わえ、芭蕉の乗る馬に括りつけ、一緒に旅をすることにしたのである。

 芭蕉はただの僧ではなく、わざわざ「道心の僧」と書いている。道心とは、仏道を修める心のこと、または13歳あるいは15歳から仏門に入った僧のことだというが、道心坊となると、物乞いをして歩く乞食僧のことだそうである。(註19)。だとすれば、腰がたわむまで背負った荷物はなにかを詮索するなら、町々や村々を廻って、手に入れたお布施の品々とみて、まず間違いない気がする。

 この僧が芭蕉の句作を妨げたことは、すでに述べた。若いときから、旅をしながら各地を廻り、阿弥陀如来の尊さを説くとか、念仏を唱えるとかして、人々の極楽往生を祈願したのであり、芭蕉にたいしても同じように話をして聞かせたのである。

 芭蕉は僧侶ではなかったが、身づくろいは僧の形にしていた。芭蕉が、自分は何者であるかを、自ら語る記述が『野ざらし紀行』のなかにある(註20)。

  腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。

 近世の60歳といえば、とっくに隠居していい年齢である。この「道心の僧」が、そのような高齢になってもなお、拝みに廻った家々から一紙半銭の施物を貰いうける勧進活動を続けたのは、それが唯一の生活手段になっていて、一所不住の旅をやめることは野ざらしになることを意味した、ということかもしれない。

  俤や姨ひとりなく月のとも
  いさよいもまださらしなの郡かな

ph5 田毎観音。田毎の月で名高い長楽寺門前の四十八枚田に祀られる。 2015.8.1

 ところで、こう詠んだ後、芭蕉一行はさらに足を延ばし、長野の善光寺を参詣している。『更科紀行』の目的は姨捨山の中秋の名月を眺めることだった。文脈からすれば、この「道心の僧」も善光寺まで同行したものと考えられる。そうだとすると、芭蕉の一行は、助けたつもりの乞食坊主に引かれて、図らずも、中秋の名月に身をもって阿弥陀如来の尊さを感得し、さらに引かれて善光寺参りをした、ということにならないだろうか。

 「牛に引かれて善光寺参り」の諺がある。これは信心のない老婆が、干していた布を角に引っかけて走り去る牛を追いかけ、図らずも善光寺参りをしたとされる説話だが、本来の形は「牛に引かれて」ではなく「御師に引かれて」ということだそうである(註21)。

 「道心」といえば、説経節の代表作の1つ『かるかや』が連想される(註22)。善光寺の門前に祀られる親子地蔵の由来をかたる唱導説話である。主人公の刈萱道心は筑前国苅萱の武士で、俗生活に無常を感じ、出家して高野聖となった。その子が石童丸で、父を慕って高野山に上るが、刈萱道心は親子の情愛が信仰の妨げとなると考え、高野山を後にして、信濃国へ向かい、善光寺のかたわらに身をよせ、高野聖から変じて善光寺聖となった。

 史実の高野聖は、近世になると、非事吏などと書かれ賎しめられたり、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」と悪口を言われたりしたというが、刈萱道心は高野聖の理想像であると同時に、善光寺聖の理想像でもあった。彼らは、善光寺の縁起と阿弥陀如来の霊験を語りながら、結縁の名号札を持って諸国を放浪したとも、村々に如来堂や太子堂を持って念仏講を主宰したとも、あるいは善光寺参りの御師や先達をつとめたともいわれる(註23)。

 連載その7では書き漏らしたが、私の郷里の念仏講の経本には、つぎのような御詠歌が載っている。

 ⇒ 以下、長文になりますので、(註)も含め、URLでご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

2021年2月15日

忘れられない若人たち<私の迎えた新人社員が続々定年>と新実慎八さん

 コロナ騒ぎで外出自粛。そこで、ふだん“積読” (つんどく)状態の自宅の書斎を片付けようと、本を並べ替えていたところ、本に挟んであった一枚の写真が出てきました。ラフな格好をした100 人近い若い男女の集合写真でした。よく見ると前列中央に禿げ頭の私らしいのが、笑みを浮かべて写っていました。しばらく考えて、38 年前の1983 年4 月、毎日新聞社の新入社員研修で富士山の5 合目まで登った際、ふもとの合宿所前で記念に撮った写真であることを思い出しました。

 研修が終わって、皆さんはそれぞれ全国の支局に赴任しました。この若人がその後一堂に会したことはないと思います。しかも今年までにみんな定年になったはず。再雇用で社に残って仕事を続けている人もいますが、当時の新入生がこのように揃ったのは二度とありません。まさに記念の写真でした。私は東京本社の編集局次長で新入社員研修の責任者でした。「校長先生」と呼ばれていました。各部のデスク(副部長)さんたちが先生として参加し、数人ずつのグループを受け持ってくれました。

 この研修のあと、地方勤務の支局を決めて、一人ひとり通告しました。皆さんの受け取り方は様々でした。九州出身のK君は 「青森支局」と告げられて、「なんで南の国から本州の北のはずれ、東北の奥へ行くのですか」とむくれていました。慶応ボーイのO君は、北海道支社といわれて 「飛ばされた」としょげていました。私は地方勤務の意味を説明し「飛ばしたり」「追いやったり」するつもりはないことを理解してもらったと思っています。

 K君は論説委員長として活躍し、定年後は専門編集委員として会社に残り、毎週コラムで健筆をふるっています。先日も国会冒頭の菅義偉首相について「物語性を欠く施政方針演説を聞き『もう無理かも』の6文字が頭から離れない」と辛辣でした。O君は中枢の要職、毎日新聞グループホールディングスの内部監査室長兼毎日新聞社社長室(局長職)の勤務を最後に定年退職しました。

 研修のとき大阪出身の女性OさんはK君、O君と同じグループだったと思いますが、私たち先生連中は 「あっちゃん」「あっちゃん」と呼んで人気がありました。神戸支局からスタートして大阪本社管内で幅広く活躍し、経済部長、京都支局長、総合事業局長、大阪本社副代表と、いずれも女性として初めてのポストを連続して見事に勤務し、昨年選択定年で退職しました。あっちゃんが経済部長のとき、東西の経済部長会で時折上京してきました。私もパレスサイドビル (現毎日ビル)の経営に当たっていたので、会議後、両部長と食事しようといいながら、時間の調整ができず実現しなかったのは残念に思っています。

 新人研修主任を終えて私は総務局長に就任し、新入社員採用の責任者として、84、85年度の採用試験に携わりました。このあと広告局長、中部本社代表となって6年間新人採用からは離れていましたが、名古屋から東京に帰ると、今度は労務・総務担当、続いて翌年には経理・総務を合わせて管理部門統括を命じられて、2年続けて採用業務に携わりました。

 ですから前後合計5年度にわたる新人との「縁」があったことになります。この新人とのご縁の前半3年間の皆さんは、すでに定年を迎えたか、続々定年を迎えつつあり、あるいは「いよいよ迫ってきた」と感じている皆さんだと思います。

 何事もないように、こんな言い方をしていますが、実は自分では、私が採用に当たった新人の定年を見届けるなんて、全く想像もしなかったことです。まして毎友会の仲間として歓迎し、また一緒に一杯飲めるなんて、びっくりです。うれしいことですが「爺さん、まだいたの」と言われるのが「落ち」でしょう。

 私は採用する新人を決めるとき、すぐ戦カとして使える人よりも、毎日新聞社の20年後、30年後を託せる人物であり、広くジャーナリズムの発展に寄与してくれる人材を選んだつもりです。明治の初めのころから、志を同じくする人たちがともに全力を投入して新聞を発行し、輝かしいジャーナリズムを発展させてきた毎日新聞社を、さらに成長させてくれる人たちであると信じて、試験委員の皆さんと〝合格"の判断をしたのでした。

 毎日新聞社が1977年に実質倒産し、新人を採用せず、新社を設立して再建を図っていることは、受験した皆さんは百も承知していました。他社に比べて賃金が安く、人員も少ない。「よくわかっています」とも言ってくれました。「でも、自由な雰囲気が好きです」「のびのびと働けると思いました」「本音では、もう少し給料がいいと…」。率直に話をしてくれました。そしてよく働いてくれました。採用に当たったものとして深く感謝しています。

 面接試験に臨んだ皆さんの真剣な表情。研修を受けていたときの熱心さ。夜一日のスケジュールが終わって、一杯飲みながら懇親会をやった時のおおらかさ・楽しさ、40年近い昔なのに、覚えているものですね。

 忘れられない一人の女性がいます。面接のとき、西武百貨店に勤務していて「歌舞伎」を書きたいから記者になりたい、というのです。いまでもはっきり記憶に残っています。「新聞社では自分の好きなことだけを書いているわけにはいきませんよ」「なんでもこなせる記者になる覚悟がなければ」。面接場は試験というよりたしなめるような雰囲気になりました。面接委員の判定は、「頑張り屋で熱意がありそうだ」「女性の歌舞伎記者が育つかも」と、採用が決定しました。彼女はいま、定年後専門編集委員として残り、歌舞伎を書き続けています。つい先日、中村勘三郎追善狂言の記事、読ませていただきました。

 わが子を心配する母親の愛情を強く感じたこんなこともありました。入社が決まって研修中のことでした。女性記者Yさんのお母さんから、娘に内緒で私に会いたいとの電話がありました。Yさんにはばれないように、社内でお目にかかると、「うちの娘は記者になれるのでしょうか。心配で、心配で」。「しっかりしたお嬢さんですよ。いい記者に育てますからご安心ください」とお帰りいただきました。Yさんは経済記者として立派に育ち、雑誌「エコノミスト」の編集長も務め、定年後、先輩記者がやっていた某業界の機関誌編集長を引き継いで活躍しています。過日、旧友会の時、Yさんのいる席でこの母親の話を紹介したら、「いやだわ、そんなことあったんだなんて。全然知らなかった」と、顔を赤くして恥ずかしそうでした。秘密を守っていた方がよかったのですね。反省しています。

 大学生のころアルバイトで編集局の専務補助員を4年もやっていたS君には、お茶を入れてもらったり、鉛筆を削ってもらいました。ワープロもパソコンもない時代でした。原稿はザラ紙1枚に30字ずつ、つまり新聞の2行分の原稿を書くことになっていました。記者は鉛筆で大きい字を書いて、印刷工場でわかりやすいようにと配慮していました。鉛の活字を一本一本拾って文章を組む手間のかかる印刷でした。そのS君が優秀な成績で筆記試験を突破して面接に。手心加えることもなく集中する質問を見事にさばいて合格。3か月後、局長になって職場で会ったら、S君は立派な営業マンの顔でした。

 研究機関に勤務していたK君、新聞社の営業がやりたいと受験。面接で趣味を尋ねたら「フランス料理を作って食べること」。面接委員から次々に質問が出て、30分間もフランス料理談義が続いたでしょうか。あとはなにも聞かず 「時間ですから」と判定を聞くと、全員「合格」。広告で頑張ったK君はこんな調子で営業成績を上げたのでしょうか。

 1年目の受験で僅差で落ち、2年目再挑戦で見事合格のT君。創価大学卒で、どうしても毎日新聞社に入りたかった、と面接で強調していました。なかなかの人物と期待していましたが、創価学会が放っておきませんでした。今や衆院議員として公明党で活躍しています。
毎日新聞社に入社され、ご縁ができた皆さん。定年を迎えられたいま、ぜひ毎友会に入られて、またご一緒に語り合い、論じ合い、呑もうではありませんか。とはいうものの、今年数えで卒寿の私、定年を迎えたばかりの若い皆さんの体力にどこまでついて行けるかわかりませんし、コロナ跋扈の中で老人はおとなしくしていなければならないのは、残念に思います。

(新実 慎八)

※新実慎八さんは、1932年生まれ。56年毎日新聞社入社。取締役中部本社代表、常務取締役管理部門統括、広告担当、パレスサイド・ビルディング(現毎日ビルディング)代表取締役など歴任。一般社団法人海外日系新聞放送協会理事長。

※日本記者クラブ会報2020年12月号「マイBOOKマイPR」から

「年表 移住150年史 邦人・日系人・メディアの足跡」

 新実 慎八(毎日新聞出身)

▼日本人移民史研究に必須の一冊

 幕末から令和まで150年にわたる、北米、南米を中心とした日本人移住の歴史を、年月日順に網羅した年表。移住先各国の実情、日系社会の出来事、邦字新聞の歩みが同時代史として一覧できる。重要語句には詳細な解説、索引をつけ、年表とは別に14カ国・地域の移住略史を加えた。筆者が理事長を務める海外日系新聞放送協会渾身の労作。日系人関係の仕事に半世紀にわたって取り組んできた同協会の岡野護専務理事(当クラブ特別賛助会員)がまとめた。

 風響社 / 5500円 / ISBN 4894892804

2021年2月12日

ロッキード事件から45年 — 岩見隆夫・才木三郎記者の追憶

岩見隆夫さん

 ロッキード社の秘密代理人児玉誉士夫に21億円——。米上院チャーチ委員会(外交委員会多国籍企業小委員会)から持ち込まれたロッキード事件。1976(昭和51)年2月5日だった。それからことしで45年である。

 「児玉を捜せ」。毎日新聞社会部で、最初に等々力の児玉邸へ向かったのは、澁澤重和(当時36歳)と堀一郎(2019年没78歳)だった。澁澤は、この事件の社会部取材班の事務局長として、紙面企画、予定稿の作成、取材費の予算要求まですべてを仕切ることになる。

 「児玉さんはご在宅ですか」

 「いません。地方に行っております」(『毎日新聞ロッキード取材全行動』講談社77年刊)

1976年2月27日朝刊3面

 児玉は、1年半ほど前に東映映画「あゝ決戦航空隊」を見ていて脳血栓で倒れた。神風特攻隊の創始者・大西瀧治郎中将を描いた映画で、児玉は大西中将の自決(敗戦の日)に立ち会っていた。

 以来療養生活を送っていた。「伊豆へ療養に行っている」のガセ情報も流れた。

 児玉邸に児玉番が張り付くのは9日から。「やはり自宅にいた」と最終確認できたのは12日になってで、24日には東京地検・警視庁・東京国税局が合同で外国為替管理法、所得税法違反容疑で家宅捜索が入った。

 当時、私(堤、当時34歳)は、警視庁公安部を担当していた。右翼は公安3課。その流れで児玉担当となった。

 といって児玉の知識はゼロ。ネタ集めをしているうちに、朝刊3面で連載が始まった。

 《病んだ保守 「児玉」の影を追って》

 政治部取材班キャップ岩見隆夫(2014年没78歳)だった。その手早さに感心した。

 政治コラム「近聞遠見」は高く評価された。亡くなったとき、毎日新聞は「評伝」を掲載した。

 児玉は、1945(昭和20)年11月、日本自由党(鳩山一郎総裁)が結党したとき、戦時中の「児玉機関」の財産一部を献金していた。保守党のスポンサーだった。そして政界の裏面で暗躍した。

 連載は22回に及び、取材の苦労話などの記者座談会を付けて、『黒幕・児玉誉士夫』(エール出版社、76年8月刊)として出版された。

 《「児玉と政界」については、私たちはこれまでもさまざまなうわさを小耳にはさんでいた。だが、断片的で、しかも裏舞台での不確かな情報ばかりだった。事件も中心人物として、いざ児玉がクローズアップされてみると、政治の内側から児玉を描く素材をほとんど持ち合わせていないことに気づかさざるを得なかった。

 児玉は一体、戦後の保守政界の隠れた部分がどんな役割を持ち、なにを画策してきたのか。

 「とにかく追え」と私は指示した》

 当時の政治部長江口宏(のち下野新聞社長、2017年没91歳)があとがきに記している。

 岩見については、当時の社会部長牧内節男(現95歳、元スポーツニッポン新聞社長・会長)が「銀座一丁目新聞」追悼録で偲んでいる。

 《彼との付き合いは50年に及ぶ。昭和38年8月、私が東京から大阪本社社会部デスクになった時、彼は入社5年目で、なかなかの書き手であった。大阪には優秀な人材が少なくなかった。東京に比べると多少時間的余裕があり勉強を怠らない記者たちがそれなりに励んでいたからだろうと思った。

 次に一緒に仕事をしたのは私が社会部長として指揮したロッキード事件(昭和51年)であった。彼は政治部のロッキード取材班のキャップであった。時に41歳。このころ政治部と社会部の風通しがあまり良くなかった。気心の知れた彼が来てくれたので万事スムースにいった。岩見君の政治情報は適確であった。ロ事件をつぶそうと「三木おろし」(当時・三木武夫首相)が起きた際、毎日新聞は1週間連続して社会面のトップを使って反対のキャンペンを展開したが、岩見班は協力してくれた。当時「毎日新聞を読めばロッキード事件がよくわかる」と評判になったのもその一因である。

 彼は当然、政治部長、編集局長を歴任しても良い人物であった。その器量を十分持ち合わせていた。何故ならなかったのか、当時の毎日新聞上層部の意向が働いたというほか言いようがない。彼の政治評論は面白かった。文章も上手であった。私は彼の「書き出し」が好きである。うまいと思う》=2014(平成26)年2月1日号。

 もうひとりの特ダネ記者を、「銀座一丁目新聞」から拾いたい。

1976年3月4日夕刊1面=この記事を執筆したのは、司法クラブ担当の高尾義彦記者(当時30歳)

 《毎日新聞がロッキード事件報道で大きく波に乗るきっかけを作ったのは『児玉誉士夫臨床尋問』の記事であった。才木三郎記者の情報が元であった。

 昭和51年3月4日の夕刊一面トップにでかでかと掲載された。白木デスクが「特ダネは派手な方が良い」とものすごく大きい活字を要求したという。

 夕刊には「10億円の脱税容疑・東京地検事件後初めて」の見出しが躍った。他社は東京地検に取材したが全面否定された。他社の夕刊は児玉の取り調べを一行も報道しなかった。他社が確認をとれたのは5日の夜になってからであった。

 ロッキード事件は新聞記者の良心と正義感をゆすぶった。それなりに成果を上げることが出来た。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社昭和52年2月20日刊)が疑獄事件取材の教科書となっているのを今は亡き白木東洋さん(2012年没80歳)とともに喜びたい》=2012(平成24)年12月20日号。

才木三郎さん
                                         

 才木は、1967(昭和42)年入社。ロッキード事件が発覚した時は、司法クラブから遊軍記者になっていた。その取材力と童顔から「突貫坊や」と呼ばれた。押しの強い記者だった。

 児玉取材班に投入され、伊豆の温泉旅館で児玉を捜した。その後、児玉の主治医に密着マーク。主治医宅には他社も夜討ち・朝駆けの取材合戦だったが、正確な情報を社会部取材班にあげた。

 何故か78(昭和53)年12月に突然退職。甲府の岡島デパートに再就職して取締役にまでなったが、早世した。

 ロッキード事件は、「核心はP3C」といわれたが、それが解明されないまま終わった。

 児玉は1984(昭和59)年没、72歳だった。
=敬称略

(堤  哲)

2021年2月9日

将棋の駒の書体「無劍」は大毎取締役の号だった ― 連載小説「無月の譜」から

 毎日新聞朝刊の連載小説、松浦寿輝作「無月の譜」66回(2021年2月9日朝刊)に将棋の駒の書体についてのやりとりに、こうある。

 飛車の裏は龍王、角の裏は龍馬であるが、竜介が手にしている駒の「龍王」「龍馬」の字は、隷書よりももっと象形文字に近い、絵とか図のような感じがする記号だった。

 ――その「龍王」「龍馬」は、隷書体よりさらにいにしえに遡(さかのぼ)る、篆書(てんしょ)体の字なんだよ。歩の裏の「と金」も面白い字だろう。字というのか、記号というのか。人が武器を持って手を広げているみたいに見えるだろ。この無劍(むけん)という書体はたしか、われわれと同郷の、信州出身の政治家の手になる書から作られた、というんじゃなかったかな。

 竜介が後になって調べてみたところでは、「無劍」は、長野県松本市生まれの政治家・実業家である渡辺千冬(一八七六-一九四〇)の、書家としての号なのだった。隷書が得意な書家だったらしい。衆議院議員、貴族院議員となり、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣で司法大臣を務めた。大阪毎日新聞社取締役、枢密顧問官といった重職にも就いている。理論物理学者の渡辺慧(さとし)は、その渡辺千冬の息子なのだという。

 渡辺千冬は、毎日新聞の社史に1932.12.21~39.9.1取締役とある(『「毎日」の3世紀』)。どういう経緯で取締役に就任したかは記述がない。

 ネットで調べると、1908(明治41)年衆院選で当選、政友会に入党。19(大正8)年養父国武が没し、子爵を襲爵。翌年、貴族院議員に選ばれ再び政界へ。29(昭和4)年浜口雄幸の民政党内閣で司法大臣に就任。36(昭和11)年、現在の国会議事堂が完成したとき、貴族院を代表して記念演説をした、などとある。

 その前段に《(東京帝国大学)卒業後、フランスへ留学し、帰国後、電報新聞社主筆》とあった。

 「電報新聞」は、千冬の養父渡辺国武が1903(明治36)年11月23日に創刊。3年後に大阪毎日新聞社に買収され、題字が「毎日電報」と変わっている。

 「電報新聞」創刊時、千冬はフランス留学中だったといわれ、「主筆」は一時期だったと思われる。

 「毎日電報」は、大阪毎日新聞の東京進出→全国紙展開の足掛かりになったもので、さらに1911(明治44)年3月1日付「東京日日新聞」は、「毎日電報」合同とうたった。

 「大阪毎日新聞」が「東京日日新聞」を吸収合併したのだ。「毎日新聞」に題字を統一したのは、1943(昭和18)年1月1日からだった。

 以下は、『慶応義塾出身名流列伝』(1909年6月刊)にある渡辺千冬の紹介である。

(堤  哲)

2021年2月6日

「たまげた話」木脇洋さんがいぶかしむ79年前の身内の戦死

 3月1日になると、思い出す。私の身内のKさんの命日なのだ。昭和17年3月1日、バタビア沖海戦で戦死したことになっている。享年30。志願あるいは赤札で徴兵されたわけではなく、サイゴンで今村均中将にオランダ語通訳としてスカウトされたらしい。将兵6万を53隻の大船団に乗せてのジャバ(インドネシア)敵前上陸作戦。午前1時過ぎの暗闇、米蘭豪連合軍の攻撃を受けながらも上陸に成功。ただ司令官の今村中将の龍城丸ほか4隻の輸送船が魚雷で沈没、沈座した。阿部知二、大宅壮一ら従軍作家のペン部隊と一緒の佐倉丸にいたKさんら百人が戦死した。

 その詳細を知りたくてこの作家たちの作品を読み漁った。Kさんに言及したものはなかったが、大木淳夫の作品に「東日の伊東修カメラマンが亡くなった」とあるのを見つけた。魚雷が命中して作家らは先を争って船底から脱出。仲間の頭を踏みつけて逃げ出す者もいたらしい。本社情報調査部に調べてもらった。その年の8月29日付紙面に伊東さん社葬の記事。ならば社報はもっと詳しかろうと、重ねてお願い。3月27日の社報に同行の片桐幸記者らが詳報を熱く書いていた。本社は7人の取材団を組んでいた。詳しくは省略。

1942年9月30日付社報。京都で行われた社葬の様子を掲載

 さて、その魚雷攻撃。実は日本軍の魚雷だったというネット記事が最近増えている。

 あの栗田中将の「最上」が発射したと。1984年刊の角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」には敵魚雷で海に投げ出されたとして書かれている。いつ変わったのか。その根拠は。国会図書館で出典を調べたいが、コロナ騒ぎで実現できていない。昨年大晦日の毎日新聞本紙に「海の戦没遺骨も収容」に政府が取り組むとあった。佐倉丸まで手が回るか、望み薄だろうな。

(木脇 洋)

 木脇さんは1965年入社。山口支局、西部報道部、那覇支局、福岡総局、山口支局、長崎支局勤務。西部代表室を経て、1995年社長室で退社。その後、スポーツニッポン新聞社、スポニチサービス(現プライム)に在籍。

2021年1月27日

夏の東京五輪・パラリンピックの行方は? 60年ローマ五輪出場の齊藤 修さん(82)の懸念

 菅首相は1月4日の年頭記者会見で、コロナウイルス対策としての緊急事態宣言の準備を発表すると同時に、夏の東京オリンピック・パラリンピックの開催にも触れ、「世界中に希望と勇気をお届けするこの大会を実現する決意のもと、準備を進める」と決意表明した。続いて13日に11都府県の第2次緊急事態宣言を発令。代表に内定している選手や大会関係者たちは、これを知ってどう感じただろうか。

 「オリンピックは遠のいた」と感じた人も多かったに違いない。

 20年4~5月の第1次宣言下では、ナショナルトレーニングセンター(NTC)の利用使用が中止となり、その後予定されていた各競技の国内、国際大会が次々に中止に追い込まれた。菅首相は「必ず1か月で改善を」と強く訴えているが、もし緊急事態が4月ごろまでずれ込んだら、どうなるだろう。選手たちの練習環境や実戦機会は失われ、厳しい状況になることは必至。外国選手代の来日も大いに懸念されている。

ボート競技の会場となった戸田漕艇場。聖火台も設置

 私が取材した64年の東京オリンピックは健康的で国民も期待を寄せる平和な大会だった。勿論、コロナウイルスなどの脅威はなかったし、大会開催に特に大きな懸念材料は見当たらなかった。

 私はオリンピック前年の63年に毎日新聞社に入社した。入社試験では中央大学の大講堂にぎっしり詰った受験生を見渡して、とても合格はおぼつかないと感じたが、結果は入社が許された。受験願書の備考欄に「60年ローマオリンピック・ボート(フォア舵手)代表」と記しておいたのが、大いに効力を発揮してくれたと今でも信じている。試験の成績はともかく翌年のオリンピック要員として採っておいても……と採用されたに違いない。

 誰に言われたか憶えてないが、「君はわが社で3人目のオリンピック選手だ」と。前の2人は大阪運動部の葉室鉄夫さん、そして東京運動部の岡野栄太郎さん。葉室さんといえばベルリンオリンピック・平泳ぎ200mの金メダリスト、岡野さんもアジア大会陸上中距離の金メダリストで、日本記録保持者だった。

 我が国のボート競技は、オリンピックには1928年のアムステルダムに初参加、以後エイト1種目を派遣してきた。60年は次回64年が自国開催なので小艇も経験させようと初めて舵付きフォアの参加を決めた。いわばおまけの参加だった。結果は予選、敗者復活戦とも惨敗。多分、当時の紙面では「予選敗退」の1行で片づけられたに違いない。個人の金メダリストたちと、全く実績のない選手とを、単に五輪経験者の枠で見られるのは面映ゆかった。

 毎日新聞の64年東京オリンピック取材班は、10月に入って4本社から約100人が召集され、私も赴任先の仙台支局から駆け付けた。取材、機材など関係者の結団式が行われ、それぞれ担当する競技が割り振られ、私は埼玉・戸田で行われるボートだけとなった。担当記者には茶色の厚手のブレザー上着が用意されていて驚いた。ブレザー代は後に給料引きでしっかり徴収された。

 カメラ2人と揃いのブレザーでチームを組み取材にあたったが、ボート競技は日程が早く、大会開始1週間後にはお役御免となった。日本勢は各種目全く振るわず、メダルどころか入賞も果たせなかったが、入社2年目で選評を書いたのは我ながら図々しいと思った。「支局からの出張者は用が済んだら帰れ」との指示で、せっかくのオリンピックなのにボート以外は何も見ずに仙台に戻り、支局のテレビで東洋の魔女たちがソ連を破るのを見て感動したのを憶えている。

東京オリンッピク取材スタッフ名簿。コピーは元大阪運動部、長岡民男さんが保存。長岡さんは陸上競技担当として参加

 その後、95年に定年退職するまで西部・報道部、東京・整理本部、同学芸部、論説室などを回ったが、いずれの職場もオリンピックとは無縁のところばかり。運動部には自分から志望したこともなかったし、お呼びもかからなかった。従って私とオリンピックの関りは前回の東京オリンピック以外は皆無である。80歳を超した今から思えば、何らかの形でもう少し五輪に関わっていてもよかったかとも思う。

 さて、コロナは収まる気配は見せず、ますます猛威を振るっている。オリンピックはどうなるのだろう。IOCはじめ政府も組織委、JOC、東京都も自ら進んで「オリンピックは辞めた」とは言い出せない事情があるのだろう。

 今のスポーツはイベント、強化など何をやるにも金がかかる。どの競技団体もサポーターと称する企業とは切っても切れない関係になってしまっている。IOCだって世界の有力企業との契約でがんじがらめになっているに違いない。

 東大ボート部の先輩で、多くの証言から昭和史の隙間を埋め、うそを暴いたジャーナリストの半藤一利さんが逝った。52年のヘルシンキオリンピックのエイト予選決勝で、慶応大クルーと競い50cm差で敗れ、惜しくも日本代表を逃した漕手だった。後年よく悔しがっていた。半藤さんならコロナ禍の五輪開催について「世界中どこの国も予選も満足にできないんだろ。準備も十分できない選手しか集まらないオリンピックなんか辞めちゃえばいいんだよ」と言いそうな気がするのだが。

(元論説室、齊藤 修)

※オリンピック出場経験者で毎日新聞に入社したアスリートには、葉室鉄夫さん、岡野栄太郎さんのほか、戦前の大島鎌吉さん、人見絹枝さんや1932年ロサンぜルス五輪・三段跳びで金メダルの南部忠平さん(後に大阪毎日新聞運動部長)、1936年ベルリンオリンピック5000メートルと1万メートルで4位の村社講平さん(大阪運動部長、取締役)らがいます。

《ローマ五輪日本選手団》ボート
エイト監督:堀内浩太郎
フォア監督:杉田美昭
斎裕教(東北大)・斎藤直(東北大)・斎藤宏(東北大)・佐藤哲夫(東北大)・田崎洋佑(東北大)・田村滋美(東北大)・千葉建郎(東北大)・広瀬鉄蔵(東北大)・三沢博之(東北大)
エイト:敗者復活戦敗退(6分24秒41)
大久保尚武(東大)・福田紘史(東大)・水木初彦(東大)・村井俊治(東大)・斎藤修(東大)
かじ付きフォア:敗者復活戦敗退(7分10秒50)

2021年1月25日

「諏訪メモ」スクープの紙面—倉嶋康さんのFacebookから

1957(昭和32)年6月29日付毎日新聞福島版

 2021年1月24日付け倉嶋康さん(88歳)のFacebook。連載している「記者クラブ」の第66回になって、やっと「諏訪メモ」のスクープ紙面が登場した。

 この報道をきっかけに、死刑判決を受け上告中の佐藤一被告(当時35歳)のアリバイが立証され、最高裁で無罪判決が言い渡される。 山本祐司著『毎日新聞社会部』の出版記念パーティーで、壇上に呼び上げられた佐藤さんは、「命の恩人」倉嶋さんと固い握手をして喜び合っていたのを思い出す。

 「サンデー毎日」に連載エッセーを書いている中野翠さんの『コラムニストになりたかった』(新潮社刊)を読んでいて、佐藤さんの夫人が三宅菊子さんだったことを知った。

 三宅菊子さんは、洋画家阿部金剛と作家三宅艶子の娘。《レッキとした「東京山の手のお嬢様」なのだが、変わり者のお嬢様だった。10代の頃は同じ山の手育ちのお坊ちゃんたちと乗馬やパーティーなどで遊んでいたらしいが、やがて新聞に取材記事を書くようになり、作家・広津和郎のおともをして松川事件を取材しに行き、被告の一人だった佐藤一さん(のちに無罪)と出会い、1965年に結婚。当時菊子さんは27歳、佐藤さんは44歳だった》。

 《佐藤さんは下山事件の解明に打ち込んでいて、それは、この76年に分厚い一冊の本、『下山事件全研究』(時事通信社)となって出版された。私も買って読ませてもらったが、まさに渾身の一冊だった。今では下山事件関連書の「決定版」と言われている。菊子さんはほんとうに嬉しそうだった》

 《最愛の佐藤一さんが他界してから3年後、2012年、菊子さんは亡くなった。74歳だった》

 中野翠さんは、1985(昭和60)年7月から始まった「サンデー毎日」連載のことも書いている。執筆を依頼したのは「サンデー毎日」のデスクをしていた元社会部のナンパ記者・市倉浩二郎(94年没、53歳)である。

 これはすでにこの毎友会HP「随筆欄」で紹介しているが、中野さんと市倉の父親は、読売新聞横浜支局で記者をしていた「奇縁」も明らかにしている。

 《父にIさんの話をしたら「エーッ、I君の息子さんが!」とうれしそうにしていた。ちょっと親孝行をした気分》=「サンデー毎日」2016年4月17日号「満月雑記帳」1095回。

(堤  哲)

2021年1月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その8

この連載は毎月14日に更新されます。

平嶋彰彦のエッセイ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 その8 インドネシアの世継物語
文・写真 平嶋彰彦

 2009年8月31日、定年後の再雇用の3年が終わり、毎日新聞社を退職した。6月に刊行した『宮本常一が撮った昭和の情景』は、思ったより好評で、ちょうど4刷目の配本をすませたところだった。退職は会社員としての死を意味する。年をとれば、やがて1人前の仕事は難しくなる。引退してもらい、世代交代をする必要がある。

 年老いた親の世話で右往左往する一方、気がついてみれば、自分自身の老後が眼前の事実になりつつあった。否も応なく、先人たちが老いや死の問題をどのように向き合ってきたか、そして自分自身はどう向き合えばいいかを考えるようになった。

 そんな時期に、長年の同志ともいうべき友人に誘われ「トラジャ地方の自然と文化を訪ねる旅」に参加した(註1)。2010年3月のことである。トラジャは、インドネシア中央部に位置するスラウェシ島の山岳地帯にある。地名の原義は山の人だという。起伏のある斜面に広がる棚田は、日本の田園風景に似ていて、南緯2度で赤道直下だが、熱帯地方に特有な2期作ではなく、雨期と乾期の周期に合わせた1期作の稲作農耕が行われている(註2)。

 スラウェシ島はセレベス島の現在名である。私の子供ころ、郷里の南房総ではサトイモをセレベスとも呼んでいた。サトイモの原産地は熱帯アジアで、日本に渡来したのもかなり古い時代のことだという。セレベスはサトイモの1品種のことだが、イモが大きく収穫量も多いことから、サトイモの別名になったらしい。

 7泊8日の旅行の6日目、ボリ村というところで葬儀があるというので、その日の予定を変更して見に行くことになった。というのも、トラジャの文化は死の文化ともいわれ、死者の葬送儀礼は国際的なインドネシア観光資源の目玉の1つにあげられていたからである。

 死者はネ・シモン(シモンの祖父の意)という富裕な階層の人物で、5人の子どもと20人の孫がいた。正確な年齢は不明だが、たぶん100歳ぐらいだろうとのこと。死亡したのは葬式の1ヶ月余り以前で、遺体は家族の生活するトンコナンと呼ばれる高床式で舟型屋根の住居のなかに、葬儀までずっと置かれていた。トラジャでは死去から葬儀までの期間は1ヶ月どころか、場合によっては1年とか2年になることもあるという(註3)。

 わが国では現在、人が死ねば速やかに通夜と告別式をすませ埋葬してしまおうとする。だが、『古事記』や『日本書紀』などを読むと、古代には殯(もがり)といって、喪屋を設けて、埋葬までの間、死体をそこに安置する習わしがあり、その期間中は生死の境が定まらないと考えられたとのことである(註4)。それにたいしてトラジャでは現在でも、葬式のすむまでは、死者は死者として扱われるのではなく、熱い人と呼ばれ、病人に見立てられる。つまり死者の死を社会的に確認するのが葬式だというのである(註5)。

 トラジャの葬送儀礼でとりわけ異彩を放つのは水牛の供儀である。水牛は聖なる動物とされていて、その霊魂は死者の霊魂を守護する従者となり、「牛にひかれて善光寺参り」の諺ではないが、あの世へ無事に導いてくれるという信仰がある。供儀に捧げた水牛の角は舟型住居の正面に飾られるのだが、水牛の頭数は多ければ多いほど功徳も大きく、その数によって家の格式も評価されるという(ph1註6)。

ph1 死者ネ・シモンの舟型住居に飾られた水牛の角。ボリ村。2009.3.17

 葬儀が行われたのは死者の自宅屋敷で、舟形家屋と籾蔵などがならび、弔問客や観光客のための桟敷席も造られていた。また庭の一画に櫓を組んで仮屋を設え、そのなかに死者の棺を納めていた。裏庭をのぞくと、これから供儀に捧げられる水牛が飼い主に引かれて待機していた。ガイドの話によると、昨日は水牛3頭が供儀に捧げられたという。桟敷席に案内され、しばらくすると、庭に水牛6頭が引き出され、前脚を荒縄で縛られて杭に繋がれた。

