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2024年1月9日

「カメラ毎日」でデビューした篠山紀信さん、追悼!

デビュー作「栄光」=「カメラ毎日」1963年4月号

 写真家篠山紀信さんが1月4日亡くなった。83歳だった。

 朝日新聞の評伝にこうある。《写真との本格的な出あいは、日本大学芸術学部の写真学科でのこと。当初から「職業」としての写真家を意識、早くから頭角を現し、卒業制作の写真が雑誌に掲載された》

 その雑誌が「カメラ毎日」1963年4月号である。篠山さんは63年3月、日大芸術学部写真学科を卒業したが、その卒業制作が5㌻にわたって掲載されたのだ。22歳の時の作品である。

 発掘したのは「カメ毎」のカリスマ編集者山岸章二(76~78年編集長、79年没51歳)である。

 それから5年後の68年11月には『篠山紀信と28人のおんなたち』をカメラ毎日・毎日グラフ共同編集で、毎日新聞社から出版している。

 このヌード写真集のディレクターは山岸章二で、モデル28人には、トットちゃん黒柳徹子さんや、歌手の丸山明宏さんらを起用している。ユニークな写真集である。

『篠山紀信と28人のおんなたち』から イラスト和田誠

 イラストは和田誠、「篠山紀信論」を作家の三島由紀夫に依頼している。

 三島はこう書いている。

 《篠山氏は、写真を撮ってゐるとき、あたかもテニスをやってゐる人のやうに見える。それはひたすら重厚型の古典的写真家とは反対だ。彼は助手たちを叱咤し、自ら飛びまはり、モデルのまはりを狂人のやうに駈けめぐる。そのときモデルはテニスのボールなのであり、カメラは氏のラケットなのである。モデルが静止してゐると思ふのは、テニスのボールの主観的感想にすぎず、実はそれは氏のラケットではげしく打ち返されてゐるのである。もっともむづかしい曲球を打ち返したとき、氏は「撮れた!」と叫ぶ。氏は勝ち、試合は終了したのである》

 「激写」という言葉が流行る前の原稿である。この「篠山紀信論」は、英訳されて、一緒に掲載されている。山岸は、篠山を世界に売り出そうとしていたのだろうか。

 この写真集が出版された時、篠山は27歳だった。

『篠山紀信と28人のおんなたち』の目次

 手元に大ベストセラーとなった、りえちゃんの『Santa Fe』がある。断捨離しなくてはいけないのに、捨てきれない写真集なのである。

 91年11月初版だから、篠山31歳の作品である。

 りえちゃんを本当にきれいに撮っている。見事なラケット捌きである。

(堤  哲)