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2023年11月30日

二つの国の架け橋になることを願った人たちのこと――
 開高健ノンフィクション賞受賞の東京社会部・青島顕さん

 新聞社に入って33年目、思いがけず自分の本が出た。「MOCT(モスト) 『ソ連』を伝えたモスクワ放送の日本人」(集英社、1980円)。ロシア語交じりの不思議なタイトルで11月末に発売された。主人公はいない。日本人から嫌われた国「ソ連」で働いた日本人たち、かつてのソ連の国営プロパガンダ放送局の元職員十数人をそれぞれ描いたものだ。

 ソ連を受け継いだロシアが戦争を起こし、再び日本人はロシアを嫌っている。そんないまだからこそ、かつて日本とソ連の国の間の「モスト」(橋)になりたいと願った人たちのことを伝えたいと思った。

 特派員の経験はなく、ソ連・ロシアに住んだこともない。社会部のロートル記者である。そんな私がなぜモスクワ放送を描いたのだろうか。

 話は40年前にさかのぼる。1983年9月1日、ソ連の戦闘機がサハリン沖に迷い込んだ大韓航空機を撃ち落とし、乗員・乗客269人全員が死亡する事件が起きた。ソ連は責任逃れを続けたが、自衛隊がソ連の通信を傍受し、撃墜を認めざるを得なくなった。冷戦時代の末期、アフガン侵攻で評判の悪かったソ連の信用は地に落ち、日本の反ソ感情は高まった。

 そのころ、ニッポン放送(1242メガヘルツ)のすぐそばの周波数(1251メガヘルツ)で、モスクワからの日本語放送が流れていた。ダイヤルを合わせ損なって偶然聞こえてきたニュースと解説は、撃墜の正当化に終止していた。日本の報道とのあまりの落差に腰を抜かしそうになった。しかもアナウンサーがロシア人ではなく、ネイティブな日本語話者であることにショックを受けた。なぜ日本人がこんな放送をしているのだろうかと。気になってしばらく聞いてみたが、いつの間にか忘れていた。

 昨春、ロシアがウクライナに侵攻を始めたころ、日本国内でロシアたたきの風潮が広がった。日本に住むロシア人やロシア料理店が嫌がらせの被害を受けたことが報じられた。子どものころの記憶がよみがえってきた。あのころの日本社会もソ連・ロシア嫌いがあふれていたのだ、と。

 背景を取材しようと思ったとき、モスクワ放送で30年間アナウンサーをした経験のある男性が2月末の開戦直後にモスクワに行き、2週間ほどで帰ってきたという話を聞いた。その人、日向寺康雄さんに連絡を取ってみた。本題のロシア嫌いの正体は分からなかったが、モスクワ放送で働いたいきさつを聞くことができた。そこには、40年前の疑問を偶然解くヒントがあった。

 2022年はモスクワ放送の日本語放送開始80年にあたり、出身者が集まるイベントが予定されていた。そうした場に出かけて出身者のお話を伺い、今年1月8日の毎日新聞朝刊の日曜大型ルポ「迫る」に「社会主義下、届けた自由 ソ連の日本語放送」という記事を書いた。

 記事を読んだ出版社の方に興味を持っていただき、「開高健ノンフィクション賞」への応募を勧められた。受賞しなくても、一定の評価を得れば、出版につながるということだった。

贈賞式の青島顕さん=左端 (元経済部長、佐々木宏人さんのフェイスブックから)

 短期間で慌ただしく取材をやり直し、登場人物も増やして、5000字の原稿を12万字弱に仕立て直して応募したところ、7月、望外の受賞の知らせをいただいた。本当に驚いた。選考委員からは、出版するには構成を変えて読みやすくする必要があると指摘された。原稿をまた一から見直し、少し取材しながら大幅に書き換えて、ようやく世に出すことができた。

 新聞記事や雑誌の寄稿の経験しかなく、これまでは長くても1万字まで。12万字は広大な海だった。どう書いたらよいのか分からず、試行錯誤の連続だった。うまく書けたとは思っていない。選考委員の一人からも「新聞の文章の方が似合っているのでは」と言われてしまった。でも、それでよいのではないかと思っている。染みついた生き方は変えられない。

 30年以上世話になってきた新聞が、厳しい状況に置かれている。部数はじり貧となり、各社ともウェブに活路を見いだそうとしているが、大きな収益を上げるすべは見つかっていない。1本1本の記事をばら売りするインターネットでは目を引く記事が求められ、地道に世の中を変える可能性を秘めた報道が軽視されがちだ。そんな姿勢が世の中に見透かされ、さらに新聞社の体力を奪っているように思う。

 それでも、新聞をなくしてはいけない。標準的な情報や考え方をパッケージとして世の中に提供し、落ち着いた世論を作ることに貢献しているからだ。これ以上、排外主義や差別の横行する世の中を許してはならない。普通の生活者が安心して生きていける社会にしたい。そのために新聞の果たすべき役割は大きいはずだ。

 11月17日の贈賞式では、作品の紹介とともに、以上のような新聞記者としての志をお話しした。先は短いかもしれないが、許される間は新聞記者でいたい。

 賞をいただけたのは、モスクワ放送出身者や関係者の人たちが、自分たちのことを知ってほしいと一所懸命、取材に協力してくれたからだ。日本とソ連・ロシアの関係をよくしたいとの願いは挫折してしまったけれど、ついえたわけではない。いつか希望が実現するときがくる。わたしはあきらめていない。

(東京社会部・青島顕)