 庭の反対側で血しぶきが飛ぶのが見えたか思うと、水牛がのたうちまわって暴れ、すぐに動かなくなった。水牛の供儀を始めたのである。危険だから桟敷から見るように、とガイドに言われた。大人しくしていたら、ろくな写真が撮れない。かまわず庭に下りた(ph2)。

ph2 水牛の供儀。死者の霊は、殺害した水牛の霊に守られ、あの世に導かれる。ボリ村。2009.3.17

 水牛は、小刀で喉元をえぐるように、一振りで切り裂いて殺す。役目の人は、1頭に対しそれぞれ1人。Tシャツにジーンズといったラフな格好だが、スカーフのような黒い領巾を首や腰に巻き、足元は裸足にしていた。殺した水牛は、その場で直ちに皮を剥ぎ、前脚部・後脚大腿部・背中などの部位に解体していく。皮剥と解体は分業化され、それぞれ2人1組で、この人たちは裸足でなく、サンダルや靴を履いていた(ph3)。

ph3 殺された水牛は、その場で解体する。正面奥は死者を安置した仮屋。左は主屋で、水牛の角や頭部を模した像を飾る。ボリ村。

 解体された肉は、死んだ本人・水牛を供出した近親者・葬式の運営に携わった役職者・水牛の殺害と解体を務めた人たち・村の有力者や一般の村民などに分配する。どの部位の肉をだれにどれだけ分けるかは、それぞれの親族が供出した水牛の頭数・死者との社会的な関係の深さ・葬儀における役目の重要度などにより決められるのだという(註7)。肉の配分をしている間に屋敷のなかを1回りすると、水牛の殺害と解体を務めた人たちが桟敷席の裏側に集まって、報酬にもらった肉を配分していた(ph4)。

ph4 報酬の肉を分ける水牛の殺害と解体に携わった人たち。ボリ村。2009.3.17

 死者の残した水田の相続は、葬儀に供出した水牛の頭数により配分が決められ、水牛を供出しないことは遺産相続の放棄とみなされるともいう。水牛の供出と肉の分配という葬送儀礼の制度は、遺産相続の制度と密接に結びついていることになる(註8)。

 死は永遠に帰宅しない留守のようなものである。死ねば空白が生じる。死者が所有した財産や生前の社会的な役割は、そのままにしておけない。相続の手続きを怠れば、残された家族や死者の属した世界は、大なり小なり不安定な状態に置かれる。水牛の供儀は、それを回避する安全装置であり、損耗した世界の再生装置ともいえる。

 死は永遠に帰宅しない留守のようなものである。死ねば空白が生じる。死者が所有した財産や生前の社会的な役割は、そのままにしておけない。相続の手続きを怠れば、残された家族や死者の属した世界は、大なり小なり不安定な状態に置かれる。水牛の供儀は、それを回避する安全装置であり、損耗した世界の再生装置ともいえる。

ph5 キリスト教プロテスタント派の女性牧師の説教。死者のネ・シモンはその信者だった。左奥に喪主の女性がいる。村。2009.3.17

 私の父親が亡くなったのは2006年になるが、親戚の人たちと事前に葬儀の相談をした。連載その7で書いたように、念仏講の死生観では、阿弥陀や釈迦など十三仏が来迎して、死者の霊をあの世に引導してくれることになっている。仏式の葬儀だから、供物に鳥獣や魚の肉が除外されるのは言うまでもない。

 相談の席で重要議題になった一つは、供物というよりも祭壇の飾りだった。具体的には白・金・銀の蓮華の造花・灯籠・光輪・くす玉・缶詰・生花など南房総に特有な装飾品のことだが、これを誰に出してもらうかであった。白蓮華は喪主と決まっているが、そのほかの飾りは喪主と親戚中で話し合って、頼む相手を決めることになっている。たいていは従来通りということになるのだが、とはいっても、人選にあたっては、喪主や葬家とのこれまでとこれからの関係の重要度が改めて判断されるのである。

 香典にもそれと似たところがある。どこの家でも詳細に記録を残していて、その金額の変化は家と家の関係性の変化とみなされる。南房総の郷里とインドネシアのトラジャでは、死生観や葬祭の様式には、天と地ほどの違いがある。だからといって、共通点がないわけでもない。葬送儀礼は死の確認であると同時に、世代交代の舞台になっているのである。

 郷里では、これも前回の連載で書いたように、告別式がすむと野辺送りをする。このときは家から寺まで列を組んで行進し、寺に着くと、境内を時計回りに3度廻る。そうすることで、死者の霊の目をくらませ、あの世とこの世の境を分からなくさせるのだという。また、葬式のなかには引導をわたす場面がある。死者に死の事実を認識させると同時に、この世への執着を諦めさせ、あの世への旅立ちを決心させるのだが、地方によっては、そのときに鍬を投げつけることもある、ということである(註9)。

 これを彷彿させるような場面が、やはりトラジャでも見られた。水牛の供儀がすむと野辺送りになる。死者の棺を櫓から降ろして、親族が最後の別れをする。棺の周りを参列者が輪になってダンスをするなか、棺は輿の上に乗せられる(ph6)。

ph6 櫓の仮屋から下された棺。周りでは参列者が輪になって踊る。ボリ村。2009.3.17

 10人余りの若者がこれを担ぎ、上下左右に激しく揺さぶりながら庭を練り歩いた後、いよいよ家の外に出ようとするそのとき、とつぜん担いでいる何人かが、棺をもとへ押し戻そうとする。あの世へ旅立たせるかこの世に引き返さすかを、担ぎ手同志で争っているのであろう。それを2度か3度か繰り返したあと、ようやく墓地に向かったのである(ph7)。詳しい信仰的背景は分からないが、死者の霊はこの世への執着を諦め、あの世への旅立ちを決心したものとみられる。

ph7 野辺送り。屋敷を出る間際、棺の担ぎ手が、死者をあの世に送るか、この世に留まらせるか2つに分かれ争う。ボリ村。2009.3.17

 墓地は集落のはずれの水田のなかにあった。トラジャの伝統的な埋葬の方法は、岩山に洞窟を穿ち、そこに棺を納めるいわゆる風葬なのだが、ここでは鉄筋コンクリート造りの建物を設けて、そのなかに安置するという形をとっていた。

 野辺送りには、どういうわけか、喪主や弔問者の姿がなかった。意外だったのは、墓地に10数人もの子供たちが待ちかまえ、納棺のようすを笑顔で見守っていたことである。そういえば、棺を担ぐ若者たちも、野辺送りの初めから終わりまで、笑顔を絶やさなかった。わが国の葬送儀礼では、何かと言うと、しめやかさばかりを強調する傾向がある。そうした伝統になれた感覚からすると、トラジャの葬儀は実にあっけらかんとしていて、意外というよりも不思議な気がしてならなかった。

 納棺のすんだのを見とどけ、帰ろうとしてふりかえると、墓所の施設の屋根に十字架が飾られているのが見えた(ph8)。死者のネ・シモンはキリスト教プロテスタント派の信者であり、式次第のなかには女性牧師の説教があった(ph5)。かれの死者儀礼は、19世紀にオランダの植民地政策に伴って浸透したキリスト教とトラジャの伝統宗教であるアレック・ト・ドロ(祖先のやり方の意)との混交した形で執り行われたのである。

ph8 野辺送り。棺を納めた墓地の建物に十字架が飾られている。ボリ村。2009.3.17

(註1)友人は前田速夫さんのこと。文芸誌『新潮』の元編集長で、私の加わっていた「白山の会」(庶民信仰の研究グループ)の同人。このインドネシアへの旅行を企画したのは桃山学院大学の沖浦和光名誉教授で、関西と関東から20人が参加した。沖浦先生は旅行直前に体調を崩し、同大学の寺木伸明教授が団長を務めた。
(註2)「トラジャ地方の風土・歴史・文化」(沖浦和光、「トラジャ地方の自然と文化を訪ねる旅」パンフレット所収、2010)
(註3)『死の人類学』第五章「トラジャにおける生と死」(内堀基光・山下晋司、講談社学術文庫、2006)
(註4)「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集 第3巻』所収、中公文庫、1975)
(註5)前掲、『死の人類学』第五章「トラジャにおける生と死」
(註6)前掲、「トラジャ地方の風土・歴史・文化」
(註7)前掲、『死の人類学』第五章「トラジャにおける死の解決」
(註8)同上
(註9)『喪と供養』Ⅱ葬具論 七「鍬」(五来重、東方出版、1992)

2021年1月3日

4本足のニワトリ ― 元気な倉嶋康さん

 社会部の先輩・倉嶋康さんが元気だ。今週中に米寿を迎えるが、Facebookに精力的に書き続けている。

 〖新年のごあいさつ〗

 あけまして おめでとう ございます

 激しく揺れる世の中ですが、せめてお正月だけは心安らかに、そして豊かに過ごしたいと思っています。私も今月7日でようやく88歳になります。さまざまなことがありましたが、人の幸せとはそれぞれの心の立脚点によって違うものだと思っています。

 私は小さな幸せで満足する方です。そしてここまで来れば後方確認はしないで前方注視のみでゴールインする心算です。

 今年も昨年からのフェイスブック(FB)の連載2本を続けます(注:奇数日は「走れ!! 五輪へ」、偶数日は「記者クラブ」)。続いての企画も立てていますので、どうぞよろしくお付き合い頂きたく存じます。皆様もどうかお健やかに。そしてそれぞれの思いの中の幸せをつかまれますように。

 倉嶋さんは、暮れに「4本足のニワトリ」をアップした。

 《もう40年余り前になりますが、当時いた新聞社で同僚が「いまどきの若者はニワトリが4本足だと思っている」と発言したので周りにいた記者たちは「まさか」とか「そりゃあ飛ばしすぎだぜ」と笑いました。言い出した記者は憤然として「じゃあ、待ってろ」と姿を消しました。

 数日後、意気揚々と出社した彼は、おもむろに皆の前で大きな画用紙を広げました。のぞきこんだ一同、思わず息を吞みました。立派なニワトリが4本の足でしっかり大地を踏みしめているではありませんか》

 その絵が――。

 倉嶋さんの文章にある同僚が私(堤)なんです。1974(昭和49)年5月、大阪社会部から東京社会部に戻って遊軍・夕刊3面担当になった。キャップが高井磊壮さん(1990年没、59歳)、サブキャップが倉嶋康さん、兵隊が1年先輩の寺光忠男さんと私だった。

 夕刊3面については、整理マンの鬼才・諸岡達一さんが「ゆうLUCKペン」第42集(2020年発行)にスタート時のことを書いている。夕刊改革の目玉として誕生、1971(昭和46)年3月1日の初日は、国鉄鶴見線の12駅が無人駅となって「駅員76人が”消えた”」。

 社会部の名文記者・杉山康之助さん(1979年没、42歳)がルポを書き、諸さんがレイアウトを担当した。

 「4本足のニワトリ」の話は、秋田版から拾った。「都会ならあり得るかも知れないが、秋田で?」と疑問の声が出て、即現地へ出張。秋田大学の学生が画いた「4本足のニワトリ」の何枚かを先生から借りてきた。

 かなりの反響があった。

 夕刊3面誕生からことしで半世紀になるわけだ。

(堤  哲)

2020年12月15日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その7

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
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その7 祖霊信仰と念仏講の解体
文・写真 平嶋彰彦

 2006年8月24日、この日は私の定年式だった。といっても、そのさき3年間の再雇用が決まっていて、それも引続き同じ職場で働くことになっていた。一方では、それまでとそれからの時間には大きな断絶があることも確かだった。なんとなく落ちつかない気持ちのまま、定年式と退職に伴う手続きをすますと、習志野の自宅へ飛んで帰った。そして、取るものもとりあえず、妻と一緒に実家のある館山へ車で向かった。

 この日は南房総では地蔵盆にあたっていた。私の家では、この年の3月に父親が亡くなり、8月1日から31日までの1ヶ月間に新盆の行事がいくつかあり、地蔵盆の日には、旧西岬村の6箇所にある地蔵さまを廻りお参りする習わしがあった。

 実家のある集落には、そのころまではまだ念仏講が残っていた。その法要で唱える念仏の1つに「六地蔵」がある。現在残されている経本は、もとの形が崩れているらしく、意味のとれないところもあるが、この地蔵廻りの趣旨をそれとなく感じとることができる。

 一、南無仏の大慈大悲の誓いにて、弥陀の浄土へ守り給へよ(小沼)
 二、無始よりの造りし罪も其の訳(まま)に、法の功徳で照らせ給へよ(根本)
 三、地獄・餓鬼・畜生・修羅や、人間の快楽を当へ給えよ(伊戸)
 四、倉を満ち一切衆生末の世の願いままに授け給えよ(川名)
 五、菩提心発せば到る彼の岸へ、唯一筋に送り給えよ(洲崎)
 六、さぞさぞや衆羅で迷いし六道を、早く静めて得させ給ゑよ(波左間)
 七、極楽の辻にたたれし地蔵尊、導き給へ弥陀の浄土へ

 上記の旧西岬村の西岬というのは、館山市の南部から西側に突き出た岬のことで、東京湾の入口に位置する海上交通の要衝である。館山市との合併は1954年、私が小学校2年のときだった。実家があるのは「六地蔵」で最初の札所になっている小沼という集落だが、時間がなかったので、6番目の波左間から車を使って逆廻りにお参りすることにした。

 波左間に着いたときは、すでに午後4時をまわっていた。この日は地蔵盆の幡が立つから、場所はすぐ分かると聞いていたが、すでに片づけてしまったらしく、それらしきものは見あたらない。漁港近くの雑貨屋で尋ねてみると、70代のおばさんが出てきて、場所を教えてくれたついでに、こんな話を聞かせてくれた。

 新盆の家はもちろんだが、そうでなくとも、むかしはこの日に地蔵廻りをする人が多かった。自分が若いときには隣近所の女たちと誘い合って、念仏に唄われる6箇所だけでなく、坂田や見物などにも札所があり、そこにもお参りをした。なにしろ暑い盛りのことだから、涼しいうちにということで、日の出前から歩きはじめた。波左間から洲崎を廻って小沼までは海岸沿いで、上り下りが少ないから、まだましだった。しかし、そこから先は急な山道になっていて、切通しの先のトンネルを越えて、最後の東漸寺(見物)に着くころには、暑さと疲れで身体がへとへとになった。地蔵廻りを終えると、近くの雑貨屋に立ち寄り、一息つくのだが、お茶を飲みながら余所の人たちとおしゃべりするのが楽しかった、という。

 実家のある小沼では、この日に堂番が3人出て、朝5時から地蔵堂を掃き清め、お茶とお菓子を用意するなどして、地蔵廻りの参詣客を待ち受けた。午後2時ごろになると、集落の女たちが三々五々お堂に集まってきて、念仏を唱えるのが習わしになっていた。

 家に帰るころには薄暗くなっていた。母は窓を閉め切ったまま扇風機もつけず、テレビを見ていた。庭の盆灯籠と仏壇の前の盆棚に火を灯し、墓参りに向かった。1週間前に供えた花は見事に枯れていた。飾る花のないまま、白木の灯籠と切子提灯に火を灯し、線香をあげた。お堂は鍵がかけられ、本尊の地蔵菩薩は拝めなかった。地蔵廻り最後に、切子提灯の1つを焼却炉で焼いた。むかしは墓に飾ったままにしたが、雨風にさらされ汚いので、そうすることになった。

 私の郷里では念仏講が葬式や供養の中心的な役割を担ってきた。20軒足らずの集落だが、十七日講を名乗る講が2つ、二十日講を名乗る講が1つ、都合3つの念仏講があった。月に1度の寄合講で、講名は開催日にちなむ。家が単位だが、実態は女だけの女人講である。在家の自主管理で運営され、菩提寺は曹洞宗だが、寺の関与はほとんどない。私の家が入っていたのは十七日講で、8軒で構成され、月々の会場は8軒で持ち回りにしていた。

 ふだんの念仏講は夕食後の夜7時とか8時から催された。法要を営むのは仏壇のある部屋で、西国三十三箇所観音霊場の掛け軸が懸けられた。最初は百万遍の数珠繰りで、輪になって座り、大小合わせ108個の数珠を揉むようにして順繰りに回していく。

ph1 実家で催された念仏講。百万遍の数珠繰り。館山市小沼。2011年10月17日。

 終わると、仏壇に向かって座り直し、念仏の読誦となる。先達と呼ばれる2人が鉦をたたいて音頭をとり、全員で念仏を唱和する。読経の順番は、「般若心経」、「香偈」、「帰依三宝」、「六地蔵」、「御詠歌」、「回向」で、時間は30分から40分。近年には経本を見ながら念仏を唱えていたが、ひと昔前までは、口から口へ言い伝えるもので、私の母なども、意味は分からないまま、念仏の経文はすべて暗記していた。

ph2 実家で催された念仏講。念仏の読誦。館山市小沼。2011年10月17日。

 法要が終わると別の部屋に移り、お茶とお菓子が出て、懇親目的の雑談会になった。農事に関するいろいろな相談とか、近隣の市町村で起きた出来事や、集落のなかの噂話など、話題はとりとめがない。情報交換の場であり、老若同席の教育の場でもある。女による女のための学校だったとも言える。

 通夜のときの念仏は、「六地蔵」の代わりに「十三仏」を唱える。これは十三仏の来迎を仰いで、極楽浄土へ引導してもらうのだという(註)。この念仏は午後8時、10時、12時と3回。戦前には午前2時に4回目もあったらしい。文字通り夜を通しての法要だったのである。1回目は般若心経から始めるが、2回目からはこれは省く。3回目のみは、最後に次の誦句を唱和して締めくくる。

  かりの世にかりの身体を借りて来て、今たちかえる弥陀の浄土へ

 通夜と告別式の導師は菩提寺の住職が務めるが、念仏講の主催する法要に住職が同座することはまずない。告別式を終えると野辺送りをするが、納骨をすませると必ず郷念仏をした。郷念仏とは集落にある3つの念仏講が総出で催す念仏のことをいう。

 私の母は最晩年には、「私は長生きをしすぎた。友だちはもう誰もいない。十七日講に送ってもらい、早くあの世に行きたい」と口癖のように繰り返していた。神仏の恒例行事は動もすると怠りがちで、信仰とは無縁に近い生活ぶりだったが、念仏講の催しだけにはなぜか心の安らぎを見出していたのである。

 その母が亡くなったのは2018年11月で、96歳だった。しかし、そのときにはすでに念仏講は消滅していた。そのため、通夜の念仏も納骨後の郷念仏もないまま、母をあの世への旅立たせることになった。念仏講が解体したのは、講中の人たちが高齢化するばかりで、後継者がいなかったからである。私の母はそのなかでも最年長だった。90歳を過ぎても、1人暮らしをしていたが、さすがに夜間の1人歩きは危険になり、講を休むと言い出した。そのほかも80代が4人、70代が3人、60代以下は0人、という異様な年齢構成で、しかも孫子どもと暮らしているのは1軒だけだった。

 3つの講はどこも同じような状況だった。そのため、相互に話し合い、講組織を1つにまとめるとか、夜の催しを昼にするなど、存続の工夫を試みたという。しかし、そんなことで抜本的な解決ができるはずがない。念仏講は2015年ごろまでに活動を停止し、郷里における死者の葬送と供養で中心的な役割を担ってきた近世以来の歴史に幕をおろした。

 母は最晩年の3年余りを養護施設で暮らしていた。口のなかが痛いと頻りに訴えていると施設の担当者が言うので、病院で診てもらうと末期の舌癌だった。医師の勧めもあり、苦痛をともなう手術は諦めて、なるべく苦しまないで死を迎える方法を選んだ。それよりちょうど半年後、病院から夜中に連絡があり、容態が急変したというので、駆けつけてみると、すでに息を引きとった後だった。

 葬儀社とすぐに連絡をとった。父の葬儀のときは、通夜は実家で、告別式は斎場で行った。しかし、母の場合は、両方とも斎場で行うことにした。先に述べたように、念仏講が解体してしまい、通夜の念仏と納骨後の郷念仏が出来なくなった。また、実家はふだん誰も住んでいないから、大勢の弔問客に対応する準備が難しくなっていた。

 母の遺体は自宅に帰すことをしなかった。病院から斎場に移し、そのまま安置してもらうことにした。行ってみると、安置室が用意できるまで、遺体は倉庫のような部屋に置かれていた。わずかな時間とは言いながら、ひどく無惨な気がして胸がつまった。写真に撮って置かなければ駄目だと思い、カメラを取り出し、何枚かシャッターを切った。

ph3 母の死。館山市北条の斎場。2018年11月3日。

 忘れがたいことがもう一つある。野辺送りを簡略化することを親戚の人たちから勧められたのである。野辺送りは葬家から菩提寺まで列を組んで行進する。そのために四本幡・天蓋・龍頭など何種類かの葬具を親戚の人たちで準備する。しかし、作れる人はほとんどいなくなっていた。作るにしても、作り方もあやふやだから、やっかいきわまりない。これからは四本幡や天蓋を作るのは止めようというのである。

 親戚に同行してもらい、菩提寺の住職に相談すると、さすがに承知してくれなかった。野辺送りには集落の人たちが見送りに集まってくる。死者の霊は、個人というよりも仲間の1人として、あの世に旅立つと言ってもいい。住職からすれば、従来通りに出来ないとしても、何もかも止めてしまったら、葬送儀礼としての格好がつかない。結局、外の葬具は別にして、四本幡と天蓋だけは、これまで通りに作る、ということで妥協することになった。

 戦争体験のある私の親たちの世代とちがって、戦後生まれの私たちは、都会で働くようになると、そこで所帯を構えるようになった。私もその1人だが、菩提寺の住職も同じで、檀家からのお布施だけでは生活が成り立たないから、東京の蒲田で建築関係の仕事に携わっている。都会で所帯を持ち、孫や子どもがいたりすると、老後になっても郷里に戻るのが難しくなる。自分では出稼ぎのつもりでいても、働きに出た先に根を下ろしてしまい、郷里に人口流出の結果をもたらすことになる。

 母の葬儀はなんとか無事に終えたが、その3ヶ月後、親戚の1軒にも不幸があった。

ph4 野辺送り。画面の正面奥に四本幡。館山市小沼。2019年2月21日。
ph5 野辺送り。画面右が天蓋。館山市小沼。2019年2月21日。

 亡くなったのは念仏講の1人で、私の両親が結婚の仲人を務めた。父の死から12年後になるが、その間に郷里の死者儀礼には大きな変化が生じていた。どんな田舎でもあっても葬送と供養にまつわる昔ながらの風習は段々に廃れ、都会と同じように、家族葬が一般的になりつつある。それは日本人の死生観の歴史的な転換点を意味し、行きつく先には祖霊信仰の終焉が待っているような気がする。

(註) 十三仏は通夜の臨終仏であるばかりでなく、初七日から三十三回忌までの供養の引導仏ともされてきた。具体的には、不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六七日)、薬師如来(七七日)、観音菩薩(百ヶ日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、阿閔如来(七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌、忌い切り)というように、それぞれの忌日に明王・菩薩・如来を振り分けて祀り、死者の極楽往生を仰いだ(「葬の俗信・迷信と十三仏巡礼」、五來重、『葬と供養』所収、1992、東方出版)。

(ひらしま あきひこ)

2020年11月30日

旧友の便り懐かし冬炬燵 ―― 社会部大先輩からの便り

 2020年11月、社会部旧友会懇親ゴルフ会(名誉会長牧内節男、会長山本進)が60回を迎えた機会に参加者一覧を作成した。関係者にはメール配信したが、パソコンをやらない長老にはプリントアウトして郵送した。

 元社会部長・竹内善昭さん(92歳)。《旧友ゴルフ会の記録をよくまとめられ感服しました。ゴルフ会の成績はさておき、昔の仲間の名前が懐かしく、次々に出てきて、本当に楽しいひとときを過ごさせて頂きました。

 もう、この歳になれば往時茫々、すべて夢の如しです。

 お礼に駄句をひとつ。

 「旧友の便り懐かし冬炬燵」

 小生は一応元気でよぼよぼ人生をやっています。老妻と二人暮らし。リハビリセンターの世話になったり、好きな俳句仲間とやりとりしています》

 元学生新聞本部長・中村侔さん(90歳)。《“密”な作業にびっくり。労作ありがとうございました。なつかしく昔をふり返っています。

 絵は少しだけ続け、このところは植木が相手で、あちこち悪い女房(85歳)の面倒をみながら、当方も病院がよいです》

 元社会部長・愛波健さん(84歳)からは電話。《石田ゴミさんも参加されていたのですね。私の初任地千葉支局の柳卯平支局長と仲がよかったのを憶えています。安永道義さんも》

 石田さんの名前は、確か「あさお」と記憶しているが、パソコンのワードに入っていない。雁垂れに日と木、「ゴミみたいな字」から「石田ゴミさん」が愛称になった。千葉支局長は柳卯平さんの2代前、1960(昭和35)年の1年間務めている。

 この懇親ゴルフ会は、第1回を1987(昭和52)年に土浦CCで行った。残念ながら記録が残っていない。ただ岩崎繁夫さんが日記に付けていた。優勝岩崎グロス82(40,42)、3打差で準優勝米山貢司さん。岩崎さんはホームコース鳳凰CC(群馬県太田市)のクラチャン・シニアの部で2年連続優勝した腕前だ。

 第2回は、永井康雄さん(89歳)のホームコース姉ケ崎CC。第3回から元運動部長仁藤正俊さんのホームコース我孫子ゴルフ倶楽部と高坂CCで交互に。昼にカレーライスを食べて支払いは3万円。「こんな高いところ行けるか」と文句も出たが、我孫子で11回、高坂で6回行っている。

 仁藤さんが高齢でリタイアしてからは、泉CC、久邇CC、川崎国際、八千代GCと転々、カルビー元会長の松尾康二さんのホームコース飯能グリーンCCでも。そして2006年から若洲ゴルフリンクスに定着した。近隣各県から足の便がよい、というのが最大の理由。しかし、コンペ予約の電話がなかなかつながらなくて、毎回確保するのに苦労している。

 2002年秋第25回の記念撮影(2002.10.1川崎国際)
前列左から遠藤満雄、青木利夫、牧内節男、長田達三、米山貢司、森浩一
中列左から堤哲、近藤義昭、鳥潟貞幸、田中浩、大澤栄作、牧野賢治、松尾康二
後列左から浮田裕之、佐々木叶、中村侔、堀井淳夫、川合多喜夫、西重義、畝村治男

 参加はのべ70人にのぼる。うち物故者は以下の29人である。

安永 道義 1992年1月16日没、66歳
村山 武次 1994年7月22日没、68歳
仲西 三郎 1998年6月6日没、66歳
石田 ●雄 1999年6月5日没、85歳(●=厂に日+木)
内藤 国夫 1999年7月8日没、62歳
中村  均 2002年11月30日没、74歳
岩崎 繁夫 2003年3月20日没、76歳
加藤 正雄 2003年12月4日没、90歳
西  重義 2004年12月19日没、75歳
仁藤 正俊 2006年6月14日没、92歳
上村  勉 2006年10月28日没、74歳
浅井 建二 2008年5月28日没、79歳
松野尾 章 2008年12月3日没、76歳
武藤  完 2009年5月20日没、68歳
越後喜一郎 2010年8月4日没、72歳
高橋 久勝 2011年5月14日没、86歳
米山 貢司 2012年7月13日没、83歳
大澤 栄作 2012年8月12日没、80歳
有馬 寧雄 2013年5月8日没、73歳
長田 達三 2013年10月10日没、89歳
四方  洋 2016年4月29日没、80歳
井草 隆雄 2016年6月6日没、84歳
青木 利夫 2016年12月29日没、78歳
佐々木 叶 2017年5月1日没、92歳
堀井 淳夫 2017年5月31日没、90歳
白根 邦男 2017年8月27日没、80歳
小元 広悦 2018年1月23日没、83歳
田中 青史 2018年5月12日没、68歳
中村 恭一 2018年6月23日没、75歳

(堤  哲)

2020年11月19日

関東大震災で炎上する警視庁赤レンガ庁舎 東京日日新聞は焼失を免れた

 森浩一さん(85歳)から「燃える警視庁」の写真がメールで送られてきた。警視庁旧庁舎の最後の「七社会」毎日新聞キャップ堀越章さん(88歳)が大正12年9月1日の関東大震災で焼失したと書いたことに触発されて、書棚から見つけたものだ。

 《燃える警視庁の写真は,東京交通会館が昭和40年に出した『有楽町』(非売品)に関東大震災の記録として掲載。その冊子には、有楽町時代の毎日新聞社のこともいくつか載っていました。三菱地所が昭和15年発行の『丸の内今と昔』を定本として昭和27年に非売品として出した『縮刷 丸の内今と昔』も出てきました。ここにも燃え始めた警視庁の写真がありました》

―――警官は騎馬で活躍の時代なので、警視庁の裏から毎日新聞社のあたりまで厩が密集していた。

―――警視庁南面総監室官房の屋根のひさし合いから内部に火を吸い、(火は)赤煉瓦の庁舎の窓から噴き出した。午前3時20分警視庁は焼け落ち、隣の帝劇も焼けてしまった。(『有楽町』)

―――警視庁は厳めしい赤煉瓦造り、帝劇はルネッサンス式の典雅な白色タイル張り、その対象が・・・(『丸の内今と昔』)

 震災前の警視庁は、現在の第一生命館の場所にあった。朝日新聞社会部著『有楽町有情』によると、警視庁の裏手は、騎馬隊の馬小屋、警視総監官舎、さらに毎日新聞社のあった現在の新有楽町ビルのあたりまで警察官の官舎が並んでいた、とある。

 毎日新聞のビルは延焼を免れた。罹災を免れた新聞社は、報知新聞、都新聞と計3社だけ。読売新聞は新社屋を建設してこの日落成式を行うことになっていたが、焼失した。現在マロニエゲート銀座があるところだ。

 『毎日新聞百年史』には《本社が火災から免れたのも、まず内部から火を出さなかったこと》《つぎは社内から道具を持出して破壊消防作業を実施したからである》とし、《本社が火災から免れたのは天祐であった》と記している。

 警視庁から迫る火勢を社員たちが破壊消防で食い止めたというのだ。

 「新聞は決して休刊しない」。当時の城戸主筆はこう宣言したが、電気は停電、ガスも供給停止で、印刷は不可能になった。で、当日発行した号外は、散乱した活字を拾い集め、足踏み機械で印刷した、と百年史にある。

 毎日新聞社内に関東大震災のパネルが掲げてある。

 翌日の新聞と、皇居前広場に設けた臨時編集局、下段左は焼け残った毎日新聞のビルである。

2020年11月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ  「東京ラビリンス」のあとさき その6

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429086.html

その6 『宮本常一が撮った昭和の情景』——絵巻物の手法
文 平嶋彰彦
写真 宮本常一

 2009年に『宮本常一が撮った昭和の情景』(以下、『昭和の情景』と略称)を刊行した。『宮本常一 写真・日記集成』(以下、『写真日記集成』と略称)の廉価版といっていい。3000点の写真を3分の1に圧縮し、日記は割愛した。版型もB5からA5に縮小した。

 『写真日記集成』では写真に対応する形で日記全文を載せている。そのため写真キャプションは、それ以外は基本的に撮影時期と撮影場所を記すだけにとどめた。それにたいして『昭和の情景』では、宮本を知らない読者にも写真を理解してもらいやすくするため、『写真日記集成』だけでなく、『私の日本地図』(全15巻、同友館)など宮本常一のさまざまな著作からの引用文を多用することにした(註1)。

 『写真日記集成』の刊行後、原稿に使った写真の整理をしながら、『私の日本地図』を始めて通読した。その第1巻目『天竜川に沿って』 の「あとがき」で、宮本常一はこのシリーズの意図と方法を次のように述べている。

 「写真を中心にして写真を説明するような形式で、時には写真をとったときよりもまえの旅のことなどを回想しつつ書いて見ることにした。そうすれば写真とつかずはなれずの文章になる。これは古い絵巻物の形式になる。鎌倉時代中期以前の絵巻物はかならずしも絵と文章が一致していない。それがかえって両者たすけあって生き生きしたものになっている。そこで私はこの書物を絵巻物の手法で通して見ることにした」

 併行して、手元にある宮本の代表的な著作を改めて読み返してみた。すると、写真の載らない文章だけの著作であっても、これはあの写真、あれはこの写真という具合に、文章に対応する写真がなんとなく頭に思い浮かんでくることに気づいた。そうこうするうちに、写真キャプションは宮本常一のいろいろな著作からの断片的な引用文で構成することを考えついた。キャプションと写真が必ずしも一致していなくとも、つかずはなれずの関係にあればいいのである。宮本は「かえって両者たすけあって生き生きしたものになっている」とも書いている。

 キャプションの文字量は、連載その5で書いた『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』の経験から、写真が見開きの扱いなら300字から400字、2分の1ページ大なら150字前後、それ以下ならば25字前後を目安にした。実際にページ構成にとりかかると、予想した通りで、7割程度は写真に対応する引用文を探し出すことができた。

 見つからないものは、著作集の監修者である田村善次郎先生に教えを乞い、該当すると思われる書籍や雑誌をお借りした(註2)。それでも見つからないものが1割ほどあったが、これは私が文章を書いて田村先生に見てもらうことにした。

 今回のブログ連載では、宮本常一が旅の途中で、列車や自動車の中から撮影した写真4点とキャプションを末尾に載せている。いずれも『昭和の情景』からの転載である。参考までにぜひご覧になっていただきたい。

 列車や自動車の中からみた景色を文章や絵の形でメモをとるのは容易ではない。じっとしていないからである。あっという間に通りすぎてしまう。しかし、写真はそれをわけもなく写しとることができる。肉眼ではその物自体の形や周りとの関係を瞬間的に把握するのが難しくとも、カメラであれば画面の4隅を決めれば、それを迅速かつ正確に写しとってくれる。写真は肉眼で見えるものだけではなく、見えないものまで写し込む。

 乗り物から外の景色を写す場合、じっくり見てからカメラをかまえるのでは埒が明かない。そもそも、私たちは自分に必要と思われないものは見過ごしてしまう悪癖がある。反対に、意外なものにとつぜん遭遇すると、思わずそれに目を奪われてしまう。そうなると、たいていは写真を撮ることに頭がまわらなくなる。

 そんなふうに考えていくと、移動中の列車や自動車のなかで、右手の人差し指でいつでもシャッターを押せるようにカメラをかまえる宮本常一の姿がなんとなく目に浮かんでくる。次々と通りすぎる窓の外を横目で追いながら、これから思いがけない景色に出会えるかも知れないという期待に胸を躍らせていたのである。見えてから写真を撮るのでは間に合わない。物の気配を感じたら、迷わずシャッターを切るようにしていたに違いない。

 宮本常一がフィールドワークの記録手段として、いつから写真を用いるようになったかはいま一つはっきりしないが、1934年4月11日に「宮本君より「採集と写真」について話あり」という記事が『口承文学』第9号に載っている。宮本が26歳のときで、大阪で小学校の教師を務めながら、民俗学への道を歩きはじめた時期にあたる(註3)。

 『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』は宮本の2冊目の著作で、1937年にアチックミューゼアムから刊行された。この著作には、聞書きをとった左近熊太翁やその孫あるいは住居など数点の写真が掲載されている。現地取材は前年の1936年である。それより2年後の1938年、宮本はこの著作を左近熊太翁に寄贈するため現地の瀧畑村を再訪した。翁は掲載の写真を目にすると、「こんな汚い山家でもかうも美しうなるものか」と感に堪えぬ風であったと、宮本は『アチックマンスリー』(第13号)でその報告記事を書いている(註4)。

 宮本常一は1955年、現在の一眼レフカメラの前身ともいえるアサヒフレックスを買い求めた。10万カットと言われる撮影フィルムとプリントが整理・保存されているのはそれ以降のものである。さらに5年後の1960年になって、宮本はハーフサイズカメラのオリンパスペンSを手に入れた。先にも触れた『天竜川に沿って』 の「あとがき」のなかで、宮本は自分自身の写真についての考え方を次のように述べている。

 「アサヒフレックスを買ってからできるだけたくさんとるようにしたが、眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和三五年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした(中略)だが、三万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何を見、何を感じようとしたかはわかるであろう」

 「思うにまかせてとりはじめた」というのは、フィルム代が嵩むのを苦にしなくてすむようになったからである。というのも、オリンパスペンSは1本のフィルムから72枚も写すことができた。ふつうのカメラの2倍である。それに加えて、手のひらに収まる大ささだった。フィールドワークで持ち歩くのにうってつけのカメラだったから、宮本はこのオリンパスペンSのシリーズを晩年になるまで愛用することになった。

 写真は「メモがわり」だと宮本はいう。その一方では、「別に上手にとろうとも思わない」ともいっている。メモだから、なにが写っているか分かればいい、ということかも知れない。しかし、下手よりは上手な方がいいし、「好きこそ物の上手なれ」の諺もある。この物言いにはどこか棘があるように思えてならない。宮本から見ると、上手かも知れないが、つまらない写真が世間に溢れているということだったのではないだろうか。上手に撮ろうとした写真が、私もそのなかの1人ということになるが、報道メディアあるいはカメラ雑誌の写真を示唆しているのは、言うまでもない気がする。

 宮本にとって写真は「眼につき心にとまるもの」の「メモがわり」だったことになる。『あるくみるきく』の編集長を務めた長男の宮本千晴によれば、宮本は若い研究者たちを旅に送り出すとき、
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
を手向けの常套句にしていたという。「眼につき心にとまるもの」というよりも、「はっと思ったら」「おやっと思ったら」という言い方のほうが、ずっと実践的で説得力があるように思える。

 写真は「メモがわり」だと宮本は述べている。メモは忘れないための覚え書きのことで、ふつうは文字で書き記したものをいう。「メモがわり」と一口に言っても、写真と文字の表現を比べると天と地ほどの違いがある。しかしというか、だからこそというか、写真は文字によるメモと一致しなくとも、つかずはなれずの関係にあるのは確かなことで、文字に匹敵するもう1つの記憶装置になりうる、ということである。さらに言うならば、1人の人間が眼前に広がる茫漠とした現実をいかに認識するかの道しるべになりうると、宮本常一は主張しているようにみられる。

