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2023年6月26日

創立70周年「劇団四季」命名の経緯を、「余録」の諏訪正人さんが

 「劇団四季」は、70年前のパリ祭に創立した。1953年7月14日である。

 劇団名をどうするか。諏訪正人さんの証言が残っている。

 浅利慶太は「劇団荒地」を提案した。T・S・エリオット「荒地」からだ。これに俳優芥川比呂志が反対、「四季はどうか。フランス語で八百屋という意味もある」と。

諏訪正人さん
「自由劇場」入口にある劇団創設者浅利慶太さんのレリーフ

 そこでフランス語が得意の諏訪が口をはさむ。「キャトル・セゾンは、普通の八百屋でなくて行商、店を持たずに、今はニンジンというように、その季節の旬のものを持って歩く」。

 「なるほど。それなら実にピッタリ。芥川さんは、僕らが非常にファナティックな集団だから、四季というやさしい名前でお灸をすえたんだと思いますね」と浅利慶太。

 『劇団四季創立70周年を迎え』。「劇団四季」がつい最近発行したA4版80㌻ほどの小冊子にあった。

 劇作家加藤道夫の「なよたけ」に感動した浅利慶太・日下武史ら慶應義塾大学の学生と東大生らの劇団「方舟」の諏訪、水島弘らのグループが一緒になった。

 諏訪は創立メンバーの10人には入っていないが、旗揚げ公演は、諏訪が翻訳したジャン・アヌイの「アルデール又は聖女」だった。

 諏訪さんは、毎日新聞朝刊1面の「余録」を23年にわたり担当、6354本執筆し、日本記者クラブ賞を90年に受賞した。

 その受賞パーティーで、浅利さんがこんなエピソードを披露した。

 「パリに行ったとき、諏訪さんが毎日新聞パリ支局長。酔っぱらった勢いで、支局から総理官邸に国際電話をして、佐藤栄作首相を呼び出した。諏訪さんは政治部の記者時代、佐藤番だったんですよ」

 浅利さんは、佐藤首相の家庭教師でもあった。というのは、「劇団四季」創設メンバーの俳優水島弘さんの父親が佐藤首相の鉄道省の先輩。その関係で「劇団四季」と佐藤家の付き合いがあり、1967年2月、第二次佐藤内閣が発足した時、寛子夫人から「主人の長州なまりを直してほしい」と頼まれたという。

 1対1の個人レッスンは、1年以上続いた。劇団四季の発声法は浅利が編み出した「母音法」。アイウエオの5つの母音をきちんと発音すると、美しい日本語になるというのだ。

 まず直したのは、口癖の「そういうこんだ」を「そういうことだ」にしたことだという。

 「新聞記者は出ていけ!」。佐藤栄作首相がギョロ目をむいて憤然とした記者会見(1972年6月17日)は、「退任時に国民にテレビで直接語りかけたら」と浅利さんがアドバイスした演出が裏目に出たものだった。

 諏訪さんは、「私はパリで仕事をしていた期間を除いて、傍らから四季の舞台を見守ってきた。ひとりの劇団四季の伴走者として」と書いているが、アヌイ「アンチゴーヌ」「野生の女」、ジャン・ジロドゥ「間奏曲」「アンフィトリオン38」「オンディーヌ」などの訳者として活躍している。

 諏訪さんは2015年没、84歳。浅利さんは2018年没、85歳。

(堤  哲)