(註1) 『私の日本地図』(全15巻)は、1967~1976年に、同友館より刊行。絶版になっていたが、香月洋一郎編の『私の日本地図:宮本常一著作集別集』(全15巻)が未來社より2008~2016年に刊行された。
(註2) 田村善次郎先生。元武蔵野美術大学名誉教授。『宮本常一著作集』(未來社)の監修者。2006年、今和次郎賞受賞。著作に『ネパールの集落』(古今書院)、『ネパール周遊紀行』(武蔵野美術大学)など。
(註3) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「口承文学」、毎日新聞社、2012)
(註4) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』より「河内国瀧畑入村記・左近翁に献本の記」

ph1 福岡県田川市。日田から小倉への車窓から。いくつもボタ山が見える。「そのボタ山もボタを積まなくなって久しいものが多く、(中略)やがてここに木が茂り、独自な山容をもった小山が、炭坑地帯の記念として長くのこっていくのではないかと思われる(『私の日本地図11』)
ph2 佐賀県鹿島市浜町。昔ながらの河港の姿を残す浜川と川沿いの町並み。長崎から博多への列車の車窓から。右手前に停泊している船には寝具と見られる洗濯物が干してある。道端では2人の男が立ち話をし、その傍らをネコが道を横切ろうとしている。川の両側に小屋があるが、その中で養殖カキの実を取りだす作業をしたといい、河原にはカキ殻が散らばっている。「4月27日。(長崎)。晴。よい天気になる。8時半の博多行準急にのる。よくすいている。もう菜の花もさかりをすぎている。博多にて1.50の山陽にのる。車中『週刊公論』をよむ。柳井でのりかえて大畠へ6時すぎにつく。そして終バスの1つまえのバスにのる。家へかえって見るとテレビすっかりとりつけてあり、(三男の)光見ている。これが家の生活をかえるだろうか」(『日記』)
ph3 青森県むつ市から新潟県新潟市へ。車窓から。藁葺き屋根の集落。庭に馬が繋がれている。青森県内(8月29日)。「一つだけ見、一つだけ書きとめても、たいしておしえられるものではありませんが、いくつもいくつも、スケッチしたり、見たことを書きためていますと、そのなんでもないもののなかにも、たいせつな意味があったり、またそれをつくり出した人自身も、たぶん、気づいていなかったようなことまで、わかってくるのです。(中略)私は屋根の形を見るのがすきです。そして汽車の窓からながめていて、書きとめておくのですが、汽車は走っているのですから、すぐにゆきすぎてしまって、ていねいにはかけません。それでもたくさんたまると参考になることが多いのです」(『宮本常一著作集7』)
ph4 青森県。下北半島。車窓から。破船。「5月15日。朝8時に起きて9時市役所へゆき、それより大湊から脇野沢、九艘泊までゆき、川内へひきかえす。昼食をたべて畑、野平、仏ガ浦、佐井、大間、大畑、田名部。山本さんの家で夕はんをたべ、下北から汽車。野辺地で寝台車にのるとすいている」(『日記』)。「昭和30年を境にして、船は木造から鋼船にきりかえられることになり、それには補助金も出ることによって、木造船の多くは焼きすてられた。しかし焼ききれずに捨てた船も少なくない。そうした船が渚に打ちあげられて、半ば砂に埋もれているのを下北半島の陸奥湾の沿岸で何艘も見かけたが、下北ばかりでなく種子島の東海岸でも見かけた。家庭でプロパンガスを使うようになると、船の古材を薪にする者はいなくなったのである」(『空からの民俗学』)

 写真とキャプションは『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。

2020年11月16日

大阪警視庁・府警キャップ列伝メモ —— 古野喜政さんから寄稿

 大阪警視庁・府警キャップ列伝を読んで、大阪社会部第29代社会部長・古野喜政さん(84歳)から思いついたことのメモが届いた。以下、全文を紹介します。

 *熊田潔さん(2009年没91歳)とは、お会いした記憶が残っています。

 *伊予馨さん(1998年没81歳)は、ミナミの宗右衛門町だったかキャバレーの主人におさまっていました。仲々の男前でした。敗戦後、日本人記者が広島に入った時の毎日の“特派員“でした。「ピカドン」という言葉を初めて記事に入れた記者でした。伊予さんは「ボクが作ったわけでもなんでもない。広島の人が原爆といわず『ピカドン』と云っていました」と言っておりました。

 *立川熊之助さん(1989年没69歳)は、ほんのわずかな期間、上司でした。立川は「タチカワ」「タテカワ」と広辞苑に出ていますが、「一族のものはタツカワが正しい」といっておりました。日常的には「タッチャン」と呼ばれていました。

 立川文庫の本家でしたから大変な金持ちでしたね。当時はカズノコが宝石のようにありがたがれておりました。正月、部員の大半がこのカズノコを目当てに、立川邸に集まりました。50人以上はいたと思いますが、その部員が「もうけっこう」というほどカズノコと酒が並びました。

 タッチャンは“物識り”の評判の高い人でしたが、部長席の左の大きな抽き出しに辞典が数冊入っていて、部員がワイワイ云っておりますと、その辞典をそっと見て、「それはなや」と一席ぶっていました。小生はタッチャンの秘密を目撃したわけです。

 大毎社会部では、事件担当としては初めての本格派だったかなと思います。

 *藤村拓郎さん(1983年没58歳)は、小生の知る限り社会部一の飲兵衛でした。事件記者でしたが、マージャン狂でもありました。大久保文男さん(府庁担当が長かった)と奥さんが姉妹でしたね。死んだのも同じ歳だったと思います。
 特ダネも特ダネでしたが、フジさんは特ダネを他紙にやられた時の収拾の仕方は、小生の知っている先輩の中では、No1でした。

 *寸田政明さん(2003年没74歳)は、小生の識っている事件記者の中で比較の対象になる人がいませんでした。寸ちゃんがキャップ、小生がサブで警備公安担当。公安事件で明日逮捕というのに名前がとれない。A、大阪府下に住む30台の男で原稿にしました。寸ちゃんは「名前は書けんか」。「それが取れませんで」と頭をさげました。「そうやなぁ、これで出そう」とカンニンしてくれました。恐らく彼なら実名はとれたでしょうね。
 KC庁を回っていた時、刑事から逮捕令状を借りて、デスクに見せて「ホンモノや」と証明したという伝説がありますが、あれは本当ですね。小生、勝ち負けはトキの運だと思いますが、寸ちゃんは別格でした。

 *吉山利嗣君も強かったですね。だが、刑事をつかまえるのに時間がかかった、寸田さんより。1967(昭和42)年のタクシー汚職。寸田さんは、司法担当になって10日目くらいでしたか。事件の担当検事が会議を開いたのですが、夜9時頃、寸田さんが社に戻ってきて「これをコピーしてくれ」と2頁の書類を出しました。その日の会議の要項をまとめたものでした。主任検事から借りてきたということでした(メモは実名入り)。
 それが8月中旬で、関谷勝利代議士を逮捕したのが12月25日。最初の読み通りに事件が展開しました。こんな話をしてもほとんど信じる人はいなかったでしょうね。次の年の4月、彼が府警キャップ、小生がサブになりました。

 *早死にしてしまいましたが、川村正文君(2000年没62歳)も強かったですね。「マルセル」事件。読売新聞主催のロートレック展で盗まれ、時効が成立した後、朝日新聞に持ち込まれた。これを川村府警キャップが聞き込んで記事にした。あのネタ元は、小生と2人で捜査1課を回っていたころにつくったところで、川村君は誰にもネタ元を明かしませんでした。小生はソウル特派員をしていて、快哉を叫んだ覚えがあります。
 川村君でなければとれなかったでしょうね。

 *府警キャップのエピソードはまだまだあります。また書きます。

(古野 喜政)

 *古野さんは大阪ユニセフ協会を2001年に立ち上げ、副会長をつとめている。

2020年11月13日

桜田門旧警視庁庁舎、最後のキャップから反響

 軍事アナリスト小川和久さんがFaceBookにアップした写真が毎友会HPに転載され、その時の警視庁キャップ堀越章さん(88歳)から「落書を書いてみました」と以下の一文が届いた。

43年前のキャプション

堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章キャップ

堀越  章

 「KC庁」と書き、「警視庁」と読む。東京社会部在籍中の常用部語。いま使われているかどうか。すでに古語かもしれない。タテ約12センチ、ヨコ約16センチ。広げた手の平大のザラ紙が原稿用紙。黒の軸に金文字で「毎日新聞」と彫りこまれた特注品の3B鉛筆は、やがてボールペンになる。デスクが使う朱は、筆からサインペンになった。「打つ」時代の前、書いていた時代が長くあった。

 「KC庁」が、いまの桜田門外に居をかまえたのは昭和6年(1931)である。日本初の警察組織として東京警視庁が創設されたのは明治7年(1874)。鍛治橋にあった旧津山邸を改築して庁舎とした。いまのJR東京駅の近くである。そのあと日比谷のお堀端にできた赤レンガ庁舎に移り、関東大震災で焼け、宮内庁の敷地内に仮住まい。桜田門庁舎は大正15年(1926)着工、5年をかけて地上5階、地下1階の鉄筋コンクリート建が完成した。独特の「A型」建物の設計と建築を仕切ったのは旧大蔵省営繕局の技官たちである。以来、壁面がこげ茶色のこの建物は、よくも悪くも昭和史の舞台となった。

 毎日が所属する記者クラブは3階のお堀側にあった「七社会」。加盟社は朝日、読売、東京、日経、共同の6社。事件記者たちは廃業してなくなった「時事新報」を忘れないの思いを込めて「ナナシャ」のまま改名しない。

 その建物を壊し新庁舎を作ることになる。昭和52年(1977)、仮住まいの内幸町庁舎への引っ越しが始まる。

 「七社会」移転の直前、かつて「七社の毎日」で夜回りと朝駆けに暮れ、ソファーで仮眠したつわものどもが、まことにさりげなくその小部屋に集まった。散会したあとの夜おそくやってきた者も何人かいた。ビールもつまみもない。それでもしばらくいて「じゃーな」と言って去った。

 最後の日、庁内散歩のあと地下の用務員詰所に行った。大きな囲炉裏があり炭火が絶えない。用務員が待ってましたよという笑顔で言った。

 「やっぱり来ましたね。ちょっと前に総監がおみえになって、きっと毎日のキャップが来るよっておっしゃっていました」

 散歩の締めくくりは予定どおり総監室。当時の警視総監は土田国保氏であった。

 堤哲さんから歴代KC庁キャップの名簿と一枚の写真が送られてきた。追いかけるように同じものが森浩一さんからもきた。写真は旧KC庁クラブの小さく狭い部屋にかつてのクラブ員と現役が集まっている43年前のもの。遥かなる茫々の中で写真説明を書いた。

2020年11月11日

大阪警視庁・府警キャップ列伝

 警視庁キャップ一覧についで、大阪本社社会部の府警キャップ戦後一覧をお届けしたい。大毎社会部100年史『記者たちの森』(2002年4月刊)にあった名簿の転載である。従って最近20年ほどのキャップ名はない(敬称略)。

 大阪本社社会部は、日本の新聞で初めて発足した「社会部」で、2021年2月に創部120年を迎える。

 ●杉本 一郎 1960年没、45歳。
 ●小口 織穂 1978年没、63歳。
 ●熊田  潔 2009年没、91歳。
 ●伊予  馨 1998年没、81歳。
 ●熊田  潔 前述
 ●浅野 廣三 2019年没、100歳。
 ●立川熊之助 1989年没、69歳。
 ●畑山  博 2010年没、90歳。
 ●島田 一松 2000年没、79歳。
 ●吉野 恵三 2005年没。79歳。
 ●北爪 忠士 2009年没、84歳。
 ●藤村 拓郎 1983年没、58歳。
 ●稲本 年穂 2002年没、78歳。
 ●檜垣 常治 2007年没、82歳。
 ●三浦秀一郎 2006年没、86歳
 ●岩井 昭三 2014年没、86歳。
 ●松永 俊一 2019年没、89歳。
 ●寸田 政明 2003年没、74歳。
 ●京谷 利彌 2014年没、83歳。
 ●上妻 教男 2016年没。81歳。
  奥村 邦彦
  古野 喜政
  永田  孝
 ●川村 正文 2000年没、62歳。
 ●佐倉 達三 2008年没、69歳
 ●河竹皓一郎 2010年没、75歳
  木戸  湊
  荒武 一彦
  高橋 裕夫
  神谷 周孝
 ●菅沼 完夫 2019年没、74歳。
  津野 恭誉
 ●吉井 秀一 2011年没、64歳。
  吉山 利嗣
  中島 耕治
  平野 幸夫
  藤原  健
  武田 哲夫
 ●幸良 雄史 2015年没、65歳。
  池田  昭
 ●三谷 佳弘 2018年没、62歳
  氷置 恒夫
  黒川 昭良
  渋谷 卓司
  相原  洋
  鈴木 龍一

 チェックをしてもらおうと、大阪社会部OBで大阪毎友会の迫田太前・会長(88歳)にメール送りしたら、思わぬ答えが返ってきた。

 「リストの一番上の杉本一郎氏は、私が昭和29年4月に毎日新聞に入社して鹿児島支局に配属された時の支局長でした。杉本氏はその後、阪神支局長に転勤。私も神戸支局に転勤して親しく付き合ってきました。杉本氏は支局から帰宅する時に阪急西宮北口駅で電車とホームの間にはさまれて死亡。西宮市内のお寺での葬儀にも参列しました。懐かしいお名前をリストで見て改めてご冥福を祈りました」

 調べると事故死したのは1960(昭和35)年1月14日夕。45歳だった。

 「事件記者として20年。俊敏果敢な記者で、記者クラブなどで君の姿が見えないと、他社の連中がさがしまわるほどだった」と社報で同僚記者が追悼している。

 実は、大阪市にも警視庁があった。1948(昭和23)年9月から54(昭和29)年6月までの5年10か月。杉本は、警視庁になる前に山口支局次長に転勤した。2番目の小口織穂が初代警視庁キャップと思われる。次の熊田潔は2度キャプをつとめている。

 私(堤)は1971(昭和46)年8月から74(昭和49)年4月までの2年9か月大阪社会部に在籍した。編集局長は稲野治兵衛と立川熊之助、社会部長は檜垣常治と北爪忠士だった。

 大阪赴任の年、「大毎社会部70年史」が発刊された。その中に昭和37年(1962)の社会部10大ニュースに「立川デスク東下り(東京デスクへ)」とある。

 大毎はご本社だから、東京社会部への転勤は「あずま(東)下り」なのである。

 立川は、「立川文庫」の御曹司で知られる。1年後の63年8月、大阪社会部長で戻る。その時、東京社会部から一緒に西下したのが牧内節男と白木東洋だった。 牧内は「銀座一丁目新聞」に書いている。

 《立川さんはもともと大阪社会部で事件記者として鳴らした人である。大阪に帰るにあたって東京から牧内節男と白木東洋の二人を連れて行く。牧内は警視庁キャップから遊軍長になって5ヵ月ぐらいたっていた。大阪では社会部デスクをやることになった。白木は警察には強い記者であった》

 社会部記者の東西交流である。白木は大阪府警クラブで東京流の事件取材方法を伝授した。

 逆に大阪から警視庁クラブに送り込まれた事件記者は寸田政明だった。東京社会部長は稲野治兵衛。「組織暴力の実態」で1964年度の新聞協会賞を受賞した。連載の前書きは部長が自ら筆をとった、と「新聞研究」の受賞報告で記している。

 山口組三代目組長、田岡一雄をはじめ暴力団の組長にインタビュー取材をしたが、そのセッティングをした多くが寸田だったといわれる。

 連載は、名文記者吉野正弘(1989年没56歳)がアンカーとなった。

 毎日新聞百年史に取材班の名簿が載っているが、吉野以外は、いずれも事件記者である。社会部デスク佐々木武惟、社会部員道村博、寸田政明、山崎宗次。

 寸田の東京社会部在籍は、64(昭和39)年2月から67(同42)年1月まで丸3年。ある時、犯人に逮捕状の前打ち原稿を出稿した。「本当に大丈夫か」といぶかる上司に、それならと寸田は「逮捕状」を捜査員から借りてきて示した、という伝説が残っている。

 寸田はその後、大阪社会部のデスクとなる。新任デスクはセンバツ担当となるが、61年入社津田康がキャップ、私がサブだった72年センバツの担当デスクだった。

 ヒゲの畑山博は、生粋の事件記者。大阪と東京で社会部長をつとめた。東西の社会部長経験者は、稲野治兵衛につぐ。

 特ダネの周辺を綴った自著『三四郎記者』(1963年刊)に、「1時間に120行以上のペースで書き飛ばさないと、いい事件記者にはなれない」とあった。雑用紙1枚(5字3行で当時の新聞1行分)を遅くても30秒以内。10分で20枚、30分で60枚、1時間で120枚という計算である。私にはとても無理である。

 正直、こんなキャップの下にいたら大変だ。使われなくてよかったと思うが、私を大阪に転勤させた部長でもあった。東京駅の新幹線ホームで見送りの写真が残っている。

 私が街頭班(サツ回り)のときの遊軍キャップ上妻教男。童顔から「ベビーギャング」と呼ばれた事件記者だった。府警キャップは奥村邦彦(86歳)。奥村は、1982(昭和57)年10月から12月まで60回にわたり夕刊1面で《まぼろし紀行「稲荷山鉄剣の周辺」》(毎日新聞社から出版)を連載した。事件記者というよりナンパ記者だったか。

 次の古野喜政(84歳)は私を府警クラブに引っ張り込んだキャップである。のちソウル特派員。金大中大統領と親密な関係を築いた。著書に『韓国現代史メモ:1973-76 わたしの内なる金大中事件』(1981年)、『金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府』(2007年刊)、『金大中事件最後のスクープ』(2010年刊)。金大中事件は、ライフワークなのである。

 サブキャップが佐藤茂(1993年没55歳)。1970年植村直己らがエベレスト登頂をした登山隊に同行、社会部長もつとめた。捜査2課担当が鳥越俊太郎、私はその裏の捜査3、4課担当だった。神谷周孝が捜査1課担当で最若手だった。

 川村正文は、府警キャップ時代に、展覧会場から盗まれたロートレックの絵画「マルセル」が朝日新聞大阪本社に持ち込まれたのを察知、7年1カ月ぶりに「マルセル」無傷で戻ると1976年1月30日付朝刊で報道した。1面、社会面と大展開した朝日新聞を悔しがらせた。盗まれたのは読売新聞が京都国立近代美術館で開催したロートレック展の会場からだったが、読売新聞は特オチとなった。

 63年入社の木戸湊(81歳)。大阪本社編集局長時代に阪神淡路大震災が起きた。いちはやく「阪神大震災」と紙面でうたった。被災者のための「希望新聞」も始めた。その後、東京本社編集局長→主筆→副社長。

 退職後、『記者たちよハンターになれ!―元毎日新聞主筆の回想録』(2009年刊)を出版した。牧内節男が高く評価して《この本こそ「己の足と才覚で掴んだ」真実のニュース取材物語である。若い記者達は共感した所に赤線を引き拳々服膺したらよい》と、「銀座一丁目新聞」で紹介した。

 藤原健は、大毎社会部100年のときの社会部長。大阪編集局長→スポニチ常務。66歳で沖縄に移住。大学院で学び、『魂マブイの新聞―「沖縄戦新聞」沖縄戦の記憶と継承ジャーナリズム』、『終わりなき<いくさ> 沖縄戦を心に刻む』を出版している。

 黒川昭良は毎日新聞出版社社長を務めた。出版不況の中、黒字経営を実現したというから立派だ。

 下から2番目相原洋は、私が千葉支局長のときの支局員だった。

(堤  哲)

2020年10月30日

社会部警視庁キャップ物語

 一枚の写真をきっかけに、元社会部の堤哲さんが「社会部警視庁キャップ列伝」をまとめてくれた。関連して、キャップの一人、森浩一さんから「警視庁キャップの転勤」を寄稿していただいた。二つまとめて、「警視庁キャップ物語」。

老耄独語 21 警視庁キャップの転勤

森 浩一

 老いぼれでも何かがきっかけで、その何かにかかわる、ある一部分を鮮明に思い出すことがある。堤 哲君から毎日新聞社会部の歴代警視庁キャップ一覧表がメールで送られてきた。いつもながら堤君の作業に感心する。

 ・・・・・夜、王子でピストル射殺事件が起きた。王子署の捜査本部に警視庁捜査1課4号部屋が出動した。当時、捜査1課は班別に6つの部屋を構えていたと思う。その班の主任刑事を部屋長と呼んでいた。4号の部屋長は郷間六平氏であった。逃げる男を店主が追いかけ、男は振り向きざまピストルを発射して行方をくらましたという事件である。目撃者もなく捜査は難航した。しばらくしたある日、熱海の海岸でおぼれた男が救助されたという小さな記事があった。4号の一部の刑事が帰宅していない日夜が続いた。われわれは、この男と帰宅しない刑事がいることに関心を持った。

 山崎宗次さんと僕は熱海に飛んだ。救助されたからには男は熱海のどこかの病院にいるに違いない。病院をあたった。そこでいきなり出会ったのが白衣に聴診器を下げ、みごとに医者に変装した郷間部屋長ともう1人のK刑事だった。2人の顔だけは変えられない。

 われわれが熱海にいる間に、警視庁キャップの佐々木武惟さんが西部本社報道部デスクに転任の人事があった。山崎さんは佐々木さんが乗った列車が熱海駅に停車する時刻を調べ、われわれはウイスキーを買って駅で待機した。たしか車内放送を頼んだと思う。列車の先のほうに乗っていた佐々木さんが窓からだったかデッキからか身を乗り出した。手を振っている。われわれはホームを走った。列車は静かに動き出した。

 渡せずじまいのウイスキーを部屋長に差し入れようと話しながら、われわれは駅を後にした。自殺を図った男は間もなく逮捕された。名前はM。もう60年ほども前のことである。いまは亡き佐々木さん、山崎さん、郷間さんの顔が老骨には重なって見える。

(2020・10・29記)

社会部警視庁キャップ列伝

堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章

 軍事アナリスト小川和久さんがFaceBookにアップした写真が10月21日毎友会HPに転載されたが、この写真を見ているうちに、オープンさん(右端の立っている方)から聞いた歴代警視庁キャップ列伝を思い出した。

 オープンこと開真さんは、仙台陸軍幼年学校→陸士59期。同期に、菅義偉首相が師と仰いだ故梶山静六元官房長官、毎日新聞では95歳でなお現役ジャーナリストの牧内節男さん、元東日印刷社長・故奈良泰夫さんがいる。

 戦後早大文学部を卒業して、毎日新聞記者となる。事件記者ひと筋。警視庁を担当しているときに東京消防庁の記者クラブに配属されたことから消防に食い込み、「消防総監」と呼ばれたほどだ。むろん警視庁キャップも務めている。1967年前後だ。1981年の定年退職時に『泣き笑い消防記者二十八年』(毎日新聞)を発刊した。

 定年後は青梅通信部主任として「生涯一記者」を貫いた。2008年没、82歳。

 さて、歴代警視庁キャップである。むろん戦後である。故人に●をつけたら、存命は牧内節男さん、森浩一さん、堀越章さん……。

 最初に名前があがった杉山為さん。国鉄ときわクラブの先輩として、昔話を聞いたことがあるが、警視庁キャップ経験者とは知らなかった。

 若月五郎さんは、2度警視庁キャップを務めた。その間の柳さんと石口さんは論説委員になっている。石口さんは小平義雄事件を担当し、小平の手記『小平のざんげ告白』を47年に発刊している。

 井上七郎さんは水戸支局の支局長として仕えたが、酔っぱらうと「たわけなやっちゃ」が口癖だった。事件記者として活躍ぶりは、残念ながら知らない。

 このあとのキャップたちは、牧内さんの「銀座一丁目新聞」に何らかの形で登場する。「銀座一丁目新聞」の検索欄にキャップ名を入れて下さい。

 皇太子妃美智子さんの取材班のデスクが柳本さん、牧内さんも宮廷記者桐山さんらと担当した。新聞協会賞、菊池寛賞を受賞した連載「官僚にっぽん」。森丘デスクの発案だったとある。

 佐々木武惟さんは、特ダネ記者だった。夜回りの元祖といわれる。ブーちゃんとかゴジさんと呼ばれた。『事件記者 ― スクープにかけた30年』(1980年刊)に、内藤国夫さんがまえがきを書いている。「特ダネより特オチの告白を」と持ちかけたが、「抜かれたことがないんだなぁ」とゴジさんは答えている。

 ゴジさんが社会部長のとき、警視庁キャップに命じたのが内藤国夫である。事件取材の素人は、「期待に応えることなく、キャップ失格のレッテルを貼られた」と。

 その後釜に中部本社報道部のデスクから呼び戻されたのが森浩一さんで、社会部長が牧内節男さんだった。ロッキード事件が始まった直後である。

 佐々木叶キャップからは、社会部の職制となったので、就任年月日がはっきりしている。

 以下に毎日新聞東京本社社会部の警視庁キャップ一覧を――。

 ●杉山 為七
 ●若月 五郎1950年
 ●柳  卯平
 ●石口  基
 ●若月 五郎1952年2度目
 ●井上 七郎
 ●桐山  真
 ●柳本 見一
 ●森丘 秀雄
 ●佐々木武惟1958年~
  牧内 節男1961年8月~
 ●藤野好太朗1963年3月~
 ●道村  博
 ●山口 清二
 ●開   真1967年
 ●佐々木 叶1968年2月~
 ●石谷 龍生1969年8月~
 ●高井 磊壮1970年8月~
 ●山崎 宗次1971年8月~
 ●米山 貢司1973年2月~
 ●井草 隆雄1974年2月~
 ●内藤 国夫1975年2月~
  森  浩一1976年3月~
  堀越  章1976年9月~
 ●根上  磐1977年9月~
 ●前田  明1979年5月~
  加藤 順一1982年5月~
  田中 正延1982年12月~
  比留間英一1983年11月~
  中島健一郎1985年8月~
  取違 孝昭1988年2月~
  朝比奈 豊1989年4月 
  三木 賢治1991年3月~
  常田 照雄1992年2月~
  臼井 研一1994年10月~
  斎藤 善也1996年4月~
  西川 光昭1999年2月~
  田中 公明2000年4月~
  尾崎  敦2001年10月~
  丸山 雅也2002年10月~
  大坪 信剛2004年4月~
  河嶋 浩司2006年4月~
  遠山 和彦2008年4月~
  千代崎聖史2010年4月~
  鮎川 耕史2012年4月~
  川辺 康広2014年4月~
  長谷川 豊2016年4月~
  川上 晃弘2018年4月~
  佐々木 洋2020年4月~

(堤  哲)

2020年10月14日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ  「東京ラビリンス」のあとさき その5

文・平嶋彰彦

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429085.html

その5 『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』――池田信の眼差し
文 平嶋彰彦   写真 池田信

 最初は『みなと写真散歩』という写真資料集を再編集したら、出版企画として成立するのではないか、ということだった。この写真資料集は港区内の街並み2253カットをまとめたもので、1968年に自費出版された。著者の池田信は日比谷図書館の元資料課長で、亡くなった後、原稿に使ったプリントは遺族から毎日新聞社に寄贈されたとのこと。

 問題は撮影範囲が港区だけでは、営業的な吸引力に欠ける点にあった。しかし、話を聞いていくと、プリントだけでなく、撮影フィルムも寄贈され、情報調査部のアーカイブセンターで、デジタル化を進めているという。だったら、『宮本常一 写真・日記集成』と同じように、撮影フィルムの一切合切を自分の目で見てみたい。もし、ものになりそうであれば、私にこの本の編集を任せて欲しいと申し出た。

 撮影フィルムを調べてみると、『みなと写真散歩』に掲載したのはごく一部で、撮影地は港区ばかりでなく、伊豆七島を除く都内のほぼ全域に及んでいた。また撮影期間は1961年から1972年までだが、写真の大半は東京オリンピックのあった1964年までに集中していた。目を通したのは、たしか35ミリフィルム200本前後で、撮影フィルムには密着写真が添付され、3分の2強のカットに撮影地と撮影年月日が書き込まれていた。

 池田信は『みなと写真散歩』のはしがきで、東京の町を写真に撮るようになったいきさつを次のように書いている。

 「昭和36(1961)年、気がついて見ると、オリンピック東京大会準備の為ということで、東京の町は俄かに且つ極端にその容貌を変えはじめました。(中略)私は都立日比谷図書館で資料を預かる立場にあり、毎日そこで管理している東京資料やその他の古い資料をながめているうちに、まだ明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿を記録しておいたらと考えるようになりました」

 1961年11月、池田信は渋谷の東横デパート屋上から、並木橋方面と宇賀川町方面の俯瞰写真を撮っている。そのあと、渋谷駅の南側で渋谷川の埋立工事を撮り、さらにそのあと、渋谷駅北側の宮益橋から渋谷川の上流方向の景色を撮っている。

渋谷川。宮益橋からの眺め。左はのんべい横丁。右は渋谷東映。1961年11月

 ルーペで覗くと、宮益橋から上流は、まだ埋立工事が始まっていない。水が流れているのである。思わず目を見張った。探しあぐねていた落とし物が見つかったときの感じと言えば分かってもらえるだろうか。右岸はのんべい横丁で、左岸は渋谷東映。奥に見えるのは宮下公園である。『昭和二十年東京地図』の取材で、ここから約600メートル下流の並木橋から渋谷駅方向を撮ったことがある。のんべい横丁もそのときに撮っていて、すぐ傍をかつて渋谷川が流れていたことは、同行取材した西井一夫から聞いていた(註)。

 ところで、池田信が高所から撮った写真は、このとき以外には見当たらない。並木橋方面を撮ったカットには渋谷川の工事現場も写っているが、彼の主な関心は宇田川町方面の遠景にあったに違いない。そこには東京オリンピックの国立代々木競技場や選手村の建設予定地があった。戦時中までは陸軍代々木練兵場だったところで、戦後はGHQに接収され、ワシントンハイツと称する米軍の居住施設になっていた。日本に返還されるは、これより2年後、オリンピックの1年前である。

 ワシントンハイツ西側の縁に沿って流れていたのが宇田川(河骨川)で、渋谷川の支川である。宇田川はそれより井の頭通りへ出て、現在の西武デパートのA館とB館の間を流れたあと、JR山手線を潜った先で、写真を見れば分かるように、渋谷川のもう1つの支川である隠田川と合流していた。

 大正元(1912)年に発表された小学校唱歌の「春の小川」は、国文学者の高野辰之が代々木八幡の自宅近くを流れるこの川をモデルに作詞したと言われる。渋谷川とその上流である宇田川に沿った景色は、「明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿」であり、池田信にとって東京の原像となる水辺の景観の1つだったのではないかと思われる。

 年末年始の休暇に入ったその年の12月29日から大晦日までの3日間、皇居内濠に沿った丸の内のオフィス街と、首都高の埋立工事や架橋工事の進む外濠・京橋川・楓川・日本橋川沿いの有楽町・銀座・京橋・日本橋などの街並みを、池田信は精力的に写している。

 そのなかに丸の内仲通りの三菱3号館の角で撮った印象的なカットがある。このあたりは、連載その4で述べたように、中世までは日比谷入江と呼ばれる海岸線だった。徳川家康の関東入府(1590年)以降に埋め立てられ、江戸時代には大名屋敷が建ちならんでいたが、明治時代になると三菱財閥に払い下げられ、ジョサイア・コンドルや曾禰達蔵によりイギリス風の様式に統一された赤レンガ造りのオフィス街が建設された。

丸の内仲通り、三菱3号館の角。屋台の石焼イモ屋が出ている。1961年12月

 3号館の竣工は1894年である。それにたいして渋滞する自動車とそれをかき分けるように道路をわたる女性の服装や髪形は、明らかに1961年当時のデザインである。彼女が悴んだ手を合わせて向かおうとする、あるいはたんに通りすがるだけかも知れない石焼イモ屋にたいする私たちが持つ歴史的イメージは、三菱3号館の時代よりもっと古い。おそらく江戸時代の後期まで遡るものである。この写真のどこが面白いかといえば、まるで底引き網で漁をするように、一つの画面に重層するいくつもの歴史的時間がまるごと捕らえられているからである。

 池田信が人物をスナップした写真は、200本前後のフィルムのなかで、わずか数カットに過ぎないが、そのうちの5カットを見開きで載せている。狙って撮ったというよりも、通りすがりのあいさつ代わりといった感じの撮り方なのだが、どのカットも画面の隅々まで目配りが利いていて、人を引きつけて離さない何かを感じさせる。

 そのなかでもとりわけ私が好きなのは、1963年4月に六本木で撮った金魚売りのカットである(ph3)。正面はアルゼンチン大使館。こんなところをなぜ金魚売りが売り歩いているのか。しかも2人もそろって。その可笑しさと不思議さに引かれて、見開きで使うことにしたのだが、キャプションをつける段になって調べると、可笑しくもなければ不思議でも何でもない。私がこのあたりの歴史や地理について何も知らないだけのことだった。

アルゼンチン大使館前の金魚売り。現在は六本木ヒルズの一画。1963年4月

 このカットには撮影地の記載がなかった。アルゼンチン大使館の住所をたどると、現在は元麻布2丁目に移転しているが、この当時は六本木6丁目11にあったことが分かった。大使館の塀の角に「北日ヶ窪分譲住宅入口」の標識がある。現在の地図と見比べると、大使館跡もこの団地跡も再開発されて、なんと言うべきか、六本木ヒルズの一角になっている。

 肝心の金魚についてだが、南側に坂を下ったところは旧地名で南日下窪町と呼ばれ、その辺りでは、高台からの下水(したみず)や湧き水を利用して、江戸時代から金魚の養殖が盛んだった。窪地一帯には金魚池があちこちにあって、六本木ヒルズの建設が始まる直前まで、その一部が営業を続けていた、いうことである。

 撮影フィルムから写真を選ぶのは、理屈よりもどちらかと言えば勘が頼りである。しかし、キャプションは意味や理由が分からないと埒が明かない。そこで資料にあたる。写真の撮られた背景を探っていくと、池田信という写真家の人物像がおのずと見えてくる。

 池田の撮った東京には、自分が生まれ育ったわが町という想いに連なる眼差しが感じられる。池田は1911(明治44)年の東京生まれで、第一東京市立中学校(現在の九段高校)を卒業した。それ以上のことは分からないが、ちゃきちゃきの江戸っ子、生粋の東京っ子ということだろう。しかも東京都の職員だった。とうぜんと言えばとうぜんかも知れない。

 池田がこだわったのは、先に触れたように、彼自身の言葉によれば、「まだ明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿」だった。明治以前の江戸でも昭和の東京でもなく、明治や大正の東京だと言っているのが見逃せない。

 というのも、関東大震災が起きたのは1923(大正12)年で、池田が12歳のときである。東京は1945(昭和20)年にも米軍の大空襲があり、やはり壊滅的な被害をこうむった。したがって、「明治や大正の俤」というのは、彼が子どものころに目の前で直に見た「路面電車が走る水の都の記憶」ではなかったかと想像されるのである。

 そういう意味合いから、表紙には隅田川に架かる新大橋の写真を使った。このアールヌーボー風のいかにも瀟洒なデザインの橋は1912年の竣工で、それから間もなく市電(都電)も開通した。関東大震災にさいしては、1万人以上の罹災者がこの橋の上に避難して、九死に一生を得たと伝えられる。1977年、惜しまれながら現在の橋に架け替えられたが、池田の言う「明治や大正の俤」を残す象徴的な東京の橋だった。

隅田川に架かる旧新大橋。1912年の竣工。関東大震災で1万人以上がこの橋の上に避難して助かった。1962年11月

 この写真集についてはもう一つ書いておきたいことがある。

 編集制作にあたって頭を抱え込んだのは、引き伸ばし暗室がなくなっていたことである。『宮本常一 写真・日記集成』のように、自分でプリントが出来なくなっていた。寄贈されたプリントは画質が悪く、もちろんプリントの外注は予算的に論外だった、

 仕方がないので、写真選びとページ構成は、撮影ネガと密着写真を頼りに、パソコンのExcel上でおこなった。それだけではすまなかった。印刷にさいしても、印刷所に頼み込んで、プリント見本をつけないまま、ネガフィルムから直接スキャニングしてもらう、という乱暴な方法をとった。仕事に苦労はつきもので、泣き言をいっても始まらないが、自分が時代錯誤のカメラマンであることをつくづくと思い知らされた。

(註)連載その1「『昭和二十年東京地図』と西井一夫」を参照。

 写真は『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』(毎日新聞社、2008)からの転載。

(ひらしま あきひこ)

2020年10月6日

1936年ベルリン五輪「友情のメダル」誕生まで ― 元大阪本社運動部・長岡民男さんの回顧録

 元大阪本社運動部の長岡民男さん(56年入社、89歳)が同人誌『人生八聲』24巻(2020年10月発行)に、1936年ベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」秘話を書いている。レニ・リーフェンシュタール(2003年没、101歳)女性監督の名画である。

 沢木耕太郎著『オリンピア—ナチスの森で』(集英社1998年刊)によると、棒高跳の決勝は8月5日午後4時から、午前中の予選を通過した25人によって争われた。

 3m60から始まって、4m15をクリアしたのは、日米5選手。4m25で世界記録保持者のウィリアム・クレーバーが失敗、優勝争いは4人に絞られた。

 日本の西田修平(早大→日立製作所)と大江季雄(慶大)、アメリカのアール・メドウス、ウイリアム・セフトンの4選手である。

 「午後8時、4メートル25の試技が終わると完全に日が暮れ、場内に13万ワットのライトが点灯された。雨は上がっていたが、外気の温度は急激に下がってきて、西田も大江も用意した毛布にくるまって体を暖めはじめた」

 バーは4m35に上がった。これをクリアしたのはメドウス1人だけで、メドウスの金メダルが確定した。

 2位は日米3選手による順位決定戦となったが、アメリカのウイリアム・セフトンが脱落、西田、大江両選手のメダル獲得が決まった。

 「2人は長い闘いに疲労していた。日章旗が2本揚がることは決まったのだ。別に同国人の2人で争うまでもない。西田が試技をやめると伝えると、審判員も了解してくれ、そこで競技は終了ということになった。すべてが終わった時、午後9時を過ぎていた」

 表彰式は、翌日回しになった。4m25を1回目に跳んだ西田が銀メダル、2回目に成功した大江が銅メダルと決まった。

 表彰式で2位の台に大江を上げたのは西田だった。「次の1940年東京五輪で金を狙うのは大江だから」の配慮だった。

3位の台に立つ西田(手前)と大江
銀・銅半分の「友情のメダル」

 「だが、1940年の東京大会が幻となり、大江がフィリピンで戦死する未来は、このとき誰にも見えていなかった」と沢木は結んでいる。

 『人生八聲』には、西田さんから直接聞いた話として、こう書かれている。

 《「あれはおかしいんだ。2位決定戦をやらないのだから2人とも2位(銀メダル)ですよ。当時のルールでは決定戦をやって順位を決めるんです」》

 1964年東京五輪で、西田さんは陸上競技の審判長をつとめ、長岡さんは大阪本社運動部からオリンピック取材班に派遣され、国立競技場で陸上競技を取材した。

 記録映画「民族の祭典」の撮り直しのことにも触れている。

 《「皆さん、明日はフィナーレです。全競技が終わったら、ポール(棒)を持って選手村の練習場に集まって下さい」。レニさんは5人に再撮影を告げた》

 《3m80から始まり4m20まで来ると、選手それぞれのフォームに個性がにじみ出るのが、映画人にもわかるようだ。

 「みなさん、軽々と跳んでいるけど落とすシーンも欲しいな」というレニさんの求めには笑いが渦巻いた》

 《西田さんが言う。「映画館で見て実写か、撮り直しかの区別なんかつきませんよ。撮影した人たちと我々選手以外はね」》

 2020東京五輪を前に、昨年12月21日(土)東京・京橋の国立映画アーカイブ(旧 東京国立近代美術館フィルムセンター )で午後1時から「民族の祭典」、4時から「美の祭典」が上映された。私にとっては、この2作品とも2度目だったが、棒高跳のシーンが撮り直したものも取り込まれているとは気づかなかった。

 《棒高跳のシーンは実写80パーセント、補強撮影20パーセントといわれる》と、長岡さんの原稿にあった。

 「友情のメダル」は、現在、早稲田大学史資料センターに、戦死した大江のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館に保存されている。

(堤  哲)

2020年9月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ  「東京ラビリンス」のあとさき その4

 文・写真 平嶋彰彦

 この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429083.html

 2006年8月に定年退職になった。『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編)が最後の仕事だった。「1966年の開館から40周年を迎える今、その革新的な建築技術・デザインとそれを具現したひたむきな情熱の原点を解読する」はこの本の帯の一節で、私が書いた。仕事を受けた時は編集だけのつもりだったが、いろいろな成り行きから写真も撮ることになった。連載その2でも書いたが、会社勤めの締め括りに現役のカメラマンであるのが夢だったから、誤解を恐れず言うなら、棚から牡丹餅みたいな話で、私にとっては忘れがたい仕事の一つとなった。

 表紙カバーには、パレスサイドビルを皇居北桔橋門から平川濠越しに撮ったカットを使った(ph1)。この門をくぐるとすぐ目の前が皇居本丸の天守台である。撮影はその年の5月3日。朝起きると雨上がりの空が抜けるような青さだった。憲法記念日で祝日だったが、こんな天気を逃したら後で悔やむことになると自分に言い聞かせ、不承不承ながら撮影に出かけることにした。案の定で、撮影は午前中で一段落したが、午後になると靄がかかってしまい、その日以降、ビルの特徴である白亜の円筒を際立たせる天候条件は一日もなかった。

 カバーの裏に使ったのは、屋上の庇で羽根を休め、皇居と東京の市街を見守るアルミ製鋳物の伝書鳩のカットである。西洋建築にも日本建築にもよくある魔除けの呪物だが、たいていは鬼や妖怪の類を守護神として飾っている。恐ろしくも何ともないハトというのは奇抜と言えば奇抜で、自由闊達な毎日新聞社になんとなく似つかわしいと思った。

 新聞社はどこもそうだが、伝書鳩がニュース速報の花形として長いあいだ活躍した。それに加え戦後になると、ピース(たばこ)のオリーブの枝をくわえたハトというデザインの影響が大きいと思うが、ハトは平和の象徴であるというイメージがひろまった。(註1)。パレスサイドビルはベトナム戦争が泥沼化した時代の建築である。ハト(伝書鳩)というモチーフには、武器ではなくペンによる平和を実現しようとする新聞社ならではのメッセージが込められていたように思われた。

 改めて資料を見直すと、パレスサイドビルは奇抜と言えば奇抜だらけだった。以下に紹介するのはその極めつけとも言える。巻頭の見開きに竣工当時の航空写真を使っている。撮影は建築写真の第一人者として知られる村井修。東正面玄関の車寄せに庇があるが、上から見下ろすと、なんと言うことか、庇の表面は白地に真っ赤な日の丸のデザインになっている。パレスサイドビルの設計は林昌二(日建設計)であるが、林は藤岡洋保(東京工業大学大学院教授)との対談で、その理由を次のように述べている。

 「あの頃は敗戦が悔しくて、上から見ると四角を白く塗って、真ん中の丸を真っ赤にしたんです。そうしたらそのちょうど上の2階にリーダースダイジェスト東京支社の社長室があって、トンプソンさんという人がびっくり仰天したらしいんです(笑)。でも塗り替えろとは言われなかった」(註2)

 リーダースダイジェスト東京支社の旧社屋は1951年の竣工で、アントニン・レーモンドが設計した。レーモンドはフランク・ロイド・ライトの弟子で、1919年に帝国ホテルの建設のため来日。そのまま日本に滞在し、聖路加病院や東京女子大チャペルなどを手がけた。1938年にいったん米国へ戻り、1941年には東京の設計事務所を閉鎖するが、戦後の1948年に再来日し、建築活動を続けた(註3)。

 林昌二は中学生のとき、空襲で家を焼失した戦争体験があった。米軍は日本本土を空襲するために焼夷弾を使用した。木造家屋を効率よく焼き払うこの爆弾の開発には、日本の住宅事情に詳しかったアントニン・レーモンドの協力があった、と林は言及している(註4)。

 そのレーモンドはリーダースダイジェスト旧社屋の建替計画を知ると、

 「自分の怒りを表現すべき言葉が見当たりません」

 と抗議文をパレスサイドビルの施主である3社に送った。これにたいする林昌二の言葉はこうである(註5)。

 「レーモンドは先生でありライバルでもあった。それが私たちの跳躍台になり、パレスサイドビルが建てられたのではないかと思う。リーダースダイジェスト社屋とはDNAを共有している。パレスサイドビルはリーダースダイジェスト社屋の“同地転生”である」

 パレスサイドビル正面の全面ガラスのカーテンウォールをリーダースダイジェスト旧社屋の写真と見比べれば、レーモンドのデザインを継承しつつ、さらに飛躍させようとしているのは素人目にも確認できる。屋上に造られた庭園もまた、旧リーダースダイジェスト社屋にあったイサム・ノグチが造った庭園を強く意識したもので、英国風の植栽で整備された芝生に置かれた自然石もノグチの庭園にあったものをそのまま利用している。

 私は28歳のときから40年余りパレスサイドビルに通った。建築は門外漢だから、オフィスビルとしての良し悪しは分からない。しかし、どことなく堅苦しく気取った名前にもかかわらず、人を威圧する雰囲気をまったくと言っていいほど感じさせない。そこが私のパレスサイドビルの好きなところだった。

 昨年の2月、皇居東御苑を訪れることがあった。大学写真部の旧友たちと続けている東京の街歩きで、パレスサイドビルの向かいにある平川門から入り、二の丸・本丸をめぐって、大手門に出るというコースだった。二の丸から本丸に通じる坂が2つあるのだが、灯台下暗しというか、不勉強というか、坂の名前と由緒はこのとき始めて知った。

 その1つが梅林坂で、ちょうど外国人観光客たちが満開に咲く梅の花を背景に記念写真を撮っているところだった(ph2)。家に帰ってから千代田区観光協会のHPをみると、梅の木は1967年の東御苑の開園に併せ植樹されたもので、坂名は1478(文明10)年に太田道灌が菅原道真を祀り、梅の木数百株を植えた故事によるという。そこで戸田茂睡の『紫の一本』(1681~83・天和年間成立)にあたってみると、次のように書かれている。

 「梅林坂 御城の内に在。此所に昔天神の社在り。是は太田道灌、武州入間郡川越御吉野の天神を勧請せらる」(註6)。
もう1つが汐見坂である(ph3)。汐見というからには、ここから海が見えたに違いない。『紫の一本』で改めて調べてみると、この坂にも言及があり、思った通りで、戸田茂睡はこんなふうに書いている。

 「塩見坂 梅林坂の上切手御門の内之此所より海よくみへ、塩のさしくるときは波たゞこゝもとによるやうなるゆえ塩見坂といふ。今は家居にかくれて海みえず」

 「塩見坂」は汐見坂のこと。「家居」は、大手町から日比谷までの一帯に大名屋敷が建ち並ぶ、いわゆる大名小路のことを指す。『江戸切絵図』(1849・嘉永2年)をみると、大名小路北西のはずれに御舂屋がある。現在地図に照らし合わせると、その跡地にパレスサイドビルが建っているのが分かる(註7)。

 海が見えなくなったのは、埋め立てたからである。太田道灌が江戸城を築いた1457(長禄元)年のころ、城内から間近に海が見渡せたことは知っていたが、汐見坂の坂名が今でも残っているのは新鮮な驚きだった。後代の史料になるが、『江戸名所図会』(巻之六、「自得山静勝寺」、1836・天保7年)によれば、太田道灌は寛正年間(1460~66)に上洛したとき、天皇から平生の眺望を問われると、次の歌を詠んで応答した(註8)。

 「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞみる」

 「庵」は江戸城内にあった道灌の居館のことで、静勝軒とも呼ばれたという。「海」は日比谷入江と称された遠浅の海岸線。浜松町・新橋から日比谷公園をへて、パレスサイドビルに隣接する丸紅ビルのあたりまで食い込んでいた。道灌にとって日比谷入江と富士の眺望は一番の自慢だったに違いない。

 日比谷入江は徳川家康が関東に入府すると埋め立てられ、1628(寛永5)年までに市街地(宅地)化された。パレスサイドビルの正面に平川濠と平川門があるが、平川は神田川の旧名で、現在は駿河台をへて浅草橋の先から隅田川に合流する川筋だが、もとは平川門の辺りで日比谷入江に注いでいたという(註9)。

 徳川幕府は日比谷入江を埋め立てる一方で、軍事的戦略と経済的流通の両面の観点から、江戸城を中心に濠と運河を縦横に開削した。林昌二の言葉を借りるなら、家康の江戸は道灌の江戸の“同地転生”であり、残された絵画や写真の史料を見れば、東洋のベニスと呼ばれるにふさわしい水辺の都市空間だったことが分かる。

 汐見坂近くの展望台に立つと、パレスサイドビルが一望にされた(ph4)。今から400年ほど前には、この辺りが日比谷入江の最奥部だったのである。画面手前が白鳥濠。その奥にみえる急斜面が汐見坂である。坂の正面方向を真っすぐたどると大手濠。その対岸の高層ビルの林立する一画に将門塚(大手町1-2-1)がある。

 将門塚の辺りには、現在は駿河台にある神田神社(神田明神)の旧社地があった(註10)。神田神社について、次のような記述が『永享記』にある(註11)。

 「神国[田]の牛頭天王、安房洲崎明神と一体にて、武州神奈川・品川・江戸、何[連]も此の神を祝ひ奉る。或る人の云く、平親王将門の霊を、神田明神と崇め奉るとかや」

 この記事によれば、神田明神の祭神は牛頭天王で、安房洲崎明神(天比理刀咩命)と本地垂迹の関係にあり、併せて平将門を祀っていたことになる。

 安房洲崎明神は航海の守護神で、所在地は東京湾の出入口である館山市洲崎。神奈川(現在の横浜市神奈川区南部)、品川、江戸に安房洲崎明神が勧請されたのは、そこが武蔵国における海上交通の要衝だったからだとみられる。ということは、神田明神の旧社地の辺りは、諸国からの廻船が集散離合する湊になっていたことを示唆する。中世のころの江戸城の位置は学術的には実証されていないというが、「松原つづき海近く」と道灌が詠んだ水辺の景観は、現在の大手濠辺りのことではなかったかと想像される。

(註1)タバコのピースが、オリーブの枝をくわえるハトのデザインで売り出されたのは1951年。このデザインの美しさは鮮烈で、タバコは吸わなくても小さいころから、ピースが平和を意味することは知っていた。
(註2)「デザインや技術、モノづくりに対する高い志を結晶させた大規模複合ビルの先駆」(『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』所収、毎日新聞社、2006)
(註3)「RAYMOND」(株式会社レーモンド設計事務所HP)。
(註4)『建築家 林昌二毒本』(新建築社、2004)
(註5)「アントニン・レーモンドを超えて」(土屋繁、『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』所収)
(註6)『紫の一本』(上巻、1714・正徳4年発行本、国会図書館デジタルコレクション)。御吉野は三芳野。
(註7)「御江戸大名小路絵図」(『江戸切絵図』所収、尾張屋版、1849・嘉永2年、国会図書館デジタルコレクション)。御舂屋は「江戸幕府営中の諸士に給する領米をつく所」(『精選版 日本国語大辞典』)
(註8)『新訂 江戸名所図会5』(ちくま学芸文庫、1997)
(註9)「江戸の上水」(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』所収、鈴木理生編、柏書房、2003)
(註10)「神田神社」(『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』所収、平凡社、2002)
(註11)『永享記』は永享の乱(1438年)とそれ以後の関東の動乱を描いた軍記物語。作者、成立年代は不明。『続群書類従』所収。

(ひらしま あきひこ)

2020年9月1日

東大新聞創刊100年、毎日新聞で活躍したOBたち

 東大新聞をウィキペディア(Wikipedia)で見ると——。

 1920(大正9)年12月「帝国大学新聞」創刊。
 1944年京都帝国大学新聞と合併して「大学新聞」と改題。
 戦後1946(昭和21)年4月「学園新聞」(京都大学新聞の前身)を分離。5月「帝国大学新聞」。
 1947年10月「東京大学新聞」。
 1948年末休刊。
 1949年「東京大学学生新聞」創刊。
 1957(昭和52)年「東京大学新聞」と改題。

 東大新聞は、ことし創刊100年を迎える。「暮しの手帖」花森安治、作家の田宮虎彦、杉浦明平、「週刊朝日」の名編集長扇谷正造らを生んだが、毎日新聞にも何人もOBがいる。

 卒業年

 久富達夫(1925)政治部長。東大ラグビー部第2代キャプテン。「創刊に関わった」
 水野可寛(1925)南方新聞部長。スポーツ毎日編集長。水野順右(58年入社)の父。
 大塚虎雄(1926)ベルリン特派員。新聞連載『学界新風景』『学界異聞』を出版。
 野沢隆一(1927)「帝国大学新聞」社長と呼ばれた。共同テレビニュース社長。
 宮崎健蔵(1929)校閲部長。上智大学教授。
 松浦年三郎(1931)札幌支局、学芸部、政治部、整理部。
 平岡敏男(1932)経済部長。ロンドン支局長。毎日新聞社長。
 高原四郎(1933)学芸部長。サンデー毎日編集長。西部本社編集局長。監査役。
 高松棟一郎(1934)NY特派員。サンデー毎日編集長。東大新聞研究所教授。
 沢開 進(1939)編集委員。「ときの人」欄担当。
 莇 仁蔵(1940)エコノミスト編集長。経済部長。東京本社編集局長。
 柳原義次(1952)ソウル特派員。東欧特派員・ボン支局長。論説委員。
 天野勝文(1957)論説委員。筑波大教授。日大教授。
 高木暢之(1960)シンガポール・ジャカルタ支局長。論説委員。日大教授。
 橋本光司(1966)大阪本社編集局長。西部本社代表。
 潮田道夫(1974)ワシントン特派員。経済部長。論説委員長。帝京大教授。
 瀬川至朗(1977)ワシントン特派員。科学環境部長。早大政経学術院教授。

 高原四郎の「回想の東大新聞」(月刊「文藝春秋」1956年12月号)、元共同通信・東大新聞研究所所長・殿木圭一「帝国大學新聞のころ」(日本記者クラブ会報1979年1月10日号)などから毎日新聞に入社してトロッコから記者になった人達のエピソードを拾うと——。

 久富(旧姓:郷)は工学部造兵科と法学部の2学部を卒業している。一高時代に柔道部、水泳部に入り活躍、ボートも漕いだ。東大ラグビー部は、1921(大正10)年11月香山蕃が三高のラグビー部員ら31人で創部したが、そのメンバーに久富は入っている。

 久富は、香山のあとの第2代キャプテン。大阪毎日新聞に入社して、ラグビー部をつくり、選手としても東西対抗に出場している。

 《この人はあけっぴろげの明るい性格で、学生たちによく酒をのませた。会えば必ず家にのみにこいというので、本郷金助町という地の利もあってときどき大挙して久富家へ押しかけていった。学生たちは久富氏に「親分」の愛称を捧げていた》

 久富家には4斗樽が置かれ、政治部の記者やラグビー仲間、東大の学生らでいつも大宴会だったという。

 関東大震災では、罹災した避難民3千人が東大構内につめかけた。久富は先頭に立って避難民の救護にあたった。

 東大セツルメントは関東大震災で生まれるが、社会部旧友水野順右の父親水野可寛の名前がある。可寛は「セレベス新聞」にも派遣された。

 高原が「帝大新聞」の「社長」だったと書いている野沢隆一(1902~1991)。東京日日新聞での実績は分からないが、人事録には戦後信越放送社長、フジテレビ取締役、共同テレビニュース社社長・会長などとある。

 《帝大新聞のボロ社屋に平岡氏を始終訪ねてくる顔色の悪い学生がいて、その名前を津島といった。これが後年の太宰治であった》

 旧制弘前高で太宰と一緒だった平岡敏男。毎日新聞社が経営危機にあったとき、新社を設立して、社長に就任した。その後、旧社に残した負債を返済して、新旧合併して今の毎日新聞社がある。1986(昭和61)年の広島原爆忌に亡くなった。77歳だった。

 柳原義次。写真家・沢田教一がピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。写真に写った家族を探し出して記事にしたのが柳原だった。

 ここまでは実際に話したこともない大先輩。「東大新聞」OBといえば、社会部旧友天野勝文だ。1957(昭和32)年東大文学部社会学科卒で、毎日新聞入社が2年後の59(昭和34)年。この2年間、経営破綻した「東大学生新聞会」が「財団法人・東京大学新聞社」として新発足し、その専従職員だった。

 リクルート創業者である江副浩正(1936~2013)が自伝『かもめが翔んだ日』に、天野との出会いを書いている。《「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」といわれたと》

 「新聞は下から読め」「広告もニュースだ」から、東大新聞に大手企業の求人広告が続々掲載されるようになった。江副は、そのノウハウを持って「東大新聞」をおさらばする。

 東大新聞の復刻版が発行されている。関東大震災で東大の図書館も焼けた。収められているのは、1923(大正12)年11月以降。第1号~第56号(大正9年12月25日の創刊号から大正12年10月)までを版元の不二出版も探している。

 なお、日本で最初の学生新聞は慶應義塾大学の「三田新聞」で1917(大正6)年5月創刊した。「東洋創始」をうたった。1971(昭和46)年に休刊したままである。

(敬称略)

(堤  哲)

2020年8月14日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その3 『宮本常一 写真日記集成』――最後の暗室作業

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索をしてください。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53432163.html

文  平嶋彰彦
写真 宮本常一

 『宮本常一 写真日記集成』の上下巻に収録した写真は約3000カット。宮本常一の撮影ネガは約1700本。撮影年は1955年から1980年。フィルムはフルサイズが3分の1、ハーフサイズが3分の2という感じだろうか。所蔵する周防大島文化交流センターによると、総カット数は約10万とされる。その中から約5400カットを選んで、六つ切りサイズのプリントを2セットつくった。1セットはもちろん印刷用原稿であるが、1セットは周防大島文化交流センターへの寄贈するためだった。

 写真選びは周防大島へ出向き伊藤幸司と2人で行った。プリント作業は、最初から私1人でこなすことにし、他人にまかせるつもりはなかった。

 一番の理由は、編集経費を抑える必要があったからである。

 専門のラボに外注することは予算的に問題外だった。といって、私の古巣だった出版写真部にも頼むわけにもいかなかった。社内制度がそうなっていなかった。仮に引き受けてくれたとしても、プリント代は予算の許容範囲を超えていた。しかし、私自身が処理すれば、印画紙代と薬品代の実費ですんだ。社内業務であるから、さすがに暗室の使用料を払えとまでは言わない。

 編集経費だけでなく、印刷経費も圧縮しようと考えた。

 そのため、写真集しかも豪華本の体裁であるにもかかわらず、1折(16ページ)か2折を除いて、色校はとらない方針だった。その前提として調子の揃った統一感のあるプリントが必要不可欠だった。しかもカット数は4桁と中途半端ではない。私自身で暗室作業をするのが、手っ取り早いだけでなく、安全かつ確実な方法だった。

 西井一夫と2人で、『20世紀の記録』(全20巻)の準備作業として、毎日新聞写真部のネガ倉庫を探索し、埋もれた写真資料を発掘したことがあった。そのときの経験から、1日平均50カットはプリント出来そうに思われた。実働日数を20日とすれば、1ヶ月に1000カットということになる。

 事前に選んだのは4000カット前後だった。印画紙4枚で完成品2枚、つまり1カットにつき没プリント2枚という目安で予算を立てた。実際に作業を始めてみると、思ったほど無駄を出さなくてすんだ。そこで、その分だけプリントするカット数を増やし、最終的には約5400カットをプリントした。ネガは2回に分けて借り出したが、その間に予期しない空白期間が生じたりして、暗室作業を始めてから終わるまでに半年余りかかった。

 1日の作業時間は、ほかに予定がなければ、朝9時半に出社して、夜8時には作業を打ち切った。それ以上やっても能率が悪くなり、翌日の作業に支障をきたした。朝はネガの見直しと準備、夜は後片づけとプリントの整理で、それぞれ1時間から1時間半を費やした。1日に暗室に籠れる時間は7時間半程度だった。昼食は時間が惜しいので、妻に弁当をつくってもらい、出版写真部のスタジオでとった。

 引き伸ばし機はイルフォードのマルチグレード・システムで、現像機はやはりイルフォードの自動現像機。自動現像機の利点は、プリントが出力されるまでの間にもう1台の引き伸ばし機を使って、同時並行的に作業を進行させられることにあった。

 テストプリントは本番と同じ六つ切りサイズ。結果がよければそのまま完成品にし、気に入らなければ、全体の露光時間の増減、焼き込みと覆い焼きの仕方、それぞれの場合の印画紙の号数の使い分けなどをテストプリントに書き込み、それを見ながら焼き直しをした。出力したプリントは1枚ごとに、明るいところへ持って出て、プリント見本と見比べた。これはあらかじめ印刷所と相談し、傾向の違うネガから引き伸ばして10枚ほど用意しておいた。展示用のプリントとしては、少しコントラストが足りない気もしたが、印刷用のプリントとしては、その方が画像調整しやすいというので、それにしたがった。

 もう一つ、私が自分でプリントすることにこだわった理由がある。

 宮本常一の写真をプリントした2003年には、報道メディアの撮影機材は、フィルムカメラからデジタルカメラにほとんど移行していた。そのため、白黒写真のプリント暗室は無用の長物となり、毎日新聞社でも4本社1支社の写真部に置かれた暗室はすべて撤去されてしまい、たった一つ出版写真部の暗室だけが残っていた。

 東京本社のあるパレスサイドビルが竣工したのは1966年で、3年後に私は入社した。そのころ、プリント暗室は写真部(新聞部門)と出版写真部(雑誌・書籍部門)の2つに分かれていて、どちらも最新鋭の仕様になっていた。引き伸ばし機の主力はフォコマートで、壁の両側に何台も並んでいた。また、部屋の中央には、半切の印画紙が処理できる現像液と定着駅のバットが1列に置かれていた。現像液は硬調と軟調の2種類があり、現像液も定着液も蛇口をひねるだけ、液温も自動的に調節される仕組みになっていた。

 私が写真を覚えたのは白黒写真が全盛の時代だった。印画紙を現像液のバットに浸すと、わずか1分半か2分の間に、画像が浮かび上がってくる。まるで神仏の奇跡を目の当たりにするようなわくわくする興奮は、この年齢になっても忘れられない。出版写真部での仕事は白黒写真とカラー写真が半々だったが、私にとって写真と言えば白黒写真のことで、撮影もさることながら写真は暗室でつくるものだった。

 暗室が必要でなくなれば、白黒写真のプリント技術者も必要でなくなる。中間管理職になり撮影をほとんどしなくなっても、出版写真部に在籍していた間は、毎日欠かさず暗室に入るように心がけた。撮影もプリントもスポーツと同じで、日ごろの訓練を怠ると、感覚が鈍り技術も衰える。白黒写真のプリント技術は、私にとってカメラマンとしての存在理由でもあった。宮本常一の写真5400カットをプリントする仕事は、カメラマン人生の最後として願ってもない檜舞台だった。

 この六つ切りの印刷原稿をそのまま使って写真展を開催することが2回あった。

 最初は『宮本常一 写真日記集成』の刊行直後で、写真家の伊藤愼一から連絡があった。写真雑誌『グラフィカ』の創刊号で、宮本常一の写真を巻頭特集に組みたい、併せてギャラリー・ガレリアQ(新宿3丁目)で個展を開きたい、という。伊藤は毎日新聞写真部の後輩にあたり、「ガレリアQ」の中心メンバーで『グラフィカ』の編集人の1人だった。

 雑誌に掲載した写真は約60カット、個展の点数はそれよりやや少なかったと思うが、どちらも写真選びと構成は伊藤愼一が行った。この個展では、額装して見せることにした。晴れの日のよそ行きの衣装という感じだろうか。

 もう1回は、その年の「写真の会賞」をもらったときの記念展覧会で、フォトギャラリー・Place M(新宿1丁目)が会場だった。このときは200点余りを透明のビニール袋に入れ、それをピンで止め、壁面に隙間なく並べた。こちらの写真選びと構成は私が行い、ガレリアQでの展示との重複感を避けるため、印刷原稿の雰囲気を生かす方法を考えた。

 『宮本常一 写真日記集成』(上下巻別巻1)には附録があり、そこでは私の敬愛する写真家の荒木経惟と森山大道から、聞書きの形であるが、好意的な感想記事を寄せてもらっていた。そのおかげで、自分が的外れな企画に血道を上げているのではないか、という不安に悩まされることはなくなっていた。そして、予期もしなかったこの2つの写真展を開いてもらったとき、それまで自分がしてきたことを、自分でも少しは褒めてやっていいかも知れないと思えるようになった。
写真は『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。

(ひらしま あきひこ)

香川県丸亀市本島笠島。草履の芯縄をなう。1957年8月31日。
山口県萩市見島。剣崎イカを干す。1960年8月3日。
佐賀県東松浦郡玄海町。農耕牛を連れた若い女性。1962年10月2日。
青森県むつ市大字田名部。恐山地蔵堂。死者の口寄せをするイタコとそれに聞き入る参詣客。1964月7月22日。

2020年8月11日

来年も8・6にはヒロシマへ——88歳、関千枝子さん

 関千枝子さんのブログ8月上旬号——。

 新型コロナの蔓延とまらず、小池都知事は、不急不要の出掛けは控えろ言っています。そんなことで今年の廣島原爆忌 8月6日は広島行きを止めた人、団体が多く、市の式典もほんの少数に制限、総理ら要人が来ているためか、式のときは、平和公園の式場のあたりは一般の人を入れず腹立たしい86でしたが、私は「不要」ではないぜひとも広島に行くぞと広島に行ってきました、私の作品「広島第二県女二年西組」を朗読劇にしてくださっているグループが幾つかあるのですが、そんな公演が、コロナのため全部中止になる中、一つのグル―プは大阪府島本町の平和反核の展示会で観客を20人にしぼってですが、公演を成功させたのです。奇跡的な事と思いました。その俳優の方々が、広島に見えるというので、私も張り切り関係場所を紹介し、また6日、街の慰霊祭は取りやめたところが多いのですが、私の学校の慰霊祭はちゃんとやったのです、俳優の人たちも参加し、花を捧げてくださいました。当時の先生が99歳になる方(女性)がいらっしゃるのですが、先生この日福山から見え、私が慰霊祭に来たことを涙を流して喜んでくださいました。

 本当に残念な86でしたが、私にとっては忘れられない8月6日になりました。

 式典でも広島市長は平和宣言で、核兵器禁止条約に署名、批准せよと言ってくださいました。去年までは少しもこもこしていたのですが、今年は、決然と。それに対して相変わらず触れようともしない安倍総理、私は本当に腹立たしく思っています。

 ヒバクシャにもさまざまな考えの方がおられますが一致しているのは、あんな爆弾はもういらない。ヒロシマナガサキで終わりにしよう、あんなひどい爆弾はどこの国人の上にも落としてはいけない、ということです。それを実現するには核兵器禁止条約しかありません。

 とかく弱腰の廣島市長が今年ははっきり言ってくれたこと本当にうれしかったです。

 いつの8月5日、6日には人で一杯になる広島でしたが、今はコロナのため本当に寂しかった。でも広島に来た人もたくさんいるし、皆さん核兵器廃絶の思いを強くされたと思います。

 原爆から75年。広島は本当に美しくたくましく繁栄しています。然し私は75年前のことが今もそのまま甦ります。私のクラス全滅したクラスメートが生きていたら。クラスメートのためにも生徒を抱きおんぶして死んだ恩師のためにも;私の生きている間に核兵器をなくしたい。

 でも、それは難しいかなあ、今回の旅有意義でしたしコロナも大丈夫ですが、何しろ私も88歳、相当くたびれました。でもまだまだ頑張るぞ。来年もまた86にはヒロシマに行きたい。

2020年8月11日

補聴器と出会ってからの日々―田原総一朗さんにも勧めて 鳥越俊太郎さんのつぶやき

 私は60歳過ぎた頃から耳に変調が出始めた。恐らく新聞記者、週刊誌記者、そしてテレビのキャスターとして全速力で生きてきたことのストレスが、年齢が積み重なると共に耳という弱い部分に手を出してきたんだろう。

 最初は耳鳴りだった。

 ある日ゴルフに行って午後の最初のホール、ドライバーを構えた背後で虫が鳴いているのに気づいた。うるさいなぁ。振り返った背後には、ただ芝生が広がるだけで樹木は一本もなかった。あれ?おかしいなぁ?虫はいないな。その日はその虫の疑問を引きずりながらゴルフを終えた。

 私は自分が運転する車で帰途についた。すると、なんと車の中にあの虫がいるのだ。道路の脇に車を停めて車の中をチェックした。だけど、車に虫なんかいない。あれえ?どうしたんだろう?

 私は暫し呆然として立ち尽くした。

 その時だ。あ、そうか、あの虫は外じゃない、耳の中にいるんだ!

 ようやく虫の存在の実態に気づき、それが私の耳の障害との付き合いの始まりだった。やがて聞こえの悪さに気づき、そのうち目眩が起きるのを経験した。ようやく訪れた病院で医師から

 「あなたの耳の病気はメニエール病です」

 そして、分かったのはメニエール病には根本的治療法はないということだった。症状は三つだが、耳鳴りと目眩は自分で受け止めるしかなく、今でも半狂乱になる一歩手前でなんとか生きている状態だ。

 ただ、耳の聞こえには救いの道が開けていた。そう、それが補聴器だ。そして私の前にシーメンス補聴器が現れたのだ。今ではシグニア補聴器と呼ばれている。

 私は左の耳がほとんど聞こえない。だから、テレビでインタビューをする時は、相手は必ず、右側に座ってもらう。そんな人の知らない苦労をしていたが、補聴器と出会ってからはその苦労も改善された。

 手足の不自由な障害者は誰もが気づいてくれる。しかし、耳の障害には誰も気がつかない。家の中でもテレビのドラマは字幕がない限り理解不能な物語だ。ニュース番組も聞こえないのでどうしても音量を上げてしまう。今では妻も私の耳の障害を理解して、音量の異常さを分かってくれる。ただ、補聴器を装着するようになってから、テレビ音量問題も解消した。

 そういう耳の障害と格闘していた頃に田原さんと話す機会があったのだと思う。実は私はその出会いを実は覚えていない。まあ、高齢者だから仕方がない。

 田原さんが補聴器を装着するようになって、「補聴器つけて気持ちおだやかに」と言っておられると聞いて嬉しい。

 ほとんど誰にも理解されない耳の障害者の身になってみるとそんなことが、嬉しいのだ。

 「ああ、この辛さを分かり合える人がここにもいた!!」

(鳥越 俊太郎)

 ※新聞記事は朝日新聞7月27日付生活面

2020年7月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その2

 『宮本常一 写真日記集成』――「親父の雑駁な写真」がテーマです。平嶋さんのエッセイは毎月14日に更新されます。下記URLで検索ください。

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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その2 『宮本常一 写真日記集成』――「親父の雑駁な写真」 文 平嶋彰彦  写真 宮本常一

 「東京ラビリンス」(『昭和二十年東京地図』)を撮影したのは1985年から86年にかけてだが、それから1年後、41歳のときに出版写真部のデスクになった。写真取材の手配と写真のとりまとめが仕事である。ちょうど、自分なりの写真が撮れるかも知れないと思いはじめた矢先だったから、デスクワークに専従する気持ちにはなれなかった。わがままを聞いてもらって、1ヶ月のうち10日ぐらいは自分でも撮影に出るようにした。

 しかし、部長職になると、それも怪しくなった。46歳のときである。そもそもデスクが仕事をくれない。考えてみれば無理もない。だからといって、好き勝手にふるまうわけにもいかない。写真が撮れないとなると、写真職場に執着する意味もなくなった。

 50歳のとき、出版制作部長への人事異動を打診された。用紙と印刷の管理部門で、写真職場とはまったく畑ちがいである。無茶な人事だと思ったが、断る理由も特に考えつかないので、言われるまま黙って引き受けた。

 思いがけないことはもう一つあった。1年ほど過ぎてからだったか、用紙と印刷の管理をしながら、併行して雑誌の編集をしなければならない羽目になった。私に編集する能力があったわけではない。しかたなく、後述する伊藤幸司の紹介で、フリーの野地耕治(編集者)と三村淳(デザイナー)に助けを求めた。彼らの後ろ姿をみながら、絵に描いたような50歳からの手習いで、編集の仕事を少しずつ覚えていった。

 2005年に『宮本常一 写真日記集成』(上下巻別巻)を刊行した。定年退職する1年前、59歳のときである。出版制作部からビジュアル編集室へ移って4年目にあたる。夢とも理想ともつねづね思っていたのは、野球の野村克也に倣えば、退職にあたって、生涯1カメラマンだと自信をもって言えることだった(註1)。といっても、写真職場にもどれる可能性はまったくなかったし、またもどったところでどうなるものでもなかった。どのみち、自分の仕事は自分でつくるしかないことになる。

 私のカメラマン生活の総決算と言えば理解してもらいやすいかも知れない。自分としてはめずらしく気負って取り組んだのがこの『宮本常一 写真日記集成』だった。実質的な編集期間は1年足らずだが、企画から刊行までに4年半を費やした。

 宮本常一が一枚の写真を読み解き、それについて1時間でも2時間でも話ができることを聞いたのは、1970年代の半ばで、30歳前後だった。また宮本自身も好んで写真を撮り、ハーフサイズのオリンパスペンが愛用のカメラだというのである。教えてくれたのは先にも書いた伊藤幸司である。早稲田大学写真部の同期生だが、かけ持ちで探検部にも所属していた。大学を卒業した後は、フリーの編集者として身を立てながら、宮本常一の主宰する日本観光文化研究所(観文研)の活動に参加していた。

 自分の撮った写真にキャプションをつけるのは、日常的な業務の一環だった。しかし、1時間も2時間も話すとなると、まるで話が違ってくる。自分にはとうてい真似することはできない。写真を解読する並外れた能力を想像すると空恐ろしさを感じた。しかし、その場の話として聞き流してしまい、その後に読んだ著作も『越前石徹白民俗誌』と『山に生きる人々』、それに『庶民の発見』だけだったような気がする。

 網野善彦を神奈川大学の日本常民文化研究所(常民研)に訪ねることがあった。網野は言わずと知れた歴史学者で、常民研の所長も務めていた。出版写真部にいたころで、1990年代だった。用件は『エコノミスト』の原稿依頼で、デスクの北村龍行に同行を誘われ、ついていっただけなのだが、雑談のなかで、次のような興味深い話を聞くことが出来た。

 網野善彦は、まだ常民研が水産大学に仮住まいしているころ、この研究所に在籍することがあった。宮本常一の席は目の前で、あいさつや日常会話を交わすことはあったが、一緒に調査活動をする機会に恵まれなかった。しかし、海からの視点で日本史を見直す必要があるとか、日本列島の東と西では文化的な差異が認められるという自分なりの歴史観は、後年になって読んだ宮本常一の著作からの影響が大きかったという。

 また、神奈川大学に移転して以降は、高取正男が所長を務めるはずだったが、若くして急逝してしまった(註2)。自分は高取正男と親しかったこともあり、所長の職を頼まれたとき、断るわけにいかなかった、というのである。

 網野善彦と高取正男の目ぼしい著作を、私はなるべく読むようにしていた。しかし、歴史学と民俗学の気鋭と評されたこの二人の学者に厚い親交があったことは知りもしなかった。この話を聞いてから、宮本常一という民俗学者に特別な関心を抱くようになった。

 2001年に宮本常一の『空からの民俗学』(岩波現代文庫)を伊藤幸司から贈られることがあった。3部構成の最後が「一枚の写真から」で、彼の写真が取り上げられていたのも興味深かったが、読み進んでいくにつれて、30年前に彼から聞いた話がよみがえると同時に、宮本常一自身の撮影した写真をやたら見てみたくなった。

 伊藤に問い合わせると、宮本常一の長男で、『あるくみるきく』(観文研)の編集長だった宮本千晴さんに連絡をとってくれた。伊藤の報告によれば、宮本常一の写真をまとめた写真集はこれまで刊行されたことがないし、出版企画の申し込みもいまのところない。撮影フィルムは宮本の郷里である山口県東和町(現周防大島町)に寄贈され、データベース化が進められているとのことだった。そこで千晴さんに直接お会いすることにし、出版企画の意向を伝えると「親父の雑駁な写真がはたして写真集にまとまるでしょうか」という意味深長な答えが返ってきた。

 営業的な常識からすれば、顔を背けたくなる企画である。通るわけがないと、なかば諦め気分で、出版局長の仁科邦男に持ちかけると、「おもしろいかも知れない。どうせやるのなら、資料として後まで残るものにしたい」という思いもよらない反応だった。

 正式に刊行計画を立てるためには、先ず周防大島まで出かけ、ものになるかならないかを確かめる必要があった。そこで、東京農業大学の米安晃名誉教授に協力をお願いする手紙を書いた。米安晃さんは、撮影フィルムをはじめ、宮本の遺品を郷里へ寄贈することを勧めた人物で、米安家は宮本常一の祖母の実家にあたる。

 以下は、そのとき私が書いた手紙の一節。『宮本常一 写真日記集成』の附録に掲載された伊藤幸司の「はじまりの話」からの引用である。正確な日付は分からないが、前段に「今月中、盆休みの後」の記述があるから、2001年の8月のことである。

 「私個人には、宮本常一先生が撮った写真をぜひ見てみたいという、一読者としての根強い欲望があります。また、絵巻物などの解読に腐心され、学問的な先鞭をつけた宮本常一の写真がつまらないわけがない、という確信もあります。千晴さんの話からも、先生がフィールドワークの単なるメモ以上に写真を考えていたのは、どうやら間違いないようです。先生には職業写真家が作品として写真を撮るのとは違った、たとえば絵巻物に描かれた風景や人物を読み解いていったような、一種独特の方法論があったと想像するのです。それは先生が言語の形で書き残した膨大な記録に繋がっていると同時に、写真でしか残せなかったことなのかも知れません」

 それより2ヶ月後の10月、伊藤幸司(編集者)、福江泰太(編集者)、鈴木一誌(デザイナー)と私の4人で、周防大島に赴き、一泊二日の現地調査を行った。同じ附録に、その時の印象を私はこう書いている。

 「宮本常一の撮影フィルムに初めて目を通したとき、民俗学の調査記録というよりも、むしろ民俗学の視点をもったジャーナリストによる庶民の戦後昭和史ではないか、毎日新聞社がこれまで手がけた現代史を写真中心に綴った『昭和史全記録』『戦後50年史』『20世紀の記録』(全20巻)に匹敵するか、あるいはそれ以上の記録資料になりうるのではないか、という思いに直撃された。どの撮影フィルムにも見たものを記憶に残そうとする宮本の内発的な意思があふれていた。露出やピントを外した写真がやたらに目立ち、下手な素人写真といってしまえばそれまでなのだが、写真がつまらないかというとまったくそうではない。理由もなく引き伸ばし機にかけてプリントしてみたいという衝動にかられた」

 文中の『昭和史全記録』『戦後50年史』『20世紀の記録』(全20巻)はいずれも、前回の連載その1で書いた西井一夫が企画し編集長を務めた。2000年12月、西井は『20世紀の記録』が完結すると、毎日新聞社を早期退職するが、その直後に食道癌を発症し、2001年11月に亡くなった。この現地調査の1ヶ月後である。社報の死亡記事は私が書いた。

(註1)野村克也。

 1978年、西武ライオンズのフロリダキャンプで、野村克也から「しばらく朝食をつきあってくれないか」と頼まれた。現役引退の2年前になる。『毎日グラフ』の「魅力の周辺」という連載ページで、一度取材したことがあるが、それだけの関係にすぎない。聞くと、食事には話し相手が要るという。乗換のサンフランシスコ空港では、息子(ダン野村)と一緒にいるところを写してくれと、内緒で頼まれたこともあった。キャンプ初日、野球音痴の私を相手に、野村が問わず語りに漏らした感想はこうである。「キャッチボールは肩慣らしだけじゃない。コミュニケーションの大事な手段であるのに、それが徹底していない」。夜になると、誰が声をかけるわけでもなかったが、スポーツ記者たちがロビーに集まるようになり、野村克也の野球教室が始まった。

(註2)高取正男。

 民俗学者、歴史学者。1926-1981。宮本常一の1981年1月3日の日記に「高取正男死」とある。宮本は都立府中病院に入院中で、同じ月の1月30日に亡くなった。高取正男が宮本常一に敬意を抱いていたことは、『差別の根源を問う』(野間宏・安岡章太郎編)を読むと如実に伝わってくる。高取正男の主な著書に、『日本的思考の原型 民俗学の視角』、『神道の成立』『高取正男著作集』全5巻、『民間信仰史の研究』などがある。

山口県大島郡周防大島町大字浮島楽江。学校から船で帰る小学生。1960年10月26日
長崎県壱岐市郷ノ浦町。煉り櫂を操る子どもたち。1962年8月3日
佐賀県唐津市鎮西町加唐島。台風一過、出漁を待つ漁師たち。1962年8月9日
北海道利尻郡利尻町。海岸に干したコンブをとり込む親子。1964年8月3日

 写真は『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。下巻、関野吉晴、2006)

『宮本常一が撮った昭和の情景』上下

 『宮本常一が撮った昭和の情景』上下2巻を図書館から借りた。改めて民俗学者宮本常一のスゴサが分かった。

 「写真プリント平嶋彰彦」。「10万カットから選び抜いた850点」と取り組んだのが、平嶋クンだ。

 ネットで読者の感想を拾った。

 ある新聞のコラム。《▼市井の人々の姿が映し出されているだけの即物的な写真集で、決して何かを狙ったものではないが、強く感じるものがある。写真の中の人々の目の輝きが、今を生きるわれわれとは違って明らかに強い光を放っている▼今よりもずっと貧しかった時代でも、人々は生き生きとした表情をしている。幸福とは何だろうと、あらためて考えてしまう》

 別のブログ。《山口県柳井市の川と家並みを撮った写真では、「町家は川の上に張り出してたてられたものもあり…家が川に向きあっているところでは川はきれいである。そういうところでは川へゴミをすてない。ところが家々が川を背にすると、容赦なくゴミを川へ捨てはじめる。町は表通りが厚化粧をはじめると、裏側はたいていよごれて来るものである…」などというキャプションがついています。なるほど、たしかにうなづけます》

 もうひとつ。《変貌のさ中にある村、街の人々の笑顔が素晴らしい》

 毎日新聞社刊、2,800円+税

2020年7月20日

110年前、関西には野球場がなかった!

 春のセンバツ出場が決まっていた32校が8月10日から真夏の阪神甲子園球場で交流試合を行う。各校1試合、応援団の熱い声援はないが、思い出のコロナ大会となろう。

 高校球児憧れの「甲子園」。甲子園大運動場の完成は、甲子(きのえね)の1924(大正13)年で、夏の第10回大会から使われている。

 それ以前はというと、第1、2回大会は阪急豊中駅から西へ500mほどにあった豊中運動場。現在「高校野球発祥の地記念公園」になっている。記念碑が建てられ、歴代優勝・準優勝校のプレートが飾られている。

豊中市にある高校野球発祥の碑(豊中市のHPから)
鳴尾球場跡地(筆者撮影)

 第3回からは、鳴尾運動場。阪神沿線西宮市内の競馬場のラチ内に、野球場を2つ造った。大会の日程短縮にも寄与した。甲子園球場から南へ1キロ余り、浜甲子園運動公園に記念碑が建っている。

 余談ながら、この鳴尾球場建設には、毎日新聞OB・橋戸頑鉄(本名:信、1936年没、57歳)が貢献している。当時大阪朝日新聞の記者だった。

 2019年に朝日新聞が出版した『全国高等学校野球選手権大会100回史』の〈大会が生んだ野球人〉に名前がある。第2回大会のページだ。「前年から手がけられていた野球規則を完成させる。野球殿堂入り」。

 1915(大正4)年。「第1回大会を開催する段になって、まだ日本には満足な邦文の野球規則がないのに気づいた」(上野精一元朝日新聞社長)。アメリカの野球規則を翻訳したが、完全ではなかった。第1回大会のあと、当時「萬朝報」記者・頑鉄が招ねかれたのだ。

 頑鉄は、1903(明治36)年の第1回早慶戦、05(明治38)年早大アメリカ遠征のキャプテン。帰国後に『最近野球術』(05年11月博文館刊)を著すなど、一番の野球通だった。のちに「東京日日新聞」(現毎日新聞)から声がかかり、都市対抗野球大会を創設する。最高殊勲選手賞「橋戸賞」に名前が残る。

 ◇

 中等学校野球の全国大会が始まる5年前の1910(明治43)年、「大阪毎日新聞」(大毎、毎日新聞の前身)が米シカゴ大学と早稲田大学を関西に招いて3試合を行った。

 シカゴ大は早大に招かれ来日したが、東京で早大、慶大と各3戦、早大OBの稲門倶楽部とも試合をしたが、7戦全勝だった。

 関西で初の国際野球試合——。その特集紙面が以下だが、阪神間には観客を入れて野球の試合をするグラウンドがなかった。阪神電鉄は、大毎の要請を受け、香櫨園遊園地内に野球場を造った。

「大阪毎日新聞」シカゴ大vs早大戦見開き特集1910(明治43)年10月23日付

 香櫨園遊園地は現存しない。現在の阪神香櫨園駅ではなく、阪急夙川駅の西側とJR線の間に広がる8万坪。池にウオーターシュート、庭園にメリーゴーラウンド、奏楽堂や動物園、博物館などが設けられ、当時としては一大テーマパークだった。命名の由来は、山林原野を購入した大阪商人の香野蔵治と櫨山喜一の苗字からだ(野球文化學會論叢「ベースボーロジー」第11号、市居嘉雄氏「香櫨園運動場で関西初の国際野球試合」)。

 野球場は、広さ4700坪。「何分急造のこととてスタンドを設備する余裕なかりしは遺憾なり」と紙面にある。

 「柵もスタンドもない…左翼の方は本塁から30間ほどのところからダラダラのスロープとなり、ここへ長打をカッ飛ばされると、追っかけてつかんでもどこへ送球したらよいのかサッパリ分からぬといった大変なグラウンドであった」

 当時早大のマネジャーで、シカゴ戦3試合の球審をつとめた西尾守一が述懐している。西尾は翌年卒業と同時に大毎に入社、スポーツ記者の第1号となった。

 早大のキャプテンは飛田穂洲だった。のち早大の初代監督。「一球入魂」の精神野球は、現在の高校野球に受け継がれている。野球殿堂入りした「学生野球の父」。1965年没、78歳。紙面右下の写真が飛田である。

 記事は、初めて野球の試合を見る人にも分かるように、「ベースボールとは如何なる遊戯であるか」を解説している。

 まず「塁」。ベースとルビをふって「四個あって、其中三個は方一尺許りの帆木綿の嚢中に柔らかき物質を満たした、いはゞ座布団のようなもの。他の一個は同じ位の大きさの五角形の板である」

球(ボール)、打棒(バット)、面(マスク)と続く。

 「配陣」。グラウンドの各塁、守備位置などを図示した。

 「演技」。18人で9人ずつ二組、攻撃陣と守備陣となる。守備陣の9人はいずれも手袋を嵌めて…。

 「方法」。投手は捕手に向かって投球する。打者はそれを打棒で打とうとする。もし、投球が本塁の上を通過せず、または自分の肩より高く、膝より低い時は打たなくてもいい。この悪球をボールという。投手がボールを四度出すと、打者は一塁に進むことができる…など、ハウ・ツウ・プレーの説明が延々と続く。三振は「三度振り」と呼ばれた。

 用語として「安全球」(ヒット)、「魔球」(カーブ)や、ダブルプレー、トリプルプレー、二塁打、三塁打、ホームランなどを取り上げている。

 試合前日、「大毎」は1面トップで全2段を使って「野球選手を迎ふ」。「中学生以上の学生にしてバットを取り、ボールを投ぐる術を知らざる殆ど之なく」と、野球の普及ぶりを紹介、ベースボールは「国技の観あり」と綴っている。

 日米野球の意義を「我が運動界に痛切なる刺激を与え、ひいては一般国民に運動に対する感興を鼓吹し、剛健活発なる気風の養成に資せんとするにある」と説いた。

 両校の選手は試合の前日、大阪・梅田駅(現JR大阪駅)に着いた。ホームには学生500人が出迎え、「ホテルまでの数町を提灯行列」「歓迎の歌を高歌放吟した」と記事にある。

 早大の名物応援団長・ヒゲの将軍吉岡信敬も大阪入りした。「新グラウンド上将軍一流の咆哮を聞くは無比の痛快事たり」とある。

 両軍の選手は、花電車で送迎された。阪神電鉄香櫨園駅は連日大混雑だった。若い女性の姿も目立った。ひさし(庇)髪に真っ赤なリボンをつけた女学生や、高島田に花かんざしで着飾った娘さん。外人の家族連れ、金髪の子どもたちが国際試合の雰囲気を高めた。

 入場は無料だった。初日は中学校の野球部など2650団体が詰めかけ、「来賓席は朝野の名士でギッシリ」とあった。観客は連日3万人を超えた。しかし、試合は3戦とも一方的だった。

①10月25日 ●早大4—8シカゴ大〇
②   26日 ●早大0―20シカゴ大〇
③   27日 ●早大2—12シカゴ大〇

 シカゴ大のキャプテン・ベギュース選手は帰国後、米誌「インデペンデント」1911年1月号にその時の感想を寄せている。大毎は、翻訳文を2回に分けて掲載した(同年3月1,2日)。

 ペギュースは、「国民的賓客」のもてなしを受けたことを感謝したうえで、「日本の選手は体力に甚だ相違」があるのに、「戦場に出て、正常に、立派に、紳士的に」闘ったとフェアプレーを評価した。

 関西での歓迎ぶりを「夢でも見ているよう」と大阪梅田駅(現大阪駅)に着いたときの歓迎ぶりに驚き、試合の合間に大阪、京都、奈良、神戸を見物できたことを喜んだ。

 一方、早大飛田穂州は、シカゴ大戦6連敗の責任をとってキャプテンを辞任、他の主力選手3人とともに退部する。

 その恨み?を晴らしたのは15年後の1925(大正14)年秋だった。早大の初代監督となっていた飛田は、まず19年ぶりに復活した早慶戦に連勝して、六大学リーグ戦で優勝。さらに3度目の来日をしたワシントン大戦に2勝1敗2引き分けで勝利した。

 これ以上の花道はなかった。監督を辞任して、朝日新聞の嘱託記者になったのだ。甲子園、神宮球場で健筆をふるった。もっぱらアマチュア野球だった。そして愛弟子の石井連蔵(2015年没、83歳)に朝日新聞の席を譲るまで、ネット裏から野球を見続けた。

 石井は1960(昭和35)年秋の早慶6連戦に勝って、胴上げ監督になったが、朝日新聞では浦和支局に配属されサツ回りから始めた。野球人脈を活かして1972(昭和47)年から始まった日米大学野球選手権大会創設の功労者だ。2020年、早慶6連戦の慶大監督前田祐吉とともに野球殿堂入りを果たした。

 大毎は、この野球試合が大成功だったと総括。私鉄は「野球場をつくれば、乗客増につながる」となって、1924(大正13)年の阪神甲子園球場の建設になるのである。

 センバツ高校野球大会は第1回大会を1924(大正13)年4月に名古屋の八事球場で開催。第2回大会から阪神甲子園球場で行っている。

(堤  哲)

2020年7月2日

NHK朝ドラ「エール」から思い出す丘灯至夫さん

 コロナが明けた!

 まるで冬眠から覚めたみたいに。

 思えば、長いコロナ新型ウイルスとの長期戦だった。

 やれ、ステイ・ホームだの、感染だの、と、なんとまあ、陰鬱にして、かったるい時の連なりであったことよ!

 梅雨の晴れ間の一日――。見上げれば、空は真っ青に輝いている。これぞ、初夏の気候である。

 で、気分も 浮き浮きと、久しぶりの外出は映画をエンジョイときた。

 いそいそと気ままな脚まかせ。さわやか風に頬洗われて、電車で向かった先は、横浜市内の一角に拓かれたファミリアスな小公園に位置する瀟洒な民営喫茶店スターバックスの、そのまた2階にある、こじんまりとした単館シネマ。コロナ騒ぎがなお尾を引く中でも、内部に入ればはがらがらに空いていて、それらしい観客は、やっと片手の指を折る人数にも、満たず、なんとかディスタンスとやらで、両隣りの席も無人。ゆったりと、まるで余裕の試写室にでもいるみたいなゆとりに富む映画鑑賞とは相なったのである。

 さて、その映画だが、これも小品ながら、全編、ゆとりに満ちた逸品だった。

 作品名が「アンティークの祝祭」という。

 主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。

 ドヌーヴとくりゃあ、言わずと知れた、パリジェンヌ女優のアイコンである。恥ずかしながら、コチトラ、仮にも日本映画ペンクラブの末席メンバーであるからして、相応に心からの敬愛も込めて書くなら、その存在はフランス映画のまさしく至宝といっていい。

 「シェルブールの雨傘」(64年)をはじめ、「インドシナ」(92年)、「8人の女たち」(02年)などの新旧話題作に主演し、カンヌ、ヴェネチアの国際映画祭の女優賞に輝いた映画人は、当年77歳。さすがに、往年の美貌にも影が差しているとはいえ、老いを老いとして迎え入れる自由人の潔さに、白い乱れ髪さえ美しい。

 永年の銀幕キャリアで磨かれた演技力は、辺りをはらって、光彩を失することなく、セリフといい、一瞬の挙措、動作といい、すべてが自然体である。

 場面ごとに、てらうでなく、臆するでもなく、さりげないこれぞ存在感そのものの人間味がしみじみ観客の胸中に染み入る。

 年季の入った喜寿の女優の魅力は、それこそ年代物アンティークのそれに似て、たまりにたまったコロナ自粛のうっ憤を晴らすにもタイムリーな一刻の安らぎに通じたのであった。

 ところで、アートの世界は、奥が深い。

 カトリーヌ・ドヌーヴは、西欧文化の香気発する映像アートの職人芸を持ち前にした、いわばアルチザンの女匠といっていいだろうが、芸域の小宇宙こそ違うにしろ、盛んな名声に包まれた人気のアルチザンは、日本にも実在している。

 速い話、毎朝のテレビを開ければ、自ずからNHKの連続ドラマ「エール」の場面が視界に飛びこんでくる。今やヒット中のこのドラマの主人公は、かの有名な音楽家の古関裕而さんであり、昭和という激動の時代に添い寝するごとく、まさにドラマティックな音のアルチザンの日々に生きた半生が、日めくりエピソードに沿うようなシナリオと動画タッチで番組進行する……。

丘灯至夫こと西山安吉さん

 私見ながら、都の西北に学び、神宮球場のスタンドで母校の応援歌「紺碧の空」を熱唱した思い出を懐かしむぼくとしては、毎朝のNHKを介してではあれ、応援歌作曲者の青春期に、遠い時代のブランクを跨ぎながら、バーチャルな面談をするみたいな楽しさがある。

 さて、「紺碧の空」の感懐はさておき、「エール」に関係してはまた別筋の、思い出が膨らむ。若き日の古関さんは、多くの知人、友人に恵まれたが,その中に、同郷のジャーナリストがいたのである。

 福島県に生まれ、戦前の東京日日新聞で地方記者のペンをとり、戦後は毎日新聞福島支局を経て出版局毎日グラフ編集部に所属し、さらに、コロンビアレコードで人気の作詞家として生きた西山安吉さん(2009年没、92歳)がその人で、ぼくが毎日新聞で長野支局から社会部、八王子支局を経て出版局毎日グラフ編集部に移った時は、すでに異色の有名人であった。

 社内では、本名よりも作詞家のペンネーム丘灯至夫さんの名で呼ばれていた。地方記者時代からのその命名のいわれは「ブン屋のモットーは『押しと顔』」という、その逆読みである。

 丘灯至夫作詞、古関裕而作曲で最大のヒットは、「高原列車は行く」(54年)。他に「長崎の雨」「白いランプの灯る道」(51年)、「あこがれの郵便馬車」(52年)、「みどりの馬車」(53年)、「百万石音頭」(54年)などがある。

 語感からして、ここは気風のいい素顔を連想するとろだが、実像はすこぶる謙虚にして、気配りにも富んでいた。毎日グラフに初見参した夏だったか。当時の朝日グラフ編集部との野球対抗試合が下町南千住のオリオンズ球場で開催されたことがあり、地元っ子のぼくが毎日勢のエースとしてマウンドを踏んだのだが、この時も、西山さんの心尽くしの手配により、そのころ売り出し中だった日活ロマンポルノの人気女優・田中真理さんが駆け付けてくれて、なんと、なんと、まさにエールの感動花束をいただいた。

 童謡の遊び歌「猫ふんじゃった」からワークソング「東京のバスガール」、トラベルソング「高原列車は行く」と、丘灯至夫さん作詞のヒット作は、レパートリーが広く、リズム感豊かな曲が多いが、伝説的な代表作といえば、やはり、舟木一夫が歌った「高校三年生」(63年)が真っ先に思い浮かぶ。発売1年にして、レコードは、1千万枚を売りつくしたそうである。

 目を閉じれば、偉大な実績とは対照的なまでに遠慮っぽい小駆を揺するがごとく、出版局内 をぴょこぴょこ歩いていた西山さんの姿が思い浮かぶ。口さがない遠巻きの仲間たちによる愛称は「スズメさん」だった。

 古き良き時代の毎日新聞出版局には、語るに誇らしく,思い起こせばかくもうれしいスズメアルチザンが羽ばたいていたのである。

(大島 幸夫)

2020年6月25日

田中角栄元首相を撮った!新聞協会賞に輝いた写真部

《「出た、出た」「田中元首相が母屋から庭内の集会場へ入った」田中邸張り番から写真部デスクへ一報が入ったのは午後2時7分だった》

《写真部デスクが直ちに航空部羽田格納庫へ連絡した。2時11分、ヘリは離陸態勢に入った。その間わずか4分。ヘリは池袋上空で待機。次の指示を待った》

《「今度は木立の間を横切った元首相がチラッと見えた」「元首相が車椅子で庭にいる。急げ!」》

《2時36分、ヘリは元首相邸へ降下。…ヘリに気づいて車椅子を押す女性(元衆院議員の田中真紀子さん)。あわてて車椅子用のスロープを登ろうとする。母屋からは手伝いの人も飛び出して大騒ぎだ》

《5秒間のシャッターチャンスだった。「600ミリレンズを使って、モータードライブのシャッターを押し続けた」と振り返る永田勝茂写真部員(当時43歳)》

 1986(昭和61)年1月30日。毎日新聞東京本社写真部の取材班が田中角栄元首相の撮影に成功したドキュメントである。

 取材班を統括した写真部デスク小林理幸さん(当時42歳)が『疾風50年~駅前で刻んだ毎日新聞中部本社史』(2003年2月発行)に書き残している。

 高尾義彦さんが発刊した『無償の愛をつぶやくⅢ』=このHP新刊紹介参照=の15ページに新聞協会賞を受賞したリハビリ中の田中角栄元首相の写真が載っていた。

 高尾さんは、ハワイで発行されている日本語紙「日刊サン」にコラムを持っているが、昨夏「蝉の鳴く頃」と題して、ロッキード事件取材の思い出を書いている。そのカット写真に、1986年1月31日付毎日新聞1面を使った。

 高尾さんは社会部司法クラブ担当で、1976(昭和51)年7月27日、田中角栄元首相が5億円の受託収賄罪で逮捕された時、霞が関の検察合同庁舎正面玄関で特捜検事に伴われて黒塗りの車から降りた元首相を撮影した。その写真は、夕刊1面を飾った。

 それから10年——。社会部のデスク会の後、司法クラブのキャップをしていた高尾さんと、警視庁クラブキャップの中島健一郎さん、それにデスクだった私の3人でパレスサイドビルB1のとんかつ屋で夕食をとった。

 確か正月休み明け最初のデスク会で、まず新年の乾杯をした。中島さんと私は元ロッキード事件取材班のメンバーで、高尾さんは「田中逮捕」の日の朝刊1面トップで「検察重大決意」の原稿を書いた。

 3人の話題は、自然と「ロッキード事件から10年」になった。

 そこで中島警視庁キャップが「角栄が目白の私邸から車で外出しているという情報がある」といった。

 田中元首相は、83(昭和58)年に有罪判決を受け、控訴中の85年2月に脳梗塞で倒れ、私邸でリハビリ中だった。しかし「闇将軍」の力は永田町を支配していた。

 「角栄の写真、撮れないかな」

 そこでお開きになったのだが、3人が店から出ると、写真部の小林デスクとばったり顔を合わせた。

 「コバちゃん、いいところで会った。角栄を撮ってくれないか」

 「それはマンシュか」と小林デスク。マージャンの満貫かと聞いてきた。

 「役満だよ。新聞協会賞モノだ」

 小林デスクは、翌日取材班をつくった。

《中堅の立川汎、岡崎一仁君を指名。そして佐藤泰則、平野幸久の両君を加えた》

 立川と岡崎両君は当時38歳、若手の2人、佐藤君は入社2年目の25歳、平野君は入社1年目の23歳だった。

《1月20日から高層住宅の屋上と田中邸での張り込みが始まった》

《屋上の班は北風にさらされ、小雪まじりの悪天候に悩まされた。交代で望遠レンズをのぞく。5分もすると、右目から涙が出る。今度は左目と、交互に変えても涙は止まらない》

《その日、1月30日はマイナス40度の寒気団が日本海から張り出し、東京も今季最低の冷え込みが予想された》

《屋上の張り込みは立川・岡崎組と、若手の佐藤・平野組が交代で当たった。朝から日没まで2000ミリの望遠レンズと600ミリレンズに2倍のテレスコープをつけて、田中邸を観察していた》

 田中角栄元首相の写真撮影成功に編集局は沸いた。

 偶然ながらこの日の朝刊社会面担当のデスクは私だった。興奮していた。こんなに早く注文どおりの特ダネ写真の撮影に成功するとは、思ってもみなかった。

 マンシュを自模ったコバちゃん、写真部の小林理幸デスクはニコニコ顔だった。「ありがとう!コバちゃん」と何度も握手を交わした。

 記事は、高尾キャップの司法クラブに依頼した。高尾さんは、ロッキード事件のあとも、毎年元旦に目白の田中角栄邸に張り込み、政治家の出入りをウォッチングしていた。
この写真報道の影響は大きかった。写真を見た医師たちは、元首相が再起不能であることを証言した。「闇将軍」は足元から崩れ落ちた。竹下派「経世会」の発足、田中派の消滅につながった。

 この特ダネ写真取材の経緯は、山本祐司元社会部長著『毎日新聞社会部』(2006年河出書房新社刊)に詳しいが、「酒はアイデアの宝庫」と綴っている。社会部デスク会後のとんかつ屋での懇談をいっている。

 新聞協会賞を受賞した写真部小林デスク。「航空部の協力なしにこの偉業はなかった。編集局のチームワークの勝利であった」と述懐している。

(堤  哲)

2020年6月19日

「400字7、8枚は2時間で書きます」と藤原章生記者

 6月のZoom二金会の講師は、編集委員の藤原章生さん(59歳)だった。

 事前に幹事さんから知らされた「藤原さんの過去記事」をクリックすると、とんでもない量の署名記事が溢れ出た。

 まず略歴。《1989年、鉱山技師から毎日新聞記者に転職。長野、南アフリカ、メキシコ、ローマ、郡山市に駐在し現在は東京で夕刊特集ワイド面に執筆。2005年、アフリカを舞台にした本「絵はがきにされた少年」で開高健ノンフィクション賞受賞。主著に「ガルシア=マルケスに葬られた女」「資本主義の『終わりのはじまり』」「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」など》と自己紹介している。

 高校時代から山岳部にいた「山屋」である。北海道大工学部資源開発工学科を1986年に卒業して住友金属鉱山入社。3年後、新聞記者に転身した。

 二金会当日(6月12日)の夕刊は、2、3面見開きで藤原原稿が占拠していた。

 右面は、故大島渚監督の二男、大島新監督(50歳)の映画《「なぜ君は総理大臣になれないのか」を見て考える》。衆議院議員・小川淳也さん(49歳)を追ったドキュメンタリーだ。

 左面は、ルワンダの義肢装具士 ルダシングワ真美さん《人助けではなく一つの愛》。

 いずれも全10段の長尺原稿である。

 夕刊特集ワイド「この国はどこへ コロナの時代に」では、慶大教授・ヤフーCSO(チーフストラテジーオフィサー)安宅和人さん(52歳)▽心理学者・小倉千加子さん(68歳)▽作家・山崎ナオコーラさん(41歳)▽社会学者・大澤真幸さん(61歳)を取り上げた。

 さらに遡ると、元東大教授・橋都浩平さん(74歳)▽評伝江藤淳の著者・平山周吉さん(68歳)▽イタリア人作家ジョルダーノさん(37歳)▽詩人谷川俊太郎さん(88歳)と、谷川さんの詩をイタリア語に翻訳・出版しているマルティーナさん(33歳)との対談。

 取材対象が幅広い。女優で「ねむの木学園」の宮城まり子さんが93歳で亡くなると、その評伝まで書いている。

 そのうえ毎週土曜日には「ぶらっとヒマラヤ」をデジタル毎日に連載している。毎回かなりの長文で、すでに20回を超えた。

 とにかくよく書く。「ぶらっとヒマラヤ」でこう明かしている。

 《紙の時代には週平均2500字、月に1万字程度だったのが、デジタルだとこの5倍はいけて5万字》

 Zoom講演の中で、記事を書くスピードに、ついてこう話した。

 「400字7,8枚は2時間で書きます」

 びっくりした。こちらは鉛筆なめなめ(表現が古すぎるか)、その倍は優にかかる。

 そして、こうもいっている。《テーマや取材対象について読み込む時間が全体の80%で、10%をテーマのさらなる絞り込みや問題提起に充て、実際のインタビューと原稿書きはそれぞれ5%といったあんばいだ》

 事前取材に時間をかける。書くのは、ほんのわずかの労力を注ぎ込むだけなのである。

 まさに縦横無尽の活躍ぶりである。

 昨年6月の夕刊ワイドにこんな記事があった。

 《「元気をもらった」「勇気をもらった」という表現を改元前後の街頭インタビューでやたらと耳にした。……「元気や勇気は『もらう』ものではなく、自ら『出す』ものではないか」と突っ込みたくなる。いつごろから、なぜ広まったのかを探った》

 この記事に元東京本社編集局長、スポニチ社長・牧内節男さん(94歳)が反応した。

 実は、その前年、2018年の毎日新聞OB同人誌『ゆうLUCKペン』(第40集)の刊行パーティーで、元サンデー毎日編集長の今吉賢一郎さん(1961年入社、今月83歳の誕生日を迎える)が「よく元気をもらいましたというが、元気は出すものである。もらうものではない」と問題提起をしていた。

 《それから1年ほど経って毎日新聞夕刊が「元気をもらう」「勇気をもらう」という言葉を取り上げた。「元気をもらう」という言葉が使われたのは昭和61年4月11日号の写真週刊誌「フライデー」が初めてだという。元気は出すもの。勇気も出すもの。もらうものではない。明らかに誤用である》=「銀座一丁目新聞」2019年(令和元年)11月10日号「茶説」。

毎日新聞1997年11月4日夕刊1面

開高健ノンフィクション賞受賞『絵はがきにされた少年』

 私が藤原章生ヨハネスブルグ特派員を知ったのは、1997(平成9)年11月4日夕刊1面のトップ記事だった

 連載「ある写真家の死」の第1回。1994年、「ハゲワシと少女」という写真でピューリッツァー賞を受賞した写真家ケビン・カーターが授賞式からわずか2か月後に自殺した。33歳だった。何故か。その背景を取材現場に同行したフォトジャーナリストのジョアオ・シルバさんの証言から構成している。

 その年の4月から、私は某短大のジャーナリズム学科で非常勤講師をしていた。講座名は「写真取材法」。社会部の先輩天野勝文さんからの紹介で、「写真撮影法」だったら引き受けることはなかった。

 「ハゲワシと少女」は恰好なテーマだった。

 「ある写真家の死」は5回連載で、第3回開高健ノンフィクション賞に輝いた『絵はがきにされた少年』(2005年集英社刊)の巻頭を飾っている。

 今回、改めて手にしたら、題名となった『絵はがきにされた少年』に社会部で一緒だった石川貴章クン(2001年没、45歳)が出てきた。

 98年3月23日(月)付毎日新聞国際面の特集「20世紀を変えた—情報100年」を編集する際のやりとりである。デスクと兵隊の関係だった。

 石川クンは80年入社だから、藤原さんの9年先輩だ。そのうえ都立上野高校の先輩後輩だった。

 石川デスクの無理難題に藤原特派員は応えるが、この特集は唐突な印象である。国際面は毎週月曜日に「百年を生きて 家族の20世紀」を連載していた。それを休載して、おことわりを載せている。

 《20世紀を情報などをキーワードに振り返る特集を適宜、掲載します》

 縮刷版を探したが、2回目が載ることはなかった。石川クンがその年の7月にローマ特派員になったためかも知れない。

(堤  哲)

2020年6月17日

新連載・平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その1

『昭和二十年東京地図』と西井一夫のこと

 元出版写真部、平嶋彰彦さんのコラムが「ときの忘れもの」ブログで始まりました。第1回は6月14日で、毎月14日に更新します。

(元販売局、ギャラリー「ときの忘れもの」主宰、綿貫不二夫)

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429081.html#more
ときの忘れもの/(有)ワタヌキ  〒113-0021 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASAS

文・写真 平嶋彰彦

 ポートフォリオ『東京ラビリンス』の初出は、『毎日グラフ』の「昭和二十年東京地図」。1985年10月27日号から1986年1月26日号までの12回連載で、その年の8月、同名のタイトルで書籍として筑摩書房から刊行された。書籍化にあたっては、相当数の撮り直しと追加取材をおこなっている。

 「昭和二十年東京地図」のタイトルは文を担当した西井一夫(註1)がつけた。昭和二十(1945)年は、日本が第二次世界大戦の終戦を迎えた年で、西井と私は、学年はちがうが、二人ともその翌年の1946年に生まれた。

 企画のきっかけとなったのは『コンサイス東京都35区区分地図帳』(日地出版)。戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図で、1946年9月15日に発行された。その地図帳が復刻されたことは『朝日ジャーナル』の読書欄で知った。発行日は1985年3月10日。東京大空襲からちょうど40年後にあたる。

 3月10日の大空襲で、下町を中心におよそ10万人もの一般人が命を奪われたことは、学校でも習った。しかし、この地図帳を見れば、下町ばかりではなく、都心のどこもかしこも焼け野原になっている。戦災を免れた地域はごくわずかでしかない。そんなひどい状態になるまで、どうして戦争を続けたのか。私たちはそのことの理不尽さにもっと驚いていいと思われた。

 この地図帳を手に入れてしばらくして、西井から飲みに誘われることがあった。何かの話題のついでに、バッグから取り出して見せると、思いのほか興味を示し、「連載企画を考えてみるから、しばらく時間をくれないか」という。それから2ヶ月ほどして、私の在籍する出版写真部にやってきて、「編集長の了解はもらった。デスクには君が担当してくれるように、これから話をつける」とのことだった。

 そんなことで、その年の9月ごろからだったか、地図を手に二人で東京を歩くことになった。取材期間は3ヶ月前後だったと思うが、ちょうど『サンデー毎日』で海野弘の「都市周遊」(註2)という連載を担当していた時期で、また事件があればそちらにも駆り出されたから、かなりあわただしい仕事だったという印象がある。その日に歩く道筋は、西井が決めていたが、おもしろそうな裏町や路地を見つけると、迷わず予定を変えることが少なくなかった。どこで何を撮るかも、ほとんどが出たとこ勝負の感じで、しかも放し飼い状態にさせていた。「あれこれ言うと嫌な顔をするし、言った通りに撮っても、それはそれで写真がつまらない」というのがその理由だった。彼と組んだ仕事は相当な数になるが、脚本はあってもなしがごとし、取材するにつれてテーマまで変わりかねないというのが、いつものパターンだった。

 この連載企画を取材するにあたって、西井からどんな説明があったか、ほとんど忘れてしまったが、ただ一つ、「逓信住宅」のような方向性で、と言っていたことはよく覚えている。

 国分寺のお鷹の道に湧き水があるが、逓信住宅というのは、その近くにあった郵政省の官舎である。そこを西井の企画で、「昭和二十年東京地図」の1年か2年前に取材したことがあった。周りにはケヤキ林もあって、平屋の二軒長屋が軒を連ねていた。一軒の間取りはたしか4畳半と6畳で、それに台所がついていた。1980年代にもかかわらず、住宅街の道路は舗装されていなかった。雨が降ると水たまりのできる泥道に沿って、生活用品の商店のほかに理髪店や共同浴場などもあった。見わたすと、再開発の計画が進んでいるらしく、歯が抜けたように更地があちこちに出来ていたが、それをこれ幸いとばかりに、残った住人たちが思い思いに野菜や草花を栽培していた。

 西井は『昭和二十年東京地図』の「あとがき」で、逓信住宅には彼の「小さい頃の記憶の光景」がそっくり残っていて、その佇まいの美しさに感動したと書いている。子どものころ、父親が余ほど好きだったのだろう。映画の録音技師をしていたという父親のことを屈託なく話すことがよくあった。反発の感情がほとんどないのが不思議なくらいだった。父親にとっても、自慢の息子だったにちがいない。逓信住宅の4畳半と6畳に台所という間取りは、田舎育ちの私には、いかにも狭いと感じられたが、彼はそれだけの広さがあれば充分だといっていた。おそらく、子どものころは借家住まいで、間取りも似たようなものだった。勝手な憶測をさせてもらえば、裕福な家ではなかったが、一人っ子であったこともあり、両親の愛情を独り占めに出来た幸せな少年時代を過ごしたのである。

 彼には涙もろい一面があった。いつだったか、取材帰りの電車で、ふと気がつくと、ぼろぼろ涙を流しながら文庫本を読んでいる。何を読んでいるのかと思ったら、山本周五郎のなんとかいう小説だった。こんなの電車で読んだら駄目だよ、と言っても、彼はハンカチで涙を拭いつつ、読むのを止めようとしなかった。二人で映画をみていてもそうだが、「小さい頃の記憶の光景」が目に浮かぶと、とたんに涙線が決壊してしまうようなところがあった。

 私が大学に入るため東京に出てきたのは1965年。前回の東京オリンピックの翌年になる。生まれたのは館山市のはずれで、農家といっても田畑はわずかしかなく、明治か大正のころから、代々出稼ぎで暮らしを立てるしかなかった。父親は東京港を仕事場にするダグボートの船長で、ふだんは乗組員と船上生活をしていた。休暇は2ヶ月か3ヶ月に一度まとめて取り、館山の実家で過ごしていた。ところが大学2年のとき、それ以外のたまの休みにも、陸(おか)で寝たいと父親が言い出した。

 文句の言える立場ではないから、それまで住んだ板橋の下宿を引き払い、金杉橋のすぐ近くにあった洋服の仕立店に間借りすることにした。金杉橋を流れる古川(渋谷川)の対岸の旧地名が芝新網町で、明治の三大貧民窟の一つであることは、ずいぶん後になってから知った。

 仕立店の主人は島根県益田市の出身で、一男四女の子沢山だったが、そのうちの二人は嫁いで家を出ていた。仕事場兼住宅の二階建ての建物は20坪ほどしかなかったが、戦後の一時期には、五人の子どものほかに、地方から上京した複数の若者を住まわせて世話をしていたという。私よりも一回りほど年上と思われるその若者たちが、ときどき訪ねてくることがあった。そんなとき、奥さんは決まったように彼らを引きとめて、ありあわせの総菜を分けて夕御飯をふるまった。

 これは郷里を離れて間もないころに垣間見た東京下町の人間模様であるが、この一家の暮らしぶりを見ていて、なにが人の幸せかを教えられたような気がした。世話になったのはわずか1年足らずに過ぎないが、社会人になって2年目の1970年、私はその家の一番下の娘と結婚することになり、店の主人と奥さんは義理の父親と母親ということになった。

 西井一夫は「小さい頃の記憶の光景」にこだわっていた。取り憑かれていた、と言ってもいいかも知れない。『昭和二十年東京地図』の取材で街を歩いていると、私たちはいつのまにか表通りを外れ、横丁から横丁へ、路地から路地をたどる迷走を繰り返した。ふりかえってみれば、西井の眼差しの先にあったのも、貧しいながらも互いに励ましあって生きる、こうした庶民社会の人間関係ではなかったかと想像される。

【註】
註1 西井一夫
編集者。1946年、東京都江戸川区小岩に生まれる。1968年、慶應大学経済学部卒業。弘文堂新社を経て、1969年、毎日新聞社に入社。『サンデー毎日』『カメラ毎日』『毎日グラフ』編集部を経て、『カメラ毎日』編集長、クロニクル編集部長を務める。2000年、『20世紀の記憶』全20巻の完結後、早期退職。2001年、食道癌で死去。
社外活動として、1989年に「写真の会」を設立する。また著書は正続『昭和二十年東京地図』(筑摩書房)のほか、『日付のある写真論』(青弓社)、『写真というメディア』(冬樹社)、『暗闇のレッスン』(みすず書房)、『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)など。
註2 「都市周遊」
『光の街影の街 モダン建築の旅』のタイトルで、1987年に平凡社から刊行された。

ポートフォリオ「東京ラビリンス」01と同じ建物。賄いつきアパート「日本館」。新宿区高田馬場1丁目。2017年2月17日。
右は賃貸アパート「モリヤ荘」。左は「岩渕荘」。旧吉原遊郭。建物は双方とも1957年まで遊郭として使われた。台東区千束4丁目。2012年6月21日。
おかず横丁の北側にある一画。正面を銅板で葺いた商店。一階が店舗で二階が住居。屋上にペントハウスを増築している。台東区鳥越1丁目。2012年1月25日。
同潤会「上野下アパートメント」。最後の同潤会アパート。1年後の2013年に取り壊された。すぐ目の前に落語長屋があった。台東区東上野5丁目。2012年6月29日。

■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。

2020年6月4日

すき焼きの人形町今半と牧内節男さん

 写真は、人形町今半の2階にかかっている女将(故人)の書である。つい最近、ここでしゃぶしゃぶをご馳走になった。号に「雨星」。牧内節男さん(94歳)のHP「銀座一丁目新聞」の題字と同じ書家ではないか。

 2004年(平成16年)7月1日号の追悼録に、牧内さんが記している。

 《知人の高岡節子さんの七回忌の法要に出かけた(6月19日・杉並・等正寺)。…「銀座一丁目新聞」の題字は平成9(1997)年4月ホームページを始める際に書いていただいた。この時、縦書きと横書きを4、5枚書いていただいたものから選んだ。雨星としてすでに名を成している人が忙しい最中、嫌な顔一つせずしてくれた。今になってそう思う。当時は感謝の念が足りなかった》

1995年9月18日スポーツニッポン

 雨星さんは、日本女子大卒で、『桜楓の百人—日本女子大物語』(1996年舵社刊)で紹介されている。というより、この本はスポーツニッポン紙戦後50年の連載企画をまとめたもので、その題号を雨星さんが書いているのである。1ページのほぼ半分を割いた大型連載だった。

 OG大竹洋子さんの書評がネット上にあった。《女性たちの半生を語って戦後の女性史を辿ろうというこのユニークな企画は、はじめスボーツニッポン新聞紙上に登場し、世間をアッといわせたのだった。

 「スポーツ紙が?」という驚きやとまどいは、大学側やインタビューを受ける人にもあったらしい。

 一般紙のなかにあってさえきわめて大胆、かつ正攻法で堂々と行くこんな企画が、スポーツ記事や芸能ゴシップでその大半が埋められる新聞に登場することは、確かに人々を驚かせるにたる「事件」だったのである。

 だが、その心配はすぐに杞憂とわかった。岩波ホール総支配人・高野悦子さんから始まり、彫刻家・宮脇愛子さん、劇作家・真山美保さん、国文学者・青木生子さんと続く連載は、美しい写真とあいまって他の紙面を圧倒した。

 私は息をのむ思いで読みふけった。毎朝、新聞がくるのが待ち遠しかった》

 他に沢村貞子、平岩弓枝、一番ケ瀬康子、妹島和世、高橋留美子、大石靜……。

 毎日新聞「女のしんぶん」編集長、女性初の論説委員、日本記者クラブ賞を受けた増田れい子さん(2012年没、83歳)も載っている。増田さんは日本女子大を卒業して東大文学部国文科に進学した。

 執筆者(星瑠璃子、志賀かう子、吉廣紀代子)4人のひとりに毎日新聞「旅に出ようよ」編集長だった山崎れいみさん。れいみさんと雨星さんはポン女の同級生だった。

 私は、雨星さんの夫で人形町今半の創業者高岡陞(のぼる)さん(2018年没、91歳)の慶大同級生の三代目田村駒治郎さんに招かれたのだが、店は2人の息子に引き継がれている。座敷に挨拶に顔を見せた慎一郎社長、哲郎副社長は「女将が節子で、牧内さんは節男さん。SS会をつくって、よく毎日新聞の方がお見えになりました」と語った。

 毎日新聞東京本社の跡地に出来た新有楽町ビル地下1階に有楽町店、毎日新聞中部本社のある名古屋ミッドランドスクエア41階にも出店していて、毎日新聞とは縁が深い。

 牧内さんにメールをすると、こんな返信があった。

 《私が九州から帰ってきてスポニチの社長になった時、有楽町の「今半」で、サンデー毎日にいた岩見隆夫君(2014年没、78歳)、山崎れいみさんら5,6人が集まって「歓迎会」を開いてくれた。今半の女将、高岡節子さんが山崎さんと日本女子大の同級生であったので女将さんもその会に加わった。僕の名前が節男なので今後、月に一度「SS会」を開こうということになった。ここで様々な企画が生まれた。私がスポニチをやめるまで続いた。ときには自宅まで押し掛けた。…彼女が亡くなった時、れいみさんと私が出入りの商売人・著名人を差し置いてそれぞれ弔辞を述べたのも今や懐かしい思い出である》

 雨星さんは、有楽町店の女将もつとめた。このビルには販売OB古池國雄さん(2013年没、92歳)が理事長の販売組合があった。丸の内一帯の新聞全紙を一手に配達している超優良販売店だった。私と同期の販売朱牟田恒雄、河西瑛一郎(2018年没、77歳)、池田達雄(2019年没、78歳)さんらとよくすき焼きをご馳走になった。

 社会部OB堀井淳夫さん(2017年没、90歳)は高岡陞さん、三代目田村駒治郎さんと慶大同期。今半はお馴染みの店だった。

(堤  哲)

2020年5月19日

88年前の今頃、喜劇王チャップリンが東京にいた!

 この新聞は、チャーリー・チャップリン(1889~1977)が初来日、東京駅で歓迎のファンにもみくちゃにされたことを伝える毎日新聞の前身「東京日日新聞」の朝刊社会面=1932(昭和7)年5月15日付=である。

 何故かチャップリンは「東京日日新聞」の社旗を持っている。左は、兄のシドニーである。

 写真部のカメラマンが「この旗を記念に持って」と頼んでパチリとやったのだろう。

 コロナstay home で断捨離作業中に見つけたコピーである。写真部が出版した『【激写】昭和』(毎日新聞東京本社写真部OB会編、1989年平河出版社刊)にはさんであった。

 同書には「世界の喜劇王チャーリー・チャップリンが照国丸にて来日」と、出迎えた女優の夏川静江さんが入ったカットを載せている。残念ながら誰がどうして社旗を渡したのか記述がない。

 チャップリンは5月14日午前8時、神戸港に着いた。午後0時29分三宮駅発超特急「燕」の増結した1等車に乗車、午後9時20分終着東京駅へ。

 《チャーリー来る!異常な昂奮に酔った人間、人間、人間の群れは、到着前3時間の前の6時といふのに降車口(現在の丸の内北口)をいっぱいにしてかれの顔の、かれの銀髪のひとすじだに見逃さないといふ意気込みをみせている。凄惨!ちょっとそんな感じだ》

 《列車到着の5番ホームは、これまた金10銭の入場券でかれを見る優先権を得ようとするファンで一杯だ。何のことはない。震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いてゐる》

 社会部の遊軍記者が思い入れたっぷりに書き込んでいる。

 一夜明けた日曜日、チャップリンは官邸に招かれていた。5・15事件が起きた。犬養毅首相が海軍の青年将校に「問答無用」と射殺された事件である。チャップリンは予定を変更して相撲を観戦、危うく難を逃れたという。

 チャップリンは20日間日本に滞在、6月2日横浜港から「氷川丸」で帰国した。

 その間、チャップリンは歌舞伎座や明治座で役者たちと交流。「一国の文化水準は監獄を見れば分かる」と小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察している。

 チャップリンで思い起こすのは、コロナ禍で亡くなったコメディアンの志村けん(3月29日没、70歳)である。「ひげダンス」や「バカ殿」に代表される「動きの笑い」。その原点は、無声映画時代のチャップリンだ。

 「チャップリンに会いたい」と自宅に押し掛けて、84歳のチャップリンとツーショット写真をモノにしたのは、欽ちゃんこと萩本欽一(79歳)だった。もう半世紀前の1971(昭和46)年のことである。

 「動きの笑い」の先輩欽ちゃんも、志村けんのコメディアンぶりを大層評価していた。「普通に動いているだけでも、何だかおかしい」と。ご冥福を祈りたい。

(堤  哲)

2020年5月14日

尾崎美千生さんの市長選敗戦の記

 コロナstay homeで断捨離中に、尾崎美千生さん(2019年12月25日逝去、82歳)の自戦記「われ敗れたり」が出てきた。このHPで入社同期の原剛さんの追悼録に2003年1月の千葉県八千代市長選に立候補したことが綴られているが、次点で落選した記録である。

 A4判8ページに及ぶ。併せて東京新聞の記事が添付されてあった。

  「知名度なし」1万2363票の次点
  「街変える」意義ある敗北

 告示8日前の1月11日八千代市民会館で開かれた「尾崎決起集会」。元国連事務次長・明石康、TBSの宇宙飛行士・秋山豊寛、毎日新聞OBの岸井成格、重村智計らの《豪華キャストに定員500の市民会館に650人が詰めかけた、歴史的イベント》だった。

 社会部OBの原剛さんは司会役。《諸岡達一をリーダーとする毎日新聞「大東京竹橋野球団」の応援歌が、いつの間にか「尾崎応援歌」となり、会場に彩を添えた》

 毎日新聞の草野球チーム「大東京竹橋野球団」S・ライターズの応援歌は、尾崎さんが作詞、同じ政治部の井上義久が作曲した。

 会の最後に地元八千代市在住の「不動の一塁手」原田三朗をはじめ団員が舞台に上がり、諸岡達一の「さあ!ガンバッテコーッ!」の音頭で応援歌を、がなったのである。

 手書きの楽譜とともに、「ドンマイ節」誕生余話が『野球博覧Baseball Tencyclopedia』(2014年刊)に残っている。

  イクゼ!オー! イクゼ!オー! イクゼ!オー!
  三角ベースで育った我ら 川上青田に藤村大下
  長嶋ワンちゃん落合清原 そんなバッターはいやしない
  打てば三振ピーゴロざらよ バットバットバット
  我ら実年野球団 どんと行こうぜどんとね(ソレ!)
  ドンマイ ドンマイ ドンマイ ドンマイ(ガンバッテコーッ!)

大東京竹橋野球団の集まり(2011年12月) 後列右から3番目が尾崎さん

 《三角ベースで味方が大物を打たれたり、エラーをしても「ドンマイ!ドンマイ!」と進駐軍お下がりの英語でカラ元気を出す鷹揚さが少年たちの得意技だった。かくして往時の少年たちの夢を思い出すことで、応援歌の歌詞は大方出来た》

 《毎日新聞政治部旧友会の声援は語り草になろう》として応援団の名前を列挙している。

 小林幸三郎(RKB毎日元社長)小池唯夫(毎日新聞元社長)斎藤明(同)細島泉(編集局長、元取締役)三宅久之(評論家)広瀬次雄(アジア人口・開発協会事務局長)、安藤哲、金巖(秋田県象潟町長)馬弓良彦(元取締役)、岩見隆夫(評論家)池浦泰宏(日本外交協会理事長)、中田章(元取締役)、鈴木恒夫(元文科相、衆議院議員)西山猛ら。

 《三宅、岩見、鈴木の鍛えられただみ声がビルの谷間や団地の壁にこだました》

 その敗因を冷静に分析している。

 市長選は、前市長の贈収賄事件・逮捕に伴う「世直し選挙」だったが、勝手連に推され「党派を超えた市民派の結集」を訴えた尾崎候補は、残念ながら《知名度がゼロに近かった》。そのうえ前年暮れにバンコクで開かれた第5回アジア太平洋人口会議に政府代表顧問として出席したうえ、勤務していたJICA(国際協力事業団)の辞表受理が告示直前の1月9日だったことから、《800メートル競走に半周遅れ》のハンディキャップとなった。

 元政治部長で象潟町長を3期務めた金巖さん(2019年没、85歳)が落選後に励ましの手紙を出している。

 《尾崎さんの挑戦は決して蟷螂の斧ではありません。地方政治実現のために捨て身の人間が現れたという道標です。

 いま、日本の政界は試練の時に直面しています。国政に携わる政治家の多くは国の針路など念頭になく、カネと利権漁りに汲々としているのが現状です。

 残念なことに、地方治自体の首長にもカネに毒された政治家気取りのものたちが多数います。嘆かわしいことです。この風土を一掃しない限り、本当の地方分権は実現できません》

 尾崎さんは最後をこう結んでいる。

 《世界のあり方が、人類の生き方が根本から問われている千年単位の変化の時代に、いまこそ日本人の生き方と、足元から日本の政治を考えてみたい。そのことに残された今後の自分をかけてみようと思う》

(堤  哲)

2020年4月9日

「意地悪ばあさん」はサンデー毎日に連載された

「意地悪ばあさん」連載開始の予告
(1965年12月26日号)

 長谷川町子生誕100年を記念して月刊「東京人」5月号と、「週刊朝日」別冊が長谷川町子特集をしている。合わせて長谷川町子美術館・記念館を4月に開館する予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期となっている。

 長谷川町子といえば朝日新聞連載の「サザエさん」だが、サンデー毎日連載の「エプロンおばさん」「意地悪ばあさん」(単行本は「いじわるばあさん」)も人気があった。「意地悪ばあさんは、彼女の最高傑作」と、「東京人」誌で漫画研究家・清水勲氏が絶賛している。

 「意地悪ばあさん」がどうして始まったか。初出は「サンデー毎日」1963(昭和38)年1月6日新年増大号。4コマを8ページにわたって展開した。それが好評で、翌64(昭和39)年正月の特大号にも8ページ15本の作品を描いている。

 アイデアのきっかけはアメリカの漫画、ボブ・バトル作『エゴイスト』(Egoist)。これが日本では「意地悪爺さん」などと紹介され、町子さんは「主人公をおばあさんにした方がもっと面白い」と、設定を替えた。

 サンデー毎日では「エプロンおばさん」を1957(昭和32)年1月から65(昭和40)年7月まで8年半続けた。その連載中に、「意地悪おばさん」を書き下ろしたのである。

 65(昭和40)年2月に「サンデー毎日」編集長となった三木正(元社会部デスク)は、就任の挨拶に長谷川町子宅を訪ねた。町子さんはいきなり「『エプロンおばさん』を描くのをやめようと思っている」と言った。

 人気の「エプロンおばさん」を辞められては大変だ。とっさに「では、『意地悪ばあさん』で連載をお願いしたい」。

 町子さんは逡巡したが、翌66(昭和41)年1月2日号から連載が始まった。

「意地悪ばあさん」第1回
「自選 意地悪ばあさん」

 即「サンデー毎日」の売り物になった。連載は71(昭和46)年6月27日号の第225回まで続いた。その後はずっと休載、73(昭和48)年1月7日号に「帰ってきた意地悪ばあさん」2ページを掲載したが、それが最後となった。

 その間、72(昭和47)年1月16日号には「自選 意地悪ばあさんベスト32」を16ページにわたって特集。同年4月「サンデー毎日」創刊50周年特別号には、加藤芳郎さんと対談をしている。

左端は三木元編集長か

 三木さんは月刊「文藝春秋」1990年2月号の「昭和を熱くした女性50人」で長谷川町子さんを紹介している。

 《私が定年退職したとき、女房と二人、食事に招待して下さって、「これからはあなたも自分だけのために人生を楽しまなくっちゃ」といっていたのが印象的でした》

 《(長谷川町子さんは)いまでも好奇心旺盛で、面白がり屋で若々しい、サザエさんそのもの。いじわるばあさんとはほど遠い方です》

 長谷川町子さんは、1920(大正9)年1月30日生まれ。92年5月27日没、72歳。

 三木正さんは、同じ1920年生まれ。90年8月27日没、70歳だった。

 「サンデー毎日」は、2022年4月、創刊100年を迎える。

 いや、その前に2022年2月21日「毎日新聞」が創刊150年を迎える。

(堤  哲)

2020年4月5日

松江・岡山・大津・広島と支局長を4つも歴任した藤田紀一さん
――同人誌『人生八聲』を読んで思い出したこと

 木戸湊元主筆提案の季刊同人誌『人生八聲』第22号(2020年4月発行)に、私と同期入社の勝又啓二郎さんがこんなことを書いている。

 勝又さんは、秋田支局4年目の1967(昭和42)年春、宇都宮支局へ異動することを支局長から内示された。それを嗅ぎつけた1年先輩がその晩、「その異動、オレに代わってくれないか」と勝又さんに直訴したのだ。

 「秋田に来て4年。いまオレはおおきな壁にぶつかって仕事も生活もどうしようもない状態だ。このままでは完全にダメ人間になってしまう。どこかに転勤して仕事や生活環境を変えてもう一度やりなおしたい。オレを助けると思って異動を代わってくれないか」

 翌日、支局長に事情を話すと、「人事を何と心得ているのか」と大目玉を食らったが、その先輩は5月10日の定期異動で大阪本社社会部へ、勝又さんは秋田支局に残ったというのだ。

 身代わり先輩記者のことはあとで触れるとして、勝又さんの同期64(昭和39)年入社組は、67年5月10日異動でセット版と統合版支局の入れ替え人事が行われたのだ。

 東京オリンピック後の不況などの影響で、新入社員の採用が減った。2年下の66年入社は、全国で記者職11人。64入社組が地方支局へ赴任したときは、62(昭和37)年入社が本社に上がった。地方支局2年である。64組は支局生活が4、5年になるのは必至となり、過去に例のない支局交流異動が行われたのだ。

 山形支局・石黒克己→川崎支局 川崎支局・佐藤良一→山形支局
 盛岡支局・新井敏司→千葉支局 千葉支局・中安宏規→盛岡支局
 いわき支局・遠井信久→横浜支局 横浜支局・柿崎紀男→福島支局
 青森支局・武藤 完→前橋支局 前橋支局・花形静哉→青森支局
 新潟支局・鬼沢正義→宇都宮支局 宇都宮支局・大洞 敬→長岡支局
 長野支局・堤  哲→水戸支局 水戸支局・畠山和久→長野支局

といった具合に、6組のトレードが成立した。

 ほかに仙台支局・上西朗夫は甲府支局に転勤することに決まっていたが、甲府支局・細野徳治が2階から落ちて足を骨折。この異動は取りやめになったという。

 勝又さんは宇都宮支局に内示されたわけだから、宇都宮支局・大洞さんは長岡支局でなく、秋田支局行きだったはずだ。大洞さんの人生はどう変わった?

 秋田に残った勝又さんも、思わぬ事故に遭遇する。5月13日、秋田県阿仁町の大火を写真部員(40歳)が毎日新聞の新鋭ジェット機で取材、秋田空港に着陸して、撮影したフィルムを秋田支局員に手渡そうとして、プロペラに触れてしまったのだ。

 写真部員の殉職。その現場に勝又さんはいたのだ。そのショックはいかばかりだったか(※)。

藤田紀一さん

 身代わり異動で大阪に転勤したその先輩記者と、私は大阪社会部で一緒になった。勝又さんはF記者と匿名で書いているが、藤田紀一さん。「フジキ」さんとか、「キイチ」さんと呼んでいた。当時、大阪社会部には、藤田姓が4人もいたのだ。

 私が街頭班と呼ばれるサツ回りをしているとき、藤紀さんは大阪府警回りの事件記者だった。残念ながら大阪在勤2年9か月の間、一緒に仕事をしたことはなかったが、気のいい先輩だった。

 ネットを検索すると、秋田県政を担当している時の「県政寸評」が見つかった。秋田湾地区が新産都市に指定されたことに関連しての考察だが、こんなことを書いている。

 《フランスの近代写実主義の代表的な作家、バルザックは借金の返済に追われてあれだけぼう大な作品を書いたという。もし、バルザックが金に困らなかったら「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」を含む一大叢書「人間喜劇」は生まれなかったかも知れない。……バルザックにとって借金は少なくとも小説を書く動機の一つであったことは間違いない》
=1966年(昭和41年)2月1日発行「あきた」(通巻45号)。

 さすが早大文学部の出身!?

 大阪では社会部から整理部・副部長→松江支局長→岡山支局長→大津支局長→広島支局長→夕刊特集版編集長→論説委員。

 支局長を4つも経験した人は、そういないと思う。

 退職後は、熊本県鹿北町(現山鹿市)に移住、農夫をしていた。

 2019年5月23日没、78歳。

 63(昭和38)年同期入社のフジケン藤田健次郎さんが社報に追悼録を書いている。

 《暮らしぶりを冷やかしてやろうと訪ねたことがある。部屋の壁を埋める蔵書。外では段々畑六枚など550坪を耕し、果実のなる山林を守っていた。 「キユウリ4本100円だから、儲からないけど自足には十分」。イノシシ除けの柵を直したりする足元にマムシが2匹。厳しい過疎地だった》

 《のちに紀一さんは農家をリフォームし、念願の大きな暖炉がある書斎を設け、それを機にテレビを捨てた。その夢を思い描いたように見事に貫いたと思う》

 記者人生さまざまである。

(堤  哲)

 ※勝又さんは秋田空港で起きた「新ニッポン号」の事故について、『人生八聲』第4巻(2015年10月)で目撃体験を報告しています。

 『人生八聲』22巻は、まだ余部がありますので、ご希望の方には送料込み1,000円でお送りします。申し込みは、下記アドレスの高尾義彦までよろしく。

 

2020年4月3日

中曽根番記者・松田喬和さんの述懐

旧官邸の首相執務室を再現したスペースで、収録の松田喬和さん=高崎市末広町の青雲塾で

 昨年11月に101歳で死去した中曽根康弘元首相。その追悼番組が地元群馬テレビで4月14日午後7時から放送される。出演した毎日新聞特別顧問・松田喬和さん(74歳)は「戦後日本の転換点で、新時代の指標になる政治家だった」と振り返った。

 松田さんは旧榛名町(現高崎市)出身。政治部では自民党旧中曽根派などを担当。1995年刊行の『中曽根内閣史―理念と政策』(世界平和研究所)の執筆に参加し、中曽根氏の政界引退後も取材を続けてきた。

 収録では、中曽根氏が派閥抗争の激しい党内で「総理総裁」へと上り詰めていった過程や、政治的立場の異なる他者の意見をくみ取る度量の深さと文化的教養の高さを示す数々のエピソードを披露。首相在任時の厳しい国際情勢の中で米国を主軸に中国やアジア各国との友好も重視した外交や、改憲論者でありながら「独断で走ってはならない」などと丁寧な議論の必要性を指摘していたことも紹介した。

 以上は、毎日新聞群馬版の記事だが、かつて国鉄を担当した記者からすると、1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化が印象深い。

 中曽根大勲位が亡くなった時の毎日新聞社説を引用したい。見出しは「戦後保守政治の最後の生き証人」。

《1982年に首相に就いた。日本は当時世界第2位の経済大国となり、戦後のピークに立っていた。だが、政権発足に際して「戦後政治の総決算」のスローガンを掲げた。 内政では、行政、税制、教育の3改革を目指した。このうち、行革で大きな成果を残した。
なかでも、特筆すべきは国鉄改革だ。累積債務が37兆円を超え、国の財政を圧迫する大きな元凶だった。
官主導のシステムは戦後三十数年を過ぎ、行政の肥大化という問題を招来した。改革は時代の要請でもあった。
政治の生の変化に対応する姿勢は時に「風見鶏」と皮肉られたが、戦後政治に対し、新たな針路をもたらしたのは確かだ》

 国鉄分割・民営化の実現で、《戦後政治の一翼を担った国労、総評、社会党の崩壊へとつながり、戦後日本の政治体制であった「五五年体制」そのものが崩れ去ったのである》=牧久著『昭和解体』—国鉄分割・民営化30年目の真実―。

 松田さんは、行革が何故成功したか、中曽根さんから直接聞いた話を「汎交通」(2020年3月発行日本交通協会の機関誌)で紹介している。

 《NHKテレビで、自宅でメザシを摂る土光氏(土光敏夫第二臨調会長・当時経団連会長)が放映されたとき、「土光さんの清貧さがクローズアップされ、多くの国民の共感を呼び、行革は成功すると確信した」》

 松田さんは、1969年毎日新聞社入社。福島支局、東京本社社会部を経て74年政治部。横浜支局長、広告局企画開発本部長、論説委員を歴任。2004年4月から論説室専門編集委員。09年9月民主党政権下で首相番を務め、「松田喬和の首相番日誌」を自民党の政権復帰まで連載した。14年4月から現職。TBSテレビ「ひるおび」の政治コメンテーターやBS11「インサイドアウト」コメンテーターも務める。

(堤  哲)

2020年3月11日

川向こう7方面記者クラブは倍賞千恵子さんを招いた!

 警視庁5方面クラブのお宝・手塚治虫が描いたトキワ荘の天井板に関連して方面クラブをネット検索すると、7方面本所署記者クラブは、下町の太陽・女優の倍賞千恵子さんを警察署に招いたという記事が出てきた。それも毎日新聞の瀬下恵介記者の仕掛けによるとあった。

 元朝日新聞記者岩垂弘さんのブログで、『ジャーナリストの現場―もの書きをめざす人へ』(2011年同時代社刊)として発刊されている。

 ブログに写真が載っている。倍賞千恵子が東京五輪開幕直前の1964(昭和39)年10月1日「都民の日」に本所警察署を訪れ、方面クラブの記者たちから感謝状と記念品を受けたのである。今から56年前だ。

 警視庁第七方面記者クラブは、墨田、江東、江戸川、葛飾、足立5区の警察署を担当する。各社2人の記者が常駐していた。

 以下岩垂さんのブログから。《その日も事件がなく、クラブ員は暇をもてあましていた。とりとめもない雑談にあきたころ、毎日新聞の瀬下恵介記者が叫んだ。

 「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」

 倍賞千恵子さんといえば、当時、新進の若手女優であり、歌手だった。『下町の太陽』という歌が大ヒット。彼女主演で映画化もされた。今ふうにいえば、人気上昇中のアイドルといってよかった。

 「下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」と瀬下記者。クラブ員はみな仰天した。彼の、そのとっぴょうしもない発想というか、思いつきに、である。が、「こんなむさくるしい所にくるわけがない」と、だれも相手にしなかった。

 そんな中で、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を入れ続けながら、どこ かに電話をかけた。いったん切ると、またかける。いずれも随分長い電話だった。そして、彼はついに叫んだのである。

 「おーい、みんな、倍賞千恵子がくるぞ」

 おちょぼ口をして満面笑みをたたえた瀬下記者のその時の表情はいまでも忘れられない》

 《瀬下記者によれば、松竹本社に電話し、倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだ。相手は最初、難色を示していたが、どうしてもとねばったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれたという》

 《「都民の日」の十月一日、彼女は本所署に一人でやってきた。私たちは署長室を借り、彼女を招き入れた。
 私たちはコーヒーとケーキで彼女と懇談した。感謝状を渡したが、そこには「あなたは、『下町の太陽』で、下町の良さを全国に知らしめた」といった意味のことが書かれていたと記憶している。それに、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。それは、何を贈ろうかと思案したあげく、他のクラブ員と私が、両国駅近くのインテリア専門店の倉庫内を物色中に見つけたものだった。もちろん、みんなで金を出し合って買った。
 当時、彼女は二十三歳。それはそれは美しかった。「きれいだな。こりゃ、掃きだめに鶴 だ」。クラブ員から、そんな声がもれた。
 彼女自身も驚いたようだ。後にもれ聞いたところでは、本所署を訪ねる前、「わたし、何も 悪いことをしていないのに、どうして警察に行かなくてはならないのかしら」と周囲にもらしていたという。
 本所署記者クラブのこの“壮挙”は、他の警察記者クラブに波紋を広げた。「おれたちは吉 永小百合を招くんだ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女優さんを招く ことができた警察記者クラブは他には一つもなかった》

 話の続きがある。《これには後日談がある。九年後、私たちは倍賞千恵子さんと再会することになる。
 すでに本所署記者クラブを去っていた、私たちかつてのクラブメンバーから、「また、倍賞さんに会いたい」という声が起こり、私たちが、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じていた倍賞さんを招いたのだ。こんどは、すぐ承諾してくれた。私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清も一緒に招いた。
 一九七三年十二月十六日、銀座のレストラン「三笠会館」。あの「下町の太陽」娘はいまや大スターに変身していたが、本所署署長室での初対面で感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。この時の楽しいひとときは忘れ難い》

 殊勲者瀬下記者については、こう書いている。《瀬下氏は、その後、ニューズウイーク日本版発行人を務め、今は東京・神田にあるマスコミ人養成塾「ペンの森」の主宰者である》

 瀬下さんはことし82歳になる。80歳を契機に「ペンの森」を引退したというが、2012年11月5日瀬下塾・ペンの森OB会が発足、という記事をネットで見つけた。

 《300名以上いる卒業生の交流を活発化し、ペンの森をますます応援するため、従来のペン森関係者の交流組織「瀬下塾」をバージョンアップ。「瀬下塾・ペンの森OB会」を発足させていただくことになりました》

 当時74歳の写真も載っていた。瀬下さん、お元気ですか。

(堤  哲)

 *方面記者クラブの話では、読売新聞の本田靖春著『警察(サツ)回り』(新潮社1986年刊)秀逸だ。6方面上野警察署で朝日新聞深代惇郎との交流などいずれの機会に紹介したい。

2020年3月11日

運動面を作りたくて整理部入り
傑物偉大な西和夫さんの不思議な顔

1957年頃、整理部へ入った当時の西和夫さん

 元編集局長・西和夫さんの整理部時代の「知らざる一面」を紹介します。西さんは1955(昭和30)年頃から経済部へ異動するまで、ずーっと整理部記者でした。「俺はねエ、運動面の整理がやりたいから整理部へ来たんだよ」が口癖、とにかくプロ野球が大好きでした。

 2020年2月、西さんの訃報に接し、茲に改めて西さんのこだわり深い人物像が懐かしく思い出されてきたのです。

 昭和30年初頭の整理部では高原誠一さん(故人)が兵隊ながら運動面(スポーツ面という呼称はなかった)を長年にわたって独占編集していました。西さんは「俺にやらせろ!」と言ってはダダっ子のようにきかず、高原さんが休みの日は“オレオレ西さん運動面”が続くようになったのでした(かなり強引)。

 1958年秋には西鉄が3連敗から4連勝して巨人を倒した歴史的大逆転日本シリーズを担当、“鉄腕稲尾”の言葉は西さんが編み出してよく見出しに使いました。「あの日本シリーズはねえ、第5戦がキーだね。西鉄の奇跡を達成したのが第5戦だよ、モロちゃん」……のちのちまで語り草でした。

 その第5戦……3-2で巨人リードの9回裏、もう絶体絶命西鉄は先頭打者・小渕泰輔(2塁手)が三塁線ぎりぎりを抜くファウル気味の2塁打(代走・滝内弥瑞生)、長嶋茂雄三塁手は「ファウル、ファウル!」と抗議したが審判認めず2塁打。豊田泰光(遊撃手)送りバント、滝内三進。中西太(三塁手)は3ゴロで二死三塁。ここで不振続きの関口清治(左翼手)は1-3から痛烈センター前ヒットでなんと同点にしてしまった。巨人は先発投手・堀内庄が快投を演じていたが9回裏走者を出したところで藤田元司(疲れていた)に替えたのがたたった感じ。延長10回には大友工投手が登板して8番打者・稲尾和久投手にレフト・サヨナラ・ホームランを浴びたのでした。稲尾は第4戦も完投勝ち(得点6-4)しているにも関わらず、この試合も4回からリリーフ登板して巨人打線を1安打に抑え込んだのでした。稲尾は1958年シーズン長打率.365 本塁打4本という一流打者で、「西鉄の底力をまざまざと見せつけられた」と巨人・水原茂監督。

 逆に西鉄の三原脩監督は「今日の作戦は失敗の連続だよ。9回裏、豊田にバントさせたのはその後の中西が犠牲フライを打つと思っていたからナ。俺は野球に自信なくしたネ」。6回裏の2点は豊田四球のノーアウト1塁から中西が2ランを放ったもので起死回生の2点だったから、三原はその続きを求めたのかも。三原は、さらに西鉄先発投手・西村貞朗が与那嶺要(左翼手)に3ランを食らい一死も奪えず1回で交代させにゃあならん事態も失敗したを繰り返した。

  1958(昭和33)年「日本シリーズ」第5戦 平和台球場
  巨人 300 000 000 0 |3
  西鉄 000 000 201 1×|4

 この試合こそ……西和夫が愛する野球試合の1つであったわけです。後楽園球場に戻っての第6戦は「6-1」で西鉄勝利。第7戦も「2-0」で西鉄の勝ち(4勝3敗で三連覇成る)。この2試合ともに中西が1回表に2ラン3ラン。稲尾が二試合とも完投・完封だったのだから……あきれる。

 “駒沢の暴れん坊”という言葉は西さんの発言から出たんです。東映フライヤーズがめちゃくちゃな試合を展開して人気を博していて、駒沢野球場(世田谷区深沢・現在「駒沢オリンピック公園」)は当初は観衆200人とか300人だったのが、2万人を超える観客を呼ぶほどになっていました。西さんもよく駒沢球場で野球を見てから朝刊勤務(普段は軟派)の席についていたのです。やんちゃ極まりない選手が東映には多数いました……山本八郎(喧嘩っぱやい)、毒島章一(三塁打王4回)、土橋正幸(1試合16奪三振)、安藤順三(野村克也と誕生日が1日違い)……荒くれ揃い。西園寺昭夫、スタンレー橋本らも個性あふれるプレーで魅せましたね。なんの規制のないチームで、自由気まま、二日酔いオッケー。そういう雰囲気が西さん好み?だったようで、山本八郎がアウト・セーフの判定から審判を殴って蹴飛ばし、さらに投げ飛ばした事件があったときも、西さんは「審判もちゃんと見なきゃあナ。ま、ハチの暴力はもっとイカンけどね」と言っていました。

 1959(昭和34)年に新人で入った「張本勲はいいぞ、あれは。ぎっちょでレフトへあんないいヒットを放つやつはいないヨ」と評価していました。通算最多3085本安打の男に1年目から目をつけるなんぞ、西さんの野球を見る目は只者ではありません。

 もっと言えば、西さんは大リーグ通でした。スタン・ミュージアル(カージナルス)が来日した時、あれは毎日新聞が招聘していたため切符があったんですね。カージナルス對全日本の1戦2戦を後楽園で見たと言ってました。スタン・ミュージアルが3安打して稲尾もやられたのは「当然だよ」……大リーグのレベルは段違いであることはとうにご存知で、日本の野球は「まだまだ、だね」と。

 西さんは「愉快で楽しい知られざる事柄」を知っていました。スタン・ミュージアルは三年連続首位打者中で、ダブルヘッダー5本塁打、21歳でメジャーに入って以来37歳(1958年時)まで17シーズン3割以上の打率を残しています。左バッターボックスに背を丸めた独特のスタンスで立ち、獲物に飛びつく動物のような感じでバットを振る。ブルックリン・ドジャースとの試合で打ちまくり、ニューヨークのファンが「あの野郎!」と逆に尊敬してしまうほど……『oh here comes the man again……』と悲しい叫び声をスタンドで上げたとのこと。以来、ミュージアルの渾名「ザ・マン」が全米に定着しました。ブルックリンのファンはカージナルスは敵視しましたが、ザ・マンには大歓声と拍手を送ったのです。そんなエピソードを語る西さんの顔は得意満面でした。

 「俺はねえ、ミュージアルも好きだけど、アーニー・バンクス(シカゴ・カブス)が好きでねエ。あいつはジャッキー・ロビンソン二世になるぞ」と、褒めたたえていました。バンクスは黒人「ニグロ・リーグ」からシカゴに入団して、シーズン本塁打を44本、47本、45本、41本と量産、打点王2回(129、143)、愉快な明るい性格でミスターカブと呼ばれていました。「バンクスはねえ、へっへっへ、あいつ併殺打がめちゃ多いんだよね」と西さん。そういう選手を好むんです。バンクスの本塁打は通算512本。野球殿堂入り。背番号14はカブス初の永久欠番になっています。西さんの野球博識には驚くこと多々。

 あの頃の大リーグ情報は外電以外なかったのですから、運動部でAP通信やらUP通信やらをあさっていました。それと運動部の鈴木美鈴さんとは昵懇の仲(東大の先輩後輩)で、西さんは「ミレイさんの原稿は信頼できるからね」といつも言っていました。ミレイさんは来日したカージナルス・チームの通訳もやるくらいの記者で「記録の神様」といわれた人。アメリカの本物ルール・ブックを翻訳して日本の野球規則を作った人です(野球殿堂入り)。

 僕は西さんが運動面に熱中している頃、スポニチから毎日新聞に移ってきて、最初の2年間は運動面専属でしたから西さんと2人でプロ野球紙面を何度もつくりました。その都度「野球噺」で盛り上がったのでした。最終版が終わってから午前4時ころ「すし屋横丁」へ行き延長戦12回裏くらいまで飲ったナア。なんか、こう……有楽町時代の自由謳歌した編輯局の空気が懐かしい、ですね。

1982年10月、西和夫さん退職時の会で

 その後、西さんは経済部、経済部長、編集局長へと進みます。1978(昭和53)年頃だったか「1ドル=190円代」に突入、メディアは打ち揃って「200円割れ」「200円割れ」と大騒ぎしていたのですが、西さんは編集局で叫んだね。「何を騒いでいるんだよ」「日本経済から考えて1ドル=180円から170円でいいんだ!」「新聞も価値判断まちげえるナっ」「円安温室はもういい」などなど、整理本部界隈でガンガンガン。あれから徐々に「国際金融の常識論」が編集局中で定まってきて、日本も市場開放へと進むのでした。

 編集局長就任の翌日でした、西さんは僕を呼んで「おいモロちゃん、インベーダー・ゲームに連れて行ってくれヨ」と言うのです。「即いきましょう!」。新宿のゲーム・センター(後の命名)で何ゲーム遊んだか……。いくらやっても、あっと言う間に2人とも敗退しました。しかし西さんは負けず嫌いで、その後なんどか同じゲーム・センターに行ったそうです。腕前が上達したかどうかは不明のまま、ですが。あれは正式名称「スペースインベーダー(Space Invaders)」というヤツで一世を風靡したもんね。西さんのいろんな場面での先見の明はたいしたもんです。

 日本記者クラブのラウンジで「西会」が開かれていた頃(2000年代はじめ?)、その前座で「野球談議オンリー会」……といってもアルコール主体ですが、野球のハナシで合うヤツはモロ以外にいなかったのでしょう? そこでも西さんはたびたび「西鉄大逆転シリーズ」をぶり返し、有楽町編集局の看板が「編輯局」だったことと合わせ、思い切り気に入った運動面を溌溂と作っていた時代を懐かしがっていました。

(OB・諸岡達一記)

2020年2月28日

警視庁5方面記者クラブのお宝がマンガミュージアム入り

 お宝は、漫画家手塚治虫さん(1989年没、60歳)がトキワ荘の天井板に描いた直筆画である。タテ90センチ、横30センチ。

 「リボンの騎士」の主人公サファイアと、汗をかきながら漫画を描く手塚さんの自画像。

 五方面記者クラブのみなさんへ
 1982年12月1日

とサインペンで書かれている。

 天井板は、かつて豊島区南長崎3丁目にあった木造アパート「トキワ荘」のものだ。手塚さんをはじめ、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄さんら売り出し前の若手漫画家が10室あった2階4畳半に住んでいた。

 手塚さんの自画像を見てください。ツギの当たったセーターを着て、裸電球のもとペンを走らせている。

 築30年。「トキワ荘」は、老朽化で取り壊された。その解体作業に、火事の取材現場から帰る途中の5方面記者クラブ(池袋警察署)の社会部記者が出くわした。

 「これは大ニュースだ」

 記者たちは、トキワ荘に住んでいた漫画家に電話取材をした。すると、当時54歳の手塚さんが「記念に天井板が欲しい」といって、翌日解体現場にやってきた。

 《自室だった2階の部屋の天井板を何枚か外すと、1人の記者が「記念に何か……」とペンを渡した。すると、手塚さんはすらすらとサファイアを描き、「僕も描こう」と自画像も添えた》

 《宛名を書く際、手塚さんは「方面クラブって何ですか」と尋ね、記者たちは「若手記者が切磋琢磨する場所です」と説明。すると手塚さんは「トキワ荘みたいなものだね」と話し、ニコッとしたという》=読売新聞2月27日夕刊。

 方面クラブは、サツ回り記者たちのたまり場である。23区内は7方面に分かれ、1方面丸の内、2方面大崎、3方面渋谷、4方面新宿、5方面池袋、6方面上野、7方面本所各警察署にあった。

 ゴミの5方面と呼ばれた。管内で事件・事故が起きても、都心や渋谷・新宿と比べ紙面扱いが小さいのだ。

 天井板は池袋署記者クラブのお宝だったが、タバコの煙で汚れがひどくなり、30年ほど前に5方面の歴代担当者がカンパして、お宝を洗浄、額に収めた。その幹事役が毎日新聞の現オリンピック・パラリンピック室長・山本修司さん(57歳)=前西部本社編集局長=だったという。

 そして10年前に、5方面クラブ詰めの記者が減ったことから、このお宝は、お隣4方面の新宿警察署の記者クラブに預けられていた。

 豊島区が「トキワ荘」近くに復元した「マンガの聖地豊島ミュージアム」(豊島区南長崎3-9−22区立南長崎花咲公園内、最寄駅は西武池袋線椎名町駅)が3月22日(日)にオープンすることとなり、このお宝の寄贈式が警視庁本庁で行われたのだ。当時5方面クラブを担当していた各新聞社の記者たちも出席して。高野之夫区長は「手塚先生の思いがこもった貴重な作品。施設に魂を吹き込んでいただいた」と謝辞を述べた。

 なお、開館はコロナウイルス感染の拡大の影響で、4月1日以降に延期された。

(堤  哲)

2020年2月5日

美術館が進化しています! たまには覗いてみませんか

 皆さま、都内の美術館で今、どんなコトが起きているか、知っていますか。
 ハワイ・ホノルルの日本語新聞「日刊サン」に連載している高尾義彦氏の第16回「日本の美術館が進化する」をご一読ください!

クリックするとPDFがダウンロードされます
ハワイ・ホノルルの日本語新聞「日刊サン」コラム⑯ 2020年02月04日

(堤 哲)

 

2020年1月14日

新聞は広島原爆投下をどう報じたか——牧内さんが「銀座一丁目新聞」で「新聞報道」検証の連載を開始

 ことし95歳を迎える牧内節男さん(元東京本社社会部長→編集局長、スポーツニッポン新聞社長・会長)が、インターネット上の「銀座一丁目新聞」で「新聞報道」検証の連載を始めた。ペンネーム「信濃太郎」。2010年(令和2年)1月10日号のNo.811が第1回だ。

http://ginnews.whoselab.com/200110/safe.htm

 ——この1年間、戦中戦後の「新聞報道」について検証をしてみたい。ネットに押されて新聞は部数を減らし続けている。新聞の使命が、1報道、2解説、3評論であるとすれば、この使命を忠実に続ける限り新聞の存在意義がある。第1回は「広島原爆報道」を取り上げる。

 昭和20年8月8日の毎日新聞は一面トップ、4段見出しで「B29、広島に新型爆弾」と大本営発表(8月7日15時30分)を掲載する。

 「昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中。8月6日午前8時すぎB29少数機は広島に侵入少数の新型爆弾を投下した。そのため同市の家屋が倒壊、各所荷火災が発生した」(以下略)

 原爆投下の文字もなければ広島の惨状について全く掲載していない。国民の戦意低下を考慮したのであろう。

 私はこの時、陸士59期の歩兵科の士官候補生として西富士演習場で野営中であった。7日の夜、風呂場で『新型爆弾広島に落ちて多くの被害を出した』と聞いた。

 もちろんアメリカの新聞は「原爆投下」を報じた。8月7日火曜日、ニューヨークタイムスは「原爆第一弾日本に投下 破壊威力はTNT2トンと同じ」と書いた。

 日本で一番早く「新型爆弾」が原爆と知ったのは私の知るところ当時検事をしていた向江璋悦さん(後、弁護士)である。

 8月6日正午過ぎ新聞号外が『広島へ新型爆弾が投下され被害大なる見込み』という号外がでた。その時、巣鴨刑務所の東京地検・向江検事の部屋に思想犯として取り調べを受けていた理論物理学者の武谷三男さんが飛び込んできて『広島へ落とされた新大型爆弾は原子爆弾に間違い有りません』という。

 「どうしてですか」と問うと「号外では1機できて爆弾を投下したとありますが、あれは原子爆弾を落下傘に吊り下げ、空中で爆発させるのです。空中爆発の影響を受けないような場所まで飛行機が立ち去ったときに空中爆発させ、被爆地域を広くするためですといった」という(向江さんの著者『法曹漫歩』より)。

 日本の物理学者が一番早く『原爆投下』を知った、というよりニュースを聞いた途端『原爆』とわかったのであろう。

 当時大本営の情報参謀・堀栄三少佐(陸士46期・陸大56期)は8月7日午前1時過ぎワシントンでトルーマン大統領が発表した放送内容を特別情報部がキャッチして『新型爆弾』の正体を知る(同氏の著書『大本営参謀の情報戦記』・文春文庫)。

 ラジオ受信の傍受で東郷茂徳外相ら外務省幹部も「原爆投下」の事実を知った。東郷外相は「原子爆弾か。これで戦争は終わりだ」とつぶやいたという(阿部牧郎著『危機の外相東郷茂徳』新潮社刊)。

 徳川夢声は「夢声戦争日記」(七・中央文庫)の8月6日の項(月曜日 晴 暑)で、すでに「原子爆弾の如きもの」と書いている。

 当時毎日新聞社会部長森正蔵は「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房)8月11日(晴れ)の項に「新型爆弾は、ウラニウムを使ったものであった。それは30キログラムの水と10キログラムのウランと10キログラムの起爆薬品からなっているという」と記している。

 国民は新聞より先に噂の広まりで広島・長崎の「原爆投下」を知った。更には8月10日には東京にも原爆が落とされる噂まで流れた(「夢声戦争日記」より)。

 毎日新聞に「原子爆弾」の文字が現れたのは8月14日の紙面であった。チューリヒ発の同盟の記事を掲載したものである。それによれば「大国の利己的政策は大国が原子爆弾その他の最も近代的な兵器を利用して戦争を起こす危険が増大したためいよいよ露骨になろう。また原子爆弾を独占しうるのは一時的なことに過ぎず連合国だけがいつまでもこの特権を享受しうると考えるのは誤りだ」と、新聞記者の投稿文を紹介した。

 それを決定づけたのは8月15日の終戦の詔勅であった。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し被害の及ぶ処誠に真に図らざるに至る」とある。原文を見るとこの箇所は後から書き添えられたものであった。

 真実は伝えるべきものであり其の判断を権力がするのでなく国民に任せるべきものだと「原爆報道」が教えている。憲法21条2項で「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」で規定する理由である。

(堤  哲)

2020年1月8日

2020年の初日の出

 1月1日午前6時45分頃だったか。テレビ朝日を見ていたら、「これから画面に出ている時刻表示など文字を消します。初日の出をスマホで撮影してください」といわれ、携帯で撮影したのがこの写真である。

 皆さん、明けましておめでとうございます。

   ことしも「毎友会HP」をよろしくお願い致します。

(堤 哲)

                                 

2019年12月26日

2020年東京五輪・パラリンピックへ

 暮れに有楽町の東京国際フォーラムで、1964年東京オリンピックの写真展があった。「熱気・五輪・1964」。主催は新聞通信調査会。

 1964(昭和39年)年は私が毎日新聞社に入社した年。オリンピック景気で「水膨れ入社」と揶揄された。99年10月作成の「39会」名簿は103人を数える。

 年表があった。

 1964年と今の比較——。

 6月に新潟地震があった。

 10月1日に東海道新幹線東京―新大阪間が開通、10日に東京五輪が開幕した。

 万代橋が落ち、コンビナートから上がる黒煙。

 東京五輪から次の2枚。マラソンの円谷選手が国立競技場内で英国選手に抜かれた場面と、閉会式で日本選手団の旗手が外国人選手に肩車されるなど、感動的だった閉会式。

 予定稿が使えなくなって、各社のナンパ記者は勧進帳で記事を送った。

大鵬が九州場所で15回目の優勝
長嶋茂雄選手が婚約発表(11月26日)

 マッシ―村上が日本選手初の大リーグデビューをしたのが9月9日。

 国鉄スワローズ金田正一投手は、この年のオールスター戦で殊勲選手に選ばれ、数々の賞品が贈られた。金田はこの年を最後に巨人に移籍。背番号34は巨人の永久欠番になっている。2019年10月6日逝去、86歳だった。偲ぶ会が1月21日帝国ホテルで開かれる。

(堤  哲)

2019年11月15日

メディアウオッチを続ける85歳・天野勝文さん

 「メディアウオッチ100」2019年11月13日第1243号に、「自治体で対応分かれた台風犠牲者の氏名公表」天野勝文とある。

 この「メディアウオッチ100」は、「最近の新聞、テレビは中身がないし、ちっとも面白くない」という世論を受けて、新聞記者OBを中心とした報道・執筆のプロたち100人以上が、あらゆるメディアをチェック・分析・評価するニュージャーナリズムを立ち上げたのだ。創刊は2011(平成23)年2月。

 毎日新聞OBで元筑波大・日大教授の天野勝文さん(85歳)は創刊からの常連執筆者。すでに優に「1千本安打」を達成している。

 手元にあるニュースチェックを紹介する。ちょっと古いが、2018年12月26日第1121号——。

 「惜別」「追悼抄」「悼む」を読み比べると

 年の瀬になると、ひときわ気になるのが追悼記事である。土曜日から月曜日にかけて、朝日、読売、毎日の各紙に「惜別」「追悼録」「悼む」などのタイトルで、「月月遅れ」の追悼記事が載る。(中略)

 ① 朝日と読売は自社の記者が執筆している
 ② 毎日は社外執筆者が多い
 ③ 読売は大きなスペースを割いている

 個々の記事・寄稿の「評価」は脇に置くとして、やはり死者とゆかりのある記者が書いたものが「新聞らしい」のではないか。その点では毎日は人材に乏しい感を免れない。読売は冗長すぎる。総じて言えば、朝日に軍配が上がる(「大甘だぞ」と河谷史夫さんに叱られそうだが)。

リクルート広告の魁「東大新聞」1958年6月18日号

 天野さんと新聞の付き合いは古い。学生時代「東大新聞」の記者だった。履歴をみると、1957(昭和32)年東大文学部社会学科卒、59(昭和34)年4月毎日新聞東京本社入社。

 この2年間、経営破綻した学生サークル「東京大学学生新聞会」が「財団法人・東京大学新聞社」として新発足し、専従職員を任されている。

 リクルート創業者である江副浩正氏は、在学中に「東大新聞」で広告営業を始めたが、企業の就職情報の始めは、58(昭和33)年6月18日号に載った丸紅飯田株式会社の就職説明会広告だった。

 江副氏は東大4年生。江副氏の自伝『かもめが翔んだ日』には、天野さんから「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」といわれたと、書かれている。

 「新聞は下から読め」「広告もニュースだ」。天野さんがいなければ、「江副リクルート」は存在しなかった?

 天野さんは、1986(昭和61)年筑波大学助教授(ジャーナリズム担当)に就任する。52歳の誕生日前である。

 青木彰氏(2003年没、77歳)のあとを継いだ。教え子に朝日・毎日・読売をはじめ新聞各社の記者がたくさんいる。

 人格円満、後輩の面倒見もバツグンで、この人の悪口を聞いたことがない。

 日本の新聞・テレビ・メディアチェックをいつまでも続けてもらいたい、と思う。

 『ジャーナリズムの情理 : 新聞人・青木彰の遺産』(2005年刊)
 『新現場からみた新聞学』(2008年刊)
 『新現代マスコミ論のポイント』(2004年刊)など著書・論文多数。

(堤  哲)

2019年10月3日

OBの季刊同人誌『人生八聲』が20巻の記念号に

 元主筆、木戸湊さんが提案して5年前から有志で発行している季刊の同人誌『人生八聲』が2019年10月発行の秋季号で20巻に達しました。毎日新聞OBを中心に、現役時代に書き残した話やリタイア後の生活記録など毎号20数人が執筆し、多彩な内容となっています。

 20巻の執筆者を、目次を転載して紹介すると――

アフガニスタンに愛をこめて その六堀川 ひろ子
バック・ギア           香水 敏夫
「女王」はなぜクリクリ坊主に     長岡 民男
玉山とカムチャッカ斎藤 清明
北海道 地名探り―⑳ 佐渡 征昭
中国旅行なか むろ太
ニュースコラム・イン・ハワイ高尾 義彦
ある先輩記者の「図書館」 阿部汎克さんを偲ぶ永井 浩
当番弁護士制度を支援する会・大阪津村 裕子
杖ともに(その十五)木戸 洸
京の美味礼賛家村 隆子
随筆「文・ぶん・ブン」の(十五) 〝大権の行方〟さぎさか れん
原爆ドーム、丹下健三、ヤン・レツル、宗像政、市川崑(第二回)高谷 尚志
ツィッター俳句 「続無償の愛(一五)」河 彦
万博提案(4) タイム・カプセルの収納品について東方 洋雄
BC級戦犯を考える(Ⅱ) 2つの「聖地」──戦犯と特攻朝野 富三
2500年前の「悩み」神谷 周孝
AI(人工知能)とビッグデータ北畠 霞
「運命」の思い出川鍋 亮
ならしの日記(20) 勝又 啓二郎
遺伝子の意思保苅 文雄
鳳便り 15 鳳 蘭
「馬のもの言い事件」 調書を取られた江戸町民三十五万人仁科 邦男
北の国から 築二十年の悲劇福岡  洋子
やりましたホール・イン・ワン Ⅰ DID IT‼ Ⅱ宗岡 秀樹

 馴染みのない名前もあるかと思いますが、木戸さんの友人・知人なども参加し、元宝塚の鳳蘭さんは「毎日スポーツ人賞」の審査員を務めてもらった関係などから、参加していただいています。その木戸さんですが、今年1月に脳梗塞で左半身が不自由となり、リハビリの日々で、目次に名前のないのが残念です。
(なか むろ太は石井公明さん、さぎさか れんは山藤簾さんのペンネーム。河彦は高尾の俳名。常連の吉川泰雄さんは今回お休み。大島幸夫さんはボストンマラソン参加などの機会に随時)

 発刊当初から、東京五輪・パラリンピックまでは継続すると申し合わせ、少なくとも2020年中は発行すべく同人一同、「書くこと」に意欲を持続しています。「書くこと」を通じて、現役の記者たちにも頑張って欲しいとのエールも込めているつもりです。

 20巻の大きな区切りを機会に、全巻=写真=を揃えて国立国会図書館に近く寄贈する計画です。毎日新聞出版など出版社の場合、国会図書館への納本義務がありますが、同人誌や自費出版などは、自主的に寄贈する必要があります。印刷は株式会社毎栄=創刊時は毎日新聞東京センター=にお願いしており、公共的な施設で永久保存してもらいたいと願っています。

 秋季号など多少の余部があります。発行は寄稿者が必要経費を出し合って賄っており、ご希望の方には1部1,000円でお送りします。残部の範囲で対応しますので、次のメールアドレスにご連絡ください(高尾義彦)。

2019年9月19日

物故社員は8099人!

 秋のお彼岸に合わせ、先覚記者と物故社員の追悼会が9月18日(水)に毎日新聞東京本社で開かれた。ことし新たに279柱が合祀(ごうし)され、物故社員は計8099柱になった。丸山昌宏社長は「社員一丸となって諸先輩方が築いた毎日新聞の伝統を守り、発展させていく」と、追悼の辞で述べた(9月19日付け毎日新聞朝刊)。

 追悼会で配られた合祀者の名簿には「第155回先覚記者・第159回物故社員中央追悼会」とあった。この行事は、一体いつから始まったのか。

 『毎日新聞は百年史』に大正6(1917)年9月24日第1回物故社員追悼会を浜寺本社倶楽部で催す、以後大毎と東日で毎年春秋2回交互に催す、とある。

 102年も続いていることになる。

 その3年後、大正9(1920)年3月21日先覚記者追悼会を物故社員追悼会と同時に開く(以後毎年春秋2回)。

 追悼会の名簿は、A4判、本文34ページに霊名がぎっしり並んでいる。

 先頭は先覚記者。当初は以下の10人だった。
 柳川 春三
 岸田 吟香
 栗本 鋤雲
 福地源一郎(東日初代社長)
 成島 柳北
 末広 鉄腸
 沼間 守一
 藤田 茂吉
 福沢 諭吉
 ジョン・R・ブラック

 大正14(1925)年に以下の10人を追加した。
 島田 三郎
 西村 天因
 中江 兆民
 黒岩 涙香
 原   敬(大毎3代社長)
 渡辺巳之次郎
 池辺 三山
 田口 卯吉
 小松原英太郎(大毎4代社長)

 その後、浜田彦造(ジョセフ・ヒコ)が加わり、さらに大毎の初代社長・渡辺治(台水)、朝日新聞の社主・村山龍平らを加え、現在は40人が先覚記者として掲載されている。

 時事新報で福沢諭吉の教えを受けたやり手経営者・大毎5代社長の本山彦一社長が始めた。第1回先覚記者追悼会は、大毎(大阪毎日)東日(東京日日新聞)とも記事を載せている。

  先覚新聞記者
   十名士の霊を祀る
    本社並びに東京日日主催
   献饌(神前に物を供えること)質素、儀式簡単
    故人の遺風を追慕す

 この時、追悼の言葉を述べた本山も没後、先覚記者に祀られている。

 残り19人は——。
   矢野 文雄(龍渓)
   陸  羯南
   本山 彦一(大毎5代社長)
   高木 利太
   村山 龍平
   高橋 健三
   鳥居 素川
   犬養  毅(木堂)
   内藤 湖南
   関  直彦
   三宅 雪嶺
   竹腰与三郎(三叉)
   奥村信太郎(大毎改め毎日新聞6代社長)
   徳富 蘇峰
   高石真五郎(毎日新聞7代社長)
   丸山 幹治(侃堂)
   阿部真之助
   城戸 元亮

 2ページ目からは「物故社員」で、先頭は甫喜山景雄56歳、次に初代「大毎」社長・渡辺治30歳。

 明治5(1872)年創刊の東京日日の創始者の名前もある。篠野伝平72歳、西田伝助73歳、落合幾次郎72歳、広岡幸助90歳、岸田吟香73歳、福地源一郎66歳……といった具合だ。

 2022年、毎日新聞は創刊150年を迎える。

毎日新聞の電飾広告(東京メトロ有楽町駅で)

(堤  哲)

2019年8月25日

コラムニストから法曹へ
司法試験に合格して修習中の大高和雄さん

 福島支局の10年後輩で、経済部時代の同僚だった前「近事片々」子、大高和雄くんが、3月末に選択定年で退職し、法曹の道を歩むことになった。批判することに長けていたコラムニストが、どう実人生に関わっていくのか、今後が大いに見ものだ。

 千葉支局長から資材本部委員を歴任して論説室に移り、この2年間夕刊1面コラム「近事片々」を担当していた大高くん。「トランプもシンゾーくんもめちゃくちゃなので、コラムは書きやすい」と軽快なタッチでコラムを書いていたのに、4月に届いた社報には彼の選択定年が載っていてビックリした。まだ58歳だったはず、どうして?と電話して、またビックリした。

 日本で一番難しいとされる司法試験に受かり、12月から司法修習生になるので、少し早めに辞めさせてもらった、と言うのだ。「お前、そんなに優秀だったの?」と言ったら「えぇ、まぁ」だと。17年に予備試験に通り、昨年本試験に合格したのだとか。彼は「近事片々」を担当する前は、激務の論説副委員長も務め、そんな勉強をするヒマはなかったはず。どこで、どうして、なにゆえにそんな勉強をしたのかを尋ねたところ、うなってしまう答えが返ってきた。

 彼は東北大の経済学部出身で法律とは無縁だった。ところが、09年に千葉支局長から資材本部委員になった時、「これで記者職に戻る道はなくなった」と思ったのだとか。経済部の先輩から「時間に余裕があるなら、何か資格でも取ったら」と言われ、社業に役立つのは行政書士かなと思い、これは1年で資格が取れた。次に目標にしたのが、どうせやるならと、あの最難関の「司法試験」だった。

 法科大学院に入る余裕はない。それで、1万人が受験して400人が受かる予備試験を目指して、出勤前の1時間を大手町の喫茶店で勉強したのだとか。今は予備試験向けの参考書がたくさんある。受かるとも思わず、勉強を重ねたら、7年目に予備試験に通り、その7~8割が合格する司法試験にも18年に受かった。

 これから1年間、司法修習生として裁判所、検察庁、弁護士事務所で実務を学び、20年12月には弁護士資格を取って、自宅に弁護士事務所の看板を掲げるつもり。「弁護士の肩書きが役に立つこともある。少年絡みの事案で、世のため人のための支えとなる存在になれればいいな、と思っている」とか。

 大高くんには才媛の小学校教諭のカミサンはいるが、子どもはいないから、こんな思い切ったことができたのかも。あんまり金儲けがうまい方とも思えないから、こりゃ、髪結いの亭主弁護士だな。ともあれ、60歳にしてのコラムニストからの法曹の世界への転身を、注目して見守りたい。

文責・岩橋 豊(1973年入社、68歳)

2019年8月14日

奈良泰夫さんが始めた東日印刷サマーフェスが30回に

 ありがとう
 感謝していると
 つぶやけど
 奈良に届くか
 花火の咲く空  悠々

フイナーレ恒例の役員揃っての三本締めの前に挨拶する武田芳明社長

 8月10日、第30回トーニチ・サマー・フェスティバルが東日印刷の顧客をはじめ、地域の人たち、社員家族、OBら800人が参加して、4階屋上で開かれた。  冒頭の短歌は、元東日印刷役員・牧内節男さん(元スポニチ社長・会長)の欠席通知のはがきに書き込んであった。

 「この歌の意味を分かる社員がいるだろうか」と、元総務部長・赤松徳禎さん(79歳)がつぶやいた。

  第1回の開催が1989(平成元)年8月12日。前年7月に現在の新社屋が完成。4階屋上から晴海の花火大会がよく見えたことから、旧友会の花火鑑賞会となったのだ。「OB29人出席」と、『東日印刷50年史』にある。

 新社屋の完成披露のあと、東日印刷とスポニチの社長を兼務していた和田凖一さんが急逝(享年80)、東日印刷の社長に奈良泰夫(2012年没、86歳)、スポニチの社長に牧内節男が就いた。2人とも毎日新聞社の元常務取締役で、陸軍士官学校の同期(59期)。花火鑑賞会は両社長就任の翌年に始まったのだ。ついでながら陸士59期に、毎日新聞社会部で消防記者としてならした開真さん(2008年没、82歳)がいた。

 その後、晴海の花火は中止となったが、真夏のOB総会は続いている。この日のOB参加者は80人にのぼった。第1回から参加しているのは当時監査役の萩原康則さん(90歳)と現役の部長だった中川秀仁(86歳)。平田睦夫(82歳)、前田和彦(81歳)、副部長クラスで神田富佐玖(82歳)、伊藤義一(80歳)、塚本登(74歳)各氏ら。

 これで牧内さんの歌の意味が理解できたと思います。牧内さんは春秋の毎日新聞社会部旧友会のゴルフ会に参加していて、ことし8月31日に94歳の誕生日を迎える。

(東日印刷元監査役・堤 哲77歳)

2019年8月11日

日本女性初の五輪メダリスト人見絹枝さん

1928年アムステルダム五輪で入場行進する人見絹枝さん

 人見絹枝さんは1928(昭和3)年のアムステルダム五輪陸上800メートルで2位に入り、日本人女性初の五輪メダリストになった。人見さんはその時、毎日新聞の前身大阪毎日新聞(大毎)のスポーツ記者だった。

 東京五輪まであと1年を切って、再び人見絹枝さんにスポットライトが充てられている。最近毎日新聞が主催したトークイベント「人見絹枝~駆け抜けたパイオニア」で、大阪本社副代表・小笠原敦子さんが以下の報告をしている。

 ——人見さんが(大阪)毎日新聞社に入社したのは1926年。19歳でした。この年、開催される第2回万国女子オリンピックに参加し、記事を書いてもらおうと考えて採用したようです。二足のわらじ、今で言う見事な二刀流でした。

 連載のタイトルは「女子運動家の旅日記」。現地のスウェーデンから署名入りで記事を書いています。記事の一つの見出しに「廿(にじゅう)代の女が多い」というのがありました。当時、日本の女性スポーツは学校体育止まり。女学校を卒業するかしないかの年齢で結婚して家庭に入るような時代で、20代でスポーツをするなんてあり得ませんでした。世界と日本の環境の大きな差を感じたことでしょう。

 アムステルダム五輪に出場したのは2年後の21歳。日本選手団唯一の女性でしたから、いろいろ苦労もあったでしょう。大会の前に1カ月余りロンドンに滞在、女性陸上クラブで調整しました。クラブでは、学生ではなく仕事を終えた女性たちが集まってスポーツを楽しんでいました。その姿を伝える記事では「英国の女子選手は幸福」と何度も記しています。
 人見さんは早世しなければ、日本で同じような組織を作ったのではないかと思います。

 人見さんの残された言葉で一番好きなのは「努める者は何時(いつ)か恵まれる」。努力は裏切らないという意味です。来年の東京大会に向けて、この言葉は大事に考えたいと思います。

 人見絹枝さんは1907年、岡山県で生まれた。二階堂体操塾(現日本女子体育大)を卒業後、大阪毎日新聞社(毎日新聞社の前身)に入社。26年の第2回万国女子オリンピックの走り幅跳びで当時の世界新記録となる5メートル50をマークするなど好成績を収め、総合成績で個人優勝を果たした。

 日本の女子選手として初めて五輪に出場した28年アムステルダム五輪では、8月2日に行われた女子800メートルで銀メダルを獲得した。大阪毎日新聞の運動記者として記事の執筆や講演なども行い、女子スポーツの普及にも貢献した。

 アムステルダム五輪の3年後の31年8月2日、肺炎のため、24歳で亡くなった。

(堤  哲)

2019年8月4日

阿部菜穂子著『チェリー・イングラム』英語版
'Cherry' Ingram: The Englishman Who Saved Japan's Blossoms

ハードカバー: 400ページ、11ポンド(約1400円)
出版社: 英Chatto & Windus社
2019年3月21日刊行

 阿部汎克さんを偲ぶ会(8月1日日本記者クラブ)で毎日新聞OBの永井浩さんが『チェリー・イングラム』英語版が出版されたことを紹介した。

 日本語版が日本エッセイストクラブ賞を受賞した際、菜穂子さんの初任地京都支局の同人が日本記者クラブに集まり、お祝いをした。その時の模様は、この毎友会HP「集まりました」に載っているが、当時の京都支局長磯貝喜兵衛さんは「次は英語訳を出して、日英桜の秘話を世界に広めよう!」と祝杯を上げました、と書いている。

 それが実現したのだ。

アメリカ版
日本語版(岩波書店刊)

 英国に続いてアメリでも出版された。詳しくは菜穂子さんのHP: www.naokoabe.comで。

(堤  哲)

2019年7月28日

毎日新聞社にラグビー部があった!大毎にも東日にも

 これは1929(昭和4)年3月21日に浜松の全舷で行った「大毎」対「東日」のラグビー試合の際の記念写真である。

 写真説明をなぞってみる。

 「社会人になってからも久富さんはラグビーをやめなかった。大毎に入社してまもなく、久富さんは大毎、東日両社にラグビーチームを作った。そして両チームは毎年、東京大阪間のどこかの都市で試合をおこなった」

 久富達夫、東大ラグビー部の第2代キャプテン。東京府立一中→一高→東大工学部→卒業後、東大法学部政治学科に再入学→1925(大正14)年3月卒業、4月大阪毎日新聞社入社。26歳だった→社会部→26(大正15)年4月アフリカに特派。「東アフリカの旅」を大毎に連載→27(昭和2)年満州・北支に出張。上海から帰国する船に、蒋介石が密かに乗船しているのを知ってインタビュー。宋美齢と婚約をしていて、特ダネの「時の人」になった→政治部兼本山彦一社長の秘書。柔道5段のボディーガード?→27(昭和2)年東京日日政治部→34(昭和9)年6月政治部長。35歳である。

 政治部長時代の活躍ぶりは、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」2013年(平成25年)11月1日号追悼録(506) http://ginnews.whoselab.com/131101/tsuido.htm「特ダネ号外を出した久富達夫さん」を読んでいただくとして、40(昭和15)年8月に退職、内閣情報局次長となる。

 総理大臣近衛文麿から「貰い」がかかり、愛国者の久富は「この時機、ピッチャーからキャッチャーにポジションが代わったようなもの。チームは同じです」と話していた。

 読売新聞の「昭和史の天皇」に久富の功績が2つ紹介されている。「内閣情報局次長として、広島に落とされた新型爆弾は原爆であると閣議に報告した」(陸軍は特殊爆弾として戦争継続を主張した)ことと、敗戦の混乱を避けるため「終戦の玉音放送を進言した」こと。

 戦後、公職追放されるが、1964年東京五輪の際は国立競技場の場長だった。1968(昭和43)年没、70歳。

 写真を見てもらいたい。後列中央の背の高い男の左、恰幅のよいのが久富だ。背の高い男は、1922(大正11)年にラグビーの第1回早慶戦を行った時の早大マネジャー中村元一。中央気象台で過去のデータを調べて、「晴れの特異日」11月23日開催を決めた男だ。

 中村の右が野球殿堂入りの元慶大の名投手・小野三千麿。もうひとり野球殿堂入りの桐原真二もいる。

 「東日」には岩下秀三郎(慶大)、柳茂行(明大)らのラガーメンの他、明大の初代応援団長相馬基らが写っている。毎日新聞は人材を揃えていた。 大毎ラグビー部は1926(大正15)年1月、関西の実業団チーム第1号として創部。記念写真の2か月前、29(昭和4)年1月には、近鉄の前身大阪電気軌道(大軌)ラグビー部のファーストマッチの相手となり、6-3で勝利している。強かったのである。

 「大毎」は、現在花園で開かれている全国高校ラグビー大会を1918(大正7)年に始めている。久富が入社してラグビー部創設は当然のことに思われる。

 実は、この写真、8月早々に発売される『国鉄・JRラグビー物語』(交通新聞社刊、@1,800円+税)に掲載されているのだ。その第5章は「大鉄・近鉄・大毎」である。

 著者は小生。書店にあったら、見てください。

(堤  哲)

2019年7月15日

ハワイの日本語新聞「日刊サン」1面に高尾義彦さん

 夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 とおい空……。

 これは、童謡「夏の思い出」(江間章子作詞、中田喜直作曲)の歌詞の一節だが、7月になると、「蝉が鳴く頃」と、政府高官逮捕を予告したロッキード事件捜査当時の検察幹部の言葉を、懐かしく思い出す。 もう事件から43年が経過し、逮捕された田中角栄元首相が鬼籍に入って久しい(1993年死去)。

 後輩の新聞記者に昔話をしても、「私が生まれる前の話」とシラケる反応が返ってくる。それでも日本の政治史にとって、「戦後最大の疑獄」であることに変わりはなく、さらに現在の日米関係に共通する問題も内在し、語り継ぎたい。

 事件は、1976年2月に米上院外交委多国籍企業小委員会の調査・証言から、日本にもたらされた。捜査に乗り出した東京地検特捜部を、30歳の社会部司法記者としてフォローし、その頂点が7月27日だった。

 早朝、霞が関の検察合同庁舎正面玄関で、特捜検事に伴われて黒塗りの車から降りた元首相は、報道陣のカメラの砲列に、「いよっ」という感じで右手を上げ、足早に庁舎の中に姿を消した。

 たちまち、列島に大きな衝撃が走った。

 6月頃から、ロッキード社とともに日本の航空会社にトライスター売り込みを図った商社の丸紅や、この大型機を購入した全日空の社長らが次々と逮捕されていた。司法記者たちは、政治家をターゲットに、特捜部がいつ強制捜査に踏み切るのか、日々の夜回りで検察幹部と「禅問答」のような会話を繰り返していた。

 そのプロセスで検察幹部の口から洩れた言葉が「蝉の鳴く頃」だった。元首相逮捕の朝、検察庁舎向かいの日比谷公園では、蝉が盛んに鳴いていた。 検察が描いた事件の骨格は、ロッキード社が全日空へのトライスター売り込みのため丸紅を通じて元首相に働きかけを要請し、採用決定後の73年から74年にかけて4回に分けて5億円の賄賂を提供した、という構図だった(受託収賄罪)。

 首相就任直後のニクソン大統領とのハワイ会談(72年8月31日、9月1日)で、日米貿易不均衡の問題が議題になり、航空機購入の話が両首脳間で交わされたとの疑惑が伏線として存在し、いまも解明されない歴史の謎となっている。

 捜査が開始された2月に、最初にクローズアップされたのは、ロッキード社の秘密代理人として巨額の報酬を受け取っていた児玉誉士夫氏の存在であり、日本政府がそれまでに米国から購入してきた戦闘機などの売り込みに、この右翼の大物が関与した疑惑だった。

 日本の航空産業は、第二次大戦後の占領期に、敗戦国として開発や製造を禁止され、その後も低迷期が続いた。1970年代まで戦闘機の購入は、米国メーカーの機種を選択するしか方法がなかった。それが、次期対潜哨戒機(PXL)の選定をめぐって、1972年2月の閣議は、国産化の方針を決定し、転換期を迎えた。

 ところが田中首相就任後である同じ年の10月に開かれた国防会議議員懇談会では「国産化白紙撤回」の方針を確認。政府は2年後にはロッキード社のP3C オライオン導入に舵を切った。 米国議会の暴露で、秘密代理人・コダマには21億円にのぼる報酬が支払われたとされた。

 メディアの関心も当初はP3Cに集中し、所在不明だった児玉捜しに手を尽くした。結局、児玉は世田谷区の自宅にいることが分かり、特捜部が取り調べに乗り出したが、主治医は脳梗塞と診断、真相の解明は進まなかった。

 児玉周辺では関係書類の焼却など証拠隠滅の疑いも指摘され、脱税による起訴には漕ぎつけたものの、それ以上の捜査の進展はなかった。焦点の人物は謎を抱えたまま裁判中に亡くなった。

 作家、真山仁さんが『ロッキード 角栄はなぜ葬られたのか』を週刊文春に連載中で、一部取材に協力したが、米国からの軍用機購入の歴史を洗い直し、捜査がトライスター売り込みをターゲットにした経過に疑問を投げている。

 軍用機ではなく民間機の売り込みに絞った捜査は、米国側から提供された極秘資料に「TANAKA」の名前があったことなどが契機となり、一方のPXLの問題が捜査の対象から消えた真の事情は、いまだに明らかになっていない。特捜部の捜査結果が、米国にとって望ましい結果になったことだけは否定できない。

 話は一気に現在に飛ぶが、米国のトランプ大統領は国賓として来日した5月、安倍首相との会談後の記者会見で、日本がF35ステルス戦闘機105機を米国から購入する、と明らかにした。ロッキード・マーティン社を中心に開発された機種。

 日本にとって1機100億円を超える買い物に税金をつぎ込むわけで、大統領はG20サミットで来日した際にも、「防衛装備品の(日本の)購入について協議したい」と述べている。 軍用機や武器を、米国が日本に売り込む構図は、ロッキード事件以後も変わっていない。

 43年前、PXLをめぐる日米の謎が解明されていれば、という思いを抱きながら、安全保障の問題を含めて、国際情勢の動向を見つめている。

(日刊サン 2019.07.13)

 ――日本にいながらハワイの新聞がよめるのですからいい時代です。

(堤  哲)

2019年6月27日

東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

2019年6月27日、日本陸上選手権LIVE画面から

 9秒97の日本記録を持つサニブラウン・ハキーム(20=米フロリダ大)の快走ぶりを見ようと日本陸上選手権のLIVEを見ていたら、走高跳決勝に東日印刷のアスナビ選手・佐藤凌クン(24歳)が出てきた。

 ユニフォームに「東日印刷」。残念ながら第3位に終わったが、「JAL」「味の素AGF」と有名ブランドにつぐ「東日印刷」である。

 佐藤選手のことは、すでにこの毎友会HPで紹介しているが、改めてプロフィールを。

 1994年7月21日生まれ、新潟県長岡市出身。

 東海大学を卒業して、2017年4月1日に東日印刷に入社した。

佐藤凌選手の見事なジャンプ!

 目標は、「2020東京オリンピックの陸上走高跳でメダル獲得」というから頼もしい。

 「アスナビ」とは、日本オリンピック委員会(JOC)が実施しているトップアスリート就職支援ナビゲーションの略称。企業の支援を望むトップアスリートと、会社の活性化やブランド力の強化を図りたい企業との採用をマッチングするのだ。

 東日印刷も本社は江東区越中島だが、2020年東京五輪で江東区内に9競技の会場ができる。アスナビ採用が、従業員の一体感醸成に必ずや繋がるだろうとの思いから、2015年5月にJOCと江東区が共催したアスナビ説明会に初参加、佐藤凌選手と出会った。

 毎日新聞グループ全体で応援したいものだ。

 跳べ佐藤選手! あと15センチだ、メダル獲得を確実にするには。

(堤  哲)

2019年6月17日

「毎小」に連載小説を書く予定だった田辺聖子さん

毎日新聞6月17日付夕刊から

 おセイさんが亡くなった。6月6日、91歳だった。

 田辺聖子さんは、毎日小学生新聞の愛読者だった。「毎小」が創刊60周年を記念して発刊した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(NTTメディアスコープ、1997年)に、寄稿文が載っている。全文を紹介する。

 なつかしい「チンペラ新聞」

 小学生のころ、私はずっと「毎小」を取ってもらっていた。弟も妹もそれを読んだ。連載小説もたのしんだが、歴史・地理・理科の記事は、かみくだいておもしろく説かれているので、学校の勉強より身についた。私は活字中毒の子どもだったから、新聞の隅から隅まで読むのであった。

 子どもたちの夕食は早いので、大人が晩ご飯のとき、ちょくちょく店番をいいつけられる。(私のうちは写真館であった。夜、写真を撮りにくる人はいないが、出来あがった写真を取りにくる人はある)。私は店番がいやではなかった。ストーブは暖かだし、電燈は明るいし、いつも祖父や父が座る事務机の回転椅子はくるくるまわって面白いし、何より部屋は広いから両手を大きく拡げて「毎小」を捧げ持ち(大人がやっているように)顔をあちこち動かして、好きな記事を拾い読みできるってもんだった。

 あるとき、晩ご飯を終えた祖父が事務所へきて、私のそんな姿を見、
 「チンペラが一人前の格好をして、チンペラ新聞みよるわ」
 と抱腹した(古い大阪人はチンピラといわす、なぜかチンペラという)。私は小学四年か五年くらいだったろうか。チンペラ新聞は弟や妹にひきつがれ、ながく家にあった。

 三十代の私は毎小編集部にいた瀬川健一郎氏の知遇を得、もしかしたら毎小の連載小説を書かせてもらえるかもしれぬ、ということになり、私はわくわくして順番を待った。

 ――まさにそういうとき、芥川賞をもらってしまった。とたんに書かねばならぬ原稿が押し寄せ、児童小説連載の夢は遠のいてしまった。——しかし「毎小」はなつかしい、私がいまも新聞好きで、テレビより新聞にしたしむのは「毎小」のせいかもしれぬ。

 おセイさんが第50回芥川賞を受賞したのは、1964年、36歳だった。もし芥川賞をとっていなかったら、「毎小」に連載小説が載った?

 担当の瀬川健一郎氏をネットで検索すると、大毎社会部出身で元和歌山放送社長・会長の北野栄三さん(89歳)が大阪北野高校の同窓会「六稜会」HPで大先輩の瀬川さん(1989年没、76歳)の思い出を語っていた。

 瀬川さんは北野中学から東大の美学を卒業、小学生新聞=1936(昭和11)年12月22日創刊=の生え抜きで、学生新聞の副部長(デスク)をしていた。その後編集長?

 「手塚治虫が世に出るきっかけを作ったのも瀬川さんやったと僕は考えているんです」

 漫画家・手塚治虫が「毎小」デビューをしたのは、1946(昭和21)年1月4日から3月31日まで連載した「マァチャンの日記帳」である。

 瀬川さんは作家の織田作之助と親しく、小説のモデルとして登場する。

 「織田作は二度結婚してます。最初のは長い恋愛のあと戦争中に結婚してるんですが、そのとき瀬川さんが仲人をするんです。一番親しかったと思いますよ」

瀬川健一郎氏(六陵会HPから)
左から織田作之助、白崎禮三、瀬川健一郎各氏

(堤  哲)

2019年6月16日

週刊文春6月20号に板垣雅夫記者のロッキード事件取材秘話

福田太郎氏の病床での証言を報じる紙面(左)=『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』から

 NHK社会部の司法記者だった中尾庸蔵氏から電話があり、作家の真山仁氏が週刊文春 に連載しているノンフィクション「ロッキード」の取材に協力してくれないか、と頼まれた。新潟勤務時代に一緒だった中尾氏はロッキード事件当時、東京地検担当だったので、「自分は取材範囲が狭く、遊軍取材班にいた板さんにお願いしたい」というのである。

 その後、文春の編集者から電話があった。私は当初、会ってお話しするような材料はない、電話でしゃべるから、それでいいじゃないの、と断った。編集者は、作家の真山が会いたがっている、というので引き受けることにした。

 プレスセンターで真山氏と文春の編集者と3人で会った。真山氏は、40年以上前に刊行された『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』の本を持参し、そこに何十枚もの付箋が付けられていることに驚いた。会話の中でも、実に多くの資料にあたり、事件のディテールを含めて深い知識を持っていた。かつて中部読売の記者をしていたという。

 その後、真山氏と編集者から「板垣さんが、事件のカギを握っていた福田太郎氏を追いかける取材話を聞いて、その臨場感に感激しました」と同じようなことを言ってきた。そんなつもりはまったくなかったので、はてどんなことかな、と自分では不思議だった。

 その時の取材結果は6月20日号の週刊文春に掲載された。私は実名で登場し、「76歳の板垣は、溌剌として、今でも事件が起きれば駆けだしていきそうだった」と紹介された。この記述は元社会部記者として率直に嬉しかった。

「すき間産業」の取材体験が効果的だったと大学校友会のサロンで講演

 もう40年以上前の事件について週刊文春から取材されたきっかけは、たぶん2年前、10人ほどを相手にロッキード事件について話した地元でのミニ講演会だったと思っている。早稲田大学校友会の逗子葉山稲門会で毎月、「早稲田サロン」を開き、会員たちが交互に現役時代の経験談を話している。新人会員の私は、講師が病気などで来られなくなった時のピンチヒッター役として登録していた。講演の機会は意外と早くやってきて、ビールで歓談しながらロッキード事件取材のよもやま話をした。

 その主な内容は、ロッキード事件前の警視庁取材担当時に、政治家らの圧力による事件つぶし・もみ消しが横行していたこと。警視庁の捜査員からネタが取れないので、銀行総務部や中小証券、興信所、企業情報発行人など新聞社にとって「すき間産業」を取材し、それがロ事件の取材に役立ったこと。アメリカから情報がもたらされたロ事件は既にその概要が国民に知られているので政治家の圧力による事件つぶしはできないと確信したこと。ロ事件を取材していてアメリカのカゲを何となく感じていたこと、などだった。

 しかし、この時の私のミニ講演は不評だった。講演の最後で私は「ロッキー事件の摘発によって、日本の政財界を取り巻く暗部が取り除かれ、日本は比較的きれいになった。これは結果的にはアメリカのおかげかもしれない」と私見を述べた。ところが海外勤務経験者も多かったサロンの出席者は「アメリカのおかげ」に猛反発した。「そんなことはない」「アメリカは日本のためを思って行動するはずがない」「日本の世の中はきれいになんかなっていない」と、酒の勢いもあって激しい反論だった。たまたま初めて参加していた元大学教授もあきれるほど騒がしい発言が続いた。

逗子のミニ講演が鎌倉、藤沢、横浜、東京の講演会と広がっていった

 こっちは無料で取材体験をしゃべっているのだから少しは遠慮しろ、と不機嫌になったが、捨てる神あれば拾う神ありである。ありがたい反響は意外なところからやってきた。このミニ講演を聴いた人のクチコミで知ったという鎌倉市の50人ほどの勉強会から声がかかり、同じテーマでしゃべってくれ、と言われた。鎌倉市後援の公的勉強会だった。見る人はちゃんと見ていたのである。

 鎌倉の会場で話をすると、今度は藤沢市と横浜市の方から声がかかり、70人、100人を相手の講演会を頼まれた。藤沢市の会場では、席の前方にロッキード事件当時の社会部長、牧内節男大先輩が「陸士の同期生から誘われた」と言ってドンと座っていた。これでは釈迦に説法ではないか。緊張からノドがカラカラになり、逃げ出したくなった。

 講演依頼はその後も続き、三井企業グループ各社のOB会では都内の某三井企業本社で80人近くを相手にしゃべった。三井物産はアメリカからの航空機輸入も扱っており、ロッキード事件の内情については私よりはるかに詳しい人もいたが、元第一線現場記者の奮闘ぶりを興味深く聴いてくれた。さらに、その後は神奈川県内のロータリークラブからも頼まれて、当時の自民党政治とロッキード事件について話をした。

 とにかく、この事件の世間の関心は40年以上たっても、ものすごく高いと思った。田中前首相逮捕という昭和の衝撃的大事件だったこと、何年か前から再び田中角栄元首相礼賛の本が出回っていたこと、などから、いまだに人々は事件に興味を示し、熱心に耳を傾けてくれた。

 10人余のミニ講演会から次々と大きな講演会に広がつた反響には自分でもびっくりするほどだった。そのことを今年の年賀状で元NHKの中尾氏に「昨年はロッキード事件の講演を5回もしました」と書いた。彼は新潟勤務時代から田中角栄について取材し、厳しい目を向けていた。世間の田中礼賛ムードを鋭く批判する本を2年ほど前に出版していた。

 中尾氏は、週刊文春からロッキード事件連載の取材に協力してほしいと言われ、私の名前を思い出して、冒頭の電話につながったのだろう。私はそう思っている。ご縁とは誠に不思議なものである。まったく予期しない方向へ発展するものだ。

(板垣 雅夫)

2019年6月3日

活躍する「ヤメ毎」ライター

 月曜日朝、一番に読む山田孝男特別編集委員の「風知草」。今朝は《「日本国紀」をめぐって》 。

 国民のある層が熱心に読む本を、他の層は読まないし、関心がない。
 作家、百田(ひゃくた)尚樹(63)の近著「日本国紀」(2018年11月、幻冬舎刊、累計65万部)も、そういうベストセラーである。

 まず紹介しているのが、ニューズウィーク日本版6月4日号「百田尚樹現象」。
 ノンフィクションライター、石戸諭(さとる)氏(35)のリポートである。
《百田と幻冬舎社長のインタビューを含む豊富な取材と公平な書きぶりで、ほぼ完売したそうだ》

 先週、図書館でこの特集を読んだ。百田現象がよく分かった。
 記事を読んでいて元毎日新聞の記者であることを知った。
 ネットで検索すると、1984年生。立命館大卒業後、毎日新聞→BuzzFeed Japan→個人事業主。記者/ノンフィクションライター。『リスクと生きる、死者と生きる』は読売新聞「2017年の3冊」に選出されたとあった。

 毎日新聞を途中退社して、他紙や他メディアの記者、ノンフィクションライターとして活躍している人たちを「ヤメ毎」と呼ぶそうだ。
 明治・大正・昭和の戦前は、新聞記者の転社は当たり前のようにあった。
 例えば読売新聞「編集手帳」の名コラムニスト高木健夫。記者になったのは徳富蘇峰の「国民新聞」。1927(昭和2)年だった。駆け出しの山形県米沢通信部から社会部。デスクに鈴木竜二(のちプロ野球セ・リーグ会長)がいた。警視庁を担当して、「読売新聞」にスカウトされる。そのあと毎日新聞の前身「大阪毎日新聞」(大毎)の社会部記者に。再び東京に戻って「二六新報」→古巣「国民新聞」→1930(昭和5)年満州「大新京日報」→「読売新聞」新京支局長。「2・26の時は東京社会部にいた」。社会部デスクから東亜部デスク→1938(昭和13)年北京で大毎元社会部長が創刊した「東亜日報」へ。戦後、引き揚げてきて「読売新聞」に戻ったのが1946(昭和21)年6月。「編集手帳」を担当したのは、49(昭和24)年3月1日からだ。
 「新聞記者ほど面白い仕事はない」
 これだけ自由に飛び回れば、そう思うのが自然だ。

 鉛筆1本の人生である。「社畜」を嫌った「ヤメ毎」記者の活躍を祈る!

 石戸氏は、自身のツイッターで「風知草」に取り上げらたことに触れている。
 《古巣・毎日新聞の名物コラム「風知草」にニューズウィーク「百田尚樹現象」を取り上げていただきました。山コラムの後半で山田孝男さんが指摘しているように、近現代史は現代政治と結びついていて、歴史認識は論争の火種になります。だからこそ、現象を分析する意味があるというわけです》

(堤  哲)

2019年5月15日

森正蔵著『あるジャーナリストの敗戦日記』

 5月14日朝刊2面の「火論」で玉木研二客員編集委員が「大本営発表という麻酔」で森正蔵著『あるジャーナリストの敗戦日記』から引用している。

 <満州事変以来、新聞記者の活動が窮屈になつて、つひには発表ものだけで新聞を造ると云(い)ふ程度にまで押込まれて来た。記者はそこで特に勉強しなくてもやつてゆけることになり、殊に取材の苦心、記事の書きこなしなどといふことを知らなくなつてゐる。若い記者の再教育、新しい記者の養成が当面の大きな問題にとなつて現はれて来たのである>
=1945(昭和20)年8月25日の日記。

 玉木は、横浜の日本新聞博物館に展示された戦時新聞を素材に、大本営発表を基に、記事、写真、地図を展開した「殲滅(せんめつ)」紙面を批判している。

 1942年6月、「ミッドウェー海戦で致命的大敗をしたことをあたかも勝ったように取り繕ったものだが、記者たちが発表を深く疑った形跡はない。むしろ、景気よく戦勝ムード一色の紙面作りに、高揚していたかのようにも映る」と綴る。

 詳しくは「火論」を読んでもらいたい。

 森正蔵は敗戦まで論説委員をつとめ、辞表を提出している。

 「私儀今次戦争期間を通じ戦争に直接関係する社説を執筆し来り候処、戦局は我が敗北を以て終結致候段顧みて責の軽からざるを思ひ茲に辞表願出候也」

 しかし、辞表は受理されず、社会部長を命ぜられる。

 森正蔵が社会部の記者とともに執筆、敗戦4か月後に出版した『旋風二十年―解禁昭和裏面史』は一大ベストセラーとなった。「抑圧された言論、歪められた報道」で国民に知らされなかった「真実」を明らかにしたものだ。

 玉木客員編集委員が引用した『あるジャーナリストの敗戦日記』の続編として、森の息子で元毎日新聞編集委員の森桂(77歳)は父親の残した42冊の日記を3年がかりで『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』(2014年、毎日ワンズ刊)を発刊している。

(堤  哲)

2019年5月7日

「EEE-CHEE-ROH」③

 佐藤健著『イチロー物語』の元になった毎日新聞連載「わたしの生き方 イチロー」(1995年3月14日~7月1日)で写真を担当した荒牧万佐行元写真部編集委員から連載で紙面化された写真が届いた。

 写真説明は、左上から時計まわりに、
「体をほぐすイチロー」。イチローストレッチである。
「イチローは帽子を後ろ向きにかぶるのが好きだ」
「ユニフォームを脱ぐと鋼鉄のような体」
「守備につくと風向きをチェック」

 それにしてもイチローは若い。あどけない。21歳の素顔である。

(堤  哲)

2019年4月26日

『ロッキード事件取材全行動』と『児玉番日記』

 「週刊文春」のGW特集号に『毎日新聞ロッキード取材全行動』(毎日新聞社会部著、講談社1977年2月刊)が出てきた。

 ロッキード事件の第一報が1976(昭和51)年2月5日朝日新聞朝刊2面に掲載された日のことを「ロッキード角栄はなぜ葬られたか」連載第45回で綴っている。

 ――5日未明の毎日新聞の様子は、同社社会部がまとめた『毎日新聞ロッキード取材全行動』に克明に記されている。

 ロッキード事件報道は、ここから始まった。

 毎日新聞編集局では、朝刊が降版したあとに外信部のデスクが、UPIから配信されていたといってテレックスを社会部デスク(故原田三朗)に持ってきた。

 米上院チャーチ委員会で「児玉誉士夫がロッキード社から708万5千ドル(約21億円)を受け取った」事実が明らかになったのだ。

 翌日の朝刊に入れたのは朝日新聞だけで、それも2面だった。

 原田は夕刊での紙面展開のため、警視庁クラブをはじめ警察庁、司法クラブ、航空・運輸担当者に電話連絡した。

 ――当時、毎日新聞の司法クラブ担当だった高尾義彦は、早朝に電話で叩き起こされた。

 「毎日新聞の司法クラブ員で一番の若手の30歳で、検察担当でした。朝日の記事を読んですぐに、検察庁に向かいました」

 ――「最初のミッションは、児玉の居場所を探すことでした」と高尾。

 ここで『児玉番日記』が紹介される。最初はサツ回りが交代で児玉邸を張っていたが、そのうちに首都圏をはじめ地方支局から応援を得た。

 張り番の記録を大学ノートに残した。

 《体と神経がすり減るのに、新聞に児玉番の記事が1行も出ない日がほとんどだ。
  忍び、耐える。》

 これをサブデスクの故根上磐がまとめ、毎日新聞出版局から出版したのだ。

 毎日新聞の最初の特ダネが「児玉、臨床尋問へ」。3月5日夕刊1面トップだった。

 故才木三郎が掴んだ。

 午後2時55分、黒塗りの乗用車が児玉邸通用門前に止まり、検事らしい2人が階段を駆け上って通用門をくぐった。

 しかし、東京地検は、この事実さえ認めない。むろん発表もしない。

 『全行動』にこうある。《ふつう、夕刊で抜かれた記事は、夕方、印刷する朝刊の早版までには追いつくのが通例である。結局、他社が確認できたのは、検察幹部の家へ夜回りに行ってからのことだった。これだけ、鮮やかな抜きっぷりというのは、まったく珍しいことだった》

(堤  哲)

2019年4月9日

「EEE-CHEE-ROH」②

 佐藤健著『イチロー物語』を読み返してみた。

 ――実物のイチローを初めて見たのは94年秋である。当時、私は新聞で「若者観察学入門」という記事を連載していた。若者としてのイチローを観察しに所沢の西武球場へ出かけて行ったのだ。

 これが書き出しである。

 毎日新聞の連載「わたしの生き方 イチロー」は1995年3月14日~7月1日とある。

 95年10月5日発行で、手元の本は、2週間後の10月25日5刷となっているから、売れ行きがよかった。

 イチローは1973(昭和48)年10月22日生まれ。体重が4280gもあった。

 二男なのに、「一朗」だ。

 3歳の時に野球に出会い、チチローは右利きのイチローを左バッターに変えた。

 「何といっても左バッターは有利ですから」

 小6の時に書いた「夢」という作文。

 ――ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習にはじしんがあります。ぼくは3歳の時から練習を始めています。3歳~7歳までは半年位、3年生の時から今までは365日中360日は、はげしい練習をやっています。…けいやく金は1億円以上が目標です。

 愛工大名電で春、夏甲子園に出場。1991年ドラフト4位でオリックスから指名された。契約金4千万円、年俸430万円。

 プロ入り3年目。新監督仰木彬が、登録名をイチローに変えた、といわれる。

 「3試合で5本のヒットが打てる」とコーチから太鼓判を捺されていた。

 ミスタータイガース藤村富美雄がシーズン140試合制の時につくった最多安打191本を115試合目に追いつき、130試合のシーズンを終えて210安打、本塁打13本、打点54、盗塁29、打率3割8分5厘。史上最年少でMVPを獲得した。

 これから先の活躍は、ご存知の通り。今回も国民栄誉賞を辞退したというから立派だ。

(堤  哲)

2019年4月5日

センバツ優勝「東邦」学園の理事長は毎日新聞OB

 「平成のセンバツ 最後の栄冠も東邦に輝く」

優勝を喜ぶ榊直樹理事長

 これは学校法人東邦学園(名古屋市)のHPにアップされた記事だが、東邦のセンバツ優勝は30年ぶり。平成の始まりと、終わりにセンバツを制したのである。

 センバツ優勝回数も最多の5度目である。アルプススタンドの応援席でこの快挙を見届けた同学園の理事長・榊直樹さん(68歳)は、元毎日新聞の政治部記者。元号取材班の1人として、現在の小松浩主筆らとともに「平成」を追った。

 「因縁を感じますね、平成の最初と最後の優勝。これほどの感激はありません」

 毎日新聞の朝比奈豊会長が浦和支局長時代の次長(デスク)。「彼はがんばり屋で優秀な次長でした。毎晩、支局に泊まり込み状態で県版の内容を販売店にファックスして愛読者拡張に貢献してくれました。頼りになるデスクでした」と朝比奈会長。

 毎日新聞での記者生活は32年。政治部デスク、政治担当論説委員、編集総センター室長などを歴任した。

 2006年に曽祖父の創設した東邦学園に転じ、2008年から理事長。2009年から東邦高校校長を2年間兼務し、2015年4月には愛知東邦大学学長に就任している。

 おめでとう!榊理事長!

(堤  哲)

2019年4月3日

脊椎6個も骨折手術 闘病記 2019/3/24

 2011年1月末にリタイアした。それから1か月半後に東北大震災が起きて、忘れられない年になった。

 さらに4か月後、私は自宅で脳梗塞になって救急車で病院に運ばれて、2週間入院した。回復はしたが、長年の疲労も重なって、心身脳力は落ちて日常生活のペースはなかなか戻らなかった。

 さらにさらに、2016年8月には乳がんの手術をしたが、術後すぐに動いて炎症を起こして再入院、結局2か月をまた病床ですごすハメになった。

 がんは克服したが、足の筋肉が衰えて歩くことが難しい。少しずつ自己流トレーニングで長い距離も歩けるようになったら、こんどは脊椎をやられてしまった!

 というわけで、竹橋を離れてからの8年のほとんどを、病気を道連れに過ごすことになっている。その間、『サンデー毎日』連載、文春新書上梓と「終活」ができたことは、周囲の方々のご支援の賜物、感謝、感謝です。

 さて、最新情報の「脊椎圧迫骨折」の闘病記をお届けしたい。高齢社会のほとりで出会った「災難」は、寝たきり・介護・入院・リハビリなどなど、カケラではあるけれど、やがて来る日々の予行演習みたいなものだと、反省も込めて向き合っている。

 お役に立つ情報もあるかと思い、悪魔のような痛みの記憶のなかから、3か月を再現してみた。

☆  ☆  ☆

 気の向くままにバス停に立って、やってきたバスに乗る。都バスを利用すると、「遠出」の選択は広がる。高齢者用のシルバーパスのおかげで、懐具合を気にせずに出歩ける。

 2018年12月22日、冬至の午後。友人宅を訪ね、バス停近くまで来たら、目の前をバスが! 乗り遅れては大変と猛ダッシュして、間に合った。長いこと、ゆっくり歩いて、青信号でも時間の余裕を見てわたるほど用心していたのに、これはもう長年身体に刻み込まれた「条件反射」としかいえない危険行為だった。しかし、なんという反応もなく帰宅して、小さな「勇気」は忘れてしまった。

 夜更けに、ベッドで寝がえりを打とうとした瞬間、ギャーっと声をあげるほどの痛みが襲った。胸の骨組みがバラバラになってしまうように激しく揺らいで、そのままうずくまり、どれほど経ったか、ようやく少し身動きできた。それでも痛みが治まったので、翌日はクリスマスイヴの日曜日だから、病院は何処も休みだろうと、じっと、そっと、ベッドに横たわって過ごしたが痛みは治まらず、救急外来を訪れた。ヘルパーさんに頼んで同行してもらった。しかし、担当が内科医だけとのことで、心電図と血液検査だけで内臓には問題はないと帰された。

 翌日に整形外科へという選択もあったが、救急外来で紹介なしなので1万円も取られていたため、また同じ請求を受けるのかと二の足を踏んで、鍼灸治療に行った。痛みは変わらなかったが、身体はほぐれて楽になった気分だった。しかし、ちょっと動くと激痛が襲う状態は変わらない。思い切って、友人が通ったという整形外科に、タクシーで出かけた。

 レントゲンを撮るだけで痛い! しかし、丁寧に診察してくれて、「リハビリを3か月ほどすれば痛みは消えるだろう」とのこと、痛み止めと湿布をもらって帰宅するが、近くのタクシー乗り場までも行けずに、クリニックの事務員が介助してくれた。この整形外科はAKAー博方式という独自のリハビリで、結果も良いといわれている評判に背中を押されて、二週間に一度の通院を始めた。

 並行して鍼灸治療も続けて年を越し、1月半ばになると、激痛が取れてきた。痛みはあるが、寝返りもできない状態から解放されて、また出歩き始めた2月末の朝、軽いはずの小さな椅子を持ち上げたとたん、ギックリ腰になって、動けなくなった。

 都内の高齢者向けのサービスに、警備会社にコールすれば、すぐに駆け付けてくれるシステムがあって、連絡して、警備会社からガードマンが駆けつけて、119番通報、救急車がやってきた。友人も駆けつけて救急車に同乗し、病院へ。ガードマンは同乗できないので、付き添いが必要になる。

 救急対応で入院、数日して歩けるからと退院させられ、自宅に帰ったが、その晩再び寝返りが打てない。痛み止めを手の届く枕のわきに置いておいたが、反対側を向いていた時に痛みが襲ったので、これを取ることができない。深夜ながら、近所の友人が助けてくれた。

 独り暮らしの知恵で、緊急事態が予想されるときは、携帯電話をパジャマのポケットに入れて取り出せるようにしておいたので、これを使って再び警備会社に連絡した。システムとしては、緊急用のボタンがついてペンダントともう一つの器械を手元近くにおいて、誰かの手が必要と思ったら、ボタンを押せばガードマンが駆けつける。しかし、手元にないとダメ、今回も警備会社には携帯で連絡し、ふたたび呼びだして救急車を呼んで医療センターに行った。

 今度も、痛みが取れたら帰宅、というふうなことをドクターが言うので、「入院!」と強く要求し、その晩から入った。有料個室だが、広くて新しい部屋が1日15000円、痛みがなければ快適ではある。生命保険で全額ではないがカバーできる。

 MRIの結果、脊椎6個に損傷があり、4個は完全に圧迫骨折、2個はスカスカ状態と血管がダメとかで、一度に手術、通常は2時間だが、倍はかかったようだ。局部麻酔ではあるが、意識はなく、終了後は痛み止めを必要としている。しかし、すさまじい痛みから解放されて、救われた。

 救急病院のリハビリ体制は完ぺきではないとのことで、リハビリに重点を置く病院に移り、現在は午前と午後にみっちりリハビリをしている。

 独り身で、身近に動いてくれる親族もなく、転院手続きはすべて救急病院のソーシャルワーカーと先方病院の事務方が進めてくれた。さらに、これまで介護予防システムの世話をしてくれたケアマネージャーが、介護申請もしてくれ、また、脳梗塞以来ケアしてくれるヘルパー事務所からヘルパーに来てもらって、退院や外出をサポートしてもらった。

 行政窓口に相談すると、困っているところは、かなりサポートしてもらえることを、高齢者はもっと知ったほうが、安心して暮らせると思う。それぞれの地方自治体でシステムは異なるが、選択できるものを利用したほうが、そしてできれば困ってからではなく、早めに調べておいたらいいかと、思っている。私は、脳梗塞のあと、「区報」の情報を頼りに支援を依頼したのが、今回の援護につながっていた。

(岩尾光代)

2019年3月26日

「EEE-CHEE-ROH」

 イチローがメジャーデビューをしたのは、2001年。マリナーズ球団は、日本からの新人ICHIROについて、「EEE-CHEE-ROH」と発音してください、とファンに広報をした。「ITCH―eee―roh」や「eee-CHEER-oh」では、ダメですよ、と注意をよびかけたのである。

 マリナーズはその年、116勝46敗。勝率7割1分6厘という驚異的な勝率を残した。1番・ライトのイチローは692打数、242安打、打率3割5分で、ア・リーグの首位打者、盗塁も56を記録して盗塁王にも輝いた。そしてMVP(最高殊勲選手)に選ばれた。

 誰がこれだけの活躍を予想しただろうか。

 イチローは引退の記者会見で、メジャー挑戦の恩人として、当時のオリックス監督の仰木彬の名前をあげた。1991年ドラフト4位で愛工大名電高からオリックスに入団した。

 契約金4千万円、年棒430万円。

 打者としての才能を見抜いたのは、オリックスのスカウト三輪田勝利だった。毎日新聞運動部の六車護元部長は、早大野球部の同期で親友だった。

           ◇

 宗教記者として有名になった佐藤健は、2002年暮れにがんで亡くなった。その病室にはイチローのカレンダーがかかり、サイン入りのスパイクを見せて「イチローが送ってきたんだ」と得意気だった。

2002年12月東大病院病室で

 佐藤健の著書に『イチロー物語』(1995年10月毎日新聞社刊)がある。六車運動部長のあっせんでイチローを取材、毎日新聞に長期連載したものをまとめたものだ。 沖縄のキャンプで「健さん、また二日酔いでしょう」とイチローからいわれるほど、イチローと親しくなっていた。

 編集委員室でよくイチローの真似をした。打席に入ってからの独特の仕草を、寸分違えずに演じるのだが、右でバットを構え、「イチローは左だぞ」と六車部長から茶々が入ったこともあった。

 佐藤健は、がんとの闘いを亡くなるまで毎日新聞で連載していて、もはや自身で執筆はできなくなって、社会部後輩の萩尾信也記者(のち日本記者クラブ賞を受賞)が病室で聞き書きをしていた。

             ◇

 写真をもう1枚。昨年6月20日、ヤンキースタジアムで私が撮った。ヤンキースとマリナーズの試合前。同行の日ハム球団の小嶋武士元社長がヤンキースに出向していた時に、キャッシュマン現GMと一緒に仕事をしていた関係で、GM室に表敬訪問したあと、グラウンドに降ろしてくれた。

2018年6月20日NYヤンキースタジアムで

 イチローはマリナーズの選手と一緒にストレッチをし、試合前の練習をしていた。試合が始まればベンチにも入れないのだから、ツライと思うのだが、引退会見では、試合に出ないのにチームに帯同して練習を繰り返していたことを評価していた。

 イチローの引退会見は、午後11時56分から始まり、85分に及んで、終了は午前1時20分過ぎだった。BS日テレで最後まで見てしまった。

 菅官房長官は翌27日の記者会見で国民栄誉賞を検討しているといったと伝えられる。2001年にも国民栄誉賞は検討された。その時は、イチローが「まだ28歳。発展途上」を理由に辞退している。

(堤  哲)

2019年3月1日

『ゆうLUCKペン』第41集に、反響第1号。

社会部の事件記者(知能犯の警視庁